日本最強の女帝が築いた幻の宮殿 ・ 藤原宮

みなさんこんにちは。

今回のお話は、古代日本の最初の本格的な都として建設されたにも係わらず、完成からたった16年で遷都され、歴史から消えた幻の都「藤原京」とその宮殿についてご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、「都」と聞いて思い浮かべる地といえばどこでしょうか? これは愚問だったかも知れませんが、日本人ならやはり「京都」と答える方がほとんどだと思います。かつて学生時代に「鳴くよウグイス平安京」と語呂合わせで憶えた様に、西暦794年に桓武天皇によって築かれ、1868年の明治維新まで実に1074年という長い歴史を刻んだ京都が日本の都として私たち日本人の心に深く刻まれているのは、ごく自然な思考の流れでしょう。

また、京都すなわち平安京が都として定着する以前のわが国では、実に呆れるほど頻繁に都が移されていた事も、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。しかし、その中で今回お話する藤原京とその宮殿は、それまでころころと場所が変わっていた都と宮殿が、初めて恒久的なものとなるよう計画された大規模なものであり、またそれを築いたのが、ある一人の高貴な女性であったという事実はあまり知られていません。では、その藤原京とはどんな都だったのでしょうか? そしていつ、どの様な経緯でそれは築かれたのでしょうか? まずはそこからお話したいと思います。

時は西暦672年7月、まだ倭国と呼ばれていたわが国では、ある二人の高貴な人物が国の主導権をめぐり、運命の戦いに臨もうとしていました。その二人の高貴な人物とは、あの「大化の改新」の首謀者である中大兄皇子こと天智天皇(626~672)の皇太子大友皇子(おおとものみこ)そしてもう一人は同じく天智天皇の弟宮にして、大友皇子の叔父にあたる大海人皇子(おおあまのみこ)です。

どうして叔父と甥が戦う事になってしまったのでしょうか? 実はその原因は全て先帝の天智天皇から始まっていました。天智帝は弟宮の大海人皇子を最も信頼する補佐役として政治を執り行われ、自らの後継者すなわち皇太弟(こうたいてい)とまで位置づけておられたのですが、次第にその考え方の違いから意見が合わなくなっていかれました。そのうちに第一皇子の大友皇子がすくすくと成長して立派な青年となり、帝はわが子可愛さから実の子である大友皇子を次の天皇となる皇太子にされるのです。


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上が天智天皇の皇太子 大友皇子にあらせられます。(648~672) このご肖像は後の時代に描かれたものですが、ほぼ当時の装束に近いのではないかと思います。

その後、天智天皇が崩御され、大海人皇子は大友皇子と争う意志の無い事を示す意思表示として出家し、ご一族とわずかな従者たちとともに吉野の山奥に籠られるのですが、叔父宮が皇位を狙っているとの疑心暗鬼にかかられた大友皇子は、先帝天智帝が飛鳥から移された琵琶湖のほとりの大津の都から、大海人皇子追討の軍勢を吉野に差し向けてしまうのです。

事ここに至り、対決は避けられないとご決心された大海人皇子も、地方の豪族たちを味方に付けて挙兵します。これが記録に残る日本最古の大規模な内戦である壬申の乱(じんしんのらん)です。(「壬申」とは干支の事で、この年が「みずのえさる」であったためです。)

戦いは当初、およそ3万の兵を擁する大友皇子の近江朝廷軍が絶対優勢であると思われていました。しかし、天智天皇を良く補佐していたこれまでの実績から、地方の豪族たちの多くが大海人皇子に味方し、同じく3万に膨れ上がった彼らは近江朝廷軍を各地で撃破、大津の都に攻め上ります。敗北を悟られた大友皇子は、大津の御所の一室で首を吊って自害あそばされ、乱は終息するのです。(大友皇子は「敗者」として強く記憶され、長い間歴史の中で顧みられる事はなかったお方ですが、明治になって、正式な皇統の系譜を作る際に、時の明治天皇は大友皇子を在位期間は短いとはいえ天皇としてお認めになられ、歴史古書の引用から第39代「弘文天皇」のお名が追号されました。)

一方、勝利した大海人皇子はその後「天武天皇」として即位され、兄天智天皇が行った政策を抜本的に見直す大改革を実行に移されます。


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上が第40代天武天皇にあらせられます。(631?~686)このご肖像も、はるか後の時代(室町以降?)に想像で描かれたもので、それが証拠にご装束が「束帯姿」で描かれており、飛鳥時代当時のものではありません。お顔立ちもさながら「武将」の様にいかめしく描かれていますが、これは実際に自ら軍勢を率いて権力を得られた歴代天皇の中でも数少ない武断の帝であられる事からこうイメージされたのでしょう。しかし、天武帝が強力なリーダーシップを発揮されたとても意志の強いお方であられたのは事実であり、自分はイメージとしてはピッタリではないかと思います。(笑)

天武天皇は即位されると早速様々な改革を実行に移されます。特に、兄天智天皇以前の帝たちがかつて悩まされた豪族たちの専横を見て来られた経緯から、彼らの力を削ぐために大臣職を一切置かず、自ら政治の全てを執り行われ、朝廷の要職もほとんど皇族のみで占め、天皇個人に一切の権限を集中させました。本来ならこんなやり方は豪族たちが黙っていないはずですが、天武天皇には豪族たちを心理的に従わせる天性の強力なカリスマ性がお有りになった様です。

天武天皇の行われた政策は枚挙に暇がないのでここでは省かせて頂きますが(汗)その在位中にほぼ、その後のわが国の基本的なあり方の原型をお創りあそばされました。さらに、ここでどうしてもご紹介しなくてはならない最も重要な事を二つお話しておかなければなりません。一つ目は、それまで倭国、扶桑(ふそう)、大和などと統一されていなかったわが国の国名を「日本」とお決めになられたという点です。その「意味」については説明するまでもないですね。(笑)

また、二つ目は、史上初めて「天皇」をお名乗りあそばした点です。この意味は、古代中国において、天上を統べる万物の創造主を「天帝」と称し、その別名からお選びになられたのが有力な説です。わが国の根幹を成すこれらの一連の諸事をお決めになられた天武天皇は、ある意味で、わが日本の事実上の「建国の父」とお呼びしても差し支えない偉大な帝であられると思います。

しかし、洋の東西を問わず、歴史を見れば偉大な人物には必ずそれを支える「女性」の存在があります。この天武天皇にもその偉業を達成するために大きな役割を果たした女性がいました。それが今回のお話の主役であり、天武帝の皇后であられた後の持統天皇です。


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上が天武天皇と後の持統天皇ご夫妻の肖像です。とても仲睦まじいご夫婦であられた様です。

彼女は正式には鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)とお呼びし、先の天智天皇の第二皇女に当たられますが、驚くべきはその年齢差で、夫君の天武帝とは13歳の差がありました。657年に父帝の命により、当時は大海人皇子であった26歳の叔父に嫁がれたのですが、それが後の彼女の運命を大きく変える事になったのです。(天智天皇は弟宮の大海人皇子になんと彼女を含む実の皇女4人を妃として与えています。それだけ弟宮を最も信頼しておられたのでしょう。)

讃良皇后は、壬申の乱の折にもご夫君と常に行動を供にされ、天武帝即位後は帝が唯一心を許せる最高の相談役として片時も離れる事無く帝を支え続けておられました。天武天皇はその在位中、讃良皇后を「共同統治者」とし、ご夫婦二人三脚でわが国を統治されたのです。

しかし、このわが国の歴史上唯一ともいえるこの高貴なご夫婦による共同統治も、やがて終わりを迎えます。686年、天武天皇が崩御されたのです。次の帝にはどなたが即位されるのか? 周囲は当然先帝の皇子のうちの誰かを予想していました。というのも、天武天皇には後継者となる皇子が10人もおられたからです。が、その予想は意外な形で大きく外れました。なぜなら、皇位に着かれたのはなんと讃良皇后その人だったからです。時は690年、ここに日本史上最強の女帝、持統天皇の誕生です。

それにしても、なぜ讃良皇后は他の皇子たちを差し置いて自ら即位されたのでしょうか? 実はこれには事情がありました。先に述べた様に、天武天皇には10人もの皇子方がおられたのですが、そのうち、讃良皇后のお産みになった実の子は第二皇子の草壁皇子(662~689)のみで、それ以外は他の皇后方や側室との間に生まれた方々でした。そこで、讃良皇后は当然わが子草壁皇子を帝に据えるおつもりでしたが、その皇子がまだ27歳の若さで薨去されてしまったのです。

讃良皇后は壬申の乱以後、夫君の天武天皇と14年に亘って共同統治しておられました。そのご意志を受け継ぐのは自分を置いて他にはいないとの強い思いが、自らが皇位を継いだ大きな理由ではないかとの説が有力です。

ともあれ、即位された持統天皇は、亡き天武帝の政策路線を忠実に実行に移されます。その中で、彼女が最も力を注いだのが、今回ご紹介する新たな都「藤原京」とその宮殿の建設でした。


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上の一連の画像は藤原京の復元模型と上空から見た図です。「大和三山」と呼ばれる三つの小さな山の周囲に、東西5.2キロ、南北4.8キロの範囲で都が築かれていました。中心には天皇のおわす宮殿が置かれ、その大きさは後の平城京や平安京を凌ぐとても巨大なものであったそうです。しかし、人口は後の都に比べればはるかに少なく、およそ3万人程度であったと推測されています。これはおそらく、この都そのものに住む事が出来るのが豪族や有力者、官僚などの身分の高い人々だけで、一般の庶民がほとんどいなかったせいと思われます。

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上が当時の藤原宮と都の様子をCGで再現した画像です。

この藤原京とその宮殿は、持統天皇即位と同時に建設が開始され、4年後の694年に完成、持統帝は直ちに都を飛鳥からこの地に遷都されます。それにしても、なぜ持統天皇はこの様な巨大な都を建設したのでしょうか?都も宮殿も、すでに先に述べた飛鳥の地に立派なものがあるはずです。

それには大きな事情がありました。実は、それまでのわが国では歴代の帝が即位される度に、宮殿をあちこちに移していたのです。帝が宮を移される度に、豪族たちも従う人々もその宮の周囲に移動せざるを得ず、政治を行う上で非常に不安定かつ非効率でした。さらに飛鳥の地は土地が狭く、平地はもう建物で一杯でこれ以上都を置くのは限界がありました。そこで、持統天皇はその弊害を無くすため、唐の都長安に倣い、永続的な不動の都と宮殿を建設したのです。

もちろん、その建設には莫大な費用と膨大な労働力が必要であり、豪族たちや官僚などの保守派グループの抵抗もありました。しかし、新たな都の建設は、亡き先帝天武天皇が夢に描いていたものであり、妻である持統天皇は夫君の夢をなんとしても実現するために断固強行されました。

「どれほどの月日と金がかかろうと構わぬ。これはわが国が文明国家である事を周辺国に知らしめるために絶対に必要な事なのです。もし、反対する者がいるならば、その者らは帰って戦の支度をするが良い。」

持統天皇は新都建設反対の豪族らの一部に対し、「脅し」のために兵を差し向け、建設に消極的な官僚なども次々に挿げ替えて反対派を一掃し、これにより震え上がった彼らはすっかり黙り込んでしまいます。思えば彼女は、あの大化の改新を成し遂げた中大兄皇子こと天智天皇の娘であらせられ、父帝の反対派への容赦ない弾圧と、それにともなう戦と混乱を幼い頃より垣間見て来られたお方です。さらに壬申の乱においても、夫君天武天皇の勝利に政治面で多大な助言と貢献をされ、つまり簡単に言えば「戦」に慣れた強い女性でした。


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少し冷たいイメージの持統天皇。拾いもののイラストです。(笑)

そのため、自らの政策実行のために多少の犠牲や脅しなどもいとわない大変意志の強いご性格になられたのです。持統天皇はその後も、強大な権力でわが国を統治され、亡き草壁皇子の長男で自らの孫に当たる文武天皇(683~707)が即位されて上皇となられてからも、崩御されるまで実権を握り続けられました。まさに彼女こそ、日本最強の女帝とお呼びしても差し支えないでしょう。これは、歴史上ほとんど権力を持たなかった日本の女性において非常に稀有な事であり、同時に彼女が日本の歴史における事実上最後の女性権力者ではないでしょうか。(あくまで個人的意見です。不敬な意志は微塵もありません。)

ところで、ここで全く話が変わりますが(汗)この時代の人々は、一体どんな生活をしていたのでしょうか? ここでそうした事にも少し触れて見たいと思います。


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上は飛鳥時代から奈良時代にかけての当時の人々の服装の再現です。なかなか色とりどりですね。これらはみなさんもご存知のあの極彩色で有名な高松塚古墳の壁画から再現されたものです。現在これらは奈良のご当地イベントなどでレンタルされており、実際に着用して当時の気分に浸る事ができます。歴史好きな方は試してみてはいかがでしょうか。(笑)

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そして上がこの時代の人々が食べていた食事のメニューの再現です。上から順に貴族、中級官僚、一般庶民です。貴族の食事はさすがにメニューも多いですね。しかし、全体的にまだ彩(いろどり)というものがなく、とても質素なものです。この時代はまだお箸は使われておらず、写真にある様に木のさじですくって食べていたようです。(でも、これではご飯は良いとして魚などは食べづらいですね。おそらく手づかみだったのでしょう。)また、ご飯の横に置かれている白いものは「塩」で、味付けの調味料はまだそれくらいしかなく、それに白米は貴族以上の身分の高い人々のみで、庶民は精米していない玄米でした。

上の食事を見て共通しているものは「肉」がないという点です。これは仏教の影響により天武天皇の時代に肉食が禁じられ、明治まで1300年以上続いた事から、これがその後のわが国民の平均身長の低さを招いてしまいました。これは天武帝の数少ない「失政」かもしれませんね。(笑)

さて、こうして日本最初の本格的な都として建設された藤原京ですが、新たな疑問が沸き起こります。冒頭で述べた様に、この都も宮殿も、完成からわずか16年で放棄されているのです。なぜなのでしょうか?

その答えは以外に単純なもので、一言で言ってしまえば「場所の選択を誤った。」のが原因でした。実はこの都のある一帯は土地が低く、雨が降ると周囲の山々から流れ下った雨水が溜まってしまうのです。


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上の画像をご覧ください。これは現在の藤原宮跡(大極殿)の写真ですが、見ての通り一面ひどい水溜りになっています。現在でもこれですから、雨が降るたびに天皇のおわす宮殿がこんな状態になってしまっては何より畏れ多い事ですし、それに建物が腐って長くはもたないのは容易に想像出来ると思います。(当時は測量技術などありませんから、都の建設は「イチかバチか」だったのでしょうね。驚)つまりこの都は巨大な「失敗都市」だったのです。

これを機に藤原京は一気にその存在価値をなくし、奈良の地に新たな都「平城京」が作られるのです。しかし、藤原京と藤原宮は、平城京、そしてその後の平安京のモデルとなり、その時に得たノウハウが、後の都の造営に大きく役立ったのは言うまでもないでしょう。その意味では、藤原京は記念すべきプロトタイプだったと思います。

ここで、今回のテーマの主役である持統天皇のその後についてをエピローグとしてお話しておきます。持統天皇は703年、58歳で崩御され、ご遺言により、愛する夫君天武天皇とともに同じご陵墓に埋葬されます。通常歴代の帝はお一人で一つの陵墓に埋葬され、合葬される事は無いのですが、女帝の強いご希望であられたそうです。この様にご夫婦で埋葬された例は、歴代天皇では天武・持統両帝だけです。いかにお二人が仲睦まじいご夫婦であられたか良く分かりますね。

しかし、残念ながらそれからおよそ570年後の1275年、鎌倉時代の中期にご陵墓は卑しい盗賊に盗掘されてしまい(怒)両天皇の副葬品は奪い去られ、石室内は散々に荒らされてしまいました。その時に石室内部の様子が記録として残されています。


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上が天武・持統天皇ご陵墓石室内の復元です。天武天皇のご遺体は朱塗りの棺に納められていましたが、持統天皇は女帝のご希望により「火葬」され、ご遺骨は銀の壷に収められていました。みなさんもご存知の事と思われますが、天皇陵は学術的考古学調査や発掘は一切禁止されているため、内部の様子をうかがい知る事は出来ません。(当然です。)しかし、この記録はそんな天皇陵の内部の様子を記した貴重なものです。(これはあまり語りたくないのですが、先の盗掘により、天武天皇のご遺骨は棺から引きずり出されて石室内に散乱し、持統天皇のご遺骨もばらまかれて銀の骨壷だけが奪い取られてしまったそうです。(涙)しかし、盗掘に遭うまで500年以上埋葬当時のままだったのですね。

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かつてこの奈良県橿原の地に、日本で最後の女性権力者となった最強の女帝が、理想の国づくりを夢見てここに都と宮殿を建設されました。しかし、その夢は女帝の死とともに儚く消え去り、当時の面影を知るすべはありません。今この地は、秋になると上の様に美しいコスモスが咲き乱れ、訪れる多くの人々の目を楽しませています。それは、自分には遠い昔のある一人の高貴な女性の思いが、美しい可憐なピンクの花々にその姿を変え、今日の私たちにそれを伝えようとしている気がしてなりません。

次回に続きます
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ライチの甘い香りを愛した美女の宮殿 ・ 長安

みなさんこんにちは。

遅ればせながら、平成29年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、これまでヨーロッパや中東の宮殿にまつわる話ばかり書いてきたので、今回から趣を変えてアジアの方にも目を向けてきたいと思います。まずは中国歴代王朝の一つ、唐王朝の都である「長安」の宮殿についてのお話です。

この唐王朝とは、4千年といわれる中国の長い歴史の中で勃興した多くの王朝の順番で言えば第10王朝にあたり(あくまで時代ごとに「順番」で数えた場合です。有名な三国志の「魏・呉・蜀」など同じ時期に並立した王朝は一括りにして数えています。)その存続期間は西暦618年から907年までの289年間という長期に亘るものです。

自分が今回この唐王朝について書こうと思い立った理由は大きく二つあります。一つはなんといってもこの唐王朝が、わが日本の国家形成と、わが国固有の文化の発展に最も大きな影響を与えた最初の外国である事、そしてもう一つは、この唐王朝の時代が現代の中国において、彼らの間で中国の歴史上最も「良かった時代」と多くの人々が認識しているという点に興味を抱いた事です。

それでは、この唐王朝がどの様にして成立し、中国本土はおろか東アジアに君臨する大帝国として拡大発展していったのか、まずはそのあたりから始めて行きたいと思います。

時は西暦618年、それまで中国を支配していた隋(ずい)王朝は終焉を迎えようとしていました。この隋とは、唐の前の王朝ですが、二代皇帝煬帝(「ようだい」 569~618 本来は「ようてい」のはずですが、日本ではなぜか古くから「ようだい」と呼ばれています。)の失政と圧政により各地で反乱が勃発、ついに煬帝本人が暗殺されてしまったからです。

この混乱に乗じて兵を挙げたのが煬帝の従兄弟にあたる李淵(り えん)将軍です。彼は素早く軍を動かして隋の都長安を占領すると、煬帝の孫でまだ13歳の少年だった恭帝(きょうてい)を隋の3代皇帝として擁立、さらにその恭帝から禅譲(「ぜんじょう」と読みます。これは血縁ではない他者に「位を譲る」という事です。)されるという形で自ら皇帝に即位し、ここにおよそ300年続く強大な唐王朝が誕生するのです。


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上が唐王朝の創始者である李淵です。(566~635)彼は即位して大唐帝国初代皇帝「高祖」となり、都を隋から引き続き長安に定めました。

中国を統一した唐王朝はやがて更なる勢力拡大を図り、強大な軍事力で周辺諸国へ侵略の手を伸ばします。


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上が大唐帝国の最大領域です。北はモンゴルから南はベトナム北部、そして西は中央アジアの内陸国家群を従え、イスラム最初の王朝であるウマイヤ朝イスラム帝国と国境を接し、そして東は朝鮮半島南部にまでその勢力が及んでいます。この唐の進撃を阻む目的で、まだ「倭国」と呼ばれていた当時のわが国が、朝鮮半島南部の友邦国百済(くだら)とともに唐・新羅の連合軍と戦ったのが、白村江(はくそんこう)の戦い(663年)と呼ばれるものです。(これはわが国最初の外征戦争だったわけですが、唐軍13万、新羅軍5万の連合軍に対して、わが倭軍は4万2千、百済の残党軍5千を合わせても4万7千で、4倍近い大軍に無謀な戦いを仕掛け、戦死1万以上という見るも無残な大敗を喫してしまいます。)

この敗北により、当時の日本は外交政策を転換し、唐の皇帝に対して貢物を捧げる外交使節団を派遣する様になります。みなさんもご存知の「遣唐使」ですね。

さて、強大な軍事力で周辺諸国をことごとく撃ち従えていった大唐帝国は、建国から50年を過ぎた西暦670年代にその領土は最大規模に膨れ上がります。(上の図を参照。)そして8世紀に入り、帝国の頂点に君臨したのが第9代皇帝玄宗(げんそう)です。


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上が大唐帝国第9代皇帝玄宗です。(685~762)彼は伯父に当たる7代皇帝中宗(ちゅうそう)を毒殺し、自ら女帝となって唐の全権を握ろうと目論むその皇后に対し、先手を打ってクーデターを起こし、皇后一派を粛清して父の睿宗 (えいそう)を8代皇帝に擁立、さらに712年に父から譲位されて27歳で9代皇帝となったというなかなかしたたかな人物です。(笑)

この玄宗皇帝の統治した8世紀前半は、唐王朝がその繁栄の絶頂期を迎えた時代でした。この頃の玄宗皇帝は若かったゆえか、より良い君主たらんと国政に情熱を傾け、それを支える官僚機構の充実を図ります。帝国の都長安には国内外から多くの人や物が集まり、その人口は彼の時代に100万を超え、長安は世界最大の都市にまで発展しました。


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上が唐の都長安の想像図と市域の範囲です。二枚目の画像をご覧頂くと、上の方にもう一つの「長安」がありますが、この街はそもそも漢の時代(紀元前206~紀元205)に造られ、その後の歴代王朝が都を置いたもので、それを表したものです。隋、唐の時代に少し南に移してさらに大規模に市街地の拡大が図られ、その大きさは南北8.6キロ、東西9.7キロに及ぶ巨大都市に変貌しました。(長安の郊外に「秦阿房宮」とありますね。これはあの始皇帝が築いた有名な阿房宮の跡地です。意外な接点があるんですね。驚)

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上はかつての長安の宮殿と都を極めて精巧な模型で復元した中国のテーマパークの様子です。

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上は人々の活気にあふれる長安の街の様子を中国の画家の方が描いた絵です。(個人的で恐縮ですが、自分はこちらの方が好きですね。想像するだけで楽しくなります。笑)唐人だけでなく、シルクロードを通じてはるばるやって来た中央アジアの商人たちが、苦労して運んで来た様々な珍しい貴重な異国の品々を唐の人々に売りさばいています。街には異国の言葉が飛び交い、たくさんの物にあふれ、東洋と西洋が混然一体となって交じり合う国際都市長安の様子が生き生きと描かれています。この唐の時代、かつての中国はまぎれもなく世界に冠たる超大国であり、わが国はもちろん周辺国が恐れ敬う高度な先進文明国でした。(今は目も当てられない野蛮国に成り下がりましたが・・・呆)

しかし、以前にお話したローマ帝国のハドリアヌス皇帝の例を挙げるまでもなく、歴史を見れば国家の最盛期というものは衰退の始まりでもあります。それはこの大唐帝国においても同じでした。そしてこの唐王朝の場合、発端はその頂点に君臨していた人物、すなわち当時の皇帝玄宗自身が招いてしまうのです。

先に述べた様に、玄宗皇帝は青年時代の若い頃は熱心に国政の充実に努め、特に官僚機構を整備して中央から地方までつつがなく命令や指示が伝達実行される態勢を整えました。その結果、唐は国内外で大きな争いもなくなり、経済、文化が大いに発展して繁栄の絶頂を謳歌するのですが、40代の中年期に達すると、皇帝は次第に国政に関心を無くしてしまう様になります。

なぜ玄宗皇帝は政治に関心を無くしてしまったのでしょうか? 実はこれは彼自身が整備した官僚機構がうまく機能した事による皮肉な結果でした。これまで皇帝が取り決めていた政治の細かい事柄も専門部署の有能な官僚たちが行い、皇帝自身が自らトップダウンで事を決済する件が少なくなったため、つまり簡単に言えば、全て官僚たちがやってくれるので、皇帝は彼らの差し出す書類(もちろんすでに決定事項で皇帝が許可すると分かっているものばかりです。皇帝が許可しないと分かっている様なものをわざわざ差し出すはずがありません。笑)に判を押せば済む様になったからです。

もはや唐王朝の体制は磐石、国内外はさしたる争いもなく平和が続き、人民も大いにその恩恵を享受していました。暇を持て余した玄宗皇帝はやがて「禁断の世界」に足繁く通う様になります。その禁断の世界とは、後宮(こうきゅう)すなわち美女たちの園「ハレム」です。

歴史上の人物の多くがそうである様に、この玄宗皇帝も大変な「女好き」でした。記録にあるだけで生涯に30人の美女たちを「皇妃」とし、それらの皇妃たちに産ませた子は、記録ではなんと23男29女合わせて52人という大変な子だくさんだったそうです。(ただし、これは玄宗皇帝だけではありません。前段で述べた彼の祖先である唐王朝の創始者高祖以来、唐の歴代皇帝は多くの皇妃との間に数十人の子を成す多産一族でした。)

その多くの皇妃たちの中で、彼が最も寵愛したのが楊貴妃(ようきひ)です。


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上は楊貴妃(719~756)と戯れる玄宗皇帝の姿です。この楊貴妃は本名を楊玉環(よう ぎょくかん 「貴妃」は皇妃としての尊称です。)といい、地方官僚の娘でしたが、735年に16歳で玄宗皇帝の第18皇子の妃として唐の宮廷に入ります。しかし、その美しさに一目惚れした玄宗皇帝は息子に他の美女を与えて離婚させ、自らの皇妃にしてしまうのです。この時彼は50歳で、二人の間には親子ほども年の差がありました。

彼女の魅力は美しさや豊満な肉体だけでなく、立派な教養と品格を備え、さらには音楽と舞踊にも多大な才能を持ち合わせていました。皇帝はすっかり彼女の虜になり、彼女の元に入り浸るようになるのです。その寵愛振りは目に余るほどであったようで、楊貴妃の喜ぶ顔が見たいからと、およそ女性が欲しがるあらゆるものを何でも与え、片時もそばから離そうとはしませんでした。といっても、それは彼女の心をつかみたいという皇帝の一方的な熱愛から発したものであり、楊貴妃個人はとても謙虚な性格で、彼女自身が皇帝の寵愛を良い事に贅沢三昧にふけったりしたわけではありません。

しかし、そんな彼女にも一つだけ大の「お気に入りの品」がありました。それは当時中国の最南端でしか取れない貴重な果物であった「ライチ」です。

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上が楊貴妃の大好物だったライチの実です。日本でも、近年良く耳にするようになった果実の一種ですね。といっても、自分の知る限りでは、実をそのまま食べたりするという事はほとんど無く、主にその果汁が清涼飲料やガムなどに利用されているのではないかと思います。もともとこの果物は「レイシ」というのが正式名称で、それが19世紀に中国にやって来た英国人の手で、発音の聞き違いから「ライチ」として世界に広められ、今日では台湾、東南アジア、ベトナムなどの亜熱帯気候の地域で栽培され、日本でも沖縄などで栽培されているそうです。

玄宗皇帝は楊貴妃を喜ばせようともぎたてのライチを大量に集めさせ、早馬で長安に運ばせて楊貴妃の住む宮殿の一画をライチの実で一杯に満たしたそうです。この皇帝の楊貴妃の溺愛ぶりに、当時の唐の官僚の残した記録には、嘆くようにこう記されています。

「陛下は今日も楊貴妃と夜を共に過ごされ、起きて来られたのは昼近く、以前の宮廷は陛下のお出ましで朝の御前会議が開かれていたのに、今ではそれもなくなってしまった。かつて一心に国と民を思われ、政務に勤しんでおられた昔の陛下はどこに行ってしまわれたのか。」

こうした皇帝の堕落の隙を付いて、大唐帝国ではある二人の人物が急速に大きな力を持つようになります。一人は宰相として政治を取り仕切る楊国忠(よう こくちゅう)大臣、そしてもう一人は大唐帝国の西域方面総督であった安禄山(あん ろくざん)将軍です。


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上が大唐帝国宰相として唐の国政を握っていた楊国忠です。(?~756)彼はその名字の通り、楊貴妃の実家楊一族の出身で、彼が宰相に出世したのは楊貴妃のおかげだと長く語り継がれて来ましたが、実際にはそれだけでなく、彼自身が財政と経理に巧みな手腕を発揮し、それを買われて玄宗皇帝の元で昇進を重ねていった面が大きいようです。しかし、彼はそうした長所の反面で、自らの立身出世のためにライバルたちを陥れて次々と失脚させ、多くの人々から憎まれていました。

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そして上が大唐帝国の西部一帯を勢力下に置いていた安禄山将軍です。(705~757)彼はもともと唐人ではなく、ウイグル系で、当時西域(さいいき)と呼ばれていた中央アジア方面における総督として数々の武功を立て、肖像画にも描かれているように「猛将」の言葉が似合う武人でした。当然官僚のトップである宰相の楊国忠とは気が合いそうもありませんね。(笑)

唐節度使

上はこの頃の唐の勢力範囲です。都長安を中心とする唐本国と、安禄山が事実上の支配者である西域との間は、北は遊牧騎馬民族国家ウイグル(744~840)南はチベットを中心にヒマラヤ山脈を牙城とする山岳民族国家「吐蕃」(とばん 612~842)の二大勢力の台頭により、図の様に細長い回廊によってつながっていました。

この安禄山が総督を務めていた西域一帯は、シルクロードの東西交易の中心地であり、莫大な富が大唐帝国へともたらされていたわけですが、それに大きな危機感を抱いていたのが楊国忠宰相です。彼は玄宗皇帝が楊貴妃との情事にうつつを抜かしているのを良い事に国政を思いのままに動かし、政敵を次々に失脚させていった策士ですが、都を遠く離れた西域の任地にいる安禄山まではその影響力が及びませんでした。

もともと安禄山は、シルクロードの東西交易で頭角を現した人物で、玄宗皇帝からの信任も厚く、皇帝から「西域方面軍」として10万以上の大軍を任されていました。固有の武力を持たない楊国忠宰相にとっては最大の脅威です。そこで彼は、得意の策略をめぐらして安禄山に謀反の疑いをかけ、皇帝にそれを信じ込ませてしまうのです。楊宰相は安禄山が都に来た時を狙い、皇帝への謁見のために彼が宮殿で一人になった隙に衛兵部隊を使って彼を謀反の疑いで逮捕するつもりでいました。

一方、都長安において自分が「謀反人」とされている事をいち早く知った安禄山将軍の行動は素早いものでした。なんと彼は、生き残りのためにそのまま本当に「謀反人」となって唐王朝に対して反乱を起こすのです。時に西暦755年、これを「安禄山の乱」といいます。

すでに大唐帝国は、建国から130年以上の時が経過していました。その間戦いといえば、遠く離れた周辺国との国境における局地的な防衛戦がほとんどであり、国内でこの様な内乱が起こるのは始めての事でした。平和な時代が長く続いたため、唐の正規軍は実戦経験がなく、西域で遊牧騎馬民族との戦いに慣れていた安碌山の軍勢に全く歯が立ちませんでした。勢いに乗る安禄山軍は15万の大軍に膨れ上がり、怒涛の勢いで都長安に迫ります。

恐怖に駆られた玄宗皇帝は、長安を脱出して地方に宮廷を移す事になります。しかし、ここで彼に思わぬ試練が待ち受けます。今度は自らを護衛する護衛部隊が反乱を起こしたのです。彼らは皇帝を奉じ、楊国忠宰相を、

「皇帝陛下に要らざる諌言をして、この反乱を招いた張本人」

として捕え、殺害してしまいます。しかし、玄宗皇帝にとってもっとショックだったのは反乱軍の次の要求です。

「皇帝陛下をたぶらかすあの女も同罪だ。恐れながら陛下におかれては楊貴妃を我らに引き渡していただく。」

兵たちの要求に皇帝は凍りつきます。なぜなら彼らに楊貴妃を引き渡せば彼女がどうなるか、火を見るよりも明らかであったからです。彼はこの時、心から愛する者を奪い取られる恐怖と屈辱、そして何より例えようもない悲しみに、生まれて初めて「死の苦しみ」を味わう事になったのです。

一方、反乱軍が自分の処刑を要求している事を知った楊貴妃は、皇帝の苦しみを察し、こう言って皇帝を慰めました。

「わたくしは宮廷に上がりましてから、陛下に命を捧げた者でございます。どこの誰とも知れぬ兵たちに命を奪われるならば、どうか陛下の御手でわたくしの命を召し上げてくださいまし。」

状況は切迫していました。すでに都長安は安禄山率いる反乱軍によって占領され、彼は「燕」(えん)という新国家を樹立して自ら「皇帝」を名乗っていました。このままでは唐王朝は滅びてしまうかも知れません。玄宗皇帝が一旦地方で態勢を立て直し、都長安を奪い返すためには、その主力として皇帝の護衛軍がなんとしても必要なのです。そこで彼は側近に命じ、泣く泣く愛する楊貴妃を絞殺させました。(この時の皇帝の心情は想像を絶しますね。涙)

愛する楊貴妃の命を取らざるを得なかった玄宗皇帝はもはや抜け殻も同然でした。彼は失意の内に帝位を皇太子の粛宗(しゅくそう 711~762)に譲り、粛宗は唐王朝の第10代皇帝として安禄山との戦いに臨みます。

この安碌山の乱は755年から763年までおよそ8年もの間続きました。その間粛宗率いる新体制の唐王朝は、戦略の転換を図ります。粛宗皇帝は北のウイグル帝国と同盟し、強力なウイグルの騎馬戦力を味方に付けて長安を支配する安禄山を挟み撃ちにしたのです。唐王朝の巻き返しが始まりました。唐・ウイグル連合軍は総勢15万に達し、各地で安禄山の燕軍を撃破、長安に迫ります。

戦局が不利になると、反乱の首謀者の凋落は早いものです。敗戦続きで自暴自棄になった安禄山は次々に味方に見限られ、最後は皇太子の手によって暗殺されてしまいます。その後、安禄山が建てた燕王朝はほどなく崩壊し、唐王朝は長安を奪い返す事が出来たのです。

こうして再び中国の支配者として返り咲いた唐王朝ですが、この反乱によって唐の国力は著しく疲弊してしまいました。特に反乱鎮圧の兵力確保のため、各地の有力者に特権と帝国の重臣の地位を乱発した事から、帝国内は地方諸侯が割拠する状態となり、その後の唐王朝の皇帝たちは、さながらわが国の室町時代における足利将軍家の様に、これらの諸侯との妥協と対立を繰り返しつつ徐々に衰退していき、やがて反乱から150年を経た907年、ついに病み衰えて滅亡する事になります。


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上の一連の画像は、かつての長安の都があった現在の西安の街の様子です。(人口およそ850万 ただし、中国の統計は当てになりませんが・・・呆)画像にある城壁は、唐の時代より500年を経た西暦1300年代に中国を統一した明王朝(1368~1644)の時代に造られたものです。この長安は、唐が滅亡してからは一地方都市に成り下がり、二度とこの街に都が置かれる事はありませんでした。

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かつて栄華を誇った世界帝国唐王朝の宮殿は、その後の長い戦乱で失われ、今は宮殿の礎石のみが、訪れる観光客の足元に広がるばかりです。しかし、はるか遠い昔、ここにはライチの甘い香りを漂わせた絶世の美女が、美しい舞いや音楽を奏でていたのです。

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それから1200年余りの時が流れ、街の様子も時代によって大きく様変わりしていきました。それでも今も昔も変わらないのは、人々の間で語り継がれる絶世の美女の物語と、活気にあふれる人々の生きる姿です。

次回に続きます。

文明の十字路に築かれた十字架の宮殿 ・ コンスタンティノープル

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、ヨーロッパとアジアの間のちょうど中間地点に位置し、千年の繁栄に輝いたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの大宮殿をご紹介したいと思います。

歴史好きな方であればもはや説明は不要ではありますが、このコンスタンティノープルとは、現在はトルコのイスタンブールとしてその名を知られ、イスラムの覇者オスマン帝国の都が置かれた街ですが、それはこのオスマン帝国が勃興した15世紀以降の事。それ以前は、そのオスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国の都でした。

このビザンツ帝国は西暦395年に成立し、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでのおよそ1058年間に亘って地中海世界に君臨し続けた国家ですが、この帝国にはもう一つの名があります。それは「東ローマ帝国」そう、あの古代ローマ帝国の東半分がそのまま独立したものなのです。

しかし、なぜローマ帝国の東半分なのでしょうか? 西は? そしてなぜ東西に分かれているのでしょうか? 今回はそうした単純な疑問から話を始めて行きたいと思います。

そもそもこの街は、ローマ時代以前にはギリシャ語で「ビュザンティオン」(ローマ帝国の公用語であったラテン語では「ビザンティウム」)と呼ばれていました。その起源は古く、紀元前660年代に古代ギリシャの都市国家の一つであったメガラがこの地に植民都市として築き、その時のメガラの王であった「ビュザンタス」にちなんで名付けられたのがその由来といわれています。やがて街の名そのものは後述する様に「コンスタンティノープル」(これは英語読みで、先のラテン語では「コンスタンティノポリス」)となり、その古名であるビュザンティオンが帝国の名「ビザンツ」となります。(人名だったのですね。)

この街がヨーロッパとアジアの境に位置し、東西交易の中心地であった事はすでに述べましたが、とはいえ最初から大都市であったわけではなく、ローマ時代には人口2~3万程度のごくありふれた地方都市に過ぎませんでした。

そんなこの街を、歴史の表舞台に登場させたある人物がいます。 その名はコンスタンティヌス1世。 ローマ帝国の皇帝の一人です。


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上がそのコンスタンティヌス1世の銅像です。(272~337)彼についてはローマ皇帝として初めてキリスト教を帝国の国教として公認した人物であるという事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ちなみに上の銅像は、彼が「ローマ皇帝」として配下のローマ軍団から歓呼を受けた言わば「旗揚げの地」である事を記念し、1998年にイギリスのヨーク大聖堂の横に建てられたものです。

抜き身の剣を地に衝いて玉座に座る姿が凛々しいですね。これぞ「ローマ皇帝」という威厳と力強さに満ち溢れています。しかし、これはあくまで現代の彫刻家がイメージしたもの。実は彼の彫刻には古代から伝わるもう一つの有名なものがあります。それが下に載せたもので、歴史好きな方ならば眼にした方もいると思います。


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上はローマのカピトリーノ美術館に展示されているコンスタンティヌス1世の像です。やたら目が大きいですね。(笑)これはおそらく皇帝本人が目を強調する様に命じて作らせたからだと思われます。しかしこの像、大きいのは目だけではありません。実はこの像そのものがとてつもなく大きいのです。それがこれです。

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ばーん! 下にいる女性の方と比べて見てください。こんな大きな自分の像を作らせたからには、この皇帝陛下は夢の大きなかなりキャラクターの濃い人物だったのでしょう。(笑)

さて、話を戻しますが、このコンスタンティヌスが生きた時代、ローマ帝国は末期に差し掛かっていました。この頃、帝国は50年続いた内乱の時代が収束し、テトラルキアと呼ばれる四分割体制で運営されていました。これはまず帝国を東西に分け、さらにその東西で「正帝」と「副帝」を置き、その4人の皇帝によってそれぞれの担当地域を分割統治するというとてもユニークなシステムです。

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上がそのテトラルキア体制下における西暦300年前後のローマ帝国の地図です。コンスタンティヌスはローマ軍の将軍コンスタンティウス・クロルスの家に生まれ、その父が上のテトラルキアにおける西ローマの正帝に就任した事が、彼が歴史にその名を残すきっかけになりました。

コンスタンティヌスの父クロルス正帝の担当は、上の地図では今のイギリスとフランスに当たる地域でしたが、やがてその父が306年に亡くなると、彼の配下のローマ軍団は後継者として息子であるコンスタンティヌスを擁立、その支持を受けて、彼は先に述べたブリタニアのヨークで4人の皇帝の一人となるのです。24歳の若き皇帝の誕生です。

このテトラルキアというのは、先に述べた50年に及ぶ内乱によって、ローマ軍の将軍たちが勝手に皇帝を自称して相争う「軍人皇帝」の時代が長く続いた事や、広大な帝国を一人の皇帝が統治するのは無理だという考えから、内乱を終わらせた優れた皇帝であったディオクレティアヌス帝(244~311)が導入したものでしたが、それが機能出来たのは彼が亡くなるまでの20年程度の間でした。


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上がそのディオクレティアヌス帝です。(244~311)彼は一兵士から身を興してローマ皇帝に登り詰めたという「秀吉」の様な人物で(笑)コンスタンティヌスからすれば、尊敬すべき大先輩の皇帝です。実際、後に皇帝となった彼はディオクレティアヌスの政策や統治を多くの部分で踏襲しています。

もともとこの体制は、ディオクレティアヌス帝という強大な皇帝がいたからこそ維持出来たに過ぎず、その彼が311年に崩御すると、他の皇帝たちはたちまち熾烈な権力争いを始めます。(当然ですね。言わば彼らはディオクレティアヌス帝によって「首根っこ」を掴まれておとなしくしていただけなのですから。笑)

コンスタンティヌスも、その4人の皇帝たちの一人であり、彼らは全ローマ帝国の唯一の皇帝の座を巡って時には同盟し、騙し合い、知略の限りを尽くして生き残りのために必死で戦うのです。そして4人の皇帝たちの13年に及ぶ「トーナメント」で勝利したのがコンスタンティヌスでした。時に西暦324年、コンスタンティヌス42歳の時でした。

しかし、全ローマ帝国の唯一の皇帝となったとはいえ、彼にはまだ倒さなくてはならない多くの敵がいました。それは帝国の外側にいるゲルマン民族を始めとする異民族です。コンスタンティヌスは、帝国の内乱に乗じて盛んに国境への侵入を繰り返すこれら異民族との戦いに悩まされ、その結果、ある一つの考えに帰結します。

「今までの様に都をローマに置いていたのでは、いずれ蛮族どもに蹂躙されてしまうだろう。そもそもわが帝国の都がローマでなくてはいけないといつ、誰が決めたというのだ? たまたま帝国発祥の地がローマであったというだけではないか。私が目指すのはこれまでとは違う全く新しい帝国なのだ。その新しい帝国を作るためには、忌まわしい過去の全ての古いものを捨て去らなければならぬ。」

そして彼は、歴代皇帝はおろか、あのユリウス・カエサルですら考えもしなかった驚くべき事を実行に移すのです。

「これよりわが帝国は都をビザンティウムに移す。そして古きものをかなぐり捨て、再び帝国にかつての光を甦らせるのだ。」

こうして西暦330年、皇帝コンスタンティヌスはローマ史上初めての「遷都」を行いました。彼は新たな都の名を「ノウァ・ローマ」と名付け、宮廷はもちろん政治、行政、軍事など全ての組織をビザンティウムに移し、それにともない大勢の人々が皇帝に従って移動したのです。

コンスタンティヌスにはさらにもう一つの大きな計画がありました。それはローマ帝国をキリスト教の帝国に作り変えるという事です。実は、ローマ帝国というのはそれまで「多神教」の帝国でした。人種も文化も宗教も全く違う多くの人々を一つに束ねるには、それぞれの民族が持つそうした多様性を認めて尊重する事が、帝国の円滑な統治を行う上で欠かせなかったからです。

こうした多くの「神々」は、異形の姿をした抽象的なものばかりでしたが、人々はとにかく「何でも良いから」拝み、祈る対象としてそうしたものを信仰していたのです。しかし、帝国の誕生から300年を越え、ほぼ同じ頃にイエス・キリストなる人物によって成立したキリスト教は、この頃にはすでに帝国の隅々にまで広がっていました。博愛をその基本理念とし、キリスト自身を「唯一の神」として具現化したキリスト教は、人々に分かりやすく、受け入れられやすかったからです。

さらに、キリストの教えが「聖書」としてまとめられ、人々に人間としてあるべき「モラル」が示されている事も、キリスト教の大きな力でした。伝説によれば、コンスタンティヌスは他の皇帝たちとの最初の戦いに望もうとしていた312年に、軍勢を率いて野営していた地で、空の彼方に大きな「十字架」が現れ、そしてこんな「神の声」を聞きました。

「汝、これにて勝て。」

彼はそれを神のお告げと信じ、自らキリスト教徒となって率いる軍勢に「十字架」の紋章を描いた軍旗を持たせて戦い、勝利したといわれています。もちろんこれは「フィクション」であり、実際には彼は神など信じてはいませんでした。なぜならこの地上において、神とは皇帝である自分自身であるべきだからです。

しかし、彼には人々に自分が支配者である事を示す大きな「権威」が必要でした。そこで彼は、皇帝である自分が神によって選ばれた特別な存在であり、神から地上を支配する権限を与えられた皇帝こそが「神の代理人」なのだという概念を考え出します。上の伝説は、そうしてコンスタンティヌスが広めさせた打算的な創作でした。そして、聖書に書かれたキリストの教えを帝国の統治に利用しようと考えたのです


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上は神に新たな都を捧げるコンスタンティヌス1世のモザイク画です。

さて、皇帝の遷都令によって新たな帝都となったビザンティウムでは、帝国の中心としてふさわしい街にすべく一大建設工事が急ピッチで進められていました。人口の急増に伴い市街地は大きく拡張され、建設ラッシュによって多くの人、物、金が集まり、街は大変な活気に満ち溢れます。そして各地から集まってきた人々が、みな一様に驚嘆したのが皇帝の新宮殿の巨大さと壮麗さです。


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上の一連の画像はローマ帝国の新たな都となったビザンティウムの姿です。皇帝の宮殿は数多くの建物が複雑に入り組んだ迷路の様な複合構造となっています。ひときわ目を引くのが、中央の「闘技場」です。ここではローマ人が馬に引かせる戦車競技に熱狂しました。良く見ると、都には一般の港とは別に宮殿専用の港が設けられていますね。今にもガレー船が入港しようとしています。宮殿に納める「帝室御用達」の物資を積んでいるのでしょう。人口は遷都した直後においては10万に満たないものでしたが、やがてビザンツ帝国の最盛期となる10世紀には40万を越え、エジプトのアレクサンドリアとならぶ国際的な大都市へと発展します。

コンスタンティヌス1世は、都を「ノウァ・ローマ」と名付けましたが、その名で呼ばれる事はほとんど無く、当時からすでに人々にこう呼ばれていました。「コンスタンティノポリス」(コンスタンティヌスの街)と。それは彼の功績を称えた人々の彼に対する「大賛辞」だったのでしょう。そしてコンスタンティノポリスの大宮殿は、文明の十字路に築かれたキリストの十字架の宮殿として、それから千年の繁栄に輝き続けるのです。

西暦337年、ローマ帝国を全く新しい形に大きく作り変えた稀代の皇帝コンスタンティヌス1世は、東の宿敵ペルシア討伐の軍勢を率いて遠征中に病に倒れ、崩御します。享年65歳でした。彼の死後、帝国は3人の皇子たちによって分割統治されますが、彼らはすぐに帝位を巡って兄弟で15年に及ぶ骨肉相争う内戦に突入します。その争いは、最終的には353年に次男であるコンスタンティウス2世(317~361)の勝利によって幕を閉じますが、8年後の361年には彼自身が45歳の若さで子孫を残さずに病没したため、コンスタンティヌス王朝は事実上二代わずか37年余りで絶えてしまいます。

その後のローマ帝国は再び混迷の時代を迎えます。時の有力者が次々に帝位に就きますが、長くは続かないのです。その理由は何といっても帝国を取り囲む状況が「内憂外患」の一言に尽きるからでした。外側からは異民族の侵入が相次ぎ、内側では先に述べた様に皇帝の代替わりごとにその後継争いが常態化していきます。コンスタンティヌス1世がそうであった様に、彼ら皇帝候補の有力者たちは、まず東西に分かれて正帝、副帝などに就任し、その立場を足がかりにしていったため、次第に帝国は一つではなく、東と西に分かれて考えられていく様になります。

そして西暦395年、時のローマ皇帝テオドシウス1世(347~395)は、その死に際して二人の皇子にこう申し渡します。

「これより帝国を東と西に分ける。東は兄が、西は弟が継ぐが良い。決して間違えてはならぬ。二つの帝国は全く別のものとして、そなたらがそれぞれの皇帝として統治するのだ。」

こうしてローマ帝国ははっきりと東西に分裂するのです。そしてこれ以後、二つのローマ帝国は二度と一つになる事はありませんでした。このテオドシウス帝による帝国分割は大きな効果をもたらします。それまで帝位争奪の内戦で争い続けた東西をはっきりと二つの帝国に分ける事で、東西の帝国同士で戦争になる事は無くなったからです。しかし、それは東の帝国に長い繁栄を、西の帝国に動乱と滅亡への道を歩ませるという全く対極的な効果をもたらしました。


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上が東西の帝国の境界です。

西ローマ帝国は、ゴート族、フランク族、ヴァンダル族などの異民族の襲来によって、分裂からおよそ80年後の西暦476年、ついに滅亡してしまいます。一方東ローマ帝国は、これらの異民族の侵入経路から大きく離れていたため、東地中海において長くその命脈を保ち続け、いつしか帝国の名も「ビザンツ帝国」という名が定着し、ローマの名は人々の記憶から忘れ去られていったのです。

時代はローマという大帝国の一極支配から、各民族がそれぞれに王国を打ち建てていく乱立の時代に移りつつありました。その中で、それまでのシステムを変える事が出来なかったローマ帝国は、生き残るために西という半身を切り捨て、東においてキリスト教国家「ビザンツ帝国」という新たな帝国に生まれ変わったといえるでしょう。結果として、その規模は小さくなったとはいえ、ビザンツ帝国は古代ローマの昔に勝る大きな繁栄を長く謳歌し続けるのです。


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上は現在トルコのイスタンブール考古学博物館の中庭に展示されているかつてのコンスタンティノープルの宮殿の柱の一部です。細部に見事な細かい彫刻が隙間無く施されています。このたった一本の柱一つにも、どれだけの手間と時間をかけて造られたのか想像して見てください。

コンスタンティノープルの大宮殿は、造営から千年後の15世紀にこの地を征服したイスラムの覇者、オスマン帝国によって取り壊され、跡形も無く撤去されてしまいました。今、その面影を知る事が出来るのは、イスラムの街となって久しいこの街で進められている発掘調査で掘り出されるこうしたわずかな遺物だけです。

次回に続きます。

巨大な帝国の皇帝が夢見た小さな帝国 ・ヴィラ・アドリアーナ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に引き続き古代ローマ時代から、ローマ皇帝の一人であるハドリアヌスの築いた「ヴィラ・アドリアーナ」をご紹介したいと思います。

ところで、みなさんはローマ帝国という国家がどれほどの間存続したかご存知でしょうか? 前回もお話した様に、このローマ帝国という巨大国家も最初から大帝国であったわけではありません。実は意外なのですが、ローマ帝国はその建国の時期がはっきりしていないのです。有名な伝説では、最初の王ロムルスが紀元前753年に即位し、そのロムルスの名にちなみ、「ローマ」という国名になった(らしい)といわれていますが、これはあくまで伝説上の話であり、そもそもロムルスという人物が実在したかどうかすら分かっていないのです。

ともあれ、およそ紀元前8世紀の中ごろ、現在のローマの地に人口数千の小さな王制都市国家として成立したものが、やがて紀元前509年に王制を廃止、王の諮問機関であった元老院の有力者たちの合議によって国策を決する共和制に移行、500年近く拡大発展を続けて地中海全域を支配する巨大な領域国家へと成長し、その後、紀元前27年に初代皇帝アウグストゥスが即位して帝政に移行、そしてあのゲルマン民族の大移動に代表される異民族の帝国領内への侵入により、紀元395年に帝国が東西に分裂して二つに分かれ、一つの国家としては終わりを迎えるまでが古代ローマの歴史上の流れのプロセスです。

つまり、ローマが帝国であったのは、厳密には帝政を敷いた紀元前27年から紀元395年の東西分裂までのおよそ422年間という事になります。その帝政ローマ時代において、帝国の頂点に君臨していた皇帝の人数はおよそ80名にのぼり、今回のお話の主役であるハドリアヌスは、14代目の皇帝に当たります。


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上がローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスです。(76~138)前回お話した5代皇帝ネロと同じく、残されている彼の彫像にデジタル彩色を施したものです。(注)もちろん自分が作成したのではありません。無芸無能の自分にそんな高度なスキルはありません。(汗)海外の拾いものの画像です。(笑)

といっても、このハドリアヌスという人物についてはよほどの歴史好きな方(とりわけローマ帝国について詳しい方など)でない限り、知っている人はそうはいないと思います。そこで、彼の経歴とローマ皇帝に即位した経緯、そして彼が生きた時代背景を簡単にご説明しておきたいと思います。

ハドリアヌスの正式な名は、前回お話した5代皇帝ネロと同じく非常に長いもので、プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスといいます。(苦笑)帝政ローマにおいては、一代限りの皇帝を除くとその400年以上の存続期間に7つの王朝が交代しましたが、彼はその中の第3王朝ネルウァ・アントニヌス朝3代皇帝です。

この王朝は7人の皇帝が君臨し、そのうち、初代である12代皇帝ネルウァ(35~98)から16代皇帝マルクス・アウレリウス(121~180)まで5代続けて非常に有能な皇帝たちが続いたため、歴史上彼らが統治した時代は「五賢帝時代」と呼ばれ、ローマ帝国がその繁栄と強大さの絶頂期を迎えた時代といわれています。ハドリアヌス帝は、その五賢帝の中の一人でした。

では、彼はどのようにして皇帝の座に登り詰めたのでしょうか? 話は彼の先代の皇帝の時代から始まります。彼の前の皇帝は13代皇帝トラヤヌスといい、ローマ帝国の領土を歴史上最大に押し広げた名君でした。


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上がハドリアヌスの前の13代ローマ皇帝トラヤヌスです。(53~117)先に述べた様に、彼は非常に有能な皇帝であり、政治家として、軍人として、また文化人としても優れた人物で、人柄も公平かつ公明正大であったそうです。それゆえ、その後の歴代皇帝はもちろんローマ帝国滅亡後の中世から今日に至る長きに亘り、ヨーロッパの王候君主たちがその模範とするとともに、多くの歴史家の間でもその業績は高く評価されています。彼の治世において、ローマ帝国はその歴史上最大の版図を築いたのです。

しかし、そんな英邁なトラヤヌス帝でしたが、残念な事に子宝に恵まれませんでした。彼はもちろん結婚して皇妃もいたのですが、その皇妃との間には子が出来なかったのです。といっても、皇妃との仲が悪かったわけではなく、むしろ愛妻家で、先に述べた様に彼の人柄から、他の女性に手を出すのを良しとしなかったのでしょう。

ハドリアヌスはそのトラヤヌスの従兄弟の子にあたり、血筋は遠いですが、すでに若くしてその有能さを周囲から認められていました。そこで、トラヤヌス帝は同じネルウァ・アントニヌス家の一族の中からハドリアヌスを自らの後継者と考える様になります。

ハドリアヌスは将来の後継者として、20代に入るとまずは青年将校として各地のローマ軍団で軍務に付き、25歳の時にトラヤヌス帝の秘書となります。その後、トラヤヌス帝が生涯最も情熱を傾けた数々の外征戦争(101~106年のダキア戦争、114年のパルティア戦争など、ダキアとパルティアとは現在のルーマニアとイランの事です。)では軍団司令官(今でいう師団長クラスでしょうか。)として多くの実戦経験を積み、皇帝を補佐して司令本部で優れた手腕を発揮、皇帝を大いに満足させます。

これらの戦争で、ローマ帝国軍はダキアを征服、パルティア軍を撃滅してメソポタミアまでをもローマの領土にするなど大勝利を収めます。しかしその矢先の117年、皇帝が急病で倒れてしまいました。トラヤヌス帝は、ハドリアヌスをシリア総督兼パルティア遠征軍総司令官に任命して前線を離れ、ローマへの帰途に着きますが、病状は悪化、死期を悟った彼はハドリアヌスを正式に養子とし、次期皇帝に指名したのです。

そのたった数日後、トラヤヌス帝は崩御し、ハドリアヌスは先帝の後を継ぎ、シリアで14代皇帝に即位します。西暦117年8月の事でした。

「新皇帝ハドリアヌス万歳!」

新帝ハドリアヌスは、配下のローマ帝国東部方面軍将兵の歓呼を受け、それに答えます。この時点において、彼は歴史上最大規模にまで拡大した「巨大帝国」の皇帝となったのです。しかし、ハドリアヌスは皇帝となった最初の「仕事」として誰もが驚くべき事を決定します。それはなんと先帝トラヤヌスの下で大軍を繰り出し、あれほど苦労してパルティアから手に入れ、ローマ帝国の属州としたメソポタミア、アルメニアの二州を「放棄」するというものです。


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上がハドリアヌスが皇帝となった直後の西暦117年におけるローマ帝国の支配領域です。各属州(つまり、現代のわが国で言えば都道府県ですね。)の境界線が良く分かります。この時点において、ローマ帝国はその歴史上最大規模に拡大していました。ハドリアヌスが放棄する事に決めたメソポタミアとアルメニアは、上の図の最も右側になります。

それにしても、なぜ彼は即位早々に、せっかく手に入れた広大な新領土を放棄するという大胆な決定を下したのでしょうか? 普通に考えれば理解に苦しむ所です。実は、これにはある切実な問題が大きく影響していました。その切実な問題とは、増大する軍事費すなわち「お金」の事です。

実は、この時ローマ帝国は、国家予算のおよそ半分を軍事費に投じていたのです。特に先帝トラヤヌスの時に、先のメソポタミアとアルメニア、それにダキア(現在のルーマニア)に大軍をもって侵攻、これら一連の征服戦争によって膨らんだ巨額の軍事費が、帝国の国家財政を大きく圧迫していました。

新しく手に入れた領土には、その維持と防衛のために軍を駐留させなければなりません。その経費と、手に入れた領土から得られる利益を比較すると、完全な「赤字」になってしまうのです。

そこで彼は、これらの新領土を全て放棄し、帝国の国境線を以前の状態にまで戻そうとしたのです。都合の良い事に、これらの地域にはちょうど大きな川が流れていました。パルティアとの間のメソポタミア付近にはユーフラテス川、ダキアにはドナウ川です。川という自然の地形を利用して、これを帝国の国境線に確定するつもりでした。

余談になりますが、ローマ帝国軍というのはその歴史上、通算するとおよそ50の軍団があったそうです。ただし、それら全てが常時編成であったのではなく、戦いに敗れて全滅したり、臨時編成で解散されたりした部隊もあったので増減があります。しかし、それらを差し引いても、40個軍団はあったとされています。ローマ軍は全てローマ市民権を持つ者だけで構成され、一つの軍団の定員は平時でおよそ5千から7千程度(現代の陸軍の編成ならば「旅団」規模ですね。)だったそうですが、大きな戦争になれば大規模に増員が行われ、1万5千程度(1個師団ほど)にまで増強される事もありました。

帝国の外側には、東のパルティア王国以外にも、北には強力なゲルマン民族が帝国の富を狙っており、それらの敵から帝国を守るためには、常備兵力として最低でも40個軍団、兵力にして25万程度は必要でした。そしてハドリアヌス帝の時代、ローマ軍の総兵力は35万を超えていました。


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上はハドリアヌスの時代の金貨と銀貨です。それまで95%以上の高い純度を誇っていたこれらのローマ貨幣は、膨らむ軍事費の対応のためにこの頃から純度が下げられ、彼の時代には80%台になっていました。

一口に「軍事費」と言うと、私たちはすぐに兵器などにかかる費用だと思ってしまいますが、軍事費というのはそれだけではありません。兵士たちに支払う給料すなわち「人件費」も軍事費なのです。そのためハドリアヌスは、新しく得た領土を切り捨て、その駐留軍を削減して膨らむ軍事費を抑制したかったのです。

振り返れば、ローマ帝国はそれまで拡大の一途を突き進んで来ました。そしてその結果、帝国の国境線は総延長1万5千キロにまで達し、その長い国境線を守るために多くの守備隊を置かねばならず、その維持費と経費などの軍事費が帝国の国家財政の大きな負担になっていました。そこで、その打開のため、ハドリアヌスは歴代皇帝で初めて帝国の縮小を試みた皇帝だったのです。

これらによって、計算上はおよそ8万から10万の兵力が削減出来るはずでした。しかし、このハドリアヌスの「軍縮計画」に異を唱える集団が彼の前に立ちはだかります。それはローマ帝国の「国会」に相当する元老院です。彼ら元老院議員は帝国の有力者600名から成り、その大半が自ら各軍団の将軍として戦地に赴き、帝国の拡大に貢献してきた人々でした。

彼ら議員たちは、灼熱の砂漠地帯で得られるものが特に無いメソポタミアとアルメニアの放棄には賛同したものの、ダキアの放棄には断固反対しました。なぜならダキアには金銀を産する大鉱山があったからです。やむなく、ハドリアヌスはダキア放棄を断念せざるを得ませんでした。

その後、ハドリアヌスは4年ほど都ローマで国政に専念しますが、そうしている内に彼の中に、ある思いが沸々とわき上がります。

「ここにいるだけでは帝国の全容が把握出来ぬ。一度わが帝国の全てを見てみたい。」

そして彼は、これも歴代皇帝で初めての大視察旅行に出発するのです。まず、彼が向かったのは帝国の最北端であるブリタニア(今のイギリス)です。ここはハドリアヌスの時代からさかのぼる事70年ほど前、4代皇帝ティベリウスが遠征軍を差し向けて征服したものですが、ブリタニア全土を完全に征服したわけではありませんでした。ローマ帝国が支配していたのはブリタニアの南部と中部すなわち後のイングランドまでで、後のスコットランドとなる北部にはケルト人(ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んでいたそうです。)がローマの支配に頑強に抵抗していたからです。

ここを視察したハドリアヌスは、無理をしてカレドニアを征服しても、最辺境のこの地から得られるものはほとんど無く、かえって余計な軍事費がかかるだけだと判断し、ブリタニア方面軍に対してケルト人との国境線上に、ブリタニア本島を東西に分ける長さ120キロに及ぶ長大な城壁の建設を命じました。これが「ハドリアヌスの長城」です。


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上がハドリアヌスの長城の位置と現在の姿です。城壁の石材は、後の時代にその多くが建築資材として持ち去られてしまったために今では低くなっていますが、建造当時は高さ4~5メートル、厚さも2メートル以上あり、城壁の外側、つまり敵であるケルト人のいる北側には、深さ3メートル以上の空堀が掘られていました。(といっても、最初からこの様な石造りの堅牢な城壁として建造されたのではありません。ハドリアヌスが命じた時には高さ3メートルほどに土を盛り、その上に木の丸太で柵を設けた急ごしらえの「土塁」で、その後に10年以上の時間をかけて石造りの城壁に増強されたそうです。)

1・5キロ(1マイル)ごとに、兵士たちが駐留する詰め所と監視塔(マイル・キャッスル)が設けられ、8~10名の守備兵が小隊長の指揮の下で国境の警備に当たっていました。さらに6キロ間隔で要塞も建設され、500~600名ほど(一個大隊程度でしょうか。)の部隊が配備されていたそうです。(そこから割り出すと、この地域のローマ軍の国境守備兵力はおよそ1万余りというところですね。)

ハドリアヌスがこの地にこの様な長大な城壁を築かせたのには理由があります。ローマ帝国の国境線の総延長は、先に述べた様におよそ1万5千キロという途方もないものですが、その大半は海と川、砂漠や深い森などを自然の壁とする事でカバー出来ました。しかし、ここだけはそうした天然の要害がないのです。そこでこうした人工的な構造物がどうしても必要だったのです。

それから、ハドリアヌスの帝国各地を巡る大巡察旅行が始まります。それは、ギリシャ、エジプト、シリア、ヒスパニア、ガリアと、地中海全域に広がる帝国を網羅する、それまでの皇帝はもちろん彼の後の皇帝ですら誰も行わなかった長い旅でした。しかし、ここで疑問に思うのが、その間帝国の政治はどうしていたのか? という点ですが、そこで再び登場するのが元老院です。

もともと元老院はローマの国政を運営するための機関です。旅先のハドリアヌス帝の指示に従ってそれを行っていました。つまり皇帝は、ただ元老院の議案に修正を加えるか、許可や却下のサインをするだけで良かったのです。ハドリアヌス帝の巡察旅行は足かけ13年に及び、彼が都ローマに戻ってきたのは58歳の時でした。

ハドリアヌスはローマに戻ると、まるで人が変わった様に「人嫌い」になったといわれています。特に、100万の人口にあふれる大都会ローマを嫌い、都を離れて郊外のティボリの森に広大な宮殿を建設して移り住みます。それが今回お話しする宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」です。


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上がヴィラ・アドリアーナの全景の模型です。この宮殿は広さがなんと120ヘクタールもある広大なもので、1999年にユネスコの世界遺産に登録されています。

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上の一連の画像はヴィラ・アドリアーナの現在の姿です。ここには広大な庭園はもちろん劇場、図書館、大浴場、運動場、謁見の間、迎賓館、展望台など、およそ考えられるあらゆる全てのものが整えられていました。ハドリアヌスの死後、他の皇帝の何人かが離宮の一つとしてまれに活用していた様ですが、ローマ帝国滅亡後に放棄され、「石切り場」として石材が持ち去られて破壊されてしまいました。上の写真に残る彫刻などは、池の底に沈んで幸運にも破壊を免れた物のレプリカを、おそらくその位置に置かれていたと思われる場所に立てたものです。(本物はもちろん博物館に展示されています。)特に、その中で注目すべきなのは、画像最後の2枚の通称「海の劇場」と呼ばれる一画です。

ここは、ハドリアヌス帝が普段の居住スペースとして造らせたもので、執務室、寝室、浴室、書斎などの部屋が中央の丸いスペースに区分けされ、その周りを池が囲んでいるというおそらく古今東西歴史上ここだけではないかという非常にユニークなものです。これを見るだけで、このハドリアヌスという皇帝がとても繊細かつ複雑な性格であったのがうかがえます。

ハドリアヌス帝が極度の人嫌いになった原因といわれる一つのエピソードがあります。実はハドリアヌスは無類の男色家でした。多くの美少年、美青年を「愛人」として周囲にはべらせ、「夜伽」の相手をさせていました。その中で、最も皇帝が愛したお気に入りの美青年が「アンティノウス」という若者です。


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上がそのアンティノウスの像です。

しかし、このアンティノウスが、ハドリアヌスがエジプト滞在中にナイル川で謎の死を迎えてしまったのです。まだ20歳に満たない若さでした。ハドリアヌスはその死を深く悲しみ、ローマに戻ってからもヴィラ・アドリアーナに引きこもってしまうのです。

ハドリアヌスはその13年に及ぶ長い巡察によって、自らが頂点に君臨する巨大帝国ローマの現実をまざまざと垣間見て来ました。繁栄により贅沢と快楽に溺れる人々、その上で確実に進んでいた国家財政の破綻の兆候、最強を誇ってきたローマ軍の内部分裂と弱体化、一筋縄ではいかない老獪な元老院の腐敗、そう、一見すると繁栄の絶頂期を迎えていたローマ帝国は、すでに衰退の兆しを見せ始めていたのです。そして彼には、その先に待ち構える「滅亡」への足音が確かに聞こえていました。

「永遠の帝国ローマ。そんなものはすべて幻だ。このままではわが帝国は取り返しの付かない事になる。帝国の国庫はすでに市民諸君を養える余力など無い。市民諸君は今すぐ生活を改め、身の丈にあった暮らしをすべきだ。」

皇帝は行く先々でこの様に演説し、人々を戒めようとしました。しかし、一度贅沢で優雅な生活に慣れてしまった人々は、誰もその言葉に耳を傾ける者はいませんでした。

「皇帝は我々市民から豊かな暮らしを取り上げようとしている。」

こうした世論が帝国内にあふれ、ハドリアヌスは孤立してしまうのです。

「これがローマの現実の姿だ。この帝国は広すぎて、とても私一人では治めきれぬ。」

皇帝は吐き捨てる様にこう言い放ちました。そして彼は、自分が巡察で見た帝国各地の思い出の風景を箱庭の様に集め、その集大成として造ったこの宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」に閉じこもってしまいます。そう、この宮殿は皇帝が理想とする帝国のあるべき姿を表現したものだったのです。それはまさに「小さな帝国」でした。

晩年のハドリアヌス帝はこの宮殿で誰も寄せ付けず、忍び寄る滅びの坂道を転がり落ちようとしている帝国の行く末を按じ、愛するアンティノウスの思い出に浸りながらひっそりと暮らし、西暦138年に62歳で崩御しました。

現在、ローマの街には至る所に歴代の皇帝たちを称える多くのモニュメントが残っています。凱旋門、記念柱、神殿の類いは数知れず、しかし、その中で、ハドリアヌスの業績を称えるものは何一つ残されていません。ローマ帝国の行く末を誰よりも按じ、改革を訴えた皇帝に対するそれが、ローマ市民の答えでした。

ハドリアヌスの死後、ローマ帝国はさらに2代続けて有能な皇帝が統治したため、その後も40年余り繁栄を謳歌し続けます。そうして時を重ねるうちに、帝国の国家財政は悪化の一途をたどり、破綻寸前の危機に陥っていきました。しかし、それでも、贅沢に慣れてしまったローマの人々は、遊興三昧の生活を手放そうとはしなかったのです。

やがて3世紀に入ると、それまで帝国の外側に封じ込められていた異民族が、国境線を破って帝国領に侵入を繰り返す様になります。しかし、その国境にはかつての栄光ある最強のローマ軍団の姿はもうありませんでした。こうしてローマ帝国はハドリアヌスが恐れた通り、滅亡への道を転がり落ちていくのです。


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上はハドリアヌスの長城の前で微笑む少年の姿です。彼の遠い祖先も、かつてこの地を守っていたローマ軍の兵士だったのかも知れませんね。(笑)

次回に続きます。

暴君ネロの見果てぬ狂った夢の跡 ・ ドムス・アウレア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「暴君ネロ」の異名でその名を歴史に刻むローマ皇帝ネロが築いた「ドムス・アウレア」をご紹介したいと思います。

今回のお話の主役は暴君ネロなのですが、みなさんはこの人物について、一体どんなイメージをお持ちでしょうか? ローマ皇帝として悪逆の限りを尽くしたその名の通りの暴君? おそらくそういう印象が強烈なのではないかと思います。(かくいう自分もそうでした。)確かに、結果的に彼はそんな悪者に成り下がり、非業の最期を遂げた事から、2千年もの長い間人々にそんな風に語り継がれて来た事は事実です。

しかし、そんなネロも、最初からひどい暴君だったわけではないのです。物事にはどんな形であれ、そうなるに至った経緯というものがあります。というわけで、まずはそのネロという人物の生い立ちから今回のお話を始めたいと思います。


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上は皇帝ネロの胸像です。残されている彼の像にデジタルで色彩を施したものです。歴史上の人物がどんな顔立ちをしていたのかというのは、多くの場合残された文献などの記録や、抽象的な絵などで想像するしかないのですが、ありがたい事にローマ時代の人物の彫刻は実物と見間違えるくらい大変写実化が進んだ時代であり、多くのローマ皇帝の胸像が残されています。こんな顔立ちをしていたんですね。

ネロ(37~68)は、正式な名は非常に長く、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスといい(笑)その身分はローマ帝国5代皇帝です。ローマ帝国といえば、およそ2千年前に成立した人類史上最初の超大国である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。そして彼はその皇帝、つまり当時世界一の権力者であったのです。

このローマ帝国ですが、もちろんこの国も最初からこんな大国であったのではありません。大望を成す場合の最も有名な格言である

「ローマは一日にして成らず。」

の言葉通り、紀元前8世紀(今から2800年ほど前)に現在のローマの地に誕生した人口数千程度の小さな都市国家だったものが、徹底した共和制の仕組みの下に700年以上もの長い時間をかけて地中海全域を支配する広大な領域国家に成長し、やがてネロの高祖父(ネロの祖母の祖父)にあたるアウグストゥスが初代皇帝として即位した事により共和制から帝政に移行し、ローマ帝国となったものです。


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上がネロの偉大な祖先であるローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14)の有名な像と、ローマ帝国の最大領域図です。

ところで、このローマ帝国について詳しい方ならば良くご存知の事かと思われますが、実際のアウグストゥスの本名は「オクタヴィアヌス」といい、あのユリウス・カエサルの甥(カエサルの姉の子)で、志半ばで暗殺されたカエサルの遺志を継いで後継者として地中海世界を統一、ローマ元老院から「尊厳者」という意味の「アウグストゥス」という称号を贈られたのがその名の由来ですが、アウグストゥス本人は政・官・軍の全権を自分に集中させ、独裁権を握る一種の「国家元首」にはなったものの、存命中自らを「皇帝」と名乗った事は一度もありませんでした。つまり「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス」というのは、全て歴史上の後付けでそう呼ばれているものなのです。このあたりは、このローマ帝国という巨大国家のユニークで難解な部分です。(苦笑)

このアウグストゥスに始まる帝政ローマにおいて、彼の興した王朝は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれています。これはアウグストゥスの一族ユリウス家と、その妻リウィアの家系であるクラウディウス家を合わせたものです。

ネロは、そのアウグストゥスから数えて5代目のローマ皇帝にあたるわけですが、その血筋は純粋なアウグストゥスの直系というわけではありませんでした。なぜなら初代皇帝アウグストゥスは後継者の男子に恵まれず、その後に続いた皇帝たちも養子や甥などの傍系であり、ネロ自身もアウグストゥスの血を引いてはいたものの、それは女系であったからです。

では、ネロが皇帝に即位するに至った経緯とはどんなものだったのでしょうか? 事の起こりはネロの実母アグリッピナが先代の4代皇帝クラウディウスの皇妃になった事から始まります。


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上がローマ帝国4代皇帝クラウディウスの像です。(紀元前10~紀元後54)彼は初代皇帝アウグストゥスの皇妃リウィアの孫にあたりますが、生来病弱でユリウス・クラウディウス家一門の中でも疎まれ、長く日陰の道を歩み、耐え忍んで来ました。そんな彼が皇帝に即位出来たのも「毒にも薬にもならない目立たぬ凡人」の彼ならば、飾り物の傀儡(かいらい)としてうってつけだと皇帝の親衛隊に擁立されたからです。紀元41年、この時すでに彼は50歳になっていました。

しかし、「お飾りに過ぎない」と周囲に全く期待されていなかった彼は、皇帝となるや意外な有能さを発揮します。破綻寸前だった帝国の国家財政を立て直し、それまでローマ人あるいはローマ市民権を持つ者だけに限定していた元老院議員の門戸を、ローマ帝国が支配していた属州や異民族、果ては奴隷に至るまで大きく広げ、有能な者はその身分や出身を問わず積極的に登用していく態勢を整えたのです。さらに帝都ローマへの飲料水の供給のため、自らの名を冠した巨大な水道橋を建設、同時に食糧の安定供給のためにローマの外港としてオスティアの港湾を大規模に整備、外征にも熱心で、現在のイギリスであるブリタニアに兵を進めてこれを領土とするなどの功績を残します。


クラウディウス帝は病弱であったため、ユリウス・クラウディウス家に限らずローマ支配階級の名門の男子の義務であった「軍務」に付く事は出来ませんでした。しかし、持て余す時間を読書と学問に費やした事が、彼を知識豊富な政治家に育て上げたのでしょう。それゆえ、彼は「文人皇帝クラウディウス」と呼ばれています。

そんなクラウディウス帝でしたが、家庭生活には恵まれませんでした。これまでに3度結婚に失敗し、長男には先立たれ、ローマ皇帝という頂点の地位にありながら、肉親愛に恵まれぬ孤独な私生活だったのです。

そのクラウディウスに近づいたのが、ネロの母親であるアグリッピナ(15~59)です。彼女もユリウス・クラウディウス家の一族ですが、大変権力欲の強い野心家で、最初の夫との間に息子ネロを産み、その夫が死ぬと裕福な次の夫と再婚、数年後にその夫も亡くなると遺産を手に入れ、その金を賄賂としてクラウディウス帝の重用する側近たちにばらまき、彼女が皇帝に近づけるよう画策したのです。

こうしてうまくクラウディウスに近づいたアグリッピナは傷心の皇帝に甘い言葉で優しく接し、女性関係で失敗の連続であったクラウディウスはたちまちその色香に迷わされ、彼女はまんまとローマ皇帝妃の座に着くのです。紀元49年の事でした。

皇妃となったアグリッピナの次の狙いはもちろん息子ネロを次の皇帝にする事です。そのために彼女は夫クラウディウス帝にネロを養子にする事を勧め、後継者の息子がいなかったクラウディウス帝はそれを認めてしまいます。そこまですれば、もう彼女の願いは叶ったも同じです。そして彼女はその総仕上げとして、恐ろしい計画を実行します。それはもはや用済みとなった皇帝クラウディウスの暗殺です。

もともとアグリッピナはクラウディウスへの愛情で結婚したのではなく、自らの権力と野心の成就のためでした。後は息子ネロを次の皇帝にすれば、皇帝の実母である皇太后としてローマ帝国の実権を握る事が出来るのです。そのためには夫クラウディウスにあの世に行ってもらわなくてはなりません。彼女は宴の席の料理に「毒キノコ」を混ぜ、クラウディウス帝を毒殺してしまいます。

こうしてついにネロがローマ帝国5代皇帝として即位するのです。18歳の若き皇帝の誕生です。全ては母アグリッピナの思惑通りでした。若いネロの即位はローマ市民に歓呼で迎えられ、誰もが帝国の明るい未来を思い描いていました。この時、一体誰がその後の「地獄」を想像出来たでしょうか。

ネロの治世は最初の2年ほどは、長いローマ帝国の歴史の中でもまれに見る善政でした。しかし、それはネロの個人的な采配によるものではありません。まだ20歳前後の何も知らない若者にそんな政治力があろうはずがなく、それらはネロの家庭教師を務めた哲学者セネカ(?~65)という立派な政治的後見人の存在があってこそのものでした。

また、この頃からネロと母アグリッピナとの関係がギクシャクし始めます。アグリッピナは事ある毎にネロに干渉し、政治はもちろん私生活の面まで息子を支配しようとしたのです。そんな母親に対し、次第にネロは母を疎ましく思う様になり、どんどんそれはエスカレートしていきます。もはやネロにとって、母アグリッピナは目の上のこぶの邪魔者でしかありませんでした。やがてネロは皇帝直属の親衛隊を差し向け、母アグリッピナの抹殺を命じるのです。(思えばネロは野心と謀略にまみれた母の姿を見て育ったのです。その息子なのですから、その血を受け継いでいるのは当然ですね。皮肉にもアグリッピナは自らが産んだ息子によって生涯を閉じる事になってしまいました。因果応報とはまさにこの事です。)

最大の障害であった母を抹殺したネロを諌める人物は、もういませんでした。ネロは最初の皇妃オクタヴィアを3年後の62年に殺してしまいます。さらに、政治ブレーンであったセネカまでも65年に粛清してしまうのです。

ネロにとって、自分に歯向かう者はもちろん意見する者すら「邪魔者」でしかありませんでした。そしてそれらを次々に捕えて処刑、暗殺を繰り返し、自らは快楽と怠惰に溺れる手の付けられない「暴君」へと変貌して行ったのです。金に糸目をつけない娯楽競技にうつつを抜かし、女色はもちろん男色にもふけり(なんと気に入った美少年を「去勢」させ、女装させて周囲にはべらせたそうです。)果ては数千の観衆の前で皇帝自ら歌や芝居に興じるなど、その振る舞いは目も覆うばかりでした。そんな皇帝にあるまじき姿に失望し、元老院では密かに反ネログループが政権転覆の動きを加速させていく様になります。

そんな矢先に起きたのが「ローマ大火」事件です。


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上がローマの大火を描いたものです。

64年7月、ローマ市内の一画に起こった火の手が強風に煽られ、ローマ市街の3分の2を焼き尽くす大火災となったのです。さすがにこの時はネロも皇帝として自ら陣頭指揮を取り、火災の鎮火と被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし、この時にどこからかとんでもない「噂」が流されます。

「皇帝は宮殿でローマの焼け落ちる姿を眺めながら竪琴を片手に歌を歌っていた。」

市民の間に広まったこの噂をもみ消すため、ネロは思い切った手段に打って出ます。それは、なんとこの火災を当時帝国内外に広まっていたキリスト教徒が引き起こしたものとして、キリスト教徒を片っ端から捕えて公開処刑するというものです。もちろんこれは全くの濡れ衣であり、しかも、そんな事をしても、一度立てられた悪い噂はそう簡単に消えるものではありません。

後にローマ帝国はキリスト教国家となり、ローマを中心として全ヨーロッパがキリスト教に染まっていくわけですが、まだこの頃の帝国は多神教であり、キリスト教は多くの宗教の一つに過ぎませんでした。そのキリスト教徒を多数処刑した事により、後にネロは悪逆非道な暴君として、欧米社会で根強くその名を記憶される事になったのです。

さて、それまで遊び呆けていたネロには大きな仕事が待ち受けていました。それはもちろん焼け野原となった帝都ローマの再建です。ここでネロは強い指導力を発揮します。実は今日では意外なのですが、それまでのローマは木造家屋が密集するお世辞にも綺麗な街並みではありませんでした。それがゆえに今回の火事で大きな被害が出たのです。

そこでネロは、火災に強い都市造りのために大規模な都市計画に着手します。狭かったローマ市内の道幅を広げて建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲み、共同住宅には中庭と消火用器具の設置、住居は一定の部分を耐火性のある石で造る事などを義務付けました。火災に対応出来るよう水道も整備され、ローマの街並みはそれまでの木造から頑丈な石造りの家々が立ち並ぶ壮麗なものに生まれ変わったのです。それはまさに帝国の都にふさわしいものでした。

それと並行して、ネロはかねてから考えていたあるプロジェクトを実行に移します。それは今まで誰も造った事の無い巨大な宮殿を都ローマの中心に建設し、自らの名を歴史に永遠に残す事です。その宮殿の名は「ドムス・アウレア」 ローマ帝国の公用語であったラテン語で「黄金宮殿」と呼ばれるものです。


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上がその「ドムス・アウレア」の復元想像図と内部の様子をデジタルで再現したものです。高価な大理石をふんだんに使い、宮殿内の壁や天井は隙間無く見事なモザイク画やフレスコ画で覆われ、無数の彫刻が至る所に置かれていました。また、広大な庭園には皇帝の舟遊びのための大きな泉も配置されていました。(みなさんもローマ人になったつもりで想像して見てください。笑)

ネロがこの宮殿を黄金宮殿と名付けたのは、実際に宮殿を黄金で覆い尽くそうとしたからではありません。決して錆びずに輝く黄金は永遠の象徴。ネロは宮殿が自らの名とともに永遠に残る事を願ったのです。

しかし、この皇帝の誇大妄想は、ローマ市民の大不興を買ってしまいます。完成した宮殿のあまりの巨大さと壮麗さに、またもこんな噂が市民の間に広がります。

「皇帝はこの宮殿を造るためにわざとあの火事を起こしたのだ。」

ローマ市民の間のネロの人気は、この頃から坂道を転げ落ちる様に無くなっていきます。その隙を突いて、ローマを遠く離れたガリア(後のフランス)の地で、ヒスパニア総督であったガルバ(紀元前3~紀元69)が反乱を起こします。ガルバは自ら「皇帝」を名乗り、数万の大軍でローマに迫ってきたのです。ネロの手元には皇帝直属のおよそ1万の兵力からなる親衛隊がありましたが、長年の放蕩三昧の結果、すでに彼はその親衛隊からも見放されていました。元老院はこの機に乗じてネロを皇帝の座から引きずり落とすため、ネロを「国家の敵」とし、ローマに入城したガルバを新皇帝として迎え入れました。

孤立無援のネロは愛人の一人パオラに与えた別荘に逃げ込みます。しかし、元老院と新帝ガルバの差し向けた追っ手の軍勢に包囲され、ついに自害してその乱れた生涯を閉じました。時に紀元68年6月、わずか30歳でした。

ネロの死後、彼が造った夢の宮殿ドムス・アウレアは、その後の混乱と度重なる火災によって、そのほとんどが消滅してしまいました。


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上はローマ市内の地下に残るドムス・アウレアの遺構の一部です。

かつてここに、自らの名を永遠に残そうと狂った夢に取り付かれたある皇帝が、巨大な宮殿を造り上げました。しかし、その皇帝の名は歴史に「暴君」として永遠に刻まれ、彼の望みは醜くゆがんだ形で叶えられる事になりました。

今に残るのは、朽ち果てた天井に残るかつての見事なモザイク画の残骸と「暴君ネロ」にまつわる数々の狂ったエピソードだけです。

次回に続きます。

海の底に眠る悲しき美女の宮殿 ・ アレクサンドリア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「絶世の美女」としてその名を歴史に刻むエジプト女王クレオパトラが住んだアレクサンドリアの宮殿をご紹介したいと思います。

クレオパトラといえば、なんといっても先に述べた「絶世の美女」という形容詞が古くから全世界に共通していますね。そして、それはその劇的でドラマチックな生涯と相まって、彼女の死から2千年もの間伝説として人々に語り継がれてきた事は、歴史好きでなくても誰でも知っていると思います。

しかし、それはあくまでも伝説の話。実際の所は彼女がどれほどの美女であったか? いや、そもそもどんな顔立ちをしていたのか? など、もちろん誰も知る由もありません。(笑)歴史上に登場する女性の中でおそらく最も有名な人物でありながら、その顔立ちを伝える物的な証拠は、彼女がエジプト女王として在位中に発行された不鮮明な横顔が刻まれた貨幣しかないのが実情だからです。(もちろん、彼女を描いた絵や彫刻は数多く存在しますが、それは全て後世の画家や彫刻家たちがそれぞれ自分たちなりに想像したものです。)


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上がクレオパトラ(紀元前69~紀元前30)と伝わる女性の横顔が刻まれた銀貨です。他にもいくつかの種類があります。(髪形を見れば明らかに女性であり、貨幣には在位中のその国の君主の顔を刻むのが普通ですから、女王クレオパトラ本人とみて間違いないでしょう。)

そうしたミステリアスな所もクレオパトラの魅力の一つなのだと思うのですが、彼女についてのエピソードを語れば枚挙に暇が無いので(笑)ここでは割愛させていただくとして、まずはこのクレオパトラという人物の経歴その他、事実上の確かな事柄から本テーマに話を移して行きたいと思います。

彼女の正式な名は「クレオパトラ7世」といい、プトレマイオス朝エジプト王国最後の女王です。(この程度の事は歴史好きな方であれば良く知られた事ですね。)彼女の王家プトレマイオス王朝というのは、あのアレクサンドロス大王の少年時代からの古い友人で、成長してからは側近中の側近としてアレクサンドロスの大遠征に付き従い、大王の死後も生涯不変の忠誠を守り通した将軍プトレマイオスが紀元前306年にエジプトに開いた王朝であり、同時に古代エジプト最後の王朝でもあります。


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上がそのプトレマイオス(紀元前367~紀元前282)の横顔が彫られた金貨です。彼はアレクサンドロス大王が最も信頼した部下であり、大王からエジプト総督兼エジプト方面軍司令官に任じられていました。その後、大王が32歳の若さでこの世を去ると、彼を含む部下の将軍たちの合議制によって帝国を運営して行こうと提案しますが、野心に燃える他の将軍たちとの調整が上手く行かずにそのプランは破綻。結局後継者争いとなり、彼は大王から賜った任地エジプトに自らの王朝を打ち立て、エジプト王(ファラオ)プトレマイオス1世として即位する事になったのです。クレオパトラにとっては偉大なご先祖様ですね。(笑)

エジプト王となったプトレマイオス1世は、君主としても優れた人物でした。彼は自らの王国の首都を、大王が築いたアレクサンドリアに定め、大王のエジプト支配の軍事拠点の一つに過ぎなかったこの街を、周到な都市計画に基づく壮麗な都に作り変えます。宮殿、神殿の類いはもちろん地中海に面した大規模な港湾、市民の暮らしに欠かせない市場(マーケット)学校、図書館、裁判所、病院、劇場や競技場などの娯楽施設も次々に建設され、アレクサンドリアは人口20万を超える地中海一の都に発展したのです。


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上がプトレマイオス1世によって拡大されたアレクサンドリアの様子です。古代からエジプトは、ナイル川流域の農地からもたらされる農産物に恵まれた豊かな国であり、さらに大規模に整備拡張されたこの街には、東西交易の中継地という絶好の地理的要件も相まって国内外から多くの商人たちが集まりました。先に述べたエジプトの農産物はもちろん、東洋と西洋の様々な品々が港や市場に集められ、それらを商い売り買いする多くの商人たちによって活発な商取引が行われました。この時代、すでに商取引は「お金」すなわち貨幣によってやり取りされており、うなるほど大量の金貨や銀貨が街の中を行き交います。プトレマイオス王朝は彼ら商人たちから関税と売り上げの割合に応じた税を徴収する事で莫大な富を得、それがエジプト王国の大きな財源となります。そして、その都アレクサンドリアは最盛期の紀元前200年頃には人口50万を越える大都市となり、あのローマが興隆するまで地中海世界最大の都として繁栄を謳歌し続けるのです。

さて、この様に優れた君主が華やかな都を建設し、大いに富み栄えたというだけなら、そうした例は他にもいくつもあります。しかし、プトレマイオス1世はアレクサンドリアをこれまでに築かれた他のどの都とも違う、文化と学問に秀でた学術都市にすべく、おそらく歴史上初めてといわれるある巨大な公共施設を建設します。それが「アレクサンドリアの図書館」です。


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上がアレクサンドリアの図書館内部の様子を描いたイラストです。歴史好きかつ読書好きな方であれば「アレクサンドリア」と聞いて思い浮かべるものの一つがこの図書館でしょう。但し、図書館といっても、この時代の書物は今日私たちが手にする本、すなわち「綴じ本」がまだ考案されておらず、エジプト原産のパピルスや羊皮紙に書かれた「巻物」でした。(その名残りとして、長編の本をいくつかに分ける際に「第何巻」とか呼びますね。ただ巻物では綴じ本の様にタイトルが一目で分からず、ジャンルごとに分かれた書棚にぎっしり詰まれた巻物を一つ一つ見ていかなくてはならないので、閲覧したい書物を探すのは厄介だったでしょうね。笑)

このアレクサンドリアの図書館は蔵書70万冊を誇り、文学、歴史、天文学、地理、数学、医学その他あらゆる分野の書物が集められ、一般市民にも無料で解放されました。そして多くの名だたる学者たちがアレクサンドリアに滞在して研究を重ねたのです。また印刷技術のなかったこの時代、図書館は貴重な書物のコピーに心血を注ぎ、多くの学生に書物の書写をさせて写本を作りました。これにより学生たちは書き写しながら書物を読み、書写の代金も図書館から支給された事から一石二鳥の良い「アルバイト」になりました。(笑)まさにアレクサンドリアの図書館は、当時それまでに人類が蓄積してきた古代世界最大の「知の宝庫」だったのです。

プトレマイオス1世は少年時代のアレクサンドロス大王の学友として共に育ちました。そして彼らの教育は、あのギリシャの大哲学者アリストテレスが行っていたのです。こうした事から、プトレマイオス1世が単なる軍人上がりの王ではなく、学問に深い興味と敬意を払う英邁な君主であった事がうかがえますね。

さらにプトレマイオス1世は、もう一つアレクサンドリアに歴史に名を残すものを建設しています。それが都アレクサンドリアの海の玄関口ファロス島に建てられた「ファロスの灯台」です。


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上がその「ファロスの灯台」のイラストです。この灯台は高さなんと134メートル、あのクフ王のピラミッドに次ぐ当時世界最高の高さの建造物でした。遠方からも分かるよう建材には白く輝く大理石が使われ、頂上部に大きな鏡を置き、昼間はこれに日光を反射させ、夜は大きなかがり火を反射させていたそうです。

それにしても、なぜプトレマイオス1世はこの様な巨大な灯台を作らせたのでしょうか? 実はこのアレクサンドリア周辺は見渡す限りの平野が続き、目印となる山などが何も無いのです。この都が大規模な港湾都市である事はすでに述べましたが、東西交易の中継地として多くの船を安全に入港させるには、遠方から一目で分かるこうしたランドマークタワーがどうしても必要でした。この灯台はプトレマイオス1世が建設を開始しましたが、結局彼の存命中に完成させる事は出来ず、完成したのはその子プトレマイオス2世の時代でした。(その後、このファロスの灯台はプトレマイオス王朝がローマに敗れて滅亡した後も、800年もの間アレクサンドリアのシンボルとしてその威容を誇っていましたが、796年の大地震で倒壊してしまいました。とても残念な事です。)

ともあれ古代エジプト王国は、3千年に及ぶその長い歴史の中で、最後の王朝(第32王朝にあたるそうです。)であるプトレマイオス朝時代が最も繁栄したといわれています。そしてその礎を築いたのが初代の王プトレマイオス1世であり、クレオパトラはその1世から数えて13代目にあたるプトレマイオス家最後の女王にして、同時にエジプト最後のファラオでもありました。

だいぶ話がテーマの「宮殿」から脱線してしまったので、この辺で本題の宮殿に話を戻したいのですが、その前にもう一つお話して置きたい事があります。実はこのプトレマイオス家という王家ですが、とてもユニークな、そして同時に現代の感覚からいえばとても「異常な」王家であるという事実です。

まず、前者のユニークな点ですが、この王家、恐らく歴史上最も「女王」の多い王家なのです。普通どこの国でも、王や皇帝などの君主は男性がまず即位します。女性が女王となるのは後継者の男性がいないか、幼少で後見の必要がある場合、王朝存続のためにいわばやむなく即位する「繋ぎ」としての役割が全てです。(わが国の君主にあらせられる天皇家でも、かつて推古帝や持統帝など8名の女帝が玉座におわしましたが、すべてそのケースです。それに、国家と王朝の創始者はその全てが男性であり、女性が初代の君主として国と王朝を創始した例は歴史上存在しません。まあ国を興すには強さが必要であり、強さとは武力すなわち軍事力ですから、女性に無理なのは当然ですが・・・。)

しかし、このプトレマイオス王朝では、クレオパトラも含めてなんと通算16人もの女王がいるのです。一体なぜなのでしょうか? 実はプトレマイオス家では、王が結婚して妃を迎えると「共同統治者」としてその王妃は自動的に「女王」になるのです。このシステムは初代プトレマイオス1世の代から始まり、彼の王妃ベレニケは「ベレニケ1世」としてプトレマイオス家最初の女王となっています。

これはやはり、女王の存在が基本的には王朝存続の繋ぎ役であるという点が大きな理由でしょう。先に述べた様に王朝というものは男性がまず継承します。その後継者が幼少の場合は母親、つまり王妃が後見人となって息子が立派な大人に成長するまで女王として国政を預かるのが最良の方法だからです。このシステムはその後もプトレマイオス王家の伝統として代々継承され、王朝が滅亡するまで受け継がれました。

次に後者の「異常な点」についてですが、このプトレマイオス家はなんと「近親婚」によって代々王位を継承していったというものです。それも半端な近親婚ではありません。何代にも亘って実の兄弟姉妹同士で結婚し、それで生まれた子が王位を継いでいるのです。しかし、こうした近親婚は古代エジプト歴代王朝では珍しくないもので、プトレマイオス王朝でもその習慣を踏襲したものと思われます。そもそもプトレマイオス家は、マケドニアすなわちギリシャ人の王家であり、純血のエジプト人ではないのですが、エジプトを統治して時を重ねるうちにすっかり土着化してしまったのでしょう。


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上はプトレマイオス朝エジプト王国最盛期の領域図です。

この様に非常に特異な王朝であったプトレマイオス朝エジプト王国でしたが、歴史に登場する多くの王朝の例を引き合いに出すまでも無く、その創始から200年を過ぎると衰退しはじめます。特に王位継承の際の王族間の争いが恒例となり、その都度内乱が頻発する様になります。

そうしている内に、地中海では新たな強国が急速に台頭していました。そう、イタリア半島に勃興した「ローマ」です。ローマは強大な軍事力で周辺国を次々に征服し、領土を拡大していきました。紀元前146年に最大のライバル国カルタゴを滅ぼし、西地中海を支配したローマはやがてその矛先を東地中海に向けます。そして紀元前50年代、地中海周辺はエジプトを除いてその全てがローマの領土になっていたのです。ローマがエジプトに侵攻して来るのは時間の問題です。クレオパトラが女王として即位したのはそんな時代でした。


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上がこの頃のローマの支配領域です。

ここからの彼女の物語は、とても当ブログではご紹介しきれないので割愛させていただきますが(汗)ユリウス・カエサルとの出会い、アントニウスとの運命的な恋、そして彼と共にエジプト存亡をかけて戦った紀元前30年のアクティウムの海戦の敗北などを経て、ローマによるエジプト併合はもはや避けられない状況になってしまいます。

勝利したローマの支配者オクタヴィアヌス率いるローマ艦隊はアレクサンドリアの港に入港、上陸したローマ軍は都アレクサンドリアを完全に占領し、今だ宮殿に立て篭もるクレオパトラに降伏を迫ります。

「命は取らぬ。速やかに降伏されよ。」

しかし、オクタヴィアヌスの降伏勧告を、クレオパトラは断固拒否しました。


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「わたくしはエジプトの女王。そのわたくしを捕えてローマに凱旋し、さらし者にするつもりね。そなたの好きにさせるものですか。」

そして彼女は栄光あるプトレマイオス王朝最後の女王としての誇りを抱き、自ら死を選ぶのです。

「ファロスの灯台はわたくしの命。わたくしはファロスの光となって海を照らし続けるでしょう。」

こうして紀元前30年8月、彼女は宮殿で自ら毒をあおり、命を絶ちました。そして彼女の死により、13代274年間続いたプトレマイオス王朝は滅亡したのです。

その後、彼女が住んだアレクサンドリアの宮殿は、8世紀に起きた大地震と津波により、ファロスの灯台とともに海に沈んでしまいます。


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上は現在のアレクサンドリア湾の様子です。クレオパトラの宮殿はアレクサンドリア市街ではなく、湾を埋め立てて造成した海の上に建てられていたのです。しかしそれらは全て先に述べた地震によって失われ、海の底に沈んでいます。(下の地図の緑の部分が沈んだ部分です。)

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上の一連の画像はアレクサンドリア湾内の海底に沈んだクレオパトラの宮殿の痕跡です。(ここで余談なのですが、「アレクサンドリアの海底遺跡」などと入力してインターネットで検索すると、海に沈んだファラオの像やスフィンクスの石像など多くの写真や引き揚げられた遺物が出てきます。しかし、これらはほとんどが「ヘラクレイオン」というプトレマイオス朝より以前の時代に海に沈んだエジプトの古代都市のもので、クレオパトラの宮殿とは全く違う別のものです。これは、この遺跡がアレクサンドリアに近い東のアブキール湾にあり、またこちらの方が遺跡の保存状態が良く、多くの遺物が沈んでいる事から、現在水中考古学者たちの目はこちらにばかり集中し、発掘が行われているのが原因の様です。)

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上は1963年製作の映画「クレオパトラ」で彼女を演じたエリザベス・テイラー(1932~2011)です。これまでクレオパトラを演じた女優で最もそのイメージにぴったりだといわれています。

みなさんもエジプトに旅行される機会があれば、ギザのピラミッドを見た後に、アレクサンドリアに立ち寄られてみてはいかがでしょうか? そして目の前に広がる青い地中海を眺めながら、女王クレオパトラに思いを寄せてみるのも良いと思います。もしかすると、夢の中で「絶世の美女」とお話出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

アレクサンドロス大王が恐れた宮殿 ・ ペルセポリス

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は古代オリエント世界を統一し、恐らく人類史上初めて世界帝国と呼ばれたペルシア帝国の都「ペルセポリス」をご紹介します。

このペルシア帝国とは、現在のイランを本国として、西はエジプト、トルコから東はパキスタンとインド国境に至る、今日ではいわゆる「中東」と呼ばれる地域のほぼ全域を支配した大帝国であり、かのローマ帝国より以前に人類社会に出現した最初の世界帝国と呼べる国家です。では、そのペルシア帝国はいつ、どの様な経緯を経て成立したのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。


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時は紀元前600年頃(今から2600年ほど前)古代オリエント地域は大きく四つの国に分かれていました。そしてその四つの国の中で最大の領土を支配していたのがメディア王国です。そのメディア王国の支配下にあった現在のイラン南部ペルシス(パールス地方とも呼ばれます。ペルシア帝国の名の由来です。)地方に「アンシャン」という小国がありました。

紀元前559年、このアンシャン王国で新しい王が即位しました。その名はキュロス2世といいます。彼には大きな野望がありました。それはオリエント全域を統一し、自らその全ての王になるというものです。そして彼は、その野望実現のために動き出します。


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上がそのキュロス2世の肖像です。(紀元前600頃~紀元前529)彼は先に述べたアンシャン王国7代国王にして、後にアケメネス朝ペルシア帝国の創始者となる強大な王です。

キュロス2世はまずその手始めとして、自らの根拠地アンシャンの宗主国であるメディア王国に対して反乱を起こします。当時、メディア王国の王はアステュアゲスという人でしたが、ここに、ちょっと理解しがたい事実があります。それはキュロス2世の母が、そのアステュアゲス王の娘であるという事です。つまり、キュロス2世にとってメディア王アステュアゲスは実の祖父なのです。

普通に考えれば、孫が祖父に反旗を翻すなどありえない事です。しかし、これにはある事情がありました。ある時、メディア王アステュアゲスは夢を見ます。それは彼の娘マンダネが産んだ息子によって自分が王位を奪われ、メディアが滅ぼされるという恐ろしい夢(というより「悪夢」ですね。)です。王は恐怖に駆られますが、とはいえマンダネは彼にとって可愛い娘です。そこで彼はマンダネをメディア貴族ではなく、都から遠く離れた属国アンシャンの王であったカンビュセス1世(?~紀元前559)にのもとへ嫁がせ、遠ざける事にしたのです。

やがて夫妻には男子が生まれます。それがキュロスです。夢が現実になる事を恐れたアステュアゲス王は、なんと側近のハルパゴス将軍を遣わして、生まれたばかりのキュロスを暗殺するよう命じます。しかし、この命令は赤子殺しの汚名をそそぐのを恐れたハルパゴスが、ある羊飼いにそれを託した事によって実行されませんでした。なぜならその羊飼いは、キュロスの身の上を不憫に思い、自分の死産した子を身代わりに差し出して密かにかくまったからです。

こうしてその羊飼いに育てられたキュロスは立派な若者に成長したのですが、やがて彼は自分の思いもよらぬ出生の秘密を知るのです。彼は思い悩み、そしてある決意を固めます。

「もし祖父が私の健在を知れば、必ず私を亡き者にしようと再び刺客を差し向けてくるだろう。このまま何もせずにいれば、いつか祖父に殺される。私が生きのびていくには、先手を打ってこちらから祖父に戦いを挑むしかない。」

そう、後に彼がメディア打倒の兵を挙げたのは、先に述べた全オリエント統一の野望など「建て前」で、本当は生き残るための必死の手段だったのです。

こうして彼はアンシャンの宮廷に戻ります。まだ赤子のころにハルパゴスにさらわれ、その後子宝に恵まれず、このままではアンシャンのアケメネス王家が絶えてしまうと諦めていたカンビュセス王夫妻は、長い間行方知れずだった王子が生きていた事に大いに喜び(親子というものは当然の事ながら遺伝により顔立ちが良く似るものです。彼の場合両親のどちらかに良く似ていたのでしょう。)キュロスは皇太子として次の王位継承者となるのです。

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そんな中の紀元前559年、父カンビュセス1世がこの世を去ります。アンシャン王国7代国王に即位したキュロス2世は、宿敵である祖父アステュアゲス王率いるメディア王国打倒のため、紀元前552年ついに挙兵します。

この時彼は、敵メディア王国軍内部にある「内通者」を得ていました。それは、なんとまだ赤子だったキュロスをさらっていったあのハルパゴス将軍です。しかし、なぜハルパゴスは王を裏切ってキュロスに内通したのでしょうか? 実はキュロスの挙兵によりその生存を知ったメディア王アステュアゲスは、キュロス暗殺を怠ったハルパゴスに怒り、彼の息子を捕えて残忍な方法で処刑し、側近と軍の要職から外して辺境守備隊司令に左遷してしまったのです。

もはや老齢のハルパゴス将軍は大事な一人息子を殺され、彼の家系は断絶するしかありませんでした。そう、それがアステュアゲス王の狙いだったのです。この仕打ちにハルパゴスは王に対して激しい憎悪を抱き、これが彼をキュロスに内通させる事につながりました。

メディア軍内部の実情を良く知るハルパゴスを味方に付けたキュロス2世は、アステュアゲスの差し向けた討伐軍を次々に破ります。その司令官であったハルパゴス率いる部隊もペルシア軍に合流、もはやメディア軍は総崩れとなって敗走を続け、やがて紀元前550年、メディアの首都エクバタナが陥落、そして今日の混乱を招いた張本人アステュアゲス王は捕虜となってキュロス2世の前に引き立てられるのです。

どちらかといえば、キュロスよりも彼を深く恨んでいたのはハルパゴス将軍でした。そこでキュロス2世はアステュアゲスの処置をハルパゴスに任せてしまいます。ハルパゴスは息子の恨みを晴らすべく散々彼を罵倒した後、一切食を与えずにアステュアゲスを飢え死にさせたそうです。(因果応報とはまさにこの事ですね。)アステュアゲスの死により、6代160年余り続いたメディア王国は滅亡します。

メディアを征服したキュロス2世は、その後も快進撃を続けて周辺国を次々に征服していきます。

紀元前547年 リディア王国征服。

紀元前540年 エラム王国征服。

紀元前539年 新バビロニア王国征服。

その進撃を支えたのも経験豊かな軍人でもあったハルパゴス将軍でした。(紆余曲折あったとはいえ、結果的にこの人物はキュロス2世にしてみれば生涯の大恩人といえるでしょうね。人の縁とはつくづく計り知れないものです。驚)


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上はキュロス2世が在位中に征服した領土と、新バビロニア王国を滅ぼしてその都バビロンに入城するキュロス2世のイラストです。この時点で彼のペルシア帝国はオリエントのほぼ全域を支配下に置いていました。

紀元前529年、空前の大帝国を築いた稀代の帝王キュロス2世は81歳で崩御します。しかし、この時点において、ペルシア帝国はまだ正式な都を定めていたわけではありませんでした。なぜなら帝国の創始者キュロス2世は生涯征服戦争に忙しく、都はその都度転々と変わっていたからです。

それは彼の後を継いでペルシア帝国2代帝王となった長男のカンビュセス2世(?~紀元前522)の時代になっても変わりませんでした。カンビュセス2世は父王の果たせなかったエジプト征服を実現させ、帝国の領土をさらに広げたのですが、その後実弟スメルディスを擁立して反乱を起こしたある人物によって死に追いやられてしまいます。

その人物とは、ペルシア帝国最辺境のバクトリア地方総督であったダレイオスでした。


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上がそのダレイオスです。(紀元前558~紀元前486)彼はアケメネス王家の分家の一族で、アケメネス家の当主としてやがて紀元前522年、ペルシア帝国3代帝王の座に付きます。

ダレイオスはとても慎重な人物でした。キュロス親子の様に力ずくで従わせるのではなく、帝国内の有力諸侯に根回しして彼らに推戴される形で帝王の座に着いたのです。(帝国内の有力者全員の合意を得ているのですから反乱の心配は要りませんね。)以後、彼はダレイオス1世と呼ばれます。

このダレイオス1世こそ、今回の宮殿ペルセポリスを造営した人物でした。彼は即位2年後の紀元前520年から、巨大帝国ペルシアにふさわしい新しい帝都の建設に着手します。


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上の一連の画像は現在のペルセポリスの遺跡の姿と、復元想像図です。これを見ても分かる通り、宮殿は複雑に建て増しされた複合構造となっています。宮殿の造営を始めたのはダレイオス1世の代からですが、帝国が最盛期を迎え、彼の後を継いだ王たちが必要に応じて新たな部分を増築したためです。(人口は周辺の遺跡を含めた規模から推定しておよそ5万程度だったと推定されています。また、この遺跡はイランでも最も人気のある観光スポットで、世界中から観光客が後を絶ちません。また、良く見ると遺跡はかなり手入れをされており、土台部分が復元されているのが分かります。画像2枚目の遺跡の中央に建物が見えますが、これは発掘調査により出土した出土品を展示する博物館です。)

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この宮殿で最も注目すべきなのは、上の一連の画像を見て分かる通りなんといってもその彫刻の素晴らしさです。王に謁見する諸国の使節が美しいレリーフに刻まれています。この地域の建物は紀元前の昔から、粘土を固めた「日干しレンガ」で造られ、長い年月の間に風化で崩れてしまう事が多いのですが、このペルセポリスの宮殿はその全てが花崗岩や大理石の様な頑丈で硬く、高価な石材がふんだんに使われていました。(このペルセポリスは1979年という比較的早い段階からユネスコの世界遺産に登録されています。その登録基準の第一が、やはりこれらの素晴らしい彫刻群であったのは言うまでもないでしょう。)

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上はペルセポリスの最も有名な「百柱の間」の現在の姿と、その復元想像図です。かつて宮殿の天井を支えていた高さ25メートルに達する巨大な柱は、元は上の様に色とりどりの極彩色で彩られていました。

このペルセポリスの宮殿が完成した頃、アケメネス朝ペルシア帝国はその繁栄の絶頂期を迎えていました。特に先の3代帝王ダレイオス1世と、4代帝王クセルクセス1世(紀元前519~紀元前465)親子の時代にはギリシャ征服を企て、海を越えて大軍を差し向けます。「ペルシア戦争」の幕開けです。


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上はペルシア帝国最盛期の領土です。

この戦争はダレイオス1世が起こし、その子クセルクセス1世が引き継いで続けたもので(つまり、親父が始めた戦争を息子が継いだのです。笑)紀元前499年から紀元前449年まで、なんと50年も続いたのですが、「海」という自然の防壁を武器にしたアテネ、スパルタを中心とするギリシャ連合軍の長期持久戦により、最強を誇ったペルシア帝国軍をその都度撃退、その損害の大きさにペルシア帝国はついにダレイオス1世の孫である5代帝王アルタクセルクセス1世(?~紀元前424)の時代にギリシャと講和条約を結び、ギリシャ征服を断念します。

それまで躍進と拡大を続けてきたペルシア帝国も、このギリシャ遠征に失敗した頃からその繁栄に陰りが見え始めてきました。特に、ペルシア戦争を終わらせた5代帝王アルタクセルクセス1世の死後、アケメネス王家では王位争いが恒例となり、それに乗じて帝国内の支配地域で反乱も頻発し、帝国はゆるやかに衰退の道を辿る様になります。

そうして時が過ぎた紀元前356年、ギリシャ北部のマケドニア王国で、一人の王子が誕生します。その名は「アレクサンドロス」そう、後のアレクサンドロス大王です。成長して父王フィリッポス2世の死後マケドニア王となった彼は弱冠20歳の若さで軍事の天才振りを発揮し、わずか1年余りでギリシャ全土を統一、紀元前334年には父王の遺志を継いで宿敵ペルシア打倒のため大遠征を開始します。


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上がアレクサンドロス大王の彫像です。彼についてはその後のヨーロッパや中東においても「偉大な大王」として人々の記憶と歴史に深く刻み込まれ、彼を模した彫刻は数多く存在するのですが、もちろん彼がどんな顔立ちをしていたのかなど誰も知る由もありません(笑)その中で、記録や古い文献から、最も彼の顔立ちに近いとされているものです。

当時、ペルシア帝国の頂点に君臨していたのは12代帝王ダレイオス3世という人でした。(紀元前380?~紀元前330)彼は帝国の存亡をかけて、アレクサンドロスを迎え撃ちます。しかし、アレクサンドロス大王の強さはダレイオス3世の想像をはるかに超えるものでした。(相手が悪かったですね。笑)ペルシア軍は陸海ともにアレクサンドロス軍に敗れ続け、ついに都ペルセポリスもアレクサンドロス大王軍によって占領されてしまうのです。


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上はローマ時代にあのポンペイの遺跡に描かれたアレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦いの様子を描いたモザイク画です。

ペルシア帝国の都ペルセポリスに入城したアレクサンドロス大王は、まずその宮殿の壮麗さに圧倒されます。戦においては天才であった彼もまだ20代で若く、国を統治する王としては経験が未熟でした。その彼が、自らが討ち滅ぼそうとしている帝国の宮殿を見て次に抱いたのが「恐れ」です。それは幾多の戦いに勝ち続け、「恐れ」などというものなど抱いた事がなかった彼が初めて経験するものでした。

かつてペルシアは、ギリシャ世界をその存亡の淵にまで追い詰め、そのためギリシャ世界においてペルシアは「野蛮で凶悪な悪の帝国」そのものでした。マケドニア出身のアレクサンドロスも、ペルシア戦争について子供の頃から嫌というほど聞かされ、当然の事ながらペルシアを邪悪な帝国と考え、それが彼にペルシア遠征を思い立たせる大きな要因であったのです。

しかし、遠征を開始してからペルシア領内を進撃中に、敵ペルシアに対する彼の見方は大きく変わっていました。特に数十の民族を束ねる巧みな統治システムと、ギリシャには無い独特の高度な文化、これぞ世界帝国というものを目の当たりにして来たからです。

それまでのアレクサンドロスはギリシャ文明こそ世界最高のものであり、そのギリシャが頂点として世界を支配すべきと考えていました。しかし、ペルシア遠征によってペルシアの真の姿を目にし、彼は自分が生まれ育ったギリシャ世界と比較してそのあまりの違いに愕然となったのです。その集大成がペルセポリスの大宮殿でした。

「世界の全てを治めるとはこういうものか。これに比べれば、わがギリシャのなんと狭くて小さい事か。」

そして彼は、ある大きな決意を固めるのです。それはこの壮麗なペルセポリスの宮殿を焼き払うというものです。では彼はなぜこのペルセポリスを焼き払う決意をしたのでしょうか? ごく普通に考えれば、そのまま残してその後の統治に活かそうと考えるはずです。

これについては、現代においても考古学者の間で意見が分かれています。しかし、多くの学者たちの間で一致したものとされているのが、このペルセポリスを焼き払う事で、ペルシア帝国の威光を完全に消し去り、そのペルシアに代わる新たな支配者としての自分を人々にあまねく見せ付けたかったのではないか。というものです。そのためには、この宮殿にはなんとしても消えてもらわなければならない。それほどまでに、このペルセポリスはアレクサンドロス大王を恐れさせたのです。

こうして紀元前331年、アレクサンドロス大王の命によりペルセポリスは炎上します。それは同時にアケメネス朝ペルシア帝国の終焉の炎でもありました。その翌年、ペルシア最後の王ダレイオス3世が家臣の裏切りによりバクトリアで暗殺され、キュロス2世以来12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡します。

帝国の滅亡後、この地域では数多くの国々が勃興しては消え去っていきました。そして、炎上から2300年に及ぶ長い間にペルセポリスは人々の記憶から忘れ去られ、歴史の表舞台に登場する事は二度とありませんでした。しかし現在、かつて世界の中心として栄え、人種も言葉も民族も違う多くの人々が集まった都は、今は同じく人種も言葉も民族も異なる世界中の人々が再び集まる一大観光スポットとなって蘇っています。

次回に続きます。

王妃への愛が生んだ空中庭園 ・ バビロン

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、エジプトと並ぶ人類最古の文明発祥の地である古代メソポタミアから「バビロン」をご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、この地域についてどの様なイメージをお持ちでしょうか? これは愚問だったかもしれませんが(笑)おそらく100%の方が「砂漠」と答えるでしょう。確かに、現在は気温50度にも達する猛烈な灼熱の砂漠地帯が広がっているのが事実です。しかし、古代メソポタミア文明が花開いた遠い昔、このあたりは今とは全く違う水と緑に溢れた豊かな土地だったのです。

それについてお話する上で欠かす事の出来ない大きな存在があります。それは古代メソポタミア文明を育んだ二つの大河、ティグリス川とユーフラテス川です。メソポタミアとは、ギリシャ語で「二つの川の間の土地」を意味しています。(この程度の事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いかもしれませんね。)


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上は今回の主役、バビロンを含むメソポタミアの主要地域です。

では、その二つの大河が生んだ古代メソポタミアの歴史は一体いつ頃から始まるのでしょうか? これについては現在までの発掘調査とその研究成果によって、このメソポタミアにおける最初の都市文明が興ったのは紀元前3500年頃(今から5500年ほど前)に、シュメール人が築いた都市国家ウルクに始まるとされています。

彼らシュメール人は、水路を作って人工的に川から水を農地に引き込む灌漑(かんがい)農業によって、食糧の安定供給を実現し、それが人口の増加と生活の安定につながり、やがて数十の都市国家群からなるメソポタミア文明が花開いた大きな理由でした。


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上の画像1枚目がユーフラテス川沿いの湿地帯を船で渡る現地の方々です。そう、これこそ数千年前の古代メソポタミアの原風景なのです。そして2枚目がティグリス川沿いで行われている灌漑農業の様子です。二つの川の上流から中流域では、この様に可能な範囲で川から水を引いて農地を潤しています。

この灌漑農業によって、古代メソポタミアは多くの作物が実る豊かな地になったのですが、その中で最も多く栽培されていた作物が「小麦」でした。人々の生きていく糧となるパンの原料として、小麦は欠かす事の出来ない一番大事な農産物だったからです。


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この小麦がこの地で多く栽培されたのにはもう一つ理由があります。実は意外に思われるかもしれませんが、小麦は乾燥した気候を好むのです。そのため、私たち日本人の主食である「米」の様に、収穫までの長い間多くの水がいらず、この地域の様に暑くて乾燥した地域でも、時折水を流してやる程度で十分育つのです。

この様に、かつては豊かな土地であった古代メソポタミアでは、シュメール以後もさまざまな民族、国家が興亡を繰り返していく事になります。今回お話するバビロンも、そうしてこの地に生まれた国家の一つ「バビロニア王国」の都として栄えた街でした。

古代メソポタミアでは、先に述べたシュメール人によって、すでに紀元前3500年頃には楔形文字が考案され、さまざまな記録に使用されていました。それはシュメール滅亡後も後継国家に受け継がれ、その記録によれば、バビロンは紀元前2300年頃には、地方都市として存在していた様です。それがメソポタミアの中心となるのは、紀元前1894年に成立したバビロニア王国(「バビロン第1王朝」または「古バビロニア王国」と呼ばれます。)の時代になってからです。

この古バビロニア王国は11代の王が君臨し、メソポタミアの主要地域を支配しておよそ300年続きましたが、前回お話したヒッタイト王国の侵攻によって紀元前1595年に滅亡してしまいます。しかし、バビロンの街そのものは、その後もメソポタミアの中心都市として揺らぐ事無く繁栄し続けるのです。


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上が当時のバビロンの繁栄ぶりを描いたイラストと、古い記録や発掘調査などから復元された全体像を上から見た図です。(人口は都市とその周辺を含めておよそ12~13万程度と推定されています。)このバビロンはユーフラテス川をまたぎ、縦2.5キロ、横3.5キロのほぼ長方形をしています。堅固な二重の城壁に囲まれ、さらにその外側にユーフラテス川の水を引き込んだ堀が都市を囲んでいます。街の真ん中をユーフラテス川が流れている事から、自然と上流、下流の両方を行き交う船の寄港地として、そしてそれによって運ばれてくる様々な物資をやりとりするために周辺から多くの人々が集まり、これがバビロンが栄えた大きな地理的要因でした。

このバビロンの「大人気ぶり」は、その支配者が交代しても変わる事はありませんでした。なぜなら古バビロニア王国が滅んだ後も、なんと9つの王朝がこの街を支配し、そのうち8つの王朝がここを都としたからです。(バビロンに都を置かなかったのは9つ目のアッシリア帝国でした。アッシリアはニネヴェという街を都とし、バビロンは帝国末期の100年余りを支配していましたが、経済文化の中心地としてのバビロンの地位は、アッシリア時代においても揺ぎ無いものでした。)

そのバビロンが、メソポタミア全域を支配する強力な統一国家の都として歴史に燦然と輝く日が再び巡ってきます。紀元前625年にアッシリア帝国のメソポタミア南部方面総督であったナボポラッサル将軍が、アッシリア王家の王位争いによる混乱に乗じて挙兵し、バビロンを占領して自らバビロニア王として即位したのです。彼が新たに興した王朝は「新バビロニア王国」と呼ばれ、バビロンはその都となります。


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上が新バビロニア王国を興したナボポラッサル王です。(?~紀元前605)これはいつもながら自分がネットで拾ったイラストで(汗)もちろん彼の肖像など残っていないのですが、王国の創始者として人々を従えさせる威厳と力強さに満ち溢れるたくましい人物だったのだろうと思います。(自分の勝手なイメージです。笑)

その後、ナボポラッサル王率いる新バビロニア王国は、領土拡大を狙ってメソポタミア北部へと侵攻を開始します。当時この地域には1400年以上に亘ってこの地を支配したアッシリア帝国がありましたが、度重なる王位争いと反乱によって帝国は大きく衰退していました。


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上がアッシリア帝国の最盛期の支配地域です。

しかし、かつてはメソポタミア全土を支配し、ヒッタイト滅亡後のアナトリアとエジプトまでも支配下に収めた強力な軍事力は今だ健在で、それゆえ堅実なナボポラッサル王はバビロニア単独での戦いを避け、東の隣国メディア王国と同盟を結び、さらに密かにアッシリア軍を率いる将軍たちでその待遇に不満を抱く者などに、味方になれば今よりも高い地位と莫大な報酬を約束して離反を促し(こういうのを「調略」と呼びます。)16年もの時間をかけて着実にアッシリアを追い詰めていきます。そしてついに紀元前609年、バビロニア・メディア連合軍はアッシリア帝国を滅亡させるのです。

こうしてメソポタミア北部をも手中に収めたナボポラッサル王は、さらにその先のシリア、パレスチナなどの地中海沿岸の領土も支配すべく軍を差し向けます。狙いは地中海沿岸部を支配する事で、東西の海洋交易路を確保する事です。しかし、その先には同じくこの地を狙うエジプト王国が待ち受けていました。バビロニアとエジプトはこの大きな利権を巡って戦争に突入しますが、勢いに乗るバビロニア軍はエジプト軍を破り、シリア、パレスチナはバビロニアの手に落ちます。新領土獲得にナボポラッサル王は大いに喜びますが、もはや老齢で体調を崩していた王は、紀元前605年に急病に倒れて亡くなってしまいます。その後を継いで2代国王となったのは、先王の長男ネブカドネザル2世という人でした。


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上がネブカドネザル2世(?~紀元前562年)の彫刻と、アッシリア滅亡後の国際情勢です。主に4つの大きな国に分かれていますね。そしてひときわ目立つのが最大の領域を支配するメディア王国の存在です。この国は上の図にもある通り、新バビロニアより90年ほど早く成立し、現在のトルコ東部からイラン、アフガニスタンに至る広大な地域を支配した巨大な王国でした。

新王ネブカドネザル2世は、すでに先王の後継者として老齢の父王に代わってバビロニア軍を指揮し、アッシリア打倒戦やシリア方面での戦いでも前線で戦っていた生粋の武人でした。シリア、パレスチナも平定したところで父王が亡くなると、その遺志を継いで即位、父が築いた王国の更なる拡大発展のために尽力します。

ところが、このバビロニアでの王位交代の隙を突き、エジプトが再びシリア、パレスチナ方面に介入してきたのです。その兵力はエジプト軍と旧アッシリア帝国の残党を合わせて総勢4万。これに対し、ネブカドネザル2世はシリア奪還のため直ちに軍を率いて出陣しますが、その兵力は敵の半数以下の1万8千でした。紀元前605年、両軍はシリア北部カルケミシュで激突します。これが「カルケミシュの戦い」です。

兵力は圧倒的にエジプト軍が優勢です。しかし、思わぬ誤算がエジプト軍に生じます。彼らはアッシリア軍の残党を加えた混成部隊であったため、指揮統率が思う様に取れず、うまく連携出来なかったのです。ネブカドネザル王はこの敵の混乱の隙を突いてエジプト軍に甚大な損害を与え、見事に大勝利を収めました。これにより、エジプト王国はシリア、パレスチナ方面への進出を断念し、その後二度とこの地域へ進出を企てる事はありませんでした。

こうして西の脅威を取り除いたネブカドネザル2世は、意気揚々とバビロンへ凱旋しますが、彼には一つの大きな悩みがありました。その悩みとは、いつの時代も時の権力者を振り回す存在。つまり「女性」の事です。

ネブカドネザル王はすでに結婚して妃がいました。お相手は隣国メディア王国の王女アミュティス姫です。といっても、互いに好き合って結婚したのではありません。これは彼らの父王たちが、先に述べたアッシリア打倒の軍事同盟を結ぶ際に、その「証」として行われた完全な政略結婚でした。両国の末長い関係維持のためには必要なものだったと思われますが、見た事も会った事もない相手と結婚させられる方はたまったものではありません。アミュティス姫は父王に抗います。

「父上。わたくしは絶対嫌でございます! 何ゆえあの様な地の果てにわたくしが行かねばならないのですか? わたくしはこのメディアの国を離れとうはございません。」

このメディア王国のあった現在のイラン一帯は、高原と山脈の多い地域です。メソポタミアよりはるかに緑に溢れ、とりわけ、雪を頂く3千メートル級の山々が連なる壮大なザグロス山脈を見て育った彼女には、見渡す限りの平野と川の周囲の農地以外は砂漠の続くメソポタミアでどんな暮らしが待ち受けているのか想像するのも身震いがしたのかもしれません。

当時、バビロニアの隣国メディア王国の王はキュアクサレス2世という人でした。彼は娘をなだめ、説得します。

「そなたにはすまぬが、これはもうバビロニア王との間ですでに決めた事なのだ。今さら取り消す事など出来ぬ。もしそんな事をすれば、わしの立場がないではないか。ここは父のため、わが国のためにどうかバビロニアに行ってくれ。頼む。」

結局父王の命には逆らえず、アミュティスはバビロニアに輿入れする事になります。キュアクサレス王は娘のために大勢の女官と信頼の置ける家臣たちをつけて彼女を送り出しました。一方のネブカドネザルの方は、アミュティスの心情について臣下からの報告で良く理解しており、彼女が退屈しないよう贅を凝らした宮殿を建設して出迎えます。

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「遠い所から良く参られた。これからはここがそなたの国だ。至らぬ事や欲しいものがあれば何でも私に言ってもらいたい。」

まだ皇太子であったネブカドネザルは妃にこう言ってやさしく迎えたのですが、先に述べた様に当時彼は父王の代理でシリア方面征服作戦の途中であり、その忙しさからバビロンに妻を残して長い遠征に出かけてしまいます。バビロンに一人残されたアミュティスは、次第に募る故郷への望郷の思いと寂しさから、すっかり塞ぎ込んでしまう様になってしまいました。

やがてアミュティスにとっては義理の父であるナボポラッサル王が崩御し、ネブカドネザルがバビロニア2代国王に即位しますが、王妃となったアミュティスはなかなか彼に心を開こうとはせず、王は困り果ててしまいます。

夫婦仲が悪いわけではないのです。アミュティスもメディア王家の王女として立派な教養と品格を備えた女性です。しかし、あまりにも違いすぎる環境の変化に、彼女は自分を合わせていくのが精一杯でした。


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「可哀相な事をしてしまった。何か良い方法はないものかな。」

ネブカドネザル王は悩みます。なぜなら王である彼は世継ぎをもうけなければなりません。そのために彼ならその権力で自分の好みの女などいくらでも手に入れられます。しかし、事はそんな単純なものではないのです。もし、彼が正妻であるアミュティスを疎んじ、側室らとの情事にばかり耽る様になれば、アミュティスの実家メディア王家が怒ってメディア王国との関係が悪化し、戦争になるかもしれません。

上の地図でお分かりの様に、メディアは当時オリエント最大の領土を支配する大国で、その軍事力も侮れない大きなものです。もし戦争になれば、メディア王キュアクサレス2世には「娘を取り返す」というバビロニア侵攻の絶好の口実があるのです。

そこで彼は、王妃のためにとんでもない事を思いつきます。


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「わが王宮をメディアの地と同じにせよ。木と草花を植え、水を通して池も作れ。宮殿を森と泉で埋め尽くすのだ。」

王は家臣たちにこう命じたのです。宮殿の改装工事は王の直接指揮のもとで行われ、出来るだけメディアの風景に近づけるよう配慮がなされました。こうして歴史上初めての屋上庭園を持つ宮殿が完成したのです。これを「バビロンの宮中庭園」と呼びます。


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上がバビロンの空中庭園の復元想像図です。宮殿を階段状にし、そのテラスに各地から取り寄せた樹木と季節の花々が植えられ、魚が泳ぐ泉はもちろん滝まで作られていたそうです。ポンプなどないこの時代に、どの様にして水を宮殿の屋上にくみ上げていたのか謎ですが、おそらく水車をいくつも組み合わせていたものと推定されています。(現在東京などの大都会でも「屋上緑化」されたビルが見受けられますが、2600年も大昔にすでに作られていたのには驚きですね。)

自分のためにここまで気を使ってくれた夫に対して、妻のアミュティスがなんと答えたのかは残念ながら記録がありません。しかし、確かなのは、その後ネブカドネザル王夫妻には無事に後継者の王子が誕生し、新バビロニア王国はネブカドネザル2世の40年以上の長い在位中に最盛期を迎えたという歴史的事実です。


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上は伝説の空中庭園があったとされるバビロンの王宮の現在の姿です。

しかし、その後新バビロニア王国は、ネブカドネザル2世の死からわずか26年後の紀元前536年、メディア王国の属国であった南の小国アンシャンから興ったアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされる事になってしまいます。そして空中庭園を含むバビロンの王宮はその戦乱の際にペルシア軍によって破壊され、オリエント最大の繁栄を謳歌したバビロンの栄光の日々も終わりを迎えます。

それから月日は流れ、この地の支配者も目まぐるしく移り変わる中、メソポタミアは前段で述べた灌漑農業の弊害ともいうべき「塩害」(農地に引き込んだ川の水が蒸発する際に、含まれていた塩分が土壌に噴出し、作物を駄目にしてしまうものです。)によってかつての肥沃な緑の大地は荒れ果てた砂漠へと変わり果ててしまいます。

かつて一人の王が、王妃への愛の証として建てた壮麗な宮殿は、今はイラクの砂漠の中にその土台部分だけがその遺構を留めるばかりです。今この宮殿の跡を包み込んでいるのは、時折吹きすさぶ暑い砂嵐だけです。

次回に続きます。

鉄の王国ヒッタイトの都 ・ ハットゥシャ

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、遠い昔から幾多の古代国家が興亡を繰り返し、アジアとヨーロッパ、東洋と西洋が交じり合い、悠久の歴史を刻んできた魅惑の国トルコから、「ハットゥシャ」をご紹介したいと思います。この「ハットゥシャ」は、紀元前1600年頃にこの地に興った最初の統一国家である「ヒッタイト王国」の都として築かれたものです。

ヒッタイト。この王国こそ初めてアナトリアを統一し、強大な軍事力で周辺国に恐れられ、後には東のメソポタミアに侵攻してこれを征服。さらに転じて南のエジプトにも進軍し、迎え撃つエジプト軍と激しく争った恐るべき軍事国家でした。では、そもそも今回のお話の主役であるヒッタイト王国はいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか? まずはそのあたりからお話したいと思います。

現在知られている最も有力な説では、ヒッタイト人は紀元前2千年頃(今から4千年前)にカスピ海の北方からアナトリアの地に移動し、定住したといわれています。もちろんその時期も場所もばらばらで、大小いくつもの集団に分かれ、最初からまとまっていたわけではありませんでした。彼らはそれぞれ移住した地に都市を築いていきましたが、やがてその中で大きな集団を率いる者が指導者として周辺のヒッタイト都市を従えていく様になります。

ちなみに「ヒッタイト」という名ですが、これははるか後の19世紀から20世紀にかけて、この地域を調査研究していたセイスなるイギリスの考古学者が、旧約聖書に登場する「ヘテ人」にちなんで名付けたのがその由来だそうです。(もともとの固有名詞ではなく、後の学者が後付けで名付けたのですね。ただし、なぜこう名付けたのかは不明です。)

そして紀元前1580年頃、全ヒッタイト民族を統一して最初の王になったのがラバルナ1世(?~紀元前1565年頃)という人物です。彼が築いた最初のヒッタイト王国はおよそ80年ほど続き、歴史上ではこれを「ヒッタイト古王国」と呼んでいます。ヒッタイト王国はその後、70年続いた「中王国」そして滅亡するまで最も長く続いた250年余りの「新王国」に分かれ、合わせて400年間に亘り、アナトリアから現在のシリア、イラクに至る地域を支配しました。


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上がこの地域における当時の国際関係を表した図です。ヒッタイトと合わせ、南にはエジプト王国、東のメソポタミアにはこれも強大なアッシリア帝国が覇を競っていました。(注)上の図では、Reich「ライヒ」すなわちドイツ語で「帝国」と表記されていますが、「帝国」とは「皇帝」の統治する国家であり、この時代にはまだ「皇帝」という称号は存在せず、さらにヒッタイトをはじめ、その他の国々においても、その頂点に君臨するのは「王」である事から、厳密には「王国」と表記すべきでこれは正しくありません。しかし、世界史では多くの場合、そうした国でも帝国と呼んで(ペルシャ帝国や大英帝国など。いずれも君主は王です。)それがすっかり定着している場合も多いです。頭が固いかもしれませんが、当ブログでは原則論に従ってヒッタイト王国と呼ぶ事にするので、その点を踏まえてご了承ください。(苦笑)

さて、ヒッタイト王国を建国した最初の王ラバルナ1世ですが、残念ながら彼については「ヒッタイト王国初代国王」であるという事くらいしか分かっていません。なにしろ3600年も昔の人物であり、肖像はもちろん彼にまつわる記録も粘土板に記された極めてわずかな記述しか残っていないからです。では、そのラバルナ1世に始まるヒッタイト王家歴代の王たちにまつわる記録は、一体どの様に記録されたのでしょうか? それについては下の画像を見て下さい。


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上はいわゆる「楔形」(くさびがた)文字をが刻まれた粘土板です。この文字はもともとメソポタミアで考案され、古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)と並んで歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ヒッタイト民族がカスピ海の北方からアナトリアに移住したというのは先に述べましたが、その途中で彼らは地理的にメソポタミアの影響を強く受け、その結果自分たち自身で文字を作らず、メソポタミアの楔形文字をそのまま導入してさまざまな記録に活用しました。

この楔形文字によって、ヒッタイト王国についての記録は極めて断片的かつ大雑把ではありますが、今日の私たちも知る事が出来るのです。それによると、初代ラバルナ1世については次の様に記述されています。

「狭かった国土をラバルナが大きく広げた。ラバルナは7つの街を征服し、敵を海にまで追いやり、それぞれに息子を支配者として送り込んだ。」

彼が強大な武力を持っていたのは間違いないと思われますが、しかし、諸部族を統一して広大な王国を建国するには、単に強大な武力を持っているだけではなく、人々を従えさせる王としての品格と度量の広さ、さらに統治者としての政治指導力なども無くては無理でしょう。おそらくそうしたものも全て兼ね備えた優れた王であったのだろうと思います。(と、いうのは自分の勝手な想像ですが。汗 みなさんはどう思われますか? 笑)

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上はヒッタイト王のイメージです。(拾いもののイラストです。笑)

記録によれば、その後初代ラバルナ1世が亡くなると、後継者には彼の王妃の従兄弟にあたるハットゥシリ1世(?~紀元前1540年頃)が2代国王に即位します。ここで疑問に思うのは、先王ラバルナ1世には少なくとも7人の息子すなわち王子たちがいたのに、血筋では全く関係ない他人である王妃の従兄弟が王位を継いでいるという点です。記録には残されていませんが、おそらくこの時、王位を巡る争いがあったのは間違いないでしょう。そして先王の王子たちを破り、勝ち進んだハットゥシリが彼らを粛清し、王位を奪ったものと思われます。(この時点でヒッタイト王国は王朝が交代しているわけですが、この王国はその後も王位を巡る内紛が幾度も続き、その都度王朝の交代が恒例化していく事になります。)

ともあれ、ヒッタイト王国2代国王となったハットゥシリ1世ですが、この彼の変わった名を聞いて、誰もがすぐに「ピン」と来るのではないかと思います。そう、彼こそが今回のテーマの主役である王国の都「ハットゥシャ」を築いたその人なのです。彼は新体制のシンボルとして、自らの名を冠した新たな街を築き、ラバルナ1世が都を置いていたクッシャラ(所在不明)なる街からハットゥシャに遷都し、それ以後このハットゥシャは、ヒッタイト王国の滅亡まで王国の都であり続けるのです。


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上の画像1枚目がハットゥシャの復元想像図です。尾根沿いに堅固な城壁が街を取り囲んでいますね。2枚目の同じ位置の画像と見比べて見てください。3枚目は現在のハットゥシャの見所の配置図です。大きさは東西およそ1.2キロ、南北およそ3キロの楕円形をしています。(人口は都市の規模からおよそ4~5万程度と推定されています。)

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上の一連の画像は現在のハットゥシャ遺跡の様子です。上空から見た画像を見ると、遺跡は石が削り取られたかの様にきれいになくなっていますね。これは後の時代にこの地に興り、滅んでいったあまたの国々が城壁などの資材として転用するために長い年月をかけて持ち去ってしまったためです。しかし、転用を免れた石には多くの彫刻やレリーフが残され、当時の繁栄を偲ぶ事が出来ます。

最後の写真に注目して下さい。これは兵士ではなく神々を掘り刻んだもので、「ヒッタイトの12神」と呼ばれています。これを見るだけで、この国が多神教国家であったのは容易に想像出来ますね。キリスト教もイスラム教もないはるかな昔、さまざまな異教の神を信ずる多くの民族を束ねるには、その方が都合が良かったのでしょう。

このハットゥシャは、ドイツの考古学者フーゴー・ウィンクラー(1863~1913)によって1906年に発掘調査が行われ、失われたヒッタイト王国の都の全貌が明らかにされました。そして1986年世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が後を絶たないトルコでも人気の観光スポットです。

それからのヒッタイト王国は隆盛期に入ります。歴代の王たちによって繰り返された外征により、その領土と支配地域は大きく広がっていくからです。それではヒッタイト王国躍進の原動力とは一体なんだったのでしょうか? なぜ彼らヒッタイト軍はそんなにも強かったのでしょうか?

それは歴史好きの方ならば知識としてご存知と思いますが、このヒッタイト王国は史上初めて「鉄」を大々的に生産、加工する技術を確立した今で言う「先進テクノロジー国家」であったからです。


前回のミケーネでもお話した様に、この時代の世界は「青銅器時代」の全盛期でした。青銅とは銅と錫の合金で、加工がしやすいのが特徴ですが、銅の産出地が多い所でないと大量生産は出来ない欠点がありました。そのため銅や錫が取れない国では高価な貴重品だったのです。

しかし、鉄は銅よりはるかにその埋蔵量が多いのです。みなさんも子供時代、磁石で砂の中から「砂鉄」を取り出した事があると思います。そう、ヒッタイトの製鉄技術は主にこの砂鉄から作り出す「たたら製鉄」によって生産されたものでした。


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上はたたら製鉄によって炉から流れ出した「銑鉄」(せんてつ)です。これを鋳型に流し込んで形を整え、叩いて剣や槍、矢じりを作ったり、それ以外の様々な鉄器を生産しました。

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上はヒッタイトの戦車のイラストです。その車輪にも鉄が使われています。ヒッタイト軍はこの様な戦車を数百両集めた「機甲部隊」で敵の防衛線を打ち破り、その後を鉄剣や鉄槍で武装した歩兵部隊が怒涛のごとくなだれ込み、敵国の都まで一気に侵攻する電撃作戦で連戦連勝を重ねました。

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さらに鉄の利点はなんといってもその強度です。青銅の硬度は50~100程度に対し、鉄の硬度は150~200で、2~3倍の強度の違いがあるのです。(鉄の剣と青銅の剣で戦えば、当然青銅の剣は折れてしまいますね。これでは実戦では勝負になりません。)

ヒッタイトはいち早くこの製鉄技術を確立すると「国家機密」として厳重に管理し、いわゆる「ブラックボックス化」して独占しました。そのため周辺国は、ヒッタイトの滅亡まで製鉄技術を得る事が出来ず、青銅器を使い続けざるを得なかったそうです。

このヒッタイト王国の躍進に大きな脅威を感じていた南の大国がありました。それはエジプト王国です。ヒッタイトとエジプトは現在のシリアとイスラエル付近を挟んだ国境地帯で戦争を繰り返しましたが、双方ともなかなか決着が付かず、戦争は300年も続いていました。しかし、その300年に及ぶ歴史に終止符を打つべく、エジプトで一人の王が大きな決意を固めていました。古代エジプト最強の王として有名なラムセス2世(紀元前1302頃~紀元前1212)です。


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上は戦車に乗って大きく弓を引くラムセス2世の絵です。彼はエジプト第19王朝3代国王(ファラオ)にして、エジプトのファラオとして通算すると138代目に当たるそうです。

領土拡大の野望に燃える若きラムセス2世は、シリアをヒッタイトから奪い取ろうと紀元前1274年、自ら大軍を率いて北上、これを迎え撃つ時のヒッタイト王ムワタリ2世の軍と一大決戦に臨みます。これが「カデシュの戦い」です。


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上はカデシュの戦いで奮戦するラムセス2世を描いたイラストです。この戦いにおける両軍の兵力はエジプト軍が歩兵1万6千、戦車2千両(1両の戦車には3名程度が乗るので、それを合わせると2万2千程度でしょうか。)これに対しヒッタイト軍は歩兵2万、戦車3千両(同じく計算するとヒッタイト軍は2万9千。兵力ではヒッタイト軍が有利ですね。)

ラムセス2世は捕えたヒッタイトのスパイの情報から、ヒッタイト軍が到着する前にカデシュを占領してしまおうと無理して兵を進軍させます。しかし、これはヒッタイト王ムワタリ2世の仕掛けた罠でした。彼はエジプト軍をカデシュに引き込み、包囲殲滅するつもりでいたのです。これにまんまと引っかかってしまったラムセスのエジプト軍にヒッタイトの戦車部隊が一斉に襲い掛かります。油断していたエジプト軍は大混乱に陥りましたが、ラムセス2世がいざと言う時に備えて温存していた取って置きの別動部隊が側面からヒッタイト軍を撃退し、ラムセス2世はようやく戦場を離脱する事が出来ました。

その後、戦線はこう着状態になり、ムワタリ2世とラムセス2世との間で講和条約が結ばれ、戦闘は終結します。この戦いによってラムセス2世は当初の目的であったシリア獲得は成らず、大勢の兵を失う大損害を被り、事実上戦いはラムセス2世の惨敗なのですが、偉大なファラオが「敗れた」とはいえないため、エジプト側の記録では全てラムセス2世の大勝利と改ざんされています。(負けず嫌いのラムセス2世らしいですね。笑)

この時、エジプトとヒッタイトとの間で結ばれた講和条約こそ、明文化されたものでは歴史上世界で最初の和平条約として有名で、これ以後両国は、ヒッタイト王国の滅亡までおよそ100年以上もの間、国境線上で均衡を保つ事になるのです。


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上がヒッタイト・エジプト平和条約を記した粘土板です。これもハットゥシャの遺跡で発掘され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されています。

この様に精強を誇ったヒッタイト王国でしたが、このカデシュの戦いの始まる頃から衰退の兆しが見え始めていました。特に東のメソポタミア地域には、新興国家アッシリア帝国が徐々にヒッタイト領を侵食し始め、国境紛争が後を絶たなくなります。さらに西からは、これも新興勢力「海の民」が地中海からヒッタイトに襲い掛かります。

ヒッタイト軍は騎馬を中心とする陸軍が主力であり、基本的に海の戦いは不得手でした。そのため海の彼方からいつ攻め寄せてくるか分からない海の民からの防衛のため、地中海沿岸の各都市に守備隊を分散配置せざるを得ず、その結果各個撃破される悪循環に陥ってしまったのです。

さらにヒッタイト王家の王位争いによる内乱が追い討ちをかけます。内憂外患とはまさにこの事です。これら一連の混乱により国の統制は乱れ、王国は崩壊の道を転げ落ちていきます。そしてついに紀元前1180年、ヒッタイト王国は滅亡し、都ハットゥシャは放棄されてしまうのです。

長い間、ヒッタイト王国は海の民の攻撃によって滅んだと言われて来ましたが、近年の発掘による研究結果から、ヒッタイト滅亡の原因はそれだけでなく、末期の3代に及ぶ王位を巡る内紛と、それにともなう深刻な食糧難、それに付け込んだアッシリアの介入などの複合的な要因により滅亡に至ったものと推定されています。


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上は草原の中に広がる現在のハットゥシャの遺跡の姿です。遠い昔に栄え、そして滅び去った古代の王国の都の跡を、今はその子孫の少女が無邪気に歩いています。

次回に続きます。

黄金の仮面が眠る街 ・ ミケーネ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に続いて再びギリシャから「ミケーネの王宮」をご紹介したいと思います。といっても、正確には宮殿と街をぐるりと堅固な城壁で囲ったいわゆる「城塞都市」と言うべきものですが、後の中世ヨーロッパ全土に築かれていった城塞都市の原型として、大変興味深いものです。

このミケーネの王宮は、ギリシャ本土、ペロポネソス半島の東部に位置する古代遺跡で、その起源は紀元前1500年頃(今から3500年前)にさかのぼります。この時代は、歴史の大きなくくりで言えば、いわゆる「青銅器時代」に当たり、各地域の古代文明の存続期間によって、その発祥と終わりに数百年の差が表れるのですが、おおむね紀元前3500年頃~紀元前800年頃までのおよそ2700年余りがこれに相当します。

この青銅器時代は、それまで石器しか知らなかった人類が、その名の通り青銅を素材に様々な道具を使い出した時代です。ちなみに青銅というのは銅と錫(すず)を混ぜ合わせた合金で、この配合の多少によって、硬さや色などの点で大きな変化が出る事から、最も加工しやすい金属として珍重され、「鉄」が出現するまで幅広く利用されたものです。今回お話するミケーネの王宮でも、大量の青銅器が出土しています。


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上がミケーネの位置と、空から見た全景です。

このミケーネは、前回お話した古代エーゲ文明の一つであるクレタ島のミノア文明が衰退期に入った頃に、入れ替わる様に興隆発展したもので、歴史好きの方であれば誰もがご存知のあのハインリッヒ・シュリーマンによって、1876年に大々的に発掘調査が行われ、数多くの金銀細工と貴重な出土品で世界を驚かせました。


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上がハインリッヒ・シュリーマンです。(1822~1890)彼については前回もお話した様に、伝説の都「トロイ」の発見者としてあまりにも有名ですね。実業家として財を成した後に考古学の道にのめりこみ、後の世に「ギリシャ考古学の父」として、「偉大な考古学者」の様に紹介される事の多い彼ですが、実際には彼は正規の考古学者というよりも、考古学者に匹敵するほど詳しく良く知る「考古学マニア」でした。つまり「アマチュア」だったのです。そのため彼は、発掘で出土した多くの財宝を「自分の物」としてトルコやギリシャから彼の祖国ドイツに勝手に持ち出し、さらにそれらの財宝は第二次大戦終結直前にソ連軍によって接収され、今日それがそれぞれの国の間で所有権をめぐる争いになっています。

このミケーネは、そんなシュリーマンがトロイの発掘をしていた頃とほぼ同じ時期の1870年代に並行して行われていました。なぜならこのミケーネは、伝説のトロイの都を攻撃したギリシャ軍の総大将「アガメムノン王」の王国であったからです。そのためシュリーマンは、トロイと変わらない情熱さを傾けてこの街の発掘に全力を注いでいました。

ミケーネがこの地に興隆したのは、先に述べた様に紀元前1500年頃と推定されています。これは、遺跡から出土した粘土板に刻まれた線文字を解読した結果などから割り出されたもので、最初は小さな都市国家だったものが、エーゲ海全域での活発な海洋交易により富を蓄え、それが人口の増加と国力の増大により周辺の都市を服属させながら勢力を拡大、やがてクレタ島を中心とするミノア文明に代わる「ミケーネ文明」としてギリシャ世界に君臨する事になったと考えられています。

ちなみに「ギリシャ」という名の由来についてですが、これはかつてギリシャ本土のペロポネソス半島に居住していた「高地の人々」または「名誉の人々」を意味するラテン語の「グレキア」が、わが国が最初に接した西洋の国であるポルトガル語で「グレーシア」と呼ばれていたものが訛ったのだそうです。もちろんこう呼んでいるのはわが国だけで、それぞれの国で呼び方は違います。例えば、当のギリシャ本国において、彼らが自国の名を呼ぶ場合の正式国名は「エラス共和国」と読んでいるそうです。(ギリシャ神話の女神ヘレンに由来し、ギリシャ民族はこのヘレンの子孫であるという伝説から。)

今回ご紹介するミケーネは、古代ギリシャ民族を構成したいくつかの民族のうち、紀元前2000年頃に北方から南下して定住した「アカイア人」の一派である「イオニア人」が建国した王国でした。


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上が当時のギリシャ世界の全体の流れを現した図です。前回お話した様に、エーゲ海一帯に最初に華やかな文明の花を咲かせたのはクレタ王国のミノア文明でしたが、その後に興隆した本土のミケーネ王国が、紀元前1400年頃にこれを併合してギリシャ世界の覇者となったのです。

このミケーネ王宮が前回のクノッソス王宮と違う最大の点は、なんといってもその防御力の高さといえるでしょう。クレタのクノッソスは、城壁や城門、堀というものがほとんどなく、宮殿は外来者が自由に出入り出来るものでした。それがゆえに、クレタはミケーネ軍にあっけなく占領されてしまったものと思われるのですが、このミケーネの王宮は、冒頭に載せた写真をご覧になればお分かりの様に、小高い山の上に堅固な城壁をめぐらして宮殿と街全体をすっぽりと囲んだ城塞都市でした。


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上の一連の画像は現在のミケーネ遺跡の様子です。このミケーネは、1999年(平成11年)に世界文化遺産に登録されています。上の画像の最後の2枚に注目して下さい。これはミケーネの正門ともいうべき「獅子の門」といい、2頭のライオンが中央の太い柱の左右対称に刻まれています。このデザインは後のヨーロッパの王侯貴族の紋章に良く使われていますね。(4枚目の写真は門の入り口につながる道に、だいぶごつごつした大きな石ころが転がっていますが、5枚目の写真ではすっかり道が整地されて歩きやすくなっていますね。世界遺産への登録とともに観光客が増えたための配慮なのでしょう。)

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そして上が、ミケーネの復元想像図です。(人口は都市とその周辺を含めておよそ3万程度と推定されています。)これを見てまず目が行くのが、上で述べた王宮の正門である「獅子の門」を入って右手にある円形の構造物ではないかと思います。これは円形墳墓といい、地中海世界の遺跡では全般的に良く見られるもので、このミケーネを支配した歴代の王や王族が眠る「王家のお墓」です。

この円形墳墓から、シュリーマンは数多くの副葬品を発見するのです。そしてその大半がまばゆい黄金製でした。


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上の一連の画像は、シュリーマンが王家の円形墳墓とその周囲から発掘した黄金の品々です。1枚目が、かの有名な「アガメムノン王の黄金の仮面」です。これはシュリーマンがその様に名付け、今だにその名で呼ばれているものですが、実際はアガメムノンではなく、王族の一人のものであると考えられています。また、黄金の仮面はこれだけではなく、他の王族の墓からも出土しています。5枚目の「黄金のカップ」と6枚目の「黄金の器」に注目して下さい。この黄金のカップでミケーネの王はワインを飲み、黄金の器に豪華な料理を盛り付けて食べていたのでしょうか?

これらは全て、現在アテネの国立考古学博物館に展示されています。みなさんもギリシャに旅行される機会があれば、目の保養にぜひ立ち寄って見てはいかがでしょうか。(笑)

「黄金に富めるミケーネ」

あのトロイ戦争を題材にした叙事詩「イリアス」を書いたホメロス(紀元前700年代? に生きた大詩人)は、その中でミケーネをこの様に表現しています。そしてミケーネは、彼の言う通りの「黄金都市」でした。

ミケーネをこの様に豊かで強大な国家に押し上げた原動力は、なんといっても先に述べた「海洋交易」でした。ミケーネに限らず、エーゲ海一帯のギリシャ地域は地中海性気候で乾燥しており、農耕によって得られる作物は必然的に乾燥に強いものが古くから栽培されています。その中で代表的なものがオリーブと葡萄であり、それからオリーブ油やワインを作り、さらにそれらを入れる「入れ物」として鮮やかな絵柄を施した陶器を大量生産、さらに青銅でこしらえた剣や槍、甲冑などの武器が「高付加価値品」として輸出されました。

「輸出」といっても、この時代は今日の「お金」という概念はまだありません。余談ですが、「お金」すなわち貨幣というものが歴史に始めて登場するのは紀元前670年頃、現在のトルコに存在したリディア王国(紀元前690?~紀元前547)が鋳造したエレクトロン貨(金銀の合金)が最初のものと言われ、この時代から1000年近く後の事になります。つまり、それまで人々は日々の生活に欠かせない食べ物はもちろんそれ以外の他の物でも、手に入れる時は互いの欲しい物か、それに見合う価値のある物を交換する純粋な「物々交換」でやり取りしていたのです。

ミケーネの商人たちはこれらを船に積み込み、単独または複数の船団を組んでエーゲ海周辺の国々(エジプト、ヒッタイトなど)に出かけ、現地の商人と金、銀、銅、錫などの金属資源や象牙、琥珀、香料などギリシャでは手に入らない貴重で珍しい「贅沢品」と交換してミケーネ本国に持ち帰ったのです。

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このミケーネを含むエーゲ文明について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。古代ギリシャの本は数多いのですが、この本はギリシア文明の初期、すなわちクレタやミケーネ、それ以後の「暗黒時代」からポリスの興亡まで、とにかく豊富な図解でヴィジュアル的にお薦めするものです。ページ数は上の本が180ページ余り、下の本が140ページ余りです。文章で想像するより見て情報を知りたい方に良いと思います。

こうして繁栄を謳歌したミケーネ王国でしたが、その繁栄は突如終わりを迎えます。紀元前1150年頃、ミケーネの王宮は周辺の都市も含めて破壊され、ミケーネ王国は滅亡してしまうからです。それだけではありません。エーゲ海全域に広がったエーゲ文明そのものが、この時に一斉に滅びているのです。このミケーネを含むエーゲ文明の滅亡については、今だに世界の考古学上の大きな謎とされていますが、現在最も有力な説とされているのが当時勃興した「海の民」と呼ばれる謎の海洋民族の襲来です。


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上は「海の民」の進路図と、これと戦うエジプト王率いるエジプト軍の様子を描いた壁画です。この海の民は、定住する事無く略奪と破壊を繰り返す歴史上最初の「海賊」と呼べるもので、図で見てもお分かりの様に西地中海から東地中海に侵入し、まずはエーゲ海一帯を荒らし回り、トルコに上陸して当時の大国ヒッタイト王国を滅ぼし、さらに南下してエジプトにも攻撃を仕掛けています。当時エジプトは「新王国時代」と呼び、時の第20王朝の王ラムセス3世がこれと激しく戦い、なんとか追い払っています。

上の壁画では、大きく弓を引いて海の民を狙う王の姿が誇大に描かれていますね。これはもちろん王の偉大さを人々にあまねく知らしめるために強調されたものですが、もう一つ大きな理由があります。それはエジプト軍が大量の弓兵部隊を動員し、海の民に雨あられの様に弓矢を射かけ、これにより弓を知らなかった海の民はエジプトに上陸出来ずに敗れ去った、つまりエジプト軍の作戦を伝えるためのものなのだそうです。(これはわが国でも、かつて鎌倉時代の蒙古襲来の折に、来襲したモンゴル軍に対して幕府軍が同じ戦法で撃退していますね。要は「上陸させなければ良い」わけです。)

この海の民は、その後四散して歴史の表舞台からあっという間にいなくなるのですが、彼らによって、東地中海世界は大きな歴史的変動期を迎える事になります。この時期の一連の混乱によって、ミケーネを含むエーゲ文明は滅びてしまうのです。

この海の民が来襲した紀元前1150年頃を境に、およそ800年ほど続いた華やかなエーゲ文明は滅び去り、その時代を記した線文字は打ち捨てられ、ギリシャ世界はその後、文字による記録が一切ない暗闇の時代が到来します。それはおよそ400年ほど続き、世界史ではこの時代を表して「ギリシャの暗黒時代」と呼んでいます。

今回お話したミケーネは、その歴史が外敵の侵入という不幸な形で終わりを迎えていますが、もしそれがなければ、古代ギリシャの歴史はまた大きく違ったものになっていた事でしょう。あるいはいずれ地中海全域に広がる後のローマ帝国の様な一大帝国に拡大発展する事も出来たかもしれません。しかし、歴史はミケーネにそれを許しませんでした。今はギリシャの田舎のオリーブ畑に囲まれた小高い山の上で、その遺構がひっそりと残るのみです。正門の上に掲げられた2頭のライオンが、かつての繁栄を懐かしむ様に、人がいなくなってからも3千年の長き年月、ミケーネを守り続けています。

次回に続きます。
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