クローヴィス1世とメロヴィング王朝 1

みなさんこんにちは。

今回から中世ヨーロッパ最初の大国であるフランク王国と、それに係わる様々な人々についてお話したいと思います。最初はフランク王国の創始者であるクローヴィス1世とメロヴィング王朝についてです。

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クローヴィス(466~511)はゲルマン民族の一部族であるフランク族の王です。彼が生きた時代、ヨーロッパはローマ帝国に代表される「古代」から「中世」に移行する激動の新時代を迎えていました。

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クローヴィスとメロヴィング王朝について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。 この時代についての書籍は非常に少なく、彼の生涯と、彼が築いたメロヴィング王朝について書かれた日本でほとんど唯一の本と思われます。

ここで彼が登場する前の時代背景をご説明します。


紀元370年以降、はるか東方のロシア、ウラル山脈の向こうからやって来た凶暴な遊牧騎馬民族「フン族」の襲来によって、それまでライン川の向こう側である現在のドイツに居住していた「ゲルマン民族」が、フン族の侵略から身を守るため、大挙してライン川を越え、ローマ帝国内に侵入を開始しました。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」の始まりです。

この頃すでに、ローマ帝国は度重なる内乱によって衰退しており、かつての栄光もとうに色褪せ、もはや彼らの侵入を自力で食い止める力はありませんでした。そして彼らに「大移動」をするに至らしめたこのフン族は、族長アッティラ(406?~453)の代に最盛期を迎え、一時的にせよライン川からドナウ川に至るヨーロッパの半分を領する大帝国を築き、殺戮と破壊、略奪の限りを尽くして暴れ回りました。

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上の1枚目がアッティラの肖像、2枚目が敵をなぎ倒すフン族、3枚目がフン族の最大勢力範囲です。

この時にローマ帝国領に侵入した異民族は、西ゴート族、東ゴート族、ブルグンド族、ヴァンダル族などのいくつかの大集団に分かれ、フン族に劣らぬ勢いで領内を荒らし周りました。


歴史の授業などでは、ローマ帝国が衰え、それに乗じてゲルマン民族が侵入した様な教え方をしていますが、実際はこの「フン族」の襲撃から逃れるために、押し出されて逃げて来たというのが実情の様です。また移動を余儀無くされたのはゲルマン人だけでなく、ロシアや東欧のスラブ人も多かったので、単純に「ゲルマン民族の」大移動とは言えないそうです。

この様な危機を迎え、ローマ帝国は新たな国づくりを目指し、都をローマから時の皇帝の名を冠したコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に遷都、さらに395年、ローマ帝国は東西に分裂してしまいます。(「新たな国づくり」とは聞こえは良いですが、これらの異民族の侵入によって、もはや救い様が無いほど四散していた帝国の西側部分を「切り捨てた」という方が正しいでしょう。)

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上が分裂後の東西ローマ帝国です。

その後フン族とその国家については、王である族長アッティラの死によりあっけなく崩壊して、歴史の表舞台から姿を消しますが、彼らによって押し出された異民族はその後も西ローマ帝国内に留まり、時期はばらばらになりますが、それぞれの族長が「王」を名乗ってその支配地に王国を打ち建て、西ローマ帝国を分割支配してしまいます。

この様な事態に西ローマ帝国(もはや「帝国」などと呼べる様なものではありませんでしたが。) は凋落の一途をたどり、その後の皇帝たちには成す術がありませんでした。帝国の行政機構も帝国軍の主力軍団も、その他重要なほとんどのものが東西に分裂した際に東ローマ帝国に移されており、西ローマ皇帝は「皇帝」とは名ばかりで、東ローマ皇帝から西側の始末を任された「総督」の様な存在でしかありませんでした。

そこで彼らは「蛮族には蛮族で」という事で、同じゲルマン人の少数部族を「傭兵」として戦わせる事を以後の国防方針とします。しかし410年、族長アラリック(360~410)率いる西ゴート族が都ローマに侵入、その前にすでに現在のフランス南部からスペインに至る地域に「西ゴート王国」を建国。さらに432年には族長ガイゼリック(389~477)率いる8万のヴァンダル族が北アフリカに上陸して「ヴァンダル王国」を建国。455年には海側からローマに侵入、西ゴート族よりもはるかにひどい略奪と破壊の限りを尽くし、奴隷にするための多数の女子供や、市民たちから奪い取った財宝を山と船に積んで北アフリカに凱旋しました。(ローマ掠奪)

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このヴァンダル王国の建国は西ローマ帝国に大打撃を与える事になります。それまで海の向こうで異民族の侵入を受けず、無傷の領土であった北アフリカの穀倉地帯を奪い取られ、ゲルマン人の傭兵たちに支払う資金源を失ってしまったからです。それでも西ローマ皇帝は、残るイタリア半島の領土を切り売りしながら傭兵たちに与える事で、さらに40年ほど「帝国」の延命を図りますが、470年代にはついにそれも底を尽いてしまいました。

ここに至って傭兵たちは「金の切れ目が縁の切れ目」とばかりに西ローマ帝国を見限り、最終的にそれら傭兵たちの長で、皇帝の親衛隊司令官でもあったゲルマン・スキリア族の族長オドアケル(433~493)によって、476年最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス帝が廃され、ここにイタリア半島を発祥の地とする「古代ローマ帝国」は滅亡します。


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上はオドアケルにひざまづいて帝冠を差し出す西ローマ最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス(466~511?)奇しくも最後の皇帝の名が、ローマ建国の父ロムルスと、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスである事は皮肉ですね。飾り物に過ぎなかったとはいえ皇帝ともあろう者が、傭兵隊長上がりの将軍に冠を差し出す姿がとても哀れです。しかし幸いにも彼はまだ少年であった為か命までは奪われず、それどころかオドアケルから恩給まで与えられて家族と供にカンパーニャに移り住み、修道院を建てるなどの業績を残したそうです。

その彼を退位させたオドアケルは、西ローマ皇帝位を時の東ローマ皇帝ゼノン(426~491)に返上し、代わりに「イタリア王」となる事を要求して認められ、全イタリアの統治権を承認されますが、成り上がり者の思い上がりからか、東ローマ帝国の内政にまで干渉して皇帝ゼノンの怒りを買い、皇帝がイタリア半島を餌として差し向けた族長テオドリック(454~526)率いる東ゴート族との戦いに敗れて暗殺されてしまったので、彼の王国は一代で終わってしまいます。(その後には、これに勝ったテオドリックが「東ゴート王国」を建国しました。)

厳密にはローマ帝国は、その東半分であり、西側よりもはるかに多くの富が集中するギリシャ、オリエント地域に東ローマ帝国が健在で、しかも1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまでおよそ千年もの長きに渡って続くのですが、歴史上の位置付けではこの時を境に「古代」が終わり、コロンブスやマゼランなどの探検家が活躍する大航海時代までの約千年間を「中世」と呼び表しています。

クローヴィスがフランク族の族長の子として生まれたのはちょうどこの前後に差し掛かる時期でした。

次回に続きます。
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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 2

みなさんこんにちは。

ローマ時代末期の4世紀後半、アッティラ率いるフン族の襲来によって引き起こされた「ゲルマン民族の大移動」では、多くのゲルマン人部族がライン川を越え、衰退したローマ帝国領内に侵入しましたが、クローヴィスの出身部族であるフランク族は、それらとは少し違った形で存在していました。

ここでそのフランク族について少し説明しますが、彼らはフン族襲来のはるか以前の300年頃からすでにガリア国境やライン川の周辺で略奪を繰り返していたそうです。(現在のドイツ中部にも、ソーセージで有名な「フランクフルト」や、ドイツワインの名産地「フランケン」など、彼らに由来する地名が残っていますね。)しかしまだこの頃の彼らは、その都度集合と離散を繰り返す程度でこれといったまとまりは無く、ローマ中央から見れば、「野蛮な荒くれ者の集団」という存在に過ぎませんでした。

状況が変わるのは354年からで、帝国北部のガリア国境が崩壊してフランク族が一斉にガリアに侵入し、すでに脱走兵の続出や財政破綻などで軍が弱体化していたローマ帝国は彼らにフランドル地方(現在のオランダ、ベルギー)の領地を与え、「傭兵」として召し抱える事で他のゲルマン民族と戦わせ、これらに対する「防波堤」としました。


この「傭兵」として存在したおよそ100年の間に、それまで無知蒙昧で野蛮な蛮族に過ぎなかったフランク族に、先進的なローマ文化が浸透していきます。やがて446年、クローヴィスの祖父に当たるメロヴィクス(?~457)が頭角を現して族長に就任、その後に襲来したアッティラ率いるフン族と激戦を繰り広げました。

そのメロヴィクスが亡くなり、息子である後継者キルデリクス(?~482)の子として生まれたのがクローヴィスで、彼は父キルデリクスの死に際し、482年に何とわずか16歳でフランク族の族長の位を継承します。その6年前に、もはや無いに等しかったとはいえ、形の上では長年の間彼らフランク族の「支配者」であった西ローマ帝国が滅亡。ヨーロッパはまさに「群雄割拠」の時代に突入します。

クローヴィスは族長になると、その若さに見合わぬ驚異的な力量を発揮して他のフランク族を統一し、486年20歳の時には、すでに滅んでいた西ローマ帝国のガリアにおける最後の残存勢力である城塞都市ソワソンの執政官シアグリウス(436~486)を破り、ロワール川より北のガリア北部を支配下に置きます。

その後彼はさらにガリアを南下してブルグンド王国と接する地域まで支配下に置くと、493年ブルグンド王の娘で、彼の人生に最も大きな影響を与える事になる王女クロティルド(475~545)と結婚します。

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上が王妃クロティルド。彼女はとても敬虔なキリスト教徒でした。

同じ年の493年、南のイタリア半島では西ローマ帝国を滅ぼした張本人オドアケル(433~493)を倒した東ゴート族のテオドリック(454~526)が東ゴート王国を建国。クローヴィスは彼と同盟を結ぶ事を画策、建国したばかりで隣国との争いを避けたいテオドリックもこれに同意。両者の思惑と利害が一致し、彼は自分の妹をテオドリックと結婚させます。

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上が東ゴート王テオドリック(ドイツ語読みではディートリッヒ)下が東ゴート王国の範囲です。

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497年王妃クロティルドの実家であるブルグンド王国の隣で絶えず争っていたアラマン族との戦いに勝利したクローヴィスは、彼女の勧めもあって、配下のフランク族3千とともにランスにおいて初めてキリスト教カトリックに改宗します。これが「クローヴィスの改宗」です。

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上はランス大司教、聖レミ(サン・レミ)から洗礼を受けるクローヴィスです。しかし彼がそれまでの異端の宗教を捨ててカトリックに改宗した理由は、王妃クロティルドの様な厚い信仰心から来るものというわけではなく、とても政治的な現実問題を考慮しての事でした。彼の支配地であるガリアの住民の大半がカトリックを信仰しており、数の少ないゲルマンのフランク族は別の宗派のキリスト教や、ゲルマンの古い神を信仰していたからです。

この事は、彼が自らの王国をガリアに打ち建てる上で障害となっていました。(いくら力で支配しても、住民の支持が得られなければ国の運営は出来ませんからね。)彼はその事を冷徹に計算し、今後の円滑な統治を進めるために大パフォーマンスを演じたものと思われます。

その結果は大成功でした。ガリアの住民とフランク人との融和が進み、さらにローマ教会との強いつながりを持ったお陰で今後の他国との戦を正当化出来る様になったからです。「我の敵は神の敵、歯向かう者はキリストの敵である。」というわけですね。つまりローマカトリック教会の威光を利用したのです。(これはわが国においても似た様な事例がたくさんあります。平家に始まり、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川、そして薩摩と長州と歴代の権力者たちは天皇と朝廷の威光を借り、「自分に手向かう者は帝の敵、すなわち「朝敵」「逆賊」である」と称して敵に戦を仕掛ける際の口実に多用しました。)

その翌年498年に、クローヴィスは同じランスでローマ教会の公認の元に戴冠し、「フランク王クローヴィス1世」として即位、ここにメロヴィング朝フランク王国が正式に成立しました。(実際には彼がフランク族の族長になった時点からすでにこの王国は始まっていますが、正式に「国家」として公認されたのはこの時からの様です。また「メロヴィング」とは「メロヴィクスの」という意味で、彼の祖父であり、最初にフランク族の族長になったメロヴィクスが実質的にこの王家の初代とされているからです。また当時のフランク人には「姓」というものがありませんでした。)

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上は彼が戴冠したランス大聖堂とその内部です。大聖堂自体は12世紀に壮大なゴシック様式で建てられたもので、クローヴィスの時代はもっと小さなものだった様です。そしてメロヴィング朝以後の歴代フランス王朝においても、新たに即位する国王はこのランス大聖堂で戴冠式を行う事が慣習となりました。(内部の写真をご覧ください。下に写っている座席と比較すると建物の巨大さが良く分かります。)

次回に続きます。

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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 3

みなさんこんにちは。

498年ランスで即位したクローヴィスは、その後ガリア南部を支配していた西ゴート王国と対決するためさらに南進を開始しますが、その前に彼は隣国ブルグンドの王位争いに付け込み、500年にブルグンドに侵攻します。

ここで疑問に思うのは、そのブルグンドが自分を改宗させた王妃クロティルドの故郷であるという点です。普通に考えれば、妻の実家である同盟国を攻撃するなど有り得ませんし、何より王妃クロティルドが夫の軍勢に故郷を蹂躙される事に大反対するでしょう。しかしこの背景には宗教問題と王位継承に絡む、深い事情がありました。

この時代、キリスト教はローマ教会を本拠地とするカトリックの他にいくつかの宗派に分かれており、クローヴィス率いるフランク王国は前回お話した様に、王であるクローヴィス以下全てのフランク族が改宗してカトリック教国となっていました。しかし西ゴート王国、東ゴート王国、ブルグンド王国などの同じゲルマン民族の国々や、スラブ系で民族は違いますが北アフリカのヴァンダル王国は全て「アリウス派」と呼ばれる別の宗派のキリスト教を信仰していました。

王妃クロティルドはそのアリウス派キリスト教の国であるブルグンド王家出身なのですが、彼女はその中にあって珍しいカトリック信者でした。しかし彼女の父王と母の王妃は王位をめぐる争いで兄弟に暗殺され、王位はクロティルドの叔父にあたるアリウス派のグンデバルドに移り、彼女自身の身が危ない状態だったのです。クロティルドが北の強力なフランク族の王クローヴィスに嫁いだのも、最初は叔父グンデバルドへの復讐が目的でした。出来る事なら自分が親の敵を討ちたい。しかし女性である彼女には王位継承権はありませんでした。

古来ヨーロッパでは、女性が王や皇帝になる事は出来ませんでした。古代ギリシアはもちろん、ローマ帝国においても女性の皇帝(女帝)は一人もいません。(ローマ皇帝位は初代皇帝アウグストゥスに始まる帝政初期を除いて王朝による世襲制ではありませんでしたが。)さらにこれはゲルマン民族でも同じで、後にクローヴィスが定める法典にも、王位は男子のみに限っています。

クローヴィスが興したフランク王国は、後のフランス、ドイツ、イタリアの源となる国家ですが、メロヴィング朝滅亡後のこれらの国の歴代王朝でも、その制度は受け継がれました。それゆえ歴史上「フランス女王」「ドイツ女王」「イタリア女王」というものは存在しません。例外はイギリス、スペイン、ロシアなどですが、これらの国々では男子後継者が絶え、古い過去の因習を打破しようとする男勝りの稀有な王女たちの行動の結果、「女王」や「女帝」が誕生したものです。

そのため歴史上の数多くの王妃たちは、嫁いだ王との間に生まれた息子を王位に付け、その王母として王に匹敵する権力を得るとともに、自らの血を引く者のみによる王朝の存続を図る様になります。クロティルドもそんな王妃の一人でした。夫の力を借り、親の敵である叔父を倒して空いたブルグンド王位に自分の息子を付ければ彼女の子孫による王家が続きます。それどころか彼女の息子たちには、いずれフランク王国の王位も待っています。夫クローヴィス亡き後、その息子たちが王位を継げば、全フランクをも彼女の血を引く者たちによって支配出来るのです。

クローヴィスの方でも、ブルグンドを支配したい理由がありました。彼は終始仮想敵国を西ゴート王国と定めており、ガリア南部からこれを追い出して全ガリアをフランク領にする事を望んでいましたが、その際に挟み撃ちに遭わない様、その前に背後のブルグンド王国を叩いておく必要があったのです。

クロティルドは極力住民に危害を加えない事を条件に夫のブルグンド侵攻を支持、クローヴィスも王妃の条件に同意し(住民が抵抗すれば別ですが。)ブルグンド攻撃を開始します。両軍はディジョンで戦いを交え、結果はフランク軍が勝利し、グンデバルドは逃亡してしまいます。クローヴィスはブルグンド王国に対し、対西ゴート作戦のため、今後ブルグンド軍も「同盟国」として参加する事を要求してこれを受諾させます。

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上は現在のディジョンの旧市街です。人口は15万3千ほどで、さほど大きな街ではありませんが、中世の街並みが良く残っています。二枚目の写真は良く見ると、長い年月を経て建物が歪んでしまっているのが分かります。またこの街は「マスタード」でも有名です。

クローヴィスがブルグンド王国を支配下に置いた頃、ガリア南部は西ゴート王国の領土でした。その西ゴート王国の王はアラリック2世(?~507)といい、現在のトゥールーズに都を置いていましたが、アラリック2世にとって、これ以上のフランク王国の南下は何とも我慢のならないものでした。こうして507年、両軍はガリア南部ヴイエで激突します。(ヴイエの戦い)激戦の末、戦いはクローヴィス率いるフランク軍が勝利し、敗れたアラリック2世は捕らえられ処刑されてしまいます。

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上はアラリック2世の金貨です。

記録によると、この時クローヴィスは自らの手でアラリック2世を処刑したとの事です。その理由は敵がこれまでの様な小領主ではなく大国の王であり、名も無い兵に処刑させるよりも、同じ王である自分が処刑する事が相手に対する礼儀であり、情けである。というものでした。そしてその遺体を西ゴート軍に丁重に送り返したそうです。

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王を討たれた西ゴート軍は、王の遺体を荼毘に付すとガリア南部を撤退、ヒスパニア(現スペイン)本国まで退却し、上に載せたアラリック2世の息子ゲサリック(?~511)を新たな王に即位させ、ピレネー山脈を防衛線として巻き返しを図ります。このピレネー防衛線が、ほぼ現在のフランス・スペイン国境として今に至るそうです。

次回に続きます。

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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 4

みなさんこんにちは。

507年のヴイエの戦いでアラリック2世率いる西ゴート軍を破ったクローヴィスのフランク軍は、その後西ゴート王国の首都トゥールーズを落とし、さらにヒスパニア(現スペイン)のピレネー山脈付近まで西ゴート軍を追いやり、ガリア(現フランス)のほとんどを手中に収めました。

その気になればヒスパニアに侵攻する事も出来ましたが、クローヴィスはそれ以上の深追いはせず、山脈を天然の国境線として各地に守備隊を置くと、兵をまとめてガリアに帰還します。その理由は不明ですが、恐らく後方にいるテオドリックの東ゴート王国を警戒しての事と思われます。

第2回でお話した様に、クローヴィスは493年に妹をテオドリックと政略結婚させて「同盟」を結んでいますが、そのテオドリックは自分の娘をクローヴィスがヴイエの戦いで破って処刑した西ゴート王アラリック2世に嫁がせ、こちらとも「同盟」していました。

しかしクローヴィスが嫁がせた妹と、テオドリックの間には後継者の王子が生まれず、テオドリックが西ゴートのアラリック2世に嫁がせた娘には、未来の後継者たる待望の王子が生まれていました。それに出身部族も、東西に分かれているとはいえ同じ「ゴート族」であり、つまりクローヴィスのフランク族とのつながりは、妹を通しての非常に脆弱なものでしかなかったのです。

いつ同盟を破棄されてテオドリックに攻め込まれるか分かりません。そうなればアラリック2世の復讐と失地回復に燃える西ゴート軍との挟み撃ちに遭って、せっかく苦労して広げた領土を失いかねません。そのため彼は、テオドリックの東ゴート王国には攻め込む意志の無い事を示すため、様々な工作でかなり気を使っていた様です。しかし幸いテオドリックは、クローヴィスのフランク王国よりも、東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)との諸問題に追われていたので、彼の懸念は杞憂に終わりました。

508年クローヴィスは、自らが築いたフランク王国の首都をパリに定め、戦いに明け暮れていた毎日から一転、新たな国づくりに向けて国政に専念し始めます。(彼が都に定めた「パリ」の語源は、かつてこの辺り一帯に居住していたケルト系の「パリシー族」の名にちなんだと言われています。)彼はローマ法とゲルマンの慣習を融合させた「サリカ法典」を編纂し、セーヌ川にキリストに捧げる修道院を築くなど精力的に動いていましたが、一方でこの頃から健康に不調をきたし、病気がちになりました。

健康の不調はいつも勝利の自信に満ちていたクローヴィスの心身を蝕み、死への恐怖に怯えて過ごす様になります。そしてそれは晩年の彼の心に他人への猜疑心を増長させてしまいました。彼は自分の命も先が長くないと悟ると、自分亡き後の息子たちへの速やかな権力移譲を図るため、他のフランク有力家門を次々と奸計にかけてそのほとんどを抹殺し、メロヴィング家の王朝世襲を強固なものにしました。(これによりメロヴィング家は以後240年もの間、フランク王国の王家として君臨し続ける事が出来ました。)

西暦511年11月、一代で西ヨーロッパに広がる大王国を築いたクローヴィス1世は息を引き取りました。45年の決して長くない一生でした。彼の遺体はパリ郊外にあるサン=ドニ大聖堂に埋葬されましたが。その墓は今だに発見されていないそうです。

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上がそのサン=ドニ大聖堂。現在の建物は13世紀のもので、クローヴィス以後のメロヴィング家の王たちを始め、それ以後の歴代フランス国王のほとんどがここに埋葬されています。

彼の死後、フランク王国はフランク族特有の習慣に従って4人の息子たちに分割されます。しかしこの分割相続が仇となり、4人の息子たちは兄弟間で骨肉相争う領土争いを展開、最終的にクローヴィスの末子であるクロタール1世(497~561)が全フランク王国を手中にしますが、それ以後のメロヴィング王家は、好色で短命なこれといって才も覇気もない王が続き、やがて王国の実権は家臣であった「宮宰」(きゅうさい)のカロリング家に握られて行く事になります。

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上が分割後のメロヴィング朝フランク王国、下がクロタール1世です。

今回取り上げたクローヴィス1世については、日本ではあまり知られておらず、本家ヨーロッパの歴史家の間でも、「フランス最初の国王」でありながら「疑り深く、狡猾で残忍な王」という評価の様です。それは否定しません。しかし歴史上の君主、権力者など、みんなそうなのではないでしょうか?「聖人君子」などという言葉がありますが、もしその様に争いを好まぬ温厚で人の良い人物であれば、周囲の者たちの餌食になって攻め込まれ、滅び去るだけだったでしょう。そうならぬためには自らが強くなり、獲物に噛み付く狼の様に恐れられる存在となるしかなかったのだと思います。

彼の話はこれで終わりますが、古代から中世へと移行していく激動の時代を生き抜き、その後のヨーロッパの「王国」のあり方の方向を示した先駆者として記憶されるべきと思います。

次回からはフランク王国第2王朝であるカロリング家の人々についてお話致します。

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カール大帝とカロリング王朝 1

みなさんこんにちは。

今回からフランク王国の第2王朝であるカロリング家の人々についてお話致します。

このカロリング家については前回お話した様に、もともとの身分はフランク王国の王家メロヴィング家に仕える家臣で、メロヴィング朝中期から台頭して来た家柄の一族でした。

メロヴィング朝フランク王国は、創始者クローヴィス1世亡き後、彼の子孫たちによって統一と分割を繰り返しながら支配されていたのですが、カロリング家はその中の一つで、ほぼ現在のドイツの西部地域であるアウストラシア分王国(一つの王国を「分けて」いるのでこの言い方をしています。)の宮宰(「きゅうさい」「宮廷宰相」とでも言いましょうか、王に代わって王国の政務その他一切を取り仕切る言わば「首相」職で、それぞれの分王国に存在していました。)を務めていました。

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メロヴィング朝フランク王国は、フランク族独特の伝統的慣習に従い、王位継承の度に王国を分割相続する制度であったため、次第に王権が弱体化して行き、代わってこれら宮宰が台頭していきました。

最初に彼らの名が登場するのがメロヴィング朝中期から後期なのですが、まだその頃宮宰職はカロリング家世襲のものではなく、他の有力家臣との持ち回りで行っていた様です。しかしその宮宰職を初めてカロリング家世襲のものとし、またアウストラシアだけでなく、全フランク王国全ての宮宰に就任する事に成功したのがピピン2世(640?~714)という人物です。(とても愛嬌のある名前ですが、実際にこういう名前なのです。しかしそれとは裏腹に、さぞや激しい権力闘争で政敵の有力者を倒していったのでしょうね。)

そのピピン2世の死後、宮宰職は息子のカール・マルテル(688?~741)が継いで全フランク王国の実権を握ります。(息子なのに名前が違うのは彼が正妻の子ではなく、側室の子であるからです。当然正妻の息子一族との争いがありましたが、彼は大変軍事的才能に恵まれ、これらを破って全フランク王国の宮宰となりました。)

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その後彼は、西ゴート王国を滅ぼし、当時スペインからフランス南部にまで侵攻して来たウマイヤ朝イスラム帝国の6万とも10万以上ともいわれる大軍を、わずか2~3万の軍勢で撃退し、西ヨーロッパへのイスラム勢力の侵入を食い止めた事で、その名を全ヨーロッパに知らしめ、ローマ教会からも信頼されると同時に恐れられました。

カール・マルテルが死ぬと、その息子であるピピン3世(714~768)が宮宰となります。そしてこの人物こそメロヴィング朝から王位を簒奪(「さんだつ」本来その地位に付くべきでない下位の者が、上位の者から位を奪い取る事。)してカロリング朝を開いた最初の王です。

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王位を「奪い取る」という表現をしましたが、彼は軍事クーデターの様に力ずくで行ったわけではありません。メロヴィング朝末期のこの時期、すでにメロヴィング家の権威は失墜し、王位も空白でした。ピピン3世は某修道院から、メロヴィング家の血筋に連なる人物を連れて来てキルデリク3世(?~754?)として即位させ、数年間在位させた後に、751年王国の貴族たちの決議で彼を廃位して、自らを新たな「フランク国王」として選出させたのです。
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上がそのキルデリク3世の銅貨です。

彼がこの様な回りくどいやり方で即位した背景には理由があります。力ずくで王位に付くのは簡単だが長続きしない。歴史を見れば大抵一代限りの短期政権で終わっています。彼はメロヴィング朝の様に、自らの子孫による王朝の存続を望んでいました。そのためには自分が王位に付く正当性と、それを支え、従えて行く周囲の者たちに充分納得させる準備が必要です。

彼はまずローマ教会に接近し、時の教皇ザカリアスから「力無き者と力ある者とでは、力ある者が王になるべき」との言葉を頂き、(教皇に頼んでそう言わせたのです。)ローマ教会の支持を取り付けました。(もちろん裏でローマ教会は法外な口利き料を取っていた様です。)そしてそれを王位簒奪の正当性の根拠にして、王国の貴族たちにも彼らに得がある様に充分根回しをし、数年かけて周到な準備を重ね、751年の貴族会議で、彼ら王国貴族たちから推戴されるという形式を取ってついに王位に付いたのでした。

哀れなメロヴィング家最後の王キルデリク3世はその後幽閉され、(復位させないためと思われます。)数年後に寂しく亡くなりました。こうして初代クローヴィス1世から数えて14代270年続いたメロヴィング王朝は終焉を迎え、代わって新たにカロリング朝フランク王国が誕生しました。(カロリングとは「カールの」という意味で、ピピン3世の父カール・マルテルが事実上この王家の初代とされているからです。)

念願叶って王になったピピン3世でしたが、彼にはまだローマ教会と約束した大仕事が残っていました。それは彼が王位に付く見返りに、当時ローマ教会を脅かしていた北イタリアのランゴバルド王国を討伐する事です。さらに貪欲なローマ教会は、討伐成功の暁には、イタリア中部の領土をローマ教会に寄進する約束までさせていました。

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上はピピン3世が寄進した領地の報告を受ける教皇と枢機卿たちを描いた絵です。彼は約束通りランゴバルドを討伐し、奪った領地の中からラヴェンナを中心とする地域を当時の教皇ステファヌス3世に寄進しました。(ピピンの寄進)そしてこれが、後のローマ教皇領の始まりとなります。

次回に続きます。

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カール大帝とカロリング王朝 2

みなさんこんにちは。

旧メロヴィング王朝を廃して自らの王朝を打ち建て、新たにフランク王となったピピン3世が768年に亡くなると、その領土はまたもフランク人特有の均一分割相続により、彼の2人の息子長男カールと、次男カールマンが相続します。しかし弟カールマンの方は3年後に早死にしたので、フランク王国は兄カールが単独で支配する事になりました。

このカールこそ、後のカール大帝となるカール1世です。(742~814)

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上は16世紀に描かれた彼の肖像です。

彼は全フランクの王になると、父ピピン3世をはるかに凌ぐ軍事遠征を行いました。彼はまず、その遠征の矛先を北イタリアにあった隣国ランゴバルド王国に定めます。当時この地域には、同じゲルマン民族であるランゴバルド族の建てた王国があり、カトリックの総本山であるローマ教会を脅かしていました。ランゴバルド王デシデリウスは、イタリア半島征服を狙っており、いずれは戦う事になる相手であったからです。

しかし両者はそんな思惑をおくびにも出さず、当初はランゴバルド王から、自分の娘とカールとの政略結婚の申し出があり、カールもそれを受けてその王女と結婚します。これでフランク王国から攻撃される事はないと思い込んだデシデリウス王は772年ローマへと兵を進めました。

時の教皇ハドリアヌス1世(?~795)はカールに救援を要請、デシデリウスを討つ大義名分を得たカールは3万の軍を率いてアルプスを越えるとランゴバルド王国へ侵攻、首都パヴィアを落としてランゴバルド王の象徴である「鉄王冠」を奪い、たちまち全土を制圧してしまいます。本国を襲われ不意を突かれたデシデリウスは捕虜となり、ランゴバルド王国は建国からわずか100年余りで滅亡しました。

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上はランゴバルド軍を破ってローマに入城するカールを迎える教皇ハドリアヌス1世です。(教皇自ら出迎えて「汝はローマを救った。」とか「主イエスは常に汝のそばに。」とかなんとかさぞや大げさにカールを褒め称えた事でしょうね。)

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そしてこれがランゴバルドの「鉄王冠」です。これは代々のランゴバルド王が受け継いだ物で、なんでもキリストが磔にされた時の釘(といわれる物)を叩き伸ばして円状にし、その周りを分厚い黄金の板と宝石で飾ったいわゆる「聖遺物」という物です。この王冠は後に「イタリア王」の象徴とされ、その後イタリアを支配した歴代の皇帝たちに受け継がれていきました。

ランゴバルド王国を滅ぼしてその領土を得たカールは、この王冠を盾に自らランゴバルド王を兼ね、父ピピン3世の例に倣ってイタリア中部の領土を教皇に寄進し、ローマ教皇領の守護者となりました。(教皇以下、教会幹部が歓喜する姿が目に浮かびます。喜んでそれらを認めた事でしょう。)

南の敵を討った彼は次に北上、ドイツ北部で頑強に抵抗し、フランク王国への服属を拒むザクセン族との長い戦いに入ります。(これを「ザクセン戦争」と言い、772年から804年までなんと30年以上も続き、最もカールを悩ませました。)彼は通算10回以上も北方遠征を行い、その間に他の方面にも遠征しています。

778年にカールはイベリア半島のカタルーニャに侵攻、後ウマイヤ朝の支配するイスラム勢力を駆逐すると、795年この地に「スペイン辺境領」を置きます。(これはイスラム勢力とのいわゆる「軍事的緩衝地帯」でしょう。)さらに788年には東のバイエルン族を服属させ、791年にはドナウ川流域のスラブ人も討ち従えて行きました。

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上がカール1世が征服した領土です。青色が即位当時の領土、オレンジ色がその後にフランク王国に組み入れた領土、黄色が勢力範囲、赤色が寄進した教皇領です。イタリア、ザクセン、バイエルン、ボヘミア、チェコ、スロバキア、スペイン北部など、彼の時代にフランク王国はその領土が約2倍になりました。

もはや西ヨーロッパで、カールに立ち向かえる敵はほとんどいなくなりました。それほどまでに強大化したカールのフランク王国に対し、密かにこれを利用して自分たちの権威と地位をもっと高めようと画策する集団がありました。それは悪名高い謀略の巣窟であるローマ教皇庁です。

当時カトリックのローマ教皇庁は、ローマがキリストの最初の弟子ペテロ殉教の地である事を根拠に東のビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを牙城とする、「正教」とキリスト教の主導権を巡って争っていました。しかしこの時代、キリスト教の中心地は何と言ってもコンスタンティノープルであり、ローマは常にその「格下」扱いを受けて後塵に甘んじる事を余儀なくされていたのです。そこで歴代のローマ教皇は、東のコンスタンティノープル総大主教に打ち勝つ方策を常にあれこれと巡らせていました。

そんな折、西ヨーロッパでは今や東のビザンツ帝国と肩を並べる強大な勢力となったカール1世のフランク王国が興隆しつつあったのです。「この状況を何とか我らに有利に利用出来ないか?」そして時のローマ教皇レオ3世(750?~816)は実に突拍子も無い奇抜な事を考え付きます。それはすでに300年以上前に滅びた「西ローマ帝国の復活」です。

「東の正教勢力が強いのはビザンツ帝国(東ローマ帝国)という「国家」の厚い庇護の下にあるからで、わがローマが正教より弱いのはこの「国家」による庇護が無いからだ。ならばこちらもその後ろ盾となる「国家」を創れば良い。東の正教が「東ローマ帝国」であるのなら、西の我らは当然「西ローマ帝国」である。」というわけです。

そして彼が考えるその復活した「西ローマ帝国」というのがカールのフランク王国であったのです。もちろんその様な大それた構想を、古代ローマ帝国の正当な後継国家である「東ローマ」すなわちビザンツ帝国が絶対に認めるはずがありません。しかし教皇レオ3世は構わずこの計画を実行に移すため動き出しました。

次回に続きます。

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カール大帝とカロリング王朝 3

みなさんこんにちは。

さて教皇レオ3世が東の正教に対抗し、全キリスト教徒の頂点としてのローマ教皇権の確立を目指して「西ローマ帝国の復活」という途方も無い作戦を計画していた800年頃、その筋書きの主役であるカール1世は何をしていたのでしょうか?

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カール1世の軍事遠征については前回大まかにお話しましたが、彼は対外戦争ばかりしていたわけではなく、国政においても優れた手腕を発揮した英邁な君主でした。中でも彼が最も情熱を傾けたのがカトリックの拡大と学問の振興です。

カールは征服した領地に教会や修道院を次々に建設して人々のキリスト教カトリックへの改宗を促進し、各地から学者や知識人を集めると、それらに付属する神学校で古代ローマやラテン語の学問を大いに奨励しました。(彼が行ったこれら一連の文化運動は「カロリング・ルネサンス」と呼ばれています。)さらに王国内を細かくブロック分けした「州」を設け、各地の有力部族の長などをそれらの長官として任命し、後の貴族階級の「爵位」のもとになる「公」その下に「伯」などの位を与えて徴税、統治を徹底させ、中央集権化を推し進めていきました。

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上はカール1世が建てた寺院の一つであるドイツのアーヘン大聖堂とその内部です。1枚目の写真をご覧下さい。彼の時代には中央の八角形の部分が中心でしたが、その後の時代に合わせた様々な建築様式で次々に建て増しされ、デザインがバラバラなのがお分かり頂けると思います。カール大帝は崩御するとこの大聖堂の神殿に埋葬され、今もここに眠っているそうです。そして彼に続くカロリング家の皇帝たちも、さらにその後に開かれた神聖ローマ帝国の歴代皇帝たちもほとんどここで戴冠しています。

(彼は生涯の大半を軍事遠征に費やしたので彼の宮廷は絶えず移動を余儀なくされ、彼のフランク王国でははっきりとした「首都」と呼ばれる所がないのですが、多くの歴史家の間では独仏の中間にあるここアーヘンをカロリング朝の都としています。)

そんな折、時のローマ教皇レオ3世から例の「西ローマ帝国の復活」とカールの皇帝戴冠の話が持ち込まれたのです。正確にはカールが最も信頼し、彼の宮廷で活躍していたイングランドの高名な神学者アルクイン(735?~804)を介して伝えられたのですが、カールはこの時点ではローマ教皇の本当の目的が見抜けず、皇帝即位を受諾しています。

中世最強の王カール1世もやはり「人間」でした。

「すでに西ヨーロッパのほとんどを征服し、わがカロリング・フランク王国は、今や東のビザンツ帝国とヨーロッパを二分する超大国となった。その王である自分こそ、王たちの王、すなわち皇帝となるにふさわしい。そしてキリスト教カトリックの守護者として、全ヨーロッパにあまねくそれを広めるのだ。」

彼の心の中に、このまま歴史に数多くいるただの「王」の一人で終わりたくない。全世界の支配者「ローマ皇帝」となって歴史に自らの名を刻みたいという名誉欲が膨らんでいきました。


西暦800年12月25日、カール1世はローマに赴き、サン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世より帝冠を授かり、「西ローマ皇帝」として即位しました。しかしこの時カールを驚愕させる事態が起こります。それは教皇レオ3世が、ペテロの石棺の前にひざまずくカールの頭上に「教皇の手により」帝冠を載せたのです。そして様々な美辞麗句で彼を褒め称えた挙句「神の代理として汝をローマ皇帝に任ずる。」と宣言し、時を置かず参列者に「偉大なるカール皇帝万歳!」と叫ばせました。

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上がその時の様子を描いた絵です。もちろん参列者の大半は、本心から偉大な皇帝の即位を喜んでそう叫んだのでしょうが、カール大帝自身はこの時初めて、自分がローマ教皇の大芝居のパフォーマンスを演じさせられた事に気付きました。なぜなら教皇による皇帝の戴冠など、過去に前例が無かったからです。

実はローマ教皇とは、カトリックの頂点に君臨するとはいえ聖職者の最高位に過ぎず、本来なら聖職者などという者は、地上の最高権力者たる皇帝から選任されてしかるべきものでした。それなのにカール大帝はまんまと教皇レオ3世に乗せられ、「教皇が皇帝を選任する」という全く逆の形を創らされてしまったのです。

カールがそれに気付いた時はすでに遅かったのですが、広大な領土を統治するための「神聖かつ巨大な権威」を必要としていた彼は大いに不本意ながら「西ローマ皇帝」としてその後君臨します。

さて、これに怒ったのが「東ローマ帝国」すなわちビザンツ帝国でした。ビザンツ皇帝はカールの「西ローマ皇帝」など「僭称」に過ぎないと断じて認めず、さすがに東のビザンツ帝国とまでは戦うつもりの無いカール大帝を悩ませました。(もちろん教皇レオ3世は知らんぷりです。)結局その後十数年かけて両者の間で交渉がなされ、812年にフランク王国とビザンツ帝国との間で妥協が図られました。

その内容は、ビザンツ皇帝はカールの皇帝即位を認め、その代わりカール大帝は後に海洋都市国家として大発展するヴェネツィアと南イタリアをビザンツ帝国領として認める。イタリア中部の教皇領は両者のどちらにも属さない主権国家とするというものです。(しかしこの時もビザンツ側は「ローマ帝国とローマ皇帝」はあくまでビザンツ帝国とビザンツ皇帝であり、カール大帝は「フランクの皇帝」に過ぎないというものでした。)

こうして「西ローマ帝国」は復活したかの様に見えますが、歴史上の位置付けではビザンツ帝国の主張を正当と認めていて、そのためカール大帝以下カロリング家の皇帝たちは「フランク・ローマ皇帝」などとやや苦し紛れに呼ばれています。

次回に続きます。

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カール大帝とカロリング王朝 4

みなさんこんにちは。

様々な紆余曲折を経てようやく実現したカールの皇帝即位でしたが、その後のカロリング・フランク王国とヨーロッパ世界はどうなったのでしょうか?

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上の図をご覧になればお分かりと思いますが、大体大きく3つの大勢力に分かれている事が確認出来ます。紫色がカール大帝のフランク王国、黄土色がビザンツ帝国、そして緑色がアッバース朝イスラム帝国(後ウマイヤ朝のスペインを除く。)ですね。そしてイタリア中部にあって極めて小さいながら、これら3つの超大国の力のバランスを利用しつつ巧みな外交と謀略で翻弄し、したたかに存在していたのがローマ教皇庁です。

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カール大帝について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は96ページで薄いですが、大帝についてコンパクトな知識をつけるには十分な本です。(カール大帝とフランク王国の書籍は他にもありますが、学者さんがお書きになった高度な専門書で、500ページ程度なのになんと価格が8千円以上もする高価なものになってしまうため、上の本をお薦めします。)

カール大帝は、ビザンツ帝国との一応の和平が成った2年後の814年に、71歳でその波乱に満ちた生涯を終えます。前王朝メロヴィング朝の創始者クローヴィス1世と比較すると、前者に比べはるかに人間らしい好人物であった様です。

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上はルネサンス期(1500年前後)にドイツ最大の画家アルブレヒト・デューラー(1471~1528)によって描かれたカール大帝の肖像です。(黄金の帝冠を被ったカール大帝ですが、この帝冠は彼の死後150年後に建国された神聖ローマ帝国皇帝の帝冠であって、カール大帝が身に着けていた物ではありません。画家が事情を良く知らなかったのでしょう。)

記録によれば、カール大帝は身長195センチもある大男で、乗馬や狩り、水泳などのスポーツを好み、焼肉が大好物でしたが酒には弱く、あまり飲めなかった様です。また当初は読み書きが全く出来ず、下が彼のサインですが、なんと真ん中の「菱形」の部分しか書いていないそうです。しかしさすがにこれではまずいと思ったのか、忙しい合間を縫って夜にこっそり石版で読み書きの練習をしたりしていました。

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ただそこは皇帝になるだけの大人物だけあって頭は良く、ラテン語やギリシャ語を習得し、学者たちとも大いに語らい交流していました。上のデューラーの肖像では豪華な衣装を身に着けていますが、儀式以外の普段着は質素で贅沢は好みませんでした。またペットの飼育も趣味で、各地から様々な珍しい動物を送らせてはアーヘンの宮廷内に「動物園」を作って楽しんでいたそうです。

いろいろ調べてみましたが、このカール大帝は先のクローヴィスと大きく違い、正々堂々とした「騎士道精神」と豪快かつ単純な明るい性格で、謀略や残虐なエピソードがほとんどありません。それゆえか今でもヨーロッパでは「ヨーロッパの父」と呼ばれて慕われ、現在のEU(ヨーロッパ連合)を主導するドイツ、フランス両国で高い人気を誇っています。またこの人はトランプのカードのハートのキングのモデルとしても有名ですね。

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カール大帝の死後、フランク王国は彼の長男ルートヴィッヒ敬虔王(778~840)が、父カールがやむなく受け入れた教皇による皇帝戴冠を踏襲して即位します。(彼は「敬虔王」の名の通り大変信仰心が厚く、教皇によって戴冠される事になんら疑念を持たなかった様です。そしてこのルートヴィッヒのフランス語である「ルイ」が、後のフランス王家歴代国王に代々受け継がれ、彼は初代ルイ1世とされています。)その彼が亡くなるとフランク王国はまたしても分割相続されました。

その後彼の3人の息子たちは大方の予想通り兄弟骨肉の領土争いを展開し、結局843年にそれぞれの相続分を取り決めた「ヴェルダン条約」によって一応の決着を見ました。

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こうしてカール大帝の築いたカロリング・フランク王国は分裂し、その後二度と統一される事はありませんでした。やがてカロリング家の血筋も、その最後の人である西フランク王国のルイ5世が987年に亡くなり、カロリング王朝は初代カール・マルテルから数えて240年余りで断絶してしまいます。

メロヴィング王朝のクローヴィス1世が482年に興し、さらにカロリング王朝に引き継がれて通算500年続いたフランク王国のそれが最後でした。そして後に残った西フランク王国がフランス王国に、東フランク王国が神聖ローマ帝国になり、フランク王国は完全に消滅しました。しかしフランク王国の記憶はその後継国家であるドイツ、フランス、イタリアという現在のヨーロッパ主要国の国民形成に大きく影響し、そこで育まれた文化や学問が今日のヨーロッパの原型を造ったのは疑い様もありません。

また古代ローマ帝国に代表される様に、それまで地中海中心に動いていた歴史が、この時代から「北方」に移った事も大きな特徴でしょう。ゲルマン民族のフランク王国が歴史上果たした役割は、ヨーロッパの歴史の区切りと移り変わりというものを知る上でとても興味深い一大スペクタクルであると思います。

フランク王国物語終わり。

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