モナコ公国 ・ ある貧乏貴族の夢と野望が生んだ街

みなさんこんにちは。

大変遅ればせながら平成30年明けましておめでとうございます。相変わらずの遅筆と救いようのない駄文で誠に恐縮ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。(汗)

さて、新たに設けた「生き残った小国たち」というテーマですが、今回ご紹介するのは南フランスの地中海に面する海辺に興隆した魅惑の国、モナコ公国についてお話ししたいと思います。

ところでみなさんは、この「モナコ」という名を聞いてどんな印象をお持ちでしょうか? おそらく多くの人が、カジノやモナコ・グランプリなどのカーレースを思い浮かべるのではないかと思います。しかし、今挙げた二つの有名な点を除けば、それ以外の事についてはほとんど知られておらず、そもそもモナコが立派な独立国である事すら知らない方も多いのが実情です。

そこで、この国の成り立ちや歴史をお話しする前に、モナコの現在の基本データをご紹介しておきましょう。

モナコは冒頭で述べた様に、正式国名を「モナコ公国」といいます。その名の由来は古代ギリシャ時代にこの付近に入植したギリシャ人たちが、英雄ヘラクレスを祭る神殿を建て(言い伝えによるもので、現存していません。)海沿いにポツンと建つその姿がさながら一軒家の様に見えた事から、ギリシャ語で一軒家を意味する「モノイコス」と名付け、それが転じて「モナコ」となったものです。面積はわずか2平方キロで、あのバチカン市国に次いで世界で二番目に小さな国にして、同時に世界で最も小さな国連加盟国でもあります。公用語はフランス語で、人口はおよそ3万6千人余り(2011年調査)その国家体制はモナコ大公家を世襲の君主とする立憲君主制であり、現在の君主はアルベール2世が2005年から在位しています。


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国旗


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上がモナコ公国の位置と国旗、そして街並みの全景です。特に2枚目の街の大きさを表す図に注目してください。端から端までわずか2キロ程度しかありませんね。この国がいかに小さいかご想像いただけるでしょう。そして3枚目の国旗についてですが、この国の国旗は上の様に赤地に白地の実に簡素なものです。(国旗の簡素な点では、わが日本の日章旗も引けは取りませんが 笑)

しかし、同様の図柄の国旗をインドネシアも採用しています。本来なら同じデザインの旗など心理的に避けられるはずですが、国旗というものは当然の事ながらその国の成り立ちを表すものです。例えばわが日本の日章旗なら「日の登る輝く太陽の国」を表すものですが、同様にインドネシアは赤道直下の国であるため、一目でデザインの意味が分かりますね。ではモナコの場合はというと、この国の元首であるモナコ大公グリマルディ家の軍旗に由来するものです。ただし、現実には全く同じデザインというのも国際的に何かと面倒な事態になるので、縦横の比率を別にする事で(つまり、旗の大きさが異なります。)混同を避けています。


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上が現在の国家元首である第14代モナコ大公アルベール2世殿下です。(1958~)

この国は、いくつかの点を除いて前回お話ししたリヒテンシュタイン公国とはあらゆる面で大きな違いがあります。リヒテンシュタインは内陸にあって、規模は非常に小さいながらも美しいアルプスの山々を望む緑あふれる領土がありました。しかし今回ご紹介するモナコは、領土と呼べるほどの広い土地はほとんどなく、純粋に街だけで構成された正に厳密な意味での「都市国家」であり、この様に街そのものだけで一つの独立国として存在する都市国家は、現在世界ではこのモナコと東南アジアのシンガポールだけとなっています。

しかし、モナコにはリヒテンシュタインにはないものがあります。それは「海」です。美しい地中海に面した温暖な気候と、その海からもたらされる豊かな恵みは、中世にこの国が建国するはるか以前の古代から、モナコの人々に暮らしの糧を与え続けてくれました。

それでは、この魅惑の都市国家モナコ公国の誕生と、その歩んできた歴史についてお話を始めたいと思います。

全ての始まりは今から800年以上前の12世紀にさかのぼります。当時ヨーロッパ中央部には神聖ローマ帝国があり、代々の皇帝はローマ教皇と地上における支配権をめぐって激しく争っていました。その最中、北イタリア南岸に両者の争いを巧みに利用しながら急速に成長しつつあった一つの都市国家がありました。その名を「ジェノヴァ共和国」といいます。


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上がそのジェノヴァの位置です。

このジェノヴァ共和国は、その名の通りジェノヴァの街で海洋貿易と通商によって富を蓄えた裕福な商人や市民たちによって1005年に成立した共和制都市国家ですが、その中で特に力を持つ者たちが「都市貴族」となって市政を動かしていました。

そのジェノヴァの都市貴族たちは、先に述べた神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権力争いの中で当然のごとく両派に分かれ、皇帝派は「ギベリン」教皇派は「グエルフ」として激しく争い、時には皇帝派が市政を握り、また教皇派がそれを奪い返すという事を繰り返していたのです。ジェノヴァがモナコの地を得たのは1191年ですが、これも当時皇帝派がジェノヴァの実権を握っていたからで、時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世から「褒美」として与えられたものです。

しかし、ジェノヴァが実際にモナコを築くのは、それから37年も経った1228年からで、それも最初はジェノヴァの西部から海沿いに侵入する敵を防ぐための「城塞」としてでした。つまり、モナコという所はいつしか人が集まって出来たのではなく、軍事拠点としてスタートしたのです。それでも、城塞というからにはジェノヴァ軍の守備隊が駐留し、その駐留軍を相手に物を売る商人や、ジェノヴァ兵目当ての売春婦などが住み着くようになり、次第に城塞周辺に街が形作られていきました。

モナコの都市としての起源はそんな状態からの出発だったわけですが、およそ70年ほど経った1297年、初めて大きな転機が訪れます。ジェノヴァ本国では相変わらず皇帝派と教皇派の権力闘争が続いていましたが、それはジェノヴァ支配下の地方にも飛び火し、モナコにおいても当時城を占領していたのは皇帝派の守備隊でした。

そのモナコを自らのものにすべく、熱い視線をもって密かに狙っていたある人物がいました。その名をフランソワ・グリマルディと言います。


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上がそのフランソワ・グリマルディです。(?~1309?)全身鎖帷子(くさびかたびら)の甲冑姿で剣を手にした勇ましい肖像です。彼はジェノヴァの都市貴族グリマルディ家の一族でしたが、当主ではなくいわば傍流でした。そのためグリマルディ本家とは別に、自ら身を立てるしか生きる道が無かったのです。(金と土地を持っているのは本家の一族だけですからね。つまり、彼の貴族としての地位は名前だけで、実際は絵に描いたような「貧乏貴族」だったのです。傍流の分家の一族というのは、歴史上どこの国でもそんなものです。苦笑)

フランソワのグリマルディ家は教皇派の一族でした。フランソワ自身武勇に優れ、金をもらって生計を立てる「傭兵」として生きてきたのですが、ジェノヴァ本国ではすでに両派の同業の強豪たちがひしめき、とても彼が活躍出来る場はありませんでした。それに傭兵業では収入も不安定で、いつまでも年齢的に続けていけるものではありません。彼は自らの将来に焦りを募らせていました。

そこで彼は、ジェノヴァ本国ではなく地方に目を向けます。まだ誰も目を付けていない場所を探し、その地を力づくで奪い取って自らの所領にするためです。彼の望みは永続的な収入の確保と、自ら新たなグリマルディ家の当主として自立する事でした。そして目を付けたのが、皇帝派の支配するモナコだったのです。

モナコ攻略の大義名分には苦労しませんでした。相手は教皇派の彼にとって攻撃すべき皇帝派だからです。彼は傭兵仲間を集めて一部隊を編成すると、早速作戦を開始します。しかし、不落とはいかずとも、難攻が予想されるモナコの城をどう攻め落とすつもりなのでしょうか? 実は彼には秘密の作戦がありました。

その作戦とは、修道士に変装して物売りの商人らに紛れ、城内に潜入して買収した城兵に城門を開けさせ、一気に城を占領してしまおうという大胆なものです。作戦はまんまと成功しました。全く油断していた守備隊はフランソワ隊の急襲になすすべなく、あっけなくモナコの城は彼らに占領されてしまったのです。

こうして彼は、一城の主として夢を叶えたのですが、その彼の夢も長くは続きませんでした。なぜなら、この彼の大胆不敵な奇襲作戦の成功に、ジェノヴァ本国では彼を「狡猾な男」と呼んで警戒するようになってしまったからです。これに最も頭を悩ませたのはフランソワの実家であるグリマルディ家でした。勝手に行動したフランソワに対し、当時は教皇派であった共和国政府からも睨まれてしまったからです。そこでグリマルディ家では、フランソワを挿げ替えて一族の別の人物をモナコ領主にする密約を共和国政府と取り交わすのです。

そして4年後の1301年、ジェノヴァでは再び皇帝派が政権を奪取、その政府は彼を「共和国の裏切り者」として犯罪者とし、モナコ奪還の軍勢を差し向けます。

わずか100人に満たない手勢しかないフランソワは、ジェノヴァ本国の1千を超える大部隊の攻撃に城を持ちこたえられず、逃亡を余儀なくされます。しかし、すでに実家からも見放され、もはや故郷のジェノヴァに戻る事も叶わず、もう彼に行く場所はありませんでした。結局彼は南フランスで失意の内に亡くなります。一人の男の夢と野望が潰えた瞬間でした。

一方、初めての主を失ったモナコはどうなったのでしょうか? 実はその後、フランソワの実家グリマルディ家がモナコの領有権を主張し、以後グリマルディ家が世襲の領地として支配する事になるのです。

「わがグリマルディ家の一族の者が手に入れたのだから、当然この地はわが一門の領地である。」

というわけです。グリマルディ家では子に恵まれなかったフランソワの後継として、彼の従弟に当たるレーニエ・グリマルディを「レーニエ1世」として擁立していました。そしてこの彼に始まる一族が、今日のモナコ大公家の正式な直系の先祖に当たります。

しかし、ジェノヴァの政権はまたも皇帝派が実権を握っていました。教皇派のグリマルディ家は再び政権が戻るのを待つしかありません。ところが、今回は皇帝派の長期政権が続き、グリマルディ家はなんと30年もの間、モナコに手を伸ばす事は出来ませんでした。

ジェノヴァの政権が再び教皇派に戻り、グリマルディ家がモナコに戻るのは1331年になってからですが、すでにモナコ領主として当家が擁立していたレーニエ1世はこの世になく、世代は彼の子供たちの時代になっていました。このままでは争いの元になるのは必至です。そこでグリマルディ家では、モナコの相続争いを防ぐために意外な手を打ちます。

それはレーニエ1世の血を引く者たちで共同統治し、利益も当分に分け合うというものです。このシステムはとても賢明でした。利害の調整がうまく機能し、一族間での争いを未然に防いだからです。これ以後、わずかな空位期間はあるものの、グリマルディ家はモナコの世襲の領主として周囲に認知されていきます。

この間にも、ジェノヴァ共和国を囲む国際情勢は目まぐるしく変化していました。当時ジェノヴァのはるか西、イベリア半島東部にはアラゴン王国が台頭し、地中海全域に勢力を広げていました。その手はモナコにも及び、15世紀初めには一時アラゴン王国に占領されてしまっていたのです。


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上が当時のアラゴン王国の支配領域の図です。
このままではモナコはアラゴン領となってしまいます。名門とはいえジェノヴァの一都市貴族にすぎないグリマルディ家では、強大なアラゴン王国に太刀打ちなど出来ようはずもありません。しかし、グリマルディ家にはある強力な「武器」がありました。その武器とは「お金」の事です。

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上は当時地中海世界で最も流通していたフィレンツェのフィオリーノ金貨です。ジェノヴァ共和国でも金貨は発行していましたが、このフィオリーノ金貨の方が品質が良かったので(つまり、金の純度が高いという事です。)国際通貨として多くの国で支払いに使われていました。

実は、グリマルディ家は海洋貿易で財を成したジェノヴァでもトップクラスの富裕な一族でした。彼らはそれを元手に金融業でも大きな利益を得ていたのです。それに引きかえアラゴン王国は、上の図の様に見た目は広大な領域を支配してはいましたが、その維持費と、イスラム教徒からイベリア半島を奪還する祖国回復運動(レコンキスタ)のために慢性的に莫大な出費にあえいでいました。

そこでグリマルディ家は、モナコの買取をアラゴン王に持ち掛けます。喉から手が出るほどお金が欲しいアラゴン王も、これといって得る物のない辺境のモナコの地に固執せず、喜んでこれを売り渡します。こうして1419年、両者の間で契約は成立し、モナコは正式にグリマルディ家の所領となるのです。グリマルディ家が、望んでもいないのにひょんな事から関わる事になったモナコとの関係は、ここに切っても切れない間柄として完全に歴史の表舞台に登場する事になりました。そして、その最初の一石を投じたのは、一族のはみ出し者だったある一人の貧乏貴族であり、モナコの歴史は、そんな男の儚く消えた夢から始まったのです。

次回に続きます。

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生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(後編)

みなさんこんにちは。

心優しい名君ヨハン2世の優れた統治と巧みな外交手腕によって、普墺戦争の小嵐と、第一次世界大戦という大嵐を乗り切ったリヒテンシュタイン公国でしたが、その大戦が終わると、公国にこれまで経験した事のない事態が発生しました。

その事態とは、第一次大戦に敗れた結果、中世以来リヒテンシュタイン家が主君として仕えてきたハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、新たに成立したオーストリア共和国政府がハプスブルク家を国外追放してしまったという事実です。

しかし、この事態はリヒテンシュタイン公国にとって新たな門出ともなるものでした。なぜなら、これまで公国(というよりもリヒテンシュタイン家)にとって政治、経済、軍事、外交、文化その他すべての分野においてオーストリアは完全な宗主国でしたが、帝政を廃して共和制となったオーストリアと君主制のリヒテンシュタインは、もはや互いに相容れない立場となり、公国はもうオーストリアに対して無条件で服属する必要が無くなったからです。

そこで、今後の公国の進むべき道について、元首ヨハン2世は考えます。

「思えばわがリヒテンシュタイン家は、600年以上もの長きに亘ってハプスブルク家に忠実に仕えてきた。つまり当家はハプスブルク家に仕えてきたのであって、オーストリアという国家にではない。しかし帝政が崩壊してそのハプスブルク家がおいたわしくも野に下られた今、もはやオーストリアに気を使う必要はあるまい」

こうして彼は、オーストリア一辺倒であったそれまでの公国の在り方を抜本的に改め、オーストリアとの決別を決意するのです。


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上は子供たちと一緒に気さくにベンチに座るヨハン2世です。(1840~1929)前回もお話ししましたが、彼は第12代リヒテンシュタイン公として18歳で即位し、巧みな政治手腕と先祖から受け継いだ莫大な財力で列国の干渉を排し、この小さな国を守り抜きました。また、70年という長い在位中に自国の領民を常に気にかけ、その心優しさから領民に「善良公」として大変慕われました。

ヨハン2世は、第一次大戦中の英仏による経済封鎖の時に食糧援助してくれた西のスイスと接近し、今後はスイスと歩調を合わせていく方向に国の舵を切ります。現実問題として、まずは何よりも「経済の安定」が最優先です。そのために早くも大戦終結の翌年の1919年に、スイスと「関税同盟」を締結します。

この関税同盟というものは、簡単に言えば同盟した国同士で輸出入にかかる関税を撤廃し、自由に物を売り買いして経済の活性化を促すものです。しかし、これを結ぶには大きなリスクがありました。実はリヒテンシュタインはすでに1852年にオーストリアと関税同盟を結んでいたからです。これをあからさまにリヒテンシュタイン側から破棄しては、いかに規模は小さくなったとはいえオーストリア側の反発を買ってしまう恐れがありました。

オーストリア国内には、リヒテンシュタイン家がハプスブルク家から与えられた多くの所領がありました。もし、オーストリア側を怒らせれば、その対抗措置としてこれらの「不動産」を差し押さえられ、没収されてしまう危険があったからです。

これも、老練なヨハン2世はうまく切り抜けました。彼はオーストリア政府にこう言ったのです。

「これまでわが国は、ハプスブルク家ならびにオーストリア・ハンガリー帝国と関税同盟を結んでおりましたが、貴国政府がハプスブルク家を追放して帝政を廃止された以上、この同盟は貴国の側から破棄されたものとなりました。まことに残念な事ではございますが、両国間に締結されていた関税同盟はこれをもって効力を失い、終了させていただきます」

こうして「建前」として、相手のオーストリアの面目を潰さないように慎重に理由付けをしつつ、やんわりと(笑)オーストリア側の都合で同盟が解消されたものとしたのです。その裏で彼はしたたかにオーストリアの議員らに多額の金をばらまき、先に述べた動きが出るのを封じ込めてもいました。

ヨハン2世のこうした努力と工作により、オーストリアからの報復措置もなく、リヒテンシュタイン公国はスイスとの関税同盟を結ぶ事が出来たのです。以後、公国はスイスと運命共同体となり、今日に至っていますが、その方向に国を導いたのも元首ヨハン2世でした。

このヨハン2世によるオーストリアからスイスへの外交方針の転換は、その後にリヒテンシュタイン公国がたどった歴史においてもその判断の賢明さと正しさが証明されています。ヨハン2世の死後、ヨーロッパを殺戮と破壊によるこの世の地獄に変えた恐怖の独裁者、アドルフ・ヒトラーが引き起こした第二次世界大戦においても、リヒテンシュタインはスイスとともに中立を貫き通し、結局ドイツ軍はこの小さな国に攻めては来なかったのです。


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上は言わずと知れたナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーです。(1889~1945)この人物に関しては、歴史好きならもはや説明は不要でしょう。ではなぜ、ヒトラーはリヒテンシュタイン公国に侵攻しなかったのでしょうか? その理由は実に単純です。つまり、簡単に言えば

「国があまりにも小さすぎた」

という事です。ヒトラーの目標は自らのドイツ第三帝国によるヨーロッパ全土の征服と、その先の更なる領土拡大であり、リヒテンシュタインの様な小さな国など彼の眼中になく、そもそもその存在すら意識していなかったのです。それに、リヒテンシュタインは先に述べた様にスイスと関税同盟を結んでいたため、これに攻め入れば中立国とはいえ国民皆兵のスイスと戦争になります。

実は意外なのですが、ヒトラーはスイスなど一部の中立国には侵攻しませんでした。もちろん最強のドイツ軍をもってすれば、これらの占領は可能でしょう。しかし、問題はその後です。なぜならその占領維持に無駄な兵力を削がれ、今だ戦っていたイギリスやソ連との戦争に回す貴重な兵力が減る事になってしまいます。彼はそうしたコスト面の無駄を意識したのでしょう。ともあれ、公国はその国土の小ささが逆に幸いして第二次大戦の惨禍を免れたと言えるかも知れません。

さて、人類史上最悪の戦争であった第二次世界大戦が、そのヒトラーの破滅によって終わると、戦争に明け暮れたヨーロッパにようやく平和が訪れました。それは同時に、これまで周囲の大国の身勝手な思惑に翻弄され続けてきたリヒテンシュタイン公国が、これらの荒波を乗り越えて生き残った瞬間でもありました。

すでに時は20世紀、気が付けばヨーロッパの国々は一部を除いてそのほとんどが共和制となっていました。そんな中にあって、リヒテンシュタインは小さくとも数少ない君主国として生き延びたのです。これはまさに元首であるリヒテンシュタイン家の勝利でした。

この時のリヒテンシュタイン公国の元首はフランツ・ヨーゼフ2世(1906~1989)という人で、彼は先のヒトラーとナチスの危険性に早々に気付き、1933年にヒトラーがドイツ首相になった時点で君主権を行使し、総選挙を無期限で停止して公国がナチズムに染まるのを未然に防いだ賢明な君主でした。

彼はこの先の公国の進むべき道を模索します。

「我々はこれからもスイスとともに歩んで行く。その方針に変わりはないが、問題はこれからわが国民をどう養って行くかだ。」

第二次大戦終結直後の1940年代後半のリヒテンシュタインの人口はおよそ一万余りでした。いかに莫大な資産を持つリヒテンシュタイン家といえども、これらの人々を全て当家が「召し抱える」というわけには行きません。かといって、公国の領域内だけでこれらの人々を養うには、その領土はあまりにも小さすぎます。そもそも人口の全てを養えるだけの農地も、牧畜以外のこれといった産業もないのです。それに、第二次大戦とその後の東西冷戦は、富裕なリヒテンシュタイン家の資産にも大きな影響を与えていました。

当家がかつてのハプスブルク家の家臣として、旧オーストリア・ハンガリー帝国の各地に多くの所領を有していたのは何度も述べた事ですが、そのうち帝国崩壊後に成立したチェコスロバキア(旧ボヘミアとモラビア)に持っていた不動産その他の資産が、ソ連の占領によるチェコスロバキアの共産化により全て没収されてしまったからです。

それは当時のリヒテンシュタイン家の全資産の三割以上に達し、つまり当家はかなりの「大損」をしてしまったのです。(資産の多くが不動産であった事が、逆に裏目に出てしまったようですね。苦笑)そこで、フランツ・ヨーゼフ2世は失った資産の損失の穴埋めと、他国に持つ不動産以外の新たな収入源の確保、そして何より公国領民の生活の安定のために、大胆な計画を実行に移します。

その大胆な計画とは、法人税を他国よりも大きく下げて外国企業を誘致し、領民を雇用してもらうというものです。彼は隣国スイスをモデルにし、スイスが同様の方法で外国から多くの銀行を呼び寄せ、一大国際金融拠点に成長した例に学び(これも、ヒトラーがスイス侵攻を断念した理由の一つです。スイスの銀行には多くのドイツ企業や資産家も多額の資金を預けてあり、もしこれに攻め入ればスイス政府は報復としてこれらを全てアメリカやイギリスの支店に移してしまい、それどころか、ドイツ打倒のために米英両国に提供してしまうでしょう。両国にしたら敵であるドイツの大金を戦費として自由に使えるのですから「ボロ儲け」です。その逆に自分の金で米英両国に反撃される事になるドイツにすればたまったものではありません。ヒトラーはその愚を避けたのです。つまりスイスはドイツの預金を「人質」にとってヒトラーを退けたと言えるでしょう。)公国にもこれを適用しようと考えたのです。

フランツ・ヨーゼフ2世のこの計画は大当たりしました。第二次大戦後の混乱と戦費調達のために、アメリカ、イギリス、フランスその他各国は多額の法人税を企業に課しており、その負担を嫌った多くの企業がリヒテンシュタインに子会社を設立、その登録手数料と法人税収で、リヒテンシュタイン家すなわち公国政府は大きく潤ったからです。


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上の写真の最も年配の人物が第14代リヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世です。彼の名は旧オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が名付け親となって同名を与えられたものです。(写真小さくてすいません。汗 写真には青年時代の現リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世と、その後継者アロイス公子の幼少時の姿があり、侯爵家親子3代が写っていて丁度よいと思いお載せました。)

しかし、フランツ・ヨーゼフ2世が取り入れたこの政策は、本来の彼の考えとはかけ離れた姿に公国を変貌させてしまいました。なぜなら外国企業の多くが自国の課す法人税を逃れる「節税」の抜け道として、書類上だけ存在するが、登記上の住所には実体がない「ペーパーカンパニー」を設立し、その口座に利益をストックするために公国を利用する様になっていったからです。これを「タックス・ヘイブン」(租税回避)と言います。

タックス・ヘイブンそれ自体は、国際法的には何ら違法な事ではないのですが、問題はこれを悪用して世界各国の富裕層で「脱税」が横行する負の連鎖を招き、それがゆえに世界各国はタックス・ヘイブンを国の生業とするリヒテンシュタインをはじめとした小国を

「脱税の手助けをしている」

として非難し、近年国際問題となっています。ともあれ、第二次大戦後のリヒテンシュタイン公国は、中東の産油国以外では一人当たりの国民所得が世界でもトップクラスの富裕さを誇る豊かな国として今日に至っているのです。

そして21世紀の現在、中世以来続く名門リヒテンシュタイン侯爵家にも新たな若い世代が成長し、公国をどう未来に導いていくか、その動静にも静かな注目が集まっています。


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上は現リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世(1945~)と、その長男で次期元首のアロイス公子殿下(1968~)です。実はハンス・アダム2世は還暦に達した2004年に統治権をアロイス公子に譲り、以後、アロイス公が摂政として公国を統治しています。父から子へ、国の未来を託した君主のあるべき姿の見本ですね。

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上は2012年(平成24年)にアロイス殿下がわが国に来日した際に、わが日本の徳仁皇太子殿下をご訪問された際の写真です。皇太子殿下は英国ご留学中にリヒテンシュタイン家のご招待で二度ほど公国を訪問されており、またハンス・アダム2世は昭和天皇の大喪の礼にご参列、アロイス公も今上天皇陛下ご即位の式典に参列されるなど、わが天皇家とリヒテンシュタイン侯爵家は親密な交流を続けておられます。

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上の画像3枚はリヒテンシュタイン家の現在の居城ファドゥーツ城です。侯爵一家はここに住んで政務を取り仕切り、外国の賓客をもてなす迎賓館にもなっています。(よく見ると、3枚目の写真にはサッカーゴールが写っていますね。)

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上の一連の画像はリヒテンシュタインの首都ファドゥーツの街並みの様子です。(人口およそ5500人ほど)よく見ると、建物は伝統的な古いものよりも近代的なものが多いですね。タックス・ヘイブンによってこの国に誘致された外国企業のテナントとして建てられたもので、もちろんこれらもほとんどがリヒテンシュタイン家の所有であり、そのテナント料も当家の財源の一つです。

これまでお話しして来た様に、リヒテンシュタイン公国はタックス・ヘイブンによる法人税収その他の関連利益だけで国の財政の半数以上に達し、一般国民には所得税、相続税、贈与税といった直接税が全くない羨ましい国です。それゆえに国民の一人当たりのGDPは毎年世界でも一、二を争う豊かな国となっています。(といっても、それは人口が少ないために数字の上で突出している面が大きいです。このテーマの第一回で、この国の人口はおよそ3万5千余とご紹介しましたが、実際のリヒテンシュタイン国民はその3分の1の1万2千程度で、他はみな外国人です。)

リヒテンシュタイン公国は外交と国防を合わせて隣国スイスに委託しており、通貨もスイス・フランを使っています。(もちろんユーロも使えます。)前回お話したように、この国は1868年に軍隊を解散して以来非武装中立国となっており、治安を維持する警察が100名ほどいるだけです。政治は一応25名ほどの議員から成る議会があり、首相やいくつかの閣僚もいますが、何せ人口が少ないので、実際の国政は摂政アロイス公が取り仕切り、これらの議員は各地の代表として摂政アロイス公に意見や報告をするだけの存在です。(企業に例えれば、1万2千の従業員を擁する世襲企業の若い社長とその役員会のようなものでしょうか? 笑)

また、リヒテンシュタイン侯爵家はヨーロッパの君主の中で最も資産が多く、その財力は日本円にしておよそ5500億円以上に達すると言われています。それらは、リヒテンシュタイン家がオーストリアその他の周辺各国に持つ所領などの不動産(その総面積は公国の領土をはるかに超える規模だそうです。)以外に、歴代の侯爵が買い集めた美術品のコレクションや、当家が経営するプライベートバンクのリヒテンシュタイン銀行が保有する莫大な金融資産から成っています。

そのため、侯爵家は公国から全く歳費というものを受け取っておらず、それどころか公国そのものが侯爵家の財力に依存している稀有な国です。(わが天皇家も、戦前は世界屈指の財を誇る王家でしたが、敗戦により皇室財産は国のものとなり、皇室ご一家は毎年国から歳費を支給されています。これは自分の勝手な意見ですが、諸外国の王家と比較してあまりに質素すぎる皇室ご一家に、かつての皇室財産の一部をご返還申し上げるべきではないかと強く考える次第であります。)


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上はウイーンにあるリヒテンシュタイン美術館に展示されている侯爵家の美術品コレクションの様子です。当家が所有するコレクションは全部で3万点にも及び、公開されているのはそのうちのわずか数百点のみだそうです。(侯爵の黄金の冠を子供たちが目を丸くして眺めています。面白い対比ですね。笑)
 
みなさんも、ヨーロッパ旅行などを計画されているなら、一度この小さな国を訪ねて見てはいかがでしょうか? アルプスの山々と美しい緑に牛や羊たちが草を食むのどかで平和なこの国は、きっとみなさんに心の癒しを与えてくれるでしょう。そして運が良ければ本物の侯爵とお会いしてビールなどを片手に記念撮影なども出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(中編)

みなさんこんにちは。

前回に引き続き、リヒテンシュタイン公国のその後の行く末についてお話ししたいと思います。

1719年1月、400年以上仕えてきたハプスブルク皇帝家からの許しを得、初めて現在の地に自立したリヒテンシュタイン家ですが、実はこの時、オーストリア皇帝カール6世から認められたのは当時神聖ローマ帝国に300以上あった「領邦」としての存在で、完全な独立国家とはいえませんでした。しかし、それは言わば建前上の話で、実際は領内の全てをリヒテンシュタイン家が取り仕切る独立国同然のものでした。

それでも、リヒテンシュタイン家のハプスブルク家家臣としての地位と忠誠は揺らぐ事は無く、その後も当家はハプスブルク家を支え続けました。しかし、歴史とはとりわけ弱小国にはとても残酷非道なものです。そのまさに典型ともいうべき当家に、18世紀末から20世紀にかけ、次から次へと大きな苦難が降りかかります。

最初の苦難は1796年から襲い掛かります。西の大国フランスで、その7年前の1789年に起きたフランス革命によりブルボン王朝が倒れ、フランスは革命政府によって共和国となります。当時ヨーロッパの大半の国はほとんどが王侯貴族の支配する君主制であり、フランス革命はそのヨーロッパの全君主国にとって大いなる脅威と挑戦でした。

そこで各国(オーストリア、プロイセン、イギリス、スペイン、ナポリ、サルデーニャ、ネーデルラント)は、1793年に「対フランス大同盟」を結んでこれに対抗し、フランス革命政府を倒すべく大軍を差し向けます。一度に複数の敵に四方から攻撃され、出来たばかりの未熟なフランス革命政府はあわや存亡の淵に立たされますが、ある一人の若き将軍の活躍によってフランスは窮地を脱する事が出来ました。その若き将軍とは、みなさんもご存じのナポレオンです。

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上は最も有名かつ「カッコイイ」(笑)ナポレオンの絵です。恐らく誰もが一度は見た事があるでしょう。この時、彼はなんとまだ20代後半に過ぎませんでした。彼が戦場で連勝を重ねる事が出来たのは、士官学校で「砲兵科」出身であった事から大砲とその威力について熟知しており、見た目は勇壮だが、中世の騎士時代と何ら変わらない時代遅れなそれまでの騎兵の突撃戦法に代わり、大砲を集中使用して敵軍を薙ぎ払う「砲兵戦術」を駆使した事が非常に大きいでしょう。

ナポレオン率いるフランス軍は破竹の勢いで進撃を続け、西はポルトガルから東はロシアに至るまで、ほぼヨーロッパ全域を縦横無尽に暴れまわります。いわゆる「ナポレオン戦争」です。この戦争は最初の「対フランス大同盟」が結ばれた1793年に始まり、ナポレオンが失脚してセントヘレナ島に流刑となる1815年まで22年もの長期間に亘った大戦争で、先の同盟も構成国が入れ替わりながらなんと7回も結ばれました。

さて、その間今回のテーマの主役、リヒテンシュタイン公国は一体どうしていたのでしょうか? これについてはもうはっきり言って、ただひたすら「忍耐」の一語に尽きます。皇帝となったナポレオン麾下のフランス帝国と、リヒテンシュタイン家の主君ハプスブルク家のオーストリア帝国という大国の狭間にあって、ただ両国の情勢と思惑に振り回され、なすすべもなく耐え忍ぶしかありませんでした。

フランス軍とオーストリア軍の戦闘により、その「吹けば飛ぶ」ような小さな領土は好き放題蹂躙され、領民たちは大事な財産である牛、馬、羊はもちろん、そのわずかな農地から産する全ての収穫、家々にあったパンとチーズの一かけらに至るまで根こそぎ全てを両軍に略奪され、この小さな国の被った損害は当時の記録や資料から想定して、現在の日本円でおよそ40~50億円に上ったそうです。この頃のリヒテンシュタインの人口は約5千人程度だったそうなので、領民一人当たり大体80~100万円の損害という事になります。(後にお話ししますが、この国は現在でこそ世界でもトップクラスの国民所得の高さを誇る豊かな国なのですが、それは第二次大戦後以降の事で、まだ19世紀初頭のこの時代は他の多くの国々と同様人々はとても貧しく、今の私たちの感覚でいえば一日数百円で暮らす様なつつましい生活をしていたわけですから、そんな中でどれだけの負担か想像してみて下さい。)

では、この苦難の時代に領主のリヒテンシュタイン家は一体どうしていたのでしょうか? もちろん彼らは領民たちを見捨てた訳ではありません。しかし、ナポレオンとの戦争はあまりにも長過ぎました。この時のリヒテンシュタイン家の当主はヨハン1世という人でしたが、彼は主君ハプスブルク家のオーストリア軍の将軍の一人として一軍を率いてナポレオンのフランス軍と戦うのに精一杯で、とても自領の事まで手を回す余裕は無かったのです。


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上が第10代リヒテンシュタイン候ヨハン1世です。(1760~1836)

と言っても、ヨハン1世は自領の領民たちのために何もしなかったのではありません。リヒテンシュタイン家にはある一つの大きな力がありました。その大きな力とは「お金」の事です。当家がハプスブルク家家臣の中でも指折りの富裕さを誇っていた事は先に述べましたが、ヨハン1世はその資産を惜しみなく取り崩し、戦中はナポレオンの命によって強制徴兵されそうになった領民を守るため、近くのナッサウ公国に大金を払ってその兵役を肩代わりさせ(現在の日本円にして毎年2千万円以上だそうです。これは同時に主君ハプスブルク家に銃を向けるのを避けるという二つの目的がありました。)戦後は荒廃した領地と領民たちの復興に残りの治世を尽くしたのです。

このナポレオン戦争はそれまでのヨーロッパの秩序を粉々に打ち砕きました。特に844年続いた「中世のシンボル」神聖ローマ帝国が1806年に崩壊した事と、ナポレオン失脚後の1815年からオーストリア主導で成立した「ドイツ連邦」の成立により、かつての帝国内の領邦は全て正式に独立した国家となり、リヒテンシュタインも名実ともにハプスブルク家から完全な自立を果たしたのです。

しかし、それから半世紀を過ぎた1867年、新たな苦難が再びリヒテンシュタインに襲い掛かります。「普墺戦争」の勃発です。これは北ドイツのプロイセン王国とハプスブルク家のオーストリア帝国が、ドイツ統一の主導権を争って引き起こしたものですが、自立したとはいえ長い間ハプスブルク家に仕えてきたリヒテンシュタイン家は当然オーストリア側に立たざるを得ない困った立場に陥ります。

この時代のリヒテンシュタイン家の当主は、先のヨハン1世の孫にあたるヨハン2世という人で、彼はこの危難を巧みな判断力でうまく切り抜けていきました。


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上が第12代リヒテンシュタイン公ヨハン2世です。(1840~1929)晩年の肖像画ですが、いかにも優しそうなまなざしの老紳士ですね。彼は18歳の若さで公に即位すると、優れた統治手腕と機転を発揮して、この小さな国を守り抜きました。また、彼は長命でもあり、その在位期間は歴代リヒテンシュタイン公で最長の70年以上に亘りました。(リヒテンシュタイン家の爵位は読み方は同じでも公爵の一段下の侯爵で、それまでは「候」としていましたが、すでに独立国となって以降は勝手ながら分かりやすく「公」と表記させていただきます。汗)

ヨハン2世はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から、80名の兵士をもってオーストリア軍に参加するよう命じられ、うやうやしくそれを受け入れます。しかし、彼は情勢を的確に判断し、軍備の優れたプロイセン軍に対して遅れた装備で民族混成のオーストリア軍には勝ち目がない事を戦う前から予想していました。そこで彼は「準備に時間がかかるから」とかいろいろ理由を付けてわざと自国の兵の出発を遅らせ、プロイセン軍のいるボヘミア方面ではなく、さしたる強力な敵のいなかった南のイタリア方面に兵を南下させたのです。(小国とはいえ一応リヒテンシュタイン軍の総司令官はヨハン2世ですからね。軍の「統帥権」は彼にあるのですから、どこに兵を差し向けるのかは彼の自由なのです。笑)

この時のリヒテンシュタイン軍の戦費は、全てリヒテンシュタイン家すなわちヨハン2世がその資産から全額負担したそうです。結果は彼の予想通り、オーストリア軍はプロイセン軍に大敗し、多額の賠償金と軍備の縮小を余儀なくされるのです。一方南下した80名のリヒテンシュタイン兵は、すでに戦争の勝敗が決していたために戦う事なく全員無事で、たった一か月半で帰国しました。

話はここからです。先に述べた様に普墺戦争はオーストリアの敗北で終わり、オーストリアはプロイセンから多額の賠償金を課されてしまいました。その捻出のために、彼らはその負担の一部を富裕で知られたリヒテンシュタイン家にも求めてきます。独立したとはいってもやはりハプスブルク家には大きな「借り」があるリヒテンシュタイン家は道義上これに逆らう訳には行きません。

そこでヨハン2世は一計を案じます。

「恐れながら、この度の戦争では当家も大きな出費を迫られ、財源に窮しております。そのためわが国は軍を解散して今日の帝国のご負担の軽減の一助とさせていただきとうございます。」

つまり、直接お金は出せないが、軍備を無くす事でその維持費と削減兵力をもってオーストリアの肩代わりにさせてもらいたいと申し出たのです。と言っても、当時のリヒテンシュタイン軍の総兵力はたった80名でしかありません。そう、あの80名の兵士たちです。しかし、興隆著しい宿敵プロイセンに備えて出来るだけ軍備を減らしたくないオーストリアはこれを了承。こうして1868年、リヒテンシュタイン公国は今日に至る「非武装中立国家」となったのです。

実際には、この時ヨハン2世はリヒテンシュタイン家がこれまでに得た各地の所領から得る収入や、蓄積してきた金融資産など先祖代々受け継いできた莫大な財産があり、財源に困ったりなどしていませんでした。しかし、彼はその金を出来るだけ自国の領民たちのために使いたいと巧みにハプスブルク家を上手く欺いたのです。

ヨハン2世はお金の使い方も良く心得た人物でした。まず、解散したあの80名の兵士たちの失業対策として、ライン川の堤防工事などの公共事業で仕事と給料を与え(もちろん費用はヨハン2世のポケットマネーです。)さらに貧しい領民たちのために総額8億円もの無利息貸付(これもヨハン2世持ちです。お金を貸すのに「無利息」など儲けにならないから当然あり得ませんし、またそもそも領民たちに返済出来るかも分かりません。ですから事実上領民たちにお金を「タダであげた」という方が正しいでしょう。驚)

ヨーロッパの国際情勢は、数千万の人口を擁する広大な領土を持つ統一された大国同士が、海外植民地獲得のために数十万単位の常備軍から成る巨大な軍備を競い合う「帝国主義」の時代になっていました。そんな中にあって、もはやリヒテンシュタインの様なあまりに小さな国がわずかな軍隊を持っていたところで、いざ戦争になればいともたやすくその小さな領土を蹂躙されてしまうのはナポレオン戦争の時に実証済みでした。

そこでヨハン2世はコストがかかるばかりで「リヒテンシュタインにとっては」無意味な軍備を廃止し、国の防衛を外交に委ねる方針に切り替えたのです。もちろんこうした国の在り方は、彼らの様な弱小国にしか出来ないものです。例えば日本でも「非武装中立」を主張する連中(その多くが歴史というものをろくに知りもせず、単に軍事や戦争と聞くだけで「悪」と妄信する無知で短絡的な思考しかしない女性たちですが。呆)が極めてわずかながらおりますが、人口1億2千万の大国であるわが国では机上の空論にほかなりません。

さて、新たな道を歩みだしたリヒテンシュタイン公国の苦難はさらに続きます。20世紀に入り、最初の危機は第1次世界大戦の勃発です。この戦争については、1914年6月にオーストリア皇太子夫妻がバルカン半島の小国セルビアの青年に拳銃で暗殺された事がきっかけで、ドイツ、オーストリア、イタリア(後に連合国に寝返って脱退。)ブルガリア、オスマン・トルコなどの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国に分かれて戦われた人類最初の「世界大戦」である事はみなさんご存知の事と思います。

リヒテンシュタイン公ヨハン2世は早々にウィーンのアメリカ大使館を通じて「中立」を宣言していました。しかし、リヒテンシュタイン家はハプスブルク家家臣としてオーストリア貴族でもあり、領民もその大半がドイツ系あった事から、当然イギリス、フランスら連合国にとっては「敵国」と同類にしか見えません。そこで英仏両国は、この小さな国に「経済封鎖」を仕掛けて一切の食料の出入りを止めてしまいます。(これはもう単なる「弱い者いじめ」でしかありませんね。こんな小国の一体どこに、英仏に敵対するだけの力があるというのでしょうか?呆)

内陸のリヒテンシュタインはこれにより大変な食糧不足に陥ります。このままでは当時人口8千余りのリヒテンシュタインはみんな餓死してしまいます。公国は存亡の淵に立たされました。そこへ思わぬところから救いの手が差し伸べられます。なんと同じ中立国である隣国スイスが、戦争に備えて備蓄していた小麦の一部を送ってくれたのです。

もちろん「タダ」ではありません。スイスといえど同じ内陸国である以上食糧に余裕があるわけではないからです。それでも、スイス人は人道的見地から貴重な食糧をリヒテンシュタインに輸出してくれたのです。では、誰がその代金を支払ったのでしょう? そう、それは元首ヨハン2世その人です。実は、スイス政府に密かに小麦の輸出をしてもらえるよう裏工作をしたのも、他ならぬヨハン2世その人でした。

こうしてリヒテンシュタインの人々は最大の危機を乗り切る事が出来たのです。ヨハン2世はその温かく心優しい人柄から領民たちに大変慕われ、今日に至るまで「ヨハン善良公」として歴代リヒテンシュタイン公で最も尊敬されています。

次回に続きます。

生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(前編)

みなさんこんにちは。

当ブログを読んでいただいているみなさんは、「大国と言えばどこの国?」と質問されたとして、真っ先にどこの国を連想するでしょうか? これは全く愚問だったかもしれませんが(笑)おそらくほとんどの方がアメリカかロシア、この二つの超大国をすぐに思い浮かべる事でしょう。

もちろん世界には、この米ロ両国以外にもいくつかの大国が存在します。ロシアに次いで世界で2番目に国土面積の広いカナダ、大陸そのものがまるごと一つの国家であるオーストラリア、そして世界最大の人口を持つ中国などです。

これらの国々は、地図あるいは地球儀で一目でわかる広大な領土を持つオーソドックスな大国なわけですが、世界にはそれらの大国とは正反対のまるで粒の様に小さな国もいくつか存在しています。自分は子供時代から地図帳を開いて眺めながら、この小さな国々がどうして今もあるのか、幾多の戦争や動乱の吹き荒れる人類の歴史の中で、なぜ周辺の大国に併合されずに今も独立国家として存立しているのか不思議でなりませんでした。

そこで今回から、歴史好きな方でも詳しく知る方はそう多くないこれらの小国にスポットを当て、その成り立ちや経緯、歩んできた歴史などをご紹介していきたいと気まぐれに思い立ち(汗)「生き残った小国たち」という新しいテーマを立ち上げました。相変わらずの幼稚でまとまりのない駄文と遅筆で恐縮ですが、ご興味を持たれた方は暇つぶしにふらりと立ち寄ってみてください。(笑)

初回にご紹介する小国は、ヨーロッパ大陸のほぼ中央、スイスとオーストリアに挟まれた「リヒテンシュタイン公国」です。まずはこの国の現在の基本的なデータをお話しておきましょう。

リヒテンシュタイン公国は、先に述べた様にスイスとオーストリアに挟まれた面積わずか160平方キロ(日本でいえば、瀬戸内海の小豆島とほぼ同じくらいだそうです。)人口は3万5千程度で、世界で6番目に小さな国です。公用語はドイツ語で、その国家体制は国名と同じリヒテンシュタイン家を世襲の元首とする立憲君主制であり、現在の君主はハンス・アダム2世が1989年から在位しています。


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上がリヒテンシュタイン公国の位置と国旗、そして現在の国家元首である第15代リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世殿下(1945~)です。この国はとにかく小さいので、位置は地図に虫眼鏡を当ててみた方が良いかもしれませんね。(笑)

この国の歴史と成り立ちを知る上で欠かす事の出来ないのが、元首であるこのリヒテンシュタイン家の存在です。正に国名にある通り、この国はリヒテンシュタイン家が建国し、後述する様にリヒテンシュタイン家が公国の全てを動かしているといっても過言ではないからです。

それでは早速この国の歴史についてお話を始めていきたいと思いますが、それにはまず公国の主リヒテンシュタイン家の発祥にさかのぼらなければなりません。なぜならリヒテンシュタイン家の歴史は公国の成立よりもはるかに古いからです。

始まりは12世紀にさかのぼります。1130年ごろ、ボヘミアのドイツ貴族であったシュヴァルツェンベルク家が、現在のオーストリアのウィーン郊外に城を築き、これをリヒテンシュタイン城と名付けました。その名はドイツ語で「光の城」を意味し、これが後のリヒテンシュタインの名の由来になります。


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上がそのリヒテンシュタイン城です。現在は公園の一角になっています。写真に写る人の姿と比較すると、それほど巨大なお城ではないようですね。このお城は築城以来幾度となく修復と増改築を繰り返し、現在ももちろんリヒテンシュタイン家の所有ですが、市民にも一般公開されています。

やがて、現在のドイツ南部バイエルンのドナウヴェルト一帯の地方貴族であったヒューゴ・フォン・ペトロネル(生没年不明)という人物が、シュヴァルツェンベルク家の娘と結婚し、城にちなんで自らの家名をリヒテンシュタインとしました。そう、彼こそがリヒテンシュタイン家の創始者です。

こうして、彼を初代とするリヒテンシュタイン家が歴史に登場するわけですが、といっても、この時点における彼とその一族は、一つの城の城主になったというだけで、とても「諸侯」と呼べるような大きな存在ではありませんでした。時は中世真っ盛りの神聖ローマ帝国時代、帝国内は数百家に上る大小の領主、貴族たちがひしめき合い、彼らはその数多くいる貴族の一つに過ぎなかったからです。

そこでリヒテンシュタイン家は「寄らば大樹の陰」とばかりに有力諸侯の臣下となり、その庇護の下で所領の安泰と勢力拡大を図る堅実な道を選びます。まず彼らが目を付けたのが、当時ボヘミアからオーストリア一帯を支配していた辺境伯バーベンベルク家でした。このバーベンベルク家は、フランス王家と祖先を同じくする名門貴族で、帝国内でも比類ない大勢力だったからです。

リヒテンシュタイン家は勃興した1130年後半から1240年代までのおよそ100年余り、このバーベンベルク家に臣下として仕え、実直な働きによって各地に所領を与えられ、富を増やしていきます。しかし、ここで思わぬ誤算が彼らを待ち受けていました。1248年、なんと主君バーベンベルク家が一族の内紛によって滅亡してしまったのです。

この情勢の急変に、リヒテンシュタイン家は頭を悩ませます。なぜなら、彼らがバーベンベルク家に仕えてから100年余りの間に与えられた所領は十数か所あり、それらの防衛のためにそれぞれの所領に城を築いてましたが、これらは地続きのものではなく、ボヘミアからオーストリア一帯の各地に散らばる「飛び地」で、その間には他の貴族諸侯がさながら「狼」のごとくこれを狙っており、権力の空白地帯となったこの地域で、リヒテンシュタイン家の兵力だけでこれらの領地のすべてを守るのは物理的に無理だったからです。


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上がこの頃(1250年ごろ)のドイツ神聖ローマ帝国の地図です。この帝国は皇帝を世襲ではなく諸侯から選挙で選ぶという非常にユニークかつ複雑な国家で、ご覧の様に帝国内には数えきれないほど大小の貴族諸侯がひしめき合い、ゆえに帝国は絶えず戦乱に明け暮れ、一度も統一される事はありませんでした。

この様な情勢の中でリヒテンシュタイン家が生きていくためには、どこかの有力諸侯の臣下となるしか方法がなく、またそれが最良の道でした。そこへ、彗星のごとく新たな支配者が出現します。1273年、スイス辺境の一貴族であったルドルフ・フォン・ハプスブルクが神聖ローマ皇帝に即位、オーストリアからボヘミアに至る広大な地域を支配下に置いたのです。


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上が神聖ローマ皇帝ルドルフ1世です。(1218~1291)彼はもともとは家柄も力もリヒテンシュタイン家と大差のないスイス辺境の一伯爵に過ぎませんでしたが、力のある人物を皇帝にしたくないという他の諸侯たちの思惑によって皇帝に選出されました。しかし、諸侯たちの予想は大きく外れ、非常に有能かつ人望あふれる彼は、後に「神に選ばれた一族」として世界に君臨するハプスブルク家の礎を築く偉大な人物となります。

リヒテンシュタイン家は、この新たな支配者に早速臣下の礼を取ります。一方のルドルフ1世の方も、彼らと同じ弱小貴族出身である事からその苦労を誰よりも良く知っており、その願いである所領の安堵を約束し、ハプスブルク家の臣下に迎え入れるのです。それ以後、リヒテンシュタイン家はハプスブルク皇帝家の忠実な家臣として今日に至っています。

さて、こうしてハプスブルク家の臣下となったリヒテンシュタイン家は、その下で地道に主君に忠実に仕え、新たな所領と城を増やしていきます。その数は二十数か所に上り、ハプスブルク家の家臣でも指折りの富豪として無くてはならない存在になっていきます。その間にリヒテンシュタイン一族は、主君ハプスブルク家が政略結婚によってヨーロッパ中に勢力を伸ばし、神聖ローマ皇帝位を世襲し、やがて「日の沈まない帝国」を築き上げていく歴史の大きな流れの中で、政治面においては宰相や蔵相、ローマ教会などの宗教面においては枢機卿、軍事面においては将軍などハプスブルク家を支える有能な人物を次々に輩出し、その功績で爵位も侯爵位を得るのです。

リヒテンシュタイン家は政治や軍事だけではなく、商才にも長けていました。特に彼らが重視したのが「金融」で、後にこれは後述する当家の家業になるのですが、その礎はすでにこの時期に出来ていました。こうして13世紀後半から17世紀後半までのおよそ400年の長きにわたり、リヒテンシュタイン家はハプスブルク家の忠実な家臣として物心両面で代々帝国を支え続けたのですが、17世紀の末になると、当家にそれまでなかった新たな考えが浮上していきます。それは、

「自分たちだけの国が欲しい」

というものです。そして彼らはその実現に向けて静かに動き出すのです。それにしても、なぜリヒテンシュタイン家はそのような「夢」を思い描くようになったのでしょうか? すでに当家はハプスブルク家家臣の中でも指折りの名門で、特にその富裕さでは群を抜いていたはずです。すでに両者の主従関係は400年以上続き、普通に考えればこのままハプスブルク家の臣下として生きていくのが妥当なはずです。

実は、これにはある歴史上の大きな変化が原因でした。少し時代をさかのぼって17世紀の前半、ハプスブルク家の支配する神聖ローマ帝国で大規模な戦争が勃発します。これは「ドイツ三十年戦争」と言い、当時のほぼすべてのヨーロッパ諸国を巻き込み、その名の通り1618年から1648年まで30年続いた長期戦争なのですが、この大戦争でリヒテンシュタイン家はもちろんハプスブルク家の側に立って戦い抜きます。

やがて戦争が終わると、戦争に参加した各国の間で国際条約が結ばれます。それがウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)です。それによると、神聖ローマ帝国内の300に上る大小の諸侯はそれぞれが主権を持つ独立国家として承認し、互いにそれを尊重しあうというものでした。

これにより、神聖ローマ帝国は名ばかりのものとなり、同時にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝としての地位も「お飾りの名誉職」となり、つまりハプスブルク家は帝国内の全諸侯を支配する事は出来なくなったのです。ハプスブルク家はドイツから本拠地のオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの東ヨーロッパに退き、それまで戦乱の絶えなかったドイツではようやく平和が訪れました。

思えば、リヒテンシュタイン家がハプスブルク家の臣下となったそもそもの理由は、各地に散らばる彼らの所領の保全のためでした。戦乱の絶えない弱肉強食のヨーロッパ中世においては、そうするのが生き残るための最善の策である事は前段で述べた通りです。しかし、そうした戦乱の時代が終わりを迎え、初歩的とはいえ国際秩序というものが形成されると、もはや強者の影に身を置くのは必ずしも必要ではなくなったのです。

そこで彼らは自立へと大きく舵を切る道を選択します。しかし、それには一つの制約がありました。それは

「我らが国を興すには、ハプスブルク家の支配する地域の外でなければならない」

という事です。400年以上の長い間仕えたハプスブルク家に対し、リヒテンシュタイン家は何にも代えられない大きな恩がありました。リヒテンシュタイン家がこうして存続出来たのも、ひとえにハプスブルク家の庇護の下にあったおかげです。リヒテンシュタイン家はハプスブルク家の領土内に数多くの所領を与えられていましたが、その中に独立国家を作るわけにはいかなかったのです。

そんな制約を踏まえつつ、自立のために最初に動き出したのは第3代リヒテンシュタイン候ハンス・アダム1世です。彼はハプスブルク家の領土外で、リヒテンシュタイン家が国を興すにふさわしい適地を探します。そして目を付けたのが現在のリヒテンシュタイン公国のあるシュレンベルクとファドゥーツの地でした。ちょうどその頃、この隣り合う二つの地は、それまで統治していたホーエンエムス伯爵家が散財による負債にあえいで売りに出していたからです。


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上が第3代リヒテンシュタイン候ハンス・アダム1世です。(1662~1712)彼は財政管理に優れたいわば財政通で、その手腕はハプスブルク皇帝家からも高く評価されていました。さらに彼は美術の熱心な愛好家で、彼は儲けた金を惜しみなく美術品の収集に注ぎ込み、膨大な美術コレクションを残す事になります。(現在のリヒテンシュタイン侯爵家が所蔵する美術品のコレクションは、ほとんど彼が買い集めたものだそうです。)

ハンス・アダム1世は後継男子を残さず亡くなったので、爵位と領地は一代置いて一族のアントン・フロリアンが継承します。そして彼の代になって、リヒテンシュタイン家は念願の自立を果たす事に成功するのです。


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上が第5代リヒテンシュタイン候アントン・フロリアンです。(1656~1721)彼は時のオーストリア皇帝カール6世の家庭教師を務め、皇帝に対して心理的な影響力を持っていました。(今風に言えば、かつての担任の先生ですからね。笑)彼は皇帝とのそうした特殊な関係を利用し、1719年に皇帝から先々代のハンス・アダム1世が用意していたファドゥーツとシュレンベルクの地に、一つの国を建国して良いとの許可を得る事に成功するのです。彼の在位はわずか3年の短期間でしたが、彼こそ事実上のリヒテンシュタイン公国初代君主となります。

こうして1719年1月、念願のリヒテンシュタイン公国が誕生したのです。しかし、それはリヒテンシュタイン家と生まれたばかりの公国にとって新たな試練の幕開けでもありました。その後の大きな歴史のうねりの中で、この小国はさながら大海原を進むハプスブルクという巨大な船から降ろされた小さなボートのごとく、歴史という大海の荒波に揉まれながら波乱の航海を続けていく事になります。

次回に続きます。

憲法改正を阻むもの ・ 妄想的平和主義

みなさんこんにちは。

このブログをお読みいただいているみなさんは、現在のわが国の憲法についてどのようなお考えをお持ちでしょうか? これについては、人それぞれ様々な意見があると思いますが、自分が今回冒頭でこんなご質問をみなさんに投げかけるのは、私たちの愛するこの日本という国家の根幹を成す現在の日本国憲法が、今後どうあるべきかという事について、みなさんにもお考えいただきたいと思ったからです。

連日ニュースで報じられている様に、わが国の周辺では、まともな常識と理性が全く通用しない二つの国が不穏な動きを見せています。言うまでもない事ですが、一つは北朝鮮、そしてもう一つは中国です。特に前者は、封建的世襲独裁政権の下で、長距離弾道ミサイルの発射と核実験を繰り返し、また後者は、かつて大国としてアジアに君臨したノスタルジーへの回帰という身勝手な理由から、「中国の夢」と称する幼稚なスローガンを掲げ、海軍力を増強して複数の空母と多数の艦艇を続々と建造し、東南アジアから西太平洋に至る海洋進出を図ろうとして、わが国をはじめとする周辺国との間で対立を招いています。

つまり、現在わが国の周辺は、いつ戦争が起きても何ら不思議ではない非常に危険な状況下にあるのです。その様な中にあって、わが日本は米国の強力な軍事的後ろ盾を背景に、インド、ベトナム、フィリピンなどの周辺国とともにこれらと対峙する戦略をとっているわけですが、わが国が真にこれらの国々と足並みをそろえて行くにあたり、絶対に変えなければいけないものがあります。

そう、それが現在の日本国憲法です。中でも取り分け絶対に改正しなくてはならないのが、みなさんもご存じの第9条ですね。

1 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない

一応、上にその条文を載せました。(個人的な感情を申し上げて恐縮ですが、自分がこの世で最も大嫌いな文章です。目にするたびに寒気と同時に虫唾が走ります。怒)

にもかかわらず、わが国の中には今だにこの憲法の改正に反対する声が根強く存在し、それがゆえにわが国は「普通の国」になれずにいます。ここで言う「普通の国」とはどんな国の事でしょうか? そう、それは国民の生命と財産、領土、領海、領空を断固として守り、そのために自国の意思と判断で武力行使も出来る国家の事です。

ちなみに日本以外の他の主要国は、これまでに一体どれくらい憲法を改正しているかご存知でしょうか? これについては下の図をご覧ください。


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上のグラフは主要先進国における憲法改正回数を表したものです。それぞれの国によって改正すべき事情があったものと思われますが、中でもドイツはなんと58回も改正していますね。(この図ではイギリスが含まれていませんが、これには理由があります。実はイギリスという国は、明確な憲法というものが存在しないのです。しかし、それは「憲法」という形に集約していないだけの事であり、どこの国の憲法にも書かれているようなごく当然の規定は各法律にある事から、それを個別に適用するというスタイルを取っているそうです。当然、その個別の規定の改正は何度も行われています。複雑ですね。苦笑)

ここで、意外に知られていない事実をお話しておきましょう。実はわが国は、敗戦後の現行憲法はもちろん、戦前の大日本帝国憲法時代においても、歴史上一度も憲法を改正した事がないのです。唯一の例外は敗戦後の旧帝国憲法から現行憲法への移行ですが、これは改正というよりも全く新しい別のものに「総取り換え」したという方が正しいでしょう。

また、旧帝国憲法においては、統治権の総攬者(そうらんしゃ 「国家を統治する全ての権利を持つ」という意味です。)にあらせられた天皇にのみ改正発議の権限があり(旧帝国憲法第73条)つまり、天皇ご自身が改正したいとお思いにならなければ出来ない仕組みになっており、明治、大正、昭和の三帝はどなたもそれを行使される事はありませんでした。

それに対して現在の日本国憲法においての改正条件は、国会において衆参両院の3分の2の賛成(議員全員の3分の2ではなく議決に参加した議員の3分の2です。といってもその数にも定足があり、総議員の3分の1以上とされています。)によって発議し、その後国民投票にかけて、投票総数の過半数(これも有権者の過半数ではなく、投票した人の過半数という事です。)をもって国民の承認を得たと解し、天皇が公布される手はずになっています。(第96条)

さて、その旧帝国憲法ならいざ知らず、なぜ、わが日本は現在の憲法を改正出来ずにいるのでしょうか? ここから述べる事は、全くのド素人の一個人の考えですので、それを踏まえてお読みいただきたいのですが、まず第一に、何と言っても昭和20年8月のあの惨めな敗戦の自虐的な反省から、一方的に「戦争は絶対悪」という極端な妄想的平和主義を作り上げてしまった事が最大の原因と思います。

一口に戦争と言っても、その戦争にもいくつかの種類があります。代表的なものを以下に列挙すると

1 侵略戦争・・・・・自国の利益のために他国を征服するもの

2 防衛戦争・・・・・他国の攻撃から自国を守るもの

3 独立戦争・・・・・ある地域が分離独立を求めて支配国と争うもの

4 干渉戦争・・・・・他国の混乱に軍事介入するもの

5 国内戦争・・・・・国内で二つ以上の勢力が主導権を奪い合うもの(内戦)

などです。上に挙げた戦争のうち、侵略戦争や現在も途上国で良くある内戦(そのほとんどが醜い権力争い)などは、戦争でも最も悪名高いものとして言うまでもありませんが、防衛戦争や独立戦争などは、必ずしもそうではありません。特に、他国からの卑劣な攻撃に対して自国を守る防衛戦争は、全ての独立国家が等しく共有する自存自衛のための当然の権利ですし、独立戦争なども、その多くは支配国による圧政(重税、強制労働、様々な弾圧など。)から解放されるためにその民衆が戦い、独立を勝ち取って自分たち自身の国家を樹立するものだからです。そう、戦争というものは目的によって、その性質が大きく異なってくるのです。

つまり戦争というものは「絶対悪」ではなく、状況によってはやむを得ず起こり得る「必要悪」なのです。

しかるにわが国の現状を見てください。戦後70年以上行われてきた硬直化した教育の結果、国民の間には「戦争」という文言が出るだけで

「戦争は絶対にしてはいけない悪い事」

という視野の狭い誤った価値観から、国内外の状況や経緯、事情を深く考えもせずに条件反射的にすぐに「反対」する感情が出来上がってしまっています。

自国にも相手国にも多くの人的・物的損害を出し、双方に相手国に対する憎しみの怨嗟を生み、莫大なお金のかかる戦争というものが良くないのは言うまでもない事です。平和が一番なのは当然の事です。しかし、平和というものは何も考えずに永続するものではありません。なぜなら、たとえばわが国の方で一方的に平和を主張して戦争を避けようとしても、相手側もそれを望んでいるとは限らないからです。

戦争を避け、平和を維持していくためにはあらゆる手段を講じる必要があります。そのための選択肢として、軍事力とその行使は必要なのです。もし全ての努力が断たれ、やむなく開戦となった場合には、国を守る手段は軍事力以外にありません。話し合いやお金だけでは国は守れないのです。

さらにもう一つ、ここで申し述べておかなければならない事があります。冒頭で述べた様に、現在わが国の周辺は緊張した国際状況にあります。といってもこれは今に始まった事ではなく、わが国が敗戦後ずっと続いてきた状態です。その間70年以上に亘って幸いな事に、わが日本は他国からの武力による攻撃や、戦争に巻き込まれる様な事にはなりませんでした。

しかし、これは平和憲法のおかげではありません。わが国は世界最大最強の軍事力を有するアメリカ合衆国という国家と「日米安全保障条約」を結んでいます。これは今さら言うまでもなく、日本への攻撃に対してアメリカに守ってもらう代わりに、日本はアメリカ軍に日本への駐留と基地を提供し、その駐留費用も負担するという片務条約です。そう、これまで日本が平和でいられたのは、憲法で平和主義や戦争放棄を掲げているからという情緒的な理由ではなく、日本にアメリカ軍がいるから、つまり、日本の背後にはアメリカがいるという物理的な理由から、ロシアも中国も手を出せずにいただけなのです。決して勘違いしてはなりません。

わが日本は人口1億2500万を数え、年間の国内総生産は550兆円を超える世界第3位(実際は2位ですが)の経済力を持つ豊かな国であり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダと並ぶ世界の7大先進国の一つです。さらに重要なのは、今名を挙げた古くからの欧米列強諸国以外では、唯一白人以外の先進国です。

このわが国の国際的地位は、今からおよそ150年前の明治維新に始まる私たちの祖先の尊い犠牲、血と汗とたゆまぬ努力によって築いた偉大な遺産であり、子孫の私たちはその偉大な遺産を継承して生きているに過ぎません。私たち日本国民が世界中の国々がうらやむ豊かな生活が出来るのも、全てこれら先人たちのおかげであり、現在の私たちは、その先人たちの偉大な遺産であるこの日本という国家を子孫に残し、受け継がせていく崇高な義務があります。

そのために、今の私たちに課せられた大きな問題、憲法改正を実現しなければなりません。これを実現してこそ、わが日本は本当に自立した「普通の国」になれるのです。今回、何かの縁でこの駄文を読んでいただき、自分の訴えにご賛同いただける国民の方が少しでも増えてもらえれば良いと心から願うものであります。

続く。
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