アレクサンドロス大王の戦い 1

みなさんこんにちは。

今回は世界史に目を向けて、今も欧米先進国や中東諸国で絶大な人気を誇る、アレクサンドロス大王についてお話したいと思います。自分が今回このテーマを選んだ理由についてですが、それはこの人が、恐らく人類史上初めて「世界征服」という野望を抱き、それを実行した人物であるという点に興味を引かれたからです。

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(アレクサンドロス大王について詳しくお知りになりたい方は上の2つの本が良書です。上の本はカラーで写真や図が多く掲載されていて資料としては最適ですが本文が短く、ページ数は180ページ余りです。下の本は2世紀の帝政ローマの歴史家アッリアノスの有名な「アレクサンドロス大王東征記」の文庫版で、さらに詳しく大王について記した1900年読み継がれる名著です。上・下巻に別れ、ページ数は上巻473ページ、下巻は508ページという読み応えのあるもので、ほとんどの方がこの3冊をまとめて購入されています。)

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アレクサンドロス大王(紀元前356~323)は正式にはアレクサンドロス3世といい、(英語読みではアレクサンダーですが、本文ではこちらの呼び名にします。)もともとは現在のギリシャの中央部に位置していたマケドニア王国の王でした。(地図で見ると、北にある現在のマケドニア共和国とはだいぶ位置が違いますね。)

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このマケドニア王国は、紀元前700年頃から310年まで約400年以上続いたアルゲアデス王家が建国した国家であり、アレクサンドロスはそのアルゲアデス朝26代国王に当たります。

当時このギリシア地域はたくさんの都市国家(ポリス)に分かれ、とりわけアテネ、スパルタ、テーベなどが互いに相争い、時には同盟をするというサイクルを繰り返しており、さらに東には、エジプトをも従えた強大なペルシア帝国が、そんなギリシアの混乱に乗じて隙あらば攻め入って併合すべく虎視耽々と狙っていました。


後にアレクサンドロスは、そんなギリシア世界を武力で統一してペルシアへの大遠征に出ますが、ここで誤解して頂きたくないのは、その全てをアレクサンドロスが一人で一から築いていったわけではないという事です。その土台は彼の父親である先王フィリッポス2世(紀元前382~336)によって造られました。

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上がそのフィリッポス2世とされる黄金のメダルです。(鋳型に金を流して作ったのか、彫金なのか分かりませんが、2400年前にこれほど繊細で写実的な物を作っていた古代ギリシアの人々の技術には驚嘆せざるを得ませんね。)

フィリッポス2世は優れた王でした。彼は幼少期に先に述べた都市国家テーベに人質に出され、そこで過ごす内に数々の戦術を学びながら独自の軍隊の陣形を編み出し、兄王の死後帰国して王に即位すると直ちに軍制改革に着手して、長さ4~6メートルもある長槍を持った重装歩兵による密集隊形で敵軍を打ち破る「ファランクス」と呼ばれる陣形を考え出しました。

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上の図の様に長い槍と盾で武装した軍団で敵陣を崩すのです。敵軍はマケドニア兵を打ち倒そうにも先頭部隊の長い槍に阻まれて近づく事も出来ません。そして陣形をばらばらに切り裂かれた挙句、後方にひかえる軍勢によって駆逐されてしまうのです。

もともとこの戦法自体は古代バビロニアで考案され、オリエント地方を通じてギリシアにも伝えられていたのですが、必ずしも常に編成されたわけではなくあくまでも軍の一部程度でした。それをフィリッポスが拡大改良し、これに騎兵を組み合わせてマケドニア全軍に取り入れたのです。

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さらにフィリッポス2世は軍制だけでなく国の財政も整備します。彼は東隣のトラキア(位置は上図参照)に侵攻して、この地方のパンガイオン金山を手中に収め、財源を確保します。(先に載せたフィリッポスのメダルもそこから得た金で作られたのでしょう。)さらに産出した金で品位の優れたスターテル金貨を鋳造して、これを兵士たちに「給料」として支払う事で、いざ戦時となればただちに兵を動員出来る常備軍を造り出しました。これによりマケドニアはいつでも戦争をすることが出来る様になり、国家と国民の全てが軍事化されたスパルタを除き、農閑期にしか戦が出来なかった他のギリシア都市国家を次々に撃ち従えて行きました。

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上の画像は彼が作らせたスターテル金貨です。(スターテルとは「重さ」を表す単語の様です。)

またフィリッポス2世は、後継者である王子アレクサンドロスに英才教育を施すため、アテネから当時のギリシア世界最高の哲学者アリストテレス(紀元前384~322)を家庭教師として招きます。

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この当時アレクサンドロスはまだ12,3歳の少年でしたが、他の学友たちと供にアリストテレスから弁論術(演説など)医学、科学、文学、哲学などを学んだといわれます。そしてこの時一緒に学んだ学友たちが、後の東方遠征で彼に従う将軍たちとなります。(もちろんまだ10代半ばの少年に、これらの難解な学問が理解出来るはずはないですから、あくまで基本的な知識程度でしょう。しかし思春期の多感な時期にギリシア文明の英知に触れた事は、その後の彼の人生と価値観に大きく影響した事でしょうね。)


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父王フィリッポス2世は、スパルタを除く他の都市国家とコリント同盟を結んで全ギリシアを支配下に置くと、東の強敵ペルシア遠征を計画し、その先遣部隊として約1万1千の兵を小アジア(現トルコ)に上陸待機させます。しかしその矢先、護衛によって志半ばで暗殺されてしまいます。(この暗殺は、仲が悪く離婚した元王妃の謀略という説が長く主張されています。優れた王であった彼も、私生活は上手くいってなかった様ですね。)

フィリッポス2世の死後20歳で即位したアレクサンドロスは、父王から強力な軍隊を受け継ぎ、やがて父の遺志を継いでペルシアへの大遠征に出発しますが、その大事業はこの様に、父フィリッポス2世が造り上げた強固な地盤の上に成り立つものでした。

次回はその後のアレクサンドロスについてお話します。
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アレクサンドロス大王の戦い 2

みなさんこんにちは。

今回も前回に続き、アレクサンドロス大王についてお話したいと思います。

父王フィリッポス2世の暗殺によって弱冠20歳で新たなマケドニア王に即位したアレクサンドロスでしたが、王位に付いたからといって、すぐに東方遠征に出発したわけではありませんでした。その理由は大きく二つあります。

まず一つ目は父王の死によって、それまで武力で服従させていたアテネやテーベなどの有力都市国家が反乱を起こした事です。これらの都市は、かつてギリシアの盟主として覇を競った列強であり、その彼らからすれば、元はギリシア北部辺境の「田舎者」であったマケドニアに服属する事は、何とも耐え難い事でした。

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こうした動きにアレクサンドロスはすぐに軍を動かして、首魁であるアテネとテーベの反乱勢力を撃破し、再びこの2都市を服従させるとコリント同盟会議を再招集させ、改めて全ギリシアの盟主と認められました。(実際は武力で「認めさせた」のですが。)

ギリシア本国を手中にして南を押さえた彼は、今度は自領であるマケドニア北方に遠征し、この地で反乱を起こしていたバルカンの異民族を駆逐します。しかしその戦のさなか、「アレクサンドロスが戦死した」との誤報が流れ、それを聞いたアテネとテーベなどでまたも反乱勢力が息を吹き返します。中でもテーベでは、市民がマケドニア軍の司令部を襲撃し、その駐留軍を追い出すなどの行動に出ました。

一度ならず二度までも自分に歯向かったこの2都市に対しアレクサンドロスは怒りに燃え、北方地域を平定するとすぐ南に取って返し、反乱の急先鋒であったテーベを総攻撃しました。思わぬ急襲にテーベでは奴隷にまで剣を持たせて激しく抵抗しましたが、鍛え抜かれたマケドニア正規軍に完敗し、多くの市民が虐殺され、生き残った者も奴隷にされて都市は徹底的に破壊されました。

これは他の都市国家への見せしめとして行われたのですが、こうしたアレクサンドロスの動きはギリシア世界に大きな衝撃を与え、テーベの末路に恐怖したアテネは再び恭順の意を示し、反乱に呼応していた他のいくつかの都市も服属させると反マケドニア運動は収束していきました。こうしてアレクサンドロスは全ギリシアの実権を完全に掌握したのでした。

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上の画像はアレクサンドロスが即位の際に作らせた金貨です。表に彼の横顔、裏には翼を持った勝利の女神ニケの姿が彫られています。(このニケは「勝利」という意味で、英語では「ナイキ」と発音し、あのスニーカーで有名なナイキの社名の由来となっており、また同社のロゴマークはニケの翼を表しているそうです。)

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アレクサンドロスの東方遠征を妨げていたもう一つの理由は戦費、つまりお金の問題です。彼は父王フィリッポス2世から強力な軍隊を持つ国家を受け継いではいましたが、財政面では前述の様に父王の時代から続く出征や、度重なる反乱鎮圧のためにマケドニアの国家財政はかなりの赤字で、彼は父王から多額の負債も相続していました。

アレクサンドロスは東方遠征の戦費調達のために、王国の貴族たちに王領地や港湾からの収入(交易税など)を売却し、さらに借金を重ねて何とか遠征費用をかき集めましたが、それでもせいぜいたった一か月分ほどにしかなりませんでした。そんな風に王家の財産を簡単に売ってしまった若い王を心配した側近たちが、これでは「王自身に何も残らなくなる」と彼を説得しようとしましたが、彼は自分には「希望」さえあれば良いと答えたそうです。

さらに王国の重臣たちも、アレクサンドロスがまだ結婚もせず、世継ぎもいないまま大遠征に出かける事に反対しましたが、彼は構わず取り合おうとはしませんでした。どうもこういう点は若さゆえにあまり先の事を考えていなかったというか、王国の統治者としてはまだ未熟さが感じられる部分があります。

いずれにしてもかなりの綱渡りと言うか、とても危険な「投資」であったことは事実ですね。しかしこの若者の目は、わずらわしい銭勘定や些末な政治の事よりも、まだ見ぬはるか東方世界の征服という大事業にのみ向けられていて、他の事にはあまり関心を払っていなかった様です。

さてこの時点で、アレクサンドロスが大遠征のために準備した兵力はどの程度だったのかというと、歩兵3万2千、騎兵5千、合わせて3万7千ほどで、その内訳はマケドニア兵1万2千、ギリシア諸都市国家の兵1万3千、その他のバルカン諸民族の兵1万2千からなる連合軍でした。これを本隊として、さらに父王フィリッポス2世が小アジアに待機させていた傭兵部隊主力の先遣部隊1万1千を合わせると、合計4万8千の大部隊になります。

アレクサンドロスにとって一番の悩みは、先に述べた様にやはり戦費の不足でした。総勢5万に近い軍勢を維持して戦い続けるには、彼が苦心してかき集めた手元の資金はあまりに貧弱で頼りないものでした。(後に「大王」と称され、その後の幾多の英雄たちに敬われたアレクサンドロスも、お金に関してはかなり悩まされ、手を焼いた様です。)そのため彼は、短期決戦で速やかにペルシア支配下の諸都市を攻略し、その地の財貨を得る必要に迫られていました。

アレクサンドロスの大遠征はこの様な「イチかバチか」という賭けに近い状態から始まり、短期決戦どころか合わせて11年に及ぶ果てしない長期戦を戦い抜く事になります。

次回はアレクサンドロスの遠征の様子をお話します。

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アレクサンドロス大王の戦い 3

みなさんこんにちは。

今回も引き続き、アレクサンドロス大王の遠征についてお話いたします。

さて、何とか苦労してギリシア世界をまとめ、東方オリエントへの大遠征を開始したアレクサンドロスでしたが、その行く手には強大な敵ペルシア帝国が待ち構えていました。ここでそのペルシア帝国について触れて置きます。

このペルシア帝国とは正式にはアケメネス朝ペルシア帝国といい、この地域の小国アンシャンの王であったキュロス2世(紀元前600?~529)が、当時この地域の3大勢力であったメディア王国、リュディア王国、新バビロニア王国を次々に滅ぼしてオリエント世界をほぼ統一し、「諸王の王」を称して紀元前550年頃建国した大帝国でした。(アケメネス朝の名の由来は彼の王家の初代であるハカマニシュという王のギリシア語読みからだそうです。またペルシアは「騎馬民族」を意味するパールスから来ているそうです。)

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上は人々に崇められるキュロス2世。また現在のイランは彼を建国者としています。

そのキュロス2世の死後、息子のカンビュセス2世はエジプトをも征服してペルシアの領土に組み入れますが、その留守中にペルシア本国では遠縁の地方総督であったダレイオスが宮廷クーデターを起こして帝位を簒奪、(カンビュセスはエジプトで自害)ダレイオス1世(紀元前558~486)として即位します。

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このダレイオス1世はやがて周辺諸国へも侵略の手を伸ばし、紀元前499年ギリシア併合を目論んで数十万といわれる大軍を率いてギリシアに侵攻し、(ペルシア戦争)ギリシアをその存亡の淵にまで追い詰めます。(このペルシア戦争は彼の死後も息子のクセルクセス1世に引き継がれ、紀元前449年まで何と50年も続き、その間ペルシアは3度もギリシアに侵攻しています。結果としてペルシアはギリシア攻略に失敗し、武力での介入を諦めて都市国家同士を相争わせる方針に転換します。)

しかしこのダレイオス1世は戦争ばかりしていたわけではなく、広大な帝国の発展のため数々の政策を打ち出した名君でもあります。彼は帝国全土をおよそ20の行政区に分けて、それぞれにサトラップと呼ばれる一種の総督を置き、それらの行政区を「王の道」と呼ぶ街道で結び、さらに「王の目」「王の耳」と称する監察官を派遣して各行政区を監視させました。また彼は新たな都としてペルセポリスを建設し、さらに品位の優れた金銀貨を発行、帝国内の商人たちを保護して交易を盛んにしました。アケメネス朝ペルシア帝国は彼の時代に最盛期を迎えます。

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この国家は燃え盛る炎を神として崇めるゾロアスター教(拝火教)を国教としていましたが、従えた他の民族にそれを押し付けるような事はせず、他の民族の神々も尊重していました。そういった寛容さが多くの民族を束ねて巨大な帝国を運営していく原動力の一つとなっていた様です。

しかしダレイオス1世の死後、ペルシアは彼が始めたギリシアとの長い戦争と、絶えず帝国内で繰り返された反乱や王位をめぐる内紛などで緩やかに衰退していき、アレクサンドロスが登場する時代には、領土が広大なだけで何かきっかけがあればいつ崩壊してもおかしくないという状態にありました。

紀元前334年春、アレクサンドロスはこの巨大な敵と戦うべくギリシアを出発、ダーダネルス海峡を渡り小アジア(現トルコ)に上陸します。そして周辺の都市を次々に攻略しながら進撃を開始しました。もちろんペルシア側も手をこまねいていたわけではありません。ただちにこの地域一帯の総督たちに迎撃命令が下り、およそ3万5千からなる討伐軍を差し向けました。対するアレクサンドロス軍は、占領した各都市に守備隊を置いていった結果、この時点で兵力は2万5千余りに減っていましたが、兵士たちの士気は旺盛でした。

両軍はグラニコス川の両岸で始めて会戦します。激戦の結果はアレクサンドロスの勝利。ペルシア軍はおよそ4千の死傷者を出して敗退。対するアレクサンドロス軍は戦死200~300名、負傷2千余りというものでした。

実はこの時、ペルシア軍は戦わなくても良かったのです。ペルシア軍の武将の一人が、都市や村々から食糧、家畜その他全てを一時的に持ち去り、敵を奥地に引き入れて戦線が伸びきった所で叩く、いわゆる「焦土作戦」を主張したのに、戦を知らない殿様官僚の総督たちが「それでは自分たちの所領が大損害を被る」と嫌がり、真正面で立ち向かったために敗北したのです。もしこの時総督たちが、武将の進言を受けてその作戦に出ていれば、前回もお話した様に金も食糧も余裕の無いアレクサンドロスは敗れてギリシアに退却せざるを得ず、その後の歴史は変わっていたかもしれませんね。

ともかくアレクサンドロスは緒戦の勝利を飾り、小アジアを平定してさらに軍を南へと進めます。その間も、迎え撃つペルシア軍との間で大小さまざまな戦闘が繰り返されましたが、勢いに乗ったアレクサンドロス軍はこれらを蹴散らし、ペルシア領奥深くへと進撃を続けました。彼の戦いはまだ始まったばかりです。そして行く手にはさらなる強敵と困難が待ち受けていました。

次回もアレクサンドロスの遠征の様子をお話いたします。

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アレクサンドロス大王の戦い 4

みなさんこんにちは。

今回もアレクサンドロス大王の遠征の様子についてお話いたします。

グラニコス川の敗戦の一報は、「王の道」を通じてペルシアの都ペルセポリスに伝わっていました。この時のペルシア帝国の君主はダレイオス3世(紀元前380?~330)という人物で、即位してからまだ2年余りでしたが、事態を重く見た彼は自らアレクサンドロスと直接対決する事を決意し、バビロンに大軍を終結させて一路シリアへと出陣しました。

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上の画像の中央にいる、戦車上のヒゲの人物がダレイオス3世といわれています。

その知らせはシリア進撃中のアレクサンドロスにも伝えられました。このシリア沿岸はまだペルシア艦隊が制海権を握っており、これと東から迫るダレイオス3世のペルシア地上軍が合流すれば、兵力に劣る彼は挟み撃ちに合ってこれ以上の南下は不可能となります。何としてもその前にダレイオスのペルシア軍を叩く必要がありました。彼は主力部隊を率いて戦場に向かいます。目指すはシリア北部の要衝イッソスです。

その間にダレイオス3世の大軍は先にイッソスに無血入城、アレクサンドロスを待ち受けました。紀元前333年10月、ここにイッソスの戦いの幕が切って落とされます。両軍の戦力はダレイオス3世率いるペルシア軍およそ10万に対し、アレクサンドロス軍は4万でした。

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上がそのイッソスの戦いを描いたとされるモザイク壁画です。これは後のローマ時代に、ベスビオ火山の噴火で一日で火山灰に埋まった、あの有名なポンペイの遺跡の邸宅の一つから発見されたものだそうですが、実は本当にイッソスの戦いを描いたものかどうかは良く分からないそうです。

さて戦いは、当初はるかに兵力に勝るペルシア軍が優勢でしたがそれも束の間、アレクサンドロスとその部下達の巧みな戦術により形勢は逆転、アレクサンドロス軍の大勝利となります。ダレイオス3世は逃亡し(彼はこの時、なんと自分の家族も捨てて逃げています。)指揮官を失ったペルシア軍は総崩れとなりました。この戦いにおけるペルシア軍の戦死者は5万に達し、負傷者もほぼ同数であったそうです。(アレクサンドロス軍の方は不明)

この戦いはアレクサンドロスにとって大勝利であっただけでなく、遠征当初から彼を悩ませていた戦費の問題を一気に解決させました。というのは、ダレイオス3世が軍資金として陣中に持参した莫大な金銀や、彼の大軍の補給用に準備された大量の物資と7千頭の家畜などを手に入れ、言わば「大儲け」したからです。

それだけではありません。先に述べた様に敵のダレイオス3世は、自軍が不利になると自らの家族である王母、王妃、二人の王女を陣中に置き去りにして都に逃亡しましたが、(敵に包囲されて助けたくても助けられず、そうせざるを得なかったのでしょうが。)これら敵王の大事な家族も人質として得たからです。後にこの二人の王女のうち、姉のスタテイラがアレクサンドロスと結婚する事になります。

それと反対に、敗れたペルシア側の衝撃は大変なものでした。建国以来初めて、王自らが率いる大軍が全滅に近い大敗を喫し、王は惨めにも逃亡してしまったからです。この事はそれまで絶対神聖な帝王と思われてきたペルシア王に対して失望と不信の念を抱かせただけでなく、長い間アケメネス朝に支配されてきた他の民族に離反の動きを作るきっかけとなりました。

さてイッソスの戦いで大勝利を収めたアレクサンドロスでしたが、彼の戦いは陸上だけでなく、海上でも展開されました。と言っても、アレクサンドロス自身が艦隊を率いて戦ったわけではありません。彼が艦隊を率いたのは遠征の最初にダーダネルス海峡を渡って小アジアに上陸した時だけで、彼は専ら地上で戦い続けました。

海の戦いは海を熟知した海洋民族に敵う者はいません。そしてこの時代よりはるか昔から、地中海世界で最大の海洋民族と呼ばれていたのがフェニキア人でした。フェニキアとは現在のシリアの沿岸部を指す古い地名で、アレクサンドロスが南下する上でどうしても攻略したいテュロス、シドン、アラドス、ビブロスなどの都市群が集中していましたが、それらのフェニキア都市はすべてペルシア側に付いており、先に少し触れた様に彼らを主力とするペルシア艦隊は、今だ地中海の制海権を握っていました。

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この時代の船は「ガレー船」といい、上の様にたくさんの漕ぎ手でオールを漕いで進む自走能力がありました。もちろん海洋民族と言う点ではギリシア人も引けは取りませんでしたが、彼らの場合その行動範囲は、主にエーゲ海沿岸からイタリア半島、それにその周辺のシチリア、サルデーニャなどの大きな島々に限定されており、フェニキア人の様に黒海から地中海全域、さらに大西洋を出てイギリスの北海やバルト海までの広大な海域に進出するほどのキャリアは持ち合わせていませんでした。

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アレクサンドロスのギリシア艦隊は海戦で何度も戦いましたが、陸上での戦いとは違ってその都度撃退され、彼らに太刀打ち出来ませんでした。そこで彼は方針を転換し、これらのフェニキア都市に使者を送って交易の自由を保証する事や、その他ペルシア側より有利な特権を与える事で、ペルシアからの離反と自分への寝返りを促します。

作戦は成功し、先に挙げた都市のうちアレクサンドロスの要求を拒絶したテュロスを除く、その他のフェニキア都市がアレクサンドロスの味方に付き、彼は新たにこれらのフェニキア都市の220隻もの大艦隊を手に入れ、海から背後を攻撃される心配が無くなりました。(ちなみに彼の要求を拒絶したテュロスは都市もろとも滅ぼされてしまいます。)

こうして地中海の制海権を握ったアレクサンドロスはさらに海岸沿いを南下し、ペルシア最西端の領土エジプトを目指します。

次回に続きます。

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アレクサンドロス大王の戦い 5

みなさんこんにちは。

イッソスの戦いに勝利し、フェニキア地方をも制圧したアレクサンドロスは海岸沿いにさらに南下し、シナイ半島を経てエジプトに侵攻します。その前に彼は、見せしめと威嚇のために手前の都市ガザを総攻撃し、駐留ペルシア軍を徹底的に根絶やしにします。その知らせに恐れをなしたペルシアのエジプト駐留軍は、もともとペルシア本国に対する忠誠心が薄かったせいかあっけなく彼に降伏します。

さてこの時なぜ彼は、東のペルシア本国ではなく西のエジプトを目指したのでしょうか?


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その理由は兵糧、つまり食糧の確保と今後の安定供給でした。先のイッソスの戦いで、アレクサンドロスはダレイオス3世の置いていった莫大な金銀を手に入れ、当面の戦費を心配する必要は無くなったのですが、いくらその額が莫大でも所詮使ってしまえばいずれは無くなります。武器、兵士たちへの報酬、そして何より食糧を手に入れるのに金はいくらあっても足りる事はありません。さらにこれから攻めていくペルシア本国は、何も作物が実らない灼熱の乾燥地帯が広がります。

実はアレクサンドロスの故郷であるマケドニアを含むギリシア一帯は、意外にも食糧の自給率が低いのです。特に日々の生活に欠かせぬ糧であるパンの原料である小麦などの穀物は、ほとんど交易によって手に入れていました。そしてその大きな供給先がエジプトだったのです。

エジプトというと、恐らく上の画像の様にピラミッドと砂漠をイメージされる方が多いと思いますが、学校時代に歴史の授業で「エジプトはナイルの賜物」と教わった様に、ナイル川沿岸と地中海に注ぐ広大なナイルデルタはとても肥沃な土地なのです。

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上の画像をご覧ください。ナイル川沿いに緑あふれる農地が広がっているのがお分かり頂けるでしょう。これこそがエジプト数千年の繁栄を支えた源なのです。そしてこの尽きる事の無い豊かな実りをもたらすこれらの穀倉地帯を手に入れる事が、アレクサンドロスのエジプト侵攻の目的でした。

紀元前332年エジプトを占領したアレクサンドロスは、この地でペルシア支配からの解放者として歓迎されます。ここで彼はエジプトの神々を尊重し、各地の神殿を訪れてそれらの前に膝を付きます。これは彼が円滑にこの地を統治出来るようにする為の一種のパフォーマンスでしたが、彼の計算は大当たりし、彼は神官たちや市民からペルシア王に代わる、エジプトの新たな「ファラオ」として迎えられました。

アレクサンドロスはこのエジプトに約半年ほど滞在してナイル川沿いに各地を訪れ、やがて紀元前331年ナイルデルタの西に自らの名を冠した「アレクサンドリア」という都市を建設します。遠征開始以来それまで「破壊」を繰り返して来た彼が、この頃から自らが君臨する新たな世界国家の構築を考え始め、それを目に見えた形で表現して見せた最初の「創造」でした。

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上はそのアレクサンドリアの位置と、現在の街並みの様子です。(人口は2011年時点で約430万)

彼はこの都市を始めとして、その後同様に自分の名を付けた「アレクサンドリア」を遠征で手に入れた支配地の各所に建設し、一説にはその数は70にも登ったと言われています。しかし今日まで残って現在も発展を続けているのはこのエジプトのアレクサンドリアだけです。

この都市はアレクサンドロス大王の死後、彼の後を継いでエジプトに独立王国を打ち建てたプトレマイオス1世(紀元前367~282)の王朝の首都となり、最盛期には人口100万を越える地中海世界最大の都市として繁栄しました。(このプトレマイオスはアレクサンドロスの少年時代からの最も古い学友で、将軍として彼の遠征に終始付き添って供に戦い、苦楽を供にした無二の親友でした。その気になれば別の都市を都にするとか、街の名を変える事など造作も無い事なのにそれをしなかったのは、アレクサンドロスに対する終生変わらぬ忠誠と友情、尊敬と感謝の表れだったのでしょう。)

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上がそのプトレマイオス1世とされる胸像で、現在パリのルーブル美術館に所蔵展示されています。首が太くていかにもたくましそうな人物ですね。彼はアレクサンドロスより11歳も年長であり、親友であるとともに歳の離れた兄のような存在だった様です。そしてまだ若いアレクサンドロスの年齢的に未熟な部分を見えない所で補いつつ影で支え、彼の遠征を成功させた最大の貢献者でした。

アレクサンドロスの死後、彼は先に述べた様に紀元前306年エジプトに自らの王朝を打ち建て、他の後継ライバルたちをはるかにしのぐ85歳の長寿を全うした強運の持ち主でもあります。そして彼が建てたプトレマイオス朝エジプト王国は、彼の一族を王家として代々脈々と受け継がれ、その子孫である最後の女王が紀元前30年にローマ帝国との戦いに敗れて滅亡するまで264年間も続きました。その最後の女王が、あの有名な絶世の美女と伝わるクレオパトラである事は、歴史ファンであれば良く知られていますね。

それから余談になるのですが、この「アレクサンドリア」という街、画像ではとても美しい風光明媚な所ですが、それとこれとは別で、実は都市としては大きな欠点が二つあったそうです。まず第一は市民の生活に欠かせない飲料水となる地下水が全く出ない事。海の真近なのでどこを掘っても塩水しか出ず、そのため遠く離れた水源から水を引いて来る必要がありました。(この問題は現在も変わらず、この街ではすぐに給水制限がされるそうです。)

それから第二に、海に面した湾の入り口が広すぎて湾の水深も浅く、沖合いの潮の流れが湾に入り込んでしまうため、湾内の船がみんなそれに流されてしまうという事です。(古来どこの国でも港町というものは、湾の入り口が狭い場所を選んで造られていますね。これは潮流が湾内に流れ込んで停泊中の船が流されてしまうのを防ぐ為です。)そのため湾内に、大護岸工事を施して新たな港を造らなければなりませんでした。つまり、この場所は港湾都市とするには全く不向きな土地だったのです。

以上の事から、アレクサンドロスはあまり都市の立地条件というものを考えずに、ここに街を建設してしまった事がうかがえます。(こういう点も、まだ24歳だったアレクサンドロスの若さゆえの未熟さというか、経験不足が感じられます。)結局これらの欠点は後の人々の努力で克服されていき、やがて大都市として繁栄を謳歌しますが、当時の人々の苦労が偲ばれますね。

さてエジプト征服を完了し、兵に休養を取らせて充分に戦力を蓄えたアレクサンドロスは紀元前331年春、東征を再開し、敵王ダレイオス3世との最後の戦いに出発します。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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アレクサンドロス大王の戦い 6

みなさんこんにちは。

アレクサンドロスがエジプトにいた頃、イッソスの戦いに敗れて都ペルセポリスに敗走したダレイオス3世はどうしていたのでしょうか?

実はアレクサンドロスがエジプトに入る前、まだフェニキア地方(現在のシリア沿岸)を南下していた頃、ダレイオスはアレクサンドロスに対して使者を送り、ユーフラテス川より西方の領土割譲と、和平条約の締結を打診していたそうです。

一見すると、アレクサンドロスの強さに恐れをなしたダレイオスが、弱気になって懐柔策に出た様に見えますが、これは彼にとって単なる時間稼ぎに過ぎませんでした。というのはイッソスの敗戦の後、彼は都ペルセポリスに戻ると直ちに軍を立て直し、帝国全土に動員令を発して再び軍勢の集結を命じていたからです。

つまりここは一旦和睦してアレクサンドロスを油断させ、彼が兵を引いたその隙を突いて条約を破り、再びユーフラテス川を押し渡って奪われた領土を奪還するつもりだったのです。条約を破るのは卑怯ですが、もともと全てペルシアの領土なのですから「侵略者アレクサンドロスを倒して奪われた領土を取り返す」という大儀名文はいくらでも立てられます。しかし軍隊の動員はそう容易く出来るものではありません。戦支度には時間がかかります。ダレイオスにはそのための時間が必要でした。

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さらにイッソスの戦いで敗走したペルシア軍の残存兵力が、あの奇岩で有名なトルコのカッパドキア周辺に潜伏しているのを知ると彼らとも連絡を取り合い、いざその時はダレイオスの主力部隊と呼応してアレクサンドロス軍を挟み撃ちにする手筈を整えていました。(上がそのカッパドキア。ここなら天然の要塞として守りやすく攻めにくいですね。)


それだけではありません。ダレイオスはアレクサンドロスの本拠地ギリシア本国にも謀略の手を回し、コリント同盟に参加していなかった軍事都市国家スパルタの王をそそのかして紀元前331年に反乱を起こさせます。この反乱は首謀者であるそのスパルタ王の名からアギス戦争、又はメガロポリスの戦いと呼ばれていますが、アレクサンドロスの父フィリッポスの代から仕え、彼が留守中のギリシア本国を任せていた忠実かつ有能な家臣アンティパトロス(紀元前397~319)の活躍によって鎮圧され、失敗に終わります。(それにしても前回お話したプトレマイオスを始め、アレクサンドロスは本当に部下に恵まれていますね。)

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上がその時の主戦場であるメガロポリスとスパルタの位置と勢力範囲です。

こうして見ると、ダレイオスもなかなかどうしてしたたかに様々な反撃の手を打っていますね。勝手な想像ですがこの人は戦いよりも、こうした外交や謀略の方が得意だったのだと思います。結局アレクサンドロスはペルシア本国ではなくエジプトに向かったので、ダレイオスはその間に戦力を増強してアレクサンドロスを迎え撃つための準備をする時間を得る事が出来ました。しかしアレクサンドロスは、ダレイオスのそんな企みを見抜いていたのでしょう。彼はダレイオスの提案を拒否して進撃を続けました。

さてエジプト征服後東征を再開したアレクサンドロスは、ペルシアが整備した「王の道」を通り一路ペルシアの都ペルセポリスを目指して破竹の勢いで進撃し、紀元前331年9月にはユーフラテス川を渡河、さらにその先のティグリス川も妨害を受ける事無く渡り、かつてメソポタミアと呼ばれた大平原に軍を進めます。その時すでに大軍を準備して待ちうけていたダレイオスもこの近くに軍勢を布陣させていました。

紀元前331年10月、ここに両者の最終決戦となるガウガメラの戦いの火蓋が切って落とされました。両軍の兵力はアレクサンドロス軍4万7千に対し、ダレイオス3世のペルシア軍は帝国各地から集めた何と総勢20万を超える大軍でした。(「絶対に負けるわけにはいかない。今度こそアレクサンドロスを叩き潰すのだ」というダレイオスの強い決意がこの数字から伝わってきますね。)

しかし、勝利の女神はまたもアレクサンドロスに微笑みました。5万に満たないアレクサンドロス軍は自慢の長槍部隊と騎兵を上手く活用、4倍以上のペルシア軍を打ち破り、ダレイオスはわずかな護衛とともに命からがら逃亡しました。損害はアレクサンドロス軍の死傷者最大4千に対しペルシア軍は10倍の4万に達しました。

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上はこの戦いに敗れてマケドニア兵に追われる戦車に乗ったダレイオス3世と、逃げ惑うペルシア兵の姿を描いた絵です。恐らく近世に描かれたものと思われます。

どうして20万以上の圧倒的な大軍であったダレイオスのペルシア軍は、5万に満たないアレクサンドロス軍に敗れたのでしょうか?その最大の原因はペルシア軍が多民族の大混成部隊であったという点にあります。帝国全土からやみくもに兵を集めたためにそれぞれの部隊同士で言葉が通じず、(もちろん通訳はいたでしょうが。)ダレイオスの作戦や指揮命令が全軍の末端にまで伝わりませんでした。(言葉が通じないので各部隊はどこでどう戦って良いのか分からず、各隊が互いの顔を見合っている姿が目に浮かぶようです。)

多民族の混成軍という点では、アレクサンドロスの軍も同じでしたが、彼の兵はみなギリシア語で統一されており、言葉が通じないという心配は要りませんでした。さらに決戦の数日前から、ダレイオスがアレクサンドロスの夜襲を警戒し、全軍に交代で夜通し非常警戒態勢を取らせていた事も大きなミスでした。(つまり寝不足で戦わされたのですから当然ですね。)

この戦いの敗北以後、ダレイオス3世は二度と勢力を盛り返す事は出来ませんでした。そして勝ったアレクサンドロスはダレイオスを追ってバビロンへと進軍します。

次回に続きます。

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アレクサンドロス大王の戦い 7

みなさんこんにちは。

ガウガメラの戦いに勝利し、ダレイオス3世率いるペルシアの大軍を打ち破ったアレクサンドロス軍は、イッソスの戦い同様ペルシア軍が置いていった莫大な金銀を手に入れます。そしてバビロン、スサ、バサルガダイ、ペルセポリスといったペルシアの4大都市に軍を進めました。しかしこれらの都市のうちペルセポリスを除く他の都市は、もはやアレクサンドロスに抵抗する意志も力も無く、早々に降伏して城門を開いたので、彼はほとんど何の抵抗も受ける事無く無血入城を果たしたのでした。

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上は17世紀にヨーロッパ人が描いたバビロン想像図です。(あのバベルの塔が描かれていますね。)下がこれも有名なバビロンのイシュタル門の模型です。(イシュタルとは古代メソポタミア神話の性愛と戦を司る金星の女神だそうです。さらにドイツのベルリンにあるペルガモン博物館に展示されているものは、1930年代のヒトラー政権下に復元されたレプリカらしいです。)

これらの都市に入城したアレクサンドロスはここでも大量の金銀財宝を接収しますが、その規模は、これまでの戦闘で得た(というより敵が置いていったものを拾った。)金銀をはるかに凌ぐ莫大なもので、歴代のペルシア王が帝国各地から集めた使い切れないほどの金銀が山の様に積まれ、蓄えられていました。これにより、遠征開始から悩まされていた戦費の問題は一気に片付き、彼はもう金の心配をする事無く今後いくらでも遠征を続ける事が出来る様になりました。

アレクサンドロスはこれらの金銀を鋳潰し、彼の横顔と名を刻んだ大量の貨幣を作らせると、この時から自らを「大王」と称し、その宣伝のためにこれらを各地に流通させました。(ペルシア遠征でアレクサンドロスが得た金銀は、記録によればおよそ5500トンにも登ったそうです。)

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上がそれらの金銀貨です。

アレクサンドロスは紀元前330年の初め、いよいよペルシアの都ペルセポリスへと進軍します。しかしここまで来てペルシア軍の激しい抵抗に遭い、遠征開始以来始めて苦戦を強いられますが、彼の巧みな陽動作戦が功を奏し、ペルセポリスを陥落させます。そしてここでも膨大な量の金銀を手に入れ、それまで兵士たちに許していなかった略奪を許可します。(古来略奪は兵士たちへの報酬とは別で、数日間とか日数を限定して彼らに与える特権だった様です。)

アレクサンドロスはこの地で数ヶ月滞在し、戦後の残務処理をしながらある決意を胸に秘め、それを実行に移します。それはペルセポリスの壮麗な宮殿を焼き払う事です。しかし、なぜ彼はその様な事をしたのでしょうか?

その理由はペルシア帝国の象徴であるこの大宮殿を破壊する事で、アケメネス朝ペルシア帝国を完全に滅ぼしてこの世から抹殺し、自らが世界の支配者として君臨する「大王」である事を誇示し、人々にペルシアに代わる巨大権力が誕生しつつある事を知らしめるためでした。

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上の一連の画像がペルセポリスの遺跡です。復元図をご覧になれば分かりますが。遺跡に現存する高い柱や礎石の一つ一つが、元はこの巨大な宮殿の屋根を支えていた事が確認出来ます。また良く見ると、宮殿の様々な石像の顔が削り取られていますが、これは後の時代にこの地に興隆した偶像崇拝を禁じているイスラム勢力の仕業ではないかと思われます。またこれも後の時代に遺跡から大量の石材が、諸勢力や付近の住民によって城壁や都市の住居の材料として転用するために持ち去られてしまった様です。

さてペルセポリスを落としてなお勢い収まらぬアレクサンドロスは、今だ逃走中の敵王ダレイオス3世を追撃するためにさらに東へと出陣しますが、ちょうどその頃ペルシア側でもある異変が起きていました。敗れたダレイオスが態勢を立て直すために逃れたバクトリア地方で、その地域のサトラップ(総督)であった部下ベッソスの裏切りに遭い暗殺されたのです。

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上はアレクサンドロス大王の死後に建国されたバクトリア王国の領域を表す地図ですが、位置を知ってもらうためにお載せしました。ダレイオス3世の先祖であるダレイオス1世はもともとこの地域の総督であり、王家ゆかりの地でした。ダレイオスはここで再起を図ろうとしますが、二度も戦いに敗れて逃げ続けるという醜態をさらした彼に、もはや王としての権威も信用もありませんでした。せめて祖先の地で死ねた事だけが唯一の慰めとでも言いましょうか。いずれにしても、初代キュロス2世から数えて12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は彼の死をもってここに滅亡します。

そのダレイオスを暗殺した総督のベッソスは自ら「王」を名乗りますが、これはアレクサンドロスにとって好都合でした。彼は主君を殺した「裏切り者」であるベッソスを追討して、ダレイオスの仇を討つという大義名分を得たからです。(自分で散々ダレイオスを追い詰めておきながら、今度はその仇を討つというのもおかしな話ですが、一般にその様に解釈されています。)

ベッソスはバクトリアに侵攻したアレクサンドロス軍にあっさり敗れ、今度は自分自身も仲間に裏切られて捕らえられ、耳と鼻を削ぎ落とされた挙句、ダレイオスを殺害したその場所で磔にされ処刑されてしまいました。

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ダレイオスの死はペルシアの残存勢力にも大きな衝撃を与え、ペルシア貴族や総督たちが続々とアレクサンドロスに投降し、彼を「大王」として認め、新たな支配者として彼に服属を申し出ました。アレクサンドロスはこうした貴族や総督たちを統治に利用するため、それまで同じ同族のマケドニア人かギリシア人ばかりを支配地の長官に任命していたこれまでの姿勢を改め、彼らをそのまま留任させるか再登用していきます。そして統治政策なども、ペルシア式の優れた点をどんどん取り入れ、自らもペルシアの衣装を身にまとうなど、言わば「東方化」していきました。

しかしこの彼の方針転換と「東方化」は、これまでアレクサンドロスに付き従って来たマケドニア人やギリシア人の部下達はおろか、末端の将兵たちの間にまで不満の種を蒔く事になり、この頃からアレクサンドロスと彼らとの間には、様々な問題が生じて来る様になりました。

次回に続きます。

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アレクサンドロス大王の戦い 8

みなさんこんにちは。

宿敵ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロスは紀元前329年から327年まで、前回お話したバクトリア地方の制圧に向かいますが、この地で現地の遊牧民族の激しい抵抗に遭い苦戦します。それどころかこれまで無敵を誇り、常に勝利して来たアレクサンドロス軍が、ここに来て敗北を重ねる事が多くなります。

どうして当時世界最強であったアレクサンドロス軍は敗れたのでしょうか?

それは敵である遊牧民族が、いわゆる「ゲリラ戦」を仕掛けて来たからです。彼らがどの様な「ゲリラ戦」を展開したのかというと、具体的にはアレクサンドロスの数万の大軍が長い隊列を組んで険しい山道を進軍して行く際に、その隊列の柔らかい横腹の隙を突き、物陰に潜む遊牧民たちが一斉に矢を射掛けて数十人単位でアレクサンドロス兵を殺害するというものです。敵は身軽な小集団であり、すぐに逃げ去ってしまうため、重い鎧と盾に剣と槍という「重装備」で身動きの遅いアレクサンドロス兵は追撃するのも困難でした。

これにはアレクサンドロスもかなり悩まされた様です。何せ敵はこれまで相手にして来たペルシア軍の様な大軍による集団戦法ではなく、数十騎単位の小部隊で待ち伏せて襲って来る上に、いつどこから攻撃されるか分からないからです。(彼らは「攻撃する」つもりでバクトリアに侵攻したのに、自分たちが逆に「攻撃される」対象に陥ってしまっていました。)

敵が強大な大軍である場合、その敵との正面での戦いを避け、長期のゲリラ戦に持ち込んで敵を心身ともに疲弊させて弱らせる。これは現代でもベトナムやアフガニスタンで記憶に新しい事例がありますね。かつてこれらの地では最新兵器と圧倒的な物量を持つ完全装備の米軍や旧ソ連軍が、ろくな武器も持っていないベトコンやアフガンのイスラム兵が駆使した数々のゲリラ戦術に散々悩まされ、さらに十数年に亘る泥沼の長期戦で物心ともに疲弊して国家財政はボロボロになり、事実上敗北して逃げるように撤退した事は数々の映画で描かれて良く知られています。

(ベトナムではサイゴン陥落の際、追い立てられ、慌てふためきながら撤退する米軍が、ベトナム戦争の象徴であった多数のヘリコプターが空母や輸送船に留め置く場所も無くなり、やむなく海上に投棄して操縦していた米兵たちが泳いで味方艦船にずぶ濡れで救助される姿や、アフガニスタンでは旧ソ連軍は数千両の大機甲部隊で侵攻したのに、ゲリラのロケット弾や、道路上に仕掛けた強力な爆弾によって多数の戦車や装甲車が次々とキャタピラや車輪を破壊され、最後はペレストロイカを掲げるゴルバチョフの命によって、疲れきったソ連兵たちが長い列を成し、歩いて撤退して行く姿が印象的でした。)


それだけではありません。これまでアレクサンドロスに忠誠を誓ってきた部下たちからも、「大王」の方針に異議を唱える者が増え、不協和音が目立つようになって来ました。さらに兵士たちも、度重なる出征に疲れ果てていました。こうした状況を打開する為、アレクサンドロスはある程度の地域を支配下に置くと、それ以上のバクトリア作戦を中止し、一旦バビロンに戻って今度はインド侵攻を計画します。(この頃、アレクサンドロスは王妃としてバクトリアの領主の娘ロクサネを正妻に迎えます。)

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紀元前326年アレクサンドロスは、北のバクトリア地方から一転今度は南のインドへの侵攻を開始します。(進撃経路は上図参照)彼はおよそ5万余の兵を率いて南下し、インド諸侯の軍勢を撃破しますが、すでに遠征開始から8年、この時期遠征当初から従って来た兵たちには、厭戦気分が深刻なまでに広がっていました。

いつまで戦い続けなければならないのか? いやどこまでやれば気が済むのか? 地中海を手に入れ、かつてギリシアが文明の模範として憧れたエジプトを支配し、200年の宿敵大ペルシア帝国をも滅ぼした。人智の及ぶ全ての地を我らは手に入れたのだ。もう充分ではないか。これ以上何を望むというのか。それとも我らが大王はまだ足りぬというのか?

兵士たちの間でこの様な声が上がると、アレクサンドロスは兵士たちに呼びかけて奮起を促しました。

「もう少しで我らはインドを手に入れる事が出来る。その後にアラビアも落とす。そうすれば世界を征服した事になるのだ。」

と、(当時まだ今日の様なヨーロッパは存在せず、ヒマラヤの先の中国などは存在を知られておらず、インドまでが彼らの時代の「世界」でした。)


これに対し兵士たちのアレクサンドロスに対する答えはこうでした。

「我らが偉大なる大王よ、この世で最強のお方よ、お行きになりたければ貴方一人でお行きなさい。我々はただ故郷に帰りたいのです。」

事実上兵士たちの完全ストライキでした。常に目の前の敵を討ち倒し、必ず勝利して来たアレクサンドロスに対して、今度は味方である兵士たちの望郷の思いという目に見えぬものが「新たな敵」として彼の前に立ちふさがったのです。そしてこの目に見えぬ「新たな敵」を、彼はついに討ち倒す事が出来ませんでした。遠征開始から10年、アレクサンドロスも30歳を越え、若さと情熱だけで物事を推し進めるのではなく、様々な経験を通して物事を大局的に見る度量の広さを兼ね備えた大人へと成長していました。そして兵士たちの要求を受け入れ、それ以上の進撃を中止して全軍にペルシア帰還を命じます。

紀元前324年ペルシアに戻った彼は、自らの帝国の都をバビロンに定め、その後は帝国の統治に専念します。(その間も、彼は先に触れたアラビア半島の遠征を諦めてはおらず、部下に作戦計画を立てさせていた様です。)しかしその矢先の紀元前323年6月、夜の祝宴の最中に高熱を発して倒れ、10日間うなされた挙句、死期を悟った彼は、部下たちに「最も強い者が、我が帝国を継承せよ。」と遺言してこの世を去りました。短くも波乱に満ちた稀に見る32年の生涯でした。(彼の死因はその状況からマラリアに感染したものという説が有力です。わが国の平清盛と似た症状ですね。しかし部下の怨恨による毒殺説も疑われています。)

1024px-MakedonischesReich.jpg

上がアレクサンドロス大王の帝国の全盛期です。彼の死後、帝国は部下の将軍たち(プトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコス、アンティゴノスその他)によって分割支配されます。彼らは当初はアレクサンドロスの息子で生まれたばかりのアレクサンドロス4世を立てて帝国を運営していく予定でしたが、大王の「最強の者が帝国を継ぐが良い。」という遺言に従ってすぐに仲違いし、それぞれの勢力地で王朝を打ち建てます。

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彼らの後継者争いは「ディアドコイ戦争」と言われますが、結局プトレマイオスがエジプトに築いた王朝を除く、その他の者たちの王国は長続きせず、一代限りか、二代目ですぐに滅んでしまいました。第5回で述べたプトレマイオスの王朝だけが最も長く続き、しかもとても繁栄したので、ある意味ではアレクサンドロス大王の後継者は、プトレマイオスであったと思います。(プトレマイオスは、アレクサンドロスの遺体をバビロンから故郷マケドニアへ移送していた他のライバルから奪還し、遺体をミイラにしてエジプトに埋葬したそうですが、その墓は今だに発見されていません。もし見つかれば、世紀の大発見ですね。)

アレクサンドロス大王の遺児アレクサンドロス4世は、父大王の死の時まだ王妃ロクサネの腹にいて生まれておらず、生まれてからはマケドニア王として部下の一人カッサンドロスに傀儡として利用された挙句、母である王妃ロクサネとともに暗殺されました。わずか6歳でした。こうしてアレクサンドロス大王の直系は絶え、彼の王家であり、およそ400年続いたアルゲアス王朝も滅亡してしまいました。

アレクサンドロス大王は、自分が死ねば遅かれ早かれ必ず争いになり、まだ見ぬわが子の哀れな運命も見通していたのでしょう。彼が「最も強い者が帝国の後継者となれ」と言い残したのはそれが分かっていたからだと思います。彼の「世界帝国」はわずか数年で消え去りましたが、彼の記憶はその後の英雄たちの歴史を通してヨーロッパや中東全域、さらに中央アジアに強く残り、今も伝説としてこれらの地域の人々に語り継がれ、生き続けているのです。

終わり。

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