アレクサンドロス大王が恐れた宮殿 ・ ペルセポリス

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は古代オリエント世界を統一し、恐らく人類史上初めて世界帝国と呼ばれたペルシア帝国の都「ペルセポリス」をご紹介します。

このペルシア帝国とは、現在のイランを本国として、西はエジプト、トルコから東はパキスタンとインド国境に至る、今日ではいわゆる「中東」と呼ばれる地域のほぼ全域を支配した大帝国であり、かのローマ帝国より以前に人類社会に出現した最初の世界帝国と呼べる国家です。では、そのペルシア帝国はいつ、どの様な経緯を経て成立したのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。


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時は紀元前600年頃(今から2600年ほど前)古代オリエント地域は大きく四つの国に分かれていました。そしてその四つの国の中で最大の領土を支配していたのがメディア王国です。そのメディア王国の支配下にあった現在のイラン南部ペルシス(パールス地方とも呼ばれます。ペルシア帝国の名の由来です。)地方に「アンシャン」という小国がありました。

紀元前559年、このアンシャン王国で新しい王が即位しました。その名はキュロス2世といいます。彼には大きな野望がありました。それはオリエント全域を統一し、自らその全ての王になるというものです。そして彼は、その野望実現のために動き出します。


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上がそのキュロス2世の肖像です。(紀元前600頃~紀元前529)彼は先に述べたアンシャン王国7代国王にして、後にアケメネス朝ペルシア帝国の創始者となる強大な王です。

キュロス2世はまずその手始めとして、自らの根拠地アンシャンの宗主国であるメディア王国に対して反乱を起こします。当時、メディア王国の王はアステュアゲスという人でしたが、ここに、ちょっと理解しがたい事実があります。それはキュロス2世の母が、そのアステュアゲス王の娘であるという事です。つまり、キュロス2世にとってメディア王アステュアゲスは実の祖父なのです。

普通に考えれば、孫が祖父に反旗を翻すなどありえない事です。しかし、これにはある事情がありました。ある時、メディア王アステュアゲスは夢を見ます。それは彼の娘マンダネが産んだ息子によって自分が王位を奪われ、メディアが滅ぼされるという恐ろしい夢(というより「悪夢」ですね。)です。王は恐怖に駆られますが、とはいえマンダネは彼にとって可愛い娘です。そこで彼はマンダネをメディア貴族ではなく、都から遠く離れた属国アンシャンの王であったカンビュセス1世(?~紀元前559)にのもとへ嫁がせ、遠ざける事にしたのです。

やがて夫妻には男子が生まれます。それがキュロスです。夢が現実になる事を恐れたアステュアゲス王は、なんと側近のハルパゴス将軍を遣わして、生まれたばかりのキュロスを暗殺するよう命じます。しかし、この命令は赤子殺しの汚名をそそぐのを恐れたハルパゴスが、ある羊飼いにそれを託した事によって実行されませんでした。なぜならその羊飼いは、キュロスの身の上を不憫に思い、自分の死産した子を身代わりに差し出して密かにかくまったからです。

こうしてその羊飼いに育てられたキュロスは立派な若者に成長したのですが、やがて彼は自分の思いもよらぬ出生の秘密を知るのです。彼は思い悩み、そしてある決意を固めます。

「もし祖父が私の健在を知れば、必ず私を亡き者にしようと再び刺客を差し向けてくるだろう。このまま何もせずにいれば、いつか祖父に殺される。私が生きのびていくには、先手を打ってこちらから祖父に戦いを挑むしかない。」

そう、後に彼がメディア打倒の兵を挙げたのは、先に述べた全オリエント統一の野望など「建て前」で、本当は生き残るための必死の手段だったのです。

こうして彼はアンシャンの宮廷に戻ります。まだ赤子のころにハルパゴスにさらわれ、その後子宝に恵まれず、このままではアンシャンのアケメネス王家が絶えてしまうと諦めていたカンビュセス王夫妻は、長い間行方知れずだった王子が生きていた事に大いに喜び(親子というものは当然の事ながら遺伝により顔立ちが良く似るものです。彼の場合両親のどちらかに良く似ていたのでしょう。)キュロスは皇太子として次の王位継承者となるのです。

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そんな中の紀元前559年、父カンビュセス1世がこの世を去ります。アンシャン王国7代国王に即位したキュロス2世は、宿敵である祖父アステュアゲス王率いるメディア王国打倒のため、紀元前552年ついに挙兵します。

この時彼は、敵メディア王国軍内部にある「内通者」を得ていました。それは、なんとまだ赤子だったキュロスをさらっていったあのハルパゴス将軍です。しかし、なぜハルパゴスは王を裏切ってキュロスに内通したのでしょうか? 実はキュロスの挙兵によりその生存を知ったメディア王アステュアゲスは、キュロス暗殺を怠ったハルパゴスに怒り、彼の息子を捕えて残忍な方法で処刑し、側近と軍の要職から外して辺境守備隊司令に左遷してしまったのです。

もはや老齢のハルパゴス将軍は大事な一人息子を殺され、彼の家系は断絶するしかありませんでした。そう、それがアステュアゲス王の狙いだったのです。この仕打ちにハルパゴスは王に対して激しい憎悪を抱き、これが彼をキュロスに内通させる事につながりました。

メディア軍内部の実情を良く知るハルパゴスを味方に付けたキュロス2世は、アステュアゲスの差し向けた討伐軍を次々に破ります。その司令官であったハルパゴス率いる部隊もペルシア軍に合流、もはやメディア軍は総崩れとなって敗走を続け、やがて紀元前550年、メディアの首都エクバタナが陥落、そして今日の混乱を招いた張本人アステュアゲス王は捕虜となってキュロス2世の前に引き立てられるのです。

どちらかといえば、キュロスよりも彼を深く恨んでいたのはハルパゴス将軍でした。そこでキュロス2世はアステュアゲスの処置をハルパゴスに任せてしまいます。ハルパゴスは息子の恨みを晴らすべく散々彼を罵倒した後、一切食を与えずにアステュアゲスを飢え死にさせたそうです。(因果応報とはまさにこの事ですね。)アステュアゲスの死により、6代160年余り続いたメディア王国は滅亡します。

メディアを征服したキュロス2世は、その後も快進撃を続けて周辺国を次々に征服していきます。

紀元前547年 リディア王国征服。

紀元前540年 エラム王国征服。

紀元前539年 新バビロニア王国征服。

その進撃を支えたのも経験豊かな軍人でもあったハルパゴス将軍でした。(紆余曲折あったとはいえ、結果的にこの人物はキュロス2世にしてみれば生涯の大恩人といえるでしょうね。人の縁とはつくづく計り知れないものです。驚)


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上はキュロス2世が在位中に征服した領土と、新バビロニア王国を滅ぼしてその都バビロンに入城するキュロス2世のイラストです。この時点で彼のペルシア帝国はオリエントのほぼ全域を支配下に置いていました。

紀元前529年、空前の大帝国を築いた稀代の帝王キュロス2世は81歳で崩御します。しかし、この時点において、ペルシア帝国はまだ正式な都を定めていたわけではありませんでした。なぜなら帝国の創始者キュロス2世は生涯征服戦争に忙しく、都はその都度転々と変わっていたからです。

それは彼の後を継いでペルシア帝国2代帝王となった長男のカンビュセス2世(?~紀元前522)の時代になっても変わりませんでした。カンビュセス2世は父王の果たせなかったエジプト征服を実現させ、帝国の領土をさらに広げたのですが、その後実弟スメルディスを擁立して反乱を起こしたある人物によって死に追いやられてしまいます。

その人物とは、ペルシア帝国最辺境のバクトリア地方総督であったダレイオスでした。


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上がそのダレイオスです。(紀元前558~紀元前486)彼はアケメネス王家の分家の一族で、アケメネス家の当主としてやがて紀元前522年、ペルシア帝国3代帝王の座に付きます。

ダレイオスはとても慎重な人物でした。キュロス親子の様に力ずくで従わせるのではなく、帝国内の有力諸侯に根回しして彼らに推戴される形で帝王の座に着いたのです。(帝国内の有力者全員の合意を得ているのですから反乱の心配は要りませんね。)以後、彼はダレイオス1世と呼ばれます。

このダレイオス1世こそ、今回の宮殿ペルセポリスを造営した人物でした。彼は即位2年後の紀元前520年から、巨大帝国ペルシアにふさわしい新しい帝都の建設に着手します。


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上の一連の画像は現在のペルセポリスの遺跡の姿と、復元想像図です。これを見ても分かる通り、宮殿は複雑に建て増しされた複合構造となっています。宮殿の造営を始めたのはダレイオス1世の代からですが、帝国が最盛期を迎え、彼の後を継いだ王たちが必要に応じて新たな部分を増築したためです。(この遺跡はイランでも最も人気のある観光スポットで、世界中から観光客が後を絶ちません。また、良く見ると遺跡はかなり手入れをされており、土台部分が復元されているのが分かります。画像2枚目の遺跡の中央に建物が見えますが、これは発掘調査により出土した出土品を展示する博物館です。)

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この宮殿で最も注目すべきなのは、上の一連の画像を見て分かる通りなんといってもその彫刻の素晴らしさです。王に謁見する諸国の使節が美しいレリーフに刻まれています。この地域の建物は紀元前の昔から、粘土を固めた「日干しレンガ」で造られ、長い年月の間に風化で崩れてしまう事が多いのですが、このペルセポリスの宮殿はその全てが花崗岩や大理石の様な頑丈で硬く、高価な石材がふんだんに使われていました。(このペルセポリスは1979年という比較的早い段階からユネスコの世界遺産に登録されています。その登録基準の第一が、やはりこれらの素晴らしい彫刻群であったのは言うまでもないでしょう。)

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上はペルセポリスの最も有名な「百柱の間」の現在の姿と、その復元想像図です。かつて宮殿の天井を支えていた高さ25メートルに達する巨大な柱は、元は上の様に色とりどりの極彩色で彩られていました。

このペルセポリスの宮殿が完成した頃、アケメネス朝ペルシア帝国はその繁栄の絶頂期を迎えていました。特に先の3代帝王ダレイオス1世と、4代帝王クセルクセス1世(紀元前519~紀元前465)親子の時代にはギリシャ征服を企て、海を越えて大軍を差し向けます。「ペルシア戦争」の幕開けです。


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上はペルシア帝国最盛期の領土です。

この戦争はダレイオス1世が起こし、その子クセルクセス1世が引き継いで続けたもので(つまり、親父が始めた戦争を息子が継いだのです。笑)紀元前499年から紀元前449年まで、なんと50年も続いたのですが、「海」という自然の防壁を武器にしたアテネ、スパルタを中心とするギリシャ連合軍の長期持久戦により、最強を誇ったペルシア帝国軍をその都度撃退、その損害の大きさにペルシア帝国はついにダレイオス1世の孫である5代帝王アルタクセルクセス1世(?~紀元前424)の時代にギリシャと講和条約を結び、ギリシャ征服を断念します。

それまで躍進と拡大を続けてきたペルシア帝国も、このギリシャ遠征に失敗した頃からその繁栄に陰りが見え始めてきました。特に、ペルシア戦争を終わらせた5代帝王アルタクセルクセス1世の死後、アケメネス王家では王位争いが恒例となり、それに乗じて帝国内の支配地域で反乱も頻発し、帝国はゆるやかに衰退の道を辿る様になります。

そうして時が過ぎた紀元前356年、ギリシャ北部のマケドニア王国で、一人の王子が誕生します。その名は「アレクサンドロス」そう、後のアレクサンドロス大王です。成長して父王フィリッポス2世の死後マケドニア王となった彼は弱冠20歳の若さで軍事の天才振りを発揮し、わずか1年余りでギリシャ全土を統一、紀元前334年には父王の遺志を継いで宿敵ペルシア打倒のため大遠征を開始します。


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上がアレクサンドロス大王の彫像です。彼についてはその後のヨーロッパや中東においても「偉大な大王」として人々の記憶と歴史に深く刻み込まれ、彼を模した彫刻は数多く存在するのですが、もちろん彼がどんな顔立ちをしていたのかなど誰も知る由もありません(笑)その中で、記録や古い文献から、最も彼の顔立ちに近いとされているものです。

当時、ペルシア帝国の頂点に君臨していたのは12代帝王ダレイオス3世という人でした。(紀元前380?~紀元前330)彼は帝国の存亡をかけて、アレクサンドロスを迎え撃ちます。しかし、アレクサンドロス大王の強さはダレイオス3世の想像をはるかに超えるものでした。(相手が悪かったですね。笑)ペルシア軍は陸海ともにアレクサンドロス軍に敗れ続け、ついに都ペルセポリスもアレクサンドロス大王軍によって占領されてしまうのです。


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上はローマ時代にあのポンペイの遺跡に描かれたアレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦いの様子を描いたモザイク画です。

ペルシア帝国の都ペルセポリスに入城したアレクサンドロス大王は、まずその宮殿の壮麗さに圧倒されます。戦においては天才であった彼もまだ20代で若く、国を統治する王としては経験が未熟でした。その彼が、自らが討ち滅ぼそうとしている帝国の宮殿を見て次に抱いたのが「恐れ」です。それは幾多の戦いに勝ち続け、「恐れ」などというものなど抱いた事がなかった彼が初めて経験するものでした。

かつてペルシアは、ギリシャ世界をその存亡の淵にまで追い詰め、そのためギリシャ世界においてペルシアは「野蛮で凶悪な悪の帝国」そのものでした。マケドニア出身のアレクサンドロスも、ペルシア戦争について子供の頃から嫌というほど聞かされ、当然の事ながらペルシアを邪悪な帝国と考え、それが彼にペルシア遠征を思い立たせる大きな要因であったのです。

しかし、遠征を開始してからペルシア領内を進撃中に、敵ペルシアに対する彼の見方は大きく変わっていました。特に数十の民族を束ねる巧みな統治システムと、ギリシャには無い独特の高度な文化、これぞ世界帝国というものを目の当たりにして来たからです。

それまでのアレクサンドロスはギリシャ文明こそ世界最高のものであり、そのギリシャが頂点として世界を支配すべきと考えていました。しかし、ペルシア遠征によってペルシアの真の姿を目にし、彼は自分が生まれ育ったギリシャ世界と比較してそのあまりの違いに愕然となったのです。その集大成がペルセポリスの大宮殿でした。

「世界の全てを治めるとはこういうものか。これに比べれば、わがギリシャのなんと狭くて小さい事か。」

そして彼は、ある大きな決意を固めるのです。それはこの壮麗なペルセポリスの宮殿を焼き払うというものです。では彼はなぜこのペルセポリスを焼き払う決意をしたのでしょうか? ごく普通に考えれば、そのまま残してその後の統治に活かそうと考えるはずです。

これについては、現代においても考古学者の間で意見が分かれています。しかし、多くの学者たちの間で一致したものとされているのが、このペルセポリスを焼き払う事で、ペルシア帝国の威光を完全に消し去り、そのペルシアに代わる新たな支配者としての自分を人々にあまねく見せ付けたかったのではないか。というものです。そのためには、この宮殿にはなんとしても消えてもらわなければならない。それほどまでに、このペルセポリスはアレクサンドロス大王を恐れさせたのです。

こうして紀元前331年、アレクサンドロス大王の命によりペルセポリスは炎上します。それは同時にアケメネス朝ペルシア帝国の終焉の炎でもありました。その翌年、ペルシア最後の王ダレイオス3世が家臣の裏切りによりバクトリアで暗殺され、キュロス2世以来12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡します。

帝国の滅亡後、この地域では数多くの国々が勃興しては消え去っていきました。そして、炎上から2300年に及ぶ長い間にペルセポリスは人々の記憶から忘れ去られ、歴史の表舞台に登場する事は二度とありませんでした。しかし現在、かつて世界の中心として栄え、人種も言葉も民族も違う多くの人々が集まった都は、今は同じく人種も言葉も民族も異なる世界中の人々が再び集まる一大観光スポットとなって蘇っています。

次回に続きます。
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王妃への愛が生んだ空中庭園 ・ バビロン

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、エジプトと並ぶ人類最古の文明発祥の地である古代メソポタミアから「バビロン」をご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、この地域についてどの様なイメージをお持ちでしょうか? これは愚問だったかもしれませんが(笑)おそらく100%の方が「砂漠」と答えるでしょう。確かに、現在は気温50度にも達する猛烈な灼熱の砂漠地帯が広がっているのが事実です。しかし、古代メソポタミア文明が花開いた遠い昔、このあたりは今とは全く違う水と緑に溢れた豊かな土地だったのです。

それについてお話する上で欠かす事の出来ない大きな存在があります。それは古代メソポタミア文明を育んだ二つの大河、ティグリス川とユーフラテス川です。メソポタミアとは、ギリシャ語で「二つの川の間の土地」を意味しています。(この程度の事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いかもしれませんね。)


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上は今回の主役、バビロンを含むメソポタミアの主要地域です。

では、その二つの大河が生んだ古代メソポタミアの歴史は一体いつ頃から始まるのでしょうか? これについては現在までの発掘調査とその研究成果によって、このメソポタミアにおける最初の都市文明が興ったのは紀元前3500年頃(今から5500年ほど前)に、シュメール人が築いた都市国家ウルクに始まるとされています。

彼らシュメール人は、水路を作って人工的に川から水を農地に引き込む灌漑(かんがい)農業によって、食糧の安定供給を実現し、それが人口の増加と生活の安定につながり、やがて数十の都市国家群からなるメソポタミア文明が花開いた大きな理由でした。


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上の画像1枚目がユーフラテス川沿いの湿地帯を船で渡る現地の方々です。そう、これこそ数千年前の古代メソポタミアの原風景なのです。そして2枚目がティグリス川沿いで行われている灌漑農業の様子です。二つの川の上流から中流域では、この様に可能な範囲で川から水を引いて農地を潤しています。

この灌漑農業によって、古代メソポタミアは多くの作物が実る豊かな地になったのですが、その中で最も多く栽培されていた作物が「小麦」でした。人々の生きていく糧となるパンの原料として、小麦は欠かす事の出来ない一番大事な農産物だったからです。


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この小麦がこの地で多く栽培されたのにはもう一つ理由があります。実は意外に思われるかもしれませんが、小麦は乾燥した気候を好むのです。そのため、私たち日本人の主食である「米」の様に、収穫までの長い間多くの水がいらず、この地域の様に暑くて乾燥した地域でも、時折水を流してやる程度で十分育つのです。

この様に、かつては豊かな土地であった古代メソポタミアでは、シュメール以後もさまざまな民族、国家が興亡を繰り返していく事になります。今回お話するバビロンも、そうしてこの地に生まれた国家の一つ「バビロニア王国」の都として栄えた街でした。

古代メソポタミアでは、先に述べたシュメール人によって、すでに紀元前3500年頃には楔形文字が考案され、さまざまな記録に使用されていました。それはシュメール滅亡後も後継国家に受け継がれ、その記録によれば、バビロンは紀元前2300年頃には、地方都市として存在していた様です。それがメソポタミアの中心となるのは、紀元前1894年に成立したバビロニア王国(「バビロン第1王朝」または「古バビロニア王国」と呼ばれます。)の時代になってからです。

この古バビロニア王国は11代の王が君臨し、メソポタミアの主要地域を支配しておよそ300年続きましたが、前回お話したヒッタイト王国の侵攻によって紀元前1595年に滅亡してしまいます。しかし、バビロンの街そのものは、その後もメソポタミアの中心都市として揺らぐ事無く繁栄し続けるのです。


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上が当時のバビロンの繁栄ぶりを描いたイラストと、古い記録や発掘調査などから復元された全体像を上から見た図です。このバビロンはユーフラテス川をまたぎ、縦2.5キロ、横3.5キロのほぼ長方形をしています。堅固な二重の城壁に囲まれ、さらにその外側にユーフラテス川の水を引き込んだ堀が都市を囲んでいます。街の真ん中をユーフラテス川が流れている事から、自然と上流、下流の両方を行き交う船の寄港地として、そしてそれによって運ばれてくる様々な物資をやりとりするために周辺から多くの人々が集まり、これがバビロンが栄えた大きな地理的要因でした。

このバビロンの「大人気ぶり」は、その支配者が交代しても変わる事はありませんでした。なぜなら古バビロニア王国が滅んだ後も、なんと9つの王朝がこの街を支配し、そのうち8つの王朝がここを都としたからです。(バビロンに都を置かなかったのは9つ目のアッシリア帝国でした。アッシリアはニネヴェという街を都とし、バビロンは帝国末期の100年余りを支配していましたが、経済文化の中心地としてのバビロンの地位は、アッシリア時代においても揺ぎ無いものでした。)

そのバビロンが、メソポタミア全域を支配する強力な統一国家の都として歴史に燦然と輝く日が再び巡ってきます。紀元前625年にアッシリア帝国のメソポタミア南部方面総督であったナボポラッサル将軍が、アッシリア王家の王位争いによる混乱に乗じて挙兵し、バビロンを占領して自らバビロニア王として即位したのです。彼が新たに興した王朝は「新バビロニア王国」と呼ばれ、バビロンはその都となります。


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上が新バビロニア王国を興したナボポラッサル王です。(?~紀元前605)これはいつもながら自分がネットで拾ったイラストで(汗)もちろん彼の肖像など残っていないのですが、王国の創始者として人々を従えさせる威厳と力強さに満ち溢れるたくましい人物だったのだろうと思います。(自分の勝手なイメージです。笑)

その後、ナボポラッサル王率いる新バビロニア王国は、領土拡大を狙ってメソポタミア北部へと侵攻を開始します。当時この地域には1400年以上に亘ってこの地を支配したアッシリア帝国がありましたが、度重なる王位争いと反乱によって帝国は大きく衰退していました。


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上がアッシリア帝国の最盛期の支配地域です。

しかし、かつてはメソポタミア全土を支配し、ヒッタイト滅亡後のアナトリアとエジプトまでも支配下に収めた強力な軍事力は今だ健在で、それゆえ堅実なナボポラッサル王はバビロニア単独での戦いを避け、東の隣国メディア王国と同盟を結び、さらに密かにアッシリア軍を率いる将軍たちでその待遇に不満を抱く者などに、味方になれば今よりも高い地位と莫大な報酬を約束して離反を促し(こういうのを「調略」と呼びます。)16年もの時間をかけて着実にアッシリアを追い詰めていきます。そしてついに紀元前609年、バビロニア・メディア連合軍はアッシリア帝国を滅亡させるのです。

こうしてメソポタミア北部をも手中に収めたナボポラッサル王は、さらにその先のシリア、パレスチナなどの地中海沿岸の領土も支配すべく軍を差し向けます。狙いは地中海沿岸部を支配する事で、東西の海洋交易路を確保する事です。しかし、その先には同じくこの地を狙うエジプト王国が待ち受けていました。バビロニアとエジプトはこの大きな利権を巡って戦争に突入しますが、勢いに乗るバビロニア軍はエジプト軍を破り、シリア、パレスチナはバビロニアの手に落ちます。新領土獲得にナボポラッサル王は大いに喜びますが、もはや老齢で体調を崩していた王は、紀元前605年に急病に倒れて亡くなってしまいます。その後を継いで2代国王となったのは、先王の長男ネブカドネザル2世という人でした。


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上がネブカドネザル2世(?~紀元前562年)の彫刻と、アッシリア滅亡後の国際情勢です。主に4つの大きな国に分かれていますね。そしてひときわ目立つのが最大の領域を支配するメディア王国の存在です。この国は上の図にもある通り、新バビロニアより90年ほど早く成立し、現在のトルコ東部からイラン、アフガニスタンに至る広大な地域を支配した巨大な王国でした。

新王ネブカドネザル2世は、すでに先王の後継者として老齢の父王に代わってバビロニア軍を指揮し、アッシリア打倒戦やシリア方面での戦いでも前線で戦っていた生粋の武人でした。シリア、パレスチナも平定したところで父王が亡くなると、その遺志を継いで即位、父が築いた王国の更なる拡大発展のために尽力します。

ところが、このバビロニアでの王位交代の隙を突き、エジプトが再びシリア、パレスチナ方面に介入してきたのです。その兵力はエジプト軍と旧アッシリア帝国の残党を合わせて総勢4万。これに対し、ネブカドネザル2世はシリア奪還のため直ちに軍を率いて出陣しますが、その兵力は敵の半数以下の1万8千でした。紀元前605年、両軍はシリア北部カルケミシュで激突します。これが「カルケミシュの戦い」です。

兵力は圧倒的にエジプト軍が優勢です。しかし、思わぬ誤算がエジプト軍に生じます。彼らはアッシリア軍の残党を加えた混成部隊であったため、指揮統率が思う様に取れず、うまく連携出来なかったのです。ネブカドネザル王はこの敵の混乱の隙を突いてエジプト軍に甚大な損害を与え、見事に大勝利を収めました。これにより、エジプト王国はシリア、パレスチナ方面への進出を断念し、その後二度とこの地域へ進出を企てる事はありませんでした。

こうして西の脅威を取り除いたネブカドネザル2世は、意気揚々とバビロンへ凱旋しますが、彼には一つの大きな悩みがありました。その悩みとは、いつの時代も時の権力者を振り回す存在。つまり「女性」の事です。

ネブカドネザル王はすでに結婚して妃がいました。お相手は隣国メディア王国の王女アミュティス姫です。といっても、互いに好き合って結婚したのではありません。これは彼らの父王たちが、先に述べたアッシリア打倒の軍事同盟を結ぶ際に、その「証」として行われた完全な政略結婚でした。両国の末長い関係維持のためには必要なものだったと思われますが、見た事も会った事もない相手と結婚させられる方はたまったものではありません。アミュティス姫は父王に抗います。

「父上。わたくしは絶対嫌でございます! 何ゆえあの様な地の果てにわたくしが行かねばならないのですか? わたくしはこのメディアの国を離れとうはございません。」

このメディア王国のあった現在のイラン一帯は、高原と山脈の多い地域です。メソポタミアよりはるかに緑に溢れ、とりわけ、雪を頂く3千メートル級の山々が連なる壮大なザグロス山脈を見て育った彼女には、見渡す限りの平野と川の周囲の農地以外は砂漠の続くメソポタミアでどんな暮らしが待ち受けているのか想像するのも身震いがしたのかもしれません。

当時、バビロニアの隣国メディア王国の王はキュアクサレス2世という人でした。彼は娘をなだめ、説得します。

「そなたにはすまぬが、これはもうバビロニア王との間ですでに決めた事なのだ。今さら取り消す事など出来ぬ。もしそんな事をすれば、わしの立場がないではないか。ここは父のため、わが国のためにどうかバビロニアに行ってくれ。頼む。」

結局父王の命には逆らえず、アミュティスはバビロニアに輿入れする事になります。キュアクサレス王は娘のために大勢の女官と信頼の置ける家臣たちをつけて彼女を送り出しました。一方のネブカドネザルの方は、アミュティスの心情について臣下からの報告で良く理解しており、彼女が退屈しないよう贅を凝らした宮殿を建設して出迎えます。

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「遠い所から良く参られた。これからはここがそなたの国だ。至らぬ事や欲しいものがあれば何でも私に言ってもらいたい。」

まだ皇太子であったネブカドネザルは妃にこう言ってやさしく迎えたのですが、先に述べた様に当時彼は父王の代理でシリア方面征服作戦の途中であり、その忙しさからバビロンに妻を残して長い遠征に出かけてしまいます。バビロンに一人残されたアミュティスは、次第に募る故郷への望郷の思いと寂しさから、すっかり塞ぎ込んでしまう様になってしまいました。

やがてアミュティスにとっては義理の父であるナボポラッサル王が崩御し、ネブカドネザルがバビロニア2代国王に即位しますが、王妃となったアミュティスはなかなか彼に心を開こうとはせず、王は困り果ててしまいます。

夫婦仲が悪いわけではないのです。アミュティスもメディア王家の王女として立派な教養と品格を備えた女性です。しかし、あまりにも違いすぎる環境の変化に、彼女は自分を合わせていくのが精一杯でした。


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「可哀相な事をしてしまった。何か良い方法はないものかな。」

ネブカドネザル王は悩みます。なぜなら王である彼は世継ぎをもうけなければなりません。そのために彼ならその権力で自分の好みの女などいくらでも手に入れられます。しかし、事はそんな単純なものではないのです。もし、彼が正妻であるアミュティスを疎んじ、側室らとの情事にばかり耽る様になれば、アミュティスの実家メディア王家が怒ってメディア王国との関係が悪化し、戦争になるかもしれません。

上の地図でお分かりの様に、メディアは当時オリエント最大の領土を支配する大国で、その軍事力も侮れない大きなものです。もし戦争になれば、メディア王キュアクサレス2世には「娘を取り返す」というバビロニア侵攻の絶好の口実があるのです。

そこで彼は、王妃のためにとんでもない事を思いつきます。


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「わが王宮をメディアの地と同じにせよ。木と草花を植え、水を通して池も作れ。宮殿を森と泉で埋め尽くすのだ。」

王は家臣たちにこう命じたのです。宮殿の改装工事は王の直接指揮のもとで行われ、出来るだけメディアの風景に近づけるよう配慮がなされました。こうして歴史上初めての屋上庭園を持つ宮殿が完成したのです。これを「バビロンの宮中庭園」と呼びます。


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上がバビロンの空中庭園の復元想像図です。宮殿を階段状にし、そのテラスに各地から取り寄せた樹木と季節の花々が植えられ、魚が泳ぐ泉はもちろん滝まで作られていたそうです。ポンプなどないこの時代に、どの様にして水を宮殿の屋上にくみ上げていたのか謎ですが、おそらく水車をいくつも組み合わせていたものと推定されています。(現在東京などの大都会でも「屋上緑化」されたビルが見受けられますが、2600年も大昔にすでに作られていたのには驚きですね。)

自分のためにここまで気を使ってくれた夫に対して、妻のアミュティスがなんと答えたのかは残念ながら記録がありません。しかし、確かなのは、その後ネブカドネザル王夫妻には無事に後継者の王子が誕生し、新バビロニア王国はネブカドネザル2世の40年以上の長い在位中に最盛期を迎えたという歴史的事実です。


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上は伝説の空中庭園があったとされるバビロンの王宮の現在の姿です。

しかし、その後新バビロニア王国は、ネブカドネザル2世の死からわずか26年後の紀元前536年、メディア王国の属国であった南の小国アンシャンから興ったアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされる事になってしまいます。そして空中庭園を含むバビロンの王宮はその戦乱の際にペルシア軍によって破壊され、オリエント最大の繁栄を謳歌したバビロンの栄光の日々も終わりを迎えます。

それから月日は流れ、この地の支配者も目まぐるしく移り変わる中、メソポタミアは前段で述べた灌漑農業の弊害ともいうべき「塩害」(農地に引き込んだ川の水が蒸発する際に、含まれていた塩分が土壌に噴出し、作物を駄目にしてしまうものです。)によってかつての肥沃な緑の大地は荒れ果てた砂漠へと変わり果ててしまいます。

かつて一人の王が、王妃への愛の証として建てた壮麗な宮殿は、今はイラクの砂漠の中にその土台部分だけがその遺構を留めるばかりです。今この宮殿の跡を包み込んでいるのは、時折吹きすさぶ暑い砂嵐だけです。

次回に続きます。

鉄の王国ヒッタイトの都 ・ ハットゥシャ

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、遠い昔から幾多の古代国家が興亡を繰り返し、アジアとヨーロッパ、東洋と西洋が交じり合い、悠久の歴史を刻んできた魅惑の国トルコから、「ハットゥシャ」をご紹介したいと思います。この「ハットゥシャ」は、紀元前1600年頃にこの地に興った最初の統一国家である「ヒッタイト王国」の都として築かれたものです。

ヒッタイト。この王国こそ初めてアナトリアを統一し、強大な軍事力で周辺国に恐れられ、後には東のメソポタミアに侵攻してこれを征服。さらに転じて南のエジプトにも進軍し、迎え撃つエジプト軍と激しく争った恐るべき軍事国家でした。では、そもそも今回のお話の主役であるヒッタイト王国はいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか? まずはそのあたりからお話したいと思います。

現在知られている最も有力な説では、ヒッタイト人は紀元前2千年頃(今から4千年前)にカスピ海の北方からアナトリアの地に移動し、定住したといわれています。もちろんその時期も場所もばらばらで、大小いくつもの集団に分かれ、最初からまとまっていたわけではありませんでした。彼らはそれぞれ移住した地に都市を築いていきましたが、やがてその中で大きな集団を率いる者が指導者として周辺のヒッタイト都市を従えていく様になります。

ちなみに「ヒッタイト」という名ですが、これははるか後の19世紀から20世紀にかけて、この地域を調査研究していたセイスなるイギリスの考古学者が、旧約聖書に登場する「ヘテ人」にちなんで名付けたのがその由来だそうです。(もともとの固有名詞ではなく、後の学者が後付けで名付けたのですね。ただし、なぜこう名付けたのかは不明です。)

そして紀元前1580年頃、全ヒッタイト民族を統一して最初の王になったのがラバルナ1世(?~紀元前1565年頃)という人物です。彼が築いた最初のヒッタイト王国はおよそ80年ほど続き、歴史上ではこれを「ヒッタイト古王国」と呼んでいます。ヒッタイト王国はその後、70年続いた「中王国」そして滅亡するまで最も長く続いた250年余りの「新王国」に分かれ、合わせて400年間に亘り、アナトリアから現在のシリア、イラクに至る地域を支配しました。


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上がこの地域における当時の国際関係を表した図です。ヒッタイトと合わせ、南にはエジプト王国、東のメソポタミアにはこれも強大なアッシリア帝国が覇を競っていました。(注)上の図では、Reich「ライヒ」すなわちドイツ語で「帝国」と表記されていますが、「帝国」とは「皇帝」の統治する国家であり、この時代にはまだ「皇帝」という称号は存在せず、さらにヒッタイトをはじめ、その他の国々においても、その頂点に君臨するのは「王」である事から、厳密には「王国」と表記すべきでこれは正しくありません。しかし、世界史では多くの場合、そうした国でも帝国と呼んで(ペルシャ帝国や大英帝国など。いずれも君主は王です。)それがすっかり定着している場合も多いです。頭が固いかもしれませんが、当ブログでは原則論に従ってヒッタイト王国と呼ぶ事にするので、その点を踏まえてご了承ください。(苦笑)

さて、ヒッタイト王国を建国した最初の王ラバルナ1世ですが、残念ながら彼については「ヒッタイト王国初代国王」であるという事くらいしか分かっていません。なにしろ3600年も昔の人物であり、肖像はもちろん彼にまつわる記録も粘土板に記された極めてわずかな記述しか残っていないからです。では、そのラバルナ1世に始まるヒッタイト王家歴代の王たちにまつわる記録は、一体どの様に記録されたのでしょうか? それについては下の画像を見て下さい。


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上はいわゆる「楔形」(くさびがた)文字をが刻まれた粘土板です。この文字はもともとメソポタミアで考案され、古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)と並んで歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ヒッタイト民族がカスピ海の北方からアナトリアに移住したというのは先に述べましたが、その途中で彼らは地理的にメソポタミアの影響を強く受け、その結果自分たち自身で文字を作らず、メソポタミアの楔形文字をそのまま導入してさまざまな記録に活用しました。

この楔形文字によって、ヒッタイト王国についての記録は極めて断片的かつ大雑把ではありますが、今日の私たちも知る事が出来るのです。それによると、初代ラバルナ1世については次の様に記述されています。

「狭かった国土をラバルナが大きく広げた。ラバルナは7つの街を征服し、敵を海にまで追いやり、それぞれに息子を支配者として送り込んだ。」

彼が強大な武力を持っていたのは間違いないと思われますが、しかし、諸部族を統一して広大な王国を建国するには、単に強大な武力を持っているだけではなく、人々を従えさせる王としての品格と度量の広さ、さらに統治者としての政治指導力なども無くては無理でしょう。おそらくそうしたものも全て兼ね備えた優れた王であったのだろうと思います。(と、いうのは自分の勝手な想像ですが。汗 みなさんはどう思われますか? 笑)

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上はヒッタイト王のイメージです。(拾いもののイラストです。笑)

記録によれば、その後初代ラバルナ1世が亡くなると、後継者には彼の王妃の従兄弟にあたるハットゥシリ1世(?~紀元前1540年頃)が2代国王に即位します。ここで疑問に思うのは、先王ラバルナ1世には少なくとも7人の息子すなわち王子たちがいたのに、血筋では全く関係ない他人である王妃の従兄弟が王位を継いでいるという点です。記録には残されていませんが、おそらくこの時、王位を巡る争いがあったのは間違いないでしょう。そして先王の王子たちを破り、勝ち進んだハットゥシリが彼らを粛清し、王位を奪ったものと思われます。(この時点でヒッタイト王国は王朝が交代しているわけですが、この王国はその後も王位を巡る内紛が幾度も続き、その都度王朝の交代が恒例化していく事になります。)

ともあれ、ヒッタイト王国2代国王となったハットゥシリ1世ですが、この彼の変わった名を聞いて、誰もがすぐに「ピン」と来るのではないかと思います。そう、彼こそが今回のテーマの主役である王国の都「ハットゥシャ」を築いたその人なのです。彼は新体制のシンボルとして、自らの名を冠した新たな街を築き、ラバルナ1世が都を置いていたクッシャラ(所在不明)なる街からハットゥシャに遷都し、それ以後このハットゥシャは、ヒッタイト王国の滅亡まで王国の都であり続けるのです。


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上の画像1枚目がハットゥシャの復元想像図です。尾根沿いに堅固な城壁が街を取り囲んでいますね。2枚目の同じ位置の画像と見比べて見てください。3枚目は現在のハットゥシャの見所の配置図です。大きさは東西およそ1.2キロ、南北およそ3キロの楕円形をしています。

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上の一連の画像は現在のハットゥシャ遺跡の様子です。上空から見た画像を見ると、遺跡は石が削り取られたかの様にきれいになくなっていますね。これは後の時代にこの地に興り、滅んでいったあまたの国々が城壁などの資材として転用するために長い年月をかけて持ち去ってしまったためです。しかし、転用を免れた石には多くの彫刻やレリーフが残され、当時の繁栄を偲ぶ事が出来ます。

最後の写真に注目して下さい。これは兵士ではなく神々を掘り刻んだもので、「ヒッタイトの12神」と呼ばれています。これを見るだけで、この国が多神教国家であったのは容易に想像出来ますね。キリスト教もイスラム教もないはるかな昔、さまざまな異教の神を信ずる多くの民族を束ねるには、その方が都合が良かったのでしょう。

このハットゥシャは、ドイツの考古学者フーゴー・ウィンクラー(1863~1913)によって1906年に発掘調査が行われ、失われたヒッタイト王国の都の全貌が明らかにされました。そして1986年世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が後を絶たないトルコでも人気の観光スポットです。

それからのヒッタイト王国は隆盛期に入ります。歴代の王たちによって繰り返された外征により、その領土と支配地域は大きく広がっていくからです。それではヒッタイト王国躍進の原動力とは一体なんだったのでしょうか? なぜ彼らヒッタイト軍はそんなにも強かったのでしょうか?

それは歴史好きの方ならば知識としてご存知と思いますが、このヒッタイト王国は史上初めて「鉄」を大々的に生産、加工する技術を確立した今で言う「先進テクノロジー国家」であったからです。


前回のミケーネでもお話した様に、この時代の世界は「青銅器時代」の全盛期でした。青銅とは銅と錫の合金で、加工がしやすいのが特徴ですが、銅の産出地が多い所でないと大量生産は出来ない欠点がありました。そのため銅や錫が取れない国では高価な貴重品だったのです。

しかし、鉄は銅よりはるかにその埋蔵量が多いのです。みなさんも子供時代、磁石で砂の中から「砂鉄」を取り出した事があると思います。そう、ヒッタイトの製鉄技術は主にこの砂鉄から作り出す「たたら製鉄」によって生産されたものでした。


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上はたたら製鉄によって炉から流れ出した「銑鉄」(せんてつ)です。これを鋳型に流し込んで形を整え、叩いて剣や槍、矢じりを作ったり、それ以外の様々な鉄器を生産しました。

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上はヒッタイトの戦車のイラストです。その車輪にも鉄が使われています。ヒッタイト軍はこの様な戦車を数百両集めた「機甲部隊」で敵の防衛線を打ち破り、その後を鉄剣や鉄槍で武装した歩兵部隊が怒涛のごとくなだれ込み、敵国の都まで一気に侵攻する電撃作戦で連戦連勝を重ねました。

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さらに鉄の利点はなんといってもその強度です。青銅の硬度は50~100程度に対し、鉄の硬度は150~200で、2~3倍の強度の違いがあるのです。(鉄の剣と青銅の剣で戦えば、当然青銅の剣は折れてしまいますね。これでは実戦では勝負になりません。)

ヒッタイトはいち早くこの製鉄技術を確立すると「国家機密」として厳重に管理し、いわゆる「ブラックボックス化」して独占しました。そのため周辺国は、ヒッタイトの滅亡まで製鉄技術を得る事が出来ず、青銅器を使い続けざるを得なかったそうです。

このヒッタイト王国の躍進に大きな脅威を感じていた南の大国がありました。それはエジプト王国です。ヒッタイトとエジプトは現在のシリアとイスラエル付近を挟んだ国境地帯で戦争を繰り返しましたが、双方ともなかなか決着が付かず、戦争は300年も続いていました。しかし、その300年に及ぶ歴史に終止符を打つべく、エジプトで一人の王が大きな決意を固めていました。古代エジプト最強の王として有名なラムセス2世(紀元前1302頃~紀元前1212)です。


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上は戦車に乗って大きく弓を引くラムセス2世の絵です。彼はエジプト第19王朝3代国王(ファラオ)にして、エジプトのファラオとして通算すると138代目に当たるそうです。

領土拡大の野望に燃える若きラムセス2世は、シリアをヒッタイトから奪い取ろうと紀元前1274年、自ら大軍を率いて北上、これを迎え撃つ時のヒッタイト王ムワタリ2世の軍と一大決戦に臨みます。これが「カデシュの戦い」です。


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上はカデシュの戦いで奮戦するラムセス2世を描いたイラストです。この戦いにおける両軍の兵力はエジプト軍が歩兵1万6千、戦車2千両(1両の戦車には3名程度が乗るので、それを合わせると2万2千程度でしょうか。)これに対しヒッタイト軍は歩兵2万、戦車3千両(同じく計算するとヒッタイト軍は2万9千。兵力ではヒッタイト軍が有利ですね。)

ラムセス2世は捕えたヒッタイトのスパイの情報から、ヒッタイト軍が到着する前にカデシュを占領してしまおうと無理して兵を進軍させます。しかし、これはヒッタイト王ムワタリ2世の仕掛けた罠でした。彼はエジプト軍をカデシュに引き込み、包囲殲滅するつもりでいたのです。これにまんまと引っかかってしまったラムセスのエジプト軍にヒッタイトの戦車部隊が一斉に襲い掛かります。油断していたエジプト軍は大混乱に陥りましたが、ラムセス2世がいざと言う時に備えて温存していた取って置きの別同部隊が側面からヒッタイト軍を撃退し、ラムセス2世はようやく戦場を離脱する事が出来ました。

その後、戦線はこう着状態になり、ムワタリ2世とラムセス2世との間で講和条約が結ばれ、戦闘は終結します。この戦いによってラムセス2世は当初の目的であったシリア獲得は成らず、大勢の兵を失う大損害を被り、事実上戦いはラムセス2世の惨敗なのですが、偉大なファラオが「敗れた」とはいえないため、エジプト側の記録では全てラムセス2世の大勝利と改ざんされています。(負けず嫌いのラムセス2世らしいですね。笑)

この時、エジプトとヒッタイトとの間で結ばれた講和条約こそ、明文化されたものでは歴史上世界で最初の和平条約として有名で、これ以後両国は、ヒッタイト王国の滅亡までおよそ100年以上もの間、国境線上で均衡を保つ事になるのです。


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上がヒッタイト・エジプト平和条約を記した粘土板です。これもハットゥシャの遺跡で発掘され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されています。

この様に精強を誇ったヒッタイト王国でしたが、このカデシュの戦いの始まる頃から衰退の兆しが見え始めていました。特に東のメソポタミア地域には、新興国家アッシリア帝国が徐々にヒッタイト領を侵食し始め、国境紛争が後を絶たなくなります。さらに西からは、これも新興勢力「海の民」が地中海からヒッタイトに襲い掛かります。

ヒッタイト軍は騎馬を中心とする陸軍が主力であり、基本的に海の戦いは不得手でした。そのため海の彼方からいつ攻め寄せてくるか分からない海の民からの防衛のため、地中海沿岸の各都市に守備隊を分散配置せざるを得ず、その結果各個撃破される悪循環に陥ってしまったのです。

さらにヒッタイト王家の王位争いによる内乱が追い討ちをかけます。内憂外患とはまさにこの事です。これら一連の混乱により国の統制は乱れ、王国は崩壊の道を転げ落ちていきます。そしてついに紀元前1180年、ヒッタイト王国は滅亡し、都ハットゥシャは放棄されてしまうのです。

長い間、ヒッタイト王国は海の民の攻撃によって滅んだと言われて来ましたが、近年の発掘による研究結果から、ヒッタイト滅亡の原因はそれだけでなく、末期の3代に及ぶ王位を巡る内紛と、それにともなう深刻な食糧難、それに付け込んだアッシリアの介入などの複合的な要因により滅亡に至ったものと推定されています。


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上は草原の中に広がる現在のハットゥシャの遺跡の姿です。遠い昔に栄え、そして滅び去った古代の王国の都の跡を、今はその子孫の少女が無邪気に歩いています。

次回に続きます。

黄金の仮面が眠る街 ・ ミケーネ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に続いて再びギリシャから「ミケーネの王宮」をご紹介したいと思います。といっても、正確には宮殿と街をぐるりと堅固な城壁で囲ったいわゆる「城塞都市」と言うべきものですが、後の中世ヨーロッパ全土に築かれていった城塞都市の原型として、大変興味深いものです。

このミケーネの王宮は、ギリシャ本土、ペロポネソス半島の東部に位置する古代遺跡で、その起源は紀元前1500年頃(今から3500年前)にさかのぼります。この時代は、歴史の大きなくくりで言えば、いわゆる「青銅器時代」に当たり、各地域の古代文明の存続期間によって、その発祥と終わりに数百年の差が表れるのですが、おおむね紀元前3500年頃~紀元前800年頃までのおよそ2700年余りがこれに相当します。

この青銅器時代は、それまで石器しか知らなかった人類が、その名の通り青銅を素材に様々な道具を使い出した時代です。ちなみに青銅というのは銅と錫(すず)を混ぜ合わせた合金で、この配合の多少によって、硬さや色などの点で大きな変化が出る事から、最も加工しやすい金属として珍重され、「鉄」が出現するまで幅広く利用されたものです。今回お話するミケーネの王宮でも、大量の青銅器が出土しています。


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上がミケーネの位置と、空から見た全景です。

このミケーネは、前回お話した古代エーゲ文明の一つであるクレタ島のミノア文明が衰退期に入った頃に、入れ替わる様に興隆発展したもので、歴史好きの方であれば誰もがご存知のあのハインリッヒ・シュリーマンによって、1876年に大々的に発掘調査が行われ、数多くの金銀細工と貴重な出土品で世界を驚かせました。


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上がハインリッヒ・シュリーマンです。(1822~1890)彼については前回もお話した様に、伝説の都「トロイ」の発見者としてあまりにも有名ですね。実業家として財を成した後に考古学の道にのめりこみ、後の世に「ギリシャ考古学の父」として、「偉大な考古学者」の様に紹介される事の多い彼ですが、実際には彼は正規の考古学者というよりも、考古学者に匹敵するほど詳しく良く知る「考古学マニア」でした。つまり「アマチュア」だったのです。そのため彼は、発掘で出土した多くの財宝を「自分の物」としてトルコやギリシャから彼の祖国ドイツに勝手に持ち出し、さらにそれらの財宝は第二次大戦終結直前にソ連軍によって接収され、今日それがそれぞれの国の間で所有権をめぐる争いになっています。

このミケーネは、そんなシュリーマンがトロイの発掘をしていた頃とほぼ同じ時期の1870年代に並行して行われていました。なぜならこのミケーネは、伝説のトロイの都を攻撃したギリシャ軍の総大将「アガメムノン王」の王国であったからです。そのためシュリーマンは、トロイと変わらない情熱さを傾けてこの街の発掘に全力を注いでいました。

ミケーネがこの地に興隆したのは、先に述べた様に紀元前1500年頃と推定されています。これは、遺跡から出土した粘土板に刻まれた線文字を解読した結果などから割り出されたもので、最初は小さな都市国家だったものが、エーゲ海全域での活発な海洋交易により富を蓄え、それが人口の増加と国力の増大により周辺の都市を服属させながら勢力を拡大、やがてクレタ島を中心とするミノア文明に代わる「ミケーネ文明」としてギリシャ世界に君臨する事になったと考えられています。

ちなみに「ギリシャ」という名の由来についてですが、これはかつてギリシャ本土のペロポネソス半島に居住していた「高地の人々」または「名誉の人々」を意味するラテン語の「グレキア」が、わが国が最初に接した西洋の国であるポルトガル語で「グレーシア」と呼ばれていたものが訛ったのだそうです。もちろんこう呼んでいるのはわが国だけで、それぞれの国で呼び方は違います。例えば、当のギリシャ本国において、彼らが自国の名を呼ぶ場合の正式国名は「エラス共和国」と読んでいるそうです。(ギリシャ神話の女神ヘレンに由来し、ギリシャ民族はこのヘレンの子孫であるという伝説から。)

今回ご紹介するミケーネは、古代ギリシャ民族を構成したいくつかの民族のうち、紀元前2000年頃に北方から南下して定住した「アカイア人」の一派である「イオニア人」が建国した王国でした。


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上が当時のギリシャ世界の全体の流れを現した図です。前回お話した様に、エーゲ海一帯に最初に華やかな文明の花を咲かせたのはクレタ王国のミノア文明でしたが、その後に興隆した本土のミケーネ王国が、紀元前1400年頃にこれを併合してギリシャ世界の覇者となったのです。

このミケーネ王宮が前回のクノッソス王宮と違う最大の点は、なんといってもその防御力の高さといえるでしょう。クレタのクノッソスは、城壁や城門、堀というものがほとんどなく、宮殿は外来者が自由に出入り出来るものでした。それがゆえに、クレタはミケーネ軍にあっけなく占領されてしまったものと思われるのですが、このミケーネの王宮は、冒頭に載せた写真をご覧になればお分かりの様に、小高い山の上に堅固な城壁をめぐらして宮殿と街全体をすっぽりと囲んだ城塞都市でした。


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上の一連の画像は現在のミケーネ遺跡の様子です。このミケーネは、1999年(平成11年)に世界文化遺産に登録されています。上の画像の最後の2枚に注目して下さい。これはミケーネの正門ともいうべき「獅子の門」といい、2頭のライオンが中央の太い柱の左右対称に刻まれています。このデザインは後のヨーロッパの王侯貴族の紋章に良く使われていますね。(4枚目の写真は門の入り口につながる道に、だいぶごつごつした大きな石ころが転がっていますが、5枚目の写真ではすっかり道が整地されて歩きやすくなっていますね。世界遺産への登録とともに観光客が増えたための配慮なのでしょう。)

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そして上が、ミケーネの復元想像図です。これを見てまず目が行くのが、上で述べた王宮の正門である「獅子の門」を入って右手にある円形の構造物ではないかと思います。これは円形墳墓といい、地中海世界の遺跡では全般的に良く見られるもので、このミケーネを支配した歴代の王や王族が眠る「王家のお墓」です。

この円形墳墓から、シュリーマンは数多くの副葬品を発見するのです。そしてその大半がまばゆい黄金製でした。


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上の一連の画像は、シュリーマンが王家の円形墳墓とその周囲から発掘した黄金の品々です。1枚目が、かの有名な「アガメムノン王の黄金の仮面」です。これはシュリーマンがその様に名付け、今だにその名で呼ばれているものですが、実際はアガメムノンではなく、王族の一人のものであると考えられています。また、黄金の仮面はこれだけではなく、他の王族の墓からも出土しています。5枚目の「黄金のカップ」と6枚目の「黄金の器」に注目して下さい。この黄金のカップでミケーネの王はワインを飲み、黄金の器に豪華な料理を盛り付けて食べていたのでしょうか?

これらは全て、現在アテネの国立考古学博物館に展示されています。みなさんもギリシャに旅行される機会があれば、目の保養にぜひ立ち寄って見てはいかがでしょうか。(笑)

「黄金に富めるミケーネ」

あのトロイ戦争を題材にした叙事詩「イリアス」を書いたホメロス(紀元前700年代? に生きた大詩人)は、その中でミケーネをこの様に表現しています。そしてミケーネは、彼の言う通りの「黄金都市」でした。

ミケーネをこの様に豊かで強大な国家に押し上げた原動力は、なんといっても先に述べた「海洋交易」でした。ミケーネに限らず、エーゲ海一帯のギリシャ地域は地中海性気候で乾燥しており、農耕によって得られる作物は必然的に乾燥に強いものが古くから栽培されています。その中で代表的なものがオリーブと葡萄であり、それからオリーブ油やワインを作り、さらにそれらを入れる「入れ物」として鮮やかな絵柄を施した陶器を大量生産、さらに青銅でこしらえた剣や槍、甲冑などの武器が「高付加価値品」として輸出されました。

「輸出」といっても、この時代は今日の「お金」という概念はまだありません。余談ですが、「お金」すなわち貨幣というものが歴史に始めて登場するのは紀元前670年頃、現在のトルコに存在したリディア王国(紀元前690?~紀元前547)が鋳造したエレクトロン貨(金銀の合金)が最初のものと言われ、この時代から1000年近く後の事になります。つまり、それまで人々は日々の生活に欠かせない食べ物はもちろんそれ以外の他の物でも、手に入れる時は互いの欲しい物か、それに見合う価値のある物を交換する純粋な「物々交換」でやり取りしていたのです。

ミケーネの商人たちはこれらを船に積み込み、単独または複数の船団を組んでエーゲ海周辺の国々(エジプト、ヒッタイトなど)に出かけ、現地の商人と金、銀、銅、錫などの金属資源や象牙、琥珀、香料などギリシャでは手に入らない貴重で珍しい「贅沢品」と交換してミケーネ本国に持ち帰ったのです。

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このミケーネを含むエーゲ文明について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。古代ギリシャの本は数多いのですが、この本はギリシア文明の初期、すなわちクレタやミケーネ、それ以後の「暗黒時代」からポリスの興亡まで、とにかく豊富な図解でヴィジュアル的にお薦めするものです。ページ数は上の本が180ページ余り、下の本が140ページ余りです。文章で想像するより見て情報を知りたい方に良いと思います。

こうして繁栄を謳歌したミケーネ王国でしたが、その繁栄は突如終わりを迎えます。紀元前1150年頃、ミケーネの王宮は周辺の都市も含めて破壊され、ミケーネ王国は滅亡してしまうからです。それだけではありません。エーゲ海全域に広がったエーゲ文明そのものが、この時に一斉に滅びているのです。このミケーネを含むエーゲ文明の滅亡については、今だに世界の考古学上の大きな謎とされていますが、現在最も有力な説とされているのが当時勃興した「海の民」と呼ばれる謎の海洋民族の襲来です。


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上は「海の民」の進路図と、これと戦うエジプト王率いるエジプト軍の様子を描いた壁画です。この海の民は、定住する事無く略奪と破壊を繰り返す歴史上最初の「海賊」と呼べるもので、図で見てもお分かりの様に西地中海から東地中海に侵入し、まずはエーゲ海一帯を荒らし回り、トルコに上陸して当時の大国ヒッタイト王国を滅ぼし、さらに南下してエジプトにも攻撃を仕掛けています。当時エジプトは「新王国時代」と呼び、時の第20王朝の王ラムセス3世がこれと激しく戦い、なんとか追い払っています。

上の壁画では、大きく弓を引いて海の民を狙う王の姿が誇大に描かれていますね。これはもちろん王の偉大さを人々にあまねく知らしめるために強調されたものですが、もう一つ大きな理由があります。それはエジプト軍が大量の弓兵部隊を動員し、海の民に雨あられの様に弓矢を射かけ、これにより弓を知らなかった海の民はエジプトに上陸出来ずに敗れ去った、つまりエジプト軍の作戦を伝えるためのものなのだそうです。(これはわが国でも、かつて鎌倉時代の蒙古襲来の折に、来襲したモンゴル軍に対して幕府軍が同じ戦法で撃退していますね。要は「上陸させなければ良い」わけです。)

この海の民は、その後四散して歴史の表舞台からあっという間にいなくなるのですが、彼らによって、東地中海世界は大きな歴史的変動期を迎える事になります。この時期の一連の混乱によって、ミケーネを含むエーゲ文明は滅びてしまうのです。

この海の民が来襲した紀元前1150年頃を境に、およそ800年ほど続いた華やかなエーゲ文明は滅び去り、その時代を記した線文字は打ち捨てられ、ギリシャ世界はその後、文字による記録が一切ない暗闇の時代が到来します。それはおよそ400年ほど続き、世界史ではこの時代を表して「ギリシャの暗黒時代」と呼んでいます。

今回お話したミケーネは、その歴史が外敵の侵入という不幸な形で終わりを迎えていますが、もしそれがなければ、古代ギリシャの歴史はまた大きく違ったものになっていた事でしょう。あるいはいずれ地中海全域に広がる後のローマ帝国の様な一大帝国に拡大発展する事も出来たかもしれません。しかし、歴史はミケーネにそれを許しませんでした。今はギリシャの田舎のオリーブ畑に囲まれた小高い山の上で、その遺構がひっそりと残るのみです。正門の上に掲げられた2頭のライオンが、かつての繁栄を懐かしむ様に、人がいなくなってからも3千年の長き年月、ミケーネを守り続けています。

次回に続きます。

怪物ミノタウロスの住む迷宮 ・ クノッソス

みなさんこんにちは。

しばらく日本関連のお話が続いたので、今回から気分を変え、新たなテーマとして「世界の宮殿」と題するシリーズを始めました。かつて世界中の王侯貴族たちが、その富と権力にものをいわせ、競って建てた多くの宮殿、それらは一体いつ、誰が、どの様な経緯で築いたのでしょうか? そしてその宮殿ではどの様な歴史上のドラマが繰り広げられたのでしょうか? それらを一話完結でお話して行こうと思いますので、ご興味を持たれた歴史好きな方や、調べもので検索された方などのお役に立てれば幸いです。(いつもながら自分の気まぐれで唐突なテーマ選定で恐縮です。汗)

では、そもそも宮殿というものは、歴史上いつ頃から造られる様になったのでしょうか? 人類の歴史というものが「文明」という形ではっきりとその姿を表すのが紀元前4千年頃、つまり今からおよそ6千年前といわれています。その時代を代表するのが古代エジプト、メソポタミアです。他に、私たちがいわゆる「四大文明」として学校の歴史で教わったものに、インドのインダス、中国の黄河文明がありますが、インダスの方は紀元前2600年頃、つまりエジプトやメソポタミアよりも1400年ほど後から、黄河文明はその年代特定が曖昧で(中共は紀元前7千年頃からといっていますが、あの中国の言っている事なので信用なさらない方が良いでしょう。)これらを一括りにしてしまうのは年代的にあまりにも強引に過ぎると思われます。たまたま、これらの文明が大河を源に形成された事から、教育上一緒に教えた方が都合が良いとの、いかにも文部官僚的な発想からそうなったのでしょう。)

その古代エジプト、メソポタミアですが、先に述べた様におよそ6千年前には、王などの指導者の下に、極めて原始的とはいえ国家としての形がすでに出来ていたそうです。その後、両文明で誰もがご存知のピラミッドや、壮麗な神殿が数多く建設されていくわけですが、これらはそもそも宮殿ではありません。もちろんエジプト、メソポタミア両国においても、それぞれを治めた王の住む宮殿はあったでしょう。しかし、はっきりと宮殿と呼ばれるものは跡形もなく残っていないのが事実です。

それでは、歴史上はっきりと王や君主が住んでいた宮殿として最古のものは一体どこにあるのでしょうか? それが今回からお話する宮殿シリーズの第一回目、ギリシャ・エーゲ海に浮かぶクレタ島の「クノッソス宮殿」です。


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上がそのクレタ島とクノッソス宮殿の位置です。

このクレタ島は、ギリシャ・エーゲ海で栄えた「エーゲ文明」の一つである「ミノア文明」の中心で、その歴史は先に述べたエジプト、メソポタミアとほぼ同時期の紀元前3千年頃にまでさかのぼるものですが、一般の義務教育の段階ではこれらを教わる事はなく、大学以上の高等教育の場で教わる以外では、私たち一般の日本人にはほとんど馴染みがないものです。(その理由は単純です。このエーゲ文明は海を中心に発展していますが、先の「四大文明」は全て大河の流域に栄えた事から、子供には教えやすく、そのために省略されているからです。それに、古代ギリシャといえば、アテネとスパルタに代表される都市国家「ポリス」の時代がその後にあり、「民主主義」を教える上で、歴史の授業での混乱を避けるためもあったのでしょう。そのためか、実際多くの私たち日本人の感覚では、古代ギリシャ時代というのはアテネとスパルタの時代から始まるものだという印象があるのではないか思いますが、これらはエーゲ文明よりはるか後の紀元前1千年以降、今回のお話よりずっと後の時代の事であり、古代ギリシャの歴史はそれよりもはるかに古いのです。)

このクレタ島は、ギリシャ本土とエーゲ海の大小220以上の島々をもって形成するギリシャ共和国の中で最大の面積を持つ島です。(大きさは日本の兵庫県とほぼ同じくらいです。)島全体の人口はおよそ62万人余り(2011年調査)このクレタ島で最大の都市は、同島のほぼ中央に位置するイラクリオンで(人口14万ほど)このイラクリオンがクレタ地方の中央行政府(つまり、日本でいう所の「県庁所在地」)となっています。


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上がイラクリオンの街の全景と港の様子です。港の入り口にある古い城塞は「クールス要塞」といい、およそ500年前にこの地を支配していた海洋都市国家ヴェネツイア共和国が軍事基地として築いたものです。(海の青さとその美しさに注目して下さい。まさにエメラルドグリーンです。古代も今も、この海の美しさだけは何一つ変わってはいないのでしょうね。)

今回のお話の主役であるクノッソス宮殿は、この美しい港町イラクリオンから5キロほど内陸にある古代遺跡です。


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上がクノッソス宮殿の全景と、復元想像図です。東西約180メートル、南北180メートルと、面積はそれほど巨大なものではありませんが、宮殿は複雑に建て増しされた数階建ての複合構造で、大小あわせて1000以上の部屋から成っていました。

といっても、宮殿が最初からこの様な形で造営されたわけではありません。ここに最初に宮殿が建設されたのは、ミノア文明中期の紀元前1900年頃、つまり今からなんと3900年前といわれています。そしておよそ280年後の紀元前1625年頃に発生した地震と火災により最初の宮殿(旧宮殿)は倒壊してしまい、その跡地に再び新しいものが「新宮殿」として建設されたそうです。

当時クレタ島は、すでに地中海交易の中心地として発展していました。それが、この付近でミノア文明が繁栄する大きな原動力になったわけですが、その交易によって富を蓄えた者が人々を従えて「王」となり、この地に宮殿を建設したものと考えられています。

ただし、この宮殿はその全てが王家一族だけのものであったのではありません。宮殿は王家の住まいであると同時に、王国を統治する中央政府であり、また神に祈りを捧げる神殿でもありました。さらに交易によって各地から集められた品物を納める貯蔵庫、そして異国の商人をもてなす迎賓館としての機能も果たしていたのです。そのため宮殿内には、政治を司る役人たちや、神事を司る神官、王家に仕える家臣や女官など、宮廷を支える多くの人々の部屋が整然と配置され、やがて王国の力が強大になり、人口も増えるに従って従来の部屋だけでは足りなくなり、増築が繰り返されて上の様に2階から5階建ての複雑な構造になっていったのです。

最盛期、このクノッソス宮殿とその周辺にはおよそ4万人ほどが暮らしていたと推定されています。そして、宮殿が王国の中心として存在していた紀元前1900年から1375年までのおよそ500年以上もの長い間、王国ではほとんど戦いも無く、外敵の侵略も受けず、王国は平和と繁栄を謳歌していました。(その証拠に、宮殿には防御のための城門や城壁などが存在せず、出土品も剣や甲冑などの武器の類いは極めてわずかでした。)

このクノッソス宮殿に代表されるクレタ島ミノア文明は、私たちが良く知る古代ギリシャ、すなわちアテネやスパルタなどの時代よりも前に栄えたものであり、その後に興ったこれらの古代ギリシャ文明の母体ともなったものですが、その威光はそれ以後のギリシャの人々に強烈な影響を与えました。とりわけ、このクノッソス宮殿の複雑に入り組んだ構造は、「迷宮」として古代ギリシャ神話の題材の一つになっています。それが「怪物ミノタウロス」の物語です。

その物語とは、要約するとこんなお話です。

ギリシャ神話における最高の神ゼウスと、その妻エウロペの子であるミノスは、クレタの王位をゼウスから授かるために海の神ポセイドンにその仲介を願います。ミノスはその謝礼(というより「賄賂」)として、ポセイドンの大好物であった立派な牡牛を生贄として捧げると約束し、彼はクレタ王となります。しかし、ミノス王はポセイドンに生贄として捧げるはずの牡牛があまりに立派だったため、惜しくなった彼はそれを自分のものにしようと別の牡牛を生贄として捧げてしまうのです。

これを知ったポセイドンは激怒し、罰としてミノス王の後を継ぐべき子供を醜い化け物として誕生させてしまいます。やがて生まれた子供は、なんと身体は人間だが、頭から上は「牛」の姿をした「怪物」でした。ミノス王の名にちなんで「ミノタウロス」と名付けられた子は、成長するに従い手のつけられない凶暴さと残忍さで恐れられ、困り果てたミノス王は、この怪物を閉じ込めるために迷宮「ラビリントス」を造らせ、ミノタウロスを鎮めるために毎年各地から若い男女7人ずつを生贄に捧げる様命じます。

そして、その生贄の一人として捧げられるはずだったアテネの若者テセウスによって、ミノタウロスは退治されるというストーリーです。(あくまで神話ですので、設定はとんでもなく支離滅裂なものです。笑)


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上は出土したギリシャ時代の壷に描かれた「ミノタウロス退治」の絵です。

先に述べた様に、クノッソス宮殿は神殿でもありました。そしてその神殿では、神々に捧げる生贄として牡牛が使われ、「ラブリュス」と呼ばれる両刃の斧で牛の頭を落として祭壇に祭る習慣があった様です。これを見たギリシャ本土の人々が、想像の翼を羽ばたかせてこの物語を創作したものと考えられています。そしてクノッソス宮殿には、その両刃の斧であるラブリュスが紋章としてあちこちに飾られ、それが「迷宮」を意味する英語の「ラビリンス」の語源になったといわれています。

この様に、当時のエーゲ海周辺に大きな影響を与えたクノッソス宮殿とその王国ですが、その繁栄も突如終焉を迎える事になります。紀元前1375年頃に発生した大火災により再び宮殿は崩壊してしまい、宮廷と都は別の地に移され、これを契機にミノア文明は徐々に衰退の道を辿って行く事になるからです。(現在見られる遺跡には、この時の火災で焼け焦げた跡が宮殿の至る所に残っています。)ちょうどその頃、ギリシャ本土では新たにミケーネ文明が興隆し、急速に勢力を拡大していました。そして紀元前1100年頃、ミケーネ軍はクレタに侵攻、これを征服してミノア文明は滅亡してしまうのです。

それから時は流れ、アテネとスパルタ、ペルシャやローマ、ビザンツ、ヴェネツイア、オスマンなど、クレタ島の支配者はめまぐるしく変わり、クノッソスの迷宮は人々の記憶から忘れ去られ、宮殿は3500年もの間土砂に埋もれていました。

しかし、時は20世紀の始まる1900年、この伝説の宮殿は神話の世界から再び現世に蘇ります。イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズの発掘により、宮殿は3500年の時を越えてその姿を現したのです。


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上がクノッソス宮殿の発見者であるアーサー・エヴァンズ博士です。(1851~1941)出土した壷を眺めて思考に耽っているところでしょうか。彼はこのクノッソスを含む多くの考古学的功績により、1911年にイギリス王室から「サー」の称号を賜ります。

エヴァンズの発掘によって、遺跡は上下水道、水洗トイレ、浴室まで完備した驚くべき全貌と、数え切れない金銀宝飾品の数々、出土品で世界を驚かせます。しかし、考古学者であるエヴァンズはもっと別なものを欲していました。それはこの時代の様子を記した記録、すなわち文字を刻んだものです。そしてほどなく、彼はその最も欲していた文字が刻まれた粘土板を大量に発見するのです。

これらは線で刻まれたもので2種類あり、エヴァンズは古い時代のものを「線文字A」それより後のものを「線文字B」と名付け、その解読にその後の人生を捧げますが、残念ながら彼は存命中にその目的を達成出来ずに90歳で亡くなります。(彼の死後、第二次大戦後に「線文字B」の方は別の研究者によって解読され、この時代の様子を知る貴重な資料となりますが、「線文字A」の方はまだ解読されていないそうです。もしこれが解読されれば、あのエジプトのヒエログリフ解読に匹敵する大発見になるといわれています。)

こうして、世界考古学史上に多大な功績を残したエヴァンズでしたが、その半面で現代なら考えられない様な取り返しの付かない過ちを犯してもいます。それは、下に載せた写真にあるように、自分の想像で勝手に遺跡に手を加えて「復元」してしまった事です。


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上の一連の画像は、現在のクノッソス宮殿の様子です。写真で見ると、宮殿内の壁などに色鮮やかなフレスコ画が描かれていますが、これらがエヴァンズが想像で勝手に復元したものです。(3500年以上前に放棄され、土砂に埋もれていた遺跡にこんなに綺麗な壁画が残っているわけがありませんからね。笑 さらに外の太い円柱などは、なんとコンクリートで復元したものだそうです。)

貴重な遺跡にこんな事をしてしまったために、エヴァンズ博士は死後、考古学界から厳しく非難される事になってしまいます。それだけではありません。このクノッソス宮殿は、みなさんご存知のあのユネスコの「世界遺産」の登録リストからも除外されているのです。理由はこれらの復元により、古代遺跡としてのオリジナリティーが失われてしまったからです。

実はこのクノッソス宮殿について、もう一人の人物が目をつけていました。それは歴史好きなら誰もが知る、あのトロイの発見者ハインリッヒ・シュリーマンです。


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上がそのハインリッヒ・シュリーマンです。(1822~1890)彼については、あの伝説の「トロイの都」を発見し、少年時代の夢を叶えた人物としてあまりにも有名ですね。ドイツの貧しい牧師の子に生まれ、大変な苦労をして巨万の富を築き、その財を古代への夢に捧げた事は良く知られています。(ちなみに彼は1865年にわが日本にも滞在しています。幕末の動乱に揺れる日本の姿は彼の目にどんな形で映ったのでしょうか。)また彼は語学の天才で、なんと18ヶ国語を話せたそうです。

シュリーマンは、先にお話したエヴァンズよりはるかに年長の先輩考古学者でした。すでにトロイやミケーネの発掘で大成功を収めていた彼が次に「狙っていた」のが、ミノタウロス伝説で有名なクノッソスを含むクレタ島だったのです。しかし、遺跡の発掘には莫大な費用がかかります。なぜならまずは発掘予定の土地を買い占めなくてはならないからです。その価格が、本来実業家でお金にシビアであったシュリーマンにとっては高すぎて当時の地権者たちと合意出来ず、彼はクノッソス発掘を断念せざるを得なかったそうです。

歴史好きなみなさんも、ギリシャに旅行される機会があればエーゲ海クルーズなどがお薦めです。そしてぜひクレタ島とクノッソス宮殿も訪れてみてはいかがでしょうか? もしかしたら、下のイラストの様な伝説の怪物ミノタウロスが、みなさんを出迎えてくれるかも知れませんよ。(笑)


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次回に続きます。
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