日清戦争最終回 ・軍事帝国日本の誕生

みなさんこんにちは。

いよいよこの日清戦争のお話も今回が最終回となりました。前回は、その日清戦争終結後における朝鮮国と清国の行く末をお話しましたが、今回はわが日本が今次戦争において得た物理的な利益と損害の程度、さらにこの戦争において日本が投じた戦費その他を多面的にご紹介して、このテーマの結びとしたいと思います。

これまでも述べて来た様に、日本は今次戦争に大勝利を収めました。この戦争におけるわが国の動員兵力は、陸軍が当時の日本陸軍の全兵力である7個師団を総動員し、平時兵力6万5千程度であったものが、開戦による緊急動員でなんと24万600名に膨れ上がりました。それ以外に、物資の補給と運搬のために「軍属」として雇用された荷物運びの軍夫(ぐんぷ)およそ15万4千名含めると、この戦争における軍人軍属は総勢40万近くに達します。そのうち、戦争による純粋な陸軍の損害は、戦死者約1万3300名、負傷者約3800名にのぼりました。

しかし、戦死者の全てが戦闘によるものではなく、純粋な戦闘におけるわが将兵の戦死者はおよそ1400名余りでした。つまり、残りの死者は戦病死であったのです。そして、その死亡原因のトップは、大陸に派遣された将兵においては脚気(かっけ)であり、台湾平定作戦においては亜熱帯の気候から、赤痢、マラリア、コレラなどの伝染病であったそうです。(軍属である軍夫の損害は、これらの病気の蔓延により、およそ7千名が死亡したとされ、それを含めると、わが軍の死者は2万を超えます。)

では、相手側の清軍の損害はどの程度のものだったのでしょうか? 残念ながらこれについては信頼出来る統計がありません。理由としては清国が専制君主国家であり、その政府も近代国家の政府とはほど遠く、さらに軍に至っては、各地方の有力者の私兵集団であり、指揮統率も詳細な管理把握も困難であったからです。それでも、断片的な記録を総合して、およそ3万~3万5千程度の清兵が戦死、戦病死したものと推定されています。

ここで余談になりますが、マラリアは蚊に刺された事による高熱、コレラや赤痢はいずれも細菌が腸を侵し、猛烈な下痢によって死に至るものであるのはみなさんも一般知識としてご存知でしょう。しかし、脚気については意外に知られていないと思うので、ここで簡単にご説明しておきます。

脚気とは、ビタミンB1が欠乏する事で、全身の倦怠感(つまり、体がだるい。自分もしょっちゅうだるいのですが、生来ぼーっとしてだらしないのが原因で脚気ではありません。笑)などの様々な異常が引き起こされる病気で、 主な症状は全身の倦怠感の他に、食欲不振が発生し、やがて足がしびれたり、むくみが目立つ様になります。 その他、動機、息切れも起きる様になり、 症状が進めば手足の力が入りにくくなり、さらに重症になると心不全に至る事もあるという怖い病気です。

この脚気というものは、偏った食事が最大の原因で、かつて貧しかったわが国の人々が、国内で唯一自給出来た主食、つまり白米ばかり食べていて、肉や魚、野菜といったおかずを副食としてバランス良く取れなかった事から、私たち日本人の祖先が有史以来悩まされてきた病気です。この日清戦争においても、大陸に派遣されたわが陸軍将兵は、限られた食糧のうち、白米ばかりを食べざるを得ず、その結果この脚気が大流行してしまったそうです。


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その点、イギリス海軍を模範とした海軍においては、上のイラストの様に米ではなくパンと洋食が食事の中心であったため、陸軍の様に脚気が艦隊乗組員に蔓延する事は少なかったそうです。

さて、話を日清戦争後のわが国の状況に戻しますが、この戦争の勝利は、わが国にいくつもの大きな利益をもたらしました。これを列挙すれば、軍事賠償金、台湾の獲得、欧米列強諸国との不平等条約改正の促進などです。その中で最も注目すべきなのは、なんといっても清国からの賠償金でしょう。

この賠償金は、総額2億3千万両(テール)日本円にしておよそ3億5700万円(さらに日本はこれを手堅く国際金融市場で運用し、その利益が800万円以上発生したので、実際は3億6500万円ほどになります。)で、当時の日本の国家予算(約8500万円程度、ちなみに当時の日本の国内総生産、いわゆるGDPは、およそ13億4千万円であったそうです。)の4倍以上という巨額なものであった事は以前にもお話しましたが、では、当時のわが国はこの大金を一体何に使ったのでしょうか?


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それについては上のグラフをご覧ください。実に84%以上が臨時軍事費と軍備拡張費に使われています。そのうち、後者の軍備拡張費についてですが、これはすでに大きな脅威となっていたロシアの南下に備えるために、陸海軍が政府に要求した結果で、その内訳は陸軍が5700万円、海軍が1億3900万円になります。

このお金で、陸軍は7年以内にそれまでの7個師団(常備兵力およそ7万)から13個師団(同じく13万)へとほぼ2倍に増強、それとは別に、独立部隊として騎兵2個旅団、砲兵2個旅団(旧日本陸軍の編成では2個旅団で1個師団ですから、事実上この時増強されたのは、先の6個師団とこの独立部隊4個旅団を合わせて8個師団になりますね。)を新たに新設し、海軍は1万5千トン級の大型戦艦6隻、それに次ぐ1万トン級の大型巡洋艦6隻を主力とし、その他大小合わせて100隻の艦艇を10年で建造する「六六艦隊」計画という大建造計画を立てます。

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上はこの六六艦隊計画で建造された新型戦艦敷島(しきしま)型の4番艦「三笠」(みかさ)です。全長132メートル、排水量1万5千トン、主砲として30センチ連装砲2基を備える当時世界最大の最新鋭戦艦で、後の日露戦争における日本海海戦で、日本連合艦隊旗艦となり、東郷平八郎大将指揮の下で、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに壊滅させた栄光ある戦艦ですね。しかし、この戦艦を含め、この時建造された新型艦のほぼ全てが、イギリスに注文して造ってもらった外国製でした。(理由は単純です。この頃の日本はまだ自前で軍艦を造る技術が未熟で、そもそも鋼鉄を造る大規模な製鉄所すら国内には無かったからです。)

また、前者の臨時軍事費についてですが、これは戦争遂行に必要な戦費(武器、弾薬、食糧の他、将兵や軍夫に支払う給料などの人件費、将兵の軍服代その他)の事で、およそ8000万円になります。といっても、誤解してはならないのが、この金額が日清戦争における戦費の全てではないという事です。

では、この戦争ではどれだけの戦費がかかったのでしょうか? それについてははっきりした数字があり、およそ2億円余りであったそうです。これは、当時のわが国の国家予算の2.3倍という巨額なものですが、戦争というものはいつ終わるか、どれだけのお金がかかるか分かりませんから、通常の国家予算の一般会計の様に単年度方式の予算編成は出来ません。そこで「臨時軍事費特別会計」という国家予算とは別の予算を組みます。

その臨時軍事費特別会計で、戦争期間中にかかるお金の処理をするわけですが、もちろんこれだけの大金を一度で捻出したのではありません。当時のわが国は、国庫の剰余金(つまり国の貯金ですね。)が2500万円ほどしかなく、この程度では到底足りません。そこで当然足りない分は公債(つまり国債)を発行して賄うのですが、そのやり方は国民の愛国心に訴え、かなり強制的に公債を買わせる強引なものであったそうです。これには財界から

「国の景気が悪くなるので、欧米諸国に公債を発行すべきだ。」

との声が盛んに上がったのですが、時の大蔵大臣 渡辺国武(わたなべ くにたけ)氏は、断固として国内公債にこだわり、なんとかやりくりしたそうです。


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上が日清戦争時の大蔵大臣 渡辺国武氏です。(1846~1919)彼は長野県の諏訪出身で、その卓越した財務企画力を買われ、薩摩、長州の二大派閥出身者が要職の大半を占めていた当時の政府内では珍しく、それ以外の出身にも拘らず大蔵大臣にまで登り詰めたたたき上げの人物です。(いかにも意志の強い頑固一徹そうな方ですね。笑)後に子爵位を賜っています。

彼が国内公債にこだわった理由は、欧米諸国に公債を発行する(つまり、欧米に借金するという事です。)のは、欧米に対して弱みになる事、また、戦争がいつまで続くか分からないのに、当時の貧しい日本の国家財政で欧米向けに公債を発行すれば、償還期限までに支払えるかどうか分からず、もし支払えずに債務不履行(いわゆるデフォルトですね。)になれば、欧米諸国にどんな要求を突きつけられるか分からず大変危険であるという理由でした。その点国内公債ならば、戦費が足りなくなっても戦争が続いている間はまた何度でも発行して、その償還期限が来ても、国の都合でそれをいくらでも引き伸ばし、事実上国民から「タダ」同然で戦費を調達出来るからです。

そこで先ほどの賠償金の使い道の中にあった臨時軍事費の話に戻りますが、先に述べた様に賠償金の6割以上が軍の要求で軍備増強に費やす事になりました。これはロシアとの来るべき戦争に備える事と、富国強兵をスローガンとする明治日本としてはやむを得ない事だったのですが、「強兵」ばかり優先しても「富国」が伴わなくては意味がありません。

当然、そのために残りのお金を「富国」のための費用、つまり今だ手を付けられずにいた様々な分野のインフラ整備と、国民に償還しなくてはならない公債金に分けて使う事になったのですが、賠償金の総額3億6500万円のうち、これらに廻せるお金はおよそ37%の1億3500万円余りです。これをそれらに出来るだけ均等に配分した結果、日清戦争において実際にかかった戦費2億円のうち、およそ8000万円を臨時軍事費として特別会計に繰り入れたのです。これにより、臨時軍事費特別会計の歳入は、軍事公債として国民から集めた約1億1700万円、賠償金からの充当約8000万円、国庫剰余金2500万円その他を含めて2億3千万円余りになり、実際にかかった戦費2億円を差し引いても3千万円ほど余ったそうです。(もちろん、この余ったお金は公債の償還などに使われます。)

話が、ややこしい会計処理の説明になってしまったので、これはこの辺で終わりにして、その他の賠償金の使い道についてお話しましょう。上のグラフをご覧になれば分かりますが、軍事費に次いで多いのが皇室財産への編入です。およそ2千万円が天皇家に献上されています。皇室財産は当時御料(ごりょう)と呼ばれ、天皇のおわす皇居宮殿(当時は「宮城」とお呼びしていました。)や、御所、天皇家ゆかりの古くからの離宮、別荘に当たる御用邸、数多くの森林(御料林)からなる御料地(つまり不動産)と、日本銀行や日本郵船などの当時の大企業の株式や債券などの有価証券、預貯金その他の金融資産から成りますが、それに加えて今回献上されたお金で、天皇家は日本一の資産家になりました。(その後、わが天皇家は日本帝国の躍進に歩調を合わせ、その金融資産の評価額がうなぎ登りに上がり、大正時代にはイギリス王家やロシア帝国のロマノフ皇帝家と並ぶ、世界屈指の財を誇る王家としてその名を知られる様になります。驚)

その他の使い道では、教育関係と、災害準備費用が並びます。前者は言わずと知れた学校建設費用で、当時の日本は毎年およそ100万人近い規模で人口が増え続けていたそうです。これは富国強兵の政策に伴い、「産めよ増やせよ」と多産を奨励した結果、子供の数が急激に増えたためです。彼ら日本帝国の未来を担う子供たちに、初等教育の充実を図るため、全国各地に小学校が建てられていきました。

また、意外に多いのが後者の災害準備費用です。これはこの日清戦争があった明治20年代半ばから後半にかけて、全国で地震が頻発し、その被害が大きかったためです。(特に被害が大きかったのは、明治29年6月に発生した明治三陸沖地震で、津波により2万人以上が亡くなったそうです。記憶に新しいあの東日本大震災を髣髴とさせる大災害が、その110年前にも起きていたのですね。)


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上の画像2枚はこの時の地震の被害の様子です。まさに、あの東日本大震災の爪跡と同じですね。そして3枚目は当時の人が、いずれまた起きるであろう地震と津波に備え、子孫のために残した警告文を刻んだ石碑です。

「ここより下には家を建てるな。」

しかし、この碑文を刻んだ石碑は長い年月の間に草に埋もれ、地震の記憶も人々から忘れ去られ、この警告が活かされる事はありませんでした。(涙)

さて、その他の賠償金の使い道で、良く歴史で教わったのが、あの九州の八幡製鉄所です。これは日本で事実上最初の大規模な国産製鉄所であり、それまで欧米列強諸国からの輸入に頼っていた鋼鉄を、日本国内で自前で生産するために必要不可欠なものでした。


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上が良く歴史の教科書で目にした八幡製鉄所の様子です。完成間近の溶鉱炉の前で、関係者の皆さんが記念撮影をしていますね。(ただし、製鉄所自体の建設費用は当時のお金で58万円だったそうで、賠償金の使い道としてはほんのわずかでした。)ここで作られた鉄は、後に全国の鉄道のレールや橋、軍艦、船などの鋼材として使われる様になります。この製鉄所は、後に日本全国で続々と建設されていく製鉄所のモデルとなり、そこで得た知識と経験、ノウハウが、その後のわが国の重工業の発展に大きく寄与していきます。

この八幡製鉄所の完成により、わが国はやっと国産の戦艦を造れる様になり、その後、先に述べた「六六艦隊」を凌ぐ「八八艦隊」(これは戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の計16隻を連合艦隊の主力とするというものでしたが、その後の第1次世界大戦の結果による世界的な軍縮と大戦後の深刻な不況による財政難で、この計画は中止となってしまいます。)を計画し、1920年代には英米に次ぐ世界第3位の勢力を誇る艦隊を擁する大海軍国となるのです。(この製鉄所は、今も新日鉄住金の重要な製鉄所として現在も稼動するバリバリの現役です。そして2015年に、これらが「明治日本の近代化産業遺産」として世界遺産に登録されたのは記憶に新しいですね。)

手に入れたばかりの新領土、台湾へのインフラ投資も、およそ1200万円が使われています。当時まだほとんど未開の地が多かったこの亜熱帯の島に、まずは上下水道、鉄道、学校、病院などが次々に建設され、台湾の住民に、大日本帝国臣民としての皇民化教育が施されていきます。

この戦争の勝利がわが国にもたらしたものは、こうした物理的なものばかりではありません。なんといっても東洋の大国、「眠れる獅子」と呼ばれて欧米諸国が潜在的な恐れを抱いていた大清帝国を、極東の最も端にある痩せた島国日本が打ち破ったのです。この事は、それまでの日本に対する欧米諸国の見方を大きく転換させる契機となります。その代表的な例が、明治政府がその成立から悲願としてきた欧米諸国との不平等条約の改正です。

この不平等条約は、旧江戸幕府がペリー来航以来欧米各国と結ばされたもので、特に欧米人が日本国内で犯罪を犯したとしても、日本側は一切手を出せず、欧米諸国の法に基づいて裁判を行ういわゆる「治外法権」や、欧米諸国からの輸入品に対して日本側が自由に関税をかけられないなどの二点は、日本が今後欧米諸国と相対していく上でどうしても撤廃しなければならない第一外交目標でした。

1894年(明治27年)7月、日清戦争開戦直前、日本政府はようやくイギリスとの間で「日英通商航海条約」を結ぶ事に成功します。これは、先に述べた「治外法権」の撤廃と、「関税自主権」の部分的回復を約したもので、これにより日本は開国以来の悲願を達成し、清国との開戦に踏み切ったといわれています。


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上がこの時条約を調印した日本側代表の駐英公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)氏です。(1844~1914)彼は長州出身で、若い頃は医者を目指してドイツに留学していましたが、当時の日本の留学生の専攻が軍事と医学に偏りすぎていると考え、途中から政治、経済学に転向した事から政治家への道に進む事になったきっかけでした。その後外務省に入り、その卓越した語学力と外交力で駐英、駐独公使を歴任し、さらに外務次官から外務大臣に登りつめ、一貫して不平等条約の改正に尽力した人物です。その功績により子爵位を賜っています。(すごいヒゲですね。笑 彼に限らずこの時代の人物は、明治天皇を筆頭に主だった政治家、軍人以下みなさんこの様に立派なヒゲを生やしています。しかし、これは決して当時の流行だったからではなく、権威と威厳を相手に見せつけ、言葉は悪いですが相手に「舐められない」様にするための「演出」効果でもあった様です。外交にはそんな事も必要だったのでしょう。)

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そして上がイギリス側代表の外務大臣ジョン・キンバリー伯爵です。(1826~1902)彼はヴィクトリア女王治世下における大英帝国絶頂期の政治家として、主に外交、植民地総督などの要職を歴任した筋金入りの典型的な「英国貴族」でした。

イギリス側が、日本との関係でこれまで治外法権を認めなかったのにはそれなりの理由があります。それは当時の日本にはまだ近代国家としてきちんとした法律(民法、商法、刑法などの基本的な法)が整備されておらず、そんな遅れた国に自国の国民を引き渡すのは危険だと思われたからです。(つい20年前までろくな取調べや裁判もなく、刀で斬首して「さらし首」にしていたのですから無理もありませんね。)しかし、その後ドイツに倣った大日本帝国憲法の発布や、フランス民法に倣った民法の編纂など、日本が着々と近代国家としての基礎を築いていくに連れ、次第に欧米諸国の日本に対するそうした見方も変わりつつありました。

さらに、イギリスが条約改正に応じたのにはもう一つの大きな理由があります。それはロシアのこれ以上のアジアへの南下を阻止し、イギリスがアジアに持っている広大な植民地や権益を保護するため、当時興隆期にあった日本に味方しておいた方がイギリスの国益のために良いという高度な戦略があったからです。(仮にロシアと戦争になっても、それで血を流すのは日本であり、イギリスは痛い思いをしないで済みます。つまり、そのための「道具」として日本を利用しようとしたのです。まさに大人のやり方ですね。今のわが日本政府も、これくらいのしたたかさでどこかの反日国や北方領土問題に当たってもらいたいものです。)

この条約の締結後、キンバリー外相は次の様に発言しています。

「日英間に対等条約が成立した事は、日本の国際的地位を向上させる上で、清国の大軍を撃破した事よりも重大な事になるだろう。」

彼の予見は見事でした。その後日本は、イギリス以外の欧米諸国14カ国とも不平等条約の撤廃に成功し、さらにイギリスとの間には、1902年(明治35年)に「日英同盟」を結び、両国関係は飛躍的に強化されます。そしてこの日英同盟が、その2年後の日露戦争で日本がロシアに勝利出来た大きな力となった事は、歴史好きな方であれば良くご存知の事と思います。

この日清戦争は、単純に言えばわが国にとってとても「儲かった」戦争でした。それはこれまで上でお話した賠償金のくだりでもお分かりの通りです。そしてその勝利により、日本は13個師団と4個独立旅団(合わせて常備兵力およそ15万)を基幹戦力とする精強な陸軍と、6隻の最新鋭戦艦を主力とするおよそ30隻以上の常備艦隊からなる強力な海軍を造り上げ、それまで貧弱だった軍事力は飛躍的に大きくなりました。

さらに、後段で述べた様に、わが国はその国際的地位を向上させ、欧米諸国から「近代国家」の末座に加えてもらう事を一応認めてもらった事も見逃せないでしょう。

それは当時の国際情勢、歴史では良く「帝国主義」と教えられたこの時代では必然的な成り行きでしたが、それは同時にわが国の中に、大きな心境の変化をもたらす事にもなります。なぜなら、これに味をしめた日本はそれから次々と対外戦争に積極的になり、領土の拡大、軍事的膨張の道を突き進んでいく事になるからです。

「朝鮮を従え、清国も破った、もはやアジアではわが国が最も進んだ強国だ。次なる敵はロシアだがなんとか退けてみせる。」

そして日露戦争でそれを果たしたわが国は、その後の国家戦略を大きく転換させます。それまでの日本は、とにかく近代国家になる事が至上の第一目標でした。しかし、ここまで来てその目標はおおむね達成され、今度は次なる目標として、イギリスの様な世界に君臨する大帝国を建設するという大きな野望を抱き、その国策を練るのです。つまりこの時からわが国は、理性的な文明国から、対外進出を狙う野心的で危険な軍事帝国へと大きく変貌したといえるでしょう。

「イギリスもヨーロッパの最も端にある島国だ、地理的にはわが国と同じ条件にある。そして国内にこれといった資源がないのもわが国と同じだ。それゆえにイギリスは海外に進出してライバル国と戦争を繰り返し、植民地を広げて今日の大英帝国を築いたのではないか。そのイギリスに出来た事が同じ島国の日本に出来ないはずがない。ならばわれわれも、イギリスの様な帝国をアジアに築いて何が悪い。天皇を君主とするわが大日本帝国が全アジアの盟主となり、やがてはこれを一つにまとめてアジアに帝国を築き、アジアをわが大日本帝国のものにするのだ。」

そう、これはあの「大東亜共栄圏」構想のスローガンです。50年後にわが国が太平洋戦争で掲げた目標が、この時にすでにわが国の中に野心として芽吹いていたのです。そしてその結果がわが国を破滅に導いた事は、歴史好きな方でなくとも私たち日本国民の共通認識である事は言うまでもない事ですね。

18回に亘ってお送りしてきた「忘れられた戦争」ともいうべき日清戦争についてのお話はこれで終わりにしたいと思いますが、いかがだったでしょうか? しかし、この戦争は上で述べた様に、その後の日本の進む方向を位置付けた最初の出来事であり、決して忘れ去ってはいけないものであると思います。縁あって自分の駄文を読んで頂いた方や、ご興味を持たれた方などの暇つぶしにして頂ければ自分としては幸いです。(最近更新が遅くてすみません。無い知恵を絞って文章推敲しつつ、画像などもなるべくいいものを探しながら書いてるとかなり時間がかかり、月に一、二回程度になってしまいます。汗)

次回からはまた新しいシリーズのテーマを書こうと思っているので、ご興味を持たれた方はふらりと立ち寄って見てください。(笑)
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日清戦争17 ・日本になれなかった二つの帝国

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)10月、日清戦争勃発のそもそものきっかけを作り、20年以上に亘って夫の国王をしのぐほどの権力を振りかざした朝鮮王妃 閔妃(びんひ)は、日本の三浦梧楼(みうら ごろう)公使らの謀略により暗殺されました。この事件については、前回もお話した様にうやむやのまま闇から闇に葬り去られてしまうのですが、何にしても、日清戦争の引き金となった諸々の事件の渦中には常に閔妃が絡んでおり、その彼女の死によって、日清戦争というものが本当の意味で終結したと言えるのかも知れません。

では、この日清戦争が日本、清国、朝鮮三カ国に与えた影響と、この三カ国がその後に辿った歴史はどの様なものだったのでしょうか? 今回はまず朝鮮国と清国からお話したいと思います。

まず、日本と清国がその支配権をめぐって激しく対立し、そしてついに開戦するに至った原因である朝鮮国の日清戦争後の状況ですが、これは前回もお話した様に、長く朝鮮国を二分する権力争いに明け暮れた二人の人物、すなわち朝鮮国王妃の閔妃と、国王の父親にして宮廷の陰の実力者であった摂政の興宣大院君(こうせんだいいんくん)が相次いでこの世を去ると、後に残った国王の高宗(こうそう)が、1897年(明治30年)10月、朝鮮の歴史上初めて「皇帝」に即位、国名を「大韓帝国」と改めて自主自立した独立国を目指して動き出します。


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上が大韓帝国初代皇帝「光武帝」として即位した旧朝鮮国李王朝第26代国王の高宗です。(1852~1919)彼は長い間悩まされ続けた妻の王妃と摂政の父の権力争いからようやく解放され、今度こそ朝鮮を自らの理想とする新国家とすべく、皇帝即位と帝政の開始という思い切った手段により、国の近代化を図ろうとしました。(その手本となったのが、明治維新によって近代化を成し遂げたわが大日本帝国である事は、歴史好きの方であれば容易に察しが付く事でしょう。)しかし、彼が思い描いた「夢の国」は、後にその手本とした帝国に呑み込まれてしまう運命にありました。

高宗、いや光武帝は、貧しく遅れた朝鮮、いや大韓帝国を、日本の様な近代国家にすべく、自らの名を冠した「光武改革」という近代化政策を立ち上げます。しかし、彼のやり方はその第一歩からわが日本の明治維新とはかけ離れたものでした。なぜなら日本の場合は立憲君主制に基づく議会政治を確立したのに対し、光武帝はあくまで皇帝親政による絶対王政を目指したからです。(これでは完全に封建制ですね。全く何のために帝政に移行したのか意味が分かりません。)

さらに彼はもう一つの大きな失敗も犯してしまいます。それは財政、すなわち「お金」の事です。近代国家として生まれ変わるためには何と言ってもたくさんのお金がかかります。その財源を捻出するために彼は国民に増税を強いたのです。その結果どうなるかは目に見えています。ただでさえ貧苦にあえぐ朝鮮の民衆はさらなる増税に耐えかねて各地で反乱を引き起こし、改革どころではなくなってしまいます。これは完全に光武帝の失政でした。

そうして朝鮮、いや大韓帝国が一向に近代化出来ずにモタモタと年を重ねるうちに時代は20世紀を迎え、再び周辺で大きな戦争が勃発します。1904年(明治38年)の日露戦争です。この戦争で強敵ロシアを破った日本は、ロシアの南下を食い止める防波堤として、朝鮮半島を日本の支配下に置く事を列強諸国、とりわけイギリスとアメリカに認めさせる事に成功(その見返りとして、アメリカによるフィリピンの領有の承認、イギリスとは日英同盟を締結します。)

欧米列強の了解を取り付けた日本は、三度に及ぶ「日韓協約」を結ばせて大韓帝国の外交権を剥奪、さらに軍隊の解散と警察、司法までも日本に委任させます。つまり、外交、国防、司法、治安といった独立国家としての権利を全て韓国から奪い、日本の「保護国」としたのです。(この保護国というのは、主に外交権を他国に一任する国の事です。外交権がないのだから、その国はそれを一任した国の一部とみなされます。)

こうした一連の失敗により、光武帝は皇帝としての威信を失い、1907年(明治40年)大韓帝国首相であった李完用(り かんよう)らのグループによって退位に追い込まれ、息子である皇太子純宗に帝位を譲って「太上皇」(「だいじょうこう」 これは退位した皇帝の尊称です。わが日本の天皇家においても、かつて譲位あそばされた帝に対して「太上天皇」略して「上皇」とお呼びしていましたね。)となります。


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上が譲位して光武太上皇となった高宗(左)と、その跡を継いで大韓帝国2代皇帝となった純宗(右)親子です。しかし、彼ら李王家の皇帝としての系譜は、もはや風前の灯でした。

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そして上が、光武帝に譲位を迫った大韓帝国首相の李完用です。(1856~1926)彼は伊藤博文の推薦を受けて大韓帝国の首相に抜擢されたエリート政治家で、さらに日韓併合後には朝鮮総督府の要職に着き、その功によりわが日本政府から侯爵位を賜っています。(そのため彼は何度も暗殺者に襲撃され、また韓国独立後、その名は国賊として「売国奴」の代名詞となっています。しかし、彼は決して親日であったわけではなく、それが証拠に彼は日本語を一切学ばず、日本人との会話では英語で話していたそうです。また、当時から彼に対する同情者も数多くいて、近年の韓国では高宗と並んで歴史の流れに逆らえなかった哀れな人物としての冷静な評価が定着しつつあります。)

そしてついに1910年(明治43年)8月、大韓帝国はわが大日本帝国に併合されます。いわゆる日韓併合または韓国併合です。これにより大韓帝国はその成立からわずか13年で滅亡し、朝鮮半島は1945年(昭和20年)のわが国の敗戦まで35年余り、日本領となるのです。

日韓併合後、高宗と李王家の人々は日本の皇族に準ずる王公族とされ、それぞれ日本流の長い命名による王公名で呼ばれて京城(けいじょう)と改名された旧漢城の李王家の離宮でその命脈を保ちます。そして1919年(大正8年)1月、朝鮮最後の王高宗はその波乱に満ちた67年の生涯を閉じました。

ちなみに現在、旧李王家の末裔は、高宗のひ孫に当たる李源(り げん)氏が李家30代当主としてその系譜を繋いでいます。


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上が李家第30代当主にして朝鮮王家の王位請求者(もちろん名目上の話です。笑)の李源氏です。(1962~)彼は現在は現代グループの一企業に勤めるサラリーマンで、後継者として息子さんが2人いる様です。

さて、それでは清国の日清戦争後の状況はどんなものだったのでしょうか? これについては、戦争に敗れた清国が日本に多額の賠償金を課され、その支払いのために欧米列強諸国から莫大な債務を負ってしまった事は以前にもお話したと思いますが、これにより大清帝国は、借金したそれらの国々になりふり構わず国土を租借させ、もはや帝国などとは名ばかりの半植民地に成り下がってしまいました。

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上が日清戦争後の清国の状況です。清王朝がかろうじて直接統治していたのは、都である北京周辺の中部地域のみでした。

この帝国の状況を最も嘆いていたのが、時の皇帝光緒帝(こうしょてい)です。彼は全ての責任はこれまで清帝国の事実上の「宰相」として辣腕を振るってきた北洋大臣の李鴻章(り こうしょう)にあるとして彼を罷免し、代わって改革派の側近たちを重用して新体制により帝国の建て直しと勢力挽回を図ろうと動き出します。


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上が大清帝国第11代皇帝の光緒帝です。(1871~1908)彼は伯母の西大后がその権力維持のために、わずか3歳で即位した典型的な傀儡皇帝でしたが、成長するに連れて「院政」を敷く伯母からの離脱と、自らの親政による新たな国づくりを願う様になります。

李鴻章

そして上が光緒帝に罷免された前北洋大臣 李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴については、これまで何度かお話してきたので今回は省きますが、当時の清王朝最大の実力者である点は、皇帝から罷免されても変わりませんでした。

光緒帝は、自ら登用した改革派の側近たちと図り、日清戦争敗北から3年後の1898年(明治30年)に、思い切った新体制への移行を実現しようとします。それはわが日本の明治維新を参考に、立憲君主制の近代国家を造ろうというもので、これを戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう 「戊戌」とは干支の事で、この年がそうだったからです。)といいます。

光緒帝は側近たちにこう言い放ちます。

「西欧諸国が500年かかって成した事を、日本は20年余りで成し終えた。日本に出来た事ならばわが国にも出来ぬ事はない。我が国土は日本の10倍以上あり、明治維新に倣えば3年にして大略成り、5年にして条理を備え、8年にして効果を上げ、10年にして覇業を達成するのだ。」

この時、まだ27歳の若い皇帝はどれだけ期待に胸を膨らませていた事でしょう。しかし、それはあまりにも事を急ぎ過ぎた無茶なものでした。とりわけ、これまで清王朝を支え、賄賂の横行と肥大化により腐敗した旧体制の官僚たちは、新体制への移行に伴いその多くが切捨て(つまりリストラですね。)される事になり、大きな危機感を持つ様になります。彼らは同じくそんな皇帝の計画を快く思わないある人物を担ぎ上げ、「抵抗勢力」としてその前に大きく立ちはだかります。その人物とは、誰あろう皇帝の伯母 西太后です。


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上がその西太后です。(1835~1908)悪名高い彼女の経歴についても、以前お話したので省略しますが、皇帝にとって生涯最大の敵は、この怖い伯母さん(失敬。笑)だったのではないでしょうか?

西太后は、清王朝と帝国そのものが、自分のために存在する「私物」であると思っていました。しかし、女性である彼女は「皇帝」になる事は出来ません。(そう、清王朝に限らず、中国歴代王朝では皇帝は男性だけであり、ただ一人として女帝というものは存在しませんでした。)そこで彼女は、清王朝の皇帝家である愛新覚羅家(あいしんかくらけ)の皇族から、自分に血筋が最も近く、さらにまだ何も分からない幼児を傀儡として皇帝に据え、その後見人として帝国の全権を握る「間接統治」で権力を欲しいままにしてきたのです。彼女はこれまで通り自らが影で実権を握り続ける事を望んでいました。

西太后ら保守派グループは、皇帝ら改革派グループに対してクーデターを起こし、この戊戌の変法を潰してしまいます。(この時の光緒帝の失望はどれほど深いものだった事でしょう。若者の夢を老人が潰した典型ですね。)結局、帝国の実権はその後も西太后が握り続け、光緒帝は終始その傀儡から脱する事は出来ませんでした。

こうして清国が内向きの障害により一向に近代国家へと改革出来ないまま時は流れます。やがて起きた1900年(明治33年)の義和団の乱の勃発、これは義和団と呼ばれる宗教集団が外国勢力に対して引き起こした反乱でしたが、これに目を付けた西太后は、この義和団を利用して外国勢力を追い出そうと彼らに味方します。これに対して日本と欧米各国は、この反乱鎮圧と自国のそれぞれの権益の確保のために協調して連合軍を組織し、反乱を叩き潰してしまうのです。

またも敗れた清王朝の凋落はもはや目を覆うばかりでした。そして1908年(明治41年)10月、何も成し遂げられなかった哀れな皇帝光緒帝は、帝国の行く末を嘆き悲しみながら37歳の若さで謎の死を遂げます。(彼の死因については、近年中共が行った遺体の発掘調査と検死により、遺体の髪の毛から致死量をはるかに越える砒素が検出された事から、どうやら毒殺されたらしい事は明らかな様です。その犯人は不明ですが、言わずともそれが誰の命なのかは、皆さんも容易にご想像が付く事でしょう。)

その翌日、彼を生涯悩ませた伯母の西太后も亡くなり、清帝国の新しい皇帝には、彼女の指名によりまたも何も分からぬ3歳の幼児が12代皇帝として即位します。そう、彼こそは宣統帝(せんとうてい)皆さんもご存知の「ラストエンペラー」溥儀(ふぎ)です。


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上が大清帝国第12代皇帝として即位したまだ3歳頃のラストエンペラー溥儀です。(1906~1967)この幼い男の子に待ち受けるその後の波乱に満ちた人生を、一体誰が想像出来たでしょうか?

度重なる外国との戦争に敗れ続け、国内は乱れ放題、中国の人心はとうの昔に腐敗しきった清王朝に対して微塵の期待も敬愛も抱いてはいませんでした。そもそも清王朝自体が中国を征服して成立した征服王朝なのです。もはや清王朝の命脈が潰えるのは時間の問題でした。そしてついに1911年(明治44年)10月、その時は訪れます。辛亥革命(しんがいかくめい 「辛亥」とはこれも干支です。)の勃発です。翌1912年1月1日、革命家孫文(そんぶん)を大総統とする共和制の中華民国が成立、1644年の成立以来12代268年続いた清王朝はついに滅亡するのです。

だいぶ駆け足で、朝鮮国と清国、二つの国の日清戦争後の行く末をお話しました。この二つの国はそれぞれの置かれた状況を憂い、このままでは「国が滅びる」との危機感(というより恐怖感)から、最後の力を振り絞って懸命に生き残ろうとしました。そして、その目指す模範としたのが、わが日本すなわち大日本帝国でした。そう、彼らは日本の様な立憲君主制の近代国家になろうと必至にもがいたのです。

しかしその結果、前者は大日本帝国の一部に併合され、後者は帝国とは全く正反対の完全共和制国家となり、二つの帝国は共にほぼ同じ時期に滅亡してしまいます。結局彼らは日本の様になる事は出来ませんでした。そして、この二つの国を外的に滅ぼしたのは、誰あろう彼らがその目指すべき模範としたわが大日本帝国であったのです。

次回に続きます。

日清戦争16 ・ 王妃殺人事件 あの女狐を抹殺せよ

みなさんこんにちは。

この日清戦争についてのお話も、いよいよ終わりに近づいてきました。すでに戦争そのものは、わが日本の勝利で幕を閉じた事はこれまでにお話してきましたが、今回はその日清戦争開戦のきっかけである朝鮮国の「ある一族」が、不和と内紛、そして謀略によって滅んでいく最初の発端となった事件を、日清戦争の番外編という形でご紹介したいと思います。それは「朝鮮王妃殺人事件」です。

事の起こりは日清戦争からさかのぼる事30年近く前の1866年(慶応2年 日本では明治維新の2年前です。)に始まります。この頃朝鮮国は、1392年に前王朝高麗を滅ぼして成立した李王朝の支配する王国であり、この時国王であったのは高宗(こうそう)という王でした。しかし、彼はまだ14歳の少年であり、当然国政など出来るはずがありません。そのため実際に朝鮮国の国政を担っていたのは、その高宗の父親である興宣大院君(こうせんだいいんくん)という人でした。

この年、朝鮮の宮廷に一人の少女が王の妃として入ります。その名は閔玆暎(びん ちゃよん)彼女はその出身一族の名字から、その後閔妃(びんひ)と呼ばれる様になります。


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上が若い朝鮮国王夫妻です。(注)閔妃の写真についてはいくつかあり、その中の一枚を上にお載せしましたが、彼女は後述する様に謀略により抹殺され、写真なども証拠隠滅のために失われてしまったので、上の女性が閔妃のものであるかは不明です。あくまで「伝 閔妃」としてご覧になってください。

朝鮮国王高宗(1852~1919)は李王朝朝鮮国26代国王で、同時に最後の王でもあります。しかし、彼は性格的に優柔不断で気が弱く、君主としては明らかに不向きでした。それに対し、王妃の閔妃(1851~1895)は夫とは全く正反対の性格で、意志が強く、さらにそれ以上に強い権力欲を持っていました。彼女は頼りない夫に代わって自らが朝鮮国の実権を握る「女王」になる事を狙って行動を開始します。

この閔妃は、もともと高宗の父である興宣大院君が、高宗の先代の王の外戚として勢力を振るっていた金家(この名字、朝鮮ではうんざりするほどとても多いですね。呆)を宮廷から追い出すために、さほど力のない地方の中クラスの家柄だった閔家の娘を息子の妃に選んだのですが、この選択は彼の生涯最大の過ちでした。先に述べた様に、この嫁は大変な権力欲を抱いており、やがて舅(「しゅうと」つまり義理の父ですね。)である興宣大院君を悩ます強敵となり、彼はそれから20年以上に亘ってこの嫁との権力闘争に明け暮れる事になるのです。


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上が問題のお二人です。以上が今回お話する当時の李王家の人々ですが、それにしてもこの王家、とにかく仲の悪い家族なのです。特に上の二人は、後に熾烈な権力争いを繰り広げる「仇敵」となります。といっても、実は彼らも最初から仲が悪かったわけではありませんでした。

もともと閔妃を王妃に据えたのは、摂政として国政を担っていた右の興宣大院君(1820~1898)であり、彼のおかげで国王の妃になれた訳ですから、閔妃にとっては大恩人なのです。しかし、彼女の結婚生活は決して幸せなものではありませんでした。なぜなら夫の国王高宗は側室が何人もおり、正妻である王妃の閔妃には愛情を持たなかったからです。(父親が勝手に決めた好きでもない女性と政略結婚させられたのですから無理もありませんね。しかし、これは父の興宣大院君に対する彼なりのささやかな反抗だったのかも知れません。)

その上、彼女を王妃に据えた興宣大院君自身も、閔妃を相手にしていませんでした。なぜなら彼は、先に述べた金家一族を宮廷から追い出したかっただけであり、彼にとって閔妃はそのための「道具」に過ぎなかったからです。国の実権は大院君が全て握っており、国王夫妻の生活(特に宮廷予算、つまりお金の事ですね)も大院君に支配され、これが、彼女には我慢がなりませんでした。そうして年を重ねていくうちに、閔妃は次第に義理の父を自分の前に立ちはだかる邪魔者として憎む様になっていくのです。


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上は当時の朝鮮王宮の正門の様子です。王宮は立派ですが、一歩外を出ればご覧の様に粗末で汚いわらぶきの家々(家とはいえない「小屋」ですね。)が並んでいます。当時の朝鮮の人々の貧しさが分かりますね。

1873年、国王高宗が成人しました。もう未成年だからという理由で王の父である大院君が摂政として君臨する大儀はありません。そこで閔妃は夫の高宗に働きかけ、大院君を隠居させてしまいます。それだけでなく彼女は大院君の側近らを全て宮廷から追放し、自らの実家である閔家一族30人以上を高官に採り立てて一気に朝鮮国の実権を握るのです。

そして彼女は、1874年に夫高宗との間に生まれた王子(後に純宗という名で皇太子となります。)を次の王位継承者にするため、朝鮮国の宗主国である清国からそれを認めてもらう事にも成功します(もちろん裏で多額の賄賂を清の高官たちにばらまいたのです。)

さらに彼女は、夫の高宗が手を付けた側室らも追放、特に王との間に子を産んだ側室をその子ともども暗殺してしまうのです。この様に自身を脅かす恐れのある者を次々と徹底的に粛清していく王妃のやり方に、夫の国王高宗はただ恐れるばかりで何も出来ず、妻の指図に盲目的に従うだけでした。

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上が朝鮮国王の高宗です。しかし、彼は閔妃と大院君の争いにただただ翻弄される無力な存在でした。(彼の表情を見て下さい。妻と父の板ばさみでかなりお疲れの様子です。)

名実共に朝鮮国の実権を握った閔妃とその一族は、わが世の春を謳歌します。特に国庫のお金を自由に使える様になった閔妃は、怪しげな占いや呪術に夢中になり(女性はこういうものが大好きですね。これは万国共通の様です。苦笑)国庫の数倍もの多額のお金をこれらに浪費、高官たちは閔妃に採り立ててもらうために競って贈収賄に走り、また宮廷を牛耳る閔家一族も、庶民が苦しい生活をしている中、俳優や歌手を宮中に招き、毎晩遅くまで豪華な宴を催して遊興三昧に耽り、起床はいつも午後で、宮廷は絵に描いた様な退廃と腐敗が蔓延していたそうです。

しかし、これを快く思わない存在がいました。誰あろう王の父興宣大院君です。

「あの小娘が! 誰のおかげで王妃になれたと思っておるか! このままあの女の好きな様にはさせておかんぞ。」

それから大院君と閔妃の20年以上続く長い権力争いが続きます。両者の争いは苛烈を極め、暗殺、処刑は言うに及ばず、クーデター、果ては宮殿の爆破まで実行されるのです。そうした彼らの権力闘争はわが日本と清国をも巻き込み、それが今回の日清戦争へと発展する大きな原因となったのでした。

さて、そうして時が流れて1895年(明治28年)4月、日清戦争は日本の大勝利に終わりました。それはこれまでお話してきた通りです。ではその頃、問題の李王家の人々はどうしていたのでしょうか?

実は、この時点に至るも閔妃と大院君の争いはまだ続いていました。そしてこの時点において優勢だったのは大院君側です。彼は日清戦争に勝った日本の後ろ盾を得て、今度こそ閔妃を追い詰めようと画策していました。もちろん閔妃の方もそれは百も承知です。しかし、これまで常に清国の力に頼ってきた彼女はこの時大きく不利でした。

「見ているがいいあの老いぼれめ。この国は私のものよ。誰にも邪魔はさせないわ。」

それでも彼女は諦めません。したたかな彼女は、頼りにならなくなった清国に代えて、なんと今度はロシアに接近し、ロシアの力を利用して巻き返しを図ろうと狙っていたのです。そしてすぐに彼女は動き出します。閔妃はロシア公使と密約を交わし、同年7月、ロシア公使と公使館警備のロシア軍部隊を使ってクーデターを起こし、首都漢城の宮廷を襲って大院君の後ろ盾である日本の傀儡政権を倒したのです。

このクーデターは直ちに日本政府の知る所となります。しかし、今回は日本政府もすぐには対応出来ませんでした。なぜなら閔妃の背後にはあの大国ロシアがいるのです。先の三国干渉でロシアの圧力に事実上屈服させられた日本としては、手が出せない状況でした。

そこで日本政府はある人物を特命全権公使として朝鮮国に送り込みます。その名は三浦梧楼(みうら ごろう)彼に与えられた任務は、情報の収集と今後の朝鮮へのロシアの影響を本国に報告し、それを元に、あくまで外交的に状況を日本側に有利な方向へ戻す事でした。


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上が新任の在朝鮮日本公使 三浦梧楼氏です。(1847~1926)彼は長州出身の元陸軍軍人で、幕末の動乱や萩の乱、西南戦争といった明治前期の国内反乱の鎮圧で名を挙げたやり手の将軍で、陸軍中将にまで昇進し、子爵位を賜りますが、同郷の山縣有朋と若い頃から仲が悪く、事ある毎に対立したために中央から左遷され、予備役に廻された異色の経歴の人物です。今回の公使任命も、彼を国内から遠ざけたいという山縣の意向が大きく反映された結果ですが、その選択が今回の重大事件を引き起こす事になります。

しかし、彼を朝鮮公使に任命した事は大きな過ちでした。彼は日本政府が考えていた外交的解決とは全く対極的な過激なやり方で、情勢を日本に有利な形にしようと目論んだのです。それはなんと「閔妃の暗殺」です。

「過去20年に及ぶ日清朝三国の間に横たわる問題は閔妃に始まる。つまり全ての諸悪の根源はあの王妃なのだ。このままあの王妃を生かしておいてはわが国はロシアの脅威にさらされる事になろう。それを絶つためにもあの女にはこの世から消えてもらわねばならん。あの女狐を抹殺せよ。」

彼は王妃に対してもはや「あの女」と呼び捨て、果ては「女狐」とまで形容して彼女の暗殺計画を練るのです。そう、彼は今は公使という肩書きですが、もともと生涯戦い続けてきた生粋の軍人であり、外交官ではないのです。そんな彼にとって、閔妃は古来国という国を渡り歩いてその国の君主をたぶらかし、その国を滅ぼしてまた別の国へと乗り移る伝説の妖怪「九尾の狐」にしか見えなかったのでしょう。

1895年(明治28年)10月8日深夜、彼は計画を実行に移します。三浦公使の命を受けた日本公使館警備の日本軍守備隊と、彼が極秘に集めた日本人壮士たち(彼らは別名「大陸浪人」と呼ばれ、その多くがかつて明治初期の日本国内の反乱で国内を追われた旧士族たちでした。彼らの思想は過激な超国家主義であり、ひとえに日本の帝国としての膨張拡大、やがて全アジアを日本の主導の下にまとめて西欧列強に対抗する後の「大東亜共栄圏」へと発展していくのです。そのために積極的に日本軍に協力して通訳や諜報、後方攪乱、特務工作などに従事した放し飼いの「特務機関員」でした。)20名以上が、あらかじめ買収しておいた朝鮮の王宮警備の親衛隊の手引きで首都漢城の王宮を急襲したのです。


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上がその時の様子を描いた絵です。日本軍守備隊は王宮全域を占拠し、実際に閔妃を襲撃した実行犯は三浦公使配下の大陸浪人たちでした。上の絵では襲撃する日本人壮士らは侍の格好で描かれていますが、襲撃現場に遭遇した人々の証言では、実際に彼らはこれに近い装束で、手に手に日本刀で武装して閔妃を殺害した様です。

寝込みを襲われた閔妃は惨殺され、その遺体は証拠隠滅のために石油をかけて焼却されてしまいます。その最後はとてもあっけない、それでいて凄惨なものでした。

さて、この事件に慌てたのが本国の日本政府です。またも日本政府を悩ませる事件が発生し、しかもそれが朝鮮公使自らの主導で行われた謀略であったからです。すでに事件は朝鮮在住の欧米ジャーナリストによって欧米諸国に伝えられ、特に閔妃とつながっていたロシアの今後の出方も予想が着きません。とりあえず日本政府は三浦公使を解任して、今度は生粋の外交官である小村寿太郎外務省政務局長を後任の朝鮮公使に任命、三浦以下今回の事件に関わった軍人、壮士ら48名が謀殺罪で起訴され、広島監獄に収監されますが、その後の裁判で証拠不十分により結局釈放され、事件の真相は謎に包まれたままうやむやになってしまいます。

さて、この事件でまたもひそやかな笑みを浮かべていた人物がいました。閔妃と長く争ってきた興宣大院君です。

「ついにやった。あの女を始末してやったぞ。わしはあの女に勝ったのだ。これでこの国は再びわしのものじゃ。」

しかし、事態は彼の思う様には進みませんでした。そう、彼はこの時すでに75歳の老齢で体調を崩しがち、死期が迫っていたからです。その上彼の息子である国王高宗も、この頃には40代の成熟した大人に成長していました。高宗はあれほど恐れていた妻が死に、年老いた父の命も長くは無い事を見越し、今度こそ朝鮮国王として自分が朝鮮国の真の支配者になろうとこの時初めて決心し、父への対抗を公然と決意しました。

「何もかも、全ては父上の所業から始まった。もうあなたにこの国を好きな様にはさせない。」

高宗は父大院君を李王家の離宮の一つに幽閉させ、今度は安全なロシア公使館に居を移してそこで政務を執り行う事にしたのです。そこで興宣大院君は3年後の1898年、78歳で失意の内に亡くなります。しかし、その葬儀に息子高宗は一切出席しませんでした。

1897年10月、長い間悩まされ続けて来た妻と父の争いの呪縛から解放され、ようやく自由になった高宗は、今度こそ自分が思い描いてきた理想の近代国家を作り出すべく動き出します。彼は新しい理想の国家として、隣のわが大日本帝国に倣い、国号を「朝鮮」から「大韓帝国」と改め、自らその初代皇帝に即位したのです。


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上が国王から皇帝に即位した時の高宗です。古い装束を脱ぎ捨て、近代国家の君主にふさわしい大礼服に身を包んでいます。これ以後彼は「高宗光武帝」と呼ばれる事になります

しかし、彼が目指した理想の国は、その模範とされた国にとって許すべからざるものでした。その模範となる国とは誰あろうわが大日本帝国です。そしてこの哀れな王様が夢見た理想の国は、短くも儚い運命で終わる事になるのです。

次回に続きます。

日清戦争15 ・ 台湾制圧作戦と幻の台湾民主国

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)8月に始まり、およそ8ヶ月余り続いた日本と清国との戦争、いわゆる日清戦争は、1895年(明治28年)4月の日清講和条約(下関条約)の締結によって、わが日本のほぼ完全勝利で幕を閉じました。これにより日本は、前回お話した様に清国から当時の日本の国家予算の4倍もの多額の賠償金を得たのですが、それ以外にもう一つ大きな「獲物」を清国から得る事に成功します。それはわが国初の海外領土とも言うべき台湾の獲得です。


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台湾の地理的位置については、一般知識としてみなさんご存知の事と思いますが、今一つピンと来ない方のために上に地図と日本の主要都市との距離をお載せしておきます。東京からおよそ2500キロほど離れた亜熱帯のかなり蒸し暑い島です。

ここでこの「台湾」という名の由来についてですが、残念ながらこれは諸説あって定かではありません。しかし、台湾原住民の言語に由来(「海に近い土地」を意味するらしいです。)するのは確かな様で、少なくとも中国語ではない様です。

この台湾こそ、わが国がその歴史上初めて手に入れた海外領土であり、また同時に、その後アジア太平洋に膨張を続ける事になる日本の対外進出の最初の布石となる地でした。この地を手に入れた日本政府は、当時日本海軍のトップであった軍令部長樺山資紀(かばやま すけのり)大将をその総督に任じ、近衛師団を率いてこの新領土を速やかに接収する事を命じます。


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上が初代台湾総督に任命された樺山資紀海軍大将です。(1837~1922)彼は薩摩出身で当初は陸軍軍人として少将にまで昇進しましたが、明治16年に海軍に「転職」した異色の人物です。その後海軍大臣に登り、さらに内務大臣や文部大臣も歴任し、伯爵位を賜っています。

しかし、ここで誤解してはならないのが、日本がこの台湾に兵を送るのはこれが初めてではないという点です。実はこれより20年前の1874年(明治7年)に、わが国は最初の台湾出兵を行っています。では、なぜ日本が出兵したのかというと、さらに話はそれより3年前の1871年(明治4年)にさかのぼります。

当時日本は徳川幕府を倒した明治新政府の元で、新たな国づくりを進めている最中でした。その頃まだ「琉球」と呼ばれていた沖縄本島へ米を運ぶ宮古島の島民69名の乗る船が台風により難破し、そのうち66名(3名が溺死)が台湾に漂着しましたが、そこで原住民に囚われ、54名が殺害されるという忌まわしい事件がありました。なんとか逃走に成功した残りの12名は、当時台湾を統治していた清国の役所に救助を求め、無事に宮古島へ送還されたのですが、話はそれからです。

日本側は清国に対して賠償を要求しましたが、なんと清国側にこれを拒否されてしまいます。当然これに怒ったのがわが明治政府です。特に西郷隆盛の実弟である西郷従道(さいごう つぐみち)中将ら薩摩グループは、断固とした武力による討伐を主張します。そこで日本政府はおよそ3千の討伐軍を編成して台湾に差し向けたのです。

上陸した日本軍は事件のあった地域の原住民を苦も無く制圧しましたが、日本政府がこれを清国はおろか、列強諸国にも通知せずに行ったためにいわゆる国際問題に発展してしまいます。結局その後に行われた日清両国の交渉によって、清国が事件の被害者らに10万両(テール)の見舞金(当時の日本円で15万5千円余りになります。しかし、この出兵で日本が要した戦費はその10倍に達したそうですから「投資」としては大失敗ですね。笑)を支払う事で合意が成立し、日本は撤兵しました。これが最初の台湾出兵です。

この第一次台湾出兵の時に、参謀の一人として従軍していたのが、当時陸軍中佐だった樺山大将でした。彼が初代台湾総督に任命されたのは、台湾の地理や気候風土について、当時の日本軍首脳部では最も良く知っていたからです。

一方その台湾では、日本側が予想もしなかった別の動きが進行していました。同年5月25日、日本の領土になるのを嫌った台湾の地元有力者たちが結集し、それまで台湾を統治していた清国の地方長官を元首として、なんと「台湾民主国」なる新国家を樹立、独立を宣言したのです。


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上が台湾民主国総統に就任した唐景崧(とう けいそん 1841~1903)と、台湾民主国の国旗「黄虎旗」です。彼は清王朝の地方官僚を代々継承してきた名門の出で、ベトナム領有を巡るフランスと清国との清仏戦争(1884~1885)においてもフランス軍と勇敢に戦った功績があり、その実績を買われて総統に推挙されたのですが、そうした有能さも中年期までで、この頃は保身に怯える「定年間近の官僚」に成り下がっていました。それでもこの台湾民主国こそ、実は歴史上アジアで最初の共和制国家なのです。この当時(1895年)の台湾の人口はおよそ300万。しかし、その運命は後述する様に短く儚いものでした。

この知らせは直ちに台湾総督樺山大将の知る所となりましたが、彼は構わず当初の計画通りに台湾制圧作戦の開始を近衛師団に命じます。

「小ざかしいマネをしおって、すでに台湾はわが大日本帝国のものとなったのだ、台湾民主国などひねり潰してくれる。」

1895年(明治28年)5月29日、樺山総督率いる日本軍およそ1万は台湾北部に上陸を開始します。乙未戦争(いつびせんそう)の勃発です。(「乙未」とはこれも干支で、この年がそうだったからです。しかし、日本では歴史上日清戦争の一部としてあつかわれています。)これに対して台湾民主国軍はおよそ3万を擁していましたが、その大半がこれまで当ブログで何度かお話してきた様に金で雇われた「傭兵」であり、戦意は低く、日本軍の攻撃が始まるとすぐに総崩れとなります。これを見た「総統」の唐景崧はあっさり抗戦意欲を失い、金庫から持てるだけの公金を持ち出すと、6月4日になんと「老婆」に変装して大陸に逃走してしまうのです。

それは民主国成立からわずか十日足らずの事でした。それにしても、これはあまりにも情けないというか、無責任すぎますね。なぜなのでしょう? それは彼らが台湾出身ではない事に原因があります。もともと逃げ出した総統の唐景崧らは、先に述べた様に大陸人であり、その軍隊もみな大陸で集められた傭兵たちでした。そのため台湾に対する愛着などなく、つまりもともとやる気など無かったのです。それが彼らを簡単に逃亡の道に走らせる事になったのですが、しかし、これで台湾民主国が一気に崩壊したわけではありませんでした。

日本軍は6月14日、なんの抵抗も無く台湾最大の街台北に無血入城を果たし、17日には台湾総督府が発足し、正式に日本の統治が始まるのですが、抵抗の主体は清国から台湾の地元住民に移っていました。彼らは逃亡した唐景崧に代わり、彼の下でフランスとの清仏戦争で名を馳せた勇将である劉永福(りゅう えいふく)将軍を新たな総統に迎えて日本軍への抗戦を続けたのです。


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上が新たな総統となった劉永福(1837~1917)将軍です。彼は先に述べた様にベトナムにおけるフランス軍との戦いで清軍を率いて善戦した有能な軍人で、台湾では「英雄」として尊敬されています。

劉永福将軍は台湾の南の台南に首都を移し、台湾の住民からなる義勇軍を組織して日本軍を迎え撃ちます。その数は10万にも達しますが、所詮はろくな武器もなければまともな訓練も受けていない素人の集まりに過ぎませんでした。当時最新装備の日本軍とは比べるべくもありません。そこで彼は山岳部からゲリラ戦で抗戦を続けるよう指示し、日本軍を大いに悩ませます。それでも、日本軍は南下して次々に各都市を攻略し、民主国政府の首都台南に迫りました。


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上は山岳地帯で日本軍に抵抗する当時の台湾原住民です。

しかし、日本軍が進撃するに連れ、台湾住民の抵抗は次第に激しくなっていきます。もともとこの台湾という島は開拓地であり、開拓民の多くが大陸からの移住者でした。彼らは台湾原住民やその他の移住者集団と対立抗争を繰り広げつつ開拓を進めてきた経緯があり、戦いには慣れていました。(これは昔のアメリカ西部劇映画を思い浮かべていただければ少しは理解出来るかもしれません。)村々は防御のために銃眼を備えた煉瓦塀で囲まれた家々が立ち並び、さらに見張りの櫓や密生した竹やぶに囲まれ、それらが格好の防御施設の役割を果たしていたのです。そのため日本軍の主力である近衛師団の兵力だけでは完全な台湾全土の制圧は難しくなっていました。


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上はわが台湾制圧軍の実戦部隊の指揮官であられた近衛師団長の北白川宮能久親王(きたしらわかのみや よしひさしんのう)殿下です。(1847~1895)とても長い名前の宮様ですが、彼は少年時代から僧侶になるために各地の大寺院で過ごし、幕末の戊辰戦争勃発時には日光の輪王寺におられた事から、旧幕府軍により奥羽越列藩同盟の盟主に擁立され「東の天皇」とまで呼ばれたお方です。明治維新以降その責めを負われて親王の身分を解かれ、しばらく蟄居されるなど不遇の思いをされますが、もともとご本人のご意思とはいえない事情であった事は誰の目にも明らかであった事からすぐに許され、その後は陸軍軍人としての道をひたすら歩まれました。ちなみに彼は、最近お騒がせのあの明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏の祖先にあたるお方で、彼の長男恒久王(つねひさおう)が、明治天皇の第6皇女にあらせられる昌子内親王(まさこ ないしんのう)と結婚して竹田宮家を創設され、現在に至るそうです。

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上は前線で野営されている北白川宮中将殿下とその幕僚たちです。急ごしらえのテントの前で、殿下だけは皇族というかしこき身分である事から革張りのお椅子(多分本土から運ばせたのでしょう。)にお座りになってタバコを一服されていますが、幕僚らは地べたにござか何かを敷いてあぐらをかいて座っています。おそらく掃討作戦の合間の休憩中の一枚なのでしょう。住民によるゲリラ戦に悩まされ、憔悴と疲労に耐えながら戦闘を続けているのが彼らの表情からも分かりますね。

そこで、台湾総督樺山大将は増援軍の派遣を大本営に要請、これを受けて大本営は講和により大陸から順次撤兵中の陸軍師団から第2師団を差し向け、同年8月中旬には台湾制圧軍は近衛、第2の2個師団その他を含めた実戦部隊だけで総勢3万7千、占領地域の警備その他の部隊を含めるとおよそ5万にも達する大部隊になっていました。

新たな兵力を得た日本軍は、一気に台湾全土を手中に収めるべく進撃を再開します。しかし、ここでさらに恐ろしい敵が日本軍を襲います。マラリアと伝染病の蔓延です。5月下旬の戦闘開始以来すでに3ヶ月を越え、季節は夏真っ盛りの8月、ただでさえ年中蒸し暑い高温多湿の台湾で、日本軍将兵は分厚い生地の長袖の黒い軍服姿でろくに防暑をしておらず、喉の渇きに苦しみ、その上高温ですぐに腐ってしまう食べ物も我慢して食べざるを得ず、当然自然発生的に赤痢や脚気が蔓延しました。そして亜熱帯の無数の蚊に刺された兵たちは高熱のマラリアで次々に倒れていきます。

このままモタモタしていては日本軍全部隊が危険です。そのため日本軍は一刻も早く台湾民主国の首都台南を攻略して台湾の抵抗勢力を葬り去るべく、同年10月に三方向から台南総攻撃を開始しました。そしておよそ1週間の市街戦の結果、日本軍は台南に入城、武器弾薬食糧も底を突いて、もはや抵抗は無理と悟った台湾民主国総統劉永福将軍は大陸へ逃亡、ここにアジアで最初の共和国である台湾民主国はわずか5ヶ月余りで崩壊してしまいました。

11月18日、樺山総督は台湾平定を東京の大本営に報告し、およそ半年余り続いた乙未戦争すなわち台湾制圧作戦の組織的な戦闘は終了しました。この戦いにおける双方の損害は、わが日本軍が戦死164名(負傷者は500名余り)と実際の戦闘での戦死者は少なかったのですが、驚くべきは先に述べたマラリアや赤痢などの伝染病の蔓延による病死者で、実に4600名以上に登ります。対する台湾側の死者ははるかに多い1万4千以上に達したそうです。

この伝染病の蔓延による日本軍の損害は、日清戦争における日本軍全体の戦死者の3分の1に当たります。そして、その犠牲者の中には、先にご紹介した近衛師団長の北白川宮能久親王殿下も含まれ、彼は台湾平定を目前にした10月下旬に現地でマラリアにより薨去されています(あと少しの所だったのに、わが日本の高貴な親王殿下がこんな暑い異郷の僻地でさぞご無念であられた事でしょう。涙)

この戦いは先にお話した様に、歴史の上では日清戦争の戦いの一つとしてくくられ、そのために歴史好きな方でも詳しく知る方は意外に少ないのではないかと思います。(かく言う自分も、今回この記事を書くために資料を集めるまでは良く知りませんでした。汗)しかし、日本軍が占領したのは台湾の西部平野地帯のみであり、東部山岳地帯はほとんど占領出来ていませんでした。そのため、樺山総督が平定宣言をした後でも、台湾では残存勢力が山岳地帯にこもって抵抗を続け、日本軍が最終的に全土を制圧したのは10年後の1905年(明治38年)になるそうです。

今日、日本と台湾はおそらく世界で最も仲が良い間柄です。その信頼が築かれたのは、その後にわが国が行った台湾統治政策と、太平洋戦争敗戦までの50年に及ぶ長期支配が大きく影響しているのは確かであり、戦前の台湾人は本土の我々と同じ大日本帝国臣民であったのです。しかし、その最初の出会いは、決して友好的でも平和的でもなく、それどころか全く正反対の血なまぐさい戦いの結果であったのは実に悲しく皮肉な事です。歴史というものの非情さを痛感しつつ今回のお話しを終えたいと思います。

次回に続きます。

日清戦争14 ・ 三国干渉 お金とメンツとロシアの脅威

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)4月、山口県下関市において行われた日本と清国の講和交渉は、清国が日本に多額の賠償金と、領土の一部を割譲するという条件で双方が合意し、締結されました。これにより、開戦から約8ヶ月余り続いた日清戦争は日本の完全な勝利で幕を閉じる事になったのです。

歴史を見れば、一般に戦争の終わり方は大きく三つあります。一つ目は休戦によるもの。これは文字通り交戦状態にある国同士が、諸般の事情から一時的にあるいは長期的に戦闘を休止するが、いざとなればいつでも戦闘を再開するというもので、戦争の勝敗がまだ着いていないものです。(朝鮮戦争などがその例ですね。)二つ目は敵国を降伏させる事によるもの。これは完全に戦争の勝敗がはっきりしているので、最も分かりやすいオーソドックスなものでしょう。(言わずと知れた第2次世界大戦がその例ですね。)そして三つ目は、今回の様に交戦国同士が交渉によりいくつかの約束事を取り決め、双方合意の上で条約を結ぶという形にするものです。(この日清戦争は日本の勝利で幕を閉じていますが、戦争の勝敗が着かなくても講和した例は歴史上数多くあります。)

この日清講和条約でわが国が清国から得た主なものは、前回もお話した様に賠償金として銀貨で2億両(テール)と、台湾、遼東半島その他の清国領土の割譲、朝鮮国の独立の承認、清国が欧米列強諸国と結んでいるものと同様の条約に基づいた通商特権などで、まさに日本は清国から取るものを全て取る事が出来たと言えるでしょう。

しかし、この日本の一方的な大勝利を快く思わない巨大な存在が、戦勝に浮かれるわが国の前に立ち塞がります。それは北方の大国ロマノフ朝ロシア帝国です。ロシアは日清戦争開戦前から極東における日本の勢力拡大を懸念し、同じく極東地域に利権を持つイギリスと協調して日清戦争の早期講和を図って裏で動いていました。


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上が当時のロシア帝国の支配者であった皇帝ニコライ2世です。(1868~1917)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝14代皇帝にして、同時に最後の皇帝でもあり、またロシア革命によって愛する家族とともに非業の最期を遂げた悲劇の皇帝として広く知られていますね。いずれ当ブログでも別のテーマを設けて詳しくお話したいと思います。また下の画像は彼の王家ロマノフ家の紋章である「双頭の鷲」です。この双頭の鷲はそもそも古代ローマ帝国皇帝の紋章であり、ロマノフ家はその正統な後継国家であるビザンツ帝国(東ローマ帝国)の最後の皇帝家であったパレオロガス家から皇妃を迎えた事から、自らをローマ皇帝の正統な後継者であると主張していました。ちなみになぜ鷲の首が二つあるのかというと、それぞれが東(アジア)と西(ヨーロッパ)の大陸を征する者、すなわち世界の支配者である皇帝を表現しているからです。

ロシアは下関での日清講和会議開催期間中に、清国から日本の講和条件の内容を知らされ、特にその中に遼東半島の割譲が入っているのを知るや、ドイツ、フランスを味方に引き入れてその遼東半島を放棄する事を日本に勧告する動きに出て来ました。では、なぜロシアはそれほどまでに日本の遼東半島獲得を嫌がったのでしょうか?


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それはロシアが海の出口を求めていたのがその理由です。上は当時のロシア帝国の領域図ですが、濃い緑の部分が領土、それ以外がロシアが影響を及ぼし、あるいは及ぼそうとしていた地域です。(この地図ではアラスカまで入っていますが、実は現在アメリカ領のアラスカは、1867年までロシア領でした。しかし当時勃発していたオスマン帝国とのクリミア戦争での戦費調達のために、あまり実益の無い最辺境のこの地をアメリカに売却したのです。)これをご覧になればお分かりの様に、ロシアという国は世界最大の閉じ込められた大国なのです。ロシアという国が、冬は凍てつく猛烈に寒い国である事は言うまでもなく、また、そのロシアが冬でも凍らない港すなわち「不凍港」を求めて南下し、周辺国と戦争を繰り返して来た事実は歴史好きの方ならば良くご存知でしょう。

しかし、はるか西のヨーロッパ側には列強がひしめき合い、とてもそれ以上ロシアが進出する事は出来ませんでした。そこでロシアが目を向けたのがはるか東の極東地域です。ヨーロッパ方面と違ってさしたる強力な敵がおらず、貧しく未開の地が多かった極東に、ロシアは新天地と新たな植民地獲得を目論む様になっていきます。その第一目標としてロシアが狙っていたのが日本が獲得しようとしていた遼東半島でした。

ところが、この時これまで協調してきたイギリスが、日本への干渉を拒否して離脱しまいます。なぜならイギリスは日本との対立を招くその案を好まず、それに日本の講和条件が、特にイギリスが清国に対して持っていた利権を阻害するものでもなかった事からです。

このイギリスの「裏切り」に、ロシア政府内部ではこのまま日本へ遼東半島放棄を勧告すべきかジレンマに陥ってしまいました。そこでロシア帝国政府は皇帝臨席の下に特別会議を開いて対応を協議します。会議ではこの案を取りやめるべきだとの少数意見もあったものの、大多数の重臣たちが賛成していました。その中で特に強硬な意見を主張したのが時の大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテ伯爵です。


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上が当時のロシア帝国大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテ伯爵です。(1849~1915)彼はニコライ2世の父である先帝アレクサンドル3世に登用されて頭角を現し、43歳の若さで帝国の財政を預かる大蔵大臣に就任していました。(ちなみに彼の名は英語読みでは「ウィッテ」となります。)後の日露戦争終結を取り決めたポーツマス講和会議でも、ロシア側の主席全権代表としてわが日本を悩ませる事になる手強い相手です。(苦笑)

「陛下。このままではわが帝国がかねてから計画してきた極東支配の夢を絶たれてしまいますぞ。その前に先手を打ち、日本から遼東半島を取り上げてしまうべきです。もし日本がこれを拒むならばマンチューリア(満州)に兵を送り、力ずくでも日本から奪い取る事をご進言いたします。」

ヴィッテ蔵相のこの強硬意見に、列席する重臣や軍人たちもことごとく賛同し、皇帝ニコライ2世はやむなく日本への遼東半島放棄勧告を裁可せざるを得ませんでした。実はこの時、皇帝ニコライは即位してまだ半年であり(彼が先帝アレクサンドル3世の崩御に伴い急遽即位したのは日清戦争最中の1894年(明治27年)11月の事であり、まだ正式な戴冠式も済ませていませんでした。)皇帝になって間もない27歳の若いニコライ2世は、ヴィッテを始めとする父帝の重臣たちに頭が上がらなかったのです。

こうして下関条約締結からわずか1週間後の1895年(明治28年)4月23日、ロシア、ドイツ、フランス三カ国による日本への遼東半島放棄が勧告される事になります。これが世に言う「三国干渉」です。

「日本による遼東半島領有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなるものである。従ってロシア帝国、ドイツ帝国、フランス共和国は、日本帝国に対して遼東半島領有の放棄を勧告する。」

これに対し、伊藤博文首相率いるわが日本政府は主要閣僚を集めて対応を協議します。その結果、勧告は断固拒否し、露仏独三カ国に干渉の撤回を求める事が決められました。しかし、相手は列強三カ国です。とても日本一国では太刀打ち出来ません。そこで日本政府はもう一方の列強であるイギリス、アメリカ、イタリアの三カ国に援助の要請を図り、またドイツをこちらの味方に引き入れ、ロシア陣営を切り崩そうと画策します。しかし、この日本の目論みは残念ながら実を結びませんでした。なぜならイギリスもアメリカも中立を盾に動こうとはせず、イタリアは元より数合わせで頼りにならず、結局ロシアら三カ国の要求を受け入れざるを得ない状況になってしまったからです。

「多勢に無勢」とはまさにこの時のわが国の事でしょう。やむなく5月4日、日本政府は三国の要求を受諾し、清国に遼東半島を返還する事に決しました。しかし、明治日本の政治家たちは今のふがいない(失敬。笑)日本の政治家と違ってはるかに豪胆かつしたたかでした。日本は力の差から、列強三カ国には譲歩しましたが、清国に対しては一歩も譲る理由はありません。そこで日本政府は遼東半島を清国に返還する代償として、その還付金3千万両(テール)を清国政府に要求してこれを認めさせ(清国にしてみれば拒否出来る立場ではありませんでしたが。)先の講和条約で取り決めた内容を修正した条約を新たに清国との間で結んだのです。


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上がこの時返還された(というより「返還させられた」という方が正しいでしょうね。)遼東半島の位置です。これにより日本が清国から得た領土は、台湾とその近くの小さな島々だけになりました。

ともあれ、これで日清戦争は両国政府間の合意の下に正式に終わりを迎える事になりました。さて、この戦争でわが国が清国から得たものは、先に述べた台湾などの領土以外に最も注目すべきものがありました。それは何といっても巨額の賠償金です。では、この時に日本が得た賠償金とは、一体どれくらいの金額だったのでしょうか?

これについては前回の下関講和会議でお話した様に、軍事賠償金2億両(テール)という数字が、歴史好きな方には良く知られていると思います。この両(テール)という単位は前回もお話した様に、円やドルなどの通貨の単位ではなく尺貫法による重さを表す単位であり、1テールは約37.3グラムになり、これに基づいて換算した金額は当時の日本円でおよそ3億1100万円に相当します。これに、上で述べた遼東半島返還の還付金3千万両(テール)日本円でおよそ4600万円が加わり、合計2億3千万両(テール)約3億5700万円になります。

といってもピンと来ない方も多いでしょう(笑)ちなみに日清戦争開戦直前の日本の年間国家予算がおよそ8500万円程度であったそうですから、なんと4倍以上ですね。これを現在のわが国の国家予算の一般会計(およそ96兆円ほど)に合わせて想像すると、およそ400兆円余りという大変な金額になります。(もちろん単純な数字上の比較です。)

この莫大な賠償金を、日本は清国に庫平銀(こへいぎん)と呼ばれる清国で流通していた銀貨で要求しました。なぜなら当時清国には紙のお金すなわち「紙幣」というものはなく、銀貨で決済をしていたからです。これを重さに表すと、なんとおよそ8575トンの銀塊になります。(ちなみに現在の銀の市場価格は1グラムあたり大体60円前後の様です。これで計算すると、この時に日本が受け取った賠償金は現在の価値では514億円余りになりますね。但し、当然の事ながら当時と現在では銀の市場価格も貨幣価値そのものも全く違いますから、単純な比較は困難です。その点を踏まえてご了承ください。笑)しかし、日本は賠償金を清国にその銀貨でそのまま支払えと要求したのではありません。つまり

「貴国で発行している庫平銀2億3千万両(テール)に相当する金額を賠償金として要求する。」

という意味で言ったのです。(清国でしか通用しない銀貨で支払われても、日本はもちろん外国でも換金するのは困難ですからね。)ですから実際には後述する様に別のやり方でお金の受け渡しが行われています。

一方、それを支払う清国の苦労は尋常なものではありませんでした。この講和によって清国が日本に支払う賠償金は2億3千万両(テール)それに対して当時の清国の年間国家予算はおよそ1億両(テール)ほどに過ぎず(当時の日本円でおよそ1億5千万円余り)当然一度にこれを支払う事など出来るはずがありません。そこで清国は、これを先の三国干渉に登場したロシア、フランス、ドイツ、イギリスなどの列強諸国から借金し、8回の分割払いで数年かけてイギリスのポンド金貨で支払う事で日本側と合意します。


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上は当時の大英帝国の支配者ビクトリア女王(1819~1901)の5ポンド金貨です。彼女の在位は63年に及ぶ長期であったため、その期間中に様々な種類の金貨が発行されています。

当時世界の金融の中心地は、世界中に植民地を持つイギリスのロンドンでした。そしてそのイギリスの通貨である「ポンド」こそ、この時代世界中で通用する国際通貨であったからです。そのロンドンには列強諸国の銀行が軒を連ね、清国はこれらと借款契約を結んで資金を調達する事になります。しかし、なんの見返り(つまり担保)もなしにこれだけの莫大なお金を貸すほど列国も甘くはありません。そこで各国はそれぞれ個別に清国にそれに見合う利権を要求します。といっても、この時の清国にはもはや自国の領土を切り売りするしか他に担保として提供出来るものはありませんでした。お金を借りる弱い立場の清国は、もうかつての大国としてのメンツにこだわっている余裕はなく、意地もプライドもかなぐり捨ててヨーロッパ列強諸国に頼るしかなかったのです。


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上はこの時に清国が、借金の型に列強諸国に「無償賃貸」した地域です。列強諸国はそれぞれに欲しい地域を「租借」という形で借り受け、さながら自国の植民地同様好き放題に利権を貪り、それを守るためと称して軍を駐留させ、鉄道を敷設し、砲台や要塞を建設していきました。その代表的なものが、後の日露戦争でロシアが築いた「旅順要塞」や南満州鉄道です。

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そして上が、この列強諸国による中国分割を描いた絵です。中国という「パイ」のどの部分を、いかにして多く自分が切り取るか、睨み合いつつ群がる各国の姿です。(日本とフランス以外はそれぞれ当時の有名人がそのまま描かれていますね。左からイギリスのビクトリア女王、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世です。)

学生時代の歴史の授業などでは、「眠れる獅子」と呼ばれて恐れられていた清国が、日本という極東の島国との戦争で敗れ、その混乱と弱みに付け込んだヨーロッパ列強諸国によって半植民地化されたかの様に説明されていますが(結果的にはそうですが。)その背景には、こうしたお金にまつわる深い事情があったのです。

次回に続きます。


日清戦争13 ・ 下関条約 テーブルの上の戦争

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)2月、日本軍は大清帝国北洋艦隊の本拠地、威海衛の攻略に成功しました。この戦いで日本軍は、軍港内に立て篭もる北洋艦隊を全滅させ、要塞とともにこれを陥落させたのです。この勝利によって、日本は名実ともに黄海から東シナ海に至る清国沿岸の制海権を完全に手中に収め、陸上ではすでに清軍を追い出して支配下に置いている朝鮮半島と、さらには清国領土である遼東半島を攻め取り、残る目標は満州において、清の主力軍に一大決戦を挑んでこれを撃破し、その勢いをもって清の都北京にまで進撃し、清朝政府に講和を迫る事でした。

そのために日本軍は、当時の日本が持っていた陸軍常備兵力7個師団のうち、すでに大陸に派遣している遠征軍5個師団に、日本本国に残る2個師団(第4師団と近衛師団)を加えて増強、さらにそれだけでは足りないので、新たに1個師団を臨時編成し(その主力となるのは北海道の開拓で有名な「屯田兵」です。これが後の旭川第7師団となります。ただしこの師団はこの日清戦争時点ではあくまで臨時編成でした。)その他にこれまでに占領した地域の確保のために、予備役を主力とする40個大隊(およそ2万5千)をかき集め(これらは占領した各地にバラバラに分散配置されるため、「師団」などの単位ではありません。)総勢20万に達する大軍を動員する計画でした。

つまり、これにより日本はその陸軍兵力の全てを遠征させるわけで、日本本国には陸軍が全くいなくなってしまう事になります。しかし、実際には海軍にも陸上戦闘を任務とする「陸戦隊」があり、日本列島の沿岸各所に建設されていた要塞や砲台に数多くの海軍陸戦隊が配置されていたので、これを本土防衛軍とする事で当座はしのぐ予定でした。

一方、清国はこの時どうしていたのでしょうか? 実はこの時点において、清朝政府では日本と早期講和を策する和平派が大勢を占めつつありました。無理もありません。陸上では朝鮮半島と遼東半島を日本に奪われ、さらに海上ではその海軍の主力である北洋艦隊を全滅させられ、もはや清国には迫り来る日本軍から首都北京を守る最後の手段として、戦えば逃げてばかりで当てにならない寄せ集めの私兵集団に過ぎない清軍に首都の防衛を委ね、その挙げ句にまたも敗れて首都を日本軍に蹂躙されるよりも、日本への領土の割譲と賠償金の支払いを含めた講和に応じる選択肢しかなかったのです。


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上は大清帝国歴代皇帝の居城であり、清王朝宮廷の中心であった紫禁城です。(「しきんじょう」 その名の由来は古代中国の天文学で、天空における中心の星である北極星を天帝の住む紫微星「しびせい」と称し、地上においてその天帝の化身である皇帝の住む宮殿「紫宮」と、庶民の自由出入りを禁じられた城「禁城」を合わせた造語だそうです。)

これは元々は元王朝の初代皇帝クビライ・ハン(1215~1294)がここを都と定めて宮殿を築いたものを、元滅亡後に中国を再統一した明王朝、さらにそれを征服した清王朝が受け継いでいったもので、当然世界遺産に登録されています。中国関連のニュース(といってもその大半が、わが国にとって常に不愉快かつろくなものではありませんが。呆)で必ず出て来るのでみなさんも良く目にされた事があると思います。正面の正門に掲げられたあの忌まわしい毛沢東の肖像と「中華人民共和国万歳云々」と書かれた悪趣味な看板が早く撤去される日が来ればいいですね。

これまでお話してきた様に、当時の清国の政治、外交、軍事の実務レベルの最高責任者は北洋大臣 李鴻章(り こうしょう)という人でした。


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上がその李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴に付いてはこれまで何度かお話してきたのでここでは省略させていただきますが、清王朝と西洋化のために人生を捧げた敵ながら立派な政治家であると思います。しかし清国の西洋化を推し進めた彼自身は、一度も洋服に袖を通した事は無く、上の写真の様にかたくなに中国伝統の服装を貫き通しました。古い時代と新しい時代の過渡期にあって、こうした保守的な所が彼の限界であったのでしょうか?

彼は中国で最も経済的に豊かな南部一帯を治める総督として、そこから上がる莫大な収入を財源に、清朝で最大の北洋陸海軍閥を作り上げ、その総帥として日本との戦いを取り仕切った事実上の責任者であり、今次戦争は日清戦争といいながら、わが国が実際に戦ったのは清国というより、ほとんど彼とその私兵集団である北洋軍でした。

しかし、その北洋軍も、兵力こそ30万に達する大軍でしたが、それは先に述べた様に李鴻章に金で雇われた「傭兵」に近いもので、国家国民のために命を懸けて戦う国軍とはとても呼べないものでした。そのため彼らは日本軍との戦闘で状況が不利になるとすぐに退却してしまい、一度も勝つ事が出来ずに敗退を繰り返していました。

こうした清軍の軍隊としての根本的かつ構造的な欠陥により、清国は陸上海上両面で日本軍に敗れ続け、その批判は当然李鴻章大臣に集まります。そして威海衛の戦いで東洋最大最強を誇った北洋艦隊が全滅すると、清朝11代皇帝光緒帝(こうしょてい)は激怒し、ついに李鴻章を北洋大臣から解任してしまいます。

実は光緒帝は、威海衛の戦いより2ヶ月前の旅順陥落直後から、すでに李鴻章以外の別の廷臣を選んで日本との講和交渉に当たる様指示していました。しかし、来日した彼らは伊藤首相ら日本政府から相手にされず、ほとんど門前払いされてしまいます。その理由はネームバリューと全権委任の問題です。つまり日本政府としては、清国の事実上の「首相」にして、その政治、外交、軍事の権限と圧倒的な知名度のある李鴻章と交渉したいのであり、彼でなければ他の無名の清の役人では信用出来なかったのです。

帰国した彼らから報告を受けた光緒帝と側近たちは進退窮まってしまい、結局一旦解任した李鴻章を天津から呼び戻し、御前会議を開いて今後の方針を議論する事になりました。議題はもちろん日本との戦争についてです。主戦派は北京から遷都してでも徹底抗戦すべきと主張し、和平派は今のうちに講和して態勢を立て直すべきと訴え、議論は紛糾しますが、会議の流れを決めたのは李鴻章でした。

「陛下。この期に及んでは領土の割譲も致し方ございませぬ。何とぞ臣にその大役をお申し付け下さいます事をご進言申し上げます。」

皇帝もそれには賛成でした。なんといっても今の清軍では戦っても勝てる見込みが無いのです。しかし、光緒帝は一旦李鴻章を北洋大臣から解任しており、これを取り下げて李鴻章を復職させては皇帝のメンツが立ちません。そこで皇帝の意を察した李鴻章は自分を新たに「欽差大臣」(きんさだいじん これは清王朝の一種の特命大臣で、ただ一つの特定の事案に限って全権を持つ官職です。)にするよう上奏し、こうして彼は皇帝から全権を委任され、100名以上の大使節団を率いて1895年(明治28年)3月20日、山口県下関に入港、日本側全権の伊藤博文首相らと旅館「春帆楼」(しゅんぱんろう)で講和交渉が開始されました。


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上が日清講和交渉の舞台となった旅館「春帆楼」です。この旅館は伊藤博文が命名して開業されたもので、日本で最初のふぐ料理第一号店でもあるそうです。旅館内には日清講和条約の際に使われた部屋とテーブル、椅子や調度品などが大切に保存展示され、現在も見学出来ます。

さて、ここから伊藤博文と李鴻章の高度な政治的駆け引きが始まります。それはまさに武器を用いない「テーブルの上の戦争」でした。李鴻章大臣はまず、講和交渉の前に「休戦条約」を結ぶ事を日本側に提起します。彼はこう切り出しました。

「これ以上の戦闘は両国の人民に無益な犠牲を強いるだけです。われわれがここで講和の儀を決するまで、一時休戦する事に致しませんか?」

これはもちろん彼の本心から発せられたものですが、その裏にはこれ以上の日本軍の進撃を阻止する事と、休戦の間に欧米列強諸国に手を回して日本に揺さぶりをかけるための時間稼ぎをするという狙いがありました。

しかし、わが伊藤首相もしたたかさでは決して引けを取りません。彼は李大臣の狙いを見抜いていました。そこで彼は李大臣にこう告げます。

「貴方のおっしゃる事はごもっともです。しかし、もしわが軍が休戦しても、貴国の軍がそれを破らないという保証はどこにありますか? もしどうしても休戦したいとおっしゃられるならば、貴国の軍がわが軍に対して戦端を開かない事の証として、天津を占領させて頂くが、いかがか?」

これには李鴻章も驚きました。なぜなら天津は清国最大の港湾都市であり、そして何より彼の本拠地であったからです。その様な事を認められようはずがありません。すぐに彼は、これが日本側の事実上の「休戦拒否」であると察し、これを取り下げざるを得ませんでした。

しかし、ここで思わぬハプニングが起こります。交渉開始から4日後の3月24日、なんと李鴻章大臣が、講和に反対する日本の若い警官に拳銃で狙撃され、危うく暗殺されそうになったのです。弾丸は彼の左目下に命中しましたが、驚くべき事に彼は一命をとりとめ、講和交渉は一時中断を余儀なくされます。(頭なら当然即死だったでしょう。それにしても、顔面に銃弾を受けて良く死なないものだと思われるでしょうが、実際顔に銃弾を受けても意外に死ななかった例は、戦場で戦う兵士にも歴史上多く見られる様です。その代わり顔面に大きな傷として残りますけどね。ちなみに亡くなる直前の李鴻章の写真にも、左目の下にこの時の傷が残っているのが見受けられます。)

ところで、これに焦ったのが明治天皇と伊藤博文ら日本政府です。この暗殺未遂事件が完全に日本側に非がある事は子供にも分かる事です。もしこれが大々的に報じられれば、以前お話した「旅順虐殺事件」の時の様に、欧米列強諸国の日本への批判が再び再燃してしまうでしょう。特に明治天皇は李鴻章の負傷を大変お気遣いあそばされ、当時の日本で最高の外科医であった佐藤進(さとう すすむ)陸軍軍医総監を李大臣の治療に差し向けられ、その甲斐あって李鴻章大臣は2週間後には再び講和交渉の場に復帰する事が出来ました。

この事件は当時の日本国民の間でも「とても申し訳ない。」として、全国から李大臣に当ててお見舞いの品や手紙が数多く寄せられますが、これが思わぬ形で李鴻章に有利に働きます。なぜなら、こうした国内世論と諸外国との対外関係に配慮し、伊藤首相は先に李鴻章が提案した「休戦条約」を認めざるを得なくなってしまったからです。休戦は3週間の期限付きで結ばれ、ここに日清両軍の戦闘状態は事実上終結しますが、伊藤首相はそれまで自分のペースで進んでいた交渉が、全く思いがけない形で譲歩するはめになってしまい、さぞ慌てた事でしょうね。(笑)

さて、日本と清国のテーブルの上の戦争は続きます。4月10日から再び開始された講和交渉において、伊藤首相は李鴻章に厳しい講和条件を突きつけました。特に賠償金の額が莫大で、なんと日本側は軍事賠償金として庫平銀3億両(これは両「りょう」または「テール」と読みます。)を要求したのです。

これには李鴻章も「あまりにも多すぎる。」として、伊藤首相に賠償金の減額と、領土割譲の縮小を求める修正案を提示、それに対して伊藤首相は賠償金を3億両から2億両に減額する事と、領土割譲の縮小には応じたものの、基本的な内容は一歩も譲りませんでした。


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上が日清講和交渉の様子です。伊藤首相と陸奥宗光外相が李鴻章ら清国代表と話し合う姿を描いたものです。

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そして上が賠償金として要求された庫平銀(こへいぎん)です。これは「庫平」と呼ばれる天秤で重さを量った事から名付けられた清朝時代の銀貨です。ちなみに先に述べた両(テール)とは、私たちが一般に使う「円」や「ドル」の様な通貨の単位ではなく、尺貫法による重さの単位であり、この時代の1テールはおよそ37グラムほどであった様です。

李鴻章は北京の清朝政府と電信で連絡を取りながら、イギリス、ロシア、フランスなどの列国に調停を依頼して交渉の引き延ばしを図ろうとします。しかし、そうはさせるものかと伊藤首相は交渉を一気に決着させるべく、最後の切り札を切りました。

「本件については1週間以内に回答されよ。 もし、交渉決裂の際はわが軍は休戦を破棄して再び戦闘を開始し、北京に進攻する。」

そしてそれが単なる言葉だけのものではない事を清国側に見せつけるために、冒頭でお話した第4師団と近衛師団などの増援軍を乗せた輸送船団に下関海峡を通過させたのです。これはもはや完全な「脅し」でした。しかし、彼にはそこまでしなくてはならない差し迫った事情がありました。なぜなら日清開戦からすでに8ヶ月余りが経過し、膨らむ臨時軍事費が当時の日本の国家財政を圧迫していたからです。

そう、清国が苦しいのと同様に日本もこれ以上戦争を続けるのは辛いのです。そのため、伊藤首相はなんとしても戦争に投じた莫大な国費を回収するのは当然として、それを上回る大きな利益を出さなくてはなりませんでした。そうでなければ戦争をした意味が無いのです。

一方、大陸へ渡る援軍を乗せた日本の輸送船団を海峡で目撃した李鴻章ら清国代表団は、北京の清朝政府に電信で危機を報告します。それを受け、かつてイギリスとのアヘン戦争での惨敗の記憶から震え上がった清朝政府は、ここに至ってついに講和条件を受け入れ、交渉を直ちに締結するよう指示、そして1895年(明治28年)4月17日、両国の間で合意が成立し、ようやく日清講和条約が締結される事になりました。この時締結された条約の主な内容は以下の様なものです。

1 清国は朝鮮国の独立を承認する事。

2 清国は日本に対して遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する事。

3 軍事賠償金として庫平銀2億両(当時の日本円でおよそ3億1100万円)を支払う事。

4 清国が欧米各国と結んでいる条約を日本とも締結し、日本に対して欧米各国と同様の通商特権を与える事。

5 条約批准後3ヶ月以内に日本軍は占領地から撤退するが、清国が誠実に条約を履行するまで威海衛を占領する事。

などです。

こうして日清戦争は終結したのです。それは当時世界中が誰も予想もしなかった日本の圧勝でした。 しかし、この日本の勝利を快く思わない巨大な存在がその後の日本に大きく立ちふさがり、事態は日本の予想外の方向に向かって動いていく事になります。

次回に続きます。

日清戦争12 ・ 威海衛の戦いと北洋艦隊の壊滅

みなさんこんにちは。

遅ればせながら、平成28年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

1894年(明治27年)11月末、日本軍は遼東半島の最重要拠点である旅順の攻略に成功。遼東半島を完全に支配下に置きました。日清戦争開戦以来、これまでの戦闘は朝鮮半島地域において行われていましたが、この遼東半島は完全な清国領であり、日本軍はついにその清の領土の一部に攻め入り、これをもぎ取る事に成功したのです。

これまでにお話した様に、この遼東半島は日本軍がさらに清領奥深く侵攻するために欠かす事の出来ない足がかりであり、旅順、大連などの港は、そのために必要な武器、弾薬、食糧その他を日本本土から大陸へ輸送する船団を入港させる大事な兵站の基地でもあるのです。

これを受けて、日本政府と大本営は次なる作戦、つまりそのまま清の首都北京の近くまで進撃し、これを迎え撃つべく必ず出て来るであろう清主力軍との一大決戦の準備を始めようとしますが、なかなか思うようにいかないのがこの世の常というものです。というのは、遼東半島と旅順などを占領した時点で季節はもはや12月、大陸の冬の寒さ(大陸の真冬の猛烈な寒さは日本の比ではありません。)が大本営首脳にそれ以上の進撃を思いとどまらせたのです。そこで大本営は、清軍との決戦を翌年の春以降に先送りし、それまで現地軍にはそのまま占領地域を確保しつつ冬を越し、現状待機する事を命じざるを得ませんでした。

もともと開戦当初、大本営は短期決戦を想定していました。しかし、日本海軍が黄海海戦によって清国北洋艦隊を撃破し、制海権を確保出来たのが9月中旬、日本陸軍が清国と朝鮮国の国境を流れる鴨緑江を越え、同時に遼東半島攻略作戦を開始したのが10月末であり、すでに大陸では早くも初冬の寒気が漂っていました。

この時、日本軍は大きく2つの集団に分かれ、清国本土に向けて進撃中でした。一つは朝鮮半島から清軍を撃破しつつ攻め上ってきた山縣有朋大将率いる第1軍(第3、第5師団その他)そしてもう一つは遼東半島中部から上陸し、旅順、大連などの重要軍港を押さえた大山巌大将麾下の第2軍(第1、第2、第6の3個師団)です。(当時、日本の陸軍常備師団は7個師団しかありませんでした。それは第1から第6までの6個師団と、天皇直属の精鋭部隊である近衛師団です。そのため、日本本国に残っていた常備軍のうち、使えるのは取って置きの予備戦力である近衛師団の他は、第4師団のみでした。)

そのうち、第2軍を率いる大山大将は、大本営の指示に従い冬営の準備を始めていましたが、もう一方の第1軍を率いる山縣大将は、来春の清軍との決戦を有利に運ぶため、本格的な冬に入る前にいくつかの戦略拠点を攻略占領する積極攻勢を大本営に打診しました。しかし、大本営は山縣将軍のプランをすべて却下してしまいます。なぜなら大本営としては、来るべき清軍との決戦に備えてその主力となる第1軍に戦力を温存してもらいたかったからです。


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上が第1軍司令官の山縣有朋大将です。(1838~1922)彼の経歴に付いては以前にもお話したので、今回は省かせていただきますが、今次戦争において彼は思わぬ失策を犯す事になってしまいます。

やむなく、山縣将軍は一度はプランを取り下げますが、彼はどうしても諦めきれず、その後も続けて大本営に積極攻勢を打診し続けます。

「このまま何もせず現地で冬を越せだと? こちらの苦労も知らずに簡単に言いおって。それでは敵に反撃の猶予を与えてしまうではないか。実戦を知らんにもほどがあるわ。」

というわけです。彼がそこまで固執したのは、当時清軍がこの方面に続々と援軍を送り、その兵力が第1軍を上回る5万にまで膨れ上がっていたからです。それに、彼には南の第2軍を率いる大山将軍との競争心もありました。2個師団しかない第1軍(およそ4万)よりも、3個師団で兵力が多い薩摩出身の大山将軍率いる第2軍(およそ5万8千)は、前回お話した旅順での不祥事を除き、当初の予定通り順調に遼東半島を制圧していました。このままでは大山に「いいとこ取り」をされてしまうのではないかという焦りが、長州出身の山縣の心の中に沸き起こったのも不思議ではないでしょう。

大本営としても、再三の山縣将軍の打診を無視出来なくなっていました。何と言っても彼は陸軍のトップであり、また政府においても、伊藤博文首相以下多くが彼と同じ長州閥であったからです。そこで大本営は山縣の作戦を事実上黙認してしまうのです。

一方の山縣将軍は、第2軍が11月下旬に遼東半島の旅順を占領したとの知らせを受けると、大本営の了解も得ないうちにほとんど独断で麾下の第1軍を前進させます。目指すは清軍の拠点「海城」(かいじょう)です。


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上が日本軍の進撃経路図です。

しかし、この作戦は明らかに不必要なものでした。日本軍は海城の攻略に成功したものの、すぐに大陸の猛烈な寒波が到来、ろくに防寒装備をしていなかった日本軍は1千名以上の凍傷者を出し、さらに第2軍と違って補給の面で大きなハンディキャップのある第1軍は、占領した海城とその周辺の維持のために身動きが取れなくなってしまったのです。これは完全な山縣の作戦ミスでした。非難は当然強引に事を進めた山縣将軍に集まります。

「前線の司令官が大本営の命に背き、独断で陛下の軍を進めた。これは暴走である。」

大本営は12月に山縣大将の更迭を決定。彼は第1軍司令官を解任されてしまいます。(後任には、平壌の戦いの覇者である第5師団長の野津中将が引き継ぎますが、彼も結局山縣と同じ様に積極攻勢を行い、合計1万2千もの凍傷者を出てしまい、戦闘力を大きく低下させてしまう愚を犯してしまいます。)

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上が「凍傷」にかかった人の指です。この凍傷というのは、皮膚が極度の低温に長時間さらされる事によって生ずる傷害で、心臓から最も遠い手足から生じ、軽度の場合は赤く腫れ上がる程度ですが、何もせずにいると上の写真の様に徐々に黒ずみ、さらに重症になると皮膚の細胞が腐って指や手足を切断するほどになってしまう怖いものです。(これでは兵は銃を撃てませんし、補給を担う荷物運びの軍夫たちも、物を背負って歩く事すら出来ませんね。)

それにしても、なぜ山縣はこの様なミスを犯してしまったのでしょうか? 本来彼は冷静沈着で、綿密な計画の下に事を進めていく官僚タイプの人物です。どうやらこれは彼の体調不良が大きく影響している様です。実はこの時、彼は気管支炎と胃腸炎に悩まされ、本来なら安静にしていなければならない病身にも拘らず作戦指導を行っていたのです。また彼が南国育ちの長州出身である事も災いとなりました。何度も述べた様に、大陸の猛烈な寒さは日本の比ではありません。その厳しい冬の現実を良く知らなかった上に体調の悪い山縣将軍は判断力が鈍り、普段の冷静で的確な状況分析が出来なかった様です。

ともあれ山縣大将は失意の内に帰国しますが、そんな彼を日本では二人の人物が大いに心配していました。一人は明治天皇。そしてもう一人は伊藤博文首相です。前者の明治天皇は、維新以来元老として支え続けてくれた山縣の体調をご本心からお気遣いあそばされ、勅使を遣わしてねぎらいの勅語をお与えになりますが、もう一人の伊藤首相は別の心配をしていました。

それは、このまま彼の病状が悪化して陸軍を辞める事になれば、陸軍が薩摩閥の大山らに乗っ取られてしまうのではないかという懸念です。そこで彼は山縣に「陸軍大臣」のポストを用意し、これまで通り陸軍のトップとして彼にいてもらう事を望んだのです。(もちろん彼も同郷の盟友である山縣を高く評価し、彼の病状を案じていましたが、それと並行して政治家としてのこうした「政略」も必要だったのです。それにしても、解任更迭された軍人が大臣になるなど本来ならあり得ませんね。驚)


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上は言わずと知れた大日本帝国初代首相 伊藤博文公(1841~1909)です。(彼のこの肖像を見て、昭和世代の方なら旧千円札を思い出す方も多いのではないでしょうか。これは自分の勝手な主観ですが、自分は今の千円札よりも、かつての伊藤博文の千円札の方がデザインや色合いが良かったと思います。懐かしいですね。笑)

一方その伊藤首相は、すでに戦争終結後の事を考えていました。なぜなら9月の末に、イギリスから外交ルートを通じ、朝鮮国の独立と、清国が日本に賠償金を支払う事を条件とする日本に有利な形での講和の仲裁をする旨の申し入れがあり、さらに2ヵ月後の11月に、今度はアメリカからも同様の申し出があったからです。(この時、英米両国がこの様な動きに出たのは、もちろん日本に対する親愛の情などからではありません。両国はすでに清国に大きな権益を持っていました。このまま戦争が長引けば、それらに損害が及ぶ事を恐れたのです。)

しかし、外交も戦争も当然の事ながら「相手」のある事です。この場合の相手である清国政府からは、今だ講和の申し入れは来ていませんでした。そのため日本政府は英米両国に対し、清国の方からその申し入れがあるまで(つまり、言葉を代えて言えば「向こうが耐えかねて音を上げてくるまで」という方が正しいかも知れません。)あくまでも戦争を続行すると返答します。

そのための手段として、伊藤首相は大胆な事を目論んでいました。それは今だ威海衛に籠って抵抗を続ける清国北洋艦隊を壊滅させるため、その威海衛を攻略し、これにより清国の海軍力が粉砕された事をもって、さらに南の台湾にも軍を差し向け、これを占領してしまおうというものです。彼がこんな考えを持つに至ったのは、これまでの戦局の展開だけではいくら英米の仲裁があったとしても、清国との講和において日本が欲しいもの(今後清国は朝鮮に一切手は出さない。そして日本に多額の賠償金を支払わせ、新たな領土か権益を獲得する。など)を引き出す事は難しいと考えたからです。(つまり、講和の交渉で日本側が強気に出るには、もっと清国に対して圧倒的な勝利を得る必要があるという事です。)

そこで伊藤首相は、大本営に対して「威海衛と台湾攻略」の意見書を提出します。一方軍においても、彼と同じ事を考えていた人物がいました。それは遼東半島攻略に当たった第2軍司令官大山巌大将です。大山将軍は黄海海戦で北洋艦隊に勝利した連合艦隊司令長官伊東祐亨(いとう すけゆき)中将と協議し、大本営に威海衛攻略とその必要性を提起します。そして政府と軍のトップの一致に、大本営は12月中旬、ついに威海衛攻略作戦を決意する事になるのです。

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上が第2軍司令官大山巌大将です。(1842~1916)

こうして1895年(明治28年)1月20日、日本軍は威海衛攻略作戦を開始しました。兵力は大山大将率いる第2、第6の2個師団およそ4万余りで、これを輸送船団に分乗させ、連合艦隊の護衛のもとに威海衛に上陸作戦を開始します。


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上の画像1枚目と2枚目が当時の威海衛の姿です。多くの清国艦船が停泊していますね。ここは先に述べた様に、清国北洋艦隊の本拠地であり、黄海海戦で敗れた丁汝昌(てい じょしょう)提督率いる残存艦隊14隻が、強力な要塞に守られつつ立て篭もっていました。そして3枚目は現在の姿です。現在この街は「山東省威海市」と呼ばれ、人口250万を擁する中国では中級(日本なら、人口100万を超える都市は政令指定都市に指定される大都市ですが、人口がわが国の10倍以上の中国ではこの程度の人口の都市で中級なのです。)都市です。現在も中国海軍の重要な基地であり、また高層ビルが立ち並ぶ近代都市となっています。

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そして上が威海衛の位置と、日本軍の攻略進路です。

この威海衛の街は旅順同様に、莫大な費用と10年以上の歳月をかけて、海岸沿いに大小合わせて160門以上の大砲が設置された巨大な要塞都市に変貌しており、さらに清軍は、鎖と丸太を編んだ防柵を湾の端から端まで繋ぎ(上の図参照)日本艦隊の侵入を塞いでいました。丁汝昌提督率いる北洋艦隊の残存艦艇は、この湾の奥にじっとひそんでいたのです。

しかし、この威海衛には大きな弱点がありました。それは旅順と違って防御の重点が海岸沿いのみに集中しており、背面の陸側はほとんど無防備であったからです。そこで日本軍は清軍の裏をかき、陸上から攻撃して威海衛の要塞を占領し、防柵によって湾内に閉じ込められている北洋艦隊を挟み撃ちにする作戦を立てます。

1月20日、2個師団からなる日本軍はそれぞれ二手に分かれて上陸、進撃を開始します。海側から艦隊で攻め寄せてくるだろうと思い込んでいた清軍は完全に虚を衝かれ、清兵に動揺が広がりますが、元は陸軍出身であった歴戦の清軍司令官 丁汝昌提督はあくまで冷静でした。そして彼は思わぬ反撃で日本軍を迎え撃ちます。彼は自らが率いる北洋艦隊の強力な主砲にものを言わせ、湾内から陸上の日本軍を砲撃したのです。

大砲というものは陸軍の持つ野砲や山砲よりも、軍艦の主砲の方がはるかに有効射程距離が長く、正確な射撃が出来ます。そのうえ大口径の巨大な砲弾で、その破壊力はすさまじいものです。この清艦隊の艦砲射撃に、日本軍は200名以上の死傷者を出し、戦闘はたった一日で勝敗が決した旅順と違って2週間近く続きましたが、日本軍はじりじりと一つづつ清軍の陸上砲台を攻め取り、ついに2月2日、湾内に浮かぶ劉公島の砲台を除く全ての要塞の奪取に成功しました。

しかし、それでも丁汝昌提督は降伏しませんでした。彼は手持ちの砲弾が尽きるまで果敢に陸上の日本軍に砲撃を浴びせ続け、日本軍を大いに悩ませます。これに対し、陸軍では対応出来ないと考えた大山大将は「艦隊には艦隊で」という事で、連合艦隊の伊東長官に援護を要請。伊東長官はこれを受け、翌日海上から砲撃を開始します。防柵によって湾内を出られない清艦隊は狭い湾内で身動きが取れず、雨あられと降り注ぐ日本艦隊の砲弾の水柱に、一隻また一隻と直撃弾を浴び、次々に沈められていきます。

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上が連合艦隊司令長官 伊東祐亨中将です。(1843~1914)

伊東長官はさらに決定的な打撃を与えるため、魚雷攻撃を仕掛ける水雷艇部隊を湾内に突入させます。わが水雷艇部隊は長く威海衛湾を塞いできた防柵を打ち破り、湾内で得意の雷撃を清艦隊に仕掛けて縦横無尽に暴れ周り、丁汝昌提督の旗艦「定遠」を撃沈、その他の艦艇もほとんど撃沈され、東洋最大を誇った北洋艦隊は壊滅しました。

艦隊の壊滅は、今だ抗戦を続けていた清軍をいっきに総崩れにさせてしまいます。これを見た丁汝昌提督は、もはやこれまでと上官である北洋大臣 李鴻章に次の様に打電しました。

「お預かりした艦艇の全てを失い、多くの兵を死なせ、それでも戦い続ける事を命じましたが、配下の者たちは狼狽して戦意を完全に喪失してしまい、もう自分にはどうする事も出来ません。」


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上が北洋艦隊司令長官 丁汝昌提督です。(1836~1895)

日本軍は敵将丁汝昌提督に対し、無駄な抵抗をやめて速やかに降伏する様勧告します。この時、日本軍は彼が艦隊司令である事から、陸軍の大山大将ではなく、同じ艦隊司令として黄海海戦で彼を敗った伊東長官を通じて降伏勧告を発します。同じ海の男としてそれを察した丁汝昌提督は、配下の将兵の助命を条件についに降伏に応じ、2月12日、威海衛の戦いはここに終わりを告げました。

しかし、ここで日本軍が思いもよらないハプニングが起きてしまいます。なんと敵の総司令官 丁汝昌提督が敗北の全責任を負って服毒自殺してしまったのです。彼だけではありません。彼ともに最後まで付き従って戦った旗艦定遠の艦長と、陸上部隊の指揮官までも後を追って自殺してしまいます。これには、日本軍も驚きを隠せませんでした。なぜなら、これまでの戦闘で、清の軍人たちは常に逃げてばかりで、日本軍はすっかり清軍を嘲る様になっていたのです。しかし、彼らの最後はまさに「武士道の鑑」であり、これを知った伊東長官は、

「敵ながら最後まで戦い抜き、見事な本懐を遂げられた。」

として彼らの遺体を丁重に扱うよう命じ、湾内に残る使える船は全て鹵獲したものの、その中の一隻の貨物船を鹵獲から解き、降伏した清兵らとともに清本国に送り返したそうです。


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上は降伏に伴い武装解除され、捕虜として連行される清軍将兵たちです。周囲を日本軍が警備していますが、両者の間には戦いが終わって緊張が解けた解放感が感じられます。彼ら清兵たちおよそ1千名は、伊東長官の図らいで全員解放されました。(まさに武士の情けですね。この戦いによる両者の損害は、日本軍の死傷者およそ260名に対し、清軍は多くの将兵が軍艦内にいたために日本艦隊の砲撃で艦とともに沈み、なんと4千名に達したそうです。)

一方、威海衛の戦いの敗北と北洋艦隊壊滅の知らせは、清の都北京にも早々に届いていました。これを知った皇帝光緒帝は激怒し、丁汝昌提督の財産没収と葬儀の禁止を言い渡し、彼の上官である李鴻章を北洋大臣の職から解任してしまいます。光緒帝には、そんな事をするくらいしか怒りのやり場がなかったのです。そして、普段は温厚な皇帝のそんな姿を見た清朝宮廷の人々の間には、悲壮感と清王朝の将来への深い絶望感が広がる事になって行きます。

次回に続きます

日清戦争11 ・ 真相はいかに? 旅順虐殺事件(後編)

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)11月20日、大山巌大将率いる日本軍およそ2万5千は、遼東半島の最重要拠点「旅順」攻略作戦を開始、たった一日でこれを占領しました。ここは清国北洋艦隊の根拠地であったため、清軍によって前面の軍港を中心とする海側と、旅順市街を挟んで背面の山側の大きく2つに分けて要塞化されていましたが、防御の重点は海側に集中(重砲58門、軽砲8門、機関砲5門など)しており、背面の山側の防備(重砲18門、軽砲48門、機関砲19門など)は手薄でした。そのため清軍は、陸側から攻め入った日本軍によってわずか数時間で防衛線を突破されてしまったのです。

また、ここを守備していた清軍およそ1万3千は、前回お話した様にその兵の大半がいわゆる「新兵」であったために戦意に乏しく、さらに指揮官たちも、徹底抗戦する「猛者」もいれば、状況不利と見るや配下の部隊を置き去りに素早く逃亡する「お調子者」もいるなど、指揮系統が大きく混乱しており、それが清軍の戦意喪失に更なる拍車をかける事になってしまいました。


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上は旅順攻略前に、清軍の砲台陣地を砲撃するわが日本軍砲兵部隊です。清軍があっさり日本軍に防衛線を突破されてしまったのは、先に述べた様にこの頃の旅順要塞が、後の日露戦争の際にロシア軍によってコンクリートで大増強される前の仮の築城であり、大量の機関銃を持ち込んだロシア軍と違い、わずか19門しか機関銃を備えていなかったからです。そのため清軍守備隊は、日本軍の銃剣による一斉強襲突撃に対処出来ずに総崩れとなりました。

さて、いとも容易く旅順攻略に成功した日本軍でしたが、敵清軍は砲台陣地を放棄し、山を降りて旅順市内に退却していました。そのため日本軍は、旅順の完全占領を目指して市内に潜伏する清軍残存兵の掃討作戦に入ります。そしてここで、わが日本軍は後々まで語り継がれ、日本の対外的イメージを大きく損なう事件を引き起こしてしまいます。それが「旅順虐殺事件」と呼ばれるものです。

事の起こりは、前回もお話した様に日本軍が旅順攻略作戦前に遼東半島を進撃中であった時期にすでに始まっていました。わが日本軍は清軍を徐々に追い詰めていったのですが、その戦闘中に戦死、負傷し、そのまま前線に残されたわが日本軍将兵の遺体が、首や手足を切断され、中には耳や鼻を削ぎ落とされた無残な状態で味方に発見されたのです。それは一ヶ所ではなく数か所で見つかり、それを知った日本軍将兵たちの心の中に、敵清軍に対する激しい憎悪と報復心が沸き起こります。

それにしても、なぜ清軍はこの様な野蛮な行為を行ったのでしょうか? その理由は敵日本軍への挑発と警告(「これ以上進めばお前たちもこうしてやるぞ。」という様なものです。)それももちろんあったでしょうが、第1の理由は「報奨金」をもらうための証拠付けでした。もともと清国には、敵兵を多く倒して手柄を立てた事の証として、その証拠となる敵兵の首や手足を切断して持ち帰り、褒美に銀などを貰う慣習があり、それはこの時代になっても根強く残っていました。

これまで当ブログでお話してきた様に、清王朝は度重なる内乱と西洋列強諸国との戦争による財政難で、正式な近代的国軍というものを創設する事が出来ませんでした。そのため各地方の有力者に高位官職や地方の利権と引き換えに金を出させて「私設軍隊」を作らせ、それを北京の清朝政府が認可するという独特の間接的なやり方で軍を組織していった訳です。


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上は当時の清軍の兵士たちです。

それらの中で最大であったのが、当時の清王朝最大の実力者であった北洋大臣 李鴻章(り こうしょう)の率いる北洋軍であり、日清戦争において日本軍と戦ったのはこの北洋軍でした。つまり清軍は清軍といいながら、その中身は清の国軍ではなく、李鴻章に金で雇われた私兵集団であったのです。当然彼らが北洋軍に入った目的は、何を置いてもひとえに「金のため」であり、清王朝のために命を捨ててまで戦おうという忠誠心など持ちうるはずがありませんでした。

清軍が、日本軍よりも優れた武器や装備を持ちながら、戦えば負けていた(というより、一応雇い主の李鴻章からお金を貰っているので、「仕事」として戦う事は戦うが、あくまでそれは貰った金に見合う程度で、分が悪いと見るや頃合いを見てすぐに引き揚げてしまう。といった方が正しいかもしれません。死んでは元も子もないですからね。笑)のは、こうした事情が大きく影響していた様です。

つまり清軍によるわが日本兵の遺体損壊は、特に敵への憎しみという様な感情的な理由からではなく、清兵の「ビジネス」としての証拠立てのためであり、当時の彼らの感覚からすれば敵が誰であれこうしていた訳で、たまたまその敵が今回は日本軍であっただけなのです。しかし、それは相手にとっては単なる「残虐さ」と「野蛮さ」以上の何ものにも映りません。彼ら清軍は今回の敵であるわが日本軍を甘く見過ぎていました。そして彼らは数日のうちに大きくその報いを受ける事になるのです。

一方、日本軍総司令官 大山巌大将は、降伏した敵兵や無力な負傷兵に対する保護を約した国際条約であるジュネーブ条約に従い、全将兵に対してそれを命じていましたが、それは理想論でした。先に述べた様に、清軍による行為は全軍に知れ渡っており、末端の兵はもちろん、大山将軍に最も近いはずの各師団長ら上級指揮官までが怒りと復讐心に燃えていたのです。

特に、はっきりとその意思を明確に表していたのが、第1師団長であった山地元治(やまじ もとはる)中将でした。


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上が第1師団長であった山地元治中将です。(1841~1897)彼は土佐(高知県)出身の陸軍軍人で、幕末の動乱から名を挙げ、写真を見ても分かる通り少年時代に右目を失明していたために「独眼流将軍」とあだ名された猛将でした。旅順攻略の功により子爵位を賜っています。

山地中将は旅順市内に潜伏している清軍の残存部隊の掃討に当たり、自らが率いる第1師団に次の様な恐ろしい命令を発します。

「これよりわが軍は、敵敗残兵の掃討を開始する。それに当たり、これを妨害する者は市民といえども残らず殺すべし。」

さらに、同じ第1師団所属の当時の兵士の方が残した日記にも、次の様な記述が残されています。

「清人の男子は皆逃さず、生かさず、全て切り殺せとの命令が下り、我々の士気は大いに上がり、勇気に溢れた。」


こうした異常な状態の中で、殺気立った日本軍は旅順市内に突入します。しかし、そこで清軍は思わぬ反撃に出て来ました。彼らは軍服を脱ぎ捨て、当時の清国の民衆が多く着用していた便衣(べんい)に着替え、ゲリラ戦で抵抗して来たのです。そのため日本軍には敵兵か無辜の市民なのかという判断が付かなくなり、それがやがて全ての旅順市民を標的とする無差別な殺戮へと移ってしまいます。

実際には、この時旅順防衛に当たっていた清軍1万3千の内、旅順市内に潜伏していた清軍は2~3千程度であり、本隊を含む大半(およそ1万)は陸路旅順を脱出して、北方で遼東半島奪還のために差し向けられていた増援軍に合流していました。(日本軍は旅順占領を優先したために、脱出する清軍本隊を追撃出来るほどの余剰兵力がなかったからです。)しかし、それからの3日間、旅順市内では文字通りの「血の嵐」が吹き荒れます。

日本軍は旅順市内の建物という建物、家々の扉を蹴破り、窓を割り、そこに便衣姿の清人の男性が潜んでいれば「清兵」として容赦なく射殺、または銃剣で刺殺、抵抗の激しい場合は建物もろとも焼き払うなどの激しい殺戮と破壊を行ったのです。それはとても戦闘と呼べる様なものではなく、まさに反論の余地の無い「虐殺」そのものでした。そして日本軍が旅順の街を完全に占領した後に残されたのは、清兵と市民合わせて数千の死体が累々と倒れる地獄絵図だったのです。


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上の画像1枚目は旅順占領後、累々と倒れている清兵の死体を一ヶ所に集めて埋葬している日本軍です。その傍ら2枚目では、わが軍将兵たちが清兵の死体を踏みつけながら銃剣を衝き立て、記念撮影しています。戦友の仇討ちと勝利の喜びに浸る彼らの表情に注目して下さい。

さて、前線部隊が旅順陥落に湧きかえっていた頃、その際に起きたこの虐殺事件はすぐに日本政府の知る所となりました。なぜなら当時第2軍に従軍していた欧米の新聞記者たちが、その事実を本国の新聞に打電していたからです。彼らは日本政府が今回の清国との戦争で、日本が国際法を遵守する文明国である事を見せるために同行させていたのですが、逆にそれが裏目に出てしまいます。記者たちが一斉に日本軍の虐殺を盛大に書き立てたために、これを読んだ欧米諸国の日本に対する国際的世論が著しく硬化し、日本政府が外交上の最大の目的としていた欧米諸国との不平等条約の改正はやはり無期限で延期すべきだという意見が出てしまったからです。

「日本はうわべは文明国を装っているが、その本性は清国と変わらない野蛮国である。」

というわけです。

事態を重く見た日本政府と大本営は、現地軍の大山総司令官に事の真偽を問いただす書簡を送ります。

「旅順陥落の際、第2軍はみだりに殺戮を行い、捕えた捕虜を殺害し、住民の財貨を略奪するなどの野蛮な行いがあったとの多くの報がある事に付き、釈明されたい。」

これに対し、もはや事態を隠し切れないとみた大山大将は次の様な弁明を大本営に返します。

「やむなく敵兵と民間人を混一して殺害し、敵軍への懲戒のために一部で捕虜を殺害した事は認めるが、略奪については全くの出たらめである。」

現地軍の総司令官が虐殺の事実を認めたのです。これには日本政府トップの伊藤博文首相と、外交責任者の陸奥宗光外相が慌てふためきます。軍人ではなく政治家である彼らは、戦局が日本に有利に進んでいた戦争そのものよりも、彼らが長年苦労して携わってきた欧米諸国との不平等条約改正交渉が、今回の軍の失態によって頓挫してしまう事を恐れたのです。


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上は当時の大日本帝国首相 伊藤博文公です。

そこで伊藤首相ら日本政府は、今回の事件に対する欧米諸国への申し開きと弁明工作に躍起になります。彼らが行った欧米諸国への弁明と、その主な要旨は以下の通りです。

1 清兵は軍服を脱ぎ捨てて逃亡していた。

2 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ清軍の兵士であった。

3 住民は交戦前にほとんど逃亡していた。

4 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。

5 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。

6 日本側は軍紀を守っていた。

7 旅順が陥落した際、捕えた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、治療のため東京へ連れてこられる事になっている

伊藤首相はこれを日本政府の公式な弁明として、欧米各国の新聞に載せさせ、事態の沈静化を図ります。(かなり「苦し紛れ」な弁明なのが分かりますね。苦悩する彼の表情が目に浮かぶ様です。)

現地の第2軍でも、大本営からの指示により、弁明のための下の様な「演出」が行われます。


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上は捕虜にした清兵を治療する日本軍衛生部隊です。写真を撮るためにわざわざ勲章をつけた左端の軍医らしき人物の下で、粗末な台の上に横たわる弁髪姿の清兵が治療を受けています。これはジュネーブ条約に従い、日本軍が敵の清軍兵士を保護して治療しているのだという姿を欧米諸国の新聞に載せるために撮影されたものと思われます。

結局この事件は、その後時間の経過とともに、この様な出来事は戦争には付きものであり、欧米においても歴史上何度もあったのだから、そういう自分たちの事を棚に上げておいて日本の事をとやかく言う資格は無かろうという論調に変化していきます。そして伊藤首相ら日本政府が恐れていた不平等条約改正交渉は、戦争が日本の優勢であった事から予定通り進んで行き、わが国は幕末以来30年以上に亘って長らく外交の足かせであった欧米諸国との不平等条約を次々に改正していく事に成功するのです。

今回の事件における清国の犠牲者の数は、2千から6千まで諸説あって定かではありません。(中国側はなんと「2万人」が殺害されたとしています。一体何を根拠にこんな数字が出てくるのでしょうか?これは旅順攻略のわが軍の兵力とほぼ同じではありませんか。呆)しかし、虐殺があったのは紛れも無い事実であり、あちらの歴史の授業では、あの著しい誇張と捏造によって、わが国への「反日教育」の最高の道具に利用されているみなさんもご存知の「南京大虐殺」に先駆けて日本軍が行った最初の蛮行として子供たちに教えています。(怒)

この旅順での出来事は、文明国の軍隊として敵に紳士的に振舞おうとした日本軍が、「邪悪な侵略軍」として(これはもちろん中国側の主観です。)歴史に記憶される事になった最初の事件でした。そしてその後、中国人は日本人を「日本鬼子」(リーベングイズ 「日本の鬼ども」)と呼んで恐れ、それが今日に至るまで中国人の心の根底に深く刻み込まれてしまったのは事実です。

最後に、この旅順攻防戦において、最も被害を受けた人たちの姿を載せてこの忌まわしい事件のお話を終わりたいと思います。それは、旅順の名も知れぬ一般市民です。


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上は日本軍の旅順占領に伴い、避難していく母子の姿です。日本軍に従軍していた温情あるカメラマンが撮影したもので、写真の下の説明文にある通り、この母子たちの様な貧しい人々は、行く当てもなくどこかへ落ち延びていきました。季節は12月、大陸の凍える様な寒さの中を、着の身着のまま綿入りの布団を担いでいる姿が哀れです。その後の長い戦乱と動乱に明け暮れる中国において、彼女たちは無事に生き延びていてくれたのでしょうか? ただそれを祈るばかりです。

次回に続きます。

日清戦争10 ・ 真相はいかに? 旅順虐殺事件(前編)

みなさんこんにちは。

当ブログをご覧頂いている歴史好きのみなさんは、旅順(りょじゅん)という街の名を当然ご存知であるかと思います。今回のテーマである日清戦争から10年後のロシアとの日露戦争において、わが日本軍が壮絶な死闘と多大な犠牲の末に、ようやく攻略出来た「旅順要塞」のあった港町ですね。

しかし、この旅順が戦場になったのは、先に述べた後の日露戦争が最初ではありません。この旅順港は前回お話した清国の主力艦隊である「北洋艦隊」の根拠地であり、当然本テーマである日清戦争においても日本軍の主要攻略目標として、ここを守る清軍と激しい戦闘が行われています。

つまり、わが日本軍はこの港町を2回も攻撃しているわけです。しかし、2度目の日露戦争の際は敵ロシア軍が築いた大要塞の前に、大変な犠牲と4ヶ月以上の時間を費やしてやっとの思いで占領した事は良く知られていますが、1回目の日清戦争の時は、たった1日でこの重要な軍港を占領する事に成功しています。これは、当時まだこの旅順が、後の日露戦争の時に比べて要塞化されておらず、清軍の防備が手薄であった事に起因するのですが、実はこの第1回目の旅順攻防戦において、栄光あるわが大日本帝国軍は大変な「不祥事」を引き起こし、あれから120年たった今日においても長く尾を引く大きな禍根を残してしまう事になります。今回はそのあたりのお話です。

1894年(明治27年)9月、日清戦争開戦から1ヶ月あまりが経過し、わが日本軍は陸と海で清軍に対して勝利を続けていました。すでに陸上では、9月末までに日本軍は朝鮮半島から清軍を一掃し、朝鮮国のほぼ全域を占領する事に成功。清・朝国境の鴨緑江(おうりょくこう)を越えて、清本国への進攻を目前に控えていました。また、海上においても、9月中旬の黄海海戦において、日本連合艦隊は清国北洋艦隊に勝利し、大損害を被った清艦隊は本拠地の威海衛(いかいえい)に逃げ込み、黄海の制海権もほぼ日本海軍が掌握していました。

言わば、日本は今次戦争における第1段階の目標をほぼ達成したと言えるでしょう。そして日本軍の次なる目標、すなわち第2段階は、清本国に進攻後、残る清主力軍と大会戦を行ってこれを撃破し、日本の優勢を決定的にした所で講和に持ち込み、速やかに戦争を終結させる事でした。(そうでなければ日本の貧しい国家財政が持たないからです。)その作戦のための足がかりとして日本軍が何としても手に入れなければならなかったのが、清国と朝鮮国の間にあって、黄海の奥の渤海(ぼっかい)にトゲの様に突き出した遼東半島(りょうとうはんとう)であり、その先端に位置する軍港「旅順」でした。


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上の画像1枚目が遼東半島と旅順の位置、そして日本軍の進撃経路で、2枚目と3枚目が現在の旅順の様子です。現在この街は単独の都市ではなく、中国の行政区分上、正式には大連市旅順港区(だいれんしりょじゅんこうく)と言い、つまり大連の一部なのだそうです。この旅順だけの人口はさほど多くはなく、およそ21万ほどです。(この旅順も含めた大連市の人口は600万ほど。)

近年この街は、急速な経済発展による建設ブームにより、3枚目の写真の様に高層住宅が次々に建てられており、街並みが大きく様変わりしつつあります。ここは上の地図でも分かる様に遼東半島の先端に位置する天然の良港であり、現在も中国海軍の重要な基地となっています。(2枚目の写真では中国海軍の艦船が停泊しているのが分かりますね。駆逐艦かフリゲート艦でしょうか。)

ここを手に入れれば、日本軍は大陸進攻作戦のための物資を、日本本土から直接輸送船で大量に運び入れる事が可能になり、これまでの様に馬や人が背負って朝鮮半島を南から北へ運ぶなどという将兵に大きな負担を強いる非効率を大幅にカット出来ます。

そこで日本軍は、この旅順を含む遼東半島一帯の占領を目的として、第1、第2、第6の3個師団およそ5万8千からなる第2軍を編成し、大山巌(おおやま いわお)大将を総司令官として、10月下旬に攻略作戦を開始しました。


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上が第2軍司令官の大山巌大将です。(1842~1916)彼は薩摩出身の陸軍軍人で、陸軍大臣、参謀総長、文部大臣、内大臣などを歴任し、この日清戦争と、後の日露戦争を勝利に導いた功績により元帥号と公爵位を賜り、以前お話した山縣有朋と並ぶ明治最大の元老の一人です。陸軍軍人なので、当然陸軍大臣としての経歴が長い(なんと6回も就任しています。)のですが、山縣と違ってご本人は終生政治権力には無関心で、何度も首相候補として名が挙がりましたが、その都度これを固辞し、生粋の武人としての生涯を全うした人です。(敬意)あの西郷隆盛(1828~1877)とは従兄弟同士で、その容貌から「ガマガエル」などとありがたくないニックネームで呼ばれていたそうですが、ご本人はけろっとしていたそうです。(笑)薩摩出身という事で、当然日頃から独特の薩摩弁(「おいどんは~でごわす。」とか「おはんら~してたもんせ。」「これでよか。」など)で話し、頑固一徹なイメージですが、プライベートでは意外にも大変な西洋好きで(明治維新後のまだ若い頃に4年間もヨーロッパに留学した影響です。)食事もステーキやワインなどの美食に凝り、自宅や別邸などもフランスやドイツの城館を模した豪華絢爛なものだったそうです。またブランド品にも目がなく、特にルイヴィトンなどを好んで買い揃えて楽しんでいた趣味人でした。

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上がその大山将軍のお宅です。下に写る人たちと大きさを比較してください。大山閣下は徹底して洋風にこだわり、この家もドイツの古城を模して建てられたそうです。しかし、残念ながらこの家は大山大将亡き後の1923年(大正12年)関東大震災で倒壊してしまい、現在は残っていません。

大山大将率いる日本軍は、何の抵抗も受けずに遼東半島中央部への上陸に成功し、順調に周辺を征圧。11月上旬には目標の旅順近郊にまで迫ります。この時の清軍の旅順守備兵力はおよそ1万3千、対する日本軍は3万5千余でしたが(他方面の占領維持に兵力を割いたからです。)そのうち純粋な戦闘部隊は2万を超える程度でした。

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上は清軍陣地を占領して記念撮影する第2軍部隊の将兵たちです。

ところで、今回の日清戦争は、これまでお話してきた様に簡単にいえば、日本と清国の朝鮮半島の支配権を巡って起きたものですが、日本側にはそれとは別にもう一つの大きな戦争目的がありました。それは欧米列強諸国に対して、日本が国際法を遵守する近代国家であるという事を「見せ付ける事」です。当時のわが国は、幕末から明治初期にかけて欧米列強諸国に結ばされた「不平等条約」の撤廃を第一の外交目標にしていました。外交とは国と国とが対等の立場で互いを尊重しあう事で成り立つものであり、これが成立して初めて日本は欧米諸国に「いっぱしの国家」として認めてもらえるからです。しかし明治維新からまだ27年余り、今だに欧米諸国の日本に対する見方は、

「東洋の片隅の貧しく遅れた弱小途上国」

でしかありませんでした。そのため彼らは、なかなか日本との不平等条約を改正しようとはせず、当時の明治政府は常に外交面で辛い立場に立たされて来たからです。特に明治政府が目指していたのが、当時の超大国イギリスとの条約改正であり、これが成れば、フランス、ドイツ、アメリカなど他の列強との条約改正もスムーズに運ぶはずでした。そのためには、日本が戦時国際法を遵守する「文明国」として「野蛮国」である清国との戦争に勝利したという実績が必要だったのです。

この日本政府の意向は、陸軍首脳である大山大将も良く承知していました。先に述べた様に西欧への長い留学経験を持つ彼は、陸軍でも最も国際法に通じた将軍であり、1886年(明治18年)に日本が加盟した敵味方を問わず負傷者を保護する「ジュネーブ条約」に則り、

「戦争は国と国との事であり、敵の将兵であっても個人的な遺恨を持ってはならない。彼らもそれぞれ家族があり、我らと変わらない同じ人間である。敵の負傷者に対してはそのつもりで仁義をもって対応する様に。」

とする訓令を発し、麾下の全将兵にそれを印刷した冊子を持たせ、敵の清軍の将兵であっても、負傷者は丁重に保護する事を命じていました。少なくともこの時点では、わが日本軍将兵はそのつもりだったのです。しかし、これはいかにも典型的な「官僚型」のやり方でした。人の心というものは、なかなか理想の様にはいかないのが世の常です。日本政府と大山将軍の意思はその後、思わぬ形で大きく破綻し、彼らは戦争の現実を痛感させられてしまうのです。

それは旅順への進撃中に起きた事です。日本軍は旅順偵察のために偵察隊を出します。そこで清軍と戦闘になり、その部隊は死傷者数十名を出して退却したのですが、問題はその後です。翌日その遺体が、清軍によって首や手足を切断された無残な状態で発見されたのです。この知らせはたちまち全軍に知れ渡り、日本軍将兵の心の中に大きな変化を生じさせてしまったのです。

以前にもお話したのですが、軍隊というものは男同士の友情を極限にまで高めます。所属部隊は違えど、共に命を懸けて戦った戦友たちが敵に無残に殺害された事を知った時のわが将兵の怒りは凄まじいものであった事でしょう。そしてそれは、わが将兵たちの心の中に、敵清軍に対する激しい憎悪と報復心という醜いものを生み出してしまうのです。

この兵たちの心の変化を、総司令官の大山将軍は知る由もありませんでした。そしてそんな大きな問題を抱えた状態の中で、彼は11月20日に旅順攻略作戦を開始してしまいます。早朝から日本軍の攻撃により始まった戦闘は、それ自体は敵清軍がその大半が新兵であった事から戦意に乏しく、旅順の街を取り囲む周囲の山々に築かれた清軍の要塞や砲台は、数時間足らずの戦闘で、同日昼ごろまでに大半があっさり日本軍に占領され、午後には清軍は旅順市街へと退却、もはやこの時点で、旅順の戦いの勝敗は完全に決していました。

日本軍の次なる目標は旅順市内に退却した清軍の掃討です。すでに時刻は日の沈みが早い晩秋の夕方、すでにあたりは暗くなり、夕闇と不気味な静けさが旅順の街を包みつつありました。そして、それはまさに嵐の前の静けさのごとく、これから始まる「血の嵐」の前触れでもありました。

次回に続きます。

日清戦争9 ・ 黄海海戦と連合艦隊の勝利

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)9月の平壌の戦いは、日清両軍の大部隊(日本軍1万2千、清軍1万5千)が激戦を交えた初めての本格的な「会戦」でしたが、兵器の質、地の利、潤沢な弾薬と食糧の備蓄など、あらゆる面で清軍の方がわが日本軍よりも有利であったにもかかわらず清軍は敗れ、平壌を放棄して北方へと退却してしまいました。日本軍はたった一日で平壌を占領したのです。(損害は日本軍の戦死180名に対し、清軍は10倍を越える2千名以上に達したそうですが、清軍は直接の戦闘によるものよりも、撤退の際に日本軍から追撃され、大混乱に陥ってまともな反撃が出来なかった事が原因の様です。)

それにしても、なぜ清軍はいともあっさりと平壌を放棄してしまったのでしょうか? どうもこれは平壌防衛の清軍守備隊指揮官たちの不協和音が大きく影響している様です。


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上は当時の清軍将校たちの軍装です。(注 平壌防衛の司令官たちではありません。この時代の写真は資料がとても少ないので、敵の清軍将兵の姿などをお分かりいただくために苦労して探しました。汗 だいたいこんな感じだった様ですね。)

この時、清軍は1万5千の大部隊で、指揮官は5人いましたが、各部隊はそれらの指揮官が独自に率いる寄せ集めの混成部隊でした。当然指揮官たちの意見調整が難しく、最大の部隊を率いて徹底抗戦を主張する1人の将軍と、撤退して態勢を立て直すべきと主張する他の4人の将軍の意見が衝突し、最初から戦意が乏しかったのです。

そんな中で戦闘が始まり、徹底抗戦を主張し、陣頭に立って日本軍と戦っていたその将軍が戦死すると、それを知った撤退派の他の指揮官たちは早々に戦闘を切り上げてしまいます。彼らは配下の部隊をまとめ、雷鳴の轟く雨の中を長い隊列を組み、闇夜に紛れてあたふたと清本国を目指して退却していったそうです。そしてその翌朝、日本軍は清軍の逃げ去った平壌に入城を果たしたという訳です。

相当な損害を覚悟していたわが軍にとっては、まさに幸運ともいえる勝利(「勝利」というよりも、敵が戦闘を放棄したといえるでしょうね。笑)でしたが、ともかく今度も勝ったのです。先の成歓の戦いに続いて二度目の勝利は日本国内に大々的に宣伝され、当時のわが国民の戦勝ムードは大いに沸き返りました。

しかし、大本営はまだまだ手放しで喜べる状態にはありませんでした。なぜなら陸上での戦いは勝利が続いているものの、海上では清国最大の艦隊である北洋艦隊が清本国の港から出港しようとせず、そのため日本海軍は朝鮮半島と清国の間に広がる黄海の制海権を取れなかったからです。

この北洋艦隊は、清朝政府最大の実力者であった北洋大臣 李鴻章が創設したもので、巡洋艦13隻を主力とする総勢37隻の勢力を誇る当時東洋最大最強の艦隊でしたが、その北洋艦隊の「所有者」である彼は艦隊に臨戦態勢で待機を命じ、出動を許しませんでした。なぜならこの艦隊がいる限り、敵である日本艦隊は黄海から内海である渤海に進入する事が出来ない事を知っていたからです。(海さえ押さえておけば、陸上での戦いにのみ兵力を集中出来ますからね。)そのため、彼は切り札ともいえるこの艦隊を出来るだけ温存する方針でした。

黄海の制海権を取れなければ、日本軍は上陸している遠征軍が必要とする大量の物資を、はるか朝鮮半島南部から陸路による長距離輸送をせざるを得ず、今後の作戦行動に大きな制約となります。(朝鮮半島を支配下に置いた日本軍の次なる目標は、清国と朝鮮国の国境を流れる鴨緑江を越えて清本国に侵攻、清主力軍と一大決戦に臨み、これを撃破する事です。そのためには、黄海の制海権を握り、清領である遼東半島の軍港旅順を占領する事が必要不可欠でした。その方が、日本本土からの物資を船で早く大量に運べますからね。)


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上がその鴨緑江(おうりょくこう)の位置です。現在も中朝国境となっています。

一方、清軍が平壌を放棄して退却した9月16日、北洋大臣 李鴻章は、まだこの時配下の清軍の平壌撤退の事実を知らずにいました。当時はまだ電信のない時代であり、中央と現地軍との間の連絡にはかなりのタイムラグが生じていたからです。

しかし、清軍が敗退を続けている事は、北京の清朝宮廷にも伝わっていました。この様な状況下で、大清帝国皇帝 光緒帝は李鴻章を呼び出して彼にこう言い放ちます。

「そなたは何ゆえ北洋艦隊を出撃させぬ? 艦隊司令は日本艦隊を恐れているのか?」

まだ23歳の若い光緒帝は事を急ぎ、老練な李鴻章の深慮遠謀の戦略に我慢がならなかったのです。皇帝からの異例の叱責を賜り、これを無視するわけにはいかなくなった李鴻章は、平壌の守備隊に援軍として4千の兵を送る事を決め、これを5隻の輸送船に分乗させて海路朝鮮に差し向け、その護衛としてついにとっておきの戦力である北洋艦隊に出動を命じました。

「日本軍を平壌で食い止め、これ以上敵の進撃を許すな。」

それが李鴻章が平壌守備軍に与えた命令でした。彼はそうして時間を稼ぎ、長期持久戦で日本軍を疲弊させ、さらに欧米列強諸国にも手を回してこれらを巻き込み、各国に日本へ圧力をかけさせて講和に持ち込むつもりだったのです。

李鴻章の命令を受けた北洋艦隊司令官 丁汝昌(てい じょしょう)提督は、旗艦「定遠」(ていえん)を始めとする14隻からなる主力艦隊を率いて大連港を出港、先に述べた5隻の輸送船団の護衛に付きます。


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上が大清帝国北洋艦隊司令官の丁汝昌提督です。(1836~1895)彼は李鴻章の下で頭角を現した軍人で、元は陸軍出身でしたが、李鴻章が北洋艦隊を創設してからは海軍に転じた異色の経歴の持ち主です。

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上が北洋艦隊旗艦「定遠」です。同型艦「鎮遠」(ちんえん)とともに主砲として30センチ連装砲2基を備えていました。当時日本海軍にはこれに対抗出来る大型艦はなく、その存在は日本艦隊の大きな脅威でした。

「北洋艦隊出撃す。」

この知らせは直ちに日本海軍の知る所となります。ついに待ちに待った海上決戦のチャンスが巡って来たのです。これに備え、日本海軍は当時持っていた大型主力艦艇12隻を差し向けて攻撃に向かいます。その時のわが日本艦隊司令官は伊東祐亨(いとう すけゆき)中将という人でした。


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上がこの時の日本艦隊司令長官伊東祐亨中将です。(1843~1914)彼は薩摩出身の海軍軍人で、すでに少年時代から海軍に憧れ、ただ一心にその道に進んだ生粋の「海の男」でした。そのため、当時薩摩と長州の二大派閥がしのぎを削った政治闘争には一切興味を示さず、純粋な武人としての生涯を貫き通しました。日清、日露戦争で海軍の重鎮としてこれを指導し、その功績により後に元帥号と子爵号を賜ります。

ここで一つ余計ではありますが、この時初めてわが日本帝国海軍に「連合艦隊」が編成されました。これは戦時に二つ以上の艦隊を合わせて一つの大艦隊を編成し、その総力を挙げて敵艦隊を撃滅するという思想から生まれたものです。当時日本海軍には、後の第1艦隊とか第2艦隊などの区別は無く、主力艦艇からなる「常備艦隊」と、老朽艦や小型艦などの二級艦艇からなる「警備艦隊」の二種類しかありませんでした。(当時の貧しい日本にはそれほど多くの軍艦が無かったからです。)

しかし、島国の日本は国防上海軍が必要不可欠であり、国力が上がればいずれ海軍を拡張して多くの軍艦を建造し、各方面に複数の艦隊を常備していく計画でした。そこで、将来的にそれを見越し、いざ戦時にはそれら複数の艦隊を合わせ「連合して」日本近海に侵攻して来る敵艦隊を一気に叩き潰すという海の国防プランのために「連合艦隊」というものが生まれたのです。そして伊東中将は、その初代司令長官に就任したばかりでした。

1894年(明治27年)9月17日、黄海の制海権をかけた日清両国艦隊の決戦の幕が切って下ろされました。「黄海海戦」です。双方の戦力は、わが連合艦隊が伊東中将率いる旗艦「松島」以下12隻、対する清国艦隊は丁汝昌提督率いる旗艦「定遠」以下の14隻です。


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上がわが連合艦隊旗艦「松島」です。30センチ主砲が後ろ向きについているのがユニークですね。この艦は当時の日本海軍が持っていた最大の艦でしたが、排水量は4200トン余りに対し、清艦隊旗艦「定遠」は7200トンと倍近い差があり、また清艦隊の多くが分厚い装甲を備えていたのに対し、わが日本艦隊はほとんど装甲していませんでした。(理由は清艦隊の軍艦はその多くがドイツに発注して建造された「高級艦」だったのに対し、貧しかった当時の日本は軍艦の数を1隻でも多く増やすために、価格の高い装甲艦よりも、費用が安くて短期間で建造出来る無装甲艦を買い揃えたからです。)

海戦は双方とも相手の煙でその接近を知ります。そして距離6千メートルまで接近した時、伊東中将の命令一下、旗艦松島の敵旗艦定遠への砲撃により海戦は始まりました。


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上が黄海海戦の写真です。右側の4隻が日本艦隊で、左側はるか遠方の清艦隊を砲撃しています。

戦闘は重装甲を誇る清艦隊の猛烈な反撃により苦戦を強いられましたが、装甲していない日本艦隊は速力で勝り(軽いからスピードが速いのは当然ですね。)装甲による重さで動きの遅い清艦隊を圧倒、敵艦を次々に撃沈していきます。もちろん装甲のない日本艦隊も多数の命中弾を受けますが、敵弾の多くが船体を突き抜けてしまうために沈没には至りませんでした。

やがて海戦は日本艦隊の圧倒的優勢に傾きます。5隻の巡洋艦を撃沈され、他の艦艇も大損害を受けた敵の丁汝昌提督は、残存艦隊をまとめて母港威海衛への撤退を命じ、海戦は日本艦隊の勝利に終わりました。一方日本艦隊も、多くの命中弾により多数の死傷者(約300名、対する清国側は沈没艦が多かったために850名に達したそうです。)を出し、旗艦松島以下4隻が大破したものの、1隻の沈没もありませんでした。

この海戦の敗北により、清艦隊は二度と威海衛を出る事は無く、黄海の制海権は日本の手に落ちる事になります。日本海軍は念願の制海権をようやく手にしたのです。そしてこれにより、後の日本軍の大陸進攻作戦は、はるかにスムーズに進む事になっていきます。

しかし、まだ手放しで喜べるほど状況は日本に甘いものではありませんでした。なぜなら敗れたとはいえ、依然として北洋艦隊は威海衛の港にその多くが健在であり、その気になればまたいつでも威海衛を出撃して日本艦隊を脅かす事が出来たからです。実際、北洋艦隊司令 丁汝昌提は、威海衛の防備を固めて再度出撃の構えを見せており、一刻の油断も出来ない状況でした。

次回に続きます。
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