アレクサンドロス大王の戦い 7

みなさんこんにちは。

ガウガメラの戦いに勝利し、ダレイオス3世率いるペルシアの大軍を打ち破ったアレクサンドロス軍は、イッソスの戦い同様ペルシア軍が置いていった莫大な金銀を手に入れます。そしてバビロン、スサ、バサルガダイ、ペルセポリスといったペルシアの4大都市に軍を進めました。しかしこれらの都市のうちペルセポリスを除く他の都市は、もはやアレクサンドロスに抵抗する意志も力も無く、早々に降伏して城門を開いたので、彼はほとんど何の抵抗も受ける事無く無血入城を果たしたのでした。

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上は17世紀にヨーロッパ人が描いたバビロン想像図です。(あのバベルの塔が描かれていますね。)下がこれも有名なバビロンのイシュタル門の模型です。(イシュタルとは古代メソポタミア神話の性愛と戦を司る金星の女神だそうです。さらにドイツのベルリンにあるペルガモン博物館に展示されているものは、1930年代のヒトラー政権下に復元されたレプリカらしいです。)

これらの都市に入城したアレクサンドロスはここでも大量の金銀財宝を接収しますが、その規模は、これまでの戦闘で得た(というより敵が置いていったものを拾った。)金銀をはるかに凌ぐ莫大なもので、歴代のペルシア王が帝国各地から集めた使い切れないほどの金銀が山の様に積まれ、蓄えられていました。これにより、遠征開始から悩まされていた戦費の問題は一気に片付き、彼はもう金の心配をする事無く今後いくらでも遠征を続ける事が出来る様になりました。

アレクサンドロスはこれらの金銀を鋳潰し、彼の横顔と名を刻んだ大量の貨幣を作らせると、この時から自らを「大王」と称し、その宣伝のためにこれらを各地に流通させました。(ペルシア遠征でアレクサンドロスが得た金銀は、記録によればおよそ5500トンにも登ったそうです。)

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上がそれらの金銀貨です。

アレクサンドロスは紀元前330年の初め、いよいよペルシアの都ペルセポリスへと進軍します。しかしここまで来てペルシア軍の激しい抵抗に遭い、遠征開始以来始めて苦戦を強いられますが、彼の巧みな陽動作戦が功を奏し、ペルセポリスを陥落させます。そしてここでも膨大な量の金銀を手に入れ、それまで兵士たちに許していなかった略奪を許可します。(古来略奪は兵士たちへの報酬とは別で、数日間とか日数を限定して彼らに与える特権だった様です。)

アレクサンドロスはこの地で数ヶ月滞在し、戦後の残務処理をしながらある決意を胸に秘め、それを実行に移します。それはペルセポリスの壮麗な宮殿を焼き払う事です。しかし、なぜ彼はその様な事をしたのでしょうか?

その理由はペルシア帝国の象徴であるこの大宮殿を破壊する事で、アケメネス朝ペルシア帝国を完全に滅ぼしてこの世から抹殺し、自らが世界の支配者として君臨する「大王」である事を誇示し、人々にペルシアに代わる巨大権力が誕生しつつある事を知らしめるためでした。

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上の一連の画像がペルセポリスの遺跡です。復元図をご覧になれば分かりますが。遺跡に現存する高い柱や礎石の一つ一つが、元はこの巨大な宮殿の屋根を支えていた事が確認出来ます。また良く見ると、宮殿の様々な石像の顔が削り取られていますが、これは後の時代にこの地に興隆した偶像崇拝を禁じているイスラム勢力の仕業ではないかと思われます。またこれも後の時代に遺跡から大量の石材が、諸勢力や付近の住民によって城壁や都市の住居の材料として転用するために持ち去られてしまった様です。

さてペルセポリスを落としてなお勢い収まらぬアレクサンドロスは、今だ逃走中の敵王ダレイオス3世を追撃するためにさらに東へと出陣しますが、ちょうどその頃ペルシア側でもある異変が起きていました。敗れたダレイオスが態勢を立て直すために逃れたバクトリア地方で、その地域のサトラップ(総督)であった部下ベッソスの裏切りに遭い暗殺されたのです。

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上はアレクサンドロス大王の死後に建国されたバクトリア王国の領域を表す地図ですが、位置を知ってもらうためにお載せしました。ダレイオス3世の先祖であるダレイオス1世はもともとこの地域の総督であり、王家ゆかりの地でした。ダレイオスはここで再起を図ろうとしますが、二度も戦いに敗れて逃げ続けるという醜態をさらした彼に、もはや王としての権威も信用もありませんでした。せめて祖先の地で死ねた事だけが唯一の慰めとでも言いましょうか。いずれにしても、初代キュロス2世から数えて12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は彼の死をもってここに滅亡します。

そのダレイオスを暗殺した総督のベッソスは自ら「王」を名乗りますが、これはアレクサンドロスにとって好都合でした。彼は主君を殺した「裏切り者」であるベッソスを追討して、ダレイオスの仇を討つという大義名分を得たからです。(自分で散々ダレイオスを追い詰めておきながら、今度はその仇を討つというのもおかしな話ですが、一般にその様に解釈されています。)

ベッソスはバクトリアに侵攻したアレクサンドロス軍にあっさり敗れ、今度は自分自身も仲間に裏切られて捕らえられ、耳と鼻を削ぎ落とされた挙句、ダレイオスを殺害したその場所で磔にされ処刑されてしまいました。

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ダレイオスの死はペルシアの残存勢力にも大きな衝撃を与え、ペルシア貴族や総督たちが続々とアレクサンドロスに投降し、彼を「大王」として認め、新たな支配者として彼に服属を申し出ました。アレクサンドロスはこうした貴族や総督たちを統治に利用するため、それまで同じ同族のマケドニア人かギリシア人ばかりを支配地の長官に任命していたこれまでの姿勢を改め、彼らをそのまま留任させるか再登用していきます。そして統治政策なども、ペルシア式の優れた点をどんどん取り入れ、自らもペルシアの衣装を身にまとうなど、言わば「東方化」していきました。

しかしこの彼の方針転換と「東方化」は、これまでアレクサンドロスに付き従って来たマケドニア人やギリシア人の部下達はおろか、末端の将兵たちの間にまで不満の種を蒔く事になり、この頃からアレクサンドロスと彼らとの間には、様々な問題が生じて来る様になりました。

次回に続きます。
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アレクサンドロス大王の戦い 8

みなさんこんにちは。

宿敵ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロスは紀元前329年から327年まで、前回お話したバクトリア地方の制圧に向かいますが、この地で現地の遊牧民族の激しい抵抗に遭い苦戦します。それどころかこれまで無敵を誇り、常に勝利して来たアレクサンドロス軍が、ここに来て敗北を重ねる事が多くなります。

どうして当時世界最強であったアレクサンドロス軍は敗れたのでしょうか?

それは敵である遊牧民族が、いわゆる「ゲリラ戦」を仕掛けて来たからです。彼らがどの様な「ゲリラ戦」を展開したのかというと、具体的にはアレクサンドロスの数万の大軍が長い隊列を組んで険しい山道を進軍して行く際に、その隊列の柔らかい横腹の隙を突き、物陰に潜む遊牧民たちが一斉に矢を射掛けて数十人単位でアレクサンドロス兵を殺害するというものです。敵は身軽な小集団であり、すぐに逃げ去ってしまうため、重い鎧と盾に剣と槍という「重装備」で身動きの遅いアレクサンドロス兵は追撃するのも困難でした。

これにはアレクサンドロスもかなり悩まされた様です。何せ敵はこれまで相手にして来たペルシア軍の様な大軍による集団戦法ではなく、数十騎単位の小部隊で待ち伏せて襲って来る上に、いつどこから攻撃されるか分からないからです。(彼らは「攻撃する」つもりでバクトリアに侵攻したのに、自分たちが逆に「攻撃される」対象に陥ってしまっていました。)

敵が強大な大軍である場合、その敵との正面での戦いを避け、長期のゲリラ戦に持ち込んで敵を心身ともに疲弊させて弱らせる。これは現代でもベトナムやアフガニスタンで記憶に新しい事例がありますね。かつてこれらの地では最新兵器と圧倒的な物量を持つ完全装備の米軍や旧ソ連軍が、ろくな武器も持っていないベトコンやアフガンのイスラム兵が駆使した数々のゲリラ戦術に散々悩まされ、さらに十数年に亘る泥沼の長期戦で物心ともに疲弊して国家財政はボロボロになり、事実上敗北して逃げるように撤退した事は数々の映画で描かれて良く知られています。

(ベトナムではサイゴン陥落の際、追い立てられ、慌てふためきながら撤退する米軍が、ベトナム戦争の象徴であった多数のヘリコプターが空母や輸送船に留め置く場所も無くなり、やむなく海上に投棄して操縦していた米兵たちが泳いで味方艦船にずぶ濡れで救助される姿や、アフガニスタンでは旧ソ連軍は数千両の大機甲部隊で侵攻したのに、ゲリラのロケット弾や、道路上に仕掛けた強力な爆弾によって多数の戦車や装甲車が次々とキャタピラや車輪を破壊され、最後はペレストロイカを掲げるゴルバチョフの命によって、疲れきったソ連兵たちが長い列を成し、歩いて撤退して行く姿が印象的でした。)


それだけではありません。これまでアレクサンドロスに忠誠を誓ってきた部下たちからも、「大王」の方針に異議を唱える者が増え、不協和音が目立つようになって来ました。さらに兵士たちも、度重なる出征に疲れ果てていました。こうした状況を打開する為、アレクサンドロスはある程度の地域を支配下に置くと、それ以上のバクトリア作戦を中止し、一旦バビロンに戻って今度はインド侵攻を計画します。(この頃、アレクサンドロスは王妃としてバクトリアの領主の娘ロクサネを正妻に迎えます。)

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紀元前326年アレクサンドロスは、北のバクトリア地方から一転今度は南のインドへの侵攻を開始します。(進撃経路は上図参照)彼はおよそ5万余の兵を率いて南下し、インド諸侯の軍勢を撃破しますが、すでに遠征開始から8年、この時期遠征当初から従って来た兵たちには、厭戦気分が深刻なまでに広がっていました。

いつまで戦い続けなければならないのか? いやどこまでやれば気が済むのか? 地中海を手に入れ、かつてギリシアが文明の模範として憧れたエジプトを支配し、200年の宿敵大ペルシア帝国をも滅ぼした。人智の及ぶ全ての地を我らは手に入れたのだ。もう充分ではないか。これ以上何を望むというのか。それとも我らが大王はまだ足りぬというのか?

兵士たちの間でこの様な声が上がると、アレクサンドロスは兵士たちに呼びかけて奮起を促しました。

「もう少しで我らはインドを手に入れる事が出来る。その後にアラビアも落とす。そうすれば世界を征服した事になるのだ。」

と、(当時まだ今日の様なヨーロッパは存在せず、ヒマラヤの先の中国などは存在を知られておらず、インドまでが彼らの時代の「世界」でした。)


これに対し兵士たちのアレクサンドロスに対する答えはこうでした。

「我らが偉大なる大王よ、この世で最強のお方よ、お行きになりたければ貴方一人でお行きなさい。我々はただ故郷に帰りたいのです。」

事実上兵士たちの完全ストライキでした。常に目の前の敵を討ち倒し、必ず勝利して来たアレクサンドロスに対して、今度は味方である兵士たちの望郷の思いという目に見えぬものが「新たな敵」として彼の前に立ちふさがったのです。そしてこの目に見えぬ「新たな敵」を、彼はついに討ち倒す事が出来ませんでした。遠征開始から10年、アレクサンドロスも30歳を越え、若さと情熱だけで物事を推し進めるのではなく、様々な経験を通して物事を大局的に見る度量の広さを兼ね備えた大人へと成長していました。そして兵士たちの要求を受け入れ、それ以上の進撃を中止して全軍にペルシア帰還を命じます。

紀元前324年ペルシアに戻った彼は、自らの帝国の都をバビロンに定め、その後は帝国の統治に専念します。(その間も、彼は先に触れたアラビア半島の遠征を諦めてはおらず、部下に作戦計画を立てさせていた様です。)しかしその矢先の紀元前323年6月、夜の祝宴の最中に高熱を発して倒れ、10日間うなされた挙句、死期を悟った彼は、部下たちに「最も強い者が、我が帝国を継承せよ。」と遺言してこの世を去りました。短くも波乱に満ちた稀に見る32年の生涯でした。(彼の死因はその状況からマラリアに感染したものという説が有力です。わが国の平清盛と似た症状ですね。しかし部下の怨恨による毒殺説も疑われています。)

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上がアレクサンドロス大王の帝国の全盛期です。彼の死後、帝国は部下の将軍たち(プトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコス、アンティゴノスその他)によって分割支配されます。彼らは当初はアレクサンドロスの息子で生まれたばかりのアレクサンドロス4世を立てて帝国を運営していく予定でしたが、大王の「最強の者が帝国を継ぐが良い。」という遺言に従ってすぐに仲違いし、それぞれの勢力地で王朝を打ち建てます。

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彼らの後継者争いは「ディアドコイ戦争」と言われますが、結局プトレマイオスがエジプトに築いた王朝を除く、その他の者たちの王国は長続きせず、一代限りか、二代目ですぐに滅んでしまいました。第5回で述べたプトレマイオスの王朝だけが最も長く続き、しかもとても繁栄したので、ある意味ではアレクサンドロス大王の後継者は、プトレマイオスであったと思います。(プトレマイオスは、アレクサンドロスの遺体をバビロンから故郷マケドニアへ移送していた他のライバルから奪還し、遺体をミイラにしてエジプトに埋葬したそうですが、その墓は今だに発見されていません。もし見つかれば、世紀の大発見ですね。)

アレクサンドロス大王の遺児アレクサンドロス4世は、父大王の死の時まだ王妃ロクサネの腹にいて生まれておらず、生まれてからはマケドニア王として部下の一人カッサンドロスに傀儡として利用された挙句、母である王妃ロクサネとともに暗殺されました。わずか6歳でした。こうしてアレクサンドロス大王の直系は絶え、彼の王家であり、およそ400年続いたアルゲアス王朝も滅亡してしまいました。

アレクサンドロス大王は、自分が死ねば遅かれ早かれ必ず争いになり、まだ見ぬわが子の哀れな運命も見通していたのでしょう。彼が「最も強い者が帝国の後継者となれ」と言い残したのはそれが分かっていたからだと思います。彼の「世界帝国」はわずか数年で消え去りましたが、彼の記憶はその後の英雄たちの歴史を通してヨーロッパや中東全域、さらに中央アジアに強く残り、今も伝説としてこれらの地域の人々に語り継がれ、生き続けているのです。

終わり。

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山下将軍の財宝の謎 1

みなさんこんにちは。

今回は今も人々を魅了してやまない「財宝伝説」をご紹介しましょう。最初は我々日本人に最も馴染み深い「山下将軍の財宝」についてです。

知らない方もいるかもしれないので、一応補足説明をしますが、山下将軍というのは太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)フィリピンの第14方面軍司令官であった山下奉文陸軍大将(1885~1946)の事です。

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上の画像の恰幅のいい方ですね、彼は意外にもわが大日本帝国陸軍において、歴史上3回も有名な場面に登場する人で、それらにまつわるエピソードから、国内外問わず日本の軍人としては最も人気がある将軍ではないでしょうか。(ちなみに米国陸軍士官学校の記念館には、米国の勝利の証として、ヒトラーの拳銃とともに、彼の軍刀が飾られています。)

その有名な場面とは、まず第一に昭和11年(1936年)2月26日に起きた、陸軍の青年将校らに率いられたおよそ1400名の部隊による当時の政府閣僚暗殺と帝都占拠事件、いわゆる226事件の時です。

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この時陸軍省軍事調査部長だった山下少将は、一旦は青年将校らに同調する言動をしますが、彼らの行動が昭和天皇のお怒りを買い、陸軍首脳によって「反乱軍」と決定されると一転態度を変え、将校らの説得など事件収拾に動きます。(かなり昔の話ですが、昭和54年ごろ、「交信ヲ傍受セヨ」と題したNHK特集で、226事件の主要人物の電話を、当時の戒厳司令部が盗聴録音していたという番組が放送され、山下少将の自宅も盗聴されていましたね。当時はまだ多くの関係者がご存命で、特に反乱軍の青年将校らと外部の人々との電話のやり取りや、後の東条内閣で企画院総裁となる鈴木貞一氏をはじめ、軍官民の事件関係者の貴重な映像が歴史好きには大変興味深いです。今でもユーチューブなどの動画で検索すると見られます。)

事件終了後、彼はこの時の対応の責任と、陸軍内部の派閥闘争によって、一旦朝鮮の地方旅団に左遷されてしまいます。

第二は昭和16年(1941年)12月8日太平洋戦争開戦時のマレー半島上陸作戦です。この時第25軍司令官として3個師団(約3万6千)と4個戦車連隊を率いた山下中将は、戦車、トラック、自転車を集中使用した機甲部隊で怒涛のごとく進撃し、わずか2ヶ月あまりでイギリス軍の東洋最大の要塞シンガポールを陥落させ、イギリス、インド、オーストラリアなどの連合軍およそ10万余を捕虜にしました。

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上に載せた画像の1枚目はクアラルンプール市内に突入し、市街戦を行う日本軍(手前の兵士は擲弾筒を持っていますね。)下の2枚目は徒歩で作戦指導中の山下将軍と幕僚たち、3枚目は陥落後、勝利の歓声を上げるわが軍将兵たちです。(まさに栄光の瞬間ですね。)

この時にイギリス軍司令官パーシバル中将に対して、「無条件降伏イエスかノーか?」とせまり、降伏させたという話は有名ですね。彼はこの勝利によって、後に「マレーの虎」と呼ばれる名将に祭り上げられます。

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上の画像はその時の会見の様子ですが、この会見に同席していた山下司令部の方々の証言によると、実はこの話は事実とかなり違っていて、英軍側への通訳をしていた台湾人軍属が、長々と英軍側の提示した条件を逐一訳し、なかなか結論に達せずはっきりしないのに業を煮やした山下将軍が、

「彼らは無条件降伏すると言ってるのか? イエスなのかノーなのか? まずそれをはっきりしてもらいたいんだがな。」

と、その通訳に対して言ったのが真相らしいです。


ともあれ、このエピソードは事実と違って本国に伝えられ、新聞ラジオなどで国民の戦意高揚を図る宣伝として大いに利用されました。

第三は、戦争末期の昭和19年(1944年)フィリピンの防衛を担う第14方面軍司令官として、進行してきた米軍と激戦を繰り広げた時です。山下将軍の財宝と呼ばれるものは、この戦いの最中に、敗走していく日本軍が、占領した南方各地から収奪した金塊などを、フィリピンの山中に分散して隠したものを指すと言われています。

この話は事実なのでしょうか?

調べてみると、どうやらもともとこの話を題材にした小説の存在が浮かび上がります。米国人のシーグレーブという作家が書いた、「黄金の百合(ゆり)」という架空の財宝ストーリーで、その内容は昭和天皇の次弟であられた秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下(1902~1953)の命により、フィリピン駐留日本軍が、各地に金塊を隠した云々というものです。しかしこれは小説ですから全くの創作です。

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上の画像は陸軍中佐時代の秩父宮雍仁親王殿下で、後に少将となられますが、この宮様がその様なご命令を軍に命じられた事実は全く無く、あくまで小説を書いた作家の思い描いたフィクションです。

では山下財宝とはウソなのでしょうか?金塊など本当にあったのでしょうか?

調べてみると、かなり事実は違う様ですが、金塊はちゃんとあった様です。しかしその金塊とは先に述べた様に、日本軍が占領した東南アジア各地から集めたものではなく、実は「金貨」で、日本軍がフィリピンでの戦闘を行うため、物資調達の戦費として本土から空輸されたものらしいです。

ではなぜ日本軍は、その様な方法で物資を調達しようとしたのでしょうか。実は当時のわが軍の占領地では、日本の軍票(ぐんぴょう。擬似貨幣の一種、日本軍は占領地域ごとに、い、ろ、は、に、ほ、へ、と号などと分けてこれらを発行していました。ちなみにフィリピン方面は「ほ号券」となるそうです。)を強制的に使用させていたのですが、あまりに乱発したために価値が暴落し、物資(主に食糧など)の現地調達が困難になってしまったのです。

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上の画像は当時フィリピン方面で使用された10ペソ軍票です。しかし前述の理由で紙切れ同然の軍票を、現地の住民の誰が喜んで受け取るでしょうか。そのため日本軍は、金による支払いを画策し、山下将軍がフィリピン方面に着任する前の昭和19年(1944年)2月に、簡素なデザインの金貨が数万枚鋳造され、マニラに送られたそうです。

次回はその謎の金貨についてお話します。

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山下将軍の財宝の謎 2

みなさんこんにちは。

今回は前回に続き、山下将軍の財宝についてお話します。

昭和19年(1944年)9月、フィリピンの第14方面軍司令官に着任した山下大将は、間近にせまった米軍との決戦に備え、指揮下の総勢8個師団約30万(逐次増強され、最終的に13個師団その他およそ40万以上)の大軍に防衛体制の構築を急がせます。

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数十万の大軍を動かす大作戦です。当然武器、弾薬、食糧、燃料その他膨大な量の物資の調達に多額の資金が必要です。しかし、フィリピンで日本軍が発行した軍票は、前回お話した様に使い物にならず、新たな手段が必要になりました。そこで、いつの時代も不変の価値を持つ、金による物資調達が計画実行されました。

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そして作られたのが、上に載せた「マル福」金貨です。大きさは直径約3センチ、重さは31グラムで、日本軍はこの金貨をおよそ2万5千枚(重さ約1トン)ほど作り、山下将軍が着任する前にはマニラの司令部に保管されていました。(とても金貨と呼ぶには単純すぎる粗雑なデザインですが、これには理由があって、受け取った相手はどうせ鋳潰してしまうだろうから、それほど凝った物にしなくて良いという意向の様です。またこれらは日本国内で作られたらしいのですが、いつ、どこで、誰が作ったのか全く不明です。)

しかし、せっかく作られたマル福金貨ですが、全くと言って良いほど使われる事は無かった様です。その理由は定かではありませんが、恐らく米軍のフィリピン上陸が日本軍の予想以上に早く、使う暇すらなかったというのが実情ではないでしょうか。ともかく各守備隊は有り合わせの物資で米軍と戦う事になります。

その後戦局はわが方に著しく不利になり、マル福金貨は山下将軍と供にマニラからバギオへと移動します。その際に約1万枚を、山下将軍の命令で他の部隊に軍用金として振り分け、残り1万5千枚を山下本隊が持ってさらに北部へと移動しますが、この間も米軍との間で激しい戦いが繰り広げられていました。多くの金貨はその時に、始末に困った輸送部隊の兵によって、各地に分散して隠されたものと思われます。


そして終戦。
山下将軍は米軍に降伏する前に、まだ数千枚残っていたこの金貨を残存将兵に配ります。そしてそれらのマル福金貨の一部が、戦後それを貰った将兵の方々によって換金され、上の画像の様に今日に伝わっているとの事です。


このマル福金貨は現在でも、極めてわずかですがコイン商などで取引されており、価格は20~25万円ほどだそうです。但しご覧の様にとてもシンプルな作りで簡単に偽造出来てしまう事から、果たして流通しているもの全てが純金の本物なのかは分からないそうです。(切断したり、ドリルで穴を開ければ分かるでしょうが、コインとしての価値は無くなりますからね。)

さて山下将軍に話を戻します。終戦までフィリピン北部で頑強に抵抗していた山下将軍は、配下の残存兵力およそ4万(その多くはフィリピン各地に分散しており、彼の最後の直属の兵力は数千程度。)に停戦命令を出し、昭和20年(1945年)9月にバギオで降伏します。

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上が降伏するために幕僚らとともに山中から出て来た山下将軍です。(この時代の軍人の象徴である乗馬ブーツではなく全員ゲートル姿ですね。かつてまるまると太った巨体で有名だった彼も、げっそりと痩せています。いかにフィリピン方面のわが軍が飢えに苦しんだか分かりますね。)

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上の画像は降伏後、戦犯として収監される山下将軍です。実はこの少し前に、米軍によって念入りな「復讐」が行われています。かつてシンガポール戦で彼が降伏させた、イギリス軍のパーシバル将軍を呼び寄せ、降伏文書の調印式にわざわざ同席させたのです。(さらに米軍は、山下の絞首刑執行まで彼を立ち合わせています。)

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このパーシバル将軍(1887~1966)はシンガポール陥落後、日本軍の捕虜として台湾、満州に抑留されていた様ですが、日本の敗戦によって英国軍籍に一時復帰します。そしてこの降伏文書調印式の後しばらくして退役し、亡くなるまで英国で静かに余生を過ごしました。画像を拝見すると、痩せ型なせいか少し頼り無さそうに見えますが、実は意外にもこの方は名門大学出身のエリート軍人ではなく、一兵卒から中将にまでなった、言わばたたき上げの軍人なのだそうです。(士官学校から陸軍大学校の入校期と成績順で年功序列がちがちの日本陸軍なら有り得ませんね。)

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上がバギオにおける降伏文書調印式の写真です。後姿ですが手前の右端が山下将軍、その左に彼の参謀長で、後の極東国際軍事裁判で絞首刑となる武藤章中将がいます。そして彼らと向かい合う連合軍側代表の、右から2人目のサムブラウンベルトをしたちょびヒゲ姿の人物がパーシバル将軍です。それにしても、かつての勝者と敗者が数年後に今度は逆の立場になって再会するなど、誰が想像出来たでしょうか? そしてこの時の双方のご心情は如何ばかりであった事か。時の流れの残酷さには想像を超えるものがありますね。

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上はマニラ軍事法廷の山下将軍と彼の弁護団で、下は証言台で英米式に右手を挙げて宣誓をする山下将軍です。

その後山下将軍は、大戦中の彼に対する123か条に及ぶ膨大な罪状によってマニラの軍事法廷で起訴されました。そして降伏からわずか5ヶ月ほどの明らかに意図的で短すぎる裁判によって死刑を宣告され、絞首刑となりました。

その背景には、連合国軍総司令官マッカーサー元帥の指示があった様です。マッカーサーにとってフィリピンは、総督だった父親の代から受け継いだ権益であり、開戦時の日本軍の猛攻によってフィリピンを追い出され、「アイ・シャル・リターン(私は帰って来る)」と言わしめた因縁の地です。(司令官でありながら、大勢の兵を見捨てて逃げ出した敗軍の将だと陰で言われ、先祖が英国貴族出身で、常にトップのエリートコースを歩んできたプライドの高い彼にとって、この事は終生の汚点でした。)

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やがて3年後、大軍を率いてフィリピンを奪還し、念願叶って汚名をそそいだマッカーサーにとって山下将軍とその配下の部隊は、彼の前に立ちはだかってそれを阻止しようとした憎むべき敵であり、何としても生かしておく存在ではなかったのです。(その事は、わが軍の戦死者の数を見れば分かります。フィリピン方面のわが軍は動員兵力の9割以上が全滅し、陸海軍の戦死者は実におよそ50万に達しています。繰り返しますが動員兵力ではありません。「戦死者」が50万なのです。)

ともあれ、かつて「マレーの虎」と恐れられた名将のそれが最後でした。そして彼の死によって、莫大な金貨の在り処も永久に分からなくなってしまったのでした。

山下将軍が直接係わった、厳密な意味での正等な「山下将軍の財宝」の話はこれが全部です。しかし、このマル福金貨は先に述べた様に日本で作られたものであり、日本軍が占領下の東南アジア各地から集めたものではありません。それではそれらの金塊などは一体どこに消えてしまったのでしょうか?それとも前回お話した小説の様に、全くのフィクションだったのでしょうか?


次回はその事についてお話します。

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山下将軍の財宝の謎 3

みなさんこんにちは。

前回、山下将軍の最後とマル福金貨についてお話しました。そしてそれの目的が、米軍との決戦に備え、物資調達の資金として準備された事について触れました。しかし日本軍が占領していた東南アジア各地から集めたと思われる莫大な金塊については、いまだ詳細が分かっていません。今日はそれについて考えてみたいと思います。

この話については第1回目で、米国人作家が書いた「黄金の百合(ゆり)」という架空の物語をご紹介しましたが、その内容の全てが創作ではなく、事実を基にして書かれたという説があるのです。

小説では、昭和天皇の次弟であられた秩父宮殿下(1902~1953)の命によって金塊の輸送と埋蔵が画策された事になっている様ですが、実は別の人物がそれらを命じた可能性が指摘されています。

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その人物とは、上に載せた南方軍総司令官伯爵寺内寿一元帥(1879~1946)です。(写真右側の人物です。左側の小柄な将軍は支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥。)

彼は長州出身の元首相寺内正毅伯爵の長男で、親子2代で元帥号を授与された帝国陸軍に君臨するサラブレッドです。(下の名前は「ひさいち」と読みます。)
そして太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941年)11月、資源獲得と東南アジア征服のため編成された4軍11個師団(兵力およそ22万、但しこれらは開戦時の数字で、その後の戦局の展開により大きく増加します。)からなる南方軍の総司令官に任命され、終戦までその職にありました。


開戦後、東南アジアを支配下に置いた彼は、その司令部をベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に置きます。(戦局の都合によりシンガポールなどに移動しますが、ほとんどサイゴンに置かれていた様です。)そして全域で日本軍による軍政を敷きます。

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上の画像はシンガポール市内を意気揚々と行進する日本軍です。この当時のわが軍は無敵の勢いで戦線を拡大し、海軍の方では陸軍3個師団によるオーストラリア侵攻作戦まで計画するほどでした。(その計画は陸軍の大反対に遭って幻に終わります。なぜなら当時の陸軍の試算では、オーストラリア占領には最低でも12個師団、およそ25~30万の兵力と、それらを輸送する1万トン級の大型船150隻以上が必要で、満州と中国大陸に40個師団、合計130万もの兵力を釘付けにされ、本土やその他の地域から兵力を転用してかき集めても、やっと東南アジアを占領するのが精一杯だった陸軍にそんな余剰兵力は無かったからです。)

寺内元帥指揮下の日本軍は画像の様に南方各地に駐留し、その先々で現地の資産家や華僑の経営する銀行や金融機関を接収、金庫などに収蔵されていた莫大な金塊などを「献納」と称して押収して行った様です。

時は流れて昭和19年(1944年)戦局は悪化し、総反撃に転じた米軍はフィリピンにせまりました。実はこの時に山下将軍の用意した金貨とは別に、寺内元帥が米軍との決戦に備え、南方各地で集めた金塊を軍用金としてフィリピンに送った可能性があるのです。

まだ戦局が優勢な内に、日本本土に送れば良かったのにと思われるかも知れませんが、彼の指揮する南方軍の管轄地域は東南アジア全域に渡る広大なものであり、さらに敵は東からせまる米軍だけでなく、西にはインドの英軍、南はオーストラリア軍にも備えなければならず、それらの戦費として手元に保管する必要があったのかも知れません

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しかしフィリピンを失えば、日本本土と南方占領地は完全に遮断され、重要資源を本土に送れなくなって日本の敗戦は決定的となります。もはや他方面は二の次です。そこで寺内元帥は東京の大本営と図り、各地から部隊を転用してフィリピンに増援軍として送りました。

結果は山下部隊と同じで、米軍との戦闘に敗れ、敗走していくわが軍将兵たちによってフィリピン各地の山中に分散して隠されたと思われます。補給が無く飢えに苦しむ前線の兵士たちにとって、食べられもしない黄金など何の価値もありませんでした。


そして終戦。
当事者の寺内元帥は降伏からわずか10ヶ月後の昭和21年(1946年)6月、拘留先のマレーの収容所であっけなく病死し、金塊を輸送していた兵たちも全滅。その真相の追究は永遠に不可能となりました。そして戦後、知名度の高かった山下将軍の金貨と同じものとされ、その名を取って「山下将軍の財宝」として今日まで語り継がれています。


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上はシンガポールで英軍に軍刀を渡して降伏する第7方面軍(シンガポール方面軍)司令官板垣征四郎大将です。本来は南方総軍総司令官の寺内元帥がこの場に立つべきでしたが、この時彼は脳溢血で倒れて療養中で、次席の板垣将軍が降伏文書に調印しています。(その後彼はビルマ方面軍司令官であった木村兵太郎大将とともに東京に護送され、英国の名監督デビッド・リーンの名作「戦場にかける橋」で悪名高い泰緬鉄道の建設その他、大戦中の連合軍捕虜への虐待などの復讐に燃える連合国によってA級戦犯とされ、満州事変以来の日本軍の侵略の権化として絞首刑になったのは良く知られていますね。)

と、以上述べた寺内元帥の方の話は可能性があるという事です。実際はご本人も亡くなるまで黙して何も語らず、それを命じた記録もありません。しかし完全な否定も出来ないのです。なぜなら日本軍降伏後、それらの金塊は全く見つかっていないからです。


もう一つお話をしておきましょう。
戦後現在に至るまで、この山下財宝を信じて多くの日本人がフィリピンに渡っています。しかし、現地のフィリピンではこれを悪用した詐欺が横行しており、大金を騙し取られたり、殺されたりする者が後を絶ちません。

その手口はこうです。財宝を探す人に接触し、贋物の金塊をいくつか見せて信用させ、掘り出すのに金がかかるからこれこれの金額を現金で払ってくれと持ちかけ、支払った所で口封じに射殺するというものです。(こんな幼稚な手口に引っかかるのかと思われるでしょうが、世間に横行する詐欺を見れば分かる様に、人の欲は恐ろしいもので、まともな思考や判断力を失わせてしまうのです。)

彼らは高度に組織化されており、摘発はモグラたたきの様になっています。そのためフィリピン当局では、それまで届出制であった山下財宝の採掘を許可制にしたそうです。(時折テレビやネットなどで、日本人がフィリピンで射殺された云々というニュースが流れますが、どうもこれによって殺害されている人が多いそうです。)

もしみなさんの中で、「一攫千金の夢を抱いてフィリピンへ行くぞ!」などと考えている夢見る少年の様な方がおられましたら (いないでしょうが。笑) あくまで夢を見るだけになさっておく事です。現地で「悪夢」になるかも知れませんからね。

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様々なエピソードにあふれた「山下将軍の財宝」についていかがだったでしょうか?上の画像は全く関係ない金塊ですが、目の保養にと思ってお載せしました。今もフィリピンのどこかにこの様なまばゆい黄金が人知れず眠っているのかも知れませんね。

終わり。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

豊臣家と徳川家の財力・兵力の比較(前編)

みなさんこんにちは。

今日は誰もが知ってる戦国の覇者である豊臣秀吉(1537~1598)と、徳川家康(1543~1616)について、彼らが一体どれほどの財力と兵力を持っていたか、考えてみたいと思います。

秀吉と家康。この二人の事を知らない日本人は、まともな社会人なら恐らくいないでしょう。


この二人の人生と覇業については、古くから数々の小説、テレビドラマや映画などで語り継がれて大抵の事は知られており、今さらここで語るまでも無いと思うのでこの場では省きますが、今回はあまり知られていない両家の収入源や石高などの経済的な面、つまり「お金」の面を、分かっている範囲の数字で比較してみました。

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NHK さかのぼり日本史(7)―戦国 富を制する者が天下を制す

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秀吉はじめ、信長や家康など戦国大名のお金にまつわる事柄について詳しくお知りになりたい方は、上の小和田哲男さんの本が良書です。ページ数は128ページで薄いですが、特に秀吉の金儲けのエピソードが最も面白い部分です。この小和田さんは戦国史がご専門で、NHKの歴史番組などに良く出演されているので、歴史好きの方ならばご存知の方も多いと思いますが、彼の著作はお人柄が出ているのかどれもとても読みやすいので、みなさんの書棚の一冊にお薦めいたします。

さて、まず秀吉の方から話を始めますが、彼が天下を統一した後、関白職を甥の秀次に譲って太閤となった最盛期の石高がおよそ222万石で、これは大坂周辺の直轄領と全国に持つ所領(太閤蔵入地)から成っていました。この時代、1万石クラスの大名でおよそ300前後の兵を養えたそうですので、それから割り出した彼の保有兵力は6万5千余という所でしょうか。

但し、この数字は秀吉個人だけのもの,つまり彼の直属の兵力であり、加藤清正や石田三成等の家臣、後に述べる実弟の秀長、甥の秀次、宇喜多秀家ら養子などは含んでいないので、それらを入れれば、この時期の秀吉の最大動員兵力は豊臣家だけで総勢20万に近かったのではないでしょうか。

そして秀吉の最大の富の源は何と言っても、佐渡、石見、生野など、全国の金山、銀山から上納される莫大な金銀があります。

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上の画像は秀吉が造らせた天正大判で、大きさは直径17センチ、重さは165グラムもあり、これを毎年全国から3万枚以上、銀は70万両以上を納めさせ、大坂城と晩年移り住んだ伏見城の二つに分散して蓄えていた様です。大判1枚で約10両らしいので、これだけで毎年100万両を越える収入があったものと思われます。(ちなみにこの天正大判は、2004年にオーストリアで鋳造されたウィーン1000オンスハーモニー金貨が出るまで、長らくわが国が誇る世界最大の金貨でした。)

さらに本拠地である大坂に、堺や近江その他畿内の商人を移住させ、彼らに大いに商売を奨励し、その収益を儲けの割合に応じて税として徴収していました。当時の大坂は、秀吉のこうした政策により、人口30万の大都市としてまさに「黄金時代」を迎えました。

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それ以外に、南蛮貿易なども手広く行っていた様ですが、これは上記の商人たちへの課税と同じものと考えます。

秀吉は、主な収入源をこの様に三段構えで持つ事で、自らが築いた豊臣家永遠の繁栄の礎としたかったのでしょう


しかし、金銀は貯めるばかりで使わなければ何の役にも立ちません。そのため彼は、生来の派手好きな性格も相まって大いに金を使っています。

大坂城や聚楽第などの絢爛豪華な巨大建築(黄金の茶室なんてありましたね。)大坂の町の大拡張や河川の治水(大公共事業)京の朝廷の公家達への献上金(裏金や賄賂)果ては従えた配下の大名たちを大坂城の大広間に集め、目の前で金5千枚、銀2万枚以上をばら撒き(一日で35万両ほど使ったそうです。)彼らがあたふたと拾い群がる姿を見て大笑いしていたとか。(太閤金配り。富と権力の誇示)

この様に収入も多かったが、使う時は惜し気もなく湯水の様に使ってしまうので、秀吉が天下を取る上で最も貢献した人物で、見えない苦労をさせられた人がいます。彼の実の弟である大和大納言、豊臣秀長です。

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上が秀吉の実弟である豊臣秀長の肖像です。(1540~1591)

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この豊臣秀長について詳しくお知りになりたい方は、上の堺屋太一さんの本が良書です。天下人秀吉に関する著作は数え切れないほどあるものの、その秀吉の天下取りを陰で支えた弟の秀長については、近年までその存在すらほとんど知られていなかったため、堺屋氏が全国を旅して独自に取材し、文献や記録を集めて書き表した入魂の作品です。ページ数は上・下巻ともほぼ同じ340ページほどですが、堺屋先生は単に歴史の事象を書き連ねていくのではなく、現代の私たちが日常接する企業や組織、経済などを例に取り、当時の豊臣時代の人々のものの考え方を、現代に生きる私たちが分かりやすく、共感を覚える形で書かれている点に大変な感銘を受けますね。

この人は、身内が少なかった秀吉の最も信頼する弟(異父兄弟の説もあります。)であり、その信頼の証として兄秀吉から大和、紀伊、和泉3カ国合わせて114万石もの大領を与えられた大大名なのですが、その居城である大和郡山城は、下の画像を見て分かる様に、兄秀吉の絢爛豪華な大坂城とはまるで正反対の飾り気の無い瓦葺きの板張りで、とても質素なものです。

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秀長は、兄秀吉の天下統一の野望達成のために目立たぬ補佐役に徹し、夜討ち朝駆けで東西奔走した影の人物ですが、その秀長の最も重要な仕事が、兄秀吉の戦費調達でした。

戦には金がかかります。兵糧、鉄砲、弾薬など、豊臣軍の補給の大半は秀長が取り仕切っていました。

その秀長の影の苦労があって秀吉の天下統一は達成されたのですが、もはや金について心配する必要が無くなったのにもかかわらず、それでも彼は、いざという時に備えて金銀を蓄えていました。秀長の場合は秀吉と違い、紀伊の豊かな山林の木材売買による収入を除けば、後はほとんど領地からの年貢収入だけだったと思われるので、普段から質素倹約に努め、家臣たちから影で「ケチ」だと言われながらも心血を注いで蓄財に励みました。

しかしそれ以外の点では、その温厚で実直な人柄と、類い稀な調整力で、古くからの寺社や公家の利権が集中し、最も統治が難しいと言われたこの地を、一度も争乱無く見事に治めました。それゆえ今でも彼は、この地域の人々から「大納言さん」と呼ばれ、慕われているそうです。

こうした見えない苦労と、何よりも兄秀吉への深い兄弟愛が豊臣家を支えたのです。その秀長は、秀吉の天下統一が成った後の1591年に、それを見届けたかの様に51歳で世を去りますが、残された彼の金蔵には大判で金5万6千枚(56万両)、銀は2間四方の部屋(約8畳ほどでしょうか。)一杯になるほどの量が備蓄されていたそうです。

秀長には男の実子がいなかったので、養子にした甥の秀保(関白秀次の末弟)が後を継いで相続しますが、その秀保も3年後に17歳の若さで謎の死を遂げ、大和豊臣家は2代で断絶してしまいました。結局それらの金銀は秀吉の朝鮮出兵の軍資金として使われた様です。

しかし、秀長の死は豊臣政権にとって大打撃でした。豊臣家の悲運は、彼の死から始まると言って良いでしょう。天下で唯一秀吉を諌める事が出来た人物がいなくなり、また内政面でも、秀吉はこれまで秀長に安心して任せていた細かい事柄まで、全て自分で行わなければならなくなったからです。

実は秀吉という人は、織田信長の家臣であった頃の有名な「一夜城」や、「高松城水攻め」、「中国大返し」など、誰も考え付かないような奇抜で独創的なアイデアを思い付き、そのために必要な人を説得して、自分の味方にしたり、協力させたりするいわゆる「人たらし」は得意でしたが、実際にそれらを行うために必要な細かい仕事や手配は全く苦手で、前述した様にほとんど秀長に任せていたのです。(秀吉も何もしなかった訳ではありませんが、彼の場合、かなり大雑把で丼勘定だった様です。)実の兄弟で、なおかつとても仲が良かったゆえに、全幅の信頼を置いていたからでしょう。

しかし生来苦手なものは、そう容易く変えられません。

そこで選りすぐりの有能な家臣たちに内政の細部を任せる様になります。彼らは事務処理能力に長けた言わばエリート官僚であり、中でも行政面を担当していた石田三成(1560~1600)が頭角を現します。

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三成は主君秀吉の期待に応え、秀長亡き後の豊臣家で優れた行政手腕を発揮し、その功績を認められて近江佐和山19万4千石の大名にまで登ります。(秀吉は三成の働きに満足し、「九州に33万石の領地を与えよう。」とまで言っていますが、三成は「分不相応」と辞退しています。この理由は自分が中央を離れれば、苦労して築いた今の地位を、他の者に取って代わられるかも知れないと恐れたのかもしれません。また老い先短い秀吉亡き後、幼い秀頼を頂いて自らが豊臣家の執政として天下に君臨する野心があったとも考えられます。)

しかしそんな三成にも、人望が無いという致命的な欠点がありました。頭は良いのですが、とにかく杓子定規すぎて融通が利かず、秀吉への忠義を貫くあまり、些細な事(普通なら目をつぶる様な他人のミスなど。)まで全て、秀吉に報告していたからです。

彼には秀長の様な天性の人間調整力も無ければ、他人の立場やメンツを思いやるという対人関係に不可欠な温情というか、世渡りの精神にも欠けていたのです。

そのため大名たちはもちろん、とりわけ加藤清正、福島正則ら秀吉子飼いの猛将たちにひどく嫌われ、やがて豊臣家臣団の中で、清正ら武将派と、三成ら奉行派が対立し、それが秀吉の死後に関が原の戦いで表面化して、敗れた三成は破滅する事になるのです。

さて、秀吉について話を続けますが、彼はその死に際して最終的に息子の秀頼にどれだけの遺産を残したのでしょうか?

ある資料によると、生前秀吉が大坂城の秀頼に与えた遺産額は大判9万枚(90万両)、銀16万枚(160万両)だったそうです。ここからは自分の勝手な推測ですが、単純に合計250万両余りではなかったかと思われます。毎年100万両以上の収入があった割には、意外と少ない様に思いますが、これは恐らく2度に亘る朝鮮出兵(一般に朝鮮出兵と言われますが、朝鮮は通り道に過ぎず、秀吉の目標はあくまで明の征服でした。) による多額の出費が原因ではなかったかと思われます。(大量の軍船建造、一説には2千隻以上、兵糧、鉄砲、弾薬その他、ちなみにこの朝鮮出兵によって秀吉が動員した兵力は、最初の文禄の役で侵攻軍15万8千余、名護屋城駐留の予備戦力2万8千余の合計18万7千で、2度目の慶長の役では侵攻軍14万2千余であったそうです。また慶長の役の兵力が若干少ないのは、文禄の役における明・朝鮮連合軍の反撃で海上補給路を寸断された結果、およそ5万余の餓死者を出したためです。)

それ以外に、秀吉が晩年を過ごした伏見城にも100万両以上の金銀が蓄えられていた様ですが、これは秀吉の死後、五大老筆頭として実権を握った徳川家康が、「秀頼様が立派にご成人されるまで、この家康がお預かりする。」とか何とか言って、ごっそり持ち去ってしまったそうです。もちろん返すつもりなどありません。

また秀吉が亡くなる前に、息子秀頼と淀殿の行く末を案じて、支配していた銀山の一つである多田銀山に、総額4億5千万両もの金銀を隠すよう命じたとの伝説があり、今も探しているトレジャーハンターの方が何人もいる様ですが、いくら秀吉が莫大な金銀を持っていたとしても、この数字はあまりに桁が違い、誇張されすぎと思います。(秀吉が信長の死後天下取りに動き出した1582年から、亡くなる1598年までは、わずか16年ほどしかなく、この年数では各鉱山の産出量から見て物理的に不可能でしょう。)

しかし秀吉が亡くなる直前に、当時鉱山町として賑わっていた多田銀山の住民を強制的に移住させて閉山させた上、死罪人を使って「何かの箱」を大量に坑道に運び込ませ、用が済んだその者たちを口封じに処刑して坑道内を封印したとか、関が原の戦いや大坂の陣で、石田三成や真田幸村がここから軍資金を掘り出した云々という目撃証言の記録なども伝わっている様です。

豊臣秀吉の埋蔵金を掘る

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豊臣の埋蔵金探しについて詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。埋蔵金伝説を信じ、その半生をかけて実際に多田銀山で発掘し続けた方の記録です。中古本ですが、みなさんもトレジャーハンターになった気分で埋蔵金の謎に挑んでみてはいかがでしょうか(笑)

これは自分の勝手な推測ですが、そもそも秀吉が、秀頼らの身を案じる心情はもっともと思いますが、それならばわざわざ隠すのも、探し出して運ぶのも困難で、手間のかかる山奥の坑道に隠すより、全ての金銀を豊臣の本拠地である大坂城内の御金蔵に、厳重に保管した方が安全で良い筈です。(現に伏見城の方の金銀は、家康によって持ち去られています。分散したのは秀吉の失敗でしたね。)一体いつ頃からこの様な伝説が語られる様になったのか謎ですね。あくまで伝説と考えた方が良いでしょう。(実際当地からは全く見つかっていません。)


この多田銀山は「銀山」と呼ばれていますが、実際に産出するのは銀よりも銅の方がはるかに多く、わが国初の流通貨幣である奈良時代の皇朝十二銭などは、ここの銅から作られた様です。事実、ここから豊臣家に上納された銀は、記録では480枚(76キロ)ほどしかなく、数万枚も上納した他の鉱山に比べてはるかに少ない量でした。

そのため江戸時代になっても、幕府はここを徳川将軍家直轄の「天領」にはしなかったそうです。

前編はここまでとして、後編は家康についてお話します。

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豊臣家と徳川家の財力・兵力の比較(後編)

みなさんこんにちは。

今日は前回に続き、家康と徳川家の財力について考えてみたいと思います。

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家康は、当初は財力、兵力において秀吉よりはるかに劣ります。
そもそも徳川の本拠地である三河と、かつて徳川の前身松平家を支配していた今川家亡き後の遠江、駿河は、この3国合わせても70万石程度(内訳は三河29万石、駿河15万石、遠江25万5千石、太閤検地の時点の石高)しかなく、その後武田氏滅亡後に侵攻して併合した甲斐、信濃(同じく甲斐22万7千石、信濃40万8千石)を入れても、この頃の石高はせいぜい133万石余りでした。この時点における彼の保有兵力も、最大3万程度と思われます。

家康が秀吉よりも財力が弱かった原因はなんでしょうか? それはやはり両者の生まれと育ちが大きく影響しているからではないかと思われます。秀吉は日本史上最大の出世男ですが、元は貧しい農民の子であったのは皆さんも良くご存知ですね。彼は十代後半に家を飛び出すと、織田信長の草履取りに召し抱えられるまで諸国を流れ歩き、その間に出合った様々な人々(その多くが旅の商人)との交流を通して商いや金儲けの方法、どうすれば品物を安く仕入れ、最も高い値で売りさばいて最大の利益を得られるのかといった商売の基本を学び取っていき、つまり若い頃のそうした経験と、プライドばかり高いが硬直化したガチガチの思考しか出来ず、しがらみの多い武士出身ではなく、「農民出身で途中から商人育ち」という自由奔放な経歴が、お堅い武士が考え付かないような独創的なアイデアで思考出来る豊臣秀吉という稀有な人物を生み、それが彼のその後の天下取りに大きく役立っていったのです。

これに引き換え家康の方は、東に遠江、駿河を本拠とする名門今川家、西には豊かな濃尾平野を持つ尾張の織田家に挟まれた小国とはいえ三河の領主松平家の当主でした。つまり当然の事ながら、れっきとした生まれながらの一国の大名です。

武家出身にして、しかも一国のお殿様なのですから、戦の兵法や領地の統治、小難しい思想的学問は知っていても、商売や金儲けの事など知る由もありません。ですから秀吉に出会う以前の家康にとっては、例えばいざ戦という時に備えての軍資金の確保の方法といえば、とにかく普段から質素倹約して出費を抑える、領民たちから出来るだけ多くの年貢を納めさせるなどといった、誰でも考える様なオーソドックスなやり方しか思いつかなかった様です。(それが、後に徳川家康という人を、失礼ながら「ドケチ」と呼んでも過言ではないほどの極度の倹約家に育てていく事になったのですが、これについては後述します。)


しかし、さすがは徳川265年の太平の世を築いた大人物です。 家康は秀吉に出会ってから、秀吉の巧みな商業政策と、彼が進めた金銀を中心とする貨幣流通経済、そのための全国の鉱山開発と、それを全て直轄領として支配、全ての金銀を豊臣家に集めるシステムを熱心に研究し、やがて秀吉の死後、家康は秀吉の政策をほとんど踏襲して実践していきます。そしてそれはそのまま彼の開いた江戸幕府においても基本政策として引き継がれていったのです。

さて、家康の試練は続きます。小田原攻めの後、秀吉から北条氏滅亡後に空いた関八州に国替えを命じられ、形の上では133万石から255万石への大幅な加増でしたが、長年苦労して広げた元の領地を全て手放して、当時はまだ何も無い荒れ果てた湿地帯に過ぎなかった江戸の地に、一族家臣全てを引き連れて移り住む事を余儀なくされたのです。

関東255万石なら、家康の方が秀吉の222万石より多いから、兵力も秀吉より多いのではないかと思われるでしょうが、秀吉の場合は前編でお話した様に、全ての家臣に領地を分け与えた後の、秀吉個人のものであったのに対し、家康はこの石高から家臣たちに領地を与えるので、それを差し引いた実際の彼の取り分はおよそ100万石ほどでした。この時期の彼の直属の兵力も3万余りであったと思われます。

「捲土重来を計る」 と言えば聞こえは良いですが、自らの居城も城下町も、全てを一から築いていかなくてはなりません。もちろんそれらにかかる莫大な費用は全て家康持ちです。これは明らかに家康の力を削ぎ、疲弊させる秀吉の巧妙な家康封じ込め作戦でした。

後に家康は、大坂の陣の数年前から、秀頼に父の莫大な遺産である金銀を浪費させるために、「亡き秀吉の供養」と称して数多くの寺社の修築をさせるなど、その抜け目の無い周到なやり方と、彼の容貌とを掛け合わせて 「悪賢い古ダヌキ」 とか言われる様になりますが、もともとこの様に相手に金を使わざるを得ない状況に仕向け、敵の財力を削ぐ手口を最初に仕掛けたのは秀吉の方だったのです。

もちろん秀吉は、家康以外の他の有力大名たち(毛利、島津、上杉、伊達その他)にも、様々な手段で多額の出費をさせています。(秀吉の晩年の隠居城である「伏見城」も、これらの大名たちの財力を削ぐために、不必要なまでに豪華絢爛に造らせたものです。秀吉による天下統一によって、これらの有力大名たちは隣国との戦いを禁じられました。これにより大名たちは領国を広げる事は出来なくなりましたが、同時にそれは彼らに、戦に備えた軍資金を蓄えさせてしまう時間と余裕を持たせてしまう事になったからです。)これは全て、大名たちに自分とまだ幼い息子秀頼に対し、謀反を起こす軍資金を蓄えさせない様にする秀吉の戦略でした。

晩年の秀吉には、もはや息子秀頼の事しか見えていませんでした。

自分はもう先が長くない。なのに後継ぎである最愛の息子秀頼はまだ全くの幼児です。そのため彼は、秀頼の将来を脅かす恐れのある(と彼が勝手に考えた)全ての者を排除しようとします。当初後継者にしていた甥の関白秀次を、謀反の疑いをかけて切腹に追い込み、秀次の幼い息子たちを含め一族39人を処刑したのは有名ですね。


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この豊臣秀次(1568~1595)という人に関しては、「殺生関白」などとあだ名される様に、乱行の数々を犯した愚か者と長い間言われて来ましたが、近年の研究では、和歌や読書を好み、知識と教養を兼ね備えた文化人であり、伝えられるような残忍な人物ではなかった様です。但しまだ若者でしたので(享年28歳)若さゆえの性急さから時には我がままに振舞う事もあったかも知れません。それが彼を、「太閤秀吉に背いた謀反人」という悪者に仕立てるために、あまりにも誇張されてしまったのではないでしょうか。

またそれ以外にも、秀吉は秀頼を可愛がるあまりに

「お拾い(秀頼)に歯向かう者は、この秀吉がすぐに飛んで行って叩き殺してやろう。」

と笑いながらも恐ろしい言葉を吐き、周囲の人々を震え上がらせたそうです。


豊臣家の人々 (角川文庫)

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豊臣秀吉と、その一族について詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。歴史ファンなら誰もがご存知の司馬遼太郎先生の作品の一つで、上の秀次以下10人の豊臣一族にまつわる物語です。秀吉の立身出世に伴い栄華を極めた彼ら豊臣家の、束の間の繁栄と没落、そして滅亡。戦国時代の最後に彗星のごとく現れ、そして消え去った豊臣家の悲運を、それぞれの人々のエピソード毎に描いた名作ではないでしょうか。上の本は角川文庫版でページ数は520ページ、こちらの方が価格が安いのでご紹介しましたが、若干高い価格で中公文庫からも出版されており、ご興味のある方でどちらを選ばれるかはお好み次第と思います。

話を家康に戻します。
太閤秀吉の死後、内大臣ならびに五大老筆頭として実権を握った家康は、天下分け目の関が原の戦いに勝利し、一気に天下人の地位に躍り出ます。そして負けた西軍の大名たちの所領を没収して自分に味方した配下の大名たちに分け与えました。

この時取り上げた領地は没収分415万石、減封分(石高を減らした分)208万石、さらに豊臣家が全国に持っていた蔵入地157万石を合わせ、合計780万石にもなりました。当時の日本全国の総石高がおよそ1851万石であったそうなので、実に42%もの領地を自由に出来た事になります。自らの石高もそれまでの255万石から、一気に400万石へ増やし、さらに豊臣家が持っていた全国の金山銀山の権利と金銀の上納を停止。代わりにそれらを全て自分が手にしたのです。これにより、それまで弱かった徳川の財政は一気に好転し、この時点における彼の直属の兵力も最大8万近い大軍になりました。(江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団、いわゆる「直参」を、旗本8万騎と言うのはこの頃決められた様です。)

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戦国大名の勢力範囲の推移などを詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。応仁の乱から関が原の戦いに至る各家の勢力範囲が詳細にカラーで載せられています。ページ数は95ページで、戦国史の研究がご趣味の方には何かの資料用に最適ではないかと思います。

さて、逆に豊臣家はそれまでの222万石から、前述の蔵入地を奪われた結果、大坂城周辺の直轄領である河内、摂津、和泉3カ国65万石(正確には65万7400石)余りに激減しました。依然大大名ではありますが、一大名に転落した事は事実です。

「織田が突き、羽柴が捏ねし天下餅、座りしままに、食らう徳川」

天下の代替わりを示す、読み人知らずの歌ですが、これを見ると、まるで家康が何の苦労も無く、ただじっと待つ事で天下を手中に収めたかの様に思えますが、織田と羽柴(豊臣)には散々悩まされ、苦労させられた挙句にやっと手にした天下だったのです。

その後、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた家康でしたが、その2年後にあっさり将軍職を息子秀忠に譲り、自らは「大御所」と称して天下を動かしていました。しかし依然として豊臣家は彼にとって脅威の火種です。亡き太閤秀吉の息子である秀頼はこの時まだ十代の少年であったものの、巨大な大坂城の奥深くで大切に育てられ、すくすくと成長していたからです。

さらに大名たちの中には、今だ豊臣家に忠誠を誓う者が多く、毎年年始の挨拶などでも、驚くほどたくさんの大名が大坂城に登城して、秀頼に頭を垂れていました。規模は小さくなっても豊臣家の威光は、今だ輝きを失ってはいなかったのです。

実は諸大名にとって、秀吉と家康の二人を比べた場合、付き合って楽しいのはどちらかといえば、圧倒的に秀吉の方でした。

その違いは何と言ってもその人柄と気前の良さでしょう。秀吉は生来の豪快さゆえか功績の大きい者には惜し気無く領地を与え、例えば誰かを招いても、手ぶらで帰す事はせず、贅を凝らした宴を催し、豪華な食事でもてなした上、有り余る金銀や高価な茶器などを土産に持たせたそうです。

これは彼の人心掌握術だったのでしょうが、その効果は絶大でした。とにかく行けばくれるのですから誰でも喜びます。それを繰り返すうちに秀吉の「人たらし」の術にうまく取り込まれ、気が付けばすっかり彼の虜になってしまうのです。

少し誇張した言い方かもしれませんが、食うか食われるか、殺伐とした戦国の世を生き抜いて来た大名たちの多くは、限られた領地の収入も、領国維持やいつ起きるか分からない戦に備えた出費ですぐに消えてしまい、贅沢などする余裕は無かったはずです。そんな彼らにとってささやかな楽しみといえば、せいぜい土地の産物を三品ほど並べた膳の前で、自分の奥方や子供たち、忠実な家臣らと、田楽の踊りなどを眺めながら酒を飲む程度が関の山だったでしょう。

そんな暗黒の時代が、秀吉の天下統一によって終わり、秀吉によってもたらされた平和と、大名たちがそれまで見た事も無い巨大な城や、数々のきらびやかな美しい文物、豪華な宴、美しい女たち、あふれんばかりの酒と料理。振舞われるまばゆい金銀。わずか10年に満たない豊臣政権下で花開いた華麗な桃山文化。それらを直に体験した者たちは、

「あの頃は良かった。」「あの時は楽しかった。」

と、かつて秀吉の下で過ごした夢の様な時間、目の当たりにした豊臣家の栄華を、秀吉亡き後も今だノスタルジックに忘れられなかった者も多かったのです。


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反面家康の方はどうかと言うと、彼はこの点では全く秀吉には敵いません。

実は知っている方もいると思いますが、徳川家康という人はかなりの吝嗇(りんしょく)つまり「ケチ」なのです。良く言えば倹約家なのですが、彼は秀吉と大きく違い、人に物を与えるという事はほとんどありませんでした。功績のあった大名や家臣は、手紙や口頭で盛んに褒めちぎっています。(タダですからね。笑)しかし彼らが最も欲した領地や金銀を与える事はしませんでした。(例外は前述した関が原の戦いの後の論功行賞ですが、これは敗れた西軍の諸大名から没収したものを分け与えてるので、家康自身が領地を割き与えたのではありません。)

これは他の者たちに力を持たせない様にするのが目的だったのですが、子供時代に人質に出されてから、常に彼を苦しめた数々の苦労が、この様な人物にしてしまったのでしょう。ですから家康の人生において、華やかなエピソードというのはほとんどありません。

それからもう一つあるのですが、良く大河ドラマなどで、名だたる俳優さんが演じている家康は、とても饒舌に喋っています。(ドラマだから当たり前ですが。笑)しかし、実際の家康はかなり無口な人だった様です。

「何も言わぬは言うよりまし」

と誰かが言ってますが、こういう所も、人質時代の肩身の狭い思いや家臣の裏切りなど、彼の人生を振り回した様々な出来事が、「余計な事は言うまい、喋るまい」という用心深い人間性を生んだのでしょう。

またここからはあまり語りたくない話ですが、家康は自らの子供に対しても好き嫌いが激しく、とても実の父親とは思えない冷酷な部分があり、特に双子であったという理由で他家に養子に出された次男の結城秀康と、(当時双子は「畜生腹」と呼ばれ、不吉だと忌み嫌われていました。理由としては相続争いの元になりますし、また瓜二つの同じ顔が同時にあるという事が気味が悪いという事の様です。)色黒で顔立ちが醜いからという呆れた理由で終生最も嫌い、92歳の長寿を全うしながら生涯の大半を流人として過ごした六男の松平忠輝は有名です。

ここで、秀吉の忘れ形見である秀頼について触れておきます。


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豊臣秀頼(1593~1615)は太閤豊臣秀吉晩年の子として生を受け、子宝に恵まれなかった秀吉の異常なまでの溺愛を受けました。(秀頼は秀吉の三男に当たるそうです。長男は信長の家臣時代に夭折したと云われ、関白になってから生まれた次男鶴松も3歳で病死。無事に成人したのは彼だけでした。)

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(豊臣秀頼と大坂の陣について詳しくお知りになりたい方は、上の2冊の本が良書です。1冊目の方はページ数は257ページですが、この本の目玉は大阪の陣の豊臣軍の兵力の細かい内訳などが図表に載っている点で、戦史兵力研究がご趣味の方などに良いと思います。また2冊目はページ数214ページで、これまで母親の淀殿の言いなりの気弱な「マザコン」の様に描かれる事の多かった秀頼が、父太閤秀吉の後継者、豊臣家当主としていかに徳川と関わり、天下に君臨しようとしていたか?その実像について迫る非常に興味深い作品です。)

秀吉の死後十数年、世は徳川のものとなり、大坂の一大名に転落しても、他の有力大名とは違う別格の扱いを受けて存在していました。ちなみに上の画像は良く知られた彼の画像ですが、実はこれは秀頼がまだ少年期(元服前後の14歳頃?)に描かれたもので、大人になった姿を描いたものではないそうです。

大人になった秀頼の画像(と伝わる肖像。上でご紹介した秀頼の本の、下の1冊の表紙です。)もあるにはあるのですが、黒い装束に横を向いたアングルの悪い姿で顔が判然としません。そのため良く大河ドラマなどに登場する秀頼は、細くて眉目秀麗な若い俳優さんが演じていますが、これは上に載せた、こちらの有名な方の画像のイメージでキャスティングされているからでしょう。

しかし実際の秀頼という人は、彼に会った複数の人々の残した記録によれば、何と身長195センチ、体重160キロもある大変な巨漢だったそうです。(まさにお相撲さんですね。)

そのため当時から、本当に秀吉の実の子なのか?と影で言われていたそうですが、母親の淀殿が身長170センチほどあったと言われ、(男性の平均身長が160センチに満たない時代に、女性でこれだけ背が高かったのですから、失礼ながら淀殿は気位も高いが背も高い「大女」だった様ですね。)その父浅井長政も長身だったそうなので、母方の血を受け継いでいるとすれば、彼がこんな大男に成長しても、なんら不思議は無いでしょう。

また太ってしまったのは、単純な推測で恐縮ですが、若さゆえの食べ盛りと、日々の学問以外にすることが無く、また生まれてからほとんど大坂城を出た事が無かったので、城内で体を動かす事もあまり無かったからではないでしょうか。(後の大坂夏の陣で、真田幸村以下の浪人衆が、総大将として秀頼に、城外への出陣を願い出たのに彼は出て来なかったので、「秀頼は臆病者」というイメージで語られて来ましたが、事実はこの体重のせいで、馬に乗れなかったからだとも言われています。)

しかし父の秀吉がそうであった様に、人は外見ではありません。

1611年に家康と秀頼が、京の二条城で初めて対面した際、すでに立派な若者に成長していた秀頼と言葉を交わした家康は、彼の堂々とした物怖じしない話し方と、普段の学問で培った教養の深さに、「秀頼はかしこき人」と評しています。そしてこの時に、最終的に豊臣家を滅ぼす決断をしたといわれています。

「御所柿は、一人熟して落ちにけり、木の下にいて、拾ふ秀頼」

これはこの時京の都に広まった落首ですが、家康が、将来大人物になった秀頼が、老い先短い自分の亡き後、結局天下を握るのではないかという恐怖心にかられたのも無理からぬ事です。 何より秀頼にはそれを可能にする軍資金となる、亡き父太閤秀吉の残した莫大な金銀と、今だ衰えぬ豊臣家の威光がありました。

家康は豊臣の財力を削ぐため、秀頼に多くの寺社の修築を勧めます。この辺は良く知られた話ですね。では秀頼は、この時どれくらいの金を使ったのでしょうか?

まず、秀頼が造営、修築した寺社の数ですが、全部で85にのぼり、中でも最も金をかけたのが京の方広寺で、これだけで45万両も使っています。なぜここにこれだけかかったかと言うと、奈良や鎌倉を凌ぐ、巨大な大仏を建立したためです。それ以外の寺社については記録が無いのですが、総額100万両以上は使っていると思われます。もちろん使った分は、秀吉の遺産も減りますが、秀頼には領地からの年貢収入以外に、父の残してくれた大きな財源がありました。

関が原の戦いの後、豊臣家は65万石の一大名に転落し、全国の金銀を産する鉱山も失いましたが、豊臣家には大商業都市大坂の商人たちから徴収する、多額の上納金がありました。これは秀吉が造ったシステムで、豊臣家が独自に徴収していたため、家康も押さえる事が出来無かった様です。石高に換算して、毎年6~8万石になり、これを合わせると、秀頼の石高は実質70万石を越えていました。

多くの寺社の修築に大金を使った結果、一時的には金銀は減りますが、京や大坂は一大建築ブームで好景気となり、それらで大儲けした商人たちから、また上納金として戻って来るので、家康が目論んだほどには豊臣の財は減らず、あまり痛くは無かった様です。

何より秀頼が最も金を使ったのは、やはり二度に渡る大坂の陣でしょう。存亡がかかっているのですから当然です。まず最初の「冬の陣」の時に、秀頼が秀吉の金銀をばらまいて集めた浪人衆はおよそ10万。この数字は良く知られていますね、但しその支払い方法は大判小判ではなく、下の画像の様な分銅金(法馬金)と呼ばれる、大量に備蓄されていた巨大な金塊(重さ333キロの二千枚分銅金とその半分165キロの千枚分銅金の二種類がありました。千枚、二千枚とは大判に換算してという意味で、千枚なら1万両ですね。)を鋳潰して、さらにそれを竹の筒に流し込んだ「竹流し金」というものを配っていました。


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これらは「捨て扶持」(すてぶち)と呼ばれ、もちろんそのままでは買い物も出来ませんから、浪人たちはこれを両替商に持ち込んで、小判や銀に替えるわけです。また、一人当たりの割り当ては、意外にも貰う側の浪人たちの言い値で決められていた様です。しかし、これから戦になるのにあまり多く持っていても邪魔になりますし、また金というものは非常に重いので、暗黙の常識で一人当たり1、2個といった所ではないでしょうか。

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上の画像は昭和10年(1935年)に大阪城周辺の大川で、「シジミ取り」をしていた老人が偶然発見した竹流し金の実物だそうです。(重さは約100グラムほどで、価値はおよそ7両、現在の金額で70万円余りだそうです。この竹流し金は、現在大坂市北区の造幣博物館3階の展示室に、前編でご紹介した天正大判や明治期の各種金貨とともに展示されており、近くにお住まいでご興味のある方は立ち寄られてみてはいかがでしょうか。ちなみに入場料無料ですよ。)

さて、先ほど秀頼が集めた浪人衆の数がおよそ10万と言うのは有名だと言いました。そのためか大坂冬の陣の豊臣軍の総兵力は10万とされる事が多いのですが、実はこれ以外に、秀頼にはとっておきの予備戦力がありました。

それは「七手組」と呼ばれる豊臣家主力部隊、いわば秀頼直属の親衛隊で、その名の通り七人の侍大将を指揮官とするおよそ1万の精鋭部隊です。秀頼の石高は65万石ですので、それから割り出した豊臣家正規軍は、この七手組を主力として約2万。これに先に述べた浪人軍団10万を合わせ、総勢12万余の大軍でした。

さらに秀頼は、これらの大軍がおよそ1年半は籠城出来るだけの大量の兵糧米を買占め、そのため家康率いる徳川軍は、食糧不足で飢えに苦しみました。(こちらは総勢20万ですから、これらの兵を食わせるのはもっと大変です。戦をしなくても腹は減るわけですから。ちなみにかつて徳川軍が陣を敷いた地域の発掘調査では、牛や馬の骨が大量に見つかるそうです。恐らくこれらは飢えに苦しんだ徳川方の兵たちが、荷車を引かせた牛や、籠城戦ではあまり必要の無い騎馬隊の馬を殺して食べた名残でしょう。)

豊臣家の財力と兵力について、分かっている数字は今の所このくらいです。大雑把過ぎていい加減だと思われてしまうかも知れませんが、これには理由があります。実は大坂夏の陣で、豊臣は徳川に大坂城もろとも「焼き滅ぼされた」という表現が妥当で、その際に書庫にあったと思われる記録や文書も、みんな燃えてしまったからです。

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しかしもう一つ分かっている数字があります。二度に及んだ大坂の陣で、秀頼らの奮闘空しく滅び去った豊臣一族(といっても、淀殿と秀頼、彼の息子で側室に産ませた8歳の豊臣国松と6歳の姫の4人だけで、このうち最後の姫だけが生き延び、出家して天秀尼「てんしゅうに」となります。)ですが、大坂城の焼け跡からは金2万8千枚(28万両)、銀2万4千枚(24万両)、合計52万両もの金銀が発見され、幕府によって回収されています。あれだけ使ってまだこんなに残っていたとは、いかに豊臣の財力が大きかったか分かりますね。

最後に、家康が息子秀忠にどれだけの金銀を残したかご紹介しましょう。

これについてははっきりした数字があり、家康が1616年に駿府城で75歳で亡くなった時、城内の御金蔵に蓄えられていたのがおよそ200万両であったそうです。これはかつて家康が秀吉の死後、混乱に乗じて伏見城から持ち去った分に、その後支配した全国の金銀山から産出した分を加えたもので、まず半分の100万両ほどを秀忠が相続し、残りを紀伊、尾張、水戸などの御三家で分割相続した様です。

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その秀忠が亡くなった時、息子の三代将軍家光が相続した遺産は366万両あり、秀忠の在世中はおよそ40万両の赤字であったそうなので、秀忠が家康存命中から分与されていた分や、大坂城の焼け跡から回収した豊臣の金銀その他を含めると、家康が秀忠に残した金銀は約400万両余りであったと思います。

後編終わり。

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ごあいさつ。

みなさんはじめまして。コンテバロンと申します。

歴史と戦争とお金の探求を趣味とする、天皇陛下の治める日本を愛する一愛国者です。

今回こちらでブログを始めたので、国内外問わず歴史と戦争、各国の王朝や国家の興亡にまつわる様々なエピソードや秘話を集めてご紹介していきたいと思いますので、ご興味をお持ちの方々に読んで頂けたら嬉しいです。


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