太平洋資源輸送作戦(前編) ・ 大海運帝国日本の誤算

みなさんこんにちは。

今年はわが国が死力を尽くして戦い、持てる国力の全てを使い果たして敗れたあの太平洋戦争(大東亜戦争)から70年に当たります。天皇陛下も新年の恒例のご感想でその事に言及され、その中で

「戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていく事が、今、極めて大切な事だと思っています。」

とのお言葉を述べておられます。お正月気分で飲み食いに明け暮れ、すっかりだらけていた自分は、この陛下のお言葉を聴いて新年早々「往復ビンタ」を食らわされた様な激しいショックを受け、同時に自己嫌悪で顔が赤くなる思いでした。そして、いついかなる時でもその事をお忘れにならず、過去の反省と、それを踏まえたわが国の進むべき未来を、常に1億2700万のわれわれ日本国民にお示しになる天皇陛下を改めてご尊敬申し上げる次第であります。

そこで、卑しくも日本国民の端くれの一人として、一体自分に何が出来るかという事を考え、今回から新たに「大日本帝国はなぜ敗れたのか?」と題するテーマを立ち上げる事にしました。思うに国家の歴史とは、そこに住む人間たちの歴史であり、当然国家が過去に犯した過ちや失敗から得られた教訓は、それすなわち私たち個々の一人一人の人間が歩んでいく人生にも活かしていけるはずだと考えるからです。

といっても、わが国が先の大戦においてどんな経緯で敗戦に至ったかを時系列で並べ立ててもつまらないので、これまでほとんど注目されていないが、間違いなく日本が敗れるに至ったその大きな原因を分野別に分けていくつかご紹介し、縁あってこの駄文を読んで頂いた方々に、ビジネスやそれぞれの日常で活躍されている場で、戒めとして役立てて頂ければうれしく思います。

大日本帝国の興亡〔新版〕1:暁のZ作戦 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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かつてのわが国すなわち大日本帝国が、なぜ太平洋戦争に突入し、いかにして戦い、そして破滅するに至ったかを詳細にお知りになりたい方は、上の本が良書です。アメリカ人戦史ノンフィクション作家ジョン・トーランド氏(1912~2004)の代表作で、彼はこの作品でピューリッツァー賞を受賞しています。全5巻400~430ページで各定価1300円ほどになりますが、日本人作家の書いた自虐史観的な面のない米国人の目から見た優れた作品です。

写真 太平洋戦争〈第1巻〉ハワイ作戦・南方攻略作戦 (光人社ノンフィクション文庫)

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また、太平洋戦争をビジュアル的にたどって見たい方には上の本が良書です。上が文庫版で各900円前後、全10巻でページ数は250ページ前後。そして下がそれを刷り直した大型本で、各3400円程度で全5巻、ページ数は320ページ余りになります。主要な戦いにおける日米両軍の艦隊、部隊の装備、兵力、戦力なども写真と共に詳細に文章で記されており、戦史、戦力研究がご趣味の方に良いと思います。ご興味がある方でどちらを買われるかはそれぞれ違うと思うので難しいところですが、何かの資料用としては大型本、暇つぶしや寝ながら読む(笑)なら文庫版が良いでしょう。

さて、第1回は、島国であるわが国と南方占領地との間の知られざるシーレーン防衛戦と、日本輸送船団の奮闘の記録を前・後編の2回に分けてお話したいと思います。

1941年(昭和16年)11月、大日本帝国は重大な決断を迫られていました。前年の9月にアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツおよび、ベニト・ムッソリーニ統帥率いるファシスト・イタリアとの間で結んだ「日独伊三国同盟」と、1937年(昭和12年)から始まる日中戦争の早期決着を目論み、当時の中国の蒋介石政権への米英の物資支援ルート遮断のために陸軍が強行したフランス領インドシナ(現ベトナム)進駐への対抗措置として、アメリカが行った在米日本資産の凍結と、日本への石油と屑鉄の全面禁輸措置によって、資源の無い日本は戦争はおろか、国家そのものが存亡の危機に立たされていたからです。

当時のわが国は石油の90%と屑鉄の全てをアメリカからの輸入に頼っていました。これが一切入ってこないのです。これらがなければ戦争はもちろん、アメリカ、イギリスに次いで世界第3位の勢力を誇っていた連合艦隊がいずれ動けなくなってしまいます。


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上の画像は1枚目がヒトラーとムッソリーニ。2枚目が日独伊三国同盟調印式の様子。3枚目がフランス領インドシナ(当時は仏印)に進駐するわが陸軍部隊です。

「以前の様に石油の輸入再開を望むならば、日本はインドシナはもちろん中国の全てから兵を引け。」

これがアメリカの日本に対する要求でした。もちろん日本としては、この様な要求を受け入れられるはずがありません。もしこれを受ければ、明治以来、わが国が多大の犠牲を払って築き上げてきた中国大陸の広大な征服地を失う事になり、これまでの苦労が全て無駄になるからです。

この事態に当時の大日本帝国では、発足したばかりの東条内閣が、大元帥たる昭和天皇ご臨席の元に、日中戦争勃発の1937年(昭和12年)以来宮中に設置されていた大本営において何度も御前会議を開き、政府と陸海軍の最高首脳らが、今後の日本の国策をどうするべきか議論を重ねていました。

もはやアメリカとの戦争が避けられないのは誰の目にも明らかでした。しかし、相手はあの大国アメリカです。この当時における日米の国力比較は、様々な統計から総合的に日本1に対してアメリカは10ないしそれ以上というもので、中でも原油生産量は、日本1に対してアメリカは720という絶望的な差がありました。(ちなみに、あまり知られていませんが、日本でも石油は新潟や山形などの日本海側で戦前から産出されています。しかしその産出量は、この時代年間20~30万トン程度で、当時の日本の年間最低需要の20分の1以下でした。これでは民間の船も海軍の艦隊も動かせませんね。)


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上がその御前会議の様子です。

当時日本はおよそ850万トンの石油を備蓄していました。これはアメリカによる日本への石油の全面禁輸措置までに、日本政府がアメリカの目をかいくぐり、あらゆる手段を講じて必死で溜め込んだもので、当時の日本の年間石油消費量の2年分に相当する量でした。当面の間はこれを取り崩す事で凌げるにしても、戦争では大量の石油を消費するため、例えば最も石油を消費する海軍が大作戦を行う事を想定すれば、それを差し引くと持ってせいぜい1年半程度です。

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上は山口県徳山市(現在は周南市)にあった海軍第3燃料廠の石油備蓄タンク群です。日本政府と海軍は横須賀、四日市、福岡(外地では朝鮮と台湾にそれぞれ1ヵ所。)などにも上の様な石油備蓄基地を建設して石油を蓄えていました。

そこで大本営陸海軍部は思い切った作戦を天皇に奏上します。それは一刻も早くアメリカやイギリスと開戦し、それと同時に東南アジアの資源地帯を迅速に占領、その資源を海上輸送で持ち帰って生産活動を続け、アメリカと長期自給の戦いが出来る国力を維持する。その間にすでにヨーロッパで戦争をしていた同盟国ドイツが破竹の勢いで勝利を続けるならば、日本もいずれ良い機会を狙って有利な条件で講和出来る様仕向けていく。というものです。

では、この戦略で最も重要な役割を果たす船舶について、太平洋戦争海戦直前の昭和16年末における当時の日本は、一体どれだけの船舶を保有していたのでしょうか? それについては詳細に研究された資料がいくつかあり、それを見ると大小合わせておよそ2440隻、トン数にして約640万トンであったそうです。(この数字は民間船舶の総数であり。戦艦や空母などの軍艦は含まれていません。)つまり、戦前のわが国はイギリス、アメリカに次ぐ世界第3位の大海運国だったのです。

この内、国民生活と国内の生産活動を維持していくためには、最低でも300万トンの船舶が必要とされていました。一方で日米開戦となれば、戦場は広大な太平洋であり、軍が兵や物資の輸送のために大量の輸送船が必要となります。これを残りの数に抑えていく事が長期戦を戦う絶対条件とされ、政府と陸海軍もこれに同意していました。

しかし、この戦略には1つの重大な「見落とし」がありました。それは海上輸送に使用する船舶が敵の攻撃を受けた場合の損害はどの程度なのか? という事がこの数字に含まれていないのです。

そこで政府側が軍部に質問したのが、

「アメリカの攻撃を受けた場合に日本の海上輸送をどうするのか? またその場合のわが船舶の損耗率はどの程度と見積もっているのかお伺いしたい。」

というものでした。しかし、それに対する大本営陸海軍部の答えは、実に虫のいい楽観的なものでした。

「船舶の損失は年に相当あると思われる。しかし防御を強化し、それに沈められた船に代えて新たに建造される船舶もあるのだから、日本の海運に差し支える事はない。」

軍部がこんな大雑把な答えに終始したのには理由があります。実はこの時日本には、それまで戦時における民間船舶の損失の経験がなく、当然それに関する資料が全く無いのです。しかし、天皇ご臨席の御前会議において、その様な根拠の無い無責任な返答をするわけにはいきません。そこで海軍が慌てて引っ張り出したのが、同じ島国の事例という事で、第1次大戦中のイギリスがドイツの潜水艦「Uボート」に受けた損害に関する資料でした。

それによると、輸送船の平均損失はトン数にして年間およそ60万トン前後と推定され、その程度ならば「なんとかやっていける。」と軍部は考えていたのです。また輸送船の長いシーレーンをどう守るのか? についてですが、実際には海軍は海上輸送に対する防御対策などほとんど考えていませんでした。当時の帝国海軍は、日露戦争が終わった直後からアメリカを仮想敵国としていましたが、その戦略は巨大な戦艦を海上戦力の中心とする相変わらずの「大艦巨砲主義」であり、当時の日本海軍の全ての艦艇はこうした時代遅れの考えで建造計画が進められ、整備されていました。つまり開戦当初、輸送船を護衛する専門の艦艇などほとんどなかったのです。(実際には、大正時代に建造された旧式の駆逐艦が30隻以上あり、海軍はこれらを輸送船の護衛に当てるつもりでいました。しかし、実戦ではレーダーもソナーもないこれらの古い老朽艦は、後のアメリカの潜水艦の雷撃の餌食になっただけでした。)

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上は太平洋戦争開戦直後の12月に完成した新型戦艦「大和」です。世界最大最強の戦艦としてあまりにも有名ですが、彼と2番艦「武蔵」の任務は、アメリカの大型戦艦をその巨大な主砲で打ち砕く事でした。(この大和級戦艦は戦局の悪化により2隻のみしか完成していませんが、すでに海上戦闘は航空機と空母を組み合わせた機動部隊が主力となっていたのに、日本海軍はこの大和級の超弩級戦艦を4隻建造する計画でいたのです。)この事自体、日本海軍が日本の生命線ともいうべき海上輸送(シーレーン)の防衛というものを全く考えていなかったのがお分かりいただけるでしょう。

こうして大日本帝国はアメリカとの戦争を決定してしまうのです。

1941年(昭和16年)12月8日、アメリカ太平洋艦隊の基地ハワイへの奇襲攻撃と時を同じくして、日本軍は一斉に東南アジア侵攻作戦を開始しました。開戦に当たり、日本は2つの戦争目的を掲げます。それは「自存自衛」と「大東亜共栄圏の建設」の2つです。開戦から半年で、大日本帝国は太平洋の西半分を征服し、本来の目的であった石油や鉄などの戦争遂行に必要な資源の獲得に成功します。このあたりは、歴史好きの方であれば良く知られた話ですね。


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上は太平洋戦争中の日本の最大版図として良く知られた地図と、インドネシアのスマトラ島パレンバン油田に降下する「空の神兵」ことわが陸軍空挺部隊です。

一方、アメリカは対日反攻作戦として、日本とは全く別の戦略を準備していました。それは「無制限潜水艦作戦」です。アメリカは、日本が資源も食糧も自給自足出来ない島国であるという決定的な弱点を良く熟知していました。そこでアメリカは日本を海上封鎖し、いわゆる「兵糧攻め」にするために大量の潜水艦を放って日本の船舶を片っ端から沈めていく作戦を開始します。

「日本に対して、空中からと潜水艦による無制限攻撃を開始せよ。」

この時、太平洋に展開していたアメリカの潜水艦はおよそ50隻で、これらは開戦と同時に日本の船舶を攻撃するため、西太平洋全域に散らばって行きました。しかし、この頃の戦局は日本軍が圧倒的優勢であり、船舶の損失も予想の範囲内でそれほど多くはありませんでした。そのため日本軍はアメリカ潜水艦を侮り、輸送船に単独航海を続けさせる愚を犯してしまいます。

開戦から半年間の予想外の勝利と大戦果に、当時の日本では国民が歓喜し、全国で戦勝祝賀のイベントが盛大に繰り広げられていました。特に、南方攻略作戦における最大のヤマ場であり、東洋におけるイギリス最大の要塞シンガポールを陥落させた際には、喜色満面のわが帝国政府が戦勝記念のお祝いとして、13歳以下の子供たちに箱入りのチョコレートやドロップ、ケーキなどを配ったそうです。(この時、いったい誰がそのわずか3年後の惨めな敗戦と、見渡す限りの焼け野原の中で飢えに苦しむわが国民の姿を想像出来たでしょうか?)時の東条首相は国民の戦意高揚を図るため、次の様な演説をしています。

「およそ戦争に勝つためには、物質的な武装とともに、精神的な武装が大切であります。物には限りがありまするが、ただ無限にして、無尽蔵なるものは、実にこの精神力であります。」


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上は当時の大日本帝国首相にして、陸軍大臣兼内務大臣の東条英機大将です。(1884~1948)すごい勲章の数ですね。(笑)アメリカに比べてはるかに劣る国力も、精神力で補えるのだというのが彼の持論でした。彼については太平洋戦争開戦の事実上の責任者として、世界中では下のイラストの様にヒトラーやムッソリーニと並ぶ「日本の独裁者」として極悪人扱いをされる事が多いのですが、陸軍を代表して開戦を強硬に主張していた彼も、昭和天皇から首相に任命され、陛下が和平を強く望まれている事を知ると自らの考えを変え、戦争終結に向けて見えない努力をしていた事実をここで述べておきます。

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上は拾いもののイラストです。(笑)

こうして初戦の勝利に酔っていた大日本帝国でしたが、その中で帝国海軍だけはとても焦っていました。なぜなら時間を置くに連れ、次第にアメリカとの国力、すなわち生産力の差が表れるのは目に見えていたからです。情報によれば、アメリカはすでに工業地帯をフル稼働させて大量の艦船の建造を進めており、そのペースは「4ヶ月で戦艦1隻、1ヶ月で巡洋艦1隻、10日で空母1隻、3日で駆逐艦2隻、1日で貨物船2隻を作る。」 という驚異的なもので、このまま時が過ぎれば、2年後の昭和19年以降には艦船の数だけで3倍以上の差が出てしまい、日本海軍が進めていた戦時建造計画など到底太刀打ち出来ないものであったからです。そのため海軍は一刻も早く太平洋で決定的な打撃をアメリカに与え、戦争の早期終結を図る必要に迫られていたのです。

そこで大日本帝国は、海軍主導の下で大幅な作戦地域の拡大を決定します。それは北はアリューシャン列島から南はフィジー諸島に至る広大な海域で積極攻勢に転じ、アメリカが続々建造中の艦船が完成しないうちに、アメリカ太平洋艦隊を撃滅して太平洋の制海権を全て日本の手中に収めてしまおうというものです。その第1段作戦として1942年(昭和17年)6月、日本海軍は総力を挙げてミッドウェー島の攻略を狙います。

その目的はハワイのアメリカ太平洋艦隊をおびき出し、艦船の数では4倍にも達する圧倒的な日本の全艦隊をもってこれを撃滅するというものです。(当時の日本海軍が、ハワイの攻略やアメリカ本土西海岸への攻撃まで考えていたかは諸説あって不明ですが、いずれにせよハワイの太平洋艦隊を叩かなくては先には進めない事は事実です。)しかし、その結果は無残なものでした。海軍の目論見は完全に裏目に出て作戦は大失敗、アメリカ軍の待ち伏せ攻撃で大事な主力空母を4隻も失い、これ以後、日本海軍は1度も戦局を挽回出来ずに一方的な敗退を繰り返していく事になるのです。

さらに同年8月、はるか南のオーストラリアの近く、ソロモン諸島のガダルカナル島で日米両軍の攻防戦が始まります。事の起こりは、日本軍がオーストラリアとアメリカとの連携の遮断を狙った「米豪分断作戦」の最前線基地として、この島に飛行場を建設した事に脅威を感じたアメリカが、太平洋での反攻作戦の第一歩をこの島の奪取に定めた事でした。日本軍はアメリカ軍に奪われた飛行場を奪い返すために何度も陸軍部隊を上陸させます。

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上がそのソロモン諸島とガダルカナル島の位置です

しかし、この島は日本軍の補給基地ラバウルから1000キロも離れており、日本軍は上陸部隊への物資補給のために輸送船団を満足な護衛も付けずに何度も強行突破させたため、待ち構えているアメリカ軍機の攻撃で次々に輸送船を沈められてしまいます。結局、日本軍はガダルカナル奪還を断念して撤退しますが、この半年間の戦いで、日本軍は大事な輸送船を30隻以上も失ってしまったのです。やがて1943年(昭和18年)に入ると、海軍があれほど恐れていたアメリカの新型艦船が次々に就役し、太平洋にその姿を現し始めます。その中には大量の潜水艦も含まれており、日本の輸送船の被害が大きく増大していきました。

ここに来て船舶不足が深刻な問題となって大日本帝国に重くのしかかって来たのです。軍は開戦時に政府と取り決めた国民生活維持に必要な最低限の民需用船舶300万トンから、新たに62万トン軍用に廻すよう要求します。それに対し、東条首相はその半分を認めます。しかしこれでは戦争にならないと大本営は強く抵抗し、断固拒否していた東条首相もついに折れて大本営の要求を認めてしまうのです。そしてそれは日本の物資海上輸送の崩壊の始まりでもありました。

次回に続きます。
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太平洋資源輸送作戦(後編) ・ 日本輸送船団の壊滅

みなさんこんにちは。

1943年(昭和18年)に入り、戦時体制を整えたアメリカは、その巨大な生産力で大量生産した潜水艦を続々と太平洋に差し向けていました。前回もお話した様に、日本を海上封鎖して兵糧攻めにし、資源や食糧などの日本帝国本土への流入を遮断するためです。

これらのアメリカ潜水艦の魚雷攻撃によって日本の輸送船は次々に沈められ、さらに前年のソロモン諸島ガダルカナル島攻防戦によって多くの輸送船を失った日本軍は深刻な輸送船不足に陥り、開戦前に政府と取り決めた日本が保有する全ての船舶640万トンの内、国民生活と国内生産活動のために最低必要とされた300万トンから、新たに62万トンを軍用に廻すよう政府に要求します。

東条内閣はやむなくこの要求を受け入れ、最終的に民需用船舶から58万トンを軍用に転用する事で政府と大本営は同意します。この時点で開戦時に取り決めた民需用国内船舶300万トンの維持は崩れ、242万トンに落ち込んでしまったのです。

この軍による民需用の資源輸送船舶の引き抜きの影響は、たちまち国民生活を直撃しました。なぜならこの時に新たに軍用に引き抜かれた船舶は、開戦前に国民生活と国内産業の維持のために必要な「最低限」の物資輸送船舶の総トン数300万トンの2割に相当するものであったからです。

すでに日本では、開戦の年の昭和16年から米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖など10品目に切符制度が実施され、昭和17年の4月からは米の配給の割りあてが大人一日2合3勺(約330グラム)と決められていました。(だいたいお茶碗1杯くらいでしょうか。1食ではありません。1日でご飯がこれだけなのです。)しかし、この民需用船舶の新たな軍事転用によって、南方占領地からの米の輸入が減ったために、政府は米に代わって「芋」を主食にするよう国民に命じます。


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上はジャガイモの配給に集まる戦時下の人々の様子です。(籠一杯にジャガイモを貰って微笑む少女の笑顔が何よりの救いですね。)

輸送船の引き抜きの影響は食糧の配給だけに留まりませんでした。そもそも大日本帝国が東南アジアに侵攻したのは、南方の豊かな資源を手に入れるためです。しかし、それらの資源を帝国本土に持ち帰る輸送船が全体の2割も減らされた上に、この時軍が引き抜いた船は全て大型船であったため、残された中小の船舶では運べる量に限りがあり、そのため軍需工場や造船所に運ばれるはずの鉄や石炭など、戦争遂行に必要な原材料の供給が減り、武器弾薬の増産がそれ以上出来なくなってしまうのです。(入って来た分しか造れないのですから当然ですね。)

そこで政府は、国民を動員しての「金属回収」まで行いますが、到底足りるはずがありません。特に、新たな船舶を建造する造船所に廻される鉄が減ると、完成を急ぐあまりにやむなく船の強度と速度を犠牲にして外板を薄くした粗製乱造の粗悪な船舶が大量に建造される事になります。こうした船は「戦時標準船」と呼ばれるものですが、これらは速度が遅く、積荷を満載した場合の速度は10ノット程度で(1ノットは時速1.852キロになります。積荷を積んでいない最も軽い状態でも最高速度は13ノットほど。)これでは日本への物資の輸送力はさらに低下する事になり、工業地帯の生産力も日増しに落ちていきました。


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上の1枚目は戦時中の金属回収令でお寺の鐘を供出する人々の様子です。(これは最も良く知られた事例でしょう。他にも、みなさんもご存知の渋谷の忠犬ハチ公の銅像や、仙台の伊達政宗の銅像まで持っていかれたそうです。)2枚目は戦時中増産された「戦時標準船」の1隻です。とにかく一刻も早く完成させるために徹底して工事を簡素化したため、遠くから見てもいかにも「薄っぺらな」船である事がお分かりいただけると思います。

大戦も中盤に差し掛かった1943年(昭和18年)9月末、御前会議は日本の勢力圏を守るために絶対に欠かせない地域を「絶対国防圏」と定めました。それは海軍主導で拡大しすぎた戦線を縮小し、北は千島列島から東はサイパン、南はニューギニアと東南アジアから西はビルマを結ぶもので、ここでアメリカ軍の反撃をくい止めようというものです。


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上が大日本帝国が定めた絶対国防圏の範囲です。(縮小したといっても広大ですね。笑)

この御前会議で、逼迫する国内事情と悪化する戦局に、政府側の原嘉道(はら よしみち)枢密院議長は軍部にこう問いただします。

「絶対国防圏を確保する事は出来るのですか。」

それに対し、海軍軍令部総長永野修身(ながの おさみ)大将はこの様に答えます。

「絶対確保の決意はありますが、戦の勝敗は時の運であります。戦局の前途を確言する事は出来ません。」

なんと弱気な答えでしょうか。これには政府側の原議長も呆れてしまいます。

「軍部が作戦に自信を持てない様では困ります。」

すぐ目の前には、大元帥である昭和天皇が海軍の答えを待って視線を向けておられます。永野大将が冷や汗をかきながら返答に窮していると、首相兼陸相にして、すでに陸軍参謀総長も兼任していた東条首相が、この時ばかりは同じ軍人として永野大将に「助け舟」を出しました。

「今次戦争は、わが国の自存自衛のため已むに已まれず起こったものであります。今後の戦局の如何に関せず、日本の戦争目的完遂の決意には、何らの変更もありません。」

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上がそのお三方です。

こうしたやりとりがあったものの、この御前会議では初めて輸送船の護衛体制を強化する事も決定されました。そのための専門部隊として「海上護衛総隊」が創設され、さらに輸送船の単独航海を禁止し、護衛艦の護衛の下で必ず船団を組んで航行する事が決められたのです。(当時日本の輸送船団は、船団ごとにカタカナと数字を組み合わせた、まるで暗号文の様な名前が付けられていました。ヒ86船団、ミ27船団、テ04船団などです。これらの命名の由来は行く先や積荷の種類によるもので、数字は偶数が往路で奇数は日本への復路なのだとか諸説ありますが、定かではありません。しかし、現代の電車の側面に書いてあるモハOO、クハOO、キハOOと同様の意味があるものと思われます。)

しかし、船団といってもその規模は10隻から多くても20隻には満たず、また海上護衛総隊も、その戦力は大正期に建造された旧式駆逐艦と、「海防艦」と呼ばれる小型の護衛艦合わせて20隻に満たない貧弱なもので(小型艦ばかりであったため、「艦隊」と扱われずに「隊」レベルのものでした。)しかも1つの輸送船団に付けられる護衛艦はわずか2~3隻程度でしかありませんでした。


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上がその「海防艦」です。排水量は700トンから1000トンほどで、速度も20ノットに満たない小型艦でした。(これらの海防艦は固有名詞でなく「海23」とか番号で呼ばれ、戦時中に各種合計で170隻以上も建造されたそうです。この海防艦も、外観を見ればいかにも装甲が薄いのがお分かりいただけるでしょう。これでは魚雷1発命中すれば船体が真っ二つになってしまうのではないでしょうか?)

一方ガダルカナル島における日本軍との血みどろの戦いに勝利したアメリカ軍は、1943年(昭和18年)の後半から本格的な対日反攻作戦を開始しました。日本軍の広大な占領地域の中で、その手始めとしてアメリカ軍が狙ったのが中部太平洋です。

反撃に転じたアメリカ軍は怒涛のごとく進撃し、中部太平洋の日本軍基地を次々に攻略していきます。それに連れてアメリカ潜水艦も、さながら獲物の群れを追う「サメ」のごとく日本の輸送船団に襲い掛かるのです。さらに追い討ちをかける様に、輸送船にとって潜水艦以上に恐ろしい敵が中部太平洋にその姿を現します。アメリカの高速空母艦隊です。

1944年(昭和19年)2月、レイモンド・スプルーアンス大将率いるアメリカ第5艦隊の攻撃機が、日本海軍の中部太平洋における最重要基地トラック島を奇襲攻撃します。一挙に輸送船33隻、20万トンが撃沈され、その中には大型タンカー5隻が含まれていました。(この基地に停泊していた日本の連合艦隊は、その2週間ほど前にアメリカ軍の空襲が近い事を知るや、本土とパラオ諸島などに脱出していたので無事でしたが、補給基地だったトラック島にはまだ多くの輸送船が停泊していたのです。)


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上の2枚の画像はアメリカ軍機の攻撃を受け、トラック島の港内を逃げまどう日本の輸送船です。しかし、何の武装もない無力な輸送船は成すすべもなく次々に撃沈されていきました。(アメリカ軍の攻撃により、この1ヶ月の間に日本が失った船舶はトラック島だけで122隻、およそ54万トンに上りました。これは当時の日本が持っていた全船舶の1割以上にあたる数で、それをたった1ヶ月で失ってしまったのです。)

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上がアメリカ第5艦隊司令官のレイモンド・スプルーアンス大将です。(1886~1969)彼は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥の下で頭角を現し、ハワイの司令部から全軍の指揮を取る上官ニミッツに代わり、後に述べるハルゼーとともに実戦部隊を率いて空と海から日本海軍を壊滅させ、大日本帝国を降伏させた事実上の指揮官でした。

この時点で国内向けの民需用船舶の総トン数は、開戦時の300万トンから206万トンにまで落ちていました。そこへ、軍の要求でさらに30万トンが軍用船に引き抜かれてしまいます。

これ以降もアメリカ軍の進撃は続き、その4ヵ月後の昭和19年6月にはマリアナ諸島のサイパン島が陥落してしまいます。こうして絶対国防圏はいともあっさり破られ、東条首相はサイパン陥落の責任を問われて辞任に追い込まれてしまうのです。

勢いに乗るアメリカ軍はそのままフィリピンにまで迫り、昭和19年10月にはフィリピンに上陸、迎え撃つ日本軍と激しい戦闘を繰り広げながらフィリピン全土を手中に収めていきます。そして運命の昭和20年を迎え、もはや日本の敗北は時間の問題となっていました。


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上は1945年(昭和20年)における大日本帝国の支配領域です。絶対国防圏はアメリカ軍によってズタズタに切り裂かれ、日本本土と南方占領地とは、南シナ海の一部でかろうじて皮一枚でつながっている状態でした。

アメリカ軍は、日本本土と南方占領地との間の資源輸送ルートを完全に断ち切るため、この南シナ海だけで開戦時の2倍を越える118隻もの潜水艦を投入して日本の輸送船団を徹底的に沈めていきます。特に狙われたのが日本のタンカーでした。

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上が日本本土と南方資源ルートです。

そして昭和20年1月、ついにこの海域にもアメリカの空母艦隊が侵入して来ました。艦載機およそ1000機を持つ、ウィリアム・ハルゼー大将率いるアメリカ軍最強の第3艦隊です。すでに前年10月のレイテ沖海戦で日本の連合艦隊は壊滅しており、もはや日本海軍には南シナ海でこれを迎え撃つ水上艦艇は残っていませんでした。日本本土へ持ち帰る資源や物資を積んで、シンガポールを出航した日本の各輸送船団と護衛艦隊はこの報に接すると北上を急ぎます。どの輸送船も、石油、鉄鉱石、ゴム、鉛、錫(スズと読みます。メッキに使うものです。)ボーキサイト(アルミの原料です。)など、日本が待ち望んでいる資源を満載していました。


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上がアメリカ第3艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将です。(1882~1959)彼は先に述べた第5艦隊司令官のスプルーアンス大将とは親友で、堅実かつ冷静沈着な性格のスプルーアンスと違い、その容貌と敢闘精神に満ちた短気な性格から「ブルドッグ」(ご本人には悪いですが、まさにそのままですね。笑)と呼ばれたアメリカ海軍史上最高の猛将でした。(ちなみに彼の名字「ハルゼー」ですが、本来の英語読みでは「ホルジー」というのが正しいそうです。しかし日本では昔から「ハルゼー」ですっかり定着しているので、現代でも昔ながらの言い方で呼ばれています。)

猛将ハルゼー大将は、そうはさせるものかと直ちに攻撃隊を発進させます。そして戦いは実に一方的なものでした。襲い掛かる数百機のアメリカ軍機の前に、輸送船も護衛艦も1隻残らず成す術もなく沈められてしまいます。


このハルゼー艦隊による1ヶ月余りの攻撃で、大日本帝国は輸送船83隻、およそ28万トンと最後に残された唯一の南方資源ルートを失い、日本本土と南方占領地との間は完全に断ち切られて物資輸送は途絶えてしまうのです。

それでも大日本帝国では、ほぼ壊滅して発言権が弱くなった海軍に代わり、今度は陸軍主導により残された国力を振り絞って「本土決戦」の準備を進めますが、日本帝国本土はアメリカの戦略爆撃機B29による絶え間ない空襲で工業地帯は破壊され、日本の戦争遂行能力は完全に息の根を止められて、ついにわが国は昭和20年8月15日の敗戦に至るのです。

大日本帝国は前回お話した様に、開戦時におよそ2440隻、約640万トンの船舶を持って太平洋戦争に突入しました。その後、戦時中に急造された船舶も含めると、その数はおよそ4000隻、約1000万トン近くに達していた様ですが、驚くべきはその損害の多さで、戦時中に日本が失った船舶はおよそ2570隻、実に850万トンに上りました。

敗戦の時、日本に残っていた船舶(これはつまり、とにかく海の上に浮かんでいたもの。)はおよそ130万トン余りで、この内動かせる満足な状態で残っていたのはわずかに31万トンに過ぎませんでした。(開戦時の20分の1ですね。驚)船員の死亡率はほぼ2人に1人で、陸海軍将兵の死亡率をはるかに越える6万2千名が亡くなったそうです。


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上は瀬戸内海の島影に各坐した日本の連合艦隊最後の姿です。1枚目が重巡洋艦「利根」、2枚目が同じく「青葉」3枚目が戦艦「伊勢」 いずれもかつて太平洋中を縦横無尽に暴れ回り、激戦敢闘した艦艇たちです。敗戦間際、動かす燃料もないこれらの残存艦艇は、空しく本土決戦のための「水上砲台」とされ、アメリカ軍攻撃機の格好の標的となって沈んでいきました。

こうして戦前世界第3位の海軍力と、同じく大海運国を誇った大日本帝国海軍と日本の商船隊は、太平洋を墓場に壊滅したのです。

次回は日本とアメリカの戦時中の科学技術力の違いにスポットを充てたお話です。

マリアナの七面鳥撃ち ・ ゼロ戦を破った空の盾

みなさんこんにちは。

みなさんは、現代のわが国が世界でも高度に科学技術が発達した「科学技術立国」である事は良くご存知の事と思います。それは下は私たちが日常使用している多くの高性能電化製品や、高燃費の自動車にはじまり、上は全く独力でロケットと人工衛星を打ち上げ、欧米人以外で最もノーベル賞を授与されている事からも立証されています。

その日本の「お家芸」である科学技術は、一般には戦後に培われたものというイメージがありますが、実際にはわが国は戦前から、局所的かつ限定的な範囲ではありましたが、相応の科学技術力は有していました。しかし、当時のわが大日本帝国は貧しく、大学以上の高等教育を受けられるのは、華族、軍人、官僚、地主などの裕福な家庭や上流階級の子弟といった生まれながらの身分に限られた人々のみで、その割合は3%程度(つまり大学進学者が100人の内3人という事です。ちなみに現在の日本の大学進学率は50%前後だそうです。)であったそうです。そのため、戦前の日本の科学技術は欧米諸国には遠く及ばない二流以下のレベルに留まるものに過ぎませんでした。

さらにもう一つの理由として、わが国は欧米諸国と違って明治維新の近代化から太平洋戦争開戦まで70年余りと短く、この年数では科学や技術の知識の蓄積や経験に雲泥の差があった事も挙げられます。そんな貧しく、高等知識人口も極めて限られた極東の島国である大日本帝国が、数少ない貴重で優秀な技術者たちを総動員し、太平洋戦争開戦の前年の1940年(昭和15年)に、世界を仰天させる驚異的な新型戦闘機を開発させました。その名は「零式艦上戦闘機」みなさんも良くご存知の「ゼロ戦」です。


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上がその「ゼロ戦」です。正式名称は「三菱A6M零式艦上戦闘機」といい、たまたま正式採用された昭和15年が、皇祖にあらせられる初代神武天皇ご即位の年を紀元元年として数えた皇紀2600年にあたり、その最後のゼロを取った年式で「ゼロ戦」と呼ばれる様になったという話は、歴史好きな方ならば良く知られているでしょう。その名の通り三菱重工業で開発された大日本帝国海軍の主力戦闘機です。(日本人なら子供でもいつしかその名を記憶している名戦闘機ですね。独特の丸みを帯びた翼が印象的な実に美しいデザインの戦闘機と思います。)

戦前のわが大日本帝国陸海軍の全ての兵器は、昭和に入ってからは軍艦を除いて皇紀の最後の数字を取った年式で呼ばれ、また当時は海軍の戦闘機は三菱、陸軍の戦闘機は中島飛行機(現在の富士重工)が製造していました。このゼロ戦は大きく分けて4つのタイプがあり、その中でも52型が最も多く、およそ6千機も生産されました。

最高時速565キロ、航続距離(これは簡単にいえば、燃料満タンの状態でどれだけの距離まで飛べるか? という事です。)およそ2200キロ、武装は強力な20ミリ機銃2門を装備し、小型ながら速力と格闘性能に優れ、その速力と軽快な運動性を生み出すため、脚を機体に折り曲げて格納し、機体に打った鋲を埋め込み型にし、エンジンの排気すらスピードアップに利用するなどといった最新の様々な工夫を凝らした、まさに当時の大日本帝国の科学技術の粋を集めた戦闘機でした。


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上の一連の画像はゼロ戦に施された画期的な技術です。1枚目はゼロ戦の骨組みと内部構造で、最高時速500キロを越えるために徹底して機体の軽量化が図られ、機体の骨組みには無数の穴が設けられています。2枚目は博物館に展示されているものですが、エンジンの排気を速度向上に利用するために設けられた後方に流す排気管です。(エンジンのカウリングと機体の間に見える4~5本の「パイプ」です。)これを取り付けた事により、最高速度は最初の530キロから20キロ以上も上がったそうです。3枚目はこれもスピードと運動性能向上のために機体に打たれた鋲を埋め込み型にしたものです。これにより空気抵抗が大きく減り、エンジンの馬力に比して時速500キロを越えるスピードを実現させました。

しかし、このゼロ戦には大きな致命的弱点がありました。それは徹底した軽量化のために防弾装備が全くなく、そのため銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまうという点です。そのツケは後の戦いで日本軍に重くのしかかる事になります。

ともあれ、このゼロ戦こそ大日本帝国の主力戦闘機として、太平洋戦争を戦うために生まれて来た存在といえるでしょう。このゼロ戦が太平洋戦争の前年に開発された事自体、まさに運命的なものを感じます。日本はこの戦闘機をもって今次大戦に突入し、大戦の全期間を通じておよそ1万400機ものゼロ戦を生産しました。ゼロ戦は期待に違わぬ性能で太平洋中を飛び回り、日本陸海軍の進撃を空から援護、連合国の戦闘機を次々に撃破し、アメリカをはじめとする連合国のパイロットに「ゼロファイター」と呼ばれ、

「死にたくなければゼロ戦と空中戦をしてはならない。後に付かれたらお終いだ。」

というブラックジョークが出るほど恐れられました。

このゼロ戦の出現は、特にアメリカに大きなショックを与えました。なぜなら当時アメリカ海軍にとって最大の敵であった日本海軍は、世界で最も空母を多く保有しており(開戦時10隻、そのうち大型主力空母は6隻で、その6隻の空母が搭載する日本の第一線航空戦力はおよそ400機。)その優れた熟練パイロットたちが操縦するゼロ戦の攻撃によって、アメリカはその艦艇がみな沈められてしまうのではないかという言い様のない恐怖感を持つに至ったからです。(その懸念はすぐにハワイの真珠湾で的中してしまいます。)

そこでアメリカは、このゼロ戦をはじめとする日本の攻撃機から水上艦艇を守るために、全米の大学、企業などからなんと「3万人」という日本とは比較にならない数の優秀な科学者や技術者を総動員し(当時の日本なら、全国からかき集めても果たして千人に達したでしょうか?)防御のための3つの大きな「盾」の開発を急ぎました。

1つ目はゼロ戦を上回る性能を持つ新型戦闘機の開発です。アメリカは各地で鹵獲した日本のゼロ戦を集め、それらのサンプルを徹底的に研究し、ゼロ戦を超える性能を持つ戦闘機を開発させました。それが「グラマンF6Fヘルキャット」です。


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上の画像は1枚目がアメリカ軍に鹵獲されたゼロ戦で、2枚目が復元された機体によるアメリカの航空ショーのものです。一緒に飛んでいるわがゼロ戦と比較してかなり大きくずんぐりした形をしていますね。(ちなみにこの「ヘルキャット」とは、直訳では「地獄の猫」という意味だそうですが、「性悪女」という意味もあるそうです。いかにもアメリカ人が好みそうなネーミングですね。笑)

このヘルキャットはアメリカの軍用機メーカーグラマン社で開発され、最高時速610キロ、航続距離は最大2500キロ、武装は12.7ミリ機銃6門、運動性もゼロ戦を上回る最新鋭戦闘機でした。また、このヘルキャットにはゼロ戦にはない大きな外形的利点がありました。それは「折りたたみ翼」です。


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上の画像を見ればお分かりの様に翼を大きく折りたためるのです。これによりアメリカの空母は日本の空母よりはるかに多い100機もの艦載機を搭載出来る様になり、それは直ちに航空兵力に大きな差を与える事になりました。一方日本はここまで折りたたむ技術を敗戦まで作れず、そのため日本の空母は最も多く艦載機を積めた翔鶴級空母で最大搭載機数は72機(実際は84機で、その差の12機は「補用機」として機体をパーツごとに分解し、普段は格納庫の側面に貼り付けて置いて、いざ大海戦となればそれらを格納庫内で組み立てるというやり方でした。)でしかありませんでした。まさに日米の技術力の差が大きく現れた一例でしょう。

2つ目は接近する敵の攻撃機を遠方から探知する電波探知機、いわゆる「レーダー」の開発です。


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このレーダーについては特に詳しい説明は不要でしょう。電波を出して対象物に跳ね返ったエコーからその距離と方向を知る事が出来る単純な論理の探知機ですね。アメリカは開戦前からこのレーダーの開発に力を注ぎ、上の2枚目の様に自動的に360度全方向を表示する「PPI」と呼ばれる優れたレーダーを完成させていました。(上の1枚目は空母レキシントンの艦橋にびっしりと装備されていた各種レーダー群です。方向や距離、高度などが極めて正確に探知出来、その情報を持っていち早く敵機の接近を知り、全艦に速やかな迎撃準備を行わせるためのものです。

これに対し、わが大日本帝国においてもレーダーの開発は開戦前から行われていました。しかし、その開発ペースは遅々として進まず、硬直化した精神主義に凝り固まった軍人たちの科学技術に対する無理解の下で、一部の技術者たちが細々と続けている程度に過ぎないレベルのものでした。

それでも、開戦後には徐々に帝国海軍の主要艦艇に続々とレーダー(当時は「電波探信儀」略して「電探」と呼んでいました。)が装備されていきます。しかし、その性能はアメリカのそれとは比較にならない低レベルなものでした。


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上は当時日本海軍で最大の空母であった翔鶴(しょうかく)型空母の2番艦である瑞鶴(ずいかく)の艦橋に設置された日本のレーダーです。しかし、アメリカのレーダーの様にクルクル回転して360度全方向を探知出来る様にはなっておらず、なんとアンテナを人力で動かし、その向けた方角しか探知出来ないという極めて不正確なものでした。また故障も多く、画像も不鮮明で、当時電測員と呼ばれた専門の技師が「勘」に頼って読み取ったというシロモノだったそうです。

当時の日本の艦艇は、優秀な視力を持った「見張り」の水兵たちに艦の防御が任されていました。双眼鏡や望遠鏡で遠くの目標を見分ける訓練で鍛え上げられ、それは「名人」とさえ呼ばれるほどでしたが、所詮は限界がありました。それに、そうした見張りは海上でしか役に立ちませんでした。なぜなら海上であれば「水平線」という指標があるのに対し、空の上には指標となるものなど何もないからです。

3つ目はこれが最も大きな威力を発揮したもので、敵機を確実に撃墜する驚異的な命中率を誇る画期的な対空砲弾「VT信管」(近接信管)です。


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上がこのVT信管の断面図です。弾頭内部に電波を放射する機器が詰め込まれています。このVT信管というものは、従来の対空砲弾の様に直接敵機に砲弾を命中させるというのではなく、砲弾から周囲15メートルの範囲に電波を出し、敵機がその範囲に入るとそれを感知して自動的に爆発、その破片と爆風によって直接砲弾が命中しなくても敵機を撃墜出来るという画期的な対空砲弾です。このVT信管も、アメリカがゼロ戦などの日本の新型戦闘機の脅威から自国の水上艦艇を守るために開戦前から多くの科学者を動員して開発した新兵器でした。

ゼロ戦と、それに対抗してアメリカが開発した3つの空の盾、これら日米の科学技術力を結集した兵器が、やがて本格的な対決をする時がやって来ます。1944年(昭和19年)6月の「マリアナ沖海戦」です。

この戦いは、第2次世界大戦の枢軸国すなわちドイツ、イタリア、日本の3カ国のうち、すでに前年9月にイタリアが早くも脱落し、もはや劣勢が明らかとなったドイツ、日本に対し、本格的な反抗作戦を開始したアメリカ、イギリスなどの連合国が、太平洋における日本への反撃の第2弾として狙った中部太平洋の要衝サイパン島攻略に対し、サイパンを絶対国防圏と定める大日本帝国が、その阻止と敵艦隊の撃滅を図って起きたものです。

それではなぜアメリカはこのサイパン島を狙ったのでしょうか? それはある「秘密兵器」の存在が大きく影響していました。その秘密兵器とは、アメリカが開発した長距離大型戦略爆撃機「B29」です。


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上がそのB29です。日本ではこの名が一般的ですが、アメリカ軍では「スーパーフォートレス」(超要塞)と呼ばれていました。航続距離はおよそ6500キロ、最大速度はゼロ戦並みの570キロで、最大9トンもの爆弾を搭載出来、日本機の飛行上昇限度をはるかに越える最大9700メートルもの高度まで飛行出来るまさに「空飛ぶ超要塞」でした。(この独特の丸いコックピットは、われわれ日本国民にとって「憎たらしい」顔ですね。このB29こそ、大日本帝国の息の根を止めた「地獄の使者」といえるのではないでしょうか。)

このB29は1944年には運用を開始、サイパンを基地とすれば、日本本土への長距離戦略爆撃が可能となるのです。そこでアメリカ軍は、このサイパン奪取のために前回お話したレイモンド・スプルーアンス大将麾下のアメリカ第5艦隊を主力とする大艦隊と、上陸部隊総勢7万からなる大軍をもって進行して来たのです。

これに対し、迎え撃つ大日本帝国ではアメリカ艦隊を撃滅する「あ号作戦」を発動します。日本海軍はアメリカ艦隊との決戦に備え、戦艦中心だったそれまでの艦隊編成を改め、戦艦を主力とする第1艦隊を廃止し、戦艦と重巡洋艦などの水上打撃部隊からなる第2艦隊と、空母を主力とする第3艦隊に分け、この第2、第3艦隊を合わせて「第1機動艦隊」を編成し、アメリカ艦隊との決戦に備えていました。日本機動艦隊の総司令官は小沢治三郎(おざわ じさぶろう)中将で、彼はこの時に備えて温存してきた航空戦力と、とっておきの作戦を準備してこの戦いに臨もうとしていました。


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上が第1機動艦隊司令長官小沢治三郎中将です。(1886~1966)彼はもともとは敵艦隊に魚雷攻撃を仕掛ける水雷戦隊(駆逐艦隊)出身でしたが、空母の重要性にいち早く目を付けてからは熱心に空母の戦術を研究し、それを買われて自らその指揮を取る事になった海軍でも開明的な提督でした。

この時に小沢が秘めていた取って置きの作戦とは、「アウトレンジ作戦」というものです。これは日本の空母艦載機の航続距離がアメリカのそれより長い事の特性を活かしたもので、簡単にいえばアメリカ艦隊の艦載機の行動範囲の外からいち早く攻撃隊を発進させれば、理論上は「必ず勝てる」(少なくとも味方艦隊への損害は無い。)という作戦です。

1944年(昭和19年)6月15日、アメリカ軍はサイパン攻略作戦を開始、迎え撃つ日本軍守備隊との間で凄まじい水際での攻防戦が繰り広げられます。この報に際し、すでにB29の存在と脅威をご存知であられた昭和天皇は、陸軍大臣に参謀総長も兼任していた東条首相と、海軍大臣兼軍令部総長の嶋田繁太郎大将を宮中にお呼びになり、東条参謀総長に対してサイパン島喪失の場合のB29による本土空襲への懸念を述べられています。また嶋田軍令部総長に対しては、次の様な激励のお言葉を発せられました。

「この度の海戦は、帝国の興隆に関わる重大なるものなれば、日本海海戦のごとく立派なる戦果を挙げる様、作戦部隊の奮励を望む。」


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上は大日本帝国第124代天皇にして、帝国陸海軍大元帥にあらせられた昭和天皇です。

天皇からのお言葉は嶋田総長から小沢中将に伝えられ、彼は必勝の信念を胸に、全艦隊を率いてマリアナ沖へと出撃していきました。この時点における日米の戦力比較は、わが日本艦隊が戦艦5隻、空母9隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦23隻に、支援艦船として艦隊へ給油する燃料を積んだ油槽船(タンカー)6隻、これを護衛する軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、海防艦5隻など総勢68隻に空母艦載機は450機(この数字については、440機から498機など補用機を含むか否かで諸説あります。)を数えました。対するアメリカ艦隊は戦艦7隻、空母15隻、重巡洋艦8隻、軽巡洋艦12隻、駆逐艦67隻など、水上戦闘艦艇だけで総勢100隻、空母艦載機に至っては900機に達する大艦隊でした。(この時、日本は持てる艦船と航空機の全てを投入していましたが、アメリカの方はこの時期すでに艦船、航空機ともに日本の2倍に達していました。)

第1機動艦隊はマリアナ沖に群がるアメリカ艦隊を撃滅するため、6月19日にマリアナ諸島近海に接近します。小沢長官は「アウトレンジ作戦」の発動を指令、第1次攻撃隊240機が次々に発艦して行きました。この瞬間、艦隊司令部も東京の軍令部も喜びに包まれ、大戦果を待ちわびました。この時、9隻もの空母から次々に飛び立ち、空を覆うわが航空部隊の姿に、第1機動艦隊では戦う前から

「これは勝ったも同然だ。これだけの大軍ならば今度こそ負けるはずはない。」

と小沢長官以下、幕僚や多くの将兵たちがそう思い込むほどの興奮に包まれていたそうです。しかし、彼らの期待はこの後大きく打ち砕かれてしまう事になるのです。

日本艦隊が第1次攻撃隊を発進させた後、アメリカ艦隊では最新のレーダーで日本の攻撃隊の接近を察知していました。アメリカ軍は直ちに迎撃のために戦闘機を発進させます。その主力は先に述べた「ヘルキャット」でした。そうとは知らない日本編隊は、アメリカの戦闘機隊が待ち受ける空域に飛び込んでしまいます。アメリカ編隊は日本編隊の真上から何段にも重なって攻撃を開始、重たい爆弾や魚雷を抱えて身動きの遅い日本編隊は大混乱に陥り、次々にヘルキャットの餌食となって撃墜されていきました。

この時の日本の攻撃隊のパイロットたちは、その多くが操縦経験も未熟な二十歳前後の若者たちでした。なぜならこれまでの戦いで大日本帝国は多くの熟練パイロットを失っており、また彼らはこの大事な作戦の前においても、燃料不足などから空母への発着艦の訓練すら満足に受けられませんでした。そのため、敵機との空中戦や回避のための高度な技量が身に付くはずがなかったのです。

それでも、なんとかヘルキャットの迎撃をかわした攻撃隊の一部は目指すアメリカ艦隊を発見、攻撃のため猛然と突っ込んでいきます。しかし、その日本攻撃隊に待ち受けていたのは、あのVT信管付き砲弾をセットした猛烈な対空砲火の炸裂の嵐でした。


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上がその様子です。1枚目はアメリカ軍の40ミリ機関砲で、2枚目はVT信管付き砲弾の炸裂する様子です。(海上に落下して水しぶきを上げている砲弾の破片に注目して下さい。1つの砲弾でこれだけの範囲に破片が散らばるのですから、そこに飛び込んだ飛行機はひとたまりも無いのがお分かりいただけると思います。)

どの砲弾もかつてないほどの精度で日本機の近くで炸裂し、この凄まじい対空砲火のために日本攻撃隊は全く手も足も出ずに壊滅してしまったのです。

一方大戦果を待ちわびる日本艦隊司令部では、次第に不安の色が出始めます。それもそのはずで、攻撃隊から全く何の連絡も入らないのです。しかし、この時わが攻撃隊はその大半が戦況報告の打電をする暇もなくほぼ全滅していました。

翌日、アメリカ艦隊の反撃が始まります。日本艦隊追撃のため、アメリカ攻撃隊216機が発進します。一方日本艦隊も、この時主要艦船にレーダーが装備されてはいましたが、日本艦隊旗艦、空母大鳳(たいほう)のレーダーがアメリカ攻撃隊の接近を探知した時には、もう敵は間近に迫っていました。(この時の司令部の幕僚だった方の証言では、もう肉眼で敵機が見える頃になって「敵機接近」の報告が来たのには「呆れてしまった」そうです。)

前日の戦闘で大量のゼロ戦を出撃させ、そのほとんどを失っていた日本艦隊には、これを迎え撃つ援護の戦闘機も、それを発進させる時間すらもありませんでした。


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上はアメリカ軍機の攻撃を受け、対空砲火で応戦しつつ回避行動をとる第1機動艦隊です。しかし、射撃を全て目測に頼る日本艦隊の対空砲火では、襲いかかる200機以上の敵機の攻撃を完全に防ぐ事は出来ませんでした。

この2日間の海戦で、大日本帝国は出撃させた9隻の空母の内、就役したばかりの新型空母であった旗艦大鳳をはじめ、大型空母3隻が撃沈、軽空母4隻を大破され、さらに艦載機400機以上を失い、これ以後、太平洋における制海権と制空権を完全にアメリカに奪われてしまいます。マリアナ沖の大敗は東京の日本帝国海軍軍令部の期待を大きく打ち砕きました。当時の軍令部の士官だった方の証言では、みんな徹夜で軍令部に泊り込んでいたそうですが、朝になって軍令部総長の嶋田海相がこの敗北の報告を聞くと、彼は居並ぶ海軍幕僚たちの前ではばかりもせず、

「がっくりと肩を落とし、椅子から立ち上がる事も出来ずにいつまでも座っておられた。」

そうです。(この時の彼らの心情は想像を絶しますね。)

一方勝利したアメリカ軍側では、第5艦隊司令スプルーアンス大将がワシントンに次の様な報告をしています。

「これほど損害の少ない勝利は、わが軍にとって開戦以来初めての事であった。レーダーなどの新型兵器の開発に心血を注いできた事が、決して無駄ではなかった事が立証された。」

このあまりの一方的な勝敗の結果に、アメリカ軍将兵はこの戦いを「マリアナの七面鳥撃ち」と名付けて一層勝利への自信を深めました。ほどなく救援の望みを絶たれたサイパン島の日本軍守備隊約3万は、日本人住民2万2千を道連れに玉砕して全滅。サイパンはアメリカ軍の手に落ち、昭和天皇が恐れられたB29の日本本土空襲によって、大日本帝国は敗戦へと追い込まれてしまうのです。

戦後、アメリカは日本の科学技術について詳細な報告書を作成しています。その中には次の様な一文がありました。

「日本の軍部は、現代の戦争における科学技術の兵器への活用の重要性を認識出来なかった。優れた科学者を擁しながら、人的資源を有効に活かせなかったのは、全て軍部の独善と偏見によるものである。」

次回に続きます。

ガダルカナル島攻防戦(前編)・ オーストラリアを目指した日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは「攻勢終末点」という言葉をご存知でしょうか。これは言葉を変えて言えば「攻撃の限界点」とも言えるもので、戦争において敵国に侵攻し、優勢であった攻撃側の国が、占領地域の拡大と本国との距離の増大、そしてその国の国力の限度からその維持が限界点に達し、やがては攻守が逆転していくという考え方です。

これは19世紀初頭のナポレオン戦争時代に、当時ドイツ東部にあったプロイセン王国の将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによって提唱された軍事理論の1つで、彼は戦争の拡大と長期化が招く危険性を指摘し、戦争は出来る限り短期決戦で臨み、大勝利を収めた時点で攻撃側が優勢なうちに早期講和と外交的解決を図るべきであると説いています。


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上がそのカール・フォン・クラウゼヴィッツです。(1780~1831)彼は上で述べた様にナポレオン戦争期のプロイセンの陸軍少将で軍事学者でもあり、自らもそのナポレオンと戦った名将です。ナポレオンの栄光と転落を目の当たりにし、ナポレオンが続けた戦争とその失敗の事例から多くを学び、それを研究して著した著作「戦争論」は、その後の世界中の軍人、歴史学者に大きな影響を与えました。現在でも欧米の陸軍士官学校はもちろん、わが国の防衛大学校においても必ず学ぶ人物です。

戦争論〈上〉 (岩波文庫)

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このクラウゼヴィッツの「戦争論」は、中国の兵法家孫子の「兵法」と並んで戦争の常道を表した古典的名作として名高いものですが、孫子の兵法の様に「簡潔」なものではなく、残念ながら未完成かつ非常に文章が長くて難解(自分の読感でも説明が長くてまわりくどいと感じました。しかし、そもそも学者の書いた研究論文的なものですし、また小説や物語の様に面白おかしいフィクションではないのですから当然でしょう。)である事から多くの方が途中で挫折してしまう様です。(笑)

岩波文庫から上・中・下巻(各巻1100円程度でページ数は360~480ページ)また中公文庫から上・下巻(各1300円程度でページ数はそれぞれ600ページを越えます。)などが出版されており、ご興味を持たれた方はこのどちらかを選ばれるのが良いでしょう。(表紙のデザインは岩波文庫版の方が良いと思います。)

このクラウゼヴィッツの理論は、その後の幾多の戦争においてもその正しさが立証されていますが、当ブログの今回のテーマの主役であるわが大日本帝国も、その自らが引き起こした大戦争である太平洋戦争において、クラウゼヴィッツがその危険性を訴えた国力の限度を越える戦争の拡大という愚を犯し、絵に描いた様な彼の理論通りの展開を招いてしまいます。今回はそのターニングポイントとなった「ガダルカナル島の戦い」についてのお話です。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は東南アジアのほぼ全域を制圧。翌1942年1月下旬にはニューギニアの近くビスマルク諸島の要衝ラバウルを占領しました。このラバウルはその地形と良港に恵まれた天然の要塞で、日本軍はここを南太平洋における最大の軍事拠点として活用します。


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上が日本軍占領下のラバウルとその位置です。多くの日本艦船が湾内に停泊しています。(上空を飛んでいるのはゼロ戦と並んで大戦中の日本海軍の主力爆撃機であった「一式陸上攻撃機」です。)

日本軍がこの地を占領した理由は、大日本帝国にとってアメリカ以外の連合国としては最大の敵である南のオーストラリアの動きを抑え、そのオーストラリアとアメリカとの連携を遮断するためでした。しかし、ここで日本軍内部において、今後の戦争遂行と作戦面における見解の相違が露呈します。日本海軍は巨大な生産力を持つアメリカに対して長期戦は絶対不利として、早期決着のために戦線を拡大し、積極攻勢でアメリカ太平洋艦隊を撃滅してアメリカの継戦意欲の喪失を図るとともに、同時にオーストラリアを占領して大日本帝国の資源供給地である東南アジアへの連合軍の反抗を阻止する事を主張します。


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上は日本海軍が思い描いた占領地域の拡大図です。オーストラリアはおろか、インドやニュージーランドまで入っていますね。当時のわが帝国海軍は本気でこんな事が可能だと思っていたのでしょうか?

こうした海軍に対し、中国戦線の早期決着を図りたい日本陸軍は、東南アジアを占領した時点で長期持久戦に入り、それ以上戦線を広げない方針でした。(実は意外なのですが、日本陸軍は開戦後においてもアメリカと戦う事などあまり考えていなかったのです。その理由は日本陸軍の仮想敵国は当時のソ連であり、中国大陸や満州を主たる戦場に想定していたからです。)

それに兵力と物資輸送の問題もありました。海軍は陸軍3個師団(およそ4~5万)をもってオーストラリアに上陸、ポートダーウィンなどの北部沿岸地域を占領するつもりでいましたが、中国大陸と満州に40個師団、およそ130万以上もの大軍を釘付けにされていた陸軍は、東南アジアを占領するために兵力と輸送船をかき集めるのが精一杯で(日本陸軍が東南アジア征服のために準備出来た兵力は、開戦時11個師団およそ21~22万程度でした。)オーストラリアにまで差し向けられる兵力など、とてもそろえる事は出来なかったからです。

そこで大本営陸海軍部は作戦面で妥協を図ります。それはオーストラリア侵攻を断念する代わりに、ソロモン諸島のさらに南に広がるフィジー、サモア、ニューカレドニア諸島などを攻略、これを占領する作戦です。海軍はこの程度であれば、兵力は多くても1個連隊(約2~3千)程度で済み、最小のコストでオーストラリアとアメリカの連携を遮断出来るだろうと提案し、陸軍の同意を引き出します。

日本海軍は1942年(昭和17年)4月から早速作戦を開始します。まずはこれらの島々の近くにそのための前線基地を造らなくてなりません。しかし先に述べたラバウルでは遠すぎて兵や物資の輸送が困難です。そこで海軍が目を付けたのが、ソロモン諸島中央部に浮かぶガダルカナル島でした。


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上の画像の1枚目がガダルカナル島の位置と日本との距離です。ざっと5500キロも離れていますね。そして2枚目が日本軍が島に建設した飛行場で、島のルンガ岬の近くであった事から「ルンガ飛行場」と名付けられました。3枚目はその飛行場の現在の姿で、今はソロモン諸島の空の玄関「ホニアラ空港」として使用されています。

ここで、このソロモン諸島とガダルカナル島の名前の由来について簡単にお話しておきますが、このソロモン諸島は16世紀の大航海時代にこの地にやって来たスペインの探検隊がこの島で「砂金」を発見し、これが旧約聖書に登場する「ソロモン王の財宝」であると信じた事からその名が付けられたそうです。また、「ガダルカナル」というのはその探検隊のスペインの故郷の地名から付けられました。(現地の固有名詞ではないのですね。)

その後、19世紀の終わりごろにイギリス領になりましたが、今次大戦で日本軍によって占領され、太平洋戦争の激戦地として知られる様になるまで歴史に登場するはずのなかった南の島です。大きさは日本の栃木県とほぼ同じくらいで、島としては大きいですね。現在はソロモン諸島共和国の首都が置かれ(首都はホニアラで人口はおよそ5万、ソロモン諸島の国全体の人口は52万ほど。)かつてここで、合計10万に達する日米両軍の血みどろの激戦があったとは思えないほどの静かで平和な常夏の国です。

この急ごしらえの短い滑走路1本だけの小さな飛行場が、日本軍の南方における最南端の前線基地でした。1942年(昭和17年)8月、飛行場はいつでも基地として活用出来るまでに完成していましたが、これに大きな脅威を感じたアメリカ軍は、太平洋における日本への反攻作戦をこの島の奪還から開始する事に決定し、輸送船23隻に分乗した第1海兵師団1万9千と、それを護衛する空母3隻を主力とする50隻ほどの艦隊で上陸作戦を開始しました。


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上は1942年8月7日、ガダルカナル島に上陸するアメリカ海兵隊と、第1海兵師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将です。(1887~1973)彼は後に大将に昇進、アメリカ海兵隊総司令官に就任します。当時アメリカはまだ戦時生産体制が整っておらず、艦艇は既存のものを使うしかありませんでした。そのためアメリカは、太平洋にあったほとんど全ての艦船をこの作戦に動員したそうです。

この時島にいた日本軍はおよそ2200名でしたが、戦闘部隊は陸戦隊が400名足らずで、大部分が飛行場建設の労働者でした。そのためアメリカ軍はその日の内にガダルカナルを無血占領したのです。これに対し、日本軍はただちに反撃を開始します。ラバウルにあった使用可能な全機(先に述べた一式陸上攻撃機27機、艦上爆撃機9機、護衛のゼロ戦17機)を発進させて飛行場を爆撃すると同時に、駐留していた第8艦隊(重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)にも出動を命じ、その夜にガダルカナル島近海に群がるアメリカ艦隊に夜襲をかけ、重巡洋艦4隻と駆逐艦1隻を撃沈する大戦果を挙げます。(第1次ソロモン海戦)

この海戦で日本艦隊は軍艦ばかりに攻撃を集中したために、今だ多くの輸送船に分乗していたアメリカ軍部隊はからくも難を逃れましたが、それでも一夜にして沈んだ艦船の乗組員1000名以上が犠牲になり、アメリカ艦隊は大変な心理的パニックに陥ります。何しろ先に述べた様に、アメリカ軍はこの時に太平洋艦隊のほとんどをこの作戦に投入しており、大事な空母3隻などを失う恐怖感から、一時的に護衛艦隊の大半が上陸している味方を残して日本軍の手が届かない安全海域まで退避してしまったからです。

夜が明けてからこれを知ったヴァンデグリフト少将ら上陸していた海兵隊は、味方艦隊の弱腰に怒り、同時に今だ飛行場に航空機すら一機も配備されていない状態で、敵日本軍の制海・制空権下にあるこの地に取り残された絶望感に打ちひしがれたそうです。(後に圧倒的な物量と最新兵器で日本を追い詰めていく強大なアメリカ軍も、この頃はまだ見ぬ敵日本軍に対して恐る恐るだった事が分かりますね。)

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上は作戦行動中の一式陸上攻撃機の編隊です。この爆撃機は最高速度450キロ、爆弾搭載量1トンの双発爆撃機で、日本軍の主力爆撃機として2400機以上生産され、大戦の全期間を通じて使用されましたが、前回お話したゼロ戦と同様防弾装備が全くなく、主翼部分がそのまま燃料タンクとなっていたために、一発でも銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまう事から、アメリカ軍パイロットに「ワンショットライター」と揶揄される脆いものでした。

このアメリカ軍のガダルカナル島上陸は、直ちに東京の大本営陸軍参謀本部に伝えられました。しかし、当の大本営では、その時このガダルカナルという島がどこなのか、誰もその名前すら知りませんでした。当時大本営陸軍部の参謀であった方はこう証言しています。

「太平洋は海軍の担当だというのが開戦前からの取り決めであり、これは海軍の事だから大した事は無いと参謀本部の者は誰もそれに注意を払わず、ガダルカナルという島がどこにあるのか、地図を引っ張り出して初めてその位置を知る様なそんな状態から事は始まったのです。」

ともかく大本営陸軍部は、8月18日にガダルカナル奪還のための第1陣が送り込みます。しかし、それは一木清直(いちき きよなお)大佐率いる1個連隊(2300名)の先遣隊およそ900名というわずかなものでした。


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上がガダルカナル奪還部隊第1陣の司令官一木大佐です。(1892~1942)彼の連隊は、北海道の旭川第7師団に所属する日本陸軍の精鋭部隊でした。

それにしても、2万近いアメリカ軍に対してなぜ日本軍はこれほどわずかな兵力しか差し向けなかったのでしょうか? それはなんといっても情報を自身に良い様にしか受け取らない日本軍の悪いクセが災いしたのが大きな理由でしょう。日本軍はこんな最果ての小さな島に、アメリカがこれほどの大軍を差し向けてくるとは思わず、せいぜい1個連隊(2~3千程度)と甘く見積もっていたからです。また、当時日本陸軍は中国の蒋介石政権を屈服させるためにおよそ100万の大軍を動員する「重慶侵攻作戦」を計画していました。そのため、南太平洋方面に差し向ける陸軍兵力はわずか1万程度でしかなかったのです。

さて、駆逐艦6隻に分乗してガダルカナルに上陸した一木部隊は、敵がこれほどの大部隊であるとも知らずに夜陰に乗じて白兵突撃による飛行場奪還作戦を開始します。これを支援する火力は機関銃8丁と大砲2門だけでした。一方日本軍のこの動きに対し、アメリカ軍はすでにそれを察知していました。飛行場の周囲に塹壕が掘られ、なんと300丁以上の機関銃を配備して日本軍を待ち構えたのです。深夜、日本軍900名は闇にまぎれて銃剣突撃を開始します。しかし、その彼らの前にかつて目にした事のない光景が広がりました。凄まじい機関銃の十字砲火です。


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この攻撃に日本軍は全く手も足も出せず、夜が明けると日本軍は司令官一木大佐以下ほぼ全滅していました。上はその時の写真ですが、これは歴史上それまで不敗を誇ってきた日本軍の敗れた姿を写した最初のものといわれています。

この第1次ガダルカナル奪還作戦の失敗は、すぐに東京の大本営に伝えられます。大本営は現地軍に再びガダルカナル奪還部隊を差し向けるよう指令、その第2陣として9月に入り、川口清武(かわぐち きよたけ)少将率いる1個旅団がガダルカナルに送り込まれます。今回の兵力は6200名に増強されました。


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上の写真最前列中央が川口少将です。(1892~1961)この時の日本軍はアメリカ軍の3分の1に過ぎず、その戦法も一木部隊と同じ夜襲による白兵突撃で、これを支援する火力も機関銃60丁と大砲20門しかありませんでした。

川口旅団およそ6千は再び夜襲による銃剣突撃を決行、そして一木部隊と同じ目に遭って多大な犠牲を出し、作戦はまたも失敗してしまいます。この時、川口少将は慌てて撤退する途中で、彼がルンガ飛行場奪還に成功した暁に着用するつもりであった礼装用の軍服を置き忘れ、それを発見したアメリカ軍将兵はこんなジョークを言ったそうです。

「カワグチ将軍は、きっとシドニーの社交界で大いにモテるつもりだったに違いないよ。」

一方、2度の失敗に東京の日本帝国大本営は業を煮やします。そこで大本営は事態打開のため、現地軍に任せきりにしていた作戦を大本営直轄に切り替え、参謀本部きっての名参謀を当地に派遣します。その名は辻政信中佐。そしてその後日本軍は、ガダルカナルの戦いにおいてこの1人の参謀に大きく振り回されていく事になります。

次回に続きます。

ガダルカナル島攻防戦(後編) ・ 距離に敗れた日本軍

みなさんこんにちは。

1942年(昭和17年)5月、飽く事を知らぬ野望を抱いたわが大日本帝国は、ついに赤道を越えてその手を地球の南半球に伸ばし、その周辺の島々に軍を差し向けました。「米豪分断作戦」の始まりです。この作戦はそもそも海軍が立案し、陸軍に持ちかけたものですが、その目的は前回もお話した様に、オーストラリアとアメリカの間に連なって横たわる周辺の島々(フィジ-、サモア、ニューカレドニア諸島など)を攻略、これを占領する事で、両国の間に「楔」を打ち込み、その軍事的連携を遮断してオーストラリアを孤立化させる事でした。

日本海軍はそのための前線基地として、ソロモン諸島のほぼ中央に位置するガダルカナル島に飛行場を建設し始めます。しかし、これに大きな脅威と不安を感じたアメリカとオーストラリアは、これ以上の日本軍の南進を阻止すべく、陸海共同でガダルカナル島に上陸、これを占領してしまいました。

ここに、半年間に及ぶ日米両軍の太平洋の支配権をかけた死闘が始まったのです。日本軍はアメリカ軍に奪われた飛行場を奪い返すために、これまで2度に亘って陸軍部隊を差し向けました。しかし、その兵力は合計7千余りと、2万に達するアメリカ海兵隊の3分の1程度に過ぎず、しかも2度とも無謀で時代遅れな銃剣による白兵突撃を繰り返し、その都度アメリカ軍の数百丁の機関銃の十字砲火の餌食となって壊滅してしまいます。

この2度の失敗により、はるか離れた東京の大本営は、ようやく事態の深刻さを悟る様になりました。そうでなくてもこのところ大日本帝国は、1942年(昭和17年)4月のアメリカ軍爆撃機16機による史上初の日本空襲、5月に実施したニューギニアのポートモレスビー攻略作戦の失敗、そして何よりショックだった6月のミッドウェー海戦における空母4隻の喪失など、戦局の低迷が相次いでいるのです。こうしている間にも、アメリカは着々と戦時生産体制を整えており、この様な所でモタモタしていれば、アメリカに日本への一大反攻への時間と猶予を与えてしまう事になってしまいます。大本営中央は焦りを募らせていました。

そこで大本営は、それまで現地軍に任せていたガダルカナル奪還作戦の指揮権を「大本営直轄」とし、今度は本腰を入れて直接作戦を指揮するために大本営直属の参謀を現地に派遣し、一気に戦況の打開を図ろうとします。その名は辻政信(つじ まさのぶ)中佐と言い、開戦時のマレー・シンガポール攻略作戦を成功させた名参謀でした。ところで、戦時中の日本を語る上で必ず登場するこの「大本営」というものは、そもそも一体どんな組織なのでしょうか? ここでごく簡単にそれをお話して置きたいと思います。

歴史好きの方でなくても、ごく普通に教育を受けていれば、現代国家というものが司法・立法・行政の3つの権利を基礎として成り立っているという事は、一般常識としてご存知の事と思います。(いわゆる「三権分立」というものです。司法は裁判を行う権利、立法は法律を制定する権利、行政はその法律を執行する権利ですね。)これらはそれぞれ独立しており、わが国であれば司法は裁判所、立法は国会、行政は内閣がそれぞれその権利を行使しています。

しかし、戦前のわが大日本帝国では、今の日本にはないもう一つの大きな権利がありました。それは「統帥権」というものです。この統帥権とは、簡単に言えば軍の指揮権、すなわち大日本帝国陸海軍の指揮命令権の事で、これを持つのは大日本帝国の統治者であり、帝国陸海軍の大元帥であった天皇でした。


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上は白馬にまたがり、大元帥として軍を閲兵されている昭和天皇です。

しかし、現実には天皇お一人で全軍の指揮統率をする事は非常に困難です。そこで天皇の統帥権を補佐し、天皇に代わって実際に帝国陸海軍に指揮命令を下していたのが「大本営」という組織です。この大本営は陸軍と海軍でさらに別れ、陸軍の事ならば大本営陸軍部が、海軍ならば同じく海軍部がそれを担っていました。ちなみにこの「大本営」は、戦時に大元帥である天皇の下に置かれるものであり、常設のものではありません。戦時に天皇のおられる場所が「大本営」であり、そのため大本営という決まった建物などが存在していたわけではありませんでした。(つまり、天皇が皇居におられれば宮中に設置され、軍の視察などで各地に臨幸される場合は、その滞在地が臨時大本営です。そもそも「大本営」という語源も、軍の総司令官が陣を敷く司令本部の意味を表しています。)

先に述べた三権同様この統帥権は独立したものであり、何より天皇の持つ絶対神聖不可侵の大権でした。そのため大本営の参謀たちはその無敵の威光を背景に、軍の作戦決定に当たって行政を担う帝国政府の長である内閣総理大臣でさえ口をさしはさむ事は一切出来ない強い権限を持っていたのです。そして、大日本帝国において何者も逆らえないその強大な権限を持って現地に乗り込んだのが辻中佐でした。


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上の1枚目が東京の市ヶ谷にあった旧陸軍省の建物です。もともとはその4年前の昭和12年に陸軍士官学校の本部庁舎として建てられたものですが(そのせいか、飾り気も素っ気もない学校の校舎の様な外観をしていますね。笑)1941年(昭和16年)以降、向かって左側に陸軍省、右側に参謀本部が置かれる様になりました。(現在は、平成19年の防衛省の移転と同時に取り壊され、一部が記念館として同じ敷地内に移築されています。かつてここで、戦後に極東国際軍事裁判が開かれ、作家の三島由紀夫が自決するなどのセンセーショナルな事件があったいわく付きの建物です。)

2枚目が大本営陸軍部参謀の辻政信中佐です。(1902~1961)彼は陸軍士官学校から陸軍大学校まで、常に主席か次席というトップクラスの優秀な成績で卒業した日本陸軍のエリート中のエリートで、開戦以来の日本陸軍のほぼ全ての作戦の立案に携わり「作戦の神様」などと周囲から持ち上げられていました。しかしこの人物、頭の回転は速いものの非常に気性の激しい極端な性格で、それは彼の一連の強気の作戦指導にも現れており、そのために日本軍は大きな犠牲を払う事になります。(彼にまつわるエピソードは枚挙に暇がないので、ここでは割愛させていただきますが、非常にキャラクターの濃い問題人物であった事だけはここで申し上げておきます。)

1942年(昭和17年)10月、大本営は兵力をさらに増強し、丸山政男中将麾下の第2師団およそ1万3千を現地に派遣します。すでにラバウルに到着していた辻参謀は、2度の作戦の物理的な失敗は「火力の不足」にあると断じ、今度は出来るだけの火砲をガダルカナルに陸揚げして正面突破を試みるつもりでいました。


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上がガダルカナル奪還部隊の第3陣として送り込まれた第2師団長丸山政男(まるやま まさお)中将です。(1889~1957)彼の率いる第2師団は、宮城県仙台市基幹の部隊で、「夜襲」を得意とする歴戦の師団でした。

一方、日本軍の2度の攻撃を撃退したアメリカ軍は、日本軍から奪い取ったルンガ飛行場を「ヘンダーソン飛行場」と名付け(由来はミッドウェー海戦で戦死した同名の人物にちなんでいるそうです。)戦闘機を常駐させて周辺の制空権を握るとともに、新たに「第2飛行場」を建設して日本軍の来襲に備え、迎撃態勢を整えていました。


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上の1枚目が上空から見た「ヘンダーソン飛行場」です。右端に写る本来の飛行場に加え、アメリカ軍が新たに建設した第2飛行場が左にあるのがお分かりいただけるでしょう。(日本軍が1本の滑走路を作るのに2千の人員の手作業で3カ月かかっていたものを、アメリカ軍は数十台のブルドーザーで、少なくとも4本の滑走路をわずか1ヶ月で築いていました。)2枚目はずらりと並ぶアメリカ軍戦闘機です。

1万3千もの大部隊である第2師団をガダルカナルに上陸させるには、この飛行場の敵機が邪魔です。そこで辻参謀は、上陸作戦の間この飛行場を「黙らせておく」ために、海軍に次の様に要請します。それは

「わが軍の上陸の間、戦艦と重巡による艦砲射撃をお願いしたい。」

というものでした。しかしなぜ彼は、陸軍の参謀でありながら海軍にこんな要請をしたのでしょうか? それはこの戦いが始まって以来日本軍を悩ませてきたある物理的な問題が大きく影響していました。その日本軍を悩ませる物理的問題とは戦場の「距離」の遠さです。

前回もお話した様に、このガダルカナル島は日本軍のソロモン方面最大の補給基地ラバウルから千キロも離れています。この距離は、日本軍の主力戦闘機であるゼロ戦にとってはちょうど1往復出来る距離ですが、帰りの燃料を考えると、上空での戦闘時間はわずか15~20分しか取れないのです。そのためラバウルから発進した日本の爆撃隊と、それを護衛するゼロ戦隊がヘンダーソン飛行場を爆撃して滑走路に穴を開けても、アメリカ軍はブルドーザーなどの機械力ですぐにそれを埋めて復旧してしまうのです。


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上は作戦行動中のゼロ戦隊を空中撮影したものです。パイロットの方の表情まで良く分かりますね。

この一大航空基地と化したヘンダーソン基地から発進したアメリカの戦闘機隊により、日本軍は容易に島に近づけませんでした。そこで辻参謀は、艦隊に夜間艦砲射撃させてヘンダーソン飛行場を敵の戦闘機隊もろともなぎ払い、その間に第2師団と多くの火砲と弾薬を満載した大型高速輸送船団を島に突入させ、上陸作戦を決行するという作戦を立案します。

海軍でも、この飛行場の存在を何とかしなければならないという必要性は、辻から受けずとも良く分かっていました。そこで海軍は、日本海軍が持っている最も高速な「金剛」型戦艦4隻を交互に出動させ、さらに戦艦に次ぐ大型艦である重巡洋艦部隊も加えて砲撃作戦を実施します。


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上は日本海軍の高速戦艦「金剛」(こんごう)と重巡洋艦「古鷹」(ふるたか)です。海軍はこれらの大型艦の強力な主砲で海上から陸軍の上陸作戦を援護しました。

この作戦は部分的には成功しました。日本艦隊の猛烈な艦砲射撃によって飛行場の戦闘機は吹き飛ばされ、滑走路は穴だらけになり、一時的に基地は使用不能になります。そして何より、アメリカ軍将兵に与えた心理的恐怖は大変なものでした。なぜならヘンダーソン飛行場を守るアメリカ海兵隊は、昼間は轟音とともに連日飛来する日本軍の爆撃隊に飛行場を爆撃され、さらに夜には日本艦隊の恐ろしい砲撃にさらされる事になったからです。そのわずかな間隙を縫って、日本軍輸送船団は夜間上陸作戦を決行、陸軍部隊の大半を上陸させる事に成功しました。しかし、ここで先ほどお話したアメリカ軍の第2飛行場が力を発揮します。

日本艦隊は第1飛行場の砲撃に集中したため、第2飛行場の方はほぼ無傷でした。アメリカ軍はこの第2飛行場に避難させていた戦闘機隊を出撃させて物資の揚陸途中だった日本の輸送船団を攻撃したのです。重たい火砲や砲弾、食糧など、浜辺に積んであったこれらの物資はアメリカ軍機の攻撃で破壊され、燃やされてしまい、輸送船も次々に沈められてしまいます。


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上はガダルカナルの海岸に各坐した日本の輸送船の姿です。

火砲と弾薬の陸揚げが上手く行かず、当初の目的であった多くの火砲の援護射撃で飛行場を奪還するという辻参謀の作戦は変更を余儀なくされます。しかし、第2師団とともにガダルカナルに上陸していた辻参謀は全く動じる事無く、日本陸軍が最も得意とした伝統の戦法である銃剣による白兵突撃で総攻撃を仕掛ける作戦を立てるのです。

「わが軍は第2師団と川口旅団の残存兵力を合わせて合計1万5千の大部隊である。これだけの兵力で総攻撃を仕掛ければ、あんな小さな飛行場の奪取など造作のない事だ。」

というわけです。

彼の立てた作戦は、これまで2回日本軍が行っておびただしい犠牲者を出し、無残な失敗に終わったものでした。しかし辻は、同じ場所で再びそれを繰り返そうとしているのです。これには前回総攻撃を加えた川口少将が大反対をし、最低でも攻撃位置を変える様進言します。これに対して辻は激怒し、作戦開始前日、川口少将を罷免してしまいます。(階級でははるかに上の少将を一中佐が罷免するなど本来なら有り得ませんね。いかに大本営参謀の権力が強かったか分かります。)


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10月24日、日本軍は3度目の夜間総攻撃を決行します。それに当たり、辻参謀は東京の大本営に次の様な自信に満ち溢れた電文を送りました。

「天佑神助(てんゆうしんじょ)により、一挙飛行場付近の敵を撃滅せんとす。」

そして日本軍は再び時間も場所もバラバラに飛行場に突撃を敢行、はるかに強化されたアメリカ軍陣地の機関銃の十字砲火の前に壊滅してしまうのです。夜が明けるとヘンダーソン飛行場の周囲の丘は日本兵の死体で埋め尽くされ、「血染めの丘」と名付けられる事になります。

さらにこの無謀な作戦の総責任者である辻参謀がマラリアにかかり、高熱を発して逃げる様に東京に帰還してしまいます。(バチが当たったのでしょうか?)もはやガダルカナルの奪還が不可能である事は誰の目にも明らかでした。しかしその後も大本営はガダルカナルを諦め切れず、またも陸軍部隊を乗せた輸送船団や高速の駆逐艦隊を差し向け、強行突破させようと試みます。しかし、アメリカ機動部隊から発進した戦闘機隊がこれを待ちうけ、1隻も島に近づけまいと空から襲い掛かり、日本軍は一連の突破作戦で大事な輸送船30隻余りと10隻以上の駆逐艦を失ってしまいます。


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上はガダルカナル上陸部隊に食糧と武器弾薬を送り届けるために海岸に乗り上げた日本の輸送船です。船の上に設置された高射砲が、来襲するアメリカ軍機を最後まで迎え撃った様子が目に浮かびます。手前には小型の潜航艇が転がっていますね。日本軍は潜水艦やこんな小型艦まで使って何としてでも食糧を送り届けようとしたのです。しかし、これでは運べる量はわずかなものでした。

輸送船団の壊滅は、ガダルカナル島に上陸していた日本軍残存部隊をさらに窮地に追い込む事になります。食糧の補給がないため、兵は飢えに苦しみ、辻参謀も倒れたマラリアや熱帯での喉の渇きから、ジャングルの小川の水を飲んだ兵たちが赤痢にかかり、次々に倒れていったのです。

一方はるか離れた大日本帝国本国でも、ガダルカナルの戦いの影響が出始めていました。このテーマの最初の輸送船団の回でお話した様に、物資輸送に必要な大型船舶が不足し始めたのです。この様な状況の中で、ついに大本営はガダルカナル奪還を断念し、1942年(昭和17年)12月31日の天皇ご臨席の御前会議において、正式にそれが決定されました。大日本帝国は戦勝気分に酔い痴れた1年前とはうって変わり、悲嘆に暮れた年末年始を過ごす事になります。

明けて昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島からの撤退作戦を開始します。ケ号作戦と呼ばれるものです。その由来は「捲土重来」(けんどちょうらい)からで、20隻もの駆逐艦により3回に分けて行われました。日本軍はかなりの損害を覚悟していましたが、実際には駆逐艦1隻を失ったのみで、島に残っていた残存部隊1万余の撤退を無事終える事が出来ました。(アメリカ軍はこれまでの激しい日本軍との戦いで、日本軍が新手の増援軍を送り込んできたものと思い込んでいました。そのため、まさかその逆に日本軍が撤退していたとは全く知らず、日本軍が島からいなくなった3日後にそれを知ったそうです。)

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上はアメリカ軍機が撮影した日本の駆逐艦隊です。35ノット以上(時速64キロ)の高速で強行突破を試みるその姿が、上空からは列車の様に連なって見える事から、アメリカ軍パイロットに「東京急行」(トーキョー・エクスプレス)などと呼ばれました。

この半年間におよぶガダルカナル島の戦いで日本軍が投入した兵力はおよそ31400名、そのうち無事に撤退出来た兵は1万600名ほどで、2万以上の兵が犠牲になりました。そのうち、実際の戦闘による戦死者は5千ほどで、残りの1万5千は飢えと病による死者でした。(アメリカ軍の戦死者はおよそ1500名ほど。)2月に行われた撤退作戦においても、1人で歩く事が出来ない兵士はそのまま島に置き去りにされたそうです。(その大半は、自決と味方兵士による「介錯」(かいしゃく)によって「処分」されていました。戦友をこんな形で手に掛けざるを得なかった兵士たちの心情は想像を絶します。号泣)

この戦い以降、著しく戦力と物資を消耗した日本軍は疲弊し、積極攻勢はすっかり鳴りを潜めてしまいます。そうしているうちにアメリカはすっかり戦時増産態勢を整え、太平洋方面に新型の艦艇や戦闘機を続々と送り込み始めていました。海軍や大本営が恐れていた事態がついに現実のものとなったのです。

このガダルカナルを巡る戦いは、一般にはアメリカ軍との激しい消耗戦が大きな敗因の様にいわれています。しかし、実際にはこの戦いの敗因は、当時の大日本帝国陸海軍の組織が持っていた体質的な欠陥と、時代遅れな白兵突撃戦法に固執した日本陸軍の武士道的精神主義、そして何よりもガダルカナルの島の距離の遠さにあるものと思います。

日本から6千キロ近く離れたこの様な地の果て(というより海の果て)にまで戦線を拡大した事自体、当時の大日本帝国がいかに自らの国力とその限界を度外視していたかが分かります。このガダルカナルには、その犠牲となって死んでいったわが兵士たちの多くの遺骨が今だ残されたままなのです。

次回に続きます。

剣は銃よりも強し? ・ 武士道の驕りが招いた敗戦

みなさんこんにちは。

みなさんは、今日のわが国が先進の科学技術が生み出す産業と、それを生業に年間500兆円ものGDP国内総生産を稼ぐ強大な経済、さらに古くから伝わる伝統工芸と、アニメや新しいキャラクター、先進のファッションなどに代表される自由で豊かな想像力に富んだ文化国家である事は良くご存知の事と思います。その点については世界中から異論を差し挟む国は存在しない事でしょう。

全く世界中でこれほど平和で繁栄した国家も珍しいですね。自分は心の底から日本人に生まれて良かったと常に思っています。しかし、歴史というものはそれぞれの国でいろいろあれど、わが日本ほど昔と今で国のあり方が違う国家は世界でも珍しいのではないでしょうか? なぜなら歴史好きな方ならば良くご存知の様に、わが国が国運を賭けて引き起こした太平洋戦争敗戦前の日本は、現代の日本とはまったくかけ離れた「超軍事国家」であったからです。

今年2015年(平成27年)は、1868年の明治維新によって、わが国が近代国家としての道を歩みだしてから147年目に当たります。その147年間に及ぶ日本の近代国家としてのキャリアは、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦を境に、前半の77年間の偉大なる大日本帝国時代と、敗戦後の70年間の自虐的「平和国家」日本国という、歴史を学ぶ上では非常に分かりやすい区切りで分けられるでしょう。

そのうち前半の帝国時代の日本は、「富国強兵」の明快な国家スローガンを掲げて急速に近代化と軍備増強を推し進め、台湾、南樺太、朝鮮半島、南洋諸島を次々に征服し、アジア、太平洋に燦然と君臨した一大軍事帝国でした。


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上は戦前の大日本帝国の領域図です。この地図は純粋に当時の日本の領土を表したものであり、中国東北部いわゆる満州などは含まれていません。それはこの地域が日本の傀儡とはいえ「満州国」という独立国であり、「日本の領土」ではないからです。

その一大帝国を築いた原動力は、何をさて置き当時の日本が心血を注いで増強してきた強大な軍事力だったのですが、明治初年の何もない状態から、これほどの規模の領域国家へと日本が成長した背景には、その興隆を支えたもう一つの大きな力がありました。それは日本独自の価値観である「武士道」です。

明治維新以降、わが国はそれまでの封建制から四民平等の社会へと大きく進歩しましたが、実際には日本社会の至る所で「身分制」が厳然として残っていました。中でもとりわけそれが顕著だったのが帝国陸海軍です。戦前の日本は、当時の欧米諸国同様当然の事ながら「徴兵制」が敷かれていましたが、兵の多くはそのほとんどが貧しい農家の次、三男が大半でした。(理由は単純です。軍に入れば薄給とはいえ給与が貰え、さらに軍服も食事も無料で支給される上に、住まいも兵営があてがわれ、つまり悪い言い方をすれば「食っていける。」からです。その代わり、兵たちには徹底した天皇への忠誠心が叩き込まれ、厳しい訓練が待ち受けていましたが、それが天皇に命を捧げる筋金入りの日本兵を創り上げていきます。)


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上は戦前(昭和12年以降)の一般的な日本陸軍兵士の方々です。みなさんまだ20代前半か半ばの若者たちですね。

この様に軍隊の大半を構成する兵は貧しい農民でしたが、それを指揮する将校以上の者は、裕福な地主や、元は名のある武士階級出身者がその大半を占めていました。これらの者たちは、軍隊を指揮するエリートとして別格とされ、その教育も士官学校や陸軍大学校(海軍は海軍兵学校)で特別な高等教育を受けます。そしてそれを修了すると、その証として所持を許されたのが「軍刀」です。


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上は陸軍大学校を優秀な成績で卒業した士官たちです。帝国陸海軍では彼ら成績上位者に対し、大元帥である天皇から菊のご紋章入りの豪華な「恩賜の軍刀」(おんしのぐんとう)を拝領する慣わしでした。これを拝領した将校らは一般の将校と違い、「軍刀組」と称されて参謀本部や軍令部、そして前回お話した大本営の参謀などの要職に付き、これら日本軍部の中枢を担うエリートとなっていたのです。

この軍刀は、まさに日本の階級社会において、長くその頂点に君臨していた武士階級の証であり、武士の魂でした。そのため日本帝国陸海軍の将校たちは常にそれを腰に下げ、特に陸軍においては突撃の際にそれをもって戦闘に臨んでいたのです。この軍刀に対する思い入れは、将校はもちろん農民出身者が大半の一般の兵士たちも強くそれを持っていました。なぜなら先に述べた様に、刀は武士の証であり、農民たちにとって何よりの憧れであったからです。

しかし、帯刀を許されるのは上の様に尉官(少尉~)以上の階級の人々であり、一般の兵士には手の届かないものでした。そこで、その代わりに兵士たちが大事にしたのが「銃剣」です。


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「銃剣」とは上の写真の様に銃の戦端に付けるものです。一般の兵士たちは軍刀の代わりにこれを腰に下げていました。

この銃剣は一般の日本兵士たちにとって、軍刀の代わりとなるものであり、これを持った兵の多くは自分の身分が上がった様な、高揚した気分になった者が多かった様です。

大日本帝国は、こうした封建時代の武士道の名残りを強く受け継ぎながら明治以来の対外戦争に勝利していきます。しかしそれは日本の軍事的隆盛に大きく貢献しましたが、同時に弊害も招いてしまいます。なぜならそうして勝利を重ねるうちに、当時の日本人は次第に自分たちが「無敵」であり、「神」に守られた特別の存在なのだという思い上がった「錯覚」に陥いらせる事になってしまったからです。そしてそれは日本軍部において、戦争に欠かせない武器や装備、戦術の発達と進歩を大きく遅らせてしまう事にもつながりました。

さて、太平洋戦争におけるわが大日本帝国陸海軍の「主力兵器」とは何でしょうか? ゼロ戦? 戦艦大和? いや違います。正解は下に載せた「三八式歩兵銃」(さんはちしきほへいじゅう)です。


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この銃は1904年(明治38年)の日露戦争時に日本陸軍に正式採用された事から、武器の名を固有名詞ではなく年式で表す日本独特の習慣によりその名が付けられました。ドイツ製のモーゼル小銃を改良した頑丈なボルトアクション式小銃で、上の様に5発の弾薬クリップを上から装填する仕組みです。日露戦争から太平洋戦争まで40年以上に亘り、日本軍の「主力兵器」として使用されました。

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上は三八式歩兵銃を手に南方攻略作戦に従事するわが軍将兵たちです。この銃と将兵たちの武士道的精神主義のコンビネーションが、大日本帝国の躍進を底辺で支えたのです。

しかしこの三八式歩兵銃も、日露戦争当時は最新鋭でしたが、太平洋戦争勃発時にはすでに旧式化していました。何よりこの銃は連続発射が出来ず、1発撃つ毎に手元のボルトを後へ引いて空薬莢を出さなくてはならない「単発式」だったからです。

そこで疑問に思われるのが、なぜ日本軍は自動小銃すなわちマシンガンを開発し、全将兵に持たせなかったのか? という点です。すでに同盟国のドイツ軍はもちろん交戦国のアメリカも多くの将兵にマシンガンを持たせていました。これさえあれば、戦闘でも敵に大きな損害を与える事が可能です。しかし、もちろん日本軍も機関銃は多数保有してはいたものの、それはあくまで戦闘での援護射撃のためのものであり、一定の数の部隊に1丁という割合で配備される程度で、全ての兵士にそれを持たせる事はありませんでした。


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その疑問はやはり、前述した日本独自の価値観である武士道が大きく影響していました。なぜなら日本軍、特に陸軍において、敵軍との戦闘における必勝の戦法は、先に述べた軍刀と銃剣による「白兵突撃戦法」であったからです。しかしそれは決して無謀な思考で行われたものではありませんでした。というのは、大勢の兵が一斉に正面から突撃してくるのを見た敵兵は心理的パニックを引き起こし、防衛線が総崩れになる場合が多かったからです。当時の日本陸軍将兵であった方々の多くが次の様に証言しています。

「日中戦争までは、敵(中国)の力も弱かったから、それで結構何とかなっていたんです。とにかく銃剣を持って一斉に突撃して行けば、彼らは驚いて逃げてくれるんです。いや、逃げてくれるというより、逃げてしまうんです。」

もちろんそうした心理的効果を狙った理由の他にも、物理的な理由もありました。それは簡単に言えば「お金」と生産力の面です。自動小銃は通常の小銃よりはるかに価格が「高い」のです。それに当然の事ながら弾薬の消費量も多いため、物資の生産力においてアメリカに太刀打ち出来ない差がある日本では、たとえ自動小銃を開発しても、とてもそれを全ての将兵に持たせるほどの弾薬を生産する事は出来ませんでした。

そのため日本軍は、将兵たちに弾薬を大事に使わせるために、多くの弾薬を消費する自動小銃よりも、単発式の小銃を兵に使わせ続けたのです。とはいえ日本軍も自動小銃を開発してはいました。それが下に載せた「100式機関短銃」と呼ばれるものです。


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上がその「100式機関短銃」です。1941年(昭和16年)に日本軍が正式採用した唯一の自動小銃で、拳銃用の弾薬を30発装填出来ましたが、弾倉が横についているために射撃のバランスが悪く、実戦では不評で、さらに生産数も1万丁程度と少なく、空挺部隊などの特殊部隊に配備された他は、第一線で使用される事はほとんどありませんでした。

日本軍は、すでに戦争というものが、最新兵器とその開発力、そしてそれを大量に作り出す生産力が勝敗を決する時代に移っていた事を認識していませんでした。それは、20世紀の半ばに達するというのに、飾りとはいえ「刀」を近代戦に用いていた事にも現れています。もちろん、それが時代遅れなものである事は多くの軍人たちも分かっていました。しかし、彼らはどうしても、心理的に「刀」を捨て切れなかったのです。また、かつて陸大で恩賜の軍刀を拝領し、太平洋戦争を指導した大本営陸軍部のエリート参謀らがまとめた報告書にも、次の様な一文があります。

「わが白兵突撃は物質的威力を凌駕する必勝の戦術である。」

こうした「驕り」(おごり)が、時代錯誤の武士道的精神主義と相まって日本軍の装備の近代化と進歩を大きく阻害して行ったのです。そしてそれは太平洋戦争におけるアメリカ軍との戦いで表面化してしまいます。アメリカ軍将兵の優れた装備に時代遅れの旧式の装備で戦わされ、その犠牲となって死んでいったのは、皮肉にもかつて武士に憧れ、武士の持つ刀を羨望の眼差しで見ていた農民出身の兵士たちでした。

太平洋戦争の戦局が悪化し、大日本帝国が敗退を重ねる各地の戦場で、わが将兵たちは圧倒的なアメリカ軍の無数の機関銃に向かって「玉砕」と美化された白兵突撃を繰り返し、全滅していったのです。

そして敗戦。アジア大陸と太平洋の諸島に布陣していた大日本帝国陸海軍の第一線部隊270万は、昭和天皇のご命令の下で一斉に停戦し、各地の連合軍に降伏します。その時、わが日本軍人たちが最後まで肌身離さず身に付けていたものは、武士の魂である「刀」でした。


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上の画像1枚目は敗戦により連合軍に降伏する日本陸海軍の将官のお二方です。その手には軍刀が握られています。立派な軍装からどちらも中将クラスではないでしょうか。そして2枚目は降伏に伴い武装解除される一般の将校たちです。降伏の証として、軍刀を地面に置いています。この時の彼らの心情はどんなものだったのでしょうか?

太平洋戦争終結後、アメリカ軍上層部は日本軍将兵について次の様な報告書を作成しています。

「戦争において勝敗を決するのは優れた武器であり、我々ならば出来るだけ多くの優れた武器を持って戦争に勝とうとする。しかし、日本兵にとって武器は単なるアクセサリーに過ぎない。この背景には武士道精神を重んじる日本文明が、他の何よりも優れているとの思い込みがあり、これが彼らの視野を狭め、敗北を招いた原因である。」

また、大日本帝国の統治者にして、彼ら帝国陸海軍人の絶対的忠誠の対象として君臨しておられた大元帥たる昭和天皇も、敗戦直後に日光に疎開されていた幼少の皇太子明仁親王殿下(現今上天皇陛下)に宛てた手紙で次の様に述べられています。

「敗因について一言言わせて欲しい。わが軍人は精神に重きを置きすぎて科学を忘れた事である。」

次回に続きます。

大陸打通作戦 ・ 大勝利していた日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは、かつてのわが大日本帝国が、先の大戦において初戦の束の間の勝利の後、広がり過ぎた占領地域を維持出来ず、反撃を開始したアメリカなどにずるずると一方的な敗北を重ねて敗戦に至ったというイメージをお持ちではないでしょうか?(かくいう自分もそうでした。)確かに巨大な生産力と、圧倒的な物量で迫るアメリカとの太平洋戦線では、その様な展開になったのが事実です。しかし、そんな中にあって、わが日本軍が局所的とはいえ、大規模な攻勢で大勝利していた戦線があったのをご存知でしょうか? それは「中国戦線」です。

今回は、敗戦直前に中国大陸南部で日本軍が行った最後の大作戦である「大陸打通作戦」についてのお話です。

大陸打通作戦―日本陸軍最後の大作戦 (光人社NF文庫)

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この大陸打通作戦について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。実際にこの作戦に従軍された旧帝国陸軍将校の方の作品で、著者の佐々木春隆氏は、戦後陸上自衛隊陸将補(中将クラス)防衛大学校教授として日本の国防に人生を捧げられた生粋の軍人です。戦史で名高い光文社NF文庫でページ数はおよそ260ページ、当時の中国戦線におけるわが日本軍に関する全てが記された秀作ではないかと思います。

1943年(昭和18年)夏、大日本帝国は戦局の低迷と、始まりだしたアメリカ軍の反抗作戦によって、太平洋方面で苦戦を強いられていました。すでにソロモン諸島とニューギニア方面では、アメリカ・オーストラリア連合軍の反撃が始まり、両軍との戦いで、日本軍は大事な艦船50隻と1500機以上の航空機を失い、さらに両方面で合わせて20万以上の戦死者を出していたからです。

勢いに乗るアメリカ軍は、日本軍占領下の太平洋の島々を次々に攻略し、日本帝国本土に攻め上る作戦を立て、それを実行して行きます。こうしたアメリカ軍の動きに対し、大日本帝国は日本の勢力圏を守るために絶対に欠かせない地域を「絶対国防圏」と定め、ここでアメリカ軍の反撃を食い止めようとしますが、アメリカ軍がいつどこから攻めてくるか分からない状況下で、日本軍は太平洋の島々に守備隊を分散せざるを得ず、ひとたびアメリカの攻略目標とされれば、それらの日本軍守備隊はアメリカの大艦隊に包囲されて補給も救援も受けられず、持って数日か、長くて1週間で全滅させられてしまう「各個撃破」を繰り返す事になります。


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上は当時の太平洋戦線の地図です。

すでにこれまで当ブログで述べて来た様に、アメリカ軍の反撃は空と陸だけではありませんでした。海中からは100隻を越えるアメリカの潜水艦が太平洋中を荒らし回り、日本の艦船を徹底的に攻撃していきます。日本帝国本土と南方占領地を結ぶ資源輸送ルートはその第1攻撃目標とされ、物資の輸送に欠かせない大事な船舶が積荷もろとも海に沈められていきました。

こうした切迫した状況にあって、東京の日本帝国大本営では、事態打開のためにある一大作戦が計画される様になります。それが「大陸打通作戦」正式名称を「一号作戦」と呼ぶものです。これは、今だ日本軍が占領していなかった中国南部を攻略占領しようというもので、当時大本営陸軍部作戦課長であった服部卓四郎(はっとり たくしろう)大佐によって立案されました。


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上の画像1枚目が作戦の立案者である服部卓四郎大佐です。(1901~1960)彼は陸軍大学校をトップクラスで卒業し、恩賜の軍刀を拝領したエリートで、太平洋戦争における主な陸軍の作戦はほとんど彼が関わっていました。しかし、彼は卓越した作戦能力と企画力は持っていたものの、それはいわゆる典型的な「机上のプラン」であり、現実は実情を無視した強行的かつ無謀なものが多く、以前お話したガダルカナルの戦いも、部下の辻中佐とともに彼が推し進めたものでした。

この作戦は上の2枚目の画像の様に、中国大陸を「打ち通す」用に中国大陸南部に進撃し、日本軍占領下のインドシナ半島に到達して南方占領地と日本帝国本土を陸路で結び付けようというものでした。

服部大佐ら大本営参謀がこの大作戦を計画した最大の目的は、日本帝国本土と南方占領地を陸路で結ぶ事でした。先に述べた様に、アメリカ潜水艦によって海上の資源輸送ルートは遮断されつつあり、昭和19年以降日本本土の物資の不足は目を覆うばかりに悪化し、このままでは戦争の継続は不可能でした。そこで大本営陸軍部は、危険な海上輸送でせっかく手に入れた南方の資源を海没するよりも、はるかに安全な陸路で中国大陸を経由し、朝鮮半島から九州へ運び入れる計画を立てたのです。(これなら、危険な海上輸送は最短の朝鮮半島と九州までのわずかな距離で済み、せいぜい3~4時間で物資を運べますね。)

また、もう1つの目的として、そもそも日本軍が太平洋戦争を開戦するに至った発端の日中戦争における本来の宿敵、中国国民党主席蒋介石率いる中国国民革命軍を撃破し、その継戦意思を削いで、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件による日中戦争勃発以来の日本の宿願である中国征服を実現する事もその目的でした。


蒋介石

上が当時の中国の指導者である蒋介石です。(1887~1975)彼は1920年代から第2次大戦終結直後まで、中国の指導者として日本軍と戦った人物で、功罪分かれる人物ですが、個人としての彼は大変な親日家で、20代前半の若い頃、4年間も日本に留学して日本語も流暢に話し(東京神田の古本屋街に足繁く通い、本を探す若き蒋介石がいたそうです。)日本の陸軍にも入隊して新潟の高田連隊で2年以上厳しい訓練を受けて鍛え上げられ、そこで得た忍耐心が、後の日本軍との長い戦いを勝利に結び付けたと本人が後に回想しています。

ちなみに彼が目指した理想の国家とは、わが大日本帝国であり、それをモデルに当初は自らの独裁による中華民国とし、やがては彼の子孫を世襲の指導体制とする事でした。(彼は本心は、自身の王朝を開いて「中華帝国」としたかった様です。しかし、それは時代に逆行するものであり、また、かつてそれを行って3ヶ月で失敗した袁世凱(えん せいがい 1859~1916)の二の舞を避けたかったのでしょう。)

ただ、大本営はすぐにはこの作戦を実行出来ずにいました。なぜなら当時の日本軍は、アメリカ軍との太平洋での戦いに手一杯で、激戦が続く太平洋方面に兵力を振り向けるため、中国大陸に展開する「支那派遣軍」から次々に兵力を引き抜いていたからです。

この支那派遣軍とは、1939年(昭和14年)9月に編成されたもので、その名の通り当時中国大陸に派遣されていた日本陸軍最大の部隊の事です。(満州に展開していた有名な「関東軍」とは全く別のものです。)太平洋戦争開戦時、その兵力は90万を数える大軍でしたが、こうした太平洋方面への兵力転用によって、この時期その兵力は62万にまで減少していました。

しかし、海上輸送は急速に悪化していました。こうした状況の中で、当時首相兼陸相にして参謀総長も兼任していた東条英機大将は服部大佐の作戦計画を認可し、ここに大陸打通作戦は開始が決定されます。時に1944年(昭和19年)4月の事でした。

上層部の認可を得た服部大佐は、自身が温めて来た作戦計画の実行のために勇んで作戦準備を開始します。彼の作戦は支那派遣軍指揮下の25個師団(日本軍の1個師団の兵力はおよそ2万ほどだったそうです。この内純粋に戦闘を行う戦闘部隊はその6割で、残りはこれを支援する砲兵部隊や補給部隊などです。)と11個旅団(同じく1個旅団の兵力はおよそ1万ほど)の約8割に当たる18個師団と6個旅団を投入し、さらにこれを増強して中国南部一帯を占領するというもので、参加兵力実に50万、それらの兵や物資を運ぶトラック1万2千台、戦車800両、火砲1500門を動員するという、太平洋戦争開戦以来最大規模の作戦でした。

さて、これを最も喜んだ将軍がいました。支那派遣軍総司令官の畑俊六(はた しゅんろく)元帥です。


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上が支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥です。(1879~1962)彼は1941年(昭和16年)3月に支那派遣軍総司令官となって以来、中国方面の日本軍総司令官として蒋介石の中国軍と戦ってきましたが、太平洋戦争開戦で麾下の兵力が次々に引き抜かれてしまい、戦線を現状維持するのが精一杯で、これを苦々しく思っていました。

1944年(昭和19年)4月、畑元帥率いる支那派遣軍は、膠着していた中国戦線を一気に決着するために作戦を開始します。一方迎え撃つ中国軍は、この時点で全土に300万もの兵力がこれを待ち受けていました。

日本軍は相当な苦戦を予想していましたが、意外にも作戦自体は実に順調に進みました。日本軍は数に勝る中国軍を各地で撃滅しつつ、大きく2方面から進撃を続け、昭和19年12月にはほぼ予定通りの地域を占領して、インドシナ半島の味方部隊と合流したのです。全く予想外の大勝利でした。

それにしても、なぜ日本軍は勝利出来たのでしょうか? いかに50万もの大軍とはいえ、兵力の点では中国軍の方がはるかに多かったはずです。その答えは、日中両軍の軍隊としての「質」の違いでした。


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わが日本軍は、上の一連の画像の様に、その前進部隊が十分に増強配備された戦車、砲兵部隊を主力とする機甲部隊でした。これらの機甲部隊が中国軍の防衛線を蹴散らし、粉砕した後、歩兵部隊がこれを制圧していくのですが、その兵の移動もトラックなどを集中使用して(もちろん徒歩行軍も多かった様ですが。)迅速な作戦行動が出来たのです。

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また、日本軍の戦闘機や爆撃機が、蒋介石の本拠地である重慶をはじめ、各地の中国軍を空爆し、進撃する陸軍部隊を空から援護していました。(爆弾に「蒋介石に贈る」と書かれていますね。笑 これらはおそらく宣伝のために、信管と爆薬を抜いた「空っぽ」の爆弾を使って撮影されたものでしょう。)

この日本軍の航空戦力は、陸軍の第5航空軍がその主力でしたが、度重なる太平洋方面への兵力転用はこれらの航空部隊にも及び、この時期の可動戦力は250機余りと、50万の大軍を空から援護するには明らかに少なすぎるものでした。この点中国軍は、自前の空軍はなかったものの、アメリカなどの連合国の空軍部隊が中国奥地の山岳地帯に駐留し、その戦力は合計800機と、日本軍の3倍以上の数で空から日本軍を悩ませます。わが第5航空軍も、これらのアメリカ軍航空部隊との空中戦で100機以上を失っています。


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それに対して中国軍の方は、兵力こそ300万の大軍ではありましたが、中国兵の装備はせいぜいドイツ製の小銃や軽機関銃をコピーしたものが大半で、日本軍の様な機甲部隊や砲兵部隊などもちろんなく、兵の移動も完全な徒歩か、騎馬によるものでした。当然航空部隊などもありはせず、アメリカなどの連合国の空軍に頼るほかありませんでした。(そのため、実際に日本軍と戦闘を交えた中国軍は、全軍の2割にも及ばない40万ほどだったそうです。)

もちろん中国軍にも精鋭部隊はいました。これらはかつて日独伊三国同盟締結以前のドイツに大金を払って軍事支援を受けたものですが、その兵力は8個師団程度(およそ10万ほど)と数が少なく、とっておきの予備兵力として蒋介石の手元に温存されていたために活躍の機会はありませんでした。


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上がその中国国民革命軍の精鋭部隊です。彼らのヘルメットは完全にあのナチス・ドイツ軍のものですね。一見しても分かる様に、彼らの軍服は上に載せた一般の中国兵はもちろん、わが日本軍将兵のそれよりはるかに良い高級なものですね。(驚)おそらく撮影のために特別に礼装用の軍服を着用させたものと思われます。これらの精鋭部隊は強力なドイツ製の最新装備を備えていましたが、その数は全軍の30分の1程度でした。

こうした両軍の装備の違いとは別に、両軍の間にはさらに大きな差がありました。それは将兵の士気と忠誠心です。わが大日本帝国軍は、その全将兵の絶対的忠誠の対象として大元帥たる天皇のご存在がありました。そう、日本軍は「皇軍」すなわち全ての日本兵は一兵卒に至るまで、天皇家の菊の紋章を刻印された銃を持ち、天皇のために命を捧げる忠実な兵士なのです。その忠誠心と、前回お話した日本独自の武士道精神が生み出す士気の高さは、中国兵のそれとは比較にならないものでした。

それに引き換え中国軍の方は、その兵の大半が強制的に集められた徴募兵でした。つまり、嫌々ながら脅されて仕方なく付いて行かざるを得なかった貧しい農民がほとんどだったのです。当然命を懸けて戦おうとする意思も、増して忠誠心などありはしません。(忠誠の対象になるべき人物があの蒋介石ではなおさらですね。)彼らの頭にあるのは、隙あらば脱走して家族の待つ故郷の村に戻る事でした。モラルも悪く、銃を持つのを良い事に同じ農民を襲って平気で略奪をしていたのです。(つまり一言で言えば、中国軍は装備も兵も、外国製と無教養な農民の寄せ集めの「烏合の衆」に過ぎませんでした。)

もちろん、彼らの中にも心から国を憂い、一心に国のために戦った者もいました。彼らは将校クラスとして兵を指揮していましたが、それはそれなりの教育を受けた都市部の比較的良家の出身者が多く、また中国軍全体から見れば極めて少数でした。大半の中国兵は、初等教育もまともに受けていない貧しい地方の農民出身者であり、イデオロギーはもちろん

「一体何のために命を懸けて戦うのか?」

といった、この戦争の根本的な意味すら分からなかったのです。

こうした事情もあって日本軍は大勝利を収め、1944年(昭和19年)末には中国大陸南部一帯の占領に成功したのですが、日本陸軍が中国大陸で大勝利していたこの8ヶ月間の間に、すでに太平洋方面の戦局は大日本帝国にとって絶望的な状態に陥っていました。

日本海軍機動艦隊は、6月に行われたサイパン島近海のマリアナ沖海戦で、空母3隻と400機以上の艦載機を失う大敗を喫し、さらに10月のレイテ沖海戦では、残る艦隊の全てを投入するも、1機の航空援護もない無謀な作戦により水上戦闘艦艇の半数を失って、ここに日本海軍は事実上壊滅してしまいます。

艦隊の壊滅は、日本本土と南方占領地の資源輸送ルートを完全に断ち切られる事を意味しました。さらにサイパン島をアメリカ軍に奪われた結果、ここを基地とするアメリカの長距離大型爆撃機B29による日本本土への戦略爆撃によって、日本列島は連日の激しい空襲に見舞われ、軍需工業地帯はめくら潰しに破壊されていきました。

日本軍がせっかく手にした中国戦線での大勝利と新たな征服地は、南方からの重要資源の陸上輸送という本来の戦略目的を果たせず、結局わが大日本帝国は無条件降伏を要求するポツダム宣言を受け入れ、運命の敗戦を迎える事になります。大陸打通作戦の勝利は無意味に終わってしまったのです。

この時、中国大陸に展開していた支那派遣軍は、この大陸打通作戦の期間中に再び増強され、その兵力は開戦時を超える105万に達していました。また、作戦中の昭和19年11月に、それまでの総司令官であった畑元帥が、西日本の全陸軍を総括指揮する第2総軍の総司令官に就任するに当たり、新たに岡村寧次(おかむら やすじ)大将が代わって支那派遣軍総司令官の職を引き継いでいました。


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上が敗戦時の支那派遣軍総司令官である岡村寧次大将です。(1884~1966)彼は南京事件での日本軍の虐殺の反省から、配下の全軍に徹底した綱紀粛正を命じ、そのため大戦中の中国大陸における日本軍は、戦闘中を除けば現地の無辜の中国人民に極力損害の及ばないよう行動していたそうです。(逆に中国人民に危害を加えていたのは、日本軍よりも先に述べた蒋介石の中国国民革命軍の方であり、日本軍占領地域の中国の民衆は、進んで日本軍に協力した者が多かったそうです。)

これまで述べて来た様に、支那派遣軍は中国大陸で完全に勝利し、敗退していたのは蒋介石の中国軍の方でした。その勝っていたはずの日本軍が、負け続けの中国軍に降伏する事になったのです。岡村将軍は日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言の受諾を決定した日本帝国政府に対し、次の様な電文を送って抗議しています。

「数百万の陸軍兵力が、一度も決戦を交えずに降伏するなどという恥辱は世界戦史にその例を見ない。わが支那派遣軍は、日中開戦以来8年間連戦連勝を続けてきたのである。100万の精鋭健在のまま、敗残の蒋介石の重慶軍に無条件降伏するなどという事は、いかなる場合でも絶対に承服する事は出来ない!」

事実、彼の配下には100万の無傷の大軍が温存されているのです。岡村将軍の抗議は帝国軍人ならば当然の事でした。しかし、ポツダム宣言の受諾が昭和天皇のご聖断によるものである事を知ると彼は抗議を撤回し、ここに支那派遣軍100万の史上最大の降伏が実現する事になります。


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上が南京で行われた降伏文書調印式の様子です。中国大陸の全日本軍を代表し、支那派遣軍総司令官の岡村大将(正面の長身の人物)が署名しています。

「勝っていたのになぜ負けている連中に降伏しなければならんのだ。」

岡村将軍の憮然とした表情がそれを物語っていますね。


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一方上は勝利した(?)中国軍の将軍たちです。岡村将軍の署名した降伏文書を掲げて笑みをもらしています。確かに彼らにとってはうれしかった事でしょう、8年もの長い間続いた日本軍との長い苦しい戦いがやっと終わり、物理的にはアメリカなどの他力本願とはいえ、100万以上の日本の大軍を釘付けにして連合国の勝利に(一応)貢献したのですから。

ところで、両者の間にはもう一つの大きな問題が残っていました。それは100万を越える日本軍の武装解除と復員をどの様に進めるかという事です。何しろ支那派遣軍は日本陸軍最大最強の部隊です。日本軍の多くの部隊では今だ抗戦派が大勢で、その気になればいつでも戦闘を再開すると息巻いていました。こうした状況を踏まえ、中国の蒋介石は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず。つまり戦いが終わった以上、過去の怨みや復讐の気持ちは捨てよ。)という故事を表明して日本軍の復員に最大限の便宜を図る様支持していました。

これは蒋介石のエピソードとしては有名なものの1つですが、彼がこの様に配慮したのは、中国大陸の日本軍が非常に強力であり、彼の中国軍は日本軍との正面での戦いで1度も勝てなかったからです。その事を一番良く知っていたのが、長年日本軍と戦ってきた彼自身でした。戦争が終わった以上、彼はこの強大な日本軍100万をむやみに刺激せず、穏便かつなるべく早く中国大陸から撤退させて、中国再建を図る方が得策と考えたのです。(先に述べた様に、蒋介石は本来は親日家であり、彼は終始日本軍との戦いに消極的でした。彼が「敵」として最も恐れていたのは、日本軍よりも毛沢東率いる共産党勢力であり、すでに彼はこれらとの戦いの準備を進めていました。)

何はともあれ、蒋介石のこの方針により、わが日本陸海軍将兵120万、民間人80万の合計200万の復員と引き揚げは、たった10ヶ月という驚異的なスピードで完了したのです。

この大陸打通作戦の評価は現在もその賛否が分かれていますが、欧米の歴史家の間では、意外にも日本軍の予想以上に戦局に重大な影響を及ぼしていた事が分かっています。特に、戦えば常に負ける蒋介石率いる中国軍の脆弱さには、中国を支援していたアメリカのルーズベルト大統領や、イギリスのチャーチル首相を大きく失望させます。アメリカ軍内部でも、蒋介石に対する不信感を大きく増大させる事にもなりました。


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上はアメリカ・イギリス・中国の指導者たちです。にこやかな表情の裏で、彼らは自国の利益のために互いを利用しあっていました。

「蒋介石が日本軍と真剣に戦わなかったのは、日本の大軍を広大な中国大陸に釘付けにし、連合国と共闘するふりをしつつ、連合国から自分に補給される軍需品をためておき、やがて連合軍が日本軍を破った後に、その日本軍の退去に連れて、毛沢東ら共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりでいるからである。」

アメリカなどの連合軍指導部はこの様な結論を下しています。そのため、以後彼らは中国を当てにする事はせずに、独力で日本を屈服させる方針に切り替えたのです。

敵味方双方の思惑と、関わった人々のそれぞれの心情を含みながら、日本軍の最後の大作戦である大陸打通作戦の記憶は、歴史の流れの中に埋もれようとしています。

次回に続きます。

アリューシャンの戦い ・ アメリカに上陸していた日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは、かの太平洋戦争(大東亜戦争)は、美しい南の青い海と空を主な戦場として繰り広げられたものであるというイメージをお持ちではないでしょうか? しかし、かつてのわが大日本帝国が進撃の矛先を向けたのは、南方ばかりではありません。灰色の空と、荒れた冷たい海で人を寄せ付けぬ北方にも艦隊と兵を差し向け、この地で激戦を展開しています。今回は、あまり知られていない日本軍による北方作戦、すなわちアリューシャン方面侵攻作戦についてのお話です。

さて、今回のお話の舞台となるアリューシャン列島の位置ですが、下に載せた場所になります。


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上が北方アリューシャン列島の位置です。恐らくこの地球上で最も文明社会から隔絶された「地の果て」の一つと呼べる場所でしょう。

それにしても、なぜ日本軍はこの様な「敵」となる相手もいなければ、軍需資源になるものとてない北方にまで戦線を広げたのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。

1942年6月、大日本帝国海軍はその総力を挙げて、史上最大の作戦を実施しようとしていました。いわゆる「ミッドウェー作戦」です。この作戦の目的はハワイのアメリカ太平洋艦隊をおびき出し、まだ艦船数と戦力でわが日本軍が優勢なうちに全力を挙げてこれを撃滅し、その後の戦局を有利に進めるべく行われたものですが、その勝敗の結果が日本側の無残な敗北に終わった事は、多くの方がご存知の事でしょう。

そのミッドウェー作戦の経緯については、いずれ当ブログで詳しく取り上げたいと思うので、今回は省かせていただきますが、今回の日本軍のアリューシャン方面への侵攻は、そのミッドウェー作戦の一環として行われたものでした。


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上はミッドウェー海戦の勝敗を知らせる当時の朝日新聞です。4隻もの空母を失った事はひた隠し、架空の戦果を国民に誇大に伝える大本営発表の記事です。

それではなぜこのミッドウェー作戦と、はるかはなれた北方のアリューシャン作戦が連動しているのでしょうか? それはこのアリューシャン作戦が、ミッドウェー作戦を支援するためにアメリカ軍の目をそらせるのが目的の「陽動作戦」であったからです。

この「陽動作戦」のために、日本海軍は細萱戊子郎(ほそがや ぼしろう)中将を司令官とする第5艦隊(北方艦隊)を編成し、アリューシャン列島の西の端に位置する2つの島、アッツ島とキスカ島の攻略に当たらせました。


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上が第5艦隊司令官細萱戊子郎中将です。(1888~1964)彼は駆逐艦や巡洋艦などの乗り組が長く、またどちらかといえば軍務官僚タイプの人物であり、いささか優柔不断の側面があった様です。それが後の実戦での失敗を招く事になります。

細萱中将率いる北方艦隊は重巡洋艦3隻、空母2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻から成り、さらに攻略する陸軍部隊を乗せた輸送船など10隻が随伴していました。そしてミッドウェー作戦そのものは日本軍の大敗に終わったものの、さしたる強力な敵がいなかった北方作戦自体は順調に進み、日本軍はアッツ、キスカ両島の占領に成功します。


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上がアッツ、キスカ両島の位置と、上陸した日本軍部隊です。当時この島々には、原住民であるアリュート人の人々が住んでいましたが、彼らは日本軍の占領に伴い北海道などへ抑留されたそうです。

日本軍占領後、これらの島々には太平洋戦争におけるわが日本軍最北端の占領地防備のためにそれぞれ守備隊が置かれ、アッツ島は「熱田島」(「あつたとう」安直というかそのままですね。笑)キスカ島は「鳴神島」(「なるかみとう」こちらは由来が不明ですが、どちらも恐らく天皇家にゆかりの深い神社の名前から拝借したのではないでしょうか?)と改称されていましたが、南方戦線の激化とともにその戦略的意義は薄れ、すっかり忘れられた存在となっていました。

しかし、この2つの島を忘れる事のなかった巨大な存在がありました。それはアメリカです。なぜならこのアリューシャン列島はアラスカ州の一部であり、れっきとしたアメリカ合衆国の一部であったからです。(つまり日本軍は、「アメリカ」に上陸してこれを占領していた事になりますね。)アメリカは日本に奪われたこの2つの島を取り返すため、1943年(昭和18年)に入り、大規模な奪還作戦を計画します。

アメリカ軍は巡洋艦と駆逐艦から成る9隻の艦隊で艦砲射撃を加え、さらにアリューシャン方面の制空権を握るために、キスカ島に近いアダック島に飛行場を建設し、空襲を開始します。これに対して日本軍は、防備を強化するために兵力を増強、そうはさせるものかと迎え撃つアメリカ艦隊と日本艦隊は、北方海域で初めての海戦を行います。これがアッツ島沖海戦(コマンドルスキー海戦)です。

日本艦隊は、先の細萱中将率いる重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、輸送船2隻で、アッツ、キスカへの増援部隊と補給物資を載せていました。対するアメリカ艦隊は重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻でこれを迎え撃ちます。

この海戦は太平洋戦争では珍しく、双方とも1機の航空機の援護もなく行われた純粋な砲雷撃戦だったのですが、距離が離れていたために命中率の悪い遠距離砲撃になってしまい、また細萱中将が米軍機の空襲を恐れて早々に撤収してしまった事などから本来の輸送任務が果たせず、援軍と補給を待ち望む守備隊は窮地に立たされる事になってしまいます。(細萱中将は、この海戦での指揮の不味さの責任を問われて更迭されてしまいました。)

1943年(昭和18年)5月、アリューシャン方面の制海・制空権を確保したアメリカ軍は、ついにアッツ・キスカ奪還のために上陸作戦を開始しました。まずアメリカ軍は手始めに、日本軍の守備隊が少ないアッツ島を狙います。その兵力は1万1千。対する日本軍守備隊は山崎保代(やまざき やすよ)大佐率いる1個連隊2600名余りでした。


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上がアッツ島守備隊司令官山崎保代大佐です。(1891~1943 前列の軍刀を地面に衝いた丸顔の方です。)彼はお寺の次男から軍人になった異色の人物で、太平洋戦争において最初に「玉砕」した帝国軍人として崇められる存在となります。

山崎大佐は補給も増援の望みも絶たれた今、自分たちには勝ち目がない事を良く承知していました。残された彼らに残された選択肢はただ1つ、栄光ある大日本帝国軍人として1人でも多くの敵を道連れにし、壮烈な最期を迎える事です。そう、わが大日本帝国軍にあるのは「勝利」か「死」か、2つに1つであり、「降伏」の2文字は存在しないのです。

「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ。 」

これは太平洋戦争開戦直前に東条英機陸軍大臣の名で布告された「戦陣訓」の最も有名な一文です。敵の捕虜になる事は日本軍人の最も恥ずべき事であり、捕虜になるくらいなら戦って死ぬか、潔く自決せよと説いたものです。日本軍はこの戦陣訓の精神を兵士たちに徹底的に叩き込み、「武人」としての本懐を遂げるよう教育していきました。そしてわが将兵たちは純粋にそれを守って死んでいったのです。

それはまさに「武士道」の精神であり、「騎士道」の精神を受け継ぐ敵アメリカ軍に敬意と恐れを持たれる敢闘精神を発揮する一方で、同時に今次大戦におけるわが将兵の犠牲を大きくしていった原因でもありました。(それにしても歴史とは恐ろしいほどに皮肉なものです。この戦陣訓を布告した東条将軍ご自身が、後に「虜囚」となって「罪禍の汚名を残す事」になるのですから。)


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上の画像1枚目は当時のアッツ島の様子です。この島は内陸が山岳地帯になっており、山崎大佐率いる日本軍はこれらの高地に防御陣地を敷いて、アメリカ軍を奥地に引き入れて撃滅する作戦でした。そのため、海岸には全く兵力を展開せず、1万を越えるアメリカ軍は何の抵抗も受けずに上陸出来たのですが、後に内陸部への進撃で日本軍に手痛く反撃されてしまいます。(彼の作戦は実に見事でした。日本軍はこの天然の地形を利用して、高みからアメリカ軍を狙い撃ち出来たからです。一方ふもとから斜面を登らなくてはならないアメリカ軍は大変苦戦し、600名以上の戦死者を出す損害を出しました。)

こうして日本軍は、3千に満たない兵力で4倍のアメリカ軍を相手に2週間以上に亘って善戦敢闘しましたが、これまでの戦闘で日本軍防御陣地の位置と規模を把握したアメリカ軍は、沖合いに停泊するアメリカ戦艦3隻の巨大な主砲によってこれを粉砕する作戦に切り替え、形成は逆転します。そして弾薬、食糧も尽きた山崎大佐以下残存日本軍300余は、最後の突撃を敢行、不意を衝かれたアメリカ軍は司令部周辺まで後退させられますが、数で圧倒してこれを撃破、日本軍は全滅します。(この最後の戦闘で、司令官山崎大佐は軍刀と日の丸を手に、最先頭に立って指揮を取っていた事がアメリカ軍によって確認されています。それは、戦後に行われた遺骨収集において、彼の遺骨と遺品が最前線で発見された事から立証されたそうです。)

アッツ島守備隊玉砕の報告は、5月末に東京の日本帝国大本営に伝えられ、大元帥たる昭和天皇は、これを上奏した参謀総長杉山元帥に、次の様なお言葉を発せられたそうです。

「良くやってくれた。この事をアッツ島守備隊へ打電せよ。」

それに対し、杉山元帥はこの様に答えます。

「恐れながら、わが守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません。」

これに対し、昭和天皇はこう述べられました。

「それでも良いから電波を出してやれ。」

昭和天皇は承知でそれを命じられたのです。そしてそのご命令は実行され、誰もいないアッツ島へ向けて、天皇のお褒めの言葉が打電されたそうです。(涙)

一方、もう1つの島、キスカ島の日本軍守備隊にも危機が迫っていました。アッツ島が陥落した今、次にアメリカ軍がキスカ島に上陸するのは時間の問題だったからです。キスカ島にはアッツ島よりはるかに多い6千の陸海軍部隊が駐留していましたが、このままでは彼らはアッツ島守備隊の二の舞になる事は必至でした。(キスカ島守備隊がアッツ島守備隊より兵力が多いのは、こちらの方がアメリカ本土に近いから、アメリカ軍は先にこちらを攻略してくるだろうという理由からだったそうです。実際はその逆で、日本軍は完全に裏を衝かれてしまいました。)

ここに至り、日本帝国大本営は戦略的価値の薄いアリューシャン方面の放棄を決定します。そして陸海軍共同で、キスカ島守備隊の撤退作戦が実施される事になりました。日本軍は、先のソロモン方面におけるガダルカナルの戦いにおいて、多くの輸送船と駆逐艦を失った失敗から、アメリカ軍に気付かれないよう潜水艦15隻を投入して、夜間に少しづつ兵を撤収させる作戦でした。

しかし、すでに最新の海中ソナーを開発し、これを駆使したアメリカ軍の厳重な哨戒網によって作戦は困難を極め、6月に行われた2回の作戦で、収容出来たのは800名余り、そのうち3隻の潜水艦を撃沈されるなどで、このやり方では効率が悪く、犠牲と損害が大きすぎると判断され、潜水艦撤収作戦は中止されます。

結局日本軍は、軽巡洋艦と駆逐艦から成る高速水上艦艇による撤収作戦に切り替えざるを得ませんでした。しかし、これはガダルカナルの二の舞になって多数の大事な艦艇を失う恐れが大きく、特に海軍は二の足を踏んでいました。そこで考え出されたのが、この地方特有の濃霧を利用し、深い霧にまぎれてキスカ島に突入し、素早く守備隊を収容した上で速やかに離脱する「忍者」の様な「霧隠れ」作戦です。

そして、この作戦の実行責任者として選ばれたのが、当時第1水雷戦隊司令官であった木村昌富(きむら まさとみ)少将でした。


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上がその木村昌富少将(1891~1960)と彼の旗艦「阿武隈」です。すごいヒゲですね。(笑)彼は海軍兵学校での卒業成績が118人中107番と、後から数えた方が早く(笑)当然海軍大学校にも進学しておらず、いわばエリートコースには全く興味の無い生粋の武人でした。しかし、海軍省や軍令部首脳の様に、エリート意識でお高くとまった海軍上層部の同僚たちとは違い、勇猛果敢かつ豪放磊落な性格で、一見怖そうな顔立ちとは裏腹に、部下や水兵をむやみやたらに怒鳴りつける事もなく、常に冷静沈着な態度であった事から艦隊将兵には大変人気がありました。(戦後彼はトレードマークのヒゲをそり落とし、彼の人柄を慕うかつての部下たちとともに製塩会社を興し、多くの旧海軍将兵の雇用に務めたそうです。)

木村少将は7月に入り、千島列島最北端の島、幌筵島(ほろむしろとう)から配下の軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦11隻を率いて出撃しますが、この時は途中で霧が晴れてしまい、彼の判断で作戦を中止して艦隊は引き返してしまいます。

一方、手ぶらでのん気に返ってきた木村少将に対し、北方方面艦隊である第5艦隊や連合艦隊司令部、ついには大本営までも怒りをあらわにしてしまいます。

「怖気づいたのか!臆病者め!」

「なぜ突入しなかったのだ! 今すぐ作戦を再開してキスカへ突入せよ!」

実戦を知らず、後方の安全地帯で地図の上から作戦を立てる海軍上層部の参謀らをはじめ、各方面関係者は一斉に木村少将を非難します。しかし、当の木村少将はそうした非難に一向にひるまず、じっと深い霧がキスカ島を覆う日を待ち続け、艦隊を待機させます。

そしてついにその日がやって来ます。木村少将は直ちに艦隊に出動命令を下し、キスカ島に向けて発進します。木村艦隊は深い霧に包まれ、周囲で日本艦隊を警戒するアメリカ艦隊に気付かれる事無くキスカ島に接近、湾内に投錨し、救出を待つ5200の残存守備隊を舟艇によるピストン輸送によりたった1時間で収容、すぐに艦隊は全速力で離脱し、全く損害を出さずに無事に引き揚げる事に成功したのです。まさに「奇跡」の撤退作戦でした。(全く見事な汚名返上ですね。これには彼を非難していた者たちも、さぞや「ぐうの音」も出なかった事でしょう。)

一方アメリカ軍は、7月末にはキスカ島の日本軍が撤退していた事を全く知らず、8月中旬にアメリカ・カナダ連合軍総勢3万4千(その内カナダ軍およそ5300)によるキスカ島上陸作戦を開始しました。しかし、アメリカ軍もこのアリューシャンの深い霧には完全に惑わされてしまいます。アメリカ艦隊は最新のレーダーを備えていたにもかかわらず、霧による電波の誤反応からありもしない残像を「日本艦隊」と捉え、付近に日本艦隊がいると終始思い込んでいたのです。

アメリカ軍は誰もいないキスカ島に猛烈な艦砲射撃と空爆を行い、深い霧の中で上陸作戦を開始します。しかし、そこで彼らが見たものは日本軍が遺棄した軍事施設と何匹かの「犬」だけでした。挙句に彼らは深い霧によって味方同士で同士撃ちをしてしまい、100名以上の死者を出してしまったそうです。(いかにこのアリューシャンの霧が深いものであるか想像出来ますね。)


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上は日本軍が放棄したキスカ島の特殊潜航艇基地の格納庫です。木造の屋根に覆われていましたが、アメリカ軍機の空爆によって吹き飛んでいます。

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上の一連の画像は現在のキスカ島の様子です。島には日本軍が置いていった数々の兵器や輸送船の残骸、軍事施設の遺構が各所に点在しています。現在このアッツ、キスカの両島はアラスカ国立海洋野生生物保護区に指定され、同時にアメリカ合衆国国定歴史建造物として、自然環境及び歴史遺産保護と安全確保のために、外来者の立ち入りが厳しく制限されている完全な無人島です。

かつてこの冷たい北の海と深い霧に包まれた島々で、身の程知らずの野望を抱いた愚かな人間たちが無益な戦いを繰り返し、そして敵も味方も何一つ得るものもなく去っていきました。今はアザラシなどの海洋生物の楽園として管理され、彼らが平和に暮らす静かな島です。


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次回に続きます。

本土防空戦 ・ B29との戦い

みなさんこんにちは。

少し日にちが遅れてしまいましたが、今年もあの3月10日の「東京大空襲」の日がやって来ました。1945年(昭和20年)のこの日、アメリカ軍の大型戦略爆撃機B29の大編隊による無差別爆撃で、一夜にして東京は「火の海」と化し、10万人もの死者を出したあの日です。(その翌日の11日は、まだ記憶に新しい2011年の「東日本大震災」で、2万人もの人々が犠牲になった日ですから、この2日間はわが国にとって実に忌まわしい2日間となりますね。怒涙)

この2日間は、天皇陛下も毎年皇后陛下とともに喪に服され、亡くなられた多くの方々に思いを寄せられているとお聞きしております。(恐懼)

そこで今回は、わが大日本帝国の息の根を止めたアメリカのB29による日本本土戦略爆撃と、敗戦目前の状況にあって、当時の日本軍がいかにしてB29と戦ったのか、あまり知られていなかったその迎撃作戦の実態についてお話したいと思います。

すでに何度か当ブログでお話してきた様に、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍機動艦隊はその空母と海上航空戦力の大半を失う大敗を喫してしまいました。この敗北により、大日本帝国は中部太平洋の制空権を失い、さらに同年10月に、残存艦隊の全てを投入したフィリピン沖海戦でも日本は敗れ、同じく制海権すらもアメリカ軍に奪われてしまいます。

空も海もアメリカに押さえられ、ここに、事実上日本の敗戦が決定したのですが、それでも、アメリカが日本への攻撃の手を緩める事はありませんでした。なぜなら太平洋方面では敗退が続いているとはいえ、日本軍は今だに中国大陸から東南アジアの大半に至る広大な地域を占領していたからです。

しかし、戦場が日本本土に近づくに連れて日本軍の迎撃も激しくなり、アメリカ軍の損害も次第に大きくなっていきました。そこでアメリカは、大型爆撃機による日本の軍需工業地帯への「戦略爆撃」で、日本の戦争遂行能力を奪う作戦を実行に移します。

その作戦のためにアメリカが開発したのが、大型長距離戦略爆撃機B29です。


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このB29(由来は「BOMBER 」ボンバー つまり爆撃機の29番目のタイプという意味です。)は、アメリカの航空機メーカー「ボーイング社」が開発した大型爆撃機で、合計4千機近くが生産され、全長30メートル、最高速度575キロ、搭乗員10名、最大9トンもの爆弾を搭載可能、航続距離は7トンの爆弾を搭載しても6600キロ、さらに武装も強力で、2連装機銃を機体の各所に6基合計12門も配備、そして1万メートルの高高度で飛行出来る当時世界最大最強の爆撃機でした。(ちなみにこのB29はアメリカ陸軍航空隊所属の爆撃機であり、空軍ではありません。実は意外ですが、アメリカに「空軍」が独立の軍として正式に発足するのは大戦後の1947年であり、それまではわが日本軍と同じく、陸・海軍でそれぞれの航空隊に分かれていたそうです。)

アメリカがこのB29をもって日本本土を爆撃するには、中部太平洋に浮かぶマリアナ諸島のサイパンやテニアンの島々を日本から奪取する必要があり、先に述べたマリアナ沖海戦で、迎撃に向かった日本艦隊を完膚なきまでに撃破し、これらの島々をB29の基地としたのです。


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上の2枚はサイパン島に集結したB29の大群です。特に2枚目は、恐ろしい数のB29が待機していますね。(驚異)

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そして上がB29の最大行動範囲です。当初このB29は、上の様に中国大陸の奥地成都(チョンツー)を基地としていましたが、ここからでは距離が遠すぎて、せいぜい九州までしか爆撃出来ませんでした。そこでアメリカ軍は、マリアナ諸島奪取後に日本から奪い取ったサイパンの飛行場を拡大整備して「イズリー・フィールド」と名付け、特別に「第21爆撃集団」と呼ばれる大部隊を編成して、ここを日本本土戦略爆撃の基地としたのです。

このB29による日本本土戦略爆撃は、1944年(昭和19年)11月中旬から本格的に始まります。しかし、アメリカ軍も最初から無差別爆撃を行なっていたわけではありませんでした。初期の日本への空襲は、日本軍の基地や軍需工業地帯への高高度からの精密爆撃に限られ、その編隊機数も30~40機程度で行っていました。しかし、日本の高高度上空に吹くジェット気流のために、爆弾が目標を外れる事が多く、当初は決して大した戦果を挙げていなかったそうです。

一方、わが日本軍は、このB29をどの様に迎え撃ったのでしょうか? これについては本当に残念と同時に情けない事に、ほとんど「手も足も出ない」といった状態が実情でした。

その原因はなんといってもB29の飛行高度が高すぎるからです。先に述べた様に、B29は高度1万メートルを時速570キロの高速で飛行出来ます。これを撃墜するには、高射砲による地上からの対空砲火と、戦闘機による迎撃の2つの方法しかありません。まず前者の対空砲火ですが、当時日本軍の主力高射砲は口径7.5センチと8センチのものが大半でしたが、その射程は高度8千メートル程度が限界で、B29の飛行高度には全く届きませんでした。


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上は日本軍の主力高射砲であった7.5センチ高射砲と、それを視察される昭和天皇です。この砲は合計2千門ほど、少し口径の大きい8センチ砲は約1千門近くが生産され、本土防空用に全国に配備されていました。

これらの砲は、通常戦闘機の撃墜には十分でしたが、B29には全く無力でした。そこで日本軍は、さらに大型で強力な12センチ高射砲を開発します。


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上がその12センチ高射砲です。この砲は射程1万メートルを越え、B29を撃墜出来た日本軍の新型対空砲でした。しかし、この砲が量産され、配備されたのは大戦も後半の1943年(昭和18年)以降であり、物資の不足から敗戦までに合計120門しか生産出来ず、東京、大阪、神戸などの大都市にしか配備出来ませんでした。(さすがにこの砲の威力は強力で、東京に配備された12センチ砲は、十数機のB29を撃墜しています。もっと早くこれを量産していれば、確実にもっと多くのB29を撃墜出来た事でしょう。本当に悔やまれてなりません。)

そして後者の戦闘機による迎撃ですが、これもB29の1万メートルという飛行高度に対しては、技術的かつ物理的に非常に困難でした。

日本軍は優れた戦闘機を数多く持っていましたが、これらの通常戦闘機が最高に能力を発揮出来る飛行高度は大体5千~6千メートルが限界でした。技術的にはB29と同じ1万メートルの高度まで上昇する事は出来ましたが、実際はそこまでたどり着くのが精一杯で、まともな空中戦はほとんど不可能でした。その理由は「空気の薄さ」です。

飛行機は当然の事ながら燃料を燃やし、エンジンを動かして飛びます。燃料を燃やすには酸素が必要です。この時代の戦闘機は時速550~600キロで飛ぶ事が出来ましたが、これがこの高さになると極度に薄くなり、エンジンの回転が遅くなってしまうのです。そのため日本の戦闘機はB29と同じ1万メートルまで上昇しても、速度は約半分の300キロにまで落ち込み、B29の速度に追いつけないのです。また、この高度になると、気圧や温度も地上とは全く違い、日本軍パイロットは猛烈な寒さと気圧の違いにさらされ、酸素マスク無しでは操縦する事すら困難でした。

その点B29は、この高度に達しても十分な酸素と空気を取り入れる装置がエンジンに付いており、また高高度での搭乗員の身体的負担軽減のために、圧力を調整する装置も機内に装備、アメリカ軍パイロットたちは機内で悠々とコーヒーを飲みながら飛行していたそうです。

この様な状態であった事から、日本軍はB29に対抗する有効な方法が見出せませんでした。そしてついに、日本軍は究極のB29迎撃作戦を実行に移します。それはB29を「体当たり」で撃墜するというものです。

当時、日本帝国本土の防衛は陸軍が主体でした。そして、帝都東京のある関東地区の防衛は東部軍(大阪など関西地区は西部軍)の担当でした。その関東地区の防空は陸軍第10航空師団が、およそ150機の戦闘機でその任務に当たっていました。(天皇陛下のおわす帝都周辺の防空に、たったこれだけでは明らかに少なすぎますね。この原因は太平洋戦争は海と空の戦いであり、飛行機の生産に必要なアルミなどが、当然それを担当する海軍に優先的に配分されたためです。)

東部軍はB29迎撃のために、配下の飛行戦隊に次の様な命令を発します。

「敵B29は高高度をもって帝都上空に来襲す、師団は特別攻撃隊を編成し、これを要撃撃墜せんとす。各戦隊は高高度で侵入する敵機に対して体当たりを敢行し、これを撃墜すべし。」

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上は出撃する陸軍航空隊のパイロットたちです。

この攻撃隊は、当時本土防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)陸軍大将によって「震天制空隊」と命名され、出撃します。


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上が本土防衛総司令官であられた東久邇宮稔彦王大将です。(1887~1990)とても長い名前のこの宮様は、昭和天皇の叔父に当たり、同時に今上天皇陛下の大叔父に当たるお方です。終戦時には降伏に反対する軍部の暴発を防ぐため、日本の歴史上最初で最後の「皇族首相」となり(理由は単純です。首相が皇族ならば軍部も「暗殺」やクーデターを起こせないからです。「逆賊」になりますからね。)日本の降伏文書調印と進駐軍の日本占領が完了するまで2ヶ月ほど首相を務められました。敗戦後は臣籍降下により民間人となられ、波乱の半生を送られました。また、歴代皇族としては最長寿の102歳の長命を全うされたお方でもあります。

さらに日本軍はこれらの特攻に加え、双発の戦闘機に強力な20ミリ機銃を「斜め」に装備し、B29の下からこれを狙い撃つ攻撃も考案します。


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上がその「斜銃」を装備した双発戦闘機「月光」です。操縦席の後に突き出た2本の棒状のものが「斜銃」で、B29の下に回り込んで狙い撃つというものです。それなりの戦果はありましたが、こんな苦肉の策を取るより他に、日本軍はB29に対抗する手段がありませんでした。

日本軍がこの様なやり方でB29の迎撃に苦労していた矢先、アメリカ軍に大きな異変が起きていました。1945年(昭和20年)1月、日本本土空襲を担当する第21爆撃集団の司令官が代わり、新たな司令官としてカーチス・ルメイ少将がその任に付いたのです。


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上が第21爆撃集団の新たな司令官カーチス・ルメイ少将です。(1906~1990)彼はアメリカ軍屈指の爆撃の専門家として名を挙げ、その知識と経験を買われて39歳の若さで少将にまで昇進し(日本軍なら30代で将官クラスになるなどあり得ませんね。)この第21爆撃集団の司令官に任命されます。後に彼はアメリカ空軍大将にまで登り詰め、戦後わが航空自衛隊の創設にも尽力しています。われわれ日本国民にとってアメリカの軍人といえば、マッカーサー元帥ばかりが印象に残りますが、この人物こそ、後述する様に決して忘れてはならない人物です。

ルメイ少将は、前任の司令官が高高度の精密爆撃に固執し、大した戦果を挙げていない事を指摘し、それまでの方針を転換してB29の大編隊により、日本の都市への焼夷弾による無差別爆撃を指令します。

この攻撃は多くの民間人の犠牲者が出る事から、彼の前任の司令官たちはそれを行いませんでした。もちろんルメイもそんな事は百も承知です。しかし彼は、戦争を早く終わらせるために日本の都市を焼き払う事を主張したのです。

彼の主張の根拠は2つあります。まず第1に、日本の都市はヨーロッパのドイツなどと違い、その住居の多くが密集した木造家屋であり、1923年(大正12年)の関東大震災でも、火災により多くの被害を出した事から、空襲による火災の危険性が、すでに大正の末年に欧米の専門家に指摘されていました。

また第2の理由として、日本の軍需工業は、その生産される多くの兵器の部品が中小の零細企業(いわゆる町工場ですね、これは現在でもあまり変わっていません。)によって製造されており、それらは東京の住宅密集地などに集中していました。そのためルメイは、日本の戦争継続能力を削ぐにはこれらを街ごと焼き払う必要があると考えていたのです。

そしてルメイはついに恐ろしい作戦を実行に移します。それはこれまでとは比較にならないB29の大編隊を編成し、これまでの様な高高度ではなく、高度2千メートル程度の低高度からの夜間爆撃により、東京を一気に焼き払うという作戦です。

彼はこの作戦のためにB29の機銃や弾薬を全て降ろし、その分多くの焼夷弾を積ませて出撃させます。こうして1945年(昭和20年)3月10日、325機に登るB29の大編隊による「東京大空襲」が実行されたのです。


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上の1枚目は富士山上空のB29の編隊です。わが大日本帝国の霊峰が、奇しくも大きな目印となっていました。そして2枚目は、まさに「雨あられ」の様に恐ろしい数の焼夷弾をばらまくB29です。

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上の3枚は空襲後に焼け野原となった帝都東京の姿です。火災で亡くなった方々の黒焦げになった遺体が山になっています。(閲覧注意)3枚目は亡くなられた方の遺体を記録する警官たちです。といっても、男女の性別もわからないほど黒焦げになった遺体の数を数える事ぐらいしか、彼らに出来る事はありませんでした。

この空襲でおよそ10万人の市民が亡くなり、東京は写真の様に焼け野原になりましたが、ルメイ率いるB29の空襲が止む事はありませんでした。その後もアメリカ軍は日本全国の都市を同様に焼き払い、広島と長崎の原爆による犠牲者を除けば、その死者は25万~33万人を越えるそうです。(統計にばらつきがあり、正確な数は不明です。)

戦後ルメイはインタビューで次の様に発言しています。

「我々は東京を焼いた時、たくさんの女子どもを殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。私は我々の所業の道徳性について憂慮する幹部やパイロットたちに対してこういったものだ。道徳? ふざけるな! 我々は今戦争をしているのだ。戦争に道徳などあるものか。勝つか負けるかそのどちらかだ。そんな事を言うなら最初から軍人になどなるな! と。」

B29による日本空襲は敗戦の日の8月15日当日まで続けられ、空襲に参加したB29は通算3万機以上に登りました。その間に日本軍が撃墜したB29はおよそ300機を越え、圧倒的に不利な状況下でもかなり奮戦したと思います。

そして敗戦。8月15日の日本のポツダム宣言受諾により、翌日の16日からB29が爆弾を落とす事はなくなりました。しかし、戦争に疲れ果てていた日本国民は、悠々と上空を飛ぶ大きな銀色の機体を見上げながら、史上初めての敗戦に茫然自失し、明日の自分たちの行く末に思いを巡らしながら数日間は焼け跡を彷徨っていました。

このB29に対し、意外な方が感想を述べられています。それは大日本帝国の皇后であられた先の香淳皇后です。


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上が在りし日の香淳皇后(皇太后陛下)です。(1903~2000)お名前は良子(ながこ)様といい、昭和天皇との間に7人のお子様を成し、昭和天皇をお支えして日本の激動の時代を供に歩まれ、さらに歴代皇后で最長の97歳の長寿を全うし、帝国皇后として、また日本の国母として見事にお役目を務められた偉大かつ高貴な女性ですね。その皇后としての在り方やご姿勢は、現美智子皇后陛下も「お手本」として忠実に継承されておられます。晩年は腰を痛められ、高齢による物忘れなどで国民の前にお姿を見せる事は少なくなり、昭和天皇崩御後は吹上御所で静かな余生を過ごされていましたが、その真似の出来ないふくよかな笑顔は「エンプレス・スマイル」(皇后の微笑み)として、海外でも大変な人気になりました。

一時期、無知蒙昧で卑しい週刊誌やマスメディアが、香淳皇后が現美智子皇后がまだ皇太子妃であられた頃に、何かと辛く当たっているなどと書きたてた事がありました。確かに、旧皇族久邇宮家(くにのみやけ)ご出身で、大正から昭和初期までの宮廷華やかなりし時代を過ごされ、皇室のしきたりや日本古来の伝統を厳格に守り、いわば古い世代の日本女性の代表であられた香淳皇后と、民間から初めて皇室に嫁がれ、古い皇室に新しい若い価値観の風をお入れになられた現美智子皇后との間に、多少の意見やお考えの相違があった事は事実でしょう。しかしそれは、一部週刊誌やマスメディアの書きたてた良くある嫁と姑の確執などという低レベルなものではなく、片や天皇家に連なる高貴な家柄に生まれたやんごと無き古い時代の女性と、一流企業経営の大資産家一族(現美智子皇后陛下のご実家は、日清製粉の創業家正田家といい、現在は実弟の修氏が名誉会長として経営されています。)ご出身とはいえ、全くの一般国民である新しい時代の女性との比較対象が、記事を読む読者に最も共感出来るよう(つまり、その方が雑誌が「売れるから」)誇大に伝えられた感がある様に思います。

ちなみに香淳皇后も、まだお若い頃は姑であるその前の貞明皇后(ていめいこうごう 1884~1951)から、「何をさせても不細工な事だね。」などとはるかに「キツイ」事を言われ、辛く当たられていた事があるそうです。この貞明皇后というお方は旧公爵九条家ご出身で、大正天皇の皇后にして、昭和天皇の母君にあらせられるお方ですが、頭の回転が速く、大変意志の強い(言葉を代えて言えば気の強い)女性であったらしく、おっとりのんびりしたご性格であった香淳皇后とは相性が悪かった様です。(笑)また大正帝との間に4人もの皇子をお産みになった事から、戦前の宮中におけるその権勢は絶大で、当初は内親王様方(つまり娘)ばかり4人続いた香淳皇后にとって大変なプレッシャーであった事でしょう。

そんな香淳皇后が、敗戦直後に日光に疎開されていた皇太子明仁親王殿下(今上天皇陛下)に宛てた手紙で、B29について次の様なご感想を述べられています。

「毎日B29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのか分からないほどです。B29は残念ながら立派なものです。」

次回に続きます。

遠すぎた同盟 ・ 遣独潜水艦作戦

みなさんこんにちは。

みなさんは、わが国が先の第2次世界大戦でドイツ、イタリアと「日独伊三国同盟」を結び、「枢軸国」として共に戦ったのは良くご存知の事と思います。その中で、失礼ながら最も脆弱であったムッソリーニのファシスト・イタリアが大戦中盤の1943年(昭和18年)9月に連合国に降伏してからは、日本とドイツはたった2カ国で全世界を相手に戦い続ける事になります。(実際には日本もドイツも、占領した多くの国々に、意のままに操れる「傀儡政権」を樹立させ、これらを「同盟国」と称して自らの戦争に無理やり協力させていましたが。)

ところでみなさんは、日本とドイツの距離がどれだけあるかご存知でしょうか? 実際に旅行や出張で行かれた事がある方ならばお分かりとは思いますが、その距離はなんと実におよそ9200キロ、東京から飛行機で直行便のあるフランクフルトやミュンヘンまでの所要時間は12時間もあるのです。

この様に、地理的にこれだけ離れていた日本とドイツは「同盟国」とは言いながら、現実には軍事的な共同作戦を大規模に行う事は物理的に不可能であり、日本はアメリカや中国と、ドイツはソ連やイギリスといったそれぞれの敵を相手に独自の戦いを展開せざるを得ませんでした。

しかし、そんな中にあって、日本とドイツが共同で行った唯一の作戦がありました。今回は第2次大戦中、日独両国の間で5回に亘って行われた「遣独潜水艦作戦」の知られざる実態についてのお話です。

わが大日本帝国と、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツとの同盟関係は、1936年(昭和11年)の日独防共協定に始まり、その後にベニト・ムッソリーニ率いるイタリアが加わって、1940年(昭和15年)9月の「日独伊三国同盟」に発展しましたが、すでにヨーロッパでは第2次大戦が始まっていました。ヒトラーのドイツ軍は、その1年前からヨーロッパ全土に侵略の手を伸ばし、破竹の勢いで進撃を続けていたのです。


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上は日独伊三国同盟締結を祝って三国の国旗を掲げたベルリンの日本大使館と、その祝賀パーティーの様子です。中央で演説するのは、この日独伊三国同盟の推進者である当時の松岡洋右外相です。

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上が三国同盟の推進者である時の日本帝国外務大臣松岡洋右氏です。(1880~1946)彼については、あの国際連盟脱退の演説と、そのまま随行員たちを促して議場を退出していく姿が有名ですね。他にも日ソ中立条約の締結など、とかく軍人ばかりが登場するこの時代の日本にあって、数少ない軍人以外の著名人であり、戦前の日本外交の中心人物として活動した非常にキャラクターの濃い人物です。(笑)しかし、彼は当時の世界のパワーバランスを考慮した彼なりの思惑から、日本にとって良かれと思って行った事でしょうが、それらは次第に日本を破滅の道に追いやる結果となってしまいました。

この時、日独間の連絡や人的・物的な交流は、主にソ連のシベリア鉄道を経由して行われていましたが、1941年(昭和16年)6月に、ヒトラーがソ連との間で結んでいた不可侵条約を破り、300万という大軍をもってソ連領内に侵攻(独ソ戦)したために、日独間の陸上連絡路は途絶してしまいます。その後しばらくの間は海上船舶での交流が続きましたが、同年12月の日米開戦によって、この海上連絡路もほぼ途絶えてしまいます。

それでも、ドイツはまだ日独軍の圧倒的優勢であった1942年半ばまで、連合軍の厳重な海上封鎖を強行突破する「封鎖突破船」を日本へ派遣しています。これらは日本名「柳輸送」(やなぎゆそう)と呼ばれ、ドイツから日本へは、精密機械、鋼材、兵器などの軍需品を運び、日本からドイツへは、その帰り道に生ゴム、錫、モリブデン、タングステン、マニラ麻、コプラなどの日本占領下のアジア原産の原材料をドイツへ持ち帰りました。


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上がドイツの封鎖突破船の1隻である「リオ・グランデ号」です。これらの船は、7千トンから8千トンクラスで速度20ノット以上(時速およそ40キロ)という、軍艦以外の船舶としては高速の優秀船で、合計16隻が日本へ向けて出航しましたが、その多くは連合軍に撃沈され、封鎖を突破して無事に往復し、積荷を積んでドイツの港にたどり着いたのはたった2隻だけでした。

そこでドイツ側から、今後の日独間の連絡と物的なやり取りは潜水艦によって行うべき旨の提案がなされ、レーダー、ロケットエンジン、暗号機など、ドイツの優れた最新の軍事技術を手に入れたい日本もこれに同意します。


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上がその基本的なルートです。アジアとヨーロッパを結ぶ大航海ですね。

深海の使者 (文春文庫)

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この遣独潜水艦作戦について詳しくお知りになりたい方は、「戦艦武蔵」や「大本営が震えた日」などで有名な吉村昭さんの小説「深海の使者」が良書です。ページ数は427ページで、派遣された5隻の潜水艦それぞれの詳細と、関わった人々の心情が見事な文章で表現されています。

第1回目の遣独潜水艦作戦は1942年(昭和17年)4月から始まります。最初にその遣独潜水艦として選ばれたのは「伊30」潜水艦で、4月11日に呉軍港を出航、日本海軍の潜水艦基地があるインド洋に面したマレー半島のペナンで補給を受け、インド洋を経由して大西洋を北上、4ヵ月後の8月6日ドイツ軍占領下のフランス、ロリアンに入港します。


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上の画像1枚目が伊30潜水艦の同型艦(伊15)で、下2枚がフランス・ロリアンの現在の姿です。(人口5万8千ほど)3枚目に写るのが、今も残るかつてのドイツ潜水艦「Uボート」の基地で、伊30潜水艦はここに入港しました。連合軍の空爆から潜水艦を守るために築かれた分厚い鉄筋コンクリート製の巨大な施設に注目して下さい。これはドイツ語で「ブンカー」(防空施設の意味)と呼ばれ、ドイツ本国のキール、ハンブルク、ブレーメンなどの主要軍港と、フランス、ノルウェーなどのドイツ軍占領地域の港に建設されていました。これを見ても、当時のドイツの技術力の高さが分かりますね。これらのブンカーはあまりにも巨大かつ頑丈すぎる構造のために、取り壊しや撤去に莫大な費用がかかる事から戦後も残され、歴史を語る観光名所や民間の倉庫、作業場、資材置き場、ヨットなどの保管庫として今も利用されているそうです。一方わが日本海軍は、終始この様な巨大な防空施設を軍港に建設する事はなく、潜水艦は岸壁に係留する方式でした。

伊30は2週間ほど滞在し、ドイツが望む鉱物資源を下ろすと、ドイツ製の最新レーダーなどの軍需品を積んで日本への帰路に着きます。そして2ヵ月後の10月はじめにペナン港に到着しました。ここまでは順調な航海だったのですが、ここから思わぬアクシデントに見舞われてしまいます。その後シンガポールに入港した伊30は、海軍の連絡不行き届きから誤って味方の機雷敷設海域に進入してしまい、機雷に触れて爆沈してしまったのです。

このアクシデントにより、せっかくドイツから運んで来た最も重要な積荷である最新レーダーや、その他の軍需品が使い物にならなくなってしまいました。(これは本当に残念です。この時沈んだドイツのレーダーが日本で生産され、これと連動した新型の強力な「15センチ高射砲」が量産配備されていれば、前回お話したその後のB29による本土空襲においても、日本の防空態勢はかなり強固になって、かなりの数のB29を撃墜出来たのではないかと思います。)

さて、第2回目の遣独潜水艦作戦は、それから10ヵ月後の1943年(昭和18年)6月に実施されます。今回派遣されたのは「伊8」潜水艦で、前回の伊30とほぼ同じ大きさと性能を持つ潜水艦でした。


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上がその伊8潜水艦です。全長109メートル、排水量2200トン、速度23ノット(潜航した水中での速度は8ノット)14センチ単装砲1門、水上偵察機1機搭載という日本海軍の典型的な主力潜水艦でした。

今回の遣独潜水艦作戦が前回と違うのは、相手先のドイツの最高指導者ヒトラー総統が、日本へ無償譲渡(つまりヒトラーが「タダ」でくれるという事です。)する様命じたUボート「1224号」を日本へ回航する日本の乗組員(ヒトラーがくれた潜水艦を日本まで乗って帰る乗組員たち)を乗せていくという点です。(もちろん、日独間の物資のやり取りは前回同様行います。)

6月1日に呉軍港を出航した伊8は、先に載せた地図のルートを通り、大西洋のアゾレス諸島で待っていたドイツ潜水艦と会合、その案内でおよそ2ヵ月後にフランス・ブレスト軍港に入港しました。


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上の画像1枚目がブレストのブンカーに入港するわが伊8の乗組員たちです。写真のブンカーの屋根のコンクリートの分厚さを、その上に乗って見下ろしている人々の大きさと見比べてみてください。そして2枚目がブレスト・ブンカーの全景で、3枚目がその内部です。

わが乗組員たちは、こんな巨大な基地を目の当たりにしてみんなすっかり緊張した面持ちですね。一方出迎えるドイツ軍側でも、はるか遠い異国日本の潜水艦の巨大さと、水上偵察機を1機搭載出来る点には大いに驚いていたそうです。なぜなら、世界的に有名なドイツのUボートは、その大きさが日本の潜水艦の7割程度(全長70~80メートル)で、トン数も半分の1200トンクラスが主力であり、水上機の搭載に至っては考えた事も無かったからです。東洋と西洋の考えの違いが面白いですね。

伊8は、ドイツから贈られる潜水艦の乗組員と、天然ゴム、錫、雲母(「うんも」といいます。鉱物の一種で電子部品の絶縁体などに使用されます。)などのドイツへの積荷を降ろし、ドイツからの軍需品を積み込みます。また、当時ベルリン駐在の海軍武官であった横井少将を乗せて日本への帰路に着きます。


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上はドイツ海軍総司令官のカール・デーニッツ元帥(1891~1980)に見送られ、伊8に乗って日本へ帰国する駐独大使館付武官であった横井忠雄海軍少将です。(1895~1965)彼は親ドイツ派の海軍軍人で、ベルリンの日本大使館に赴任していましたが、大のナチス嫌いでそれを隠そうともしなかったため、「好ましからざる人物」としてドイツ外相リッベントロップから日本側に人選の交代を要求され、いわば更迭された日独の「やっかい者」でした。(横井閣下には失礼ですが。笑)一方今回の第2回遣独潜水艦作戦は、ヒトラー直々の命令であったためにドイツ側も力を入れ、海軍最高司令官のデーニッツ元帥自ら横井少将を見送りにブレストを訪れていました。見送るデーニッツは、横井少将を巡る日独間の政治的思惑には無関心の生粋の海軍軍人であり、横井少将の心情を同じ軍人として理解していた様で、2人ともにこやかな表情で別れの握手を交わしていますね。

こうしてドイツ側に見送られた伊8潜水艦は1943年(昭和18年)10月初めにブレストを出航、2ヵ月後の12月中旬に呉軍港に無事到着し、任務を成功させたのです。

しかし、この遣独潜水艦作戦の成功はここまででした。その後も遣独潜水艦作戦は間を置いて続行され、それから3隻の伊号潜水艦がドイツに向けて派遣されましたが、連合軍の攻勢によって戦局は日独双方に著しく不利になり、残念ながらそれら3隻の潜水艦は全て途中で撃沈されてしまいます。

この遣独潜水艦作戦は、1944年(昭和19年)6月に、大西洋でアメリカ海軍に撃沈された伊52潜水艦を最後に、その後実施される事はありませんでした。この作戦は、日独にとって同盟関係をつなぐ唯一の方法でしたが、その成果は実に「労多くして実りの少ない」ものでした。特に科学技術先進国のドイツにとっては、当時の日本から欲しいものはほとんどなく、生ゴムやアジア原産の鉱物資源も、たった1隻の潜水艦で運べる量など最大でもせいぜい200トン程度でたかが知れています。それでも、ドイツ側は誠意を持ってはるかに価値のある高性能の軍需品や技術を日本へ供与してくれたのは特筆に価するでしょう。

むしろ、この遣独潜水艦作戦で得るものが大きかったのはわが日本の方であり、わずかながら持ち帰る事が出来たドイツの軍需品や技術を応用して、戦局挽回のための新兵器開発に、遅まきながら力を入れていきます。しかし、全ては遅すぎました。結局わが国は、ドイツ側から供与された技術や新兵器をほとんど活かす事が出来ずに敗戦に至ってしまうのです。

この遣独潜水艦作戦は、日本とドイツの同盟と共闘の証でした。両国のやり取りがもっと活発かつ数多ければ、戦局は日独にもっと有利に展開していたかも知れません。その日独両国の運命を大きく左右し、また阻害したのは、やはり最初に述べた両国の距離の遠さにあるものと思います。つまり、あまりにも「遠すぎた同盟」だったのです。

この作戦のそもそもの遠因となった日独伊三国同盟を締結した松岡洋右元外相は、後に次の様な言葉を残しています。

「こんな事になってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった。陛下と8千万の国民に申し訳なく、死んでも死に切れない。」

次回に続きます。
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