山下将軍の財宝の謎 1

みなさんこんにちは。

今回は今も人々を魅了してやまない「財宝伝説」をご紹介しましょう。最初は我々日本人に最も馴染み深い「山下将軍の財宝」についてです。

知らない方もいるかもしれないので、一応補足説明をしますが、山下将軍というのは太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)フィリピンの第14方面軍司令官であった山下奉文陸軍大将(1885~1946)の事です。

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上の画像の恰幅のいい方ですね、彼は意外にもわが大日本帝国陸軍において、歴史上3回も有名な場面に登場する人で、それらにまつわるエピソードから、国内外問わず日本の軍人としては最も人気がある将軍ではないでしょうか。(ちなみに米国陸軍士官学校の記念館には、米国の勝利の証として、ヒトラーの拳銃とともに、彼の軍刀が飾られています。)

その有名な場面とは、まず第一に昭和11年(1936年)2月26日に起きた、陸軍の青年将校らに率いられたおよそ1400名の部隊による当時の政府閣僚暗殺と帝都占拠事件、いわゆる226事件の時です。

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この時陸軍省軍事調査部長だった山下少将は、一旦は青年将校らに同調する言動をしますが、彼らの行動が昭和天皇のお怒りを買い、陸軍首脳によって「反乱軍」と決定されると一転態度を変え、将校らの説得など事件収拾に動きます。(かなり昔の話ですが、昭和54年ごろ、「交信ヲ傍受セヨ」と題したNHK特集で、226事件の主要人物の電話を、当時の戒厳司令部が盗聴録音していたという番組が放送され、山下少将の自宅も盗聴されていましたね。当時はまだ多くの関係者がご存命で、特に反乱軍の青年将校らと外部の人々との電話のやり取りや、後の東条内閣で企画院総裁となる鈴木貞一氏をはじめ、軍官民の事件関係者の貴重な映像が歴史好きには大変興味深いです。今でもユーチューブなどの動画で検索すると見られます。)

事件終了後、彼はこの時の対応の責任と、陸軍内部の派閥闘争によって、一旦朝鮮の地方旅団に左遷されてしまいます。

第二は昭和16年(1941年)12月8日太平洋戦争開戦時のマレー半島上陸作戦です。この時第25軍司令官として3個師団(約3万6千)と4個戦車連隊を率いた山下中将は、戦車、トラック、自転車を集中使用した機甲部隊で怒涛のごとく進撃し、わずか2ヶ月あまりでイギリス軍の東洋最大の要塞シンガポールを陥落させ、イギリス、インド、オーストラリアなどの連合軍およそ10万余を捕虜にしました。

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上に載せた画像の1枚目はクアラルンプール市内に突入し、市街戦を行う日本軍(手前の兵士は擲弾筒を持っていますね。)下の2枚目は徒歩で作戦指導中の山下将軍と幕僚たち、3枚目は陥落後、勝利の歓声を上げるわが軍将兵たちです。(まさに栄光の瞬間ですね。)

この時にイギリス軍司令官パーシバル中将に対して、「無条件降伏イエスかノーか?」とせまり、降伏させたという話は有名ですね。彼はこの勝利によって、後に「マレーの虎」と呼ばれる名将に祭り上げられます。

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上の画像はその時の会見の様子ですが、この会見に同席していた山下司令部の方々の証言によると、実はこの話は事実とかなり違っていて、英軍側への通訳をしていた台湾人軍属が、長々と英軍側の提示した条件を逐一訳し、なかなか結論に達せずはっきりしないのに業を煮やした山下将軍が、

「彼らは無条件降伏すると言ってるのか? イエスなのかノーなのか? まずそれをはっきりしてもらいたいんだがな。」

と、その通訳に対して言ったのが真相らしいです。


ともあれ、このエピソードは事実と違って本国に伝えられ、新聞ラジオなどで国民の戦意高揚を図る宣伝として大いに利用されました。

第三は、戦争末期の昭和19年(1944年)フィリピンの防衛を担う第14方面軍司令官として、進行してきた米軍と激戦を繰り広げた時です。山下将軍の財宝と呼ばれるものは、この戦いの最中に、敗走していく日本軍が、占領した南方各地から収奪した金塊などを、フィリピンの山中に分散して隠したものを指すと言われています。

この話は事実なのでしょうか?

調べてみると、どうやらもともとこの話を題材にした小説の存在が浮かび上がります。米国人のシーグレーブという作家が書いた、「黄金の百合(ゆり)」という架空の財宝ストーリーで、その内容は昭和天皇の次弟であられた秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下(1902~1953)の命により、フィリピン駐留日本軍が、各地に金塊を隠した云々というものです。しかしこれは小説ですから全くの創作です。

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上の画像は陸軍中佐時代の秩父宮雍仁親王殿下で、後に少将となられますが、この宮様がその様なご命令を軍に命じられた事実は全く無く、あくまで小説を書いた作家の思い描いたフィクションです。

では山下財宝とはウソなのでしょうか?金塊など本当にあったのでしょうか?

調べてみると、かなり事実は違う様ですが、金塊はちゃんとあった様です。しかしその金塊とは先に述べた様に、日本軍が占領した東南アジア各地から集めたものではなく、実は「金貨」で、日本軍がフィリピンでの戦闘を行うため、物資調達の戦費として本土から空輸されたものらしいです。

ではなぜ日本軍は、その様な方法で物資を調達しようとしたのでしょうか。実は当時のわが軍の占領地では、日本の軍票(ぐんぴょう。擬似貨幣の一種、日本軍は占領地域ごとに、い、ろ、は、に、ほ、へ、と号などと分けてこれらを発行していました。ちなみにフィリピン方面は「ほ号券」となるそうです。)を強制的に使用させていたのですが、あまりに乱発したために価値が暴落し、物資(主に食糧など)の現地調達が困難になってしまったのです。

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上の画像は当時フィリピン方面で使用された10ペソ軍票です。しかし前述の理由で紙切れ同然の軍票を、現地の住民の誰が喜んで受け取るでしょうか。そのため日本軍は、金による支払いを画策し、山下将軍がフィリピン方面に着任する前の昭和19年(1944年)2月に、簡素なデザインの金貨が数万枚鋳造され、マニラに送られたそうです。

次回はその謎の金貨についてお話します。
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山下将軍の財宝の謎 2

みなさんこんにちは。

今回は前回に続き、山下将軍の財宝についてお話します。

昭和19年(1944年)9月、フィリピンの第14方面軍司令官に着任した山下大将は、間近にせまった米軍との決戦に備え、指揮下の総勢8個師団約30万(逐次増強され、最終的に13個師団その他およそ40万以上)の大軍に防衛体制の構築を急がせます。

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数十万の大軍を動かす大作戦です。当然武器、弾薬、食糧、燃料その他膨大な量の物資の調達に多額の資金が必要です。しかし、フィリピンで日本軍が発行した軍票は、前回お話した様に使い物にならず、新たな手段が必要になりました。そこで、いつの時代も不変の価値を持つ、金による物資調達が計画実行されました。

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そして作られたのが、上に載せた「マル福」金貨です。大きさは直径約3センチ、重さは31グラムで、日本軍はこの金貨をおよそ2万5千枚(重さ約1トン)ほど作り、山下将軍が着任する前にはマニラの司令部に保管されていました。(とても金貨と呼ぶには単純すぎる粗雑なデザインですが、これには理由があって、受け取った相手はどうせ鋳潰してしまうだろうから、それほど凝った物にしなくて良いという意向の様です。またこれらは日本国内で作られたらしいのですが、いつ、どこで、誰が作ったのか全く不明です。)

しかし、せっかく作られたマル福金貨ですが、全くと言って良いほど使われる事は無かった様です。その理由は定かではありませんが、恐らく米軍のフィリピン上陸が日本軍の予想以上に早く、使う暇すらなかったというのが実情ではないでしょうか。ともかく各守備隊は有り合わせの物資で米軍と戦う事になります。

その後戦局はわが方に著しく不利になり、マル福金貨は山下将軍と供にマニラからバギオへと移動します。その際に約1万枚を、山下将軍の命令で他の部隊に軍用金として振り分け、残り1万5千枚を山下本隊が持ってさらに北部へと移動しますが、この間も米軍との間で激しい戦いが繰り広げられていました。多くの金貨はその時に、始末に困った輸送部隊の兵によって、各地に分散して隠されたものと思われます。


そして終戦。
山下将軍は米軍に降伏する前に、まだ数千枚残っていたこの金貨を残存将兵に配ります。そしてそれらのマル福金貨の一部が、戦後それを貰った将兵の方々によって換金され、上の画像の様に今日に伝わっているとの事です。


このマル福金貨は現在でも、極めてわずかですがコイン商などで取引されており、価格は20~25万円ほどだそうです。但しご覧の様にとてもシンプルな作りで簡単に偽造出来てしまう事から、果たして流通しているもの全てが純金の本物なのかは分からないそうです。(切断したり、ドリルで穴を開ければ分かるでしょうが、コインとしての価値は無くなりますからね。)

さて山下将軍に話を戻します。終戦までフィリピン北部で頑強に抵抗していた山下将軍は、配下の残存兵力およそ4万(その多くはフィリピン各地に分散しており、彼の最後の直属の兵力は数千程度。)に停戦命令を出し、昭和20年(1945年)9月にバギオで降伏します。

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上が降伏するために幕僚らとともに山中から出て来た山下将軍です。(この時代の軍人の象徴である乗馬ブーツではなく全員ゲートル姿ですね。かつてまるまると太った巨体で有名だった彼も、げっそりと痩せています。いかにフィリピン方面のわが軍が飢えに苦しんだか分かりますね。)

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上の画像は降伏後、戦犯として収監される山下将軍です。実はこの少し前に、米軍によって念入りな「復讐」が行われています。かつてシンガポール戦で彼が降伏させた、イギリス軍のパーシバル将軍を呼び寄せ、降伏文書の調印式にわざわざ同席させたのです。(さらに米軍は、山下の絞首刑執行まで彼を立ち合わせています。)

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このパーシバル将軍(1887~1966)はシンガポール陥落後、日本軍の捕虜として台湾、満州に抑留されていた様ですが、日本の敗戦によって英国軍籍に一時復帰します。そしてこの降伏文書調印式の後しばらくして退役し、亡くなるまで英国で静かに余生を過ごしました。画像を拝見すると、痩せ型なせいか少し頼り無さそうに見えますが、実は意外にもこの方は名門大学出身のエリート軍人ではなく、一兵卒から中将にまでなった、言わばたたき上げの軍人なのだそうです。(士官学校から陸軍大学校の入校期と成績順で年功序列がちがちの日本陸軍なら有り得ませんね。)

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上がバギオにおける降伏文書調印式の写真です。後姿ですが手前の右端が山下将軍、その左に彼の参謀長で、後の極東国際軍事裁判で絞首刑となる武藤章中将がいます。そして彼らと向かい合う連合軍側代表の、右から2人目のサムブラウンベルトをしたちょびヒゲ姿の人物がパーシバル将軍です。それにしても、かつての勝者と敗者が数年後に今度は逆の立場になって再会するなど、誰が想像出来たでしょうか? そしてこの時の双方のご心情は如何ばかりであった事か。時の流れの残酷さには想像を超えるものがありますね。

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上はマニラ軍事法廷の山下将軍と彼の弁護団で、下は証言台で英米式に右手を挙げて宣誓をする山下将軍です。

その後山下将軍は、大戦中の彼に対する123か条に及ぶ膨大な罪状によってマニラの軍事法廷で起訴されました。そして降伏からわずか5ヶ月ほどの明らかに意図的で短すぎる裁判によって死刑を宣告され、絞首刑となりました。

その背景には、連合国軍総司令官マッカーサー元帥の指示があった様です。マッカーサーにとってフィリピンは、総督だった父親の代から受け継いだ権益であり、開戦時の日本軍の猛攻によってフィリピンを追い出され、「アイ・シャル・リターン(私は帰って来る)」と言わしめた因縁の地です。(司令官でありながら、大勢の兵を見捨てて逃げ出した敗軍の将だと陰で言われ、先祖が英国貴族出身で、常にトップのエリートコースを歩んできたプライドの高い彼にとって、この事は終生の汚点でした。)

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やがて3年後、大軍を率いてフィリピンを奪還し、念願叶って汚名をそそいだマッカーサーにとって山下将軍とその配下の部隊は、彼の前に立ちはだかってそれを阻止しようとした憎むべき敵であり、何としても生かしておく存在ではなかったのです。(その事は、わが軍の戦死者の数を見れば分かります。フィリピン方面のわが軍は動員兵力の9割以上が全滅し、陸海軍の戦死者は実におよそ50万に達しています。繰り返しますが動員兵力ではありません。「戦死者」が50万なのです。)

ともあれ、かつて「マレーの虎」と恐れられた名将のそれが最後でした。そして彼の死によって、莫大な金貨の在り処も永久に分からなくなってしまったのでした。

山下将軍が直接係わった、厳密な意味での正等な「山下将軍の財宝」の話はこれが全部です。しかし、このマル福金貨は先に述べた様に日本で作られたものであり、日本軍が占領下の東南アジア各地から集めたものではありません。それではそれらの金塊などは一体どこに消えてしまったのでしょうか?それとも前回お話した小説の様に、全くのフィクションだったのでしょうか?


次回はその事についてお話します。

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山下将軍の財宝の謎 3

みなさんこんにちは。

前回、山下将軍の最後とマル福金貨についてお話しました。そしてそれの目的が、米軍との決戦に備え、物資調達の資金として準備された事について触れました。しかし日本軍が占領していた東南アジア各地から集めたと思われる莫大な金塊については、いまだ詳細が分かっていません。今日はそれについて考えてみたいと思います。

この話については第1回目で、米国人作家が書いた「黄金の百合(ゆり)」という架空の物語をご紹介しましたが、その内容の全てが創作ではなく、事実を基にして書かれたという説があるのです。

小説では、昭和天皇の次弟であられた秩父宮殿下(1902~1953)の命によって金塊の輸送と埋蔵が画策された事になっている様ですが、実は別の人物がそれらを命じた可能性が指摘されています。

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その人物とは、上に載せた南方軍総司令官伯爵寺内寿一元帥(1879~1946)です。(写真右側の人物です。左側の小柄な将軍は支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥。)

彼は長州出身の元首相寺内正毅伯爵の長男で、親子2代で元帥号を授与された帝国陸軍に君臨するサラブレッドです。(下の名前は「ひさいち」と読みます。)
そして太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941年)11月、資源獲得と東南アジア征服のため編成された4軍11個師団(兵力およそ22万、但しこれらは開戦時の数字で、その後の戦局の展開により大きく増加します。)からなる南方軍の総司令官に任命され、終戦までその職にありました。


開戦後、東南アジアを支配下に置いた彼は、その司令部をベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に置きます。(戦局の都合によりシンガポールなどに移動しますが、ほとんどサイゴンに置かれていた様です。)そして全域で日本軍による軍政を敷きます。

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上の画像はシンガポール市内を意気揚々と行進する日本軍です。この当時のわが軍は無敵の勢いで戦線を拡大し、海軍の方では陸軍3個師団によるオーストラリア侵攻作戦まで計画するほどでした。(その計画は陸軍の大反対に遭って幻に終わります。なぜなら当時の陸軍の試算では、オーストラリア占領には最低でも12個師団、およそ25~30万の兵力と、それらを輸送する1万トン級の大型船150隻以上が必要で、満州と中国大陸に40個師団、合計130万もの兵力を釘付けにされ、本土やその他の地域から兵力を転用してかき集めても、やっと東南アジアを占領するのが精一杯だった陸軍にそんな余剰兵力は無かったからです。)

寺内元帥指揮下の日本軍は画像の様に南方各地に駐留し、その先々で現地の資産家や華僑の経営する銀行や金融機関を接収、金庫などに収蔵されていた莫大な金塊などを「献納」と称して押収して行った様です。

時は流れて昭和19年(1944年)戦局は悪化し、総反撃に転じた米軍はフィリピンにせまりました。実はこの時に山下将軍の用意した金貨とは別に、寺内元帥が米軍との決戦に備え、南方各地で集めた金塊を軍用金としてフィリピンに送った可能性があるのです。

まだ戦局が優勢な内に、日本本土に送れば良かったのにと思われるかも知れませんが、彼の指揮する南方軍の管轄地域は東南アジア全域に渡る広大なものであり、さらに敵は東からせまる米軍だけでなく、西にはインドの英軍、南はオーストラリア軍にも備えなければならず、それらの戦費として手元に保管する必要があったのかも知れません

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しかしフィリピンを失えば、日本本土と南方占領地は完全に遮断され、重要資源を本土に送れなくなって日本の敗戦は決定的となります。もはや他方面は二の次です。そこで寺内元帥は東京の大本営と図り、各地から部隊を転用してフィリピンに増援軍として送りました。

結果は山下部隊と同じで、米軍との戦闘に敗れ、敗走していくわが軍将兵たちによってフィリピン各地の山中に分散して隠されたと思われます。補給が無く飢えに苦しむ前線の兵士たちにとって、食べられもしない黄金など何の価値もありませんでした。


そして終戦。
当事者の寺内元帥は降伏からわずか10ヶ月後の昭和21年(1946年)6月、拘留先のマレーの収容所であっけなく病死し、金塊を輸送していた兵たちも全滅。その真相の追究は永遠に不可能となりました。そして戦後、知名度の高かった山下将軍の金貨と同じものとされ、その名を取って「山下将軍の財宝」として今日まで語り継がれています。


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上はシンガポールで英軍に軍刀を渡して降伏する第7方面軍(シンガポール方面軍)司令官板垣征四郎大将です。本来は南方総軍総司令官の寺内元帥がこの場に立つべきでしたが、この時彼は脳溢血で倒れて療養中で、次席の板垣将軍が降伏文書に調印しています。(その後彼はビルマ方面軍司令官であった木村兵太郎大将とともに東京に護送され、英国の名監督デビッド・リーンの名作「戦場にかける橋」で悪名高い泰緬鉄道の建設その他、大戦中の連合軍捕虜への虐待などの復讐に燃える連合国によってA級戦犯とされ、満州事変以来の日本軍の侵略の権化として絞首刑になったのは良く知られていますね。)

と、以上述べた寺内元帥の方の話は可能性があるという事です。実際はご本人も亡くなるまで黙して何も語らず、それを命じた記録もありません。しかし完全な否定も出来ないのです。なぜなら日本軍降伏後、それらの金塊は全く見つかっていないからです。


もう一つお話をしておきましょう。
戦後現在に至るまで、この山下財宝を信じて多くの日本人がフィリピンに渡っています。しかし、現地のフィリピンではこれを悪用した詐欺が横行しており、大金を騙し取られたり、殺されたりする者が後を絶ちません。

その手口はこうです。財宝を探す人に接触し、贋物の金塊をいくつか見せて信用させ、掘り出すのに金がかかるからこれこれの金額を現金で払ってくれと持ちかけ、支払った所で口封じに射殺するというものです。(こんな幼稚な手口に引っかかるのかと思われるでしょうが、世間に横行する詐欺を見れば分かる様に、人の欲は恐ろしいもので、まともな思考や判断力を失わせてしまうのです。)

彼らは高度に組織化されており、摘発はモグラたたきの様になっています。そのためフィリピン当局では、それまで届出制であった山下財宝の採掘を許可制にしたそうです。(時折テレビやネットなどで、日本人がフィリピンで射殺された云々というニュースが流れますが、どうもこれによって殺害されている人が多いそうです。)

もしみなさんの中で、「一攫千金の夢を抱いてフィリピンへ行くぞ!」などと考えている夢見る少年の様な方がおられましたら (いないでしょうが。笑) あくまで夢を見るだけになさっておく事です。現地で「悪夢」になるかも知れませんからね。

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様々なエピソードにあふれた「山下将軍の財宝」についていかがだったでしょうか?上の画像は全く関係ない金塊ですが、目の保養にと思ってお載せしました。今もフィリピンのどこかにこの様なまばゆい黄金が人知れず眠っているのかも知れませんね。

終わり。

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