巨大な帝国の皇帝が夢見た小さな帝国 ・ヴィラ・アドリアーナ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に引き続き古代ローマ時代から、ローマ皇帝の一人であるハドリアヌスの築いた「ヴィラ・アドリアーナ」をご紹介したいと思います。

ところで、みなさんはローマ帝国という国家がどれほどの間存続したかご存知でしょうか? 前回もお話した様に、このローマ帝国という巨大国家も最初から大帝国であったわけではありません。実は意外なのですが、ローマ帝国はその建国の時期がはっきりしていないのです。有名な伝説では、最初の王ロムルスが紀元前753年に即位し、そのロムルスの名にちなみ、「ローマ」という国名になった(らしい)といわれていますが、これはあくまで伝説上の話であり、そもそもロムルスという人物が実在したかどうかすら分かっていないのです。

ともあれ、およそ紀元前8世紀の中ごろ、現在のローマの地に人口数千の小さな王制都市国家として成立したものが、やがて紀元前509年に王制を廃止、王の諮問機関であった元老院の有力者たちの合議によって国策を決する共和制に移行、500年近く拡大発展を続けて地中海全域を支配する巨大な領域国家へと成長し、その後、紀元前27年に初代皇帝アウグストゥスが即位して帝政に移行、そしてあのゲルマン民族の大移動に代表される異民族の帝国領内への侵入により、紀元395年に帝国が東西に分裂して二つに分かれ、一つの国家としては終わりを迎えるまでが古代ローマの歴史上の流れのプロセスです。

つまり、ローマが帝国であったのは、厳密には帝政を敷いた紀元前27年から紀元395年の東西分裂までのおよそ422年間という事になります。その帝政ローマ時代において、帝国の頂点に君臨していた皇帝の人数はおよそ80名にのぼり、今回のお話の主役であるハドリアヌスは、14代目の皇帝に当たります。


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上がローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスです。(76~138)前回お話した5代皇帝ネロと同じく、残されている彼の彫像にデジタル彩色を施したものです。(注)もちろん自分が作成したのではありません。無芸無能の自分にそんな高度なスキルはありません。(汗)海外の拾いものの画像です。(笑)

といっても、このハドリアヌスという人物についてはよほどの歴史好きな方(とりわけローマ帝国について詳しい方など)でない限り、知っている人はそうはいないと思います。そこで、彼の経歴とローマ皇帝に即位した経緯、そして彼が生きた時代背景を簡単にご説明しておきたいと思います。

ハドリアヌスの正式な名は、前回お話した5代皇帝ネロと同じく非常に長いもので、プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスといいます。(苦笑)帝政ローマにおいては、一代限りの皇帝を除くとその400年以上の存続期間に7つの王朝が交代しましたが、彼はその中の第3王朝ネルウァ・アントニヌス朝3代皇帝です。

この王朝は7人の皇帝が君臨し、そのうち、初代である12代皇帝ネルウァ(35~98)から16代皇帝マルクス・アウレリウス(121~180)まで5代続けて非常に有能な皇帝たちが続いたため、歴史上彼らが統治した時代は「五賢帝時代」と呼ばれ、ローマ帝国がその繁栄と強大さの絶頂期を迎えた時代といわれています。ハドリアヌス帝は、その五賢帝の中の一人でした。

では、彼はどのようにして皇帝の座に登り詰めたのでしょうか? 話は彼の先代の皇帝の時代から始まります。彼の前の皇帝は13代皇帝トラヤヌスといい、ローマ帝国の領土を歴史上最大に押し広げた名君でした。


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上がハドリアヌスの前の13代ローマ皇帝トラヤヌスです。(53~117)先に述べた様に、彼は非常に有能な皇帝であり、政治家として、軍人として、また文化人としても優れた人物で、人柄も公平かつ公明正大であったそうです。それゆえ、その後の歴代皇帝はもちろんローマ帝国滅亡後の中世から今日に至る長きに亘り、ヨーロッパの王候君主たちがその模範とするとともに、多くの歴史家の間でもその業績は高く評価されています。彼の治世において、ローマ帝国はその歴史上最大の版図を築いたのです。

しかし、そんな英邁なトラヤヌス帝でしたが、残念な事に子宝に恵まれませんでした。彼はもちろん結婚して皇妃もいたのですが、その皇妃との間には子が出来なかったのです。といっても、皇妃との仲が悪かったわけではなく、むしろ愛妻家で、先に述べた様に彼の人柄から、他の女性に手を出すのを良しとしなかったのでしょう。

ハドリアヌスはそのトラヤヌスの従兄弟の子にあたり、血筋は遠いですが、すでに若くしてその有能さを周囲から認められていました。そこで、トラヤヌス帝は同じネルウァ・アントニヌス家の一族の中からハドリアヌスを自らの後継者と考える様になります。

ハドリアヌスは将来の後継者として、20代に入るとまずは青年将校として各地のローマ軍団で軍務に付き、25歳の時にトラヤヌス帝の秘書となります。その後、トラヤヌス帝が生涯最も情熱を傾けた数々の外征戦争(101~106年のダキア戦争、114年のパルティア戦争など、ダキアとパルティアとは現在のルーマニアとイランの事です。)では軍団司令官(今でいう師団長クラスでしょうか。)として多くの実戦経験を積み、皇帝を補佐して司令本部で優れた手腕を発揮、皇帝を大いに満足させます。

これらの戦争で、ローマ帝国軍はダキアを征服、パルティア軍を撃滅してメソポタミアまでをもローマの領土にするなど大勝利を収めます。しかしその矢先の117年、皇帝が急病で倒れてしまいました。トラヤヌス帝は、ハドリアヌスをシリア総督兼パルティア遠征軍総司令官に任命して前線を離れ、ローマへの帰途に着きますが、病状は悪化、死期を悟った彼はハドリアヌスを正式に養子とし、次期皇帝に指名したのです。

そのたった数日後、トラヤヌス帝は崩御し、ハドリアヌスは先帝の後を継ぎ、シリアで14代皇帝に即位します。西暦117年8月の事でした。

「新皇帝ハドリアヌス万歳!」

新帝ハドリアヌスは、配下のローマ帝国東部方面軍将兵の歓呼を受け、それに答えます。この時点において、彼は歴史上最大規模にまで拡大した「巨大帝国」の皇帝となったのです。しかし、ハドリアヌスは皇帝となった最初の「仕事」として誰もが驚くべき事を決定します。それはなんと先帝トラヤヌスの下で大軍を繰り出し、あれほど苦労してパルティアから手に入れ、ローマ帝国の属州としたメソポタミア、アルメニアの二州を「放棄」するというものです。


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上がハドリアヌスが皇帝となった直後の西暦117年におけるローマ帝国の支配領域です。各属州(つまり、現代のわが国で言えば都道府県ですね。)の境界線が良く分かります。この時点において、ローマ帝国はその歴史上最大規模に拡大していました。ハドリアヌスが放棄する事に決めたメソポタミアとアルメニアは、上の図の最も右側になります。

それにしても、なぜ彼は即位早々に、せっかく手に入れた広大な新領土を放棄するという大胆な決定を下したのでしょうか? 普通に考えれば理解に苦しむ所です。実は、これにはある切実な問題が大きく影響していました。その切実な問題とは、増大する軍事費すなわち「お金」の事です。

実は、この時ローマ帝国は、国家予算のおよそ半分を軍事費に投じていたのです。特に先帝トラヤヌスの時に、先のメソポタミアとアルメニア、それにダキア(現在のルーマニア)に大軍をもって侵攻、これら一連の征服戦争によって膨らんだ巨額の軍事費が、帝国の国家財政を大きく圧迫していました。

新しく手に入れた領土には、その維持と防衛のために軍を駐留させなければなりません。その経費と、手に入れた領土から得られる利益を比較すると、完全な「赤字」になってしまうのです。

そこで彼は、これらの新領土を全て放棄し、帝国の国境線を以前の状態にまで戻そうとしたのです。都合の良い事に、これらの地域にはちょうど大きな川が流れていました。パルティアとの間のメソポタミア付近にはユーフラテス川、ダキアにはドナウ川です。川という自然の地形を利用して、これを帝国の国境線に確定するつもりでした。

余談になりますが、ローマ帝国軍というのはその歴史上、通算するとおよそ50の軍団があったそうです。ただし、それら全てが常時編成であったのではなく、戦いに敗れて全滅したり、臨時編成で解散されたりした部隊もあったので増減があります。しかし、それらを差し引いても、40個軍団はあったとされています。ローマ軍は全てローマ市民権を持つ者だけで構成され、一つの軍団の定員は平時でおよそ5千から7千程度(現代の陸軍の編成ならば「旅団」規模ですね。)だったそうですが、大きな戦争になれば大規模に増員が行われ、1万5千程度(1個師団ほど)にまで増強される事もありました。

帝国の外側には、東のパルティア王国以外にも、北には強力なゲルマン民族が帝国の富を狙っており、それらの敵から帝国を守るためには、常備兵力として最低でも40個軍団、兵力にして25万程度は必要でした。そしてハドリアヌス帝の時代、ローマ軍の総兵力は35万を超えていました。


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上はハドリアヌスの時代の金貨と銀貨です。それまで95%以上の高い純度を誇っていたこれらのローマ貨幣は、膨らむ軍事費の対応のためにこの頃から純度が下げられ、彼の時代には80%台になっていました。

一口に「軍事費」と言うと、私たちはすぐに兵器などにかかる費用だと思ってしまいますが、軍事費というのはそれだけではありません。兵士たちに支払う給料すなわち「人件費」も軍事費なのです。そのためハドリアヌスは、新しく得た領土を切り捨て、その駐留軍を削減して膨らむ軍事費を抑制したかったのです。

振り返れば、ローマ帝国はそれまで拡大の一途を突き進んで来ました。そしてその結果、帝国の国境線は総延長1万5千キロにまで達し、その長い国境線を守るために多くの守備隊を置かねばならず、その維持費と経費などの軍事費が帝国の国家財政の大きな負担になっていました。そこで、その打開のため、ハドリアヌスは歴代皇帝で初めて帝国の縮小を試みた皇帝だったのです。

これらによって、計算上はおよそ8万から10万の兵力が削減出来るはずでした。しかし、このハドリアヌスの「軍縮計画」に異を唱える集団が彼の前に立ちはだかります。それはローマ帝国の「国会」に相当する元老院です。彼ら元老院議員は帝国の有力者600名から成り、その大半が自ら各軍団の将軍として戦地に赴き、帝国の拡大に貢献してきた人々でした。

彼ら議員たちは、灼熱の砂漠地帯で得られるものが特に無いメソポタミアとアルメニアの放棄には賛同したものの、ダキアの放棄には断固反対しました。なぜならダキアには金銀を産する大鉱山があったからです。やむなく、ハドリアヌスはダキア放棄を断念せざるを得ませんでした。

その後、ハドリアヌスは4年ほど都ローマで国政に専念しますが、そうしている内に彼の中に、ある思いが沸々とわき上がります。

「ここにいるだけでは帝国の全容が把握出来ぬ。一度わが帝国の全てを見てみたい。」

そして彼は、これも歴代皇帝で初めての大視察旅行に出発するのです。まず、彼が向かったのは帝国の最北端であるブリタニア(今のイギリス)です。ここはハドリアヌスの時代からさかのぼる事70年ほど前、4代皇帝ティベリウスが遠征軍を差し向けて征服したものですが、ブリタニア全土を完全に征服したわけではありませんでした。ローマ帝国が支配していたのはブリタニアの南部と中部すなわち後のイングランドまでで、後のスコットランドとなる北部にはケルト人(ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んでいたそうです。)がローマの支配に頑強に抵抗していたからです。

ここを視察したハドリアヌスは、無理をしてカレドニアを征服しても、最辺境のこの地から得られるものはほとんど無く、かえって余計な軍事費がかかるだけだと判断し、ブリタニア方面軍に対してケルト人との国境線上に、ブリタニア本島を東西に分ける長さ120キロに及ぶ長大な城壁の建設を命じました。これが「ハドリアヌスの長城」です。


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上がハドリアヌスの長城の位置と現在の姿です。城壁の石材は、後の時代にその多くが建築資材として持ち去られてしまったために今では低くなっていますが、建造当時は高さ4~5メートル、厚さも2メートル以上あり、城壁の外側、つまり敵であるケルト人のいる北側には、深さ3メートル以上の空堀が掘られていました。(といっても、最初からこの様な石造りの堅牢な城壁として建造されたのではありません。ハドリアヌスが命じた時には高さ3メートルほどに土を盛り、その上に木の丸太で柵を設けた急ごしらえの「土塁」で、その後に10年以上の時間をかけて石造りの城壁に増強されたそうです。)

1・5キロ(1マイル)ごとに、兵士たちが駐留する詰め所と監視塔(マイル・キャッスル)が設けられ、8~10名の守備兵が小隊長の指揮の下で国境の警備に当たっていました。さらに6キロ間隔で要塞も建設され、500~600名ほど(一個大隊程度でしょうか。)の部隊が配備されていたそうです。(そこから割り出すと、この地域のローマ軍の国境守備兵力はおよそ1万余りというところですね。)

ハドリアヌスがこの地にこの様な長大な城壁を築かせたのには理由があります。ローマ帝国の国境線の総延長は、先に述べた様におよそ1万5千キロという途方もないものですが、その大半は海と川、砂漠や深い森などを自然の壁とする事でカバー出来ました。しかし、ここだけはそうした天然の要害がないのです。そこでこうした人工的な構造物がどうしても必要だったのです。

それから、ハドリアヌスの帝国各地を巡る大巡察旅行が始まります。それは、ギリシャ、エジプト、シリア、ヒスパニア、ガリアと、地中海全域に広がる帝国を網羅する、それまでの皇帝はもちろん彼の後の皇帝ですら誰も行わなかった長い旅でした。しかし、ここで疑問に思うのが、その間帝国の政治はどうしていたのか? という点ですが、そこで再び登場するのが元老院です。

もともと元老院はローマの国政を運営するための機関です。旅先のハドリアヌス帝の指示に従ってそれを行っていました。つまり皇帝は、ただ元老院の議案に修正を加えるか、許可や却下のサインをするだけで良かったのです。ハドリアヌス帝の巡察旅行は足かけ13年に及び、彼が都ローマに戻ってきたのは58歳の時でした。

ハドリアヌスはローマに戻ると、まるで人が変わった様に「人嫌い」になったといわれています。特に、100万の人口にあふれる大都会ローマを嫌い、都を離れて郊外のティボリの森に広大な宮殿を建設して移り住みます。それが今回お話しする宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」です。


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上がヴィラ・アドリアーナの全景の模型です。この宮殿は広さがなんと120ヘクタールもある広大なもので、1999年にユネスコの世界遺産に登録されています。

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上の一連の画像はヴィラ・アドリアーナの現在の姿です。ここには広大な庭園はもちろん劇場、図書館、大浴場、運動場、謁見の間、迎賓館、展望台など、およそ考えられるあらゆる全てのものが整えられていました。ハドリアヌスの死後、他の皇帝の何人かが離宮の一つとしてまれに活用していた様ですが、ローマ帝国滅亡後に放棄され、「石切り場」として石材が持ち去られて破壊されてしまいました。上の写真に残る彫刻などは、池の底に沈んで幸運にも破壊を免れた物のレプリカを、おそらくその位置に置かれていたと思われる場所に立てたものです。(本物はもちろん博物館に展示されています。)特に、その中で注目すべきなのは、画像最後の2枚の通称「海の劇場」と呼ばれる一画です。

ここは、ハドリアヌス帝が普段の居住スペースとして造らせたもので、執務室、寝室、浴室、書斎などの部屋が中央の丸いスペースに区分けされ、その周りを池が囲んでいるというおそらく古今東西歴史上ここだけではないかという非常にユニークなものです。これを見るだけで、このハドリアヌスという皇帝がとても繊細かつ複雑な性格であったのがうかがえます。

ハドリアヌス帝が極度の人嫌いになった原因といわれる一つのエピソードがあります。実はハドリアヌスは無類の男色家でした。多くの美少年、美青年を「愛人」として周囲にはべらせ、「夜伽」の相手をさせていました。その中で、最も皇帝が愛したお気に入りの美青年が「アンティノウス」という若者です。


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上がそのアンティノウスの像です。

しかし、このアンティノウスが、ハドリアヌスがエジプト滞在中にナイル川で謎の死を迎えてしまったのです。まだ20歳に満たない若さでした。ハドリアヌスはその死を深く悲しみ、ローマに戻ってからもヴィラ・アドリアーナに引きこもってしまうのです。

ハドリアヌスはその13年に及ぶ長い巡察によって、自らが頂点に君臨する巨大帝国ローマの現実をまざまざと垣間見て来ました。繁栄により贅沢と快楽に溺れる人々、その上で確実に進んでいた国家財政の破綻の兆候、最強を誇ってきたローマ軍の内部分裂と弱体化、一筋縄ではいかない老獪な元老院の腐敗、そう、一見すると繁栄の絶頂期を迎えていたローマ帝国は、すでに衰退の兆しを見せ始めていたのです。そして彼には、その先に待ち構える「滅亡」への足音が確かに聞こえていました。

「永遠の帝国ローマ。そんなものはすべて幻だ。このままではわが帝国は取り返しの付かない事になる。帝国の国庫はすでに市民諸君を養える余力など無い。市民諸君は今すぐ生活を改め、身の丈にあった暮らしをすべきだ。」

皇帝は行く先々でこの様に演説し、人々を戒めようとしました。しかし、一度贅沢で優雅な生活に慣れてしまった人々は、誰もその言葉に耳を傾ける者はいませんでした。

「皇帝は我々市民から豊かな暮らしを取り上げようとしている。」

こうした世論が帝国内にあふれ、ハドリアヌスは孤立してしまうのです。

「これがローマの現実の姿だ。この帝国は広すぎて、とても私一人では治めきれぬ。」

皇帝は吐き捨てる様にこう言い放ちました。そして彼は、自分が巡察で見た帝国各地の思い出の風景を箱庭の様に集め、その集大成として造ったこの宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」に閉じこもってしまいます。そう、この宮殿は皇帝が理想とする帝国のあるべき姿を表現したものだったのです。それはまさに「小さな帝国」でした。

晩年のハドリアヌス帝はこの宮殿で誰も寄せ付けず、忍び寄る滅びの坂道を転がり落ちようとしている帝国の行く末を按じ、愛するアンティノウスの思い出に浸りながらひっそりと暮らし、西暦138年に62歳で崩御しました。

現在、ローマの街には至る所に歴代の皇帝たちを称える多くのモニュメントが残っています。凱旋門、記念柱、神殿の類いは数知れず、しかし、その中で、ハドリアヌスの業績を称えるものは何一つ残されていません。ローマ帝国の行く末を誰よりも按じ、改革を訴えた皇帝に対するそれが、ローマ市民の答えでした。

ハドリアヌスの死後、ローマ帝国はさらに2代続けて有能な皇帝が統治したため、その後も40年余り繁栄を謳歌し続けます。そうして時を重ねるうちに、帝国の国家財政は悪化の一途をたどり、破綻寸前の危機に陥っていきました。しかし、それでも、贅沢に慣れてしまったローマの人々は、遊興三昧の生活を手放そうとはしなかったのです。

やがて3世紀に入ると、それまで帝国の外側に封じ込められていた異民族が、国境線を破って帝国領に侵入を繰り返す様になります。しかし、その国境にはかつての栄光ある最強のローマ軍団の姿はもうありませんでした。こうしてローマ帝国はハドリアヌスが恐れた通り、滅亡への道を転がり落ちていくのです。


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上はハドリアヌスの長城の前で微笑む少年の姿です。彼の遠い祖先も、かつてこの地を守っていたローマ軍の兵士だったのかも知れませんね。(笑)

次回に続きます。
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暴君ネロの見果てぬ狂った夢の跡 ・ ドムス・アウレア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「暴君ネロ」の異名でその名を歴史に刻むローマ皇帝ネロが築いた「ドムス・アウレア」をご紹介したいと思います。

今回のお話の主役は暴君ネロなのですが、みなさんはこの人物について、一体どんなイメージをお持ちでしょうか? ローマ皇帝として悪逆の限りを尽くしたその名の通りの暴君? おそらくそういう印象が強烈なのではないかと思います。(かくいう自分もそうでした。)確かに、結果的に彼はそんな悪者に成り下がり、非業の最期を遂げた事から、2千年もの長い間人々にそんな風に語り継がれて来た事は事実です。

しかし、そんなネロも、最初からひどい暴君だったわけではないのです。物事にはどんな形であれ、そうなるに至った経緯というものがあります。というわけで、まずはそのネロという人物の生い立ちから今回のお話を始めたいと思います。


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上は皇帝ネロの胸像です。残されている彼の像にデジタルで色彩を施したものです。歴史上の人物がどんな顔立ちをしていたのかというのは、多くの場合残された文献などの記録や、抽象的な絵などで想像するしかないのですが、ありがたい事にローマ時代の人物の彫刻は実物と見間違えるくらい大変写実化が進んだ時代であり、多くのローマ皇帝の胸像が残されています。こんな顔立ちをしていたんですね。

ネロ(37~68)は、正式な名は非常に長く、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスといい(笑)その身分はローマ帝国5代皇帝です。ローマ帝国といえば、およそ2千年前に成立した人類史上最初の超大国である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。そして彼はその皇帝、つまり当時世界一の権力者であったのです。

このローマ帝国ですが、もちろんこの国も最初からこんな大国であったのではありません。大望を成す場合の最も有名な格言である

「ローマは一日にして成らず。」

の言葉通り、紀元前8世紀(今から2800年ほど前)に現在のローマの地に誕生した人口数千程度の小さな都市国家だったものが、徹底した共和制の仕組みの下に700年以上もの長い時間をかけて地中海全域を支配する広大な領域国家に成長し、やがてネロの高祖父(ネロの祖母の祖父)にあたるアウグストゥスが初代皇帝として即位した事により共和制から帝政に移行し、ローマ帝国となったものです。


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上がネロの偉大な祖先であるローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14)の有名な像と、ローマ帝国の最大領域図です。

ところで、このローマ帝国について詳しい方ならば良くご存知の事かと思われますが、実際のアウグストゥスの本名は「オクタヴィアヌス」といい、あのユリウス・カエサルの甥(カエサルの姉の子)で、志半ばで暗殺されたカエサルの遺志を継いで後継者として地中海世界を統一、ローマ元老院から「尊厳者」という意味の「アウグストゥス」という称号を贈られたのがその名の由来ですが、アウグストゥス本人は政・官・軍の全権を自分に集中させ、独裁権を握る一種の「国家元首」にはなったものの、存命中自らを「皇帝」と名乗った事は一度もありませんでした。つまり「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス」というのは、全て歴史上の後付けでそう呼ばれているものなのです。このあたりは、このローマ帝国という巨大国家のユニークで難解な部分です。(苦笑)

このアウグストゥスに始まる帝政ローマにおいて、彼の興した王朝は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれています。これはアウグストゥスの一族ユリウス家と、その妻リウィアの家系であるクラウディウス家を合わせたものです。

ネロは、そのアウグストゥスから数えて5代目のローマ皇帝にあたるわけですが、その血筋は純粋なアウグストゥスの直系というわけではありませんでした。なぜなら初代皇帝アウグストゥスは後継者の男子に恵まれず、その後に続いた皇帝たちも養子や甥などの傍系であり、ネロ自身もアウグストゥスの血を引いてはいたものの、それは女系であったからです。

では、ネロが皇帝に即位するに至った経緯とはどんなものだったのでしょうか? 事の起こりはネロの実母アグリッピナが先代の4代皇帝クラウディウスの皇妃になった事から始まります。


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上がローマ帝国4代皇帝クラウディウスの像です。(紀元前10~紀元後54)彼は初代皇帝アウグストゥスの皇妃リウィアの孫にあたりますが、生来病弱でユリウス・クラウディウス家一門の中でも疎まれ、長く日陰の道を歩み、耐え忍んで来ました。そんな彼が皇帝に即位出来たのも「毒にも薬にもならない目立たぬ凡人」の彼ならば、飾り物の傀儡(かいらい)としてうってつけだと皇帝の親衛隊に擁立されたからです。紀元41年、この時すでに彼は50歳になっていました。

しかし、「お飾りに過ぎない」と周囲に全く期待されていなかった彼は、皇帝となるや意外な有能さを発揮します。破綻寸前だった帝国の国家財政を立て直し、それまでローマ人あるいはローマ市民権を持つ者だけに限定していた元老院議員の門戸を、ローマ帝国が支配していた属州や異民族、果ては奴隷に至るまで大きく広げ、有能な者はその身分や出身を問わず積極的に登用していく態勢を整えたのです。さらに帝都ローマへの飲料水の供給のため、自らの名を冠した巨大な水道橋を建設、同時に食糧の安定供給のためにローマの外港としてオスティアの港湾を大規模に整備、外征にも熱心で、現在のイギリスであるブリタニアに兵を進めてこれを領土とするなどの功績を残します。


クラウディウス帝は病弱であったため、ユリウス・クラウディウス家に限らずローマ支配階級の名門の男子の義務であった「軍務」に付く事は出来ませんでした。しかし、持て余す時間を読書と学問に費やした事が、彼を知識豊富な政治家に育て上げたのでしょう。それゆえ、彼は「文人皇帝クラウディウス」と呼ばれています。

そんなクラウディウス帝でしたが、家庭生活には恵まれませんでした。これまでに3度結婚に失敗し、長男には先立たれ、ローマ皇帝という頂点の地位にありながら、肉親愛に恵まれぬ孤独な私生活だったのです。

そのクラウディウスに近づいたのが、ネロの母親であるアグリッピナ(15~59)です。彼女もユリウス・クラウディウス家の一族ですが、大変権力欲の強い野心家で、最初の夫との間に息子ネロを産み、その夫が死ぬと裕福な次の夫と再婚、数年後にその夫も亡くなると遺産を手に入れ、その金を賄賂としてクラウディウス帝の重用する側近たちにばらまき、彼女が皇帝に近づけるよう画策したのです。

こうしてうまくクラウディウスに近づいたアグリッピナは傷心の皇帝に甘い言葉で優しく接し、女性関係で失敗の連続であったクラウディウスはたちまちその色香に迷わされ、彼女はまんまとローマ皇帝妃の座に着くのです。紀元49年の事でした。

皇妃となったアグリッピナの次の狙いはもちろん息子ネロを次の皇帝にする事です。そのために彼女は夫クラウディウス帝にネロを養子にする事を勧め、後継者の息子がいなかったクラウディウス帝はそれを認めてしまいます。そこまですれば、もう彼女の願いは叶ったも同じです。そして彼女はその総仕上げとして、恐ろしい計画を実行します。それはもはや用済みとなった皇帝クラウディウスの暗殺です。

もともとアグリッピナはクラウディウスへの愛情で結婚したのではなく、自らの権力と野心の成就のためでした。後は息子ネロを次の皇帝にすれば、皇帝の実母である皇太后としてローマ帝国の実権を握る事が出来るのです。そのためには夫クラウディウスにあの世に行ってもらわなくてはなりません。彼女は宴の席の料理に「毒キノコ」を混ぜ、クラウディウス帝を毒殺してしまいます。

こうしてついにネロがローマ帝国5代皇帝として即位するのです。18歳の若き皇帝の誕生です。全ては母アグリッピナの思惑通りでした。若いネロの即位はローマ市民に歓呼で迎えられ、誰もが帝国の明るい未来を思い描いていました。この時、一体誰がその後の「地獄」を想像出来たでしょうか。

ネロの治世は最初の2年ほどは、長いローマ帝国の歴史の中でもまれに見る善政でした。しかし、それはネロの個人的な采配によるものではありません。まだ20歳前後の何も知らない若者にそんな政治力があろうはずがなく、それらはネロの家庭教師を務めた哲学者セネカ(?~65)という立派な政治的後見人の存在があってこそのものでした。

また、この頃からネロと母アグリッピナとの関係がギクシャクし始めます。アグリッピナは事ある毎にネロに干渉し、政治はもちろん私生活の面まで息子を支配しようとしたのです。そんな母親に対し、次第にネロは母を疎ましく思う様になり、どんどんそれはエスカレートしていきます。もはやネロにとって、母アグリッピナは目の上のこぶの邪魔者でしかありませんでした。やがてネロは皇帝直属の親衛隊を差し向け、母アグリッピナの抹殺を命じるのです。(思えばネロは野心と謀略にまみれた母の姿を見て育ったのです。その息子なのですから、その血を受け継いでいるのは当然ですね。皮肉にもアグリッピナは自らが産んだ息子によって生涯を閉じる事になってしまいました。因果応報とはまさにこの事です。)

最大の障害であった母を抹殺したネロを諌める人物は、もういませんでした。ネロは最初の皇妃オクタヴィアを3年後の62年に殺してしまいます。さらに、政治ブレーンであったセネカまでも65年に粛清してしまうのです。

ネロにとって、自分に歯向かう者はもちろん意見する者すら「邪魔者」でしかありませんでした。そしてそれらを次々に捕えて処刑、暗殺を繰り返し、自らは快楽と怠惰に溺れる手の付けられない「暴君」へと変貌して行ったのです。金に糸目をつけない娯楽競技にうつつを抜かし、女色はもちろん男色にもふけり(なんと気に入った美少年を「去勢」させ、女装させて周囲にはべらせたそうです。)果ては数千の観衆の前で皇帝自ら歌や芝居に興じるなど、その振る舞いは目も覆うばかりでした。そんな皇帝にあるまじき姿に失望し、元老院では密かに反ネログループが政権転覆の動きを加速させていく様になります。

そんな矢先に起きたのが「ローマ大火」事件です。


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上がローマの大火を描いたものです。

64年7月、ローマ市内の一画に起こった火の手が強風に煽られ、ローマ市街の3分の2を焼き尽くす大火災となったのです。さすがにこの時はネロも皇帝として自ら陣頭指揮を取り、火災の鎮火と被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし、この時にどこからかとんでもない「噂」が流されます。

「皇帝は宮殿でローマの焼け落ちる姿を眺めながら竪琴を片手に歌を歌っていた。」

市民の間に広まったこの噂をもみ消すため、ネロは思い切った手段に打って出ます。それは、なんとこの火災を当時帝国内外に広まっていたキリスト教徒が引き起こしたものとして、キリスト教徒を片っ端から捕えて公開処刑するというものです。もちろんこれは全くの濡れ衣であり、しかも、そんな事をしても、一度立てられた悪い噂はそう簡単に消えるものではありません。

後にローマ帝国はキリスト教国家となり、ローマを中心として全ヨーロッパがキリスト教に染まっていくわけですが、まだこの頃の帝国は多神教であり、キリスト教は多くの宗教の一つに過ぎませんでした。そのキリスト教徒を多数処刑した事により、後にネロは悪逆非道な暴君として、欧米社会で根強くその名を記憶される事になったのです。

さて、それまで遊び呆けていたネロには大きな仕事が待ち受けていました。それはもちろん焼け野原となった帝都ローマの再建です。ここでネロは強い指導力を発揮します。実は今日では意外なのですが、それまでのローマは木造家屋が密集するお世辞にも綺麗な街並みではありませんでした。それがゆえに今回の火事で大きな被害が出たのです。

そこでネロは、火災に強い都市造りのために大規模な都市計画に着手します。狭かったローマ市内の道幅を広げて建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲み、共同住宅には中庭と消火用器具の設置、住居は一定の部分を耐火性のある石で造る事などを義務付けました。火災に対応出来るよう水道も整備され、ローマの街並みはそれまでの木造から頑丈な石造りの家々が立ち並ぶ壮麗なものに生まれ変わったのです。それはまさに帝国の都にふさわしいものでした。

それと並行して、ネロはかねてから考えていたあるプロジェクトを実行に移します。それは今まで誰も造った事の無い巨大な宮殿を都ローマの中心に建設し、自らの名を歴史に永遠に残す事です。その宮殿の名は「ドムス・アウレア」 ローマ帝国の公用語であったラテン語で「黄金宮殿」と呼ばれるものです。


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上がその「ドムス・アウレア」の復元想像図と内部の様子をデジタルで再現したものです。高価な大理石をふんだんに使い、宮殿内の壁や天井は隙間無く見事なモザイク画やフレスコ画で覆われ、無数の彫刻が至る所に置かれていました。また、広大な庭園には皇帝の舟遊びのための大きな泉も配置されていました。(みなさんもローマ人になったつもりで想像して見てください。笑)

ネロがこの宮殿を黄金宮殿と名付けたのは、実際に宮殿を黄金で覆い尽くそうとしたからではありません。決して錆びずに輝く黄金は永遠の象徴。ネロは宮殿が自らの名とともに永遠に残る事を願ったのです。

しかし、この皇帝の誇大妄想は、ローマ市民の大不興を買ってしまいます。完成した宮殿のあまりの巨大さと壮麗さに、またもこんな噂が市民の間に広がります。

「皇帝はこの宮殿を造るためにわざとあの火事を起こしたのだ。」

ローマ市民の間のネロの人気は、この頃から坂道を転げ落ちる様に無くなっていきます。その隙を突いて、ローマを遠く離れたガリア(後のフランス)の地で、ヒスパニア総督であったガルバ(紀元前3~紀元69)が反乱を起こします。ガルバは自ら「皇帝」を名乗り、数万の大軍でローマに迫ってきたのです。ネロの手元には皇帝直属のおよそ1万の兵力からなる親衛隊がありましたが、長年の放蕩三昧の結果、すでに彼はその親衛隊からも見放されていました。元老院はこの機に乗じてネロを皇帝の座から引きずり落とすため、ネロを「国家の敵」とし、ローマに入城したガルバを新皇帝として迎え入れました。

孤立無援のネロは愛人の一人パオラに与えた別荘に逃げ込みます。しかし、元老院と新帝ガルバの差し向けた追っ手の軍勢に包囲され、ついに自害してその乱れた生涯を閉じました。時に紀元68年6月、わずか30歳でした。

ネロの死後、彼が造った夢の宮殿ドムス・アウレアは、その後の混乱と度重なる火災によって、そのほとんどが消滅してしまいました。


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上はローマ市内の地下に残るドムス・アウレアの遺構の一部です。

かつてここに、自らの名を永遠に残そうと狂った夢に取り付かれたある皇帝が、巨大な宮殿を造り上げました。しかし、その皇帝の名は歴史に「暴君」として永遠に刻まれ、彼の望みは醜くゆがんだ形で叶えられる事になりました。

今に残るのは、朽ち果てた天井に残るかつての見事なモザイク画の残骸と「暴君ネロ」にまつわる数々の狂ったエピソードだけです。

次回に続きます。

海の底に眠る悲しき美女の宮殿 ・ アレクサンドリア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「絶世の美女」としてその名を歴史に刻むエジプト女王クレオパトラが住んだアレクサンドリアの宮殿をご紹介したいと思います。

クレオパトラといえば、なんといっても先に述べた「絶世の美女」という形容詞が古くから全世界に共通していますね。そして、それはその劇的でドラマチックな生涯と相まって、彼女の死から2千年もの間伝説として人々に語り継がれてきた事は、歴史好きでなくても誰でも知っていると思います。

しかし、それはあくまでも伝説の話。実際の所は彼女がどれほどの美女であったか? いや、そもそもどんな顔立ちをしていたのか? など、もちろん誰も知る由もありません。(笑)歴史上に登場する女性の中でおそらく最も有名な人物でありながら、その顔立ちを伝える物的な証拠は、彼女がエジプト女王として在位中に発行された不鮮明な横顔が刻まれた貨幣しかないのが実情だからです。(もちろん、彼女を描いた絵や彫刻は数多く存在しますが、それは全て後世の画家や彫刻家たちがそれぞれ自分たちなりに想像したものです。)


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上がクレオパトラ(紀元前69~紀元前30)と伝わる女性の横顔が刻まれた銀貨です。他にもいくつかの種類があります。(髪形を見れば明らかに女性であり、貨幣には在位中のその国の君主の顔を刻むのが普通ですから、女王クレオパトラ本人とみて間違いないでしょう。)

そうしたミステリアスな所もクレオパトラの魅力の一つなのだと思うのですが、彼女についてのエピソードを語れば枚挙に暇が無いので(笑)ここでは割愛させていただくとして、まずはこのクレオパトラという人物の経歴その他、事実上の確かな事柄から本テーマに話を移して行きたいと思います。

彼女の正式な名は「クレオパトラ7世」といい、プトレマイオス朝エジプト王国最後の女王です。(この程度の事は歴史好きな方であれば良く知られた事ですね。)彼女の王家プトレマイオス王朝というのは、あのアレクサンドロス大王の少年時代からの古い友人で、成長してからは側近中の側近としてアレクサンドロスの大遠征に付き従い、大王の死後も生涯不変の忠誠を守り通した将軍プトレマイオスが紀元前306年にエジプトに開いた王朝であり、同時に古代エジプト最後の王朝でもあります。


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上がそのプトレマイオス(紀元前367~紀元前282)の横顔が彫られた金貨です。彼はアレクサンドロス大王が最も信頼した部下であり、大王からエジプト総督兼エジプト方面軍司令官に任じられていました。その後、大王が32歳の若さでこの世を去ると、彼を含む部下の将軍たちの合議制によって帝国を運営して行こうと提案しますが、野心に燃える他の将軍たちとの調整が上手く行かずにそのプランは破綻。結局後継者争いとなり、彼は大王から賜った任地エジプトに自らの王朝を打ち立て、エジプト王(ファラオ)プトレマイオス1世として即位する事になったのです。クレオパトラにとっては偉大なご先祖様ですね。(笑)

エジプト王となったプトレマイオス1世は、君主としても優れた人物でした。彼は自らの王国の首都を、大王が築いたアレクサンドリアに定め、大王のエジプト支配の軍事拠点の一つに過ぎなかったこの街を、周到な都市計画に基づく壮麗な都に作り変えます。宮殿、神殿の類いはもちろん地中海に面した大規模な港湾、市民の暮らしに欠かせない市場(マーケット)学校、図書館、裁判所、病院、劇場や競技場などの娯楽施設も次々に建設され、アレクサンドリアは人口20万を超える地中海一の都に発展したのです。


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上がプトレマイオス1世によって拡大されたアレクサンドリアの様子です。古代からエジプトは、ナイル川流域の農地からもたらされる農産物に恵まれた豊かな国であり、さらに大規模に整備拡張されたこの街には、東西交易の中継地という絶好の地理的要件も相まって国内外から多くの商人たちが集まりました。先に述べたエジプトの農産物はもちろん、東洋と西洋の様々な品々が港や市場に集められ、それらを商い売り買いする多くの商人たちによって活発な商取引が行われました。この時代、すでに商取引は「お金」すなわち貨幣によってやり取りされており、うなるほど大量の金貨や銀貨が街の中を行き交います。プトレマイオス王朝は彼ら商人たちから関税と売り上げの割合に応じた税を徴収する事で莫大な富を得、それがエジプト王国の大きな財源となります。そして、その都アレクサンドリアは最盛期の紀元前200年頃には人口50万を越える大都市となり、あのローマが興隆するまで地中海世界最大の都として繁栄を謳歌し続けるのです。

さて、この様に優れた君主が華やかな都を建設し、大いに富み栄えたというだけなら、そうした例は他にもいくつもあります。しかし、プトレマイオス1世はアレクサンドリアをこれまでに築かれた他のどの都とも違う、文化と学問に秀でた学術都市にすべく、おそらく歴史上初めてといわれるある巨大な公共施設を建設します。それが「アレクサンドリアの図書館」です。


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上がアレクサンドリアの図書館内部の様子を描いたイラストです。歴史好きかつ読書好きな方であれば「アレクサンドリア」と聞いて思い浮かべるものの一つがこの図書館でしょう。但し、図書館といっても、この時代の書物は今日私たちが手にする本、すなわち「綴じ本」がまだ考案されておらず、エジプト原産のパピルスや羊皮紙に書かれた「巻物」でした。(その名残りとして、長編の本をいくつかに分ける際に「第何巻」とか呼びますね。ただ巻物では綴じ本の様にタイトルが一目で分からず、ジャンルごとに分かれた書棚にぎっしり詰まれた巻物を一つ一つ見ていかなくてはならないので、閲覧したい書物を探すのは厄介だったでしょうね。笑)

このアレクサンドリアの図書館は蔵書70万冊を誇り、文学、歴史、天文学、地理、数学、医学その他あらゆる分野の書物が集められ、一般市民にも無料で解放されました。そして多くの名だたる学者たちがアレクサンドリアに滞在して研究を重ねたのです。また印刷技術のなかったこの時代、図書館は貴重な書物のコピーに心血を注ぎ、多くの学生に書物の書写をさせて写本を作りました。これにより学生たちは書き写しながら書物を読み、書写の代金も図書館から支給された事から一石二鳥の良い「アルバイト」になりました。(笑)まさにアレクサンドリアの図書館は、当時それまでに人類が蓄積してきた古代世界最大の「知の宝庫」だったのです。

プトレマイオス1世は少年時代のアレクサンドロス大王の学友として共に育ちました。そして彼らの教育は、あのギリシャの大哲学者アリストテレスが行っていたのです。こうした事から、プトレマイオス1世が単なる軍人上がりの王ではなく、学問に深い興味と敬意を払う英邁な君主であった事がうかがえますね。

さらにプトレマイオス1世は、もう一つアレクサンドリアに歴史に名を残すものを建設しています。それが都アレクサンドリアの海の玄関口ファロス島に建てられた「ファロスの灯台」です。


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上がその「ファロスの灯台」のイラストです。この灯台は高さなんと134メートル、あのクフ王のピラミッドに次ぐ当時世界最高の高さの建造物でした。遠方からも分かるよう建材には白く輝く大理石が使われ、頂上部に大きな鏡を置き、昼間はこれに日光を反射させ、夜は大きなかがり火を反射させていたそうです。

それにしても、なぜプトレマイオス1世はこの様な巨大な灯台を作らせたのでしょうか? 実はこのアレクサンドリア周辺は見渡す限りの平野が続き、目印となる山などが何も無いのです。この都が大規模な港湾都市である事はすでに述べましたが、東西交易の中継地として多くの船を安全に入港させるには、遠方から一目で分かるこうしたランドマークタワーがどうしても必要でした。この灯台はプトレマイオス1世が建設を開始しましたが、結局彼の存命中に完成させる事は出来ず、完成したのはその子プトレマイオス2世の時代でした。(その後、このファロスの灯台はプトレマイオス王朝がローマに敗れて滅亡した後も、800年もの間アレクサンドリアのシンボルとしてその威容を誇っていましたが、796年の大地震で倒壊してしまいました。とても残念な事です。)

ともあれ古代エジプト王国は、3千年に及ぶその長い歴史の中で、最後の王朝(第32王朝にあたるそうです。)であるプトレマイオス朝時代が最も繁栄したといわれています。そしてその礎を築いたのが初代の王プトレマイオス1世であり、クレオパトラはその1世から数えて13代目にあたるプトレマイオス家最後の女王にして、同時にエジプト最後のファラオでもありました。

だいぶ話がテーマの「宮殿」から脱線してしまったので、この辺で本題の宮殿に話を戻したいのですが、その前にもう一つお話して置きたい事があります。実はこのプトレマイオス家という王家ですが、とてもユニークな、そして同時に現代の感覚からいえばとても「異常な」王家であるという事実です。

まず、前者のユニークな点ですが、この王家、恐らく歴史上最も「女王」の多い王家なのです。普通どこの国でも、王や皇帝などの君主は男性がまず即位します。女性が女王となるのは後継者の男性がいないか、幼少で後見の必要がある場合、王朝存続のためにいわばやむなく即位する「繋ぎ」としての役割が全てです。(わが国の君主にあらせられる天皇家でも、かつて推古帝や持統帝など8名の女帝が玉座におわしましたが、すべてそのケースです。それに、国家と王朝の創始者はその全てが男性であり、女性が初代の君主として国と王朝を創始した例は歴史上存在しません。まあ国を興すには強さが必要であり、強さとは武力すなわち軍事力ですから、女性に無理なのは当然ですが・・・。)

しかし、このプトレマイオス王朝では、クレオパトラも含めてなんと通算16人もの女王がいるのです。一体なぜなのでしょうか? 実はプトレマイオス家では、王が結婚して妃を迎えると「共同統治者」としてその王妃は自動的に「女王」になるのです。このシステムは初代プトレマイオス1世の代から始まり、彼の王妃ベレニケは「ベレニケ1世」としてプトレマイオス家最初の女王となっています。

これはやはり、女王の存在が基本的には王朝存続の繋ぎ役であるという点が大きな理由でしょう。先に述べた様に王朝というものは男性がまず継承します。その後継者が幼少の場合は母親、つまり王妃が後見人となって息子が立派な大人に成長するまで女王として国政を預かるのが最良の方法だからです。このシステムはその後もプトレマイオス王家の伝統として代々継承され、王朝が滅亡するまで受け継がれました。

次に後者の「異常な点」についてですが、このプトレマイオス家はなんと「近親婚」によって代々王位を継承していったというものです。それも半端な近親婚ではありません。何代にも亘って実の兄弟姉妹同士で結婚し、それで生まれた子が王位を継いでいるのです。しかし、こうした近親婚は古代エジプト歴代王朝では珍しくないもので、プトレマイオス王朝でもその習慣を踏襲したものと思われます。そもそもプトレマイオス家は、マケドニアすなわちギリシャ人の王家であり、純血のエジプト人ではないのですが、エジプトを統治して時を重ねるうちにすっかり土着化してしまったのでしょう。


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上はプトレマイオス朝エジプト王国最盛期の領域図です。

この様に非常に特異な王朝であったプトレマイオス朝エジプト王国でしたが、歴史に登場する多くの王朝の例を引き合いに出すまでも無く、その創始から200年を過ぎると衰退しはじめます。特に王位継承の際の王族間の争いが恒例となり、その都度内乱が頻発する様になります。

そうしている内に、地中海では新たな強国が急速に台頭していました。そう、イタリア半島に勃興した「ローマ」です。ローマは強大な軍事力で周辺国を次々に征服し、領土を拡大していきました。紀元前146年に最大のライバル国カルタゴを滅ぼし、西地中海を支配したローマはやがてその矛先を東地中海に向けます。そして紀元前50年代、地中海周辺はエジプトを除いてその全てがローマの領土になっていたのです。ローマがエジプトに侵攻して来るのは時間の問題です。クレオパトラが女王として即位したのはそんな時代でした。


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上がこの頃のローマの支配領域です。

ここからの彼女の物語は、とても当ブログではご紹介しきれないので割愛させていただきますが(汗)ユリウス・カエサルとの出会い、アントニウスとの運命的な恋、そして彼と共にエジプト存亡をかけて戦った紀元前30年のアクティウムの海戦の敗北などを経て、ローマによるエジプト併合はもはや避けられない状況になってしまいます。

勝利したローマの支配者オクタヴィアヌス率いるローマ艦隊はアレクサンドリアの港に入港、上陸したローマ軍は都アレクサンドリアを完全に占領し、今だ宮殿に立て篭もるクレオパトラに降伏を迫ります。

「命は取らぬ。速やかに降伏されよ。」

しかし、オクタヴィアヌスの降伏勧告を、クレオパトラは断固拒否しました。


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「わたくしはエジプトの女王。そのわたくしを捕えてローマに凱旋し、さらし者にするつもりね。そなたの好きにさせるものですか。」

そして彼女は栄光あるプトレマイオス王朝最後の女王としての誇りを抱き、自ら死を選ぶのです。

「ファロスの灯台はわたくしの命。わたくしはファロスの光となって海を照らし続けるでしょう。」

こうして紀元前30年8月、彼女は宮殿で自ら毒をあおり、命を絶ちました。そして彼女の死により、13代274年間続いたプトレマイオス王朝は滅亡したのです。

その後、彼女が住んだアレクサンドリアの宮殿は、8世紀に起きた大地震と津波により、ファロスの灯台とともに海に沈んでしまいます。


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上は現在のアレクサンドリア湾の様子です。クレオパトラの宮殿はアレクサンドリア市街ではなく、湾を埋め立てて造成した海の上に建てられていたのです。しかしそれらは全て先に述べた地震によって失われ、海の底に沈んでいます。(下の地図の緑の部分が沈んだ部分です。)

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上の一連の画像はアレクサンドリア湾内の海底に沈んだクレオパトラの宮殿の痕跡です。(ここで余談なのですが、「アレクサンドリアの海底遺跡」などと入力してインターネットで検索すると、海に沈んだファラオの像やスフィンクスの石像など多くの写真や引き揚げられた遺物が出てきます。しかし、これらはほとんどが「ヘラクレイオン」というプトレマイオス朝より以前の時代に海に沈んだエジプトの古代都市のもので、クレオパトラの宮殿とは全く違う別のものです。これは、この遺跡がアレクサンドリアに近い東のアブキール湾にあり、またこちらの方が遺跡の保存状態が良く、多くの遺物が沈んでいる事から、現在水中考古学者たちの目はこちらにばかり集中し、発掘が行われているのが原因の様です。)

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上は1963年製作の映画「クレオパトラ」で彼女を演じたエリザベス・テイラー(1932~2011)です。これまでクレオパトラを演じた女優で最もそのイメージにぴったりだといわれています。

みなさんもエジプトに旅行される機会があれば、ギザのピラミッドを見た後に、アレクサンドリアに立ち寄られてみてはいかがでしょうか? そして目の前に広がる青い地中海を眺めながら、女王クレオパトラに思いを寄せてみるのも良いと思います。もしかすると、夢の中で「絶世の美女」とお話出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

アレクサンドロス大王が恐れた宮殿 ・ ペルセポリス

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は古代オリエント世界を統一し、恐らく人類史上初めて世界帝国と呼ばれたペルシア帝国の都「ペルセポリス」をご紹介します。

このペルシア帝国とは、現在のイランを本国として、西はエジプト、トルコから東はパキスタンとインド国境に至る、今日ではいわゆる「中東」と呼ばれる地域のほぼ全域を支配した大帝国であり、かのローマ帝国より以前に人類社会に出現した最初の世界帝国と呼べる国家です。では、そのペルシア帝国はいつ、どの様な経緯を経て成立したのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。


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時は紀元前600年頃(今から2600年ほど前)古代オリエント地域は大きく四つの国に分かれていました。そしてその四つの国の中で最大の領土を支配していたのがメディア王国です。そのメディア王国の支配下にあった現在のイラン南部ペルシス(パールス地方とも呼ばれます。ペルシア帝国の名の由来です。)地方に「アンシャン」という小国がありました。

紀元前559年、このアンシャン王国で新しい王が即位しました。その名はキュロス2世といいます。彼には大きな野望がありました。それはオリエント全域を統一し、自らその全ての王になるというものです。そして彼は、その野望実現のために動き出します。


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上がそのキュロス2世の肖像です。(紀元前600頃~紀元前529)彼は先に述べたアンシャン王国7代国王にして、後にアケメネス朝ペルシア帝国の創始者となる強大な王です。

キュロス2世はまずその手始めとして、自らの根拠地アンシャンの宗主国であるメディア王国に対して反乱を起こします。当時、メディア王国の王はアステュアゲスという人でしたが、ここに、ちょっと理解しがたい事実があります。それはキュロス2世の母が、そのアステュアゲス王の娘であるという事です。つまり、キュロス2世にとってメディア王アステュアゲスは実の祖父なのです。

普通に考えれば、孫が祖父に反旗を翻すなどありえない事です。しかし、これにはある事情がありました。ある時、メディア王アステュアゲスは夢を見ます。それは彼の娘マンダネが産んだ息子によって自分が王位を奪われ、メディアが滅ぼされるという恐ろしい夢(というより「悪夢」ですね。)です。王は恐怖に駆られますが、とはいえマンダネは彼にとって可愛い娘です。そこで彼はマンダネをメディア貴族ではなく、都から遠く離れた属国アンシャンの王であったカンビュセス1世(?~紀元前559)にのもとへ嫁がせ、遠ざける事にしたのです。

やがて夫妻には男子が生まれます。それがキュロスです。夢が現実になる事を恐れたアステュアゲス王は、なんと側近のハルパゴス将軍を遣わして、生まれたばかりのキュロスを暗殺するよう命じます。しかし、この命令は赤子殺しの汚名をそそぐのを恐れたハルパゴスが、ある羊飼いにそれを託した事によって実行されませんでした。なぜならその羊飼いは、キュロスの身の上を不憫に思い、自分の死産した子を身代わりに差し出して密かにかくまったからです。

こうしてその羊飼いに育てられたキュロスは立派な若者に成長したのですが、やがて彼は自分の思いもよらぬ出生の秘密を知るのです。彼は思い悩み、そしてある決意を固めます。

「もし祖父が私の健在を知れば、必ず私を亡き者にしようと再び刺客を差し向けてくるだろう。このまま何もせずにいれば、いつか祖父に殺される。私が生きのびていくには、先手を打ってこちらから祖父に戦いを挑むしかない。」

そう、後に彼がメディア打倒の兵を挙げたのは、先に述べた全オリエント統一の野望など「建て前」で、本当は生き残るための必死の手段だったのです。

こうして彼はアンシャンの宮廷に戻ります。まだ赤子のころにハルパゴスにさらわれ、その後子宝に恵まれず、このままではアンシャンのアケメネス王家が絶えてしまうと諦めていたカンビュセス王夫妻は、長い間行方知れずだった王子が生きていた事に大いに喜び(親子というものは当然の事ながら遺伝により顔立ちが良く似るものです。彼の場合両親のどちらかに良く似ていたのでしょう。)キュロスは皇太子として次の王位継承者となるのです。

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そんな中の紀元前559年、父カンビュセス1世がこの世を去ります。アンシャン王国7代国王に即位したキュロス2世は、宿敵である祖父アステュアゲス王率いるメディア王国打倒のため、紀元前552年ついに挙兵します。

この時彼は、敵メディア王国軍内部にある「内通者」を得ていました。それは、なんとまだ赤子だったキュロスをさらっていったあのハルパゴス将軍です。しかし、なぜハルパゴスは王を裏切ってキュロスに内通したのでしょうか? 実はキュロスの挙兵によりその生存を知ったメディア王アステュアゲスは、キュロス暗殺を怠ったハルパゴスに怒り、彼の息子を捕えて残忍な方法で処刑し、側近と軍の要職から外して辺境守備隊司令に左遷してしまったのです。

もはや老齢のハルパゴス将軍は大事な一人息子を殺され、彼の家系は断絶するしかありませんでした。そう、それがアステュアゲス王の狙いだったのです。この仕打ちにハルパゴスは王に対して激しい憎悪を抱き、これが彼をキュロスに内通させる事につながりました。

メディア軍内部の実情を良く知るハルパゴスを味方に付けたキュロス2世は、アステュアゲスの差し向けた討伐軍を次々に破ります。その司令官であったハルパゴス率いる部隊もペルシア軍に合流、もはやメディア軍は総崩れとなって敗走を続け、やがて紀元前550年、メディアの首都エクバタナが陥落、そして今日の混乱を招いた張本人アステュアゲス王は捕虜となってキュロス2世の前に引き立てられるのです。

どちらかといえば、キュロスよりも彼を深く恨んでいたのはハルパゴス将軍でした。そこでキュロス2世はアステュアゲスの処置をハルパゴスに任せてしまいます。ハルパゴスは息子の恨みを晴らすべく散々彼を罵倒した後、一切食を与えずにアステュアゲスを飢え死にさせたそうです。(因果応報とはまさにこの事ですね。)アステュアゲスの死により、6代160年余り続いたメディア王国は滅亡します。

メディアを征服したキュロス2世は、その後も快進撃を続けて周辺国を次々に征服していきます。

紀元前547年 リディア王国征服。

紀元前540年 エラム王国征服。

紀元前539年 新バビロニア王国征服。

その進撃を支えたのも経験豊かな軍人でもあったハルパゴス将軍でした。(紆余曲折あったとはいえ、結果的にこの人物はキュロス2世にしてみれば生涯の大恩人といえるでしょうね。人の縁とはつくづく計り知れないものです。驚)


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上はキュロス2世が在位中に征服した領土と、新バビロニア王国を滅ぼしてその都バビロンに入城するキュロス2世のイラストです。この時点で彼のペルシア帝国はオリエントのほぼ全域を支配下に置いていました。

紀元前529年、空前の大帝国を築いた稀代の帝王キュロス2世は81歳で崩御します。しかし、この時点において、ペルシア帝国はまだ正式な都を定めていたわけではありませんでした。なぜなら帝国の創始者キュロス2世は生涯征服戦争に忙しく、都はその都度転々と変わっていたからです。

それは彼の後を継いでペルシア帝国2代帝王となった長男のカンビュセス2世(?~紀元前522)の時代になっても変わりませんでした。カンビュセス2世は父王の果たせなかったエジプト征服を実現させ、帝国の領土をさらに広げたのですが、その後実弟スメルディスを擁立して反乱を起こしたある人物によって死に追いやられてしまいます。

その人物とは、ペルシア帝国最辺境のバクトリア地方総督であったダレイオスでした。


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上がそのダレイオスです。(紀元前558~紀元前486)彼はアケメネス王家の分家の一族で、アケメネス家の当主としてやがて紀元前522年、ペルシア帝国3代帝王の座に付きます。

ダレイオスはとても慎重な人物でした。キュロス親子の様に力ずくで従わせるのではなく、帝国内の有力諸侯に根回しして彼らに推戴される形で帝王の座に着いたのです。(帝国内の有力者全員の合意を得ているのですから反乱の心配は要りませんね。)以後、彼はダレイオス1世と呼ばれます。

このダレイオス1世こそ、今回の宮殿ペルセポリスを造営した人物でした。彼は即位2年後の紀元前520年から、巨大帝国ペルシアにふさわしい新しい帝都の建設に着手します。


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上の一連の画像は現在のペルセポリスの遺跡の姿と、復元想像図です。これを見ても分かる通り、宮殿は複雑に建て増しされた複合構造となっています。宮殿の造営を始めたのはダレイオス1世の代からですが、帝国が最盛期を迎え、彼の後を継いだ王たちが必要に応じて新たな部分を増築したためです。(人口は周辺の遺跡を含めた規模から推定しておよそ5万程度だったと推定されています。また、この遺跡はイランでも最も人気のある観光スポットで、世界中から観光客が後を絶ちません。また、良く見ると遺跡はかなり手入れをされており、土台部分が復元されているのが分かります。画像2枚目の遺跡の中央に建物が見えますが、これは発掘調査により出土した出土品を展示する博物館です。)

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この宮殿で最も注目すべきなのは、上の一連の画像を見て分かる通りなんといってもその彫刻の素晴らしさです。王に謁見する諸国の使節が美しいレリーフに刻まれています。この地域の建物は紀元前の昔から、粘土を固めた「日干しレンガ」で造られ、長い年月の間に風化で崩れてしまう事が多いのですが、このペルセポリスの宮殿はその全てが花崗岩や大理石の様な頑丈で硬く、高価な石材がふんだんに使われていました。(このペルセポリスは1979年という比較的早い段階からユネスコの世界遺産に登録されています。その登録基準の第一が、やはりこれらの素晴らしい彫刻群であったのは言うまでもないでしょう。)

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上はペルセポリスの最も有名な「百柱の間」の現在の姿と、その復元想像図です。かつて宮殿の天井を支えていた高さ25メートルに達する巨大な柱は、元は上の様に色とりどりの極彩色で彩られていました。

このペルセポリスの宮殿が完成した頃、アケメネス朝ペルシア帝国はその繁栄の絶頂期を迎えていました。特に先の3代帝王ダレイオス1世と、4代帝王クセルクセス1世(紀元前519~紀元前465)親子の時代にはギリシャ征服を企て、海を越えて大軍を差し向けます。「ペルシア戦争」の幕開けです。


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上はペルシア帝国最盛期の領土です。

この戦争はダレイオス1世が起こし、その子クセルクセス1世が引き継いで続けたもので(つまり、親父が始めた戦争を息子が継いだのです。笑)紀元前499年から紀元前449年まで、なんと50年も続いたのですが、「海」という自然の防壁を武器にしたアテネ、スパルタを中心とするギリシャ連合軍の長期持久戦により、最強を誇ったペルシア帝国軍をその都度撃退、その損害の大きさにペルシア帝国はついにダレイオス1世の孫である5代帝王アルタクセルクセス1世(?~紀元前424)の時代にギリシャと講和条約を結び、ギリシャ征服を断念します。

それまで躍進と拡大を続けてきたペルシア帝国も、このギリシャ遠征に失敗した頃からその繁栄に陰りが見え始めてきました。特に、ペルシア戦争を終わらせた5代帝王アルタクセルクセス1世の死後、アケメネス王家では王位争いが恒例となり、それに乗じて帝国内の支配地域で反乱も頻発し、帝国はゆるやかに衰退の道を辿る様になります。

そうして時が過ぎた紀元前356年、ギリシャ北部のマケドニア王国で、一人の王子が誕生します。その名は「アレクサンドロス」そう、後のアレクサンドロス大王です。成長して父王フィリッポス2世の死後マケドニア王となった彼は弱冠20歳の若さで軍事の天才振りを発揮し、わずか1年余りでギリシャ全土を統一、紀元前334年には父王の遺志を継いで宿敵ペルシア打倒のため大遠征を開始します。


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上がアレクサンドロス大王の彫像です。彼についてはその後のヨーロッパや中東においても「偉大な大王」として人々の記憶と歴史に深く刻み込まれ、彼を模した彫刻は数多く存在するのですが、もちろん彼がどんな顔立ちをしていたのかなど誰も知る由もありません(笑)その中で、記録や古い文献から、最も彼の顔立ちに近いとされているものです。

当時、ペルシア帝国の頂点に君臨していたのは12代帝王ダレイオス3世という人でした。(紀元前380?~紀元前330)彼は帝国の存亡をかけて、アレクサンドロスを迎え撃ちます。しかし、アレクサンドロス大王の強さはダレイオス3世の想像をはるかに超えるものでした。(相手が悪かったですね。笑)ペルシア軍は陸海ともにアレクサンドロス軍に敗れ続け、ついに都ペルセポリスもアレクサンドロス大王軍によって占領されてしまうのです。


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上はローマ時代にあのポンペイの遺跡に描かれたアレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦いの様子を描いたモザイク画です。

ペルシア帝国の都ペルセポリスに入城したアレクサンドロス大王は、まずその宮殿の壮麗さに圧倒されます。戦においては天才であった彼もまだ20代で若く、国を統治する王としては経験が未熟でした。その彼が、自らが討ち滅ぼそうとしている帝国の宮殿を見て次に抱いたのが「恐れ」です。それは幾多の戦いに勝ち続け、「恐れ」などというものなど抱いた事がなかった彼が初めて経験するものでした。

かつてペルシアは、ギリシャ世界をその存亡の淵にまで追い詰め、そのためギリシャ世界においてペルシアは「野蛮で凶悪な悪の帝国」そのものでした。マケドニア出身のアレクサンドロスも、ペルシア戦争について子供の頃から嫌というほど聞かされ、当然の事ながらペルシアを邪悪な帝国と考え、それが彼にペルシア遠征を思い立たせる大きな要因であったのです。

しかし、遠征を開始してからペルシア領内を進撃中に、敵ペルシアに対する彼の見方は大きく変わっていました。特に数十の民族を束ねる巧みな統治システムと、ギリシャには無い独特の高度な文化、これぞ世界帝国というものを目の当たりにして来たからです。

それまでのアレクサンドロスはギリシャ文明こそ世界最高のものであり、そのギリシャが頂点として世界を支配すべきと考えていました。しかし、ペルシア遠征によってペルシアの真の姿を目にし、彼は自分が生まれ育ったギリシャ世界と比較してそのあまりの違いに愕然となったのです。その集大成がペルセポリスの大宮殿でした。

「世界の全てを治めるとはこういうものか。これに比べれば、わがギリシャのなんと狭くて小さい事か。」

そして彼は、ある大きな決意を固めるのです。それはこの壮麗なペルセポリスの宮殿を焼き払うというものです。では彼はなぜこのペルセポリスを焼き払う決意をしたのでしょうか? ごく普通に考えれば、そのまま残してその後の統治に活かそうと考えるはずです。

これについては、現代においても考古学者の間で意見が分かれています。しかし、多くの学者たちの間で一致したものとされているのが、このペルセポリスを焼き払う事で、ペルシア帝国の威光を完全に消し去り、そのペルシアに代わる新たな支配者としての自分を人々にあまねく見せ付けたかったのではないか。というものです。そのためには、この宮殿にはなんとしても消えてもらわなければならない。それほどまでに、このペルセポリスはアレクサンドロス大王を恐れさせたのです。

こうして紀元前331年、アレクサンドロス大王の命によりペルセポリスは炎上します。それは同時にアケメネス朝ペルシア帝国の終焉の炎でもありました。その翌年、ペルシア最後の王ダレイオス3世が家臣の裏切りによりバクトリアで暗殺され、キュロス2世以来12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡します。

帝国の滅亡後、この地域では数多くの国々が勃興しては消え去っていきました。そして、炎上から2300年に及ぶ長い間にペルセポリスは人々の記憶から忘れ去られ、歴史の表舞台に登場する事は二度とありませんでした。しかし現在、かつて世界の中心として栄え、人種も言葉も民族も違う多くの人々が集まった都は、今は同じく人種も言葉も民族も異なる世界中の人々が再び集まる一大観光スポットとなって蘇っています。

次回に続きます。

王妃への愛が生んだ空中庭園 ・ バビロン

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、エジプトと並ぶ人類最古の文明発祥の地である古代メソポタミアから「バビロン」をご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、この地域についてどの様なイメージをお持ちでしょうか? これは愚問だったかもしれませんが(笑)おそらく100%の方が「砂漠」と答えるでしょう。確かに、現在は気温50度にも達する猛烈な灼熱の砂漠地帯が広がっているのが事実です。しかし、古代メソポタミア文明が花開いた遠い昔、このあたりは今とは全く違う水と緑に溢れた豊かな土地だったのです。

それについてお話する上で欠かす事の出来ない大きな存在があります。それは古代メソポタミア文明を育んだ二つの大河、ティグリス川とユーフラテス川です。メソポタミアとは、ギリシャ語で「二つの川の間の土地」を意味しています。(この程度の事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いかもしれませんね。)


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上は今回の主役、バビロンを含むメソポタミアの主要地域です。

では、その二つの大河が生んだ古代メソポタミアの歴史は一体いつ頃から始まるのでしょうか? これについては現在までの発掘調査とその研究成果によって、このメソポタミアにおける最初の都市文明が興ったのは紀元前3500年頃(今から5500年ほど前)に、シュメール人が築いた都市国家ウルクに始まるとされています。

彼らシュメール人は、水路を作って人工的に川から水を農地に引き込む灌漑(かんがい)農業によって、食糧の安定供給を実現し、それが人口の増加と生活の安定につながり、やがて数十の都市国家群からなるメソポタミア文明が花開いた大きな理由でした。


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上の画像1枚目がユーフラテス川沿いの湿地帯を船で渡る現地の方々です。そう、これこそ数千年前の古代メソポタミアの原風景なのです。そして2枚目がティグリス川沿いで行われている灌漑農業の様子です。二つの川の上流から中流域では、この様に可能な範囲で川から水を引いて農地を潤しています。

この灌漑農業によって、古代メソポタミアは多くの作物が実る豊かな地になったのですが、その中で最も多く栽培されていた作物が「小麦」でした。人々の生きていく糧となるパンの原料として、小麦は欠かす事の出来ない一番大事な農産物だったからです。


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この小麦がこの地で多く栽培されたのにはもう一つ理由があります。実は意外に思われるかもしれませんが、小麦は乾燥した気候を好むのです。そのため、私たち日本人の主食である「米」の様に、収穫までの長い間多くの水がいらず、この地域の様に暑くて乾燥した地域でも、時折水を流してやる程度で十分育つのです。

この様に、かつては豊かな土地であった古代メソポタミアでは、シュメール以後もさまざまな民族、国家が興亡を繰り返していく事になります。今回お話するバビロンも、そうしてこの地に生まれた国家の一つ「バビロニア王国」の都として栄えた街でした。

古代メソポタミアでは、先に述べたシュメール人によって、すでに紀元前3500年頃には楔形文字が考案され、さまざまな記録に使用されていました。それはシュメール滅亡後も後継国家に受け継がれ、その記録によれば、バビロンは紀元前2300年頃には、地方都市として存在していた様です。それがメソポタミアの中心となるのは、紀元前1894年に成立したバビロニア王国(「バビロン第1王朝」または「古バビロニア王国」と呼ばれます。)の時代になってからです。

この古バビロニア王国は11代の王が君臨し、メソポタミアの主要地域を支配しておよそ300年続きましたが、前回お話したヒッタイト王国の侵攻によって紀元前1595年に滅亡してしまいます。しかし、バビロンの街そのものは、その後もメソポタミアの中心都市として揺らぐ事無く繁栄し続けるのです。


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上が当時のバビロンの繁栄ぶりを描いたイラストと、古い記録や発掘調査などから復元された全体像を上から見た図です。(人口は都市とその周辺を含めておよそ12~13万程度と推定されています。)このバビロンはユーフラテス川をまたぎ、縦2.5キロ、横3.5キロのほぼ長方形をしています。堅固な二重の城壁に囲まれ、さらにその外側にユーフラテス川の水を引き込んだ堀が都市を囲んでいます。街の真ん中をユーフラテス川が流れている事から、自然と上流、下流の両方を行き交う船の寄港地として、そしてそれによって運ばれてくる様々な物資をやりとりするために周辺から多くの人々が集まり、これがバビロンが栄えた大きな地理的要因でした。

このバビロンの「大人気ぶり」は、その支配者が交代しても変わる事はありませんでした。なぜなら古バビロニア王国が滅んだ後も、なんと9つの王朝がこの街を支配し、そのうち8つの王朝がここを都としたからです。(バビロンに都を置かなかったのは9つ目のアッシリア帝国でした。アッシリアはニネヴェという街を都とし、バビロンは帝国末期の100年余りを支配していましたが、経済文化の中心地としてのバビロンの地位は、アッシリア時代においても揺ぎ無いものでした。)

そのバビロンが、メソポタミア全域を支配する強力な統一国家の都として歴史に燦然と輝く日が再び巡ってきます。紀元前625年にアッシリア帝国のメソポタミア南部方面総督であったナボポラッサル将軍が、アッシリア王家の王位争いによる混乱に乗じて挙兵し、バビロンを占領して自らバビロニア王として即位したのです。彼が新たに興した王朝は「新バビロニア王国」と呼ばれ、バビロンはその都となります。


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上が新バビロニア王国を興したナボポラッサル王です。(?~紀元前605)これはいつもながら自分がネットで拾ったイラストで(汗)もちろん彼の肖像など残っていないのですが、王国の創始者として人々を従えさせる威厳と力強さに満ち溢れるたくましい人物だったのだろうと思います。(自分の勝手なイメージです。笑)

その後、ナボポラッサル王率いる新バビロニア王国は、領土拡大を狙ってメソポタミア北部へと侵攻を開始します。当時この地域には1400年以上に亘ってこの地を支配したアッシリア帝国がありましたが、度重なる王位争いと反乱によって帝国は大きく衰退していました。


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上がアッシリア帝国の最盛期の支配地域です。

しかし、かつてはメソポタミア全土を支配し、ヒッタイト滅亡後のアナトリアとエジプトまでも支配下に収めた強力な軍事力は今だ健在で、それゆえ堅実なナボポラッサル王はバビロニア単独での戦いを避け、東の隣国メディア王国と同盟を結び、さらに密かにアッシリア軍を率いる将軍たちでその待遇に不満を抱く者などに、味方になれば今よりも高い地位と莫大な報酬を約束して離反を促し(こういうのを「調略」と呼びます。)16年もの時間をかけて着実にアッシリアを追い詰めていきます。そしてついに紀元前609年、バビロニア・メディア連合軍はアッシリア帝国を滅亡させるのです。

こうしてメソポタミア北部をも手中に収めたナボポラッサル王は、さらにその先のシリア、パレスチナなどの地中海沿岸の領土も支配すべく軍を差し向けます。狙いは地中海沿岸部を支配する事で、東西の海洋交易路を確保する事です。しかし、その先には同じくこの地を狙うエジプト王国が待ち受けていました。バビロニアとエジプトはこの大きな利権を巡って戦争に突入しますが、勢いに乗るバビロニア軍はエジプト軍を破り、シリア、パレスチナはバビロニアの手に落ちます。新領土獲得にナボポラッサル王は大いに喜びますが、もはや老齢で体調を崩していた王は、紀元前605年に急病に倒れて亡くなってしまいます。その後を継いで2代国王となったのは、先王の長男ネブカドネザル2世という人でした。


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上がネブカドネザル2世(?~紀元前562年)の彫刻と、アッシリア滅亡後の国際情勢です。主に4つの大きな国に分かれていますね。そしてひときわ目立つのが最大の領域を支配するメディア王国の存在です。この国は上の図にもある通り、新バビロニアより90年ほど早く成立し、現在のトルコ東部からイラン、アフガニスタンに至る広大な地域を支配した巨大な王国でした。

新王ネブカドネザル2世は、すでに先王の後継者として老齢の父王に代わってバビロニア軍を指揮し、アッシリア打倒戦やシリア方面での戦いでも前線で戦っていた生粋の武人でした。シリア、パレスチナも平定したところで父王が亡くなると、その遺志を継いで即位、父が築いた王国の更なる拡大発展のために尽力します。

ところが、このバビロニアでの王位交代の隙を突き、エジプトが再びシリア、パレスチナ方面に介入してきたのです。その兵力はエジプト軍と旧アッシリア帝国の残党を合わせて総勢4万。これに対し、ネブカドネザル2世はシリア奪還のため直ちに軍を率いて出陣しますが、その兵力は敵の半数以下の1万8千でした。紀元前605年、両軍はシリア北部カルケミシュで激突します。これが「カルケミシュの戦い」です。

兵力は圧倒的にエジプト軍が優勢です。しかし、思わぬ誤算がエジプト軍に生じます。彼らはアッシリア軍の残党を加えた混成部隊であったため、指揮統率が思う様に取れず、うまく連携出来なかったのです。ネブカドネザル王はこの敵の混乱の隙を突いてエジプト軍に甚大な損害を与え、見事に大勝利を収めました。これにより、エジプト王国はシリア、パレスチナ方面への進出を断念し、その後二度とこの地域へ進出を企てる事はありませんでした。

こうして西の脅威を取り除いたネブカドネザル2世は、意気揚々とバビロンへ凱旋しますが、彼には一つの大きな悩みがありました。その悩みとは、いつの時代も時の権力者を振り回す存在。つまり「女性」の事です。

ネブカドネザル王はすでに結婚して妃がいました。お相手は隣国メディア王国の王女アミュティス姫です。といっても、互いに好き合って結婚したのではありません。これは彼らの父王たちが、先に述べたアッシリア打倒の軍事同盟を結ぶ際に、その「証」として行われた完全な政略結婚でした。両国の末長い関係維持のためには必要なものだったと思われますが、見た事も会った事もない相手と結婚させられる方はたまったものではありません。アミュティス姫は父王に抗います。

「父上。わたくしは絶対嫌でございます! 何ゆえあの様な地の果てにわたくしが行かねばならないのですか? わたくしはこのメディアの国を離れとうはございません。」

このメディア王国のあった現在のイラン一帯は、高原と山脈の多い地域です。メソポタミアよりはるかに緑に溢れ、とりわけ、雪を頂く3千メートル級の山々が連なる壮大なザグロス山脈を見て育った彼女には、見渡す限りの平野と川の周囲の農地以外は砂漠の続くメソポタミアでどんな暮らしが待ち受けているのか想像するのも身震いがしたのかもしれません。

当時、バビロニアの隣国メディア王国の王はキュアクサレス2世という人でした。彼は娘をなだめ、説得します。

「そなたにはすまぬが、これはもうバビロニア王との間ですでに決めた事なのだ。今さら取り消す事など出来ぬ。もしそんな事をすれば、わしの立場がないではないか。ここは父のため、わが国のためにどうかバビロニアに行ってくれ。頼む。」

結局父王の命には逆らえず、アミュティスはバビロニアに輿入れする事になります。キュアクサレス王は娘のために大勢の女官と信頼の置ける家臣たちをつけて彼女を送り出しました。一方のネブカドネザルの方は、アミュティスの心情について臣下からの報告で良く理解しており、彼女が退屈しないよう贅を凝らした宮殿を建設して出迎えます。

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「遠い所から良く参られた。これからはここがそなたの国だ。至らぬ事や欲しいものがあれば何でも私に言ってもらいたい。」

まだ皇太子であったネブカドネザルは妃にこう言ってやさしく迎えたのですが、先に述べた様に当時彼は父王の代理でシリア方面征服作戦の途中であり、その忙しさからバビロンに妻を残して長い遠征に出かけてしまいます。バビロンに一人残されたアミュティスは、次第に募る故郷への望郷の思いと寂しさから、すっかり塞ぎ込んでしまう様になってしまいました。

やがてアミュティスにとっては義理の父であるナボポラッサル王が崩御し、ネブカドネザルがバビロニア2代国王に即位しますが、王妃となったアミュティスはなかなか彼に心を開こうとはせず、王は困り果ててしまいます。

夫婦仲が悪いわけではないのです。アミュティスもメディア王家の王女として立派な教養と品格を備えた女性です。しかし、あまりにも違いすぎる環境の変化に、彼女は自分を合わせていくのが精一杯でした。


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「可哀相な事をしてしまった。何か良い方法はないものかな。」

ネブカドネザル王は悩みます。なぜなら王である彼は世継ぎをもうけなければなりません。そのために彼ならその権力で自分の好みの女などいくらでも手に入れられます。しかし、事はそんな単純なものではないのです。もし、彼が正妻であるアミュティスを疎んじ、側室らとの情事にばかり耽る様になれば、アミュティスの実家メディア王家が怒ってメディア王国との関係が悪化し、戦争になるかもしれません。

上の地図でお分かりの様に、メディアは当時オリエント最大の領土を支配する大国で、その軍事力も侮れない大きなものです。もし戦争になれば、メディア王キュアクサレス2世には「娘を取り返す」というバビロニア侵攻の絶好の口実があるのです。

そこで彼は、王妃のためにとんでもない事を思いつきます。


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「わが王宮をメディアの地と同じにせよ。木と草花を植え、水を通して池も作れ。宮殿を森と泉で埋め尽くすのだ。」

王は家臣たちにこう命じたのです。宮殿の改装工事は王の直接指揮のもとで行われ、出来るだけメディアの風景に近づけるよう配慮がなされました。こうして歴史上初めての屋上庭園を持つ宮殿が完成したのです。これを「バビロンの宮中庭園」と呼びます。


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上がバビロンの空中庭園の復元想像図です。宮殿を階段状にし、そのテラスに各地から取り寄せた樹木と季節の花々が植えられ、魚が泳ぐ泉はもちろん滝まで作られていたそうです。ポンプなどないこの時代に、どの様にして水を宮殿の屋上にくみ上げていたのか謎ですが、おそらく水車をいくつも組み合わせていたものと推定されています。(現在東京などの大都会でも「屋上緑化」されたビルが見受けられますが、2600年も大昔にすでに作られていたのには驚きですね。)

自分のためにここまで気を使ってくれた夫に対して、妻のアミュティスがなんと答えたのかは残念ながら記録がありません。しかし、確かなのは、その後ネブカドネザル王夫妻には無事に後継者の王子が誕生し、新バビロニア王国はネブカドネザル2世の40年以上の長い在位中に最盛期を迎えたという歴史的事実です。


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上は伝説の空中庭園があったとされるバビロンの王宮の現在の姿です。

しかし、その後新バビロニア王国は、ネブカドネザル2世の死からわずか26年後の紀元前536年、メディア王国の属国であった南の小国アンシャンから興ったアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされる事になってしまいます。そして空中庭園を含むバビロンの王宮はその戦乱の際にペルシア軍によって破壊され、オリエント最大の繁栄を謳歌したバビロンの栄光の日々も終わりを迎えます。

それから月日は流れ、この地の支配者も目まぐるしく移り変わる中、メソポタミアは前段で述べた灌漑農業の弊害ともいうべき「塩害」(農地に引き込んだ川の水が蒸発する際に、含まれていた塩分が土壌に噴出し、作物を駄目にしてしまうものです。)によってかつての肥沃な緑の大地は荒れ果てた砂漠へと変わり果ててしまいます。

かつて一人の王が、王妃への愛の証として建てた壮麗な宮殿は、今はイラクの砂漠の中にその土台部分だけがその遺構を留めるばかりです。今この宮殿の跡を包み込んでいるのは、時折吹きすさぶ暑い砂嵐だけです。

次回に続きます。
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