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帝国の創成期 ・ オットー1世とザクセン王朝 1

みなさんこんにちは。

今回からヨーロッパ中央部、現在のドイツを中心として、中世から近世までおよそ800年以上に亘って存在した史上まれに見るユニークで不思議な帝国である 「神聖ローマ帝国」 と、スイス辺境の貧しい一領主から身を興し、途中からこの巨大な国家の帝位を独占して「日の沈まぬ世界帝国」を築き、「神に選ばれた一族」と称されて600年以上の長い繁栄を誇ったヨーロッパ最大の名門王朝である「ハプスブルク家」についてお話したいと思います。

紀元5世紀の古代ローマ帝国滅亡後、長い混乱の500年を経て、中世の半ばから近世にかけてのヨーロッパの歴史を語る上で、この神聖ローマ帝国無しでは語れず、また同時にこの帝国の歴史を語るには、ハプスブルク家無しでは成り立ちません。つまりこの国家の成立とその後に出現するハプスブルク家の歴史は、それすなわちそのままそれ以後のヨーロッパの歴史そのものといっても過言ではないでしょう。

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図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)

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(この神聖ローマ帝国について詳しくお知りになりたい方は、上の菊池良生さんの本が良書です。どちらも氏の著作ですが、この帝国は非常にユニークな国家で、理解に時間がかかると思うので、はじめに文庫の方を一読し、図説と照らし合わせて読み進められると良いと思います。)

最初にこの神聖ローマ帝国の成り立ちと、事実上の初代皇帝であるオットー大帝が即位するまでについて話を始めて行きたいと思います。

時は9世紀、現在のドイツ、フランス、北イタリアにはフランク族のカール大帝(742~814)が紀元800年に建国した強大なカロリング・フランク王国がありましたが、カール大帝の死後、この国家は息子たちによって3分割され、(現在のフランスを西フランク王国、同じくドイツを東フランク王国、北イタリアを中部フランク王国と称する)それぞれの国はカール大帝の血を引くカロリング家の子孫たちによって継承されていきます。

しかしそのカロリング家も家系の断絶が相次ぎ、最終的に3王国全てで家系は絶えてしまいました。その中で現在のドイツに当たる東フランク王国の東カロリング家が断絶すると、東フランクの貴族たちはゲルマン人の古来からの風習にのっとって自分たちで国王を選出し、フランケン公コンラート1世を東フランク王として即位させました。

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上が東フランク王として選出されたコンラート1世です。(881~918)しかし彼は国王になっても国を自分の思いのまま支配出来たわけではありませんでした。なぜならそれまでフランク族のカロリング家の強大な力によって支配されていたゲルマンの貴族たちが、カロリング家の断絶によってその支配から開放され、それぞれの自領で自立し、その中でも最も強力であり、コンラート1世の宿敵であったザクセン公のハインリッヒ1世が容易に彼に従おうとせず、それどころか王国から独立する気配すらあったからです。

そのため彼はザクセン家を支配する事を諦め、せめて彼らの王国からの離脱を阻止するために、自分の後継者として宿敵であったハインリッヒ1世を指名して亡くなり、彼の意を受けた貴族たちもこれを了承してハインリッヒ1世を新たな東フランク王に選出しました。(これによりフランケン朝はコンラート1世1代のみで終わります。)

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上がザクセン公ハインリッヒ1世です。(876~936)さて、かつての宿敵から思わぬ形で王位を継いだハインリッヒ1世ですが、彼が前王や貴族たちから新たな王に選ばれた理由にその軍事的な強さにあります。当時東フランク王国は周辺の異民族の侵入に悩まされており、中でも現在のハンガリーからはマジャール人が東から迫り、西にはノルマン人ヴァイキングが略奪を繰り返していました。

ハインリッヒ1世は強力なザクセン軍を率いてこれらと戦い、何度も撃退して貴族たちから国王としての信望を得ていきます。彼はこの機を逃さず自らの王権の強化に乗り出し、後継者である息子オットーをはじめ一族の者を国の重職に任命して、かつてのカロリング家の様にザクセン家による王朝世襲を狙います。

しかしこの彼のたくらみは貴族たちによって見事に覆されてしまいます。彼は貴族たちを甘く考えていました。というよりも王と貴族たちの間に考えの食い違いがあったと言うべきでしょう。つまりハインリッヒ1世は東フランク王国すなわちドイツ王国の全てを支配する唯一絶対の存在となろうとしたのに対し、諸侯にとって 「国王」 などはあくまで自分たちの利益を守るために選んだ単なる 「代表」 に過ぎなかったからです。

この食い違いはハインリッヒ1世の死後、王位を継いだオットー1世の時代に一気に表面化します。936年オットー1世は父の後を継いで東フランク王となり、諸侯もこの継承に同意しますが、前王ハインリッヒ1世が諸侯を 「わが盟友たち」 と表して対等に扱ったのに対し、オットー1世はあくまで諸侯の上に立ち、諸侯を自らの「臣下」として扱ったからです。ほどなくしてこれに不満を持つ貴族たち (フランケン公、ロートリンゲン公、バイエルン公など) が現れ、938年オットーの腹違いの弟ハインリッヒを頭に各地で反乱が発生します。

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上が東フランク王国ザクセン朝2代国王オットー1世です。(912~973)彼はこの反乱で危機に陥りますが、幸運にもこれら反乱勢力と対立していたシュワーベン公ヘルマン1世が彼の味方に付いて形成は逆転し、反乱は鎮圧されて反乱勢力は壊滅しました。

反乱の首謀者である弟ハインリッヒは母の懇願で一度は許されますが、941年に再び兄オットーの暗殺を企て、修道院に幽閉されてしまいます。普通ならこれで生涯を終える所ですが、この人物はなかなか強運で、6年の幽閉の後、947年再び母の懇願でオットーの許しを得、王としての兄の器の大きさを知ると、今度は進んで兄王の右腕となって活躍しました。兄オットー1世も弟の働きに報い、後に彼をバイエルン公に任じています。


オットー1世はそれ以外にも、味方に付いて彼を助けてくれた最大の功労者であるシュワーベン公ヘルマンに対して、彼の幼い娘イーダと自分の息子でまだ10歳に満たないロイドルフを婚約させる事で、将来の王妃の地位を約束してその労に報います。しかしこれは将来成長したロイドルフにシュワーベン公領を引き継がせる事を狙ったオットー1世の政略であり、ヘルマンにもそれは分かっていましたが、彼には娘しかおらず、女性が後継者になれないゲルマンの慣習ではヘルマンの血筋が絶えてしまうため、彼は他の貴族よりもザクセン王家と一つになる事でそれを果たそうとオットーの申し出を受け入れました。

こうしてオットー1世は反乱に加担して没収した他の公領(フランケン公、ロートリンゲン公)もザクセン家の一族に与え、全ての公領を手中に収める事に成功します。公領を全て支配下に収める事で、再度の反乱を抑えようとしたのです。

しかしこの彼の政略は、数年後に思わぬ形で再び覆され、やがて彼はその政略を見直す必要に迫られる事になります。

次回に続きます。
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帝国の創成期 ・ オットー1世とザクセン王朝 2

みなさんこんにちは。

反対する貴族たちの反乱を一掃し、取り上げた領地を次々にザクセン家の近親者に与えて、東フランク王として国内の足固めに成功したかに見えたオットー1世でしたが、この後意外な人物が彼に歯向かう事になります。その人物とは誰あろう未来の王位継承者である長男ロイドルフです。

オットー1世は最初はロイドルフ王子を自分のそばに置いて補佐をさせるとともに、将来の王としてのいわゆる「帝王学」を身に付けさせるつもりでいた様ですが、ロイドルフの方は父の言いなりになる事を嫌い、父から与えられ、妻イーダの実家から引き継いだシュワーベン公領において独自の統治を行う様になります。(この親子、あまり仲は良くなかった様で、後から述べる様にやがて悲惨な結末を迎える事になってしまいます。)

そんな最中の950年、オットー1世の元に、北イタリア王国の王妃アーデルハイト(932~999)から、「王位を狙う臣下のベレンガリオ伯に夫を毒殺され、(王位を継がせるために)その息子アダルベルトとの無理な結婚を迫られているので助けて欲しい。」との知らせが入りました。

これはオットーにとって、イタリアに兵を進めて領土を広げる絶好の機会でした。そこでその準備をしている最中に、かのロイドルフ王子が父王の許可を待たず、手勢を率いてアーデルハイトの救出に出発してしまいます。当然オットー1世は激怒し、弟ハインリッヒや娘婿コンラートらを先遣隊としてその後を追わせ、自らも数万の大軍を率いて北イタリアに南下しました。

オットー率いる東フランクの大軍はベレンガリオ伯を破り、アーデルハイトは救出され、951年彼女はオットー1世の後妻となりますが、オットーは勝手な行動を取ったロイドルフを許さず、彼の手柄は叔父であるハインリッヒらのものとされ、彼らは充分な恩賞を貰いましたが、面白くないのは当然ロイドルフ自身です。

やがて後妻アーデルハイトに男子が生まれ、父がその子を後継者にするそぶりを見せると、953年ロイドルフは、父王に対する反対勢力を糾合してついに父に反旗を翻しました。この反乱は即位当時のオットーが経験した弟ハインリッヒの反乱に匹敵する大規模なもので、今度はオットーはおろか、かつてその反乱で兄を窮地に陥れ、今は忠実に兄に従うハインリッヒも兄とともに危機に陥りましたが、(ハインリッヒもこれで兄オットーの気持ちが理解出来た事でしょうね。)この時幸運にもハンガリーのマジャール人が東フランク領に侵入し、ロイドルフの反乱に加担した貴族たちを背後から脅かしました。

オットー1世とハインリッヒ公の兄弟は実に強運の持ち主であるだけでなく、したたかな戦略家でもありました。彼らはこの機を逃さず、ロイドルフに味方した者たちに次の様な噂を振りまいて混乱と離反を促します。

「異民族の侵入はロイドルフが引き入れたものであり、彼が王になれば貴族たちの領地を異民族に分け与えるつもりだ。」


この作戦は大成功を収め、貴族たちは次々にロイドルフの下を離れてオットー1世の軍門に下り、味方を失ったロイドルフ王子は954年レーゲンスブルクで降伏して反乱は終息しました。

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上が現在のレーゲンスブルクです。(人口13万ほど) 南ドイツ・バイエルン東部の静かな街です。

この戦いで反乱の首謀者ロイドルフ王子はシュワーベン公位の剥奪とその全ての領地を没収され、「王の子」 であるという事に免じて命だけは助けられましたが、事実上の幽閉に近い蟄居処分となり、3年後の957年にロイドルフは蟄居先で27歳の若さで失意の内に亡くなりました。

2度に亘る親族の反乱に、身内といえども信用出来ない事を嫌というほど思い知らされたオットー1世は、以後ザクセン家の親族による統治政策を改め、代わりにかつてカロリング家のカール大帝が張り巡らした教会機構のネットワークに着目し、キリスト教会の高位聖職者に統治を任せる様にしました。

彼がなぜ聖職者に各地の統治を任せたのかというと、その理由は2つあります。1つ目は聖職者は独身が原則であるから貴族たちの様に世襲が出来ず、自由に人選してすげ替える事が出来る事と、貴族たちが連合して反乱に与しないよう間に教会領を挟む事で、これらに楔を打つ事が出来るなどが挙げられます。

オットー1世はまず末弟でケルン大司教であったブルーノを953年にロートリンゲン公に任じ、(たまたま彼は親族でしたが・・・。)他にも同様に教会領に特権を与えていきました。

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上が兄オットー1世からロートリンゲン公に任命された末弟のケルン大司教ブルーノです。(925~965)この肖像画はかなりの老人に描かれていますが、実際の彼が亡くなったのはまだ40歳の若さでした。

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そして上がケルンの街並みとケルンが誇る「大聖堂」です。この街は人口およそ102万人のドイツ有数の大都市で、大聖堂の高さは157メートルもあり、世界最高の高さのゴシック建築の大聖堂として世界遺産となっています。

このオットーの「帝国教会政策」は一定の功を奏し、後に彼が築く事になる「神聖ローマ帝国」の皇帝を選ぶ「選帝侯」の中に、本来皇帝の選挙権はおろか、そもそも政治権力とは無縁の存在であるはずの聖職者である「OO大司教」がいくつか含まれているのはこの時の事情が大きく影響しています。

しかしこの彼の政策は、皇帝や国王の都合によって聖職者の選任が行われてしまう事から、聖職者の最高位であり、これに反対するローマ教皇との間でこれを巡る争い(叙任権闘争)に発展する原因になりました。

ともあれこうして身内の敵を一掃したオットー1世でしたが、彼にはもう一つの厄介な敵がいました。先のロイドルフの反乱で東フランク領に侵入したハンガリーのマジャール人勢力がそのままドイツ南部に留まっており、アウクスブルクをはじめとする周辺の都市を攻撃していたからです。(このマジャール人というのは、はるか東方のロシアから移住して来たアジア系遊牧騎馬民族であり、当時まだキリスト教に改宗しておらず、異教の神を信仰していました。)

オットーはこの侵入者たちを国内から排除するため、およそ8千の軍勢を率いて出陣し、ドナウ川の支流レヒ河畔でマジャール軍との戦闘が始まりました。(レヒフェルトの戦い)マジャール軍はおよそ1万7千で兵力は倍以上の開きがあり、オットー1世はまたも危機に陥りますが、幸運にもかつてロイドルフの反乱に加わって謹慎の身であった娘婿のコンラート公が救援に駆けつけ、東フランク軍は勢いを盛り返してマジャール軍を見事に撃退しました。

この戦いでオットーを救ったコンラート公は戦死しましたが、以後マジャール人による侵入は無くなり、おかげでオットー1世は、「異民族からキリスト教世界を守った王」として威信が高まり、後の帝国建設に大きく前進する事になりました。

次回に続きます。

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神聖ローマ帝国の成立 ・ 王国から帝国へ

みなさんこんにちは。

レヒフェルトの戦いに勝利し、国内に侵入したマジャール人勢力を追い払ったオットー1世はその後着々と国内の安定に努めていましたが、そんな最中の961年、かつて北イタリア王位を狙ってオットーの軍勢に敗れ、その後許されて北イタリアを代理統治していたベレンガリオ伯が再び野心をむき出し、今度は南のローマ教皇領を脅かす様になっていました。

ベレンガリオ伯は、北のオットー1世は強大すぎて勝てないため、その矛先を武力の弱い教皇領に向けたのです。これには時のローマ教皇ヨハネス12世はたまらずオットー1世に救援を求め、彼はその求めに応じて大軍とともに南下してベレンガリオ伯を追放し、ローマに入城しました。

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上が教皇ヨハネス12世です。(937~964)彼はカール大帝の子孫に当たり、なんと18歳の若さで教皇になったのですが、それは彼の個人的な力量ではなく、名門カロリング家の出身という家柄の良さによるものでした。

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上はオットー1世と会見する教皇ヨハネス12世。この時オットー1世が教皇を助けたのは、もちろん教皇に対する友情や信仰心からではありません。彼はカール大帝の様に、「ローマ皇帝」として戴冠する事を望んでいたので、ベレンガリオ伯追討の見返りとして教皇にそれを要求し、教皇もそれを了承していました。

しかし、この時オットーは自らの皇帝即位に当たってカール大帝の失敗の轍を踏まないよう周到に計画していました。彼は新たに教皇領を寄進しましたが、同時に

「教皇は、皇帝に忠誠を尽くさなければ教皇職には就けない。」

という条件を定めたのです。オットーは教皇から帝冠を受けましたが、それは教皇という個人からではなく、神から帝冠を授かるという形を現すためのものであり、彼にとって教皇の存在はそれを体現するための「道具」に過ぎず、皇帝即位はオットーの主導によって行われました。


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上がこの時オットー大帝が被った神聖ローマ帝国皇帝の帝冠で、後の歴代皇帝によって受け継がれていきました。黄金の冠にダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、エメラルドなどの宝石がはめこまれ、その周りにたくさんの真珠がちりばめられています。(この時代はまだ宝石の正確なカット技術が無いので、原石を丸く磨いてそのままはめこんでいます。また真珠なども当然まだ養殖技術は無いですから、同じ大きさの天然の真珠をこれだけそろえるには大変な手間がかかったでしょうね。)

962年2月、オットー1世は教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を受け、この時からオットー大帝と称される様になります。また同時に歴史上の位置付けでは、彼が皇帝に即位したこの時をもって「神聖ローマ帝国」の成立とみなしています。

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上は皇帝即位後のオットー大帝。しかし、この時誤解してはならないのは、オットー大帝が即位した最初から、この国家が神聖ローマ帝国と名乗っていたわけではないという事です。それにオットー大帝は一応ローマ皇帝として即位しましたが、彼の支配するのはドイツ、イタリアだけであり、フランス、スペインは手付かずのままでした。これではさすがに「ローマ皇帝」と呼ぶには領土が小さすぎると言う事から、彼は「皇帝アウグストゥス」と名乗っただけで、この時点における帝国の正式名称は定めていませんでした。この大げさな名前が公式に登場するのはもっと数百年を経た後の事であり、この時点では単なる名無しの「帝国」でしかなかったのです。

さて、だいぶ小ぶりとはいえ一応「帝国」の皇帝となり、念願を果たしたオットー大帝に比して、彼によって教皇の権威のランクを皇帝の下に位置付けられたヨハネス12世は当然面白くありませんでした。そこで教皇はハンガリーのマジャール人、ビザンツ帝国、さらにあろう事かかつての仇敵ベレンガリオ伯まで味方に付けて、オットー包囲網を築いて彼に反旗を翻しました。

教皇のこの動きに対し、オットー大帝はすかさず反撃に移ります。彼は、

「皇帝に忠誠を示さぬ教皇などいらぬ。」

としてヨハネス12世を廃位し、新たな教皇としてレオ8世を即位させたのです。ヨハネス12世はローマから追放され、27歳の若さで亡くなりました。


こうして後顧の憂いを排除したオットー大帝は、それ以後このイタリアの地に滞在し、新たに手に入れたこの領土の統治に専念して、ドイツ本国は後継者である息子オットー2世に任せて統治の経験を積ませます。しかし彼の皇帝即位と新たな帝国建国を快く思わないもう一つの巨大勢力がありました。それはコンスタンティノープルを中心として古代ローマ帝国の正当な後継者である東ローマ帝国すなわちビザンツ帝国です。

この両国の対立はやがて戦争に発展し、ビザンツ軍はイタリア奪還のためイタリア半島に上陸、968年から971年まで3年に亘り、イタリア半島南部プーリア地方で戦闘が繰り広げられ、晩年のオットーを悩ませましたが、やがて絶えず政情不安であったビザンツ帝国側の内紛によってビザンツ軍は撤退を余儀なくされたため、オットー大帝にとって思いがけない有利な展開となって終わりました。

この時の講和の条件として、ビザンツ側から当時のビザンツ皇帝の姪に当たるテオファヌと、大帝の息子オットー2世が結婚する事で和睦が成立し、大帝は最大の敵の介入を阻止する事に成功しました。

973年、老齢で体調を崩したオットー大帝は、テューリンゲンのメムレーベン宮殿で61歳で亡くなり、亡骸は故郷ザクセンのマクデブルクに運ばれ、最初の妻であるエドギタの隣に埋葬されました。(愛妻家だったようですね。)

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上が現在のマクデブルクの様子(人口28万)とオットー大帝の眠るマウリトス大聖堂の彼の棺です。
ヨーロッパ中央部にその後800年以上続く事になる帝国を築いた初代皇帝のものとは思えないほど質素で素朴なものですね。人柄が偲ばれます。


こうして彼の築いた神聖ローマ帝国は歴史の表舞台に登場するのですが、先に述べた様にこの段階ではまだそういう名で呼ばれたわけではありません。この名称はオットー大帝の死から数百年の間に、徐々に形作られ、付け足されていった国名であり、はっきりとその名で呼ばれる様になるのは13世紀になってからで、今回のテーマのもう一つの主役であるハプスブルク家が登場する頃まで待たなければなりません。

またこの帝国を語る上でもう一つ欠かせないのがローマ教皇の存在です。いずれ後から述べていきますが、帝国の頭につく「神聖」の文字はここから来ている事が容易に想像出来ると思います。

次回に続きます。

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王朝の交代 ・ ザクセン家からザリエル家へ

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国(まだこの名前ではありませんが。)初代皇帝オットー大帝が973年に61歳で亡くなると、その息子であるオットー2世が18歳の若さで2代皇帝として即位しました。彼は父帝の偉業を受け継ぎ、「帝国」の版図の拡大と皇帝権の強化に乗り出しますが、かつて父が悩まされた各地の反乱に、彼も同じ様に悩まされました。

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上が2代皇帝オットー2世です。(955~983)彼は父の命に従い、ビザンツ帝国との和平の条件としてビザンツ皇帝の姪テオファヌと結婚し、次の後継者オットー3世を儲けています

彼が即位して最初の敵は、皮肉にもかつて父オットー大帝に最初に歯向かった弟バイエルン大公ハインリッヒの息子で、同名のハインリッヒ2世でした。(オットー2世にとっては叔父の子、つまり従兄弟に当たります。) この人物は別名「喧嘩公」と呼ばれているくらい気性の激しい性格だったようで、父や叔父がその後和解してともに帝国とザクセン王家の支配確立に協力したのに対し、終始オットー2世の元に服さず、やがて武力衝突に至り、978年に鎮圧するまで5年に亘る内乱となりました。

オットー2世の苦労は続きます。同じ頃ロートリンゲン大公の任命に端を発する争いから西フランク王国とも対立し、980年に和睦するまで戦争となります。なんとか休戦して西フランクの介入を阻止したオットー2世は、980年からイタリア遠征を行い、ローマを抜けて帝国の影響力が弱かったイタリア半島南部に兵を進めましたが、シチリアから北上したイスラム軍に惨敗してしまいました。

するとそこへ今度は帝国東北部(現在のポーランド、チェコなど)でスラヴ民族の反乱が勃発してしまいます。(もう散々ですね。)そしてオットー2世はその反乱鎮圧に向かう途中でマラリアに感染し、28歳の若さで亡くなりました。彼の在位10年は、帝国維持のための戦いに明け暮れて終わった不幸なものでした。

その後3代皇帝として即位した同名のオットー3世はわずか3歳でしたが母テオファヌと祖母アーデルハイトが摂政として幼い彼を守り、(この2人の女性はとても有能であったようです。)やがて成長すると父や祖父の目指した「ローマ帝国の復活」を夢見てイタリアに再度遠征します。

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上が3代皇帝オットー3世です。(980~1002)父オットー2世の肖像画ともども似たような姿で描かれているのは、恐らく母テオファヌが実家のビザンツ帝国の様式で描かせているからでしょう。

さて、彼も父や祖父同様内乱に悩まされますが、彼の人生の主な敵はローマ教皇でした。その背後にはビザンツ帝国が影で糸を引いていたようですが、996年にビザンツの意図を受けたローマ貴族クレスケンティウスが反乱を起こし、オットー3世(というより摂政である祖母アーデルハイト)が立てたザクセン家出身の教皇グレゴリウス5世を追放し、別の教皇ヨハネス16世を即位させてしまいます。

怒った彼は998年に軍勢を率いてローマに入城し、クレスケンティウスと教皇一味を捕らえて処刑すると、自分の家庭教師であり、当代きっての学者だったジェルベールをシルウェステル2世として次の教皇に即位させました。

しかしその勝利も束の間、1001年に今度はローマ市民が反乱を起こし、数に劣る皇帝と教皇はローマを脱出せざるを得なくなります。湿地帯の都市ラヴェンナへと撤退した彼らは、軍を再編成してローマの再攻略を図りますが、このラヴェンナへの撤退という選択は誤りでした。なぜなら蚊の多く出る湿地帯であったため、オットー3世は父と同じマラリアに感染してしまったからです。結局病状は好転せず、彼は21年という短い生涯を閉じてしまいました。

彼は独身であったため、その早すぎる死にザクセン家の本家では後継者がおらず、ドイツ諸侯は分家ではありましたがオットー2世と争ったバイエルン公ハインリッヒ2世の息子ハインリッヒ4世をハインリッヒ2世として(この辺り少しややこしいですが、この王家は同名の人物が続くのでご了承ください。)4代皇帝に選出しました。

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上が4代皇帝にしてザクセン朝最後となるハインリッヒ2世です。(973~1024)彼はオットー大帝以来3代の皇帝たちが夢見たローマを中心とする「ローマ帝国」ではなく、カロリング家のカール大帝が目指した帝国のあり方を模範とします。また彼は大変信仰心が強く、聖職者の任命などの教会人事も高潔かつ人徳の優れた人物を推挙していき、荘園なども惜しみなく教会へ寄進しました。(この点が評価され、彼は「聖ハインリッヒ」として聖人に列せられています。)しかし対外的には東の新興国ポーランドとの戦争に敗れ、後に陶磁器で有名になるマイセンなどの領土を奪われるなどして帝国領は縮小してしまいます。

その彼も1024年に51歳で男子の後継者を残さずに亡くなると、962年のオットー大帝の即位で開かれたザクセン王朝は4代62年で断絶してしまいました。

困ったドイツ諸侯は初代オットー大帝の娘ロイトガルトのひ孫に当たる、フランケン公コンラート2世を新たな皇帝に選出しました。ここに彼を初代とするザリエル王朝が正式に発足します。(この「ザリエル」というのは、当家がフランク族の一派サリー・フランク族出身であった事から、ドイツ語で「サリーの」を意味する「ザリエル」と呼ばれているそうです。)

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上の中央の人物がザリエル朝を開いたコンラート2世です。(990?~1039)彼は前王朝ザクセン王家の親戚筋とはいえ帝位など夢にも考えた事は無く、ザクセン家が絶えなければごく平凡なドイツの一領主として生涯を終えていたことでしょう。しかし彼はドイツ王に選出され、ローマで皇帝として戴冠して自らの新王朝を開くとなかなかの政治手腕を発揮します。中でも先帝ハインリッヒ2世の時代に縮小した帝国領の拡大に成功し、西のフランスからブルグント王国の領土を得て、ドイツ、イタリア、ブルグント3王国を支配します。

さらにコンラート2世はこの時初めて帝国の名称を正式に「ローマ帝国」とし、公式文書に記載させました。ここに「帝国」はようやく名前を得たのです。この頃正当な「ローマ帝国」の後継者ビザンツ帝国は内紛が相次ぎ、ローマ教皇やイタリアの反皇帝勢力も鳴りを潜めていました。つまり彼にとって幸いにも外征の必要がありません。

ハインリッヒ2世はこの間に、国内のドイツ諸侯の力を削ぎ、自らの帝権の強化を図ります。彼が行った政策はザクセン家の皇帝たちと同様に教会領の拡大でしたが、それ以外に彼は諸侯の家臣たちにも領地の世襲を認めました。これによりドイツ諸侯は上の皇帝と下の家臣たちに挟まれる事になります。(もし諸侯が家臣たちの領地に手を出すなどすれば、自分が家臣の反乱に遭うかも知れませんからね。諸侯による皇帝への反乱の抑止と丁度良いけん制です。)


こうして後の「神聖ローマ帝国」の形がコンラート2世の時代に形作られる事になりますが、その反面彼のこの統治システムが数え切れない小規模領主を生み、帝国を救いようの無い四分五裂の状態にしてしまう原因となってしまいました。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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カノッサの屈辱 ・ 皇帝と教皇の戦い

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国第2王朝となるザリエル朝を開いたコンラート2世と、さらにその偉業を継いだ息子ハインリッヒ3世の君臨したザリエル朝初期の30年余りは、親子2代で築いた強大な皇帝権力を背景に当家の最盛期でした。

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上がザリエル朝2代皇帝ハインリッヒ3世です。(1017~1056)彼は父コンラート2世に劣らぬ優れた君主で軍事的才能にも恵まれ、対外的にポーランド、ボヘミア、ハンガリーなどの東欧スラヴ諸国をも従えます。さらに熱心なキリスト教徒であった彼は、当時混乱していたローマ教皇庁の乱れを正すためにイタリアにも遠征し、乱立する3人の教皇らを罷免追放して「皇帝の選任による」正当な教皇を即位させました。


しかし彼のこのやり方は、追放された者たちをはじめ、教皇庁内に皇帝家に対する深い禍根を残す事になり、やがてそれが「皇帝対教皇」の争いとなってその後数百年続く事になります。

ザリエル家にとって不幸な事に、この優れた皇帝ハインリッヒ3世は短命でした。(1056年崩御。享年39歳)後継者のハインリッヒ4世はこの時まだ6歳で、もちろん政務は取れませんから母親の皇妃アグネスが摂政となります。この時からローマ教皇らの皇帝家への反撃が始まりました。彼らはローマ教会の皇帝権力からの自立を目指し、オットー大帝以来それまで皇帝が持っていた教皇の選任を廃止、以後の教皇選出は「枢機卿団による選挙(コンクラーベ)によって決定する。」と決めてしまったのです。

もちろんアグネスらの皇帝政府はこれを拒否しましたが、ローマ教会側には無視されてしまいました。それだけではなく、それまでハインリッヒ3世らの強大な力で服属させられていたドイツ諸侯も、皇妃アグネスらを公然と無視してはばかりませんでした。(相手が女子供では何も出来まいと完全に嘗められてしまったのです。)

この様な中でドイツ諸侯の言いなりのまま成人したハインリッヒ4世は、やがてその皇妃さえも諸侯に押し付けられます。サヴォイア伯オットーの娘ベルタという女性でしたが、若い彼はこの押し付け結婚の過程が気に入らず、最初はこの女性を嫌ってそばにも寄り付かせませんでした。

しかし幼少から苦労続きの彼の人生において、この結婚は数少ない幸運でした。なぜならこのベルタこそ、ハインリッヒ4世の最高の伴侶であり、最大の協力者にして良き理解者だったからです。

やがて妻の献身を知り、彼女と愛情を育んだ彼は、夫婦力を合わせて教皇や諸侯らの反敵対勢力に立ち向かいます。目指すは皇帝権力の復活です。その手始めとして彼らは個人的な友人を中心として仲間を集めました。

この皇帝の動きに、それまで皇帝が幼少であったのを良い事に自領で好き勝手していた諸侯らは警戒します。ハインリッヒ4世はオストマルク伯領、バイエルン公領などを没収して自らの臣下に与え、1073年にザクセンにおいてわざと大規模な反乱を起こさせて一挙に皇帝権力の拡大を狙います。(このザクセン戦争は、皇帝である自分に味方すれば、恩賞として「領地」が貰える。つまり皇帝に従った方が「得」だと言う事を諸侯に知らしめるために画策されたものであった様です。)

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上はザクセンのゴスラーにあるハインリッヒ4世の皇帝居城。これは父3世の建てたものですが、ザリエル家はこのザクセンに多くの直轄領を保有し、その財源となっていました。しかしそれがザクセン貴族らのかなりの負担になっており、今次反乱の原因はこうした「お金」の問題も大きく絡んでいた様です。

このザクセン戦争は最終的に皇帝ハインリッヒ4世の勝利となりますが、これに勢いづいた彼はその矛先を南の敵ローマ教皇に向け始めました。彼はローマ教皇が任命した帝国内の聖職者を罷免して自分の意に沿った司教らを次々に任命し、時の教皇グレゴリウス7世を激怒させます。(この聖職者の任命権を巡る皇帝と教皇の争いが「叙任権闘争」と呼ばれるものです。)

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上が教皇グレゴリウス7世です。(1020?~1085)彼は1075年、皇帝の顧問を務める5人の司教を勝手に聖職を売買した廉で「破門」にし、さらに皇帝ハインリッヒ4世に対して、「以後皇帝は教皇に服従せよ。」とまで言い放ちます。これに対しハインリッヒ4世はただちに反撃に出ます。彼は帝国全土から司教24名を招集し(もちろん全て皇帝派です。)、現教皇の不倫の噂を理由にして、グレゴリウス7世の廃位を決議させたのです。

この皇帝の攻撃に、教皇グレゴリウス7世はついに最終手段に打って出ました。その最終手段とは、なんと皇帝を「破門」したのです。地上の支配者であり、キリスト教の守護者である皇帝が破門されるなど、これまで前例の無い前代未聞の出来事でした。

この事によって帝国内の諸侯は一斉に皇帝ハインリッヒ4世から離れていきました。今だ迷信深い人々の多かった中世の事です。神をも恐れぬ所業により歴史上初めて「破門」された皇帝になど味方していれば「地獄」に落ちるかも知れません。(というのは名目で、実際はこれで心置きなく皇帝に対して反乱を起こせるというのが本音だった様ですが。)

ハインリッヒ4世は窮地に陥りました。味方の離反が相次ぎ、さらに民衆の支持まで失っていったからです。彼はシュパイアーの城に籠って数ヶ月考え、事態打開のため教皇に謝罪する事を決意します。そして教皇が滞在するイタリア北部の田舎町カノッサに赴きました。

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上がカノッサ城です。真冬の2月に突然現れた皇帝に対し、教皇は「自分を捕らえる罠ではないか?」と恐れ、城から出て来ようとしませんでした。この時ハインリッヒ4世は自分が敵対心が無い事を示すため、武器を捨て、修道士が着る粗末な羊毛の長衣をまとい、雪のちらつく季節を裸足で3日間城門の前に立ちすくみ、教皇の許しを請いました。これが有名な「カノッサの屈辱」です。(といっても雪の中を3日間も裸足で云々というのは大げさな創作の様です。)

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上が「カノッサの屈辱」の主役である皇帝ハインリッヒ4世。(1050~1106)この絵は19世紀に描かれたものです。帝国の皇帝ともあろう者が、この様に身をやつして許しを願うのを、教皇も黙っているわけにはいきませんでした。なぜならキリストの教えは「許す事」であったからです。教皇は皇帝との会見を承諾し、皇帝の「破門」を解きました。

これは一見すると教皇の勝利の様に見えますが、皇帝ハインリッヒ4世にとってこれは一事しのぎの「大芝居」に過ぎませんでした。彼は「破門」を解いて再び味方を自分の下に集める事が目的であったからです。彼の目論みは成功しました。なんといっても彼は生まれながらの「王」であり、地上の支配者である「皇帝」なのです。信頼を回復した彼は帝国本土に戻り、たちまち反対派のドイツ諸侯を従えると再び皇帝権力を振りかざし、今度は逆に教皇を追い詰めていく事になるのです。

次回に続きます。

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叙任権闘争の行方 ・ ザリエル王朝の滅亡

みなさんこんにちは。

カノッサの屈辱の「大芝居」を演じて教皇グレゴリウス7世の破門を解き、態勢を立て直した神聖ローマ帝国ザリエル朝3代皇帝ハインリッヒ4世は、勢力を盛り返すとドイツ本国の反対諸侯を抑えてこれを平定し、今度は逆にローマ教皇に対して反撃に出ました。

これに対し、教皇グレゴリウス7世は再び皇帝を「破門」しましたが、同じ手は2度は通用しませんでした。ハインリッヒ4世はドイツの司教たちをけしかけてグレゴリウス7世を廃位させると、報復のため1180年新たな教皇クレメンス3世 (?~1100) を擁し、翌年大軍でローマになだれ込みました。

教皇グレゴリウス7世はローマ市内のカステル・サンタンジェロ(聖天使城)に籠城し、なんと4年以上も皇帝軍に抵抗し続け、その間に当時南イタリアを支配していた強力なノルマン人傭兵勢力の首領オートヴィル一族に救援を求めました。

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上がサンタンジェロ城と、教皇が救援を求めたノルマン人傭兵の首領オートヴィル家のロベルト、ルッジェーロの兄弟。(そっくりなので、肖像画のどちらがそうなのか分かりませんが。笑)後に彼らはシチリア島に中世シチリア王国を建国する事になります。

彼らノルマン人は教皇の求めに応じ、1084年ルッジェーロ・グイスカルド率いる3万5千のノルマン軍が北上してローマに進軍しました。これにより形勢不利と見たハインリッヒ4世貴下の皇帝軍はローマから撤退。戦いは教皇の粘り勝ちの様に見えますが、皇帝軍撤退後のローマに入城したノルマン軍はとんでもない連中でした。なぜならノルマン軍の主力の大半がイスラム傭兵であり、彼らはローマに入ると略奪の限りを尽くして暴れまわったからです。

当時の傭兵たちにとっては、戦いの後の略奪は報酬とは別の「ボーナス」の様なもので、そもそも傭兵上がりのオートヴィル家にとってはそれがごく普通の常識だった様ですが、それをされる方にとってはたまったものではありません。ローマ市民の怒りは、こんな「狼」の様な連中を引き入れた教皇グレゴリウス7世に向けられます。

彼はローマにいられなくなり、ロベルト・グイスカルドらによって救出されるとモンテ・カッシーノ、サレルノへと移り、1085年5月同地で亡くなりました。

さて宿敵グレゴリウス7世を葬った皇帝ハインリッヒ4世でしたが、彼はその後もグレゴリウス7世の後に即位した3代の教皇や、絶えず反乱を起こして彼の失脚を狙うドイツ諸侯らなど、次から次へと現れる敵と戦い続けます。しかし彼はその類い稀な政戦両略によってこれらをはねつけ、皇帝として君臨し続けました。

そんな皇帝ハインリッヒ4世に、1098年信じられない相手が敵として立ちふさがります。なんと後継者である長男コンラート(1074~1101)が父に歯向かったのです。信仰心の厚いコンラートは「カノッサ」に代表される父の教皇への態度に苦悩し、そこを老獪な教皇庁に付け込まれ、父への反乱を決意したのです。

思いもかけぬ息子の反乱に驚愕したハインリッヒ4世は辛くも危機を脱すると、コンラートの王位継承権を剥奪し、コンラートを追放して次男のハインリッヒ5世を後継者と定めますが、1105年今度はなんとこの次男までもが父に反旗を翻しました。

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上は父4世から王位を継承するハインリッヒ5世です。(1086~1125)彼は兄コンラートと違って自らの意思で父に歯向かいます。彼は慎重に計画し、まず諸侯を味方に付け、貴族会議で父4世を廃位して軟禁し、自分が諸侯に推戴される形で王位に付きました。

父ハインリッヒ4世はこの軟禁から一旦脱出しますが、(軟禁と言ってもかなり緩いものだったようです。)なんといっても2人の息子の相次ぐ裏切りに完全に打ちのめされていました。彼の生涯は諸侯や教皇との戦いに明け暮れるものでしたが、それは所詮は「他人」との間の事です。彼が苦しい戦いを続けられたのは、全ては愛する息子に帝位を継がせてザリエル王朝の末永い繁栄を築くためでした。

その息子らに続けて背かれたのです。波乱万丈の人生を生き抜き、あらゆる敵を打ち倒して来た強大な皇帝である彼も、この事実に完全に打ちのめされ、立ち直る事は出来ませんでした。そして1106年8月、哀れな皇帝ハインリッヒ4世は56歳でこの世を去りました。

父の失意をよそに、帝位に着いたハインリッヒ5世は父の代から続いていた「叙任権闘争」に決着を着けるべく1110年ローマに遠征し、時の教皇パスカリス2世(?~1118)との間に次の様な取り決めを行います。

「皇帝側は聖職者の叙任権を放棄する。その代わりに教会側は土地、財産権を返還する。」


これはつまり、

「聖職者など教会で勝手に決めるが良い。しかし教会の領地から上がる財産その他は皇帝のものだ。」

というものです。ハインリッヒ5世は武力にものを言わせてこれを教皇に認めさせたのですが、こんな損な取り決めをローマ教会が黙っているはずがありません。皇帝がローマを引き上げると教皇らは直ちに諸侯らに謀略の手を回し、それに呼応した諸侯によって帝国各地で反乱が勃発。ハインリッヒ5世は父4世と同じ苦しい戦いを強いられる事になりました。


反乱は長期化し、結局1119年に皇帝側が折れ、教皇との和解を約束させられる事になります。そしてその後の交渉の末、1122年にヴォルムス協約が結ばれました。その内容は下の様なものです。

「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える。」

これは簡単に言えば字の通り、「聖職者の叙任権は教会に与える。」というもので、それは良いとしても、諸侯が最も関心を持つ教会の領地や財産権には触れずに 「棚上げ」 にした曖昧で中途半端なものでした。

こうして叙任権闘争は教皇側の勝利に終わったかに見えますが、ドイツ諸侯は腹の内では皇帝はもちろん教皇にも臣従する気などさらさらありませんでした。諸侯にとってはどちらも自分たちの利益のために利用出来れば良かったからです。やがてこの協約も皇帝・教皇両者間で破棄され、叙任権闘争はその後数百年も続いていく事になります。

さて諸侯の圧力で教皇と不本意な和議を結ばされた皇帝ハインリッヒ5世はその後も諸侯の平定に苦労していましたが、相次ぐ諸侯との問題を決着出来ぬまま、1125年に39歳でオランダのユトレヒトで亡くなりました。彼は皇妃との間に子がいなかったため、これによりザリエル王朝は初代コンラート2世から4代100年ほどで断絶してしまいました。

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上はハインリッヒ5世が亡くなったザリエル朝終焉の地ユトレヒトの街並みです。(人口およそ30万)このザリエル家の主役はなんといっても父の死により6歳で王位に付き、それから50年に亘って帝位を維持したハインリッヒ4世でしょう。彼の生涯は多くの敵と戦い続けた挙句に最後は子らに背かれるという哀れなものでしたが、「カノッサの屈辱」 の大芝居で歴史に名を残し、その後の君主や指導者らに「決して諦めない不屈の精神」を示した評価されるべき人物ではないかと思います。

次回に続きます。

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シュタウフェン王朝の成立 ・ 赤ひげ皇帝バルバロッサの登場

みなさんこんにちは。

1125年、ザリエル朝最後の皇帝ハインリッヒ5世が子孫を残さずに亡くなると、4代およそ100年続いたザリエル王朝は断絶してしまいましたが、ハインリッヒ5世は亡くなる直前、帝位をかつて父ハインリッヒ4世の下でザリエル王家に仕え、数少ない忠実な家臣であったシュタウフェン家に譲る事を願いました。

このシュタウフェン家は、当主フリードリッヒの代に「カノッサの屈辱」で有名な皇帝ハインリッヒ4世の皇女アグネスを妻に迎え、皇帝からシュワーベン公の位とその領地を与えられ、娘婿としてハインリッヒ4世を支えた一族であったからです。

このシュワーベン公フリードリッヒには息子が2人おり、彼の死後、長男で同名のフリードリッヒがシュワーベン大公を継ぎ、次男のコンラートがフランケン公としてそれぞれの領地の周辺諸侯ににらみを利かせ、力を合わせてザリエル王朝を支えた忠実で律儀な兄弟でした。

しかし当然ながら帝国諸侯は、この様に真面目で律儀なシュタウフェン家に帝位が移る事を喜ぶはずがありません。そこで諸侯は帝国内で古くから反乱の絶えない「火薬庫」であるザクセンの当時の領主であったズップリンブルク家のロタールをロタール3世として皇帝に選出しました。

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上が皇帝ロタール3世です。(1075~1137)しかし彼の即位をシュタウフェン家は認めず、両家は10年に及ぶ内戦を展開しますが決着は着かず、結局シュタウフェン家はロタール3世を皇帝として認めます。しかしこのロタール3世は子宝に恵まれず、ズップリンブルク朝は彼一代で断絶してしまいます。

次の皇帝の座を狙ったのはロタール3世の娘婿でバイエルン大公ハインリッヒでした。この人物は別名「傲慢公」と呼ばれるほどの野心家で、自領のバイエルンの他、ロタール3世からザクセンまで継承していました。

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上がハインリッヒ「傲慢公」です。(1100?~1139)いかにも気の荒そうな人物ですね。しかしこの様に力を持ちすぎる危険な人物を、帝国諸侯が皇帝に認めるはずも無く、(彼に比べればはるかに領地が少なく、理性的でマシだという理由で)結局1138年、次の皇帝にはシュタウフェン家のフランケン公コンラートが選出されました。

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上が新たな皇帝となって新王朝を開いたコンラート3世です。(1093~1152)ここに彼を初代とするシュタウフェン王朝が正式に成立しました。彼は即位すると、まず最大の敵である「危険人物」のバイエルン公ハインリッヒを真っ先に捕らえ、修道院に幽閉するとその全領地を没収してしまいます。これは諸侯への見せしめの意味合いが強かった様ですが、傲慢公は無念の内に翌年亡くなります。

その後コンラート3世は1147年に時の教皇エウゲニウス3世の求めに応じて第2回十字軍に参加し、遠くシリアに遠征してダマスカスを包囲していますが、この遠征は参加した各国の主要君主がそれぞれの思惑でバラバラに行動したために失敗し、彼もイスラム軍の反撃で命からがら撤退しています。

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上がコンラート3世も参加したダマスカス包囲戦の様子。しかし結果は意思も疎通も取れない「烏合の衆」であったキリスト教国連合軍の惨敗で終わりました。

コンラート3世はドイツ本国に戻ると、もう外征はこりごりとばかりに帝国内の統治に専念する様になります。(彼は軍事より政治家として有能であった様で、皇帝権力の強化とシュタウフェン家の領土拡大に成功し、巧みな外交戦略で帝国諸侯と提携を図りました。)

しかしその半面で新たな敵が彼の前に現れます。かつて彼が追放したバイエルン公ハインリッヒ傲慢公の息子で同名のハインリッヒが、亡き父の遺領であるザクセンの相続権を主張して譲らず、結局彼は1142年、それをハインリッヒに返還する事になったのです。

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上がザクセン公ハインリッヒ (1129~1195)の銅像です。彼はまだ少年でありながら皇帝コンラート3世に対して一歩も譲らず、後にコンラート3世の死後、後を継いだフリードリッヒ1世に対してザクセンだけでなくバイエルンの相続権も要求し、1156年にこれを取り返して父の無念を晴らします。彼は軍事に秀で、勇敢だった事からハインリッヒ 「獅子公」と呼ばれ、また統治者としても有能で、ミュンヘン、リューベック、リューネブルクなどの都市を建設し、彼によって築かれたこれらの都市は、今日のドイツのそれぞれの中心都市として発展を続けています。

この若いハインリッヒ獅子公との対立は、老いた皇帝コンラート3世を悩ませ、やがて病に倒れて死期を悟った彼は、後継者として甥に当たるシュワーベン公フリードリッヒを次の皇帝に指名して1152年崩御します。

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上が神聖ローマ帝国シュタウフェン朝2代皇帝に即位したフリードリッヒ1世です。(1122~1190)赤毛の髪とあごヒゲを生やしていた事から赤髭王 (バルバロッサ、イタリア語)の愛称で呼ばれ、その後中世から現在まで、特にドイツ本国で最も人気の高い皇帝です。

このフリードリッヒ・バルバロッサについて当時実際に会った人の記録を見ると、「胸板の厚い男らしくたくましい人物で、明るくそれでいて物静かで一度会ったら忘れられぬ風貌と人格を持った、まさに皇帝にふさわしい人物である。」と記されています。多少の誇張もあるかもしれませんが、いずれにしても強烈な個性とインパクトを人に与える人物だった様ですね。

彼は皇帝に即位すると、帝国内の混乱を収拾するために帝国諸侯に特権を与えて手なずけるとともに、シュタウフェン王家の宿敵であるヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公と和解してこれを収め、帝国内の足元を固めます。その上で1154年にイタリア遠征を行い、翌年教皇ハドリアヌス4世から戴冠されて正式に神聖ローマ皇帝となりました。

その後彼はイタリアの統治に専念しますが、その政策を巡っては教皇と度々対立し、その結果ドイツ本国の統治に手が回らなくなってしまいます。(帝国諸侯にとってはその方が都合が良かったでしょうが。)そのため彼は5回に及ぶイタリア遠征を行うはめになり、そのための多額の戦費が皇帝を悩ませる事になります。

そこで皇帝が目を付けたのが、当時北イタリア一帯で盛んな商業活動で財を蓄えていたロンバルディア諸都市でした。皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはこれらの諸都市を皇帝家の直轄領にする事を目論見ます。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサを悩ませたこの遠征のための戦費すなわちお金の問題は、当時北イタリアに次々と興隆していたこれらの諸都市を大いに警戒させました。なぜならこれらの諸都市は、この頃から毛織物産業と金融業などで急速に経済力を付け、うなるほど金を持っていたからです。

やがて彼らは「皇帝の魔の手」から自分たちの築き上げた財産を守るために力を合わせて協力していき、皇帝フリードリッヒに立ち向かっていく事になります。

次回に続きます。

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ロンバルディア都市同盟 ・ 皇帝と商人たちの戦い 

みなさんこんにちは。

1152年に叔父コンラート3世の後を継いで神聖ローマ皇帝となったフリードリッヒ1世バルバロッサは、「皇帝による世界支配」という単純明快な理念を終生追い求めた人物でした。しかしこれまで述べてきた歴代皇帝がそうであった様に、そうさせまいとする様々な敵が彼の前に立ちはだかります

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上は19世紀に描かれた皇帝フリードリッヒ・バルバロッサのイラストです。

その敵とは、第一にローマ教皇、第二に帝国内のドイツ諸侯、第三にその帝国諸侯の中でも最も強大かつ有能であり、その気になればいつでも帝国諸侯を味方に付け、バルバロッサから帝位を奪う事が出来るほどの実力を持つ、シュタウフェン王家の長年の政敵であるヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公、そして第四にミラノを筆頭とする北イタリアの新興都市群でした。

これらの内、ローマ教皇や帝国諸侯はお馴染みの顔ぶれであり、ハインリッヒ獅子公などの様ないわゆる「ライバル」も、かつての皇帝たちには多かれ少なかれ存在していましたが、第四の敵である北イタリアの諸都市は、これまでの皇帝が相手にした事のない「新たな敵」でした。なぜなら彼らは王侯貴族ではなく、「お金」を武器として操る商人を頭とする平民たちであったからです。

当時この北イタリア地域は、北と南を結ぶアルプス山脈越え通商路で栄え、多くの都市が興隆していました。特に毛織物産業と金融業が隆盛を極め、驚くほど貨幣経済が発達し、世界で初めて動産抵当貸付(動産担保融資)という金融システムを生み出した事でも知られています。(普通金を貸す時は貸し倒れに備えて土地などの不動産を担保に取りますが、これは読んで字のごとく動産で金を貸す「質屋」に近いもので、欧米では広く行われています。例を挙げると現在でも北イタリアなどでは下の様に山と積まれた「チーズ」などを担保に銀行融資が行われているそうです。)

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これらの都市は盛んな商業活動で巨万の富を築いて大いに繁栄し、財を蓄えた商人を筆頭とする平民たちは皇帝による支配を拒んで合議による「共和制」の自治を求める様になっていきます。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサにとっても、これらの都市から上がるお金は喉から手が出るほど欲しいものでした。統治と外征にお金はいくらあっても足りる事はありません。彼は前回も述べた様にこれらの都市をシュタウフェン王家の直轄領として、帝国運営の財源とする事を目論見ます。

皇帝バルバロッサは1158年に、彼の宗主権を認めないミラノに対し、およそ10万の大軍で包囲します。もちろんミラノはたまらず降伏し、勢いに乗った彼はミラノ以下北イタリアの14都市に年3万ポンドの上納金の差出を義務付けました。(彼が一都市を降伏させるのにこれだけの大軍を動員したのは、他の都市への見せしめのためだったと思われます。)

しかし彼はやりすぎました。このあまりに多額の上納金の要求が、これらの都市全てを敵に回すことになってしまったのです。これらの都市はミラノを中心としてクレモナ、マントヴァ、ベルガモ、ブレシア、ボローニャ、パドヴァ、トレヴィーゾ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、ローディ、パルマなど26の都市に及び、一致団結して皇帝と戦う事を誓って1167年に「ロンバルディア都市同盟」を結成しました。 (この「ロンバルディア」とは、かつて北イタリアにあって、8世紀後半に神聖ローマ帝国の前身カロリング・フランク王国のカール大帝に滅ぼされたランゴバルド王国にちなんでいます。この地域の人々はそのランゴバルド人の末裔たちで、400年の時を越えて再び帝国と戦う事になったのです。)

この頃南のローマでも教皇の交代があり、新教皇アレクサンデル3世は北イタリア政策を巡ってバルバロッサと対立、その教皇をミラノが支援します。またしてもミラノが彼に歯向かったのです。この動きに対し、怒ったバルバロッサはミラノを「帝国の敵」と呼び、報復のため3回もミラノを包囲攻撃します。

戦いは当然強大な帝国軍が勝利し、1162年3月ミラノは皇帝の命によって完全に破壊されますが、このバルバロッサのミラノへの攻撃に教皇アレクサンデル3世は激怒し、1165年に皇帝バルバロッサを「破門」してしまいます。

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上がバルバロッサを破門した教皇アレクサンデル3世です。(1105?~1181)彼は前教皇ハドリアヌス4世の方針を受け継ぎ、「帝国は教皇のものであり、皇帝は教皇に臣従せよ。」と強圧的に振る舞い、バルバロッサと激しく対立します。

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上がロンバルディア都市同盟の盟主ともいうべき都市ミラノの現在の様子です。(人口約132万)この街はローマに次ぐイタリア第二の都市で、なんと言ってもファッションの街として有名ですね。古い街並みの中に近代的な高層ビルが建ち並んでいる点は、わが国の京都と似た様な状況でしょうか。

教皇による皇帝の破門は、先の「カノッサの屈辱」のハインリッヒ4世の先例があるため、皇帝バルバロッサは屁とも思わなかった様ですが、彼が恐れたのは破門による神罰などという非現実的な迷信ではなく、従えている帝国諸侯がこれを口実に反乱を起こして彼を脅かす事でした。

その兆候はすでに出始めていました。特にこれまでのイタリア遠征では素直に従軍していた皇帝に次ぐ帝国第二の実力者、ザクセンのハインリッヒ獅子公が遠征を渋る様になり、他の諸侯もこれに同調する動きを見せていたからです。

皇帝バルバロッサはこの事態を憂慮し、教皇アレクサンデル3世に対しては対立教皇を立ててこれに対抗し、自らの破門による影響に対しては、新約聖書の一節を採り上げて皇帝権力の正当性と絶対性を主張して「沈静化」を図ります。

彼が聖書を読みあさって採り上げたその一節とは2つの剣にまつわる話で、キリストが弟子たちに宗教的権威と世俗的権力を前者は「教剣」、後者は「政剣」という2つの剣を例にして語った云々という話です。つまり「政剣」すなわち世俗的権力を持つ皇帝は、キリストすなわち神から直接それを与えられているのだから、その地位は地上で最高の「神聖なもの」なのであって、「教剣」を持つ教皇はその地位は同じにしても、そもそも教皇などから世俗的権力に口を挟まれる筋合いは無く、増して教皇には「破門」などという権限すら最初から無いのだ。というものでした。

彼はこの理論をはっきりと世に示すために、自らの帝国を「神聖帝国」と名付けます。帝国は神から与えられた権利によって築かれた神聖なものであるという事です。そしてここに初めて「神聖」の文字が帝国の歴史に登場します。しかしこの時に帝国名が正式に「神聖ローマ帝国」となったわけではありませんでした。なぜなら皇帝バルバロッサはその在位中に一度もその公式文書にその名称を使っていないからです。

彼がなぜそうしなかったのか理由は不明ですが、彼の帝国はドイツ、イタリア、ブルグントなどかつての「ローマ帝国」とは比較にならない小ぶりなものであった事から、初代皇帝オットー大帝の様に「ローマ」の名を入れるのを避けたのかも知れません。

さて、皇帝のこの動きに教皇アレクサンデルも負けてはいません。何しろ彼には豊富な資金力を持つロンバルディア都市同盟が味方であるからです。そして彼らはその存亡を賭けてさらに激しい戦いを繰り広げていく事になります。

次回に続きます。

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皇帝バルバロッサの死 ・ 第3回十字軍の失敗

みなさんこんにちは。

1173年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ・バルバロッサと、ローマ教皇・ロンバルディア都市同盟の連合軍との対決は時間の問題となっていました。翌1174年から皇帝バルバロッサはこれらの敵対勢力を討伐するため、4回目となるイタリア遠征を計画し、帝国諸侯に参陣を命じます。

しかしそれまで常に皇帝に献身し、皇帝に次ぐ帝国第二の実力者であったザクセンのハインリッヒ獅子公が公然と皇帝を批判し、自領ザクセンの紛争と帝国東部のポーランドとの国境防衛を理由に、「今度ばかりは付いていけぬ。」と出兵を拒否。それに多くの諸侯も同調し、バルバロッサの軍勢は自らの直属軍数千を数えるのみでした。

これでは戦になりません。やむなく彼はロンバルディア都市群の商人たちが持つ豊富な金を与える事を餌に傭兵をかき集め、自分の直属軍を合わせて何とか1万を越える軍勢を集めると第4次イタリア遠征を開始しました。

しかしこの遠征は最初から無茶なものでした。そして1176年5月に北イタリアのレニャーノで、皇帝バルバロッサの軍勢3千はロンバルディア都市同盟の連合軍3千5百と激突しましたが、ロンバルディア側にも大損害を与えたものの、結果は皇帝軍がほぼ全滅に近い大敗に終わり、このイタリア遠征は大失敗に終わります。

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上は19世紀前半に描かれた「レニャーノの戦い」の様子です。金次第でどこにでも付く粗末な身なりの荒くれ者の傭兵たちが、豪華な身なりの皇帝の騎士たちをなぎ倒しています。このレニャーノの戦い以後、ヨーロッパではナポレオンの登場する近世までのおよそ600年以上に亘り、彼ら傭兵が戦争の中心となります。

この戦いの敗北で命からがらドイツ本国に帰還したバルバロッサの怒りは凄まじく、特にその怒りは自分に味方せず、公然と彼を批判した帝国諸侯の筆頭であるザクセンのハインリッヒ獅子公に向けられ、「この敗戦の責任は帝国最大の兵力を持ちながら我が下に参陣しなかったハインリッヒ獅子公にある。」として、1180年にハインリッヒ獅子公を「皇帝に対する不服従と帝国への反逆」により、ザクセン、バイエルンなど彼の全領地を没収し、彼を帝国から追放してしまいます。(哀れな獅子公は妻の父親(義父)に当たるイギリス王ヘンリー2世を頼って亡命しました。)

皇帝バルバロッサの怒りはそれだけに留まらず、「獅子公に同調して遠征に参加しなかった諸侯どもも皆同罪だ。」として主だった帝国貴族たちを獅子公同様に追放、領地没収などの刑に処しました。これにより諸侯の数は大きく減り、帝国は整理統合され、何よりこれらの措置で震え上がった残りの諸侯たちが皇帝バルバロッサに反対する事は二度と無くなりました。

さてこうして帝国内の反対勢力はねじ伏せたものの、皇帝バルバロッサと外敵であるローマ教皇・ロンバルディア都市同盟との関係は今だ戦争状態でした。こちらについてはこう着状態のまま時が流れ、結局1180年に彼は教皇アレクサンデル3世との講和に応じ、事実上彼のイタリア征服は完全な失敗に終わりました。

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上は「講和の証」として教皇アレクサンデル3世にひざまづく皇帝バルバロッサを描いたフレスコ画です。実際に皇帝がこの様に教皇に屈したのかは定かではありませんが、この戦いにおける皇帝の敗北は事実です。

しかし、彼はこれで引き下がる様な小者ではありません。バルバロッサは非常に有能な皇帝でした。彼は教皇との直接対決を避け、南のノルマン人勢力が築いたオートヴィル朝シチリア王国に接近し、後継男子のいなかった同国の王グリエルモ2世の王女コンスタンツァと息子ハインリッヒ6世を結婚させ、将来のシチリア王位の獲得に成功しています。これによりローマ教皇を南北で挟み撃つ事が出来、さらにこの時彼が布石を打ったおかげで、彼の孫フリードリッヒ2世の時代にシュタウフェン朝はドイツではなくシチリアで「12世紀ルネサンス」と呼ばれる華やかな文化の華を咲かせるのです。

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上の図はノルマン人のオートヴィル家が築いたシチリア王国の範囲です。やがてバルバロッサの目論見通り、息子ハインリッヒ6世が王位に付き、シュタウフェン家がこの国を乗っ取る事になります。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはローマ教皇やロンバルディア都市同盟との戦いには一時的に敗れたものの、それ以外の方面では彼自身の類い稀な才能によってほぼ全面勝利していました。この時期の彼はドイツ、北イタリア、ブルゴーニュ、ボヘミアなどを支配下に収め、これまでの歴代皇帝の中で最も強大な皇帝として帝国に君臨します。(1184年に行われた皇太子ハインリッヒ6世の刀礼式には、祝いのために帝国中から諸侯と騎士が集まり、その数は7万を越えたそうです。戦でもないのにこれだけの諸侯が集まったのは、皇帝バルバロッサに対する畏敬の念以外の何ものでもないでしょう。)

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上の図はこの時代の神聖ローマ帝国の勢力範囲です。(正確にはザクセン、ザリエル朝時代のものですが、バルバロッサが君臨したシュタウフェン朝時代の帝国の版図と大差はありません。)

これまでの皇帝たちの中で最も完全に帝国を支配し、権力の頂点にいる中で、やがて皇帝バルバロッサの中に、聖地エルサレム奪還のための十字軍に対する熱い想いが込上げていきます。当時エルサレムはアイユーブ朝イスラム帝国によって占領されており、彼は「神から与えられた神聖な権利によって世界を支配する皇帝として、聖地エルサレムが異教徒に蹂躙されるのを黙って見ているわけにはいかぬ。」として1189年、時の教皇グレゴリウス8世の呼びかけに応じ、第3回十字軍の総大将として、総勢10万の大軍を率いて小アジアに遠征します。

入念に準備し、充分な戦力で同地に上陸したバルバロッサ率いるキリスト教国連合軍はイスラム軍を次々と撃破し、大戦果を収めましたが、1190年6月総大将である皇帝バルバロッサは野営地の近くの川で水浴中深みにはまって溺死するという不幸な事故で急死してしまいました。(享年68歳)

総大将を失ったキリスト教軍は、態勢を立て直して反撃に転じたイスラム軍の攻勢によって総撤退を余儀なくされ、こうして第3回十字軍は失敗に終わります。しかしその事よりも、皇帝バルバロッサのあまりに突然の意外な死がヨーロッパ社会に与えたショックは大きく、特に生前の彼の強大さを知る帝国本土、とりわけドイツ本国では、「皇帝フリードリッヒ・バルバロッサは不死身であって、ドイツが危機に陥った時に蘇ってドイツの危機を救うのだ。」という皇帝伝説として、長くドイツの民衆の間に語り継がれていく様になったそうです。

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後の第2次大戦中に、ヒトラー率いるナチス・ドイツが行った300万の大軍によるソ連への侵攻作戦を「バルバロッサ作戦」と呼ぶのは、強大な皇帝であった彼の伝説にあやかり、ドイツ勝利の願いを込めて名づけられたものです。(上が作戦指導するヒトラーとドイツ軍首脳部。結果は広大なソ連領内に深入りしすぎてもたもたしているうちに冬になり、猛烈な寒さとソ連軍の反撃で泥沼の消耗戦に陥り、ヒトラーの補給を軽視した独善的な作戦指導も相まって大戦後半は多くの兵を失うひどい負け戦となり、逆にドイツを破滅に導いてしまいましたが。)

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

バルバロッサの遺産 ・ シチリア王国併合

みなさんこんにちは。

962年のオットー大帝の即位によって築かれた「神聖ローマ帝国」の歴史の中で、これまで帝位についた就いたどの歴代皇帝よりも最も完全に帝国を支配した強大な皇帝フリードリッヒ1世・バルバロッサが、第3回十字軍の遠征先である小アジアの荒野で急死した後、その後は息子のハインリッヒ6世が25歳で帝位を継承しました。

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上がシュタウフェン朝3代皇帝ハインリッヒ6世です。(1165~1197)彼はわずか4歳でドイツ王となり、父帝バルバロッサと親子二人の共同統治者として君臨し、やがて父の急死によって北の帝国本土以外に南のノルマン・シチリア王国の王位もその「遺産」として継承していました。

彼が父バルバロッサの死によって帝位を継いだ1190年の終わりにノルマン・シチリア王国の王家オートヴィル家で、彼の皇妃コンスタンツァの父に当たるグリエルモ2世が亡くなり、後継者の絶えた同家は生前のバルバロッサとグリエルモ2世の取り決めにより、娘婿のハインリッヒ6世がシチリア王位を継ぐ事が決まっていたからです。

ハインリッヒ6世は君主としては父には及ばないにしても、若き皇帝として出来る限りその務めを果たすべく奔走します。しかしシチリア国民は外国人の皇帝に支配される事を嫌い、オートヴィル家初代国王の庶子(私生児)の子孫であるレッチェ伯タンクレーディ(1139~1194)をシチリア王に擁立します。

ハインリッヒ6世はこの動きを封じるためシチリア遠征の準備をしますが、ここで思いもかけぬ敵が彼の前に立ちふさがります。その敵とは父バルバロッサのライバルであり、かつて父が追放した帝国第二の実力者ハインリッヒ獅子公でした。獅子公はバルバロッサの死によって密かにドイツに戻り、自領のザクセンを奪い返して再び帝国に復権を果たすべく反乱の火の手を挙げたのです。

ハインリッヒ6世はこの反乱に忙殺され、獅子公とは一時休戦してようやくシチリアに向かったのは1191年になってからでした。そしてイタリア半島を南下した皇帝軍は、シチリア軍の最重要拠点であるナポリを包囲します。しかしシチリア軍の抵抗は激しく、ナポリの街を取り囲む城壁に阻まれた皇帝軍は、さらにこの地でひどい疫病に悩まされ、皇帝軍の苦戦を知った獅子公が休戦を破って再び反乱を起こしたために、やむなく遠征を中止して撤退する事を余儀なくされてしまいました。

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上がこの時のナポリ包囲戦を描いた絵と、下が現在のナポリの街並みです。

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ドイツ本国に戻ったハインリッヒ6世と獅子公との戦いはその後3年余り続きますが、帝国随一の剛勇で知られた獅子公も老齢には勝てず、皇帝との協議でかつての領地を大幅に減らされたものの、追放の解除と帝国貴族への復帰を最終条件として、1194年6月に両者は完全講和に至りました。(名誉挽回を果たした獅子公は、翌1195年に66歳で亡くなります。)

こうして帝国本土の内乱を終わらせたハインリッヒ6世は、いよいよ待ちに待ったシチリア征服のために遠征軍を組織するとイタリア半島の南下を開始します。ちょうどその頃、彼にとって幸運な事に「正当なシチリア王」を名乗っていたタンクレーディが亡くなり、彼の子でまだ9歳のグリエルモ3世が王位を継いでいましたが、ここで皇帝は一計を案じます。

彼はシチリア側に対し、自分のシチリア王位を認めてくれれば、まだ幼いグリエルモ3世を元のレッチェ伯として領地を安堵し、他の者たちも一切罪は問わないと約束したのです。シチリア人たちはこの申し出を受け入れ、1194年9月に同国の首都パレルモが無血開城されました。

しかしこれは皇帝による完全な「騙まし討ち」でした。彼は同年12月25日のクリスマスに念願のシチリア王として戴冠しましたが、その際シチリア側と交わした「一切の罪は問わない。」との約束を破り、反乱に加担したシチリア貴族数百名を逮捕、投獄、処刑してしまいます。それだけではありません。ハインリッヒ6世はなんと幼い少年王グリエルモ3世の両目を潰し、さらに去勢までしてドイツ本国に送り、幽閉してしまったのです。(この皇帝ひどいですね。度重なる反乱が彼をこんな残酷な人物にしてしまったのでしょうか?それだけ皇帝がこの少年王の復権を恐れていたのでしょう。)

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上がこの時王位を奪われ、失明させられた哀れな少年王グリエルモ3世です。(1185~1198?)彼の死によって、フランス北部の傭兵から身を起こし、その知略と勇猛果敢さで南イタリアを征服し、ナポリ・シチリア王国を建国したノルマン人王朝オートヴィル家は、5代わずか60年余りで断絶してしまいます。

皇帝のこの卑劣なやり方に、当然シチリア人たちは怒りを爆発させます。彼らは皇帝に対して再度の反乱を企てますが、シチリアの有力者たちは皇帝によってほとんど抹殺されており、すぐに行動を起こす事は困難でした。そこで彼ら反乱グループは地下に潜伏してその機会を窺います。戦に破れ、祖国を帝国軍に占領されたとはいえ、彼らは決して諦めませんでした。なぜなら彼らには「強力な味方」が背後から支援していたからです。

その「強力な味方」とは神聖ローマ皇帝の仇敵とも言うべき「ローマ教皇」でした。教皇にとって、南のシチリアが皇帝のものになれば、ローマを中心にイタリア半島中央部に位置する教皇国は南北から挟み撃ちにあって身動きが取れなくなるからです。しかし状況は今のところ皇帝ハインリッヒ6世に有利に動いていました。権謀術数に長けた教皇庁は反乱の火の粉を温存しつつ、静かに時を待ちます。

そんな事が影で進行していた事を知ってか知らずか、念願のシチリア王位を手にした皇帝ハインリッヒ6世はわが世の春を謳歌していました。さらに彼の幸運は続きます。シチリア王として戴冠した翌日、後継者となる待望の王子が生まれたのです。これが後に次期皇帝となるフリードリッヒ2世です。

ドイツ本国を抑え、南のイタリアを支配した彼の次の目的は、亡き父バルバロッサが果たせなかった異教徒からの聖地奪回、すなわち十字軍です。その前に彼は父のやり方に倣い、生まれたばかりの王子フリードリッヒをドイツ王にするため、諸侯と教会の承諾を得るための帝国議会に出席するためシチリアを離れ、1195年にドイツ本国に帰国します。

「皇帝不在」シチリアの反乱勢力とそれを陰で操るローマ教皇庁が待っていたのはまさにこの時でした。彼らはハインリッヒ6世の留守の隙にシチリア全土で一斉に反乱の火の手を上げ、留守部隊の皇帝軍に襲い掛かります。この情報は直ちにドイツ本国の皇帝の下にもたらされ、急遽シチリアに戻った皇帝によって、反乱は再び鎮圧されます。

すでに先に述べたグリエルモ3世の例にもある様に子供にも容赦しない冷酷さを発揮し、反乱に対しては徹底的な弾圧で応じる事を信条にしていたハインリッヒ6世は、今回も捕らえた反乱者たちを苛烈極まる方法で次々に処刑していきましたが、彼のこのやり方はシュタウフェン家に対するシチリア人たちの憎しみを増幅させるだけでした。

そしてその報いは、やがて皇帝ハインリッヒ6世の下に戻ってくる事になります。1197年9月、彼は反乱鎮圧の作戦中マラリアに感染し、高熱にうなされた挙句32歳の若さで急死してしまったからです。彼の皇帝在位はわずか7年余りでした。

彼の死によって帝位はわずか3歳のフリードリッヒ2世に移りますが、シュタウフェン王朝はあまりにも脆弱でした。やがてまだ何も分からぬこの幼帝を巡って、ローマ教皇と帝国本土のドイツ諸侯が(自身の利益のために)駆け引きを繰り広げていく事になります。

次回に続きます。

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