鉄の王国ヒッタイトの都 ・ ハットゥシャ

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、遠い昔から幾多の古代国家が興亡を繰り返し、アジアとヨーロッパ、東洋と西洋が交じり合い、悠久の歴史を刻んできた魅惑の国トルコから、「ハットゥシャ」をご紹介したいと思います。この「ハットゥシャ」は、紀元前1600年頃にこの地に興った最初の統一国家である「ヒッタイト王国」の都として築かれたものです。

ヒッタイト。この王国こそ初めてアナトリアを統一し、強大な軍事力で周辺国に恐れられ、後には東のメソポタミアに侵攻してこれを征服。さらに転じて南のエジプトにも進軍し、迎え撃つエジプト軍と激しく争った恐るべき軍事国家でした。では、そもそも今回のお話の主役であるヒッタイト王国はいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか? まずはそのあたりからお話したいと思います。

現在知られている最も有力な説では、ヒッタイト人は紀元前2千年頃(今から4千年前)にカスピ海の北方からアナトリアの地に移動し、定住したといわれています。もちろんその時期も場所もばらばらで、大小いくつもの集団に分かれ、最初からまとまっていたわけではありませんでした。彼らはそれぞれ移住した地に都市を築いていきましたが、やがてその中で大きな集団を率いる者が指導者として周辺のヒッタイト都市を従えていく様になります。

ちなみに「ヒッタイト」という名ですが、これははるか後の19世紀から20世紀にかけて、この地域を調査研究していたセイスなるイギリスの考古学者が、旧約聖書に登場する「ヘテ人」にちなんで名付けたのがその由来だそうです。(もともとの固有名詞ではなく、後の学者が後付けで名付けたのですね。ただし、なぜこう名付けたのかは不明です。)

そして紀元前1580年頃、全ヒッタイト民族を統一して最初の王になったのがラバルナ1世(?~紀元前1565年頃)という人物です。彼が築いた最初のヒッタイト王国はおよそ80年ほど続き、歴史上ではこれを「ヒッタイト古王国」と呼んでいます。ヒッタイト王国はその後、70年続いた「中王国」そして滅亡するまで最も長く続いた250年余りの「新王国」に分かれ、合わせて400年間に亘り、アナトリアから現在のシリア、イラクに至る地域を支配しました。


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上がこの地域における当時の国際関係を表した図です。ヒッタイトと合わせ、南にはエジプト王国、東のメソポタミアにはこれも強大なアッシリア帝国が覇を競っていました。(注)上の図では、Reich「ライヒ」すなわちドイツ語で「帝国」と表記されていますが、「帝国」とは「皇帝」の統治する国家であり、この時代にはまだ「皇帝」という称号は存在せず、さらにヒッタイトをはじめ、その他の国々においても、その頂点に君臨するのは「王」である事から、厳密には「王国」と表記すべきでこれは正しくありません。しかし、世界史では多くの場合、そうした国でも帝国と呼んで(ペルシャ帝国や大英帝国など。いずれも君主は王です。)それがすっかり定着している場合も多いです。頭が固いかもしれませんが、当ブログでは原則論に従ってヒッタイト王国と呼ぶ事にするので、その点を踏まえてご了承ください。(苦笑)

さて、ヒッタイト王国を建国した最初の王ラバルナ1世ですが、残念ながら彼については「ヒッタイト王国初代国王」であるという事くらいしか分かっていません。なにしろ3600年も昔の人物であり、肖像はもちろん彼にまつわる記録も粘土板に記された極めてわずかな記述しか残っていないからです。では、そのラバルナ1世に始まるヒッタイト王家歴代の王たちにまつわる記録は、一体どの様に記録されたのでしょうか? それについては下の画像を見て下さい。


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上はいわゆる「楔形」(くさびがた)文字をが刻まれた粘土板です。この文字はもともとメソポタミアで考案され、古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)と並んで歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ヒッタイト民族がカスピ海の北方からアナトリアに移住したというのは先に述べましたが、その途中で彼らは地理的にメソポタミアの影響を強く受け、その結果自分たち自身で文字を作らず、メソポタミアの楔形文字をそのまま導入してさまざまな記録に活用しました。

この楔形文字によって、ヒッタイト王国についての記録は極めて断片的かつ大雑把ではありますが、今日の私たちも知る事が出来るのです。それによると、初代ラバルナ1世については次の様に記述されています。

「狭かった国土をラバルナが大きく広げた。ラバルナは7つの街を征服し、敵を海にまで追いやり、それぞれに息子を支配者として送り込んだ。」

彼が強大な武力を持っていたのは間違いないと思われますが、しかし、諸部族を統一して広大な王国を建国するには、単に強大な武力を持っているだけではなく、人々を従えさせる王としての品格と度量の広さ、さらに統治者としての政治指導力なども無くては無理でしょう。おそらくそうしたものも全て兼ね備えた優れた王であったのだろうと思います。(と、いうのは自分の勝手な想像ですが。汗 みなさんはどう思われますか? 笑)

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上はヒッタイト王のイメージです。(拾いもののイラストです。笑)

記録によれば、その後初代ラバルナ1世が亡くなると、後継者には彼の王妃の従兄弟にあたるハットゥシリ1世(?~紀元前1540年頃)が2代国王に即位します。ここで疑問に思うのは、先王ラバルナ1世には少なくとも7人の息子すなわち王子たちがいたのに、血筋では全く関係ない他人である王妃の従兄弟が王位を継いでいるという点です。記録には残されていませんが、おそらくこの時、王位を巡る争いがあったのは間違いないでしょう。そして先王の王子たちを破り、勝ち進んだハットゥシリが彼らを粛清し、王位を奪ったものと思われます。(この時点でヒッタイト王国は王朝が交代しているわけですが、この王国はその後も王位を巡る内紛が幾度も続き、その都度王朝の交代が恒例化していく事になります。)

ともあれ、ヒッタイト王国2代国王となったハットゥシリ1世ですが、この彼の変わった名を聞いて、誰もがすぐに「ピン」と来るのではないかと思います。そう、彼こそが今回のテーマの主役である王国の都「ハットゥシャ」を築いたその人なのです。彼は新体制のシンボルとして、自らの名を冠した新たな街を築き、ラバルナ1世が都を置いていたクッシャラ(所在不明)なる街からハットゥシャに遷都し、それ以後このハットゥシャは、ヒッタイト王国の滅亡まで王国の都であり続けるのです。


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上の画像1枚目がハットゥシャの復元想像図です。尾根沿いに堅固な城壁が街を取り囲んでいますね。2枚目の同じ位置の画像と見比べて見てください。3枚目は現在のハットゥシャの見所の配置図です。大きさは東西およそ1.2キロ、南北およそ3キロの楕円形をしています。

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上の一連の画像は現在のハットゥシャ遺跡の様子です。上空から見た画像を見ると、遺跡は石が削り取られたかの様にきれいになくなっていますね。これは後の時代にこの地に興り、滅んでいったあまたの国々が城壁などの資材として転用するために長い年月をかけて持ち去ってしまったためです。しかし、転用を免れた石には多くの彫刻やレリーフが残され、当時の繁栄を偲ぶ事が出来ます。

最後の写真に注目して下さい。これは兵士ではなく神々を掘り刻んだもので、「ヒッタイトの12神」と呼ばれています。これを見るだけで、この国が多神教国家であったのは容易に想像出来ますね。キリスト教もイスラム教もないはるかな昔、さまざまな異教の神を信ずる多くの民族を束ねるには、その方が都合が良かったのでしょう。

このハットゥシャは、ドイツの考古学者フーゴー・ウィンクラー(1863~1913)によって1906年に発掘調査が行われ、失われたヒッタイト王国の都の全貌が明らかにされました。そして1986年世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が後を絶たないトルコでも人気の観光スポットです。

それからのヒッタイト王国は隆盛期に入ります。歴代の王たちによって繰り返された外征により、その領土と支配地域は大きく広がっていくからです。それではヒッタイト王国躍進の原動力とは一体なんだったのでしょうか? なぜ彼らヒッタイト軍はそんなにも強かったのでしょうか?

それは歴史好きの方ならば知識としてご存知と思いますが、このヒッタイト王国は史上初めて「鉄」を大々的に生産、加工する技術を確立した今で言う「先進テクノロジー国家」であったからです。


前回のミケーネでもお話した様に、この時代の世界は「青銅器時代」の全盛期でした。青銅とは銅と錫の合金で、加工がしやすいのが特徴ですが、銅の産出地が多い所でないと大量生産は出来ない欠点がありました。そのため銅や錫が取れない国では高価な貴重品だったのです。

しかし、鉄は銅よりはるかにその埋蔵量が多いのです。みなさんも子供時代、磁石で砂の中から「砂鉄」を取り出した事があると思います。そう、ヒッタイトの製鉄技術は主にこの砂鉄から作り出す「たたら製鉄」によって生産されたものでした。


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上はたたら製鉄によって炉から流れ出した「銑鉄」(せんてつ)です。これを鋳型に流し込んで形を整え、叩いて剣や槍、矢じりを作ったり、それ以外の様々な鉄器を生産しました。

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上はヒッタイトの戦車のイラストです。その車輪にも鉄が使われています。ヒッタイト軍はこの様な戦車を数百両集めた「機甲部隊」で敵の防衛線を打ち破り、その後を鉄剣や鉄槍で武装した歩兵部隊が怒涛のごとくなだれ込み、敵国の都まで一気に侵攻する電撃作戦で連戦連勝を重ねました。

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さらに鉄の利点はなんといってもその強度です。青銅の硬度は50~100程度に対し、鉄の硬度は150~200で、2~3倍の強度の違いがあるのです。(鉄の剣と青銅の剣で戦えば、当然青銅の剣は折れてしまいますね。これでは実戦では勝負になりません。)

ヒッタイトはいち早くこの製鉄技術を確立すると「国家機密」として厳重に管理し、いわゆる「ブラックボックス化」して独占しました。そのため周辺国は、ヒッタイトの滅亡まで製鉄技術を得る事が出来ず、青銅器を使い続けざるを得なかったそうです。

このヒッタイト王国の躍進に大きな脅威を感じていた南の大国がありました。それはエジプト王国です。ヒッタイトとエジプトは現在のシリアとイスラエル付近を挟んだ国境地帯で戦争を繰り返しましたが、双方ともなかなか決着が付かず、戦争は300年も続いていました。しかし、その300年に及ぶ歴史に終止符を打つべく、エジプトで一人の王が大きな決意を固めていました。古代エジプト最強の王として有名なラムセス2世(紀元前1302頃~紀元前1212)です。


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上は戦車に乗って大きく弓を引くラムセス2世の絵です。彼はエジプト第19王朝3代国王(ファラオ)にして、エジプトのファラオとして通算すると138代目に当たるそうです。

領土拡大の野望に燃える若きラムセス2世は、シリアをヒッタイトから奪い取ろうと紀元前1274年、自ら大軍を率いて北上、これを迎え撃つ時のヒッタイト王ムワタリ2世の軍と一大決戦に臨みます。これが「カデシュの戦い」です。


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上はカデシュの戦いで奮戦するラムセス2世を描いたイラストです。この戦いにおける両軍の兵力はエジプト軍が歩兵1万6千、戦車2千両(1両の戦車には3名程度が乗るので、それを合わせると2万2千程度でしょうか。)これに対しヒッタイト軍は歩兵2万、戦車3千両(同じく計算するとヒッタイト軍は2万9千。兵力ではヒッタイト軍が有利ですね。)

ラムセス2世は捕えたヒッタイトのスパイの情報から、ヒッタイト軍が到着する前にカデシュを占領してしまおうと無理して兵を進軍させます。しかし、これはヒッタイト王ムワタリ2世の仕掛けた罠でした。彼はエジプト軍をカデシュに引き込み、包囲殲滅するつもりでいたのです。これにまんまと引っかかってしまったラムセスのエジプト軍にヒッタイトの戦車部隊が一斉に襲い掛かります。油断していたエジプト軍は大混乱に陥りましたが、ラムセス2世がいざと言う時に備えて温存していた取って置きの別同部隊が側面からヒッタイト軍を撃退し、ラムセス2世はようやく戦場を離脱する事が出来ました。

その後、戦線はこう着状態になり、ムワタリ2世とラムセス2世との間で講和条約が結ばれ、戦闘は終結します。この戦いによってラムセス2世は当初の目的であったシリア獲得は成らず、大勢の兵を失う大損害を被り、事実上戦いはラムセス2世の惨敗なのですが、偉大なファラオが「敗れた」とはいえないため、エジプト側の記録では全てラムセス2世の大勝利と改ざんされています。(負けず嫌いのラムセス2世らしいですね。笑)

この時、エジプトとヒッタイトとの間で結ばれた講和条約こそ、明文化されたものでは歴史上世界で最初の和平条約として有名で、これ以後両国は、ヒッタイト王国の滅亡までおよそ100年以上もの間、国境線上で均衡を保つ事になるのです。


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上がヒッタイト・エジプト平和条約を記した粘土板です。これもハットゥシャの遺跡で発掘され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されています。

この様に精強を誇ったヒッタイト王国でしたが、このカデシュの戦いの始まる頃から衰退の兆しが見え始めていました。特に東のメソポタミア地域には、新興国家アッシリア帝国が徐々にヒッタイト領を侵食し始め、国境紛争が後を絶たなくなります。さらに西からは、これも新興勢力「海の民」が地中海からヒッタイトに襲い掛かります。

ヒッタイト軍は騎馬を中心とする陸軍が主力であり、基本的に海の戦いは不得手でした。そのため海の彼方からいつ攻め寄せてくるか分からない海の民からの防衛のため、地中海沿岸の各都市に守備隊を分散配置せざるを得ず、その結果各個撃破される悪循環に陥ってしまったのです。

さらにヒッタイト王家の王位争いによる内乱が追い討ちをかけます。内憂外患とはまさにこの事です。これら一連の混乱により国の統制は乱れ、王国は崩壊の道を転げ落ちていきます。そしてついに紀元前1180年、ヒッタイト王国は滅亡し、都ハットゥシャは放棄されてしまうのです。

長い間、ヒッタイト王国は海の民の攻撃によって滅んだと言われて来ましたが、近年の発掘による研究結果から、ヒッタイト滅亡の原因はそれだけでなく、末期の3代に及ぶ王位を巡る内紛と、それにともなう深刻な食糧難、それに付け込んだアッシリアの介入などの複合的な要因により滅亡に至ったものと推定されています。


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上は草原の中に広がる現在のハットゥシャの遺跡の姿です。遠い昔に栄え、そして滅び去った古代の王国の都の跡を、今はその子孫の少女が無邪気に歩いています。

次回に続きます。
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黄金の仮面が眠る街 ・ ミケーネ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に続いて再びギリシャから「ミケーネの王宮」をご紹介したいと思います。といっても、正確には宮殿と街をぐるりと堅固な城壁で囲ったいわゆる「城塞都市」と言うべきものですが、後の中世ヨーロッパ全土に築かれていった城塞都市の原型として、大変興味深いものです。

このミケーネの王宮は、ギリシャ本土、ペロポネソス半島の東部に位置する古代遺跡で、その起源は紀元前1500年頃(今から3500年前)にさかのぼります。この時代は、歴史の大きなくくりで言えば、いわゆる「青銅器時代」に当たり、各地域の古代文明の存続期間によって、その発祥と終わりに数百年の差が表れるのですが、おおむね紀元前3500年頃~紀元前800年頃までのおよそ2700年余りがこれに相当します。

この青銅器時代は、それまで石器しか知らなかった人類が、その名の通り青銅を素材に様々な道具を使い出した時代です。ちなみに青銅というのは銅と錫(すず)を混ぜ合わせた合金で、この配合の多少によって、硬さや色などの点で大きな変化が出る事から、最も加工しやすい金属として珍重され、「鉄」が出現するまで幅広く利用されたものです。今回お話するミケーネの王宮でも、大量の青銅器が出土しています。


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上がミケーネの位置と、空から見た全景です。

このミケーネは、前回お話した古代エーゲ文明の一つであるクレタ島のミノア文明が衰退期に入った頃に、入れ替わる様に興隆発展したもので、歴史好きの方であれば誰もがご存知のあのハインリッヒ・シュリーマンによって、1876年に大々的に発掘調査が行われ、数多くの金銀細工と貴重な出土品で世界を驚かせました。


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上がハインリッヒ・シュリーマンです。(1822~1890)彼については前回もお話した様に、伝説の都「トロイ」の発見者としてあまりにも有名ですね。実業家として財を成した後に考古学の道にのめりこみ、後の世に「ギリシャ考古学の父」として、「偉大な考古学者」の様に紹介される事の多い彼ですが、実際には彼は正規の考古学者というよりも、考古学者に匹敵するほど詳しく良く知る「考古学マニア」でした。つまり「アマチュア」だったのです。そのため彼は、発掘で出土した多くの財宝を「自分の物」としてトルコやギリシャから彼の祖国ドイツに勝手に持ち出し、さらにそれらの財宝は第二次大戦終結直前にソ連軍によって接収され、今日それがそれぞれの国の間で所有権をめぐる争いになっています。

このミケーネは、そんなシュリーマンがトロイの発掘をしていた頃とほぼ同じ時期の1870年代に並行して行われていました。なぜならこのミケーネは、伝説のトロイの都を攻撃したギリシャ軍の総大将「アガメムノン王」の王国であったからです。そのためシュリーマンは、トロイと変わらない情熱さを傾けてこの街の発掘に全力を注いでいました。

ミケーネがこの地に興隆したのは、先に述べた様に紀元前1500年頃と推定されています。これは、遺跡から出土した粘土板に刻まれた線文字を解読した結果などから割り出されたもので、最初は小さな都市国家だったものが、エーゲ海全域での活発な海洋交易により富を蓄え、それが人口の増加と国力の増大により周辺の都市を服属させながら勢力を拡大、やがてクレタ島を中心とするミノア文明に代わる「ミケーネ文明」としてギリシャ世界に君臨する事になったと考えられています。

ちなみに「ギリシャ」という名の由来についてですが、これはかつてギリシャ本土のペロポネソス半島に居住していた「高地の人々」または「名誉の人々」を意味するラテン語の「グレキア」が、わが国が最初に接した西洋の国であるポルトガル語で「グレーシア」と呼ばれていたものが訛ったのだそうです。もちろんこう呼んでいるのはわが国だけで、それぞれの国で呼び方は違います。例えば、当のギリシャ本国において、彼らが自国の名を呼ぶ場合の正式国名は「エラス共和国」と読んでいるそうです。(ギリシャ神話の女神ヘレンに由来し、ギリシャ民族はこのヘレンの子孫であるという伝説から。)

今回ご紹介するミケーネは、古代ギリシャ民族を構成したいくつかの民族のうち、紀元前2000年頃に北方から南下して定住した「アカイア人」の一派である「イオニア人」が建国した王国でした。


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上が当時のギリシャ世界の全体の流れを現した図です。前回お話した様に、エーゲ海一帯に最初に華やかな文明の花を咲かせたのはクレタ王国のミノア文明でしたが、その後に興隆した本土のミケーネ王国が、紀元前1400年頃にこれを併合してギリシャ世界の覇者となったのです。

このミケーネ王宮が前回のクノッソス王宮と違う最大の点は、なんといってもその防御力の高さといえるでしょう。クレタのクノッソスは、城壁や城門、堀というものがほとんどなく、宮殿は外来者が自由に出入り出来るものでした。それがゆえに、クレタはミケーネ軍にあっけなく占領されてしまったものと思われるのですが、このミケーネの王宮は、冒頭に載せた写真をご覧になればお分かりの様に、小高い山の上に堅固な城壁をめぐらして宮殿と街全体をすっぽりと囲んだ城塞都市でした。


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上の一連の画像は現在のミケーネ遺跡の様子です。このミケーネは、1999年(平成11年)に世界文化遺産に登録されています。上の画像の最後の2枚に注目して下さい。これはミケーネの正門ともいうべき「獅子の門」といい、2頭のライオンが中央の太い柱の左右対称に刻まれています。このデザインは後のヨーロッパの王侯貴族の紋章に良く使われていますね。(4枚目の写真は門の入り口につながる道に、だいぶごつごつした大きな石ころが転がっていますが、5枚目の写真ではすっかり道が整地されて歩きやすくなっていますね。世界遺産への登録とともに観光客が増えたための配慮なのでしょう。)

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そして上が、ミケーネの復元想像図です。これを見てまず目が行くのが、上で述べた王宮の正門である「獅子の門」を入って右手にある円形の構造物ではないかと思います。これは円形墳墓といい、地中海世界の遺跡では全般的に良く見られるもので、このミケーネを支配した歴代の王や王族が眠る「王家のお墓」です。

この円形墳墓から、シュリーマンは数多くの副葬品を発見するのです。そしてその大半がまばゆい黄金製でした。


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上の一連の画像は、シュリーマンが王家の円形墳墓とその周囲から発掘した黄金の品々です。1枚目が、かの有名な「アガメムノン王の黄金の仮面」です。これはシュリーマンがその様に名付け、今だにその名で呼ばれているものですが、実際はアガメムノンではなく、王族の一人のものであると考えられています。また、黄金の仮面はこれだけではなく、他の王族の墓からも出土しています。5枚目の「黄金のカップ」と6枚目の「黄金の器」に注目して下さい。この黄金のカップでミケーネの王はワインを飲み、黄金の器に豪華な料理を盛り付けて食べていたのでしょうか?

これらは全て、現在アテネの国立考古学博物館に展示されています。みなさんもギリシャに旅行される機会があれば、目の保養にぜひ立ち寄って見てはいかがでしょうか。(笑)

「黄金に富めるミケーネ」

あのトロイ戦争を題材にした叙事詩「イリアス」を書いたホメロス(紀元前700年代? に生きた大詩人)は、その中でミケーネをこの様に表現しています。そしてミケーネは、彼の言う通りの「黄金都市」でした。

ミケーネをこの様に豊かで強大な国家に押し上げた原動力は、なんといっても先に述べた「海洋交易」でした。ミケーネに限らず、エーゲ海一帯のギリシャ地域は地中海性気候で乾燥しており、農耕によって得られる作物は必然的に乾燥に強いものが古くから栽培されています。その中で代表的なものがオリーブと葡萄であり、それからオリーブ油やワインを作り、さらにそれらを入れる「入れ物」として鮮やかな絵柄を施した陶器を大量生産、さらに青銅でこしらえた剣や槍、甲冑などの武器が「高付加価値品」として輸出されました。

「輸出」といっても、この時代は今日の「お金」という概念はまだありません。余談ですが、「お金」すなわち貨幣というものが歴史に始めて登場するのは紀元前670年頃、現在のトルコに存在したリディア王国(紀元前690?~紀元前547)が鋳造したエレクトロン貨(金銀の合金)が最初のものと言われ、この時代から1000年近く後の事になります。つまり、それまで人々は日々の生活に欠かせない食べ物はもちろんそれ以外の他の物でも、手に入れる時は互いの欲しい物か、それに見合う価値のある物を交換する純粋な「物々交換」でやり取りしていたのです。

ミケーネの商人たちはこれらを船に積み込み、単独または複数の船団を組んでエーゲ海周辺の国々(エジプト、ヒッタイトなど)に出かけ、現地の商人と金、銀、銅、錫などの金属資源や象牙、琥珀、香料などギリシャでは手に入らない貴重で珍しい「贅沢品」と交換してミケーネ本国に持ち帰ったのです。

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このミケーネを含むエーゲ文明について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。古代ギリシャの本は数多いのですが、この本はギリシア文明の初期、すなわちクレタやミケーネ、それ以後の「暗黒時代」からポリスの興亡まで、とにかく豊富な図解でヴィジュアル的にお薦めするものです。ページ数は上の本が180ページ余り、下の本が140ページ余りです。文章で想像するより見て情報を知りたい方に良いと思います。

こうして繁栄を謳歌したミケーネ王国でしたが、その繁栄は突如終わりを迎えます。紀元前1150年頃、ミケーネの王宮は周辺の都市も含めて破壊され、ミケーネ王国は滅亡してしまうからです。それだけではありません。エーゲ海全域に広がったエーゲ文明そのものが、この時に一斉に滅びているのです。このミケーネを含むエーゲ文明の滅亡については、今だに世界の考古学上の大きな謎とされていますが、現在最も有力な説とされているのが当時勃興した「海の民」と呼ばれる謎の海洋民族の襲来です。


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上は「海の民」の進路図と、これと戦うエジプト王率いるエジプト軍の様子を描いた壁画です。この海の民は、定住する事無く略奪と破壊を繰り返す歴史上最初の「海賊」と呼べるもので、図で見てもお分かりの様に西地中海から東地中海に侵入し、まずはエーゲ海一帯を荒らし回り、トルコに上陸して当時の大国ヒッタイト王国を滅ぼし、さらに南下してエジプトにも攻撃を仕掛けています。当時エジプトは「新王国時代」と呼び、時の第20王朝の王ラムセス3世がこれと激しく戦い、なんとか追い払っています。

上の壁画では、大きく弓を引いて海の民を狙う王の姿が誇大に描かれていますね。これはもちろん王の偉大さを人々にあまねく知らしめるために強調されたものですが、もう一つ大きな理由があります。それはエジプト軍が大量の弓兵部隊を動員し、海の民に雨あられの様に弓矢を射かけ、これにより弓を知らなかった海の民はエジプトに上陸出来ずに敗れ去った、つまりエジプト軍の作戦を伝えるためのものなのだそうです。(これはわが国でも、かつて鎌倉時代の蒙古襲来の折に、来襲したモンゴル軍に対して幕府軍が同じ戦法で撃退していますね。要は「上陸させなければ良い」わけです。)

この海の民は、その後四散して歴史の表舞台からあっという間にいなくなるのですが、彼らによって、東地中海世界は大きな歴史的変動期を迎える事になります。この時期の一連の混乱によって、ミケーネを含むエーゲ文明は滅びてしまうのです。

この海の民が来襲した紀元前1150年頃を境に、およそ800年ほど続いた華やかなエーゲ文明は滅び去り、その時代を記した線文字は打ち捨てられ、ギリシャ世界はその後、文字による記録が一切ない暗闇の時代が到来します。それはおよそ400年ほど続き、世界史ではこの時代を表して「ギリシャの暗黒時代」と呼んでいます。

今回お話したミケーネは、その歴史が外敵の侵入という不幸な形で終わりを迎えていますが、もしそれがなければ、古代ギリシャの歴史はまた大きく違ったものになっていた事でしょう。あるいはいずれ地中海全域に広がる後のローマ帝国の様な一大帝国に拡大発展する事も出来たかもしれません。しかし、歴史はミケーネにそれを許しませんでした。今はギリシャの田舎のオリーブ畑に囲まれた小高い山の上で、その遺構がひっそりと残るのみです。正門の上に掲げられた2頭のライオンが、かつての繁栄を懐かしむ様に、人がいなくなってからも3千年の長き年月、ミケーネを守り続けています。

次回に続きます。

怪物ミノタウロスの住む迷宮 ・ クノッソス

みなさんこんにちは。

しばらく日本関連のお話が続いたので、今回から気分を変え、新たなテーマとして「世界の宮殿」と題するシリーズを始めました。かつて世界中の王侯貴族たちが、その富と権力にものをいわせ、競って建てた多くの宮殿、それらは一体いつ、誰が、どの様な経緯で築いたのでしょうか? そしてその宮殿ではどの様な歴史上のドラマが繰り広げられたのでしょうか? それらを一話完結でお話して行こうと思いますので、ご興味を持たれた歴史好きな方や、調べもので検索された方などのお役に立てれば幸いです。(いつもながら自分の気まぐれで唐突なテーマ選定で恐縮です。汗)

では、そもそも宮殿というものは、歴史上いつ頃から造られる様になったのでしょうか? 人類の歴史というものが「文明」という形ではっきりとその姿を表すのが紀元前4千年頃、つまり今からおよそ6千年前といわれています。その時代を代表するのが古代エジプト、メソポタミアです。他に、私たちがいわゆる「四大文明」として学校の歴史で教わったものに、インドのインダス、中国の黄河文明がありますが、インダスの方は紀元前2600年頃、つまりエジプトやメソポタミアよりも1400年ほど後から、黄河文明はその年代特定が曖昧で(中共は紀元前7千年頃からといっていますが、あの中国の言っている事なので信用なさらない方が良いでしょう。)これらを一括りにしてしまうのは年代的にあまりにも強引に過ぎると思われます。たまたま、これらの文明が大河を源に形成された事から、教育上一緒に教えた方が都合が良いとの、いかにも文部官僚的な発想からそうなったのでしょう。)

その古代エジプト、メソポタミアですが、先に述べた様におよそ6千年前には、王などの指導者の下に、極めて原始的とはいえ国家としての形がすでに出来ていたそうです。その後、両文明で誰もがご存知のピラミッドや、壮麗な神殿が数多く建設されていくわけですが、これらはそもそも宮殿ではありません。もちろんエジプト、メソポタミア両国においても、それぞれを治めた王の住む宮殿はあったでしょう。しかし、はっきりと宮殿と呼ばれるものは跡形もなく残っていないのが事実です。

それでは、歴史上はっきりと王や君主が住んでいた宮殿として最古のものは一体どこにあるのでしょうか? それが今回からお話する宮殿シリーズの第一回目、ギリシャ・エーゲ海に浮かぶクレタ島の「クノッソス宮殿」です。


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上がそのクレタ島とクノッソス宮殿の位置です。

このクレタ島は、ギリシャ・エーゲ海で栄えた「エーゲ文明」の一つである「ミノア文明」の中心で、その歴史は先に述べたエジプト、メソポタミアとほぼ同時期の紀元前3千年頃にまでさかのぼるものですが、一般の義務教育の段階ではこれらを教わる事はなく、大学以上の高等教育の場で教わる以外では、私たち一般の日本人にはほとんど馴染みがないものです。(その理由は単純です。このエーゲ文明は海を中心に発展していますが、先の「四大文明」は全て大河の流域に栄えた事から、子供には教えやすく、そのために省略されているからです。それに、古代ギリシャといえば、アテネとスパルタに代表される都市国家「ポリス」の時代がその後にあり、「民主主義」を教える上で、歴史の授業での混乱を避けるためもあったのでしょう。そのためか、実際多くの私たち日本人の感覚では、古代ギリシャ時代というのはアテネとスパルタの時代から始まるものだという印象があるのではないか思いますが、これらはエーゲ文明よりはるか後の紀元前1千年以降、今回のお話よりずっと後の時代の事であり、古代ギリシャの歴史はそれよりもはるかに古いのです。)

このクレタ島は、ギリシャ本土とエーゲ海の大小220以上の島々をもって形成するギリシャ共和国の中で最大の面積を持つ島です。(大きさは日本の兵庫県とほぼ同じくらいです。)島全体の人口はおよそ62万人余り(2011年調査)このクレタ島で最大の都市は、同島のほぼ中央に位置するイラクリオンで(人口14万ほど)このイラクリオンがクレタ地方の中央行政府(つまり、日本でいう所の「県庁所在地」)となっています。


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上がイラクリオンの街の全景と港の様子です。港の入り口にある古い城塞は「クールス要塞」といい、およそ500年前にこの地を支配していた海洋都市国家ヴェネツイア共和国が軍事基地として築いたものです。(海の青さとその美しさに注目して下さい。まさにエメラルドグリーンです。古代も今も、この海の美しさだけは何一つ変わってはいないのでしょうね。)

今回のお話の主役であるクノッソス宮殿は、この美しい港町イラクリオンから5キロほど内陸にある古代遺跡です。


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上がクノッソス宮殿の全景と、復元想像図です。東西約180メートル、南北180メートルと、面積はそれほど巨大なものではありませんが、宮殿は複雑に建て増しされた数階建ての複合構造で、大小あわせて1000以上の部屋から成っていました。

といっても、宮殿が最初からこの様な形で造営されたわけではありません。ここに最初に宮殿が建設されたのは、ミノア文明中期の紀元前1900年頃、つまり今からなんと3900年前といわれています。そしておよそ280年後の紀元前1625年頃に発生した地震と火災により最初の宮殿(旧宮殿)は倒壊してしまい、その跡地に再び新しいものが「新宮殿」として建設されたそうです。

当時クレタ島は、すでに地中海交易の中心地として発展していました。それが、この付近でミノア文明が繁栄する大きな原動力になったわけですが、その交易によって富を蓄えた者が人々を従えて「王」となり、この地に宮殿を建設したものと考えられています。

ただし、この宮殿はその全てが王家一族だけのものであったのではありません。宮殿は王家の住まいであると同時に、王国を統治する中央政府であり、また神に祈りを捧げる神殿でもありました。さらに交易によって各地から集められた品物を納める貯蔵庫、そして異国の商人をもてなす迎賓館としての機能も果たしていたのです。そのため宮殿内には、政治を司る役人たちや、神事を司る神官、王家に仕える家臣や女官など、宮廷を支える多くの人々の部屋が整然と配置され、やがて王国の力が強大になり、人口も増えるに従って従来の部屋だけでは足りなくなり、増築が繰り返されて上の様に2階から5階建ての複雑な構造になっていったのです。

最盛期、このクノッソス宮殿とその周辺にはおよそ4万人ほどが暮らしていたと推定されています。そして、宮殿が王国の中心として存在していた紀元前1900年から1375年までのおよそ500年以上もの長い間、王国ではほとんど戦いも無く、外敵の侵略も受けず、王国は平和と繁栄を謳歌していました。(その証拠に、宮殿には防御のための城門や城壁などが存在せず、出土品も剣や甲冑などの武器の類いは極めてわずかでした。)

このクノッソス宮殿に代表されるクレタ島ミノア文明は、私たちが良く知る古代ギリシャ、すなわちアテネやスパルタなどの時代よりも前に栄えたものであり、その後に興ったこれらの古代ギリシャ文明の母体ともなったものですが、その威光はそれ以後のギリシャの人々に強烈な影響を与えました。とりわけ、このクノッソス宮殿の複雑に入り組んだ構造は、「迷宮」として古代ギリシャ神話の題材の一つになっています。それが「怪物ミノタウロス」の物語です。

その物語とは、要約するとこんなお話です。

ギリシャ神話における最高の神ゼウスと、その妻エウロペの子であるミノスは、クレタの王位をゼウスから授かるために海の神ポセイドンにその仲介を願います。ミノスはその謝礼(というより「賄賂」)として、ポセイドンの大好物であった立派な牡牛を生贄として捧げると約束し、彼はクレタ王となります。しかし、ミノス王はポセイドンに生贄として捧げるはずの牡牛があまりに立派だったため、惜しくなった彼はそれを自分のものにしようと別の牡牛を生贄として捧げてしまうのです。

これを知ったポセイドンは激怒し、罰としてミノス王の後を継ぐべき子供を醜い化け物として誕生させてしまいます。やがて生まれた子供は、なんと身体は人間だが、頭から上は「牛」の姿をした「怪物」でした。ミノス王の名にちなんで「ミノタウロス」と名付けられた子は、成長するに従い手のつけられない凶暴さと残忍さで恐れられ、困り果てたミノス王は、この怪物を閉じ込めるために迷宮「ラビリントス」を造らせ、ミノタウロスを鎮めるために毎年各地から若い男女7人ずつを生贄に捧げる様命じます。

そして、その生贄の一人として捧げられるはずだったアテネの若者テセウスによって、ミノタウロスは退治されるというストーリーです。(あくまで神話ですので、設定はとんでもなく支離滅裂なものです。笑)


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上は出土したギリシャ時代の壷に描かれた「ミノタウロス退治」の絵です。

先に述べた様に、クノッソス宮殿は神殿でもありました。そしてその神殿では、神々に捧げる生贄として牡牛が使われ、「ラブリュス」と呼ばれる両刃の斧で牛の頭を落として祭壇に祭る習慣があった様です。これを見たギリシャ本土の人々が、想像の翼を羽ばたかせてこの物語を創作したものと考えられています。そしてクノッソス宮殿には、その両刃の斧であるラブリュスが紋章としてあちこちに飾られ、それが「迷宮」を意味する英語の「ラビリンス」の語源になったといわれています。

この様に、当時のエーゲ海周辺に大きな影響を与えたクノッソス宮殿とその王国ですが、その繁栄も突如終焉を迎える事になります。紀元前1375年頃に発生した大火災により再び宮殿は崩壊してしまい、宮廷と都は別の地に移され、これを契機にミノア文明は徐々に衰退の道を辿って行く事になるからです。(現在見られる遺跡には、この時の火災で焼け焦げた跡が宮殿の至る所に残っています。)ちょうどその頃、ギリシャ本土では新たにミケーネ文明が興隆し、急速に勢力を拡大していました。そして紀元前1100年頃、ミケーネ軍はクレタに侵攻、これを征服してミノア文明は滅亡してしまうのです。

それから時は流れ、アテネとスパルタ、ペルシャやローマ、ビザンツ、ヴェネツイア、オスマンなど、クレタ島の支配者はめまぐるしく変わり、クノッソスの迷宮は人々の記憶から忘れ去られ、宮殿は3500年もの間土砂に埋もれていました。

しかし、時は20世紀の始まる1900年、この伝説の宮殿は神話の世界から再び現世に蘇ります。イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズの発掘により、宮殿は3500年の時を越えてその姿を現したのです。


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上がクノッソス宮殿の発見者であるアーサー・エヴァンズ博士です。(1851~1941)出土した壷を眺めて思考に耽っているところでしょうか。彼はこのクノッソスを含む多くの考古学的功績により、1911年にイギリス王室から「サー」の称号を賜ります。

エヴァンズの発掘によって、遺跡は上下水道、水洗トイレ、浴室まで完備した驚くべき全貌と、数え切れない金銀宝飾品の数々、出土品で世界を驚かせます。しかし、考古学者であるエヴァンズはもっと別なものを欲していました。それはこの時代の様子を記した記録、すなわち文字を刻んだものです。そしてほどなく、彼はその最も欲していた文字が刻まれた粘土板を大量に発見するのです。

これらは線で刻まれたもので2種類あり、エヴァンズは古い時代のものを「線文字A」それより後のものを「線文字B」と名付け、その解読にその後の人生を捧げますが、残念ながら彼は存命中にその目的を達成出来ずに90歳で亡くなります。(彼の死後、第二次大戦後に「線文字B」の方は別の研究者によって解読され、この時代の様子を知る貴重な資料となりますが、「線文字A」の方はまだ解読されていないそうです。もしこれが解読されれば、あのエジプトのヒエログリフ解読に匹敵する大発見になるといわれています。)

こうして、世界考古学史上に多大な功績を残したエヴァンズでしたが、その半面で現代なら考えられない様な取り返しの付かない過ちを犯してもいます。それは、下に載せた写真にあるように、自分の想像で勝手に遺跡に手を加えて「復元」してしまった事です。


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上の一連の画像は、現在のクノッソス宮殿の様子です。写真で見ると、宮殿内の壁などに色鮮やかなフレスコ画が描かれていますが、これらがエヴァンズが想像で勝手に復元したものです。(3500年以上前に放棄され、土砂に埋もれていた遺跡にこんなに綺麗な壁画が残っているわけがありませんからね。笑 さらに外の太い円柱などは、なんとコンクリートで復元したものだそうです。)

貴重な遺跡にこんな事をしてしまったために、エヴァンズ博士は死後、考古学界から厳しく非難される事になってしまいます。それだけではありません。このクノッソス宮殿は、みなさんご存知のあのユネスコの「世界遺産」の登録リストからも除外されているのです。理由はこれらの復元により、古代遺跡としてのオリジナリティーが失われてしまったからです。

実はこのクノッソス宮殿について、もう一人の人物が目をつけていました。それは歴史好きなら誰もが知る、あのトロイの発見者ハインリッヒ・シュリーマンです。


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上がそのハインリッヒ・シュリーマンです。(1822~1890)彼については、あの伝説の「トロイの都」を発見し、少年時代の夢を叶えた人物としてあまりにも有名ですね。ドイツの貧しい牧師の子に生まれ、大変な苦労をして巨万の富を築き、その財を古代への夢に捧げた事は良く知られています。(ちなみに彼は1865年にわが日本にも滞在しています。幕末の動乱に揺れる日本の姿は彼の目にどんな形で映ったのでしょうか。)また彼は語学の天才で、なんと18ヶ国語を話せたそうです。

シュリーマンは、先にお話したエヴァンズよりはるかに年長の先輩考古学者でした。すでにトロイやミケーネの発掘で大成功を収めていた彼が次に「狙っていた」のが、ミノタウロス伝説で有名なクノッソスを含むクレタ島だったのです。しかし、遺跡の発掘には莫大な費用がかかります。なぜならまずは発掘予定の土地を買い占めなくてはならないからです。その価格が、本来実業家でお金にシビアであったシュリーマンにとっては高すぎて当時の地権者たちと合意出来ず、彼はクノッソス発掘を断念せざるを得なかったそうです。

歴史好きなみなさんも、ギリシャに旅行される機会があればエーゲ海クルーズなどがお薦めです。そしてぜひクレタ島とクノッソス宮殿も訪れてみてはいかがでしょうか? もしかしたら、下のイラストの様な伝説の怪物ミノタウロスが、みなさんを出迎えてくれるかも知れませんよ。(笑)


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次回に続きます。

日清戦争最終回 ・軍事帝国日本の誕生

みなさんこんにちは。

いよいよこの日清戦争のお話も今回が最終回となりました。前回は、その日清戦争終結後における朝鮮国と清国の行く末をお話しましたが、今回はわが日本が今次戦争において得た物理的な利益と損害の程度、さらにこの戦争において日本が投じた戦費その他を多面的にご紹介して、このテーマの結びとしたいと思います。

これまでも述べて来た様に、日本は今次戦争に大勝利を収めました。この戦争におけるわが国の動員兵力は、陸軍が当時の日本陸軍の全兵力である7個師団を総動員し、平時兵力6万5千程度であったものが、開戦による緊急動員でなんと24万600名に膨れ上がりました。それ以外に、物資の補給と運搬のために「軍属」として雇用された荷物運びの軍夫(ぐんぷ)およそ15万4千名含めると、この戦争における軍人軍属は総勢40万近くに達します。そのうち、戦争による純粋な陸軍の損害は、戦死者約1万3300名、負傷者約3800名にのぼりました。

しかし、戦死者の全てが戦闘によるものではなく、純粋な戦闘におけるわが将兵の戦死者はおよそ1400名余りでした。つまり、残りの死者は戦病死であったのです。そして、その死亡原因のトップは、大陸に派遣された将兵においては脚気(かっけ)であり、台湾平定作戦においては亜熱帯の気候から、赤痢、マラリア、コレラなどの伝染病であったそうです。(軍属である軍夫の損害は、これらの病気の蔓延により、およそ7千名が死亡したとされ、それを含めると、わが軍の死者は2万を超えます。)

では、相手側の清軍の損害はどの程度のものだったのでしょうか? 残念ながらこれについては信頼出来る統計がありません。理由としては清国が専制君主国家であり、その政府も近代国家の政府とはほど遠く、さらに軍に至っては、各地方の有力者の私兵集団であり、指揮統率も詳細な管理把握も困難であったからです。それでも、断片的な記録を総合して、およそ3万~3万5千程度の清兵が戦死、戦病死したものと推定されています。

ここで余談になりますが、マラリアは蚊に刺された事による高熱、コレラや赤痢はいずれも細菌が腸を侵し、猛烈な下痢によって死に至るものであるのはみなさんも一般知識としてご存知でしょう。しかし、脚気については意外に知られていないと思うので、ここで簡単にご説明しておきます。

脚気とは、ビタミンB1が欠乏する事で、全身の倦怠感(つまり、体がだるい。自分もしょっちゅうだるいのですが、生来ぼーっとしてだらしないのが原因で脚気ではありません。笑)などの様々な異常が引き起こされる病気で、 主な症状は全身の倦怠感の他に、食欲不振が発生し、やがて足がしびれたり、むくみが目立つ様になります。 その他、動機、息切れも起きる様になり、 症状が進めば手足の力が入りにくくなり、さらに重症になると心不全に至る事もあるという怖い病気です。

この脚気というものは、偏った食事が最大の原因で、かつて貧しかったわが国の人々が、国内で唯一自給出来た主食、つまり白米ばかり食べていて、肉や魚、野菜といったおかずを副食としてバランス良く取れなかった事から、私たち日本人の祖先が有史以来悩まされてきた病気です。この日清戦争においても、大陸に派遣されたわが陸軍将兵は、限られた食糧のうち、白米ばかりを食べざるを得ず、その結果この脚気が大流行してしまったそうです。


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その点、イギリス海軍を模範とした海軍においては、上のイラストの様に米ではなくパンと洋食が食事の中心であったため、陸軍の様に脚気が艦隊乗組員に蔓延する事は少なかったそうです。

さて、話を日清戦争後のわが国の状況に戻しますが、この戦争の勝利は、わが国にいくつもの大きな利益をもたらしました。これを列挙すれば、軍事賠償金、台湾の獲得、欧米列強諸国との不平等条約改正の促進などです。その中で最も注目すべきなのは、なんといっても清国からの賠償金でしょう。

この賠償金は、総額2億3千万両(テール)日本円にしておよそ3億5700万円(さらに日本はこれを手堅く国際金融市場で運用し、その利益が800万円以上発生したので、実際は3億6500万円ほどになります。)で、当時の日本の国家予算(約8500万円程度、ちなみに当時の日本の国内総生産、いわゆるGDPは、およそ13億4千万円であったそうです。)の4倍以上という巨額なものであった事は以前にもお話しましたが、では、当時のわが国はこの大金を一体何に使ったのでしょうか?


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それについては上のグラフをご覧ください。実に84%以上が臨時軍事費と軍備拡張費に使われています。そのうち、後者の軍備拡張費についてですが、これはすでに大きな脅威となっていたロシアの南下に備えるために、陸海軍が政府に要求した結果で、その内訳は陸軍が5700万円、海軍が1億3900万円になります。

このお金で、陸軍は7年以内にそれまでの7個師団(常備兵力およそ7万)から13個師団(同じく13万)へとほぼ2倍に増強、それとは別に、独立部隊として騎兵2個旅団、砲兵2個旅団(旧日本陸軍の編成では2個旅団で1個師団ですから、事実上この時増強されたのは、先の6個師団とこの独立部隊4個旅団を合わせて8個師団になりますね。)を新たに新設し、海軍は1万5千トン級の大型戦艦6隻、それに次ぐ1万トン級の大型巡洋艦6隻を主力とし、その他大小合わせて100隻の艦艇を10年で建造する「六六艦隊」計画という大建造計画を立てます。

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上はこの六六艦隊計画で建造された新型戦艦敷島(しきしま)型の4番艦「三笠」(みかさ)です。全長132メートル、排水量1万5千トン、主砲として30センチ連装砲2基を備える当時世界最大の最新鋭戦艦で、後の日露戦争における日本海海戦で、日本連合艦隊旗艦となり、東郷平八郎大将指揮の下で、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに壊滅させた栄光ある戦艦ですね。しかし、この戦艦を含め、この時建造された新型艦のほぼ全てが、イギリスに注文して造ってもらった外国製でした。(理由は単純です。この頃の日本はまだ自前で軍艦を造る技術が未熟で、そもそも鋼鉄を造る大規模な製鉄所すら国内には無かったからです。)

また、前者の臨時軍事費についてですが、これは戦争遂行に必要な戦費(武器、弾薬、食糧の他、将兵や軍夫に支払う給料などの人件費、将兵の軍服代その他)の事で、およそ8000万円になります。といっても、誤解してはならないのが、この金額が日清戦争における戦費の全てではないという事です。

では、この戦争ではどれだけの戦費がかかったのでしょうか? それについてははっきりした数字があり、およそ2億円余りであったそうです。これは、当時のわが国の国家予算の2.3倍という巨額なものですが、戦争というものはいつ終わるか、どれだけのお金がかかるか分かりませんから、通常の国家予算の一般会計の様に単年度方式の予算編成は出来ません。そこで「臨時軍事費特別会計」という国家予算とは別の予算を組みます。

その臨時軍事費特別会計で、戦争期間中にかかるお金の処理をするわけですが、もちろんこれだけの大金を一度で捻出したのではありません。当時のわが国は、国庫の剰余金(つまり国の貯金ですね。)が2500万円ほどしかなく、この程度では到底足りません。そこで当然足りない分は公債(つまり国債)を発行して賄うのですが、そのやり方は国民の愛国心に訴え、かなり強制的に公債を買わせる強引なものであったそうです。これには財界から

「国の景気が悪くなるので、欧米諸国に公債を発行すべきだ。」

との声が盛んに上がったのですが、時の大蔵大臣 渡辺国武(わたなべ くにたけ)氏は、断固として国内公債にこだわり、なんとかやりくりしたそうです。


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上が日清戦争時の大蔵大臣 渡辺国武氏です。(1846~1919)彼は長野県の諏訪出身で、その卓越した財務企画力を買われ、薩摩、長州の二大派閥出身者が要職の大半を占めていた当時の政府内では珍しく、それ以外の出身にも拘らず大蔵大臣にまで登り詰めたたたき上げの人物です。(いかにも意志の強い頑固一徹そうな方ですね。笑)後に子爵位を賜っています。

彼が国内公債にこだわった理由は、欧米諸国に公債を発行する(つまり、欧米に借金するという事です。)のは、欧米に対して弱みになる事、また、戦争がいつまで続くか分からないのに、当時の貧しい日本の国家財政で欧米向けに公債を発行すれば、償還期限までに支払えるかどうか分からず、もし支払えずに債務不履行(いわゆるデフォルトですね。)になれば、欧米諸国にどんな要求を突きつけられるか分からず大変危険であるという理由でした。その点国内公債ならば、戦費が足りなくなっても戦争が続いている間はまた何度でも発行して、その償還期限が来ても、国の都合でそれをいくらでも引き伸ばし、事実上国民から「タダ」同然で戦費を調達出来るからです。

そこで先ほどの賠償金の使い道の中にあった臨時軍事費の話に戻りますが、先に述べた様に賠償金の6割以上が軍の要求で軍備増強に費やす事になりました。これはロシアとの来るべき戦争に備える事と、富国強兵をスローガンとする明治日本としてはやむを得ない事だったのですが、「強兵」ばかり優先しても「富国」が伴わなくては意味がありません。

当然、そのために残りのお金を「富国」のための費用、つまり今だ手を付けられずにいた様々な分野のインフラ整備と、国民に償還しなくてはならない公債金に分けて使う事になったのですが、賠償金の総額3億6500万円のうち、これらに廻せるお金はおよそ37%の1億3500万円余りです。これをそれらに出来るだけ均等に配分した結果、日清戦争において実際にかかった戦費2億円のうち、およそ8000万円を臨時軍事費として特別会計に繰り入れたのです。これにより、臨時軍事費特別会計の歳入は、軍事公債として国民から集めた約1億1700万円、賠償金からの充当約8000万円、国庫剰余金2500万円その他を含めて2億3千万円余りになり、実際にかかった戦費2億円を差し引いても3千万円ほど余ったそうです。(もちろん、この余ったお金は公債の償還などに使われます。)

話が、ややこしい会計処理の説明になってしまったので、これはこの辺で終わりにして、その他の賠償金の使い道についてお話しましょう。上のグラフをご覧になれば分かりますが、軍事費に次いで多いのが皇室財産への編入です。およそ2千万円が天皇家に献上されています。皇室財産は当時御料(ごりょう)と呼ばれ、天皇のおわす皇居宮殿(当時は「宮城」とお呼びしていました。)や、御所、天皇家ゆかりの古くからの離宮、別荘に当たる御用邸、数多くの森林(御料林)からなる御料地(つまり不動産)と、日本銀行や日本郵船などの当時の大企業の株式や債券などの有価証券、預貯金その他の金融資産から成りますが、それに加えて今回献上されたお金で、天皇家は日本一の資産家になりました。(その後、わが天皇家は日本帝国の躍進に歩調を合わせ、その金融資産の評価額がうなぎ登りに上がり、大正時代にはイギリス王家やロシア帝国のロマノフ皇帝家と並ぶ、世界屈指の財を誇る王家としてその名を知られる様になります。驚)

その他の使い道では、教育関係と、災害準備費用が並びます。前者は言わずと知れた学校建設費用で、当時の日本は毎年およそ100万人近い規模で人口が増え続けていたそうです。これは富国強兵の政策に伴い、「産めよ増やせよ」と多産を奨励した結果、子供の数が急激に増えたためです。彼ら日本帝国の未来を担う子供たちに、初等教育の充実を図るため、全国各地に小学校が建てられていきました。

また、意外に多いのが後者の災害準備費用です。これはこの日清戦争があった明治20年代半ばから後半にかけて、全国で地震が頻発し、その被害が大きかったためです。(特に被害が大きかったのは、明治29年6月に発生した明治三陸沖地震で、津波により2万人以上が亡くなったそうです。記憶に新しいあの東日本大震災を髣髴とさせる大災害が、その110年前にも起きていたのですね。)


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上の画像2枚はこの時の地震の被害の様子です。まさに、あの東日本大震災の爪跡と同じですね。そして3枚目は当時の人が、いずれまた起きるであろう地震と津波に備え、子孫のために残した警告文を刻んだ石碑です。

「ここより下には家を建てるな。」

しかし、この碑文を刻んだ石碑は長い年月の間に草に埋もれ、地震の記憶も人々から忘れ去られ、この警告が活かされる事はありませんでした。(涙)

さて、その他の賠償金の使い道で、良く歴史で教わったのが、あの九州の八幡製鉄所です。これは日本で事実上最初の大規模な国産製鉄所であり、それまで欧米列強諸国からの輸入に頼っていた鋼鉄を、日本国内で自前で生産するために必要不可欠なものでした。


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上が良く歴史の教科書で目にした八幡製鉄所の様子です。完成間近の溶鉱炉の前で、関係者の皆さんが記念撮影をしていますね。(ただし、製鉄所自体の建設費用は当時のお金で58万円だったそうで、賠償金の使い道としてはほんのわずかでした。)ここで作られた鉄は、後に全国の鉄道のレールや橋、軍艦、船などの鋼材として使われる様になります。この製鉄所は、後に日本全国で続々と建設されていく製鉄所のモデルとなり、そこで得た知識と経験、ノウハウが、その後のわが国の重工業の発展に大きく寄与していきます。

この八幡製鉄所の完成により、わが国はやっと国産の戦艦を造れる様になり、その後、先に述べた「六六艦隊」を凌ぐ「八八艦隊」(これは戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の計16隻を連合艦隊の主力とするというものでしたが、その後の第1次世界大戦の結果による世界的な軍縮と大戦後の深刻な不況による財政難で、この計画は中止となってしまいます。)を計画し、1920年代には英米に次ぐ世界第3位の勢力を誇る艦隊を擁する大海軍国となるのです。(この製鉄所は、今も新日鉄住金の重要な製鉄所として現在も稼動するバリバリの現役です。そして2015年に、これらが「明治日本の近代化産業遺産」として世界遺産に登録されたのは記憶に新しいですね。)

手に入れたばかりの新領土、台湾へのインフラ投資も、およそ1200万円が使われています。当時まだほとんど未開の地が多かったこの亜熱帯の島に、まずは上下水道、鉄道、学校、病院などが次々に建設され、台湾の住民に、大日本帝国臣民としての皇民化教育が施されていきます。

この戦争の勝利がわが国にもたらしたものは、こうした物理的なものばかりではありません。なんといっても東洋の大国、「眠れる獅子」と呼ばれて欧米諸国が潜在的な恐れを抱いていた大清帝国を、極東の最も端にある痩せた島国日本が打ち破ったのです。この事は、それまでの日本に対する欧米諸国の見方を大きく転換させる契機となります。その代表的な例が、明治政府がその成立から悲願としてきた欧米諸国との不平等条約の改正です。

この不平等条約は、旧江戸幕府がペリー来航以来欧米各国と結ばされたもので、特に欧米人が日本国内で犯罪を犯したとしても、日本側は一切手を出せず、欧米諸国の法に基づいて裁判を行ういわゆる「治外法権」や、欧米諸国からの輸入品に対して日本側が自由に関税をかけられないなどの二点は、日本が今後欧米諸国と相対していく上でどうしても撤廃しなければならない第一外交目標でした。

1894年(明治27年)7月、日清戦争開戦直前、日本政府はようやくイギリスとの間で「日英通商航海条約」を結ぶ事に成功します。これは、先に述べた「治外法権」の撤廃と、「関税自主権」の部分的回復を約したもので、これにより日本は開国以来の悲願を達成し、清国との開戦に踏み切ったといわれています。


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上がこの時条約を調印した日本側代表の駐英公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)氏です。(1844~1914)彼は長州出身で、若い頃は医者を目指してドイツに留学していましたが、当時の日本の留学生の専攻が軍事と医学に偏りすぎていると考え、途中から政治、経済学に転向した事から政治家への道に進む事になったきっかけでした。その後外務省に入り、その卓越した語学力と外交力で駐英、駐独公使を歴任し、さらに外務次官から外務大臣に登りつめ、一貫して不平等条約の改正に尽力した人物です。その功績により子爵位を賜っています。(すごいヒゲですね。笑 彼に限らずこの時代の人物は、明治天皇を筆頭に主だった政治家、軍人以下みなさんこの様に立派なヒゲを生やしています。しかし、これは決して当時の流行だったからではなく、権威と威厳を相手に見せつけ、言葉は悪いですが相手に「舐められない」様にするための「演出」効果でもあった様です。外交にはそんな事も必要だったのでしょう。)

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そして上がイギリス側代表の外務大臣ジョン・キンバリー伯爵です。(1826~1902)彼はヴィクトリア女王治世下における大英帝国絶頂期の政治家として、主に外交、植民地総督などの要職を歴任した筋金入りの典型的な「英国貴族」でした。

イギリス側が、日本との関係でこれまで治外法権を認めなかったのにはそれなりの理由があります。それは当時の日本にはまだ近代国家としてきちんとした法律(民法、商法、刑法などの基本的な法)が整備されておらず、そんな遅れた国に自国の国民を引き渡すのは危険だと思われたからです。(つい20年前までろくな取調べや裁判もなく、刀で斬首して「さらし首」にしていたのですから無理もありませんね。)しかし、その後ドイツに倣った大日本帝国憲法の発布や、フランス民法に倣った民法の編纂など、日本が着々と近代国家としての基礎を築いていくに連れ、次第に欧米諸国の日本に対するそうした見方も変わりつつありました。

さらに、イギリスが条約改正に応じたのにはもう一つの大きな理由があります。それはロシアのこれ以上のアジアへの南下を阻止し、イギリスがアジアに持っている広大な植民地や権益を保護するため、当時興隆期にあった日本に味方しておいた方がイギリスの国益のために良いという高度な戦略があったからです。(仮にロシアと戦争になっても、それで血を流すのは日本であり、イギリスは痛い思いをしないで済みます。つまり、そのための「道具」として日本を利用しようとしたのです。まさに大人のやり方ですね。今のわが日本政府も、これくらいのしたたかさでどこかの反日国や北方領土問題に当たってもらいたいものです。)

この条約の締結後、キンバリー外相は次の様に発言しています。

「日英間に対等条約が成立した事は、日本の国際的地位を向上させる上で、清国の大軍を撃破した事よりも重大な事になるだろう。」

彼の予見は見事でした。その後日本は、イギリス以外の欧米諸国14カ国とも不平等条約の撤廃に成功し、さらにイギリスとの間には、1902年(明治35年)に「日英同盟」を結び、両国関係は飛躍的に強化されます。そしてこの日英同盟が、その2年後の日露戦争で日本がロシアに勝利出来た大きな力となった事は、歴史好きな方であれば良くご存知の事と思います。

この日清戦争は、単純に言えばわが国にとってとても「儲かった」戦争でした。それはこれまで上でお話した賠償金のくだりでもお分かりの通りです。そしてその勝利により、日本は13個師団と4個独立旅団(合わせて常備兵力およそ15万)を基幹戦力とする精強な陸軍と、6隻の最新鋭戦艦を主力とするおよそ30隻以上の常備艦隊からなる強力な海軍を造り上げ、それまで貧弱だった軍事力は飛躍的に大きくなりました。

さらに、後段で述べた様に、わが国はその国際的地位を向上させ、欧米諸国から「近代国家」の末座に加えてもらう事を一応認めてもらった事も見逃せないでしょう。

それは当時の国際情勢、歴史では良く「帝国主義」と教えられたこの時代では必然的な成り行きでしたが、それは同時にわが国の中に、大きな心境の変化をもたらす事にもなります。なぜなら、これに味をしめた日本はそれから次々と対外戦争に積極的になり、領土の拡大、軍事的膨張の道を突き進んでいく事になるからです。

「朝鮮を従え、清国も破った、もはやアジアではわが国が最も進んだ強国だ。次なる敵はロシアだがなんとか退けてみせる。」

そして日露戦争でそれを果たしたわが国は、その後の国家戦略を大きく転換させます。それまでの日本は、とにかく近代国家になる事が至上の第一目標でした。しかし、ここまで来てその目標はおおむね達成され、今度は次なる目標として、イギリスの様な世界に君臨する大帝国を建設するという大きな野望を抱き、その国策を練るのです。つまりこの時からわが国は、理性的な文明国から、対外進出を狙う野心的で危険な軍事帝国へと大きく変貌したといえるでしょう。

「イギリスもヨーロッパの最も端にある島国だ、地理的にはわが国と同じ条件にある。そして国内にこれといった資源がないのもわが国と同じだ。それゆえにイギリスは海外に進出してライバル国と戦争を繰り返し、植民地を広げて今日の大英帝国を築いたのではないか。そのイギリスに出来た事が同じ島国の日本に出来ないはずがない。ならばわれわれも、イギリスの様な帝国をアジアに築いて何が悪い。天皇を君主とするわが大日本帝国が全アジアの盟主となり、やがてはこれを一つにまとめてアジアに帝国を築き、アジアをわが大日本帝国のものにするのだ。」

そう、これはあの「大東亜共栄圏」構想のスローガンです。50年後にわが国が太平洋戦争で掲げた目標が、この時にすでにわが国の中に野心として芽吹いていたのです。そしてその結果がわが国を破滅に導いた事は、歴史好きな方でなくとも私たち日本国民の共通認識である事は言うまでもない事ですね。

18回に亘ってお送りしてきた「忘れられた戦争」ともいうべき日清戦争についてのお話はこれで終わりにしたいと思いますが、いかがだったでしょうか? しかし、この戦争は上で述べた様に、その後の日本の進む方向を位置付けた最初の出来事であり、決して忘れ去ってはいけないものであると思います。縁あって自分の駄文を読んで頂いた方や、ご興味を持たれた方などの暇つぶしにして頂ければ自分としては幸いです。(最近更新が遅くてすみません。無い知恵を絞って文章推敲しつつ、画像などもなるべくいいものを探しながら書いてるとかなり時間がかかり、月に一、二回程度になってしまいます。汗)

次回からはまた新しいシリーズのテーマを書こうと思っているので、ご興味を持たれた方はふらりと立ち寄って見てください。(笑)

日清戦争17 ・日本になれなかった二つの帝国

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)10月、日清戦争勃発のそもそものきっかけを作り、20年以上に亘って夫の国王をしのぐほどの権力を振りかざした朝鮮王妃 閔妃(びんひ)は、日本の三浦梧楼(みうら ごろう)公使らの謀略により暗殺されました。この事件については、前回もお話した様にうやむやのまま闇から闇に葬り去られてしまうのですが、何にしても、日清戦争の引き金となった諸々の事件の渦中には常に閔妃が絡んでおり、その彼女の死によって、日清戦争というものが本当の意味で終結したと言えるのかも知れません。

では、この日清戦争が日本、清国、朝鮮三カ国に与えた影響と、この三カ国がその後に辿った歴史はどの様なものだったのでしょうか? 今回はまず朝鮮国と清国からお話したいと思います。

まず、日本と清国がその支配権をめぐって激しく対立し、そしてついに開戦するに至った原因である朝鮮国の日清戦争後の状況ですが、これは前回もお話した様に、長く朝鮮国を二分する権力争いに明け暮れた二人の人物、すなわち朝鮮国王妃の閔妃と、国王の父親にして宮廷の陰の実力者であった摂政の興宣大院君(こうせんだいいんくん)が相次いでこの世を去ると、後に残った国王の高宗(こうそう)が、1897年(明治30年)10月、朝鮮の歴史上初めて「皇帝」に即位、国名を「大韓帝国」と改めて自主自立した独立国を目指して動き出します。


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上が大韓帝国初代皇帝「光武帝」として即位した旧朝鮮国李王朝第26代国王の高宗です。(1852~1919)彼は長い間悩まされ続けた妻の王妃と摂政の父の権力争いからようやく解放され、今度こそ朝鮮を自らの理想とする新国家とすべく、皇帝即位と帝政の開始という思い切った手段により、国の近代化を図ろうとしました。(その手本となったのが、明治維新によって近代化を成し遂げたわが大日本帝国である事は、歴史好きの方であれば容易に察しが付く事でしょう。)しかし、彼が思い描いた「夢の国」は、後にその手本とした帝国に呑み込まれてしまう運命にありました。

高宗、いや光武帝は、貧しく遅れた朝鮮、いや大韓帝国を、日本の様な近代国家にすべく、自らの名を冠した「光武改革」という近代化政策を立ち上げます。しかし、彼のやり方はその第一歩からわが日本の明治維新とはかけ離れたものでした。なぜなら日本の場合は立憲君主制に基づく議会政治を確立したのに対し、光武帝はあくまで皇帝親政による絶対王政を目指したからです。(これでは完全に封建制ですね。全く何のために帝政に移行したのか意味が分かりません。)

さらに彼はもう一つの大きな失敗も犯してしまいます。それは財政、すなわち「お金」の事です。近代国家として生まれ変わるためには何と言ってもたくさんのお金がかかります。その財源を捻出するために彼は国民に増税を強いたのです。その結果どうなるかは目に見えています。ただでさえ貧苦にあえぐ朝鮮の民衆はさらなる増税に耐えかねて各地で反乱を引き起こし、改革どころではなくなってしまいます。これは完全に光武帝の失政でした。

そうして朝鮮、いや大韓帝国が一向に近代化出来ずにモタモタと年を重ねるうちに時代は20世紀を迎え、再び周辺で大きな戦争が勃発します。1904年(明治38年)の日露戦争です。この戦争で強敵ロシアを破った日本は、ロシアの南下を食い止める防波堤として、朝鮮半島を日本の支配下に置く事を列強諸国、とりわけイギリスとアメリカに認めさせる事に成功(その見返りとして、アメリカによるフィリピンの領有の承認、イギリスとは日英同盟を締結します。)

欧米列強の了解を取り付けた日本は、三度に及ぶ「日韓協約」を結ばせて大韓帝国の外交権を剥奪、さらに軍隊の解散と警察、司法までも日本に委任させます。つまり、外交、国防、司法、治安といった独立国家としての権利を全て韓国から奪い、日本の「保護国」としたのです。(この保護国というのは、主に外交権を他国に一任する国の事です。外交権がないのだから、その国はそれを一任した国の一部とみなされます。)

こうした一連の失敗により、光武帝は皇帝としての威信を失い、1907年(明治40年)大韓帝国首相であった李完用(り かんよう)らのグループによって退位に追い込まれ、息子である皇太子純宗に帝位を譲って「太上皇」(「だいじょうこう」 これは退位した皇帝の尊称です。わが日本の天皇家においても、かつて譲位あそばされた帝に対して「太上天皇」略して「上皇」とお呼びしていましたね。)となります。


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上が譲位して光武太上皇となった高宗(左)と、その跡を継いで大韓帝国2代皇帝となった純宗(右)親子です。しかし、彼ら李王家の皇帝としての系譜は、もはや風前の灯でした。

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そして上が、光武帝に譲位を迫った大韓帝国首相の李完用です。(1856~1926)彼は伊藤博文の推薦を受けて大韓帝国の首相に抜擢されたエリート政治家で、さらに日韓併合後には朝鮮総督府の要職に着き、その功によりわが日本政府から侯爵位を賜っています。(そのため彼は何度も暗殺者に襲撃され、また韓国独立後、その名は国賊として「売国奴」の代名詞となっています。しかし、彼は決して親日であったわけではなく、それが証拠に彼は日本語を一切学ばず、日本人との会話では英語で話していたそうです。また、当時から彼に対する同情者も数多くいて、近年の韓国では高宗と並んで歴史の流れに逆らえなかった哀れな人物としての冷静な評価が定着しつつあります。)

そしてついに1910年(明治43年)8月、大韓帝国はわが大日本帝国に併合されます。いわゆる日韓併合または韓国併合です。これにより大韓帝国はその成立からわずか13年で滅亡し、朝鮮半島は1945年(昭和20年)のわが国の敗戦まで35年余り、日本領となるのです。

日韓併合後、高宗と李王家の人々は日本の皇族に準ずる王公族とされ、それぞれ日本流の長い命名による王公名で呼ばれて京城(けいじょう)と改名された旧漢城の李王家の離宮でその命脈を保ちます。そして1919年(大正8年)1月、朝鮮最後の王高宗はその波乱に満ちた67年の生涯を閉じました。

ちなみに現在、旧李王家の末裔は、高宗のひ孫に当たる李源(り げん)氏が李家30代当主としてその系譜を繋いでいます。


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上が李家第30代当主にして朝鮮王家の王位請求者(もちろん名目上の話です。笑)の李源氏です。(1962~)彼は現在は現代グループの一企業に勤めるサラリーマンで、後継者として息子さんが2人いる様です。

さて、それでは清国の日清戦争後の状況はどんなものだったのでしょうか? これについては、戦争に敗れた清国が日本に多額の賠償金を課され、その支払いのために欧米列強諸国から莫大な債務を負ってしまった事は以前にもお話したと思いますが、これにより大清帝国は、借金したそれらの国々になりふり構わず国土を租借させ、もはや帝国などとは名ばかりの半植民地に成り下がってしまいました。

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上が日清戦争後の清国の状況です。清王朝がかろうじて直接統治していたのは、都である北京周辺の中部地域のみでした。

この帝国の状況を最も嘆いていたのが、時の皇帝光緒帝(こうしょてい)です。彼は全ての責任はこれまで清帝国の事実上の「宰相」として辣腕を振るってきた北洋大臣の李鴻章(り こうしょう)にあるとして彼を罷免し、代わって改革派の側近たちを重用して新体制により帝国の建て直しと勢力挽回を図ろうと動き出します。


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上が大清帝国第11代皇帝の光緒帝です。(1871~1908)彼は伯母の西大后がその権力維持のために、わずか3歳で即位した典型的な傀儡皇帝でしたが、成長するに連れて「院政」を敷く伯母からの離脱と、自らの親政による新たな国づくりを願う様になります。

李鴻章

そして上が光緒帝に罷免された前北洋大臣 李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴については、これまで何度かお話してきたので今回は省きますが、当時の清王朝最大の実力者である点は、皇帝から罷免されても変わりませんでした。

光緒帝は、自ら登用した改革派の側近たちと図り、日清戦争敗北から3年後の1898年(明治30年)に、思い切った新体制への移行を実現しようとします。それはわが日本の明治維新を参考に、立憲君主制の近代国家を造ろうというもので、これを戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう 「戊戌」とは干支の事で、この年がそうだったからです。)といいます。

光緒帝は側近たちにこう言い放ちます。

「西欧諸国が500年かかって成した事を、日本は20年余りで成し終えた。日本に出来た事ならばわが国にも出来ぬ事はない。我が国土は日本の10倍以上あり、明治維新に倣えば3年にして大略成り、5年にして条理を備え、8年にして効果を上げ、10年にして覇業を達成するのだ。」

この時、まだ27歳の若い皇帝はどれだけ期待に胸を膨らませていた事でしょう。しかし、それはあまりにも事を急ぎ過ぎた無茶なものでした。とりわけ、これまで清王朝を支え、賄賂の横行と肥大化により腐敗した旧体制の官僚たちは、新体制への移行に伴いその多くが切捨て(つまりリストラですね。)される事になり、大きな危機感を持つ様になります。彼らは同じくそんな皇帝の計画を快く思わないある人物を担ぎ上げ、「抵抗勢力」としてその前に大きく立ちはだかります。その人物とは、誰あろう皇帝の伯母 西太后です。


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上がその西太后です。(1835~1908)悪名高い彼女の経歴についても、以前お話したので省略しますが、皇帝にとって生涯最大の敵は、この怖い伯母さん(失敬。笑)だったのではないでしょうか?

西太后は、清王朝と帝国そのものが、自分のために存在する「私物」であると思っていました。しかし、女性である彼女は「皇帝」になる事は出来ません。(そう、清王朝に限らず、中国歴代王朝では皇帝は男性だけであり、ただ一人として女帝というものは存在しませんでした。)そこで彼女は、清王朝の皇帝家である愛新覚羅家(あいしんかくらけ)の皇族から、自分に血筋が最も近く、さらにまだ何も分からない幼児を傀儡として皇帝に据え、その後見人として帝国の全権を握る「間接統治」で権力を欲しいままにしてきたのです。彼女はこれまで通り自らが影で実権を握り続ける事を望んでいました。

西太后ら保守派グループは、皇帝ら改革派グループに対してクーデターを起こし、この戊戌の変法を潰してしまいます。(この時の光緒帝の失望はどれほど深いものだった事でしょう。若者の夢を老人が潰した典型ですね。)結局、帝国の実権はその後も西太后が握り続け、光緒帝は終始その傀儡から脱する事は出来ませんでした。

こうして清国が内向きの障害により一向に近代国家へと改革出来ないまま時は流れます。やがて起きた1900年(明治33年)の義和団の乱の勃発、これは義和団と呼ばれる宗教集団が外国勢力に対して引き起こした反乱でしたが、これに目を付けた西太后は、この義和団を利用して外国勢力を追い出そうと彼らに味方します。これに対して日本と欧米各国は、この反乱鎮圧と自国のそれぞれの権益の確保のために協調して連合軍を組織し、反乱を叩き潰してしまうのです。

またも敗れた清王朝の凋落はもはや目を覆うばかりでした。そして1908年(明治41年)10月、何も成し遂げられなかった哀れな皇帝光緒帝は、帝国の行く末を嘆き悲しみながら37歳の若さで謎の死を遂げます。(彼の死因については、近年中共が行った遺体の発掘調査と検死により、遺体の髪の毛から致死量をはるかに越える砒素が検出された事から、どうやら毒殺されたらしい事は明らかな様です。その犯人は不明ですが、言わずともそれが誰の命なのかは、皆さんも容易にご想像が付く事でしょう。)

その翌日、彼を生涯悩ませた伯母の西太后も亡くなり、清帝国の新しい皇帝には、彼女の指名によりまたも何も分からぬ3歳の幼児が12代皇帝として即位します。そう、彼こそは宣統帝(せんとうてい)皆さんもご存知の「ラストエンペラー」溥儀(ふぎ)です。


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上が大清帝国第12代皇帝として即位したまだ3歳頃のラストエンペラー溥儀です。(1906~1967)この幼い男の子に待ち受けるその後の波乱に満ちた人生を、一体誰が想像出来たでしょうか?

度重なる外国との戦争に敗れ続け、国内は乱れ放題、中国の人心はとうの昔に腐敗しきった清王朝に対して微塵の期待も敬愛も抱いてはいませんでした。そもそも清王朝自体が中国を征服して成立した征服王朝なのです。もはや清王朝の命脈が潰えるのは時間の問題でした。そしてついに1911年(明治44年)10月、その時は訪れます。辛亥革命(しんがいかくめい 「辛亥」とはこれも干支です。)の勃発です。翌1912年1月1日、革命家孫文(そんぶん)を大総統とする共和制の中華民国が成立、1644年の成立以来12代268年続いた清王朝はついに滅亡するのです。

だいぶ駆け足で、朝鮮国と清国、二つの国の日清戦争後の行く末をお話しました。この二つの国はそれぞれの置かれた状況を憂い、このままでは「国が滅びる」との危機感(というより恐怖感)から、最後の力を振り絞って懸命に生き残ろうとしました。そして、その目指す模範としたのが、わが日本すなわち大日本帝国でした。そう、彼らは日本の様な立憲君主制の近代国家になろうと必至にもがいたのです。

しかしその結果、前者は大日本帝国の一部に併合され、後者は帝国とは全く正反対の完全共和制国家となり、二つの帝国は共にほぼ同じ時期に滅亡してしまいます。結局彼らは日本の様になる事は出来ませんでした。そして、この二つの国を外的に滅ぼしたのは、誰あろう彼らがその目指すべき模範としたわが大日本帝国であったのです。

次回に続きます。
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