クローヴィス1世とメロヴィング王朝 2

みなさんこんにちは。

ローマ時代末期の4世紀後半、アッティラ率いるフン族の襲来によって引き起こされた「ゲルマン民族の大移動」では、多くのゲルマン人部族がライン川を越え、衰退したローマ帝国領内に侵入しましたが、クローヴィスの出身部族であるフランク族は、それらとは少し違った形で存在していました。

ここでそのフランク族について少し説明しますが、彼らはフン族襲来のはるか以前の300年頃からすでにガリア国境やライン川の周辺で略奪を繰り返していたそうです。(現在のドイツ中部にも、ソーセージで有名な「フランクフルト」や、ドイツワインの名産地「フランケン」など、彼らに由来する地名が残っていますね。)しかしまだこの頃の彼らは、その都度集合と離散を繰り返す程度でこれといったまとまりは無く、ローマ中央から見れば、「野蛮な荒くれ者の集団」という存在に過ぎませんでした。

状況が変わるのは354年からで、帝国北部のガリア国境が崩壊してフランク族が一斉にガリアに侵入し、すでに脱走兵の続出や財政破綻などで軍が弱体化していたローマ帝国は彼らにフランドル地方(現在のオランダ、ベルギー)の領地を与え、「傭兵」として召し抱える事で他のゲルマン民族と戦わせ、これらに対する「防波堤」としました。


この「傭兵」として存在したおよそ100年の間に、それまで無知蒙昧で野蛮な蛮族に過ぎなかったフランク族に、先進的なローマ文化が浸透していきます。やがて446年、クローヴィスの祖父に当たるメロヴィクス(?~457)が頭角を現して族長に就任、その後に襲来したアッティラ率いるフン族と激戦を繰り広げました。

そのメロヴィクスが亡くなり、息子である後継者キルデリクス(?~482)の子として生まれたのがクローヴィスで、彼は父キルデリクスの死に際し、482年に何とわずか16歳でフランク族の族長の位を継承します。その6年前に、もはや無いに等しかったとはいえ、形の上では長年の間彼らフランク族の「支配者」であった西ローマ帝国が滅亡。ヨーロッパはまさに「群雄割拠」の時代に突入します。

クローヴィスは族長になると、その若さに見合わぬ驚異的な力量を発揮して他のフランク族を統一し、486年20歳の時には、すでに滅んでいた西ローマ帝国のガリアにおける最後の残存勢力である城塞都市ソワソンの執政官シアグリウス(436~486)を破り、ロワール川より北のガリア北部を支配下に置きます。

その後彼はさらにガリアを南下してブルグンド王国と接する地域まで支配下に置くと、493年ブルグンド王の娘で、彼の人生に最も大きな影響を与える事になる王女クロティルド(475~545)と結婚します。

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上が王妃クロティルド。彼女はとても敬虔なキリスト教徒でした。

同じ年の493年、南のイタリア半島では西ローマ帝国を滅ぼした張本人オドアケル(433~493)を倒した東ゴート族のテオドリック(454~526)が東ゴート王国を建国。クローヴィスは彼と同盟を結ぶ事を画策、建国したばかりで隣国との争いを避けたいテオドリックもこれに同意。両者の思惑と利害が一致し、彼は自分の妹をテオドリックと結婚させます。

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上が東ゴート王テオドリック(ドイツ語読みではディートリッヒ)下が東ゴート王国の範囲です。

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497年王妃クロティルドの実家であるブルグンド王国の隣で絶えず争っていたアラマン族との戦いに勝利したクローヴィスは、彼女の勧めもあって、配下のフランク族3千とともにランスにおいて初めてキリスト教カトリックに改宗します。これが「クローヴィスの改宗」です。

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上はランス大司教、聖レミ(サン・レミ)から洗礼を受けるクローヴィスです。しかし彼がそれまでの異端の宗教を捨ててカトリックに改宗した理由は、王妃クロティルドの様な厚い信仰心から来るものというわけではなく、とても政治的な現実問題を考慮しての事でした。彼の支配地であるガリアの住民の大半がカトリックを信仰しており、数の少ないゲルマンのフランク族は別の宗派のキリスト教や、ゲルマンの古い神を信仰していたからです。

この事は、彼が自らの王国をガリアに打ち建てる上で障害となっていました。(いくら力で支配しても、住民の支持が得られなければ国の運営は出来ませんからね。)彼はその事を冷徹に計算し、今後の円滑な統治を進めるために大パフォーマンスを演じたものと思われます。

その結果は大成功でした。ガリアの住民とフランク人との融和が進み、さらにローマ教会との強いつながりを持ったお陰で今後の他国との戦を正当化出来る様になったからです。「我の敵は神の敵、歯向かう者はキリストの敵である。」というわけですね。つまりローマカトリック教会の威光を利用したのです。(これはわが国においても似た様な事例がたくさんあります。平家に始まり、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川、そして薩摩と長州と歴代の権力者たちは天皇と朝廷の威光を借り、「自分に手向かう者は帝の敵、すなわち「朝敵」「逆賊」である」と称して敵に戦を仕掛ける際の口実に多用しました。)

その翌年498年に、クローヴィスは同じランスでローマ教会の公認の元に戴冠し、「フランク王クローヴィス1世」として即位、ここにメロヴィング朝フランク王国が正式に成立しました。(実際には彼がフランク族の族長になった時点からすでにこの王国は始まっていますが、正式に「国家」として公認されたのはこの時からの様です。また「メロヴィング」とは「メロヴィクスの」という意味で、彼の祖父であり、最初にフランク族の族長になったメロヴィクスが実質的にこの王家の初代とされているからです。また当時のフランク人には「姓」というものがありませんでした。)

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上は彼が戴冠したランス大聖堂とその内部です。大聖堂自体は12世紀に壮大なゴシック様式で建てられたもので、クローヴィスの時代はもっと小さなものだった様です。そしてメロヴィング朝以後の歴代フランス王朝においても、新たに即位する国王はこのランス大聖堂で戴冠式を行う事が慣習となりました。(内部の写真をご覧ください。下に写っている座席と比較すると建物の巨大さが良く分かります。)

次回に続きます。
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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 3

みなさんこんにちは。

498年ランスで即位したクローヴィスは、その後ガリア南部を支配していた西ゴート王国と対決するためさらに南進を開始しますが、その前に彼は隣国ブルグンドの王位争いに付け込み、500年にブルグンドに侵攻します。

ここで疑問に思うのは、そのブルグンドが自分を改宗させた王妃クロティルドの故郷であるという点です。普通に考えれば、妻の実家である同盟国を攻撃するなど有り得ませんし、何より王妃クロティルドが夫の軍勢に故郷を蹂躙される事に大反対するでしょう。しかしこの背景には宗教問題と王位継承に絡む、深い事情がありました。

この時代、キリスト教はローマ教会を本拠地とするカトリックの他にいくつかの宗派に分かれており、クローヴィス率いるフランク王国は前回お話した様に、王であるクローヴィス以下全てのフランク族が改宗してカトリック教国となっていました。しかし西ゴート王国、東ゴート王国、ブルグンド王国などの同じゲルマン民族の国々や、スラブ系で民族は違いますが北アフリカのヴァンダル王国は全て「アリウス派」と呼ばれる別の宗派のキリスト教を信仰していました。

王妃クロティルドはそのアリウス派キリスト教の国であるブルグンド王家出身なのですが、彼女はその中にあって珍しいカトリック信者でした。しかし彼女の父王と母の王妃は王位をめぐる争いで兄弟に暗殺され、王位はクロティルドの叔父にあたるアリウス派のグンデバルドに移り、彼女自身の身が危ない状態だったのです。クロティルドが北の強力なフランク族の王クローヴィスに嫁いだのも、最初は叔父グンデバルドへの復讐が目的でした。出来る事なら自分が親の敵を討ちたい。しかし女性である彼女には王位継承権はありませんでした。

古来ヨーロッパでは、女性が王や皇帝になる事は出来ませんでした。古代ギリシアはもちろん、ローマ帝国においても女性の皇帝(女帝)は一人もいません。(ローマ皇帝位は初代皇帝アウグストゥスに始まる帝政初期を除いて王朝による世襲制ではありませんでしたが。)さらにこれはゲルマン民族でも同じで、後にクローヴィスが定める法典にも、王位は男子のみに限っています。

クローヴィスが興したフランク王国は、後のフランス、ドイツ、イタリアの源となる国家ですが、メロヴィング朝滅亡後のこれらの国の歴代王朝でも、その制度は受け継がれました。それゆえ歴史上「フランス女王」「ドイツ女王」「イタリア女王」というものは存在しません。例外はイギリス、スペイン、ロシアなどですが、これらの国々では男子後継者が絶え、古い過去の因習を打破しようとする男勝りの稀有な王女たちの行動の結果、「女王」や「女帝」が誕生したものです。

そのため歴史上の数多くの王妃たちは、嫁いだ王との間に生まれた息子を王位に付け、その王母として王に匹敵する権力を得るとともに、自らの血を引く者のみによる王朝の存続を図る様になります。クロティルドもそんな王妃の一人でした。夫の力を借り、親の敵である叔父を倒して空いたブルグンド王位に自分の息子を付ければ彼女の子孫による王家が続きます。それどころか彼女の息子たちには、いずれフランク王国の王位も待っています。夫クローヴィス亡き後、その息子たちが王位を継げば、全フランクをも彼女の血を引く者たちによって支配出来るのです。

クローヴィスの方でも、ブルグンドを支配したい理由がありました。彼は終始仮想敵国を西ゴート王国と定めており、ガリア南部からこれを追い出して全ガリアをフランク領にする事を望んでいましたが、その際に挟み撃ちに遭わない様、その前に背後のブルグンド王国を叩いておく必要があったのです。

クロティルドは極力住民に危害を加えない事を条件に夫のブルグンド侵攻を支持、クローヴィスも王妃の条件に同意し(住民が抵抗すれば別ですが。)ブルグンド攻撃を開始します。両軍はディジョンで戦いを交え、結果はフランク軍が勝利し、グンデバルドは逃亡してしまいます。クローヴィスはブルグンド王国に対し、対西ゴート作戦のため、今後ブルグンド軍も「同盟国」として参加する事を要求してこれを受諾させます。

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上は現在のディジョンの旧市街です。人口は15万3千ほどで、さほど大きな街ではありませんが、中世の街並みが良く残っています。二枚目の写真は良く見ると、長い年月を経て建物が歪んでしまっているのが分かります。またこの街は「マスタード」でも有名です。

クローヴィスがブルグンド王国を支配下に置いた頃、ガリア南部は西ゴート王国の領土でした。その西ゴート王国の王はアラリック2世(?~507)といい、現在のトゥールーズに都を置いていましたが、アラリック2世にとって、これ以上のフランク王国の南下は何とも我慢のならないものでした。こうして507年、両軍はガリア南部ヴイエで激突します。(ヴイエの戦い)激戦の末、戦いはクローヴィス率いるフランク軍が勝利し、敗れたアラリック2世は捕らえられ処刑されてしまいます。

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上はアラリック2世の金貨です。

記録によると、この時クローヴィスは自らの手でアラリック2世を処刑したとの事です。その理由は敵がこれまでの様な小領主ではなく大国の王であり、名も無い兵に処刑させるよりも、同じ王である自分が処刑する事が相手に対する礼儀であり、情けである。というものでした。そしてその遺体を西ゴート軍に丁重に送り返したそうです。

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王を討たれた西ゴート軍は、王の遺体を荼毘に付すとガリア南部を撤退、ヒスパニア(現スペイン)本国まで退却し、上に載せたアラリック2世の息子ゲサリック(?~511)を新たな王に即位させ、ピレネー山脈を防衛線として巻き返しを図ります。このピレネー防衛線が、ほぼ現在のフランス・スペイン国境として今に至るそうです。

次回に続きます。

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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 4

みなさんこんにちは。

507年のヴイエの戦いでアラリック2世率いる西ゴート軍を破ったクローヴィスのフランク軍は、その後西ゴート王国の首都トゥールーズを落とし、さらにヒスパニア(現スペイン)のピレネー山脈付近まで西ゴート軍を追いやり、ガリア(現フランス)のほとんどを手中に収めました。

その気になればヒスパニアに侵攻する事も出来ましたが、クローヴィスはそれ以上の深追いはせず、山脈を天然の国境線として各地に守備隊を置くと、兵をまとめてガリアに帰還します。その理由は不明ですが、恐らく後方にいるテオドリックの東ゴート王国を警戒しての事と思われます。

第2回でお話した様に、クローヴィスは493年に妹をテオドリックと政略結婚させて「同盟」を結んでいますが、そのテオドリックは自分の娘をクローヴィスがヴイエの戦いで破って処刑した西ゴート王アラリック2世に嫁がせ、こちらとも「同盟」していました。

しかしクローヴィスが嫁がせた妹と、テオドリックの間には後継者の王子が生まれず、テオドリックが西ゴートのアラリック2世に嫁がせた娘には、未来の後継者たる待望の王子が生まれていました。それに出身部族も、東西に分かれているとはいえ同じ「ゴート族」であり、つまりクローヴィスのフランク族とのつながりは、妹を通しての非常に脆弱なものでしかなかったのです。

いつ同盟を破棄されてテオドリックに攻め込まれるか分かりません。そうなればアラリック2世の復讐と失地回復に燃える西ゴート軍との挟み撃ちに遭って、せっかく苦労して広げた領土を失いかねません。そのため彼は、テオドリックの東ゴート王国には攻め込む意志の無い事を示すため、様々な工作でかなり気を使っていた様です。しかし幸いテオドリックは、クローヴィスのフランク王国よりも、東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)との諸問題に追われていたので、彼の懸念は杞憂に終わりました。

508年クローヴィスは、自らが築いたフランク王国の首都をパリに定め、戦いに明け暮れていた毎日から一転、新たな国づくりに向けて国政に専念し始めます。(彼が都に定めた「パリ」の語源は、かつてこの辺り一帯に居住していたケルト系の「パリシー族」の名にちなんだと言われています。)彼はローマ法とゲルマンの慣習を融合させた「サリカ法典」を編纂し、セーヌ川にキリストに捧げる修道院を築くなど精力的に動いていましたが、一方でこの頃から健康に不調をきたし、病気がちになりました。

健康の不調はいつも勝利の自信に満ちていたクローヴィスの心身を蝕み、死への恐怖に怯えて過ごす様になります。そしてそれは晩年の彼の心に他人への猜疑心を増長させてしまいました。彼は自分の命も先が長くないと悟ると、自分亡き後の息子たちへの速やかな権力移譲を図るため、他のフランク有力家門を次々と奸計にかけてそのほとんどを抹殺し、メロヴィング家の王朝世襲を強固なものにしました。(これによりメロヴィング家は以後240年もの間、フランク王国の王家として君臨し続ける事が出来ました。)

西暦511年11月、一代で西ヨーロッパに広がる大王国を築いたクローヴィス1世は息を引き取りました。45年の決して長くない一生でした。彼の遺体はパリ郊外にあるサン=ドニ大聖堂に埋葬されましたが。その墓は今だに発見されていないそうです。

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上がそのサン=ドニ大聖堂。現在の建物は13世紀のもので、クローヴィス以後のメロヴィング家の王たちを始め、それ以後の歴代フランス国王のほとんどがここに埋葬されています。

彼の死後、フランク王国はフランク族特有の習慣に従って4人の息子たちに分割されます。しかしこの分割相続が仇となり、4人の息子たちは兄弟間で骨肉相争う領土争いを展開、最終的にクローヴィスの末子であるクロタール1世(497~561)が全フランク王国を手中にしますが、それ以後のメロヴィング王家は、好色で短命なこれといって才も覇気もない王が続き、やがて王国の実権は家臣であった「宮宰」(きゅうさい)のカロリング家に握られて行く事になります。

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上が分割後のメロヴィング朝フランク王国、下がクロタール1世です。

今回取り上げたクローヴィス1世については、日本ではあまり知られておらず、本家ヨーロッパの歴史家の間でも、「フランス最初の国王」でありながら「疑り深く、狡猾で残忍な王」という評価の様です。それは否定しません。しかし歴史上の君主、権力者など、みんなそうなのではないでしょうか?「聖人君子」などという言葉がありますが、もしその様に争いを好まぬ温厚で人の良い人物であれば、周囲の者たちの餌食になって攻め込まれ、滅び去るだけだったでしょう。そうならぬためには自らが強くなり、獲物に噛み付く狼の様に恐れられる存在となるしかなかったのだと思います。

彼の話はこれで終わりますが、古代から中世へと移行していく激動の時代を生き抜き、その後のヨーロッパの「王国」のあり方の方向を示した先駆者として記憶されるべきと思います。

次回からはフランク王国第2王朝であるカロリング家の人々についてお話致します。

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カール大帝とカロリング王朝 1

みなさんこんにちは。

今回からフランク王国の第2王朝であるカロリング家の人々についてお話致します。

このカロリング家については前回お話した様に、もともとの身分はフランク王国の王家メロヴィング家に仕える家臣で、メロヴィング朝中期から台頭して来た家柄の一族でした。

メロヴィング朝フランク王国は、創始者クローヴィス1世亡き後、彼の子孫たちによって統一と分割を繰り返しながら支配されていたのですが、カロリング家はその中の一つで、ほぼ現在のドイツの西部地域であるアウストラシア分王国(一つの王国を「分けて」いるのでこの言い方をしています。)の宮宰(「きゅうさい」「宮廷宰相」とでも言いましょうか、王に代わって王国の政務その他一切を取り仕切る言わば「首相」職で、それぞれの分王国に存在していました。)を務めていました。

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メロヴィング朝フランク王国は、フランク族独特の伝統的慣習に従い、王位継承の度に王国を分割相続する制度であったため、次第に王権が弱体化して行き、代わってこれら宮宰が台頭していきました。

最初に彼らの名が登場するのがメロヴィング朝中期から後期なのですが、まだその頃宮宰職はカロリング家世襲のものではなく、他の有力家臣との持ち回りで行っていた様です。しかしその宮宰職を初めてカロリング家世襲のものとし、またアウストラシアだけでなく、全フランク王国全ての宮宰に就任する事に成功したのがピピン2世(640?~714)という人物です。(とても愛嬌のある名前ですが、実際にこういう名前なのです。しかしそれとは裏腹に、さぞや激しい権力闘争で政敵の有力者を倒していったのでしょうね。)

そのピピン2世の死後、宮宰職は息子のカール・マルテル(688?~741)が継いで全フランク王国の実権を握ります。(息子なのに名前が違うのは彼が正妻の子ではなく、側室の子であるからです。当然正妻の息子一族との争いがありましたが、彼は大変軍事的才能に恵まれ、これらを破って全フランク王国の宮宰となりました。)

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その後彼は、西ゴート王国を滅ぼし、当時スペインからフランス南部にまで侵攻して来たウマイヤ朝イスラム帝国の6万とも10万以上ともいわれる大軍を、わずか2~3万の軍勢で撃退し、西ヨーロッパへのイスラム勢力の侵入を食い止めた事で、その名を全ヨーロッパに知らしめ、ローマ教会からも信頼されると同時に恐れられました。

カール・マルテルが死ぬと、その息子であるピピン3世(714~768)が宮宰となります。そしてこの人物こそメロヴィング朝から王位を簒奪(「さんだつ」本来その地位に付くべきでない下位の者が、上位の者から位を奪い取る事。)してカロリング朝を開いた最初の王です。

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王位を「奪い取る」という表現をしましたが、彼は軍事クーデターの様に力ずくで行ったわけではありません。メロヴィング朝末期のこの時期、すでにメロヴィング家の権威は失墜し、王位も空白でした。ピピン3世は某修道院から、メロヴィング家の血筋に連なる人物を連れて来てキルデリク3世(?~754?)として即位させ、数年間在位させた後に、751年王国の貴族たちの決議で彼を廃位して、自らを新たな「フランク国王」として選出させたのです。
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上がそのキルデリク3世の銅貨です。

彼がこの様な回りくどいやり方で即位した背景には理由があります。力ずくで王位に付くのは簡単だが長続きしない。歴史を見れば大抵一代限りの短期政権で終わっています。彼はメロヴィング朝の様に、自らの子孫による王朝の存続を望んでいました。そのためには自分が王位に付く正当性と、それを支え、従えて行く周囲の者たちに充分納得させる準備が必要です。

彼はまずローマ教会に接近し、時の教皇ザカリアスから「力無き者と力ある者とでは、力ある者が王になるべき」との言葉を頂き、(教皇に頼んでそう言わせたのです。)ローマ教会の支持を取り付けました。(もちろん裏でローマ教会は法外な口利き料を取っていた様です。)そしてそれを王位簒奪の正当性の根拠にして、王国の貴族たちにも彼らに得がある様に充分根回しをし、数年かけて周到な準備を重ね、751年の貴族会議で、彼ら王国貴族たちから推戴されるという形式を取ってついに王位に付いたのでした。

哀れなメロヴィング家最後の王キルデリク3世はその後幽閉され、(復位させないためと思われます。)数年後に寂しく亡くなりました。こうして初代クローヴィス1世から数えて14代270年続いたメロヴィング王朝は終焉を迎え、代わって新たにカロリング朝フランク王国が誕生しました。(カロリングとは「カールの」という意味で、ピピン3世の父カール・マルテルが事実上この王家の初代とされているからです。)

念願叶って王になったピピン3世でしたが、彼にはまだローマ教会と約束した大仕事が残っていました。それは彼が王位に付く見返りに、当時ローマ教会を脅かしていた北イタリアのランゴバルド王国を討伐する事です。さらに貪欲なローマ教会は、討伐成功の暁には、イタリア中部の領土をローマ教会に寄進する約束までさせていました。

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上はピピン3世が寄進した領地の報告を受ける教皇と枢機卿たちを描いた絵です。彼は約束通りランゴバルドを討伐し、奪った領地の中からラヴェンナを中心とする地域を当時の教皇ステファヌス3世に寄進しました。(ピピンの寄進)そしてこれが、後のローマ教皇領の始まりとなります。

次回に続きます。

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カール大帝とカロリング王朝 2

みなさんこんにちは。

旧メロヴィング王朝を廃して自らの王朝を打ち建て、新たにフランク王となったピピン3世が768年に亡くなると、その領土はまたもフランク人特有の均一分割相続により、彼の2人の息子長男カールと、次男カールマンが相続します。しかし弟カールマンの方は3年後に早死にしたので、フランク王国は兄カールが単独で支配する事になりました。

このカールこそ、後のカール大帝となるカール1世です。(742~814)

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上は16世紀に描かれた彼の肖像です。

彼は全フランクの王になると、父ピピン3世をはるかに凌ぐ軍事遠征を行いました。彼はまず、その遠征の矛先を北イタリアにあった隣国ランゴバルド王国に定めます。当時この地域には、同じゲルマン民族であるランゴバルド族の建てた王国があり、カトリックの総本山であるローマ教会を脅かしていました。ランゴバルド王デシデリウスは、イタリア半島征服を狙っており、いずれは戦う事になる相手であったからです。

しかし両者はそんな思惑をおくびにも出さず、当初はランゴバルド王から、自分の娘とカールとの政略結婚の申し出があり、カールもそれを受けてその王女と結婚します。これでフランク王国から攻撃される事はないと思い込んだデシデリウス王は772年ローマへと兵を進めました。

時の教皇ハドリアヌス1世(?~795)はカールに救援を要請、デシデリウスを討つ大義名分を得たカールは3万の軍を率いてアルプスを越えるとランゴバルド王国へ侵攻、首都パヴィアを落としてランゴバルド王の象徴である「鉄王冠」を奪い、たちまち全土を制圧してしまいます。本国を襲われ不意を突かれたデシデリウスは捕虜となり、ランゴバルド王国は建国からわずか100年余りで滅亡しました。

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上はランゴバルド軍を破ってローマに入城するカールを迎える教皇ハドリアヌス1世です。(教皇自ら出迎えて「汝はローマを救った。」とか「主イエスは常に汝のそばに。」とかなんとかさぞや大げさにカールを褒め称えた事でしょうね。)

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そしてこれがランゴバルドの「鉄王冠」です。これは代々のランゴバルド王が受け継いだ物で、なんでもキリストが磔にされた時の釘(といわれる物)を叩き伸ばして円状にし、その周りを分厚い黄金の板と宝石で飾ったいわゆる「聖遺物」という物です。この王冠は後に「イタリア王」の象徴とされ、その後イタリアを支配した歴代の皇帝たちに受け継がれていきました。

ランゴバルド王国を滅ぼしてその領土を得たカールは、この王冠を盾に自らランゴバルド王を兼ね、父ピピン3世の例に倣ってイタリア中部の領土を教皇に寄進し、ローマ教皇領の守護者となりました。(教皇以下、教会幹部が歓喜する姿が目に浮かびます。喜んでそれらを認めた事でしょう。)

南の敵を討った彼は次に北上、ドイツ北部で頑強に抵抗し、フランク王国への服属を拒むザクセン族との長い戦いに入ります。(これを「ザクセン戦争」と言い、772年から804年までなんと30年以上も続き、最もカールを悩ませました。)彼は通算10回以上も北方遠征を行い、その間に他の方面にも遠征しています。

778年にカールはイベリア半島のカタルーニャに侵攻、後ウマイヤ朝の支配するイスラム勢力を駆逐すると、795年この地に「スペイン辺境領」を置きます。(これはイスラム勢力とのいわゆる「軍事的緩衝地帯」でしょう。)さらに788年には東のバイエルン族を服属させ、791年にはドナウ川流域のスラブ人も討ち従えて行きました。

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上がカール1世が征服した領土です。青色が即位当時の領土、オレンジ色がその後にフランク王国に組み入れた領土、黄色が勢力範囲、赤色が寄進した教皇領です。イタリア、ザクセン、バイエルン、ボヘミア、チェコ、スロバキア、スペイン北部など、彼の時代にフランク王国はその領土が約2倍になりました。

もはや西ヨーロッパで、カールに立ち向かえる敵はほとんどいなくなりました。それほどまでに強大化したカールのフランク王国に対し、密かにこれを利用して自分たちの権威と地位をもっと高めようと画策する集団がありました。それは悪名高い謀略の巣窟であるローマ教皇庁です。

当時カトリックのローマ教皇庁は、ローマがキリストの最初の弟子ペテロ殉教の地である事を根拠に東のビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを牙城とする、「正教」とキリスト教の主導権を巡って争っていました。しかしこの時代、キリスト教の中心地は何と言ってもコンスタンティノープルであり、ローマは常にその「格下」扱いを受けて後塵に甘んじる事を余儀なくされていたのです。そこで歴代のローマ教皇は、東のコンスタンティノープル総大主教に打ち勝つ方策を常にあれこれと巡らせていました。

そんな折、西ヨーロッパでは今や東のビザンツ帝国と肩を並べる強大な勢力となったカール1世のフランク王国が興隆しつつあったのです。「この状況を何とか我らに有利に利用出来ないか?」そして時のローマ教皇レオ3世(750?~816)は実に突拍子も無い奇抜な事を考え付きます。それはすでに300年以上前に滅びた「西ローマ帝国の復活」です。

「東の正教勢力が強いのはビザンツ帝国(東ローマ帝国)という「国家」の厚い庇護の下にあるからで、わがローマが正教より弱いのはこの「国家」による庇護が無いからだ。ならばこちらもその後ろ盾となる「国家」を創れば良い。東の正教が「東ローマ帝国」であるのなら、西の我らは当然「西ローマ帝国」である。」というわけです。

そして彼が考えるその復活した「西ローマ帝国」というのがカールのフランク王国であったのです。もちろんその様な大それた構想を、古代ローマ帝国の正当な後継国家である「東ローマ」すなわちビザンツ帝国が絶対に認めるはずがありません。しかし教皇レオ3世は構わずこの計画を実行に移すため動き出しました。

次回に続きます。

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カール大帝とカロリング王朝 3

みなさんこんにちは。

さて教皇レオ3世が東の正教に対抗し、全キリスト教徒の頂点としてのローマ教皇権の確立を目指して「西ローマ帝国の復活」という途方も無い作戦を計画していた800年頃、その筋書きの主役であるカール1世は何をしていたのでしょうか?

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カール1世の軍事遠征については前回大まかにお話しましたが、彼は対外戦争ばかりしていたわけではなく、国政においても優れた手腕を発揮した英邁な君主でした。中でも彼が最も情熱を傾けたのがカトリックの拡大と学問の振興です。

カールは征服した領地に教会や修道院を次々に建設して人々のキリスト教カトリックへの改宗を促進し、各地から学者や知識人を集めると、それらに付属する神学校で古代ローマやラテン語の学問を大いに奨励しました。(彼が行ったこれら一連の文化運動は「カロリング・ルネサンス」と呼ばれています。)さらに王国内を細かくブロック分けした「州」を設け、各地の有力部族の長などをそれらの長官として任命し、後の貴族階級の「爵位」のもとになる「公」その下に「伯」などの位を与えて徴税、統治を徹底させ、中央集権化を推し進めていきました。

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上はカール1世が建てた寺院の一つであるドイツのアーヘン大聖堂とその内部です。1枚目の写真をご覧下さい。彼の時代には中央の八角形の部分が中心でしたが、その後の時代に合わせた様々な建築様式で次々に建て増しされ、デザインがバラバラなのがお分かり頂けると思います。カール大帝は崩御するとこの大聖堂の神殿に埋葬され、今もここに眠っているそうです。そして彼に続くカロリング家の皇帝たちも、さらにその後に開かれた神聖ローマ帝国の歴代皇帝たちもほとんどここで戴冠しています。

(彼は生涯の大半を軍事遠征に費やしたので彼の宮廷は絶えず移動を余儀なくされ、彼のフランク王国でははっきりとした「首都」と呼ばれる所がないのですが、多くの歴史家の間では独仏の中間にあるここアーヘンをカロリング朝の都としています。)

そんな折、時のローマ教皇レオ3世から例の「西ローマ帝国の復活」とカールの皇帝戴冠の話が持ち込まれたのです。正確にはカールが最も信頼し、彼の宮廷で活躍していたイングランドの高名な神学者アルクイン(735?~804)を介して伝えられたのですが、カールはこの時点ではローマ教皇の本当の目的が見抜けず、皇帝即位を受諾しています。

中世最強の王カール1世もやはり「人間」でした。

「すでに西ヨーロッパのほとんどを征服し、わがカロリング・フランク王国は、今や東のビザンツ帝国とヨーロッパを二分する超大国となった。その王である自分こそ、王たちの王、すなわち皇帝となるにふさわしい。そしてキリスト教カトリックの守護者として、全ヨーロッパにあまねくそれを広めるのだ。」

彼の心の中に、このまま歴史に数多くいるただの「王」の一人で終わりたくない。全世界の支配者「ローマ皇帝」となって歴史に自らの名を刻みたいという名誉欲が膨らんでいきました。


西暦800年12月25日、カール1世はローマに赴き、サン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世より帝冠を授かり、「西ローマ皇帝」として即位しました。しかしこの時カールを驚愕させる事態が起こります。それは教皇レオ3世が、ペテロの石棺の前にひざまずくカールの頭上に「教皇の手により」帝冠を載せたのです。そして様々な美辞麗句で彼を褒め称えた挙句「神の代理として汝をローマ皇帝に任ずる。」と宣言し、時を置かず参列者に「偉大なるカール皇帝万歳!」と叫ばせました。

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上がその時の様子を描いた絵です。もちろん参列者の大半は、本心から偉大な皇帝の即位を喜んでそう叫んだのでしょうが、カール大帝自身はこの時初めて、自分がローマ教皇の大芝居のパフォーマンスを演じさせられた事に気付きました。なぜなら教皇による皇帝の戴冠など、過去に前例が無かったからです。

実はローマ教皇とは、カトリックの頂点に君臨するとはいえ聖職者の最高位に過ぎず、本来なら聖職者などという者は、地上の最高権力者たる皇帝から選任されてしかるべきものでした。それなのにカール大帝はまんまと教皇レオ3世に乗せられ、「教皇が皇帝を選任する」という全く逆の形を創らされてしまったのです。

カールがそれに気付いた時はすでに遅かったのですが、広大な領土を統治するための「神聖かつ巨大な権威」を必要としていた彼は大いに不本意ながら「西ローマ皇帝」としてその後君臨します。

さて、これに怒ったのが「東ローマ帝国」すなわちビザンツ帝国でした。ビザンツ皇帝はカールの「西ローマ皇帝」など「僭称」に過ぎないと断じて認めず、さすがに東のビザンツ帝国とまでは戦うつもりの無いカール大帝を悩ませました。(もちろん教皇レオ3世は知らんぷりです。)結局その後十数年かけて両者の間で交渉がなされ、812年にフランク王国とビザンツ帝国との間で妥協が図られました。

その内容は、ビザンツ皇帝はカールの皇帝即位を認め、その代わりカール大帝は後に海洋都市国家として大発展するヴェネツィアと南イタリアをビザンツ帝国領として認める。イタリア中部の教皇領は両者のどちらにも属さない主権国家とするというものです。(しかしこの時もビザンツ側は「ローマ帝国とローマ皇帝」はあくまでビザンツ帝国とビザンツ皇帝であり、カール大帝は「フランクの皇帝」に過ぎないというものでした。)

こうして「西ローマ帝国」は復活したかの様に見えますが、歴史上の位置付けではビザンツ帝国の主張を正当と認めていて、そのためカール大帝以下カロリング家の皇帝たちは「フランク・ローマ皇帝」などとやや苦し紛れに呼ばれています。

次回に続きます。

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カール大帝とカロリング王朝 4

みなさんこんにちは。

様々な紆余曲折を経てようやく実現したカールの皇帝即位でしたが、その後のカロリング・フランク王国とヨーロッパ世界はどうなったのでしょうか?

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上の図をご覧になればお分かりと思いますが、大体大きく3つの大勢力に分かれている事が確認出来ます。紫色がカール大帝のフランク王国、黄土色がビザンツ帝国、そして緑色がアッバース朝イスラム帝国(後ウマイヤ朝のスペインを除く。)ですね。そしてイタリア中部にあって極めて小さいながら、これら3つの超大国の力のバランスを利用しつつ巧みな外交と謀略で翻弄し、したたかに存在していたのがローマ教皇庁です。

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カール大帝について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は96ページで薄いですが、大帝についてコンパクトな知識をつけるには十分な本です。(カール大帝とフランク王国の書籍は他にもありますが、学者さんがお書きになった高度な専門書で、500ページ程度なのになんと価格が8千円以上もする高価なものになってしまうため、上の本をお薦めします。)

カール大帝は、ビザンツ帝国との一応の和平が成った2年後の814年に、71歳でその波乱に満ちた生涯を終えます。前王朝メロヴィング朝の創始者クローヴィス1世と比較すると、前者に比べはるかに人間らしい好人物であった様です。

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上はルネサンス期(1500年前後)にドイツ最大の画家アルブレヒト・デューラー(1471~1528)によって描かれたカール大帝の肖像です。(黄金の帝冠を被ったカール大帝ですが、この帝冠は彼の死後150年後に建国された神聖ローマ帝国皇帝の帝冠であって、カール大帝が身に着けていた物ではありません。画家が事情を良く知らなかったのでしょう。)

記録によれば、カール大帝は身長195センチもある大男で、乗馬や狩り、水泳などのスポーツを好み、焼肉が大好物でしたが酒には弱く、あまり飲めなかった様です。また当初は読み書きが全く出来ず、下が彼のサインですが、なんと真ん中の「菱形」の部分しか書いていないそうです。しかしさすがにこれではまずいと思ったのか、忙しい合間を縫って夜にこっそり石版で読み書きの練習をしたりしていました。

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ただそこは皇帝になるだけの大人物だけあって頭は良く、ラテン語やギリシャ語を習得し、学者たちとも大いに語らい交流していました。上のデューラーの肖像では豪華な衣装を身に着けていますが、儀式以外の普段着は質素で贅沢は好みませんでした。またペットの飼育も趣味で、各地から様々な珍しい動物を送らせてはアーヘンの宮廷内に「動物園」を作って楽しんでいたそうです。

いろいろ調べてみましたが、このカール大帝は先のクローヴィスと大きく違い、正々堂々とした「騎士道精神」と豪快かつ単純な明るい性格で、謀略や残虐なエピソードがほとんどありません。それゆえか今でもヨーロッパでは「ヨーロッパの父」と呼ばれて慕われ、現在のEU(ヨーロッパ連合)を主導するドイツ、フランス両国で高い人気を誇っています。またこの人はトランプのカードのハートのキングのモデルとしても有名ですね。

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カール大帝の死後、フランク王国は彼の長男ルートヴィッヒ敬虔王(778~840)が、父カールがやむなく受け入れた教皇による皇帝戴冠を踏襲して即位します。(彼は「敬虔王」の名の通り大変信仰心が厚く、教皇によって戴冠される事になんら疑念を持たなかった様です。そしてこのルートヴィッヒのフランス語である「ルイ」が、後のフランス王家歴代国王に代々受け継がれ、彼は初代ルイ1世とされています。)その彼が亡くなるとフランク王国はまたしても分割相続されました。

その後彼の3人の息子たちは大方の予想通り兄弟骨肉の領土争いを展開し、結局843年にそれぞれの相続分を取り決めた「ヴェルダン条約」によって一応の決着を見ました。

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こうしてカール大帝の築いたカロリング・フランク王国は分裂し、その後二度と統一される事はありませんでした。やがてカロリング家の血筋も、その最後の人である西フランク王国のルイ5世が987年に亡くなり、カロリング王朝は初代カール・マルテルから数えて240年余りで断絶してしまいます。

メロヴィング王朝のクローヴィス1世が482年に興し、さらにカロリング王朝に引き継がれて通算500年続いたフランク王国のそれが最後でした。そして後に残った西フランク王国がフランス王国に、東フランク王国が神聖ローマ帝国になり、フランク王国は完全に消滅しました。しかしフランク王国の記憶はその後継国家であるドイツ、フランス、イタリアという現在のヨーロッパ主要国の国民形成に大きく影響し、そこで育まれた文化や学問が今日のヨーロッパの原型を造ったのは疑い様もありません。

また古代ローマ帝国に代表される様に、それまで地中海中心に動いていた歴史が、この時代から「北方」に移った事も大きな特徴でしょう。ゲルマン民族のフランク王国が歴史上果たした役割は、ヨーロッパの歴史の区切りと移り変わりというものを知る上でとても興味深い一大スペクタクルであると思います。

フランク王国物語終わり。

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アレクサンドロス大王の戦い 1

みなさんこんにちは。

今回は世界史に目を向けて、今も欧米先進国や中東諸国で絶大な人気を誇る、アレクサンドロス大王についてお話したいと思います。自分が今回このテーマを選んだ理由についてですが、それはこの人が、恐らく人類史上初めて「世界征服」という野望を抱き、それを実行した人物であるという点に興味を引かれたからです。

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(アレクサンドロス大王について詳しくお知りになりたい方は上の2つの本が良書です。上の本はカラーで写真や図が多く掲載されていて資料としては最適ですが本文が短く、ページ数は180ページ余りです。下の本は2世紀の帝政ローマの歴史家アッリアノスの有名な「アレクサンドロス大王東征記」の文庫版で、さらに詳しく大王について記した1900年読み継がれる名著です。上・下巻に別れ、ページ数は上巻473ページ、下巻は508ページという読み応えのあるもので、ほとんどの方がこの3冊をまとめて購入されています。)

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アレクサンドロス大王(紀元前356~323)は正式にはアレクサンドロス3世といい、(英語読みではアレクサンダーですが、本文ではこちらの呼び名にします。)もともとは現在のギリシャの中央部に位置していたマケドニア王国の王でした。(地図で見ると、北にある現在のマケドニア共和国とはだいぶ位置が違いますね。)

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このマケドニア王国は、紀元前700年頃から310年まで約400年以上続いたアルゲアデス王家が建国した国家であり、アレクサンドロスはそのアルゲアデス朝26代国王に当たります。

当時このギリシア地域はたくさんの都市国家(ポリス)に分かれ、とりわけアテネ、スパルタ、テーベなどが互いに相争い、時には同盟をするというサイクルを繰り返しており、さらに東には、エジプトをも従えた強大なペルシア帝国が、そんなギリシアの混乱に乗じて隙あらば攻め入って併合すべく虎視耽々と狙っていました。


後にアレクサンドロスは、そんなギリシア世界を武力で統一してペルシアへの大遠征に出ますが、ここで誤解して頂きたくないのは、その全てをアレクサンドロスが一人で一から築いていったわけではないという事です。その土台は彼の父親である先王フィリッポス2世(紀元前382~336)によって造られました。

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上がそのフィリッポス2世とされる黄金のメダルです。(鋳型に金を流して作ったのか、彫金なのか分かりませんが、2400年前にこれほど繊細で写実的な物を作っていた古代ギリシアの人々の技術には驚嘆せざるを得ませんね。)

フィリッポス2世は優れた王でした。彼は幼少期に先に述べた都市国家テーベに人質に出され、そこで過ごす内に数々の戦術を学びながら独自の軍隊の陣形を編み出し、兄王の死後帰国して王に即位すると直ちに軍制改革に着手して、長さ4~6メートルもある長槍を持った重装歩兵による密集隊形で敵軍を打ち破る「ファランクス」と呼ばれる陣形を考え出しました。

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上の図の様に長い槍と盾で武装した軍団で敵陣を崩すのです。敵軍はマケドニア兵を打ち倒そうにも先頭部隊の長い槍に阻まれて近づく事も出来ません。そして陣形をばらばらに切り裂かれた挙句、後方にひかえる軍勢によって駆逐されてしまうのです。

もともとこの戦法自体は古代バビロニアで考案され、オリエント地方を通じてギリシアにも伝えられていたのですが、必ずしも常に編成されたわけではなくあくまでも軍の一部程度でした。それをフィリッポスが拡大改良し、これに騎兵を組み合わせてマケドニア全軍に取り入れたのです。

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さらにフィリッポス2世は軍制だけでなく国の財政も整備します。彼は東隣のトラキア(位置は上図参照)に侵攻して、この地方のパンガイオン金山を手中に収め、財源を確保します。(先に載せたフィリッポスのメダルもそこから得た金で作られたのでしょう。)さらに産出した金で品位の優れたスターテル金貨を鋳造して、これを兵士たちに「給料」として支払う事で、いざ戦時となればただちに兵を動員出来る常備軍を造り出しました。これによりマケドニアはいつでも戦争をすることが出来る様になり、国家と国民の全てが軍事化されたスパルタを除き、農閑期にしか戦が出来なかった他のギリシア都市国家を次々に撃ち従えて行きました。

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上の画像は彼が作らせたスターテル金貨です。(スターテルとは「重さ」を表す単語の様です。)

またフィリッポス2世は、後継者である王子アレクサンドロスに英才教育を施すため、アテネから当時のギリシア世界最高の哲学者アリストテレス(紀元前384~322)を家庭教師として招きます。

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この当時アレクサンドロスはまだ12,3歳の少年でしたが、他の学友たちと供にアリストテレスから弁論術(演説など)医学、科学、文学、哲学などを学んだといわれます。そしてこの時一緒に学んだ学友たちが、後の東方遠征で彼に従う将軍たちとなります。(もちろんまだ10代半ばの少年に、これらの難解な学問が理解出来るはずはないですから、あくまで基本的な知識程度でしょう。しかし思春期の多感な時期にギリシア文明の英知に触れた事は、その後の彼の人生と価値観に大きく影響した事でしょうね。)


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父王フィリッポス2世は、スパルタを除く他の都市国家とコリント同盟を結んで全ギリシアを支配下に置くと、東の強敵ペルシア遠征を計画し、その先遣部隊として約1万1千の兵を小アジア(現トルコ)に上陸待機させます。しかしその矢先、護衛によって志半ばで暗殺されてしまいます。(この暗殺は、仲が悪く離婚した元王妃の謀略という説が長く主張されています。優れた王であった彼も、私生活は上手くいってなかった様ですね。)

フィリッポス2世の死後20歳で即位したアレクサンドロスは、父王から強力な軍隊を受け継ぎ、やがて父の遺志を継いでペルシアへの大遠征に出発しますが、その大事業はこの様に、父フィリッポス2世が造り上げた強固な地盤の上に成り立つものでした。

次回はその後のアレクサンドロスについてお話します。

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アレクサンドロス大王の戦い 2

みなさんこんにちは。

今回も前回に続き、アレクサンドロス大王についてお話したいと思います。

父王フィリッポス2世の暗殺によって弱冠20歳で新たなマケドニア王に即位したアレクサンドロスでしたが、王位に付いたからといって、すぐに東方遠征に出発したわけではありませんでした。その理由は大きく二つあります。

まず一つ目は父王の死によって、それまで武力で服従させていたアテネやテーベなどの有力都市国家が反乱を起こした事です。これらの都市は、かつてギリシアの盟主として覇を競った列強であり、その彼らからすれば、元はギリシア北部辺境の「田舎者」であったマケドニアに服属する事は、何とも耐え難い事でした。

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こうした動きにアレクサンドロスはすぐに軍を動かして、首魁であるアテネとテーベの反乱勢力を撃破し、再びこの2都市を服従させるとコリント同盟会議を再招集させ、改めて全ギリシアの盟主と認められました。(実際は武力で「認めさせた」のですが。)

ギリシア本国を手中にして南を押さえた彼は、今度は自領であるマケドニア北方に遠征し、この地で反乱を起こしていたバルカンの異民族を駆逐します。しかしその戦のさなか、「アレクサンドロスが戦死した」との誤報が流れ、それを聞いたアテネとテーベなどでまたも反乱勢力が息を吹き返します。中でもテーベでは、市民がマケドニア軍の司令部を襲撃し、その駐留軍を追い出すなどの行動に出ました。

一度ならず二度までも自分に歯向かったこの2都市に対しアレクサンドロスは怒りに燃え、北方地域を平定するとすぐ南に取って返し、反乱の急先鋒であったテーベを総攻撃しました。思わぬ急襲にテーベでは奴隷にまで剣を持たせて激しく抵抗しましたが、鍛え抜かれたマケドニア正規軍に完敗し、多くの市民が虐殺され、生き残った者も奴隷にされて都市は徹底的に破壊されました。

これは他の都市国家への見せしめとして行われたのですが、こうしたアレクサンドロスの動きはギリシア世界に大きな衝撃を与え、テーベの末路に恐怖したアテネは再び恭順の意を示し、反乱に呼応していた他のいくつかの都市も服属させると反マケドニア運動は収束していきました。こうしてアレクサンドロスは全ギリシアの実権を完全に掌握したのでした。

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上の画像はアレクサンドロスが即位の際に作らせた金貨です。表に彼の横顔、裏には翼を持った勝利の女神ニケの姿が彫られています。(このニケは「勝利」という意味で、英語では「ナイキ」と発音し、あのスニーカーで有名なナイキの社名の由来となっており、また同社のロゴマークはニケの翼を表しているそうです。)

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アレクサンドロスの東方遠征を妨げていたもう一つの理由は戦費、つまりお金の問題です。彼は父王フィリッポス2世から強力な軍隊を持つ国家を受け継いではいましたが、財政面では前述の様に父王の時代から続く出征や、度重なる反乱鎮圧のためにマケドニアの国家財政はかなりの赤字で、彼は父王から多額の負債も相続していました。

アレクサンドロスは東方遠征の戦費調達のために、王国の貴族たちに王領地や港湾からの収入(交易税など)を売却し、さらに借金を重ねて何とか遠征費用をかき集めましたが、それでもせいぜいたった一か月分ほどにしかなりませんでした。そんな風に王家の財産を簡単に売ってしまった若い王を心配した側近たちが、これでは「王自身に何も残らなくなる」と彼を説得しようとしましたが、彼は自分には「希望」さえあれば良いと答えたそうです。

さらに王国の重臣たちも、アレクサンドロスがまだ結婚もせず、世継ぎもいないまま大遠征に出かける事に反対しましたが、彼は構わず取り合おうとはしませんでした。どうもこういう点は若さゆえにあまり先の事を考えていなかったというか、王国の統治者としてはまだ未熟さが感じられる部分があります。

いずれにしてもかなりの綱渡りと言うか、とても危険な「投資」であったことは事実ですね。しかしこの若者の目は、わずらわしい銭勘定や些末な政治の事よりも、まだ見ぬはるか東方世界の征服という大事業にのみ向けられていて、他の事にはあまり関心を払っていなかった様です。

さてこの時点で、アレクサンドロスが大遠征のために準備した兵力はどの程度だったのかというと、歩兵3万2千、騎兵5千、合わせて3万7千ほどで、その内訳はマケドニア兵1万2千、ギリシア諸都市国家の兵1万3千、その他のバルカン諸民族の兵1万2千からなる連合軍でした。これを本隊として、さらに父王フィリッポス2世が小アジアに待機させていた傭兵部隊主力の先遣部隊1万1千を合わせると、合計4万8千の大部隊になります。

アレクサンドロスにとって一番の悩みは、先に述べた様にやはり戦費の不足でした。総勢5万に近い軍勢を維持して戦い続けるには、彼が苦心してかき集めた手元の資金はあまりに貧弱で頼りないものでした。(後に「大王」と称され、その後の幾多の英雄たちに敬われたアレクサンドロスも、お金に関してはかなり悩まされ、手を焼いた様です。)そのため彼は、短期決戦で速やかにペルシア支配下の諸都市を攻略し、その地の財貨を得る必要に迫られていました。

アレクサンドロスの大遠征はこの様な「イチかバチか」という賭けに近い状態から始まり、短期決戦どころか合わせて11年に及ぶ果てしない長期戦を戦い抜く事になります。

次回はアレクサンドロスの遠征の様子をお話します。

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アレクサンドロス大王の戦い 3

みなさんこんにちは。

今回も引き続き、アレクサンドロス大王の遠征についてお話いたします。

さて、何とか苦労してギリシア世界をまとめ、東方オリエントへの大遠征を開始したアレクサンドロスでしたが、その行く手には強大な敵ペルシア帝国が待ち構えていました。ここでそのペルシア帝国について触れて置きます。

このペルシア帝国とは正式にはアケメネス朝ペルシア帝国といい、この地域の小国アンシャンの王であったキュロス2世(紀元前600?~529)が、当時この地域の3大勢力であったメディア王国、リュディア王国、新バビロニア王国を次々に滅ぼしてオリエント世界をほぼ統一し、「諸王の王」を称して紀元前550年頃建国した大帝国でした。(アケメネス朝の名の由来は彼の王家の初代であるハカマニシュという王のギリシア語読みからだそうです。またペルシアは「騎馬民族」を意味するパールスから来ているそうです。)

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上は人々に崇められるキュロス2世。また現在のイランは彼を建国者としています。

そのキュロス2世の死後、息子のカンビュセス2世はエジプトをも征服してペルシアの領土に組み入れますが、その留守中にペルシア本国では遠縁の地方総督であったダレイオスが宮廷クーデターを起こして帝位を簒奪、(カンビュセスはエジプトで自害)ダレイオス1世(紀元前558~486)として即位します。

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このダレイオス1世はやがて周辺諸国へも侵略の手を伸ばし、紀元前499年ギリシア併合を目論んで数十万といわれる大軍を率いてギリシアに侵攻し、(ペルシア戦争)ギリシアをその存亡の淵にまで追い詰めます。(このペルシア戦争は彼の死後も息子のクセルクセス1世に引き継がれ、紀元前449年まで何と50年も続き、その間ペルシアは3度もギリシアに侵攻しています。結果としてペルシアはギリシア攻略に失敗し、武力での介入を諦めて都市国家同士を相争わせる方針に転換します。)

しかしこのダレイオス1世は戦争ばかりしていたわけではなく、広大な帝国の発展のため数々の政策を打ち出した名君でもあります。彼は帝国全土をおよそ20の行政区に分けて、それぞれにサトラップと呼ばれる一種の総督を置き、それらの行政区を「王の道」と呼ぶ街道で結び、さらに「王の目」「王の耳」と称する監察官を派遣して各行政区を監視させました。また彼は新たな都としてペルセポリスを建設し、さらに品位の優れた金銀貨を発行、帝国内の商人たちを保護して交易を盛んにしました。アケメネス朝ペルシア帝国は彼の時代に最盛期を迎えます。

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この国家は燃え盛る炎を神として崇めるゾロアスター教(拝火教)を国教としていましたが、従えた他の民族にそれを押し付けるような事はせず、他の民族の神々も尊重していました。そういった寛容さが多くの民族を束ねて巨大な帝国を運営していく原動力の一つとなっていた様です。

しかしダレイオス1世の死後、ペルシアは彼が始めたギリシアとの長い戦争と、絶えず帝国内で繰り返された反乱や王位をめぐる内紛などで緩やかに衰退していき、アレクサンドロスが登場する時代には、領土が広大なだけで何かきっかけがあればいつ崩壊してもおかしくないという状態にありました。

紀元前334年春、アレクサンドロスはこの巨大な敵と戦うべくギリシアを出発、ダーダネルス海峡を渡り小アジア(現トルコ)に上陸します。そして周辺の都市を次々に攻略しながら進撃を開始しました。もちろんペルシア側も手をこまねいていたわけではありません。ただちにこの地域一帯の総督たちに迎撃命令が下り、およそ3万5千からなる討伐軍を差し向けました。対するアレクサンドロス軍は、占領した各都市に守備隊を置いていった結果、この時点で兵力は2万5千余りに減っていましたが、兵士たちの士気は旺盛でした。

両軍はグラニコス川の両岸で始めて会戦します。激戦の結果はアレクサンドロスの勝利。ペルシア軍はおよそ4千の死傷者を出して敗退。対するアレクサンドロス軍は戦死200~300名、負傷2千余りというものでした。

実はこの時、ペルシア軍は戦わなくても良かったのです。ペルシア軍の武将の一人が、都市や村々から食糧、家畜その他全てを一時的に持ち去り、敵を奥地に引き入れて戦線が伸びきった所で叩く、いわゆる「焦土作戦」を主張したのに、戦を知らない殿様官僚の総督たちが「それでは自分たちの所領が大損害を被る」と嫌がり、真正面で立ち向かったために敗北したのです。もしこの時総督たちが、武将の進言を受けてその作戦に出ていれば、前回もお話した様に金も食糧も余裕の無いアレクサンドロスは敗れてギリシアに退却せざるを得ず、その後の歴史は変わっていたかもしれませんね。

ともかくアレクサンドロスは緒戦の勝利を飾り、小アジアを平定してさらに軍を南へと進めます。その間も、迎え撃つペルシア軍との間で大小さまざまな戦闘が繰り返されましたが、勢いに乗ったアレクサンドロス軍はこれらを蹴散らし、ペルシア領奥深くへと進撃を続けました。彼の戦いはまだ始まったばかりです。そして行く手にはさらなる強敵と困難が待ち受けていました。

次回もアレクサンドロスの遠征の様子をお話いたします。

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アレクサンドロス大王の戦い 4

みなさんこんにちは。

今回もアレクサンドロス大王の遠征の様子についてお話いたします。

グラニコス川の敗戦の一報は、「王の道」を通じてペルシアの都ペルセポリスに伝わっていました。この時のペルシア帝国の君主はダレイオス3世(紀元前380?~330)という人物で、即位してからまだ2年余りでしたが、事態を重く見た彼は自らアレクサンドロスと直接対決する事を決意し、バビロンに大軍を終結させて一路シリアへと出陣しました。

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上の画像の中央にいる、戦車上のヒゲの人物がダレイオス3世といわれています。

その知らせはシリア進撃中のアレクサンドロスにも伝えられました。このシリア沿岸はまだペルシア艦隊が制海権を握っており、これと東から迫るダレイオス3世のペルシア地上軍が合流すれば、兵力に劣る彼は挟み撃ちに合ってこれ以上の南下は不可能となります。何としてもその前にダレイオスのペルシア軍を叩く必要がありました。彼は主力部隊を率いて戦場に向かいます。目指すはシリア北部の要衝イッソスです。

その間にダレイオス3世の大軍は先にイッソスに無血入城、アレクサンドロスを待ち受けました。紀元前333年10月、ここにイッソスの戦いの幕が切って落とされます。両軍の戦力はダレイオス3世率いるペルシア軍およそ10万に対し、アレクサンドロス軍は4万でした。

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上がそのイッソスの戦いを描いたとされるモザイク壁画です。これは後のローマ時代に、ベスビオ火山の噴火で一日で火山灰に埋まった、あの有名なポンペイの遺跡の邸宅の一つから発見されたものだそうですが、実は本当にイッソスの戦いを描いたものかどうかは良く分からないそうです。

さて戦いは、当初はるかに兵力に勝るペルシア軍が優勢でしたがそれも束の間、アレクサンドロスとその部下達の巧みな戦術により形勢は逆転、アレクサンドロス軍の大勝利となります。ダレイオス3世は逃亡し(彼はこの時、なんと自分の家族も捨てて逃げています。)指揮官を失ったペルシア軍は総崩れとなりました。この戦いにおけるペルシア軍の戦死者は5万に達し、負傷者もほぼ同数であったそうです。(アレクサンドロス軍の方は不明)

この戦いはアレクサンドロスにとって大勝利であっただけでなく、遠征当初から彼を悩ませていた戦費の問題を一気に解決させました。というのは、ダレイオス3世が軍資金として陣中に持参した莫大な金銀や、彼の大軍の補給用に準備された大量の物資と7千頭の家畜などを手に入れ、言わば「大儲け」したからです。

それだけではありません。先に述べた様に敵のダレイオス3世は、自軍が不利になると自らの家族である王母、王妃、二人の王女を陣中に置き去りにして都に逃亡しましたが、(敵に包囲されて助けたくても助けられず、そうせざるを得なかったのでしょうが。)これら敵王の大事な家族も人質として得たからです。後にこの二人の王女のうち、姉のスタテイラがアレクサンドロスと結婚する事になります。

それと反対に、敗れたペルシア側の衝撃は大変なものでした。建国以来初めて、王自らが率いる大軍が全滅に近い大敗を喫し、王は惨めにも逃亡してしまったからです。この事はそれまで絶対神聖な帝王と思われてきたペルシア王に対して失望と不信の念を抱かせただけでなく、長い間アケメネス朝に支配されてきた他の民族に離反の動きを作るきっかけとなりました。

さてイッソスの戦いで大勝利を収めたアレクサンドロスでしたが、彼の戦いは陸上だけでなく、海上でも展開されました。と言っても、アレクサンドロス自身が艦隊を率いて戦ったわけではありません。彼が艦隊を率いたのは遠征の最初にダーダネルス海峡を渡って小アジアに上陸した時だけで、彼は専ら地上で戦い続けました。

海の戦いは海を熟知した海洋民族に敵う者はいません。そしてこの時代よりはるか昔から、地中海世界で最大の海洋民族と呼ばれていたのがフェニキア人でした。フェニキアとは現在のシリアの沿岸部を指す古い地名で、アレクサンドロスが南下する上でどうしても攻略したいテュロス、シドン、アラドス、ビブロスなどの都市群が集中していましたが、それらのフェニキア都市はすべてペルシア側に付いており、先に少し触れた様に彼らを主力とするペルシア艦隊は、今だ地中海の制海権を握っていました。

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この時代の船は「ガレー船」といい、上の様にたくさんの漕ぎ手でオールを漕いで進む自走能力がありました。もちろん海洋民族と言う点ではギリシア人も引けは取りませんでしたが、彼らの場合その行動範囲は、主にエーゲ海沿岸からイタリア半島、それにその周辺のシチリア、サルデーニャなどの大きな島々に限定されており、フェニキア人の様に黒海から地中海全域、さらに大西洋を出てイギリスの北海やバルト海までの広大な海域に進出するほどのキャリアは持ち合わせていませんでした。

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アレクサンドロスのギリシア艦隊は海戦で何度も戦いましたが、陸上での戦いとは違ってその都度撃退され、彼らに太刀打ち出来ませんでした。そこで彼は方針を転換し、これらのフェニキア都市に使者を送って交易の自由を保証する事や、その他ペルシア側より有利な特権を与える事で、ペルシアからの離反と自分への寝返りを促します。

作戦は成功し、先に挙げた都市のうちアレクサンドロスの要求を拒絶したテュロスを除く、その他のフェニキア都市がアレクサンドロスの味方に付き、彼は新たにこれらのフェニキア都市の220隻もの大艦隊を手に入れ、海から背後を攻撃される心配が無くなりました。(ちなみに彼の要求を拒絶したテュロスは都市もろとも滅ぼされてしまいます。)

こうして地中海の制海権を握ったアレクサンドロスはさらに海岸沿いを南下し、ペルシア最西端の領土エジプトを目指します。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

アレクサンドロス大王の戦い 5

みなさんこんにちは。

イッソスの戦いに勝利し、フェニキア地方をも制圧したアレクサンドロスは海岸沿いにさらに南下し、シナイ半島を経てエジプトに侵攻します。その前に彼は、見せしめと威嚇のために手前の都市ガザを総攻撃し、駐留ペルシア軍を徹底的に根絶やしにします。その知らせに恐れをなしたペルシアのエジプト駐留軍は、もともとペルシア本国に対する忠誠心が薄かったせいかあっけなく彼に降伏します。

さてこの時なぜ彼は、東のペルシア本国ではなく西のエジプトを目指したのでしょうか?


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その理由は兵糧、つまり食糧の確保と今後の安定供給でした。先のイッソスの戦いで、アレクサンドロスはダレイオス3世の置いていった莫大な金銀を手に入れ、当面の戦費を心配する必要は無くなったのですが、いくらその額が莫大でも所詮使ってしまえばいずれは無くなります。武器、兵士たちへの報酬、そして何より食糧を手に入れるのに金はいくらあっても足りる事はありません。さらにこれから攻めていくペルシア本国は、何も作物が実らない灼熱の乾燥地帯が広がります。

実はアレクサンドロスの故郷であるマケドニアを含むギリシア一帯は、意外にも食糧の自給率が低いのです。特に日々の生活に欠かせぬ糧であるパンの原料である小麦などの穀物は、ほとんど交易によって手に入れていました。そしてその大きな供給先がエジプトだったのです。

エジプトというと、恐らく上の画像の様にピラミッドと砂漠をイメージされる方が多いと思いますが、学校時代に歴史の授業で「エジプトはナイルの賜物」と教わった様に、ナイル川沿岸と地中海に注ぐ広大なナイルデルタはとても肥沃な土地なのです。

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上の画像をご覧ください。ナイル川沿いに緑あふれる農地が広がっているのがお分かり頂けるでしょう。これこそがエジプト数千年の繁栄を支えた源なのです。そしてこの尽きる事の無い豊かな実りをもたらすこれらの穀倉地帯を手に入れる事が、アレクサンドロスのエジプト侵攻の目的でした。

紀元前332年エジプトを占領したアレクサンドロスは、この地でペルシア支配からの解放者として歓迎されます。ここで彼はエジプトの神々を尊重し、各地の神殿を訪れてそれらの前に膝を付きます。これは彼が円滑にこの地を統治出来るようにする為の一種のパフォーマンスでしたが、彼の計算は大当たりし、彼は神官たちや市民からペルシア王に代わる、エジプトの新たな「ファラオ」として迎えられました。

アレクサンドロスはこのエジプトに約半年ほど滞在してナイル川沿いに各地を訪れ、やがて紀元前331年ナイルデルタの西に自らの名を冠した「アレクサンドリア」という都市を建設します。遠征開始以来それまで「破壊」を繰り返して来た彼が、この頃から自らが君臨する新たな世界国家の構築を考え始め、それを目に見えた形で表現して見せた最初の「創造」でした。

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上はそのアレクサンドリアの位置と、現在の街並みの様子です。(人口は2011年時点で約430万)

彼はこの都市を始めとして、その後同様に自分の名を付けた「アレクサンドリア」を遠征で手に入れた支配地の各所に建設し、一説にはその数は70にも登ったと言われています。しかし今日まで残って現在も発展を続けているのはこのエジプトのアレクサンドリアだけです。

この都市はアレクサンドロス大王の死後、彼の後を継いでエジプトに独立王国を打ち建てたプトレマイオス1世(紀元前367~282)の王朝の首都となり、最盛期には人口100万を越える地中海世界最大の都市として繁栄しました。(このプトレマイオスはアレクサンドロスの少年時代からの最も古い学友で、将軍として彼の遠征に終始付き添って供に戦い、苦楽を供にした無二の親友でした。その気になれば別の都市を都にするとか、街の名を変える事など造作も無い事なのにそれをしなかったのは、アレクサンドロスに対する終生変わらぬ忠誠と友情、尊敬と感謝の表れだったのでしょう。)

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上がそのプトレマイオス1世とされる胸像で、現在パリのルーブル美術館に所蔵展示されています。首が太くていかにもたくましそうな人物ですね。彼はアレクサンドロスより11歳も年長であり、親友であるとともに歳の離れた兄のような存在だった様です。そしてまだ若いアレクサンドロスの年齢的に未熟な部分を見えない所で補いつつ影で支え、彼の遠征を成功させた最大の貢献者でした。

アレクサンドロスの死後、彼は先に述べた様に紀元前306年エジプトに自らの王朝を打ち建て、他の後継ライバルたちをはるかにしのぐ85歳の長寿を全うした強運の持ち主でもあります。そして彼が建てたプトレマイオス朝エジプト王国は、彼の一族を王家として代々脈々と受け継がれ、その子孫である最後の女王が紀元前30年にローマ帝国との戦いに敗れて滅亡するまで264年間も続きました。その最後の女王が、あの有名な絶世の美女と伝わるクレオパトラである事は、歴史ファンであれば良く知られていますね。

それから余談になるのですが、この「アレクサンドリア」という街、画像ではとても美しい風光明媚な所ですが、それとこれとは別で、実は都市としては大きな欠点が二つあったそうです。まず第一は市民の生活に欠かせない飲料水となる地下水が全く出ない事。海の真近なのでどこを掘っても塩水しか出ず、そのため遠く離れた水源から水を引いて来る必要がありました。(この問題は現在も変わらず、この街ではすぐに給水制限がされるそうです。)

それから第二に、海に面した湾の入り口が広すぎて湾の水深も浅く、沖合いの潮の流れが湾に入り込んでしまうため、湾内の船がみんなそれに流されてしまうという事です。(古来どこの国でも港町というものは、湾の入り口が狭い場所を選んで造られていますね。これは潮流が湾内に流れ込んで停泊中の船が流されてしまうのを防ぐ為です。)そのため湾内に、大護岸工事を施して新たな港を造らなければなりませんでした。つまり、この場所は港湾都市とするには全く不向きな土地だったのです。

以上の事から、アレクサンドロスはあまり都市の立地条件というものを考えずに、ここに街を建設してしまった事がうかがえます。(こういう点も、まだ24歳だったアレクサンドロスの若さゆえの未熟さというか、経験不足が感じられます。)結局これらの欠点は後の人々の努力で克服されていき、やがて大都市として繁栄を謳歌しますが、当時の人々の苦労が偲ばれますね。

さてエジプト征服を完了し、兵に休養を取らせて充分に戦力を蓄えたアレクサンドロスは紀元前331年春、東征を再開し、敵王ダレイオス3世との最後の戦いに出発します。

次回に続きます。

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アレクサンドロス大王の戦い 6

みなさんこんにちは。

アレクサンドロスがエジプトにいた頃、イッソスの戦いに敗れて都ペルセポリスに敗走したダレイオス3世はどうしていたのでしょうか?

実はアレクサンドロスがエジプトに入る前、まだフェニキア地方(現在のシリア沿岸)を南下していた頃、ダレイオスはアレクサンドロスに対して使者を送り、ユーフラテス川より西方の領土割譲と、和平条約の締結を打診していたそうです。

一見すると、アレクサンドロスの強さに恐れをなしたダレイオスが、弱気になって懐柔策に出た様に見えますが、これは彼にとって単なる時間稼ぎに過ぎませんでした。というのはイッソスの敗戦の後、彼は都ペルセポリスに戻ると直ちに軍を立て直し、帝国全土に動員令を発して再び軍勢の集結を命じていたからです。

つまりここは一旦和睦してアレクサンドロスを油断させ、彼が兵を引いたその隙を突いて条約を破り、再びユーフラテス川を押し渡って奪われた領土を奪還するつもりだったのです。条約を破るのは卑怯ですが、もともと全てペルシアの領土なのですから「侵略者アレクサンドロスを倒して奪われた領土を取り返す」という大儀名文はいくらでも立てられます。しかし軍隊の動員はそう容易く出来るものではありません。戦支度には時間がかかります。ダレイオスにはそのための時間が必要でした。

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さらにイッソスの戦いで敗走したペルシア軍の残存兵力が、あの奇岩で有名なトルコのカッパドキア周辺に潜伏しているのを知ると彼らとも連絡を取り合い、いざその時はダレイオスの主力部隊と呼応してアレクサンドロス軍を挟み撃ちにする手筈を整えていました。(上がそのカッパドキア。ここなら天然の要塞として守りやすく攻めにくいですね。)


それだけではありません。ダレイオスはアレクサンドロスの本拠地ギリシア本国にも謀略の手を回し、コリント同盟に参加していなかった軍事都市国家スパルタの王をそそのかして紀元前331年に反乱を起こさせます。この反乱は首謀者であるそのスパルタ王の名からアギス戦争、又はメガロポリスの戦いと呼ばれていますが、アレクサンドロスの父フィリッポスの代から仕え、彼が留守中のギリシア本国を任せていた忠実かつ有能な家臣アンティパトロス(紀元前397~319)の活躍によって鎮圧され、失敗に終わります。(それにしても前回お話したプトレマイオスを始め、アレクサンドロスは本当に部下に恵まれていますね。)

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上がその時の主戦場であるメガロポリスとスパルタの位置と勢力範囲です。

こうして見ると、ダレイオスもなかなかどうしてしたたかに様々な反撃の手を打っていますね。勝手な想像ですがこの人は戦いよりも、こうした外交や謀略の方が得意だったのだと思います。結局アレクサンドロスはペルシア本国ではなくエジプトに向かったので、ダレイオスはその間に戦力を増強してアレクサンドロスを迎え撃つための準備をする時間を得る事が出来ました。しかしアレクサンドロスは、ダレイオスのそんな企みを見抜いていたのでしょう。彼はダレイオスの提案を拒否して進撃を続けました。

さてエジプト征服後東征を再開したアレクサンドロスは、ペルシアが整備した「王の道」を通り一路ペルシアの都ペルセポリスを目指して破竹の勢いで進撃し、紀元前331年9月にはユーフラテス川を渡河、さらにその先のティグリス川も妨害を受ける事無く渡り、かつてメソポタミアと呼ばれた大平原に軍を進めます。その時すでに大軍を準備して待ちうけていたダレイオスもこの近くに軍勢を布陣させていました。

紀元前331年10月、ここに両者の最終決戦となるガウガメラの戦いの火蓋が切って落とされました。両軍の兵力はアレクサンドロス軍4万7千に対し、ダレイオス3世のペルシア軍は帝国各地から集めた何と総勢20万を超える大軍でした。(「絶対に負けるわけにはいかない。今度こそアレクサンドロスを叩き潰すのだ」というダレイオスの強い決意がこの数字から伝わってきますね。)

しかし、勝利の女神はまたもアレクサンドロスに微笑みました。5万に満たないアレクサンドロス軍は自慢の長槍部隊と騎兵を上手く活用、4倍以上のペルシア軍を打ち破り、ダレイオスはわずかな護衛とともに命からがら逃亡しました。損害はアレクサンドロス軍の死傷者最大4千に対しペルシア軍は10倍の4万に達しました。

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上はこの戦いに敗れてマケドニア兵に追われる戦車に乗ったダレイオス3世と、逃げ惑うペルシア兵の姿を描いた絵です。恐らく近世に描かれたものと思われます。

どうして20万以上の圧倒的な大軍であったダレイオスのペルシア軍は、5万に満たないアレクサンドロス軍に敗れたのでしょうか?その最大の原因はペルシア軍が多民族の大混成部隊であったという点にあります。帝国全土からやみくもに兵を集めたためにそれぞれの部隊同士で言葉が通じず、(もちろん通訳はいたでしょうが。)ダレイオスの作戦や指揮命令が全軍の末端にまで伝わりませんでした。(言葉が通じないので各部隊はどこでどう戦って良いのか分からず、各隊が互いの顔を見合っている姿が目に浮かぶようです。)

多民族の混成軍という点では、アレクサンドロスの軍も同じでしたが、彼の兵はみなギリシア語で統一されており、言葉が通じないという心配は要りませんでした。さらに決戦の数日前から、ダレイオスがアレクサンドロスの夜襲を警戒し、全軍に交代で夜通し非常警戒態勢を取らせていた事も大きなミスでした。(つまり寝不足で戦わされたのですから当然ですね。)

この戦いの敗北以後、ダレイオス3世は二度と勢力を盛り返す事は出来ませんでした。そして勝ったアレクサンドロスはダレイオスを追ってバビロンへと進軍します。

次回に続きます。

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