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モナコ公国 ・ カジノに国を賭けた大公殿下

みなさんこんにちは。

フランス革命とナポレオン戦争を経て、20年以上もの苦闘の末にようやくモナコの地をナポレオンから取り返したグリマルディ家でしたが、その後の彼らとモナコはどうなったのでしょうか? 今回はその辺りのお話です。

1814年、ヨーロッパの主要国の君主や代表たちは、ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの国際秩序の再構築と領土配分のため、オーストリア帝国の首都ウィーンで国際会議を開催しました。「ウィーン会議」です。

この会議そのものは、各国の利害調整がなかなかうまくいかず、なんと9か月もかかってやっと調印にこぎつけたのですが、このウィーン会議の定めでは、モナコとその沿岸部の領土はフランスから分離され、サルデーニャ王国の保護下に入る事が決められていました。

この理由は、もともとモナコの領主グリマルディ家はジェノヴァ共和国の貴族であり、そのジェノヴァ共和国は同会議でサルデーニャ王国に併合されて消滅する事も決定していたため、各国にしてみればごく妥当な決定でしたが、本来の領主であるグリマルディ家にとってはもちろん満足のいくものではありませんでした。なぜならグリマルディ家が求めるのはモナコの完全な独立であり、その独立したモナコ公国の君主として当家が頂点に立つのが本来あるべき姿であったからです。

しかし、このウィーン会議の主催者であるハプスブルク家率いるオーストリア帝国は、国防上宿敵フランスとの軍事緩衝地帯として北イタリアのサルデーニャ王国を重視していました。これは、両国間で再び戦争になっても、フランス軍がそう簡単にはオーストリアに攻め込んでこれないようサルデーニャを「盾」とし、その間に戦備を整える時間を稼ぐためです。

そのためにサルデーニャ王国には、オーストリアが脅威と感じるほどにはならない程度にもう少し領土的に大きくなってもらう必要があったのです。こうしたオーストリアの策略により、モナコは1860年までおよそ45年間サルデーニャの保護領となります。グリマルディ家は名目上モナコ大公の地位は認められたものの、ただ黙って情勢の変化が来るのを待つより他にありませんでした。


Italia 1796

上が少し前になりますが、18世紀末のイタリアの勢力分布です。この頃、今日の「イタリア」と呼ぶ国家は存在せず、上の様に小国が乱立していました。サルデーニャ王国の位置はスイスの下の青色の部分で、そのサルデーニャが併合したジェノヴァはさらにその下の赤紫色の地中海沿岸部です。

そうしてグリマルディ家が「名ばかり大公」(失敬 笑)として、さらに三代を重ねるうちに、やがてその時が巡ってきます。ウィーン体制化の1840年代以降、これまで小国が乱立していたイタリア半島において、統一国家を作る運動が沸き起こったのです。その中心となったのが、サヴォイア王家率いるサルデーニャ王国でした。

サルデーニャ王国はオーストリアの干渉を排して次々に周辺地域を併合し、勢力を拡大していきます。もはや、イタリアが統一されるのは時間の問題でした。しかし、そのドサクサに紛れ、まるでそうした大きな時代の流れに立ち向かうかの様に自らの国家を取り戻そうとしていたある一族がいました。そう、われらがグリマルディ家一門です。

この混乱の時代にグリマルディ家の当主にして、モナコ大公であったのがシャルル3世という人物です。


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上が第10代モナコ大公シャルル3世です。(1818~1889)彼こそは、それまで大国の保護下にあって、国でありながら国でない曖昧な存在であったモナコを完全な独立国家とする事に成功した「中興の祖」ともいうべき優れた君主です。彼の治世に公国はほぼ現在の在り方に形作られました。

シャルル3世は、1815年のウィーン会議以来、長くその保護下にあったサルデーニャ王国からモナコを完全に独立させるため、虎視眈々と機会を狙っていました。やがて即位から5年後、その絶好のチャンスが訪れます。グリマルディ家が身を寄せていたサヴォイア王家率いるサルデーニャ王国が、1861年にイタリア半島のほとんどを統一し、古代ローマ帝国滅亡以来小国に分裂していたイタリア半島に、歴史上初めての「イタリア王国」が成立したからです。

この出来事の一体どこが「絶好のチャンスなんだ?」と思われるかもしれませんが、実はこの時、旧サルデーニャ王にして初代イタリア王となるヴィットリオ・エマヌエレ2世は、イタリア統一を進める上で背後の不安を取り除くためにフランスと同盟し、その支援をしてもらう見返りとして、保護下にあったモナコを含むかつてのサルデーニャの領土の一部をフランスに割譲する条約まで結んでいたからです。

つまり、サヴォイア家のエマヌエレ2世は寝ても覚めてもイタリア統一と「新イタリア王国」の建設に夢中であり、そんな時にモナコの様な一港町など眼中にないのです。今こそグリマルディ家がサヴォイア王家の支配から抜け出し、完全に自立したモナコ公国を立ち上げるチャンスでした。

当時フランスはナポレオン1世の甥であるナポレオン3世による第二帝政下にありました。シャルル3世はこのナポレオン3世と交渉し、モナコの領土の9割以上に当たる地域を400万フラン(現在の日本円でおよそ40~50億円程度になるそうです。)でフランスに売却し、その代償としてモナコの主権をグリマルディ家に取り戻す事に成功します。


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上が、この時にフランスに割譲した地域です。しかし、もともとこの地域は勝手にモナコから独立を宣言していた地域でした。これはシャルル3世がモナコ独立に備えた財源確保のためにかなりの重税を課したのが原因で、彼の大きな失敗でした。そこで彼は、貧しい人々から搾り取るよりもフランスに売り渡してしまった方が「確実に金になる」と考えを改め、言わばこれらを切り捨てたのです。

こうして1861年、純粋にモナコの街だけで構成された今日のモナコ公国がこの時に成立しました。1793年にフランス革命軍に国を追われて以来、グリマルディ家が求めていた願いが68年の時を経てようやく実現したのです。この時のシャルル3世の喜びはいかばかりであったでしょうか。しかし、シャルル3世にはまだまだ大きな悩みがありました。なぜなら、独立を果たしたとはいえ、これからも国を維持していくには「ある物」が絶対に必要だからです。そのある物とはつまり「お金」の事です。

先に述べたフランスへの領土売却で多額のお金を得たシャルル3世でしたが、言わばそれは一時的な臨時収入に過ぎませんでした。しょせんお金など使えばすぐに無くなってしまいます。当時のモナコは漁業以外にこれといった産業のない地中海沿岸に良くあるありきたりの小さな港町に過ぎず、5千余りの人口の大半がその日暮らしの貧しい市民で、このわずかな「国民」から得られる税収ではとても国を維持していくのは困難です。大公が求めていたのは永続的かつ安定的な財源の確保でした。

「わが大公家だけなら十分な資産があるが、5千もの市民をこれからも養って国を運営していくとなると話は別だ。だがこの小さな領土では対外的に売れるものなど何もありはしない。一体これからどうすれば良いのだ?」

シャルル3世は頭を悩ませます。しかし、いくら考え抜いても、この小さな公国には新たな収入源として「他国に売れるもの」などありはしません。悩み疲れた彼は、気分転換に宮殿のテラスへ出てみました。するとそこには美しい青い海と、その海に面して立ち並ぶモナコの街並みが目に入ります。その瞬間、シャルル3世は悟りが開けたかの様にこう言いました。

「そうだ、わがモナコにはこの美しい景色がある。これこそ神がわれらに与えたもうた何にも代えがたい恵みだ。これを売り物にして、モナコをどこにも負けぬ一大リゾートに作り変えよう。」

彼は早速行動を開始します。まずは知識と情報集めです。他国の有名な観光地がどの様に運営されているのか、そのノウハウを得るために大公自ら家臣らを引き連れて各地を視察して回ったのです。そうして各地を旅しているうちに、彼はある事に気付きました。それは観光など出来る人々が、彼の様に先祖から受け継ぐ大きな資産を持つ王侯貴族や、産業革命と資本主義の発達で財を成した新興の資産家など、ごく一握りの「富裕層」だけだという事です。

落ち着いて考えれば当然の事なのですが、ここで新たな不安が再びシャルル3世を悩ませました。つまり、大金を投資してモナコの街を一大リゾートにしても、そんなわずかな一部の富裕層を招き寄せたところで、果たして国家財政を賄えるほどの収益が得られるのか? という事です。さらにシャルル3世にはもう一つの懸念がありました。

彼ら富裕層は有り余る財力で贅沢と遊興に慣れ親しみ、簡単に言えば一流のものすべてに「目も舌も肥えた人々」です。そんな彼らを満足させられるだけの「サービス」をモナコが継続して提供していけるか? という懸念です。モナコの美しい景色と豪華なホテルで美食や美女、素晴らしい音楽でもてなしても、どこの観光地でもあるそうしたありきたりのサービスでは、すぐに飽きられてしまうかもしれません。

「他の所と同じ事をしていてはダメだ。わがモナコだけの何か特別なサービスで、少ない人数でも大きな利益が得られるようにしなければ。」

そこでシャルル3世は、以前から密かに考えてはいたものの、実現するのは国家元首として道義上躊躇していたあるものを許可し、それはおろか国家でそれを経営していく事を決断しました。そのあるものとはなんと「カジノ」です。

カジノとは、言うまでもないと思いますがお金を賭けて当たりはずれを争う場所、つまり「賭博場」の事です。こうした賭博というものは、特にわが国においては歴史上「身分卑しい者のする事」として常に忌避され、現代でも競馬、競輪、競艇やパチンコなど、法律で認められたもの以外の賭博行為は禁止されていますが、こうした例は極めて稀で、世界では道義的な観念とは別に、欧米はもちろん多くの国々で特に大きな法的規制もなく盛大に行われているものです。


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上は現代のカジノの様子です。「ルーレット」はその代表的なもので、欧米の映画やドラマなどで、主人公が上の様にカラフルなチップを倍率の書かれた数字の位置においてプレイするシーンなどは良く見かけますね。写真では裕福なセレブたちが楽しんでいます。私たち庶民には縁のない場所ですが。(笑)

彼がカジノを公的に認める決断をした理由は、先にも述べた様に少ない富裕層から大きな利益を得るためです。王侯貴族や資産家など、その身分階級はさて置き、一人のお金持ちが一度のゲームで当時の一般庶民100人分の年収に匹敵する大金を賭け、外れればその賭けた金は全部カジノ側の儲けになるわけですから、まさに「ボロ儲け」です。もちろん、お金を賭けた側が大当たりする場合もありますが、そんな例は確率的に数十万分の一であり、多くは外れるに決まっているからです。

お金を賭ける側も、そんな事は百も承知です。しかし、彼らはお金儲けではなく(もともと遊んで暮らせるほど財産があるのですからね。笑)大金が当たるかもしれないが、外れて大損するかもしれない「一瞬のスリルと興奮を味わう」というなんとも大それた理由(ある意味呆れた理由ですね。 失敬)のためにこうしたギャンブルを楽しんでいるのです。

シャルル3世はモナコの海沿いの一等地に、まるで宮殿の様な国営の「グラン・カジノ」と、それを目当てに富裕層が宿泊する豪華なホテルを次々に建設していきます。では、その財源は一体どうしたのでしょうか? もちろんその点も彼は抜かりはありませんでした。それは他国の銀行の融資すなわち「借金」ではなく、かつてフランスに割譲した領土の売却で得たあの400万フランです。これはいわゆる一時的な「特別利益」であり、仮に失敗したとしても、大公家のもつ資産とは別勘定なので、グリマルディ家は全く損をしないよう抜かりなく計算していたのです。つまり、シャルル3世は領土割譲の時点からこの計画を考えていたものと思われます。

こうして1863年、莫大な先行投資で物理的なインフラを整えると、彼はこれまで親交のあった各国の王侯貴族、資産家に招待状を送り、さらに一大キャンペーンを行って「新しいモナコ」を大々的にアピールします。後は運を天に任せるのみです。それはまさに国の未来を託した「大きな賭け」でした。


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上がシャルル3世が建設した「グラン・カジノ」と、豪華絢爛な内部の様子です。1863年創業で、現在も世界中のセレブが集まる社交場ともなっています。

果たして、シャルル3世の狙いは最初から「大当たり」しました。各国から新しいもの好きの大勢の富裕な人々がモナコを訪れ、大公の思惑通り莫大な収益を得られたからです。それは投資した金額の数倍に及ぶ巨額なもので、同時にモナコの国家財政を数年補って余りある莫大なものでした。

この成果にシャルル3世は大いに満足し、同時に安心しました。なぜならこの美しい景色以外に何も売るものがなかった小さな都市国家に、大きな利益をもたらす生業(なりわい)を作り出す事が出来たからです。そして次に大公が心を砕いたのは、自らの民モナコ国民でした。なんと彼は国民への直接税を廃止したのです。さらに大公が建設したカジノやホテルに多くの市民が従業員として雇用され、貧しかったモナコ国民の暮らしは大変豊かになりました。

国民はシャルル3世を敬愛し、大公が時折宮殿を出て外出すると、その行き帰りには見送りや出迎えの市民の歓呼の声が絶えませんでした。彼は1889年に70歳で亡くなりますが、その時には「われらが大公殿下」の死を多くの市民が悼み、それまで単なる支配者としてしか市民に認識されていなかった歴代の大公とは違い、国民のために国そのものの在り方を変え、暮らしを豊かにしてくれた彼の死を心の底から悲しんだそうです。モナコ国民は亡きシャルル3世を称え、彼が作り上げた海沿いの高台のカジノとホテル群を「モンテ・カルロ」(イタリア語で「シャルルの山」という意味です。)と名付け、今ではこの名は「お金持ち」の代名詞となっています。

こうしてモナコ公国は、中世以来から続く歴史はあるが、これといって何の取り得もないさびれた都市国家から、一大観光リゾートという全く新しいタイプの特殊な都市国家に生まれ変わりました。そして、その礎を築いたのは、カジノに国を賭けた一人の大公でしたが、その彼が心に抱いていたのは常人には想像を絶する国の未来への大きな不安でした。

それから150年余りが経過し、これまでに多くの数えきれない富豪たちがモナコのカジノに集って大金を賭け、大儲けした者、逆に財産をすべて失って破産した不幸な者(というより愚かな者)が現れては消えていきました。しかし、そうした人々よりも、誰よりも大きな「賭け」をしていたのは、カジノに国そのものを賭けた他ならぬ創始者のシャルル3世その人だったのかもしれませんね。(笑)

次回に続きます。
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モナコ公国 ・ 王家に憧れたある貴族の夢が咲いた街

みなさんこんにちは。

アラゴン王国からモナコの地を大金で取り返したグリマルディ家でしたが、その後の当家とモナコとの関係はどうなったのでしょうか? 今回はその辺りのお話をしたいと思います。

前回は、そのグリマルディ家がどの様にモナコの領主となるに至ったかをお話ししましたが、それからの当家とモナコの歩んだ道は、一言で言えば、まさに「混迷」という表現が最もふさわしいほど停滞したものでした。

その理由は、そもそも領主グリマルディ家が海洋都市国家ジェノヴァの都市貴族であり、当然の事ながら本拠地をジェノヴァから動かす事はしなかったからです。グリマルディ家がアラゴン王国からモナコを買い取った15世紀(1400年代)は、地中海世界においてジェノヴァ共和国のように交易によって得た莫大な富と、強力な海軍力を持つ海洋都市国家が繁栄の頂点を極めていた時期で、特に西においてはジェノヴァ、東においてはヴェネツィアが地中海の支配権をめぐって互いに激しく争っていました。


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上は16世紀のジェノヴァの様子を描いた絵です。すでにこの時期ジェノヴァは都市国家としては衰退していましたが、港湾都市としては変わらず繁栄し、街は活気に満ち溢れていました。

その様な状況下で、ジェノヴァとヴェネツィアは地中海の各地で大小の海戦を繰り返し、一時は最大のライバルだったヴェネツィアを存亡の淵まで追い詰めるほど優勢に立った時期もあったのです。しかし、勝利の女神はジェノヴァに微笑んではくれませんでした。アドリア海最奥まで侵攻したジェノヴァの大艦隊はヴェネツィア本国を包囲したものの、長くヴェネツィアを守り続けて来た「潟」(「かた」 現地のイタリア語で「ラグーナ」とも言います。簡単に言えば「浅瀬」の事です。)に行く手を阻まれ、態勢を立て直したヴェネツィア軍の反撃によって撃退され、結局ヴェネツィアを降伏させる事は出来なかったからです。

それからのジェノヴァは、徐々に衰退の坂道を転がり落ちていく事になります。なぜならジェノヴァの政治を担ってきた都市貴族たちの間で権力争いが絶えず、常に政情が不安定で、国家としてまとまる事が終始できなかったからです。そうしてジェノヴァが都市という狭いエリアで内輪もめをしている間に、西のイベリア半島では強力な新興国が誕生していました。1469年に成立したスペイン王国です。

このスペインは、先に述べたアラゴン王国と、その隣国カスティーリャ王国が統合してできたもので、1492年にはイベリア半島に残るイスラム勢力の最後の牙城であったナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、その勢いはジェノヴァにも容赦なく迫ってきました。

この様な国際状況の中で、ジェノヴァ共和国が選んだ道は、スペインへの服属でした。同じ都市国家でも、ヴェネツィアのように敵軍の行く手を阻むラグーナのような天然の要害がない単なる港湾都市で、人口も最大15万程度しかないジェノヴァには、いかに強力な海軍があっても、陸路南フランス沿岸を横断して侵攻してくるスペインの大軍から街を守るだけの陸軍兵力をそろえる事など到底不可能だったからです。

こうして、ジェノヴァはスペインの属国に成り下がっていったわけですが、したたかに新たな道を模索していた一族がいました。そう、今回のテーマの主役グリマルディ家一門です。

グリマルディ家はジェノヴァがスペインの支配下に入り、スペイン王家に臣下の礼を取りつつも、モナコの領主として独自の地位を維持し続けました。そうして代を重ねるうちに、当家にこんな考えが浮かび上がる様になります。

「わが一門も一国の君主になりたい」

時代は狭い街レベルの都市国家の時代から、広大な領土を支配する巨大な帝国や王国が、覇を競う時代に移行していました。特に、当時は大航海時代真っ盛りで、新大陸からもたらされた莫大な金銀を背景に繁栄の絶頂期にあったスペイン王家の絢爛豪華な宮廷文化を目の当たりにしたグリマルディ家の人々には、それらが強烈に心に刻み付けられ、大きな憧れとなったのも無理はありませんでした。


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上は当時のスペイン国王フェリペ2世(1527~1598)と、その父カルロス1世(1500~1558)そして彼ら親子が支配した「スペイン帝国」最盛期の領域図です。特に父王カルロス1世(左)の方は、ドイツ神聖ローマ帝国皇帝も兼ねており(カルロスはスペイン語読みであり、神聖ローマ皇帝としてはドイツ語読みでカール5世となります。「5世」なのは、カールという名はドイツの男性によくある名で、それ以前にドイツで同名の王様がすでに4人もいたからです。)

また、その子フェリペ2世治下の1580年には、隣国ポルトガルのアヴィス王朝が断絶したため、最初の王妃マリアがアヴィス家出身であった事を理由に「ポルトガル王を兼任する」という形で事実上併合してしまいます。(スペインによるポルトガル支配は1640年に王政復古の独立戦争が起こり、8年後の1648年に前王朝アヴィス家の仇敵だったブラガンサ家が新王朝を打ち建て、ポルトガルが独立を果たすまで68年も続きました。)この時点で、そのポルトガル領も合わせた新大陸その他の海外領土を含めると、フェリペ2世はヨーロッパの王としては史上最大の領土を支配し、同時に彼ら親子の君臨した16世紀のおよそ100年間が、スペインが「帝国」と称してもっとも繁栄した最盛期でした。

グリマルディ家は、モナコとその周辺を所領とし、先にも述べた様に家業の貿易と金融で富裕な資産を保有してはいましたが、所詮それは「貴族」としてのそれに他なりませんでした。しかし、スペイン王家の繁栄を目の当たりにしていたグリマルディ家の人々の中で、当時ヨーロッパに履いて捨てるほど存在していた大小の貴族のままでは飽き足らない「王家」への大きな夢が膨らんでいたのです。

では、そのためにどうすべきか? 今のままではグリマルディ家はジェノヴァの一貴族でしかありません。といって、スペイン王家の下で地道に働いて栄達していこうにも、新大陸から「タダ同然で」莫大な金銀が入ってくるスペイン王家にしてみれば、かつてのレコンキスタの頃の様に、グリマルディ家などの富裕貴族から融資を受ける必要などなく、つまり、グリマルディ家が持つ最大の武器である「お金」の力を活かしていく場面がありませんでした。

この時期(1600年代前半)にグリマルディ家の当主であったのは、オノレ2世という人物でした。彼は一族が抱き続けて来た「一国の君主」への夢を実現するべく、大胆な方針転換を行います。


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上がそのオノレ2世です。(1597~1662)彼は父が早くに亡くなった事から、母親の後見のもとでわずか7歳でグリマルディ家の当主かつモナコ領主となり、成長してからは巧みな外交戦略でスペインの支配からいち早く脱して初代モナコ大公となります。

オノレ2世が示した大胆な方針転換とは、簡単に言えば主君を変えてしまう事です。彼はこれまでの主君スペイン王家(正確にはスペイン・ハプスブルク家ですが)から、フランスのブルボン王家に仕える事にしたのです。

その理由は実に単純です。グリマルディ家が将来君主となって国を興すなら、モナコとその周辺以外にはなく、そのモナコの地はフランス領内にあるからです。ハプスブルク家とヨーロッパの支配権をめぐって争っていたフランス・ブルボン王家が背後に控えていれば、いかにスペインといえども手が出せないからでした。

オノレ2世は成人してグリマルディ家の当主となると、早速フランス王ルイ13世(みなさんもご存じのあの「太陽王」ルイ14世の父王です。)の宮廷に接近を図り、そのために周到な根回しを開始します。根回しとは、つまり「賄賂」の事です。王に対しては上納金はもちろんの事、フランス宮廷を支える主だった有力貴族たちにも多額のお金をばらまき、グリマルディ家がモナコの領主として特別な地位に付けるよう工作しました。

スペインと違い、当時まだ海外領土をほとんど持っていなかったフランスも、豊富な資金力を持つグリマルディ家を臣下として迎え入れた方が何かと都合が良いとの判断から、彼らをフランス宮廷に迎え入れます。

こうして1633年、オノレ2世はルイ13世よりヴァランティノワ公爵の称号を賜り、さらにフランス王の臣下という条件付きとはいえ、実際には独立君主である初代モナコ大公として即位する事に成功したのです。かつて王家に憧れたある貴族の夢が、モナコの地に見事に花咲く事になったのです。ここに、グリマルディ家の積年の願いであった君主への道はようやく実現したのでした。

ここで一つ、疑問点が浮かびます。つまり、

「そんな勝手な事をして、大国スペインがこのまま黙っているのか?」

という点です。しかし、この点もオノレ2世は計算ずくでした。実はスペイン王家とフランス王家は互いの相互不可侵の証として政略結婚で結ばれており(ルイ13世の王妃はスペイン王フェリペ3世の王女であり、その子フェリペ4世はルイ13世の妹を最初の王妃としています。)フランス王の臣下となってもスペイン側から報復を受けるような恐れはなかったのです。

また都合が良い事に、この時期のスペイン王たちがさほど有能な人物でなかった事も幸いしました。すでにこの頃、スペインは衰退の際に立たされており、やがてそれは1700年に最後の王カルロス2世が実子を残さず亡くなった事によるスペイン・ハプスブルク家の断絶によって誰の目にも明らかとなります。その後、スペイン王は親戚のブルボン家が継承し(つまり、ブルボン家に乗っ取られてしまったと言えるでしょうね。笑)過去の栄光を二度と取り戻せないままに、長く緩慢な没落の道を転がり落ちていく事になるのです。

さて、話をモナコに戻しますが、オノレ2世に始まるモナコ大公家の歴史は、フランス・ブルボン王朝の栄光と相まって繁栄を謳歌します。特に、太陽王ルイ14世(1638~1715)の72年に及ぶ長い絶対王政のもとで、オノレ2世の孫であるアントワーヌ1世の時代は、イタリアの都市貴族出身でありながら、フランス王国の軍人として各地でフランスのために対外戦争に積極的に参戦しました。


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上が第3代モナコ大公アントワーヌ1世(1661~1731)です。彼は青年時代から軍人の道を歩み、太陽王ルイ14世の行った数々の外征、介入戦争に高級将校として参戦していきました。上の肖像では颯爽とした武人の姿ですが、富裕とはいえイタリア出身で生粋のフランス人ではないグリマルディ家がモナコ大公の地位を維持していくには、祖父オノレ2世の時代のようにお金をばらまくだけでは無理で、そうして地道に「身体を張った」実績を積み上げてルイ14世に認められる必要があったのです。彼の苦労が偲ばれますね。(彼の名「アントワーヌ」はフランス語読みであり、イタリア語読みでは「アントニオ」となります。)

そうしてグリマルディ家は、さながらわが国の江戸時代における徳川将軍家と外様大名の関係の様に、フランス王家の課す軍役や宮廷の雑務などをこなしつつなんとかモナコ大公として代を重ねていきました。しかし、そんな当家に1789年、最大の危機が訪れます。フランス革命の勃発です。

このフランス革命については、歴史好きな方なら説明するまでもない事なので、ここでは省かせていただきますが(汗)この革命によってモナコは1793年にフランス革命軍の侵攻により占領されてしまいます。フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを筆頭に、名のあるフランス貴族たちが次々にフランス民衆にギロチンで処刑されていく中で、身の危険を察知したグリマルディ家一門はいち早く脱出に成功しましたが、革命の混乱の最中で先行きは全く読めない状況に立たされてしまいます。

グリマルディ家はその後に頭角を現したナポレオンに期待しますが、すぐに失望させられてしまいます。なぜならフランス皇帝となった彼はグリマルディ家にモナコの返還を認めなかったからです。ここに、1814年のナポレオンの失脚まで21年に及ぶグリマルディ家の長い「放浪生活」が始まります。

では、この苦難の時代、グリマルディ家一門はどうしていたのでしょうか? 実は彼らは故郷であるイタリアのジェノヴァに落ち延び、再起を図ってしたたかに活動していたのです。しかし、ナポレオンの手はすぐにそのジェノヴァにも及び、ここにも彼らはいられなくなってしまいます。といっても、一貴族に逆戻りしてしまったグリマルディ家独力でモナコを奪還する力は当然ありません。これまでの主君フランス・ブルボン王家は滅亡し、スペイン王家すらもナポレオンに屈してしまいます。いったい彼らはどこへ行けばよいのでしょうか? そして日の出の勢いの強大なナポレオンを相手にどう立ち向かえば良いのでしょうか?

そこでグリマルディ家が頼ったのが、サルデーニャ王国のサヴォイア王家でした。このサルデーニャ王国とは、その王家サヴォイア家の名を冠して15世紀から存在するサヴォイア公国が、1720年にオーストリア・ハプスブルク帝国から地中海のサルデーニャ島をシチリア島と交換する事で領有し、本土の公国と合わせて「サルデーニャ王国」として成立していた小王国でしたが、その王家サヴォイア家は、フランス革命政府ならびにナポレオン麾下のフランス帝国を相手に存亡をかけて戦っていた急先鋒だったからです。


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上が少し後の時代(ナポレオン失脚後の1815年以降)そのサルデーニャ王国の領域図です。ナポレオンの最盛期は本土の領土は全てナポレオンのフランス帝国に組み込まれ、サヴォイア家は首都を本土のトリノから地中海のサルデーニャ島に遷して抵抗を続けていました。当然グリマルディ家一党もここに居を移し、サヴォイア家に資金面で協力しながら再起を図るのです。

やがて、長いナポレオンとの戦いは、彼の失脚とセントヘレナ島への流刑によって終わりを迎えます。サヴォイア王家に従って彼と戦い続けたグリマルディ家は、その後の各国の利権回復を定めた国際会議であるウィーン会議によって、ようやく念願のモナコの地へと戻る事が出来たのです。時は1815年、フランス革命軍の侵攻によってモナコを追われてから実に22年の時が流れていました。

次回に続きます。

モナコ公国 ・ ある貧乏貴族の夢と野望が生んだ街

みなさんこんにちは。

大変遅ればせながら平成30年明けましておめでとうございます。相変わらずの遅筆と救いようのない駄文で誠に恐縮ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。(汗)

さて、新たに設けた「生き残った小国たち」というテーマですが、今回ご紹介するのは南フランスの地中海に面する海辺に興隆した魅惑の国、モナコ公国についてお話ししたいと思います。

ところでみなさんは、この「モナコ」という名を聞いてどんな印象をお持ちでしょうか? おそらく多くの人が、カジノやモナコ・グランプリなどのカーレースを思い浮かべるのではないかと思います。しかし、今挙げた二つの有名な点を除けば、それ以外の事についてはほとんど知られておらず、そもそもモナコが立派な独立国である事すら知らない方も多いのが実情です。

そこで、この国の成り立ちや歴史をお話しする前に、モナコの現在の基本データをご紹介しておきましょう。

モナコは冒頭で述べた様に、正式国名を「モナコ公国」といいます。その名の由来は古代ギリシャ時代にこの付近に入植したギリシャ人たちが、英雄ヘラクレスを祭る神殿を建て(言い伝えによるもので、現存していません。)海沿いにポツンと建つその姿がさながら一軒家の様に見えた事から、ギリシャ語で一軒家を意味する「モノイコス」と名付け、それが転じて「モナコ」となったものです。面積はわずか2平方キロで、あのバチカン市国に次いで世界で二番目に小さな国にして、同時に世界で最も小さな国連加盟国でもあります。公用語はフランス語で、人口はおよそ3万6千人余り(2011年調査)その国家体制はモナコ大公家を世襲の君主とする立憲君主制であり、現在の君主はアルベール2世が2005年から在位しています。


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国旗


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上がモナコ公国の位置と国旗、そして街並みの全景です。特に2枚目の街の大きさを表す図に注目してください。端から端までわずか2キロ程度しかありませんね。この国がいかに小さいかご想像いただけるでしょう。そして3枚目の国旗についてですが、この国の国旗は上の様に赤地に白地の実に簡素なものです。(国旗の簡素な点では、わが日本の日章旗も引けは取りませんが 笑)

しかし、同様の図柄の国旗をインドネシアも採用しています。本来なら同じデザインの旗など心理的に避けられるはずですが、国旗というものは当然の事ながらその国の成り立ちを表すものです。例えばわが日本の日章旗なら「日の登る輝く太陽の国」を表すものですが、同様にインドネシアは赤道直下の国であるため、一目でデザインの意味が分かりますね。ではモナコの場合はというと、この国の元首であるモナコ大公グリマルディ家の軍旗に由来するものです。ただし、現実には全く同じデザインというのも国際的に何かと面倒な事態になるので、縦横の比率を別にする事で(つまり、旗の大きさが異なります。)混同を避けています。


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上が現在の国家元首である第14代モナコ大公アルベール2世殿下です。(1958~)

この国は、いくつかの点を除いて前回お話ししたリヒテンシュタイン公国とはあらゆる面で大きな違いがあります。リヒテンシュタインは内陸にあって、規模は非常に小さいながらも美しいアルプスの山々を望む緑あふれる領土がありました。しかし今回ご紹介するモナコは、領土と呼べるほどの広い土地はほとんどなく、純粋に街だけで構成された正に厳密な意味での「都市国家」であり、この様に街そのものだけで一つの独立国として存在する都市国家は、現在世界ではこのモナコと東南アジアのシンガポールだけとなっています。

しかし、モナコにはリヒテンシュタインにはないものがあります。それは「海」です。美しい地中海に面した温暖な気候と、その海からもたらされる豊かな恵みは、中世にこの国が建国するはるか以前の古代から、モナコの人々に暮らしの糧を与え続けてくれました。

それでは、この魅惑の都市国家モナコ公国の誕生と、その歩んできた歴史についてお話を始めたいと思います。

全ての始まりは今から800年以上前の12世紀にさかのぼります。当時ヨーロッパ中央部には神聖ローマ帝国があり、代々の皇帝はローマ教皇と地上における支配権をめぐって激しく争っていました。その最中、北イタリア南岸に両者の争いを巧みに利用しながら急速に成長しつつあった一つの都市国家がありました。その名を「ジェノヴァ共和国」といいます。


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上がそのジェノヴァの位置です。

このジェノヴァ共和国は、その名の通りジェノヴァの街で海洋貿易と通商によって富を蓄えた裕福な商人や市民たちによって1005年に成立した共和制都市国家ですが、その中で特に力を持つ者たちが「都市貴族」となって市政を動かしていました。

そのジェノヴァの都市貴族たちは、先に述べた神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権力争いの中で当然のごとく両派に分かれ、皇帝派は「ギベリン」教皇派は「グエルフ」として激しく争い、時には皇帝派が市政を握り、また教皇派がそれを奪い返すという事を繰り返していたのです。ジェノヴァがモナコの地を得たのは1191年ですが、これも当時皇帝派がジェノヴァの実権を握っていたからで、時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世から「褒美」として与えられたものです。

しかし、ジェノヴァが実際にモナコを築くのは、それから37年も経った1228年からで、それも最初はジェノヴァの西部から海沿いに侵入する敵を防ぐための「城塞」としてでした。つまり、モナコという所はいつしか人が集まって出来たのではなく、軍事拠点としてスタートしたのです。それでも、城塞というからにはジェノヴァ軍の守備隊が駐留し、その駐留軍を相手に物を売る商人や、ジェノヴァ兵目当ての売春婦などが住み着くようになり、次第に城塞周辺に街が形作られていきました。

モナコの都市としての起源はそんな状態からの出発だったわけですが、およそ70年ほど経った1297年、初めて大きな転機が訪れます。ジェノヴァ本国では相変わらず皇帝派と教皇派の権力闘争が続いていましたが、それはジェノヴァ支配下の地方にも飛び火し、モナコにおいても当時城を占領していたのは皇帝派の守備隊でした。

そのモナコを自らのものにすべく、熱い視線をもって密かに狙っていたある人物がいました。その名をフランソワ・グリマルディと言います。


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上がそのフランソワ・グリマルディです。(?~1309?)全身鎖帷子(くさびかたびら)の甲冑姿で剣を手にした勇ましい肖像です。彼はジェノヴァの都市貴族グリマルディ家の一族でしたが、当主ではなくいわば傍流でした。そのためグリマルディ本家とは別に、自ら身を立てるしか生きる道が無かったのです。(金と土地を持っているのは本家の一族だけですからね。つまり、彼の貴族としての地位は名前だけで、実際は絵に描いたような「貧乏貴族」だったのです。傍流の分家の一族というのは、歴史上どこの国でもそんなものです。苦笑)

フランソワのグリマルディ家は教皇派の一族でした。フランソワ自身武勇に優れ、金をもらって生計を立てる「傭兵」として生きてきたのですが、ジェノヴァ本国ではすでに両派の同業の強豪たちがひしめき、とても彼が活躍出来る場はありませんでした。それに傭兵業では収入も不安定で、いつまでも年齢的に続けていけるものではありません。彼は自らの将来に焦りを募らせていました。

そこで彼は、ジェノヴァ本国ではなく地方に目を向けます。まだ誰も目を付けていない場所を探し、その地を力づくで奪い取って自らの所領にするためです。彼の望みは永続的な収入の確保と、自ら新たなグリマルディ家の当主として自立する事でした。そして目を付けたのが、皇帝派の支配するモナコだったのです。

モナコ攻略の大義名分には苦労しませんでした。相手は教皇派の彼にとって攻撃すべき皇帝派だからです。彼は傭兵仲間を集めて一部隊を編成すると、早速作戦を開始します。しかし、不落とはいかずとも、難攻が予想されるモナコの城をどう攻め落とすつもりなのでしょうか? 実は彼には秘密の作戦がありました。

その作戦とは、修道士に変装して物売りの商人らに紛れ、城内に潜入して買収した城兵に城門を開けさせ、一気に城を占領してしまおうという大胆なものです。作戦はまんまと成功しました。全く油断していた守備隊はフランソワ隊の急襲になすすべなく、あっけなくモナコの城は彼らに占領されてしまったのです。

こうして彼は、一城の主として夢を叶えたのですが、その彼の夢も長くは続きませんでした。なぜなら、この彼の大胆不敵な奇襲作戦の成功に、ジェノヴァ本国では彼を「狡猾な男」と呼んで警戒するようになってしまったからです。これに最も頭を悩ませたのはフランソワの実家であるグリマルディ家でした。勝手に行動したフランソワに対し、当時は教皇派であった共和国政府からも睨まれてしまったからです。そこでグリマルディ家では、フランソワを挿げ替えて一族の別の人物をモナコ領主にする密約を共和国政府と取り交わすのです。

そして4年後の1301年、ジェノヴァでは再び皇帝派が政権を奪取、その政府は彼を「共和国の裏切り者」として犯罪者とし、モナコ奪還の軍勢を差し向けます。

わずか100人に満たない手勢しかないフランソワは、ジェノヴァ本国の1千を超える大部隊の攻撃に城を持ちこたえられず、逃亡を余儀なくされます。しかし、すでに実家からも見放され、もはや故郷のジェノヴァに戻る事も叶わず、もう彼に行く場所はありませんでした。結局彼は南フランスで失意の内に亡くなります。一人の男の夢と野望が潰えた瞬間でした。

一方、初めての主を失ったモナコはどうなったのでしょうか? 実はその後、フランソワの実家グリマルディ家がモナコの領有権を主張し、以後グリマルディ家が世襲の領地として支配する事になるのです。

「わがグリマルディ家の一族の者が手に入れたのだから、当然この地はわが一門の領地である。」

というわけです。グリマルディ家では子に恵まれなかったフランソワの後継として、彼の従弟に当たるレーニエ・グリマルディを「レーニエ1世」として擁立していました。そしてこの彼に始まる一族が、今日のモナコ大公家の正式な直系の先祖に当たります。

しかし、ジェノヴァの政権はまたも皇帝派が実権を握っていました。教皇派のグリマルディ家は再び政権が戻るのを待つしかありません。ところが、今回は皇帝派の長期政権が続き、グリマルディ家はなんと30年もの間、モナコに手を伸ばす事は出来ませんでした。

ジェノヴァの政権が再び教皇派に戻り、グリマルディ家がモナコに戻るのは1331年になってからですが、すでにモナコ領主として当家が擁立していたレーニエ1世はこの世になく、世代は彼の子供たちの時代になっていました。このままでは争いの元になるのは必至です。そこでグリマルディ家では、モナコの相続争いを防ぐために意外な手を打ちます。

それはレーニエ1世の血を引く者たちで共同統治し、利益も当分に分け合うというものです。このシステムはとても賢明でした。利害の調整がうまく機能し、一族間での争いを未然に防いだからです。これ以後、わずかな空位期間はあるものの、グリマルディ家はモナコの世襲の領主として周囲に認知されていきます。

この間にも、ジェノヴァ共和国を囲む国際情勢は目まぐるしく変化していました。当時ジェノヴァのはるか西、イベリア半島東部にはアラゴン王国が台頭し、地中海全域に勢力を広げていました。その手はモナコにも及び、15世紀初めには一時アラゴン王国に占領されてしまっていたのです。


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上が当時のアラゴン王国の支配領域の図です。
このままではモナコはアラゴン領となってしまいます。名門とはいえジェノヴァの一都市貴族にすぎないグリマルディ家では、強大なアラゴン王国に太刀打ちなど出来ようはずもありません。しかし、グリマルディ家にはある強力な「武器」がありました。その武器とは「お金」の事です。

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上は当時地中海世界で最も流通していたフィレンツェのフィオリーノ金貨です。ジェノヴァ共和国でも金貨は発行していましたが、このフィオリーノ金貨の方が品質が良かったので(つまり、金の純度が高いという事です。)国際通貨として多くの国で支払いに使われていました。

実は、グリマルディ家は海洋貿易で財を成したジェノヴァでもトップクラスの富裕な一族でした。彼らはそれを元手に金融業でも大きな利益を得ていたのです。それに引きかえアラゴン王国は、上の図の様に見た目は広大な領域を支配してはいましたが、その維持費と、イスラム教徒からイベリア半島を奪還する祖国回復運動(レコンキスタ)のために慢性的に莫大な出費にあえいでいました。

そこでグリマルディ家は、モナコの買取をアラゴン王に持ち掛けます。喉から手が出るほどお金が欲しいアラゴン王も、これといって得る物のない辺境のモナコの地に固執せず、喜んでこれを売り渡します。こうして1419年、両者の間で契約は成立し、モナコは正式にグリマルディ家の所領となるのです。グリマルディ家が、望んでもいないのにひょんな事から関わる事になったモナコとの関係は、ここに切っても切れない間柄として完全に歴史の表舞台に登場する事になりました。そして、その最初の一石を投じたのは、一族のはみ出し者だったある一人の貧乏貴族であり、モナコの歴史は、そんな男の儚く消えた夢から始まったのです。

次回に続きます。

生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(後編)

みなさんこんにちは。

心優しい名君ヨハン2世の優れた統治と巧みな外交手腕によって、普墺戦争の小嵐と、第一次世界大戦という大嵐を乗り切ったリヒテンシュタイン公国でしたが、その大戦が終わると、公国にこれまで経験した事のない事態が発生しました。

その事態とは、第一次大戦に敗れた結果、中世以来リヒテンシュタイン家が主君として仕えてきたハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、新たに成立したオーストリア共和国政府がハプスブルク家を国外追放してしまったという事実です。

しかし、この事態はリヒテンシュタイン公国にとって新たな門出ともなるものでした。なぜなら、これまで公国(というよりもリヒテンシュタイン家)にとって政治、経済、軍事、外交、文化その他すべての分野においてオーストリアは完全な宗主国でしたが、帝政を廃して共和制となったオーストリアと君主制のリヒテンシュタインは、もはや互いに相容れない立場となり、公国はもうオーストリアに対して無条件で服属する必要が無くなったからです。

そこで、今後の公国の進むべき道について、元首ヨハン2世は考えます。

「思えばわがリヒテンシュタイン家は、600年以上もの長きに亘ってハプスブルク家に忠実に仕えてきた。つまり当家はハプスブルク家に仕えてきたのであって、オーストリアという国家にではない。しかし帝政が崩壊してそのハプスブルク家がおいたわしくも野に下られた今、もはやオーストリアに気を使う必要はあるまい」

こうして彼は、オーストリア一辺倒であったそれまでの公国の在り方を抜本的に改め、オーストリアとの決別を決意するのです。


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上は子供たちと一緒に気さくにベンチに座るヨハン2世です。(1840~1929)前回もお話ししましたが、彼は第12代リヒテンシュタイン公として18歳で即位し、巧みな政治手腕と先祖から受け継いだ莫大な財力で列国の干渉を排し、この小さな国を守り抜きました。また、70年という長い在位中に自国の領民を常に気にかけ、その心優しさから領民に「善良公」として大変慕われました。

ヨハン2世は、第一次大戦中の英仏による経済封鎖の時に食糧援助してくれた西のスイスと接近し、今後はスイスと歩調を合わせていく方向に国の舵を切ります。現実問題として、まずは何よりも「経済の安定」が最優先です。そのために早くも大戦終結の翌年の1919年に、スイスと「関税同盟」を締結します。

この関税同盟というものは、簡単に言えば同盟した国同士で輸出入にかかる関税を撤廃し、自由に物を売り買いして経済の活性化を促すものです。しかし、これを結ぶには大きなリスクがありました。実はリヒテンシュタインはすでに1852年にオーストリアと関税同盟を結んでいたからです。これをあからさまにリヒテンシュタイン側から破棄しては、いかに規模は小さくなったとはいえオーストリア側の反発を買ってしまう恐れがありました。

オーストリア国内には、リヒテンシュタイン家がハプスブルク家から与えられた多くの所領がありました。もし、オーストリア側を怒らせれば、その対抗措置としてこれらの「不動産」を差し押さえられ、没収されてしまう危険があったからです。

これも、老練なヨハン2世はうまく切り抜けました。彼はオーストリア政府にこう言ったのです。

「これまでわが国は、ハプスブルク家ならびにオーストリア・ハンガリー帝国と関税同盟を結んでおりましたが、貴国政府がハプスブルク家を追放して帝政を廃止された以上、この同盟は貴国の側から破棄されたものとなりました。まことに残念な事ではございますが、両国間に締結されていた関税同盟はこれをもって効力を失い、終了させていただきます」

こうして「建前」として、相手のオーストリアの面目を潰さないように慎重に理由付けをしつつ、やんわりと(笑)オーストリア側の都合で同盟が解消されたものとしたのです。その裏で彼はしたたかにオーストリアの議員らに多額の金をばらまき、先に述べた動きが出るのを封じ込めてもいました。

ヨハン2世のこうした努力と工作により、オーストリアからの報復措置もなく、リヒテンシュタイン公国はスイスとの関税同盟を結ぶ事が出来たのです。以後、公国はスイスと運命共同体となり、今日に至っていますが、その方向に国を導いたのも元首ヨハン2世でした。

このヨハン2世によるオーストリアからスイスへの外交方針の転換は、その後にリヒテンシュタイン公国がたどった歴史においてもその判断の賢明さと正しさが証明されています。ヨハン2世の死後、ヨーロッパを殺戮と破壊によるこの世の地獄に変えた恐怖の独裁者、アドルフ・ヒトラーが引き起こした第二次世界大戦においても、リヒテンシュタインはスイスとともに中立を貫き通し、結局ドイツ軍はこの小さな国に攻めては来なかったのです。


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上は言わずと知れたナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーです。(1889~1945)この人物に関しては、歴史好きならもはや説明は不要でしょう。ではなぜ、ヒトラーはリヒテンシュタイン公国に侵攻しなかったのでしょうか? その理由は実に単純です。つまり、簡単に言えば

「国があまりにも小さすぎた」

という事です。ヒトラーの目標は自らのドイツ第三帝国によるヨーロッパ全土の征服と、その先の更なる領土拡大であり、リヒテンシュタインの様な小さな国など彼の眼中になく、そもそもその存在すら意識していなかったのです。それに、リヒテンシュタインは先に述べた様にスイスと関税同盟を結んでいたため、これに攻め入れば中立国とはいえ国民皆兵のスイスと戦争になります。

実は意外なのですが、ヒトラーはスイスなど一部の中立国には侵攻しませんでした。もちろん最強のドイツ軍をもってすれば、これらの占領は可能でしょう。しかし、問題はその後です。なぜならその占領維持に無駄な兵力を削がれ、今だ戦っていたイギリスやソ連との戦争に回す貴重な兵力が減る事になってしまいます。彼はそうしたコスト面の無駄を意識したのでしょう。ともあれ、公国はその国土の小ささが逆に幸いして第二次大戦の惨禍を免れたと言えるかも知れません。

さて、人類史上最悪の戦争であった第二次世界大戦が、そのヒトラーの破滅によって終わると、戦争に明け暮れたヨーロッパにようやく平和が訪れました。それは同時に、これまで周囲の大国の身勝手な思惑に翻弄され続けてきたリヒテンシュタイン公国が、これらの荒波を乗り越えて生き残った瞬間でもありました。

すでに時は20世紀、気が付けばヨーロッパの国々は一部を除いてそのほとんどが共和制となっていました。そんな中にあって、リヒテンシュタインは小さくとも数少ない君主国として生き延びたのです。これはまさに元首であるリヒテンシュタイン家の勝利でした。

この時のリヒテンシュタイン公国の元首はフランツ・ヨーゼフ2世(1906~1989)という人で、彼は先のヒトラーとナチスの危険性に早々に気付き、1933年にヒトラーがドイツ首相になった時点で君主権を行使し、総選挙を無期限で停止して公国がナチズムに染まるのを未然に防いだ賢明な君主でした。

彼はこの先の公国の進むべき道を模索します。

「我々はこれからもスイスとともに歩んで行く。その方針に変わりはないが、問題はこれからわが国民をどう養って行くかだ。」

第二次大戦終結直後の1940年代後半のリヒテンシュタインの人口はおよそ一万余りでした。いかに莫大な資産を持つリヒテンシュタイン家といえども、これらの人々を全て当家が「召し抱える」というわけには行きません。かといって、公国の領域内だけでこれらの人々を養うには、その領土はあまりにも小さすぎます。そもそも人口の全てを養えるだけの農地も、牧畜以外のこれといった産業もないのです。それに、第二次大戦とその後の東西冷戦は、富裕なリヒテンシュタイン家の資産にも大きな影響を与えていました。

当家がかつてのハプスブルク家の家臣として、旧オーストリア・ハンガリー帝国の各地に多くの所領を有していたのは何度も述べた事ですが、そのうち帝国崩壊後に成立したチェコスロバキア(旧ボヘミアとモラビア)に持っていた不動産その他の資産が、ソ連の占領によるチェコスロバキアの共産化により全て没収されてしまったからです。

それは当時のリヒテンシュタイン家の全資産の三割以上に達し、つまり当家はかなりの「大損」をしてしまったのです。(資産の多くが不動産であった事が、逆に裏目に出てしまったようですね。苦笑)そこで、フランツ・ヨーゼフ2世は失った資産の損失の穴埋めと、他国に持つ不動産以外の新たな収入源の確保、そして何より公国領民の生活の安定のために、大胆な計画を実行に移します。

その大胆な計画とは、法人税を他国よりも大きく下げて外国企業を誘致し、領民を雇用してもらうというものです。彼は隣国スイスをモデルにし、スイスが同様の方法で外国から多くの銀行を呼び寄せ、一大国際金融拠点に成長した例に学び(これも、ヒトラーがスイス侵攻を断念した理由の一つです。スイスの銀行には多くのドイツ企業や資産家も多額の資金を預けてあり、もしこれに攻め入ればスイス政府は報復としてこれらを全てアメリカやイギリスの支店に移してしまい、それどころか、ドイツ打倒のために米英両国に提供してしまうでしょう。両国にしたら敵であるドイツの大金を戦費として自由に使えるのですから「ボロ儲け」です。その逆に自分の金で米英両国に反撃される事になるドイツにすればたまったものではありません。ヒトラーはその愚を避けたのです。つまりスイスはドイツの預金を「人質」にとってヒトラーを退けたと言えるでしょう。)公国にもこれを適用しようと考えたのです。

フランツ・ヨーゼフ2世のこの計画は大当たりしました。第二次大戦後の混乱と戦費調達のために、アメリカ、イギリス、フランスその他各国は多額の法人税を企業に課しており、その負担を嫌った多くの企業がリヒテンシュタインに子会社を設立、その登録手数料と法人税収で、リヒテンシュタイン家すなわち公国政府は大きく潤ったからです。


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上の写真の最も年配の人物が第14代リヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世です。彼の名は旧オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が名付け親となって同名を与えられたものです。(写真小さくてすいません。汗 写真には青年時代の現リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世と、その後継者アロイス公子の幼少時の姿があり、侯爵家親子3代が写っていて丁度よいと思いお載せました。)

しかし、フランツ・ヨーゼフ2世が取り入れたこの政策は、本来の彼の考えとはかけ離れた姿に公国を変貌させてしまいました。なぜなら外国企業の多くが自国の課す法人税を逃れる「節税」の抜け道として、書類上だけ存在するが、登記上の住所には実体がない「ペーパーカンパニー」を設立し、その口座に利益をストックするために公国を利用する様になっていったからです。これを「タックス・ヘイブン」(租税回避)と言います。

タックス・ヘイブンそれ自体は、国際法的には何ら違法な事ではないのですが、問題はこれを悪用して世界各国の富裕層で「脱税」が横行する負の連鎖を招き、それがゆえに世界各国はタックス・ヘイブンを国の生業とするリヒテンシュタインをはじめとした小国を

「脱税の手助けをしている」

として非難し、近年国際問題となっています。ともあれ、第二次大戦後のリヒテンシュタイン公国は、中東の産油国以外では一人当たりの国民所得が世界でもトップクラスの富裕さを誇る豊かな国として今日に至っているのです。

そして21世紀の現在、中世以来続く名門リヒテンシュタイン侯爵家にも新たな若い世代が成長し、公国をどう未来に導いていくか、その動静にも静かな注目が集まっています。


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上は現リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世(1945~)と、その長男で次期元首のアロイス公子殿下(1968~)です。実はハンス・アダム2世は還暦に達した2004年に統治権をアロイス公子に譲り、以後、アロイス公が摂政として公国を統治しています。父から子へ、国の未来を託した君主のあるべき姿の見本ですね。

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上は2012年(平成24年)にアロイス殿下がわが国に来日した際に、わが日本の徳仁皇太子殿下をご訪問された際の写真です。皇太子殿下は英国ご留学中にリヒテンシュタイン家のご招待で二度ほど公国を訪問されており、またハンス・アダム2世は昭和天皇の大喪の礼にご参列、アロイス公も今上天皇陛下ご即位の式典に参列されるなど、わが天皇家とリヒテンシュタイン侯爵家は親密な交流を続けておられます。

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上の画像3枚はリヒテンシュタイン家の現在の居城ファドゥーツ城です。侯爵一家はここに住んで政務を取り仕切り、外国の賓客をもてなす迎賓館にもなっています。(よく見ると、3枚目の写真にはサッカーゴールが写っていますね。)

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上の一連の画像はリヒテンシュタインの首都ファドゥーツの街並みの様子です。(人口およそ5500人ほど)よく見ると、建物は伝統的な古いものよりも近代的なものが多いですね。タックス・ヘイブンによってこの国に誘致された外国企業のテナントとして建てられたもので、もちろんこれらもほとんどがリヒテンシュタイン家の所有であり、そのテナント料も当家の財源の一つです。

これまでお話しして来た様に、リヒテンシュタイン公国はタックス・ヘイブンによる法人税収その他の関連利益だけで国の財政の半数以上に達し、一般国民には所得税、相続税、贈与税といった直接税が全くない羨ましい国です。それゆえに国民の一人当たりのGDPは毎年世界でも一、二を争う豊かな国となっています。(といっても、それは人口が少ないために数字の上で突出している面が大きいです。このテーマの第一回で、この国の人口はおよそ3万5千余とご紹介しましたが、実際のリヒテンシュタイン国民はその3分の1の1万2千程度で、他はみな外国人です。)

リヒテンシュタイン公国は外交と国防を合わせて隣国スイスに委託しており、通貨もスイス・フランを使っています。(もちろんユーロも使えます。)前回お話したように、この国は1868年に軍隊を解散して以来非武装中立国となっており、治安を維持する警察が100名ほどいるだけです。政治は一応25名ほどの議員から成る議会があり、首相やいくつかの閣僚もいますが、何せ人口が少ないので、実際の国政は摂政アロイス公が取り仕切り、これらの議員は各地の代表として摂政アロイス公に意見や報告をするだけの存在です。(企業に例えれば、1万2千の従業員を擁する世襲企業の若い社長とその役員会のようなものでしょうか? 笑)

また、リヒテンシュタイン侯爵家はヨーロッパの君主の中で最も資産が多く、その財力は日本円にしておよそ5500億円以上に達すると言われています。それらは、リヒテンシュタイン家がオーストリアその他の周辺各国に持つ所領などの不動産(その総面積は公国の領土をはるかに超える規模だそうです。)以外に、歴代の侯爵が買い集めた美術品のコレクションや、当家が経営するプライベートバンクのリヒテンシュタイン銀行が保有する莫大な金融資産から成っています。

そのため、侯爵家は公国から全く歳費というものを受け取っておらず、それどころか公国そのものが侯爵家の財力に依存している稀有な国です。(わが天皇家も、戦前は世界屈指の財を誇る王家でしたが、敗戦により皇室財産は国のものとなり、皇室ご一家は毎年国から歳費を支給されています。これは自分の勝手な意見ですが、諸外国の王家と比較してあまりに質素すぎる皇室ご一家に、かつての皇室財産の一部をご返還申し上げるべきではないかと強く考える次第であります。)


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上はウイーンにあるリヒテンシュタイン美術館に展示されている侯爵家の美術品コレクションの様子です。当家が所有するコレクションは全部で3万点にも及び、公開されているのはそのうちのわずか数百点のみだそうです。(侯爵の黄金の冠を子供たちが目を丸くして眺めています。面白い対比ですね。笑)
 
みなさんも、ヨーロッパ旅行などを計画されているなら、一度この小さな国を訪ねて見てはいかがでしょうか? アルプスの山々と美しい緑に牛や羊たちが草を食むのどかで平和なこの国は、きっとみなさんに心の癒しを与えてくれるでしょう。そして運が良ければ本物の侯爵とお会いしてビールなどを片手に記念撮影なども出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(中編)

みなさんこんにちは。

前回に引き続き、リヒテンシュタイン公国のその後の行く末についてお話ししたいと思います。

1719年1月、400年以上仕えてきたハプスブルク皇帝家からの許しを得、初めて現在の地に自立したリヒテンシュタイン家ですが、実はこの時、オーストリア皇帝カール6世から認められたのは当時神聖ローマ帝国に300以上あった「領邦」としての存在で、完全な独立国家とはいえませんでした。しかし、それは言わば建前上の話で、実際は領内の全てをリヒテンシュタイン家が取り仕切る独立国同然のものでした。

それでも、リヒテンシュタイン家のハプスブルク家家臣としての地位と忠誠は揺らぐ事は無く、その後も当家はハプスブルク家を支え続けました。しかし、歴史とはとりわけ弱小国にはとても残酷非道なものです。そのまさに典型ともいうべき当家に、18世紀末から20世紀にかけ、次から次へと大きな苦難が降りかかります。

最初の苦難は1796年から襲い掛かります。西の大国フランスで、その7年前の1789年に起きたフランス革命によりブルボン王朝が倒れ、フランスは革命政府によって共和国となります。当時ヨーロッパの大半の国はほとんどが王侯貴族の支配する君主制であり、フランス革命はそのヨーロッパの全君主国にとって大いなる脅威と挑戦でした。

そこで各国(オーストリア、プロイセン、イギリス、スペイン、ナポリ、サルデーニャ、ネーデルラント)は、1793年に「対フランス大同盟」を結んでこれに対抗し、フランス革命政府を倒すべく大軍を差し向けます。一度に複数の敵に四方から攻撃され、出来たばかりの未熟なフランス革命政府はあわや存亡の淵に立たされますが、ある一人の若き将軍の活躍によってフランスは窮地を脱する事が出来ました。その若き将軍とは、みなさんもご存じのナポレオンです。

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上は最も有名かつ「カッコイイ」(笑)ナポレオンの絵です。恐らく誰もが一度は見た事があるでしょう。この時、彼はなんとまだ20代後半に過ぎませんでした。彼が戦場で連勝を重ねる事が出来たのは、士官学校で「砲兵科」出身であった事から大砲とその威力について熟知しており、見た目は勇壮だが、中世の騎士時代と何ら変わらない時代遅れなそれまでの騎兵の突撃戦法に代わり、大砲を集中使用して敵軍を薙ぎ払う「砲兵戦術」を駆使した事が非常に大きいでしょう。

ナポレオン率いるフランス軍は破竹の勢いで進撃を続け、西はポルトガルから東はロシアに至るまで、ほぼヨーロッパ全域を縦横無尽に暴れまわります。いわゆる「ナポレオン戦争」です。この戦争は最初の「対フランス大同盟」が結ばれた1793年に始まり、ナポレオンが失脚してセントヘレナ島に流刑となる1815年まで22年もの長期間に亘った大戦争で、先の同盟も構成国が入れ替わりながらなんと7回も結ばれました。

さて、その間今回のテーマの主役、リヒテンシュタイン公国は一体どうしていたのでしょうか? これについてはもうはっきり言って、ただひたすら「忍耐」の一語に尽きます。皇帝となったナポレオン麾下のフランス帝国と、リヒテンシュタイン家の主君ハプスブルク家のオーストリア帝国という大国の狭間にあって、ただ両国の情勢と思惑に振り回され、なすすべもなく耐え忍ぶしかありませんでした。

フランス軍とオーストリア軍の戦闘により、その「吹けば飛ぶ」ような小さな領土は好き放題蹂躙され、領民たちは大事な財産である牛、馬、羊はもちろん、そのわずかな農地から産する全ての収穫、家々にあったパンとチーズの一かけらに至るまで根こそぎ全てを両軍に略奪され、この小さな国の被った損害は当時の記録や資料から想定して、現在の日本円でおよそ40~50億円に上ったそうです。この頃のリヒテンシュタインの人口は約5千人程度だったそうなので、領民一人当たり大体80~100万円の損害という事になります。(後にお話ししますが、この国は現在でこそ世界でもトップクラスの国民所得の高さを誇る豊かな国なのですが、それは第二次大戦後以降の事で、まだ19世紀初頭のこの時代は他の多くの国々と同様人々はとても貧しく、今の私たちの感覚でいえば一日数百円で暮らす様なつつましい生活をしていたわけですから、そんな中でどれだけの負担か想像してみて下さい。)

では、この苦難の時代に領主のリヒテンシュタイン家は一体どうしていたのでしょうか? もちろん彼らは領民たちを見捨てた訳ではありません。しかし、ナポレオンとの戦争はあまりにも長過ぎました。この時のリヒテンシュタイン家の当主はヨハン1世という人でしたが、彼は主君ハプスブルク家のオーストリア軍の将軍の一人として一軍を率いてナポレオンのフランス軍と戦うのに精一杯で、とても自領の事まで手を回す余裕は無かったのです。


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上が第10代リヒテンシュタイン候ヨハン1世です。(1760~1836)

と言っても、ヨハン1世は自領の領民たちのために何もしなかったのではありません。リヒテンシュタイン家にはある一つの大きな力がありました。その大きな力とは「お金」の事です。当家がハプスブルク家家臣の中でも指折りの富裕さを誇っていた事は先に述べましたが、ヨハン1世はその資産を惜しみなく取り崩し、戦中はナポレオンの命によって強制徴兵されそうになった領民を守るため、近くのナッサウ公国に大金を払ってその兵役を肩代わりさせ(現在の日本円にして毎年2千万円以上だそうです。これは同時に主君ハプスブルク家に銃を向けるのを避けるという二つの目的がありました。)戦後は荒廃した領地と領民たちの復興に残りの治世を尽くしたのです。

このナポレオン戦争はそれまでのヨーロッパの秩序を粉々に打ち砕きました。特に844年続いた「中世のシンボル」神聖ローマ帝国が1806年に崩壊した事と、ナポレオン失脚後の1815年からオーストリア主導で成立した「ドイツ連邦」の成立により、かつての帝国内の領邦は全て正式に独立した国家となり、リヒテンシュタインも名実ともにハプスブルク家から完全な自立を果たしたのです。

しかし、それから半世紀を過ぎた1867年、新たな苦難が再びリヒテンシュタインに襲い掛かります。「普墺戦争」の勃発です。これは北ドイツのプロイセン王国とハプスブルク家のオーストリア帝国が、ドイツ統一の主導権を争って引き起こしたものですが、自立したとはいえ長い間ハプスブルク家に仕えてきたリヒテンシュタイン家は当然オーストリア側に立たざるを得ない困った立場に陥ります。

この時代のリヒテンシュタイン家の当主は、先のヨハン1世の孫にあたるヨハン2世という人で、彼はこの危難を巧みな判断力でうまく切り抜けていきました。


Johann_II_v_Liechtenstein.jpg

上が第12代リヒテンシュタイン公ヨハン2世です。(1840~1929)晩年の肖像画ですが、いかにも優しそうなまなざしの老紳士ですね。彼は18歳の若さで公に即位すると、優れた統治手腕と機転を発揮して、この小さな国を守り抜きました。また、彼は長命でもあり、その在位期間は歴代リヒテンシュタイン公で最長の70年以上に亘りました。(リヒテンシュタイン家の爵位は読み方は同じでも公爵の一段下の侯爵で、それまでは「候」としていましたが、すでに独立国となって以降は勝手ながら分かりやすく「公」と表記させていただきます。汗)

ヨハン2世はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から、80名の兵士をもってオーストリア軍に参加するよう命じられ、うやうやしくそれを受け入れます。しかし、彼は情勢を的確に判断し、軍備の優れたプロイセン軍に対して遅れた装備で民族混成のオーストリア軍には勝ち目がない事を戦う前から予想していました。そこで彼は「準備に時間がかかるから」とかいろいろ理由を付けてわざと自国の兵の出発を遅らせ、プロイセン軍のいるボヘミア方面ではなく、さしたる強力な敵のいなかった南のイタリア方面に兵を南下させたのです。(小国とはいえ一応リヒテンシュタイン軍の総司令官はヨハン2世ですからね。軍の「統帥権」は彼にあるのですから、どこに兵を差し向けるのかは彼の自由なのです。笑)

この時のリヒテンシュタイン軍の戦費は、全てリヒテンシュタイン家すなわちヨハン2世がその資産から全額負担したそうです。結果は彼の予想通り、オーストリア軍はプロイセン軍に大敗し、多額の賠償金と軍備の縮小を余儀なくされるのです。一方南下した80名のリヒテンシュタイン兵は、すでに戦争の勝敗が決していたために戦う事なく全員無事で、たった一か月半で帰国しました。

話はここからです。先に述べた様に普墺戦争はオーストリアの敗北で終わり、オーストリアはプロイセンから多額の賠償金を課されてしまいました。その捻出のために、彼らはその負担の一部を富裕で知られたリヒテンシュタイン家にも求めてきます。独立したとはいってもやはりハプスブルク家には大きな「借り」があるリヒテンシュタイン家は道義上これに逆らう訳には行きません。

そこでヨハン2世は一計を案じます。

「恐れながら、この度の戦争では当家も大きな出費を迫られ、財源に窮しております。そのためわが国は軍を解散して今日の帝国のご負担の軽減の一助とさせていただきとうございます。」

つまり、直接お金は出せないが、軍備を無くす事でその維持費と削減兵力をもってオーストリアの肩代わりにさせてもらいたいと申し出たのです。と言っても、当時のリヒテンシュタイン軍の総兵力はたった80名でしかありません。そう、あの80名の兵士たちです。しかし、興隆著しい宿敵プロイセンに備えて出来るだけ軍備を減らしたくないオーストリアはこれを了承。こうして1868年、リヒテンシュタイン公国は今日に至る「非武装中立国家」となったのです。

実際には、この時ヨハン2世はリヒテンシュタイン家がこれまでに得た各地の所領から得る収入や、蓄積してきた金融資産など先祖代々受け継いできた莫大な財産があり、財源に困ったりなどしていませんでした。しかし、彼はその金を出来るだけ自国の領民たちのために使いたいと巧みにハプスブルク家を上手く欺いたのです。

ヨハン2世はお金の使い方も良く心得た人物でした。まず、解散したあの80名の兵士たちの失業対策として、ライン川の堤防工事などの公共事業で仕事と給料を与え(もちろん費用はヨハン2世のポケットマネーです。)さらに貧しい領民たちのために総額8億円もの無利息貸付(これもヨハン2世持ちです。お金を貸すのに「無利息」など儲けにならないから当然あり得ませんし、またそもそも領民たちに返済出来るかも分かりません。ですから事実上領民たちにお金を「タダであげた」という方が正しいでしょう。驚)

ヨーロッパの国際情勢は、数千万の人口を擁する広大な領土を持つ統一された大国同士が、海外植民地獲得のために数十万単位の常備軍から成る巨大な軍備を競い合う「帝国主義」の時代になっていました。そんな中にあって、もはやリヒテンシュタインの様なあまりに小さな国がわずかな軍隊を持っていたところで、いざ戦争になればいともたやすくその小さな領土を蹂躙されてしまうのはナポレオン戦争の時に実証済みでした。

そこでヨハン2世はコストがかかるばかりで「リヒテンシュタインにとっては」無意味な軍備を廃止し、国の防衛を外交に委ねる方針に切り替えたのです。もちろんこうした国の在り方は、彼らの様な弱小国にしか出来ないものです。例えば日本でも「非武装中立」を主張する連中(その多くが歴史というものをろくに知りもせず、単に軍事や戦争と聞くだけで「悪」と妄信する無知で短絡的な思考しかしない女性たちですが。呆)が極めてわずかながらおりますが、人口1億2千万の大国であるわが国では机上の空論にほかなりません。

さて、新たな道を歩みだしたリヒテンシュタイン公国の苦難はさらに続きます。20世紀に入り、最初の危機は第1次世界大戦の勃発です。この戦争については、1914年6月にオーストリア皇太子夫妻がバルカン半島の小国セルビアの青年に拳銃で暗殺された事がきっかけで、ドイツ、オーストリア、イタリア(後に連合国に寝返って脱退。)ブルガリア、オスマン・トルコなどの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国に分かれて戦われた人類最初の「世界大戦」である事はみなさんご存知の事と思います。

リヒテンシュタイン公ヨハン2世は早々にウィーンのアメリカ大使館を通じて「中立」を宣言していました。しかし、リヒテンシュタイン家はハプスブルク家家臣としてオーストリア貴族でもあり、領民もその大半がドイツ系あった事から、当然イギリス、フランスら連合国にとっては「敵国」と同類にしか見えません。そこで英仏両国は、この小さな国に「経済封鎖」を仕掛けて一切の食料の出入りを止めてしまいます。(これはもう単なる「弱い者いじめ」でしかありませんね。こんな小国の一体どこに、英仏に敵対するだけの力があるというのでしょうか?呆)

内陸のリヒテンシュタインはこれにより大変な食糧不足に陥ります。このままでは当時人口8千余りのリヒテンシュタインはみんな餓死してしまいます。公国は存亡の淵に立たされました。そこへ思わぬところから救いの手が差し伸べられます。なんと同じ中立国である隣国スイスが、戦争に備えて備蓄していた小麦の一部を送ってくれたのです。

もちろん「タダ」ではありません。スイスといえど同じ内陸国である以上食糧に余裕があるわけではないからです。それでも、スイス人は人道的見地から貴重な食糧をリヒテンシュタインに輸出してくれたのです。では、誰がその代金を支払ったのでしょう? そう、それは元首ヨハン2世その人です。実は、スイス政府に密かに小麦の輸出をしてもらえるよう裏工作をしたのも、他ならぬヨハン2世その人でした。

こうしてリヒテンシュタインの人々は最大の危機を乗り切る事が出来たのです。ヨハン2世はその温かく心優しい人柄から領民たちに大変慕われ、今日に至るまで「ヨハン善良公」として歴代リヒテンシュタイン公で最も尊敬されています。

次回に続きます。
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