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ライチの甘い香りを愛した美女の宮殿 ・ 長安

みなさんこんにちは。

遅ればせながら、平成29年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、これまでヨーロッパや中東の宮殿にまつわる話ばかり書いてきたので、今回から趣を変えてアジアの方にも目を向けてきたいと思います。まずは中国歴代王朝の一つ、唐王朝の都である「長安」の宮殿についてのお話です。

この唐王朝とは、4千年といわれる中国の長い歴史の中で勃興した多くの王朝の順番で言えば第10王朝にあたり(あくまで時代ごとに「順番」で数えた場合です。有名な三国志の「魏・呉・蜀」など同じ時期に並立した王朝は一括りにして数えています。)その存続期間は西暦618年から907年までの289年間という長期に亘るものです。

自分が今回この唐王朝について書こうと思い立った理由は大きく二つあります。一つはなんといってもこの唐王朝が、わが日本の国家形成と、わが国固有の文化の発展に最も大きな影響を与えた最初の外国である事、そしてもう一つは、この唐王朝の時代が現代の中国において、彼らの間で中国の歴史上最も「良かった時代」と多くの人々が認識しているという点に興味を抱いた事です。

それでは、この唐王朝がどの様にして成立し、中国本土はおろか東アジアに君臨する大帝国として拡大発展していったのか、まずはそのあたりから始めて行きたいと思います。

時は西暦618年、それまで中国を支配していた隋(ずい)王朝は終焉を迎えようとしていました。この隋とは、唐の前の王朝ですが、二代皇帝煬帝(「ようだい」 569~618 本来は「ようてい」のはずですが、日本ではなぜか古くから「ようだい」と呼ばれています。)の失政と圧政により各地で反乱が勃発、ついに煬帝本人が暗殺されてしまったからです。

この混乱に乗じて兵を挙げたのが煬帝の従兄弟にあたる李淵(り えん)将軍です。彼は素早く軍を動かして隋の都長安を占領すると、煬帝の孫でまだ13歳の少年だった恭帝(きょうてい)を隋の3代皇帝として擁立、さらにその恭帝から禅譲(「ぜんじょう」と読みます。これは血縁ではない他者に「位を譲る」という事です。)されるという形で自ら皇帝に即位し、ここにおよそ300年続く強大な唐王朝が誕生するのです。


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上が唐王朝の創始者である李淵です。(566~635)彼は即位して大唐帝国初代皇帝「高祖」となり、都を隋から引き続き長安に定めました。

中国を統一した唐王朝はやがて更なる勢力拡大を図り、強大な軍事力で周辺諸国へ侵略の手を伸ばします。


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上が大唐帝国の最大領域です。北はモンゴルから南はベトナム北部、そして西は中央アジアの内陸国家群を従え、イスラム最初の王朝であるウマイヤ朝イスラム帝国と国境を接し、そして東は朝鮮半島南部にまでその勢力が及んでいます。この唐の進撃を阻む目的で、まだ「倭国」と呼ばれていた当時のわが国が、朝鮮半島南部の友邦国百済(くだら)とともに唐・新羅の連合軍と戦ったのが、白村江(はくそんこう)の戦い(663年)と呼ばれるものです。(これはわが国最初の外征戦争だったわけですが、唐軍13万、新羅軍5万の連合軍に対して、わが倭軍は4万2千、百済の残党軍5千を合わせても4万7千で、4倍近い大軍に無謀な戦いを仕掛け、戦死1万以上という見るも無残な大敗を喫してしまいます。)

この敗北により、当時の日本は外交政策を転換し、唐の皇帝に対して貢物を捧げる外交使節団を派遣する様になります。みなさんもご存知の「遣唐使」ですね。

さて、強大な軍事力で周辺諸国をことごとく撃ち従えていった大唐帝国は、建国から50年を過ぎた西暦670年代にその領土は最大規模に膨れ上がります。(上の図を参照。)そして8世紀に入り、帝国の頂点に君臨したのが第9代皇帝玄宗(げんそう)です。


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上が大唐帝国第9代皇帝玄宗です。(685~762)彼は伯父に当たる7代皇帝中宗(ちゅうそう)を毒殺し、自ら女帝となって唐の全権を握ろうと目論むその皇后に対し、先手を打ってクーデターを起こし、皇后一派を粛清して父の睿宗 (えいそう)を8代皇帝に擁立、さらに712年に父から譲位されて27歳で9代皇帝となったというなかなかしたたかな人物です。(笑)

この玄宗皇帝の統治した8世紀前半は、唐王朝がその繁栄の絶頂期を迎えた時代でした。この頃の玄宗皇帝は若かったゆえか、より良い君主たらんと国政に情熱を傾け、それを支える官僚機構の充実を図ります。帝国の都長安には国内外から多くの人や物が集まり、その人口は彼の時代に100万を超え、長安は世界最大の都市にまで発展しました。


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上が唐の都長安の想像図と市域の範囲です。二枚目の画像をご覧頂くと、上の方にもう一つの「長安」がありますが、この街はそもそも漢の時代(紀元前206~紀元205)に造られ、その後の歴代王朝が都を置いたもので、それを表したものです。隋、唐の時代に少し南に移してさらに大規模に市街地の拡大が図られ、その大きさは南北8.6キロ、東西9.7キロに及ぶ巨大都市に変貌しました。(長安の郊外に「秦阿房宮」とありますね。これはあの始皇帝が築いた有名な阿房宮の跡地です。意外な接点があるんですね。驚)

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上はかつての長安の宮殿と都を極めて精巧な模型で復元した中国のテーマパークの様子です。

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上は人々の活気にあふれる長安の街の様子を中国の画家の方が描いた絵です。(個人的で恐縮ですが、自分はこちらの方が好きですね。想像するだけで楽しくなります。笑)唐人だけでなく、シルクロードを通じてはるばるやって来た中央アジアの商人たちが、苦労して運んで来た様々な珍しい貴重な異国の品々を唐の人々に売りさばいています。街には異国の言葉が飛び交い、たくさんの物にあふれ、東洋と西洋が混然一体となって交じり合う国際都市長安の様子が生き生きと描かれています。この唐の時代、かつての中国はまぎれもなく世界に冠たる超大国であり、わが国はもちろん周辺国が恐れ敬う高度な先進文明国でした。(今は目も当てられない野蛮国に成り下がりましたが・・・呆)

しかし、以前にお話したローマ帝国のハドリアヌス皇帝の例を挙げるまでもなく、歴史を見れば国家の最盛期というものは衰退の始まりでもあります。それはこの大唐帝国においても同じでした。そしてこの唐王朝の場合、発端はその頂点に君臨していた人物、すなわち当時の皇帝玄宗自身が招いてしまうのです。

先に述べた様に、玄宗皇帝は青年時代の若い頃は熱心に国政の充実に努め、特に官僚機構を整備して中央から地方までつつがなく命令や指示が伝達実行される態勢を整えました。その結果、唐は国内外で大きな争いもなくなり、経済、文化が大いに発展して繁栄の絶頂を謳歌するのですが、40代の中年期に達すると、皇帝は次第に国政に関心を無くしてしまう様になります。

なぜ玄宗皇帝は政治に関心を無くしてしまったのでしょうか? 実はこれは彼自身が整備した官僚機構がうまく機能した事による皮肉な結果でした。これまで皇帝が取り決めていた政治の細かい事柄も専門部署の有能な官僚たちが行い、皇帝自身が自らトップダウンで事を決済する件が少なくなったため、つまり簡単に言えば、全て官僚たちがやってくれるので、皇帝は彼らの差し出す書類(もちろんすでに決定事項で皇帝が許可すると分かっているものばかりです。皇帝が許可しないと分かっている様なものをわざわざ差し出すはずがありません。笑)に判を押せば済む様になったからです。

もはや唐王朝の体制は磐石、国内外はさしたる争いもなく平和が続き、人民も大いにその恩恵を享受していました。暇を持て余した玄宗皇帝はやがて「禁断の世界」に足繁く通う様になります。その禁断の世界とは、後宮(こうきゅう)すなわち美女たちの園「ハレム」です。

歴史上の人物の多くがそうである様に、この玄宗皇帝も大変な「女好き」でした。記録にあるだけで生涯に30人の美女たちを「皇妃」とし、それらの皇妃たちに産ませた子は、記録ではなんと23男29女合わせて52人という大変な子だくさんだったそうです。(ただし、これは玄宗皇帝だけではありません。前段で述べた彼の祖先である唐王朝の創始者高祖以来、唐の歴代皇帝は多くの皇妃との間に数十人の子を成す多産一族でした。)

その多くの皇妃たちの中で、彼が最も寵愛したのが楊貴妃(ようきひ)です。


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上は楊貴妃(719~756)と戯れる玄宗皇帝の姿です。この楊貴妃は本名を楊玉環(よう ぎょくかん 「貴妃」は皇妃としての尊称です。)といい、地方官僚の娘でしたが、735年に16歳で玄宗皇帝の第18皇子の妃として唐の宮廷に入ります。しかし、その美しさに一目惚れした玄宗皇帝は息子に他の美女を与えて離婚させ、自らの皇妃にしてしまうのです。この時彼は50歳で、二人の間には親子ほども年の差がありました。

彼女の魅力は美しさや豊満な肉体だけでなく、立派な教養と品格を備え、さらには音楽と舞踊にも多大な才能を持ち合わせていました。皇帝はすっかり彼女の虜になり、彼女の元に入り浸るようになるのです。その寵愛振りは目に余るほどであったようで、楊貴妃の喜ぶ顔が見たいからと、およそ女性が欲しがるあらゆるものを何でも与え、片時もそばから離そうとはしませんでした。といっても、それは彼女の心をつかみたいという皇帝の一方的な熱愛から発したものであり、楊貴妃個人はとても謙虚な性格で、彼女自身が皇帝の寵愛を良い事に贅沢三昧にふけったりしたわけではありません。

しかし、そんな彼女にも一つだけ大の「お気に入りの品」がありました。それは当時中国の最南端でしか取れない貴重な果物であった「ライチ」です。

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上が楊貴妃の大好物だったライチの実です。日本でも、近年良く耳にするようになった果実の一種ですね。といっても、自分の知る限りでは、実をそのまま食べたりするという事はほとんど無く、主にその果汁が清涼飲料やガムなどに利用されているのではないかと思います。もともとこの果物は「レイシ」というのが正式名称で、それが19世紀に中国にやって来た英国人の手で、発音の聞き違いから「ライチ」として世界に広められ、今日では台湾、東南アジア、ベトナムなどの亜熱帯気候の地域で栽培され、日本でも沖縄などで栽培されているそうです。

玄宗皇帝は楊貴妃を喜ばせようともぎたてのライチを大量に集めさせ、早馬で長安に運ばせて楊貴妃の住む宮殿の一画をライチの実で一杯に満たしたそうです。この皇帝の楊貴妃の溺愛ぶりに、当時の唐の官僚の残した記録には、嘆くようにこう記されています。

「陛下は今日も楊貴妃と夜を共に過ごされ、起きて来られたのは昼近く、以前の宮廷は陛下のお出ましで朝の御前会議が開かれていたのに、今ではそれもなくなってしまった。かつて一心に国と民を思われ、政務に勤しんでおられた昔の陛下はどこに行ってしまわれたのか。」

こうした皇帝の堕落の隙を付いて、大唐帝国ではある二人の人物が急速に大きな力を持つようになります。一人は宰相として政治を取り仕切る楊国忠(よう こくちゅう)大臣、そしてもう一人は大唐帝国の西域方面総督であった安禄山(あん ろくざん)将軍です。


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上が大唐帝国宰相として唐の国政を握っていた楊国忠です。(?~756)彼はその名字の通り、楊貴妃の実家楊一族の出身で、彼が宰相に出世したのは楊貴妃のおかげだと長く語り継がれて来ましたが、実際にはそれだけでなく、彼自身が財政と経理に巧みな手腕を発揮し、それを買われて玄宗皇帝の元で昇進を重ねていった面が大きいようです。しかし、彼はそうした長所の反面で、自らの立身出世のためにライバルたちを陥れて次々と失脚させ、多くの人々から憎まれていました。

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そして上が大唐帝国の西部一帯を勢力下に置いていた安禄山将軍です。(705~757)彼はもともと唐人ではなく、ウイグル系で、当時西域(さいいき)と呼ばれていた中央アジア方面における総督として数々の武功を立て、肖像画にも描かれているように「猛将」の言葉が似合う武人でした。当然官僚のトップである宰相の楊国忠とは気が合いそうもありませんね。(笑)

唐節度使

上はこの頃の唐の勢力範囲です。都長安を中心とする唐本国と、安禄山が事実上の支配者である西域との間は、北は遊牧騎馬民族国家ウイグル(744~840)南はチベットを中心にヒマラヤ山脈を牙城とする山岳民族国家「吐蕃」(とばん 612~842)の二大勢力の台頭により、図の様に細長い回廊によってつながっていました。

この安禄山が総督を務めていた西域一帯は、シルクロードの東西交易の中心地であり、莫大な富が大唐帝国へともたらされていたわけですが、それに大きな危機感を抱いていたのが楊国忠宰相です。彼は玄宗皇帝が楊貴妃との情事にうつつを抜かしているのを良い事に国政を思いのままに動かし、政敵を次々に失脚させていった策士ですが、都を遠く離れた西域の任地にいる安禄山まではその影響力が及びませんでした。

もともと安禄山は、シルクロードの東西交易で頭角を現した人物で、玄宗皇帝からの信任も厚く、皇帝から「西域方面軍」として10万以上の大軍を任されていました。固有の武力を持たない楊国忠宰相にとっては最大の脅威です。そこで彼は、得意の策略をめぐらして安禄山に謀反の疑いをかけ、皇帝にそれを信じ込ませてしまうのです。楊宰相は安禄山が都に来た時を狙い、皇帝への謁見のために彼が宮殿で一人になった隙に衛兵部隊を使って彼を謀反の疑いで逮捕するつもりでいました。

一方、都長安において自分が「謀反人」とされている事をいち早く知った安禄山将軍の行動は素早いものでした。なんと彼は、生き残りのためにそのまま本当に「謀反人」となって唐王朝に対して反乱を起こすのです。時に西暦755年、これを「安禄山の乱」といいます。

すでに大唐帝国は、建国から130年以上の時が経過していました。その間戦いといえば、遠く離れた周辺国との国境における局地的な防衛戦がほとんどであり、国内でこの様な内乱が起こるのは始めての事でした。平和な時代が長く続いたため、唐の正規軍は実戦経験がなく、西域で遊牧騎馬民族との戦いに慣れていた安碌山の軍勢に全く歯が立ちませんでした。勢いに乗る安禄山軍は15万の大軍に膨れ上がり、怒涛の勢いで都長安に迫ります。

恐怖に駆られた玄宗皇帝は、長安を脱出して地方に宮廷を移す事になります。しかし、ここで彼に思わぬ試練が待ち受けます。今度は自らを護衛する護衛部隊が反乱を起こしたのです。彼らは皇帝を奉じ、楊国忠宰相を、

「皇帝陛下に要らざる諌言をして、この反乱を招いた張本人」

として捕え、殺害してしまいます。しかし、玄宗皇帝にとってもっとショックだったのは反乱軍の次の要求です。

「皇帝陛下をたぶらかすあの女も同罪だ。恐れながら陛下におかれては楊貴妃を我らに引き渡していただく。」

兵たちの要求に皇帝は凍りつきます。なぜなら彼らに楊貴妃を引き渡せば彼女がどうなるか、火を見るよりも明らかであったからです。彼はこの時、心から愛する者を奪い取られる恐怖と屈辱、そして何より例えようもない悲しみに、生まれて初めて「死の苦しみ」を味わう事になったのです。

一方、反乱軍が自分の処刑を要求している事を知った楊貴妃は、皇帝の苦しみを察し、こう言って皇帝を慰めました。

「わたくしは宮廷に上がりましてから、陛下に命を捧げた者でございます。どこの誰とも知れぬ兵たちに命を奪われるならば、どうか陛下の御手でわたくしの命を召し上げてくださいまし。」

状況は切迫していました。すでに都長安は安禄山率いる反乱軍によって占領され、彼は「燕」(えん)という新国家を樹立して自ら「皇帝」を名乗っていました。このままでは唐王朝は滅びてしまうかも知れません。玄宗皇帝が一旦地方で態勢を立て直し、都長安を奪い返すためには、その主力として皇帝の護衛軍がなんとしても必要なのです。そこで彼は側近に命じ、泣く泣く愛する楊貴妃を絞殺させました。(この時の皇帝の心情は想像を絶しますね。涙)

愛する楊貴妃の命を取らざるを得なかった玄宗皇帝はもはや抜け殻も同然でした。彼は失意の内に帝位を皇太子の粛宗(しゅくそう 711~762)に譲り、粛宗は唐王朝の第10代皇帝として安禄山との戦いに臨みます。

この安碌山の乱は755年から763年までおよそ8年もの間続きました。その間粛宗率いる新体制の唐王朝は、戦略の転換を図ります。粛宗皇帝は北のウイグル帝国と同盟し、強力なウイグルの騎馬戦力を味方に付けて長安を支配する安禄山を挟み撃ちにしたのです。唐王朝の巻き返しが始まりました。唐・ウイグル連合軍は総勢15万に達し、各地で安禄山の燕軍を撃破、長安に迫ります。

戦局が不利になると、反乱の首謀者の凋落は早いものです。敗戦続きで自暴自棄になった安禄山は次々に味方に見限られ、最後は皇太子の手によって暗殺されてしまいます。その後、安禄山が建てた燕王朝はほどなく崩壊し、唐王朝は長安を奪い返す事が出来たのです。

こうして再び中国の支配者として返り咲いた唐王朝ですが、この反乱によって唐の国力は著しく疲弊してしまいました。特に反乱鎮圧の兵力確保のため、各地の有力者に特権と帝国の重臣の地位を乱発した事から、帝国内は地方諸侯が割拠する状態となり、その後の唐王朝の皇帝たちは、さながらわが国の室町時代における足利将軍家の様に、これらの諸侯との妥協と対立を繰り返しつつ徐々に衰退していき、やがて反乱から150年を経た907年、ついに病み衰えて滅亡する事になります。


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上の一連の画像は、かつての長安の都があった現在の西安の街の様子です。(人口およそ850万 ただし、中国の統計は当てになりませんが・・・呆)画像にある城壁は、唐の時代より500年を経た西暦1300年代に中国を統一した明王朝(1368~1644)の時代に造られたものです。この長安は、唐が滅亡してからは一地方都市に成り下がり、二度とこの街に都が置かれる事はありませんでした。

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かつて栄華を誇った世界帝国唐王朝の宮殿は、その後の長い戦乱で失われ、今は宮殿の礎石のみが、訪れる観光客の足元に広がるばかりです。しかし、はるか遠い昔、ここにはライチの甘い香りを漂わせた絶世の美女が、美しい舞いや音楽を奏でていたのです。

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それから1200年余りの時が流れ、街の様子も時代によって大きく様変わりしていきました。それでも今も昔も変わらないのは、人々の間で語り継がれる絶世の美女の物語と、活気にあふれる人々の生きる姿です。

次回に続きます。
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文明の十字路に築かれた十字架の宮殿 ・ コンスタンティノープル

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、ヨーロッパとアジアの間のちょうど中間地点に位置し、千年の繁栄に輝いたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの大宮殿をご紹介したいと思います。

歴史好きな方であればもはや説明は不要ではありますが、このコンスタンティノープルとは、現在はトルコのイスタンブールとしてその名を知られ、イスラムの覇者オスマン帝国の都が置かれた街ですが、それはこのオスマン帝国が勃興した15世紀以降の事。それ以前は、そのオスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国の都でした。

このビザンツ帝国は西暦395年に成立し、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでのおよそ1058年間に亘って地中海世界に君臨し続けた国家ですが、この帝国にはもう一つの名があります。それは「東ローマ帝国」そう、あの古代ローマ帝国の東半分がそのまま独立したものなのです。

しかし、なぜローマ帝国の東半分なのでしょうか? 西は? そしてなぜ東西に分かれているのでしょうか? 今回はそうした単純な疑問から話を始めて行きたいと思います。

そもそもこの街は、ローマ時代以前にはギリシャ語で「ビュザンティオン」(ローマ帝国の公用語であったラテン語では「ビザンティウム」)と呼ばれていました。その起源は古く、紀元前660年代に古代ギリシャの都市国家の一つであったメガラがこの地に植民都市として築き、その時のメガラの王であった「ビュザンタス」にちなんで名付けられたのがその由来といわれています。やがて街の名そのものは後述する様に「コンスタンティノープル」(これは英語読みで、先のラテン語では「コンスタンティノポリス」)となり、その古名であるビュザンティオンが帝国の名「ビザンツ」となります。(人名だったのですね。)

この街がヨーロッパとアジアの境に位置し、東西交易の中心地であった事はすでに述べましたが、とはいえ最初から大都市であったわけではなく、ローマ時代には人口2~3万程度のごくありふれた地方都市に過ぎませんでした。

そんなこの街を、歴史の表舞台に登場させたある人物がいます。 その名はコンスタンティヌス1世。 ローマ帝国の皇帝の一人です。


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上がそのコンスタンティヌス1世の銅像です。(272~337)彼についてはローマ皇帝として初めてキリスト教を帝国の国教として公認した人物であるという事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ちなみに上の銅像は、彼が「ローマ皇帝」として配下のローマ軍団から歓呼を受けた言わば「旗揚げの地」である事を記念し、1998年にイギリスのヨーク大聖堂の横に建てられたものです。

抜き身の剣を地に衝いて玉座に座る姿が凛々しいですね。これぞ「ローマ皇帝」という威厳と力強さに満ち溢れています。しかし、これはあくまで現代の彫刻家がイメージしたもの。実は彼の彫刻には古代から伝わるもう一つの有名なものがあります。それが下に載せたもので、歴史好きな方ならば眼にした方もいると思います。


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上はローマのカピトリーノ美術館に展示されているコンスタンティヌス1世の像です。やたら目が大きいですね。(笑)これはおそらく皇帝本人が目を強調する様に命じて作らせたからだと思われます。しかしこの像、大きいのは目だけではありません。実はこの像そのものがとてつもなく大きいのです。それがこれです。

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ばーん! 下にいる女性の方と比べて見てください。こんな大きな自分の像を作らせたからには、この皇帝陛下は夢の大きなかなりキャラクターの濃い人物だったのでしょう。(笑)

さて、話を戻しますが、このコンスタンティヌスが生きた時代、ローマ帝国は末期に差し掛かっていました。この頃、帝国は50年続いた内乱の時代が収束し、テトラルキアと呼ばれる四分割体制で運営されていました。これはまず帝国を東西に分け、さらにその東西で「正帝」と「副帝」を置き、その4人の皇帝によってそれぞれの担当地域を分割統治するというとてもユニークなシステムです。

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上がそのテトラルキア体制下における西暦300年前後のローマ帝国の地図です。コンスタンティヌスはローマ軍の将軍コンスタンティウス・クロルスの家に生まれ、その父が上のテトラルキアにおける西ローマの正帝に就任した事が、彼が歴史にその名を残すきっかけになりました。

コンスタンティヌスの父クロルス正帝の担当は、上の地図では今のイギリスとフランスに当たる地域でしたが、やがてその父が306年に亡くなると、彼の配下のローマ軍団は後継者として息子であるコンスタンティヌスを擁立、その支持を受けて、彼は先に述べたブリタニアのヨークで4人の皇帝の一人となるのです。24歳の若き皇帝の誕生です。

このテトラルキアというのは、先に述べた50年に及ぶ内乱によって、ローマ軍の将軍たちが勝手に皇帝を自称して相争う「軍人皇帝」の時代が長く続いた事や、広大な帝国を一人の皇帝が統治するのは無理だという考えから、内乱を終わらせた優れた皇帝であったディオクレティアヌス帝(244~311)が導入したものでしたが、それが機能出来たのは彼が亡くなるまでの20年程度の間でした。


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上がそのディオクレティアヌス帝です。(244~311)彼は一兵士から身を興してローマ皇帝に登り詰めたという「秀吉」の様な人物で(笑)コンスタンティヌスからすれば、尊敬すべき大先輩の皇帝です。実際、後に皇帝となった彼はディオクレティアヌスの政策や統治を多くの部分で踏襲しています。

もともとこの体制は、ディオクレティアヌス帝という強大な皇帝がいたからこそ維持出来たに過ぎず、その彼が311年に崩御すると、他の皇帝たちはたちまち熾烈な権力争いを始めます。(当然ですね。言わば彼らはディオクレティアヌス帝によって「首根っこ」を掴まれておとなしくしていただけなのですから。笑)

コンスタンティヌスも、その4人の皇帝たちの一人であり、彼らは全ローマ帝国の唯一の皇帝の座を巡って時には同盟し、騙し合い、知略の限りを尽くして生き残りのために必死で戦うのです。そして4人の皇帝たちの13年に及ぶ「トーナメント」で勝利したのがコンスタンティヌスでした。時に西暦324年、コンスタンティヌス42歳の時でした。

しかし、全ローマ帝国の唯一の皇帝となったとはいえ、彼にはまだ倒さなくてはならない多くの敵がいました。それは帝国の外側にいるゲルマン民族を始めとする異民族です。コンスタンティヌスは、帝国の内乱に乗じて盛んに国境への侵入を繰り返すこれら異民族との戦いに悩まされ、その結果、ある一つの考えに帰結します。

「今までの様に都をローマに置いていたのでは、いずれ蛮族どもに蹂躙されてしまうだろう。そもそもわが帝国の都がローマでなくてはいけないといつ、誰が決めたというのだ? たまたま帝国発祥の地がローマであったというだけではないか。私が目指すのはこれまでとは違う全く新しい帝国なのだ。その新しい帝国を作るためには、忌まわしい過去の全ての古いものを捨て去らなければならぬ。」

そして彼は、歴代皇帝はおろか、あのユリウス・カエサルですら考えもしなかった驚くべき事を実行に移すのです。

「これよりわが帝国は都をビザンティウムに移す。そして古きものをかなぐり捨て、再び帝国にかつての光を甦らせるのだ。」

こうして西暦330年、皇帝コンスタンティヌスはローマ史上初めての「遷都」を行いました。彼は新たな都の名を「ノウァ・ローマ」と名付け、宮廷はもちろん政治、行政、軍事など全ての組織をビザンティウムに移し、それにともない大勢の人々が皇帝に従って移動したのです。

コンスタンティヌスにはさらにもう一つの大きな計画がありました。それはローマ帝国をキリスト教の帝国に作り変えるという事です。実は、ローマ帝国というのはそれまで「多神教」の帝国でした。人種も文化も宗教も全く違う多くの人々を一つに束ねるには、それぞれの民族が持つそうした多様性を認めて尊重する事が、帝国の円滑な統治を行う上で欠かせなかったからです。

こうした多くの「神々」は、異形の姿をした抽象的なものばかりでしたが、人々はとにかく「何でも良いから」拝み、祈る対象としてそうしたものを信仰していたのです。しかし、帝国の誕生から300年を越え、ほぼ同じ頃にイエス・キリストなる人物によって成立したキリスト教は、この頃にはすでに帝国の隅々にまで広がっていました。博愛をその基本理念とし、キリスト自身を「唯一の神」として具現化したキリスト教は、人々に分かりやすく、受け入れられやすかったからです。

さらに、キリストの教えが「聖書」としてまとめられ、人々に人間としてあるべき「モラル」が示されている事も、キリスト教の大きな力でした。伝説によれば、コンスタンティヌスは他の皇帝たちとの最初の戦いに望もうとしていた312年に、軍勢を率いて野営していた地で、空の彼方に大きな「十字架」が現れ、そしてこんな「神の声」を聞きました。

「汝、これにて勝て。」

彼はそれを神のお告げと信じ、自らキリスト教徒となって率いる軍勢に「十字架」の紋章を描いた軍旗を持たせて戦い、勝利したといわれています。もちろんこれは「フィクション」であり、実際には彼は神など信じてはいませんでした。なぜならこの地上において、神とは皇帝である自分自身であるべきだからです。

しかし、彼には人々に自分が支配者である事を示す大きな「権威」が必要でした。そこで彼は、皇帝である自分が神によって選ばれた特別な存在であり、神から地上を支配する権限を与えられた皇帝こそが「神の代理人」なのだという概念を考え出します。上の伝説は、そうしてコンスタンティヌスが広めさせた打算的な創作でした。そして、聖書に書かれたキリストの教えを帝国の統治に利用しようと考えたのです


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上は神に新たな都を捧げるコンスタンティヌス1世のモザイク画です。

さて、皇帝の遷都令によって新たな帝都となったビザンティウムでは、帝国の中心としてふさわしい街にすべく一大建設工事が急ピッチで進められていました。人口の急増に伴い市街地は大きく拡張され、建設ラッシュによって多くの人、物、金が集まり、街は大変な活気に満ち溢れます。そして各地から集まってきた人々が、みな一様に驚嘆したのが皇帝の新宮殿の巨大さと壮麗さです。


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上の一連の画像はローマ帝国の新たな都となったビザンティウムの姿です。皇帝の宮殿は数多くの建物が複雑に入り組んだ迷路の様な複合構造となっています。ひときわ目を引くのが、中央の「闘技場」です。ここではローマ人が馬に引かせる戦車競技に熱狂しました。良く見ると、都には一般の港とは別に宮殿専用の港が設けられていますね。今にもガレー船が入港しようとしています。宮殿に納める「帝室御用達」の物資を積んでいるのでしょう。人口は遷都した直後においては10万に満たないものでしたが、やがてビザンツ帝国の最盛期となる10世紀には40万を越え、エジプトのアレクサンドリアとならぶ国際的な大都市へと発展します。

コンスタンティヌス1世は、都を「ノウァ・ローマ」と名付けましたが、その名で呼ばれる事はほとんど無く、当時からすでに人々にこう呼ばれていました。「コンスタンティノポリス」(コンスタンティヌスの街)と。それは彼の功績を称えた人々の彼に対する「大賛辞」だったのでしょう。そしてコンスタンティノポリスの大宮殿は、文明の十字路に築かれたキリストの十字架の宮殿として、それから千年の繁栄に輝き続けるのです。

西暦337年、ローマ帝国を全く新しい形に大きく作り変えた稀代の皇帝コンスタンティヌス1世は、東の宿敵ペルシア討伐の軍勢を率いて遠征中に病に倒れ、崩御します。享年65歳でした。彼の死後、帝国は3人の皇子たちによって分割統治されますが、彼らはすぐに帝位を巡って兄弟で15年に及ぶ骨肉相争う内戦に突入します。その争いは、最終的には353年に次男であるコンスタンティウス2世(317~361)の勝利によって幕を閉じますが、8年後の361年には彼自身が45歳の若さで子孫を残さずに病没したため、コンスタンティヌス王朝は事実上二代わずか37年余りで絶えてしまいます。

その後のローマ帝国は再び混迷の時代を迎えます。時の有力者が次々に帝位に就きますが、長くは続かないのです。その理由は何といっても帝国を取り囲む状況が「内憂外患」の一言に尽きるからでした。外側からは異民族の侵入が相次ぎ、内側では先に述べた様に皇帝の代替わりごとにその後継争いが常態化していきます。コンスタンティヌス1世がそうであった様に、彼ら皇帝候補の有力者たちは、まず東西に分かれて正帝、副帝などに就任し、その立場を足がかりにしていったため、次第に帝国は一つではなく、東と西に分かれて考えられていく様になります。

そして西暦395年、時のローマ皇帝テオドシウス1世(347~395)は、その死に際して二人の皇子にこう申し渡します。

「これより帝国を東と西に分ける。東は兄が、西は弟が継ぐが良い。決して間違えてはならぬ。二つの帝国は全く別のものとして、そなたらがそれぞれの皇帝として統治するのだ。」

こうしてローマ帝国ははっきりと東西に分裂するのです。そしてこれ以後、二つのローマ帝国は二度と一つになる事はありませんでした。このテオドシウス帝による帝国分割は大きな効果をもたらします。それまで帝位争奪の内戦で争い続けた東西をはっきりと二つの帝国に分ける事で、東西の帝国同士で戦争になる事は無くなったからです。しかし、それは東の帝国に長い繁栄を、西の帝国に動乱と滅亡への道を歩ませるという全く対極的な効果をもたらしました。


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上が東西の帝国の境界です。

西ローマ帝国は、ゴート族、フランク族、ヴァンダル族などの異民族の襲来によって、分裂からおよそ80年後の西暦476年、ついに滅亡してしまいます。一方東ローマ帝国は、これらの異民族の侵入経路から大きく離れていたため、東地中海において長くその命脈を保ち続け、いつしか帝国の名も「ビザンツ帝国」という名が定着し、ローマの名は人々の記憶から忘れ去られていったのです。

時代はローマという大帝国の一極支配から、各民族がそれぞれに王国を打ち建てていく乱立の時代に移りつつありました。その中で、それまでのシステムを変える事が出来なかったローマ帝国は、生き残るために西という半身を切り捨て、東においてキリスト教国家「ビザンツ帝国」という新たな帝国に生まれ変わったといえるでしょう。結果として、その規模は小さくなったとはいえ、ビザンツ帝国は古代ローマの昔に勝る大きな繁栄を長く謳歌し続けるのです。


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上は現在トルコのイスタンブール考古学博物館の中庭に展示されているかつてのコンスタンティノープルの宮殿の柱の一部です。細部に見事な細かい彫刻が隙間無く施されています。このたった一本の柱一つにも、どれだけの手間と時間をかけて造られたのか想像して見てください。

コンスタンティノープルの大宮殿は、造営から千年後の15世紀にこの地を征服したイスラムの覇者、オスマン帝国によって取り壊され、跡形も無く撤去されてしまいました。今、その面影を知る事が出来るのは、イスラムの街となって久しいこの街で進められている発掘調査で掘り出されるこうしたわずかな遺物だけです。

次回に続きます。

巨大な帝国の皇帝が夢見た小さな帝国 ・ヴィラ・アドリアーナ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に引き続き古代ローマ時代から、ローマ皇帝の一人であるハドリアヌスの築いた「ヴィラ・アドリアーナ」をご紹介したいと思います。

ところで、みなさんはローマ帝国という国家がどれほどの間存続したかご存知でしょうか? 前回もお話した様に、このローマ帝国という巨大国家も最初から大帝国であったわけではありません。実は意外なのですが、ローマ帝国はその建国の時期がはっきりしていないのです。有名な伝説では、最初の王ロムルスが紀元前753年に即位し、そのロムルスの名にちなみ、「ローマ」という国名になった(らしい)といわれていますが、これはあくまで伝説上の話であり、そもそもロムルスという人物が実在したかどうかすら分かっていないのです。

ともあれ、およそ紀元前8世紀の中ごろ、現在のローマの地に人口数千の小さな王制都市国家として成立したものが、やがて紀元前509年に王制を廃止、王の諮問機関であった元老院の有力者たちの合議によって国策を決する共和制に移行、500年近く拡大発展を続けて地中海全域を支配する巨大な領域国家へと成長し、その後、紀元前27年に初代皇帝アウグストゥスが即位して帝政に移行、そしてあのゲルマン民族の大移動に代表される異民族の帝国領内への侵入により、紀元395年に帝国が東西に分裂して二つに分かれ、一つの国家としては終わりを迎えるまでが古代ローマの歴史上の流れのプロセスです。

つまり、ローマが帝国であったのは、厳密には帝政を敷いた紀元前27年から紀元395年の東西分裂までのおよそ422年間という事になります。その帝政ローマ時代において、帝国の頂点に君臨していた皇帝の人数はおよそ80名にのぼり、今回のお話の主役であるハドリアヌスは、14代目の皇帝に当たります。


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上がローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスです。(76~138)前回お話した5代皇帝ネロと同じく、残されている彼の彫像にデジタル彩色を施したものです。(注)もちろん自分が作成したのではありません。無芸無能の自分にそんな高度なスキルはありません。(汗)海外の拾いものの画像です。(笑)

といっても、このハドリアヌスという人物についてはよほどの歴史好きな方(とりわけローマ帝国について詳しい方など)でない限り、知っている人はそうはいないと思います。そこで、彼の経歴とローマ皇帝に即位した経緯、そして彼が生きた時代背景を簡単にご説明しておきたいと思います。

ハドリアヌスの正式な名は、前回お話した5代皇帝ネロと同じく非常に長いもので、プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスといいます。(苦笑)帝政ローマにおいては、一代限りの皇帝を除くとその400年以上の存続期間に7つの王朝が交代しましたが、彼はその中の第3王朝ネルウァ・アントニヌス朝3代皇帝です。

この王朝は7人の皇帝が君臨し、そのうち、初代である12代皇帝ネルウァ(35~98)から16代皇帝マルクス・アウレリウス(121~180)まで5代続けて非常に有能な皇帝たちが続いたため、歴史上彼らが統治した時代は「五賢帝時代」と呼ばれ、ローマ帝国がその繁栄と強大さの絶頂期を迎えた時代といわれています。ハドリアヌス帝は、その五賢帝の中の一人でした。

では、彼はどのようにして皇帝の座に登り詰めたのでしょうか? 話は彼の先代の皇帝の時代から始まります。彼の前の皇帝は13代皇帝トラヤヌスといい、ローマ帝国の領土を歴史上最大に押し広げた名君でした。


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上がハドリアヌスの前の13代ローマ皇帝トラヤヌスです。(53~117)先に述べた様に、彼は非常に有能な皇帝であり、政治家として、軍人として、また文化人としても優れた人物で、人柄も公平かつ公明正大であったそうです。それゆえ、その後の歴代皇帝はもちろんローマ帝国滅亡後の中世から今日に至る長きに亘り、ヨーロッパの王候君主たちがその模範とするとともに、多くの歴史家の間でもその業績は高く評価されています。彼の治世において、ローマ帝国はその歴史上最大の版図を築いたのです。

しかし、そんな英邁なトラヤヌス帝でしたが、残念な事に子宝に恵まれませんでした。彼はもちろん結婚して皇妃もいたのですが、その皇妃との間には子が出来なかったのです。といっても、皇妃との仲が悪かったわけではなく、むしろ愛妻家で、先に述べた様に彼の人柄から、他の女性に手を出すのを良しとしなかったのでしょう。

ハドリアヌスはそのトラヤヌスの従兄弟の子にあたり、血筋は遠いですが、すでに若くしてその有能さを周囲から認められていました。そこで、トラヤヌス帝は同じネルウァ・アントニヌス家の一族の中からハドリアヌスを自らの後継者と考える様になります。

ハドリアヌスは将来の後継者として、20代に入るとまずは青年将校として各地のローマ軍団で軍務に付き、25歳の時にトラヤヌス帝の秘書となります。その後、トラヤヌス帝が生涯最も情熱を傾けた数々の外征戦争(101~106年のダキア戦争、114年のパルティア戦争など、ダキアとパルティアとは現在のルーマニアとイランの事です。)では軍団司令官(今でいう師団長クラスでしょうか。)として多くの実戦経験を積み、皇帝を補佐して司令本部で優れた手腕を発揮、皇帝を大いに満足させます。

これらの戦争で、ローマ帝国軍はダキアを征服、パルティア軍を撃滅してメソポタミアまでをもローマの領土にするなど大勝利を収めます。しかしその矢先の117年、皇帝が急病で倒れてしまいました。トラヤヌス帝は、ハドリアヌスをシリア総督兼パルティア遠征軍総司令官に任命して前線を離れ、ローマへの帰途に着きますが、病状は悪化、死期を悟った彼はハドリアヌスを正式に養子とし、次期皇帝に指名したのです。

そのたった数日後、トラヤヌス帝は崩御し、ハドリアヌスは先帝の後を継ぎ、シリアで14代皇帝に即位します。西暦117年8月の事でした。

「新皇帝ハドリアヌス万歳!」

新帝ハドリアヌスは、配下のローマ帝国東部方面軍将兵の歓呼を受け、それに答えます。この時点において、彼は歴史上最大規模にまで拡大した「巨大帝国」の皇帝となったのです。しかし、ハドリアヌスは皇帝となった最初の「仕事」として誰もが驚くべき事を決定します。それはなんと先帝トラヤヌスの下で大軍を繰り出し、あれほど苦労してパルティアから手に入れ、ローマ帝国の属州としたメソポタミア、アルメニアの二州を「放棄」するというものです。


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上がハドリアヌスが皇帝となった直後の西暦117年におけるローマ帝国の支配領域です。各属州(つまり、現代のわが国で言えば都道府県ですね。)の境界線が良く分かります。この時点において、ローマ帝国はその歴史上最大規模に拡大していました。ハドリアヌスが放棄する事に決めたメソポタミアとアルメニアは、上の図の最も右側になります。

それにしても、なぜ彼は即位早々に、せっかく手に入れた広大な新領土を放棄するという大胆な決定を下したのでしょうか? 普通に考えれば理解に苦しむ所です。実は、これにはある切実な問題が大きく影響していました。その切実な問題とは、増大する軍事費すなわち「お金」の事です。

実は、この時ローマ帝国は、国家予算のおよそ半分を軍事費に投じていたのです。特に先帝トラヤヌスの時に、先のメソポタミアとアルメニア、それにダキア(現在のルーマニア)に大軍をもって侵攻、これら一連の征服戦争によって膨らんだ巨額の軍事費が、帝国の国家財政を大きく圧迫していました。

新しく手に入れた領土には、その維持と防衛のために軍を駐留させなければなりません。その経費と、手に入れた領土から得られる利益を比較すると、完全な「赤字」になってしまうのです。

そこで彼は、これらの新領土を全て放棄し、帝国の国境線を以前の状態にまで戻そうとしたのです。都合の良い事に、これらの地域にはちょうど大きな川が流れていました。パルティアとの間のメソポタミア付近にはユーフラテス川、ダキアにはドナウ川です。川という自然の地形を利用して、これを帝国の国境線に確定するつもりでした。

余談になりますが、ローマ帝国軍というのはその歴史上、通算するとおよそ50の軍団があったそうです。ただし、それら全てが常時編成であったのではなく、戦いに敗れて全滅したり、臨時編成で解散されたりした部隊もあったので増減があります。しかし、それらを差し引いても、40個軍団はあったとされています。ローマ軍は全てローマ市民権を持つ者だけで構成され、一つの軍団の定員は平時でおよそ5千から7千程度(現代の陸軍の編成ならば「旅団」規模ですね。)だったそうですが、大きな戦争になれば大規模に増員が行われ、1万5千程度(1個師団ほど)にまで増強される事もありました。

帝国の外側には、東のパルティア王国以外にも、北には強力なゲルマン民族が帝国の富を狙っており、それらの敵から帝国を守るためには、常備兵力として最低でも40個軍団、兵力にして25万程度は必要でした。そしてハドリアヌス帝の時代、ローマ軍の総兵力は35万を超えていました。


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上はハドリアヌスの時代の金貨と銀貨です。それまで95%以上の高い純度を誇っていたこれらのローマ貨幣は、膨らむ軍事費の対応のためにこの頃から純度が下げられ、彼の時代には80%台になっていました。

一口に「軍事費」と言うと、私たちはすぐに兵器などにかかる費用だと思ってしまいますが、軍事費というのはそれだけではありません。兵士たちに支払う給料すなわち「人件費」も軍事費なのです。そのためハドリアヌスは、新しく得た領土を切り捨て、その駐留軍を削減して膨らむ軍事費を抑制したかったのです。

振り返れば、ローマ帝国はそれまで拡大の一途を突き進んで来ました。そしてその結果、帝国の国境線は総延長1万5千キロにまで達し、その長い国境線を守るために多くの守備隊を置かねばならず、その維持費と経費などの軍事費が帝国の国家財政の大きな負担になっていました。そこで、その打開のため、ハドリアヌスは歴代皇帝で初めて帝国の縮小を試みた皇帝だったのです。

これらによって、計算上はおよそ8万から10万の兵力が削減出来るはずでした。しかし、このハドリアヌスの「軍縮計画」に異を唱える集団が彼の前に立ちはだかります。それはローマ帝国の「国会」に相当する元老院です。彼ら元老院議員は帝国の有力者600名から成り、その大半が自ら各軍団の将軍として戦地に赴き、帝国の拡大に貢献してきた人々でした。

彼ら議員たちは、灼熱の砂漠地帯で得られるものが特に無いメソポタミアとアルメニアの放棄には賛同したものの、ダキアの放棄には断固反対しました。なぜならダキアには金銀を産する大鉱山があったからです。やむなく、ハドリアヌスはダキア放棄を断念せざるを得ませんでした。

その後、ハドリアヌスは4年ほど都ローマで国政に専念しますが、そうしている内に彼の中に、ある思いが沸々とわき上がります。

「ここにいるだけでは帝国の全容が把握出来ぬ。一度わが帝国の全てを見てみたい。」

そして彼は、これも歴代皇帝で初めての大視察旅行に出発するのです。まず、彼が向かったのは帝国の最北端であるブリタニア(今のイギリス)です。ここはハドリアヌスの時代からさかのぼる事70年ほど前、4代皇帝ティベリウスが遠征軍を差し向けて征服したものですが、ブリタニア全土を完全に征服したわけではありませんでした。ローマ帝国が支配していたのはブリタニアの南部と中部すなわち後のイングランドまでで、後のスコットランドとなる北部にはケルト人(ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んでいたそうです。)がローマの支配に頑強に抵抗していたからです。

ここを視察したハドリアヌスは、無理をしてカレドニアを征服しても、最辺境のこの地から得られるものはほとんど無く、かえって余計な軍事費がかかるだけだと判断し、ブリタニア方面軍に対してケルト人との国境線上に、ブリタニア本島を東西に分ける長さ120キロに及ぶ長大な城壁の建設を命じました。これが「ハドリアヌスの長城」です。


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上がハドリアヌスの長城の位置と現在の姿です。城壁の石材は、後の時代にその多くが建築資材として持ち去られてしまったために今では低くなっていますが、建造当時は高さ4~5メートル、厚さも2メートル以上あり、城壁の外側、つまり敵であるケルト人のいる北側には、深さ3メートル以上の空堀が掘られていました。(といっても、最初からこの様な石造りの堅牢な城壁として建造されたのではありません。ハドリアヌスが命じた時には高さ3メートルほどに土を盛り、その上に木の丸太で柵を設けた急ごしらえの「土塁」で、その後に10年以上の時間をかけて石造りの城壁に増強されたそうです。)

1・5キロ(1マイル)ごとに、兵士たちが駐留する詰め所と監視塔(マイル・キャッスル)が設けられ、8~10名の守備兵が小隊長の指揮の下で国境の警備に当たっていました。さらに6キロ間隔で要塞も建設され、500~600名ほど(一個大隊程度でしょうか。)の部隊が配備されていたそうです。(そこから割り出すと、この地域のローマ軍の国境守備兵力はおよそ1万余りというところですね。)

ハドリアヌスがこの地にこの様な長大な城壁を築かせたのには理由があります。ローマ帝国の国境線の総延長は、先に述べた様におよそ1万5千キロという途方もないものですが、その大半は海と川、砂漠や深い森などを自然の壁とする事でカバー出来ました。しかし、ここだけはそうした天然の要害がないのです。そこでこうした人工的な構造物がどうしても必要だったのです。

それから、ハドリアヌスの帝国各地を巡る大巡察旅行が始まります。それは、ギリシャ、エジプト、シリア、ヒスパニア、ガリアと、地中海全域に広がる帝国を網羅する、それまでの皇帝はもちろん彼の後の皇帝ですら誰も行わなかった長い旅でした。しかし、ここで疑問に思うのが、その間帝国の政治はどうしていたのか? という点ですが、そこで再び登場するのが元老院です。

もともと元老院はローマの国政を運営するための機関です。旅先のハドリアヌス帝の指示に従ってそれを行っていました。つまり皇帝は、ただ元老院の議案に修正を加えるか、許可や却下のサインをするだけで良かったのです。ハドリアヌス帝の巡察旅行は足かけ13年に及び、彼が都ローマに戻ってきたのは58歳の時でした。

ハドリアヌスはローマに戻ると、まるで人が変わった様に「人嫌い」になったといわれています。特に、100万の人口にあふれる大都会ローマを嫌い、都を離れて郊外のティボリの森に広大な宮殿を建設して移り住みます。それが今回お話しする宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」です。


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上がヴィラ・アドリアーナの全景の模型です。この宮殿は広さがなんと120ヘクタールもある広大なもので、1999年にユネスコの世界遺産に登録されています。

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上の一連の画像はヴィラ・アドリアーナの現在の姿です。ここには広大な庭園はもちろん劇場、図書館、大浴場、運動場、謁見の間、迎賓館、展望台など、およそ考えられるあらゆる全てのものが整えられていました。ハドリアヌスの死後、他の皇帝の何人かが離宮の一つとしてまれに活用していた様ですが、ローマ帝国滅亡後に放棄され、「石切り場」として石材が持ち去られて破壊されてしまいました。上の写真に残る彫刻などは、池の底に沈んで幸運にも破壊を免れた物のレプリカを、おそらくその位置に置かれていたと思われる場所に立てたものです。(本物はもちろん博物館に展示されています。)特に、その中で注目すべきなのは、画像最後の2枚の通称「海の劇場」と呼ばれる一画です。

ここは、ハドリアヌス帝が普段の居住スペースとして造らせたもので、執務室、寝室、浴室、書斎などの部屋が中央の丸いスペースに区分けされ、その周りを池が囲んでいるというおそらく古今東西歴史上ここだけではないかという非常にユニークなものです。これを見るだけで、このハドリアヌスという皇帝がとても繊細かつ複雑な性格であったのがうかがえます。

ハドリアヌス帝が極度の人嫌いになった原因といわれる一つのエピソードがあります。実はハドリアヌスは無類の男色家でした。多くの美少年、美青年を「愛人」として周囲にはべらせ、「夜伽」の相手をさせていました。その中で、最も皇帝が愛したお気に入りの美青年が「アンティノウス」という若者です。


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上がそのアンティノウスの像です。

しかし、このアンティノウスが、ハドリアヌスがエジプト滞在中にナイル川で謎の死を迎えてしまったのです。まだ20歳に満たない若さでした。ハドリアヌスはその死を深く悲しみ、ローマに戻ってからもヴィラ・アドリアーナに引きこもってしまうのです。

ハドリアヌスはその13年に及ぶ長い巡察によって、自らが頂点に君臨する巨大帝国ローマの現実をまざまざと垣間見て来ました。繁栄により贅沢と快楽に溺れる人々、その上で確実に進んでいた国家財政の破綻の兆候、最強を誇ってきたローマ軍の内部分裂と弱体化、一筋縄ではいかない老獪な元老院の腐敗、そう、一見すると繁栄の絶頂期を迎えていたローマ帝国は、すでに衰退の兆しを見せ始めていたのです。そして彼には、その先に待ち構える「滅亡」への足音が確かに聞こえていました。

「永遠の帝国ローマ。そんなものはすべて幻だ。このままではわが帝国は取り返しの付かない事になる。帝国の国庫はすでに市民諸君を養える余力など無い。市民諸君は今すぐ生活を改め、身の丈にあった暮らしをすべきだ。」

皇帝は行く先々でこの様に演説し、人々を戒めようとしました。しかし、一度贅沢で優雅な生活に慣れてしまった人々は、誰もその言葉に耳を傾ける者はいませんでした。

「皇帝は我々市民から豊かな暮らしを取り上げようとしている。」

こうした世論が帝国内にあふれ、ハドリアヌスは孤立してしまうのです。

「これがローマの現実の姿だ。この帝国は広すぎて、とても私一人では治めきれぬ。」

皇帝は吐き捨てる様にこう言い放ちました。そして彼は、自分が巡察で見た帝国各地の思い出の風景を箱庭の様に集め、その集大成として造ったこの宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」に閉じこもってしまいます。そう、この宮殿は皇帝が理想とする帝国のあるべき姿を表現したものだったのです。それはまさに「小さな帝国」でした。

晩年のハドリアヌス帝はこの宮殿で誰も寄せ付けず、忍び寄る滅びの坂道を転がり落ちようとしている帝国の行く末を按じ、愛するアンティノウスの思い出に浸りながらひっそりと暮らし、西暦138年に62歳で崩御しました。

現在、ローマの街には至る所に歴代の皇帝たちを称える多くのモニュメントが残っています。凱旋門、記念柱、神殿の類いは数知れず、しかし、その中で、ハドリアヌスの業績を称えるものは何一つ残されていません。ローマ帝国の行く末を誰よりも按じ、改革を訴えた皇帝に対するそれが、ローマ市民の答えでした。

ハドリアヌスの死後、ローマ帝国はさらに2代続けて有能な皇帝が統治したため、その後も40年余り繁栄を謳歌し続けます。そうして時を重ねるうちに、帝国の国家財政は悪化の一途をたどり、破綻寸前の危機に陥っていきました。しかし、それでも、贅沢に慣れてしまったローマの人々は、遊興三昧の生活を手放そうとはしなかったのです。

やがて3世紀に入ると、それまで帝国の外側に封じ込められていた異民族が、国境線を破って帝国領に侵入を繰り返す様になります。しかし、その国境にはかつての栄光ある最強のローマ軍団の姿はもうありませんでした。こうしてローマ帝国はハドリアヌスが恐れた通り、滅亡への道を転がり落ちていくのです。


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上はハドリアヌスの長城の前で微笑む少年の姿です。彼の遠い祖先も、かつてこの地を守っていたローマ軍の兵士だったのかも知れませんね。(笑)

次回に続きます。

暴君ネロの見果てぬ狂った夢の跡 ・ ドムス・アウレア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「暴君ネロ」の異名でその名を歴史に刻むローマ皇帝ネロが築いた「ドムス・アウレア」をご紹介したいと思います。

今回のお話の主役は暴君ネロなのですが、みなさんはこの人物について、一体どんなイメージをお持ちでしょうか? ローマ皇帝として悪逆の限りを尽くしたその名の通りの暴君? おそらくそういう印象が強烈なのではないかと思います。(かくいう自分もそうでした。)確かに、結果的に彼はそんな悪者に成り下がり、非業の最期を遂げた事から、2千年もの長い間人々にそんな風に語り継がれて来た事は事実です。

しかし、そんなネロも、最初からひどい暴君だったわけではないのです。物事にはどんな形であれ、そうなるに至った経緯というものがあります。というわけで、まずはそのネロという人物の生い立ちから今回のお話を始めたいと思います。


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上は皇帝ネロの胸像です。残されている彼の像にデジタルで色彩を施したものです。歴史上の人物がどんな顔立ちをしていたのかというのは、多くの場合残された文献などの記録や、抽象的な絵などで想像するしかないのですが、ありがたい事にローマ時代の人物の彫刻は実物と見間違えるくらい大変写実化が進んだ時代であり、多くのローマ皇帝の胸像が残されています。こんな顔立ちをしていたんですね。

ネロ(37~68)は、正式な名は非常に長く、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスといい(笑)その身分はローマ帝国5代皇帝です。ローマ帝国といえば、およそ2千年前に成立した人類史上最初の超大国である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。そして彼はその皇帝、つまり当時世界一の権力者であったのです。

このローマ帝国ですが、もちろんこの国も最初からこんな大国であったのではありません。大望を成す場合の最も有名な格言である

「ローマは一日にして成らず。」

の言葉通り、紀元前8世紀(今から2800年ほど前)に現在のローマの地に誕生した人口数千程度の小さな都市国家だったものが、徹底した共和制の仕組みの下に700年以上もの長い時間をかけて地中海全域を支配する広大な領域国家に成長し、やがてネロの高祖父(ネロの祖母の祖父)にあたるアウグストゥスが初代皇帝として即位した事により共和制から帝政に移行し、ローマ帝国となったものです。


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上がネロの偉大な祖先であるローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14)の有名な像と、ローマ帝国の最大領域図です。

ところで、このローマ帝国について詳しい方ならば良くご存知の事かと思われますが、実際のアウグストゥスの本名は「オクタヴィアヌス」といい、あのユリウス・カエサルの甥(カエサルの姉の子)で、志半ばで暗殺されたカエサルの遺志を継いで後継者として地中海世界を統一、ローマ元老院から「尊厳者」という意味の「アウグストゥス」という称号を贈られたのがその名の由来ですが、アウグストゥス本人は政・官・軍の全権を自分に集中させ、独裁権を握る一種の「国家元首」にはなったものの、存命中自らを「皇帝」と名乗った事は一度もありませんでした。つまり「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス」というのは、全て歴史上の後付けでそう呼ばれているものなのです。このあたりは、このローマ帝国という巨大国家のユニークで難解な部分です。(苦笑)

このアウグストゥスに始まる帝政ローマにおいて、彼の興した王朝は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれています。これはアウグストゥスの一族ユリウス家と、その妻リウィアの家系であるクラウディウス家を合わせたものです。

ネロは、そのアウグストゥスから数えて5代目のローマ皇帝にあたるわけですが、その血筋は純粋なアウグストゥスの直系というわけではありませんでした。なぜなら初代皇帝アウグストゥスは後継者の男子に恵まれず、その後に続いた皇帝たちも養子や甥などの傍系であり、ネロ自身もアウグストゥスの血を引いてはいたものの、それは女系であったからです。

では、ネロが皇帝に即位するに至った経緯とはどんなものだったのでしょうか? 事の起こりはネロの実母アグリッピナが先代の4代皇帝クラウディウスの皇妃になった事から始まります。


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上がローマ帝国4代皇帝クラウディウスの像です。(紀元前10~紀元後54)彼は初代皇帝アウグストゥスの皇妃リウィアの孫にあたりますが、生来病弱でユリウス・クラウディウス家一門の中でも疎まれ、長く日陰の道を歩み、耐え忍んで来ました。そんな彼が皇帝に即位出来たのも「毒にも薬にもならない目立たぬ凡人」の彼ならば、飾り物の傀儡(かいらい)としてうってつけだと皇帝の親衛隊に擁立されたからです。紀元41年、この時すでに彼は50歳になっていました。

しかし、「お飾りに過ぎない」と周囲に全く期待されていなかった彼は、皇帝となるや意外な有能さを発揮します。破綻寸前だった帝国の国家財政を立て直し、それまでローマ人あるいはローマ市民権を持つ者だけに限定していた元老院議員の門戸を、ローマ帝国が支配していた属州や異民族、果ては奴隷に至るまで大きく広げ、有能な者はその身分や出身を問わず積極的に登用していく態勢を整えたのです。さらに帝都ローマへの飲料水の供給のため、自らの名を冠した巨大な水道橋を建設、同時に食糧の安定供給のためにローマの外港としてオスティアの港湾を大規模に整備、外征にも熱心で、現在のイギリスであるブリタニアに兵を進めてこれを領土とするなどの功績を残します。


クラウディウス帝は病弱であったため、ユリウス・クラウディウス家に限らずローマ支配階級の名門の男子の義務であった「軍務」に付く事は出来ませんでした。しかし、持て余す時間を読書と学問に費やした事が、彼を知識豊富な政治家に育て上げたのでしょう。それゆえ、彼は「文人皇帝クラウディウス」と呼ばれています。

そんなクラウディウス帝でしたが、家庭生活には恵まれませんでした。これまでに3度結婚に失敗し、長男には先立たれ、ローマ皇帝という頂点の地位にありながら、肉親愛に恵まれぬ孤独な私生活だったのです。

そのクラウディウスに近づいたのが、ネロの母親であるアグリッピナ(15~59)です。彼女もユリウス・クラウディウス家の一族ですが、大変権力欲の強い野心家で、最初の夫との間に息子ネロを産み、その夫が死ぬと裕福な次の夫と再婚、数年後にその夫も亡くなると遺産を手に入れ、その金を賄賂としてクラウディウス帝の重用する側近たちにばらまき、彼女が皇帝に近づけるよう画策したのです。

こうしてうまくクラウディウスに近づいたアグリッピナは傷心の皇帝に甘い言葉で優しく接し、女性関係で失敗の連続であったクラウディウスはたちまちその色香に迷わされ、彼女はまんまとローマ皇帝妃の座に着くのです。紀元49年の事でした。

皇妃となったアグリッピナの次の狙いはもちろん息子ネロを次の皇帝にする事です。そのために彼女は夫クラウディウス帝にネロを養子にする事を勧め、後継者の息子がいなかったクラウディウス帝はそれを認めてしまいます。そこまですれば、もう彼女の願いは叶ったも同じです。そして彼女はその総仕上げとして、恐ろしい計画を実行します。それはもはや用済みとなった皇帝クラウディウスの暗殺です。

もともとアグリッピナはクラウディウスへの愛情で結婚したのではなく、自らの権力と野心の成就のためでした。後は息子ネロを次の皇帝にすれば、皇帝の実母である皇太后としてローマ帝国の実権を握る事が出来るのです。そのためには夫クラウディウスにあの世に行ってもらわなくてはなりません。彼女は宴の席の料理に「毒キノコ」を混ぜ、クラウディウス帝を毒殺してしまいます。

こうしてついにネロがローマ帝国5代皇帝として即位するのです。18歳の若き皇帝の誕生です。全ては母アグリッピナの思惑通りでした。若いネロの即位はローマ市民に歓呼で迎えられ、誰もが帝国の明るい未来を思い描いていました。この時、一体誰がその後の「地獄」を想像出来たでしょうか。

ネロの治世は最初の2年ほどは、長いローマ帝国の歴史の中でもまれに見る善政でした。しかし、それはネロの個人的な采配によるものではありません。まだ20歳前後の何も知らない若者にそんな政治力があろうはずがなく、それらはネロの家庭教師を務めた哲学者セネカ(?~65)という立派な政治的後見人の存在があってこそのものでした。

また、この頃からネロと母アグリッピナとの関係がギクシャクし始めます。アグリッピナは事ある毎にネロに干渉し、政治はもちろん私生活の面まで息子を支配しようとしたのです。そんな母親に対し、次第にネロは母を疎ましく思う様になり、どんどんそれはエスカレートしていきます。もはやネロにとって、母アグリッピナは目の上のこぶの邪魔者でしかありませんでした。やがてネロは皇帝直属の親衛隊を差し向け、母アグリッピナの抹殺を命じるのです。(思えばネロは野心と謀略にまみれた母の姿を見て育ったのです。その息子なのですから、その血を受け継いでいるのは当然ですね。皮肉にもアグリッピナは自らが産んだ息子によって生涯を閉じる事になってしまいました。因果応報とはまさにこの事です。)

最大の障害であった母を抹殺したネロを諌める人物は、もういませんでした。ネロは最初の皇妃オクタヴィアを3年後の62年に殺してしまいます。さらに、政治ブレーンであったセネカまでも65年に粛清してしまうのです。

ネロにとって、自分に歯向かう者はもちろん意見する者すら「邪魔者」でしかありませんでした。そしてそれらを次々に捕えて処刑、暗殺を繰り返し、自らは快楽と怠惰に溺れる手の付けられない「暴君」へと変貌して行ったのです。金に糸目をつけない娯楽競技にうつつを抜かし、女色はもちろん男色にもふけり(なんと気に入った美少年を「去勢」させ、女装させて周囲にはべらせたそうです。)果ては数千の観衆の前で皇帝自ら歌や芝居に興じるなど、その振る舞いは目も覆うばかりでした。そんな皇帝にあるまじき姿に失望し、元老院では密かに反ネログループが政権転覆の動きを加速させていく様になります。

そんな矢先に起きたのが「ローマ大火」事件です。


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上がローマの大火を描いたものです。

64年7月、ローマ市内の一画に起こった火の手が強風に煽られ、ローマ市街の3分の2を焼き尽くす大火災となったのです。さすがにこの時はネロも皇帝として自ら陣頭指揮を取り、火災の鎮火と被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし、この時にどこからかとんでもない「噂」が流されます。

「皇帝は宮殿でローマの焼け落ちる姿を眺めながら竪琴を片手に歌を歌っていた。」

市民の間に広まったこの噂をもみ消すため、ネロは思い切った手段に打って出ます。それは、なんとこの火災を当時帝国内外に広まっていたキリスト教徒が引き起こしたものとして、キリスト教徒を片っ端から捕えて公開処刑するというものです。もちろんこれは全くの濡れ衣であり、しかも、そんな事をしても、一度立てられた悪い噂はそう簡単に消えるものではありません。

後にローマ帝国はキリスト教国家となり、ローマを中心として全ヨーロッパがキリスト教に染まっていくわけですが、まだこの頃の帝国は多神教であり、キリスト教は多くの宗教の一つに過ぎませんでした。そのキリスト教徒を多数処刑した事により、後にネロは悪逆非道な暴君として、欧米社会で根強くその名を記憶される事になったのです。

さて、それまで遊び呆けていたネロには大きな仕事が待ち受けていました。それはもちろん焼け野原となった帝都ローマの再建です。ここでネロは強い指導力を発揮します。実は今日では意外なのですが、それまでのローマは木造家屋が密集するお世辞にも綺麗な街並みではありませんでした。それがゆえに今回の火事で大きな被害が出たのです。

そこでネロは、火災に強い都市造りのために大規模な都市計画に着手します。狭かったローマ市内の道幅を広げて建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲み、共同住宅には中庭と消火用器具の設置、住居は一定の部分を耐火性のある石で造る事などを義務付けました。火災に対応出来るよう水道も整備され、ローマの街並みはそれまでの木造から頑丈な石造りの家々が立ち並ぶ壮麗なものに生まれ変わったのです。それはまさに帝国の都にふさわしいものでした。

それと並行して、ネロはかねてから考えていたあるプロジェクトを実行に移します。それは今まで誰も造った事の無い巨大な宮殿を都ローマの中心に建設し、自らの名を歴史に永遠に残す事です。その宮殿の名は「ドムス・アウレア」 ローマ帝国の公用語であったラテン語で「黄金宮殿」と呼ばれるものです。


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上がその「ドムス・アウレア」の復元想像図と内部の様子をデジタルで再現したものです。高価な大理石をふんだんに使い、宮殿内の壁や天井は隙間無く見事なモザイク画やフレスコ画で覆われ、無数の彫刻が至る所に置かれていました。また、広大な庭園には皇帝の舟遊びのための大きな泉も配置されていました。(みなさんもローマ人になったつもりで想像して見てください。笑)

ネロがこの宮殿を黄金宮殿と名付けたのは、実際に宮殿を黄金で覆い尽くそうとしたからではありません。決して錆びずに輝く黄金は永遠の象徴。ネロは宮殿が自らの名とともに永遠に残る事を願ったのです。

しかし、この皇帝の誇大妄想は、ローマ市民の大不興を買ってしまいます。完成した宮殿のあまりの巨大さと壮麗さに、またもこんな噂が市民の間に広がります。

「皇帝はこの宮殿を造るためにわざとあの火事を起こしたのだ。」

ローマ市民の間のネロの人気は、この頃から坂道を転げ落ちる様に無くなっていきます。その隙を突いて、ローマを遠く離れたガリア(後のフランス)の地で、ヒスパニア総督であったガルバ(紀元前3~紀元69)が反乱を起こします。ガルバは自ら「皇帝」を名乗り、数万の大軍でローマに迫ってきたのです。ネロの手元には皇帝直属のおよそ1万の兵力からなる親衛隊がありましたが、長年の放蕩三昧の結果、すでに彼はその親衛隊からも見放されていました。元老院はこの機に乗じてネロを皇帝の座から引きずり落とすため、ネロを「国家の敵」とし、ローマに入城したガルバを新皇帝として迎え入れました。

孤立無援のネロは愛人の一人パオラに与えた別荘に逃げ込みます。しかし、元老院と新帝ガルバの差し向けた追っ手の軍勢に包囲され、ついに自害してその乱れた生涯を閉じました。時に紀元68年6月、わずか30歳でした。

ネロの死後、彼が造った夢の宮殿ドムス・アウレアは、その後の混乱と度重なる火災によって、そのほとんどが消滅してしまいました。


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上はローマ市内の地下に残るドムス・アウレアの遺構の一部です。

かつてここに、自らの名を永遠に残そうと狂った夢に取り付かれたある皇帝が、巨大な宮殿を造り上げました。しかし、その皇帝の名は歴史に「暴君」として永遠に刻まれ、彼の望みは醜くゆがんだ形で叶えられる事になりました。

今に残るのは、朽ち果てた天井に残るかつての見事なモザイク画の残骸と「暴君ネロ」にまつわる数々の狂ったエピソードだけです。

次回に続きます。

海の底に眠る悲しき美女の宮殿 ・ アレクサンドリア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「絶世の美女」としてその名を歴史に刻むエジプト女王クレオパトラが住んだアレクサンドリアの宮殿をご紹介したいと思います。

クレオパトラといえば、なんといっても先に述べた「絶世の美女」という形容詞が古くから全世界に共通していますね。そして、それはその劇的でドラマチックな生涯と相まって、彼女の死から2千年もの間伝説として人々に語り継がれてきた事は、歴史好きでなくても誰でも知っていると思います。

しかし、それはあくまでも伝説の話。実際の所は彼女がどれほどの美女であったか? いや、そもそもどんな顔立ちをしていたのか? など、もちろん誰も知る由もありません。(笑)歴史上に登場する女性の中でおそらく最も有名な人物でありながら、その顔立ちを伝える物的な証拠は、彼女がエジプト女王として在位中に発行された不鮮明な横顔が刻まれた貨幣しかないのが実情だからです。(もちろん、彼女を描いた絵や彫刻は数多く存在しますが、それは全て後世の画家や彫刻家たちがそれぞれ自分たちなりに想像したものです。)


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上がクレオパトラ(紀元前69~紀元前30)と伝わる女性の横顔が刻まれた銀貨です。他にもいくつかの種類があります。(髪形を見れば明らかに女性であり、貨幣には在位中のその国の君主の顔を刻むのが普通ですから、女王クレオパトラ本人とみて間違いないでしょう。)

そうしたミステリアスな所もクレオパトラの魅力の一つなのだと思うのですが、彼女についてのエピソードを語れば枚挙に暇が無いので(笑)ここでは割愛させていただくとして、まずはこのクレオパトラという人物の経歴その他、事実上の確かな事柄から本テーマに話を移して行きたいと思います。

彼女の正式な名は「クレオパトラ7世」といい、プトレマイオス朝エジプト王国最後の女王です。(この程度の事は歴史好きな方であれば良く知られた事ですね。)彼女の王家プトレマイオス王朝というのは、あのアレクサンドロス大王の少年時代からの古い友人で、成長してからは側近中の側近としてアレクサンドロスの大遠征に付き従い、大王の死後も生涯不変の忠誠を守り通した将軍プトレマイオスが紀元前306年にエジプトに開いた王朝であり、同時に古代エジプト最後の王朝でもあります。


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上がそのプトレマイオス(紀元前367~紀元前282)の横顔が彫られた金貨です。彼はアレクサンドロス大王が最も信頼した部下であり、大王からエジプト総督兼エジプト方面軍司令官に任じられていました。その後、大王が32歳の若さでこの世を去ると、彼を含む部下の将軍たちの合議制によって帝国を運営して行こうと提案しますが、野心に燃える他の将軍たちとの調整が上手く行かずにそのプランは破綻。結局後継者争いとなり、彼は大王から賜った任地エジプトに自らの王朝を打ち立て、エジプト王(ファラオ)プトレマイオス1世として即位する事になったのです。クレオパトラにとっては偉大なご先祖様ですね。(笑)

エジプト王となったプトレマイオス1世は、君主としても優れた人物でした。彼は自らの王国の首都を、大王が築いたアレクサンドリアに定め、大王のエジプト支配の軍事拠点の一つに過ぎなかったこの街を、周到な都市計画に基づく壮麗な都に作り変えます。宮殿、神殿の類いはもちろん地中海に面した大規模な港湾、市民の暮らしに欠かせない市場(マーケット)学校、図書館、裁判所、病院、劇場や競技場などの娯楽施設も次々に建設され、アレクサンドリアは人口20万を超える地中海一の都に発展したのです。


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上がプトレマイオス1世によって拡大されたアレクサンドリアの様子です。古代からエジプトは、ナイル川流域の農地からもたらされる農産物に恵まれた豊かな国であり、さらに大規模に整備拡張されたこの街には、東西交易の中継地という絶好の地理的要件も相まって国内外から多くの商人たちが集まりました。先に述べたエジプトの農産物はもちろん、東洋と西洋の様々な品々が港や市場に集められ、それらを商い売り買いする多くの商人たちによって活発な商取引が行われました。この時代、すでに商取引は「お金」すなわち貨幣によってやり取りされており、うなるほど大量の金貨や銀貨が街の中を行き交います。プトレマイオス王朝は彼ら商人たちから関税と売り上げの割合に応じた税を徴収する事で莫大な富を得、それがエジプト王国の大きな財源となります。そして、その都アレクサンドリアは最盛期の紀元前200年頃には人口50万を越える大都市となり、あのローマが興隆するまで地中海世界最大の都として繁栄を謳歌し続けるのです。

さて、この様に優れた君主が華やかな都を建設し、大いに富み栄えたというだけなら、そうした例は他にもいくつもあります。しかし、プトレマイオス1世はアレクサンドリアをこれまでに築かれた他のどの都とも違う、文化と学問に秀でた学術都市にすべく、おそらく歴史上初めてといわれるある巨大な公共施設を建設します。それが「アレクサンドリアの図書館」です。


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上がアレクサンドリアの図書館内部の様子を描いたイラストです。歴史好きかつ読書好きな方であれば「アレクサンドリア」と聞いて思い浮かべるものの一つがこの図書館でしょう。但し、図書館といっても、この時代の書物は今日私たちが手にする本、すなわち「綴じ本」がまだ考案されておらず、エジプト原産のパピルスや羊皮紙に書かれた「巻物」でした。(その名残りとして、長編の本をいくつかに分ける際に「第何巻」とか呼びますね。ただ巻物では綴じ本の様にタイトルが一目で分からず、ジャンルごとに分かれた書棚にぎっしり詰まれた巻物を一つ一つ見ていかなくてはならないので、閲覧したい書物を探すのは厄介だったでしょうね。笑)

このアレクサンドリアの図書館は蔵書70万冊を誇り、文学、歴史、天文学、地理、数学、医学その他あらゆる分野の書物が集められ、一般市民にも無料で解放されました。そして多くの名だたる学者たちがアレクサンドリアに滞在して研究を重ねたのです。また印刷技術のなかったこの時代、図書館は貴重な書物のコピーに心血を注ぎ、多くの学生に書物の書写をさせて写本を作りました。これにより学生たちは書き写しながら書物を読み、書写の代金も図書館から支給された事から一石二鳥の良い「アルバイト」になりました。(笑)まさにアレクサンドリアの図書館は、当時それまでに人類が蓄積してきた古代世界最大の「知の宝庫」だったのです。

プトレマイオス1世は少年時代のアレクサンドロス大王の学友として共に育ちました。そして彼らの教育は、あのギリシャの大哲学者アリストテレスが行っていたのです。こうした事から、プトレマイオス1世が単なる軍人上がりの王ではなく、学問に深い興味と敬意を払う英邁な君主であった事がうかがえますね。

さらにプトレマイオス1世は、もう一つアレクサンドリアに歴史に名を残すものを建設しています。それが都アレクサンドリアの海の玄関口ファロス島に建てられた「ファロスの灯台」です。


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上がその「ファロスの灯台」のイラストです。この灯台は高さなんと134メートル、あのクフ王のピラミッドに次ぐ当時世界最高の高さの建造物でした。遠方からも分かるよう建材には白く輝く大理石が使われ、頂上部に大きな鏡を置き、昼間はこれに日光を反射させ、夜は大きなかがり火を反射させていたそうです。

それにしても、なぜプトレマイオス1世はこの様な巨大な灯台を作らせたのでしょうか? 実はこのアレクサンドリア周辺は見渡す限りの平野が続き、目印となる山などが何も無いのです。この都が大規模な港湾都市である事はすでに述べましたが、東西交易の中継地として多くの船を安全に入港させるには、遠方から一目で分かるこうしたランドマークタワーがどうしても必要でした。この灯台はプトレマイオス1世が建設を開始しましたが、結局彼の存命中に完成させる事は出来ず、完成したのはその子プトレマイオス2世の時代でした。(その後、このファロスの灯台はプトレマイオス王朝がローマに敗れて滅亡した後も、800年もの間アレクサンドリアのシンボルとしてその威容を誇っていましたが、796年の大地震で倒壊してしまいました。とても残念な事です。)

ともあれ古代エジプト王国は、3千年に及ぶその長い歴史の中で、最後の王朝(第32王朝にあたるそうです。)であるプトレマイオス朝時代が最も繁栄したといわれています。そしてその礎を築いたのが初代の王プトレマイオス1世であり、クレオパトラはその1世から数えて13代目にあたるプトレマイオス家最後の女王にして、同時にエジプト最後のファラオでもありました。

だいぶ話がテーマの「宮殿」から脱線してしまったので、この辺で本題の宮殿に話を戻したいのですが、その前にもう一つお話して置きたい事があります。実はこのプトレマイオス家という王家ですが、とてもユニークな、そして同時に現代の感覚からいえばとても「異常な」王家であるという事実です。

まず、前者のユニークな点ですが、この王家、恐らく歴史上最も「女王」の多い王家なのです。普通どこの国でも、王や皇帝などの君主は男性がまず即位します。女性が女王となるのは後継者の男性がいないか、幼少で後見の必要がある場合、王朝存続のためにいわばやむなく即位する「繋ぎ」としての役割が全てです。(わが国の君主にあらせられる天皇家でも、かつて推古帝や持統帝など8名の女帝が玉座におわしましたが、すべてそのケースです。それに、国家と王朝の創始者はその全てが男性であり、女性が初代の君主として国と王朝を創始した例は歴史上存在しません。まあ国を興すには強さが必要であり、強さとは武力すなわち軍事力ですから、女性に無理なのは当然ですが・・・。)

しかし、このプトレマイオス王朝では、クレオパトラも含めてなんと通算16人もの女王がいるのです。一体なぜなのでしょうか? 実はプトレマイオス家では、王が結婚して妃を迎えると「共同統治者」としてその王妃は自動的に「女王」になるのです。このシステムは初代プトレマイオス1世の代から始まり、彼の王妃ベレニケは「ベレニケ1世」としてプトレマイオス家最初の女王となっています。

これはやはり、女王の存在が基本的には王朝存続の繋ぎ役であるという点が大きな理由でしょう。先に述べた様に王朝というものは男性がまず継承します。その後継者が幼少の場合は母親、つまり王妃が後見人となって息子が立派な大人に成長するまで女王として国政を預かるのが最良の方法だからです。このシステムはその後もプトレマイオス王家の伝統として代々継承され、王朝が滅亡するまで受け継がれました。

次に後者の「異常な点」についてですが、このプトレマイオス家はなんと「近親婚」によって代々王位を継承していったというものです。それも半端な近親婚ではありません。何代にも亘って実の兄弟姉妹同士で結婚し、それで生まれた子が王位を継いでいるのです。しかし、こうした近親婚は古代エジプト歴代王朝では珍しくないもので、プトレマイオス王朝でもその習慣を踏襲したものと思われます。そもそもプトレマイオス家は、マケドニアすなわちギリシャ人の王家であり、純血のエジプト人ではないのですが、エジプトを統治して時を重ねるうちにすっかり土着化してしまったのでしょう。


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上はプトレマイオス朝エジプト王国最盛期の領域図です。

この様に非常に特異な王朝であったプトレマイオス朝エジプト王国でしたが、歴史に登場する多くの王朝の例を引き合いに出すまでも無く、その創始から200年を過ぎると衰退しはじめます。特に王位継承の際の王族間の争いが恒例となり、その都度内乱が頻発する様になります。

そうしている内に、地中海では新たな強国が急速に台頭していました。そう、イタリア半島に勃興した「ローマ」です。ローマは強大な軍事力で周辺国を次々に征服し、領土を拡大していきました。紀元前146年に最大のライバル国カルタゴを滅ぼし、西地中海を支配したローマはやがてその矛先を東地中海に向けます。そして紀元前50年代、地中海周辺はエジプトを除いてその全てがローマの領土になっていたのです。ローマがエジプトに侵攻して来るのは時間の問題です。クレオパトラが女王として即位したのはそんな時代でした。


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上がこの頃のローマの支配領域です。

ここからの彼女の物語は、とても当ブログではご紹介しきれないので割愛させていただきますが(汗)ユリウス・カエサルとの出会い、アントニウスとの運命的な恋、そして彼と共にエジプト存亡をかけて戦った紀元前30年のアクティウムの海戦の敗北などを経て、ローマによるエジプト併合はもはや避けられない状況になってしまいます。

勝利したローマの支配者オクタヴィアヌス率いるローマ艦隊はアレクサンドリアの港に入港、上陸したローマ軍は都アレクサンドリアを完全に占領し、今だ宮殿に立て篭もるクレオパトラに降伏を迫ります。

「命は取らぬ。速やかに降伏されよ。」

しかし、オクタヴィアヌスの降伏勧告を、クレオパトラは断固拒否しました。


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「わたくしはエジプトの女王。そのわたくしを捕えてローマに凱旋し、さらし者にするつもりね。そなたの好きにさせるものですか。」

そして彼女は栄光あるプトレマイオス王朝最後の女王としての誇りを抱き、自ら死を選ぶのです。

「ファロスの灯台はわたくしの命。わたくしはファロスの光となって海を照らし続けるでしょう。」

こうして紀元前30年8月、彼女は宮殿で自ら毒をあおり、命を絶ちました。そして彼女の死により、13代274年間続いたプトレマイオス王朝は滅亡したのです。

その後、彼女が住んだアレクサンドリアの宮殿は、8世紀に起きた大地震と津波により、ファロスの灯台とともに海に沈んでしまいます。


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上は現在のアレクサンドリア湾の様子です。クレオパトラの宮殿はアレクサンドリア市街ではなく、湾を埋め立てて造成した海の上に建てられていたのです。しかしそれらは全て先に述べた地震によって失われ、海の底に沈んでいます。(下の地図の緑の部分が沈んだ部分です。)

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上の一連の画像はアレクサンドリア湾内の海底に沈んだクレオパトラの宮殿の痕跡です。(ここで余談なのですが、「アレクサンドリアの海底遺跡」などと入力してインターネットで検索すると、海に沈んだファラオの像やスフィンクスの石像など多くの写真や引き揚げられた遺物が出てきます。しかし、これらはほとんどが「ヘラクレイオン」というプトレマイオス朝より以前の時代に海に沈んだエジプトの古代都市のもので、クレオパトラの宮殿とは全く違う別のものです。これは、この遺跡がアレクサンドリアに近い東のアブキール湾にあり、またこちらの方が遺跡の保存状態が良く、多くの遺物が沈んでいる事から、現在水中考古学者たちの目はこちらにばかり集中し、発掘が行われているのが原因の様です。)

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上は1963年製作の映画「クレオパトラ」で彼女を演じたエリザベス・テイラー(1932~2011)です。これまでクレオパトラを演じた女優で最もそのイメージにぴったりだといわれています。

みなさんもエジプトに旅行される機会があれば、ギザのピラミッドを見た後に、アレクサンドリアに立ち寄られてみてはいかがでしょうか? そして目の前に広がる青い地中海を眺めながら、女王クレオパトラに思いを寄せてみるのも良いと思います。もしかすると、夢の中で「絶世の美女」とお話出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。
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