ヴァイキングが創ったローマ帝国!? ・ クレムリン(前編)

みなさんこんにちは。

今回ご紹介する宮殿は、世界最大の国土面積と強大な軍事力で、今なおアメリカのライバルとして世界に認識される「超大国」ロシアから、首都モスクワにその威容を誇るクレムリンについてお話したいと思います。

このクレムリンは、後で詳しく述べていく様に、元はロシア帝国の宮殿の一つだったものですが、昭和世代の多くの日本人にとっては、なんといってもその後に成立した旧ソビエト連邦の中枢としての不気味で暗いイメージ、あの「赤の広場」でのソ連軍の壮大な軍事パレードを思い浮かべる方が圧倒的に多いのではないかと思います。

自分は東西冷戦と米ソの軍拡競争がそのピークに達していた1980年代前半に小学生でしたが、あれから30年以上の時が過ぎ、しがない中年男(笑)になった今でも、当時テレビのニュースで盛んに流されていたあの頃の映像は今でも強烈に印象に残っています。

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上は旧ソビエト連邦時代のクレムリンと、その前に広がる「赤の広場」での軍事パレードの様子です。暗く寒々しいどんよりとした曇り空に翻るソ連国旗の赤旗の下、ソ連の生みの親レーニンの巨大な絵の前で、雪のちらつく中を恐ろしい数のミサイルや戦車が通り過ぎる姿。これが自分の進歩のない幼稚な頭(笑)で思い描く「悪の帝国」と恐れられた旧ソ連のイメージです。

もちろん冒頭で述べた様に、このクレムリンは社会主義国家ソビエト連邦が建造したものではありません。その歴史は大変古く、今をさかのぼる事900年前に始まります。それは今日のロシアが国家として歴史に登場した時期とほぼ重なり、つまりこのクレムリンは、ロシアとともに生まれ、ともに歩み、ロシアの歴史を見続けてきたまさに「ロシアそのもの」といっても良いでしょう。

それでは、そんなクレムリンの誕生から今回のお話を始めていきたいと思います。

ところでみなさんは、ロシアという国がいつ頃、どんな経緯で誕生したかご存知でしょうか? 話が大きく脱線する自分の悪い癖(汗)で恐縮なのですが、このクレムリンについてお話を進めていくにあたり、それはロシア建国にどうしても触れずには置けないため、ここで簡単にご説明して置きましょう。

今日私たちがロシアと呼ぶ国家は、当然の事ながら最初からこんな広大な領土を持つ国であったわけではありません。その創成は今からおよそ1200年ほど前の9世紀から始まります。その当時、ウラル山脈の西側から現在のウクライナ、フィンランドにかけての地域には、スラヴ人が多くの部族に分かれて暮らしていました。もちろん彼らに「国」という概念はまだありません。そんなヨーロッパでも再辺境のこの地に、そのスラヴ人たちが「ヴァリャーグ」と呼ぶ民族が北方から船で川をさかのぼり、この地にやってきます。

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上がその「ヴァリャーグ」と、スラヴ人たちの交流を描いた絵です。「ヴァリャーグ」とは、つまりみなさんも良くご存じのあの「ヴァイキング」の事で、スカンジナヴィアを発祥として北方海域を荒らしまわった強大な海洋武装民族の事ですね。一般にヴァイキングというと、「海賊」というイメージが強く、実際西ヨーロッパでは略奪の限りを尽くして有名ですが、ヴァイキングたちによるそうした略奪は初期の頃の話で、当初は野蛮な荒くれ者の集団であった彼らも、キリスト教に接して文明的な生活を知ると、次第に交易によって富を得る様に進化していきます。上の絵でも、毛皮や貴重な香辛料などの交易品をスラヴ人たちとやり取りしています。一方スラヴ人たちの方は、強力な武力を持つヴァリャーグに「駐留」してもらい、自分たちのテリトリーを他の部族から守ってもらうわけです。

こうして交流を重ねるうちに、スラヴ人たちもヴァリャーグを支配者として受け入れ、彼らは次第に同化していきます。やがて、そのヴァリャーグの中で、ノルマン系ヴァイキングの一派ルーシ族の族長であったリューリクという人物が、862年ごろにロシア北方ラドガ湖の近くに位置するノブゴロドという街を根拠地として「ノブゴロド公国」という都市国家を建国しました。


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上がそのリューリク(830?~879?)と伝わる人物の絵です。金髪で青い目の屈強な男たちから成る強力な軍団を従えた威厳に満ちた王様ですね。といってもこの人物、実は250年以上も後の1100年代に書かれた年代記に登場するのみで、実在したかどうかはっきりとした確証がない伝説の人物です。(わが国でいえば皇祖にあらせられる神武天皇に相当するでしょう。そう考えれば、伝説とはいえこのリューリクこそ、ロシア建国の父と言えるかも知れません。そして後のロシア帝国に至るまでの過程において成立する後継国家の諸国はいずれも彼の子孫をその君主とし、それゆえ彼に始まる王朝は、ロシア第1王朝リューリク朝と呼ばれています。)

その年代記によれば、リューリクの死後その一族は南下してウクライナ北部にまで勢力を拡大させ、882年にキエフを都とする「キエフ大公国」を成立させます。


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上がそのキエフ大公国の範囲です。しかし、その名は歴史上「後付け」で付けられたものであり、実際には当時の周辺の国々からは「ルーシ」と呼ばれていました。それは建国の父リューリクの率いる「ルーシ族」に由来し、それが転じて「ロシア」となったのは容易に想像が出来るでしょう。

ともあれ、そのルーシに初めて事実上の統一国家として成立したキエフ大公国こそ、後のロシアのと母体となる最初の国家であり、そのキエフ時代の12世紀半ばに、現在のモスクワの地に築かれた城塞こそ、クレムリンの始まりです。その名の由来は、正にそのまま「城」や「砦」を表すロシア語の「クレムリ」から来ており、クレムリンは英語読みです。(ついでにロシアの首都モスクワの名の由来ですが、こちらは諸説あって定かではありません。ただし、古い文献には「水たまり」とか「川」の意味があるそうなので、やはり単純にそこから来ているものと思われます。)

といっても、そのクレムリンも最初から今日見られる様な堅固な石造りで築かれたわけではありません。初めは土塁に木の柵をめぐらした簡素なものに過ぎず、規模もはるかに小さなものでした。なぜなら後のロシアの首都となるモスクワは、この頃はまだこのクレムリを中心に人口も数千に満たないような、他にもたくさんある小さな街の一つに過ぎなかったからです。

このキエフ大公国は、9世紀後半に建国すると徐々に勢力を拡大させ、黒海を目指して南下していきます。しかし、その先には南の大国ビザンツ帝国があり、10世紀に入ると両国は幾度も戦火を交えますが、キエフ遠征軍は海軍力に勝るビザンツ軍にその都度撃退され、結局上の図以上に領域を拡大する事は出来ませんでした。

しかし、ビザンツ帝国との間柄は決して戦争ばかりしていたわけではなく、ビザンツを通しての交易によって入ってくる東方からの莫大な富と優れた文化、とりわけビザンツに倣ってキリスト教を国教として取り入れた事が、それまで「野蛮で遅れた辺境の民」であったこの地のルーシ人を「文明人」として大きく進歩させ、歴史上この時期に、後のロシアのアイデンティティーが形作られたと言えるでしょう。

そんなキエフ大公国でしたが、はるか東の草原から疾風のごとく押し寄せて来た強大な敵によって、1240年に滅亡してしまいます。みなさんもご存知のモンゴル帝国の侵攻です。7万5千から成るモンゴル軍はロシアの平原になだれ込み、全土を蹂躙し、徹底的な破壊と殺戮を行いました。この戦乱でモスクワのクレムリンも焼かれてしまい、一時放棄されてしまいます。

モンゴル帝国によるロシア支配は、その後200年以上続き、この時代をロシアの歴史では「タタールのくびき」と自虐的に呼び、屈辱の時代として記憶されています。(「タタール」とはヨーロッパから見たモンゴルや中央アジアの総称で、「くびき」とは畑を耕す際に牛などの家畜の首に付ける木製の太い首輪の事ですね。)

このモンゴル支配下の時代、ロシアでは滅びたキエフ大公国に代わる新たな国家が出現していました。1263年に成立したモスクワ大公国です。この国はキエフ大公国滅亡後、モンゴル支配下において分かれたいくつかの公国の一つでしたが、文字通りモスクワを都として次第に力をつけ、第9代大公イヴァン3世の時代についにモンゴルからの独立を達成します。

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上は1480年、臣従と貢納を迫るモンゴルの王からの手紙を破り捨て、使者の首根っこをつかんで追い返すイヴァン3世です。(1440~1505)彼の治世、ロシアは事実上モンゴル支配を脱し、彼は240年続いた「タタールのくびき」を終わらせた偉大な君主として、ロシアでは「イヴァン大帝」と呼ばれています。

彼の業績はそれだけではありません。彼の在位中、本テーマ(だいぶ内容が脱線してしまって恐縮ですが。汗)の主役であるクレムリンがほぼ現在の姿に形作られたのです。すでにその前に、クレムリンは石造りの城塞に再建されていましたが、イヴァン3世はルネサンス全盛期のイタリアからはるばる建築家を招き、クレムリンをそれまでの単なる城塞から、大公が住むにふさわしい優雅な宮殿として全面改築しました。

イヴァン3世は勢いに乗り、モンゴル支配下に乱立していた他の諸国を統一、昔日のキエフ大公国に匹敵する領域を支配します。さらに彼はこの時、ロシアをそれまでの辺境の一公国から、後の帝国へと発展させる布石を打つのです。それはちょうど彼の在位中の1453年、かの古代ローマ帝国の正当な継承国家である東ローマ帝国すなわちビザンツ帝国がイスラムの覇者オスマン帝国によって滅ぼされた事により、ビザンツ帝国最後の皇帝家パレオロガス家から皇妃を迎え、自らを「ツァーリ」(皇帝)と称したのです。

そして彼の孫で11代モスクワ大公イヴァン4世(1530~1584)は、国名をロシア・ツァーリ国と改め、その初代ツァーリとして正式に即位するのです。これにより、ロシアはかの古代ローマ帝国の系譜をビザンツから引き継ぎ、「第三のローマ帝国」と自称する様になるのですが、このイヴァン4世という王様、別名を「イヴァン雷帝」(らいてい)と呼ばれるほど気性の激しい人物で(つまり、怒ると「雷」みたいに恐ろしいという事です。)ツァーリのみに絶対忠誠を誓う者で構成された親衛隊を創設し、彼に反対する者を徹底的に弾圧、その上密告によって互いを監視させる制度を設け、少しでもツァーリに反対する言動をすればただちに逮捕、投獄するシステムを構築します。いわゆる「恐怖政治」の始まりです。

これは後のロシアの権力者によって連綿と受け継がれ、その結果、その後にロシアがたどった歴史の動きと相まって、今日に至るまでロシアという国のイメージを暗く冷たいものにしてしまう原因となりました。

イヴァン雷帝のヒステリーは年を追うごとに激しさを増していきます。特に、最初の皇妃で最も愛し、唯一彼を諫めることができた妻アナスタシアが亡くなってからは、もうその蛮行を止められる者は誰もいませんでした。アナスタシアの死後、彼はなんと7回も再婚しますがいずれも失敗、生来のヒステリー症から、ついには後継者で同名のイヴァン皇太子の妃エレナが懐妊して腹に負担がかかるからとロシア正教の儀式用の衣装を身に付けなかった事に激怒し、彼女の腹を何度も蹴り、慌てて止めようとした皇太子の頭を杖で殴打、その傷がもとでイヴァン皇太子は数日後に亡くなってしまうのです。(もうメチャクチャですね。呆)

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上がその事件を描いた絵です。イヴァン雷帝が我に返った時はすでに遅く、皇太子は致命傷を負って27歳の若さで亡くなってしまいました。ほどなく雷帝に腹を蹴られた妃のエレナも流産の後亡くなります。雷帝はこの事を生涯悔やみ続け、ある意味で「地獄の苦しみ」を味わいながら1584年に64歳で崩御します。(記録では、自分が殺してしまったイヴァン皇子の名を呼びながら、月明かりに照らされたクレムリンの回廊をさまよう雷帝の姿が何度も目撃されているそうです。)

イヴァン雷帝にはもう一人の皇子フョードルがいましたが、知的障害で子は成せず、その上病弱で1598年に41歳の若さで亡くなると、後継者の絶えたリューリク王朝はついに断絶してしまいます。かつてヴァイキングの王リューリクが築き、そのリューリク家によって700年以上に亘り勢力を広げ、ついにはローマ帝国の後継者を自認するまでに至った王家は、その最後の当主が自らの子を殺めて幕を引く事になったのです。それは語るにはあまりにも馬鹿らしく、あっけない末路でした。そしてその舞台となってそれを見続けたのもクレムリンだったのです。

後編に続きます。
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テムズ河畔の霧の中に鳴り響くチャイム ・ ウエストミンスター

みなさんこんにちは。

今回ご紹介する宮殿は、イギリスのロンドンから、イギリス最初の本格的な宮殿として建設され、現在は国会議事堂として英国紳士たちの熱い議論が繰り広げられる政治家たちの宮殿「ウエストミンスター」についてお話したいと思います。

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上が現在は英国の国会議事堂として使用されているウエストミンスター宮殿です。各部の詳細については後述します。

ところでみなさんは、このイギリスという国がいつ頃どの様な成り立ちで国家として成立したかご存知でしょうか? これについてはいずれ当ブログで別のテーマを設けて詳しくお話したいと思いますが、今回このウエストミンスター宮殿についてお話するに当たり、さらりとごく簡単にご説明しておきたいと思います。

イギリスが歴史の表舞台に登場するのは古代ローマ時代にさかのぼります。当時イギリスには紀元前9世紀から5世紀頃にかけて上陸し、定住した先住民族ケルト人が住んでいましたが、紀元前54年にみなさんもご存知のローマの英雄ユリウス・カエサル(紀元前100~紀元前44)率いる2万7千から成るローマ軍が侵攻、この時は地理不案内とケルト人の抵抗に占領は断念しましたが、およそ90年後の紀元43年に、ローマ帝国4代皇帝クラウディウス(紀元前10~紀元54)が4万の遠征軍を差し向けてイギリス本島南部一帯の占領に成功。これを属州とします。

この時に、イギリスにいたケルト系先住民の諸部族をローマ人は「ブリトン人」と呼び、そこからこの地を「ブリタニア」と名付けた事が、イギリス本島を「大ブリテン島」と呼ぶ由来です。この辺りの事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いと思います。

しかし、ローマ帝国はイギリス全土を完全に占領出来たわけではありませんでした。後に「スコットランド」と呼ばれるイギリス北部と、大ブリテン島の隣に横たわるアイルランド島まではさすがのローマ軍も手が届かず、そのためこれらの地ではケルト人たちの部族社会が続き、今日に至るまでこれらの国の人々が独立心の強い大きな所以となっています。


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上がローマ帝国が支配出来た地域と、最前線でケルト人と戦うローマ軍の姿を描いたイラストです。一方ローマ帝国が属州として支配し、後に「イングランド」となる地域では、上の様にローマ軍によって石敷きの軍道が引かれ、各地に軍団が駐留し、それらのローマ軍団の駐屯地に街が築かれ、後のイギリス各地方都市の基礎が築かれていきます。

この時にローマ軍がブリタニア各地に築いた街の中で最も大きく、ブリタニア支配の本拠地としてテムズ河畔に築かれたのが「ロンディニウム」(ケルト語で「沼地の砦」という意味だそうです。)後の「ロンドン」となる街です。


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上がテムズ川(こちらもケルト人がそう呼んでいたものをローマ人もそれに倣ったのだそうですが、意味は不明です。)の岸辺に築かれたロンディニウムの全体像を描いたイラストです。今回お話するウエストミンスター宮殿はちょうど川岸の中間辺りに造られる事になります。城壁で囲まれた街の人口は建物の戸数から察するに、駐留軍を含めてもせいぜい多くて1万程度でしょうか。ブリタニア最大の街がこの程度かと思われてしまうかもしれませんが、ローマ帝国では拠点となる都市を建設する際は防衛と維持管理を考慮して大体このくらいの規模を基準にしており、ロンディニウムはそうした計画の下にローマ帝国が各地に建設した典型的なローマ都市の一つでした。

このローマ帝国によるブリタニア統治は、それからおよそ360年以上続くのですが、紀元5世紀に入り、度重なる内乱とゲルマン民族に代表される異民族の侵入によってローマ帝国が衰退すると、すでに東西に分裂していた帝国の西側、すなわち西ローマ帝国はブリタニア放棄を決め、紀元410年に撤退してしまいます。

支配者のいなくなったブリテン島には、新たな支配者としてそのローマを追いやったゲルマン民族の一派アングロ・サクソン人が上陸します。


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上がアングロ・サクソン人のブリテン島への侵入経路です。もともと彼らは上の図の様に現在のドイツ北部からデンマークにかけて居住していたゲルマン民族の一派ですが、海沿いに住んでいたせいか船の扱いに長けており、他のゲルマン民族が南下していったのに対し、必然的に海を越えてブリテン島を目指します。

ブリテン島を征服したアングロ・サクソン人は、この地に七つの王国を打ち建てます。これが「アングロ・サクソン七王国」(しちおうこく)と呼ばれるものです。そのうち、最も勢力の大きかったアングロ人の建てたアングリア王国が、後の「イングランド」の語源です。

この七つの王国はブリテン島の支配を巡って激しく争い、ブリテン島は長い戦国時代が続く事になります。それは彼らがブリテン島に上陸した紀元449年から829年まで、およそ380年の長きに亘り、最終的にはウェセックス王国が全土を統一するのですが、それも束の間でした。なぜならそれと前後して、彼らアングロ・サクソン人のもともとの故郷であったユトランド半島に移り住んだノルマン人の一派「デーン人」が一大勢力となってブリテン島に侵入して来たからです。「ヴァイキング」の時代の始まりです。


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上がデーン人のブリテン島への侵入経路とその支配地です。先に述べた様に、このデーン人はヨーロッパ北方全域を荒らしまわったあの強大な海洋武装集団ヴァイキングの一派であり、彼らの発祥の地が後の「デンマーク」の由来ですね。

この時のデーン人の王はクヌート1世(995~1035)といい、優れた指導力を発揮して一時は北海全域を支配下に置く「北海帝国」が成立しますが、その彼が亡くなると、もともと彼の個人的裁量だけで維持されていたデーン人の支配は長くは続かず、帝国はあっさり崩壊してしまいます。

さて、イングランドの支配者はめまぐるしく変わります。デーン人の去った後のイングランドでは、かつてのウェセックス王家が復権を果たします。この時の王はエドワード懺悔王(ざんげおう)といいますが、彼は非常に敬虔なキリスト教徒であり、その地位はイングランドの有力諸侯の都合で擁立された「一時しのぎ」のものでした。


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上がそのエドワード懺悔王です。(1004?~1066)彼はウェセックス王家の王子でしたが、1013年にデーン人のイングランド侵入から逃れるため、海を越えて母エマ王妃とともに彼女の実家であるノルマンディー公家に避難し、以後フランスで育ちました。彼はそこで修道士たちと生活しているうちにキリスト教に深く帰依し、自らも修道士として生涯を終えるつもりでしたが、デーン人のイングランド支配が終わると、1042年にノルマンディー公家ならびにイングランド諸侯の要請でやむなくイングランド王に即位した異色の王様です。(彼の名「懺悔王」ですが、ヨーロッパの君主は同じ名前の人物が非常に多いため、区別するために後の人々が後付けで名付けたものです。厳格なキリスト教徒であった王が常に神に祈る姿が、人々には懺悔する姿に見えたのかも知れませんね。笑)

実は、このエドワード懺悔王こそ、今回お話するウエストミンスター宮殿を最初に造ったその人なのです。その彼によって建てられた初期の宮殿の想像図がこれです。


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上の絵の、船が数隻浮かぶ川岸に立つのが初期のウエストミンスター宮殿です。ここで間違えてはいけないのは、絵の中央にあるひときわ大きく壮麗な建物です。これは宮殿ではなくウエストミンスター寺院で、全ての建物は、この寺院を中心に建てられています。つまり、宮殿も寺院の付属の建物の一つなのです。これは敬虔なエドワード王が、宮殿よりも寺院の方に力を入れた証拠です。彼は自らの宮殿よりも寺院の建設にお金と労力を惜しみませんでした。

このウエストミンスターの名は、テムズ川を挟んでロンディニウムの西側にある「西の寺院」と呼ばれていた事から名付けられたものです。(これは日本で言えば、奈良の都の東だから「東大寺」とか、東の京都だから「東京」とかと同じです。そのままですね。笑 しかし、地名なんて意外に安直なものです。それにしても人間なんて考える事はどこでも同じなんですね。)

もともとエドワード王は、何度も言う様に熱烈なキリスト教徒でした。そう、彼は修道士として生きていきたかったので、国王になどなりたくなかったのです。しかし、誰かが王位に付かなければ、イングランドは再び戦乱の渦となり、多くの命が失われるでしょう。イングランド王位継承者としても、彼は先王の王子として誰も異論のない正統な継承権を持っています。そこで彼は、無用な流血を避けるために嫌々ながら王に即位したのです。(歴史上の君主たちは、王であれ皇帝であれみな利己的な権力を欲して王位や帝位に付き、その例は枚挙に暇がありませんが、このエドワード懺悔王は非常に特殊で稀有な存在として記憶すべき人物と思います。)

このエドワード王の下で、イングランドは一時の平和を取り戻すのですが、所詮それは、彼が存命中の間の束の間のものに過ぎませんでした。1066年にエドワード王が亡くなると、再びイングランドに戦乱の嵐が吹き荒れます。なぜなら先王エドワードは、結婚して王妃はいたものの、それは形式的なものであり、修道士として純潔にこだわった王は世継ぎをもうけなかったからです。

次の王位はイングランド諸侯の推戴を受け、先王の妃エディスの兄(つまり義理の兄ですね。しかし、先王エドワードの方が20歳以上年上なので、義弟が義兄より年上というややこしい事になります。)にあたるウェセックス伯ハロルドが、ハロルド2世(1022~1066)として即位します.。しかし、これに異を唱えた人物がいました。それは先王エドワードが亡命していた母方の実家ノルマンディー公家の当主ギヨーム2世です。


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上がそのノルマンディー公ギヨーム2世です。(1027~1087)しかし、この名はフランス語読みで、歴史ではこの名よりも英語読みの「ウィリアム征服王」の名で広く知られています。そう、彼こそが今日の英国王室の遠い祖先に当たる王なのです。つまり英国にとっては事実上の建国の父と言えるでしょう。

ギヨーム2世は、先王エドワードがかつてノルマンディー公家で20年以上亡命生活をしていた事からエドワードと親しく、また、その母エマがギヨームにとっては大叔母に当たる事から、血統から言えば自分こそイングランド王の正統な継承権があると主張していました。

「あのハロルドめ! 先王となんの血のつながりもないくせにまんまと王位をせしめおって! 血筋から言えば私こそ正統な王なのだ。こうなれば力ずくでわが手に王冠を握ってみせるぞ。」

1066年9月、ギヨーム2世は配下の全軍に出陣を命じ、1万2千の兵を率いてイングランドに上陸を開始しました。「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン征服)の始まりです。これに対し、すでに交渉決裂していたハロルド2世もこれを迎え撃つべく迎撃準備を進めていました。

「血の気の多いあのギヨームめがついに動き出しおったか。ちょうど良い。返り討ちにして首を挙げ、この際ノルマン領もわがものにしてくれる。」

1066年10月、両軍はイングランド南岸ドーバー海峡沿いの岬で激突しました。これを「ヘイスティングスの戦い」と言います。


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上がヘイスティングスの戦いで激突するギヨーム2世のノルマン軍(右側)とハロルド2世のイングランド軍(左)です。両軍の戦力はノルマン軍6千に対してイングランド軍は7千。兵力はほぼ互角でしたが、上のイラストの様に騎兵中心であったノルマン軍はイングランドの歩兵部隊をその機動力で粉砕、敵王ハロルド2世も敗走中に目を矢に射抜かれて戦死し、戦いはノルマン軍の大勝利に終わりました。

勝利したギヨーム2世は勢いに乗り、周辺地域を次々に支配下に収めながら進軍を続け、同年12月にはロンドンに入城、これを占領します。そして12月25日のキリスト生誕祭に、ウエストミンスター寺院で「ウィリアム1世」として正式にイングランド王に即位、ここに彼を始祖とするノルマン朝イングランド王国が成立するのです。

ウィリアム1世はその後も征服を続け、征服した土地に多くの城を築き、それらを譜代の家臣たちに与えて貴族に取り立て、現在の英国王室と貴族階級の基礎を築きます。彼自身も当初はウェストミンスター宮殿の近くに城を築き(これが有名な「ロンドン塔」ですね。しかし、これは宮殿というより「お城」であり、今回は省かせていただきます。汗)そこに居住していましたが、イングランド征服が順調に進んでいくと、守るには良いが、住居としては住みにくいロンドン塔からウエストミンスター宮殿に移り住みます。

それから、彼の死後ノルマン朝は4代わずか88年で断絶してしまいますが、彼の後に続く王たちはもちろん、ノルマン朝の後に続いた英国歴代王朝においてもウエストミンスター宮殿はイングランド国王の宮殿であり続け、歴代の王は即位の戴冠式をまずウエストミンスター寺院で行い、隣の宮殿に居住するのが慣例となります。さらにその後に設けられる様になった議会や裁判なども宮殿内で行われ、時代に応じて増改築が成されていきました。


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上は中世頃のウエストミンスター宮殿です。冒頭にお載せした現在の写真とだいぶ違いますね。これには後述する様に大きな理由があります。

そんなウエストミンスター宮殿に大きな転機が訪れます。いや、正確には「大きな転機」などという言葉よりも「破滅的な危機」と呼んだ方が良いかもしれません。時代は大きく流れて19世紀の中ごろに差し掛かろうとしていた1834年10月、宮殿は謎の出火によりその大半が焼失してしまったのです。(800年の歴史が積み重なった英国のシンボルともいうべき本来の宮殿はこの時、永久に失われてしまったのです。涙)

時代は即位したばかりのビクトリア女王の下で、大英帝国がその繁栄の絶頂期に入ろうとしていた時期でした。すでにこの頃には新たな宮殿が各地にあったため、宮殿は王室が使用するよりももっぱら先に述べた英国議会議事堂として利用されていました。そこで英国政府はイギリスの威信をかけて、新たな議事堂の建設に着手します。

建設は1840年に始まり、20年の歳月をかけて1860年に完成。こうして新生ウエストミンスター宮殿が出現したのです。


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上がウエストミンスター宮殿の主要部分です。宮殿の両端に建つ2本の巨大な塔、ビクトリア女王の名を冠したビクトリア・タワー、そして巨大な時計塔「ビッグ・ベン」(現在はエリザベス女王の即位60年のお祝いに「エリザベス・タワー」と名が変わっています。)に挟まれた長さ280メートルの巨大な建物です。中央のセントラル・ロビーから写真左手が貴族院(上院)右手が庶民院(下院)になります。少し上に「ウエストミンスター・ホール」というのがありますが、これが幸運にも焼失を免れた宮殿の最も古い部分です。

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上が焼失を免れた宮殿の最も古い部分ウエストミンスター・ホールです。天井がなんと木造なんですね。ここでは英国王室のしきたりにより、毎年エリザベス女王の即位祝賀パーティーが催されるそうです。貴族、政財界、文化功労者など各界の人々が女王をお祝いしています。


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こちらは宮殿裏側です。真っ白なウエストミンスター寺院との対比が印象的です。ここでもう一つ、あまり知られていない事実をお話しておきます。私たち日本人が学校時代に散々聞いたあのチャイムの音「キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン」(笑)は、このウエストミンスター宮殿のビッグベンの鐘の音が使われているのです。

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上はエリザベス女王ご臨席の下に開かれる英国議会開会式の様子です。これは貴族院すなわち上院の議場で行われ、そのため当然国王の玉座も上院にあります。玉座に座るイギリス国王エリザベス2世女王陛下(1926~)と、その夫君エディンバラ公フィリップ殿下(1921~)を囲み、伝統的な衣装を身にまとった貴族階級出身の議員の人々が開会の儀式を執り行っています。(意外と狭いんですね。女王の座る黄金に輝く玉座がひときわ目立ちます。驚)

ちなみに余談ですが、英国貴族といってもその身分は大きく2つに分かれます。1つは代々続くオーソドックスな世襲貴族、もう1つは国家に大きな貢献をした功績から頂く爵位が一代のみの一代貴族です。その中で、本物の貴族である世襲貴族はなんと750家にもなるそうですが、その大半が18世紀から20世紀初頭までの大英帝国全盛時代に商業、貿易、植民地経営で財を成した新興貴族、いわゆる「成金」(失敬 笑)の人々で、ウィリアム1世に始まる中世以降から続く貴族はわずか数家しかおらず、英国では「金で買った爵位」などとジョークにもなったそうですが、そんな彼らも時代を経て100年、200年と代を重ねるうちに権威を持つ様になっていきました。

しかし、さすがに「貴族の数が多すぎる」との批判の声が上がり、第2次大戦後の1958年に先の「一代貴族」の制度が設けられ、以後は「余程の事」がない限り、新たに世襲貴族として爵位をもらう事はなくなったそうです。上の写真は貴族院であり、当然の事ながらその全てが英国貴族だけで構成されていますが、現在その貴族院の存在価値は近年の制度改革で大きく形骸化し、一応下院を通過した法案などの審議は行うものの、わが国の参議院と同じで否決されても下院の議決が優先されるため、もっぱら英国議会の伝統的な儀式の場を取り行うのがその大きな役割となっています。


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そして上が庶民院すなわち下院です。わが国における衆議院ですね。こちらは選挙で選ばれた議員の人々(もちろん貴族の人々も含みます。貴族であっても政治家として国政に携わりたければ下院議員として選挙に立候補するのです。その場合、当然兼任は出来ませんから、上院すなわち貴族院議員は辞職しなければなりません。そのため下院といっても多くの貴族の方が議員となっています。)が実際に国家の政策を決定する場です。議長席をはさんで左が与党席、右が野党席になります。

英国では労働党と保守党の二大政党が議席(650議席)の大半を占め、現在は保守党が与党ですが、きっとわが国と同じ様に、与党と野党が激しい論戦を繰り広げているのでしょうね。ちなみに英国にも自由民主党すなわち「自民党」という政党があるそうです。ただし、こちらの自民党は議席が10に満たない少数政党だそうですが。(笑)


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上は夕闇に照らし出されるウエストミンスター宮殿の姿です。このブログを書いている現在、英国ではEUからの離脱を巡ってそのEUと英国政府が交渉が続けています。英国とヨーロッパにとってまさに歴史の転換点に等しい出来事が今もリアルタイムで進んでいますが、英国の過去を決め、同時に未来を決めるウエストミンスターは、超然とその威厳に満ちた姿でテムズ河畔にたたずみ、時折発生する霧の中から今日もロンドンの街にビッグ・ベンのチャイムの音を鳴り響かせています。

次回に続きます。

アンダルシアに輝いたグラナダの光 ・ アルハンブラ

みなさんこんにちは。

今回から宮殿の本場ヨーロッパに戻り、スペイン南部アンダルシアに700年以上に亘って君臨したイスラム王朝グラナダ王国の夢の跡、魅惑の王城「アルハンブラ宮殿」についてお話したいと思います。

このアルハンブラ宮殿については、テレビの紀行番組などでスペインを紹介する際に必ず登場し、またユネスコの世界遺産として、歴史好きな方であれば誰でも名前だけは一般知識としてご存知の事と思いますが、ではこの宮殿の成り立ちはそもそもどの様なものだったのでしょうか? なぜキリスト教国のスペインにイスラムの巨大な宮殿が存在しているのでしょうか? まずはそこから今回のお話を始めたいと思います。

アルハンブラ物語〈上〉 (岩波文庫)

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このアルハンブラ宮殿については上の本が良書です。19世紀前半のアメリカの作家ワシントン・アーヴィングの最高傑作で、上下2巻に分かれ、上巻はページ数360ページ余り、外交官として赴任した作者が見聞きした当時のスペイン各地の様子がアルハンブラと絡めて語られていきます。下巻はページ数440ページ余りで、こちらはアルハンブラにまつわる様々な伝説が、さながらアラビアンナイトの昔話の様に挿話されているものです。自分はこの作品を読む時、アランフェス協奏曲を聴きながらスペインの情景を想像して楽しんでいます。(笑)

アルハンブラ宮殿の歴史は8世紀半ば、つまり今から1300年ほど前にまでさかのぼります。当時現在スペインとポルトガルがあるこのイベリア半島一帯は、5世紀初めにこの地に侵入したゲルマン民族の一派が築いた西ゴート王国(415~711)の支配下にあり、およそ300年に亘って独自のキリスト教国家として存続していましたが、8世紀に入ると地中海を挟んだ北アフリカから大きな脅威が迫ります。ウマイヤ朝イスラム帝国の侵攻です。


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上がイスラム帝国の拡大図です。このイスラム教は、開祖である預言者ムハンマド(570?~632 この「預言者」というのは、未来を予測する「予言」とは全く違うもので、「神から与えられた言葉を人々に伝える神に選ばれた者」という意味です。そういう事にしておけば人々に自分の話を聞かせるのに都合が良いですからね。笑)が613年頃からメッカで説きだしたもので、「アッラー」を唯一絶対の神とし、そのアッラーの神がムハンマドを通して人々に伝えた言葉を「コーラン」と呼ばれる経典にまとめ、これを元に体系化された一神教の宗教であるのは良く知られていると思います。ちなみに「イスラム」というのは、アラビア語で「神に帰依する」という意味だそうで、ムハンマドの死後100年余りの間にあっという間に中東から北アフリカ全域(上の図参照)に広がり、今日の国際的な諸問題の根源とも言えるでしょう。

先のウマイヤ朝というのは、開祖ムハンマドと先祖を同じくするウマイヤ家が興した最初のイスラム王朝(661~750)であり、自らをムハンマドの正統な後継者と自認し、現在のシリアのダマスカスを都としてかつてのローマ帝国をしのぐ広大な地域を支配下に置いた大帝国でした。(実際には、先祖が同じといっても、このウマイヤ家は生前のムハンマドと大変仲が悪かったそうで、簡単に言えばムハンマドが築いたイスラム教というオリジナルの「巨大な遺産」を、ウマイヤ家がうまく乗っ取ったといえるかもしれませんね。笑)

ウマイヤ朝イスラム帝国は、第6代王ワリード1世(674~715)の時代に最盛期を迎え、勢いに乗るワリード1世は711年、地中海を越えてイベリア半島に遠征軍を差し向け、すでに衰えていた先の西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島をイスラム領としてしまいます。しかしその後、ウマイヤ朝そのものも内部での権力争いが続き、イスラム世界の信望を失っていきます。やがて750年、今度はムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家によって打倒され、王朝創始から14代わずか90年に満たずに滅亡してしまいました。

では、そのウマイヤ朝が滅んだ事によって、イスラム勢力はイベリア半島を放棄したのでしょうか? 実は一度滅んだはずのウマイヤ朝ですが、したたかに生き延びていたのです。750年にイスラム第一王朝のウマイヤ家が、第二王朝のアッバース家に滅ぼされたのは先に述べましたが、ウマイヤ王家の王族の一人がアッバース朝の目をかいくぐって必死の逃亡に成功、海を越えた遠いイベリア半島のこの地にウマイヤ朝を再興したのです。時に756年の事でした。


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上がウマイヤ朝を再興した王族の一人、アブドゥル・アラフマン1世です。(731~788)王家の一員として何不自由ない生活から一転アッバース朝に追われる身となった彼は、わずかに残った忠実な家臣らとともに命からがら脱出し、逃げる際に慌てて持ち出した手持ちの宝石を少しづつ換金して食いつなぎながら(笑)5年以上北アフリカの僻地を転々とし、他のウマイヤ王家の一族がアッバース朝によって徹底的に根絶やしにされていた所を、幸運にもなんとか海を越えてイベリア半島にたどり着き、生き延びる事が出来ました。やがて彼は、そこで「後ウマイヤ朝」を興して初代の王になるのですが、若い頃に経験したそうした様々な苦労が、彼を堅実な王に育て上げました。

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上がアブドゥル・アラフマン1世によって再興したアッバース朝時代の後ウマイヤ朝イスラム王国の位置です。(緑の部分)悪い言い方かもしれませんが、再興したといってもその実態は事実上のいわゆる「亡命政権」と言って良いでしょう。その北にあるオレンジ色の「アストゥリアス王国」とは、最初にウマイヤ朝に滅ぼされた西ゴート王国の残党が打ち建てた王国で、これもいわゆる亡命政権です。それにしても、その西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝も、同じ目に遭って亡命政権を打ち立てる事になるとは、歴史とは本当に皮肉なものですね。(驚)

さて、苦労人(笑)の王アブドゥル・アラフマン1世によってイベリア半島に築かれた後ウマイヤ朝イスラム王国ですが、その後どうなったのでしょうか? 実はこの王国、最初の大帝国時代よりもはるかに長く続き、大変繁栄したのです。初代アブドゥル王は内陸のコルドバを王国の首都に定め、その彼から11代目の王まで250年余りの間、大きな内紛や権力争いもなく、王たちはそれぞれ平均20~30年の長期在位を維持し、歴代の王の下で独自のイスラム文化を発展させ、王朝はとても安定していました。

その理由は地理的要因が大きく影響していました。王国が海を隔てた遠いイベリア半島にあったため、さすがのアッバース朝も手が届かず、周囲に大きな外敵がいなかったからです。唯一の脅威は地続きで国境を接していた北のカロリング朝フランク王国でしたが、これも3千メートル級の高い山々が連なるピレネー山脈が天然の壁として立ち塞がっていたため、大きな心配は要りませんでした。

しかし、12代目の王から混乱が始まります。第12代国王ヒシャーム2世(965~1013)はわずか11歳で即位し、当然年齢的に政治は出来ない事から、国政は先代の王から仕える経験豊かな宰相が後見人となって行っていました。しかしその宰相が1002年に亡くなると、国政を任せきりにしていたヒシャーム2世にその力量はなく、それを良い事に王国内の有力者たちが無能な王を廃位し、ウマイヤ家の他の王族から自分たちに有利な者を選んで勝手に国王として擁立、同時に何人もの王が立つという異常事態に陥ってしまったからです。

この内紛により国内各地で反乱が相次ぎ、王国は急速に衰退していきます。さらに悪い事に、かつてウマイヤ朝が滅ぼし、北のピレネー山脈に追いやっていた西ゴート王国の残党が築いたキリスト教勢力の小王国がこの混乱に乗じて独立、領土奪還の動きを開始します。国土回復運動有名な「レコンキスタ」の始まりです。こうした内憂外患により、17代275年続いた後ウマイヤ朝イスラム王国は1031年ついに滅亡してしまいます。

この後ウマイヤ朝末期の混乱期にグラナダの街を見下ろす高台の上に築かれたのが、今回お話するアルハンブラ宮殿です。といっても、最初から宮殿として築かれたのではなく、元は反乱軍に対してグラナダ防衛の軍事拠点としてウマイヤ軍が築いた「アルカサーバ」(アラビア語で「城塞」の意味です。そのままですね。笑 つまり、元はたくさんあるアルカサーバのうちの一つに過ぎないわけです。)と呼ばれる城塞がその始まりでした。

後ウマイヤ朝イスラム王国滅亡後、権力の空白地帯となったイベリア半島には、「タイファ」と呼ばれる旧王国の有力諸侯がそれぞれの地に自立し、半島は小国割拠の時代に入ります。


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上が後ウマイヤ朝滅亡直後の11世紀半ばのイベリア半島の勢力図です。この時、グラナダも上の様にその一国となりましたが、まだこの時点では指導者の政権交代が激しく、王国と呼べるほどに至っていません。

やがてこれらのイスラム・タイファ諸国に北から脅威が迫ります。先に述べた国土奪還に燃えるキリスト教諸国の南下です。特にその中で勢力拡大が著しかったのがカスティーリャ王国とアラゴン王国でした。両国とも後ウマイヤ朝滅亡後の同じ1035年に建国し、カスティーリャはイベリア半島中央部へ、そしてアラゴンは隣国カタルーニャと連合王国となって地中海方面へ勢力を伸ばします。

この事態に、独力で対抗する力のないイスラム・タイファ諸国は、当時北アフリカに勃興していたムワッヒド朝(1130~1269)さらにそれを滅ぼして成立したマリーン朝(1196~1465)などの大国に服属し、その後ろ盾を得てこれに対抗しようとしますが、キリスト教国とりわけカスティーリャ王国の攻勢に次々に拠点を攻略され、イスラム諸国の勢力範囲は年を追うごとに南へ南へと押し戻されて行きました。


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上がレコンキスタにおけるキリスト教勢力の支配領域の変遷です。

そんな最中の1230年、ようやくグラナダに永続的な王朝が樹立されます。ナスル朝グラナダ王国の出現です。この王朝は、元はこの付近を根城にしていたイスラム軍団の長であったムハンマド・イブン・ユースフ(?~1273)という人物が打ち建て、初代国王ムハンマド1世として即位して成立したもので、残念ながら彼の肖像画は残っていないのですが、この王様、小国とはいえさすがに一国の王に登り詰めるだけあって、なかなかしたたかな人物であった様です。

なぜなら彼の在位期間は実に41年におよび、その長い在位中に先に述べたイスラム勢力の総本家であるアッバース朝、そしてその対立派が北アフリカに興したムワッヒド朝、マリーン朝、ハフス朝などに自ら服属する事でキリスト教勢力をけん制しつつ、かと思えばそれらイスラム勢力とは一歩距離を置き、その目を欺きながら時にはなんと敵であるキリスト教勢力とも裏取引をしてはばからない高度な外交戦略で独立を維持していったからです。

ムハンマド1世はグラナダの街に都を置き、彼の死後王位を継いだその子ムハンマド2世も父王のやり方を継承、彼ら親子二代合わせて70年に及ぶ治世の間に、グラナダ王国はその基礎を整え、すっかり強固な体制を構築していました。そして彼らの手により、グラナダの丘にそびえる先のアルカサーバは大拡張工事が施され、城は味も素っ気もないそれまでの単なる城塞から、巨大な宮殿へと生まれ変わる事になるのです。ここにイスラム建築の最高傑作「アルハンブラ宮殿」の誕生です。

しかし、王国の初期の段階では、宮殿はまだ現在見られる様な華麗なものではなく、あくまでその規模を大きく拡大させた程度のものでした。その後、歴代のナスル家の王たちによって逐次増改築が繰り返され、とりわけ第7代国王ユースフ1世(在位1333~1354)と、その子で第8代国王ムハンマド5世(在位1354~1391)の時代に、宮殿はほぼ現在見られる壮麗な建築様式で飾られました。


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上の画像はアルハンブラ宮殿の全景です。ちなみに宮殿の名前「アルハンブラ」ですが、これはアラビア語で「赤い城塞」を意味する「アル・カルア・アル・ハムラー」(私たち日本人には舌を噛みそうですが、笑)がスペイン語に転じたもので。宮殿の建築資材である独特の赤みを帯びた石材が、特に夕方になると夕日に照らされて真っ赤に見える事から付けられたものです。この宮殿は非常に多くの建物が不規則に建ち並ぶ複合構造なので、上空からの衛星写真やイラストなどと照らし合わせ、それぞれの建物の位置や配置を確認して見てください。

先に述べた二人の王のうち、8代国王ムハンマド5世の治世、グラナダ王国は最盛期を迎えます。というと、疑問に思われるかも知れません。レコンキスタはどうした? グラナダはキリスト教勢力に押されていたのではないかと。もちろんその間も、レコンキスタの戦いは続いていました。しかし、偶然にもある三つの条件が、この時のグラナダに有利に働き、王国に繁栄期をもたらす時間的猶予を与える事になったのです。

その三つの条件とは、まず第一に当時全ヨーロッパを襲った恐怖の伝染病、すなわち「ペスト」(黒死病)の大流行です。このペストの大流行により、キリスト教国のカスティーリャとアラゴンの両国とも多くの死者が出たため、国土奪還どころではない惨状になってしまいました。

第二は、そのカスティーリャ王国とアラゴン王国の不和です。この二カ国は隣り合う隣国同士なのですが、イベリア半島における支配権をめぐって事ある毎に対立していました。しかし、力関係ではカスティーリャ王国の方が強く、やむなくアラゴン王国はカスティーリャとの直接の戦争は極力避け、出来るだけその足を引っ張りつつ、東の地中海方面に勢力を拡大させていく様になります。


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上がそのカスティーリャとアラゴンの位置と支配領域です。カスティーリャはアラゴンの3倍近い大きさですね。後にこの二カ国は一つの王国として統合されるのですが、決して仲が良かったというわけではないのです。

第三の理由は、カスティーリャ王国の内紛です。詳細はテーマからそれるので省きますが(汗)要約すると、1360年代、先王と正妻である王妃との間に生まれた兄王と、その先王が愛人に産ませ、臣下の貴族に養子に出した弟が王位をめぐって争い、当時百年戦争の最中にあったイギリスとフランスがそれに介入、イギリスは兄王を、フランスは弟を支援し、最終的にはフランスの支援する弟側が勝利して新王朝(トラスタマラ王朝といいます。)を開きます。この内紛にはもちろん先のアラゴン王国も暗躍しており、内紛が収まっても、カスティーリャ王国は疲弊した国内の建て直しにかなりの年数を要し、14世紀が終わるまでレコンキスタを中断せざるを得ませんでした。

こうしたいわば外的な要因のおかげで、グラナダ王国は独立を維持し、その間に王国の中心アルハンブラ宮殿ではそれまで蓄積され、磨き上げられてきた光り輝く華麗なイスラム文化に包まれていったのです。


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上の一連の画像はアルハンブラ宮殿の内部の様子です。これは自分の個人的な感想ですが、この宮殿の魅力は外から見た建物群はもとより、その内部のイスラム装飾の美にあると思います。写真のイスラム独特のアラベスク装飾に注目して下さい。

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上の画像群はアルハンブラ宮殿の庭園の様子です。砂漠の民が興したイスラム王朝においては、水と緑は黄金よりも貴重なものであり、それらで宮殿を埋め尽くす事は王だけに許された何よりも贅沢な事でした。ちなみにこの宮殿の入場料金は日本円で大人一人2千円もあればおつりが来るので(12歳以下の子供たちは保護者同伴なら無料)それほど高くはないのですが、世界遺産ならびにそのネームバリューから世界中から観光客が絶えないため、当然ながら完全予約制で人数に制限があります。また見学するのも、昼の部と夜の部で料金や時間、見学出来るコースも違うので、旅行される際は事前に良く調べておいたほうが良いと思います。それにしても、とにかくこの宮殿は写真を載せていたら切りがありません。(笑)

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上はアルハンブラ宮殿内に併設されているホテルとレストランです。実はこの宮殿、あまり知られていませんが、宮殿内の修道院を改装してホテルとなっており、宿泊する事が出来ます。これはスペイン国営の「パラドール」と呼ばれるもので、客室は40ほど、料金は日本円で1泊5~7万円ほどです。しかし、元が修道院なので建築上の制約から一つ一つの客室はそれほど広くはない様です。

しかし、これだけの宮殿を建設するには当然莫大なお金が必要です。王国とはいえ国家の規模としては小国に過ぎないグラナダは、一体どこからその金を得ていたのでしょうか? そこにも、グラナダ王国が繁栄したもう一つの理由があります。上の地図をご覧になればお分かりの様に、グラナダは地中海の西の出入り口であるジブラルタル海峡を押さえています。そのため彼らは必然的に海上貿易に大きな影響力を持っていました。当時地中海とりわけ西地中海の制海権を握っていたのは、海洋都市国家ジェノヴァであり、貿易で生きるジェノヴァにとってグラナダと友好関係を保つのは国の運命を左右する重大事でした。

友好関係を保つとは、要するに「お金」の事です。ジェノヴァはグラナダに多額の資金援助をする見返りに、ジェノヴァ商船のジブラルタル海峡通過や関税免除などの優遇措置を受けていたのです。つまり、アルハンブラ宮殿建設の資金を出していたのは、ジェノヴァであったといっても過言ではないでしょう。

この様に、繁栄を謳歌していたグラナダでしたが、所詮それは歴史の束の間の夢に過ぎませんでした。なぜなら15世紀に入り、先の内戦で疲弊した国内の混乱を収めたカスティーリャ王国が、再びレコンキスタを再開したからです。すでにこの時、イベリア半島に残るイスラム勢力はグラナダだけになっていました。気が付いた時、グラナダはイベリア半島におけるイスラム最後の牙城になっていたのです。

しかし、ナスル朝後期の王たちは、50年近く続いた繁栄の時代にすっかり慣れてしまい、初期の王たちが苦心した外交、防衛戦略を怠る様になってしまっていました。さらに悪い事に、それまで対立していたカスティーリャとアラゴンの二カ国が、関係を改善して急速に接近し始めます。その象徴が、カスティーリャ女王イサベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世の結婚です。


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上がカスティーリャ女王イサベル1世(1451~1504)とアラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)です。彼らは1469年に結婚し、5人の子に恵まれ、夫婦力を合わせてグラナダ王国を滅ぼし、およそ800年続いたレコンキスタを終わらせて後のスペイン王国を築き上げました。しかし、この時点ではスペイン王国とは呼ばれず、あくまで「カスティーリャ・アラゴン連合王国」というものでした。これを「同君連合」といい、この二人の王は結婚によってお互いの国の王でもあるという形を取っていました。つまり、王と王妃ではなく、どちらも王様なのです。

これにより、両国を相争わせてそれ以上の南下を防ぐというそれまでの伝統的なグラナダ防衛戦略が通用しなくなります。それに先立つ1462年、カスティーリャはグラナダの資金源を絶つために先のジブラルタル海峡に侵攻し、これを奪い取ります。このジブラルタル海峡の喪失は、グラナダに深刻なダメージを与えました。なぜならここを押さえていた事で、グラナダ王国は西地中海の海上貿易をコントロール出来たからです。そのジブラルタルが、グラナダからカスティーリャのものになった事で、それまでグラナダに多額の資金援助をしていたジェノヴァがあっさりとグラナダを見限り、グラナダへの貿易と投資から一切手を引いてしまいます。

もはやグラナダ王国の命運は時間の問題でした。そして1491年の冬、フェルナンド2世率いるカスティーリャ軍はグラナダに侵攻、およそ1万の兵力でグラナダ最後の砦アルハンブラ宮殿を包囲してしまいます。この時のグラナダ王は第23代ムハンマド11世(1460?~1527)で、彼ははからずも自らに課せられた最後のつらい仕事に臨む決意を固めていました。それはもう勝ち目のない無益な戦いをやめ、降伏してグラナダ全土をカスティーリャに引き渡す事です。彼はその証として、グラナダの象徴アルハンブラ宮殿の門の鍵を携えてイサベル、フェルナンド両王と会見します。


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上がその会見の様子を描いた絵です。ここに、およそ800年の長きに亘ったレコンキスタは終わりを迎えるのです。アルハンブラ開城に際し、最後の王ムハンマド11世は一旦は協定によりカスティーリャ領内に与えられた所領に赴きますが、やがて北アフリカに居を移して二度とグラナダに戻る事なく生涯を終えます。落ち延びていくムハンマド11世の姿が哀れです。その視線の先には、かつての自らの居城、あのアルハンブラ宮殿の姿があった事でしょう。こうして23代260年続いたナスル朝グラナダ王国は滅亡したのです。

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上は夕日を浴びて浮かび上がるアルハンブラ宮殿です。国が滅んで500年経った今も、アルハンブラは燃え盛る炎の様な強烈なイスラムの美を今日の人々に伝えるために、グラナダの丘の上にそびえています。

次回に続きます。

日本最強の女帝が築いた幻の宮殿 ・ 藤原宮

みなさんこんにちは。

今回のお話は、古代日本の最初の本格的な都として建設されたにも係わらず、完成からたった16年で遷都され、歴史から消えた幻の都「藤原京」とその宮殿についてご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、「都」と聞いて思い浮かべる地といえばどこでしょうか? これは愚問だったかも知れませんが、日本人ならやはり「京都」と答える方がほとんどだと思います。かつて学生時代に「鳴くよウグイス平安京」と語呂合わせで憶えた様に、西暦794年に桓武天皇によって築かれ、1868年の明治維新まで実に1074年という長い歴史を刻んだ京都が日本の都として私たち日本人の心に深く刻まれているのは、ごく自然な思考の流れでしょう。

また、京都すなわち平安京が都として定着する以前のわが国では、実に呆れるほど頻繁に都が移されていた事も、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。しかし、その中で今回お話する藤原京とその宮殿は、それまでころころと場所が変わっていた都と宮殿が、初めて恒久的なものとなるよう計画された大規模なものであり、またそれを築いたのが、ある一人の高貴な女性であったという事実はあまり知られていません。では、その藤原京とはどんな都だったのでしょうか? そしていつ、どの様な経緯でそれは築かれたのでしょうか? まずはそこからお話したいと思います。

時は西暦672年7月、まだ倭国と呼ばれていたわが国では、ある二人の高貴な人物が国の主導権をめぐり、運命の戦いに臨もうとしていました。その二人の高貴な人物とは、あの「大化の改新」の首謀者である中大兄皇子こと天智天皇(626~672)の皇太子大友皇子(おおとものみこ)そしてもう一人は同じく天智天皇の弟宮にして、大友皇子の叔父にあたる大海人皇子(おおあまのみこ)です。

どうして叔父と甥が戦う事になってしまったのでしょうか? 実はその原因は全て先帝の天智天皇から始まっていました。天智帝は弟宮の大海人皇子を最も信頼する補佐役として政治を執り行われ、自らの後継者すなわち皇太弟(こうたいてい)とまで位置づけておられたのですが、次第にその考え方の違いから意見が合わなくなっていかれました。そのうちに第一皇子の大友皇子がすくすくと成長して立派な青年となり、帝はわが子可愛さから実の子である大友皇子を次の天皇となる皇太子にされるのです。


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上が天智天皇の皇太子 大友皇子にあらせられます。(648~672) このご肖像は後の時代に描かれたものですが、ほぼ当時の装束に近いのではないかと思います。

その後、天智天皇が崩御され、大海人皇子は大友皇子と争う意志の無い事を示す意思表示として出家し、ご一族とわずかな従者たちとともに吉野の山奥に籠られるのですが、叔父宮が皇位を狙っているとの疑心暗鬼にかかられた大友皇子は、先帝天智帝が飛鳥から移された琵琶湖のほとりの大津の都から、大海人皇子追討の軍勢を吉野に差し向けてしまうのです。

事ここに至り、対決は避けられないとご決心された大海人皇子も、地方の豪族たちを味方に付けて挙兵します。これが記録に残る日本最古の大規模な内戦である壬申の乱(じんしんのらん)です。(「壬申」とは干支の事で、この年が「みずのえさる」であったためです。)

戦いは当初、およそ3万の兵を擁する大友皇子の近江朝廷軍が絶対優勢であると思われていました。しかし、天智天皇を良く補佐していたこれまでの実績から、地方の豪族たちの多くが大海人皇子に味方し、同じく3万に膨れ上がった彼らは近江朝廷軍を各地で撃破、大津の都に攻め上ります。敗北を悟られた大友皇子は、大津の御所の一室で首を吊って自害あそばされ、乱は終息するのです。(大友皇子は「敗者」として強く記憶され、長い間歴史の中で顧みられる事はなかったお方ですが、明治になって、正式な皇統の系譜を作る際に、時の明治天皇は大友皇子を在位期間は短いとはいえ天皇としてお認めになられ、歴史古書の引用から第39代「弘文天皇」のお名が追号されました。)

一方、勝利した大海人皇子はその後「天武天皇」として即位され、兄天智天皇が行った政策を抜本的に見直す大改革を実行に移されます。


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上が第40代天武天皇にあらせられます。(631?~686)このご肖像も、はるか後の時代(室町以降?)に想像で描かれたもので、それが証拠にご装束が「束帯姿」で描かれており、飛鳥時代当時のものではありません。お顔立ちもさながら「武将」の様にいかめしく描かれていますが、これは実際に自ら軍勢を率いて権力を得られた歴代天皇の中でも数少ない武断の帝であられる事からこうイメージされたのでしょう。しかし、天武帝が強力なリーダーシップを発揮されたとても意志の強いお方であられたのは事実であり、自分はイメージとしてはピッタリではないかと思います。(笑)

天武天皇は即位されると早速様々な改革を実行に移されます。特に、兄天智天皇以前の帝たちがかつて悩まされた豪族たちの専横を見て来られた経緯から、彼らの力を削ぐために大臣職を一切置かず、自ら政治の全てを執り行われ、朝廷の要職もほとんど皇族のみで占め、天皇個人に一切の権限を集中させました。本来ならこんなやり方は豪族たちが黙っていないはずですが、天武天皇には豪族たちを心理的に従わせる天性の強力なカリスマ性がお有りになった様です。

天武天皇の行われた政策は枚挙に暇がないのでここでは省かせて頂きますが(汗)その在位中にほぼ、その後のわが国の基本的なあり方の原型をお創りあそばされました。さらに、ここでどうしてもご紹介しなくてはならない最も重要な事を二つお話しておかなければなりません。一つ目は、それまで倭国、扶桑(ふそう)、大和などと統一されていなかったわが国の国名を「日本」とお決めになられたという点です。その「意味」については説明するまでもないですね。(笑)

また、二つ目は、史上初めて「天皇」をお名乗りあそばした点です。この意味は、古代中国において、天上を統べる万物の創造主を「天帝」と称し、その別名からお選びになられたのが有力な説です。わが国の根幹を成すこれらの一連の諸事をお決めになられた天武天皇は、ある意味で、わが日本の事実上の「建国の父」とお呼びしても差し支えない偉大な帝であられると思います。

しかし、洋の東西を問わず、歴史を見れば偉大な人物には必ずそれを支える「女性」の存在があります。この天武天皇にもその偉業を達成するために大きな役割を果たした女性がいました。それが今回のお話の主役であり、天武帝の皇后であられた後の持統天皇です。


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上が天武天皇と後の持統天皇ご夫妻の肖像です。とても仲睦まじいご夫婦であられた様です。

彼女は正式には鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)とお呼びし、先の天智天皇の第二皇女に当たられますが、驚くべきはその年齢差で、夫君の天武帝とは13歳の差がありました。657年に父帝の命により、当時は大海人皇子であった26歳の叔父に嫁がれたのですが、それが後の彼女の運命を大きく変える事になったのです。(天智天皇は弟宮の大海人皇子になんと彼女を含む実の皇女4人を妃として与えています。それだけ弟宮を最も信頼しておられたのでしょう。)

讃良皇后は、壬申の乱の折にもご夫君と常に行動を供にされ、天武帝即位後は帝が唯一心を許せる最高の相談役として片時も離れる事無く帝を支え続けておられました。天武天皇はその在位中、讃良皇后を「共同統治者」とし、ご夫婦二人三脚でわが国を統治されたのです。

しかし、このわが国の歴史上唯一ともいえるこの高貴なご夫婦による共同統治も、やがて終わりを迎えます。686年、天武天皇が崩御されたのです。次の帝にはどなたが即位されるのか? 周囲は当然先帝の皇子のうちの誰かを予想していました。というのも、天武天皇には後継者となる皇子が10人もおられたからです。が、その予想は意外な形で大きく外れました。なぜなら、皇位に着かれたのはなんと讃良皇后その人だったからです。時は690年、ここに日本史上最強の女帝、持統天皇の誕生です。

それにしても、なぜ讃良皇后は他の皇子たちを差し置いて自ら即位されたのでしょうか? 実はこれには事情がありました。先に述べた様に、天武天皇には10人もの皇子方がおられたのですが、そのうち、讃良皇后のお産みになった実の子は第二皇子の草壁皇子(662~689)のみで、それ以外は他の皇后方や側室との間に生まれた方々でした。そこで、讃良皇后は当然わが子草壁皇子を帝に据えるおつもりでしたが、その皇子がまだ27歳の若さで薨去されてしまったのです。

讃良皇后は壬申の乱以後、夫君の天武天皇と14年に亘って共同統治しておられました。そのご意志を受け継ぐのは自分を置いて他にはいないとの強い思いが、自らが皇位を継いだ大きな理由ではないかとの説が有力です。

ともあれ、即位された持統天皇は、亡き天武帝の政策路線を忠実に実行に移されます。その中で、彼女が最も力を注いだのが、今回ご紹介する新たな都「藤原京」とその宮殿の建設でした。


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上の一連の画像は藤原京の復元模型と上空から見た図です。「大和三山」と呼ばれる三つの小さな山の周囲に、東西5.2キロ、南北4.8キロの範囲で都が築かれていました。中心には天皇のおわす宮殿が置かれ、その大きさは後の平城京や平安京を凌ぐとても巨大なものであったそうです。しかし、人口は後の都に比べればはるかに少なく、およそ3万人程度であったと推測されています。これはおそらく、この都そのものに住む事が出来るのが豪族や有力者、官僚などの身分の高い人々だけで、一般の庶民がほとんどいなかったせいと思われます。

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上が当時の藤原宮と都の様子をCGで再現した画像です。

この藤原京とその宮殿は、持統天皇即位と同時に建設が開始され、4年後の694年に完成、持統帝は直ちに都を飛鳥からこの地に遷都されます。それにしても、なぜ持統天皇はこの様な巨大な都を建設したのでしょうか?都も宮殿も、すでに先に述べた飛鳥の地に立派なものがあるはずです。

それには大きな事情がありました。実は、それまでのわが国では歴代の帝が即位される度に、宮殿をあちこちに移していたのです。帝が宮を移される度に、豪族たちも従う人々もその宮の周囲に移動せざるを得ず、政治を行う上で非常に不安定かつ非効率でした。さらに飛鳥の地は土地が狭く、平地はもう建物で一杯でこれ以上都を置くのは限界がありました。そこで、持統天皇はその弊害を無くすため、唐の都長安に倣い、永続的な不動の都と宮殿を建設したのです。

もちろん、その建設には莫大な費用と膨大な労働力が必要であり、豪族たちや官僚などの保守派グループの抵抗もありました。しかし、新たな都の建設は、亡き先帝天武天皇が夢に描いていたものであり、妻である持統天皇は夫君の夢をなんとしても実現するために断固強行されました。

「どれほどの月日と金がかかろうと構わぬ。これはわが国が文明国家である事を周辺国に知らしめるために絶対に必要な事なのです。もし、反対する者がいるならば、その者らは帰って戦の支度をするが良い。」

持統天皇は新都建設反対の豪族らの一部に対し、「脅し」のために兵を差し向け、建設に消極的な官僚なども次々に挿げ替えて反対派を一掃し、これにより震え上がった彼らはすっかり黙り込んでしまいます。思えば彼女は、あの大化の改新を成し遂げた中大兄皇子こと天智天皇の娘であらせられ、父帝の反対派への容赦ない弾圧と、それにともなう戦と混乱を幼い頃より垣間見て来られたお方です。さらに壬申の乱においても、夫君天武天皇の勝利に政治面で多大な助言と貢献をされ、つまり簡単に言えば「戦」に慣れた強い女性でした。


持統天皇

少し冷たいイメージの持統天皇。拾いもののイラストです。(笑)

そのため、自らの政策実行のために多少の犠牲や脅しなどもいとわない大変意志の強いご性格になられたのです。持統天皇はその後も、強大な権力でわが国を統治され、亡き草壁皇子の長男で自らの孫に当たる文武天皇(683~707)が即位されて上皇となられてからも、崩御されるまで実権を握り続けられました。まさに彼女こそ、日本最強の女帝とお呼びしても差し支えないでしょう。これは、歴史上ほとんど権力を持たなかった日本の女性において非常に稀有な事であり、同時に彼女が日本の歴史における事実上最後の女性権力者ではないでしょうか。(あくまで個人的意見です。不敬な意志は微塵もありません。)

ところで、ここで全く話が変わりますが(汗)この時代の人々は、一体どんな生活をしていたのでしょうか? ここでそうした事にも少し触れて見たいと思います。


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上は飛鳥時代から奈良時代にかけての当時の人々の服装の再現です。なかなか色とりどりですね。これらはみなさんもご存知のあの極彩色で有名な高松塚古墳の壁画から再現されたものです。現在これらは奈良のご当地イベントなどでレンタルされており、実際に着用して当時の気分に浸る事ができます。歴史好きな方は試してみてはいかがでしょうか。(笑)

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そして上がこの時代の人々が食べていた食事のメニューの再現です。上から順に貴族、中級官僚、一般庶民です。貴族の食事はさすがにメニューも多いですね。しかし、全体的にまだ彩(いろどり)というものがなく、とても質素なものです。この時代はまだお箸は使われておらず、写真にある様に木のさじですくって食べていたようです。(でも、これではご飯は良いとして魚などは食べづらいですね。おそらく手づかみだったのでしょう。)また、ご飯の横に置かれている白いものは「塩」で、味付けの調味料はまだそれくらいしかなく、それに白米は貴族以上の身分の高い人々のみで、庶民は精米していない玄米でした。

上の食事を見て共通しているものは「肉」がないという点です。これは仏教の影響により天武天皇の時代に肉食が禁じられ、明治まで1300年以上続いた事から、これがその後のわが国民の平均身長の低さを招いてしまいました。これは天武帝の数少ない「失政」かもしれませんね。(笑)

さて、こうして日本最初の本格的な都として建設された藤原京ですが、新たな疑問が沸き起こります。冒頭で述べた様に、この都も宮殿も、完成からわずか16年で放棄されているのです。なぜなのでしょうか?

その答えは以外に単純なもので、一言で言ってしまえば「場所の選択を誤った。」のが原因でした。実はこの都のある一帯は土地が低く、雨が降ると周囲の山々から流れ下った雨水が溜まってしまうのです。


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上の画像をご覧ください。これは現在の藤原宮跡(大極殿)の写真ですが、見ての通り一面ひどい水溜りになっています。現在でもこれですから、雨が降るたびに天皇のおわす宮殿がこんな状態になってしまっては何より畏れ多い事ですし、それに建物が腐って長くはもたないのは容易に想像出来ると思います。(当時は測量技術などありませんから、都の建設は「イチかバチか」だったのでしょうね。驚)つまりこの都は巨大な「失敗都市」だったのです。

これを機に藤原京は一気にその存在価値をなくし、奈良の地に新たな都「平城京」が作られるのです。しかし、藤原京と藤原宮は、平城京、そしてその後の平安京のモデルとなり、その時に得たノウハウが、後の都の造営に大きく役立ったのは言うまでもないでしょう。その意味では、藤原京は記念すべきプロトタイプだったと思います。

ここで、今回のテーマの主役である持統天皇のその後についてをエピローグとしてお話しておきます。持統天皇は703年、58歳で崩御され、ご遺言により、愛する夫君天武天皇とともに同じご陵墓に埋葬されます。通常歴代の帝はお一人で一つの陵墓に埋葬され、合葬される事は無いのですが、女帝の強いご希望であられたそうです。この様にご夫婦で埋葬された例は、歴代天皇では天武・持統両帝だけです。いかにお二人が仲睦まじいご夫婦であられたか良く分かりますね。

しかし、残念ながらそれからおよそ570年後の1275年、鎌倉時代の中期にご陵墓は卑しい盗賊に盗掘されてしまい(怒)両天皇の副葬品は奪い去られ、石室内は散々に荒らされてしまいました。その時に石室内部の様子が記録として残されています。


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上が天武・持統天皇ご陵墓石室内の復元です。天武天皇のご遺体は朱塗りの棺に納められていましたが、持統天皇は女帝のご希望により「火葬」され、ご遺骨は銀の壷に収められていました。みなさんもご存知の事と思われますが、天皇陵は学術的考古学調査や発掘は一切禁止されているため、内部の様子をうかがい知る事は出来ません。(当然です。)しかし、この記録はそんな天皇陵の内部の様子を記した貴重なものです。(これはあまり語りたくないのですが、先の盗掘により、天武天皇のご遺骨は棺から引きずり出されて石室内に散乱し、持統天皇のご遺骨もばらまかれて銀の骨壷だけが奪い取られてしまったそうです。(涙)しかし、盗掘に遭うまで500年以上埋葬当時のままだったのですね。

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かつてこの奈良県橿原の地に、日本で最後の女性権力者となった最強の女帝が、理想の国づくりを夢見てここに都と宮殿を建設されました。しかし、その夢は女帝の死とともに儚く消え去り、当時の面影を知るすべはありません。今この地は、秋になると上の様に美しいコスモスが咲き乱れ、訪れる多くの人々の目を楽しませています。それは、自分には遠い昔のある一人の高貴な女性の思いが、美しい可憐なピンクの花々にその姿を変え、今日の私たちにそれを伝えようとしている気がしてなりません。

次回に続きます

ライチの甘い香りを愛した美女の宮殿 ・ 長安

みなさんこんにちは。

遅ればせながら、平成29年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、これまでヨーロッパや中東の宮殿にまつわる話ばかり書いてきたので、今回から趣を変えてアジアの方にも目を向けてきたいと思います。まずは中国歴代王朝の一つ、唐王朝の都である「長安」の宮殿についてのお話です。

この唐王朝とは、4千年といわれる中国の長い歴史の中で勃興した多くの王朝の順番で言えば第10王朝にあたり(あくまで時代ごとに「順番」で数えた場合です。有名な三国志の「魏・呉・蜀」など同じ時期に並立した王朝は一括りにして数えています。)その存続期間は西暦618年から907年までの289年間という長期に亘るものです。

自分が今回この唐王朝について書こうと思い立った理由は大きく二つあります。一つはなんといってもこの唐王朝が、わが日本の国家形成と、わが国固有の文化の発展に最も大きな影響を与えた最初の外国である事、そしてもう一つは、この唐王朝の時代が現代の中国において、彼らの間で中国の歴史上最も「良かった時代」と多くの人々が認識しているという点に興味を抱いた事です。

それでは、この唐王朝がどの様にして成立し、中国本土はおろか東アジアに君臨する大帝国として拡大発展していったのか、まずはそのあたりから始めて行きたいと思います。

時は西暦618年、それまで中国を支配していた隋(ずい)王朝は終焉を迎えようとしていました。この隋とは、唐の前の王朝ですが、二代皇帝煬帝(「ようだい」 569~618 本来は「ようてい」のはずですが、日本ではなぜか古くから「ようだい」と呼ばれています。)の失政と圧政により各地で反乱が勃発、ついに煬帝本人が暗殺されてしまったからです。

この混乱に乗じて兵を挙げたのが煬帝の従兄弟にあたる李淵(り えん)将軍です。彼は素早く軍を動かして隋の都長安を占領すると、煬帝の孫でまだ13歳の少年だった恭帝(きょうてい)を隋の3代皇帝として擁立、さらにその恭帝から禅譲(「ぜんじょう」と読みます。これは血縁ではない他者に「位を譲る」という事です。)されるという形で自ら皇帝に即位し、ここにおよそ300年続く強大な唐王朝が誕生するのです。


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上が唐王朝の創始者である李淵です。(566~635)彼は即位して大唐帝国初代皇帝「高祖」となり、都を隋から引き続き長安に定めました。

中国を統一した唐王朝はやがて更なる勢力拡大を図り、強大な軍事力で周辺諸国へ侵略の手を伸ばします。


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上が大唐帝国の最大領域です。北はモンゴルから南はベトナム北部、そして西は中央アジアの内陸国家群を従え、イスラム最初の王朝であるウマイヤ朝イスラム帝国と国境を接し、そして東は朝鮮半島南部にまでその勢力が及んでいます。この唐の進撃を阻む目的で、まだ「倭国」と呼ばれていた当時のわが国が、朝鮮半島南部の友邦国百済(くだら)とともに唐・新羅の連合軍と戦ったのが、白村江(はくそんこう)の戦い(663年)と呼ばれるものです。(これはわが国最初の外征戦争だったわけですが、唐軍13万、新羅軍5万の連合軍に対して、わが倭軍は4万2千、百済の残党軍5千を合わせても4万7千で、4倍近い大軍に無謀な戦いを仕掛け、戦死1万以上という見るも無残な大敗を喫してしまいます。)

この敗北により、当時の日本は外交政策を転換し、唐の皇帝に対して貢物を捧げる外交使節団を派遣する様になります。みなさんもご存知の「遣唐使」ですね。

さて、強大な軍事力で周辺諸国をことごとく撃ち従えていった大唐帝国は、建国から50年を過ぎた西暦670年代にその領土は最大規模に膨れ上がります。(上の図を参照。)そして8世紀に入り、帝国の頂点に君臨したのが第9代皇帝玄宗(げんそう)です。


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上が大唐帝国第9代皇帝玄宗です。(685~762)彼は伯父に当たる7代皇帝中宗(ちゅうそう)を毒殺し、自ら女帝となって唐の全権を握ろうと目論むその皇后に対し、先手を打ってクーデターを起こし、皇后一派を粛清して父の睿宗 (えいそう)を8代皇帝に擁立、さらに712年に父から譲位されて27歳で9代皇帝となったというなかなかしたたかな人物です。(笑)

この玄宗皇帝の統治した8世紀前半は、唐王朝がその繁栄の絶頂期を迎えた時代でした。この頃の玄宗皇帝は若かったゆえか、より良い君主たらんと国政に情熱を傾け、それを支える官僚機構の充実を図ります。帝国の都長安には国内外から多くの人や物が集まり、その人口は彼の時代に100万を超え、長安は世界最大の都市にまで発展しました。


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上が唐の都長安の想像図と市域の範囲です。二枚目の画像をご覧頂くと、上の方にもう一つの「長安」がありますが、この街はそもそも漢の時代(紀元前206~紀元205)に造られ、その後の歴代王朝が都を置いたもので、それを表したものです。隋、唐の時代に少し南に移してさらに大規模に市街地の拡大が図られ、その大きさは南北8.6キロ、東西9.7キロに及ぶ巨大都市に変貌しました。(長安の郊外に「秦阿房宮」とありますね。これはあの始皇帝が築いた有名な阿房宮の跡地です。意外な接点があるんですね。驚)

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上はかつての長安の宮殿と都を極めて精巧な模型で復元した中国のテーマパークの様子です。

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上は人々の活気にあふれる長安の街の様子を中国の画家の方が描いた絵です。(個人的で恐縮ですが、自分はこちらの方が好きですね。想像するだけで楽しくなります。笑)唐人だけでなく、シルクロードを通じてはるばるやって来た中央アジアの商人たちが、苦労して運んで来た様々な珍しい貴重な異国の品々を唐の人々に売りさばいています。街には異国の言葉が飛び交い、たくさんの物にあふれ、東洋と西洋が混然一体となって交じり合う国際都市長安の様子が生き生きと描かれています。この唐の時代、かつての中国はまぎれもなく世界に冠たる超大国であり、わが国はもちろん周辺国が恐れ敬う高度な先進文明国でした。(今は目も当てられない野蛮国に成り下がりましたが・・・呆)

しかし、以前にお話したローマ帝国のハドリアヌス皇帝の例を挙げるまでもなく、歴史を見れば国家の最盛期というものは衰退の始まりでもあります。それはこの大唐帝国においても同じでした。そしてこの唐王朝の場合、発端はその頂点に君臨していた人物、すなわち当時の皇帝玄宗自身が招いてしまうのです。

先に述べた様に、玄宗皇帝は青年時代の若い頃は熱心に国政の充実に努め、特に官僚機構を整備して中央から地方までつつがなく命令や指示が伝達実行される態勢を整えました。その結果、唐は国内外で大きな争いもなくなり、経済、文化が大いに発展して繁栄の絶頂を謳歌するのですが、40代の中年期に達すると、皇帝は次第に国政に関心を無くしてしまう様になります。

なぜ玄宗皇帝は政治に関心を無くしてしまったのでしょうか? 実はこれは彼自身が整備した官僚機構がうまく機能した事による皮肉な結果でした。これまで皇帝が取り決めていた政治の細かい事柄も専門部署の有能な官僚たちが行い、皇帝自身が自らトップダウンで事を決済する件が少なくなったため、つまり簡単に言えば、全て官僚たちがやってくれるので、皇帝は彼らの差し出す書類(もちろんすでに決定事項で皇帝が許可すると分かっているものばかりです。皇帝が許可しないと分かっている様なものをわざわざ差し出すはずがありません。笑)に判を押せば済む様になったからです。

もはや唐王朝の体制は磐石、国内外はさしたる争いもなく平和が続き、人民も大いにその恩恵を享受していました。暇を持て余した玄宗皇帝はやがて「禁断の世界」に足繁く通う様になります。その禁断の世界とは、後宮(こうきゅう)すなわち美女たちの園「ハレム」です。

歴史上の人物の多くがそうである様に、この玄宗皇帝も大変な「女好き」でした。記録にあるだけで生涯に30人の美女たちを「皇妃」とし、それらの皇妃たちに産ませた子は、記録ではなんと23男29女合わせて52人という大変な子だくさんだったそうです。(ただし、これは玄宗皇帝だけではありません。前段で述べた彼の祖先である唐王朝の創始者高祖以来、唐の歴代皇帝は多くの皇妃との間に数十人の子を成す多産一族でした。)

その多くの皇妃たちの中で、彼が最も寵愛したのが楊貴妃(ようきひ)です。


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上は楊貴妃(719~756)と戯れる玄宗皇帝の姿です。この楊貴妃は本名を楊玉環(よう ぎょくかん 「貴妃」は皇妃としての尊称です。)といい、地方官僚の娘でしたが、735年に16歳で玄宗皇帝の第18皇子の妃として唐の宮廷に入ります。しかし、その美しさに一目惚れした玄宗皇帝は息子に他の美女を与えて離婚させ、自らの皇妃にしてしまうのです。この時彼は50歳で、二人の間には親子ほども年の差がありました。

彼女の魅力は美しさや豊満な肉体だけでなく、立派な教養と品格を備え、さらには音楽と舞踊にも多大な才能を持ち合わせていました。皇帝はすっかり彼女の虜になり、彼女の元に入り浸るようになるのです。その寵愛振りは目に余るほどであったようで、楊貴妃の喜ぶ顔が見たいからと、およそ女性が欲しがるあらゆるものを何でも与え、片時もそばから離そうとはしませんでした。といっても、それは彼女の心をつかみたいという皇帝の一方的な熱愛から発したものであり、楊貴妃個人はとても謙虚な性格で、彼女自身が皇帝の寵愛を良い事に贅沢三昧にふけったりしたわけではありません。

しかし、そんな彼女にも一つだけ大の「お気に入りの品」がありました。それは当時中国の最南端でしか取れない貴重な果物であった「ライチ」です。

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上が楊貴妃の大好物だったライチの実です。日本でも、近年良く耳にするようになった果実の一種ですね。といっても、自分の知る限りでは、実をそのまま食べたりするという事はほとんど無く、主にその果汁が清涼飲料やガムなどに利用されているのではないかと思います。もともとこの果物は「レイシ」というのが正式名称で、それが19世紀に中国にやって来た英国人の手で、発音の聞き違いから「ライチ」として世界に広められ、今日では台湾、東南アジア、ベトナムなどの亜熱帯気候の地域で栽培され、日本でも沖縄などで栽培されているそうです。

玄宗皇帝は楊貴妃を喜ばせようともぎたてのライチを大量に集めさせ、早馬で長安に運ばせて楊貴妃の住む宮殿の一画をライチの実で一杯に満たしたそうです。この皇帝の楊貴妃の溺愛ぶりに、当時の唐の官僚の残した記録には、嘆くようにこう記されています。

「陛下は今日も楊貴妃と夜を共に過ごされ、起きて来られたのは昼近く、以前の宮廷は陛下のお出ましで朝の御前会議が開かれていたのに、今ではそれもなくなってしまった。かつて一心に国と民を思われ、政務に勤しんでおられた昔の陛下はどこに行ってしまわれたのか。」

こうした皇帝の堕落の隙を付いて、大唐帝国ではある二人の人物が急速に大きな力を持つようになります。一人は宰相として政治を取り仕切る楊国忠(よう こくちゅう)大臣、そしてもう一人は大唐帝国の西域方面総督であった安禄山(あん ろくざん)将軍です。


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上が大唐帝国宰相として唐の国政を握っていた楊国忠です。(?~756)彼はその名字の通り、楊貴妃の実家楊一族の出身で、彼が宰相に出世したのは楊貴妃のおかげだと長く語り継がれて来ましたが、実際にはそれだけでなく、彼自身が財政と経理に巧みな手腕を発揮し、それを買われて玄宗皇帝の元で昇進を重ねていった面が大きいようです。しかし、彼はそうした長所の反面で、自らの立身出世のためにライバルたちを陥れて次々と失脚させ、多くの人々から憎まれていました。

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そして上が大唐帝国の西部一帯を勢力下に置いていた安禄山将軍です。(705~757)彼はもともと唐人ではなく、ウイグル系で、当時西域(さいいき)と呼ばれていた中央アジア方面における総督として数々の武功を立て、肖像画にも描かれているように「猛将」の言葉が似合う武人でした。当然官僚のトップである宰相の楊国忠とは気が合いそうもありませんね。(笑)

唐節度使

上はこの頃の唐の勢力範囲です。都長安を中心とする唐本国と、安禄山が事実上の支配者である西域との間は、北は遊牧騎馬民族国家ウイグル(744~840)南はチベットを中心にヒマラヤ山脈を牙城とする山岳民族国家「吐蕃」(とばん 612~842)の二大勢力の台頭により、図の様に細長い回廊によってつながっていました。

この安禄山が総督を務めていた西域一帯は、シルクロードの東西交易の中心地であり、莫大な富が大唐帝国へともたらされていたわけですが、それに大きな危機感を抱いていたのが楊国忠宰相です。彼は玄宗皇帝が楊貴妃との情事にうつつを抜かしているのを良い事に国政を思いのままに動かし、政敵を次々に失脚させていった策士ですが、都を遠く離れた西域の任地にいる安禄山まではその影響力が及びませんでした。

もともと安禄山は、シルクロードの東西交易で頭角を現した人物で、玄宗皇帝からの信任も厚く、皇帝から「西域方面軍」として10万以上の大軍を任されていました。固有の武力を持たない楊国忠宰相にとっては最大の脅威です。そこで彼は、得意の策略をめぐらして安禄山に謀反の疑いをかけ、皇帝にそれを信じ込ませてしまうのです。楊宰相は安禄山が都に来た時を狙い、皇帝への謁見のために彼が宮殿で一人になった隙に衛兵部隊を使って彼を謀反の疑いで逮捕するつもりでいました。

一方、都長安において自分が「謀反人」とされている事をいち早く知った安禄山将軍の行動は素早いものでした。なんと彼は、生き残りのためにそのまま本当に「謀反人」となって唐王朝に対して反乱を起こすのです。時に西暦755年、これを「安禄山の乱」といいます。

すでに大唐帝国は、建国から130年以上の時が経過していました。その間戦いといえば、遠く離れた周辺国との国境における局地的な防衛戦がほとんどであり、国内でこの様な内乱が起こるのは始めての事でした。平和な時代が長く続いたため、唐の正規軍は実戦経験がなく、西域で遊牧騎馬民族との戦いに慣れていた安碌山の軍勢に全く歯が立ちませんでした。勢いに乗る安禄山軍は15万の大軍に膨れ上がり、怒涛の勢いで都長安に迫ります。

恐怖に駆られた玄宗皇帝は、長安を脱出して地方に宮廷を移す事になります。しかし、ここで彼に思わぬ試練が待ち受けます。今度は自らを護衛する護衛部隊が反乱を起こしたのです。彼らは皇帝を奉じ、楊国忠宰相を、

「皇帝陛下に要らざる諌言をして、この反乱を招いた張本人」

として捕え、殺害してしまいます。しかし、玄宗皇帝にとってもっとショックだったのは反乱軍の次の要求です。

「皇帝陛下をたぶらかすあの女も同罪だ。恐れながら陛下におかれては楊貴妃を我らに引き渡していただく。」

兵たちの要求に皇帝は凍りつきます。なぜなら彼らに楊貴妃を引き渡せば彼女がどうなるか、火を見るよりも明らかであったからです。彼はこの時、心から愛する者を奪い取られる恐怖と屈辱、そして何より例えようもない悲しみに、生まれて初めて「死の苦しみ」を味わう事になったのです。

一方、反乱軍が自分の処刑を要求している事を知った楊貴妃は、皇帝の苦しみを察し、こう言って皇帝を慰めました。

「わたくしは宮廷に上がりましてから、陛下に命を捧げた者でございます。どこの誰とも知れぬ兵たちに命を奪われるならば、どうか陛下の御手でわたくしの命を召し上げてくださいまし。」

状況は切迫していました。すでに都長安は安禄山率いる反乱軍によって占領され、彼は「燕」(えん)という新国家を樹立して自ら「皇帝」を名乗っていました。このままでは唐王朝は滅びてしまうかも知れません。玄宗皇帝が一旦地方で態勢を立て直し、都長安を奪い返すためには、その主力として皇帝の護衛軍がなんとしても必要なのです。そこで彼は側近に命じ、泣く泣く愛する楊貴妃を絞殺させました。(この時の皇帝の心情は想像を絶しますね。涙)

愛する楊貴妃の命を取らざるを得なかった玄宗皇帝はもはや抜け殻も同然でした。彼は失意の内に帝位を皇太子の粛宗(しゅくそう 711~762)に譲り、粛宗は唐王朝の第10代皇帝として安禄山との戦いに臨みます。

この安碌山の乱は755年から763年までおよそ8年もの間続きました。その間粛宗率いる新体制の唐王朝は、戦略の転換を図ります。粛宗皇帝は北のウイグル帝国と同盟し、強力なウイグルの騎馬戦力を味方に付けて長安を支配する安禄山を挟み撃ちにしたのです。唐王朝の巻き返しが始まりました。唐・ウイグル連合軍は総勢15万に達し、各地で安禄山の燕軍を撃破、長安に迫ります。

戦局が不利になると、反乱の首謀者の凋落は早いものです。敗戦続きで自暴自棄になった安禄山は次々に味方に見限られ、最後は皇太子の手によって暗殺されてしまいます。その後、安禄山が建てた燕王朝はほどなく崩壊し、唐王朝は長安を奪い返す事が出来たのです。

こうして再び中国の支配者として返り咲いた唐王朝ですが、この反乱によって唐の国力は著しく疲弊してしまいました。特に反乱鎮圧の兵力確保のため、各地の有力者に特権と帝国の重臣の地位を乱発した事から、帝国内は地方諸侯が割拠する状態となり、その後の唐王朝の皇帝たちは、さながらわが国の室町時代における足利将軍家の様に、これらの諸侯との妥協と対立を繰り返しつつ徐々に衰退していき、やがて反乱から150年を経た907年、ついに病み衰えて滅亡する事になります。


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上の一連の画像は、かつての長安の都があった現在の西安の街の様子です。(人口およそ850万 ただし、中国の統計は当てになりませんが・・・呆)画像にある城壁は、唐の時代より500年を経た西暦1300年代に中国を統一した明王朝(1368~1644)の時代に造られたものです。この長安は、唐が滅亡してからは一地方都市に成り下がり、二度とこの街に都が置かれる事はありませんでした。

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かつて栄華を誇った世界帝国唐王朝の宮殿は、その後の長い戦乱で失われ、今は宮殿の礎石のみが、訪れる観光客の足元に広がるばかりです。しかし、はるか遠い昔、ここにはライチの甘い香りを漂わせた絶世の美女が、美しい舞いや音楽を奏でていたのです。

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それから1200年余りの時が流れ、街の様子も時代によって大きく様変わりしていきました。それでも今も昔も変わらないのは、人々の間で語り継がれる絶世の美女の物語と、活気にあふれる人々の生きる姿です。

次回に続きます。
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