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ナポレオンの失脚 ・ 外相メッテルニッヒとウィーン会議

みなさんこんにちは。

今回から新たなテーマとして、 「ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国」 と題して神聖ローマ帝国滅亡後のハプスブルク家の辿った歴史についてお話したいと思いますので、ご興味のある方は暇つぶしにお立ち寄りください。

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このハプスブルク家とハプスブルク帝国について詳しくお知りになりたい方は上の3冊をお薦めします。ヨーロッパ最大の名門王朝である当家について知るには、とても1冊程度では全貌を把握出来ません。ハプスブルク家研究の権威江村洋先生の文庫を読みつつ図説で照らし合わせると理解が早いでしょう。3冊目は自分が個人的にお薦めするのですが、始祖ルドルフ1世に始まるほぼ全てのハプスブルク家の人々の肖像画や写真がフルカラーで掲載されており、資料としてとても優れた貴重な本です。

時は19世紀初頭の1812年、フランス革命後の大混乱の最中に彗星のごとく現れ、数々の戦いに勝利してフランス皇帝に即位したナポレオンは、その権力の絶頂期を迎えていました。 今や彼のフランス帝国はヨーロッパの西半分をその領土とし、さらにヨーロッパ中央部に800年以上の長きに亘って存在したドイツ神聖ローマ帝国を崩壊せしめ、その皇帝家として君臨していたハプスブルク家のオーストリアを破り、さらに強力な新興軍事国家であったプロイセンをもその支配下に置いて、ナポレオンの勢力範囲ははるか東のロシアと国境を接するまでになっていました。

しかしそのナポレオンにとって今だに大きな脅威が海の向こうにありました。 それは彼の、いやフランスにとって永遠の宿敵イギリスの存在です。 ナポレオンはまだ誰も成功した事の無いこの「イギリスの征服」を自分の手で完成させることを望み、その第一段階として全ヨーロッパに「大陸封鎖令」を出し、イギリスを海上封鎖する作戦に出ました。

しかし、東の大国ロシアがこの命令を拒否してイギリスとの貿易を続行したため、激怒したナポレオンはロシア遠征を決意、1812年6月総勢70万という史上空前の大軍を持ってロシアに侵攻しました。

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上がナポレオンのロシア遠征の様子を描いた図です。 この時の遠征軍の兵力はフランス軍45万、その他ナポレオンが従えた国々の兵25万からなり、迎え撃つロシア軍は総勢90万という歴史上最大のものでしたが、結果はロシア軍の焦土作戦とロシアの猛烈な寒さによってフランス軍は大敗を喫し、参加兵力70万のうち、無事に本国に退却出来たのはわずか2万2千という見るも無残な大失敗に終わりました。

このロシア遠征の失敗はナポレオンの運命を決定付けます。 彼の敗北を知ってそれまで力ずくでナポレオンに従わされていた国々が一斉に反旗を翻し、同盟してフランスに攻撃を仕掛けてきたからです。これら同盟軍の兵力は総勢50万を越え、ロシア遠征によって多くの兵力を失っていたナポレオンの兵力は10万に満たず、1814年3月には首都パリが陥落してナポレオンは退位を余儀なくされます。

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上がこの時のナポレオンの姿を描いた肖像です。 この絵を見てしまうと失礼ながら大きく幻滅せざるを得ないですね。 彼はこの時45歳でしたが、すっかり太って頭も禿げ出し、表情も度重なる敗北と味方の裏切りによって、下に載せた若い頃の肖像の様なスマートで勇ましい精悍さが失われています。

同年4月、ナポレオンは退位してエルバ島に追放され、ついに彼に勝利したヨーロッパ各国はナポレオン失脚後のヨーロッパを巡ってウィーンで国際会議を開きました。 この時のオーストリアの君主はフランツ1世という人物で、ナポレオンのマネをして 「オーストリア皇帝」 に即位し、それまで就いていた神聖ローマ皇帝を自ら退位してさらに帝国を解散させた張本人でしたが、彼はこの時外交の全権を信頼する外相メッテルニッヒに任せていました。

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上が当時のオーストリア帝国皇帝フランツ1世です。(1768~1835)良く見ると、皇帝の被っている帝冠が明らかに大きすぎてアンバランスですね。 画家が構図と縮尺を無視してわざと強調したのでしょうか?(笑)

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そして上が時のオーストリア帝国外相クレメンス・フォン・メッテルニッヒ侯爵です。(1773~1859)彼は皇帝時代のナポレオンとフランツ1世の皇女マリー・ルイーズを結婚させ、オーストリアとフランスの共存と均衡を図る事に成功し、ナポレオン失脚後はヨーロッパの国際秩序の構築のため、皇帝フランツ1世の信任を得てウィーン会議を主催しました。

このウィーン会議は1814年9月に開催され、主催国オーストリアをはじめ、イギリス、フランス、ロシア、プロイセン、スウェーデン、スペイン、オランダなど、当時のヨーロッパ主要国のほとんどの全権代表が集まりましたが、各国はてんでにそれぞれの利害を主張するばかりで中々話はまとまらず、半年たっても結論が出ませんでした。 その間各国の代表使節団はウィーンで連日舞踏会やパーティに明け暮れ、主催国であるオーストリア(というより皇帝フランツ1世)がその費用の全てを負担していたそうです。

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上がウィーン会議の様子を描いた絵です。 話し合いが決着しないため、次第に彼らは連日の豪華なパーティや舞踏会にうつつを抜かすようになってしまいます。後にこの会議を表して有名な

「会議は踊る、されど進まず。」


と言われる所以です。そしてそれら各国の代表団の接待費用は全てオーストリア皇帝フランツ1世の言わば 「ツケ」 になっていました。これは主催国であり、帝国皇帝としてのメンツからやむを得ない事だったのでしょうが、ナポレオンとの長い戦争による莫大な戦費にあえいでいたフランツ帝にすればたまらないでしょうね。 各国の代表らはみな高い位の貴族たちがほとんどで、随行の者も含めて数千人からなる彼らのウィーン滞在中の宿泊から飲み食いの費用まで全部なのですから。もちろん皇帝のメンツにかけて粗末な物は出せませんから、全て一流の豪華な物を用意して皇帝とハプスブルク家の権威を各国に見せ付けなければなりません。おかげでこの会議の期間中ウィーンは皇帝からのたくさんの注文で好景気に沸いたそうですが、こんな事にいつまで金を使わせるのかと業を煮やしたフランツ帝がメッテルニッヒに会議の決着を催促し、メッテルニッヒが冷や汗をかきながら皇帝をなだめている姿が目に浮ぶ様です。(笑)

そんな事をして時間とお金を浪費するうちに、ナポレオンが旧家臣の手引きで追放先のエルバ島を脱出し、再び復権したとの報が入り、状況は一変します。すっかりだらけていた各国はこの事態に対応するために急遽妥協を図り、これを好機と見たメッテルニッヒは、ナポレオンによって奪われた北イタリアやヴェネツイアなど、かつてのオーストリアの領土の大部分を取り戻し、さらに新たな領土を獲得する事に成功します。(これでフランツ帝もさぞ上機嫌になった事でしょう。 接待にお金をつぎ込んだ甲斐がありましたね。 笑)さらに彼は、オーストリアやプロイセンをはじめ、旧神聖ローマ帝国を構成していた35のドイツ諸侯国と4つの帝国自由都市をもって、オーストリア皇帝をその盟主とする新たな国家連合として「ドイツ連邦」を成立させました。

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上がこの時発足した「ドイツ連邦」の領域図です。(黄色がオーストリア、 青がプロイセン、灰色がその他の君主国、そして赤線が旧神聖ローマ帝国です。)これは事実上かつての神聖ローマ帝国を名前を変えて復活させた様なものですが、ここで2つの疑問が浮びます。 一つはなぜメッテルニッヒはこんなものを創ったのでしょうか。 その答えは今も歴史家の間で意見が分かれる様ですが、恐らく彼は各国の勢力均衡のため、ヨーロッパ中央部に大きな軍事的緩衝地帯を置いておきたかったのでしょう。

また、もう一つの疑問としてなぜこの時点でドイツに統一国家が成立しなかったのでしょうか? それはやはり800年以上続いた神聖ローマ帝国という極めて特殊な国家の影響が大きいでしょう。 帝国の2大勢力であるオーストリアとプロイセンを除くその他の君主国はそれぞれ自主自存の意志を持った独立国であり、まだこの時点では同じドイツ民族として、互いの境界を無くして一つになるという考えに至っていなかったのがその原因と思われます。

さて、話がずれましたが、その後のヨーロッパの歴史はまたも変転します。1815年6月、復権したナポレオンは彼に不変の忠誠を誓う精鋭7万の軍勢をもって、彼にとって最後の戦いとなる有名な「ワーテルローの戦い」に臨みましたが、イギリス・プロイセン連合軍12万に敗れ、たった3ヶ月で再び退位してイギリス軍に降伏し、大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されてしまいます。 このあたりは、歴史好きの方であれば良く知られた話ですね。そして6年後の1821年5月、一代で皇帝にまで上り詰めた「英雄」ナポレオンは52年の波乱に富んだ生涯を閉じました。

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上がナポレオンの死に顔を描いた肖像です。彼の死因については不審な点が多い事から、長らく何者かによる毒殺説が唱えられていますが、もはや真相など永久に分からないでしょうね。 それにしてもこの地で彼はどんな思いでその晩年を過ごしたのでしょうか。

次回に続きます。
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宰相メッテルニッヒの誤算 ・ 三月革命とウィーン体制崩壊

みなさんこんにちは。

1815年、皇帝ナポレオン1世が「ワーテルローの戦い」に敗れて退位すると、イギリス、オーストリアをはじめとするヨーロッパ各国は、そもそもの混乱の元凶であったフランスに再び革命を起こさせない様にするため、フランスを元の王政国家に戻す事を画策し、フランス革命により処刑された旧ブルボン王朝最後の王ルイ16世の弟で、プロヴァンス伯爵であったルイ・スタニスラスをルイ18世として即位させました。 いわゆる「復古ブルボン朝」です。

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上が復古ブルボン朝のフランス王ルイ18世です。(1755~1824)彼はフランス革命勃発時にからくも難を逃れてイギリスで亡命生活を送り、ナポレオン失脚後は処刑された兄ルイ16世の次男で幼い王子17世がわずか10歳で哀れな最後(この少年の亡くなり方はあまりにひどくてかわいそうでとても自分には語れません。涙)を遂げた事から18世として即位しました。

このルイ18世は兄16世の失敗を教訓に、国王の国家予算の浪費を防ぐため、世界初の会計制度を取り入れ、また王権を法の下に制限する立憲君主制を構築するなどの一定の改革に貢献しましたが、1820年に親しかった甥のベリー公シャルルが市民らに暗殺されると人が変わった様にそれまでの方針を転換し、自ら親政を開始します。

「賤民どもが、よくもわが兄や甥たちを無残に殺してくれたな。 どうするか見ておれ!」

彼の中に、それまで抑えに抑えていた感情、市民たちが引き起こした革命によって兄や甥を殺された肉親の情が激しく燃え上がります。 彼は穏健だった政策を絶対王政に戻してしまい、反対者を徹底弾圧して行きます。 それはあたかも彼の個人的な復讐の様でした。


ルイ18世の政策は1824年の彼の死後、王位を継いだ弟のシャルル10世に受け継がれますが、弟シャルル王は兄以上に絶対王政の復活を強化したために市民の反発を買ってしまい、やがて1830年に再び革命(七月革命)を引き起こされ、ブルボン王朝の復活は潰え去ることになります。

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上が復古ブルボン朝2代国王シャルル10世です。(1757~1836)彼の政策は革命で財産を没収されたフランス貴族たちにそれを返し、旧ブルボン王朝の栄光を取り戻そうとするもので、国民の考えと相容れないものでした。(まさに本当の意味で「復古ブルボン朝」ですね。) 結局再び起こった革命によって彼は退位を余儀なくされ、復古ブルボン朝は2代わずか15年で消滅してしまいました。

さて、その頃ハプスブルク家のオーストリア帝国はどうしていたのでしょうか?

この時代、オーストリア帝国の主はフランツ1世という皇帝でしたが、青年期から激動するヨーロッパ情勢の過渡期に翻弄され、必死に帝国とハプスブルク家の栄光を守り抜き、すでに老齢に達していた彼はこの頃国政を信頼する重臣たちに任せていました。 そしてその重臣の中で最もフランツ帝の信任が厚かったのが、外務大臣として帝国の外交を担い、ナポレオンとの戦いを最終的に勝利に導いたクレメンス・フォン・メッテルニッヒ侯爵です。

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上がそのメッテルニッヒ侯爵です。(1773~1859)

メッテルニヒ

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このメッテルニッヒについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。 ページ数は400ページ余りの割りに少し値段が高いですが、メッテルニッヒと彼が生きた時代について書かれた日本で最も詳細な本と思われます。

彼は外務大臣としてしたたかに国際情勢を計算し、時には謀略も辞さない冷徹な戦略家でもありました。 彼の活躍によってオーストリアはナポレオンに奪われた領土を取り戻し、傾きかけていた帝国は再び中央ヨーロッパに息を吹き返したのです。 フランツ帝はメッテルニッヒの働きに大いに満足し、1821年に彼を帝国宰相に任命して国政の全権を委ねます。


主君であるフランツ帝から厚い信頼を得たメッテルニッヒは、ハプスブルク家とオーストリア帝国繁栄のためにますます忠勤に励みます。 宰相として国政の実権を握った彼は、ナポレオン失脚後に自らが主催したウィーン会議でヨーロッパ各国と取り決めた、いわゆる「ウィーン体制」の下での国際関係の維持に心血を注ぎます。

このウィーン体制は、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアなどの主要国が国際的に協力し合い、勢力を均衡させる事で無秩序な革命を阻止し、正等君主制をもって平和と安定を維持していこうという建前でしたが、その裏で各国が諜報戦を展開してしのぎを削る「闇の戦い」が繰り広げられており、そしてヨーロッパ大陸にあってその中心にあったのがメッテルニッヒでした。

彼はウィーン体制で自らが創り上げた「ドイツ連邦」内において、学生たちによる自由主義を求める運動が盛んになると、これを「帝国への反逆」として苛烈な弾圧を加えていきます。 まず当時の知識人の養成を担う大学を厳重な監督下に置いて学生たちの行動を監視、また書籍の出版も当局の検閲無くしては一切出来ないよう義務付けます。

メッテルニッヒはこれらの「危険分子」の排除の永続化を目的として、彼の下に直属の「秘密警察」を創設して、彼の政策に反対する者たちを反帝国グループとして次々に逮捕、投獄していきました。 これが後に市民の反感を買い、彼の失敗の元になるのですが、彼のこうしたやり方は、後のナチスのゲシュタポや、旧ソ連のKGB、さらに戦前のわが国の特別高等警察(特高)、そして現代においてもまだいくつか存在する「独裁国家」の支配のあり方の元祖となり、またそうでない普通の民主国家においても、治安の維持と犯罪を取り締まる通常の警察とは別に、大抵の場合多かれ少なかれ体制に反対する団体や組織を監視、摘発する事実上の秘密警察が置かれています。

例えばわが日本においても、犯罪を取り締まる普通の警察(街中で見かける交番やパトカーのお巡りさん)とは別に「公安警察」というものがあります。これは戦前の特高を戦後名を変えて復活させたもので、極左、極右は言うに及ばず、なんとクーデター防止のために自衛隊まで監視しているそうです。 よく右翼団体の街宣車の後ろにぴたりと張り付く、スーツ姿の屈強な男たちが乗り込んだ明らかな公安の専用車を見かけます。またこれから話す事は私たち国民にほとんど知られていない事ですが、彼らは秘密捜査のため、全国の様々な職場などに潜入して諜報活動をしているそうです。(まるでテレビドラマの様な話ですが、「事実」なのです。)もしかしたら今これをご覧になっているみなさんの職場にも、そんな秘密任務の公安警察官が密かに潜入しているかも知れませんよ。それはみなさんの良く知る同僚など、身近の意外な人物かも知れません。(笑)

さて話を戻しますが、メッテルニッヒは周辺国と再び戦火を交える事態に立ち至った際、オーストリア帝国に極力戦禍が及ばないようにするため、その気になればいつでもわけなく併合できる様な小国を国境線上にいくつも置いています。これはその向こう側の敵国との戦闘の際、それらの小国を戦場にする事で帝国に被害が及ばない様にするためで、いわば「犠牲」にするためです。 その彼の方針を如実に表した言葉で、彼自身がこんな事を言っています。

「イタリアは地理的概念に過ぎない。」

つまり、イタリアなどという国は歴史上一度も存在せず、単に地域を表すものだというものです。 イタリアといえば現代の私たちには「長ぐつみたいな形の国」というイメージがありますね。(スパゲティやピザのイメージも強烈ですが。笑) しかし今のイタリアという国が統一国家として成立したのはこの時代より40年も後の1860年代になってからで、この頃までのイタリア半島は古代ローマ帝国滅亡以来、複数の小国に分かれていました。


メッテルニッヒはオーストリアの軍事的防波堤としてイタリア地域を想定し、その向こう側の仮想敵国フランスに備えていたのです。 そのためには断じてイタリア半島に統一国家などを成立させてはならず、いつまでも分裂させておく必要があります。 彼はイタリア半島の人たちにも芽生えつつあった「自分たちの国を造る」という考えの芽を摘み取るため、先の様な事を言ったのです。

しかし、フランス革命がヨーロッパの人々に及ぼした影響は彼の想像をはるかに超えていました。フランス革命の精神、すなわち人は生まれながら誰もが平等であり、その権利は何者も犯す事の出来ない神聖なものであるという考えは、それまで人は生まれながらに身分が決められ、その身分で一生を生きるのが当たり前と思われていた当時の人々に、王侯貴族の支配する古い国のあり方から、名も無い自分たち人民による新しい国のあり方を創り上げていくのだという熱い思いを醸成していったのです。これはメッテルニッヒの大きな誤算でした。

そうした人々の熱い思いは、いくらメッテルニッヒが帝国の内外に目を光らせても一掃する事は出来ませんでした。 そして1848年3月、ついに運命の時を迎える事になります。人々はついに各地で立ち上がり、メッテルニッヒ政権打倒の火の手が上がります。「三月革命」の勃発です。

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上が三月革命の様子です。この革命は上の絵でお分かりの様に最初はフランスで起こり、その後ドイツ、オーストリアなど各地に伝播していきました。この時、メッテルニッヒの後ろ盾であった皇帝フランツ1世はすでにこの世になく、帝位はその長男フェルディナンド1世が継承していました。

皇帝フェルディナンド1世はこの一連の革命騒ぎを抑えるため、メッテルニッヒを帝国宰相から解任します。 こうしてそれまで27年に亘りオーストリア帝国宰相として権力の頂点に君臨していたメッテルニッヒは失脚しますが、メッテルニッヒの恐怖政治に長く虐げられていた市民の怒りは収まらず、皇帝はじめ宮廷と主だった貴族たちはインスブルックの王宮に避難し、居場所を無くしていたメッテルニッヒは同盟国イギリスに亡命。 彼が築いたウィーン体制は完全に崩壊してしまったのです。

しかし、この三月革命ははじめは勢いが強かったのですが、時を経るうちに次第に人々の熱意は下がってしまいます。やがて帝国軍は帝都ウィーンをはじめ各地の反乱を鎮圧。オーストリアの議会では旧体制派が議席を奪回し、皇帝と貴族たちもウィーンに戻り、革命を招いた元凶のメッテルニッヒさえ3年後の1851年に亡命先のイギリスから帰国を許されています。つまり、フランス革命の様なドラマティックなものではなく、中途半端な大騒動で終わってしまったのです。

オーストリア帝国史上初の革命がこの様な結末を迎えた原因はいくつかありますが、最も大きな理由として、革命の求心力となる強力な指導者がいなかった事がその原因ではないかと思われます。 名も無い大勢の市民が集まって力ずくで旧政権を倒した。そこまでは良いとして、彼らをまとめる有力な指導者がいないために、そこから市民たちは何をどうして良いやら分からず、結局は破壊と略奪に終始するのみになってしまったのです。

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上は晩年のメッテルニッヒの肖像です。彼はオーストリアに帰国後一切の公職から身を引き、ウィーンの自宅でひっそりと晩年を過ごし、1859年に86歳の長寿で亡くなりました。かつて有能な青年外交官としてヨーロッパ中を飛び回り、フランス革命という大事件に始まる巨大な歴史のうねりを乗り越え、ナポレオンという稀代の英雄をも向こうに回し、ついには帝国宰相としてオーストリアはおろか全ヨーロッパを動かした最高権力者の彼も、歴史というものに翻弄された脆弱な一人の人間に過ぎませんでした。

次回に続きます。

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運命の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 ・ 血塗られた若き絶対君主

みなさんこんにちは。

1848年のウィーン3月革命で、それまで最高権力者として絶大な権力を振るい、自由主義や帝国に反旗を翻すものを徹底的に弾圧してきたオーストリア帝国宰相メッテルニッヒは失脚してしまいました。 彼を宰相職から解任したのは時の皇帝フェルディナント1世という人物でしたが、それまで長い間メッテルニッヒの圧政に耐え忍んで来た市民らの怒りはそれだけでは到底収まらず、革命勢力の勢いに危険を感じた皇帝は、宮廷を一時的にチロルのインスブルックに避難させ、宮廷を支える大勢の貴族たちもそれに従い脱出します。


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上が時のオーストリア皇帝フェルディナント1世です。 (1793~1875) 彼はオーストリア帝国2代皇帝でしたが、生来病弱で国政をメッテルニッヒら重臣たちに任せきりにしていました。 彼が行った重要な事と言えば、そのメッテルニッヒを解任し、宮廷を避難させた事、さらにかつて「日の沈まない帝国」と呼ばれた世界帝国の主である偉大な先祖カール5世以来300年ぶりに、皇帝自ら「退位した」事くらいでしょう。(彼の父である先帝フランツ1世も 「神聖ローマ皇帝 」を退位していますが、彼はすぐに「オーストリア皇帝」に即位しているので、事実上このフェルディナントがカール5世以来の皇帝退位です。また彼は病弱なのにも関わらず意外に長命で、82歳の長寿を全うしています。本当に病弱だったのでしょうか? 笑)

しかしインスブルックに避難した後も市民らの怒りは治まらなかったため、皇帝は周囲の廷臣や貴族たちに半ば迫られる形で退位せざるを得なくなります。 理由としては、先に述べた様に彼が病弱であった事から子孫を儲ける事が出来ず、さらに政務の全てをメッテルニッヒなどの重臣に委ねる事になった事が今回の争乱を引き起こしたという批判と、父フランツ帝や宰相メッテルニッヒ同様、彼自身も厳格な保守主義者であり、改革や変化を嫌ってひたすら過去の帝国の姿を求め続けた事が考えられます。

「何も変えてはならぬ。 それこそが帝国とわがハプスブルク家の生きる道なのだ。」

先帝フランツ1世は死の間際、後継者フェルディナントにこういい残していました。 そしてお気に入りの宰相メッテルニッヒを信じ、彼に全てを任せておけば良いのだと。 父の言葉を息子は忠実に守りましたが、その結果がこの革命の勃発でした。 そしてそれにより、ハプスブルク家はそれまでの皇帝がせっかく醸成してきた「改革」と「進歩」に背を向け、「停滞」と「過去の栄光」にしがみ付く様になってしまったのです。

この3月革命自体は、その後帝国軍の名将ラデツキー将軍らの活躍で鎮圧され、オーストリアの混乱は終息に向かいますが、帝国はもっと若い新たな指導者を求めていました。

1848年12月、フェルディナント1世は正式に退位し、新しい皇帝として甥に当たるフランツ・ヨーゼフ1世が即位、オーストリア帝国は新たな時代を迎える事になります。 ここに運命の皇帝の誕生です。


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上が新皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916) 彼は伯父フェルディナント1世に子がいなかった事から、伯父帝の退位により若干18歳で即位しました。(彼の写真や肖像画はたくさんあり、後にいくつか載せていきますが、ほとんどが年を取った晩年の大きな髭を生やした姿ばかりです。 しかし若い頃は上の様にとても美男子だった様ですね。驚)

フランツ・ヨーゼフ: ハプスブルク「最後」の皇帝 (河出文庫)

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このフランツ・ヨーゼフ1世について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。 日本のハプスブルク研究の第一人者である江村洋教授の執筆されたものの一つで、フランツ・ヨーゼフ帝の生涯が、彼の死とともに滅びゆくオーストリア・ハンガリー帝国の歴史とあわせて語られていきます。 ページ数は450ページ余り、値段も手ごろで文章も堅苦しさを感じさせないとても読みやすい本です。

このフランツ・ヨーゼフ1世こそ、後のオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝となるべく生まれて来た存在といえるでしょう。 二重帝国は彼が創り出し、彼の人生とともに歩み、そして彼の死をもって潰え去るのですから。

さて、オーストリア本国における3月革命は終息に向かっていましたが、それ以外の帝国の各地では今だ激しい革命の争乱が続いていました。 特に帝国内で古くから最大の勢力を持つハンガリーと、統一国家成立への道を模索し始めたイタリアで、帝国軍と革命勢力との激しい戦闘が続いており、新皇帝フランツ・ヨーゼフにとってこれらの速やかな鎮圧が最初の大仕事となります。

といっても、皇帝とはいえまだ18歳に過ぎない彼に、革命の鎮圧はもちろん国政の全てが出来ようはずもなく、帝国の舵取りはメッテルニッヒ失脚の後、新たに帝国宰相となったシュヴァルツェンベルクが担います。


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上が新宰相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵です。(1800~1852) 彼は経験豊かな政治家で国際政治にも長けた有能な外交官であり、軍人でもありました。 残念ながら在任期間わずか4年ほどで亡くなりますが、政治、軍事、外交に活躍し、まだ若年のフランツ・ヨーゼフを良く補佐して皇帝から「最高の大臣」と称えられました。

フランツ・ヨーゼフはまず、帝国内の最大勢力ハンガリーの革命勢力を潰す事に決し、シュヴァルツェンベルクにそれを命じますが、当時オーストリア帝国軍は各地に飛び火していた革命勢力の鎮圧のためにその多くが出払っており、ハンガリーの革命勢力を叩くには帝国軍の兵力がとても足りない状況でした。

そこでシュヴァルツェンベルクは、先代宰相メッテルニッヒ並みのしたたかさで一計を案じます。 それは隣国ロシアに援軍を求め、その軍勢をもってハンガリーの革命勢力を挟み撃ちにするというものです。 しかし彼は何を餌にしてロシアを動かしたのでしょうか? それは簡単です。 それは「餌」というよりいわゆる警告で、

「このままハンガリーの革命を野放しにすれば、いずれ貴国にもそれが及びますぞ。 その前に力を合わせて葬ってしまいましょう。」

シュヴァルツェンベルクはフランツ・ヨーゼフの了解を得て、当時のロシア皇帝ニコライ1世に上の様にしたためた手紙を送り、事態を憂慮したニコライ1世からハンガリーへの出兵の約束を取り付ける事に成功します。


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上は当時のロシア皇帝ニコライ1世です。(1796~1855) 彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝11代皇帝で、当時のハプスブルク家同様「変化」を嫌う厳格な保守主義者でした。宰相シュヴァルツェンベルクはそんな彼の性格を上手く利用したのです。(ちなみにこのニコライ1世は、あの「白衣の天使」で有名なナイチンゲールが活躍したクリミア戦争の時のロシア皇帝です。)

こうしてオーストリア帝国軍は若き新皇帝フランツ・ヨーゼフの名の下、ハンガリー革命勢力壊滅作戦を開始します。 彼らのたくらみは見事に成功し、東からは約束通りロシアの大軍がハンガリーに侵攻、勝ち目の無くなった革命勢力のメンバーは次々に討ち取られてしまいます。 こうしてハンガリーの争乱も終息に向かうのですが、実はここでフランツ・ヨーゼフは、その高貴な人生の初めに生涯の禍根ともなる大きな過ちを犯してしまったのです。

それは彼の軍勢がハンガリーにおいてあまりに徹底した弾圧を加えたために、戦闘での死者も含めて大勢の市民が巻き添えとなってその犠牲となってしまったからです。 そして元来独立心の強いハンガリー人の独立への夢を潰し、たくさんのハンガリー人の命を奪ったとして、以後彼は「血塗られた悪の皇帝」というレッテルを貼られ、その名はハンガリー人たちの心に憎悪の対象として深く刻み込まれてしまう結果となってしまいました。

そしてこの事が、後のオーストリア・ハンガリー帝国成立のきっかけになるのですが、多民族で構成されるオーストリア帝国の中で、皇帝フランツ・ヨーゼフは帝国の維持と、ハンガリー人の自分に対する悪いイメージを払拭するために、ハンガリーに対して他の民族よりはるかに優遇した特権を与え続ける事になります。 しかし、いくらそうして過去の過ちを相殺しようとしても、一度してしまった事は取り返しがつかず、ハンガリー人の皇帝への悪感情が消える事はありませんでした。(それは現在でも変わらず、今でもハンガリーの人々は、後にお話しする彼の皇妃エリザベートは大変慕っていますが、その夫である皇帝フランツ・ヨーゼフは嫌っています。)

その後もフランツ・ヨーゼフは、帝国の内外でくすぶる内乱鎮圧に奔走しますが、この時のハンガリーでの失敗が、その後の彼の人生とハプスブルク家に重くのしかかっていく事になります。

次回に続きます。

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イタリア統一と普墺戦争 ・ ビスマルクの罠

みなさんこんにちは。

1848年の3月革命と、それによるウィーン体制の崩壊によって、若干18歳の若さで新たにオーストリア皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、その最初の大仕事として帝国内外での激しい戦いを一刻も早く鎮圧させる必要に迫られていましたが、残念ながら彼はその86年に及ぶ長い生涯において、およそ戦争をして勝つ事は出来ませんでした。


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上がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)30代の頃のものと思われます。すごいヒゲですね。(笑)

彼はまずハンガリーなど、帝国本土の内乱を終息させる事には成功したものの、その後3月革命が飛び火したイタリア方面における戦争(イタリア統一戦争)に敗れ、北イタリアの帝国領土を失ってしまいます。


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上が当時のイタリア方面の地図です。いくつかの小国に分かれていますが、このイタリア統一戦争はこれらを一つにまとめ、この地域に「イタリア」という新国家を建設しようと試みたもので、最終的にフランスの支援を受けたヴィットリオ・エマヌエレ2世率いるサヴォイア王家のサルデーニャ王国がイタリア全土を統一し、1861年に「イタリア王国」が成立します。(上の図の年号はサルデーニャ王国が征服、併合した年です。)

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上がイタリアを統一し、初代イタリア国王となったヴィットリオ・エマヌエレ2世です。(1820~1878)彼はフランスとオーストリアという大国に挟まれた北イタリアの小国サルデーニャの国王に過ぎませんでしたが、両国の不仲と混乱を巧みに利用し、ついに念願のイタリア統一を成し遂げました。(まさに「世渡り上手」ですね。)

当時この北イタリアにはオーストリアの領土であるロンバルディア・ヴェネトがありましたが、イタリア統一を狙うエマヌエレ2世と、それを裏で支援し、オーストリアをイタリアから追い出したいフランスのナポレオン3世の利害が一致し、彼らは協力してこの地に軍を進めてきたのです。

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上がそのナポレオン3世です。(1808~1873)彼はみなさんもご存知の英雄ナポレオン1世の甥に当たる人物で、最初は共和制における一政治家に過ぎませんでしたが、やがてフランス議会で台頭し、ついに偉大な伯父1世を受け継いで「フランス皇帝ナポレオン3世」として即位しました。(いわゆる「第二帝政」というものです。ちなみに彼が「3世」を名乗っているのは、その前に伯父ナポレオン1世と当時のオーストリア皇帝フランツ1世の皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた実の子で、彼にとっては従兄弟である「ナポレオン2世」がいたからですが、その彼は父ナポレオン1世退位の後、「ライヒシュタット公」としてオーストリア・ハプスブルク家に預けられ、1832年に21歳の若さで亡くなっています。)

これに対し、フランツ・ヨーゼフはこれを阻止せんと自らオーストリア軍を率いて北イタリアに出陣し、フランス・サルデーニャ連合軍を迎え撃ちます。「ソルフェリーノの戦い」の始まりです。


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上が1859年6月に、フランス・サルデーニャとオーストリアが北イタリアの支配権を巡って激突した「ソルフェリーノの戦い」の様子です。両軍の兵力は皇帝フランツ・ヨーゼフ自ら率いるオーストリア軍10万に対し、これもフランス皇帝ナポレオン3世と、サルデーニャ王エマヌエレ2世が直接陣頭指揮に当たる連合軍12万で、ほぼその戦力は互角でしたが、戦闘の結果はオーストリア軍の敗北に終わりました。これによりフランツ・ヨーゼフはナポレオン3世との講和条約で、ヴェネツイア以外の北イタリア地域のフランスへの割譲を余儀なくされます。

一方北ドイツでは新たな脅威がオーストリアに迫りつつありました。1862年にプロイセン王国首相に就任したビスマルクが大胆な軍制改革を行い、ドイツ統一のための対外政策を開始したからです。


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上が当時のプロイセン王国首相オットー・フォン・ビスマルク侯爵です。(1815~1898)彼については「鉄血宰相」として有名ですね。後に成立するドイツ帝国宰相となり、伊藤博文をはじめとするわが明治政府に多大な影響を与えた人物である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。

ビスマルクにとって、プロイセンを盟主とするドイツ帝国を成立させるにはオーストリアとフランスの存在が邪魔でした。そこでまず彼は手始めにオーストリアから片付ける事にします。それはオーストリアがメッテルニッヒの時代に成立させたドイツ連邦からのプロイセンの脱退を通告する事でした。

ドイツ連邦はオーストリア帝国をその盟主とする国家連合でした。つまりオーストリア皇帝であるフランツ・ヨーゼフがプロイセンを含む全ドイツの主であるのです。しかし連邦で最大の王国プロイセンが脱退すれば連邦は崩壊してしまい、フランツ・ヨーゼフの面目は丸つぶれです。彼はビスマルクの通告に怒り、プロイセンを懲らしめるために連邦内の他の同盟国に呼びかけてプロイセンへ宣戦を布告してしまいます。これが「普墺戦争」の始まりです。

しかし、これこそビスマルクの罠でした。彼はオーストリアと戦争をする大義名分が欲しかったのです。当時先に統一されたイタリアに触発され、ドイツ人たちの間でも統一国家の成立が強く望まれていたのですが、その範囲をどの程度にするか大きく2つの考えに分かれていました。一つは純粋なドイツ民族だけで構成する「小ドイツ主義」、そしてもう一つは他の民族を支配するオーストリアも含めた「大ドイツ主義」です。そしてビスマルクが考えていたのは前者の純粋なドイツ民族によるドイツ帝国の成立であり、そのためには多民族国家オーストリアをドイツから排除する必要がありました。

皇帝フランツ・ヨーゼフはプロイセン討伐のため、同盟国も含めてなんと60万もの兵力を集めました。これに対し、プロイセンもビスマルクの策略によって連邦内の構成国を味方に付け、50万の兵力でこれに対抗します。さらにビスマルクは統一の先輩イタリアも味方に引き入れる事に成功し、イタリア軍30万がこれに加わりました。

フランツ・ヨーゼフにとってこれは予想外の展開でした。大軍で圧倒してプロイセンの抗戦意志を削ぐのが目的だったのに、連邦内の同盟国はプロイセンへの寝返りが相次ぎ、さらに南のイタリアに備えて兵力を南北に分けなくてはならなくなったからです。1866年6月、両国はついに開戦し、各地で両陣営の戦闘が始まりましたが、最終的な決着はオーストリア軍とプロイセン軍との直接対決が鍵を握っていました。そしてそれは思いのほか早く到来します。同年7月3日、両軍はボヘミア北部ケーニッヒグレーツで対陣し、戦闘が開始されました。これが「ケーニッヒグレーツの戦い」です。


この戦いの両軍戦力はオーストリア軍20万に対し、プロイセン軍22万とほぼ互角でしたが、両軍の間には決定的な違いがありました。それは両軍兵士たちの持つ小銃です。実はこの時期、銃の歴史において画期的な新型銃が出現し、それがこの戦いの、いやこの戦争の決着を短期間で決めてしまったからです。

プロイセン軍は、優れた銃器設計者ドライゼが開発した世界初の「後込め式小銃」を全将兵に持たせていました。この銃は読んで字の如く、弾薬を銃口から入れるのではなく手元のボルトを操作して後ろから入れるもので、この銃の出現により射撃と弾薬の装填が飛躍的に早くなりました。


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上がプロイセン軍の新型小銃「ドライゼ」です。(この種類の銃を「ボルトアクション式小銃」と言います)それまでの小銃と言うのは先に述べた様に弾薬を銃口から入れる「先込め式」で、銃口の下に見える長い棒で弾薬を奥まで押し込まなければならず、射撃から装填まで1分ほどもかかるものでした。このドライゼ銃は、上の写真のボルトを後ろへ動かしてそこに弾薬を装填するタイプで、射撃と装填は5倍の速さで出来る様になりました。またこの銃はいわゆる現代の銃の原型であると同時に世界初のボルトアクション式小銃でもあります。

それに対し、オーストリア軍将兵は従来型の先込め式小銃であり、まさに兵器の質の点ですでに勝敗が決していたと言っても良いでしょう。プロイセン軍はオーストリア軍に比較にならない速さで集中射撃を浴びせ、大勝利を得ました。(この戦いで両軍の死傷者はプロイセン軍約9千に対し、オーストリア軍はその5倍に登る4万4千というものでした。)

この戦いの敗北で皇帝フランツ・ヨーゼフは帝都ウィーンを守るため、急遽プロイセンとの講和に臨まざるを得なくなってしまいました。普墺戦争はこうしてたった7週間で終わってしまったのです。結果はオーストリアの大敗に終わり、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は崩壊、事はビスマルクの思惑通り進み、翌1867年彼はプロイセンを盟主とし、その他の同盟国22カ国をもって「北ドイツ連邦」を成立させる事に成功しました。


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上が北ドイツ連邦の地図です。ザクセン、バイエルンなどを除くドイツ中部から北部のほとんどが参加しています。この戦争の敗北により、オーストリア帝国はドイツから完全に閉め出される事になってしまいました。

イタリア統一戦争と普墺戦争の相次ぐ敗北によって、フランツ・ヨーゼフのオーストリア帝国は大きくその力を削がれてしまいました。そして彼らはその存立のため、新たなアイデンティティを求めて行く様になります。

次回に続きます。

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オーストリア・ハンガリー帝国成立 ・ 皇帝の帝都大改造計画

みなさんこんにちは。

1859年のイタリア統一戦争で北イタリアを失い、さらに1866年のプロイセンとの戦争(普墺戦争)で、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの巧みな戦略によりわずか7週間で敗れた事は、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国に深刻なダメージを与えていました。なぜならそれによりこの帝国の最大の特徴であり、また弱点でもある民族問題が再び表面化してしまったからです。


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上が30代半ばのオーストリア帝国3代皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)

当時のオーストリア帝国は主な民族だけで10を数える多民族国家でした。その中で最大の民族は皇帝家ハプスブルク家を頂点とするドイツ人で、帝国の支配階級の筆頭を成していましたが、その数は帝国全人口約5千万の4分の1に満たないものでした。(下に当時のオーストリア帝国の人口構成を載せますので参考にして下さい。但し、1910年の数字なので、少し時代が後になってしまいますが・・・汗)

ドイツ人・・・・・・・・・・・・・1200万人 (23.9%)
ハンガリー人・・・・・・・・・・・1010万人 (20.2%)
チェコ人・スロバキア人・・・・・・ 850万人 (16.4%)  
クロアチア人・セルビア人・・・・・ 520万人 (10.3%)
ポーランド人・・・・・・・・・・・ 500万人 (10.0%)
ウクライナ人・・・・・・・・・・・ 400万人 ( 7.9%)
ルーマニア人・・・・・・・・・・・ 320万人 ( 6.4%)
スロベニア人・・・・・・・・・・・ 130万人 ( 2.6%)
イタリア人・・・・・・・・・・・・ 100万人 ( 2.0%)
合計・・・・・・・・・・・・・・・5030万人 (99.7%)


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上の地図は帝国内の各民族の居住地域を表したものです。赤がドイツ人、緑がハンガリー人、青がチェコ人などとなっています。

このオーストリア帝国は上に載せた多くの民族と、様々な種類の領土で形成された複雑な集合国家でした。まず、ハプスブルク家の「世襲領」であるオーストリアとその周辺、さらにボヘミア、ハンガリー、ダルマチアなどの「王国」、さらに旧神聖ローマ帝国時代から続く「大公国」「公国」「辺境伯領」などがあり、皇帝フランツ・ヨーゼフは、オーストリア皇帝の他に、これらの王、大公、公、辺境伯などの称号も兼ねていたのです。

そして多民族国家オーストリア帝国を構成する各民族のうち、とりわけ民族独立運動が活発で、ドイツ人の次に多い民族が、上の数字をご覧いただければお分かりの様に1千万の人口を擁するハンガリー人でした。

ハンガリーといえば、かつてフランツ・ヨーゼフが皇帝に即位して早々に激しい独立運動を起こし、彼が行った徹底的な武力弾圧により一度は鎮圧されたものの、ハンガリー人たちの心に深く根付いた独立への思いは消えるどころかさらに強くなり、ついに1853年には、そうした一ハンガリー人の暴漢によって皇帝暗殺未遂事件が起こるほどになっていました。

皇帝フランツ・ヨーゼフは、そうした帝国の抱える情勢に鑑みて、1867年ついに一大決定をします。それはハンガリーに完全な内政自治権を与え、オーストリアと同権の君主国とするというものです。ハンガリー国王は皇帝フランツ・ヨーゼフが兼ねますが、両国は皇帝の下にそれぞれ独自の内閣と議会を持ち、外交、軍事、財政の三分野においてのみ両国の同数の議員で構成される代表によって協議し、それらを除く他の全てにおいては、ハンガリー人たちの自由意志で決める事を許すものでした。

こうして1867年、「オーストリア・ハンガリー帝国」が成立しました。いわゆる二重帝国です。


しかし、皇帝はなぜハンガリーに対してだけこの様な優遇した特権を与えたのでしょうか?それは下の地図をご覧になれば多少理解していただけると思われます。

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上の図の緑の部分が帝国領土におけるハンガリーの占める割合です。いかにハンガリーの存在が大きいかお分かりいただけると思います。北イタリアを失い、プロイセンに敗れてかつてハプスブルク家の「庭」であったドイツからも締め出され、かろうじて「主屋」のオーストリアだけになってしまった(といっても今だ広大な領土を持っていますが。)帝国の維持のためには、ドイツ人に次ぐ勢力のハンガリー人の協力無しでは立ち行かなくなっていたのです。

そこで皇帝はハンガリーとの「アウスグライヒ」(ドイツ語で「和解」とか「均衡」という意味だそうです。)を成立させる必要に迫られたのでした。

しかし、長年の悲願であった独立がほぼ達成され、大いにハンガリー人が喜んだその裏で、帝国内の他の民族は大きな不満を抱く様になってしまいます。中でも帝国内で第3位の勢力を擁するボヘミア人(チェコ・スロバキア人)は自分たちにもハンガリーと同等の権利を与えて欲しいと、「三重帝国」を皇帝に要求しました。(この要求は、さすがに「切りが無い。」事から皇帝が拒否した事に加え、帝国の支配階級に君臨するドイツ・ハンガリー人たちの妨害で実現しませんでした。)

ともあれ帝国の安定のため、最大の障害であったハンガリー問題を一応解決させたフランツ・ヨーゼフは、次の言葉を掲げて各民族の結束を促します。

「ウィリヴス・ウニティス」(一致団結して。)

それまでハプスブルク家の皇帝たちは、全ての民族の上に「支配者」として君臨するという考えに固執していました。つまり「神に選ばれた一族」であるハプスブルク家の下に、みんな「従え」というものでした。しかしフランツ・ヨーゼフはこうした古い独りよがりな思考を捨て、歴代皇帝として初めて、各民族同士で力を合わせ、帝国を運営して行こうと呼びかけたのです。

そして彼は、自らが創り出した新国家であるオーストリア・ハンガリー帝国の輝かしい未来のため、更なる大事業を計画し、実行に移します。それは帝国の都ウィーンの大改造です。


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上の画像は1枚目がまだ城壁に囲まれていた頃のウィーン中心部を上から見た図で、2枚目はその模型です。当時帝都ウィーンは、上の様に中世以来、オスマン・トルコをはじめとする異教徒からの防波堤として築かれた堅牢な城壁で囲まれた城塞都市でした。しかし大砲の出現によって城壁というものの存在価値がほぼ無くなり、(大砲の進歩により射程距離が伸びたため、砲弾が城壁を飛び越えて市内に着弾してしまいますからね。)また人口の増加によってウィーンはひどい住宅難と交通渋滞に見舞われ、これらが経済の活性化を大きく阻害していました。(市内の中心部に入るには限られた数の狭い城門をくぐらなくてはならず、城門の出入り口でたくさんの馬車が大渋滞になっている所を想像してください。)

そこでフランツ・ヨーゼフは、もはや無用の長物であるこれらの城壁を全て撤去し、その跡地に渋滞にならない大きくて広い環状道路と様々な建物を建設し、ウィーンを新たな帝国にふさわしい帝都に造り変える事を決意したのです。工事はまずウィーン市内を取り囲む城壁の撤去と周囲の堀の埋め立てから開始され、すでにイタリア統一戦争の前年の1857年から始められていましたが、城壁が非常に堅牢だったので、これの撤去にはかなりの時間がかかってしまった様です。


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上の画像の1枚目が城壁の撤去の様子です。そして苦労して撤去された跡地には、2枚目と3枚目の画像の様に市内をぐるりと一周する広くて大きな環状道路(リングシュトラーゼ)が造られ、そのリング通りに面して、巨大な建築物が次々と建設されていきました。(ちなみに2枚目の建物は1869年完成のウィーン国立歌劇場で、音楽の都ウィーンに無くてはならないものですね。3枚目は1883年完成の帝国議会議事堂で、現在も国会議事堂として使われています。)

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上の3枚も同様にリング通りに面して建設された建物です。1枚目が高名な自然科学マニアであったフランツ・ヨーゼフの曾祖母マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの収集した膨大なコレクションを収蔵した自然史博物館で、1889年に完成しました。また2枚目は1891年に、同じ敷地に相対して建設された美術史美術館で、これもハプスブルク家が数百年に亘って収集した膨大な絵画、彫刻などの芸術作品が収蔵されています。(この2つの建物はなぜかほとんど同じデザインで建てられています。設計者が同じ人だったんでしょうか?それとも費用の節約のためでしょうか?)
3枚目は1883年完成のウィーン市役所です。これ以外にも数多くの公共建築物や貴族、富裕層などの邸宅が建てられ、ウィーンはこれらの公共事業のために全般的に好景気だったそうです。

皇帝フランツ・ヨーゼフのこうした一連の大事業により、それまで中世さながらのいかめしい城塞都市だったウイーンは、全く新しい近代的で開放感のある都に変貌しました。そしてウィーンには数多くの文化人、知識人たちが集まり、彼らによって文化の薫り高いウィーンの世紀末が形成されていく事になります。そしてそのための大きな「器」というか、方向性の道筋を造ったのは、なんといっても皇帝フランツ・ヨーゼフ1世その人であったのです。

次回に続きます。

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ハプスブルク家の黄昏 ・ 次々に逝く皇帝家の人々

みなさんこんにちは。

オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、帝国に再び栄光と繁栄をもたらすために帝都ウィーンの城壁を取り払い、「新しい夢の都」の建設に情熱を注いでいた19世紀後半は、同時にハプスブルク家にとって度重なる不幸が相次ぐ暗い時代でもありました。

なぜならこの時代、皇帝家の重要人物が暗殺、自殺、銃殺など、およそこの世で最も高貴な家柄の人々にあるまじき形で次々と不慮の死を遂げ、かつて多産で代々親子兄弟みな仲の良いにぎやかな一族であった当家に、あり余る富と権威を背景とした見かけの豪華絢爛さの裏で、不和と寂しさ、そして帝国の将来への大きな不安という得体の知れない不気味なものが、重くのしかかっていく様になっていったからです。

今回はその辺りのお話です。

帝国皇帝フランツ・ヨーゼフは、多くの民族を束ねる帝国を運営する自らを支えてくれる皇妃を求めていました。そんな彼が23歳の時に出合ったのが7歳年下のバイエルン王女、エリザベートでした。


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上が若き日の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)と、皇妃エリザベートです。(1837~1898)もともと彼は、母ゾフィー大公妃の強い薦めでオーストリアの隣国バイエルン王国の王家ヴィッテルスバッハ家との政略結婚のため、エリザベートの姉ヘレーネと「お見合い」をする予定だったのですが、彼はその妹であるエリザベートに一目惚れし、彼女に求婚したのです。

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皇妃エリザベートについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。現在国内で知られているエリザベート個人に限定して紹介した本ではこの3冊が最も良いでしょう。3冊ともカラー写真とイラストが豊富に掲載されており、どれを買われても失敗は無いと思いますが(笑)個人的には最も上の本が価格と情報量(ページ数190ページ、下の2冊は140ページ余り)の面では良いかもしれません。表紙のデザインは最も下の3冊目の本も捨てがたいですね。

さて、この時皇帝の母ゾフィーがバイエルンのヴィッテルスバッハ家との縁組を息子に薦めたのは、当家が自分の実家であった事と、またかつてハプスブルク家と神聖ローマ皇帝位を激しく争い、時には戦い、時には親しく交わってきた名門中の名門王家で家柄として申し分の無い、ハプスブルク家にとっては付き合いの長い「お隣さん」であった事などがその理由でした。

しかし息子フランツ・ヨーゼフは母の薦めた相手の妹を好きになってしまったのです。彼は母の猛反対を押し切り、エリザベートと結婚してしまいます。

そしてこのエリザベートという女性ですが、彼女は上で述べた様に皇帝と結婚した時はまだ16歳の何も知らない少女でした。(皇帝は彼女を熱愛していましたが、当時の彼女はどちらかといえば、周囲の流れによって「結婚させられた。」という方が正しかった様です。つまり彼女の実家であるヴィッテルスバッハ家からすれば、ハプスブルク家と縁組出来れば誰でも良かったのでしょう。)

バイエルンの田舎で自由奔放に育ち、もともと勉強嫌いだった彼女はお妃教育と、全てを伯母であり姑のゾフィー大公妃が取り仕切るウィーンの宮廷での厳格な生活に耐えられず、皇后としての職務や義務も嫌い、(というよりろくに行わず。)「病気の療養」と称してウィーンを飛び出し、各地を転々と長期間旅行して周る様になります。


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上が当時のハプスブルク皇帝家の人々です。中央に座る年配の女性がゾフィー大公妃(1805~1872)で、その左に座って皇帝との間に生まれた2人の子供たちを抱きながら顔を横に向けているのが皇后エリザベート。そして後列で立っている人々のうち、最も左にいる黒い軍服姿の男性が皇帝フランツ・ヨーゼフです。

実はこのエリザベートという女性ですが、良くある話では美貌の皇妃とか、悲劇のヒロインという形で語られる事が多いのですが、実際はかなりナルシスティックで情緒不安定、尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かった様です。

彼女の贅沢と浪費家ぶりは、かつてのマリー・アントワネットを思い起こさせるほどのものであり、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていました。それでいて気まぐれでそれらにもすぐに飽きてしまい、つまり成熟した大人の女性とは程遠い人でした。

そんな不真面目な彼女でしたが、そんな彼女にも局所的ですが夫フランツ・ヨーゼフ帝の帝国運営に貢献した部分があります。それはハンガリー問題の解決です。エリザベートは旅先で出向いたハンガリーにおいて、この国の全てを大変気に入り、独学でハンガリー語を習得してこの国の統治にだけは非常な関心と情熱を傾け、またハンガリーの人々にも、かつてハンガリーの独立運動を弾圧し、彼らにとって憎悪の対象である皇帝フランツ・ヨーゼフやゾフィー大公妃をそっちのけで自由気ままに振舞うエリザベートの姿に、新鮮さと

「この人ならハンガリーの王妃になって欲しい。」

とまでいわれるほどの大きな人気を博す様になります。夫フランツ・ヨーゼフがハンガリーの独立問題で頭を悩ませていた頃、そのハンガリーの人々の心を掴み、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立に大きく貢献したのは他ならぬエリザベートでした。

しかし、こんな身勝手気ままな妻を、皇帝フランツ・ヨーゼフは終生変わる事無く深く愛し続け、常に落ち着きが無く、気まぐれにどこかに旅行に行って数ヶ月も戻らない彼女に対し、本当は自分のそばにいて自分を支えて欲しい心情を押し隠し、

「好きなだけ楽しんでおいで。いつも貴女を想う夫より。」

と手紙を毎日書き送っていたそうです。(エリザベートとは正反対に几帳面なフランツ・ヨーゼフは、皇帝としての政務をこなしながら、王宮の執務室に彼女の等身大の肖像画を机のすぐ脇に置いて、執務に疲れた時にそれを眺めていました。それが彼にとって、たった一つの心の慰めだったのでしょうね。)

しかし惨劇は突然やって来ます。1898年9月、エリザベートは旅行先のスイス、ジュネーブのレマン湖畔のほとりで、イタリア人の無政府主義者にナイフで暗殺されてしまいます。享年60歳でした。

次に不幸に見舞われたのがそのエリザベートの愛息である皇太子ルドルフです。


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上がルドルフ皇太子です。(1858~1889)彼は皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃エリザベートの間に長男として生まれ、将来の皇帝となるべき帝位継承者でした。

彼はウィーンのカフェで多くの進歩的な文化人たちと交流して行くうちに自由主義に傾倒するリベラリストになり、父帝の時代遅れで保守的なやり方に強く反発していく様になります。(彼はなんと帝位継承者でありながら「君主制などやめてしまえば良い。」と言い放つなど、王家の問題児になってしまいます。当然父とは上手くいくはずがありませんね。)

ルドルフはペンネームで新聞に投書し、(ペンネームなど簡単にばれていた様ですが。)父帝のやり方を激しく非難し、自由主義を唱えていきます。父帝はそんな皇太子に激怒し、以後秘密警察を動員して息子の行動を24時間監視するまでに親子の対立はエスカレートしてしまいました。

皇太子とはいえ絶対権力を持っているのは父帝です。これには敵いません。次第にルドルフは自暴自棄になり、皇太子でありながら身分の卑しい売春婦と夜を共にするようになります。それはあたかも権威の権化である父帝に対する彼の個人的な抗議の様でした。

やがて彼に最後の日が訪れます。1889年1月、ルドルフは愛人マリー・ヴェッツラと別荘で拳銃自殺を遂げてしまいます。(享年30歳)息子の死は、とりわけ母エリザベートを悲しませ、彼女はルドルフの死後、かつての女帝マリア・テレジアの例に倣って自らが暗殺されるまで喪服を身にまとう様になったそうです。(ルドルフの死については、この様な人物を帝位継承者にしては置けないというハプスブルク家臣の貴族たちによる暗殺も疑われていますが、真相は定かではありません。)

そしてもう一人の重要な人物の死が皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアン大公です。


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上がマクシミリアン大公です。(1832~1867)写真で見ると大きなヒゲのせいかだいぶ老けて見えますが、彼の生涯は34年という短いものでした。

皇帝銃殺: ハプスブルクの悲劇 メキシコ皇帝マクシミリアン一世伝 (河出文庫)

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このマクシミリアン大公については上に載せた本が良書です。神聖ローマ帝国史とオーストリア・ハプスブルク家についてがご専門の菊池良生教授の執筆された今年出版されたばかりの最新作で、メキシコ皇帝マクシミリアンの数奇な生涯が、兄フランツ・ヨーゼフ帝とからめて語られていきます。ページ数は370ページ余りで、日本では余り馴染みの無いメキシコの歴史についても知る事が出来る良作です。

彼は先に述べた様に皇帝フランツ・ヨーゼフの弟で、兄とは子供時代から大変仲が良く、兄が皇帝に即位してからはその右腕として良く兄帝を支えた人でした。しかし、この兄弟の関係が微妙になっていくのは1859年のイタリア統一戦争の頃からでした。

当時フランツ・ヨーゼフは弟マクシミリアンを北イタリア総督として派遣していましたが、その地で弟が現地の住民に自治を認めるなど、あまりに自由主義的な統治を行った事に怒り、マクシミリアンを解任してしまいます。(これはマクシミリアンが、現地イタリアの自由と独立を求める人々の思いの強さから、ある程度はやむを得ないという考えに至ったからですが、兄帝は一つでもそれを認めれば、他の民族も次々にそれを求める様になり、帝国の維持が出来なくなるといって、断固それを認めませんでした。)

この件をきっかけに兄弟の間には亀裂が生じ、マクシミリアンは謹慎してアドリア海のほとり、トリエステの自らの居城ミラマーレ城に引きこもってしまいます。しかし、兄の怒りに触れ、全ての公職を解かれて悶々と日々を過ごす彼に、再び権力への道が開かれます。1864年ヨーロッパからはるか離れた全く縁もゆかりも無いメキシコから、皇帝として即位して欲しいとの打診があったのです。


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上がその時の様子です。メキシコ政府の代表たちがミラマーレ城を訪ね、マクシミリアンに皇帝即位を招請しています。彼は新天地で自らの理想とする新たな帝国建設を夢見、これを受諾してメキシコに渡る決意をします。しかし、ここで大きな疑問を抱く方が多いと想われます。そもそもなぜハプスブルク家とは何のつながりも無いメキシコからこんな打診があったのかという事です。

実はこれはフランスが陰で糸を引いていました。当時フランスはナポレオン3世の下で第二帝政下にあり、ナポレオン3世は新たな植民地獲得に大きな野心を抱いていました。折りしもフランスが多額の債権をもっていたメキシコが、財政難から一方的にその負債を棚上げしようとしたため、怒ったナポレオン3世はフランス軍を差し向けてメキシコを占領し、その傀儡政権のシンボルに格好の存在としてマクシミリアンが選ばれたのでした。

しかし、メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世として即位した彼でしたが、最初から無理な冒険でした。現地のメキシコ人たちはフランス軍の支配に激しく抵抗し、元よりその傀儡に過ぎない外国人のマクシミリアンを自分たちの君主にするつもりなど毛頭無かったのです。(当然ですよね。)

即位から3年後の1867年に入ると、戦局はマクシミリアンの皇帝政府に著しく不利になり、損害の多さからメキシコ支配を諦めたそもそもの発端の張本人であるナポレオン3世は、フランス軍を撤退させてしまいます。残されたマクシミリアンは残った残存兵力8千の兵で革命軍に立ち向かいますが、(メキシコ人にも帝政に賛同する者も少なくなく、マクシミリアンの率いる兵力はそんな人々でした。)結局敗れ、マクシミリアンは帝位を剥奪されて銃殺刑になってしまいました。(享年34歳)


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上がマクシミリアンと、最後まで彼に従ったその側近の将軍たちの銃殺の場面の写真です。(写真最も右側のタキシード姿の人物がマクシミリアン皇帝です。不鮮明ではありますが、それにしてもこの写真良く残っていましたね。)

処刑の前、彼は兄フランツ・ヨーゼフに手紙を書いています。

「愛する兄上様、思いもかけない事態に立ち至り、不本意な死を迎える事になってしまいました。この愚かな弟をお許しください。私は兄上が私に示してくださった愛情に深く感謝し、兄上とハプスブルク家の繁栄を祈りつつ、旅立つつもりです。どうかいつまでも健やかに、さようなら。」

この手紙を、一体兄はどんな気持ちで読んだ事でしょうか。仲の良かった兄弟の悲しい別れですね。(涙)

相次ぐこれらハプスブルク家の人々の死は、当主である皇帝フランツ・ヨーゼフの心に深く大きな衝撃を与えました。そしてそれは、彼を孤独で厳格な保守主義者へと変えていってしまいます。そして時代はそんな皇帝の心情と、ハプスブルク家の裏側を尻目に世紀末と新しい世紀へと動いていくのです。

次回に続きます。

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世紀末ウィーン ・ワルツに乗った帝国の最後の輝き

みなさんこんにちは。

19世紀後半から世紀末までのオーストリア・ハンガリー帝国の歴史は、度重なる対外戦争の敗北とそれによる領土の喪失、国内においては10に及ぶ民族が、それぞれ支配者であるハプスブルク家を頂点とするドイツ人階級に対して自治と独立を要求するなど複雑な民族問題が噴出、また、前回お話した様に、皇帝家であるハプスブルク家でも非業の死を遂げる人物が相次ぐなど、政治、軍事の両面における混乱が帝国を大きく揺るがしていました。

この様に帝国が凋落していく状況の中で、やがて人々は次第にその関心を「文化」の面に向けていく様になります。

この様な流れが醸成されていったのは、もともとオーストリア・ハンガリー帝国が多くの民族で構成される多民族国家であり、いわゆるコスモポリタン的な要素を十分に兼ね備えていた事と、折りしもその頃帝国の都ウィーンでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世による大規模な帝都大改造が進行中であり、帝国内外から民族を問わず多くの人々が仕事を求めて移住してきた事により、これらの人々によって持ち込まれて来た思想、哲学、音楽、美術、文学、建築などの様々な有形無形の産物がウィーンの人々に受け入れられ、さらにそれを大きく発展させて見事な世紀末の文化の華を開花させる事になったのです。

そしてその様に帝国が導かれていった背景には、他ならぬ時の皇帝フランツ・ヨーゼフ自身の意向が大きく反映していたのです。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)30代後半から40代の頃と思われます。

皇帝は帝国内の多くの民族の中でもそれまで特に冷遇されていたユダヤ人に対して特別に寛大な姿勢をとります。職業、居住、結婚など、それまでユダヤ人にのみ課せられていた制限を撤廃し、それによって多くのユダヤ系の人々が帝都ウィーンに集まってきました。そして今回お話しする世紀末ウィーンで花開いた文化の多くが、それらユダヤ系の人々によって形作られていったのです。

まずウィーンといえば音楽の都として有名ですが、この時代に最も活躍したオーストリアの音楽家が「ワルツ王」として知られるヨハン・シュトラウス2世でしょう。


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上がヨハン・シュトラウス2世です。(1825~1899)彼が「2世」と呼ばれるのは別に彼が王侯貴族であるからではなく、単に父親と同名であるからです。彼の父「1世」も同じく音楽家であり、ユダヤ系の血を引く人でした。そしてウィンナ・ワルツの基礎を築いた事から「ワルツの父」と呼ばれています。彼には長男ヨハン、次男ヨーゼフ、三男エドゥアルトという3人の息子がおり、父の影響と才能を受け継いで3人とも作曲家となりました。つまりシュトラウス家は音楽一家だったのです。そしてシュトラウス・ファミリーの中で最もその才能を花開かせたのが長男ヨハンでした。(彼は父の築いたワルツの基礎を拡大発展させ、多くのワルツを作曲した事から「ワルツ王」と呼ばれています。)

彼が作った曲は大変多いのですが、その中でみなさんも聞いた事がある有名なものは、かつて1968年製作の映画「2001年宇宙の旅」で使われた事もある「美しく青きドナウ」でしょう。またその父1世が作曲したもので、同じく誰もが聞いたことのあるものといえば、軽快なテンポでコンサートでは観客も手拍子で参加する「ラデツキー行進曲」などがありますね。

そのヨハン・シュトラウスと同じ時代を生きた作曲家で、親しく交流したのがヨハネス・ブラームスです。


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上がヨハネス・ブラームスです。(1833~1897)彼はユダヤ系ではなくハンブルク出身の純粋なドイツ系で、ベートーベンの熱烈な崇拝者でした。(そのせいか性格もベートーベンに似たところが多く、無愛想で人付き合いが苦手で、周囲とのいさかいも多かったそうです。しかし、芸術家には短気で怒りっぽい人が結構多いですからね。笑)

彼が作った曲でみなさんもご存知なのは「ハンガリー舞曲第5番」ではないでしょうか。

さらにこの時代に活躍した作曲家には、アントン・ブルックナーやグスタフ・マーラーがいます。この2人は師弟関係にあり、生涯を通じて親しく交流しました。


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上がアントン・ブルックナーです。(1824~1896)ブルックナーはユダヤ系ではなくオーストリア・ドイツ人であり、優れたオルガン奏者でした。そしてウィーン大学で音楽の講義を受け持つ教授として指導した教え子の中に若きマーラーがいました。

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そして上がグスタフ・マーラーです。(1860~1911)彼はボヘミア出身の裕福なユダヤ人実業家の次男として生まれ、父親は家業の酒造会社を継がせるつもりでしたが、息子の音楽的才能を見抜いて早くからその方向への教育を熱心に薦めた理解者でした。成長した彼は優れた指揮者、音楽劇場監督としては名を馳せましたが、肝心の彼が作曲した曲は当時の聴衆には理解されず、また彼がユダヤ系出あった事から逆に多くの非難を浴び、残念ながら彼の存命中は作品が評価される事はありませんでした。しかし近年は再評価が進み、現在は数多く演奏されています。(この人の曲ですが、演奏時間が非常に長いものが多いので、クラシックファンでも好き嫌いの分かれる作曲家です。ご興味のある方はその点を踏まえてお聴きください。)

音楽の分野はこの辺までとして、他の分野に目を転ずると、文学の世界においてはフランツ・カフカがいます。


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上がフランツ・カフカです。(1883~1924)彼は顔立ちを見ればすぐ分かる様に典型的なユダヤ系で、マーラーと同じボヘミアのプラハで裕福な醸造家の長男として生まれました。しかしマーラーの場合とは逆に、カフカの父親は現実主義のたたき上げの経営者で、息子の繊細な感性や文学活動に関心も興味も示さず、この親子は終生理解し合えなかった様です。彼は成長すると保険局に勤務し、そこで巧みな文書作成能力を生かして主任にまで昇進し、そのかたわら執筆活動をしていました。つまり純粋な作家だったのではなく、「サラリーマン」だったのです。(そのため彼の作品は未完成のものが多く、彼が亡くなってから友人によって出版されたものが高い評価を受ける様になりました。彼の作品で有名なものは「変身」「審判」「城」「失踪者」の4部作がおすすめです。)

このカフカという人は、写真を見ると少し怖そうな印象を受けますが、実際は物静かで大変礼儀正しく、意見を求められた場合を除いては常に聞き役に徹し、自分が意見を述べる時でも持論を押し通すのではなく、相手の話を尊重しつつユーモアを交えながら控えめに述べ、(現実には相手を言い負かそうとする幼稚な思考の人間が多いですからね。)勤務先でも普通なら目にも止めない掃除人にもにこやかに挨拶するなど、とても温厚で心の優しい人だったそうです。そして彼はその人柄から多くの人々に愛され、彼の周囲の人々で彼を悪く言う人は皆無でした。


さらに美術の方面に目を向けると、代表者に画家のグスタフ・クリムトがいます。

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上がそのグスタフ・クリムトです。(1862~1918)彼もユダヤ系で、父親が彫刻関係の職人であった事から最初はその道を目指しますが、次第に絵画の世界に引かれてその才能を大きく開かせました。

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彼の作品で最も有名な「接吻」の絵です。クリムトは特に「金色」を好み、彼の作品には金箔が多く使われています。

学術関係に目を向けると、精神分析の父といわれ、「心理学」という新しい分野の学問を興したジークムント・フロイトがいます。

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上がジークムント・フロイトです。(1856~1939)彼もユダヤ系オーストリア人で、人間の心の奥底に潜む深層心理を体系化した「心理学」の生みの親ですね。

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19世紀末のウィーンはこれらの著名な文化人たちが上の様な快適なカフェに集い、薫り高いウィンナ・コーヒーやケーキ、クロワッサンなどの軽食を摂りつつ、シュトラウスのワルツを聴きながら何時間でも心置きなくあらゆる分野について自らの持論を相手と語り明かし、それらに刺激を受けた人々がさらに鋭敏な感性を研ぎ澄ませてそれぞれの作品や研究にそれを反映させてゆき、「世紀末ウィーン」と呼ばれる夢の様な優れた文化の華が咲き誇る事になりました。(本場ウィーンのカフェは数百席ものテーブルを擁する広大な店舗内で、開店中は誰でも好きなだけゆったりと優雅に時を過ごす事が出来ます。画像のケーキもクロワッサンもおいしそうですね。)

そしてそれは、世界の歴史においてもはや中心ではなくなっていたオーストリア・ハプスブルク帝国の放つ、最後の輝きでもあったのです。

次回に続きます。

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三国同盟対三国協商 ・ ヨーロッパ列強諸国の思惑

みなさんこんにちは。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア・ハンガリー帝国が、多民族国家ゆえの寛容さで音楽、芸術、科学、文学など、様々な分野のスペシャリストたちを国内外から分け隔てなく受け入れ、夢の様な輝ける文化と知恵の華を咲かせて繁栄を謳歌していた19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパは、列強諸国が二つの巨大陣営に分かれて激しく対立する危険なパワーバランスの均衡によって、かろうじてその平和が維持されている時代でもありました。

その二つの巨大陣営とは、一つはドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアを軸として一足早く1882年に成立した「三国同盟」陣営と、それに対抗する形で20世紀に入ってから1907年にイギリス、フランス、ロシアとの間で締結された「三国協商」陣営です。


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上が当時のヨーロッパ主要各国の国際関係を表した図です。

このうち前者の「三国同盟」は、ドイツ帝国成立の立役者であり、その初代宰相でもあった大政治家オットー・フォン・ビスマルクによってつくられた純粋な軍事同盟でした。


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上が独墺伊三国同盟をつくったドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵です。(1815~1898)彼がこの三国同盟を成立させた本来の目的は、フランスを軍事的に孤立化させて封じ込める事でした。

ビスマルクは1871年に、当時ナポレオン3世の下で第二帝政下であったフランスを普仏戦争で破り、その講和条件でかつて200年以上前の旧神聖ローマ帝国の三十年戦争時代において、フランスに奪われたアルザス、ロレーヌ地方を奪い返す事に成功したのですが、これに対するフランス人のドイツへの復讐心が大変激しい事を知っていました。彼はいずれフランスが態勢を立て直し、ドイツに対して必ず反撃してくるだろう事を予測していたのです。

彼は巧妙な戦略でフランスを破りましたが、かといってその勝利に驕り高ぶる事はなく、決してフランスを侮ってはいませんでした。そこで彼はフランスの国力回復は目をつぶるとしても、彼らが自分が創り上げた「生涯の作品」であるドイツ帝国に対して容易に復讐戦を挑む事が出来ない様にする仕組みを創り上げたのです。(オーストリアはともかくとして、南のイタリアを仲間に入れておけば、フランスは兵力をドイツとイタリアの二方面に分散せざるを得ず、また海上でも、フランス艦隊は地中海の制海権をめぐってイタリア艦隊に備えなければなりませんからね。)

これに対しフランスはビスマルクの予想通り、ドイツに対する対抗作戦を展開していきます。しかもそれはビスマルクの予想をはるかに超える驚異的なものでした。彼らは数百年来の宿敵であったイギリスと、貿易や漁業権、両国が世界中に持つ広大な植民地の利権の調整を名目に、はるか東のロシアも入れて同盟を結んだのです。これは表向きは経済、商業関係の盟約であったために「三国協商」と呼ばれていますが、実際はそれらの保護のために相互に軍事協力し、ドイツに対抗する軍事同盟でした。

それにしても古くは英仏百年戦争の時代から、近くはナポレオン戦争に至るまで、常に相争ってきた「永遠のライバル」ともいうべきイギリスとフランスが、よくも積もり積もった積年の恩讐を乗り越えて同盟する事が出来たものだと不思議に思われるでしょうが、これには新興帝国主義国家として驚異的な進歩を遂げ、凄まじい速さで軍備増強を続けるドイツに対する英仏両国の共通の危機感が大きく影響していました。また、当時イギリスにおいては、その在位中イギリスを七つの海を支配する「大英帝国」に押し上げ、63年に亘って君臨したビクトリア女王が1901年に亡くなり、新たにイギリス国王に即位したその長男エドワード7世が、なかば神格化された母の時代とは違う対外政策を求めた事も無視出来ないでしょう。


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上がイギリスのヴィクトリア女王です。(1819~1901)彼女は先に述べた様に、イギリス歴代国王で最長の63年間もの在位を誇り、彼女が君臨していた19世紀は、「イギリスの世紀」と呼ばれるほど同国が最も繁栄した時代でもあります。彼女の出身王家はハノーヴァー家と言い、元はドイツのハノーヴァー公国の君主でしたが、1714年にそれまでイギリス王家であったスチュワート王朝が断絶した事により、遠い親戚筋であった同家がイギリス王として招かれたのです。そのため彼女は生涯を通して大変な「親ドイツ派」であり、自分の子孫たちの多くをこれらの名門王家と結婚させました。ちなみに後の第一次世界大戦でイギリスと戦う事になるドイツ皇帝ウィルヘルム2世は彼女の孫に当たります。

(彼女が名前だけで呼ばれるのは、同名のヴィクトリアという女王が後にも先にも存在していないからです。それから余談ですが、このヴィクトリア女王は大変小柄な女性で、身長はなんと145センチしかなかったそうです。それでありながら太りやすい体質で、晩年には体重が70キロを越え、そのため上の写真を見てもお分かりの様に、少し体重が増えてもすぐに目立ってしまい、彼女は終生それを気にしていたそうです。また性格は意外に短気で我がままで、夫のアルバート公を深く愛してはいたものの、夫婦喧嘩の時は常に夫のアルバート公の方が折れていたそうです。やはり女性らしいですね。笑)


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そして上がヴィクトリア女王の後を継いで即位したエドワード7世です。(1841~1910)良く見ると母親似ですね。そして彼も母の血を引いてかなりの肥満体質でした。ただし母と違う所は父母が相思相愛だったのにもかかわらず、彼自身はデンマーク王家から嫁いできた王妃との仲は終生悪く、女好きで愛人が何人もいたそうです。しかし性格は派手好きな豪快奔放な人で、母のドイツ好きに対比して彼はフランスをこよなく愛し、それが英仏協商締結に一役買っていたのも事実です。

またはるか東の大国ロシアは、時の皇帝ニコライ2世がシベリアから清朝末期の中国東北部(満州)に20万の大軍を南下させてこれを事実上占領し、その先の朝鮮半島をも窺う勢いを見せて、同じく朝鮮半島支配を目論む新興国日本との間で激しく対立していました。


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上がロシア皇帝ニコライ2世です。(1868~1918)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝14代皇帝で、同時に最後の皇帝でもあります。彼とその一家の哀れな最後については、近年その詳細がNHKなどのドキュメンタリーで放映されたりしているので、歴史好きの方ならば知識としてご存知の事と思います。

実はこのロシアの極東進出は、ある一人の人物によって盛んにけしかけられたものでした。その人物とは時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。


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上がそのドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。(1859~1941)彼はドイツ帝国ホーエンツォレルン朝3代皇帝で、なんといってもぴんと跳ね上がったその特徴的な口ひげで有名ですね。(このひげは彼にちなんで「カイゼルひげ」と呼ばれています。)

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上は並んで記念撮影する2人の皇帝の姿です。左がドイツ皇帝ウィルヘルム2世で右がロシア皇帝ニコライ2世。外交儀礼として両国の君主が互いの国の軍服を着用しています。(これはわが国でも、天皇陛下が国賓として来日した外国の君主をおもてなしされる宮中晩餐会などで、陛下が国賓の相手国の君主の勲章や頸飾などをお付けになったりしていますね。)

ウィルヘルム2世はニコライ2世とは従兄弟に当たり、ニコライを「ニッキー」と親しく呼んで盛んに手紙をやり取りしています。しかし、彼がニコライに対してその様に親しく振舞うのは、何も単純に親戚同士であったからというわけではありません。そんなレベルをはるかに超える巨大な思惑があったからに他なりませんでした。

ウィルヘルム2世率いるドイツ帝国にとって、ヨーロッパにおける最大の宿敵はビスマルクの所で述べた様にフランスでした。彼はいざフランスと戦争になった際、背後のロシアから攻撃されて挟み撃ちに合うのを避けるためにロシアの目を極東に追いやって置きたかったのです。そこで彼が利用したのが、日本人をはじめとする「黄色い肌」の東洋人が、いずれヨーロッパ人に対して戦いを挑んでくるという思想、いわゆる「黄禍論」です。


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上が黄禍論を描いた当時のイラストです。はるか彼方で黒雲と共に不気味な光を放つ大仏を指し、キリスト教の大天使ミカエルが古代ギリシャやローマの神々に扮したヨーロッパの人々に対して団結して戦おうと呼びかけているという、なんともメチャクチャなものです。(笑)

ウィルヘルムは、当時日本との関係が悪化していたニコライに宛ててこのイラストを送り、次の様な手紙を書いています。

「親愛なるニッキーへ、我々は今重大な危機に直面している。それははるか東洋の蛮族に、我々キリストの子供たちが狙われているという危機だ。このまま彼らを放置すれば、いずれ東洋人たちはヨーロッパに攻め寄せてくるだろう。今君が日本との間で抱えている問題はまさしくそれだ。これを解決する方法は一つしかない。戦う事だ。そして日本の野望を打ち砕き、ヨーロッパを救うのだ。これが出来るのは世界でただ一人、君しかいない。君がそれを達成するまでヨーロッパはわがドイツがしっかり見張っているから安心したまえ。」

この手紙を読んだニコライ2世がどんな感想を述べたか定かではありませんが、(まさか本気で信じ込んだ事は無いと思いますが。笑)当時のロシア蔵相で、後に日露戦争後のポーツマス講和条約でロシア全権代表となるニコライの忠実な大臣であったウィッテはこう述べています。

「こうして彼はわが皇帝を言葉巧みにたぶらかし、そしてわがロシアは極東へ極東へとおいやられてしまったのである。」

しかしこの三国協商の成立により、ビスマルクが企図したフランス封じ込め作戦は崩壊し、逆にドイツが東西から挟み撃ちされる状態に陥ってしまいました。(三国協商が成立した頃、すでにビスマルクは亡くなっていたのですが、彼はイギリスとフランスが、海外植民地政策で対立し、いつまでも争わせておく事が最良の策と考えていました。しかし、事は彼の計算とは逆の方向に動いてしまったのです。もし彼が存命であれば、この不利な状況を一体どの様に打開したでしょうか?)

次回に続きます。

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オーストリア大公暗殺事件 ・ 運命の世界大戦へ

みなさんこんにちは。

ヨーロッパ列強諸国が、それぞれの海外植民地やその勢力圏を守るため、利害の一致した国同士で同盟を結び、せっせと軍備を増強して激しく対立していた1910年代前半、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア・ハンガリー帝国も、否応なくその大きな枠組みの中に組み込まれていきました。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)彼はこの時すでに80歳の高齢でしたが、その在位期間は歴代皇帝で最長の60年を越え、国民からは「国父」と呼ばれるほど敬愛され、その絶大な人気と、立派な白いひげを生やした圧倒的な存在感はまさに帝国の「象徴」でした。

しかし、皇帝の晩年はその絶大な権威と帝都ウィーンの華やかさとは裏腹に、大変孤独で寂しいものでした。ハプスブルク家一族内では次々に身内の不幸が相次ぎ、帝国内では独立を求める少数民族をなんとか帝国内につなぎとめる事に苦心し、さらに帝国の外では先に述べた列強諸国による権謀術数渦巻く対立に翻弄され、それらとの長い闘いが、この老いた皇帝を地上で最も保守的で孤独な老人に変えてしまったのです。

もちろん彼も最初からそうだったのではありません。彼は18歳で即位してから、その若さで新しい国づくりを周囲に期待され、歴代皇帝たちが成しえなかった様々な改革を行って帝国を運営していきました。ハンガリーとの二重帝国の完成、立憲君主制の導入、労働者保護の立法、普通選挙法の成立など、彼の下で着々とリベラルな体制づくりが進められていったのですが、その半面で彼の統治は貴族たちと軍部に支えられる旧態依然としたものでもありました。

時はすでに20世紀、街には汽車、自動車、電話、電灯、映画などが出回り、これらの文明の利器が人々の興味を大きくそそっていましたが、皇帝はそれらに一切関心を示さず、ひたすらかたくなに王家の格式としきたりに固執しました。

こんな話があります。フランツ・ヨーゼフが帝都ウィーンの近代化のために、ウィーンを取り囲む城壁を撤去させたのはすでにお話しましたが、そのためにウィーンは一大建築ブームで好景気となります。しかしこれは典型的な「建築バブル」でした。折りしもウィーン証券取引所で株価の大暴落が起こり、一転大不況が帝国を覆います。建築中の建物も資金が無くなり、人々は造りかけの建物の建設を中止するか、外装の装飾を出来るだけ簡素にして建築費用を安く抑える様になりました。(仕方がありません。お金が無いのですから。)帝都のあちこちでそれらが急増し、やがて皇帝のいるホーフブルク王宮の目の前で建設中だったカフェまで、建物の外装の装飾の無いものが建てられました。


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上がそのカフェ「ロースハウス」です。(1910年完成)現在は銀行として使われている様です。これは当時出現した斬新な建築スタイルで、出来るだけ装飾を省き、「線」と「面」だけを強調する事で新時代を表現しようというものです。同時に費用も浮かせるので依頼する側には喜ばれました。

しかし、王宮の執務室からこれを見たフランツ・ヨーゼフはこれを大変嫌い、このカフェが見えない様にカーテンをおろして過ごしていたそうです。やがて彼はどうしても行かなければならない場合を除いて王宮には立ち寄らなくなり、晩年の大半を彼の偉大な高祖母である女帝マリア・テレジアが建てたハプスブルク家の本宮殿ともいうべき壮麗なシェーンブルン宮殿に引きこもってしまいます。

なぜ彼はこんな何の変哲も無い建物をそこまで嫌ったのでしょうか? 実はその理由はまさにこの「何の変哲も無い」という点にありました。つまり皇帝の頭では、美しい建物というものは柱の一本に至るまで彫刻をほどこし、豪華絢爛な外装で飾り立てるべきであり、ただ窓が並ぶだけのロースハウスは、彼にとってつまらない四角四面の「のっぺらぼう」にしか見えなかったのです。

そして彼の保守性は身内に対しても表れます。フランツ・ヨーゼフは皇后エリザベートとの間に4人の子がいましたが、そのうち3人はいずれも女子であり、唯一の男子であり、後継者(のはずであった)皇太子ルドルフは父帝と意見が合わず、やがて30歳の若さで愛人と拳銃自殺を遂げてしまいました。

そのため皇帝はやむなく後継者を彼の3番目の弟であるカール・ルートヴィッヒ大公の長男で、最も血縁が近い甥に当たるフランツ・フェルディナントに指名します。しかしこの帝位継承にはある「条件」がありました。それはこの帝位継承はフランツ・フェルディナント一代限りのもので、彼の子孫には帝位継承権を与えないというものです。


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上が皇帝の甥に当たるフランツ・フェルディナント大公(1863~1914)とその妻ゾフィー(1868~1914)です。

なぜ皇帝はこの様な一方的な条件を甥夫婦に突きつけたのでしょうか? それはフェルディナントの妻ゾフィーの身分に関係がありました。彼の妻ゾフィーはボヘミアの伯爵家出身ではありましたが、成長すると皇帝の従兄弟に当たるテシェン公フリードリッヒの妻イザベラの女官として仕えていました。フェルディナントは公の館に滞在している時に彼女に一目惚れして結婚するのですが、皇帝フランツ・ヨーゼフはそれが気に入らなかったのです。

「ハプスブルク皇帝家の一族がボヘミアの女官を妃にするとは何事か。」

つまり皇帝の頭では、皇帝家ハプスブルク家の者は同格の王族と結婚するのが当然であり、ゾフィーはその身分が低すぎるからその子孫を世継ぎにするのは許さんというのです。こうした皇帝の時代錯誤で保守的な価値観は、当然夫の帝位継承者フェルディナント大公も面白いはずがありません。彼は妻ゾフィーとのつながりから大の親スラヴ主義になり、半面でハンガリー人を大変嫌っていました。それはハンガリーとの二重帝国を創った伯父帝の考えに反するもので、次第に彼らは意見が衝突していく様になります。その姿は、さながらかつての皇太子ルドルフのそれと同じ状況の繰り返しでした。

「伯父上ももうお年だ。いずれ私が皇帝になれば、私のやり方で帝国を導いていくつもりだ。そのときは見ているがいい。」

大公はこう述べると、自らの考えによって行動する事が多くなっていきます。大公は帝国南部のクロアチア、スロベニアのスラヴ人に自治権を与え、ゆくゆくは同君連合の三重帝国にする事を構想していたそうです。これはバルカン半島において、オスマン・トルコの衰退により独立し、急速に勢力を拡大しつつあった南の小国セルビアに対する「盾」とするつもりであったと思われますが、しかしこの彼の構想は当然その先の標的であるセルビアにとって悪夢意外の何ものでもありませんでした。


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上は当時のヨーロッパの地図です。オーストリアとセルビアの位置がお分かりいただけると思います。

セルビアは、500年の長きに亘って続いたオスマン・トルコ帝国の支配から解放され、民族の悲願であった独立を達成してからまだ年数が浅い小国でした。セルビアはその苦い経験を踏まえ、自存自衛のために強い国づくりを目指します。その方針は、バルカン半島にセルビアを盟主とするスラヴ連合国家を建設するというものでした。その帰結として、周辺国にも勢力拡大を図ろうとしていくのですが、そんなセルビアにとって大きな脅威が国境を接する北のオーストリアでした。

セルビアにとってはハプスブルク家とオーストリア帝国も、オスマン帝国と同様に数百年続く不倶戴天の大敵だったのです。やっと独立を勝ち取ったのに、今度はオーストリアが南下して自分たちを支配しようとしている。セルビアは危機感を募らせ、そしてセルビア人の急進派によって「黒い手」なる民族主義の過激な秘密組織が結成され、オーストリアに対してテロ攻撃を画策していく様になります。

フェルディナント大公は、そんなバルカン半島の危険な情勢をどうも少し軽く見過ぎていた様です。彼はセルビアの危険な動きをもちろん知ってはいましたが、何も出来ないだろうとタカをくくっていました。そしてまさか自分自身がその標的になるだろうとは・・・。

そして運命の日は訪れます。1914年6月28日、フェルディナント大公夫妻は伯父フランツ・ヨーゼフ帝が1908年に帝国に併合したボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに軍事演習の視察に訪れました。


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上がその時の様子と事件現場の現在の写真です。当地ではもちろん厳重な警戒態勢が敷かれていましたが、所詮限界がありました。そして一行がサラエボ市内の橋を通過中に、先に述べたセルビア人過激派組織「黒い手」に所属する若者の拳銃によって大公夫妻は暗殺されてしまいます。

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そして上が犯人逮捕の瞬間を捉えた有名な写真と実際に犯行に使われた拳銃です。(赤錆びた姿に注目)

このオーストリア大公暗殺事件は今からちょうど100年前の1914年に起こりました。そしてこの事件を契機にヨーロッパはドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランスなどの連合国との間で人類史上初めての「世界大戦」が勃発する事になります。そしてそれは、それまでの戦争とは比較にならない破壊と大量殺戮による「生き地獄」となって人々の上に降りかかってくるのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

世界大戦勃発 ・ 皇帝の死そして帝国の死

みなさんこんにちは。

1914年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナの都市サラエヴォで起きた、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻の暗殺事件は、全ヨーロッパを震撼させる大事件となりました。この報を受けた大公の伯父である皇帝フランツ・ヨーゼフは当然の事ながらショックを受けましたが、それ以上に彼を悩ませたのが、国民の全ての階級で「セルビアを討て!」という声が激しく上がり、手が付けられなくなってしまった事です。

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この時皇帝は84歳。その長い在位中に数々の試練に直面し、もはや人生の酸いも甘いも知り尽くしていた彼は、この状況が自分の帝国にどのような影響をもたらすかを予見していました。

「このままでは戦争になる。それだけは避けなければならぬ。」

皇帝は過去に自分が経験してきた苦い戦争の経験から開戦には消極的でしたが、対セルビア強硬派である時の外相レオポルト・ベルヒトルトはそんな皇帝の思いとは逆に、7月23日にセルビアに対して10か条からなる「最後通牒」を突きつけ、48時間以内の無条件受け入れを要求します。(これに対し、セルビアは意外にも一部を除く要求の受け入れを受諾します。なぜならこの事件はセルビアが「国家の意志」として行ったものではなく、過激な民族主義グループによるテロ行為だったからです。しかし、ベルヒトルトは頑として譲りませんでした。)


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上がオーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵です。(1863~1942)彼は開戦に慎重だった皇帝を説き伏せ、強引にセルビアへの宣戦布告を主導します。(皇帝が開戦に消極的だったのは、セルビアの背後にはロシアがいたためで、セルビアに宣戦を布告すれば当然ロシアとも戦わざるを得なくなるからです。そこで外相ベルヒトルトはかねてからの密約通りドイツに助けを求め、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はオーストリアがセルビアに宣戦布告すれば、ドイツはオーストリアに味方して共に戦う事を約束します。)

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上がそのドイツ皇帝ウィルヘルム2世と当時のドイツ軍首脳部の将軍たちです。中央で足を組んで座っているのがウィルヘルム2世。その後ろには、後にドイツ敗戦後に指導者となるヒンデンブルグとルーデンドルフの姿もあります。(写真下の人物名を参照)彼の率いるドイツ帝国はすでに開戦準備は整っており、手ぐすねを引いてこれを待ち構えていました。

7月28日、オーストリアはセルビアに対して宣戦を布告し、事ここに至ってセルビアも戦う意志を決め、ロシアに対して援助を求めました。一方セルビアからの要請に基づき、ロシアは直ちに全軍に動員令を発し、これに対抗する形でドイツも大軍をロシアとの国境に集結させます。ここに4年に亘る第一次世界大戦の幕が切って落とされたのです。


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この時皇帝フランツ・ヨーゼフは一人、王宮の礼拝堂で戦争を回避出来なかった事による国民の犠牲への懺悔と帝国の勝利を神に祈りました。そう、老いた彼に出来る事はもうそれぐらいしかなかったのです。

さて、この第一次大戦の勃発はさらにイギリスとフランスも巻き込み、瞬く間に全ヨーロッパ、いや世界中に波及していきましたが、とはいえ関係各国も当初は「すぐに終わるだろう。」とかなり楽観的でした。というのは、セルビアの様な小国などたやすくオーストリアに占領されてしまうであろうし、これまでの戦争の経験から、大抵の場合は数回の大会戦の後、形成不利になった方が講和を持ち出し、その後は外交的努力で解決して速やかに兵を引き上げるのが常道だったからです。ヨーロッパにおける戦争は1871年の普仏戦争以来43年ぶりであり、戦争を知らない若い世代が若さゆえのロマンチックと騎士道精神に憧れて大勢志願し、各国の末端の若い兵士たちの間には異様な高揚気分がみなぎっていました。

「クリスマスには帰れるさ。」

若者たちは軽い気持ちで志願し、まるで冒険に出る少年の様に戦場へと出征していきました。しかし、すぐに彼らはそこで恐ろしいこの世の地獄を目の当たりにして死んでいくのです。


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上は各国の兵士たちです。1枚目は進撃するドイツ軍歩兵部隊。2枚目は同じくイギリス軍。3枚目はフランス軍です。(開戦当初のドイツ軍将兵のヘルメットは、写真を見てもお分かりの様に中世の騎士の兜の様な突起が付いています。後にこれは戦場で兵士たちには邪魔な飾りで実益が無い事と、生産の簡素化のために無くなりますが、まだこの時代のドイツの人々にはこうした中世の記憶が色濃く残っていたのでしょうね。)

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戦争は主に、フランス東部のドイツとの国境線付近で激しい戦いが繰り広げられていましたが、本テーマの主役であるオーストリア・ハンガリー帝国もドイツとの同盟に基づき、東部戦線でロシアとの激戦を繰り広げていました。(もちろん当初の目的であるセルビア攻撃も行っていますが、こちらはセルビア軍の頑強な抵抗にあって苦戦してしまいます。)

しかし開戦から1年が経とうとする1915年5月、思いもかけない事態がドイツ・オーストリア両国にふりかかります。それまで中立を表明して参戦せず、戦争の成り行きを見ていた南のイタリアが同盟を離脱、逆に連合国側に加担してオーストリアに宣戦を布告してきたのです。

しかしイタリアはかつてドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいたはずです。それなのになぜ彼らはドイツ・オーストリアを裏切って連合国に寝返ったのでしょうか?その理由は2つ考えられます。1つはこのままドイツ側に味方していてもイタリアはドイツに利用されるだけで、仮にドイツが勝利してもイタリアが得るもの(領土など)は大して期待出来ない事。2つ目はかつてイタリアがドイツ・オーストリアから数え切れない侵略を受け続けてきた長い歴史から、両国を信用出来ないという情緒的なものです。

イタリアは参戦の見返りに、連合国勝利のあかつきには現時点でオーストリア領である南チロル、トリエステなどをイタリア領とする事を要求し、イギリス・フランスの了承を得るとオーストリアに宣戦、これによりオーストリアはロシア、セルビア、イタリアに兵力を分散せざるを得ない苦しい三正面作戦を余儀なくされてしまいました。

これに対し、ドイツ・オーストリア側も反撃に転じます。まずは仲間を増やさなくてはなりません。そこで両国は1915年9月に、セルビアと仲の悪いブルガリアを新たに同盟国に引き入れる事に成功し、すでに開戦前からドイツ・オーストリア側であったさらに南のオスマン帝国も合わせてこの四カ国による「中央同盟国」が成立します。(オスマン帝国は黒海沿岸でロシア軍と戦いますが、南の中東地域ではエジプト駐留のイギリス軍の支援を受けたアラブ反乱軍との戦いに苦戦します。)


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上の1枚目が第一次大戦時の各国の勢力図で、赤色が中央同盟国。2枚目がその君主たちです。(左からドイツ皇帝ウィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オスマン皇帝メフメト5世、ブルガリア王フェルディナンド1世です。)

こうして文字通りの「世界大戦」がその後も繰り広げられていくのですが、この大戦はそれまでの戦争とは比較にならない大量殺戮兵器が使用され、それによって桁外れの死者が出た事は、歴史好きの方ならばご存知の事と思います。戦車、飛行機、毒ガス、中でも最も戦場で威力を発揮したのが機関銃です。すでにこの機関銃は、1904年の日露戦争における旅順要塞攻略戦で、わが日本軍が多大の犠牲を出していましたが、それから10年後の今次大戦においても、同様の戦闘が展開され、攻撃する側はずらりと待ち構える機関銃の前に白兵突撃を繰り返し、十字砲火の餌食となっていたずらに犠牲を増やすばかりとなっていました。


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ドイツ・フランス国境沿いの西部戦線と、ドイツ・ロシア国境沿いの東部戦線では、両軍は上の画像の様な何重にも張り巡らせた長い塹壕を掘りぬき、これが「すぐに終わる。」はずの戦争を長期化させることになります。同盟軍、連合軍双方とも攻撃前進して敵陣地を突破したくても、網の目の様に張り巡らされた塹壕で待ち構える数え切れない機関銃によって動くに動けず、東西両戦線で数百万の両軍がいつ果てるとも知れない不毛な局地戦とにらみ合いで完全な膠着状態に陥ってしまっていました。(上のドイツ兵は毒ガスに備えてガスマスクを着けていますね。今にも手投げ弾を投げようとしているという事は、敵兵がそんな近くの距離にいるのでしょう。)

そんな最中の1916年11月、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が戦争と帝国の行く末を深く憂慮しながらついに崩御します。(享年86歳)18歳の若さで即位して以来、神聖ローマ帝国時代から続く歴代皇帝で最長の68年もの在位を誇る、波乱に満ちた生涯でした。その生涯を通して常に勤勉であった彼は、風邪気味にもかかわらず死の前日まで執務をこなし、最後の言葉は側近の侍従に対してのこんな一言でした。

「明日は3時に起こしてくれ。まだ仕事が残っているんだ。」


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上が亡くなったフランツ・ヨーゼフ帝です。皇帝は王宮の執務室の横に、彼が深夜まで仕事をするために作らせた仮眠用のベッドに入るとそのまま息を引き取ったそうです。その死はそれを看取る妻も子も誰もいない、あまりにも寂しいものでした。

皇帝の死は、一向に進展の兆しが見えない戦局と戦時下の統制生活に飽いていたオーストリア国民に計り知れないショックを与えました。そして同時に彼の死によって、彼が創り出し、命懸けで守ろうとしたオーストリア・ハンガリー二重帝国も、いやハプスブルク帝国そのものが、皇帝の後を追う様にその死に向かって歩みだす事になるのです。

次回に続きます。

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