フィレンツェの興隆 ・ 煌きの始まり

みなさんこんにちは。

今回から、ヨーロッパ中世において「ルネサンス」を花開かせ、人類の至宝ともいうべき多くの芸術作品を生み出した「花の都」フィレンツェと、この街で巨万の富を築き、そのあり余る富を惜しげ無く投じて多くの芸術家や文化人を保護育成し、フィレンツェの街そのものを巨大な「芸術作品」に造り上げ、やがて一市民から「トスカーナ大公」という君主にまで上り詰めた謎の大富豪一族「メディチ家」についてお話したいと思います。

最初はその舞台となるイタリア半島中部の都市フィレンツェの歴史と成り立ちからご紹介いたしましょう。

フィレンツェ (講談社学術文庫)

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フィレンツェの歴史と成り立ちについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。イタリア美術史がご専門の若桑みどりさんの執筆で、少し専門的ですがページ数は480ページとボリュームがあり、フィレンツェの歴史とその興亡を美術とからめて詳細に記した優れた本です。写真も270枚も掲載されており、モノクロで小さいのが残念ですが、それらは読み進める上では全く違和感はなく、とても満足出来る作品と思います。

この街が造られたのは古代ローマ以前にこの地に栄えた古代エトルリア時代の様ですが、最初に歴史に登場するのは古代ローマ時代の紀元前50年ごろで、ローマ時代の植民都市として拡大建設されたのが始まりです。そしてローマ神話に登場する花の女神フローラにちなみ「フロレンティア」と名付けられたのがフィレンツェの街の名の由来です。

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上がフィレンツェの位置と街の名の由来である花の女神フローラ。しかしこの街はあくまでもローマ帝国が各地に建設した数多くの一般的なローマ都市の典型であり、ローマ時代には一地方都市にすぎず、またローマ帝国滅亡後の長い混迷の時代にはすっかり衰退し、忘れ去られた存在となっていました。

状況が変わるのは9世紀に入ってからで、この地を支配したカロリング朝フランク王国のカール大帝が、従えた豪族をトスカーナ辺境伯に任じてこの地を統治させた頃から街に人々が集まり出し、10世紀にその後を継いだオットー大帝の神聖ローマ帝国時代になると、商業活動が活発な「重要都市」にまで復活していました。

この時代はフィレンツェを含むイタリア中部から北部の都市でも同様に商工業が盛んになり、やがて商工業の発達によって富を得た人々が団結して1115年に「自治都市」を宣言、最初は認めなかった神聖ローマ皇帝も1187年には正式にこれを認めます。(この背景にはやはり「お金」の問題が絡んでいます。神聖ローマ皇帝は国内外で常に戦いに明け暮れ、多くの軍資金を必要としていました。そのため力で支配し続けるよりも、これらの都市に自治権を与えて好きなだけ商売をさせ、その代わりに戦時には儲けた金を軍資金として提供させる様にした方が得策と判断したのでしょう。)

その頃フィレンツェでは、古くからの支配者である貴族階級が、ローマ教皇を主君と崇める教皇派(グエルフ)と、ドイツ神聖ローマ皇帝に忠誠を誓う皇帝派(ギベリン)に分かれ、街の主導権を巡って争っていました。両者の争いは熾烈を極め、商人などの平民たちは第三勢力として「組合」(アルテ)を造り、自衛しながら時には教皇側に、これが不利になると皇帝側にと状況次第で味方に付く相手を変え、最終的には教皇側に付いてしたたかに生き延びていきました。

この争いはおよそ200年以上続き、最終的には教皇派が表面上勝利しますが、長い抗争で貴族階級はすっかり疲弊し、代わって商人たち平民階級が台頭します。彼らは抗争の期間中も争いを上手く利用しつつ富を蓄え、13世紀の終わりには街の実権を握って「フィレンツェ共和国」を樹立させました。

この頃になるとフィレンツェの人口は10万を超え、商人たちの豊かな財力を武器に周辺地域へ勢力を伸ばします。彼らは純度の高い良質なフィオリーノ金貨(フローリン金貨)を鋳造して各国に流通させ、その信用度の高さから「中世のドル」といわれるほど数百年に亘って各国で使われました。

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上がフィオリーノ金貨(フローリン金貨)です。大きさは直径約2センチ、重さは3.5グラムほどで意外と小さい様に思われますが、ある資料によればこれ1枚で現在の日本円で約12万円の価値があるそうです。また表面にはフィレンツェの街の紋章であるユリの花が刻印され、裏面には街の守護聖人ヨハネの姿が刻まれています。 (この人は何でもイエス・キリストのいわば「先輩」にあたる人物で、「ヨハネの黙示録」で有名なキリストの弟子のヨハネとは別人だそうです。)

この時代のフィレンツェで最も力を持った商人は毛織物業者と金融業者でした。前者は羊の毛、つまり羊毛で柔らかいふわふわの衣類を生産して多くの人々に珍重されて莫大な利益を得、フィレンツェを含む北イタリアと、後のオランダ・ベルギーの元となるフランドル地方がヨーロッパにおける二大生産地でした。後者は言わずと知れた「金貸し」で、今回のテーマの主役であるメディチ家はこれを生業として財を成した一族です。

14世紀から15世紀にかけて、それまでに周辺の地域を手に入れて都市国家から領域国家となっていたフィレンツェは、同じく勢力を広げていた北の強国ミラノ公国と戦争を繰り返す様になります。その理由は両国とも内陸にあったため、海への出口を求めて斜塔で有名な海洋都市ピサを奪い合ったのが原因です。(港を手に入れれば海上貿易でさらに儲けられますからね。)

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上がそのミラノ公国の最大勢力範囲です。ミラノはフィレンツェと同様自治都市でしたが、貴族のヴィスコンティ家を君主とする「公国」として早くから君主国となり、さらにその後のスフォルツア家の時代も含め、事実上フィレンツェのライバル国家でした。(上の図ではミラノがフィレンツェの領土を深く侵食していますが、後にフィレンツェがこれらを奪い返し、最終的にピサなどの港はフィレンツェのものとなります。)

フィレンツェの敵は北のミラノ公国だけではありませんでした。南には皇帝派のシエナ共和国があり、都合により表面上は教皇派であったフィレンツェとは戦争が絶えませんでした。(この争いは1556年にシエナが敗れてフィレンツェに併合され、滅亡するまで続きます。)

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上がフィレンツェを含む中世イタリアの諸勢力の図です。年号は少し後のルネサンス期になりますが、大体この様なパワーバランスになっています。そしてメディチ家とその一族はこの複雑な時代に歴史の表舞台に登場する事になるのです。

次回に続きます。
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メディチ家の出現 ・ その起源と台頭

みなさんこんにちは。

前回はルネサンスを育んだ「舞台」であるフィレンツェについて、その起源と街の歴史を簡単にお話いたしました。その「舞台」でルネサンスを創り上げた「主役」は数多くの芸術家たちですが、今日はそれらを影で「演出」したスポンサーであるメディチ家についてお話したいと思います。

メディチ家 (講談社現代新書)

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このメディチ家について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は358ページ、メディチ家研究の権威である森田義之さんの著作で、個人的には表紙のカバーデザインが単純すぎるのが残念ですが、メディチ家の全てについて網羅した日本で唯一の本で、メディチ家の興亡を知るには申し分の無い秀作です。

メディチ家 ルネサンス・美の遺産を旅する (別冊家庭画報)

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このメディチ家に関する本でもう一つ個人的にお薦めしたいのが上の本です。雑誌の別冊で140ページ程度のものですが、何より雑誌特有の綺麗なビジュアルデザインと大きなカラー写真が魅力で、また文庫には無い多くのエピソードや、メディチ一族の家系図がその人物の肖像入りで掲載されているなど、非常に興味深い本です。上の森田氏の文庫と照らし合わせて読み進めると良いと思います。

このメディチ家というのは、改めて簡単にご説明すると、フィレンツェ出身の大銀行家・政治家であり、当時の中世ヨーロッパ屈指の大富豪で、その莫大な富で多くの芸術家たちの創作活動を支援し、さらにローマ教皇を3人も輩出、後に神聖ローマ皇帝から、フィレンツェとその周辺を領国とする「トスカーナ大公」の位を与えられた一族の事です。

しかしこのメディチ家ですが、最初から大富豪でも名門の出であったわけでもありません。後にメディチ家がトスカーナ大公国の君主となってから作られた一族の由来を表す17世紀はじめの「伝記」では、メディチ家の祖先はかつてこの地を支配したカロリング朝フランク王国のカール大帝に仕えた勇敢な「騎士」であり、カール大帝によるランゴバルド王国征服の際に武勲を立て、その戦功から大帝より「貴族」に列せられた云々とされていますが、、実際に彼らの祖先が「貴族」であったという確かな記録も証拠も無く、歴史家の間でもこれはメディチ家が自らの起源に「箔を付ける」ために作らせた創作であるとされています。


実際には彼らの起源は前述した様に確かな記録がほとんど残っておらず、謎に包まれており、ヨーロッパの他の名門と同じく発する所はかなり「怪しげ」で、一説には彼らの祖先はフィレンツェ近郊の森の中で「炭焼き」をしていた一人であったとさえ云われています。  

また彼らの家名である「メディチ」ですが、これは現地のイタリア語で「医者」や「薬」を表す単語で、この事からメディチ家の祖先は「炭焼き」から何代目かにその類いの商いに転進して成功した者が、多少資金が出来た事で、後にメディチ家の家業となる「高利貸し」や「両替商」に転じたのではないかというのが通説となっている様です。これはメディチ家の紋章にもそれをうかがい知ることが出来、紋章に表される複数の丸い玉が、「丸薬」または両替の際に使われる、秤に乗せる丸い分銅を表しているのだというのがその根拠になっています。   

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上がメディチ家の紋章です。しかし上で述べた事は全て後付けの推測であり、確かな証拠はありません。     

メディチ家が記録に初めて登場するのは12世紀後半で、フィレンツェが自治都市として自立した頃には、すでに市内で店を構えて両替商を営んでいた様です。13世紀になると共和国の議員などを務め、同時に多くの土地を所有するまでになりますが、当時のフィレンツェには彼らをはるかに凌ぐ財を持つ古くからの有力豪商が競い合い、まだこの段階でのメディチ家は、たくさんいる二流の資産家の一つに過ぎないものでした。  

14世紀に入ると、ヨーロッパは深刻な不況、戦争、飢饉、疫病に次々に見舞われ、特にはるか東方からもたらされた黒死病(ペスト)の猛威がヨーロッパ全土を覆います。(このペストとその恐ろしさについては今だにヨーロッパで語り草になっていますね。なんとこのペストの大流行により、当時のヨーロッパの人口の3割に当たる2500万人以上が死亡したそうです。)フィレンツェもその被害は甚大で、1348年には市民の4割にあたる4万人が死亡し、メディチ家も一族に大勢の死者を出して多くの人材を失った結果、一時的に衰退します。
  

しかしこの事が、メディチ家をフィレンツェ屈指の有力者に押し上げる事になります。ペストや内乱などで、それまでフィレンツェを支配していた古くからの有力家門が次々に没落して行き、代わってそれらをうまく切り抜け、地道に銀行業に勤しんで財を蓄え、さらにローマ教皇庁と深い関係を持った新興財閥のメディチ家が一躍その座に躍り出たのです。

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その時点におけるメディチ家の当主は上のジョバンニ・ディ・ビッチ(1360~1429)という人物でした。彼は一族が代々築いてきた銀行業をさらに拡大発展させ、特に彼の代にローマ教皇位を巡る争いで彼が即位させた教皇ヨハネス23世から、褒美としてローマ教皇庁の金融部門の責任者を任され、教会収益からそれまでと比較にならない莫大な利益を上げました。そのため事実上この人物が「メディチ王朝」の始祖とされています。

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上がジョバンニ・ディ・ビッチが擁立した教皇ヨハネス23世(1370?~1418)本名はバルダッサレ・コッサという海賊とも傭兵であったともいわれる素性の知れない人物です。しかしジョバンニからすれば、彼の「操り人形」として利用出来れば誰でも良かったのでしょう。

やがて彼が失脚し、新たに即位した教皇マルティヌス5世(1368~1431)もジョバンニをそのまま教皇庁の財務管理者に留任させます。彼はそれだけでなくジョバンニに伯爵位まで授けようとしていますが、ジョバンニは当時まだ「共和制」であったフィレンツェにおいて、「貴族」になるのは政治的にまずいと判断し、これを辞退しています。

さて、メディチ家を成功と栄達の道へと導いた家業である「銀行業」と「両替商」について少し触れておきましょう。両替商とは読んで字の如し、自国の貨幣と外国の貨幣を手数料を取って「両替」する商売で、もちろん金貸しも行います。国際商業都市であったフィレンツェには各国から多くの商人たちが集まり、当然その決済に相手の国の貨幣が必要です。そのため両替の需要はいくらでもあり、また「物」を売る商売ではないので在庫や売れ残りを抱える心配が無いのも強みでした。(彼らが商売で使った台が「バンコ」と呼ばれ、それが英語で銀行を表す「バンク」の語源になったのは良く知られていますね。)

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上は両替商の夫婦を描いたルネサンス期の絵です。これを見ると分かる様に、当時の両替商というのは街角の個人営業がほとんどでした。しかしこの時代はこの程度で充分事足りた様で、これら個人営業の中でさらに成功した者が、さらに上のレベルの銀行業を興し、王侯貴族や一国の政府などの「大物」に大金を貸し付ける様になります。メディチ家はそうしてのし上がった一族でした。(ジョバンニが当主としてメディチ銀行を継いだ時も、各地の支店を合わせて従業員は20名ほどだったそうです。中世の銀行などその程度でした。)

その後のメディチ家は、ジョバンニの息子コジモの代になるとさらに大きな波乱が待ち受け、彼らの運命もそれにつれて大きく変動していく事になります。

次回に続きます。

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メディチ家の躍進 ・ フィレンツェ支配の確立

みなさんこんにちは。

ジョバンニ・ディ・ビッチによって巨万の富を得たメディチ家ですが、このジョバンニの代になって、後の芸術へのパトロンとして動き出す様になります。(それ以前のメディチ家は、芸術や文化などに全く無関心で、それどころか一族の中には素行の悪い者が数多く、市民の間でも「乱暴で危険な一族」として悪評が絶え無かった様です。)ジョバンニは資産が増えるにつれ、教会や修道院に多くの資金を投じる様になり、これらの建築を名だたる芸術家に任せるなどしてその悪評の払拭に努めます。そしてその彼が1429年に亡くなると、息子のコジモ・デ・メディチ(1389~1464)が新たにメディチ家の当主となります。(記録によれば、ジョバンニが息子コジモに残した遺産額は約18万フィオリーノ、およそ216億円であったそうです。)

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彼は父以上の商才と政治的手腕に長けた優れた当主でした。また父ジョバンニが実務本位の商人教育しか受けていなかったのに比して、文化や学術などにも厚い英才教育を受けて育ち、父の後を継いでメディチ家の当主になった時には、すでに押しも押されぬフィレンツェの実力者になっていました。

ちょうどその頃、フィレンツェは数百年続く古くからの有力家門であるアルビッツィ家を筆頭とする二十数家の名門派閥と、メディチ家を代表とする新興派閥が勢力を競っていました。この新旧両勢力は政策面で事あるごとに対立し、やがてそれが表面化します。

最初に仕掛けたのは旧勢力アルビッツィ派でした。折からフィレンツェは周辺国と戦争が続いており、主戦派の彼らは1433年9月、戦争中止派のメディチ家当主コジモを「国家反逆罪」で逮捕し、20日間に亘って拘禁します。コジモは危うく「死刑」にされる所でしたが、戦争に反対する市民らの世論のおかげで国外追放とされます。

せっかくこれまで築いてきたものを全て失ったかに見えたコジモ率いるメディチ家ですが、実は彼は事前にアルビッツィ派の動きを察知しており、資産の大半を国外の支店に移していました。また父ジョバンニの代から親子二代で築き上げてきたメディチ銀行の信用と人脈のネットワークがこの時大いに役立ちます。彼は行く先々で大歓迎され、亡命先のヴェネツィアで何不自由なく過ごしながら復権の機会を窺います。

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上はコジモが亡命していた当時のヴェネツィアの様子です。この頃のヴェネツィアは最強の海洋都市国家として地中海交易を独占し、全盛期を迎えていました。

さてメディチ家を一掃して一時の勝利を得たアルビッツィ家でしたが、度重なる戦争に戦費調達のための重税が市民に重くのしかかり、それらを強行するアルビッツィ家をはじめ旧勢力に対し、市民の怒りは頂点に達していました。そしてコジモが追放されてからほぼ1年後、ついに議会はメディチ派に占められ、市民集会でコジモの追放が取り消しとなります。(こうしたフィレンツェ本国の情報は、ヴェネツィア滞在のコジモに逐一報告されていました。恐らくこれらは全てコジモが影で操っていたのでしょう。)

こうして彼は見事にフィレンツェに帰還し、フィレンツェ市民から歓呼の声で迎えられます。同時にそれまでフィレンツェを支配していたアルビッツィ家などの旧勢力は全て国外追放とされ、反対勢力のいなくなったフィレンツェにはコジモ率いるメディチ家による一極支配が確立しました

しかし、いくらメディチ家が新たな支配者となっても、何もかも自由に出来たわけではありませんでした。伝統的に共和制の精神が強いフィレンツェでは、指導者に対して常に反対勢力が目を光らせ、隙あらばこれを追い落とさんと手ぐすねを引いていたからです。専横に振舞えばアルビッツィ家ら旧勢力の二の舞になってしまう。コジモはこれを一番理解していました。

そこで彼は自らは表に立たず、表向きは共和制を尊重しつつ、実際は議会と政府の要職を全てメディチ派で固め、影でフィレンツェを支配する独裁体制を築きました。また彼は交戦中の各国と交渉して(裏で相手にかなりの金をばらまいた事でしょう。)うまく戦争を終わらせると、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国、ローマ教皇領のイタリア5大国による勢力均衡を図る事を今後の対外政策の基本とします。そしてこれら5カ国の間で「ローディの和」と呼ばれる和平条約を結んで長い戦乱に終止符を打ちました。

当時は国民に兵役を義務付けたいわゆる「国軍」というものは存在しませんでした。特にフィレンツェやヴェネツィアなどの商業国家は商人の国なので戦いの事は何も知らず、戦争になると多額の金を払って下の画像の様な多くの「傭兵」を雇い、彼らに戦争を任せていました。そのため戦争になるとこれらの国の市民は傭兵たちに支払う報酬の費用を捻出するため、重税だけでなく強制的に公債を買わされ、その負担が国の慢性的な財政問題として重くのしかかっていました。

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彼は周辺国を力で支配する事で他国の財貨を奪い取るよりも、諸外国との戦争を極力避け、自国の市民に安心して本来の商業活動に従事させ、大いに他国と商売していわば「持ちつ持たれつ」の関係にした方がはるかに国を富ませ、また戦争も起こりにくくなる事を熟知していたのです。

さらに彼は父ジョバンニの代からの強力なローマ教皇庁との結びつきをさらに一層強め、長く対立していたカトリックとビザンツの正教との合同を図ります。(これは結局両者にその気が無かった事と、1453年のビザンツ帝国の滅亡により実現しませんでしたが、その後にメディチ家からローマ教皇を輩出する足がかりとなります。)

こうした政治的動きと合わせ、コジモは本来の仕事である銀行業にも精を出し、それまでイタリア周辺のみであったメディチ銀行の支店網を、イギリス、フランス、スイス、オランダなどヨーロッパ各国へと広げ、メディチ銀行は彼の時代に全盛期を迎えます。またメディチ家は銀行業以外にも工業原料(羊毛、絹、毛皮、染料)鉱物資源(明礬、「みょうばん」錫、鉛、金)高級衣服(毛織物、絹織物)工芸品(タペストリー、ベッド、銀製品、宝飾品、写本、)香辛料(塩、胡椒)農産物(オリーブ、アーモンド、柑橘類)などあらゆる商品の輸出にも係わり、これらによる莫大な収益で、イタリアだけでなくヨーロッパ屈指の大富豪となりました。

次回に続きます。

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メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 1

みなさんこんにちは。

コジモ・デ・メディチの活躍によりフィレンツェの「支配者」となり、一連の商業活動を通じてフィレンツェの一銀行家からヨーロッパ有数の大富豪へと変貌を遂げたメディチ家ですが、前回も述べた様に彼らは政治、経済だけではなく芸術と文化の方面にも、そのあふれんばかりの富を費やしています。ここでメディチ家の人々がどの様にして芸術や文化を保護し、その担い手であった芸術家たちと係わったのかを、その後のメディチ家とフィレンツェの歴史や出来事と合わせてお話しましょう。

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まずメディチ家のフィレンツェ支配を確立し、「祖国の父」コジモ・イル・ヴェッキオ(イル・ヴェッキオは「老人」の意味だそうです。これ褒め言葉なんでしょうか?)と呼ばれたコジモ・デ・メディチから始めますが、彼が生きた時代はすでに始まっていた「ルネサンス」の前期に当たります。(この「ルネサンス」というのは、フランス語で「復活」または「再生」を表すもので、古代ローマ帝国滅亡からおよそ千年続いた「暗黒の中世」が終わり、キリスト教カトリックが禁じていた諸々の束縛から人々を解き放ち、古代ギリシャ、ローマの自由で豊かな表現を追い求めた一連の文化復興運動の事です。)

彼が保護支援した芸術家で最も有名なのは、ブルネレスキ、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコなどがいます。ブルネレスキは建築家、ドナテッロは彫刻家で後の二人は画家として有名です。

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建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377~1446)彼は彫刻家でもありましたがローマを旅した時にローマ建築に魅了され、建築に没頭する様になったそうです。その彼が手がけた最も大きな仕事はフィレンツェの街のシンボルでひときわ目立つ巨大なドームが印象的な「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」のドームでしょう。

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上の画像をご覧になれば分かる様にこの部分を彼が担当しています。(この大聖堂の全てを彼が造ったのではありません。大聖堂自体は1296年から造られ始め、完成までに140年以上かかっています。)彼が造ったこのドームの素晴らしさは後のミケランジェロに大きく影響を与え、彼はローマのサン・ピエトロ大聖堂のドームを造る時にこれを真似ています。

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この大聖堂については2008年に日本の某短大の女子大生ら数人が、大理石の壁に落書きをするという呆れ果てた行為を行い、それが他の日本人観光客の訴えによって発覚し、日本のマスコミで大きく報道され批判されたという、同じ日本人として恥ずかしい出来事がありましたが、大学側が直ちにイタリア側に謝罪と賠償と申し出、学生らと教員を厳重注意処分した事が、逆にイタリア本国で大きく報道され、観光客の落書きだらけの自国の街並みや文化財の惨状を恥じ、日本人観光客の潔癖さと、大学側が迅速に学生らを処分した事がイタリアのマスコミで称賛されました。(修復費用についてはイタリア側から大学側に不要であるとの旨が伝達されたそうです)

次にドナテッロ(1386?~1466)ですが、こちらは数多くの彫刻を手がけたほぼ純粋な彫刻家として分類される人物で、その代表作はダヴィデ像です。

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これも後のミケランジェロに大きな影響を与え、彼も同じ「ダヴィデ像」を造っていますね。(しかしこの作品は見ての通り若者の全裸をそのまま表現しており、見方によっては作者ドナテッロの「同性愛」的趣味も見え隠れする事から当時は賛否両論大騒ぎになったそうです。)

コジモはこれらの芸術家たちのパトロンとなる他、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427~~紀元前347)の思想に執心し、「プラトン・アカデミー」を主催して多くの知識人と高度な議論を交わしました。また彼は本の収集にも熱心で古代からの貴重な写本を金に糸目をつけずに買いあさり、図書館を造って寄贈しています。さらに熱心なカトリックであった彼は、多くの教会や修道院、大聖堂などの建築にも貢献しています。

コジモは1464年に75歳で亡くなりますが、息子で後継者のピエロは病弱でした。そのため彼は自分亡き後のピエロと一族の将来を心配し、あらゆる手段を使ってメディチ家の支配を確立し、出来るだけ長くそれが続くよう様々な手を打ちました。

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ピエロ・デ・メディチ(1419~1469)はコジモの長男で重症の痛風持ちでした。そのためピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)といういささか酷な通称で呼ばれています。(痛風とは、血液の欠陥から足、腰、膝の関節など、体の可動する部位に激痛を伴う病気で、「風が吹いたり止んだりする様に痛みに波がある」事からこの名が付けられ、また患者の9割以上が男性だそうです。)

コジモの死後、彼がメディチ家の新たな当主となると、まだ制度化されていなかったメディチ家の権力世襲に対し、それまでコジモによって抑えられていた反対勢力がメディチ家打倒に動き出します。彼らは隣国フェラーラ公国のエステ家と結び、エステ侯は4千の兵をフィレンツェ攻撃に差し向けます。これに対してピエロはミラノ公国と同盟し、急遽集めた傭兵とミラノの援軍1千とともにこれを迎え撃ちます。兵力は倍の開きがあり不利でしたが、しかし幸いにも敵の一部の寝返りにより形成が逆転、フェラーラ軍は退却し、ピエロは反対者を国外追放にして反乱勢力を一掃する事に成功しました。

彼は父コジモに倣い、芸術と文化のパトロンとして大いに彼らを育成していますが、どちらかといえば質実剛健な趣向であった父と違って絢爛豪華で華美な装飾を好み、これは彼の息子ロレンツォにも受け継がれ、後のメディチ宮廷の基礎がこの時に出来ました。またピエロはコレクションの類いも父と異なり、絵画や彫刻よりも、金銀宝石や宝飾品などに価値を見出す人であった様です。(もちろん絵画や彫刻、建築なども大事にしています。)

しかしこの頃からメディチ家の力の源であり、豊富な資金力を誇った銀行業に陰りが見え始めます。メディチ銀行は先代コジモの卓越した経営手腕によって彼の代に全盛期を迎えていたのですが、その彼が亡くなると、病弱で銀行経営の経験に乏しいピエロは失敗と損失を繰り返し、大きくなりすぎたメディチ銀行は次第に経営に行き詰まる様になりました。

ピエロは当主となってからわずか5年後の1469年に53歳で亡くなります。そのため影の薄い人物ですが、歩けないほどのひどい痛風に悩まされながら病弱な身で、巨大企業となったメディチ家の当主として、またフィレンツェの指導者として激務をこなすのは並大抵の苦労ではなかった事でしょう。それでも出来るだけの事をしてメディチ家とフィレンツェの繁栄を守り、次の後継者である息子ロレンツォに繋いだのは賞賛に値すると思います。

こうしてメディチ家とフィレンツェは彼の息子ロレンツォ・デ・メディチに継承されていきます。そしてそのロレンツォの元でルネサンスは最盛期を迎え、数多くの芸術家や天才たちによって次々と人類の宝が生み出されていく事になります。

次回に続きます。

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メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 2

みなさんこんにちは。

持病の痛風と闘いながら、なんとかフィレンツェ共和国を運営していたメディチ家当主ピエロが1469年53歳で亡くなると、彼の息子で20歳のロレンツォ・デ・メディチ(1449~1491)が新たな当主となりました。

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彼は祖父コジモや父ピエロ同様最高の英才教育を受け、まだ20歳の若者でありながら、すでに「王者」の威厳と品格を兼ね備えた人物でした。その事は周囲の人々を通じて広く知れ渡っており、またフィレンツェ共和国は祖父コジモ、父ピエロと2代40年に亘ってメディチ家の支配の下にあって、もはやメディチ家無しでは国が立ち行かなくなっていたので、共和国の代表たちはこの若き当主に、国家の頂点に立って国政を司るよう激励します。

ロレンツォは自分の年齢と未熟さを理由に最初は渋りますが、結局折れてその役目を引き受けます。しかし彼は一旦指導者となると、たちまちそのしたたかで有能な政治家ぶりを見せて周囲を驚嘆させます。彼はまず政権の安定を図るため、それまで権限が分散していた政治、軍事、財政などの重要権限を全て議会で意思決定出来る態勢とし、その議会の大半を親メディチ派の議員で固め、さらに選挙管理委員会の委員もメディチ派のみに限定する事により、反メディチ派を徹底排除しました。これによりいかなる場合でも、メディチ派の人間に有利に政策が決定され、以後政府と議会の運営はロレンツォとメディチ派の意のままに動かされていきます。

さらにロレンツォは政治力だけでなく断固たる軍事力も行使します。1471年フィレンツェの隣の一都市ヴォルテッラで明礬の採掘権を巡って市民とフィレンツェ人が衝突、やがて暴動に発展し、怒ったロレンツォは3千の傭兵を差し向けてヴォルテッラを包囲します。一ヶ月の籠城の末ヴォルテッラが降伏すると、フィレンツェ傭兵軍は徹底した略奪と殺戮を行い明礬鉱の採掘権とともにヴォルテッラを併合しますが、その命令を下したのはロレンツォ自身だったそうです。(これはまだ若い彼が自分を侮らせまいとするために、内外に見せしめとして行ったのかもしれません。)

さてこのロレンツォですが政治家としての側面もさる事ながら、自身は大変な快楽主義者、つまり悪い言い方をすれば「遊び人」でした。ありとあらゆるゲームやスポーツに興じ、多くの仲間たちとのふれ合いやたくさんの女性との恋愛に熱中しました。(まだ20代の若者ですからこれくらいごく普通と言うか当然ですね。)彼はこんな詩を残しています。

「青春は素晴らしい
しかしすぐに過ぎてしまう
だから大いに今を楽しもう
明日はどうなるか分からないのだから。」


まさに彼の価値観をそのまま表した分かりやすいものですね。こんな性格であったためか、同時代の年長のお堅い人々から「酒と女と遊びに耽る退廃者」などと言われる事もありました。しかしロレンツォは道徳も常識も良くわきまえており、特に家庭人としてもいささか社交的過ぎる面はありましたが良き夫であり、良き父親でした。(彼は当主となった翌年21歳で、ローマの名門貴族オルシーニ家の令嬢クラリーチェと結婚して7人の子供を儲けますが、祖父や父の様に正妻以外の女性との間に出来たいわゆる「私生児」は一人もいません。またとても子煩悩で子供たちを大変可愛がり、その教育にも熱心に気を配っています。)

そしてロレンツォは、祖父や父をはるかに凌ぐ芸術のパトロンとしても有名で、彼の治世、ルネサンスはその最高潮に達し、誰もが名前を聞いた事のある芸術家が活躍した時期でもありました。(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人が代表ですね。)

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ルネサンス芸術について網羅した本は上に載せたものが良書です。ページ数は127ページで、どの芸術家の作品がフィレンツェ市内のどこにあるか詳しく紹介されています。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)この人の名前と代表作「モナリザ」だけは小学生でも知ってるでしょう。絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に多くの業績を残し、「万能の天才」と称される人です。

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次にミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)彼もメディチ家の庇護の元で創作した人物です。彼も絵画や彫刻、建築などジャンルは問いませんでしたが、本人は自身を「彫刻家」であると言っており、事実彼は多くの彫刻作品を残しています。

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ミケランジェロの代表作「ダヴィデ像」。実はこのミケランジェロという人はかなり気難しいひねくれ者で、「他の者と同じは嫌だ」と言って当時タブーであった「裸体」ばかり造っています。さらに彼にとっては「男性の肉体」こそ美の極致であって、そのため彼は絵も彫刻も、女性は聖母マリアを除いてはほとんど描いていません。とても偏った天才でした。(余談ですが、上の「ダヴィデ像」は完成までに3年を要し、ミケランジェロが受け取った報酬は現在の日本円で1千万円ほどだったそうです。どういう計算で換算したのか不明ですが、3年がかりでこの金額という事はさほど高給だったわけではない様ですね。)

上の二人は生涯独身で、ダ・ヴィンチの方は若い弟子たちを寵愛し、ミケランジェロも20代前半の若者や15歳の少年などに宛てて彼が書いた詩の文面などから、どちらも同性愛者だったのではないかと云われていますね。

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さらにもう一人の巨匠がラファエロ・サンティ(1483~1520)です。彼はフィレンツェ出身ではなく近郊の小国ウルビーノ公国出身で、主な活躍の舞台はローマでした。そのため直接にはロレンツォ率いるメディチ家とは係わってはいないのですが、フィレンツェには何度も滞在し、その間にレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を強く受けたそうです。

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彼は「聖母子の画家」と言われるほど聖母マリアと幼子イエスを描いた絵を数多く残しています。ちなみに下は彼が10歳の少年時代に描いた「自画像」だそうです。(美少年ですね。とても10歳の子供の絵とは思えません。)

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(ラファエロはダ・ヴィンチやミケランジェロと違い、ごく普通に好きな女性と恋愛したので健全です。笑 しかし残念な事に彼は短命で、37歳の若さでこの世を去っています。)

また上の3大巨匠とは別で、ロレンツォと最も親しく仲間として交際し、楽しく時を過ごしたのが下に載せたサンドロ・ボッティチェリ(1445~1510)です。

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彼の代表作は「ヴィーナスの誕生」が有名ですね。何かで見た事がある人も多いと思います。

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彼らの作品や業績についてはこんな数行ではとても語り尽くせず、また他にもこの時代に活躍した芸術家は枚挙に暇が無いのですが、それは別の機会にいずれもっと詳しく触れたいと思いますので、今回はこの程度で終わらせて頂きます。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

メディチ家の戦い ・ ローマ教皇の謀略

みなさんこんにちは。

20代の若さでフィレンツェの指導者として政治、軍事、文化の面で卓越した指導力を発揮したロレンツォ・デ・メディチでしたが、その彼に人生最大の強敵が現れます。ロレンツォがメディチ家の当主となってから2年後に即位した、時のローマ教皇シクストゥス4世です。

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上がシクストゥス4世(1414~1484)彼は教皇に即位すると徹底した縁故同族主義(ネポティズム)で自分の一族を側近に登用し、これにより本来枢機卿の選挙(コンクラーベ)で選ばれる教皇位の、言わば「世襲化」を図った人物の一人でした。ロレンツォは当初は新教皇の即位を祝い、ローマに赴きますが、教皇はフィレンツェの近くのイーモラを買収すると言い出し、その費用をメディチ銀行に負担させようとします。当然ロレンツォが断ると、教皇はメディチ家の古くからのライバルであるパッツィ家に工面を依頼し、さらに1474年には教皇の甥であるジュリアーノ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)に命じて別のウンブリア地方に傭兵を侵攻させました。

これに対しロレンツォはウンブリア近郊に6千の兵を差し向けてこれをけん制、これ以上の教皇の勢力拡大を阻止するため、ミラノ、ヴェネツィアと同盟を結びます。シクストゥス4世も南のナポリ王国と同盟し、さらにロレンツォへの報復として、メディチ家がロレンツォの曽祖父ジョバンニ・ディ・ビッチの代から独占して来た教皇庁の会計特権と教皇領内の明礬の採掘権を剥奪し、これをパッツィ家に与えてしまいました。

今度はメディチ家とパッツィ家の対立が激化しますが、フィレンツェ国内で圧倒的に有利な立場にいたロレンツォはパッツィ家の力を抑えるため様々な手段で彼らを妨害し、パッツィ家の激しい憎悪を買ってしまいます。やがてそれはロレンツォの暗殺計画に発展し、ついに1478年4月、教皇の暗黙の了解を得てそれが実行に移されました。これが「パッツィ家陰謀事件」です。

暗殺者たちはサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂のミサの席上で、出席したロレンツォとジュリアーノ兄弟を狙いました。しかし計画はあえなく失敗し、暗殺者たちは捕らえられてしまいます。この事件で幸いにもロレンツォは軽い怪我で済みましたが、弟ジュリアーノは致命傷を負って亡くなってしまいました。

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上が事件現場のサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂の正面と、暗殺されたロレンツォの実弟ジュリアーノ・デ・メディチ(1453~1478)まだ25歳の若さでした。

ロレンツォは弟ジュリアーノと大変仲が良く、最愛の弟を失った彼は激怒し、捕らえた暗殺者たちをただちに処刑して、見せしめのために市庁舎のヴェッキオ宮殿から吊るし、さらにパッツィ家当主以下一族と、陰謀に加担した関係者全ての者を処刑、逮捕、投獄し、その数は100名に登りました。こうして11世紀から続くフィレンツェきっての名門パッツィ家は断絶してしまいます。

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上は処刑された暗殺者たちが吊るされたヴェッキオ宮殿です。現在もフィレンツェ市庁舎として使用されています。

さて暗殺失敗の報を受けた事件の「黒幕」である教皇シクストゥス4世は、自分と結んでいたパッツィ家がロレンツォによって全滅させられた事に激怒し、ロレンツォとメディチ家はおろかフィレンツェ共和国そのものを「破門」してナポリ王国と組み、フィレンツェに宣戦を布告しました。これに対し、ロレンツォのフィレンツェもミラノに援軍を要請し、さらに全ヨーロッパ各国の王侯貴族に宣伝して、教皇の身勝手さと不当性を訴える外交戦を展開します。

教皇はロレンツォを追い詰めるため各方面に謀略の手を伸ばし、フィレンツェ陣営の切り崩しと離反を画策して「フィレンツェ包囲網」を形成。これによりロレンツォは窮地に立たされる事になりました。しかしここで彼の天性の政治、外交力がいかんなく発揮されます。彼は冷静に現在の状況を分析し、ローマ教皇の軍事的な後ろ立てがナポリ王国である点に注目すると、ナポリ王と直接交渉するため1479年ナポリを訪問して直談判におよびました。

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上が当時のナポリ王フェルディナンド1世(1423~1494)ロレンツォはおよそ2ヶ月滞在し、王と親交を深め、初めはロレンツォの人物を疑い様子を見ていたナポリ王も、ロレンツォの人柄と勇気に感銘し、ついに両者は和平を結ぶ事になり形勢は逆転します。(ナポリ王にとっても、教皇の勢力拡大は望ましいものではなく、さらに高齢で老い先短い教皇に味方するよりも、若いロレンツォと交流した方が今後有利と判断したのでしょう。)

ロレンツォのこの命を賭けた英雄的行為にフィレンツェ市民は歓呼し、彼はフィレンツェの「救済者」として迎えられ、「優れた政治家」としてその名声を内外にとどろかせました。しかしこれを憎らしげに見ていた人物がいます。教皇シクストゥス4世です。彼はロレンツォの活躍でナポリ王国が脱落した事によりせっかく造り上げた「包囲網」が瓦解した後も、フィレンツェに対する敵対姿勢を崩しませんでしたが、思わぬ外圧がロレンツォに味方します。1480年のオスマン帝国によるナポリ領オトラント侵攻です。

危機に陥ったナポリ王国は全イタリア各国に対イスラム共闘を呼びかけ、教皇に圧力をかけてフィレンツェとの講和を求めます。やむなく教皇はロレンツォと一時的に講和しますが、オスマン軍が退却すると1484年、再び戦争状態になります。しかし今度はナポリ王国が教皇に敵対したたために北のフィレンツェ、南のナポリに挟まれた教皇は打つ手が無くなって追い詰められました。形成が自らに有利と見たロレンツォは教皇に再度講和を求めて教皇もこれを受諾、その2年後に「稀代の謀略家」教皇シクストゥス4世が亡くなり、ようやく一連の戦乱が収束に向かいました。こうしてロレンツォは大きな代償を払いつつ、教皇との戦いに勝利したのです。

このシクストゥス4世は己が野心のために無用の戦乱を引き起こした「悪徳教皇」の一人として歴史に名を残す事になりましたが、荒れ果てていたローマの街の美化と補修、彼の名を冠したシスティーナ礼拝堂の建設や、バチカン図書館の拡充など、ルネサンスにおける彼の果たした文化面での役割は、メディチ家に引けを取らぬ大きなものでした。

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上がシスティーナ礼拝堂の有名な天井画(旧約聖書の天地創造)です。しかしこれはシクストゥス4世の死後24年も経ってからミケランジェロによって描かれたもので、創建当初は天井を天空に見立てて星空を配したシンプルなものだったそうです。そしてこのシスティーナ礼拝堂は、サン・ピエトロ大聖堂と並んでバチカンで最も人気のある観光スポットになっています。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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メディチ家の失敗 ・ 栄光の光と影

みなさんこんにちは。

ローマ教皇シクストゥス4世の仕掛けた数々の謀略をはねのけ、教皇との争いに勝利したロレンツォ・デ・メディチは、その類い稀な政治力と巧みな外交戦略、優れた文化人としてのルネサンス芸術の保護者、その豪快で明るい人柄と気前の良さで多くの人々に慕われ、また困難に挑む勇気と断固とした決断と行動、人々を引き付け魅了する天性の会話力や弁術で、生前からロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)と呼ばれ、また建前上一市民でありながらフィレンツェ共和国の全てを操る故に、「肩書きの無い君主」「豪華王」などと内外から奉られていました。

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しかし「人間」である以上完璧ではありません。そんな「偉大なる」彼にも大きな欠点というか、かなり欠落した弱い部分がありました。それは金銭感覚、つまりお金の事に関してあまりにも無頓着であったという点です。そのためそれまでヨーロッパ屈指の大富豪であったメディチ家はロレンツォの時代に大きくその財を減らし、それどころか破産寸前の状態にまで追い込まれる事になります。

それにしても、かつてあれほどの隆盛と莫大な資産を誇った彼らがなぜその様な事態にまで陥ってしまったのでしょうか?

その原因は大きく2つ挙げられます。まず1つ目はメディチ銀行の経営悪化です。そもそもメディチ家は、これまで述べて来た様に代々受け継いできた銀行業すなわち「金貸し」によって財を築いた一族であり、ロレンツォの祖父コジモ・デ・メディチの代に、コジモの卓越した経営手腕によってヨーロッパ各国に支店を開き、それらの国々の王侯貴族にまで大金を貸し出して、ヨーロッパ最大の国際銀行としてその頂点を極めました。

ところがコジモの死後、それらの王侯貴族たちへの過剰な貸付が裏目に出ます。なぜか?それは王侯たちが借りた金の返済を渋り、最終的には債務免除の要求、つまり乱暴な言い方をすれば借金を「踏み倒し」て来たからです。

普通金を貸す場合には貸し倒れに備えて土地などの「担保」を取ります。金を貸す相手が同じ商人や一市民であれば、債務不履行を理由にそれで何とか債権の回収が出来ますが、相手が絶対権力を持つ王侯貴族ともなるとそうはいきません。仮に「担保」を取っても彼らはその権力と武力でいつでもそれを取り上げる事が出来るからです。

こんな事を書くと、まるでそれらの君主たちが身勝手で横暴に聞こえますが(実際そうですが。)もちろん全ての君主たちがそうだったわけではありません。しかしメディチ家が金を貸した各国の君主たちの多くが、戦争と国内統治に明け暮れて全く余裕が無く、返したくても返せないのが実情でした。そのため元本はおろか利息すら取れず、それら「大口」の貸付がいわゆる「不良債権」となり、メディチ銀行の経営を大きく圧迫していったのです。

2つ目の理由はメディチ家の総帥であるロレンツォ自身が、先に述べた様に商売や金儲けに終生興味を示さず、その能力も無かったと言う事です。なぜならロレンツォが生まれた時、メディチ家はすでに祖父コジモの活躍により「ヨ-ロッパ屈指の大富豪」となっており、つまり彼は「金」の心配などする必要が無かった事から、商売や銀行経営などについて学ぶ機会が無く、ロレンツォが当主となってメディチ銀行がますます経営悪化していっても、彼はどうすれば良いのか分からず、祖父の代から仕える幹部たちに経営を任せきりにしていました。

ロレンツォはあくまでも「政治家」でした。彼の価値観の第一は国家の命運を左右する大勢力となったメディチ家の権力を維持、拡大しつつ、同時にいかにしてフィレンツェ共和国の国家としての繁栄を導いていくかという点にあり、金儲けだけ考えていれば良かった商人時代のメディチ家とは大きく違っていたのです。

もちろんロレンツォもメディチ銀行の危機的状況は分かっており、再建のため何度も経営建て直しの努力をしたのですが、もはやメディチ銀行はあちらこちらで火がついた状態で手が付けられず、フィレンツェの本店以外ではローマとナポリの支店を除き、全ての支店を閉鎖するまでに規模を縮小せざるを得ませんでした。

この様な状況下で資金難に陥ったロレンツォは、自分が後見人となって預かっていた分家の兄弟の資産総額5万3千フィオリーノを無断借用、(ある資料によると、1フィオリーノは現在の日本円で12万円ほどだそうですから約63億円以上になりますね。)さらにフィレンツェ国内の自らの権力を悪用し、秘かに政府の金まで横領する様になりました。(記録では約7万5千フィオリーノ、およそ90億円。ちなみにロレンツォ時代のフィレンツェ共和国の国家予算が30万フィオリーノだったそうなので4分の1も使っています。これらの金は大半が、悪化したメディチ銀行の損失補てんに費やされた様です。)

ロレンツォのこの行為は後にメディチ家にとって大きな禍根となります。特に前者の分家の兄弟たちに無断借用がばれると彼らはその返済をロレンツォに要求し、やむなくロレンツォはメディチ本家が所有するいくつかの館や土地などの不動産で弁済しますがそんなものでは到底足りず、当然その分家兄弟とは救いようの無い溝が生じ、やがてそれがロレンツォの死後、メディチ家を二つに割る争いとなります。

それにしても優れた政治家で文化人でもあった彼が、どうしてその様な「犯罪的」行為に及んでしまったのでしょうか?その理由については推測の域を出ませんが、どうやらロレンツォは自分とメディチ家が国家であるフィレンツェ共和国と絶対不可分な一体のものと考えていた様です。つまり彼曰く「フィレンツェの全ては自分とメディチ家のものだ。これまでわがメディチ家は代々フィレンツェのために尽くして来たではないか。ゆえに少々の事は許されて当然なのだ。」という錯覚に陥ってしまった事と、それまで金は持っていても一市民に過ぎなかったはずのメディチ家が、長く国政を司る内に「支配者」としての意識を持つようになり、ロレンツォも次第にそれに傾倒していった事が理由ではないかと思われます。

ロレンツォ率いるメディチ家のもとで、フィレンツェ共和国は繁栄を謳歌し、ルネサンス芸術はその絶頂期を迎えていましたが、その「光」の裏でこうした「影」の部分が存在していたのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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嵐の予感 ・ 偉大なる人の死

みなさんこんにちは。

銀行業の経営悪化によりお金に困り始めていたロレンツォでしたが、国家の指導者としての優れた政治力、外交力は終生いささかも衰える事はありませんでした。彼はこれまで述べて来た様に、フィレンツェとその周囲を取り囲む状況を冷静かつ的確に分析し、国内においてはメディチ家一党による支配体制を、対外的にはイタリア5ヵ国体制(フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、教皇国)による勢力の均衡と、間にいくつかの小国を挟む事でこれをいわゆる軍事的緩衝地帯とします。(仮に戦争となってもこれらの地で戦闘を行えば自国領土に損害が及びませんからね。犠牲になる小国にとってはたまりませんが。)

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上がロレンツォが亡くなって2年後(1494年)におけるフィレンツェと周辺各国の勢力図で、オレンジ色の部分がフィレンツェ共和国です。

さらに彼はメディチ家の将来を考えて、歴代当主で初めてとなる野望の実現に動き出します。それはメディチ家から「ローマ教皇」を輩出する事です。

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このローマ教皇の治める教皇国はキリスト教カトリックの総本山であり、全ヨーロッパにおけるその宗教的権威は絶大で、各国の君主はローマ教皇の支持の有る無しでその政策に大きく影響を与えるため、教皇庁の動向に対して過剰なまでに神経を使っていました。また教皇国はイタリア半島の中央にあってフィレンツェと国境を接しており、先にロレンツォを散々悩ませたシクストゥス4世の様な野心家の教皇が即位すると当然無用な争いの元となり、常にフィレンツェの「頭痛の種」であったのです。

そこでロレンツォはそのローマ教皇庁に自分の子孫を入れる事で、このローマ教皇国をコントロールしようと画策したのです。(つまり悪い言い方をすればメディチ家による「乗っ取り」ですね。)もしメディチ家から教皇が出れば、これまで金はあっても言わば「成り上がり者」に過ぎなかったメディチ家が、全ヨーロッパの君主たちと肩を並べる「名門」となり、同時に教皇庁の莫大な財産を手に入れる事で、困っていたメディチ銀行の状況も一気に解決するからです。

ロレンツォには3人の息子がいましたが、その中の次男ジョバンニ(当時13歳の少年でした。)を1489年ローマ教皇庁に送り込みます。そして教皇庁内の人々に巨額の買収資金をばらまいて、ジョバンニを教皇の選挙権を持つ「枢機卿」になれる様取り計らいます。念願叶って3年後の1492年、ジョバンニは史上最年少の16歳で枢機卿に就任しました。(この彼の次男ジョバンニが後の教皇レオ10世となります。さらにロレンツォはメディチ家からの教皇選出を慣例化するため、彼の甥でパッツィ家事件で死んだ弟ジュリアーノの息子ジュリオをわが子同然に育て、そのジュリオも教皇庁に送り込みました。そしてジュリオも教皇庁内で順調に昇進し、後の教皇クレメンス7世となるのです。)

このロレンツォによるメディチ家の将来を見据えた計画は実に見事でした。なぜならこの事が、彼の死後フィレンツェを追放され、茨の道を歩む事になるメディチ家を救い、やがて正式な「君主」となって再びフィレンツェに返り咲く原動力になるからです。

こうして未来の「メディチ教皇」選出の布石を打ったロレンツォでしたが、彼自身は30代後半から次第に体調を崩すようになります。特に彼の父ピエロと同じ痛風に悩まされ、各地の温泉などの湯治療法の甲斐も無く病状は悪化する一方でした。(この痛風はメディチ家代々の家病であった様で、祖父コジモ、父ピエロをはじめ歴代の当主はほとんどこれにかかっています。)

病の悪化によりロレンツォは歳を追うごとに宗教心を強めていきました。そんな最中の1490年、フィレンツェに一人の「怪僧」が現れ、人々に「終末論」を吹聴し始めます。その名は修道士サヴォナローラ。彼は極端な禁欲的修行を積んだドメニコ会所属の修道士で、ロレンツォとメディチ家による支配と、その彼らのもとで長年に亘って享楽の日々を送ってきたフィレンツェ市民を猛烈に批判し、フィレンツェに対する「神の罰」と「神をも恐れぬ悪行三昧の限り」を尽くしたロレンツォの死を予言しました。

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上が修道士ジローラモ・サヴォナローラ(1452~1498)彼はその過激な言動から教会でも「問題児」扱いされ、地方に左遷され続けて来たのですが、ロレンツォを攻撃する彼自身の指示で、フィレンツェのサン・マルコ修道院の院長に就任します。(これはロレンツォの数少ない失敗の一つでした。彼はサヴォナローラを懐柔してうまく手なずけるつもりだったようですが、正真正銘の「狂信者」であるサヴォナローラには全くそれが通用しなかったからです。)彼は多くのフィレンツェ市民の前で連日激しい説教を行い、ロレンツォとメディチ家に代表される「退廃した」生活を改めて神への信仰に立ち返るよう訴え、市民の心を掴んで急速に影響力を拡大していきました。

そんな中でロレンツォの病は次第に悪化の一途をたどり、1492年には死期の近い事が誰の目にも明らかでした。この年フィレンツェでは3月に彼の次男ジョバンニの史上最年少の枢機卿就任を祝う祭典が盛大に執り行われ、また外でははるかに歴史的な出来事「コロンブスによる新大陸発見」などがありましたが、メディチ家では一族の誰もが偉大な当主亡き後の漠然とした不安にさいなまれていました。

この時メディチ家の人々の脳裏によぎったのは、一族の繁栄を築いたロレンツォの祖父コジモの予言めいた言葉でした。そしてその予言はやがて見事に的中し、一族に降りかかって来ます。コジモはこう言ったのです。

「50年もしない内に、わがメディチ家は追放されるだろう。だが私の造った建物は残るはずだ。」

1492年4月、「ロレンツォ・イル・マニフィコ」(偉大なるロレンツォ)と市民から慕われたメディチ家当主ロレンツォは43歳の若さで亡くなりました。彼の葬儀は国を挙げて盛大に執り行われ、遺体は最愛の弟である亡きジュリアーノの眠るメディチ家代々の聖堂であるサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。(奇しくも聖堂の名が同じでした。)こうしてフィレンツェ共和国とメディチ家の「黄金時代」は、優れた政治家であり、強力な指導者だった彼を失った事で突如として終わり、以後彼らは再び嵐の様な時代の流れに激しく翻弄されて行く事になります。

次回に続きます。

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メディチ家の悪夢 ・ 屈辱のフィレンツェ追放

みなさんこんにちは。

1492年ロレンツォ・イル・マニフィコの死によって、メディチ家とフィレンツェは強力な指導者を失いました。そしてその後継者として新たにメディチ家の当主となったのは、亡きロレンツォの長男ピエロでした。(このメディチ家の人々ですが、どうも同じ名前を持つ者が多く、コジモ、ピエロ、ロレンツォ、ジョバンニ、ジュリアーノの繰り返しです。そのため区別する為にそれぞれ「あだ名」が付けられています。それを踏まえてお読みください。)

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上がロレンツォ・イル・マニフィコの長男ピエロ・デ・メディチ(1472~1503)です。彼は父イル・マニフィコと同じ20歳で当主を継承しますが、傲岸不遜な性格で教養はありましたが人望がありませんでした。

亡きイル・マニフィコにはこの長男で後継者のピエロ、次男でローマ教皇庁に送り込んだジョバンニ、そして三男で温和なジュリアーノという息子たちがおり、彼は生前から息子たちをこう評していたそうです。

「私には3人の息子がいるが、一人は愚かで一人は賢く、そしてもう一人は心優しい。」

彼はあえて名指ししていませんが、上から順番に当てはめていけばおのずと誰の事を言っているか分かりますね。息子たちそれぞれの個性を良く表現しています。いずれにしても長男ピエロは、メディチ家の当主としてもフィレンツェの指導者としても、父には遠く及ばない人でした。

ピエロは父の死後権力を継承しましたが、政治もすでに破綻寸前であった家業の銀行業も、側近や大叔父などに任せ、自らは私的な享楽に興じて日々遊び暮らし(彼が父イル・マニフィコから受け継いだ所があるとすれば、唯一この「遊び人」的な部分だけでしょう。)その自分勝手で軽率な言動がメディチ家支持の有力者の失望と反感を買い、そのためフィレンツェ市民から父のロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なロレンツォ)というあだ名と対比して、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)という有難くないあだ名を付けられています。(つまり典型的な「お坊ちゃま」育ちだった様ですね。)

彼はそれだけでなく、父イル・マニフィコがメディチ銀行の資金難のために勝手に莫大な財産を流用して仲が悪くなった分家のピエルフランチェスコ兄弟を冷遇したため、彼らとの対立がエスカレートしていきました。

そんな中の1494年9月、思いもかけない外圧がフィレンツェ共和国に襲い掛かります。フランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻です。彼はイタリア半島の南部ナポリ王国の王位継承権を主張して8万とも9万とも云われる大軍を率いて突如イタリア半島に侵攻を開始します。

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上がフランス国王シャルル8世(1470~1498)です。彼はフランス王国第4王朝に当たるヴァロワ朝第7代の王ですが、隣国スペインとの勢力争いからナポリ王国征服を狙っていました。(彼がナポリ王の継承権を主張したのは、ナポリ王国が元々は彼の王家であるヴァロワ朝の分家アンジュー家を王家としていたからですが、1442年にスペインのアラゴン王家がこれを征服し、50年以上奪われたままでした。シャルル8世はこれをスペイン王から奪い返す事に執念を燃やしていたのです。)

この危機にピエロ2世は、最初は父の代から続くナポリ王との友好関係から抗戦の準備をしますが、フランス軍が10万近い大軍である事を知るや態度を一変させ、すでにミラノを通過してフィレンツェ北部にいたシャルル8世の陣営に自ら赴いて勝手に王と交渉し、ピサとリヴォルノなどの重要な都市の領有権の放棄や多額の賠償金の支払いという悪条件を呑まされた挙句、フランス軍のフィレンツェ領通過を承諾してしまう大失態を犯します。

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いかにメディチ家の支配下にあるとはいえ、本来この様な重大な決定は共和国議会で決すべきであるのに、ピエロ2世はほぼ独断で領土の放棄や、シャルル王率いるフランス軍のフィレンツェ入城を認めてしまった事から市民は激怒し、彼がフィレンツェに戻るとメディチ家の周囲はまさに四面楚歌で非常に危険な状態でした。

身の危険を察知したピエロ2世はここに至り、ジョバンニ、ジュリアーノの二人の弟たちをはじめ、メディチ家の主だった人々と供にあるだけの財宝を持ってフィレンツェを脱出し、ボローニャへ逃亡しました。共和国政府はこのピエロ2世率いるメディチ家一党の共和国への「裏切り行為」を糾弾し、メディチ家のフィレンツェからの「永久追放」を宣言。これによりコジモ・デ・メディチ以来4代60年続いたメディチ家によるフィレンツェ支配は一旦終わります。

同年11月、シャルル8世率いるフランスの大軍はフィレンツェに無血入城を果たし、主のいなくなったメディチ家本邸を司令部とします。そしてこの時期にメディチ銀行も正式に破綻し、その負債の回収とばかりにそれまでにピエロ2世らが持ち出す暇のなかった多くの財宝が共和国政府や市民によって略奪され、残りもフランス軍が接収していきました。

こうしてヨーロッパでも指折りの大富豪であり、権勢を振るったメディチ家の支配はあっけなく崩壊し、その後彼らは十数年に亘って放浪の身に甘んじる事を余儀なくされます。このメディチ家にとっての「悪夢」は、先の当主イル・マニフィコの早過ぎた死、後継者ピエロ2世の指導能力の欠如、そして何よりシャルル王のイタリア侵攻という様々な複合原因が重なって起きたものですが、時代がそれまでのフィレンツェやミラノの様な都市国家に代表される小国乱立の均衡体制から、広大な領土を持つ絶対王政の大国同士の覇権争いにシフトしていった事も見逃せないでしょう。そしてシャルル8世のイタリア侵攻に始まる戦乱はその後160年続き、周辺十数カ国を巻き込む「イタリア戦争」と呼ばれる長期の戦争に発展していく事になります。

さてフィレンツェを追放された(実際はそれより先に逃亡していたのですが。)ピエロ2世率いるメディチ家はその後どうなったのでしょうか?

大抵の場合この種の一族はその後没落して歴史から消えていくのですが、このメディチ家という一族はそんな「ヤワ」な一族ではありませんでした。ここでめげずにしぶとく生き抜いたのがメディチ家です。彼らはこの「どん底」の時期から驚異的な力を発揮して這い上がり、やがてここから再びフィレンツェに復権を果たす事になります。


次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フィレンツェの嵐 ・ サヴォナローラの神権政治

みなさんこんにちは。

イタリアへの侵攻を開始したフランス王シャルル8世率いる大軍によってメディチ家は追放され、フィレンツェはフランス軍に占領されてしまいましたが、幸いにもそれは一時的なものでした。ナポリ攻略を急ぐシャルル8世はすぐに全軍を率いて南下し、ローマを経て一路ナポリを目指したからです。彼は1495年5月にナポリに入城、戴冠して念願のナポリ王となります。

しかしシャルル王の天下も長くは続きませんでした。フランスのイタリア介入を嫌った時のローマ教皇アレクサンデル6世の画策により、ドイツ神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、ミラノなどの諸国が同盟を結び、これらの連合軍によって包囲されたシャルル8世率いるフランス軍は、慣れない異国での戦闘に大損害を受けてフランス本国に撤退しました。

そしてこのイタリア遠征の失敗によってフランスは、シャルル8世の命により国力の限界を度外視して無理に集めた10万近い大軍の戦費のために莫大な負債を抱えてしまったそうです。(開戦の張本人シャルル8世は撤退後の1498年に28歳の若さで亡くなっています。死因はなんとうっかり部屋の鴨居に頭をぶつけた事による、失礼ながらいささか「マヌケ」なものだったそうです。)

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上はシャルル8世との戦いに勝利した時のローマ教皇アレクサンデル6世(1431~1503)です。好色、強欲な「最悪の教皇」の一人とされていますが、反面で政治力と息子チェーザレ・ボルジア(1475~1507)を右腕として教皇国の軍事的自立を目指した点で評価される部分もあります。

さてその後フィレンツェは、メディチ家追放後にそれまでメディチ家が彼らに有利に構築していた共和国の組織を廃止し、コジモ・デ・メディチの台頭によりメディチ家が実権を握った1434年以前の元の体制に戻しました。そして復活した共和制議会において、新たに権力を握ったのは「怪僧」ジローラモ・サヴォナローラ(1452~1498)でした。

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サヴォナローラ―イタリア・ルネサンスの政治と宗教

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このサヴォナローラについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は348ページで、彼について書かれた日本で読める唯一の本です。(残念ながら目下刊行されている書籍でサヴォナローラに関するものは中古品しかない様で、自分の記憶ではこれ以外の本となると、塩野七生さんの「神の代理人」が良いと思います。ただしこちらは教皇とサヴォナローラとの手紙のやり取りを塩野さん独自の視点と文体で表現したものなので、その点を踏まえてお読みください。)

彼はすでに述べて来た様に、ロレンツォ・イル・マニフィコの死の数年前から堕落した教会とフィレンツェに対する「神の罰」によって、フィレンツェに破局が訪れる事を予言し、それがメディチ家支配の崩壊とフランス軍によるフィレンツェ侵略という形で(偶然にも)的中すると、彼に対する権威とフィレンツェ市民への影響力はたちまち頂点に達します。

彼の影響力を無視出来なくなったフィレンツェ政府は彼を「政治顧問」とし、公的な地位を得たサヴォナローラは国政全般に積極的に関与し始めました。彼が目指したのはメディチ家がもたらした悪弊を打破し、開かれた共和制と真の「キリスト教」国家の樹立であり、それを全イタリアひいては全ヨーロッパに及ぼす事が彼の理想でした。

サヴォナローラは自分の理想を実現するため、メディチ時代の価値観の徹底的な否定と破壊を行います。すなわち彼の言う所、メディチ家に代表される贅沢、華美、遊興、好色、男色、芸術は全て「悪」であり、全キリスト教徒は唯一絶対の神イエスの教えに立ち返るのだというもので、言わばルネサンスを完全に否定するものでした。彼はそれを目に見えた形で市民に知らしめるため、政庁前のシニョリーア広場で多くの官能的な絵画、俗悪な書物、豪華な調度品、華美な装身具や衣類を山の様に積み上げ、盛大に「焼却」します。これによりそれまで蓄積されて来た多くの貴重なルネサンス芸術の品々が失われてしまいました。

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上は現在のシニョリーア広場です。かつてここで多くの歴史上のドラマが展開されました。

サヴォナローラのこうした過激な政策は、それまでルネサンスの担い手だった多くの芸術家や文化人にも深い傷を与え、多くの者が彼に帰依します。中でもかつてロレンツォ・イル・マニフィコの元で享楽の日々を過ごしたボッティチェリの豹変振りは痛々しいものでした。彼はそれまでの自由奔放な作風を棄てて、下の様な硬直したお堅い宗教画ばかり描く様になってしまいました。

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しかしサヴォナローラのこうした「神権政治」も長くは続きませんでした。なぜならやがて彼はローマ教皇をも批判する様になったからです。批判の対象とされた教皇アレクサンデル6世は激怒し、1497年5月に彼を「破門」します。さらに彼の教皇批判はローマ教皇庁と取引のあるフィレンツェの銀行家たちの反発を買い、彼の急激な政策によって引き起こされた様々な混乱で、サヴォナローラに対する市民の人気はたちどころに急落していきました。そして1498年5月、数々の失敗ですっかり孤立した彼は共和国政府に逮捕され、絞首刑となってしまいます。

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上はシニョリーア広場で絞首刑となり、焼かれるサヴォナローラの遺体。皮肉にも彼は自分が多くのルネサンス芸術の品々を焼いた場所で、最後に自らが焼かれる事になってしまいました。

こうしてフィレンツェを振り回した「怪僧」は最後を迎えましたが、その後のフィレンツェは名門貴族出身で、かつてロレンツォ・イル・マニフィコの支持者だったピエロ・ソデリーニ(1450~1522)によっておよそ10年間統治されます。この人物は肖像画も残っておらず、記録によると良く言えば「穏健」悪く言えば「優柔不断」という評価なのですが、激動する予測不可能なイタリア情勢の中で、フランス軍侵攻で失ったピサの再征服などを成功させ、メディチ家追放後のわずかな期間とはいえ10年の統治を維持したのはある程度の評価は出来るでしょう。そしてそのソデリーニ政権下の外交官として重要な役割を果たしたのが「君主論」で有名なニッコロ・マキャベッリ(1468~1527)です。

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このマキャベッリはフィレンツェ出身の外交官で、ソデリーニの側近として周辺諸国との対応に奔走し、その間に様々な経験を通して代表作「君主論」を書き上げました。これは感情論を排した徹底的な現実主義(リアリズム)で、君主などの指導者のあり方、国際関係、軍事、政治姿勢や国家国民への対応を説いたものです。特に彼は他国との外交交渉で軍事力の欠如から散々苦い思いを味合わされ、その結果外交官でありながら「軍事」の重要性を説き、この彼の思想は彼の名を冠して「マキャベリズム」と称され、その作品は今日でも世界中で多くの政治家や指導者層に読み継がれ、研究されています。

(わが国の政治家たちもこれをもっと研究熟読して「戦争放棄」「平和憲法」などという非現実的妄想から一刻も早く脱却し、天皇陛下を元首として主体的打撃力を持つ精強な陸海空軍を再建し、本来あるべき真の日本の国家の姿を取り戻して欲しいものです。)


次回に続きます。

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