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日本の反戦映画は日本の庶民を被害者として描くものばかり

みなさんこんにちは。

2017年(平成29年)も半分をとうに過ぎ、今年も8月15日がやって参りました。そう、みなさんもご存知の「終戦記念日」(この呼び方は「敗戦の日」と改めるべきではと強く憤りを感じています。戦争に敗れて何が「記念日」でしょうか。怒)です。

毎年この時期になると、テレビなどでは過去に制作された戦争映画やアニメなどが放映され、幼稚で感情的な反戦、平和がマスメディアによってわが国民に訴えられてしまうわけですが、こうした状況を見て、これまで自分が長い間疑問に思い、そして今後大きく是正すべきと思うある点について、今回この場を借りて訴えさせていただきたいと思います。(あくまで一個人の勝手な主観での主張です。)

そのある点とは、タイトルにも示した様に、とにかく日本で作られる戦争を描いた映像作品は、映画、ドラマ、アニメにかかわらず、ほぼすべてが「日本の庶民が被害者として描かれるものばかり」という事です。

もちろんいうまでもなく、日本の一般市民も戦争の犠牲者です。歴史好きの方でなくても、私たち日本人の多くが一般知識として良く知っている様に、わが国は先の大戦により直接戦闘に参加して戦死した軍人だけでなく、多くの一般国民も犠牲となって亡くなりました。特に、大戦末期の本土空襲、沖縄戦、そして広島、長崎への原爆投下により、その死者は合計でおよそ80万人に達するとみられています。(正確な死者の数は、各都道府県、市町村レベルで統計にばらつきがあるために不明です。)

B29の大編隊により、雨あられと降り注ぐ焼夷弾によって焼かれていく炎の街の中を逃げ惑う人々、上陸する米軍と迎え撃つ日本軍との戦闘に巻き込まれ、集団自決に追い込まれて死んでいく沖縄の人々、そして原爆で焼き殺される人々、これらはこれまで数多くの映画、ドラマ、アニメなどで散々描かれてきました。

それらは、もちろん個別にそれぞれ優れた作品ではあるのですが、ここで一つ冷静かつ根本的に考えてみてください。そもそも先の大戦すなわち大東亜戦争(「太平洋戦争」と一般に言われていますが、この呼び方はアメリカ側から見て付けられたものであり、わが国が先の大戦によって戦った戦線は、中国大陸から東南アジア全域、そしてインドに至る広大なものであり、太平洋はその半分に過ぎません。ゆえに西太平洋を含む今日の東アジア全域を指した大東亜戦争と呼ぶのが本来妥当なのです。下図参照)は一体誰が引き起こしたものか?

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そう、それは言うまでもなくわが日本自身です。私たちの愛するこの日本という国家が、かつて「大日本帝国」と称して欧米列強諸国に並ぶ強大国を目指し、これらとの対立の果てに引き起こしたのがあの大戦なのです。

戦争というものは当然の事ながら相手があります。相手とはつまり、交戦国である敵国、そして占領され、戦闘になれば戦場となってしまう周辺諸国です。そのうち、敵である交戦国(アメリカ、イギリス、オーストラリア、中国)は別として、わが国が大東亜戦争開戦にあたって攻め入り、占領した国々の人々に対し、侵攻したわが日本軍がいかに傍若無人にふるまい、現地の人々にどれだけの苦痛と損害を与えた事か、「自分たちが被害者」みたいな描き方のフィクションばかり見て育った現代の日本人の中で、その事まで考える事が出来る者が、果たしてどれだけいるでしょうか。


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上に大東亜戦争において、わが国が侵攻したアジア各国の人的損害を表したグラフがあります。このうち、突出して最も損害の多い中国の場合は、中国共産党政府によって1941年(昭和16年)の大東亜戦争開戦より10年もさかのぼる1931年(昭和6年)満州事変以来の死者を含めても「1000万人」などと極端に誇張(同時に捏造)されており、当てにはなりませんが(一体どういう計算で割り出したのでしょうか?呆)それ以外の各国の死者の数がどれだけ多い事か良くご覧ください。

インドネシア、ベトナムにおいて前者は400万人、後者において200万人もの人々が亡くなっています。(これも、数字に大きな誇張があるようですが、中国の様に日本を悪者にするための意図的な誇張ではなく、正確な統計記録がないために、戦前の人口から戦後の人口を差し引いて割り出されたものです。しかし、少なく見ても100万人以上の人々が犠牲になっているのは間違いないでしょう。)この二か国でこれほどの膨大な死者を出した原因は何かご存じでしょうか? その原因は飢餓によるものです。日本軍は占領した東南アジア地域から、すでに食糧不足に陥っていた日本帝国本土に送るために大量の米を強制的に供出させ、収穫を根こそぎ奪われ、ただでさえ貧しいこれらの国々の人々は飢えに苦しみ、農民を中心に数百万に達する餓死者を出したのです。

先に述べた日本での戦争ものの映画やドラマ、アニメなどにおいても、戦時下においてお腹をすかせる描写が良く描かれますが、日本占領下のこれらの地域では「お腹を空かせる」などという次元のレベルでは到底表現出来ないほどの大飢饉により、多くの人々が餓死していったのです。

さらに日本軍は、占領下の国々の人々に紙切れ同然の「軍票」をばらまき、「労務者」として駆り集めて過酷な強制労働に従事させました。その数も数十万人を超え、死者は7万人以上に達したそうです。奪われたものは「人」だけに限りません。日本軍は物資の荷役に使うために、農民たちにとって最も大事な財産である「牛」などの家畜を軍票と強制的に交換させ、これによりこれらの国では農民たちが農作業に従事できなくなり、それが先の飢饉の引き金にもなったのです

フィリピンにおいても、100万以上の人々が亡くなっています。この国は先の二か国と違い、その国土の多くが日本軍と米軍との激しい戦闘により戦場となり、多くのフィリピン国民が戦闘に巻き込まれたからです。

もちろんわが国が大東亜戦争開戦前から続けていた中国における戦闘でも、その犠牲者が極端に誇張されている点を差し引いても、100万以上の中国人民が亡くなっているのは確かです。

つまり、自分が今回ヘタクソな駄文で訴えたいのは(ヘタクソな駄文は毎回ですが。汗)映画であれドラマであれアニメであれ、戦争ものの映像作品を作って反戦を訴えるのなら、加害者としての日本の姿と、それによって犠牲になった多くの周辺諸国の人々の姿も描くべきだという事です。

特に、これからわが日本の未来を担う若者や子供たちが、先に述べた様に「日本の庶民が被害者として描かれるものばかり」の偏った主観のフィクションばかりを見て育ち、将来彼らが海外で活躍する中で、これらの国の人々に、

「自分たちで戦争を引き起こして周辺諸国に大変な犠牲を出して起きながら、その戦争で日本人は自分たちだけがひどい目にあったみたいに考えるだけで、こっちが戦時中に味あわされた苦痛を何も考えず、それどころか知りもしないのか」

と呆れられてしまうでしょう。

今回、何かの縁あってこの駄文を読んでいただいた方の中で、こうした映像作品の制作に当たる仕事に従事されている方があれば、今後は観点を大きく広く取り、そうした点にも目を向けた作品作りをしていただきたいと切に願うものです。

終わり。
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民主主義の影にさまようソビエトの亡霊 ・ クレムリン(後編)

みなさんこんにちは。

前回に引き続き、今回もロシアの歴史を黙って見続けてきた「沈黙の証言者」ともいうべきクレムリンについてお話ししたいと思います。

血に飢えた恐怖のツァーリ、イヴァン雷帝の死後、その跡を継いだ息子のフョードル1世が1598年に世継ぎを残さず亡くなると、およそ736年続いたロシア第一王朝リューリク朝はここに断絶してしまいます。そして、その後のロシアは激しい混乱の時代を迎える事になりました。ロシアにおいて「大動乱時代」と呼ばれる混迷の時代です。

この大動乱時代は先の、リューリク朝最後のツァーリであったフョードル1世の死から1613年までおよそ15年もの間続き、その間にロシアは国内においては短命皇帝の乱立、その混乱に付け込んで侵攻した隣国ポーランドとスウェーデンとの戦争、三度の大飢饉など、まさに目も当てられない危機的状態に陥ってしまいます。

そんなロシア国家の危機に立ち向かったのは、名もない一般のロシア人たちでした。彼らは国民義勇軍を組織し(その指導者はクジマ・ミーニンといい、その職業は軍人でも何でもない、なんと「肉屋」だったそうです。笑 ミーニン「将軍」はその功績により、後に述べるロマノフ王朝において貴族に取り立てられ、今もロシアの英雄として語り継がれています。)10万の大軍に膨れ上がったロシア軍は侵攻してきたポーランド軍やスウェーデン軍を撃退、見事ロシアから追い払ったのです。

1613年2月、外敵を追い払ってやっと混乱を収束させたロシアでは、貴族、教会、市民の代表から成る全国会議を開催、新たなツァーリの選出が行われます。それによって新ツァーリに推戴されたのは、前王朝リューリク朝の外戚であった大貴族ミハイル・ロマノフでした。ここに、あのロマノフ王朝が成立したのです。

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上がロシア第二王朝ロマノフ朝の創始者ミハイル・ロマノフです。(1596~1645)上の画像は晩年のものですが、彼がツァーリに即位したのはまだ17歳の若さでした。彼の一族ロマノフ家がツァーリに推戴されたのは、前王朝のイヴァン雷帝の最初の妃であったアナスタシアがロマノフ家から「輿入れ」し、雷帝の寵愛を最も受けた事が大きく影響していました。

この新王朝ロマノフ家の統治の下で、ロシアは再び大国への道を登り始めます。特に、ロマノフ王朝5代目のツァーリ、ピョートルの時代に、ロシアは大きく激変します。1721年、ピョートルはそれまで全ロシアの君主としての意味合いしか持たなかった「ツァーリ」に代えて、「インペラトール」すなわち「皇帝」を称し、自ら皇帝ピョートル1世として即位、同時に国名もロシア帝国と改めたのです。


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上がそのピョートル1世です。(1672~1725)彼については、その強力な指導力によってロシアの近代化と改革を推し進め、それまではるか東の遅れた辺境国にすぎなかったロシアをヨーロッパの強国に押し上げた偉大な皇帝として、ロシア皇帝として唯一「大帝」として崇められています。実際の彼はなんと身長2メートル13センチもある大変な大男で(おそらく記録に残る世界史上最も背の高い君主ではないでしょうか? しかし、そんな大男なのに寝る時は小さなベッドでうずくまって寝ていたそうです。笑)それほど長命だったわけではないのですが(53歳で崩御)その在位中の数々の風変りなエピソードで歴史好きな方には良く知られていますね。

さて、この頃クレムリンはどうなっていたのでしょうか? 実はこのピョートル大帝の時代から、ロシアの首都はモスクワから大帝が新たに建設したサンクトペテルブルクに遷されてしまいます。そう、あまり知られていませんが、帝政時代のロシアの首都は一貫してサンクトペテルブルクであり、モスクワがロシアの首都に返り咲くのは、1917年のロシア革命によってロマノフ王朝が倒され、帝政が滅んでから後の事なのです。

しかし、その間もロシア最大の都市であるモスクワの地位は揺らぐ事は無く、当然クレムリンもロマノフ家の重要な宮殿として歴代皇帝の下で増改築が進められていきました。


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上がクレムリンの全景と、そのクレムリンの象徴ともいうべき大クレムリン宮殿です。この大クレムリン宮殿は、1849年に当時最新の技術と最高級の資材をふんだんに使って建造されたロシア建築の最高傑作で、ロマノフ家がその財力にものを言わせ、威信をかけて作り上げた宮殿です。一見すると外観は三階建てですが、実際の内部構造は二階建てで、一階部分にロマノフ皇帝家一家の日常の私室が並び、二階部分に外国使節の謁見や勲章授与式などの国家行事を行う大ホールが並んでいます。

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上は先に述べた大ホールの一つ「アレクセーエフの間」です。ロマノフ皇帝家の紋章である「双頭の鷲」(オーストリアのハプスブルク家も双頭の鷲を紋章にしていますが、そもそもヨーロッパにおいて双頭の鷲は古代ローマ皇帝を意味するもので、ハプスブルク家はかつてのドイツ神聖ローマ皇帝、そしてロマノフ家は東ローマすなわちビザンツ皇帝の後継者を自認していた事から、両皇帝家ともローマ皇帝の紋章を家紋にしていました。)背後に皇帝の黄金の玉座が置かれています。

わが国の皇居でいえば、正殿中央の「松の間」に相当するものでしょう。しかし、第二次大戦後に再建され、一切の装飾を省いたミニマリズムの極致ともいうべき日本建築の代表であるわが国の皇居とは対照的に、当時のヨーロッパ宮殿建築の粋を集めた絢爛豪華な姿には圧倒的な魅力がありますね。(とにかく宮殿内部は、どこもかしこもこんな風に目もくらむような「キンキラキン」です。笑)


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上は宮殿内部の部屋の一つ「ミカエルの間」です。ロシア正教の聖人の名を冠したものですが、「宗教は大衆の麻薬」といって否定したソビエト時代を潜り抜け、良く残っていましたね。(驚)

帝政時代、ロマノフ王朝はロシア帝国の拡大とともに、海外植民地経営で巨万の富を得ていたイギリス王家と並ぶ世界屈指の財力を誇る王家となります。その象徴がクレムリンに代表されるこうした絢爛豪華な宮殿群ですが、一般のロシア国民の暮らしは貧しく、民衆は常に飢えに苦しんでいました。そうした中で、これら王侯貴族などの一部特権階級による富の独占を無くし、人民に等しく公平に国の富を分配するべきだという思想が生まれます。いわゆる「共産主義」「社会主義」思想です。

これらの思想は、ロシア国内では最初は少数派でしたが、次第に勢力を伸ばしていきます。そしてそのロシア共産主義のリーダーともいうべき人物が、みなさんもご存知のウラジミール・レーニン(1870~1924)です。


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上は第一次世界大戦中の1917年10月に発生した「10月革命」でロシア民衆に演説するレーニンです。一般に「レーニン」の名で知られていますが、実際の彼の本名はウラジミール・ウリヤノフといい、レーニンとはかつて若いころの彼が一連の共産主義活動で逮捕され、流刑に処されたのがレナ川沿いの収容所であった事にちなみ、「レナ川の人」という意味で本人が名乗ったニックネームだそうです。

また、歴史上「ロシア革命」は全て彼が起こしたものであると誤解されがちですが、実際には彼は、ドイツがロシアを大戦から離脱させるための「道具」(失敬。 笑)として、スイスに亡命していた彼を送り込んだのが事実です。そう、ロシア革命とは第一次大戦が長い膠着状態に陥り、一向に戦局が動かない事に焦ったドイツが、ロシアと対峙している兵力をイギリス・フランス軍との西部戦線に振り向けるためにロシアの民衆を煽って引き起こさせたものなのです。そのリーダーとして革命を指導したのがドイツの後ろ盾を得ていたレーニンでした。

同じ君主制のドイツ帝国にとって、本来なら共産主義者を利用するなどとても危険なはずですが、戦争に勝つためにはもうドイツもなりふりなど構っていられなかったのでしょう。

「先の事はイギリスとフランスを叩き潰して戦争に勝ってからだ。その後に返す刀でロシアを片づければ良い。その前にどうせ革命など長続きはすまい。」

とタカをくくっていたのです。ドイツの計略は途中まではうまくいきました。ソビエト政権を作ったレーニンとドイツはかねてからの密約通り休戦協定を結び、ソビエトは大戦から離脱、これによりドイツはロシア方面(東部戦線)の兵力の大半をイギリス・フランス連合軍との西部戦線に振り向け、一気に戦争に「ケリ」を着けるべく一大反攻作戦を開始するのですが、弾薬の補給が追い付かずに作戦はとん挫、そうこうしているうちにアメリカが参戦して再び後退を余儀なくされ、結局作戦は失敗してしまいます。

その後、ドイツ軍は二度と態勢を立て直せずに総崩れとなり、さらに敗戦が決定的となった事を知ったドイツの民衆の間でも、隣国ロシアでの革命に触発されて革命が勃発、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が退位亡命してホーエンツォレルン王朝が倒れ、1918年にドイツ帝国も滅亡する事になるのです(つまりドイツは自らがロシアに仕掛けた革命が自国に跳ね返り、滅びる事になったのです。因果応報とはいえ歴史とはつくづく恐ろしいものですね。)

ともあれロシア革命は成功したわけですが、これに伴いクレムリンの支配者も入れ替わる事になります。新たに権力を握ったレーニンはソビエトの首都をそれまでのサンクトペテルブルクからモスクワに戻し、クレムリンに新政府を置きます。そして、それまでの支配者であった皇帝ニコライ2世は革命の勃発により退位、皇帝一家はおよそ1年ほど監禁された後、レーニンの命令によって銃殺されてしまうのです。彼の死により300年続いたロマノフ王朝は滅亡し、ロシアに世界初の社会主義国家が誕生する事になります。このあたりは、歴史好きな方であればよく知られていると思います。


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上はロマノフ王朝14代皇帝ニコライ2世(1868~1918)とその家族です。皇帝一家は退位後レーニン率いるボリシェヴィキ(これはロシア語で「多数派」という意味だそうです。実は後のソ連共産党は最初からからあったものではなく、革命直後は社会民主労働党という長い党名の政党でした。その中で徐々にレーニン一派が最大勢力を占め、それがそのままソ連共産党を指すものになったのです。)によって一年ほど逮捕監禁されていました。その理由は彼らロマノフ家がドイツ皇帝ホーエンツォレルン家と親戚であり、ドイツの支援で今があるレーニンにとってはそう簡単に処理できなかったからです。

しかし、1918年に入ってドイツの敗戦が確実になり、またロシア国内で反革命の旧帝政派(白軍)が、囚われの皇帝一家奪還のため各地で反乱を起こすと、レーニンは恐ろしい決断をする事になります。

「彼ら白軍がもし皇帝を奉じて再び帝政を復活させる事になれば、苦労して革命を起こした意味がない。300年の長き年月ロシア人民の血にまみれてきた皇帝一家は地上から抹殺すべきだ。ただちに処刑せよ。」

こうしてその命令は実行され、皇帝一家は密かに銃殺されてしまうのです。この時から、その後のロシアの行く末、暗く冷酷なソビエト時代が始まったともいえるでしょう。あのソビエト連邦という異常な国家政体の体質は、このレーニンによって作り出されたものなのです。そのレーニンも、権力の頂点にいる事が出来たのは革命後の6年余りの短いものでした。長年の革命活動による弾圧に耐えて生きて来た彼はすっかり健康を害しており、1924年に53歳で亡くなってしまいます。

それから、クレムリンの支配者は目まぐるしく変わります。レーニンの後を継ぎ、彼よりももっと冷酷で暗く、極悪非道な独裁者スターリンによる30年に亘る暗黒の時代、第二次世界大戦と戦後の米ソ冷戦下において、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコなどの歴代のソ連共産党指導部の熾烈な権力闘争を経て、ゴルバチョフの出現による改革の失敗、そしてソビエト連邦の崩壊。このあたりの流れは、昭和世代の歴史好きな方であれば良くご存じの事と思います。


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上は旧ソ連時代、クレムリンのレーニン廟の上から市民に手を振るソ連指導部の面々です。老人ばかりですね。にこやかな表情の裏で、彼らお爺さん連中(失敬 笑)は熾烈な権力闘争を繰り広げていたのです。米ソ冷戦時代、アメリカをはじめ西側諸国では、情報閉鎖社会の旧ソ連の内部構造の分析に、中央のブレジネフを挟み、その横に並ぶ幹部らの立ち位置によって、ソ連共産党における序列を推測していました。これを「クレムリノロジー」といいます。

それから・・・。ソ連崩壊から20年余の月日が流れ、現在クレムリンの(というよりロシアの)支配者は今日みなさんもご存知のウラジミール・プーチン大統領(1952~)です。エリツィンの後を継ぎ、2000年にロシア連邦2代大統領に就任して以来、ほぼ一貫してロシアの頂点に君臨し続けています。


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上はクレムリンの大統領府において、衛兵の敬礼を受けつつ公式会見の場にさっそうと歩むプーチン大統領です。就任当初からその若さと開明さ、そして強力なリーダーシップを期待され、彼の在任中ロシア経済は大きく成長、国民の年収はなんと8倍にまで伸びたそうです。それゆえ現在もロシア国民に強く支持されています。

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テーブルにご馳走を並べてくつろぐプーチン大統領。自分でティーポットからお湯を注いています。彼は良く私生活のこうした飾り気のない一面を積極的に公開して内外のマスメディアに好感を持って報じられています。実際、個人としての彼は以前にもご紹介したように大変な親日家であり、柔道の黒帯の有段者でもあります。(自分も一個人としての彼は好きです。あくまで個人としてですが。笑)しかし、国家の指導者、政治家としての彼は、自分への反対者に対して容赦なく攻撃する実に冷徹な面が近年顕著に見られる様になってきています。

それはあたかも、旧ソ連指導部の亡霊が今なお彼を介してクレムリンをさまよい歩き、民主主義になったはずの今日のロシアでまたも同じ事を繰り返しているように見えてなりません。なぜならプーチン氏は、あの旧ソ連の秘密情報部KGB出身であり、かつて若い頃は謀略と特殊任務に従事したれっきとしたエージェントであったからです。

そのプーチン大統領も就任からすでに17年に達し、ソ連時代のかのブレジネフ書記長の在任期間を超えて戦後ロシアにおける最長の指導者になる事は確実です。今後の彼とロシアの動向については、わが日本も北方領土の関係から目が離せません。


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最後に、今回のお話を締めくくるにあたり、クレムリンのもう一つの「顔」をご紹介しておきましょう。クレムリンと言えば、上の様に高く足を上げて一糸乱れずに歩いて交代する衛兵の姿がソ連時代から有名ですね。一切表情を変えず、数人で時間が来たら交代する彼らの姿は、現在モスクワを訪れる世界中の観光客にも大人気で、彼らの「マネ」をして歩く子供たちの姿がなんとも微笑ましいです。(わが国でも、皇居において天皇陛下を護衛する皇宮護衛官の交代が同様にありますが、失礼ながらなんとも味も素っ気もないつまらないものです。これは自分の日本国民としての個人的な提案ですが、将来憲法改正によって自衛隊が国軍となった暁には、天皇陛下直衛の近衛部隊を国軍から選抜し、諸外国のような衛兵交代式を皇居前広場で国民の前に披露する事を希望します。外国の観光客にも喜ばれるでしょう。)

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「カツカツ」と規則正しく音を立てて歩くクレムリンの衛兵たち。良くもこんなに高く足が上がるものです。スマートでスタイルの良いロシアの若い衛兵さんたちが無表情で首を傾けて敬礼する姿は観光客にも大人気です。もしかすると、今のクレムリンの本当の主役は、大統領ではなく、彼ら若い衛兵たちかもしれませんね。(笑)

終わり。

ヴァイキングが創ったローマ帝国!? ・ クレムリン(前編)

みなさんこんにちは。

今回ご紹介する宮殿は、世界最大の国土面積と強大な軍事力で、今なおアメリカのライバルとして世界に認識される「超大国」ロシアから、首都モスクワにその威容を誇るクレムリンについてお話したいと思います。

このクレムリンは、後で詳しく述べていく様に、元はロシア帝国の宮殿の一つだったものですが、昭和世代の多くの日本人にとっては、なんといってもその後に成立した旧ソビエト連邦の中枢としての不気味で暗いイメージ、あの「赤の広場」でのソ連軍の壮大な軍事パレードを思い浮かべる方が圧倒的に多いのではないかと思います。

自分は東西冷戦と米ソの軍拡競争がそのピークに達していた1980年代前半に小学生でしたが、あれから30年以上の時が過ぎ、しがない中年男(笑)になった今でも、当時テレビのニュースで盛んに流されていたあの頃の映像は今でも強烈に印象に残っています。

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上は旧ソビエト連邦時代のクレムリンと、その前に広がる「赤の広場」での軍事パレードの様子です。暗く寒々しいどんよりとした曇り空に翻るソ連国旗の赤旗の下、ソ連の生みの親レーニンの巨大な絵の前で、雪のちらつく中を恐ろしい数のミサイルや戦車が通り過ぎる姿。これが自分の進歩のない幼稚な頭(笑)で思い描く「悪の帝国」と恐れられた旧ソ連のイメージです。

もちろん冒頭で述べた様に、このクレムリンは社会主義国家ソビエト連邦が建造したものではありません。その歴史は大変古く、今をさかのぼる事900年前に始まります。それは今日のロシアが国家として歴史に登場した時期とほぼ重なり、つまりこのクレムリンは、ロシアとともに生まれ、ともに歩み、ロシアの歴史を見続けてきたまさに「ロシアそのもの」といっても良いでしょう。

それでは、そんなクレムリンの誕生から今回のお話を始めていきたいと思います。

ところでみなさんは、ロシアという国がいつ頃、どんな経緯で誕生したかご存知でしょうか? 話が大きく脱線する自分の悪い癖(汗)で恐縮なのですが、このクレムリンについてお話を進めていくにあたり、それはロシア建国にどうしても触れずには置けないため、ここで簡単にご説明して置きましょう。

今日私たちがロシアと呼ぶ国家は、当然の事ながら最初からこんな広大な領土を持つ国であったわけではありません。その創成は今からおよそ1200年ほど前の9世紀から始まります。その当時、ウラル山脈の西側から現在のウクライナ、フィンランドにかけての地域には、スラヴ人が多くの部族に分かれて暮らしていました。もちろん彼らに「国」という概念はまだありません。そんなヨーロッパでも再辺境のこの地に、そのスラヴ人たちが「ヴァリャーグ」と呼ぶ民族が北方から船で川をさかのぼり、この地にやってきます。

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上がその「ヴァリャーグ」と、スラヴ人たちの交流を描いた絵です。「ヴァリャーグ」とは、つまりみなさんも良くご存じのあの「ヴァイキング」の事で、スカンジナヴィアを発祥として北方海域を荒らしまわった強大な海洋武装民族の事ですね。一般にヴァイキングというと、「海賊」というイメージが強く、実際西ヨーロッパでは略奪の限りを尽くして有名ですが、ヴァイキングたちによるそうした略奪は初期の頃の話で、当初は野蛮な荒くれ者の集団であった彼らも、キリスト教に接して文明的な生活を知ると、次第に交易によって富を得る様に進化していきます。上の絵でも、毛皮や貴重な香辛料などの交易品をスラヴ人たちとやり取りしています。一方スラヴ人たちの方は、強力な武力を持つヴァリャーグに「駐留」してもらい、自分たちのテリトリーを他の部族から守ってもらうわけです。

こうして交流を重ねるうちに、スラヴ人たちもヴァリャーグを支配者として受け入れ、彼らは次第に同化していきます。やがて、そのヴァリャーグの中で、ノルマン系ヴァイキングの一派ルーシ族の族長であったリューリクという人物が、862年ごろにロシア北方ラドガ湖の近くに位置するノブゴロドという街を根拠地として「ノブゴロド公国」という都市国家を建国しました。


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上がそのリューリク(830?~879?)と伝わる人物の絵です。金髪で青い目の屈強な男たちから成る強力な軍団を従えた威厳に満ちた王様ですね。といってもこの人物、実は250年以上も後の1100年代に書かれた年代記に登場するのみで、実在したかどうかはっきりとした確証がない伝説の人物です。(わが国でいえば皇祖にあらせられる神武天皇に相当するでしょう。そう考えれば、伝説とはいえこのリューリクこそ、ロシア建国の父と言えるかも知れません。そして後のロシア帝国に至るまでの過程において成立する後継国家の諸国はいずれも彼の子孫をその君主とし、それゆえ彼に始まる王朝は、ロシア第1王朝リューリク朝と呼ばれています。)

その年代記によれば、リューリクの死後その一族は南下してウクライナ北部にまで勢力を拡大させ、882年にキエフを都とする「キエフ大公国」を成立させます。


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上がそのキエフ大公国の範囲です。しかし、その名は歴史上「後付け」で付けられたものであり、実際には当時の周辺の国々からは「ルーシ」と呼ばれていました。それは建国の父リューリクの率いる「ルーシ族」に由来し、それが転じて「ロシア」となったのは容易に想像が出来るでしょう。

ともあれ、そのルーシに初めて事実上の統一国家として成立したキエフ大公国こそ、後のロシアのと母体となる最初の国家であり、そのキエフ時代の12世紀半ばに、現在のモスクワの地に築かれた城塞こそ、クレムリンの始まりです。その名の由来は、正にそのまま「城」や「砦」を表すロシア語の「クレムリ」から来ており、クレムリンは英語読みです。(ついでにロシアの首都モスクワの名の由来ですが、こちらは諸説あって定かではありません。ただし、古い文献には「水たまり」とか「川」の意味があるそうなので、やはり単純にそこから来ているものと思われます。)

といっても、そのクレムリンも最初から今日見られる様な堅固な石造りで築かれたわけではありません。初めは土塁に木の柵をめぐらした簡素なものに過ぎず、規模もはるかに小さなものでした。なぜなら後のロシアの首都となるモスクワは、この頃はまだこのクレムリを中心に人口も数千に満たないような、他にもたくさんある小さな街の一つに過ぎなかったからです。

このキエフ大公国は、9世紀後半に建国すると徐々に勢力を拡大させ、黒海を目指して南下していきます。しかし、その先には南の大国ビザンツ帝国があり、10世紀に入ると両国は幾度も戦火を交えますが、キエフ遠征軍は海軍力に勝るビザンツ軍にその都度撃退され、結局上の図以上に領域を拡大する事は出来ませんでした。

しかし、ビザンツ帝国との間柄は決して戦争ばかりしていたわけではなく、ビザンツを通しての交易によって入ってくる東方からの莫大な富と優れた文化、とりわけビザンツに倣ってキリスト教を国教として取り入れた事が、それまで「野蛮で遅れた辺境の民」であったこの地のルーシ人を「文明人」として大きく進歩させ、歴史上この時期に、後のロシアのアイデンティティーが形作られたと言えるでしょう。

そんなキエフ大公国でしたが、はるか東の草原から疾風のごとく押し寄せて来た強大な敵によって、1240年に滅亡してしまいます。みなさんもご存知のモンゴル帝国の侵攻です。7万5千から成るモンゴル軍はロシアの平原になだれ込み、全土を蹂躙し、徹底的な破壊と殺戮を行いました。この戦乱でモスクワのクレムリンも焼かれてしまい、一時放棄されてしまいます。

モンゴル帝国によるロシア支配は、その後200年以上続き、この時代をロシアの歴史では「タタールのくびき」と自虐的に呼び、屈辱の時代として記憶されています。(「タタール」とはヨーロッパから見たモンゴルや中央アジアの総称で、「くびき」とは畑を耕す際に牛などの家畜の首に付ける木製の太い首輪の事ですね。)

このモンゴル支配下の時代、ロシアでは滅びたキエフ大公国に代わる新たな国家が出現していました。1263年に成立したモスクワ大公国です。この国はキエフ大公国滅亡後、モンゴル支配下において分かれたいくつかの公国の一つでしたが、文字通りモスクワを都として次第に力をつけ、第9代大公イヴァン3世の時代についにモンゴルからの独立を達成します。

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上は1480年、臣従と貢納を迫るモンゴルの王からの手紙を破り捨て、使者の首根っこをつかんで追い返すイヴァン3世です。(1440~1505)彼の治世、ロシアは事実上モンゴル支配を脱し、彼は240年続いた「タタールのくびき」を終わらせた偉大な君主として、ロシアでは「イヴァン大帝」と呼ばれています。

彼の業績はそれだけではありません。彼の在位中、本テーマ(だいぶ内容が脱線してしまって恐縮ですが。汗)の主役であるクレムリンがほぼ現在の姿に形作られたのです。すでにその前に、クレムリンは石造りの城塞に再建されていましたが、イヴァン3世はルネサンス全盛期のイタリアからはるばる建築家を招き、クレムリンをそれまでの単なる城塞から、大公が住むにふさわしい優雅な宮殿として全面改築しました。

イヴァン3世は勢いに乗り、モンゴル支配下に乱立していた他の諸国を統一、昔日のキエフ大公国に匹敵する領域を支配します。さらに彼はこの時、ロシアをそれまでの辺境の一公国から、後の帝国へと発展させる布石を打つのです。それはちょうど彼の在位中の1453年、かの古代ローマ帝国の正当な継承国家である東ローマ帝国すなわちビザンツ帝国がイスラムの覇者オスマン帝国によって滅ぼされた事により、ビザンツ帝国最後の皇帝家パレオロガス家から皇妃を迎え、自らを「ツァーリ」(皇帝)と称したのです。

そして彼の孫で11代モスクワ大公イヴァン4世(1530~1584)は、国名をロシア・ツァーリ国と改め、その初代ツァーリとして正式に即位するのです。これにより、ロシアはかの古代ローマ帝国の系譜をビザンツから引き継ぎ、「第三のローマ帝国」と自称する様になるのですが、このイヴァン4世という王様、別名を「イヴァン雷帝」(らいてい)と呼ばれるほど気性の激しい人物で(つまり、怒ると「雷」みたいに恐ろしいという事です。)ツァーリのみに絶対忠誠を誓う者で構成された親衛隊を創設し、彼に反対する者を徹底的に弾圧、その上密告によって互いを監視させる制度を設け、少しでもツァーリに反対する言動をすればただちに逮捕、投獄するシステムを構築します。いわゆる「恐怖政治」の始まりです。

これは後のロシアの権力者によって連綿と受け継がれ、その結果、その後にロシアがたどった歴史の動きと相まって、今日に至るまでロシアという国のイメージを暗く冷たいものにしてしまう原因となりました。

イヴァン雷帝のヒステリーは年を追うごとに激しさを増していきます。特に、最初の皇妃で最も愛し、唯一彼を諫めることができた妻アナスタシアが亡くなってからは、もうその蛮行を止められる者は誰もいませんでした。アナスタシアの死後、彼はなんと7回も再婚しますがいずれも失敗、生来のヒステリー症から、ついには後継者で同名のイヴァン皇太子の妃エレナが懐妊して腹に負担がかかるからとロシア正教の儀式用の衣装を身に付けなかった事に激怒し、彼女の腹を何度も蹴り、慌てて止めようとした皇太子の頭を杖で殴打、その傷がもとでイヴァン皇太子は数日後に亡くなってしまうのです。(もうメチャクチャですね。呆)

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上がその事件を描いた絵です。イヴァン雷帝が我に返った時はすでに遅く、皇太子は致命傷を負って27歳の若さで亡くなってしまいました。ほどなく雷帝に腹を蹴られた妃のエレナも流産の後亡くなります。雷帝はこの事を生涯悔やみ続け、ある意味で「地獄の苦しみ」を味わいながら1584年に64歳で崩御します。(記録では、自分が殺してしまったイヴァン皇子の名を呼びながら、月明かりに照らされたクレムリンの回廊をさまよう雷帝の姿が何度も目撃されているそうです。)

イヴァン雷帝にはもう一人の皇子フョードルがいましたが、知的障害で子は成せず、その上病弱で1598年に41歳の若さで亡くなると、後継者の絶えたリューリク王朝はついに断絶してしまいます。かつてヴァイキングの王リューリクが築き、そのリューリク家によって700年以上に亘り勢力を広げ、ついにはローマ帝国の後継者を自認するまでに至った王家は、その最後の当主が自らの子を殺めて幕を引く事になったのです。それは語るにはあまりにも馬鹿らしく、あっけない末路でした。そしてその舞台となってそれを見続けたのもクレムリンだったのです。

後編に続きます。

テムズ河畔の霧の中に鳴り響くチャイム ・ ウエストミンスター

みなさんこんにちは。

今回ご紹介する宮殿は、イギリスのロンドンから、イギリス最初の本格的な宮殿として建設され、現在は国会議事堂として英国紳士たちの熱い議論が繰り広げられる政治家たちの宮殿「ウエストミンスター」についてお話したいと思います。

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上が現在は英国の国会議事堂として使用されているウエストミンスター宮殿です。各部の詳細については後述します。

ところでみなさんは、このイギリスという国がいつ頃どの様な成り立ちで国家として成立したかご存知でしょうか? これについてはいずれ当ブログで別のテーマを設けて詳しくお話したいと思いますが、今回このウエストミンスター宮殿についてお話するに当たり、さらりとごく簡単にご説明しておきたいと思います。

イギリスが歴史の表舞台に登場するのは古代ローマ時代にさかのぼります。当時イギリスには紀元前9世紀から5世紀頃にかけて上陸し、定住した先住民族ケルト人が住んでいましたが、紀元前54年にみなさんもご存知のローマの英雄ユリウス・カエサル(紀元前100~紀元前44)率いる2万7千から成るローマ軍が侵攻、この時は地理不案内とケルト人の抵抗に占領は断念しましたが、およそ90年後の紀元43年に、ローマ帝国4代皇帝クラウディウス(紀元前10~紀元54)が4万の遠征軍を差し向けてイギリス本島南部一帯の占領に成功。これを属州とします。

この時に、イギリスにいたケルト系先住民の諸部族をローマ人は「ブリトン人」と呼び、そこからこの地を「ブリタニア」と名付けた事が、イギリス本島を「大ブリテン島」と呼ぶ由来です。この辺りの事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いと思います。

しかし、ローマ帝国はイギリス全土を完全に占領出来たわけではありませんでした。後に「スコットランド」と呼ばれるイギリス北部と、大ブリテン島の隣に横たわるアイルランド島まではさすがのローマ軍も手が届かず、そのためこれらの地ではケルト人たちの部族社会が続き、今日に至るまでこれらの国の人々が独立心の強い大きな所以となっています。


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上がローマ帝国が支配出来た地域と、最前線でケルト人と戦うローマ軍の姿を描いたイラストです。一方ローマ帝国が属州として支配し、後に「イングランド」となる地域では、上の様にローマ軍によって石敷きの軍道が引かれ、各地に軍団が駐留し、それらのローマ軍団の駐屯地に街が築かれ、後のイギリス各地方都市の基礎が築かれていきます。

この時にローマ軍がブリタニア各地に築いた街の中で最も大きく、ブリタニア支配の本拠地としてテムズ河畔に築かれたのが「ロンディニウム」(ケルト語で「沼地の砦」という意味だそうです。)後の「ロンドン」となる街です。


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上がテムズ川(こちらもケルト人がそう呼んでいたものをローマ人もそれに倣ったのだそうですが、意味は不明です。)の岸辺に築かれたロンディニウムの全体像を描いたイラストです。今回お話するウエストミンスター宮殿はちょうど川岸の中間辺りに造られる事になります。城壁で囲まれた街の人口は建物の戸数から察するに、駐留軍を含めてもせいぜい多くて1万程度でしょうか。ブリタニア最大の街がこの程度かと思われてしまうかもしれませんが、ローマ帝国では拠点となる都市を建設する際は防衛と維持管理を考慮して大体このくらいの規模を基準にしており、ロンディニウムはそうした計画の下にローマ帝国が各地に建設した典型的なローマ都市の一つでした。

このローマ帝国によるブリタニア統治は、それからおよそ360年以上続くのですが、紀元5世紀に入り、度重なる内乱とゲルマン民族に代表される異民族の侵入によってローマ帝国が衰退すると、すでに東西に分裂していた帝国の西側、すなわち西ローマ帝国はブリタニア放棄を決め、紀元410年に撤退してしまいます。

支配者のいなくなったブリテン島には、新たな支配者としてそのローマを追いやったゲルマン民族の一派アングロ・サクソン人が上陸します。


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上がアングロ・サクソン人のブリテン島への侵入経路です。もともと彼らは上の図の様に現在のドイツ北部からデンマークにかけて居住していたゲルマン民族の一派ですが、海沿いに住んでいたせいか船の扱いに長けており、他のゲルマン民族が南下していったのに対し、必然的に海を越えてブリテン島を目指します。

ブリテン島を征服したアングロ・サクソン人は、この地に七つの王国を打ち建てます。これが「アングロ・サクソン七王国」(しちおうこく)と呼ばれるものです。そのうち、最も勢力の大きかったアングロ人の建てたアングリア王国が、後の「イングランド」の語源です。

この七つの王国はブリテン島の支配を巡って激しく争い、ブリテン島は長い戦国時代が続く事になります。それは彼らがブリテン島に上陸した紀元449年から829年まで、およそ380年の長きに亘り、最終的にはウェセックス王国が全土を統一するのですが、それも束の間でした。なぜならそれと前後して、彼らアングロ・サクソン人のもともとの故郷であったユトランド半島に移り住んだノルマン人の一派「デーン人」が一大勢力となってブリテン島に侵入して来たからです。「ヴァイキング」の時代の始まりです。


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上がデーン人のブリテン島への侵入経路とその支配地です。先に述べた様に、このデーン人はヨーロッパ北方全域を荒らしまわったあの強大な海洋武装集団ヴァイキングの一派であり、彼らの発祥の地が後の「デンマーク」の由来ですね。

この時のデーン人の王はクヌート1世(995~1035)といい、優れた指導力を発揮して一時は北海全域を支配下に置く「北海帝国」が成立しますが、その彼が亡くなると、もともと彼の個人的裁量だけで維持されていたデーン人の支配は長くは続かず、帝国はあっさり崩壊してしまいます。

さて、イングランドの支配者はめまぐるしく変わります。デーン人の去った後のイングランドでは、かつてのウェセックス王家が復権を果たします。この時の王はエドワード懺悔王(ざんげおう)といいますが、彼は非常に敬虔なキリスト教徒であり、その地位はイングランドの有力諸侯の都合で擁立された「一時しのぎ」のものでした。


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上がそのエドワード懺悔王です。(1004?~1066)彼はウェセックス王家の王子でしたが、1013年にデーン人のイングランド侵入から逃れるため、海を越えて母エマ王妃とともに彼女の実家であるノルマンディー公家に避難し、以後フランスで育ちました。彼はそこで修道士たちと生活しているうちにキリスト教に深く帰依し、自らも修道士として生涯を終えるつもりでしたが、デーン人のイングランド支配が終わると、1042年にノルマンディー公家ならびにイングランド諸侯の要請でやむなくイングランド王に即位した異色の王様です。(彼の名「懺悔王」ですが、ヨーロッパの君主は同じ名前の人物が非常に多いため、区別するために後の人々が後付けで名付けたものです。厳格なキリスト教徒であった王が常に神に祈る姿が、人々には懺悔する姿に見えたのかも知れませんね。笑)

実は、このエドワード懺悔王こそ、今回お話するウエストミンスター宮殿を最初に造ったその人なのです。その彼によって建てられた初期の宮殿の想像図がこれです。


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上の絵の、船が数隻浮かぶ川岸に立つのが初期のウエストミンスター宮殿です。ここで間違えてはいけないのは、絵の中央にあるひときわ大きく壮麗な建物です。これは宮殿ではなくウエストミンスター寺院で、全ての建物は、この寺院を中心に建てられています。つまり、宮殿も寺院の付属の建物の一つなのです。これは敬虔なエドワード王が、宮殿よりも寺院の方に力を入れた証拠です。彼は自らの宮殿よりも寺院の建設にお金と労力を惜しみませんでした。

このウエストミンスターの名は、テムズ川を挟んでロンディニウムの西側にある「西の寺院」と呼ばれていた事から名付けられたものです。(これは日本で言えば、奈良の都の東だから「東大寺」とか、東の京都だから「東京」とかと同じです。そのままですね。笑 しかし、地名なんて意外に安直なものです。それにしても人間なんて考える事はどこでも同じなんですね。)

もともとエドワード王は、何度も言う様に熱烈なキリスト教徒でした。そう、彼は修道士として生きていきたかったので、国王になどなりたくなかったのです。しかし、誰かが王位に付かなければ、イングランドは再び戦乱の渦となり、多くの命が失われるでしょう。イングランド王位継承者としても、彼は先王の王子として誰も異論のない正統な継承権を持っています。そこで彼は、無用な流血を避けるために嫌々ながら王に即位したのです。(歴史上の君主たちは、王であれ皇帝であれみな利己的な権力を欲して王位や帝位に付き、その例は枚挙に暇がありませんが、このエドワード懺悔王は非常に特殊で稀有な存在として記憶すべき人物と思います。)

このエドワード王の下で、イングランドは一時の平和を取り戻すのですが、所詮それは、彼が存命中の間の束の間のものに過ぎませんでした。1066年にエドワード王が亡くなると、再びイングランドに戦乱の嵐が吹き荒れます。なぜなら先王エドワードは、結婚して王妃はいたものの、それは形式的なものであり、修道士として純潔にこだわった王は世継ぎをもうけなかったからです。

次の王位はイングランド諸侯の推戴を受け、先王の妃エディスの兄(つまり義理の兄ですね。しかし、先王エドワードの方が20歳以上年上なので、義弟が義兄より年上というややこしい事になります。)にあたるウェセックス伯ハロルドが、ハロルド2世(1022~1066)として即位します.。しかし、これに異を唱えた人物がいました。それは先王エドワードが亡命していた母方の実家ノルマンディー公家の当主ギヨーム2世です。


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上がそのノルマンディー公ギヨーム2世です。(1027~1087)しかし、この名はフランス語読みで、歴史ではこの名よりも英語読みの「ウィリアム征服王」の名で広く知られています。そう、彼こそが今日の英国王室の遠い祖先に当たる王なのです。つまり英国にとっては事実上の建国の父と言えるでしょう。

ギヨーム2世は、先王エドワードがかつてノルマンディー公家で20年以上亡命生活をしていた事からエドワードと親しく、また、その母エマがギヨームにとっては大叔母に当たる事から、血統から言えば自分こそイングランド王の正統な継承権があると主張していました。

「あのハロルドめ! 先王となんの血のつながりもないくせにまんまと王位をせしめおって! 血筋から言えば私こそ正統な王なのだ。こうなれば力ずくでわが手に王冠を握ってみせるぞ。」

1066年9月、ギヨーム2世は配下の全軍に出陣を命じ、1万2千の兵を率いてイングランドに上陸を開始しました。「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン征服)の始まりです。これに対し、すでに交渉決裂していたハロルド2世もこれを迎え撃つべく迎撃準備を進めていました。

「血の気の多いあのギヨームめがついに動き出しおったか。ちょうど良い。返り討ちにして首を挙げ、この際ノルマン領もわがものにしてくれる。」

1066年10月、両軍はイングランド南岸ドーバー海峡沿いの岬で激突しました。これを「ヘイスティングスの戦い」と言います。


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上がヘイスティングスの戦いで激突するギヨーム2世のノルマン軍(右側)とハロルド2世のイングランド軍(左)です。両軍の戦力はノルマン軍6千に対してイングランド軍は7千。兵力はほぼ互角でしたが、上のイラストの様に騎兵中心であったノルマン軍はイングランドの歩兵部隊をその機動力で粉砕、敵王ハロルド2世も敗走中に目を矢に射抜かれて戦死し、戦いはノルマン軍の大勝利に終わりました。

勝利したギヨーム2世は勢いに乗り、周辺地域を次々に支配下に収めながら進軍を続け、同年12月にはロンドンに入城、これを占領します。そして12月25日のキリスト生誕祭に、ウエストミンスター寺院で「ウィリアム1世」として正式にイングランド王に即位、ここに彼を始祖とするノルマン朝イングランド王国が成立するのです。

ウィリアム1世はその後も征服を続け、征服した土地に多くの城を築き、それらを譜代の家臣たちに与えて貴族に取り立て、現在の英国王室と貴族階級の基礎を築きます。彼自身も当初はウェストミンスター宮殿の近くに城を築き(これが有名な「ロンドン塔」ですね。しかし、これは宮殿というより「お城」であり、今回は省かせていただきます。汗)そこに居住していましたが、イングランド征服が順調に進んでいくと、守るには良いが、住居としては住みにくいロンドン塔からウエストミンスター宮殿に移り住みます。

それから、彼の死後ノルマン朝は4代わずか88年で断絶してしまいますが、彼の後に続く王たちはもちろん、ノルマン朝の後に続いた英国歴代王朝においてもウエストミンスター宮殿はイングランド国王の宮殿であり続け、歴代の王は即位の戴冠式をまずウエストミンスター寺院で行い、隣の宮殿に居住するのが慣例となります。さらにその後に設けられる様になった議会や裁判なども宮殿内で行われ、時代に応じて増改築が成されていきました。


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上は中世頃のウエストミンスター宮殿です。冒頭にお載せした現在の写真とだいぶ違いますね。これには後述する様に大きな理由があります。

そんなウエストミンスター宮殿に大きな転機が訪れます。いや、正確には「大きな転機」などという言葉よりも「破滅的な危機」と呼んだ方が良いかもしれません。時代は大きく流れて19世紀の中ごろに差し掛かろうとしていた1834年10月、宮殿は謎の出火によりその大半が焼失してしまったのです。(800年の歴史が積み重なった英国のシンボルともいうべき本来の宮殿はこの時、永久に失われてしまったのです。涙)

時代は即位したばかりのビクトリア女王の下で、大英帝国がその繁栄の絶頂期に入ろうとしていた時期でした。すでにこの頃には新たな宮殿が各地にあったため、宮殿は王室が使用するよりももっぱら先に述べた英国議会議事堂として利用されていました。そこで英国政府はイギリスの威信をかけて、新たな議事堂の建設に着手します。

建設は1840年に始まり、20年の歳月をかけて1860年に完成。こうして新生ウエストミンスター宮殿が出現したのです。


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上がウエストミンスター宮殿の主要部分です。宮殿の両端に建つ2本の巨大な塔、ビクトリア女王の名を冠したビクトリア・タワー、そして巨大な時計塔「ビッグ・ベン」(現在はエリザベス女王の即位60年のお祝いに「エリザベス・タワー」と名が変わっています。)に挟まれた長さ280メートルの巨大な建物です。中央のセントラル・ロビーから写真左手が貴族院(上院)右手が庶民院(下院)になります。少し上に「ウエストミンスター・ホール」というのがありますが、これが幸運にも焼失を免れた宮殿の最も古い部分です。

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上が焼失を免れた宮殿の最も古い部分ウエストミンスター・ホールです。天井がなんと木造なんですね。ここでは英国王室のしきたりにより、毎年エリザベス女王の即位祝賀パーティーが催されるそうです。貴族、政財界、文化功労者など各界の人々が女王をお祝いしています。


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こちらは宮殿裏側です。真っ白なウエストミンスター寺院との対比が印象的です。ここでもう一つ、あまり知られていない事実をお話しておきます。私たち日本人が学校時代に散々聞いたあのチャイムの音「キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン」(笑)は、このウエストミンスター宮殿のビッグベンの鐘の音が使われているのです。

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上はエリザベス女王ご臨席の下に開かれる英国議会開会式の様子です。これは貴族院すなわち上院の議場で行われ、そのため当然国王の玉座も上院にあります。玉座に座るイギリス国王エリザベス2世女王陛下(1926~)と、その夫君エディンバラ公フィリップ殿下(1921~)を囲み、伝統的な衣装を身にまとった貴族階級出身の議員の人々が開会の儀式を執り行っています。(意外と狭いんですね。女王の座る黄金に輝く玉座がひときわ目立ちます。驚)

ちなみに余談ですが、英国貴族といってもその身分は大きく2つに分かれます。1つは代々続くオーソドックスな世襲貴族、もう1つは国家に大きな貢献をした功績から頂く爵位が一代のみの一代貴族です。その中で、本物の貴族である世襲貴族はなんと750家にもなるそうですが、その大半が18世紀から20世紀初頭までの大英帝国全盛時代に商業、貿易、植民地経営で財を成した新興貴族、いわゆる「成金」(失敬 笑)の人々で、ウィリアム1世に始まる中世以降から続く貴族はわずか数家しかおらず、英国では「金で買った爵位」などとジョークにもなったそうですが、そんな彼らも時代を経て100年、200年と代を重ねるうちに権威を持つ様になっていきました。

しかし、さすがに「貴族の数が多すぎる」との批判の声が上がり、第2次大戦後の1958年に先の「一代貴族」の制度が設けられ、以後は「余程の事」がない限り、新たに世襲貴族として爵位をもらう事はなくなったそうです。上の写真は貴族院であり、当然の事ながらその全てが英国貴族だけで構成されていますが、現在その貴族院の存在価値は近年の制度改革で大きく形骸化し、一応下院を通過した法案などの審議は行うものの、わが国の参議院と同じで否決されても下院の議決が優先されるため、もっぱら英国議会の伝統的な儀式の場を取り行うのがその大きな役割となっています。


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そして上が庶民院すなわち下院です。わが国における衆議院ですね。こちらは選挙で選ばれた議員の人々(もちろん貴族の人々も含みます。貴族であっても政治家として国政に携わりたければ下院議員として選挙に立候補するのです。その場合、当然兼任は出来ませんから、上院すなわち貴族院議員は辞職しなければなりません。そのため下院といっても多くの貴族の方が議員となっています。)が実際に国家の政策を決定する場です。議長席をはさんで左が与党席、右が野党席になります。

英国では労働党と保守党の二大政党が議席(650議席)の大半を占め、現在は保守党が与党ですが、きっとわが国と同じ様に、与党と野党が激しい論戦を繰り広げているのでしょうね。ちなみに英国にも自由民主党すなわち「自民党」という政党があるそうです。ただし、こちらの自民党は議席が10に満たない少数政党だそうですが。(笑)


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上は夕闇に照らし出されるウエストミンスター宮殿の姿です。このブログを書いている現在、英国ではEUからの離脱を巡ってそのEUと英国政府が交渉が続けています。英国とヨーロッパにとってまさに歴史の転換点に等しい出来事が今もリアルタイムで進んでいますが、英国の過去を決め、同時に未来を決めるウエストミンスターは、超然とその威厳に満ちた姿でテムズ河畔にたたずみ、時折発生する霧の中から今日もロンドンの街にビッグ・ベンのチャイムの音を鳴り響かせています。

次回に続きます。

アンダルシアに輝いたグラナダの光 ・ アルハンブラ

みなさんこんにちは。

今回から宮殿の本場ヨーロッパに戻り、スペイン南部アンダルシアに700年以上に亘って君臨したイスラム王朝グラナダ王国の夢の跡、魅惑の王城「アルハンブラ宮殿」についてお話したいと思います。

このアルハンブラ宮殿については、テレビの紀行番組などでスペインを紹介する際に必ず登場し、またユネスコの世界遺産として、歴史好きな方であれば誰でも名前だけは一般知識としてご存知の事と思いますが、ではこの宮殿の成り立ちはそもそもどの様なものだったのでしょうか? なぜキリスト教国のスペインにイスラムの巨大な宮殿が存在しているのでしょうか? まずはそこから今回のお話を始めたいと思います。

アルハンブラ物語〈上〉 (岩波文庫)

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このアルハンブラ宮殿については上の本が良書です。19世紀前半のアメリカの作家ワシントン・アーヴィングの最高傑作で、上下2巻に分かれ、上巻はページ数360ページ余り、外交官として赴任した作者が見聞きした当時のスペイン各地の様子がアルハンブラと絡めて語られていきます。下巻はページ数440ページ余りで、こちらはアルハンブラにまつわる様々な伝説が、さながらアラビアンナイトの昔話の様に挿話されているものです。自分はこの作品を読む時、アランフェス協奏曲を聴きながらスペインの情景を想像して楽しんでいます。(笑)

アルハンブラ宮殿の歴史は8世紀半ば、つまり今から1300年ほど前にまでさかのぼります。当時現在スペインとポルトガルがあるこのイベリア半島一帯は、5世紀初めにこの地に侵入したゲルマン民族の一派が築いた西ゴート王国(415~711)の支配下にあり、およそ300年に亘って独自のキリスト教国家として存続していましたが、8世紀に入ると地中海を挟んだ北アフリカから大きな脅威が迫ります。ウマイヤ朝イスラム帝国の侵攻です。


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上がイスラム帝国の拡大図です。このイスラム教は、開祖である預言者ムハンマド(570?~632 この「預言者」というのは、未来を予測する「予言」とは全く違うもので、「神から与えられた言葉を人々に伝える神に選ばれた者」という意味です。そういう事にしておけば人々に自分の話を聞かせるのに都合が良いですからね。笑)が613年頃からメッカで説きだしたもので、「アッラー」を唯一絶対の神とし、そのアッラーの神がムハンマドを通して人々に伝えた言葉を「コーラン」と呼ばれる経典にまとめ、これを元に体系化された一神教の宗教であるのは良く知られていると思います。ちなみに「イスラム」というのは、アラビア語で「神に帰依する」という意味だそうで、ムハンマドの死後100年余りの間にあっという間に中東から北アフリカ全域(上の図参照)に広がり、今日の国際的な諸問題の根源とも言えるでしょう。

先のウマイヤ朝というのは、開祖ムハンマドと先祖を同じくするウマイヤ家が興した最初のイスラム王朝(661~750)であり、自らをムハンマドの正統な後継者と自認し、現在のシリアのダマスカスを都としてかつてのローマ帝国をしのぐ広大な地域を支配下に置いた大帝国でした。(実際には、先祖が同じといっても、このウマイヤ家は生前のムハンマドと大変仲が悪かったそうで、簡単に言えばムハンマドが築いたイスラム教というオリジナルの「巨大な遺産」を、ウマイヤ家がうまく乗っ取ったといえるかもしれませんね。笑)

ウマイヤ朝イスラム帝国は、第6代王ワリード1世(674~715)の時代に最盛期を迎え、勢いに乗るワリード1世は711年、地中海を越えてイベリア半島に遠征軍を差し向け、すでに衰えていた先の西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島をイスラム領としてしまいます。しかしその後、ウマイヤ朝そのものも内部での権力争いが続き、イスラム世界の信望を失っていきます。やがて750年、今度はムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家によって打倒され、王朝創始から14代わずか90年に満たずに滅亡してしまいました。

では、そのウマイヤ朝が滅んだ事によって、イスラム勢力はイベリア半島を放棄したのでしょうか? 実は一度滅んだはずのウマイヤ朝ですが、したたかに生き延びていたのです。750年にイスラム第一王朝のウマイヤ家が、第二王朝のアッバース家に滅ぼされたのは先に述べましたが、ウマイヤ王家の王族の一人がアッバース朝の目をかいくぐって必死の逃亡に成功、海を越えた遠いイベリア半島のこの地にウマイヤ朝を再興したのです。時に756年の事でした。


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上がウマイヤ朝を再興した王族の一人、アブドゥル・アラフマン1世です。(731~788)王家の一員として何不自由ない生活から一転アッバース朝に追われる身となった彼は、わずかに残った忠実な家臣らとともに命からがら脱出し、逃げる際に慌てて持ち出した手持ちの宝石を少しづつ換金して食いつなぎながら(笑)5年以上北アフリカの僻地を転々とし、他のウマイヤ王家の一族がアッバース朝によって徹底的に根絶やしにされていた所を、幸運にもなんとか海を越えてイベリア半島にたどり着き、生き延びる事が出来ました。やがて彼は、そこで「後ウマイヤ朝」を興して初代の王になるのですが、若い頃に経験したそうした様々な苦労が、彼を堅実な王に育て上げました。

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上がアブドゥル・アラフマン1世によって再興したアッバース朝時代の後ウマイヤ朝イスラム王国の位置です。(緑の部分)悪い言い方かもしれませんが、再興したといってもその実態は事実上のいわゆる「亡命政権」と言って良いでしょう。その北にあるオレンジ色の「アストゥリアス王国」とは、最初にウマイヤ朝に滅ぼされた西ゴート王国の残党が打ち建てた王国で、これもいわゆる亡命政権です。それにしても、その西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝も、同じ目に遭って亡命政権を打ち立てる事になるとは、歴史とは本当に皮肉なものですね。(驚)

さて、苦労人(笑)の王アブドゥル・アラフマン1世によってイベリア半島に築かれた後ウマイヤ朝イスラム王国ですが、その後どうなったのでしょうか? 実はこの王国、最初の大帝国時代よりもはるかに長く続き、大変繁栄したのです。初代アブドゥル王は内陸のコルドバを王国の首都に定め、その彼から11代目の王まで250年余りの間、大きな内紛や権力争いもなく、王たちはそれぞれ平均20~30年の長期在位を維持し、歴代の王の下で独自のイスラム文化を発展させ、王朝はとても安定していました。

その理由は地理的要因が大きく影響していました。王国が海を隔てた遠いイベリア半島にあったため、さすがのアッバース朝も手が届かず、周囲に大きな外敵がいなかったからです。唯一の脅威は地続きで国境を接していた北のカロリング朝フランク王国でしたが、これも3千メートル級の高い山々が連なるピレネー山脈が天然の壁として立ち塞がっていたため、大きな心配は要りませんでした。

しかし、12代目の王から混乱が始まります。第12代国王ヒシャーム2世(965~1013)はわずか11歳で即位し、当然年齢的に政治は出来ない事から、国政は先代の王から仕える経験豊かな宰相が後見人となって行っていました。しかしその宰相が1002年に亡くなると、国政を任せきりにしていたヒシャーム2世にその力量はなく、それを良い事に王国内の有力者たちが無能な王を廃位し、ウマイヤ家の他の王族から自分たちに有利な者を選んで勝手に国王として擁立、同時に何人もの王が立つという異常事態に陥ってしまったからです。

この内紛により国内各地で反乱が相次ぎ、王国は急速に衰退していきます。さらに悪い事に、かつてウマイヤ朝が滅ぼし、北のピレネー山脈に追いやっていた西ゴート王国の残党が築いたキリスト教勢力の小王国がこの混乱に乗じて独立、領土奪還の動きを開始します。国土回復運動有名な「レコンキスタ」の始まりです。こうした内憂外患により、17代275年続いた後ウマイヤ朝イスラム王国は1031年ついに滅亡してしまいます。

この後ウマイヤ朝末期の混乱期にグラナダの街を見下ろす高台の上に築かれたのが、今回お話するアルハンブラ宮殿です。といっても、最初から宮殿として築かれたのではなく、元は反乱軍に対してグラナダ防衛の軍事拠点としてウマイヤ軍が築いた「アルカサーバ」(アラビア語で「城塞」の意味です。そのままですね。笑 つまり、元はたくさんあるアルカサーバのうちの一つに過ぎないわけです。)と呼ばれる城塞がその始まりでした。

後ウマイヤ朝イスラム王国滅亡後、権力の空白地帯となったイベリア半島には、「タイファ」と呼ばれる旧王国の有力諸侯がそれぞれの地に自立し、半島は小国割拠の時代に入ります。


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上が後ウマイヤ朝滅亡直後の11世紀半ばのイベリア半島の勢力図です。この時、グラナダも上の様にその一国となりましたが、まだこの時点では指導者の政権交代が激しく、王国と呼べるほどに至っていません。

やがてこれらのイスラム・タイファ諸国に北から脅威が迫ります。先に述べた国土奪還に燃えるキリスト教諸国の南下です。特にその中で勢力拡大が著しかったのがカスティーリャ王国とアラゴン王国でした。両国とも後ウマイヤ朝滅亡後の同じ1035年に建国し、カスティーリャはイベリア半島中央部へ、そしてアラゴンは隣国カタルーニャと連合王国となって地中海方面へ勢力を伸ばします。

この事態に、独力で対抗する力のないイスラム・タイファ諸国は、当時北アフリカに勃興していたムワッヒド朝(1130~1269)さらにそれを滅ぼして成立したマリーン朝(1196~1465)などの大国に服属し、その後ろ盾を得てこれに対抗しようとしますが、キリスト教国とりわけカスティーリャ王国の攻勢に次々に拠点を攻略され、イスラム諸国の勢力範囲は年を追うごとに南へ南へと押し戻されて行きました。


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上がレコンキスタにおけるキリスト教勢力の支配領域の変遷です。

そんな最中の1230年、ようやくグラナダに永続的な王朝が樹立されます。ナスル朝グラナダ王国の出現です。この王朝は、元はこの付近を根城にしていたイスラム軍団の長であったムハンマド・イブン・ユースフ(?~1273)という人物が打ち建て、初代国王ムハンマド1世として即位して成立したもので、残念ながら彼の肖像画は残っていないのですが、この王様、小国とはいえさすがに一国の王に登り詰めるだけあって、なかなかしたたかな人物であった様です。

なぜなら彼の在位期間は実に41年におよび、その長い在位中に先に述べたイスラム勢力の総本家であるアッバース朝、そしてその対立派が北アフリカに興したムワッヒド朝、マリーン朝、ハフス朝などに自ら服属する事でキリスト教勢力をけん制しつつ、かと思えばそれらイスラム勢力とは一歩距離を置き、その目を欺きながら時にはなんと敵であるキリスト教勢力とも裏取引をしてはばからない高度な外交戦略で独立を維持していったからです。

ムハンマド1世はグラナダの街に都を置き、彼の死後王位を継いだその子ムハンマド2世も父王のやり方を継承、彼ら親子二代合わせて70年に及ぶ治世の間に、グラナダ王国はその基礎を整え、すっかり強固な体制を構築していました。そして彼らの手により、グラナダの丘にそびえる先のアルカサーバは大拡張工事が施され、城は味も素っ気もないそれまでの単なる城塞から、巨大な宮殿へと生まれ変わる事になるのです。ここにイスラム建築の最高傑作「アルハンブラ宮殿」の誕生です。

しかし、王国の初期の段階では、宮殿はまだ現在見られる様な華麗なものではなく、あくまでその規模を大きく拡大させた程度のものでした。その後、歴代のナスル家の王たちによって逐次増改築が繰り返され、とりわけ第7代国王ユースフ1世(在位1333~1354)と、その子で第8代国王ムハンマド5世(在位1354~1391)の時代に、宮殿はほぼ現在見られる壮麗な建築様式で飾られました。


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上の画像はアルハンブラ宮殿の全景です。ちなみに宮殿の名前「アルハンブラ」ですが、これはアラビア語で「赤い城塞」を意味する「アル・カルア・アル・ハムラー」(私たち日本人には舌を噛みそうですが、笑)がスペイン語に転じたもので。宮殿の建築資材である独特の赤みを帯びた石材が、特に夕方になると夕日に照らされて真っ赤に見える事から付けられたものです。この宮殿は非常に多くの建物が不規則に建ち並ぶ複合構造なので、上空からの衛星写真やイラストなどと照らし合わせ、それぞれの建物の位置や配置を確認して見てください。

先に述べた二人の王のうち、8代国王ムハンマド5世の治世、グラナダ王国は最盛期を迎えます。というと、疑問に思われるかも知れません。レコンキスタはどうした? グラナダはキリスト教勢力に押されていたのではないかと。もちろんその間も、レコンキスタの戦いは続いていました。しかし、偶然にもある三つの条件が、この時のグラナダに有利に働き、王国に繁栄期をもたらす時間的猶予を与える事になったのです。

その三つの条件とは、まず第一に当時全ヨーロッパを襲った恐怖の伝染病、すなわち「ペスト」(黒死病)の大流行です。このペストの大流行により、キリスト教国のカスティーリャとアラゴンの両国とも多くの死者が出たため、国土奪還どころではない惨状になってしまいました。

第二は、そのカスティーリャ王国とアラゴン王国の不和です。この二カ国は隣り合う隣国同士なのですが、イベリア半島における支配権をめぐって事ある毎に対立していました。しかし、力関係ではカスティーリャ王国の方が強く、やむなくアラゴン王国はカスティーリャとの直接の戦争は極力避け、出来るだけその足を引っ張りつつ、東の地中海方面に勢力を拡大させていく様になります。


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上がそのカスティーリャとアラゴンの位置と支配領域です。カスティーリャはアラゴンの3倍近い大きさですね。後にこの二カ国は一つの王国として統合されるのですが、決して仲が良かったというわけではないのです。

第三の理由は、カスティーリャ王国の内紛です。詳細はテーマからそれるので省きますが(汗)要約すると、1360年代、先王と正妻である王妃との間に生まれた兄王と、その先王が愛人に産ませ、臣下の貴族に養子に出した弟が王位をめぐって争い、当時百年戦争の最中にあったイギリスとフランスがそれに介入、イギリスは兄王を、フランスは弟を支援し、最終的にはフランスの支援する弟側が勝利して新王朝(トラスタマラ王朝といいます。)を開きます。この内紛にはもちろん先のアラゴン王国も暗躍しており、内紛が収まっても、カスティーリャ王国は疲弊した国内の建て直しにかなりの年数を要し、14世紀が終わるまでレコンキスタを中断せざるを得ませんでした。

こうしたいわば外的な要因のおかげで、グラナダ王国は独立を維持し、その間に王国の中心アルハンブラ宮殿ではそれまで蓄積され、磨き上げられてきた光り輝く華麗なイスラム文化に包まれていったのです。


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上の一連の画像はアルハンブラ宮殿の内部の様子です。これは自分の個人的な感想ですが、この宮殿の魅力は外から見た建物群はもとより、その内部のイスラム装飾の美にあると思います。写真のイスラム独特のアラベスク装飾に注目して下さい。

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上の画像群はアルハンブラ宮殿の庭園の様子です。砂漠の民が興したイスラム王朝においては、水と緑は黄金よりも貴重なものであり、それらで宮殿を埋め尽くす事は王だけに許された何よりも贅沢な事でした。ちなみにこの宮殿の入場料金は日本円で大人一人2千円もあればおつりが来るので(12歳以下の子供たちは保護者同伴なら無料)それほど高くはないのですが、世界遺産ならびにそのネームバリューから世界中から観光客が絶えないため、当然ながら完全予約制で人数に制限があります。また見学するのも、昼の部と夜の部で料金や時間、見学出来るコースも違うので、旅行される際は事前に良く調べておいたほうが良いと思います。それにしても、とにかくこの宮殿は写真を載せていたら切りがありません。(笑)

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上はアルハンブラ宮殿内に併設されているホテルとレストランです。実はこの宮殿、あまり知られていませんが、宮殿内の修道院を改装してホテルとなっており、宿泊する事が出来ます。これはスペイン国営の「パラドール」と呼ばれるもので、客室は40ほど、料金は日本円で1泊5~7万円ほどです。しかし、元が修道院なので建築上の制約から一つ一つの客室はそれほど広くはない様です。

しかし、これだけの宮殿を建設するには当然莫大なお金が必要です。王国とはいえ国家の規模としては小国に過ぎないグラナダは、一体どこからその金を得ていたのでしょうか? そこにも、グラナダ王国が繁栄したもう一つの理由があります。上の地図をご覧になればお分かりの様に、グラナダは地中海の西の出入り口であるジブラルタル海峡を押さえています。そのため彼らは必然的に海上貿易に大きな影響力を持っていました。当時地中海とりわけ西地中海の制海権を握っていたのは、海洋都市国家ジェノヴァであり、貿易で生きるジェノヴァにとってグラナダと友好関係を保つのは国の運命を左右する重大事でした。

友好関係を保つとは、要するに「お金」の事です。ジェノヴァはグラナダに多額の資金援助をする見返りに、ジェノヴァ商船のジブラルタル海峡通過や関税免除などの優遇措置を受けていたのです。つまり、アルハンブラ宮殿建設の資金を出していたのは、ジェノヴァであったといっても過言ではないでしょう。

この様に、繁栄を謳歌していたグラナダでしたが、所詮それは歴史の束の間の夢に過ぎませんでした。なぜなら15世紀に入り、先の内戦で疲弊した国内の混乱を収めたカスティーリャ王国が、再びレコンキスタを再開したからです。すでにこの時、イベリア半島に残るイスラム勢力はグラナダだけになっていました。気が付いた時、グラナダはイベリア半島におけるイスラム最後の牙城になっていたのです。

しかし、ナスル朝後期の王たちは、50年近く続いた繁栄の時代にすっかり慣れてしまい、初期の王たちが苦心した外交、防衛戦略を怠る様になってしまっていました。さらに悪い事に、それまで対立していたカスティーリャとアラゴンの二カ国が、関係を改善して急速に接近し始めます。その象徴が、カスティーリャ女王イサベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世の結婚です。


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上がカスティーリャ女王イサベル1世(1451~1504)とアラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)です。彼らは1469年に結婚し、5人の子に恵まれ、夫婦力を合わせてグラナダ王国を滅ぼし、およそ800年続いたレコンキスタを終わらせて後のスペイン王国を築き上げました。しかし、この時点ではスペイン王国とは呼ばれず、あくまで「カスティーリャ・アラゴン連合王国」というものでした。これを「同君連合」といい、この二人の王は結婚によってお互いの国の王でもあるという形を取っていました。つまり、王と王妃ではなく、どちらも王様なのです。

これにより、両国を相争わせてそれ以上の南下を防ぐというそれまでの伝統的なグラナダ防衛戦略が通用しなくなります。それに先立つ1462年、カスティーリャはグラナダの資金源を絶つために先のジブラルタル海峡に侵攻し、これを奪い取ります。このジブラルタル海峡の喪失は、グラナダに深刻なダメージを与えました。なぜならここを押さえていた事で、グラナダ王国は西地中海の海上貿易をコントロール出来たからです。そのジブラルタルが、グラナダからカスティーリャのものになった事で、それまでグラナダに多額の資金援助をしていたジェノヴァがあっさりとグラナダを見限り、グラナダへの貿易と投資から一切手を引いてしまいます。

もはやグラナダ王国の命運は時間の問題でした。そして1491年の冬、フェルナンド2世率いるカスティーリャ軍はグラナダに侵攻、およそ1万の兵力でグラナダ最後の砦アルハンブラ宮殿を包囲してしまいます。この時のグラナダ王は第23代ムハンマド11世(1460?~1527)で、彼ははからずも自らに課せられた最後のつらい仕事に臨む決意を固めていました。それはもう勝ち目のない無益な戦いをやめ、降伏してグラナダ全土をカスティーリャに引き渡す事です。彼はその証として、グラナダの象徴アルハンブラ宮殿の門の鍵を携えてイサベル、フェルナンド両王と会見します。


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上がその会見の様子を描いた絵です。ここに、およそ800年の長きに亘ったレコンキスタは終わりを迎えるのです。アルハンブラ開城に際し、最後の王ムハンマド11世は一旦は協定によりカスティーリャ領内に与えられた所領に赴きますが、やがて北アフリカに居を移して二度とグラナダに戻る事なく生涯を終えます。落ち延びていくムハンマド11世の姿が哀れです。その視線の先には、かつての自らの居城、あのアルハンブラ宮殿の姿があった事でしょう。こうして23代260年続いたナスル朝グラナダ王国は滅亡したのです。

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上は夕日を浴びて浮かび上がるアルハンブラ宮殿です。国が滅んで500年経った今も、アルハンブラは燃え盛る炎の様な強烈なイスラムの美を今日の人々に伝えるために、グラナダの丘の上にそびえています。

次回に続きます。
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