恐るべき日本核武装計画 ・ 宰相佐藤栄作の極秘指令

みなさんこんにちは。

みなさんは現在、世界にどれだけの数の国があるかご存知でしょうか? 外務省の最新のデータによれば、現在この地球上には196の国があるそうです。(2013年時点)そしてその中で、国連に加盟している国は193カ国に上ります。(加盟していないのは、宗教上の理由から加盟していない「世界で最も小さい国」として知られるバチカン市国や、独立したばかりで加盟準備が出来ていない国などです。)

さらにその中で、核兵器を保有している国は8カ国あります。言わずと知れたアメリカとロシアをはじめ、イギリス、フランス、中国の5カ国に、東西冷戦終結後、「自衛のため」に世界の反対を押し切って核兵器を開発したインド、パキスタン、北朝鮮です。それ以外に、公式ではありませんが中東のユダヤ人国家イスラエルが核兵器を持っているといわれています。(「いわれている。」というより、確実に持っているでしょう。なぜならイスラエルと4回に亘る熾烈な中東戦争を繰り返したアラブ諸国が、その後1度もイスラエルと戦争していないのは、もしイスラエルを攻撃すれば、彼らは間違いなく核で反撃して来るので、周辺のアラブ諸国の方が危険だからです。)

「核兵器」 それは原子核分裂による膨大なエネルギーによって、鋼鉄をも溶かす高温の熱線と猛烈な爆風で、地上の生きとし生けるもの全てを一瞬にしてこの世から消滅させる威力を持つ、人類がこれまでに作り出した究極の最終兵器である事は誰もがご存知ですね。そして世界196カ国の中で、その核兵器による攻撃を唯一受け、筆舌に尽くせない被害と惨めな敗戦により300万以上の尊い人命を失い、その自虐的な反省から「平和国家」なる妄想的理想を掲げているのが今日のわが日本です。

その世界で唯一の被爆国にして「平和国家」である日本で、かつて政府が核兵器を保有しようと具体的な検討と調査研究を進めていたという恐るべき事実をご存知でしょうか? 今回はその「幻の日本核武装計画」についてお話したいと思います。

話は1964年(昭和39年)にさかのぼります。

この年の10月10日、わが国ではアジア初の東京オリンピックが開催され、国内はこの一大イベントに浮かれ騒いでいました。あの惨めな敗戦と見る影も無い無残な焼け跡からわずか19年、日本は国民のたゆまぬ努力によって世界が驚嘆する驚異的なスピードで復活を成し遂げ、その日本復活の国家的シンボルイベントともいうべき夢の祭典であるオリンピックに国民が酔いしれていた頃です。


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上は第18回国際オリンピック東京大会開会式におけるわが日本選手団の入場行進の様子です。名誉総裁として昭和天皇が開会の宣言をお読みになられ、当時のわが国はこの盛大なスポーツイベントに、上は天皇陛下から、下は街角の子供たちに至るまで心躍らせていました。またこのオリンピックに合わせ、これもアジア初の超特急「新幹線」が少し前の10月1日に開業し、全国では高速道路の建設が急ピッチで進められるなど、日本はその歴史上初めて経験する空前の高度経済成長時代の真っ只中にありました。

しかし、日本政府と国民がその夢のオリンピックに夢中になっていたわずか1週間後の10月16日、日本政府を驚愕させる事態が起きていました。隣国中国がアジアで初の核実験に成功したのです。


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上の画像1枚目がこの時に中国が実験に使用した核爆弾のレプリカで、2枚目がその時のキノコ雲です。写真で見るとずんぐりむっくりした形をしていますが、これはこの爆弾が、長崎に投下されたタイプと同じウラニウム型核爆弾で、構造上この様な丸みを帯びた形になるのだそうです。そして3枚目が実験が行われた新疆ウイグル自治区の位置です。実験はなんとあの「さまよえる湖」と消えた幻の都市国家「楼蘭王国」で知られる有名なロプ・ノール周辺地域で行われました。もし古代へのロマンに魅せられて、この放射能まみれの地域に旅行など計画されている方がおられましたら、「絶対に」お止めになる事を心からご忠告いたします。

この現在「新疆ウイグル自治区」なる名で呼ばれる「新疆」とは「新たな征服地」を意味し、かつてこの地を征服した中国最後の王朝である清王朝でそう呼んでいた事に由来しています。つまりチベットと並んでこの地はもともと中国ではないのです。また、この地で中国はこれまでに合計40回以上もの核実験を住民へ知らせもせずに行い、この地域の数十万のウイグル人が放射能汚染の犠牲となって死亡し、その影響から現在も3万人以上の奇形児が次々に生まれてきてしまっているそうです。「中国」という国がどういう国なのか、多くの国民の方々に知って頂きたいものです。(怒)

さて、日本ではこの事実に最も脅威を感じていた人物がいました。その人物とは、オリンピック終了直後に就任した時の佐藤栄作首相です。


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上が当時の内閣総理大臣佐藤栄作氏です。(1901~1975)彼は前回お話した岸信介元首相の実弟で(兄信介氏の姓が違うのは、信介氏が佐藤家の婿養子であった父の実家である岸家を継ぐために、岸家の養子になったためです。戦前の日本はこうした封建時代の厳格な家督相続の制度がありました。)兄と同じく東京帝国大学(現東京大学)法学部を出て鉄道省に入省しましたが、早くから順調にエリート官僚の道を進んだ兄と違い、若い頃の彼は長い地方勤務や左遷などでかなり苦労した様です。しかしこうした苦労が、後に彼をしたたかな政治家へと成長させ、日本の歴代首相で最長となる7年8ヶ月もの長期政権を実現させる事になりました。(現安倍信三首相の母方の大叔父に当たる人です。)

佐藤首相は就任から2ヵ月後の1965年(昭和40年)1月に訪米し、日米首脳会談で当時のアメリカのジョンソン大統領にこの中国の核実験成功と、これに対する「懸念」を伝えます。しかしこれは、日本首相としての彼の立場上の遠まわしの表現であり、個人としての彼は、これを日本に対する大きな脅威であると断じ、はるかに踏み込んだ考えをジョンソン大統領に伝えていました。

「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきと考えている。」


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上が会談するリンドン・ジョンソン大統領(1908~1973)と佐藤首相です。ジョンソン大統領は暗殺された先代のケネディ大統領の後任として副大統領から昇格し、政権を引き継いでいました。理想主義で議会との対立が多かったケネディの失敗から、巧みな議会工作で人種差別撤廃の公民権法を成立させるなどの功績の傍ら、当時激化していたベトナム戦争に一気に「ケリをつける」ために50万を越える大軍を送り込む積極攻勢で、逆に泥沼の戦いに陥ってしまいます。

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上は佐藤首相が日本と中国が戦争になった場合に、アメリカに中国を「先制核攻撃」する事を希望したという驚くべき事実を掲載した新聞記事です。彼はそこまで考えていたのです。

個人的とはいえ佐藤首相のこの発言にジョンソン大統領は驚き、彼にそれを思いとどまらせるよう説得します。この時は2人の個人的見解を述べるに留まりましたが、この佐藤の発言がジョンソンに与えた影響は大きかった様です。アメリカはその後「核軍縮」の名の下に、これ以上核兵器保有国を増やさないため(というよりこれ以上他の国に「核兵器を持たせない」ため。)たまたま核兵器保有国が国連の常任理事国5カ国と同じであった事を良い事に、1968年(昭和43年)7月に「核拡散防止条約」(NPT)を制定、各国にこの条約への加入を促し、62カ国がこれを批准します。

当然日本も真っ先にこの条約を批准したと思われるでしょうが、実は以外にもわが国はこの条約の批准を先送りしていました。確かにこの条約により、これ以上核兵器保有国が増える心配はなくなりましたが、佐藤首相の懸念と不安は払拭されたわけではなかったからです。また日本政府内では佐藤首相と同様の危機感を持つ者が多数いると同時に、それとは別の考えを持っていた者たちがいました。というのも、この条約は「核軍縮」の大義名分の下に、経済成長で力を付けた日本やドイツ(当時は西ドイツ)などに核兵器を持たせない事が目的であったからです。

「これを批准すれば、わが国は永久に2流国として格付けされる事になる。それだけは絶対に耐え難い。」

日本政府内ではこうした意見を持つ政治家や官僚が多く、それが日本のNPT参加保留の大きな理由でした。彼らは日本が唯一の被爆国であるといった情緒的な理由で頭から核兵器を持たないというのではなく、日本国家の至高の利益が脅かされる様な緊急事態になれば、日本も自衛のために核武装して当然であると考えていたのです。

そこで佐藤首相は、首席秘書官ら側近たちにある極秘指令を命じます。それはなんと日本が核武装するに当たり、その技術的かつ物的な可能性を調査研究し、報告せよという驚くべきものでした。側近たちは早速その指令を政府直属のある「特殊機関」に実行させます。その特殊機関とは、日本の国家情報局ともいうべき内閣調査室でした。(現在は「内閣情報調査室」略して「内調」と呼ばれています。)


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上が内閣調査室のある内閣府の建物です。現在内調はおよそ170名ほどで構成され、そのほとんどが警察官僚出身者である様です。

内調はその極秘任務のために、当時の日本の第一線級の核物理学者や安全保障の専門家、防衛庁の担当幹部らも集め、極めて詳細な調査研究を行い、それを報告書にまとめて上層部(つまり佐藤首相)に提出しました。その主な内容は以下の通りです。

1 核爆弾製造の技術

2 核物質製造の技術

3 ミサイルに使うロケットの技術

4 目標を正確に攻撃するための誘導装置の開発技術

さらに核兵器の原料となるプルトニウムの製造法などです。そして報告書は結論として「原爆を少数製造する事は可能であり、比較的容易である。」としています。

では、当時の日本に内調が報告した様な核兵器開発の技術が果たして本当にあったのでしょうか? 実はそれがあったのです。ちょうど1966年(昭和41年)7月、日本で最初の原子力発電所が茨城県東海村で稼動を開始していたからです。報告書は、この東海原子力発電所で核爆弾の製造に必要な純度の高いプルトニウムが年間100キログラム以上取り出す事が出来るとしています。これは長崎に投下された原爆を10発以上製造出来る量でした。


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上が日本初の東海原子力発電所です。この発電所は1998年(平成10年)に老朽化により稼動を停止、現在廃炉作業が進められています。(この原発は出力が16万キロワット程度と小さいのですが、それでも年間10発もの核爆弾を作れるだけのプルトニウムが抽出出来たのですから、その後に全国に建設されていった100万キロワットを越える大出力の原発を合わせれば、恐ろしい数の核兵器を製造出来る事になりますね。驚)

しかし内調の報告書は、日本の核武装について「容易に可能であるが、その実現には大きな困難がある。」と結んでいます。なぜなら日本が核武装すれば、周辺国はもちろん日本にとって最大の(というより唯一の)同盟国アメリカをも敵に廻す事になり、また広島と長崎の経験から国民も大反対する事が目に見えていたからです。

報告書を読んだ佐藤首相は、これにより最終的に核兵器開発の構想を断念したものと思われます。しかし、これでは彼が最も恐れた中国の核兵器に対して日本を防衛する手立てが無くなってしまう事になります。そこで彼は1967年(昭和42年)の2度目の訪米で、ジョンソン大統領にその意向を「日本の意思」として伝えます。その代わり、彼はアメリカに対して次の様な要求を求めました。

「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守るという約束を期待しています。」

それに対し、ジョンソン大統領はこう答えたそうです

「私が大統領である限り、我々の間の約束は守りましょう。」

同時に佐藤首相は、当時のロバート・マクナマラ国防長官にもこう言っています。

「日本の安全確保のために核兵器を持たない事ははっきり決心しているのだから、日本は米国の核の傘のもとで安全を確保する事に致します。」

こうしてわが日本は、戦時における自国の防衛を大きくアメリカに依存する道を自らの意思で選択したのです。この選択は日本としては、当然の帰結としてやむをえないものでしたが、先に述べた政府内のNPT反対派は不満をあらわにします。

「これではわが国は、2流国どころか自国の防衛すらアメリカに依存する属国になってしまうではないか。」

帰国した佐藤首相を待っていたのはこうした政府内の大きな不満でした。そこで彼はこうした不満を取り除くために新たな方策を講じる必要に迫られます。そこで彼の側近たちが考え出したのが「非核三原則」でした。これは核兵器を

「持たず、作らず、持ち込ませず。」

という3つの単語を並べた、まるで小学生の標語の様な極めて単純なものですが、実はその単純さの裏には、その表す言葉の意味の他に、もう一つの秘められた大きく複雑な事情と目的が込められていました。

「彼らNPT反対派は、日本が核保有国とならぶ超大国として世界を主導していくのを望みとしている。ならばわが国は核兵器を持てない以上それを逆手に取り、唯一の被爆国という他国に無い強みを生かして逆に核兵器廃絶を世界に訴える事で、別格の存在として世界をリードして行けば良い。」

この非核三原則は1968年(昭和43年)1月に佐藤首相の施政方針演説で披露されました。

「われわれは、核兵器の絶滅を念願し、自らもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意であります。」

佐藤首相は国会演説で高らかにこれを読み上げます。しかし当の佐藤首相は、この非核三原則を「ナンセンスだ。」と言って嫌っていたそうです。(本来極秘で核武装を計画したほどの人物ですから当然ですね。しかし彼は、首相としての立場と政権維持のために政府内の不満派を抑える必要があったのです。それにしても、これほど表と裏で行動と考えが別なケースは、他に例を見ないのではないでしょうか?)とはいえこの非核三原則は国会で決議され、その後日本の「国是」となるのです。

それでも、政府内の不満派を完全に納得させる事は出来ませんでした。その筆頭が日本の外交政策を司る外務省の幹部たちです。彼らは日本が「超大国」として世界に君臨するための手段として、日本の核武装を完全否定出来ずにいたからです。そこで外務省幹部らは1969年(昭和44年)2月、世界で日本と同じ立場にあり、かつて第2次世界大戦でともに戦い敗北した同盟国ドイツ(当時は西ドイツ)に極秘で会談を申し入れ、日独両国で連携して核保有を目指そうと協力を要請します。


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上がその日独極秘会談におけるドイツ側の代表であった当時の西ドイツ外務省の政策企画部長エゴン・バール氏です。(1922~)彼は後に西ドイツ首相府副長官(日本で言えば内閣官房副長官でしょうか。)となり、東西ドイツ統一にも大きく貢献した人物です。

第2次大戦の同盟国であった日独の接近は他国(とりわけアメリカ)を警戒させてしまう事から、会談は箱根の旅館で「接待」という形で極秘に行われました。この極秘会談で日本の外務省幹部らは、バールとその部下の参事官らドイツ側に次の様に話を切り出します。

「日本と西ドイツは、アメリカからもっと自立する道を探るべきです。そのために両国が連携する事が、超大国になるために重要だと思います。」

これに対し、バールらはこう答えます。

「あなた方日本とわれわれ西ドイツのおかれている状況は違いすぎます。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定は出来ないのです。」

慎重なドイツ側に対し、日本側はさらに踏み込んだ発言をします。

「15年以内に、インドなど中国以外の他のアジア諸国が核兵器を保有する様な非常事態が起こるものと考えています。その場合、わが国は核保有を検討せざるを得ません。それにわが国は、憲法9条がある事で平和利用の名の下に、すでに誰にも止められる事なく原子力の技術を手にしています。日本は核弾頭を作るための核物質を抽出する事が出来るのです。」

この極秘会談は、結局双方のおかれた立場の違いから物別れに終わりましたが、とかく「弱腰外交」と批判される事の多いわが日本外務省が、なんとアメリカすら欺きながら、この様な強硬的な裏取引を他国と交わしていたという事実は、極めて興味深い出来事として記憶に値するでしょう。

さて、最後にこの極秘の日本核武装計画の主役である佐藤首相のその後についてお話しておきましょう。彼はその後、1965年(昭和40年に)の日韓基本条約締結や、1968年(昭和43年)の小笠原諸島に続いて1972年(昭和47年)の沖縄のアメリカからの返還を実現させ、先送りしていた核拡散防止条約にも1970年(昭和45年)に署名(批准はさらに遅れて6年後の1976年。やはり政府内の反対は根強かったのでしょうか?)国内においては、1967年(昭和42年)に高度経済成長の負の遺産である公害対策基本法の制定や、1970年(昭和45年)の大阪での日本万国博覧会の開催などといった功績を上げます。高度経済成長の助けもあって、7年8ヶ月という日本歴代首相で最長の長期政権を維持しますが、当時の自民党内部ではさすがに「政権が長すぎる。」と他の派閥から遠まわしの勇退を薦められます。

その意を理解した彼は1972年(昭和47年)7月に退陣し、あの「ロッキード事件」で有名な「コンピューターつきブルドーザー」(笑)こと田中角栄が次の首相となったのは、昭和世代の方なら良くご存知でしょう。


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上は政権を田中角栄に移譲する佐藤栄作です。

退任後の佐藤氏は、1974年(昭和49年)12月に、日本人としては初めてのノーベル平和賞を受賞します。受賞理由は「非核三原則」を打ち出し、世界に先駆けて核軍縮に大きく貢献したというものでした。


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上はノーベル平和賞受賞の電報を受け取って笑顔を見せる佐藤元首相です。しかし、その笑顔の裏で、彼はその受賞理由とは全く正反対の考えで、極秘に核武装を計画した中心人物であった事は、この世でこれ以上ないほど皮肉な事でした。当のご本人は、本来のご自身の意思とは相反する受賞理由という運命的な皮肉に、内心なんと思っていたのでしょうか?

それから40年以上の時を経た今日、わが国の周辺では隣国中国が再び不穏な動きを見せ、日本やフィリピン、ベトナムなどとの間で領土領海を巡って激しい対立が生じています。現在わが国は、その中国の動きをけん制・封じ込めるためにアメリカと共同で南西諸島方面の軍事力を強化し、最新鋭の艦艇と戦闘機を続々と増強配備していく計画です。海上航空戦力で日米に敵わない事を最も良く分かっている中国が、最後の切り札として持ち出して来るのは当然核戦力でしょう。

現在のわが日本政府がこの時にどうするつもりでいるのかは分かりません。しかし、実際にそんな非常事態に立ち至り、核戦争の危険から自国を守るためにアメリカが日本防衛を放棄する様な事になれば、わが日本はそこは怖い国で、「非核三原則」などあっさり捨てて、必ず躊躇する事なく速やかに核戦力を保有するでしょう。

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日本が核武装する可能性は、非核三原則の出現によって決して消滅してしまったのではありません。それは今でも日本政府の中で生き続け、日本国家存亡の最後の究極の手段として残されているものと思われます。なぜならわが国は「3日もあれば」核兵器を持てるほどの国なのですから。ご興味のある方は上にご紹介する本をどうぞ。あの田母神俊雄(たもがみ としお)元航空自衛隊空将(空軍大将に相当)閣下の著作の一つです。氏は航空自衛隊(いつまでこの曖昧な名で呼ばなければならないのか。早く「日本空軍」と呼びたいものです。)航空総隊司令官や航空幕僚長を歴任し、わが皇国の空を守った現代の軍人です。

私たち日本国民は、国家に対して経済活動ばかりではなく、外交と国防という国の存亡に関わる重大事案にも注目し、上層部の人々に一任してしまうのではなく、もっと国民的な議論を盛んにしていくべきであると痛切に考えます。40年以上前の「幻の日本核武装計画」は、それを今日のわれわれ日本国民に突きつけているのです。

終わり。
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三無事件 ・ 知られざる日本クーデター計画

みなさんこんにちは。

平成27年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

当ブログ開始以来、ヨーロッパ関連の歴史ばかり書いてきたので、今回からは気分を変えて日本に舞台を移し、新たなテーマとして「知られざる日本の秘密計画」と題し、われわれ日本人があまり知らない戦後日本の「闇」の部分にスポットを当てた短編ものを2つほどお話したいと思いますので、興味を持たれた方はお立ち寄りください。

みなさんは「クーデター」という単語を時折国際ニュースなどで耳にされる事と思います。これは元は「国家への攻撃」を意味するフランス語で、大抵は政情不安な発展途上国などにおいて、その国の軍隊の司令官などが武力で現政府を倒し、時の大統領ら政府首脳を逮捕、投獄、処刑または追放して(最近は事前に察知して早々に脱出しているケースが多い様ですが。笑)全権を掌握し、その後に形ばかりの選挙をして、圧倒的多数の得票を得て自らが大統領なり首相となって独裁政権を開くというパターンを繰り返している場合が多いです。

わが国や欧米諸国をはじめ、法と秩序、高い知識と教養を持つモラルの高い国民によって形成された民主主義を基本とする今日の先進国ではもはや起こり得ない、少なくとも第2次世界大戦後はこれらの国では一度も起きていない、まさに旧世代の過去の異物というべき無法行為でしょう。

しかしそのクーデターが、かつて一部の極右集団によって戦後のわが国で実際に計画され、あわや実行される寸前であったという事実を、一体どれだけの人がご存知でしょうか? 今回はその知られざる幻の日本クーデター計画「三無事件」(さんむじけん)についてスポットを当ててみたいと思います。

事の起こりは1960年代(昭和30年代)に始まります。

当時日本は、1960年(昭和35年)1月にアメリカとの間で結んだ2国間の軍事同盟、つまり「日米安全保障条約」をめぐる一連の大騒動で国内が揺れに揺れていました。この日米安全保障条約というのは、みなさんもニュースなどで飽きるほど耳にしてきたものと思いますが、改めて簡単に説明させてもらえば、東西冷戦下における日米両国の安全保障のために、日本にアメリカ軍が駐留する事(もちろんその駐留費用は日本の負担です。みなさんもご存知の「思いやり予算」ですね。確か毎年1千億円程度払っているはずです。)を定めたもので、10年を期限とし、その後は一方の希望により1年前の予告を条件として条約を破棄出来るというものです。(しかし、今まで日米両国で1度もそんな話が出た事はありませんので、この条約は「自動延長」という形で現在も有効であり、同時に日米関係の基本となる最も太いパイプであるといえるでしょう。)

問題は、先に述べた駐留経費の負担やアメリカ軍への基地の提供、事実上の治外法権など、ただでさえ日本側に不平等な内容が多いのに、当時この条約を結んだ自民党の岸信介内閣が、あまり慎重な審議をせずに強行採決を行って法案を通してしまった事に端を発します。まだ太平洋戦争敗戦から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かった事や、岸首相がかつて東條内閣の閣僚であった事への反感があったことも影響し、

「安保条約は日本をアメリカの戦争に巻き込むものだ!」

として政府のやり方に反発する野党議員、労働者や学生、市民、それに批准そのものに反対する社会党や共産党などの国内左翼勢力が一斉に反政府運動を展開し、その影響はたちまち全国に飛び火していきます。


当時の日本は高度経済成長が始まる直前であり、国民生活は現在とは比較にならないほど貧しく、質素なものでした。人々はより豊かな暮らしを目指し、明るい未来を信じてただひたすら懸命に働き、頑張っていた時代です。ちなみにこの安保闘争が起きた年、昭和35年度のわが国のGNP国民総生産は13兆6千億円程度だったそうです。(現在わが国では、平成以降国の実体経済を表す指標としてGDP「国内総生産」という数値が使われており、その額は景気の変動によって上下するものの、だいたい500兆円前後ですが、昭和時代はこのGNPという数値が使われていました。その違いはGNP国民総生産が海外での生産活動による利益分を含んでいるのに対して、GDP国内総生産はその名の通り、それを含まない純粋な国内における生産活動の利益のみを表すという点です。)

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上は昭和35年頃の東京の一般庶民の姿です。この時代は大卒の公務員とサラリーマンの平均月収がおよそ1万2~3千円程度だったそうで(現在は19万5千~20万円程度でしょうか。)数字だけ見れば15倍程度になっていますが、当時と今とでは当然物価が全く違うため、単純な比較は出来ません。およその目安としては、10キロのお米がその当時850~900円で買えたそうで、現在は3000~3500円くらい(もっと安いお米もありますが。笑)ですから、この時代の日本人は、現代の日本人のおよそ4分の1くらいの収入(つまり家庭持ちで月収30万円の人は7万5千円程度、という事は物価もだいたい4分の1くらい?)で暮らしていた計算になりますね。いかに貧しくつつましいものであったかご想像頂けると思います。

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上は1960年(昭和35年)6月に国会議事堂前に集結した日米安保条約に反対するデモ隊(こんなの現代の日本では有り得ませんね。驚)と、当時の岸信介首相です。(1896~1987)彼は東京帝国大学(現東京大学)法学部出身でエリート官僚の道を歩み、戦前の東条内閣で商工大臣、戦後には外務大臣と首相を歴任した重臣で、その独特の容貌からまたの名を「昭和の妖怪」といわれた人物ですが、この安保闘争を招いた責任を問われて辞任に追い込まれ、以後は政治の表舞台に顔を出す事は無くなります。(現在の安倍信三首相の母方の祖父に当たる人です。)

この騒然とした国内情勢の最中で、全く別のグループが日本の将来を憂い、彼ら独自の主観で日本のために行動を起こすべく極秘の計画を進めていました。そのグループとは、旧日本帝国陸海軍の元将官、将校や、かつての軍需産業の経営者を中心とする極右・超国家主義者たちです。


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写真上から1枚目が、事件の実質的な首謀者である長崎県の造船会社「川南工業」社長の川南豊作、2枚目が元帝国陸軍少将の桜井徳太郎、3枚目が元帝国海軍中尉の三上卓(彼は戦前の5.15事件で、「話せば分かる。」といって思いとどまらせようとした時の犬養毅首相を「問答無用!」といって射殺した反乱グループのメンバーです。)

彼らは他に、元陸軍士官学校出身の若手メンバーを中心として右翼思想研究組織「国史会」を立ち上げ、さらに彼らにとって「兵隊」として使うために、川南工業の従業員や、もっと若い世代の学生たちからなる「三無塾」を作らせ、その「極秘計画」実行に必要な人手を集めていきます。

その極秘計画とは、「国家革新」を企図し、武力で国会議事堂を占拠、その際辞任した岸信介の後を継いだ池田勇人首相をはじめとする政府首脳らを暗殺し、首都東京に戒厳令を敷いて、臨時政府を樹立するという途方も無い荒唐無稽な計画でした。その具体的な内容は以下の様なものです。

1 昭和36年の第40回通常国会開会式当日(12月上旬)を決行日とし、自動小銃、拳銃、手榴弾などで武装した川南工業従業員や、三無塾の塾生ら配下の手勢およそ200余名をもって全閣僚が揃った開会中の国会を占拠する。

2 閣僚ら政府要人と議員を全員監禁し、抵抗、逃走を図る者は容赦なく射殺する。さらにマスコミには報道管制を敷き、自衛隊には中立を働きかけ、また鎮圧に出動するのを内部から押さえて協力させる。その後で戒厳令を敷き、「失業者、重税、汚職のない平和国家」のスローガンを掲げた臨時政府を樹立する。

ちなみにこの事件の名である「三無」とは、この時に彼らが掲げるつもりでいた3つのスローガン「無税・無失業・無戦争」の3つの「無」からきています。(一体彼らはどうやってこれらを実現するつもりでいたのでしょうか? 言うだけなら簡単ですが。笑)

それにしても、なぜ彼らはこの様な誇大妄想とも言うべきクーデター計画を立てたのでしょうか? それは前段でお話した当時の日本の国内情勢が大きく影響しています。先に述べた安保闘争が全国規模で拡大し、その勢いは政府をも転覆しかねない激しいものでした。そしてその運動の先頭を旗を振って先導していたのが、共産、社会党を支持する左翼系グループでした。

「このまま放っておけば、日本は左翼に牛耳られ、共産化してしまうかもしれない。その前に我々憂国の士がこの危機から日本を救うのだ。」

桜井、三上らの元帝国軍人たちはその掲げる3つのスローガンなど建て前で、本音は純粋に反共とかつての日本、すなわち旧大日本帝国の復活を願っていたのです。一方、この事件のもう一人の首謀者である川南工業社長の川南豊作は、それと同時に軍需産業経営者として別の野望を持っていました。というのは、彼の経営していた会社「川南工業」というのは造船会社であり、戦中は軍の求めに応じて大量の船舶を建造し、急成長を遂げた一大軍需コンツェルンだったからです。

太平洋戦争中、日本海軍は多くの船舶をアメリカ潜水艦によって撃沈され、物資の輸送に欠かせない船舶の不足に悩んでいました。そこで戦前に製缶業で財を成した川南はその経験を元に、ベルトコンベア式で続々と船を建造する案を海軍に提出します。本来ならばこの様な建造法など認められるはずがありません。しかし、海軍の船舶不足は日に日に悪化し、まともな作戦も立てられないほど海軍は追い詰められていきます。

やむなく海軍は川南の案を許可し、大量の船舶の建造を彼の会社に発注します。川南工業はその求めに応じて大量の船舶を建造し、最盛期には彼の会社は従業員1万5千人を数え、一時は日本における造船最大手である三菱重工業の造船量に匹敵する船舶を建造するほどの大躍進を遂げたのです。


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上は彼の川南工業が建造した船舶の1隻で、後に初代南極観測船として有名になる「宗谷」です。この宗谷はそもそも1936年(昭和11年)にソ連からの注文で同型船2隻とともに建造された特別設計の砕氷船で、川南工業は他にも多くの輸送艦や輸送船を建造しました。この時建造されたこれらの輸送船は「戦時標準船」と呼ばれるものですが、実際は粗製乱造で急造されたために船体のあちこちに無理がたたって故障が多く、速度も遅い粗悪な船でした。

この時期は川南にとって人生最良の時だった事でしょう。しかしそれはわずか2年ほどの短くも儚い「夢」で終わります。戦局の悪化と敗戦によって造船の受注は大きく減り、戦後の昭和25年についに川南工業は倒産してしまったからです。

川南はクーデター成功の暁には、当然「臨時政府」で真っ先に自衛隊の実権を握るであろう桜井ら元軍人たちから、自衛隊の艦船や武器弾薬の調達を独占的に請負い、自分の築いた川南工業を復活させて、再び戦時中のあの時の「夢」を再現しようとこのクーデター計画を主導したのです。そのために彼は、この計画で全般の企画と資金・武器の調達を担当します。

川南は戦前に築いておいた政界へのコネクションを通じ、自分の部下数名を何人かの国会議員の秘書として送り込み、国会議事堂内の電源・通信機器の配置や、警備員の数を調べさせ、いざクーデター決行の当日には、これらの者たちの手引きと合図で突入する手筈を整えていました。

こうして彼らが着々と極秘に計画を進めようとしていた矢先の昭和36年12月12日、計画は思いもよらぬ形で露見し、このクーデター計画は未遂に終わります。この日、川南、桜井、三上らの頭目を筆頭とする組織のメンバー13名(最終的に32名)が一斉に警視庁公安部に逮捕されたからです。

それにしても、なぜ警視庁公安当局は彼らのクーデター計画を事前に察知出来たのでしょうか?

実は川南ら国史会の計画には、自衛隊の協力が必要不可欠でした。その自衛隊の協力を得るのは、桜井や三上ら元軍人たちの仕事で、彼らは「軍人同士」のよしみで旧知の自衛隊幹部らに「臨時政府」樹立の暁には自衛隊を中心に据えて国家権力を握るためにその働きかけを行っていたのです。しかしこれが、そもそも彼らの失敗でした。

ところで、世界中どこの国でも、軍隊の中には「憲兵隊」というものがあります。これは簡単に言えば「軍隊の警察」で、軍内部におけるあらゆる犯罪、外国への機密漏えいといったスパイ行為を取り締まるために軍隊を監視するものです。当然わが国の軍である自衛隊にもこれと似た組織があり、現在はこれを「警務隊」と呼んでいます。


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上がその警務隊の隊員たちです。陸・海・空3自衛隊それぞれに警務隊があります。彼らの視線は日々の国防に勤しむ同じ同僚である自衛隊員たちに向けられています。つまり、彼らの主な監視対象は同じ同僚である自衛隊員たちなのです。

この警務隊は上の写真の様に「MP」(ミリタリーポリス)の腕章をしていますが、外国の憲兵隊や戦前の帝国陸海軍の憲兵隊と違い、一般国民に対する警察権の行使は出来ません。また自衛隊内部で犯罪行為や不祥事があっても、現代の日本には旧帝国陸海軍の様に軍法会議や営倉、軍事刑務所といったものも無いので、逮捕した容疑者は検察に身柄を引き渡すだけです。

川南一味のクーデター計画は、どうやら桜井や三上ら元軍人グループが自衛隊幹部に協力を働きかけた事から、その内容の重大さに驚いた幹部の誰かが警務隊に報告し、そこから警視庁公安部が情報を察知して露見したものと思われます。

また彼らの計画自体も、決行の日にちの延期が重なり、また川南らが最初に計画した自動小銃や手榴弾などと言った必要な武器を入手する事が出来ず、使える武器と呼べるものはライフル銃が数丁と日本刀が6~7本という杜撰なものでした。(家宅捜索では、その他に自衛隊の作業衣と戦闘帽が100個、さらに防毒マスク150個に鉄カブト300個などが押収されています。これらはクーデター決起部隊の戦闘服とするつもりだったのでしょう。)

事件発覚後にクーデターのメンバーは「政治目的のため、殺人・騒乱を計画し、その準備をした」として、破壊活動防止法第1号の適用を受けて起訴され、川南とその部下らはそれぞれ懲役2年から1年の実刑判決(桜井と三上など元軍人らは証拠不十分で不起訴。)を言い渡されました。(これほどの大それた国家転覆を企てたにしては刑が軽すぎるように思われるかもしれませんが、その理由は簡単です。彼らはクーデター計画を立ててその準備はしていたものの、実行する前に逮捕された「未遂」だからです。また組織と接触のあった自衛官は34名にも上り、幹部も含めてその全てが中央から左遷されたそうです。)

その後、川南ら組織のメンバーはその多くが2度と社会に顔を見せる事は無く、みな人知れず世間からその姿を消していきました。その後日本は、昭和35年に就任した池田勇人首相の打ち出した国民所得倍増計画(1960年から10年以内に、国民総生産を2倍の26兆円程度まで引き上げるというもので、実際は7年でそれを達成。)によって、高度経済成長の道をまっしぐらにひた走っていきます。それに連れて国民の関心も政治から経済に移り、安保闘争は国民的なものから、一部の学生たちの学生運動に移行していき、さらにそれが究極的なまでに先鋭化した日本赤軍に代表される極左テロリスト組織を生み出します。その彼らの行った数々のテロ行為が、昭和40年代以降日本社会を震撼させていったのは、歴史好きの方ならば良くご存知と思います。

そして事件から50年以上の時を経て、この事件に関わった当時の関係者はほとんどが亡くなり、この幻の日本クーデター計画「三無事件」は、戦後日本の動乱期における瑣末な出来事の一つとして、今や人々の記憶からも忘れ去られようとしています。


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上の写真は事件の首謀者である川南がかつて戦時中に経営していた造船所の廃墟です。驚いた事にこれらは創業者も会社も無くなったのに、つい数年前まで放置されたまま残されていた様です。しかしついに2012年に取り壊され、撤去されて跡地は公園として整備されたそうです。

しかし、かつて50年以上前、この廃墟をアジトとして日本を武力で支配しようとしたある一党の集団がここに集結し、「国家の革新」を合言葉に奇声を上げていた事は紛れも無い事実です。この造船所の廃墟は、過去の亡霊の様な誇大妄想に取り付かれた闇の世界の一群の策謀者たちがわずかな時間に見た鉄の夢を、今の私たちに語りかけてくる様な気がしてなりません。

次回に続きます。
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