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トルコ民族の出現 ・ セルジューク・トルコのアナトリア征服

みなさんこんにちは。

今回から新しいテーマとして、現在のトルコを中心にアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる巨大国家を築いたイスラム世界の覇者、オスマン帝国についてお話したいと思います。

今自分は上で「オスマン帝国」と言いましたが、自分が学生時代の世界史の授業では、「オスマン・トルコ」と教わりました。おそらく昭和世代の方なら同様の人も多いのではないでしょうか? しかし、この帝国が最盛期に支配した地域は、上で述べた様にトルコ本国はおろか、現在の国にしておよそ30カ国以上にもなる広大なものであり、当然支配した民族も数十に及ぶため、単純に「トルコ人の国」とは言い難い事から、現在ではこの帝国を築き、600年以上に亘って世襲の君主として君臨したオスマン家の名だけを取ってこう呼ばれています。

オスマン帝国といえば、歴史好きの方ならば当然その名はご存知でしょう。あの有名な軍楽隊のメロディーに乗って、強大な軍事力で周辺の国々をことごとく討ち従え、全ヨーロッパを震え上がらせたイスラム最大最強の帝国。しかし、世界史などではもっぱらヨーロッパをその中心として語られる事が多く、とりわけ帝政ローマ時代から第二次大戦終結までのおよそ2千年は、世界史というより「ヨーロッパ史」と云った方が良いのではないかと思うほど情報が偏っています。

そのためこのオスマン帝国については、古代ローマ帝国に始まる世界史上比類ない大帝国のうちの一つであるのに、その実像や歴史についてはあまり知られていません。かつて彼らと数百年間も死闘を繰り広げたヨーロッパ人の、異教徒イスラムへの恐怖と憎しみという主観によって創り上げられたイメージが定着してしまっている様に感じられます。

そのイメージとは、「侵略者」「略奪者」「殺戮者」そしてそれゆえに戦いだけを好み、支配した民族に圧政を敷き、文化や芸術の素養のカケラも無い野蛮で凶暴な「悪の帝国」なのだというものです。しかしこれは事実なのでしょうか? 侵略と破壊と殺戮を繰り返し、人々を恐怖で支配するというやり方だけで、果たして600年以上もの間、繁栄する事が出来るのでしょうか? 当ブログではその様な疑問点も含め、オスマン帝国の誕生と栄枯盛衰を、帝国の支配者であるオスマン家の人々のエピソードも交えてお話したいと思います。

そもそもこのオスマン帝国はいかにして誕生したのでしょうか? それをお話しする前に、まずは帝国を築いた民族であるトルコ人がいつ頃どこから現れたのか、オスマン帝国建国以前にトルコ民族が最初に築いた知られざる帝国であるセルジューク・トルコから話を始めたいと思います。


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現在の私たちの地理的常識では、トルコという国は上の地図の位置、すなわちアナトリア半島(小アジアとも呼ばれます。)を思い浮かべますが、もともと彼らトルコ民族の発祥の地は、現在よりはるか東方の中央アジア一帯でした。

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上がその位置と中央アジアの風景です。私たち日本人の感覚では、この地域というと荒涼として荒れ果てたイメージがありますが、(自分だけでしょうか? 子供時代にNHK特集で放映されていた「シルクロード」を見て以来、自分の頭ではそんな感じなので・・・笑)意外に緑豊かなんですね。見渡す限りの大草原です。そしてかつてトルコ民族がこの地域一帯にいた事の証拠に、「トルクメニスタン」「トルキスタン」などがこの地域の国名に残っていますね。

ではもともとこの地域にいたトルコ人たちが、なぜ現在のトルコのあるアナトリアに移動したのでしょうか? 話は10世紀にまでさかのぼります。当時この地域で遊牧生活を営んでいたトルコ人たちは当然の事ながらいくつかの部族に分かれ、それぞれの族長をリーダーとしていました。そしてその中の一部族の族長であったセルジューク(生没年不詳)によって最初の国家が建国されました。それが「セルジューク・トルコ」です。

ただし、このセルジュークなる人物が一代で帝国を築いたわけではありません。彼はそれまで宗教などバラバラであったトルコ人たちの中でいち早くイスラム教に改宗し、王朝の基礎を築いたのですが、何しろ千年以上も前の人物であり、肖像画はもちろん詳細な記録も残っていないためにそれ以上の事は分かっていません。その後数代を経て正式に「帝国」として成立させたのは、セルジュークの孫かひ孫であるトゥグリル・ベグ(993~1063)という人物でした。

この人物も肖像画は残っていないのですが、記録によればトゥグリル・ベグは1038年、イスラム教の創始者であるムハンマド(570?~632)の死後、ムハンマドの代理としてイスラム世界をまとめる最高権威者であるカリフから初めて「君主」を意味する「スルタン」の称号を授かり、自らのスルタン即位をもって、祖先のセルジュークの血を引くセルジューク家世襲の帝国を開いたのです。

このあたりは、ヨーロッパの歴史におけるローマ教皇と皇帝や国王たちとの関係を思い浮べれば理解しやすいでしょう。つまりキリストすなわち「神」の代理人であるローマ教皇に皇帝や王として認められる事によって、その地位と権力が神に与えられた神聖不可侵なものとあまねく人民に知らしめた様に、イスラム世界においてもアッラーの神の言葉を伝えるムハンマドの「代理人」であるカリフからスルタンとして認められる事によって同じ効果を得ようとしたのです。(それにしても人間なんて考える事はみんな同じなんですね。笑)

そして彼の死後も帝国はセルジューク王家によって拡大し続け、最終的にはイラン、イラクを本拠地とする大帝国へと成長しました。


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上がセルジューク・トルコ最盛期の12世紀(1100年頃)の領土です。そしてトゥグリル・ベグの甥で、2代スルタンであるアルブ・アルスラーン(1029~1072)の代に、現在のトルコであるアナトリア方面に3万の軍勢で侵攻、当時この地域を支配していたビザンツ帝国と開戦します。そして迎え撃つビザンツ皇帝ロマノス4世(?~1071)率いる7万のビザンツ軍を破り、なんと皇帝ロマノス4世を捕虜にするという大勝利を挙げました。(1071年、マラズギルトの戦い)

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上がセルジューク軍に敗れて捕虜になり、アルブ・アルスラーンの前に引き立てられたビザンツ皇帝ロマヌス4世を描いた中世の絵です。この時彼はロマノスの首をかかとで踏みつけ、地面に口づけしろと迫ります。そして2人の間で次の様な会話が交わされたと伝えられています。

アルプ・アルスラーン「もし私が貴殿の前に捕虜として引きだされたら、貴殿はどのようにする?」

ロマノス「たぶん、貴殿を殺すか、首都コンスタンティノポリスの街頭でさらし者にするだろう。」

アルプ・アルスラーン「私の罰はそれよりはるかに重い。貴殿を赦免し、自由にするのだから。」

そして彼は捕虜にしたロマノスを本当に釈放してしまうのです。(もちろんタダではありません。多額の身代金に引き換え、彼の息子である王子とロマノスの娘である皇女を政略結婚させ、事実上人質に取ったのです。)

なんだかとてもアルブ・アルスラーンがロマノス4世にひどい仕打ちをしている様ですが、実はこの2人、アナトリアの支配をめぐって合計4回も戦っているのです。そして1度はアルブ・アルスラーンが敗退した事もあります。そこで彼は当初ロマノスに和議を申し入れたのですが、ロマノス4世がそれを拒否して自ら戦端を開いてしまったのです。上の2人のやり取りはそんな事情も隠れていました。

彼はロマノスの運命を見通していたのでしょう。なぜなら皇帝自らが敗れて捕虜になるなど、3世紀にペルシアと戦って捕虜になったローマ皇帝ウァレリヌス以来800年ぶりの恥辱であり、そのうえ多額の身代金を先払いで払わされ、おめおめと生きて帰ってきたロマノスがただで済むはずは無いと計算していたからです。(彼の予想は的中し、その後コンスタンティノポリスに戻ったロマノス4世は政敵によって捕えられ、両目をつぶされた挙句追放されてしまったそうです。)

こうしてセルジューク・トルコはビザンツ帝国からアナトリアを奪い取り、この時に初めてトルコ人がこの地に入植していく事になりました。しかし、強大さを誇ったセルジューク・トルコもその後代を重ねるうちにセルジューク王家の一族で内紛が相次ぎ、それぞれに勝手に「スルタン」を名乗って帝国は複数に分裂してしまいます。

そして最終的にアナトリア地方に王朝を打ち建てたセルジューク家の分家の一族を除き、その他のセルジューク王朝はみな滅びてしまいました。そしてその長い期間にそれまでビザンツとイスラムの攻防の最前線であったアナトリアが徐々にトルコ人によってイスラム化していく事になるのです。

次回に続きます。
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帝祖オスマン1世 ・ 信義に厚い騎馬戦士

みなさんこんにちは。

11世紀初頭に中央アジアから南下し、破竹の勢いで周辺諸国を平定して、1038年に現在のイラン・イラクを中心にトルコ民族最初の帝国を建国したセルジューク・トルコは、1071年のマラズギルトの戦いで西のキリスト教国家ビザンツ帝国を破り、ビザンツ帝国のアジア側の領土であったアナトリア地方を手に入れました。

そしてこのアナトリア地方こそ、後に成立するオスマン帝国本国そして現在のトルコ共和国となるのですが、新天地を求めて絶えず征服戦争を続けてきたセルジューク・トルコも、この頃をピークに早くもセルジューク家一族内部で主導権争いが起こり、帝国は細かく分裂してしまいます。そして1077年にそれらの中で最も西の果てにある、前回述べたアナトリア方面に地方王朝を建てた一族を除き、その後それ以外のセルジューク一族は共倒れや内紛により次々に自滅していきました。

このアナトリアの地に王朝を建てたセルジューク家の分家一族はセルジューク本家と区別するため、前者を「ルーム・セルジューク朝」後者の本家セルジュークの方は「大セルジューク朝」と呼ばれているのですが、規模が小さくなったに過ぎない事から歴史上では区別する事無く一つの「セルジューク・トルコ」として紹介している場合が多いです。


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上がルーム・セルジューク朝の勢力範囲とその拡大の様子を年代で表したものです。この「ルーム」というのは「ローマの」という意味で、古来からイスラム圏から見てローマ(つまり東ローマすなわちビザンツ)の勢力圏であるアナトリアの地に初めてイスラム国家が建国された事からそう呼ばれています。

しかしこのルーム・セルジュークも、君主であるスルタンがめまぐるしく入れ替わり、政権は不安定で1250年代をピークに次第に弱体化していきます。そこへはるか東から、疾風怒濤のごとく強大な軍団が侵攻してきます。モンゴル帝国の襲来です。彼らモンゴル軍は、北はロシアから南はイスラム世界までを呑み込み、衰退していたルーム・セルジューク朝もその支配下に置かれてしまいます。


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上がモンゴル帝国最盛期の領土です。ルーム・セルジュークも完全に併呑されていますね。

この様にセルジューク朝が衰えていったこの時代、それまでセルジューク家に仕えて来た部族の族長たちが、次第に自立の道を進み出します。彼らはセルジューク家から与えられた所領を根城に小領主として土着化し、やがて互いの領地をめぐって私戦を繰り返す様になりました。

その多くの小領主の中の一人にエルトゥールル(1198~1281)という人物がいました。彼はルーム・セルジューク家からアナトリア北西部のソユトと呼ばれる小都市とその周辺を所領として与えられた小さな部族長に過ぎませんでしたが、この時代には珍しく83歳まで生きた大変な長命で、それまで領地など持たない浮き草の様な集団だった自分の一族と、彼に従う戦士たちやその家族のために、所領の維持拡大に奔走します。(この「エルトゥールル」という名は、後にわが日本とトルコが深いつながりを持つ事になるある出来事で再び登場しますので、記憶に留めておいてください。)

そのエルトゥールルの晩年の息子であり、父が築いたわずかな所領とささやかな地盤を元手に本格的に勢力拡大に乗り出すのがオスマンです。この人物こそ読んで字のごとく、後のオスマン帝国の創始者であり、オスマン帝国初代スルタンとなるオスマン1世です。


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上がオスマン帝国初代スルタン(皇帝)にして、オスマン家の帝祖オスマン1世です。(1258~1326)

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(彼に始まるオスマン帝国について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は250ページ余りで、書店で「オスマン帝国」といえば必ずこれが置かれていて価格も安いので、多くの方がまずこの本を購入されています。内容はどちらかと言えば歴史的な記述よりも、著者の執筆の目的からオスマン帝国とイスラムの制度や文化についての記述が多いです。)

ただし、ここで間違えてはならないのは、彼は父の死後すぐに族長になれたわけではないという事です。なぜなら当時の多くのトルコ民族の部族集団の間では、リーダーになるには先代が率いる戦士たちの同意と推戴がなければならなかったからです。先に述べた様にオスマンは、父エルトゥールルが晩年の60歳になってから生まれた息子であり、(息子というより「孫」の年齢ですね。笑)父が死んだ時彼はまだ23歳の若者でした。当然ながらリーダーとするには経験不足で若すぎます。父の代から従ってきた戦士たちの同意と推戴を得るには容易では無かった様です。

この頃のオスマン家とその配下の戦士たちは、まだ君主国としての体を成していませんでした。指導者がオスマン家から選ばれるのは良いとしても、その指導者が無能であれば別の者が選ばれ、他家に乗っ取られてしまう可能性がありました。つまり彼は戦士たちから「試されて」いたのです。そこで何とか族長に選ばれたオスマンは、そんな戦士たちの信頼を得るために実績づくりに取り掛かります。その実績づくりとは「戦って領地を広げる」事です。戦い続け、常に勝利し、戦利品を戦士たちに惜しげなく分け与える事で彼らの心を掴もうとしたのです。

オスマンは、彼のささやかな領地のすぐ近くの強敵ビザンツ帝国を刺激しない様に、まずはビザンツから遠く離れた東の辺境地域を支配下に収め、8つの城を手に入れます。さらにモンゴルの攻撃で土地を追われた戦士や領民を率先して迎え入れ、自らの軍勢に加えていきました。

こうした努力が実り、率いる戦士たちの信頼を勝ち得たオスマンは1299年、もはや滅亡寸前のルーム・セルジューク朝に見切りを付け、ついに独立して自らの王朝国家を建国します。後の「オスマン帝国」の誕生です。

さて、上で述べた様に歴史上オスマン帝国は、オスマンがルーム・セルジューク朝から自立した1300年初頭をもって成立したとされている事が多いのですが、事実はそうではありません。確かにオスマンは父エルトゥールルの死後、その地盤を引き継いでさらに勢力を拡大し、亡くなるまでに父の時代のおよそ10倍ほどの支配地を獲得して自分の国家を建国するのですが、当時アナトリアには彼と同じ様に独立した者たちがたくさんいました。彼らは「君候」(ベイリク)と呼ばれ、やがてそれぞれの勢力拡大のために私戦を繰り返していきます。オスマンもそうした「君候」のうちの一人に過ぎず、この時点における彼の国も「オスマン君候国」と呼ばれる小国でしかありませんでした。


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上がオスマンが生きた1300年代初めのアナトリア地方の地図です。多くの君候国が乱立しているのがお分かりいただけるでしょう。オスマンの国は、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルの対岸、ボスポラス海峡を隔てたアジア側に広がっていますが、周辺はオスマンと同規模の君候国がひしめき合う「群雄割拠」の状態でした。こうした状況下に対し、もはやルーム・セルジューク朝に彼らの勝手な乱立を抑える力はなく、1038年に成立したトルコ民族最初の大帝国セルジューク・トルコは1306年ついに滅亡します。

正式にオスマンの国が「帝国」として扱われるのは、オスマンが自立してから100年ほど経った14世紀末、彼のひ孫に当たる4代バヤジットの時代であり、最初から「帝国」と称していたわけではないのです。

ともあれアナトリアの一角に小さいながらも誕生したオスマン国家は、その後も創始者オスマンの元で拡大を続けていきます。オスマンは先に述べた様に、海を隔てた対岸のビザンツ帝国を刺激しない様に、まずは支配地を反対側の東部に広げ、この地域の8つの城を手に入れ、これを当面の東部防衛ラインとします。さらに今度は南部諸国とも激しい戦いを展開していきました。とりわけ南の強国カラマン君候国はオスマン国家のライバルともいうべき強敵で、その後も両国は激しく争います。

そうした戦いの最中で、着実に支配地を広げていったオスマンが次に手に入れたかったのは、自らの国にふさわしい「首都」となるべき街でした。もともと彼らトルコ民族は一ヶ所に定住する事無く絶えず移動する遊牧騎馬民族であり、それまで都市に住むとか、増して自分たちで都市を築くというキャリアはとても持ち合わせていませんでした。しかし小さいながらも国家として独立した以上自分たちの「都」が必要です。

そこでオスマンが目を付けたのが、かつてアナトリア全域がビザンツ帝国の領土であった時代に彼らが築いた地方都市の一つ「ブルサ」でした。ここはオスマンの支配地には無かった本当の「街らしい街」であり、アナトリア全域制覇とビザンツ帝国との戦いのに備えるためにも十分な立地と規模を備えていました。


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上がそのブルサの現在の様子です。(人口およそ62万ほどのかなり大きな街です。)
オスマンはこのブルサを手に入れるため晩年の戦いに臨みます。しかし残念ながら彼はついに自らの都を手にする事は出来ませんでした。1326年オスマン帝国の創始者オスマン1世は、このブルサ包囲戦の陣中で68歳で亡くなります。

このオスマン1世については非常に古い人物であり、彼の生涯や人物について記した詳細な記録も残っておらず、言い伝えと伝説によるものを繋ぎ合わせた形で想像するしかないのですが、そうしたものを総合すると、とても信義に厚い人間味ある「戦士の中の戦士」であった様です。残忍なエピソードはなく、欲も無く、戦利品も配下の戦士たちに気前良く与え、また自分に味方したり協力してくれた者に対してもその恩を決して忘れず、必ず物質的な形で恩返しをする人でした。

こんな話が伝わっています。まだオスマンが君候になる以前の初期の戦いで、配下の軍勢の荷物が多すぎて戦いの邪魔になる事から彼は困ってしまいます。それらは全て戦士たちの私物であり、「捨てていけ。」と命じるわけには行きません。そこへその地域の小さな領主がそれらを預かってくれるというので、オスマンは彼を信じて荷を預け、戦いに出発します。そして戦いに勝利し、その領主の元に戻ると、預けた荷物はきちんと保管されてあったので、オスマンはその領主に大変感謝し、たくさんの皮袋に入れた大量のチーズとバターをお礼に贈ったそうです。

この話のどこが良いのかと思われるかもしれませんが、実はこの時オスマンが荷を預けたその領主はビザンツのキリスト教徒でした。イスラムのオスマンたちからすれば敵である異教徒です。つまりこの時代の常識から言えば、盗まれてもなんら不思議ではないのに、相手はきちんと約束を守って保管してくれていたのです。これは喰うか喰われるかの戦いに明け暮れていたオスマンにとって涙の出る思いだったのでしょう。彼はそうした人間らしい温情ある人物だったのです。

この様にオスマンが器の大きな人物であったのは間違いありませんが、そのために一方で彼自身はほとんど資産を持たない結果を招いてしまいます。実際彼が亡くなった時、息子オルハンが父から相続したのは、支配した領地以外ではわずかな身の回りの品々と何頭かのお気に入りの良馬、それに100頭に満たない羊の群れだけで、金銀の類いは全く無かったそうです。(理由は簡単です。敵の財を得ても、配下の戦士たちにみんな与えてしまうからです。)

しかし財貨などに代えられないあふれる温情ある指導者であったオスマンは多くの人々に愛され、彼の人柄に惹かれた多くの屈強な戦士たちが次々に従い、オスマン君候国は彼の死後も拡大発展を続けていきます。そうして彼の温情に直接触れた人々の支えもあって、オスマンの子孫たちは国を拡大させていく事が出来、やがてオスマン1世はそれら全ての人々によって、後のオスマン帝国の基礎を築いた偉大な帝祖として崇められる様になるのです。

次回に続きます。

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オスマン君候国の拡大 ・ バルカン半島への進出

みなさんこんにちは。

アナトリア西北部に独立国として自立した小国家を打ち建て、後のオスマン帝国の基礎を築いた創始者オスマン1世が1326年に亡くなると、その後を継いだのは彼の息子オルハンでした。


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上がオスマン帝国2代目のオルハン・ベイです。(1281?~1362?)彼は父オスマン・ベイの死後、小国とはいえ父が建国した国家を受け継ぎ、父の念願だったブルサの街の攻略を成功させるとそこに都を置き、その地に立派な霊廟を建てて父を埋葬しました。(上の彼の肖像は、彼が生きた時代より300年以上経た帝国全盛期に、歴代スルタンを称えるために想像で描かれたものです。また彼ら親子の名の下に付く「ベイ」というのは、イスラム世界におけるいわゆる「候」という称号です。まだ彼らの国は規模が小さく、それに周辺にも同規模の君候たちがしのぎを削っており、イスラム世界における「君主」すなわち「皇帝」を表す「スルタン」の称号を得るほどの力を持つ存在ではなかったため、彼らも「ベイ」を名乗っていました。)

新たにオスマン君候国の指導者となったオルハン・ベイでしたが、彼は前回もお話した様に父から自立した国家と軍団を相続したものの、金銭的にはそれほど裕福だったわけではありませんでした。なぜなら父オスマンは息子に軍資金となるほどの金銭的な資産をほとんど残さなかったからです。

しかしオルハンは落胆していたわけではありませんでした。なぜなら「金」などは自らの率いるオスマン軍団を持ってすれば今後いくらでも手に入れる機会はあったからです。といっても、そのオスマン軍団の勢力も決して大軍だったわけではありません。この時点におけるオスマン軍団は父オスマンの代から従う戦士たちからなるもので、せいぜい500騎程度のものであった様です。

それにしてもこのオルハン・ベイですが、父オスマンとは全く違ったタイプの強烈な個性の人物であった様です。これといった財も無く、率いる兵力もこの程度でしたが、彼は巧みな作戦で北のビザンツ帝国や周辺諸国との戦いに連戦連勝を重ねて領土を拡大していきます。


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上がオルハン・ベイが在位中に獲得した領土です。父オスマンから受け継いだ最初の領土からおよそ5倍程度にまで拡大させていますね。しかしこのオルハン・ベイ率いるオスマン君候国の拡大に大きな危機感を抱いていた国があります。それは海を隔てたすぐ間近のビザンツ帝国です。

もともとアナトリアを含む東地中海全域はビザンツ帝国の領土でした。それがイスラム勢力の出現によりじわじわとそれらを奪われ、アナトリア西北部にわずかに残っていたビザンツ領も、オスマン国家の興隆によって失っていました。もちろんビザンツ帝国もそれまで何もせず手をこまねいていたのではありません。そのイスラム勢力の出現以来その都度討伐軍を差し向け、イスラム軍を完膚なきまでに撃退した事も何度もあったのです。

しかしこのビザンツ帝国の抱える大きな問題はイスラム勢力などの対外的なものだけではありませんでした。一言で言ってしまえば、とにかくこの帝国は国内の政情が「不安定」なのです。常に帝位をめぐる争いと内紛が相次ぎ、混乱にさいなまれ、そうした混乱の隙を突いて新興周辺諸国に領土を掠め取られる衰亡の歴史を歩んできたのでした。

そして今やアナトリア全域は完全にオスマンらイスラム勢力に奪われ、ビザンツ帝国は「海」という天然の防衛線を盾にかろうじてイスラム教徒の侵入を防いでいる状態でした。時のビザンツ皇帝アンドロニコス3世は、オスマン君候国がまだ小国のうちに叩いてしまうべく、オルハンが即位して3年後の1329年に自ら2千の兵を率いてアナトリアに出陣しますが、逆にオルハン・ベイ率いるオスマン軍に撃破されて敗退してしまいます。


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上が当時のビザンツ皇帝アンドロニコス3世です。(1297~1341)彼はこの戦いで負傷し、帝都コンスタンティノープルに逃げ戻ると方針を転換し、オルハン・ベイに和睦と同盟を申し入れます。なぜならこの時彼には南のオスマンに加え、北にも強力な敵が迫っていたからです。

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上がこの頃の東地中海世界の地図です。ビザンツ帝国の北方に興隆したブルガリア王国とセルビア王国がビザンツ帝国を脅かしていました。それにしてもなぜアンドロニコス3世は同じキリスト教国である北の2カ国ではなく、異教徒のイスラムであるオスマン君候国と同盟したのでしょうか? その理由としては2つ考えられます。1つは単純にこれら南北の敵との2正面作戦すなわち「挟み撃ち」に合うのを避けるため、2つ目はオスマン他、南のイスラム勢力はみな遊牧騎馬民族であり、地上戦では圧倒的でしたが海上戦は苦手だったからです。

それにイスラム勢力とビザンツ帝国との間には、ギリシャのエーゲ海やマルモラ海という天然の防壁があり、これを越えて軍勢と軍馬を運ぶには大量の船舶が必要です。金も時間もかかるため一朝一夕でそろえられるものではありません。そこでアンドロニコス3世は、これを防衛線とすればなんとかイスラム勢力の侵入を食い止められ、北のブルガリアやセルビアとの戦いに兵力を集中出来ると判断し、事実上アナトリア奪還を断念(というより切り捨て)したのです。

このビザンツ側からの申し出はオスマン側にも有利でした。当時オルハン・ベイ率いるオスマン君候国は、すでに西北アナトリアに残っていたわずかなビザンツ領も全て手に入れており、その先は海であったため、この時点ではもはやこの方面に取るべき領土はありませんでした。そこで彼は軍勢を南へと転進させます。アナトリア南部にはオスマンと同規模の君候国がひしめいていました。しかしこれらを征服するためには北のビザンツ帝国との衝突は避けなければなりません。

こうした両者の思惑と利害の一致により1333年、ビザンツ帝国とオスマン君候国は同盟を締結します。その後8年ほど、両国はそれぞれの敵との戦いに傾注していたので、両国間においてほとんど戦闘はありませんでした(というよりその余裕が無かった)が、1341年のビザンツ皇帝アンドロニコス3世の急死により情勢はにわかに緊張します。

皇帝の急死は再びビザンツ帝国を恒例の帝位争いの混乱に陥れる事になりました。次の帝位をめぐって先帝の皇太子ヨハネス5世と先帝の重臣であった同名のヨハネス6世が争います。この時オルハン・ベイは南の諸君候国と争っていましたが、この方面の敵は意外に強敵で征服は困難を極めていました。そこで彼は再び侵攻先を北方に向けます。

彼は先に述べたビザンツ帝国の帝位争いの内紛に介入し、ヨハネス6世に味方して彼をビザンツ皇帝に即位させます。一方敗れた先帝の子ヨハネス5世は隣国セルビアに亡命して再起を図ろうとします。しかしこれはオルハン・ベイにとってバルカン進出の絶好の機会でした。


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上がオルハン・ベイのおかげでビザンツ皇帝となったヨハネス6世です。(1295~1383)彼は名門の学者出身で先帝の重臣でもあり、帝位継承権を持つ皇帝家の人間ではありませんでしたが、先帝の急死後まだ10歳の幼帝ヨハネス5世の母アンナ皇太后は、息子を脅かす存在の彼を排除しようと画策します。彼が生き残るには自らが皇帝となって帝国の実権を握るしか道はありませんでした。

オルハン・ベイはセルビアにかくまわれているヨハネス5世を捕えるため、セルビアへの侵攻をヨハネス6世に認めさせ、1346年に長男スレイマンを指揮官とする6千の軍勢をセルビアに差し向けます。もちろん勝敗の如何に関わらず、そうした軍事的支援の見返りに、海峡の反対側のビザンツ領の一部を得るという条件付きです。固有の軍事力の無いヨハネス6世はこれを認めざるを得ませんでした。(オルハン・ベイが即位して20年、この時点で彼の率いる兵力は12倍以上にも膨れ上がっていました。)

結局この戦いは戦上手のセルビア王ウロシュ4世の活躍により決着が付かず、オルハンは一旦オスマン軍をセルビアから退却させます。そうしているうちに成長したヨハネス5世が今度はオスマン側との同盟を申し入れてきます。


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上がヨハネス5世を支援したセルビア王ウロシュ4世です。(1305~1355)彼大変有能な国王で、彼の時代、セルビア王国は宿敵ブルガリアを破り、ギリシャの半分も手に入れ、同国の最盛期を迎えます。しかしそれは彼の個人的な有能さから実現できた事であり、彼の死後、セルビア王国もオスマン帝国の躍進によって急速に衰退してしまいます。

ヨハネス5世はオルハン・ベイに対し、自分をビザンツ皇帝に復位させてくれれば、セルビアに奪われた領土の一部を与えても良いと餌をちらつかせます。(彼にとってはセルビアも、オスマン同様ビザンツを蚕食する厄介な敵でした。そこでヨハネス5世はセルビアとオスマンを戦わせる事で両者を疲弊させる作戦に出たのです。つまり「毒をもって毒を制す。」ですね。)

そうした若い皇帝の策略を、はるかに老練なオルハン・ベイが見抜けないはずはありませんでしたが、オルハンはそれをおくびにも出さず、喜んでヨハネス5世の申し出を受け入れます。(オルハン・ベイの方も、もはや老齢のヨハネス6世より若い5世に挿げ替えた方が今後有利と判断したのでしょう。)

こうして1354年、両者の密約によってヨハネス6世は廃位され、本来の正当な後継者ヨハネス5世が正式にビザンツ皇帝に復位しました。(実に13年に亘る長い帝位争いでした。一方廃位されたヨハネス6世でしたが、オスマンをはじめ周囲の敵とのやり取りに疲れ果て、もはや帝位にも権力にも何の未練も持っていませんでした。もともと学者であった彼はその心情をヨハネス5世に伝えると、立場は違えど同じ辛酸を舐めてきた皇帝はその心情を良く理解し、二度と反逆しない事を条件に意外にも彼を処刑せず、帝都コンスタンティノープル退去を命じます。そして老いた元皇帝は残る人生を山奥の修道院で隠遁生活を送り、88歳の長寿で波乱の生涯を閉じます。)

しかし、やっとの思いで念願の皇帝に返り咲いたヨハネス5世も、その後オスマン・トルコにいい様に領内を蹂躙され、さらに今度は後継者である息子が父である自分に反旗を翻すなどの苦労にさいなまれていく事になります。

これら一連のビザンツ帝国の内紛はオスマン・トルコのバルカン進出と、ビザンツ領へのさらなる侵食を許す事になり、ビザンツ帝国は長い衰亡の坂道を転げ落ちていく事になりました。一方興隆著しいオスマン・トルコの方は、2代オルハン・ベイが亡くなる直前の1360年頃には、彼らにとって夢のまた夢であった海を越え、ヨーロッパ側にまで進出するほどの勢力にまで成長していたのです。

次回に続きます。

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コソボの戦い ・ 対オスマン連合軍の敗北

みなさんこんにちは。

ビザンツ帝国の帝位争いの内紛に上手く介入し、更なる領土拡大とバルカン半島への進出に成功したオスマン君候国のオルハン・ベイ(候)は、こうした戦いだけではなく後のオスマン帝国の基礎となるべき組織づくりに着手した人物でもありました。

そもそもオスマン帝国(前回もお話しましたが、この頃はまだ「帝国」と呼ぶほどの規模ではなく、イスラム独特の呼び名である「君候国」と読んでいました。)は、彼の父オスマンを建国の祖とする国家でしたが、元は一千騎に満たない兵力の戦士集団に過ぎませんでした。しかし彼ら親子の2代に亘る征服事業の結果、領土と支配地が広がり、支配する人民も大きく増加しました。

そのため、これら支配地の人民を円滑に統治する組織とシステムがどうしても必要になってきたのです。まずオルハン・ベイが手を付けたのは民生と裁判を担当する組織です。といっても、先に述べた通り創成期のオスマン帝国は戦士たちの軍事集団であったため、その方面の知識を持つ人材などいませんでした。

そこでこれらの専門知識を兼ね備えたイスラム法学者たちを各地から招き、彼らにそれを任せる事になりました。ここで登場するイスラム法学者というのは、いわばイスラム教の専門家なのですが、本来なら政治や裁判と宗教は別個に切り離して考えるべきもののはずです。しかしイスラム圏ではイスラム教の神アッラーの教えこそが絶対正義であり、そのアッラーの神の教えには、商売、結婚、相続などの人間世界のあらゆる活動の規範が示されているという考えから、イスラム法に精通した彼らにこれを担わせたのです。

彼ら法学者たちはいわば「官僚」(テクノクラート)であり、またイスラム法にのっとって裁判を行う「裁判官」でもありました。こうしてオルハン・ベイは、行政と司法の仕組みを整えたのです。

次に彼が着手したのは宰相制度と貨幣の鋳造、常備軍の創設でした。宰相制度は広がった領土全般を統括する国政の担当者として、また常備軍はそれまで独立心が強く、常に統制の取れた集団とはいえなかった初期のオスマン軍を、君主の命令一下、統制の取れた軍団として動員しやすくするために、一般の民衆から徴兵するというもの(もちろん給料も支給されます。)でしたが、どうも最後の常備軍構想は、既存の有力戦士たちの抵抗にあってうまくいかなかった様です。(笑)

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上がオルハン・ベイが造らせたアクチェ銀貨です。彼が造ったこの銀貨は17世紀まで300年近くオスマン帝国で使われました。

ともあれオルハン・ベイは極めて初歩的ではありましたが、こうした政治、経済、行政、司法、軍事などの国家の基本システムを創り上げ、地味ですがオスマン帝国2代目の役割を見事に果たした有能な人物という点で評価出来るでしょう。また、現在のトルコ共和国の国定教科書では、彼の父オスマンゆずりの誠実な人格が称賛されています。彼の人間的な側面をうかがい知るエピソードとして、攻略した都市に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いて貧民を暖かく迎え入れたという話が伝わっています。(世界中に王侯はたくさんいますが、家臣や下の者ではなく自らの手で貧民に食事を配るなど、ほとんど聞いた事がありませんね。人柄が偲ばれます。)


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上が彼が最初に都を置いたブルサの街にあるオルハン・ベイの墓です。

オルハン・ベイは1360年前後に亡くなりますが、(この頃の記録が曖昧で、亡くなった年が諸説あります。)その後継者をめぐって彼の息子たちが争います。そして最終的に後継者となったのが次男ムラト1世でした。


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上が後の時代に描かれたムラト1世の肖像です。(1319?~1389)彼には後継者として、父オルハン・ベイにも周囲からもとても期待されていた有能な兄である長男スレイマンという人物がいましたが、狩猟の途中落馬して急死していたため、次男である彼と弟たちの間で相続争いになってしまった様です。

このムラト1世は、父オルハンがその足がかりを作ったバルカン半島の領土をさらに拡大させた人物でしたが、即位して最初の2年ほどは、アナトリア本土の反乱鎮圧に奔走する事になってしまいます。それというのも当時アナトリア南部には、拡大成長を続けるオスマン君候国にとって最大のライバルであった「カラマン君候国」があり、このカラマンの謀略によって各地で反乱の火の手が上がっていたからです。

ムラト1世は、即位の混乱に乗じてオスマン家の弱い所を突いて来たカラマンのやり方に怒りを覚えましたが、まずは国内を平定しなければなりません。彼はバルカン半島方面を信頼する将軍に任せると、自ら軍勢を率いてアナトリア方面の反乱を鎮圧し、背後のカラマン君候国を封じ込める事に成功します。

アナトリア方面を完全に手中に収めると、彼はいよいよ狙いのバルカン半島侵攻作戦を開始します。当時バルカン地域はビザンツ帝国が衰え、そこに興ったブルガリアとセルビアなどが覇を競っていました。この2国はライバル国であり、最初はブルガリアが優勢で10世紀から14世紀前半までブルガリア帝国として繁栄した時期がありましたが次第に衰え、1330年に隣国セルビアがブルガリアを破って勢力を拡大し、代わって「帝国」を称する様になります。

しかしそのセルビアの隆盛も束の間、1355年に名君ウロシュ4世が亡くなると急速に没落してしまいます。つまり、この頃のバルカン地域はオスマンにとって、侵攻するのに最適な権力の空白地帯だったのです。

バルカン半島に侵攻したムラト1世は1363年、ビザンツ帝国からアドリアーノプルの街を奪い取ると「エディルネ」と改称し、ここをバルカン半島におけるオスマン軍の拠点に定めます。そして以後、1453年のコンスタンティノープル遷都までここが、アナトリアのブルサと並ぶオスマン帝国第二の都となります。


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上がエディルネの位置と、後の時代に建てられたセリミエ・モスクです。(人口はそれほど多くなく、およそ12万ほどです。)

エディルネを手に入れたムラト1世率いるオスマン軍は瞬くうちに周辺地域を制圧し、1364年にはトラキア地方一帯がオスマンの支配下となります。このオスマン軍の躍進は広くヨーロッパ各地に知れ渡り、遠く離れた時のローマ教皇ウルバヌス5世は全キリスト教徒に対オスマン連合軍の結成を呼びかけます。


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上がそのトラキア地域の位置と、ヨーロッパ各国に対オスマン連合軍の結成を呼びかけた教皇ウルバヌス5世です。(1310~1370)この頃すでに異教徒オスマンの名は、ローマ教皇を動かすほどの勢力にまで拡大していました。

この教皇の呼びかけに、それまで対立と反目を繰り返していたハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、ボスニアなどのバルカン諸国は歴史上初めて一致団結してオスマン軍に対抗します。彼らは1371年、セルビア軍をその主力として2万を超える連合軍を編成すると、ムラト1世の留守の隙を突いてオスマン軍の拠点エディルネを奪還すべく進軍を開始します。対するオスマン軍は、ムラト1世が他の地域の制圧に向かって主力部隊を率いていったため、防衛軍は一千にも満たないものでした。

エディルネは完全な城塞都市ではなかったため、少ない兵力で籠城するのは困難でした。そこでムラト1世から留守を任されていた防衛司令官のハジ・イル・ベイは、敵が大軍である事で油断しているのを逆手にとって、夜襲による奇襲攻撃を決行します。これが「マリツァ川の戦い」です。

夜襲は見事に成功し、オスマン軍はわずか一千で2万を越えるバルカン連合軍を撃破、大混乱に陥った連合軍は総崩れとなり、多くがマリツァ川で溺死するという大敗を喫してしまいます。

配下の将軍の活躍でうまく危機を乗り越えたムラト1世は返す刀でただちに反撃を開始します。彼はブルガリアとセルビアを次々に攻めると1380年までにこの2国を属国とする事に成功します。さらにアナトリア本土で再び敵対してきたライバルのカラマン君候国を攻撃し、1387年には首都コンヤを占領してカラマン君候国を滅亡させます。

カラマン君候国を破った事で、オスマンによるアナトリア本土の全域制覇は時間の問題となり、バルカン半島の攻略も順調に進んでいたちょうどその頃、従えたはずのセルビアとブルガリアがオスマンの支配打破のために密かに動き出します。彼らはワラキア、アルバニア、ボスニア、ハンガリーなどのバルカン諸国と再び対オスマン連合軍を結成し、国の存亡とバルカンの支配権をかけてオスマン軍に対し、乾坤一擲の大反攻作戦を挑んできたのです。

1389年6月、両軍はセルビアのコソボで激突します。「コソボの戦い」の始まりです。両軍の兵力はオスマン軍4万に対し、バルカン連合軍もほぼ同数であった様です。


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上がコソボの戦いを描いた絵です。

この戦いは初戦から思いもかけない事態が発生します。オスマン帝国の君主ムラト1世が、セルビアの放った刺客によって暗殺されてしまったのです。これはバルカン連合軍にとっては勝利のための一大チャンスとなるはずでした。しかしオスマン側はすぐに29歳の彼の息子バヤジットを即位させるとただちに反撃に転じ、バヤジットの指揮の下、オスマン軍はバルカン連合軍を破って大勝利を収めました。


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上がコソボの古戦場に残るムラト1世の墓所と、ムラト1世が在位中に広げたオスマン君候国の領土です。(あずき色が即位当時、赤が在位中に広げた領土、それ以外は支配下に置いた属国です。3~4倍に拡大していますね。)

このムラト1世は生涯陣頭で指揮を執る人物でした。それが最後の戦いの彼の暗殺を招いてしまったのですが、それ以外では法律を遵守し、国家に対して献身的に奉仕し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられています。そして彼が父オルハンから受け継ぎ、拡大させたオスマン君候国は、彼の息子バヤジットの時代には内外から「帝国」と称される国家へと発展していくのです。

次回に続きます。

サマルカンドの帝王 ・ ティムールの侵略

みなさんこんにちは。

1389年6月、東ヨーロッパのキリスト教諸国は、破竹の勢いで拡大を続けるオスマン君候国のこれ以上のヨーロッパ侵攻を阻止するため連合軍を編成し、セルビアのコソボでオスマン軍と激突しました。しかしこの戦いの最中、セルビアの放った刺客によってオスマンの君主ムラト1世の暗殺に成功したものの、直ちに即位したムラトの息子バヤジット1世の采配によって、戦い自体はヨーロッパ連合軍の大敗に終わります。

大勝利を収めたオスマン軍はこの戦いの結果、ドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア、マケドニア、ブルガリアなどのバルカン諸国はその後、オスマン君候国への服従を強いられる事になります。オスマン君候国はバルカン半島征服に大きな成果を獲得したのです。

この戦いで父ムラト1世を失いながらも速やかに即位し、オスマン全軍の指揮を執って戦いを勝利に導いたのは、先に述べた様に息子バヤジット1世という人物でしたが、その「即位」とは激戦の最中に亡き父の後継者を宣言しただけの臨時的なものに過ぎませんでした。(儀式なんてしてるヒマありませんからね。笑)


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上がそのバヤジット1世です。(1360~1403)

今回彼の生涯を語る上で避けて通れないのが、後にオスマン帝国衰退の一因となる「兄弟粛清」です。バヤジットは父の後を継ぐとすぐに、同じ戦場で共に戦っていた弟たちを捕えて処刑させたのです。これは後継者争いを防ぐのが目的でしたが、これがその後のオスマン王家の悪しき慣習として長く続いていく事になります。

ともあれそうした犠牲の上に自らの地位の安定を図ったバヤジットでしたが、アナトリア本国では早々に彼を脅かす事態が発生します。父ムラト1世の死を知ったかつてのアナトリア諸国が一斉に反オスマンの火の手を上げたのです。

それだけではありません。先のコソボの戦いの勝利によって従えたはずのセルビア、ブルガリア、さらにビザンツ皇帝らが次々にオスマンからの離脱のための反乱を企て、そのため即位してからの7年余り、バヤジットはこれらとの戦いに東西奔走する事になります。

しかしバヤジット1世は軍事に秀でた君主でした。彼は優れた手腕を発揮してこれらの敵を討ち従えて行き、反オスマン勢力は一転劣勢に立たされます。こうしたオスマンの強さは西ヨーロッパ諸国にも伝えられ、バルカンのキリスト教国の危機を憂いたローマ教皇は再び対オスマン十字軍の結成を全ヨーロッパ諸国に呼びかけました。

ローマ教皇のこうした呼びかけに対し、これらのキリスト教国はもはや十字軍などに熱意は無かったのですが、教皇の意向を無視するわけにもいかず、やむなくヨーロッパ諸国は1396年9月、およそ1万6千の軍勢を集めるとバルカン半島に送り込みました。

当時バヤジット1世はビザンツ皇帝を屈服させるため、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを包囲していましたが、その知らせを聞くと自ら主力部隊を率いて迎撃に向かいます。(この時点の彼の兵力は、そのコンスタンティノープル包囲と、反乱に備えてアナトリア方面にかなりの兵力を割かざるを得なかったためにさほどの大軍ではなく、ヨーロッパ連合軍と大差の無い1万5千程度であった様です。)

両軍はブルガリアのニコポリスで再び激戦を繰り広げます。「ニコポリスの戦い」の始まりです。


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上が「ニコポリスの戦い」を描いた中世の絵と、ニコポリスの現在の姿です。

この戦いにおいてヨーロッパ勢は、西ヨーロッパの名だたる王侯貴族の若い子弟たちから成る連合軍でしたが、戦を知らない彼らは時代遅れの騎士道精神にしがみつき、すでに歩兵と騎兵を効果的に配置した集団戦法を構築して待ち構えるオスマン軍に対して各自がバラバラに無謀な突撃を繰り返し、その多くが戦死か捕虜になって再び敗れてしまいました。

このニコポリスの戦いの敗北は、ヨーロッパキリスト教諸国を失望と落胆の底へ突き落としますが、オスマン軍の勝利はイスラム世界で大変な称賛を受けました。とりわけすでに実体は滅んでいたものの、その権威だけは「飾りもの」とはいえエジプトのカイロに存続していたイスラム第2王朝のアッバース朝カリフはバヤジットを褒め称え、彼に対してイスラム世界における君主すなわち「皇帝」を意味する「スルタン」の称号を授けます。

このスルタン授与によって、それまでイスラム世界における「候」を表す「ベイ」を名乗っていたバヤジットは、オスマン家で初めて正式に「スルタン」を名乗り、またこの時点でオスマン君候国は正式に内外から「オスマン帝国」と認められたのです。

名実共に帝国と認められ、その前途に向かうところ敵無しと恐れられたオスマン帝国でしたが、そんな彼らに東から思いもかけない「大嵐」が襲い掛かろうとしていました。一代にして中央アジアにオスマン帝国よりはるかに広大な版図を築いた覇王ティムールの大軍が、オスマン帝国の本拠アナトリアに侵攻して来たのです。


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上がその覇王ティムール(1336~1405)の肖像と、彼のティムール帝国の領域です。彼の生涯についてはいずれ別の機会にもっと詳しくお話したいと思うので、今回は軽く触れる程度にさせていただきますが、中央アジアのオアシス都市サマルカンド近郊の貧しい貴族の子として生まれた彼は、若くしてその軍事的才能を発揮し、中央アジアに大帝国を築き上げていました。

ティムールは当初、西のオスマン帝国とはいわゆる「共存」の道を考えていた様で、バヤジット1世に対して「両国の勢力圏と国境線を策定しよう。」とのかなり丁重な手紙を送っています。しかしバヤジットはティムールの強大さを甘く考えていたのか彼を信用せず、両者の関係はすぐに険悪になります。

しかし情勢はバヤジットのオスマン帝国に大きく不利な方向に動いていました。なぜなら彼とその父ムラト1世の親子2代が度々行ったアナトリア遠征によって、オスマン帝国に服属あるいは滅ぼされた「ベイリク」と呼ばれる旧アナトリア諸国の領主たちが、旧領の奪還と国の再興を図ってみなティムールの軍勢に馳せ参じていたからです。

ティムールはこの彼らの勢力を利用し、1399年からアナトリア方面に大軍をもって侵攻し、主だった都市を次々に攻略占領していきます。一方迎え撃つバヤジット1世のオスマン軍は、先のベイリクの人々がほとんどオスマンの敵に回ったため、兵力はティムール軍の半数程度という非常に不利な状況でした。


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上がティムール軍のアナトリア方面の進撃経路です。バヤジットはティムールのこれ以上の進撃を阻止するため、アナトリア中央部のアンカラ近郊にティムール軍を誘い込み、これを撃滅する作戦を開始します。こうして1402年7月、両軍は激突しました。これが「アンカラの戦い」です。

この戦いにおける両軍の戦力は、ティムール軍がなんと総勢20万に達し、対するオスマン軍は12万というものでした。戦闘は朝から夜間まで続いたものの、オスマン軍の小アジアの勢力がティムール側に寝返ったのを機に戦況はバヤジット側に不利になります。やがてオスマン軍は王朝と帝国の存続のため、従軍していたバヤジットの王子を奉ずるとスルタンを見捨てて退却を開始、結局戦いはオスマン軍の敗北に終わってしまいました。バヤジットも退却しようとしましたが落馬してティムールの捕虜になってしまいます。

この時捕虜になった敗者バヤジット1世と、勝者ティムールとのエピソードはヨーロッパ諸国では事実と全く違う形で有名です。それは勝ったティムールが、敗れたバヤジットを檻に閉じ込め、自分が馬に乗る際はバヤジットに四つん這いにさせて彼を踏み台にしたとか、かつて帝国のスルタンであったバヤジットに散々惨めな思いをさせたという様に伝えられています。しかしこれはバヤジットに何度も敗れたヨーロッパ諸国の彼に対する憎しみから生まれたフィクションであり、実際はティムールは捕虜にしたバヤジットを丁重に扱ったそうです。


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上がティムールとバヤジットの面会の様子を描いた絵です。(上の絵はバヤジットが横になった姿で描かれていますが、この時彼は持病の痛風が悪化して立てない状態でした。同じく右足が不自由で常に杖をついていたティムールは彼を気遣い、そのままの姿での会見を許しています。それにしても、この時2人の間で一体どんな会話のやり取りが交わされたのでしょうか?)

ティムールは自分に歯向かった者たちへの見せしめのために、徹底的な殺戮と破壊を行った「怖い王」で、決して温和な性格ではありませんでしたが、(そんな性格であったなら一代で大帝国は築けないでしょうが。笑)バヤジットはオスマン帝国のスルタンであり、自分に敗れたとはいえバヤジットも相当な歴戦の勝者である事はティムールも良く聞き知っていました。そんな彼にティムールは同じ帝王としての敬意を表してバヤジットに接したそうです。(バヤジットはティムールの捕虜になってから持病の痛風が悪化し、数ヵ月後に亡くなりますが、彼の死を知るとティムールは涙を流したそうです。)

このアンカラの戦いの敗北は、それまでほとんど負け知らずで拡大成長を続けてきたオスマン帝国にとって最初の大きな危機ともいえる出来事でした。スルタンバヤジット1世は敵の捕虜となって数ヶ月のうちに捕虜のまま亡くなり、その後生き残った彼の王子たちも帝位をめぐって争いを始めます。さらにオスマン帝国が長年苦労して平定したアナトリア諸国が、このオスマン帝国の混乱と危機に乗じ、ティムールの保護の下でオスマン帝国から次々に旧領の奪還に成功し、オスマン帝国は大きくその規模を縮小、事実上存亡に関わるほどの壊滅的な状況にまで追い込まれてしまったからです。

オスマン帝国をここまで追い詰めたティムールは、それから3年後の1405年に68歳で亡くなり、その後彼の築いたティムール帝国は息子たちによって分割相続されて分裂し、それ以上の危機は回避されたのですが、オスマン帝国はバヤジットの王子たちによる帝位争いによって、およそ10年に及ぶ空位期間を経験します。そしてそれを勝ち抜いてスルタンに即位した彼の息子メフメト1世と、その子ムラト2世の親子2代は、失った帝国領土の失地回復に40年を費やす苦労を強いられる事になるのです。

次回に続きます。

オスマン帝国の逆襲 ・ 親子2代の領土奪還作戦

みなさんこんにちは。

1402年7月、それまで無敵の勢いで拡大を続けてきたオスマン帝国は、「アンカラの戦い」で中央アジアからアナトリアに侵攻してきた大征服者ティムールの率いる20万余の大軍に、初めて歴史的な大敗を喫してしまいました。

この「ティムール・ショック」によって、オスマン帝国は始祖オスマン1世が国を興して以来、4代100年に亘って拡大を続けてきたその勢力と領土を大きく縮小させる事になってしまいます。アンカラの敗北は、それまで経験した事のない壊滅的な打撃を彼らに与えたのです。

この時期に、オスマン帝国5代スルタン(皇帝)となったのが、先帝バヤジット1世の息子メフメト1世でした。


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上がオスマン帝国5代皇帝メフメト1世です。(?~1421)彼はアンカラの戦いの際にも、父バヤジット1世とともに従軍していましたが、オスマン軍は戦況が不利になると、ティムール軍に包囲されていた現スルタンバヤジット1世の救出を諦め、帝国とオスマン家の大事な後継者であるメフメトを奉じて撤退してしまいました。その結果彼は無事に戦場を離脱する事が出来ましたが、父バヤジット1世は前回お話した様に戦場に取り残されてティムールの捕虜になり、虜囚のまま無念の死を遂げる事になります。

父バヤジットの死によって新たに皇帝となったメフメト1世でしたが、彼は決してすぐに帝位を継いだわけではありませんでした。実は彼には他にも3人の兄弟たちがおり、その兄弟たちとのその後11年に及ぶ壮絶な帝位争いが待ち受けていたからです。

特にメフメトの兄スレイマンが彼にとっての最大のライバルであり、このスレイマンとの戦いが彼を悩ませます。なぜならティムール軍はアナトリアを蹂躙し、地中海沿岸に達した所で撤退を開始したので、オスマン帝国のヨーロッパ側の領土であるバルカン半島のオスマン領は全くの無傷であり、そのバルカン半島を押さえていたのが長男スレイマンであったからです。

それに引き換えメフメトの方は、アナトリア北部辺境にかろうじて残っていたわずかな領土を拠点とせざるを得ず、当初この帝位争いは、長男でもあるスレイマンが圧倒的優勢でした。そこで彼は、オスマン帝国の最初の都ブルサを拠点としていた弟のイーサーを攻撃してブルサを奪い返し、さらにもう一人の弟ムーサーに対しては同盟してスレイマンに対抗します。

これに対し、ブルサを追われたイーサーは兄スレイマンを頼ってバルカンに逃亡、スレイマンは1404年、弟イーサーに一軍を与えてメフメトを攻撃させました。しかしこの戦いにもメフメトは勝利し、敗れたイーサーは生死不明となり、彼の軍勢はそのままメフメト軍に吸収されます。すると1409年、今度はメフメトがもう一人の弟ムーサーに軍勢を与えてバルカンのスレイマンに反撃します。


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上がメフメトの弟ムーサーです。(?~1413)彼はなかなかの戦上手で、ワラキア、セルビア、ブルガリアと同盟し、それらバルカン諸国から成る軍勢を率いて帝国の第2の都であるエディルネにいたスレイマンを攻撃しました。このムーサーの攻撃に不意を突かれたスレイマンは慌ててコンスタンティノープルに逃走しましたが、1411年2月、ムーサーの差し向けた追っ手の軍勢に追いつかれて交戦中に戦死してしまいます。これによってメフメトは最大の強敵を排除する事が出来ました。

しかし、今度はそのムーサーが君主を名乗り、勝手に自分の名を刻んだ貨幣を鋳造したり、メフメトの考えと相容れない考えで帝国の統治を始めたため、いずれ何らかの形で彼とは戦わざるを得ないと考えていたメフメトは、ムーサーに反対する者たちと同盟すると1413年7月、帝位争いの最終決戦に臨みます。そしてついにムーサーの軍勢を破ると彼を逮捕処刑し、ようやくオスマン帝国の全権を掌握する事が出来たのです。(このあたりの話は、鎌倉幕府を開いたわが国の源頼朝に似ていますね、彼も自分が天下を取るために義経や範頼などの弟たちを平家と戦わせ、利用するだけ利用して最後は謀殺しています。)

ともあれ兄弟たちとの壮絶な帝位争いの末に、オスマン帝国の新たな皇帝として1413年に正式に即位したメフメト1世でしたが、彼の苦労はそれで終わりではありませんでした。先のティムール軍との戦いでオスマン軍が大敗した事は述べましたが、ティムールは地中海沿岸まで達するとそれ以上の遠征を中止して軍勢を退かせます。しかしティムールは、オスマン帝国が長年苦労して征服した他の君候国(ベイリク)にオスマンから奪われた元の領土を返還し、これらのアナトリア諸国の大半が復活していたからです。

その中には、かつてオスマン帝国の最大のライバル国であった「カラマン君候国」があり、これらの諸国との新たな戦いが予想されていました。(ティムールがなぜこれらの国々を復活させたのかその理由は不明ですが、恐らく彼はオスマン帝国と自らの築いたティムール帝国との軍事的緩衝地帯としてこれらの小国を置いておきたかったのでしょう。これらの君候国は、オスマンから領土を奪い返してくれた上に、国の復興を支援してくれたティムールに対して反抗する事は道義上ありえませんし、オスマンやその他の小国同士で内輪もめさせて相争わせておけば、オスマン帝国がティムール領まで手は出す余裕はありませんからね。)

この時点におけるオスマン帝国の領土は、幸いティムール軍がバルカン半島に上陸しなかったために、バルカン方面の領土はほとんど温存されていたものの、アナトリア方面はティムールの侵略により100年かけて拡げた領土の大半を失っており、これらの奪還が帝国再建の第一歩でした。

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上がほぼその頃のオスマン領です。かつてオスマン帝国の歴代スルタンが征服した君候国の多くが再興しています。即位後のメフメト1世はこれらの諸国との戦いと度重なる反乱鎮圧に忙殺され、彼はその在位中ほとんど戦争ばかりしていました。そのためメフメト1世が出陣している間、帝国の国政は長くオスマン家を支えてきた貴族階級の人々が担う事になります。


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上が皇帝メフメト1世を支えるトルコ貴族の高官たちです。後に述べていきますが、このオスマン帝国という国家はヨーロッパなどの国々と違い、ある時点から貴族階級の存在しない、「皇帝以外はすべてが奴隷の国」と呼ばれる様な専制君主国家となるのですが、この時代までは皇帝家であるオスマン家以外に、それを支える一部の名門家系がいました。

これらの貴族たちのうち最も力があったのが、代々帝国の大宰相を務めてきた「チャンダルル家」という一族で、彼らはオスマン帝国の拡大発展期に、政治、経済、文化を主導していきました。

様々な苦労が祟ったのか、メフメト1世は1421年にわずか8年の在位で崩御しますが、(彼は生年不明なので享年が分かりませんが、恐らく40歳前後だったと思われます。)現在のトルコの歴史教科書などでも、その短い治世で分裂した帝国を再統一し、国家の再建に注力した皇帝として評価されています。

そのメフメト1世の後を継ぎ、オスマン帝国6代皇帝となったのが先帝メフメトの子で17歳のムラト2世でした。


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上がオスマン帝国6代皇帝ムラト2世です。(1404~1451)彼は父メフメト1世が帝位争いに没頭している時代に生まれたので、父帝の苦労を間近で見て良く知っていました。また、父メフメトが亡くなった時においても、オスマン帝国のアナトリア方面の領土はまだその大半が再征服の途中であったため、彼は父の遺志を継いでこれらの領土奪還を決意します。

しかし、ムラト2世がアナトリア方面の再征服を行うには、背後のビザンツ帝国をはじめバルカン半島の諸国を押さえておかなければなりません。すでにその頃当のビザンツ帝国は「帝国」とは名ばかりで、その領土は帝都コンスタンティノープル周辺だけになってしまい、周りはほとんどオスマン帝国に包囲された状態で潰そうと思えばそれは可能したが、ムラト2世の父メフメトが帝位に就く時に、時のビザンツ皇帝マヌエル2世(1350~1425)に支援してもらった恩義があったため、元来温和な性格だったムラト2世は父の政策を踏襲し、当初彼はビザンツ帝国に対して現状を維持し、そのまま手を付けない方針でした。

しかしビザンツ側では、皇帝マヌエル2世の息子で対オスマン強硬派のヨハネスが、ムラト2世の父メフメトの兄弟の一人で、ムラトには叔父に当たる「ムスタファ」なる人物を擁立し、その人物をオスマン皇帝にしてしまえば、彼を通してビザンツ帝国がオスマン帝国を自在に操れると主張し、巧みな外交戦略でオスマン帝国との折衝を乗り越えてきた老練な父マヌエルの反対を押し切ってその計画を実行に移します。


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上がそのヨハネス(1392~1448)のメダルです。彼は父マヌエル2世の死後、ヨハネス8世としてビザンツ皇帝に即位しますが、彼の企んだ謀略がビザンツ帝国を窮地に陥れる事になってしまいます。

このヨハネスの計画を知ったムラト2世はさすがに激怒し、ビザンツの「道具」であったそのムスタファをあっけなく捕えて処刑すると、父の代から続くビザンツ帝国との友好関係を破棄し、1422年7月、謀略の中心コンスタンティノープルを大軍で包囲してビザンツを震え上がらせました。

しかし、ビザンツの帝都コンスタンティノープルを囲み、幾多の敵を退けてきた三重の大城壁がオスマン軍の前に立ちはだかります。そうして物理的に時間を稼ぐ間に、老練なビザンツ皇帝マヌエル2世は得意の外交戦略でオスマン帝国の弱点であるアナトリア方面での反乱を誘発します。背後を脅かされ、元々ビザンツを威嚇する事が目的だったムラト2世はそれ以上の作戦行動は不利と判断し、ビザンツ側にオスマンへの臣従と多額の貢納金を支払う事を条件として軍を撤退させました。

その後もムラト2世は帝国を堅実に運営していきますが、年齢を重ねるうちに即位当初の若い時代に誓った「失った領土の再征服」という考えは、次第に彼にとって重要なものではなくなっていった様です。彼は政治、軍事両面で優れた有能な君主であり、また先に述べた様に温和な性格で、学問と文化を愛しましたが、一方で生来信心深い熱心なイスラム教徒でもあり、君主としてよりもイスラム教の僧としてありたいと願ってその後何度か自ら退位し、帝位を息子メフメト2世に譲って僧院にこもっています。(このあたりはわが国の上杉謙信に似ているかも知れません。彼も戦上手なのに何度も出家しようとして城を飛び出し、家臣たちを慌てさせた大変な仏教信者であった事は良く知られていますね。)

アンカラの敗北以後、オスマン帝国はメフメト1世とムラト2世の親子2代が40年以上の歳月をかけて帝国の再統一と維持に務めましたが、失った領土は今だ未征服の地が多く、帝国が再び隆盛を極めるのはムラト2世の子、メフメト2世の時代まで待つ事になります。しかし、彼ら親子が費やした時間は決して「負債の返済」にのみ充てられたわけではありません。特に学問と文化を愛する教養人であった6代皇帝ムラト2世の治世に、それまで国家としてまだ未成熟な部分が多かったオスマン帝国が、その支配地域で十分な時間をかけて強固な地盤を築き上げていく時間的余裕を得る事が出来、それが次の世代のオスマン帝国の飛躍的発展の大きな原動力となっていくのです。

次回に続きます。

コンスタンティノープル攻防戦(前編) ・ 千年の都を攻め落とせ!

みなさんこんにちは。

1402年のティムールの侵略によって壊滅的打撃を受けたオスマン帝国は、その後即位したメフメト1世と、その子ムラト2世親子の40年以上に及ぶ努力の結果、昔日の勢いを盛り返すところまで復興しつつありました。

特に6代皇帝ムラト2世(1404~1451)の30年に及ぶ在位中は、それまで急拡大を続けてきたオスマン帝国が、征服した地域の人民を十分に時間をかけ、オスマン帝国の臣民に編入していく時間的余裕を得る事が出来た時期でもありました。

そのオスマン帝国発展の大きな軍事的原動力となったのが、「デウシルメ」と呼ばれる制度によって集められた元キリスト教徒の奴隷たちから成る、「イェニチェリ」というオスマン皇帝直属の常備軍です。


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上の1枚目が「イェニチェリ」を描いた絵で、2枚目の写真は現在トルコのイスタンブールで観光用に再現されているイェニチェリ軍団です。彼らがあの有名な軍楽隊の音楽に乗ってパレードする姿は、この地を訪れる世界中の観光客にいつも大人気ですね。トルコに旅行に行ったらこれを見ないで帰るわけには行かないでしょう。

この「イェニチェリ」とは、トルコ語で「新兵」を意味し、先に述べた「強制徴用」を意味する「デウシルメ」によってオスマン帝国の支配地であるバルカン半島やアナトリアのキリスト教徒の少年たちを集め、イスラム教に改宗させて徹底教育を施した、オスマン皇帝に絶対忠誠を誓う皇帝直属の常備軍の事です。

ではなぜオスマン家の皇帝たちはこの様な常備軍を創ったのでしょうか? もともとオスマン帝国は初代オスマン1世が有力戦士たちを従え、それら有力戦士たちを束ねる「代表」として興した軍事集団から発展していった国家ですが、当初のオスマン家はあくまでその有力戦士たちの代表に過ぎず、もし有力戦士の一人でも裏切りや寝返りが出ると、その配下の兵までごっそり離脱してしまうという弱点がありました。

そこでそうした弱点の克服と、兵力の安定的な供給のため、オスマン家に絶対忠誠を誓う直属の親衛隊ともいうべき常備軍が必要になってきたのです。

しかしこの制度ですが、実は本来のイスラム教の考えに反するものであった様です。イスラム世界にも「奴隷」という概念はもちろん存在していましたが、それは古代ギリシャなどで生産奴隷として一生酷使される様なひどいものではありませんでした。

イスラム法上の奴隷は当然「資産」として売り買いされましたが、その金額次第で奴隷身分から解放される事が出来、また奴隷として買われても、それがまだ子供なら育ての親と養子、大人なら主人と召使いとしてその関係は大切にされ、これも買主の意向でいつでも奴隷から解放される事も認められていました。それはキリスト教徒の様なイスラム以外の異教徒に対しても同じです。

そんなイスラムの奴隷に対する考えに対し、デウシルメによって集められたキリスト教徒の少年たちを強制的にイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝に一生を捧げる「完全な奴隷」として、皇帝直属の軍団を組織するというオスマン独特のやり方はイスラム教の教えに反し、現代においても歴史家の間で納得の行く説明がされていないのが実情です。

ともあれ極めて異例なやり方で創り上げられたイェニチェリ軍団は、やがて1万を越えるオスマン軍最強を誇る精鋭の大部隊へと成長し、その後の歴代オスマン皇帝の行った数々の遠征において第一線で戦闘に従事、オスマン帝国の拡大発展に大きく寄与した存在でした。(彼らイェニチェリが最強を誇った物理的な理由として、ほぼ全員が銃火器を持つ言わば当時最新の「機械化部隊」であった点です。1万以上の鉄砲隊の一斉射撃を浴びては、剣と槍の歩兵や、馬で突撃する騎兵で構成された従来の軍勢では敵はひとたまりも無いでしょう。)

このイェニチェリの特殊性については別の回で後述させていただくとして、今回のテーマに話を戻します。

オスマン帝国を立て直した6代皇帝ムラト2世は有能な君主でしたが、同時に生来大変信心深い熱心なイスラム教徒でもありました。そのため彼は君主としてよりもイスラムの学僧になる事をかねてから望み、その30年に及ぶ長い在位中の最晩年に2回も退位し、帝位を息子メフメト2世に譲位しています。


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上がそのムラト2世です。(1404~1451)彼は元来温和な性格の文化人であり、肖像画でも涼やかな目もとや顔立ちにそれが表れていますね。

ムラト2世は1444年、時のローマ教皇エウゲニウス4世が差し向けた2万のハンガリー軍がブルガリアに侵攻した際、その2倍の4万の軍勢で見事に撃退し、北方の脅威を取り払います。(ヴァルナの戦い)彼はもうこれでバルカン半島は安全と思ったのか、同年歴代皇帝で初めて自ら退位してしまいます。後を継いだのは息子でまだ12歳の少年であったメフメト2世でしたが、当然この年齢では政務が取れるはずも無く、国政は先帝の信任厚い老練な大宰相カリル・パシャに任されていました。

しかし思わぬ事態が発生します。先のヴァルナの戦いの戦後処理で、まだ少年のメフメト2世に対し、大人の官僚や軍人たちが頭を下げて指示を受ける事に強い抵抗があり、困った大宰相カリル・パシャは先帝ムラト2世にこの件が済むまで復位してもらえないかと頼み込みます。

訴えを聞いたムラト2世はこの一件の処理のみを条件としてやむなく復位し、子のメフメト2世は退位させられて地方へ移ります。やがて一連の事後処理が片付き、ムラトが再び退位してメフメト2世が復位した矢先の1448年、再びキリスト教諸国の軍勢がセルビアに侵入、この時においてもまだ16歳の少年メフメト2世では帝国軍を指揮するにはまだ若すぎたため、先のカリル・パシャの願いで再びムラト2世が復位してこれを撃退し、またもメフメト2世は退位させられてしまいます。

これは先帝から帝国の運営と、大事な後継者メフメト2世の後見を託されたカリル・パシャにとっては極めて常識的な判断であったと思いますが、父の身勝手な理由で即位と退位を繰り返させられたメフメト2世の心は大変傷つき、さらにそれは自分を子ども扱いするカリル・パシャをはじめとする宰相たちに対する反発へと変貌していく事になります。

そんな彼は、若さゆえのやりきれない心情を抱えて悶々と地方での時を過ごしながら、ある一つの大きな野望を胸に抱いていました。それは父ムラトはもちろん、今だ歴史上誰も成し得た者のいない壮大な計画、千年続くビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの征服です。


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上がビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープル(現イスタンブール)の位置と、当時の全景です。この街は古代ローマ帝国が度重なる内乱と異民族の侵入によって東西に分裂した西暦395年に東ローマ帝国の都として遷都され、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の名を冠してコンスタンティノープルと名付けられ、その地理的面積からかつての都ローマには及ばないものの、10世紀の最盛期には人口40万を超えるキリスト教世界最大の街として繁栄しました。(同時に帝国の名も、ローマから遷都したのならもはやローマ帝国とは区別すべきとの考えから、遷都する以前の街の名「ビザンティウム」にちなんで「ビザンツ帝国」と呼ばれています。)

このコンスタンティノープルを都とするキリスト教国家ビザンツ帝国は、およそ千年もの長きに亘って存立し続けた国でしたが、絶えず繰り返された内乱とイスラム勢力の台頭によって徐々に衰退し続け、オスマン帝国が興隆したこの時代には「帝国」とは名ばかりで、その領域は都コンスタンティノープル周辺と、イスラム勢力でも手を出さない様なエーゲ海のいくつかの小島だけになっていました。

メフメト2世は成長するに連れてこの街を征服する事に強い思いを見せ、ビザンツとは共存の道を考えていた穏健派の大宰相カリル・パシャは何度も若いメフメト2世を諌めましたが、この若者の性格ではそれが逆効果に働いてしまいました。

カリル・パシャは父である先帝ムラト2世の信任厚い大宰相であり、父は息子に対し、カリルを「ラーラ」(先生)と呼ばせ、メフメトも少年時代まではカリルを良く慕っていましたが、メフメトも成長するに従い、当然の事ながら次第に自分独自の考えを持つようになり、やがてそれは決定的な対立へと発展してしまいます。

そんな矢先の1451年、6代皇帝ムラト2世が崩御し、ここにメフメト2世は誰にも邪魔されずに、7代皇帝として完全かつ正式に即位しました。若干19歳の若き皇帝の誕生です。


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)彼は即位にあたり、唯一の弟アフメットを処刑します。これは先に述べた様にオスマン家独特の慣習で、帝位争いによる帝国の混乱を防ぐために、好むと好まざるとに関わらず行われたものでした。

まだ若い皇帝の即位に早速試練が襲い掛かります。アナトリアにおけるオスマン帝国積年のライバルである南のカラマン君候国が、講和条約を破棄して攻め込んで来たのです。メフメト2世は長く夢見てきたコンスタンティノープル征服の前に目前の邪魔をとり除くため、大軍をもってアナトリア南部に遠征、いとも容易くカラマン軍を撃破して再びカラマンを降伏させます。

こうして目下の敵を破ったメフメト2世は、コンスタンティノープル攻略のため本格的に活動を開始します。その手始めに彼が行ったのが、コンスタンティノープル周辺のボスポラス海峡に新たな要塞を築き、黒海から地中海への出入りを完全に封鎖してしまう事でした。


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上がメフメト2世が造らせた要塞「ルメーリ・ヒサーリ」(「ローマの城」という意味だそうです。)です。ここに彼が要塞を造った理由は、すでに彼の曽祖父である4代皇帝バヤジット1世が造らせた対岸の要塞「アナドール・ヒサーリ」と合わせ、この海峡を通過する船を両岸から大砲で狙い撃ち出来るからでした。

1452年夏に完成したこの要塞に満足した彼が次に行ったのが、コンスタンティノープルを千年もの間守ってきた三重の大城壁を打ち破る取って置きの巨大な大砲の製作でした。ハンガリー人の技術者ウルバンなる人物を巨額の報酬で召し抱え、全長8.2メートル、口径76センチもある巨大な大砲を造らせました。

さらに1452年末には海からの攻撃のため、300隻を越える大量の軍船を建造させ、明けて1453年に入ると帝国内の全軍に動員令を発し、帝国の南北国境に配置した守備隊を除くほぼ全軍、総勢10万を超える大軍が続々と首都エディルネに集結し、若い皇帝の出陣命令を待って待機していました。

この様な状況に、ビザンツ帝国との共存を基本政策として奔走してきた皇帝の大宰相であるカリル・パシャは、大きな失望と脱力感にさいなまれていました。彼がビザンツとの共存を目指したのは、キリスト教国家ビザンツに手を出せば、ローマ教皇を筆頭とする西欧キリスト教諸国が、異教徒イスラムへの「十字軍」を叫んでバルカンのオスマン領へ攻め込んで来るのを防ぎたかったからです。しかし事はこの老宰相の考えとは反対の方向へ大きく動き出していました。

いかにコンスタンティノープルが千年の都といえど、物理的には単なる一都市に過ぎません。カリル・パシャが恐れていたのはもっと大きな理由、ビザンツを滅ぼす事によって、イスラムのオスマン帝国と全ヨーロッパキリスト教国が永遠の戦いに発展してしまうのではないかという危機感でした。

カリル・パシャは駄目を承知で若い皇帝に最後の説得を試みました。しかし、それに対する皇帝の返事は次の様なものだったそうです。

「ラーラ、私は貴方とわが臣民にはるかに大きな富を与えてやりたい。あの街は私に征服される事を望んでいるのです。どうかあの街を私にください。」

大宰相カリル・パシャはもう何も言わず、黙って主君に従うしかありませんでした。

こうして1453年3月、メフメト2世率いるオスマン帝国軍はコンスタンティノープル攻略のため首都エディルネを出陣し、一路千年の都を目指して進撃を開始しました。

次回に続きます。

コンスタンティノープル攻防戦(後編) ・ ビザンツ帝国滅亡

みなさんこんにちは。

1453年春、オスマン帝国7代皇帝メフメト2世は、それまで歴史上誰も成し得た事のなかったある「大作戦」を実行するため、彼が父から受け継いだ帝国の総力を挙げて大軍を首都エディルネに集結させていました。

その「大作戦」とは、千年以上もの歴史を持つビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを攻略、これを占領するというものです。この時まだ若干21歳の若い皇帝はこの野望達成のため、考えうるあらゆる方策を講じてその夢を実現しようとしていました


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)後に述べていきますが、このメフメト2世はさほど長命だったのではなく、またこの肖像画も彼が40代以降の晩年に、イタリアの画家を招いて描かせたものらしいですが、かなり尖がった特徴的な鷲鼻の人物だった様ですね。そしてその性格は、かのアレクサンドロス大王を思わせる激しい気性で敵も味方も震え上がらせる一方で、他方では文化、芸術、学問にも深い興味を示す非常に両極端な人物でした。

そして彼がそれほどまでに欲しがり、それを手に入れるために若い情熱を傾けたそのコンスタンティノープルの主は、千年以上続いたビザンツ帝国最後の皇帝であり、奇しくも帝都と同じ名を持つコンスタンティノス11世という人でした。


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上がそのコンスタンティノス11世の銅像です。(1405~1453)ビザンツ帝国は建国以来12の王朝が交代し、彼はその最後の皇帝家であるパレオロガス朝10代皇帝で、ビザンツ皇帝としては85代にして帝国最後の皇帝です。上の像はたくましい武人の姿ですが、実際の彼は礼儀正しい温和な紳士であり、その人柄と内に秘めた意志の強さ、強烈な個性から、彼に接した人々の多くは「皇帝の中の皇帝」と彼を褒め称えています。現代のギリシャ本国においても、彼は滅び行く帝国の最後の皇帝としてオスマン軍に徹底抗戦した勇敢な英雄として絶大な人気があります。

この性格も力関係もまるで正反対の、親子ほども年齢差のある2人の皇帝の対決は、もはや目前に迫っていました。

コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)

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このコンスタンティノープル攻防戦について詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。地中海世界の歴史を語らせたら右に出る者はいない小説家、塩野七生さんの代表作です。彼女の作品は、多くの女性作家が好む「恋愛」一辺倒の部分がほとんどなく、純粋に歴史と人物描写、軍事的考察に視点が置かれているので、歴史ファンならばコレクションとして書棚に絶対の自信を持ってお薦めする作家です。作品の内容についてはページ数約260ページ程度ですが、当時の王侯貴族では嗜みとして決して珍しくなかった同性愛(少年愛)的表現もあるので、その種の話が生理的にお嫌いな方は、その部分だけ読み飛ばしてお読みになっても十分楽しめる作品です。

ここで、この戦いにおける両軍の戦力を比較しておきましょう。

攻める皇帝メフメト2世は、コンスタンティノープル攻略のために、帝国軍の主力部隊のほぼ全軍(10万)と、これまでにオスマン帝国が従えた属国に命じて出させた軍も合わせ、その兵力は総勢12万を越えていました。1453年3月、これらの大軍はコンスタンティノープルの城壁の外側の陸上部分を完全に包囲し、さらに海からは、前回お話した300隻以上の軍船が海上を封鎖していました。


それに対し、迎え撃つコンスタンティノス11世率いるビザンツ軍はおよそ4700余(正確には4773名)それにコンスタンティノープル在留の西欧の傭兵およそ2千余の合わせて7千ほどでした。もちろんこれらの傭兵に支払う報酬はビザンツ皇帝自身が払うのです。しかし実際にはビザンツ帝国と交易で300年以上の長い関係を持つ、中世イタリアの2大海洋都市国家ヴェネツィアとジェノヴァにそれを立て替えてもらう手はずになっていた様です。またこの当時のコンスタンティノープルの人口は、かつて40万を数えた最盛期の姿は見る影も無く、この頃にはその10分の1の4万程度に減少していました。

海上戦力に至ってはヴェネツィア、ジェノヴァその他の諸国の帆船やガレー船16隻と、当時のビザンツ帝国の持っていた全船舶10隻の合わせてたった26隻というものでした。

コンスタンティノス11世は少ない兵力を増やすため、西欧各国に増援軍の派遣を要請しますが、各国は今度こそビザンツの命運は尽きたと見切りを付け、正式な援軍はどこからも得られませんでした。頼みの綱のヴェネツィアやジェノヴァにも、資金や食糧の調達はするが、地上軍や艦隊の派遣は本国周辺の防衛のために出来ないと断られてしまいます。(皇帝が最も欲した城壁防衛の地上軍は、この2国にも用意するのは困難でした。ヴェネツィアもジェノヴァも総人口15万程度の都市国家であり、海軍は最強を誇っていたものの、陸軍は人口の少なさからその都度傭兵を金で雇うしかなかったからです。)


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上の1枚目が当時のコンスタンティノープルの様子で、2枚目が攻防戦におけるオスマン軍の布陣を表した図です。

それにしても、いかに千年続いた栄光に輝く街とはいえ、一都市に過ぎないこの街の攻略に、なぜメフメト2世はこれだけの大軍を動員して包囲したのでしょうか? それはこのコンスタンティノープルという街が、当時世界最大最強を誇る三重の大城壁で厳重に守られた難攻不落の堅固な城塞都市であったからです。


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上がコンスタンティノープル三重の城壁の現在の姿とその断面図です。(ビザンツ時代の城壁が最も良く保存されている部分です。大きさは図に描かれている人物の姿と対比してご想像ください)この城壁はビザンツ帝国2代皇帝テオドシウス2世(401~450)によって建造が始まり、その後も長い年月をかけて拡大増強されて上の様な姿になったものです。(改修工事には、大勢の市民が進んで参加したそうです。)最も外側の壁は人の背丈ほどしかありませんが、実際はその上に木製の柵が設けられ、そのさらに外側には深さ7メートルはあろう空堀があり、敵の侵入の際には防衛のため海水が引き込まれる設計になっていました。

この世界最強ともいえる「テオドシウス大城壁」のおかげで、この街は1204年の第4回十字軍の戦いの際を除き、それまで一度も敵の侵入を許した事の無い鉄壁の守りを誇っていたのです。

さらにビザンツ軍には防衛のためのもう一つの秘策がありました。それはコンスタンティノープルと対岸のジェノヴァ人の居留区であるガラタ地区の間にある「金角湾」と呼ばれる湾を鉄の鎖で端から端まで結び、湾内に侵入しようとするオスマン艦隊を阻止しようというものです。

これらの作戦により、兵力の少ないビザンツ軍は海という天然の防壁を盾に最小の兵力をそちらに残し、主力部隊の大半をテオドシウス城壁の防備に振り向ける事が出来るはずでした。

1453年4月、メフメト2世はコンスタンティノス11世に対して使者を遣わします。それは大軍で包囲して降伏を迫るという高圧的なものではなく丁重な申し入れで、

「皇帝が家族と財産、家臣たちを引き連れて街を明け渡せば、それら全ての安全を保証し、市民にも危害は加えない。」

というものでした。しかしこの申し入れに対し、コンスタンティノスは拒否して交渉は決裂します。彼がこう返事を返す事は、メフメトにも分かっていました。これは同じ皇帝として相手に敬意を表し、言わば「儀式」として行われたパフォーマンスに過ぎなかったのです。

4月12日、コンスタンティノープル攻防戦は1ヵ月半に及ぶ激戦の幕を切って落とします。攻撃は前回もお話した、この大城壁を打ち破るためにメフメト2世が準備させたハンガリー人ウルバンの巨大な大砲12門と、それ以外の大小数百門からなる大砲の一斉射撃によって始まりました。


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上がそのウルバン砲を描いた絵と、現在イスタンブールのトプカプ宮殿の庭に展示されている実物大のレプリカです。砲弾は鋼鉄の弾ではなく、横に見える様に巨大な石を球状に削った重さ500キロ以上の石丸で、射程距離は1.6キロ程度でした。しかしこの大砲、そのあまりの大きさゆえに故障の多発、次弾装填に3時間以上もの時間が掛かるなどの欠点があり、また命中率も、長大な城壁のどこかに当たるのがやっとというほどで、その破壊力をもってしても城壁を完全には破壊出来なかった様です。

砲撃と呼応して、無数のオスマン軍将兵が一斉に城壁めがけて突撃し、梯子をかけて城壁をよじ登ろうとしますが、迎え撃つビザンツ軍は上から石や丸太をトルコ兵の頭上に投げ落とし、オスマン軍はいたずらに犠牲を増やすばかりでした。

陸上での戦闘に続き、海上での戦闘も始まります。コンスタンティノープルを包囲する300隻を越えるオスマン艦隊に対し、ビザンツ艦隊はわずか26隻でしたが、これらはオスマン艦隊よりはるかに大型船であり、全て先に述べた金角湾の鉄鎖の内側に待機して一歩もトルコ船を近寄らせませんでした。さらに攻防戦が始まってから2週間後、同盟国ジェノヴァの船3隻と、ビザンツ船1隻の計4隻が食糧を満載し、わずかながらようやく集められた命知らずの傭兵たち(人数は不明ですが、多くてもせいぜい100人に満たないでしょう。しかし兵力の少ないビザンツ軍にとっては貴重な援軍であったはずです。)を乗せてコンスタンティノープル近海まで接近します。この報告を聞いたメフメト2世は

「キリスト教徒どもの船を一隻たりとも通してはならぬ。」

と厳命し、全艦隊にこの4隻の捕縛か撃沈を命じました。4隻対300隻なら普通どう考えても勝ち目はありません。しかしこの時はビザンツ側に勝利の女神が微笑みました。ジェノヴァの船乗りたちの巧みな操船により、この4隻はオスマン艦隊を蹴散らし、その合間を縫って味方が一部を開けた金角湾の鉄鎖を通過して無事に帝都の港に到着したのです。

この知らせはコンスタンティノス皇帝を大変喜ばせ、皇帝自ら港に乗組員を出迎えて礼を述べ、ビザンツ軍の士気も大いに上がりました。陸上での戦闘は連日続いているものの、三重の城壁と守備兵の奮闘がトルコ兵を跳ね除け、今また海戦でも勝利したのです。

「このまま頑張れば状況は好転し、今度も持ちこたえられるかもしれない。」

ビザンツ側にはこんな楽観論まで出るほどでした。

それに対し、包囲しているメフメト2世率いるオスマン軍には失望と焦りが出始めていました。圧倒的な戦力で包囲しているのに地上戦はあの大城壁に阻まれて一向に進展せず、海戦でもわずかな敵を取り逃がしたのです。メフメト2世の怒りは凄まじく、艦隊司令官を捕えて処刑せよと命じるほどでしたが、(この命令は配下の兵たちの必死の嘆願で「財産没収」に減刑されました。)いくらそんな事をしても戦況は変わりません。そこで彼は思い切った戦略の転換を図ります。

それはなんと陸上に船を陸揚げし、ガラタ地区を大きく迂回して金角湾に進入させるという大胆なものでした。


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上がその様子です。メフメト2世はこうして70隻の艦艇を金角湾内に侵入させる事に成功し、先の海戦で後から入港した増援の4隻を含めても、全艦合わせて30隻しかないビザンツ艦隊を挟み撃ちにしてしまいます。この様子を見たビザンツ軍のショックは計り知れないものでした。これにより金角湾の制海権はオスマン軍の手に落ちる事になり、これを機に戦局は大きく逆転する事になります。

さらに追い討ちをかける様に、ビザンツ側に深刻な問題が切実に迫ってきます。5月に入り、籠城が長引くに連れて食料が不足し始めたのです。先に述べた4隻の船の到着以降帝都は外界との連絡が一切断ち切られ、手持ちの蓄えを取り崩して将兵と市民に配給し、節約しながら持ちこたえるしか方法はありませんでした。

5月下旬になると、連日の戦闘で城壁の損害も著しく、もはや帝都の陥落は時間の問題となりました。勝利を確信したメフメト2世はここに至り、最後の勧告をコンスタンティノス皇帝に通達します。用件は開戦前と同じで街を明け渡せというものです。しかしこれも皇帝は断固拒否して抗戦を続行します。

総攻撃の前夜、皇帝は宮殿からこれまで自分に従って共に戦ってくれた将兵と市民に感謝の演説を行い、一人一人の手を握って涙を流しながら礼を述べました。栄光ある帝国皇帝ともあろう高貴な人が、一将兵一市民に対してそこまでしたのです。人々は皇帝と滅び行く帝国のために最後まで共に戦い、死ぬ事を誓ったそうです。

そして5月29日早朝、オスマン軍10万による最後の総攻撃が開始され、ついに城壁が突破されます。なだれ込むトルコの大軍はビザンツ兵たちをなぎ倒し、ときの声と共に一斉に市内に突入していきました。コンスタンティノス皇帝も最後まで彼に付き従った皇帝直属の親衛隊の騎士数人と共に白馬にまたがり、剣を抜いて敵の大軍に突撃し、その姿を消してしまいました。


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同日夕方、オスマン帝国軍はコンスタンティノープル市内を完全に占領。ここに西暦395年にローマ帝国がこの地に遷都して以来、千年以上続いたビザンツ帝国は滅亡したのです。

次回に続きます。

イスタンブール誕生 ・ 新帝都の建設

みなさんこんにちは。

1453年5月、オスマン帝国皇帝メフメト2世は十数万の大軍をもって、およそ1100年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを総攻撃し、1ヵ月半の死闘の末ついにこれを攻め落としました。これによって彼は、オスマン帝国歴代スルタンはおろか、歴史上誰も成し得た事のない千年の都の征服を成し遂げたのです。

しかし、その時コンスタンティノープル市内では、この都を千年の長きに亘って護り続けて来た三重のテオドシウス大城壁を破って突入したトルコ兵たちによる凄惨な略奪が行われていました。ヨーロッパやイスラム圏に限らず、古来敵に勝利した際の略奪は、勝った兵士たちに許された「特別ボーナス」の様なものであり、この戦いにおいてもそれが行われ、メフメト2世は配下の大軍に、3日間の略奪を許したのです。

市内になだれ込んだ10万を越えるオスマン軍は、最初は激しい殺戮を行いました。なぜなら城壁を破ったといっても、その付近にはかなりの数のビザンツ兵たちが、一人でもトルコ兵を押し留めようと果敢に抵抗し続けていたからです。彼らはオスマン帝国の大軍に比べれば、数は4千に満たないとはいえ、千年の栄光に輝くビザンツ帝国軍の精鋭であり、滅び行く帝国とその皇帝コンスタンティノス11世とともに、最後まで戦って死ぬ事を選んだのです。

ただし、その殺戮は城壁付近のビザンツ軍の掃討戦で行われたものであり、そのビザンツ軍の必死の防衛線を超えるとその先は全く無防備の街が開けており、市内に残るのが女子供や老人などの市民だけだと分かると、侵攻したトルコ兵たちは先を争って市内の全域で、売れば金になりそうな全ての物を市民から強奪して行きました。

奪われたのは物だけではありません。城壁周辺の防備についていたビザンツ帝国の正規兵約5千や、外国からの援軍の傭兵2千余を除けば、コンスタンティノープル市内には3万5千ほどの一般市民がいましたが、トルコ兵たちは一通りの物品の略奪を終えると、今度はこれらの市民を奴隷として売り払うため、手当たり次第に捕えていきます。

とにかくこの3日間だけは、その者が手に入れた人、物、金の全てが自分の物に出来るのです。とりわけ彼らが狙ったのは若い女性や少年たちで、中でも姿の美しい美女や美少年などは、自分たちの君主であるメフメト2世に献上されるために選りすぐられ、(美女たちが皇帝に献上されるのはごく普通の事ですが、このメフメト2世は男色家でもあり、帝国内外から選りすぐりの美少年を集め、身の回りの世話や「夜伽」の相手をさせる小姓として傍においていました。そうして皇帝の寵愛を受けた少年たちのうちで頭脳明晰な者が、やがて帝国の高級官僚として国政を担う様になっていくのです。)それ以外の者たちは労働力として奴隷商人に売られるために両手を縛られ、列を成して市外へと歩かされて行きました。


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上はコンスタンティノープルに入城する甲冑姿のオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)

コンスタンティノープル陥落後、市内でトルコ兵たちが低レベルな略奪に夢中になっていた頃、彼らの主である征服者メフメト2世ははるかに高度な事柄に集中していました。その時に彼が最も気にしていたのは、彼の率いる大軍に最後まで戦い続けたビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の生死についてです。


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上がそのコンスタンティノス11世です。(1405~1453)彼については前回もお話した通り、あらゆる意味で「皇帝」という位が最もふさわしいとして、敵味方問わずあらゆる人から尊敬され、ギリシャ本国でも大変人気がある人物です。彼は攻防戦の最後の総攻撃の日に自ら白馬にまたがり、皇帝に最後まで付き従った忠実な数人の騎士たちとともに、城壁を破って怒涛のごとく侵攻して来るトルコの大軍に向かって剣をふるって突撃し、その消息が分からなくなっていました。

このコンスタンティノス皇帝が、敵ながら皇帝かつ武人として、また一人の人間として尊敬すべき人物である事はメフメト2世が最も良く承知していましたが、そういう意味とは別に、彼にとってはコンスタンティノスに生きていてもらっては困るのです。なぜなら勝ったとはいえ、オスマン側も大変な苦労をして手にした勝利です。にもかかわらず、コンスタンティノスが生き延びていずれかに落ち延び、その地でビザンツの残党を集めて復権し、今風に言えば「亡命政権」を打ち建ててビザンツ帝国再興のために再び戦いを挑んで来られては、オスマン帝国にとって厄介な敵が外に増える事になるからです。(実際コンスタンティノス皇帝には、存命ならそれを実現出来るだけの人をひきつけてやまない人望と、君主としての才能がありました。)

彼は全軍に通達し、敵帝の遺体を徹底的に捜索させます。やがて「皇帝の首を討ち取った。」と主張する数人のトルコ兵が現れ、メフメトの前にうやうやしくその皇帝の首を差し出しました。メフメト2世は捕えたビザンツ帝国の重臣たちにこれを見せ、皇帝本人か確認させると、彼らは口をそろえてかつての自分たちの主人であると認めたので、メフメトはこれをもってコンスタンティノス皇帝の戦死とビザンツ帝国の滅亡を内外に宣言しました。

メフメト2世はコンスタンティノープル市内に入城すると、旧ビザンツ帝国の誇る大聖堂アヤ・ソフィアに赴き、ひざまずいてアッラーの神に勝利を感謝しました。彼はこの大聖堂の見事さに感嘆し、偶像崇拝を禁じたイスラムの教えに従って聖堂内部のキリスト教の壁画を漆喰で塗り隠させ、極力現状のままでこの聖堂をイスラムのモスクに転用する事にします。そして全軍に略奪の禁止を命じ、荒れに荒れていた市内の秩序回復に取り掛かりました。


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上がコンスタンティノープルの象徴アヤ・ソフィアとその内部です。この建物は西暦330年ごろに最初の聖堂が造られたのですが、その後の混乱で何度か焼失し、西暦537年に、ビザンツ帝国最盛期の皇帝ユスティニアヌス帝が現在の形に再建しました。(1500年もの間、この建物はビザンツ、オスマンの2大帝国の移り変わる歴史を見てきたのですね。驚)

コンスタンティノープルを手に入れたメフメト2世は、オスマン帝国の首都をそれまでのエディルネからこの地に移します。新帝都の誕生です。そしてこれ以後1923年の新生トルコ共和国誕生によって首都が現在のアンカラに移されるまでの実に470年もの間、この街はオスマン帝国の都となります。

彼は他にももっとするべき事があったはずなのですが、実は意外な事を陥落直後に実行しています。それは少年時代の彼の後見を務めた父の代からの帝国大宰相カリル・パシャとその一族チャンダルル家の人々を逮捕、投獄したのです。罪状は敵であるビザンツ側と内通し、「利敵行為」を働いたという事でした。

このカリル・パシャは以前にもお話した通り、常々ビザンツと西欧キリスト教諸国との共存をその基本政策としてきた対ヨーロッパ穏健派だったのですが、若い皇帝メフメト2世と次第に意見や考えが合わなくなり、それが裏目に出てしまったのです。その後彼とその一族は処刑され、オスマン帝国建国以来、代々帝国大宰相を歴任して来た名門チャンダルル家は断絶してしまいます。そして彼の後には、カリル・パシャの政敵であり、メフメト2世の側近であった宮廷奴隷出身のザガノス・パシャが大宰相に起用されます。(これ以後帝国大宰相の職は、チャンダルル家の様な名門ではなく、その時々の皇帝のお気に入りの人物が起用される事になり、つまりその後のオスマン帝国は、皇帝が信任を置く大宰相を通じて、皇帝個人の意志が全てを決める事実上完全な「専制君主国家」へと変貌を遂げます。)

帝国内の「抵抗勢力」を排除したメフメト2世は、新たな都に定めたこの街をオスマン帝国の帝都にふさわしい形に作り変える事を思い立ちます。そのためにはキリスト教国家ビザンツ帝国の面影を完全に消し去らなければなりません。彼はまずその手始めとして、旧ビザンツ帝国の皇宮を取り壊し、その跡地にイスラム様式の壮麗な宮殿の建設を開始します。これが後にオスマン帝国歴代皇帝の居城となる「トプカプ宮殿」です。


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上がメフメト2世が建造したトプカプ宮殿です。この宮殿はコンスタンティノープル征服から12年後の1465年に建設が始まり、13年後の1478年に完成しました。宮殿の名前「トプカプ」の由来はこの宮殿の門の一つに大砲を備えた「大砲の門」(トルコ語で「トプカプ」というそうです。)があり、それにちなんだそうです。

メフメト2世は自らの住まいである宮殿の建設と相まって、他にもたくさんの建物を建設しています。中でも特に彼が力を入れたのがイスラムの祈りの場であるモスクの建設でした。新たな帝都はキリスト教ではなく、イスラム教徒の都であり、そのイスラム教徒にとって、一日5回の礼拝は必須の義務なのです。しかしオスマン帝国が征服した直後のコンスタンティノープルには、先に述べたキリスト教の大聖堂アヤ・ソフィアを除いては、大勢の人々を屋内に収容出来る大きな建物が少なく、これらのものはすでにモスクに転用済みで、今後帝国の都として確実に増え続ける人口を考えると、もっと数多くの新たなモスクが必要になってきたのです。

人口の話になったので、その方面に着目すると、コンスタンティノープル攻防戦前の人口は先に述べた様に4万程度でしたが、陥落後の人口はオスマン軍による略奪と、市民を奴隷として市外に連れ出した事により、占領軍を除いてはほとんどいなくなってしまっていました。

そこでメフメト2世は激減した人口を増やし、再びこの街を活気ある都にするために人々を呼び戻す事にします。その一番手っ取り早い方法として彼が行ったのが先のトプカプ宮殿や多くのモスクの建設などの一連の「公共事業」でした。新たな建物の建設のために多くの建設業者や職人が集められ、帝都は一大建築ブームとなります。建築には多くの物資が必要であり、その物資の運搬には大量の船が欠かせません。

そしてその物資と船を大量に準備出来たのが、当時地中海を2分する勢力を誇っていたイタリアの2大海洋都市国家ヴェネツィアとジェノヴァでした。そしてこの街を拠点に長く東西交易を続けてきたこれらのヴェネツィア、ジェノヴァの商人たちに大量の注文が入り、彼らは喜び勇んで商売を再開していきました。

このコンスタンティノープルが長く繁栄したのは、その位置がヨーロッパとアジアを結ぶ、東西の文明の十字路に当たる格好の場所にあったからです。ヴェネツィアやジェノヴァの商人たちが交易を再開すると、それを目当てにさらに様々な物売りの商人たちが新たな都に集まってきます。メフメト2世はこれらの商人たちを一ヶ所に集め、3千軒もの店が入れる巨大な屋根つきの市場を建設しました。これが名高い「グランド・バザール」です。


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上が現在のイスタンブール市内のグランド・バザールの内部の様子で、現在はおよそ4千軒もの店が軒をならべています。また「グランド・バザール」という名称は英語であり、現地のトルコでは「カパルチャルシュ」(屋根つき市場)というそうです。あまりに広くて数多くの店が立ち並んでいるために全容を写真でお見せするのは困難ですが、上の写真の様に正に迷宮となっています。(こんな所で買い物していたら、きっと迷子が絶えない事でしょうね。笑)このグランド・バザールでは「手に入らないものは無い。」といわれるほど様々なものが売られていますが、最も人気があるのは下の写真の様なまばゆい金製品です。

メフメト2世はこのグランド・バザール以外にも、市民の生活を支えるための市場(マーケット)を数多く造らせ、いわゆる市場経済を活性化させていきます。商人たちにはこれにより得られた収益の一部を税の他に納めさせ、それを財源として、上下水道、学校、病院、公共浴場など、市民生活に必要なさらに多くの様々な公共施設を建設して、住み良い街づくりをどんどん進めていきました。

こうした彼の一連の政策によって、陥落後荒廃して無人に近い状態だったコンステンティノープルはメフメト2世の治世の最晩年の1480年頃には、人口12~13万にまで回復し、帝国の更なる拡大と共に、放っておいてもさらに増えてますます繁栄していくまでになっていったのです。

最後に、この街の現在の名称である「イスタンブール」についてですが、これはトルコ語ではなくギリシャ語で「街へ」を意味する「イス・ティン・ポリン」に由来しているそうです。

次回に続きます。

ドラキュラとの戦い ・ トルコも恐れた串刺し公

みなさんこんにちは。

千年続いたビザンツ帝国を滅ぼし、その都であったコンスタンティノープルに帝都を移したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、新たに手に入れたこの街をイスラムの都にふさわしい街に造り変えるため、様々な手段を講じて街を建て直し、それによりかつてコンスタンティノープルと呼ばれていたこの街は、オスマン帝国の帝都「イスタンブール」と名を変えて昔日の繁栄を取り戻しつつありました。

しかし、この若い皇帝の野望はそれだけでは収まりませんでした。彼はその後も東西に活発な征服活動を続けていき、さらに帝国の領土を拡大していくのですが、その第一段階におけるバルカン半島征服において、その強大さと勇猛果敢さでヨーロッパ諸国に恐れられたオスマン軍将兵ですら震え上がったある「人物」が立ちふさがり、メフメト2世率いるオスマン帝国に計り知れない心理的恐怖を与える事になりました。 今回はその辺りのお話です。

1453年にコンスタンティノープルを攻め落とし、ビザンツ帝国を滅ぼしたメフメト2世は、先に述べた新たな帝都イスタンブールの建設を進めながら、次の征服先をどの方面にするか思いあぐねていました。


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)上の画像はイラストですが、きっとこんな風に酒を飲みつつ、建設中のイスタンブールで海を眺めながら思いをめぐらせていた事でしょう。(自分の勝手なイメージです。笑)

彼には2つの征服先がありました。1つ目は西のヨーロッパ方面、そして2つ目はオスマン帝国発祥の地アナトリアと、その先に広がるアジア方面です。当時西のヨーロッパ方面は、セルビア、ブルガリアなどを属国として従えていたものの、アルバニア、ボスニア、ワラキア、モルダヴィアなどといったそれ以外のキリスト教諸国は今だオスマン帝国に服属していませんでした。そしてそれらの諸国を背後から操り、オスマン帝国との防波堤、いわば「盾」として戦わせていたのがさらにその北方の強国ハンガリー王国でした。


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上がこの頃のハンガリー王国の勢力範囲です。バルカン半島支配とさらなるヨーロッパ進出を目論むオスマン帝国にとって、ヨーロッパ方面における第一の敵国はこのハンガリーでした。

さらに東へ目を転ずれば、アナトリアにはオスマン帝国にとって古くからのライバル国であるカラマン君候国と、黒海沿岸には旧ビザンツ帝国の「親戚国」ともいうべきトレビゾンド帝国があり、その背後にはそれらを支援し、現在のイラン、イラク一帯に強大な勢力を誇った「白羊朝」と呼ばれる大国がひかえていました。

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上がその「白羊朝」(ホワイトシープ朝)の勢力範囲です。この白羊朝という国家については、イスラム世界の歴史に詳しい方を除いては、日本でご存知の方は非常に少ないと思いますが、1378年ごろに当時この地域に大勢力を振るっていたティムールの下で、それに従って力を蓄え、ティムールの死後はライバルであった「黒羊朝」(ブラックシープ朝)を倒してその領土を乗っ取り、(上の図の赤い部分です。)ティムール朝の混乱に乗じて勢力を拡大して、最盛期の王であるウズン・ハサン(1423~1478)の時代には、上の様にオスマン帝国を大きく脅かす存在にまでなっていました。

メフメト2世はオスマン帝国を取り囲むこうした諸々の事情を考慮した結果、まずは西のヨーロッパ方面を征服し、アジア方面はそれが一段落してから随時遠征を行う事に決します。

彼は1456年7月、バルカン半島全域征服を目指し、セルビア北部の要衝ベオグラードを攻撃します。この街を取れば、オスマン軍はバルカンはおろか中央ヨーロッパにまで侵攻する事が出来るのです。しかしここで彼らは、ベオグラードを守るために待ち構えていたハンガリーの摂政フニャディ・ヤノシュ率いる防衛軍によって手痛い損害を受け、多くの兵を失って撤退を余儀なくされてしまいます。


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上の1枚目がベオグラードの位置で、(赤く示されている範囲が現在のセルビア共和国で、ベオグラードは同国の首都です。)2枚目がベオグラードを守り抜いたハンガリー摂政フニャディ・ヤノシュです。(1386?~1456)彼はハンガリーの王ではありませんでしたが、同国最大の力を持つ大貴族で、彼とその息子で後にハンガリー王となるマーチャーシュ1世(1443~1490)の親子2代50年余りは、ハンガリー王国が最も強大であった時期です。

このベオグラード攻略の失敗がオスマン軍に与えた衝撃は大きかった様で、以後オスマン帝国はメフメト2世のひ孫であるスレイマン1世の時代まで65年もの長い間、ハンガリー侵攻を断念せざるを得なくなります。

しかしベオグラード攻略には失敗したものの、それは局所的な敗北に過ぎず、オスマン帝国によるその他のバルカン地域の征服は比較的順調に進んでいました。1459年にはベオグラード以南のセルビア領を支配下に置き、1460年までに旧ビザンツ帝国の遺領である全ギリシアを征服、1463年にはボスニア王国を滅ぼします。

メフメト2世はここで東に目を向け、1461年に先に述べた白羊朝の支援を受けていたビザンツの最後の後継国家トレビゾンド帝国に侵攻、最後の皇帝一族を捕えて処刑し、これを滅ぼします。


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上の地図の右下、黒海の最も奥の赤枠で示された一帯がトレビゾンド帝国です。(分かりにくくてすいません。汗)この国家は1204年の第4回十字軍で、西欧諸国の謀略によりドサクサに紛れて一度だけ帝都コンスタンティノープルが陥落した際に、当時のビザンツ帝国の皇帝家であったコムネノス王朝がこの地に亡命政権を打ち建てて出来た国です。「帝国」とはいっても規模は小さいながら、黒海の豊かな産物と東西交易から上がる収入を背景に周辺国としたたかに渡り合い、生き延びてきた国でした。しかし今度ばかりはその命運も尽き、ついに滅亡の時を迎える事になりました。いずれにせよこのトレビゾンド征服により、旧ビザンツ帝国の勢力は名実共に完全に滅び去ってしまいました。

このトレビゾンド征服は背後の白羊朝の王ウズン・ハサンを怒らせ、メフメト2世と彼は後に対決する事になるのですが、それは後に譲る事にして、そのメフメト2世の征服事業を大きく狂わせる一人の人物が、バルカン半島にその存在をあらわにしました。その人物の名はワラキア公ヴラド・ツェペシュ、後に「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなる男です。


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上がそのワラキア公ヴラド・ツェペシュです。(1431~1476)すごい強烈なインパクトのある顔の人物ですね。(笑)彼はわが国では、先に述べた「ブラド・ツェペシュ」の名で歴史好きな方には知られていると思いますが、正式にはワラキア(現ルーマニア)公ヴラド3世といい、ツェペシュというのは現地のルーマニア語で「串刺しにする者」という意味で、いわばニックネームとして付けられているのだそうです。

彼について今回取り上げたのは、歴史に残忍な王侯貴族は数あれど、その中でもこの人物が群を抜く残忍さで敵味方双方に恐れられた「恐怖の王」であり、その血まみれの生涯が、誰もが知る世界で最も有名な怪奇フィクションである「ドラキュラ」のモデルになった点に興味を引かれたからです。

このヴラド公は1431年、ワラキア公であった父ヴラド2世の次男として生まれました。この年、父2世は神聖ローマ皇帝からドラゴン騎士団の騎士に任ぜられ、「竜公」(ドラクル)と呼ばれる様になり、その子である彼は「ドラクレア」と呼ばれ、これが先に述べた小説「ドラキュラ」の語源になったのは容易にご想像が付くと思います。

しかし当時のワラキア公国はハンガリー王国とオスマン帝国の2大勢力に挟まれ、絶えずその影響に翻弄される小国でした。ヴラド3世も少年時代から弟ラドゥと共に両国に人質に出されてしまいます。その間に打ち続く戦乱、さらに父や兄を殺されるなど、少年時代から殺戮を目の当たりにして成長した事が、その後の彼を人々から恐れられる恐怖の王へと醸成していく事になります。

彼は成長すると1456年に25歳でワラキア公になります。(その彼を支援したのが、ベオグラードでメフメト2世の大軍を撃退したハンガリー摂政フニャディ・ヤノシュでした。)ワラキア公となったヴラドはこれまでの経験から、貴族たちに頼らない自分直属の軍勢を組織し、領内の貴族たちを次々に制圧して自分一人に権力を集中させます。(伝説ではヴラド公は貴族たちに和睦を申し入れ、その証として開いた酒宴の席で、油断した彼らを皆殺しにしたそうです。)その時に彼が使った手段が、例のニックネームに表される彼に歯向かう者への「串刺し」に代表される恐怖支配です。


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上の絵は当時描かれた絵です。この「串刺し」という処刑法は、非常に凶悪な重罪人で、かつ身分の低い者にのみ行われたものでしたが、彼はこの串刺しを貴賤の区別無く行い、見せしめとして盛んに国中にさらしていきます。

「ヴラド公は自分に歯向かう者を好んで「串刺し」にし、その串刺しの林を眺めながら食事を楽しんだ。」

彼の残忍な支配は、当時発明された活版印刷によって上の様なヴィジュアルな形で表現され、大量に印刷されてヨーロッパ中に盛んに宣伝されました。(実際に彼がこの様に食事していたか定かではありませんが、西欧には誇大に伝えられていった様です。)

他にも、疫病や伝染病の蔓延を防ぐため、病人や貧民、かつてジプシーと呼ばれた放浪の人々を一ヶ所の建物に集め、火を放って建物ごと焼き殺したなどという話も伝わっています。真偽は定かではありませんが、500年以上も連綿と語り継がれているからには事実なのでしょう。いずれにせよかなり冷酷非道な怖い王であったのは本当の様です。

それにしても、なぜ彼はこの様な残忍な方法で人々を恐怖に落としいれたのでしょうか? それは彼の国ワラキアが、オスマン帝国をはじめとする周囲の国から侵略されないようにするための、いわば「血まみれのパフォーマンス」でした。

思うに戦の勝敗というのものは、大軍で相手を圧倒すれば必ず勝てると決まっているものではありません。どこそこに遠征するとかを自由に決めるのは王や皇帝でも、実際に戦うのは末端の将兵たちです。その敵の将兵たちを戦う前から怖がらせて士気を削ぎ、敵兵を心理的パニックで総崩れに追い込む事が彼の狙いでした。

1459年、メフメト2世はこの恐怖の王ヴラド3世に対し、オスマン帝国への貢納金の支払いを迫ります。貢納金を支払うという事は、つまりオスマン帝国の属国になるという事です。ヴラド公はこれに怒り、メフメトの使者を得意の「串刺し」にして処刑してしまいます。

怒ったのは当然メフメト2世です。彼は1460年に大軍を率いてワラキアに侵攻し、ヴラド公を追い詰めようとしますが、ここで彼の駆使した少数の兵によるゲリラ戦や、焦土作戦によって苦戦を強いられます。メフメト2世は圧倒的な物量と財力にものを言わせ、大軍で攻め込んだのですが、ヴラド公は配下のワラキア軍2万を分散させ、いつ果てるとも知れないゲリラ戦に持ち込んでオスマン軍を悩ませます。そしてヴラド率いるワラキア軍の攻撃を受けたオスマン軍部隊の後に残されるのは、あの串刺しにされたトルコ兵たちの姿でした。

このヴラド公の作戦はオスマン軍に前述した様な大きな心理的恐怖を与え、メフメト2世はワラキア攻略を一時中断して本国に撤退してしまいました。

ここまではヴラド公の計算通りでした。彼は当時最強のオスマン帝国軍をはるかに少ない軍勢で見事に撃退し、彼の軍勢は一時4万にまで膨れ上がったのです。しかし彼は人々を恐れさせ過ぎました。ヴラド公のあまりの恐怖支配に対し、それまで彼を恐れて服属していたワラキアの貴族たちや民衆が次第に離反して行きます。そんなワラキア情勢を素早く逆手にとって反撃に転じたのがメフメト2世です。

メフメトは人質としてオスマン帝国にいたヴラドの弟ラドゥを新たなワラキア公に推挙し、ヴラドの下を離反したワラキア貴族たちを味方にしてヴラド公を追放する事に成功したのです。彼はその後北部のトランシルヴァニアに落ち延びますが、その地でハンガリー王マーチャーシュ1世に捕えられ、12年もの間幽閉されてしまいます。(「幽閉」といっても、ハンガリー王から大きな城を丸ごと与えられ、監視付きではあっても外出は自由で、何の不自由もなかった様です。)

やがて彼は釈放され、1476年に再びワラキア公に返り咲くのですが、再度侵攻したオスマン軍との戦いでついに命運尽き果て、戦死してしまいました。しかし、かつてヴラド公の恐怖支配に苦しんだワラキアの人々は彼の死を信じられず、再びこの様な恐ろしい王が生き返らないよう、ヴラドの遺体の胸に太い鉄の釘を打ち込んだそうです。


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このヴラド・ツェペシュの恐怖の物語は、彼の話を基に上に載せた19世紀末のイギリスの作家ブラム・ストーカー(1847~1912)によっておどろおどろしく創作され、「吸血鬼ドラキュラ」として出版されて誰もが知るドラキュラ伯爵のモデルになったのは前述した通りですが、今日のルーマニア本国では、このヴラド3世はオスマン帝国の脅威に敢然と立ち向かった英雄として評価され、彼に対する残忍な言い伝えは、当時のハンガリー王らが意図的に彼を悪者に仕立てるために誇大に捏造されたものであるとして修正する動きがある様です。

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上はヴラド3世の居城であったブラン城です。

ヴラド・ツェペシュは今日では、なんといってもあの「ドラキュラ伯爵」のモデル、そしてルーマニアが世界に誇る最も有名な人物としてその名を刻み、上に載せた彼の居城ブラン城には世界中から多くの観光客や「ドラキュラファン」が後を絶たず、ルーマニアで最大の人気観光スポットになっています。(当地の観光収入も相当大きいでしょうね。)かつて恐怖で人々を支配した彼は、今日では思わぬ形で人気者(?)となってルーマニアに大きく貢献しているのです。

みなさんもヨーロッパに旅行される機会があれば、フランスやイタリアといった王道の西ヨーロッパ諸国だけではなく、バルカン半島や東ヨーロッパ諸国を訪ねられてみてはいかがでしょうか? そしてもしルーマニアに行かれる事があれば、ぜひこのブラン城も訪ねて見ましょう。もしかしたら、上の様なドラキュラ伯爵が出迎えてくれるかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

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