エンリケ航海王子とポルトガル王国の挑戦 1

みなさんこんにちは。

今回から大航海時代の先駆者ポルトガル王国の歴史についてお話したいと思います。

図説 ポルトガルの歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)

新品価格
¥1,944から
(2014/4/8 03:05時点)



ポルトガルの歴史や大航海時代について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は127ページほどですが、豊富な写真や図で丁寧に解説されています。

「大航海時代」というと、まず思い浮かべる主役の強国は「無敵艦隊」で知られるスペイン、次いでオランダ、そしてイギリスという流れになりますが、それら列国に先んじて真っ先に未知の海へと乗り出し、植民と海上貿易で最初に巨万の富を築いたポルトガル王国の歴史についてはあまり知られていません。ヨーロッパ最辺境の西の果ての貧しい小国が、どの様にして他国もうらやむ莫大な富と繁栄を手に入れ、そして衰退していったのでしょうか?

その彼らの活躍と繁栄の秘密を紐解いて行きます。まずはその最初にして最大の貢献者であるエンリケ航海王子の生涯から話を始めたいと思います。

Henry_the_Navigator1.jpg

エンリケ航海王子(1394~1460)はポルトガル王国第2王朝であるアヴィス朝初代国王ジョアン1世(1357~1433)の第3王子としてポルトガル北部の港湾都市ポルトで誕生しました。この国の国名である「ポルトガル」はこの街のローマ時代の古い呼び名「ポルトゥス・カレ」(ポルトの港)から来ています。

エンリケ航海王子―大航海時代の先駆者とその時代 (刀水歴史全書)

新品価格
¥2,700から
(2014/4/8 03:16時点)



このエンリケ航海王子の生涯について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ポルトガル史およびブラジル研究がご専門の金七紀男教授の執筆で、ページ数は230ページ余り。エンリケ航海王子の生涯について詳細に書かれた日本で唯一の本で、先にご紹介した図説も彼の著作です

Porto_Ribeira.jpg

上がエンリケ航海王子が生まれたポルトの街並みです。(人口約24万) ここで彼が生まれる以前のポルトガルの歴史をごく簡単に説明しておきましょう。このポルトガル王国は1143年に、建国の父であり、フランスのブルゴーニュ家出身の最初の国王アフォンソ1世(1109~1185)が隣国カスティーリャ王国との戦いに勝利し、ローマ教皇の承認を受けて成立したのが始まりです。(ブルゴーニュ朝)

AfonsoI-P.jpg

上がポルトガル初代国王アフォンソ1世です。彼が開いたブルゴーニュ朝は9代240年ほど続き、1249年にはイベリア半島で最も早くイスラム勢力を追い払ったのですが、その後の黒死病(ペスト)の大流行と英仏百年戦争の影響で衰退し、やがてフランスの影響を打破したい国内勢力がイギリスの支援を受けて成立させたのが、エンリケの父ジョアン1世が開いたアヴィス朝となります。

JoaoI-P.jpg

上がエンリケの父ジョアン1世です。彼は前王朝ブルゴーニュ家最後の王の子でしたが私生児であったため、彼の代からは新王朝として扱われている様です。また彼が開いたアヴィス朝の名は、彼が王位に付く前に率いていた「アヴィス騎士団」の団長であった事に由来します。

このジョアン1世はなかなかの名将で、建国以前からの長年の宿敵である隣国カスティーリャ王国の侵攻を何度も撃退し、ポルトガル国民から「救国の英雄」とまで称賛され、その功績も相まって新国王として推戴されたのです。また初めて海外に目を向けた王でもあり、エンリケ王子はこの父の影響を特に強く受けて成長したものと思われます。

738px-Iberian_Kingdoms_in_1400_svg.png

上の図が当時のポルトガルを含むイベリア半島の勢力図で、中央のひときわ大きい国がカスティーリャ王国です。ポルトガルにとってカスティーリャがいかに脅威だったか良く分かると思います。

ジョアン1世には5人の王子がおり、先に述べた様にエンリケ航海王子はその第3王子に当たりますが、他の王子たちも父王の影響を受けてかそれぞれに優秀であり、また他国の王家が兄弟で血まみれの王位争いをする中で、珍しく家族仲も良かった様です。

ジョアン1世は1411年に隣国カスティーリャ王国と和平を結んで側面の脅威を除くと、今度はポルトガルの勢力拡大に転じます。彼はその手始めとして、地中海を隔てた対岸のモロッコにあるイスラム勢力の要衝セウタ攻略を計画します。

Ceuta_desde_el_mirador_de_Isabel_II.jpg

800px-Perejil-neutral.png

LOCALI~1

上がそのセウタの位置とその遠望です。(現在はスペイン領で人口は7万8千ほど) なるほど地中海の入り口にあって三方を海に囲まれた天然の要塞で、ここを押さえて艦隊と守備隊を常駐させれば、カスティーリャ王国を南からけん制し、またイスラム勢力を封じ込めるのも有利ですね。(こんな所を取られてはカスティーリャ王国が黙っているはずは無いと思われるでしょうが、この頃イベリア半島の南部には、あのアルハンブラ宮殿で知られるイスラムのグラナダ王国が健在であり、彼らとの戦いがまだ終結していないカスティーリャはそこまで手が回らなかった様です。)

当時ここは北アフリカの遊牧民族ベルベル人が1200年頃開いたイスラムのマリーン朝の王国の支配地でしたが、すでにこの王国は衰退期で弱体化しており、それを見越したジョアン1世は一早くここを占領してポルトガル海外進出の足がかりとするつもりでいたのです。

地中海の入り口といえば、スペイン南端のジブラルタル要塞が有名ですが、当時そのジブラルタルはグラナダ王国の支配下にあり、そこを攻略する事は困難でした。またジブラルタルが強力な要塞都市になるのはグラナダ王国が滅び、カスティーリャとアラゴンが合併して「スペイン王国」が誕生してからで、この頃はまだ重要視されていませんでした。

ジョアン1世がセウタ攻略を計画したもう一つの理由は軍事上の重要性だけでなく、新たな財源の確保もその目的でした。度重なるカスティーリャ王国との戦いなどでポルトガルは貧しく、国民は飢えに苦しみ、彼が目指す海外進出に必要な船団や艦隊を造るお金がありませんでした。(この時代のポルトガルの人口は100万程度だったそうです。)ここを取れば、港を出入りする諸国の船からの関税や入港税などが徴収でき、さらに交易により大きな収入も期待出来ます。

ジョアン1世は周囲を説得し、国民にも理解を呼びかけました。国民は彼の熱意と考えに賛同し、送り出す軍勢とそれらを乗せる船団の費用を捻出するため、貧しい自分たちの生活をさらに切り詰めて軍資金集めに協力し、おかげでジョアン1世はおよそ2万の軍勢とそれらを輸送するガレー軍船200隻の大艦隊を編成する事が出来ました。(この数字は当時の貧しいポルトガルの国力を総動員し、そろえる事が出来た精一杯のものだったでしょう。まさに国運を賭けた大作戦だったと思われます。結果として、この彼らの投資は子孫の代に大きく実を結びます。)

そしてエンリケ王子もこの父王の遠征に同行し、他の兄弟たちと供に攻略戦に参加しました。この時彼は21歳の若者でした。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

エンリケ航海王子とポルトガル王国の挑戦 2

みなさんこんにちは。

1415年、父王ジョアン1世のセウタ攻略作戦に参加したエンリケ王子たちは、国民からの献金その他で苦労して集めた2万余の兵とおよそ200隻の艦隊でセウタ駐留のイスラム艦隊を奇襲攻撃し、これを撃破して兵を上陸させ、見事セウタを占領します。
Heinrich_der_Seefahrer.jpg

上は若き日のエンリケ王子の肖像です。彼はこの時21歳の若者で、この戦功により彼と二人の兄たちはそろって「騎士」に任ぜられ、さらに父王ジョアン1世から新たに彼のために設けられたヴィゼウ公の位を授けられました。(彼にとっての「初陣」は華々しい大成功で始まります。)

信仰心の厚かった彼はこの地に滞在している内に、かねてからキリスト教社会に伝わる伝説である、プレスター・ジョンとその王国にまつわる話を聞いて大変感銘を受け、その伝説の王国を探し出す事に夢を膨らませます。

(このプレスター・ジョンというのは、キリストの誕生を予言した東方三博士の子孫で、アフリカの奥地にキリスト教の王国を築いた云々という伝説です。恐らく十字軍の時代に広まり、わが国でも有名なマルコ・ポーロの「東方見聞録」にも記述があるもので、かつてキリスト教カトリックで広く信じられていたものです。当時イスラム勢力との長い戦いを続けていたヨーロッパ諸国はこの伝説の王国を探し当て、彼らと同盟してイスラム勢力を挟み撃ちにする事を願っていました。)

さらに彼はサハラ砂漠のキャラバン隊を通じて、それを中継するイスラム勢力が法外な税を徴収している結果、交易品の価格が原価の何倍にもなっているという貿易の実態を知り、アフリカの金と香辛料をもっと安全かつ安く大量に運ぶためには陸上交易ではなく、アフリカ西岸航路の開拓と、ひいてはインドへの航路開拓が必要だという非常に冒険的な野望を抱く様になります。

彼は父王ジョアン1世からテンプル騎士団の流れを組むキリスト教騎士団長と、ポルトガル南部アルガルベの総督に任ぜられると、その地方の海に面したサグレス岬に館を構え、その地で騎士団の豊かな資金を元手にそれらの計画を実行する準備を始めます。(彼が団長を務めていた「騎士団」というのは、当時ヨーロッパ諸国に数多くあったもので、対イスラム勢力との戦いを名目に、全ヨーロッパのカトリック信者からの多額の寄付金で運営されていました。つまりポルトガル国内は貧しかったが騎士団には金がうなるほど有ったわけです。わが国で言えばお寺の「布施」の様なものですね。)

エンリケ王子は野望を実現するために、この騎士団の豊かな資金を惜しげ無く投じてヨーロッパ各地から多くの人材を集めます。数学、天文学、地理、博物学などの学者はもちろん地図、造船、航海術などの探検に必要な専門技術者たちが、彼の元に国籍を問わず集められました。

彼は1418年に家臣2名に「アフリカ沿岸を出来るだけ南に向かい、ギニアに到着せよ」と命じて2隻の船を与えて送り出します。(常に陸地を横に見ながら行けば良いから安全ですね。)しかしその家臣たちは不運にも嵐に遭い、あえなく漂流して王子の命令とはかけ離れた方角の未発見の島々に漂着します。それはリスボンから1000キロも大西洋上にある「マデイラ諸島」でした。

640px-Sao_lourenzo_madeira_hg.jpg

Camara_de_Lobos.jpg

397px-Cristiano_Ronaldo_20120609.jpg

上が現在のマデイラ諸島と街並みの様子です。(人口も意外に多く25万人ほど暮らしているそうです。またこの島はサッカーが盛んで、あのスペインの有名なレアル・マドリードのサッカー選手、ロナウド選手の故郷だそうです。)

この島々の発見は、エンリケ王子の当初の目的とはだいぶかけ離れていましたが、とにかく彼の最初の「成果」であり、ポルトガル王国にとって新たな領土でした。(他国と戦争せずに新しい領土を手に入れたのですから安いものですね。)そして早速翌年から殖民が始まります。

これに味を占めたエンリケ王子はその後も船を各方面に派遣し、1427年には家臣の一人がアゾレス諸島を発見し、これを領土とします。このアゾレス諸島は後の新大陸発見の際の重要な基地となる島々ですが、彼の当初の目的であったアフリカ西岸航路の開拓はなかなか進みませんでした。(この原因はこの付近一帯の潮の流れが非常に速く、船がどうしてもはるか沖合いに流されてしまう事にありましたが、まだ未知の海域に乗り出したばかりでおっかなびっくりの当時の人々にとってはさぞ怖かった事でしょうね。)

640PX-~1

AzoresLocation.png

上が現在のアゾレス諸島とその位置です。(人口は約24万)

この頃は人類の住む世界は全能の神が創りたもうたもので、平らな宇宙の中心であり、その平らな世界を中心として全ての星が周っているという「天動説」の時代で、世界の果ての海が尽きる所では海の水が滝の様に流れ落ちているのだという迷信が広く信じられていました。ですから船乗りたちには世界の果てまで行って、そのまま船もろとも流れ落ちてしまうかも知れないという恐怖心があり、何かあったらすぐ逃げ帰ってしまう様な部分もあったそうで、そんな迷信を打破して世界の海に乗り出し、富の元になる香辛料などを手に入れたいエンリケ王子は、戻って来た家臣や船乗りたちを怒り付け、また送り出したそうです。

Duarte-P.jpg

しかしそんなさ中の1433年、彼の父であるジョアン1世が亡くなり、エンリケ王子の長兄であるドゥアルテ1世(1391~1438)が王位を継承します。(上に載せた肖像の王様です。)国王の代替わりで政策も変わり、北アフリカのイスラム勢力との戦いもまだ続いていました。いくつかの探検での新領土獲得などで勢い付き、兄王の実弟として王国でも重要職を占めていたエンリケ王子は更なる領土獲得を目指し、イスラムの要衝モロッコのタンジール攻略を実行に移します。しかしこれは彼の人生最大の失敗となってしまうものでした。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

エンリケ航海王子とポルトガル王国の挑戦 3

みなさんこんにちは。

1437年国王ドゥアルテ1世とエンリケ王子は周囲の反対を押し切り、ポルトガル軍を差し向けてイスラム勢力の要衝であるモロッコのタンジール攻略作戦を開始します。(位置は下図参照。)しかしこの地で彼らの派遣したポルトガル軍はイスラム軍に大敗し、作戦は大失敗に終わりました。それだけでなく彼らの実弟であるフェルナンド王子(1402~1443)がイスラム軍の捕虜になってしまいます。

612PX-~1

イスラム側は「フェルナンド王子を返して欲しくば身代金を支払い、セウタを返還せよ」とポルトガル側がとても受け入れられない要求を突きつけて来ます。国王ドゥアルテ1世はこれを身分制議会コルテス(聖職者、貴族、市民の代表の3者が集まる議会)にかけて審議させますが、元々反対が多かったタンジール攻略を無理に進めたアヴィス王家とエンリケ王子に批判が集まり、結局事案は否決されてしまいました。

この事にショックを受けた兄王ドゥアルテ1世は精神的に追い詰められ、折から流行していたペストに倒れて弟フェルナンド王子の身を案じながら1438年にわずか5年の在位で亡くなります。(優しい兄上だった様ですね。)

捕虜になった王家の末弟フェルナンド王子は救援の望みが絶たれた事を知るや、このまま捕虜として監禁の身に甘んじる道を選び、イスラムへの改宗を拒んでカトリック信仰を貫き通し、6年後の1443年獄中で40歳で亡くなります。死ぬまで信仰を捨てなかった彼は殉教者としてローマ教皇から「聖人」に列せられ、「フェルナンド聖王子」として祀られているそうです。

もちろんショックだったのはタンジール攻略を兄王と供に強行したエンリケ王子も同じでした。彼は反省の意を体すため、軍の指揮権をもう一人の弟ジョアン王子(1400~1442)に譲り、今後一切の軍事作戦には口を出さず、ひたすら内政と海外探検に集中する事になります。

兄王の死で、王位はその子アフォンソ5世(1438~1481)がわずか6歳で即位します。当然政治は出来ないのでエンリケ王子はもう一人の兄コインブラ公ペドロ(1392~1449)を摂政として彼を支えました。

Infante_d_pedro_duque_de_coimbra.jpg

上がエンリケ王子の兄コインブラ公ペドロ。彼は学問に秀で、10年以上海外に留学した国際感覚豊かな知識人であり、また誠実な人柄で彼の治世はとても善政でしたが、腹違いの兄であるブラガンサ公アフォンソ(1377~1461)との権力争いに敗れ、内戦の末戦死してしまいます。

460px-Afonso_first_Duke_of_Braganza.png

上がペドロ公を破ったブラガンサ公アフォンソです。(人相悪いですね。)ペドロ公の戦死の結果、ポルトガル王国の実権はブラガンサ家に握られますが、ペドロ公の孫ジョアン2世(1455~1495)が王位に付くと、祖父の恨みを晴らすべくブラガンサ一族に襲い掛かり、冷酷な復讐が成されます。しかしその後1580年にアヴィス王家が断絶すると、スペイン王の支配を挟んで1640年に再びブラガンサ家が今度は正式な「王家」として復権し、1910年まで実に270年もの間続きます。(まさに「親の因果が子に報い」というか、両家の確執は深いですね。)

さて兄たちの不幸な争いの後も、エンリケ王子はひたすら海外探検事業を推し進めていました。ちょうどこの頃、三角帆を使い、向かい風でもある程度進む事が出来る画期的な新型帆船である「キャラベル船」が建造され、(下図参照。)遠洋航海が飛躍的に伸びる様になりました。

Caravel_Boa_Esperanca_Portugal.jpg

1444年、エンリケ王子の派遣した探検隊はついにギニアに到達し、これによって彼の当初の目的であったサハラ砂漠のイスラム勢力を中継せずに、アフリカ南部の金などをポルトガル本国へ輸送する航路が確立されました。この航路で大量の金が運ばれ、ポルトガルの国家財政は潤い、この金で1452年に同国初の金貨が鋳造されたそうです。

image083.jpg

上は当時鋳造されたクルザード金貨です。

1450年代には探検船はカーボベルデに到達、さらに1460年にはアフリカ中部シエラレオネにまで達しました。この同じ年、エンリケ王子はサグレスの自分の館において66歳で亡くなります。(下が彼が探検船を送り込んで発見領有した島々で、北から順にアゾレス、マデイラ、カナリア、カーボベルデの各諸島です。なお、カナリア諸島だけはカスティーリャ王国に奪われ、同国が後にスペイン王国となってからは新大陸への中継基地として断じて譲らず、最後までポルトガル領にはなりませんでした。またこの付近一帯の島々を総称して「マカロネシア」と呼ばれているそうです。)

Macaronesia-esp_convert_20130506203925.png

20代前半から亡くなるまで40年以上に亘ってその生涯の全てを海外探検に捧げた一生でした。なお彼は生涯独身だったので彼の子孫はいません。結局エンリケ王子が生きている間にはこの範囲の探索が限度で、彼の本来の目的であったプレスター・ジョンの王国探しと、東洋の香辛料を手に入れる事は出来ませんでした。

実はエンリケ王子、実際には一度も自分で海洋探検に出た事は無く、その全てを家臣やベテランの船乗りたちに任せ、自らはポルトガル本国を出る事は無かったそうです。その理由というのが、別に彼が臆病だったのではなく、少しイメージダウンになりますが、船酔いがひどくてどうにも我慢ならず、終生これを克服出来なかったのが原因らしいです。

しかし、エンリケ王子が基礎を築いた海洋探検はその後の者たちに受け継がれ、彼の死からおよそ50年後にポルトガル王国はその後に発見された喜望峰経由でインド洋に進出、香辛料貿易を独占して黄金時代を迎え、空前の繁栄を謳歌します。エンリケ王子は後に続く、スペイン、オランダ、イギリスなどによる大航海時代の道筋を開いた先駆者として高く評価され、今日尊敬の意味を込めて「エンリケ航海王子」と呼ばれています。

450px-Lisbon_monument_6.jpg

dr__salazar.png

上はエンリケ航海王子の偉業を記念して1960年(昭和35年)にリスボンに建てられた「発見のモニュメント」です。斜めに連なる人物たちの最も頂上で船の模型を手に海を見ているエンリケの姿と、彼の後に続く探険家や著名人が表現されています。これは「スーツの独裁者」と言われたポルトガル首相アントニオ・サラザール(1889~1970)の独裁政権下に造られた物で、(上の写真の人物)過去の栄光の記憶を現代に蘇らせ、国民に夢を持たせようとした当時のロマン主義の典型的な作品でしょう。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポルトガル王国の栄光 ・ 夢の海上帝国

みなさんこんにちは。

大航海時代の最初の立役者エンリケ航海王子亡き後、ポルトガル王国はどの様な道を歩んだのでしょうか?

エンリケ王子が亡くなった1460年の時点で、王国は彼の甥ですでに立派な大人に成長していたアフォンソ5世の治世にありました。彼はなかなか好戦的な王で、1474年にモロッコに派兵し、かつて父王ドゥアルテ1世とエンリケ王子が失敗したタンジールをはじめ各都市の攻略に成功。父や叔父たちの果たせなかったモロッコ制圧を果たします。

AfonsoV-P.jpg

上がアフォンソ5世(1432~1481)で、アヴィス朝3代(ポルトガル王としては12代)国王です。一連の勝利に酔った彼は、同じ年隣国カスティーリャ王国の王位争いに介入し、カスティーリャ王位を狙って2万の軍勢を率い、カスティーリャに侵攻します。しかし1476年ポルトガル軍はカスティーリャ軍に敗れて撤退し、彼の目論みは失敗に終わります。アフォンソ5世は失意の内に4年後亡くなりました。

その後を継いだのが息子のジョアン2世(1455~1495)です。彼は父の外征で一時停滞していた大叔父エンリケ航海王子の海外探検事業を継承して、遠征隊を各方面に派遣します。そしてその隊長であった家臣、バルトロメウ・ディアス(1450?~1500)がついにアフリカ南端の喜望峰を回り、インドへの海の道を開く事に成功します。

JoaoII-P.jpg

480px-Bartolomeu_Dias_Voyage.png


上がジョアン2世とその家臣ディアスの喜望峰までの航跡です。彼の時代にポルトガルはインド洋に進出しました。しかし一方であの有名なクリストファー・コロンブス(1451?~1506)が彼に援助を願い出た時は、イタリア人の彼に対し「自国の者でないから信用出来ない」と言って拒否してしまい、結局その後の新大陸での巨大な利権をスペインに取られてしまう結果を招いてしまいます。

1492年イベリア半島におけるイスラム勢力の最後の牙城であったグラナダ王国が滅亡し、すでに統合されていたカスティーリャ・アラゴン両王国を合わせてスペイン王国が誕生。(同年コロンブスが新大陸に到達しています。)ポルトガル王国はこの新生スペイン王国との間で両国の海外権益の境界を定めた「トルデシリャス条約」を結びます。

Spain_and_Portugal.png

上が両国の勢力範囲の境界を定めたトルデシリャス条約の図です。この条約は内容を簡単に言うと、上の図の紫の点線を境にして西の南北アメリカはスペイン、東のアフリカ、インド、アジアはポルトガルのものとするというとてつもないものでした。しかしジョアン2世が新大陸でのポルトガルの取り分が不公平だとローマ教皇に訴え、その結果ポルトガル領を若干広げて修正したのが紫の線になります。(後に地球が丸いと言う事実に鑑み、境界線が一本では一周して重なってしまうから意味が無いという理由から、サラゴサ条約でもう一つの境界線が引かれました。それが緑の線です)

ジョアン2世の死後、その従弟であるマヌエル1世が王位に付きます。彼は前王の海外事業を継承し、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460?~1524)を指揮官に任命してインドへ艦隊を差し向けました。そしてガマは喜望峰を回り、1498年ついにインドのカリカットへと到達します。

Retrato_de_Vasco_da_Gama.png

588px-Gama_route_1_svg.png

Vascodagama.jpg

上が彼とそのインドへの航路です。エンリケ航海王子の死から38年を経て、ポルトガルは長年の悲願であったインド航路を確立したのです。ヴァスコ・ダ・ガマはこれらの功績により国王マヌエル1世から貴族に列せられ、伯爵号と2つの町を含む領地、莫大な年金などを与えられ、その後に得た貿易利権も合わせてポルトガルでも5本の指に入る大富豪になったそうです。

それからのポルトガル王国は南米からアフリカ、インド、東南アジア各地へとまさに破竹の勢いで進出していきます。

1500年 13隻のポルトガル艦隊(兵力1500)がブラジルに到達、これを占領。
1502年 ヴァスコ・ダ・ガマをインド洋派遣艦隊司令官に任命。20隻の艦隊でインド洋へ出発。
1507年 東アフリカ各地に要塞建設。
1510年 インドのゴア占領。
1511年 香辛料の一大産地マレー半島のマラッカ占領。
1513年 ポルトガル人、初めて中国の広東に来航。
1518年 インドのセイロン島コロンボに要塞建設。 
1524年 ヴァスコ・ダ・ガマ率いる14隻(兵力3千)のインド洋艦隊ポルトガル本国を出発。
1526年 ヴァスコ率いるポルトガル軍、インドのカリカット占領。


そして1543年ポルトガル人は日本の種子島に漂着し、わが国に鉄砲を伝えた事はあまりにも有名ですね。(「いごよみな戦変わる」なんて語呂合わせで年号を覚えましたね。)そして南蛮貿易が始まり、彼らによって日本人がそれまで見た事も無い様々な西洋の文物がわが国にもたらされます。

650px-NanbanCarrack.jpg

450px-NanbanGroup.jpg

上は当時の日本人が描いたポルトガル船と商人の姿です。(黒人の姿も描かれていますね。)そしてこの時代に日本を訪れた最も有名なポルトガル人(生まれはスペイン北部の滅んだナバラ王国ですが後に移住)が宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~1552)です。こうしたポルトガルとわが国との関係は、1639年に江戸幕府の鎖国政策によってポルトガル船の来航が禁止されるまでおよそ100年近く続きました。

484px-Franciscus_de_Xabier.jpg

上は教科書で有名なザビエルの肖像画で、誰でも一度は目にした事があるでしょう。彼は元々はスペイン・バスク地方の裕福な地方貴族の息子で何不自由の無い身分の出でしたが、イベリア半島で絶えず繰り返された争いを目の当たりにし、キリスト教に深く帰依して聖職者になった人です。ちなみにこの肖像画は一見すると西洋の画家が描いた様に見えますが、実際は西洋の画法を学んだ日本人の狩野派の絵師によって江戸時代初期の1620年代に描かれたものだそうです。

さらにポルトガルは1557年に中国のマカオに居留地を建設、1999年に中国に返還されるまでここを支配し続けました。最終的にポルトガルが支配した地域は下図の様になります。

800PX-~1

これを見ると、ポルトガルの海外進出は後のスペインやイギリスの植民地政策と大きく違い、南米のブラジルを除いてはほとんど海岸部の拠点支配に限られていますね。この理由はポルトガルが香辛料などの中継貿易が主流であり、港と居留地、それらを守る艦隊や守備隊の駐留する要塞があれば充分であった事と、当時のポルトガル本国の人口が130万余りしかなく、この人口では海外に派遣出来る兵力はせいぜい2万程度で、軍を各地に分散配置する以上拠点支配にならざるを得なかった事が挙げられます。

かくしてそれまで誰も想像した事もない「夢の海上帝国」がここに出現しました。ポルトガル本国には毎年張り巡らされた交易ルートを通じて世界中から集められた金、宝石、香辛料、象牙、陶磁器などの交易品が送られ、商人たちはそれらをヨーロッパ各国に売りさばいて莫大な利益を得ました。そしてこの時代に国王であったマヌエル1世は、ポルトガル王国絶頂期の王としてその運の良さから「幸運王」の名で呼ばれています。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポルトガル王国の栄光 ・ 束の間の黄金時代

みなさんこんにちは。

ヴァスコ・ダ・ガマなどの探検家たちの奮闘により、南米からアフリカ、さらにインド洋から東南アジアに至る一大海上帝国を築き、巨万の富を得たポルトガル王国ですが、彼らに富をもたらした主な商品にはどんな物があったのでしょうか?

スパイスストーリー―欲望と挑戦と

新品価格
¥2,700から
(2014/4/8 03:46時点)



香辛料貿易と、ヨーロッパ諸国によるその争奪戦の歴史について詳しくお知りになりたい方は、少し高いですが上の本が良書です。ページ数は286ページほど。

まず第一に「香辛料」つまりスパイスです。その代表的なものが胡椒(こしょう)、クローブ(丁子)ナツメグなどで、他にも数多くの香辛料がありますが、当時胡椒はインド、クローブ、ナツメグなどは、インドネシアのモルッカ諸島のみでしか栽培されていませんでした。そしてそれらを手に入れるため、命知らずの男たちがはるか遠くの未知の世界へと乗り出していったのです。

Sacs_of_spices.jpg

それにしてもなぜポルトガル人を含め、彼らヨーロッパ人はそんなに「香辛料」(スパイス)を欲しがったのでしょうか?

その理由は当時のヨーロッパ人の食生活が大きく影響していました。欧米人の食事というと、我々日本人のイメージではフランス料理の様な豪華なものを連想しますが(自分だけでしょうか?笑)実は今日見られるあの様な食事スタイルは大航海時代以後の近世に形作られたもので、広大な領地と財を持つ王侯貴族は別として、一般庶民の食事はライ麦や大麦を練って焼いた固い黒パンなどにチーズやカラス麦の粥(オートミール)、野菜と豆のスープ(というよりごった煮)などといった簡素なものでした。

この時代は料理の味付け、いわゆる「調味料」などといえる物は塩、オリーブオイル、ガーリック(にんにく)程度で、どの料理も味は濃いか薄いかというくらいで大して差が無かった様です。

肉などは塩漬けか燻製にするしか保存法がなく、ベーコン、ハム、ソーセージなどにして食べていました。ヨーロッパは日本の北海道より緯度が北にある寒冷地であり、一部の作物を除いて農業が出来ない冬場などはこれらを冷暗所に蓄えて数ヶ月保存が出来た様です。しかしもちろん限界がありますから、冬の半ばから終わりにかけては腐りかかった物でもやむなく食べていました。そしてその匂いと臭みを、これらの香辛料がその独特の強烈な香りと風味で見事に消してくれるのです。

もちろんこれらの香辛料は、新鮮な食材を使った料理ならもっとその美味しさを引き立ててくれます。先に述べた様に、大して味も素っ気も無い食生活だったヨーロッパ人にとって、東洋の香辛料(スパイス)は自分たちの食生活をさらに美味しく豊かにしてくれる大切な物として、無くてはならない物になっていました。

Dried_Peppercorns.jpg

これらの香辛料(スパイス)の中で最も高価だったのが上に載せた胡椒(こしょう)で、左の黒胡椒の方が高級品でした。その価値は一粒で同じ重さの金と交換されるほどで、また香辛料は軽くて持ち運びも楽ですし、わずかな量でも大変な金額で取引されたので他の品物とは比較にならないほどの大きな利益を得られました。ですから一攫千金を狙う多くの男たちが、命を賭けて東洋まで航海に出かける魅力が充分すぎるほどあったのです。

(一度東洋に航海に出て、例えば胡椒の実を一樽でも持ち帰れば、それがそのままその樽一杯の金貨と交換されるのですからたちまち大富豪になれますね。男なら人生を賭けてみたくなるものです。)

これら主力商品の香辛料(スバイス)の他にポルトガルに富をもたらしたがアフリカの金、象牙、労働力としての黒人奴隷などで、これらを送り出した地域がそのまま「黄金海岸」「象牙海岸」「奴隷海岸」として、アフリカの地名に残っていますね。

これらのおかげでポルトガル王国には多くの富が集まり、取引をするヨーロッパ各国の商人たちで首都リスボンはもちろん国中の街が好景気と活気に満ち溢れました。そしてこれらにより蓄えられた財力で、巨大で壮麗な建築物が数多く建設されて行きます。

800PX-~1

450px-Mosteiro_dos_Jeronimos_-_Igreja_2.jpg

Lisboa_Lisbon_Lissabon.jpg

TorreBelem1-IPPAR.jpg

Pal_nac_sintra_2.jpg

上がそれらの代表的な建築物で、上から順にヴァスコ・ダ・ガマの眠るジェロニモス修道院とその内部、リスボンの港の要塞として造られたベレンの塔とその内部、そして国王の住んでいたシントラの王宮です。(これらはBS放送の世界旅行の番組などでポルトガルを紹介する際にほぼ必ず出てくるもので、全てユネスコの「世界遺産」です。)

このポルトガル王国の最盛期に国王として君臨したのがアビス朝5代国王(ポルトガル王としては14代)マヌエル1世(1469~1521)です。

ManuelI-P.jpg

彼はそれまでの王たちとは比較にならぬほど海外進出を推し進め、世界中に艦隊と軍を派遣し、占領確保した各地の拠点にポルトガル人の居留地と堅固な要塞を建設させて、東洋からポルトガル本国までの交易ルートの構築に心血を注ぎました。(一ヶ所の拠点に配備できる守備隊兵力は200~300から多くても1千程度であったため、少ない兵力で有効に防衛するため街全体を下の様な砲台を廻らした要塞で守っていました。写真は東アフリカに残る要塞とこの時代の軍港などに停泊中の艦船の様子で、ひときわ大きい中央の船は当時のポルトガル艦隊旗艦です。)

Cannons2.jpg

800px-Portuguese_Carracks_off_a_Rocky_Coast.jpg

マヌエル1世は政治、経済、軍事だけでなく、学問と文化の振興にも力を注ぎ、特に建築の分野では、上に挙げたジェロニモス修道院に代表される独特な建築様式が彼の名を冠して「マヌエル様式」と呼ばれています。

その「幸運な王」マヌエル1世が亡くなると、その子ジョアン3世(1502~1557)が19歳で即位し、父王の政策を踏襲して同様にその繁栄の時代を治めます。

15-_RE~1

彼ら親子の時代がポルトガル王国の「黄金時代」つまり繁栄の絶頂期でした。当時上は国王から下は街角の子供たちに至るまで、この国の誰もがこの繁栄が未来永劫続くものと信じて疑わなかった事でしょう。しかし絶頂期という事はもうこれ以上の上は無いわけで、後は下がるというのが歴史の常です。そしてその繁栄の終わりの足音はもうすぐそこまで来ていました。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポルトガル王国の没落 ・ 繁栄の終わりと衰退の始まり

みなさんこんにちは。

東洋の香辛料貿易その他を独占し、一大海洋王国として空前の繁栄を謳歌したポルトガル王国でしたが、その繁栄の時代は16世紀後半に終焉を迎え、それ以後は緩やかに衰退の道を歩みます。一体なぜポルトガルはその様な道を歩む事になってしまったのでしょうか?

その原因は三つあります。一つ目は香辛料(スパイス)貿易の衰退です。

前回ポルトガルがいかにして東洋の香辛料を独占入手したか、その概要をお話しましたが、ポルトガルがインド航路を開拓する以前、これらの香辛料貿易は「アドリア海の女王」「水の都」といわれた地中海最大最強の海洋都市国家ヴェネツィア共和国が独占していました。しかしヴェネツィアの香辛料はオリエント地方の陸路を経由して運ばれるため仲介者が多く、その都度仲介手数料が上乗せされるために最終的な売値は原価の20倍近くに跳ね上がる高価なものでした。(それでも他に入手先が無いのでヨーロッパ諸国はその高い香辛料でも喜んで買って行き、ヴェネツィア繁栄の源になりました。)

Spices_in_an_Indian_market.jpg

しかしポルトガルのインド航路開拓で新たに入手先が増えると、ヨーロッパ諸国ははるかに安いポルトガルから香辛料を買い入れるようになり、ヴェネツィアの優位は崩れ、反対にポルトガルが「我が世の春」を謳歌します。

16th_century_Portuguese_Spanish_trade_routes.png

ヨーロッパ人の香辛料への欲求はさらに高まり、売る側も買う側も人々は同じ事を考え始めます。「もっと欲しい。もっともっと」と、そこでポルトガル人たちは原産地から香辛料の苗木や種子を、気候や環境が似た支配地域の各所に植えて栽培し、収穫量を爆発的に増やして行きました。おかげで供給量や入手先が増えましたが、これが裏目に出てしまいます。

香辛料が原産地以外の各地で収穫出来る様になった結果、収穫量が増えすぎて供給過剰になり、さらに入手先も増えたので価格の大幅な下落を招いてしまいました。つまりポルトガル人たちは欲張りすぎて「希少価値」で成り立っていた香辛料価格を自らの手で下げてしまったのです。

そうこうしている内に、ヴェネツィアの逆襲が始まります。彼らはそれまでアラビア半島などの陸路を経由してコンスタンティノープル(現イスタンブール)から入手していた香辛料を、紅海経由の海上輸送でエジプトのアレクサンドリアから入手する事にしたのです。

Italy_to_India_Route.png

上の画像をご覧ください。これにより陸路による仲介手数料を大幅にカット出来、香辛料の価格をポルトガルよりも下げて売っても利益が出る様になったのです。(ただしかつての様な大儲けが出来なくなったのはヴェネツィアも同じでしたが。)

ポルトガルの香辛料貿易は、自らが招いた香辛料価格の大幅な下落により利益が大きく減り、東洋に派遣する船団の維持費用や乗組員たちへの支払いなどの経費を勘案すると、利益の少ない割に合わないものになってしまっていました。

二つ目はポルトガル王家の断絶です。

当時それまでポルトガル王国を治めていたのはアヴィス王朝という王家でした。そしてそのアヴィス朝7代国王(ポルトガル王としては16代)が下のセバスティアン1世(1554~1578)という若い王でしたが、彼はその若さゆえか国政よりも外征を好み、南米リオデジャネイロ占領、アフリカのアンゴラ征服と領土を広げ、さらにモロッコにおいて今だ勢力を保つ、イスラム勢力サード朝の王国とモロッコの支配権を賭けて1578年会戦しました。(アルカセル・キビールの戦い)しかし彼の「軍事的冒険」は完全な失敗に終わり、王自身が戦死してしまいます。

16-_RE~1

640px-Lagos46_kopie.jpg

上が戦死したセバスティアン1世の肖像とアルカセル・キビールの戦いを描いた絵です。彼は1万7千の兵を率いてイスラム軍と戦いましたが惨敗します。絵を見ると分かる様に弓形に待ち構えるイスラム軍によって完全に包囲殲滅されてしまった様ですね。

17-_Rei_D__Henrique_-_O_Casto.jpg

戦死したセバスティアン1世はまだ24歳で独身だったので後継者がおらず、王位は上に載せた大叔父のエンリケ枢機卿(1512~1580)が暫定的にエンリケ1世として即位しますが、そもそも聖職者である彼も独身で当然彼にも子はおらず、すでに高齢だったのでアヴィス朝の断絶は時間の問題でした。(そのエンリケ1世も2年後に亡くなり、アヴィス王朝は8代約200年余りで終わります。)

301px-King_PhilipII_of_Spain.jpg

アヴィス王家の断絶でポルトガル王位は空位となり、亡きセバスティアン1世の伯父に当たる、上に載せたスペイン・ハプスブルク家の国王フェリペ2世(1527~1598)が1581年からポルトガル王を兼ね、「同君連合」という形で事実上ポルトガルを併合してしまいます。(といってもフェリペ2世はポルトガルの全てを奪ったのではなく、王位を兼ねただけでポルトガルのその他の国家機構はそのまま存続を許され、同じカトリック教国である以上ほとんど変わりは無かった様です。)

このスペイン・ハプスブルク家による支配は1640年までおよそ60年ほど続き、本来の指導者がおらず、ポルトガルがこの期間に停滞している間に、スペインを始め、オランダ、イギリスと、新興の海洋国家が次々と世界の海の覇権を争う様になって行きました。そしてポルトガルがブラガンサ家を新たな王家として王政復古し、スペインの支配が終わって独立を取り戻した1640年には、これらのライバル国家によって、もはやポルトガル一国では到底太刀打ち出来ないほど世界中で熾烈な植民地獲得競争が繰り広げられていました。これが三つ目の理由です。

こうしてポルトガル王国の「栄光の時代」は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓から1578年のセバスティアン1世の戦死までのわずか80年余りという、短くも儚いものとして終わりを迎えたのです。そしてその後のポルトガル王国を待ち受けていたのは、新興海洋国家とのせめぎ合いの中で、徐々にその影響力を失い、緩やかに衰退してかつての「ヨーロッパ最辺境の一国家」へと没落して行く姿でした。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポルトガル王国の復活 ・ 王政復古と繁栄への努力

みなさんこんにちは。

60年に及ぶスペインの支配を経て、1640年に王政復古して独立を果たしたポルトガル王国は、前王朝アヴィス家の分家であるブラガンサ家を新たな王家として迎え、第8代ブラガンサ公ジョアン2世(1604~1656)がジョアン4世として推戴され即位します。

JoaoIVPortugal.jpg

上がジョアン4世です。彼に始まるブラガンサ王朝の王たちは、前王家アヴィス朝が進めたインド、東南アジアなどへの東洋進出で得た各地の拠点から徐々に撤退し、アフリカ、南米ブラジルの植民地支配を強化して、かつての栄光と繁栄を取り戻そうとします。(その理由は距離が遠すぎて支配地の確保が困難な事と、ポルトガルがスペインに支配されていた間に新興勢力のオランダ、イギリスなどがすでにこの地域に進出して広大な植民地を形成しており、これらと戦っても国力が疲弊するだけと判断したからです。)

独立後のポルトガル王国の最初の敵は、これもスペインから独立して海洋国となっていたオランダでした。(当時はネーデルランド共和国といいました。)ポルトガルは1661年に、オランダによって奪われていたブラジルの一部を賠償金を支払う事で取り返し、代わりにアフリカのアンゴラのポルトガル支配をオランダに認めさせる条約を結んでこれを決着させます。

Angola_(orthographic_projection)_svg.png

上がアンゴラの位置です。さらにポルトガルは、1680年から南米における領土をめぐってスペインとの長い戦いに入ります。(本国での戦争ではなく南米での戦争です。)この戦争は1750年にスペインとの間で最終的な領土の線引きが成されたマドリード条約が結ばれるまで70年に亘って続きました。この結果、ポルトガルは南米におけるブラジルの領土を大幅に増やす事に成功し、ほぼ現在のブラジルの国境線が決められます。

Brazil_(orthographic_projection)_svg.png

南米で広大な植民地獲得に成功したポルトガルでしたが、ポルトガル本国はスペインからの独立戦争の際に国土が荒廃し、復興を急ぐために国を上げて全土でぶどうとオリーブ栽培を促進したのでワインとオリーブオイルの生産が増大し、それらを売る市場を求めていました。そこでその最大の買い手、すなわち取引先となったのがイギリスで、1703年に当時のイギリス大使ジョン・メシュエンとポルトガル政府との間で「メシュエン条約」が結ばれます。

この条約の内容は、ポルトガルはイギリス産毛織物の輸入を受け入れる代わりにイギリスはフランス産ワインより低い税率で(つまり優先的に。)ポルトガル産ワインを輸入するというものです。これによりポルトガルは富と外貨を産み出す最大の産業としてワイン産業が盛んになりましたが、イギリスからの毛織物の輸入はそれ以上であり、実際はいわゆる「不平等条約」に近いものでした。(この時にイギリスへ輸出される様になったワインが下に載せた「ポートワイン」で、普通のワインと違い発酵の段階でブランデーを加えて作る、甘口ですがアルコール度の高いワインです。)

640px-Port_wine.jpg

640px-View_over_Rio_Douro_at_Porto.jpg

上は現在は観光用に展示されているポートワインの樽を載せた運搬船です。当時はこのような船で湾内に停泊するイギリス行きの大型船に積み込んでいました。当時の港の活気あふれる姿が想像出来ますが、これによりポルトガルはイギリスに対して頭の上がらぬ従属関係となってしまいます。(つまり親会社と下請け会社の関係ですね。)

1696年にはブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されてゴールドラッシュが発生し、アフリカのアンゴラの黒人奴隷を酷使して大量の金がポルトガル本国に送られますが、これらの富もその大半が支払いなどでイギリスに流れてしまい、ポルトガル国内では王家や貴族の宮殿の装飾に使われる程度でなんら産業を生み出しませんでした。

この時代のポルトガル王はジョゼ1世(1714~1777)といい、ブラガンサ朝第5代国王(ポルトガル王としては25代)でしたが、国政の全てを宰相カルヴァーリョ(1699~1782)に任せたので、ジョゼ1世が亡くなるまでポルトガル王国はカルヴァーリョの独裁下に置かれます。

D_JOSE~1

223c38fd.jpg

上が国王ジョゼ1世と下が宰相カルヴァーリョです。彼は「独裁」とはいっても大変有能な政治家で、1755年にポルトガルを襲って10万人の死者を出したリスボン大地震の時もいち早く復興に尽力し、それによってリスボンの街は、下の画像の様に整然と区画された都市として復興を遂げました。

Rua_Augusta_Lisboa.jpg

宰相カルヴァーリョの働きに満足した国王ジョゼ1世は、さらに大きな権限を与えて彼を重用しますが、自らは国政に関心を示さず狩猟や芸術に没頭していたので(つまり遊んでいたのです。)宰相カルヴァーリョは政治、経済、軍事、外交の全てに辣腕を振るいましたが、これを快く思わなかった貴族たちによって1758年にジョゼ1世暗殺未遂事件が起こります。

ジョゼ1世は危うく難を逃れますが、宰相カルヴァーリョはこの事件を口実として貴族階級の大弾圧と粛清に乗り出します。千人以上が逮捕され、主だった貴族が処刑、投獄、追放されました。さらに事件に教会も関与していたとして、イエズス会の国内外の財産を全て没収し、関係者を国外追放しました。(これは彼にとって政敵である大貴族たちや古い体質の象徴であった教会の排除と、彼らの持つ莫大な財産を没収する事で、地震の復興費用を捻出するという一挙両得を狙ったものでした。)

命拾いをしたジョゼ1世は益々腹心のカルヴァーリョに心酔し、1770年に彼に侯爵位を与え、以後彼はポンバル侯爵となります。そして遅れていたポルトガルの工業化に着手しますが、その矢先にパトロンである国王ジョゼ1世が亡くなり、その長女であるマリア王女がマリア1世(1734~1816)として即位すると、貴族たちへの行き過ぎた弾圧で彼を嫌っていたマリア1世はポンバル候を宰相から解任し、それだけでなく「女王から20マイル以内に近づいてはならない」という勅令まで出されて失脚してしまいます。(いかにも女性らしい、いささか子供じみた勅令ですね。相当嫌われた様です。ただポンバル侯自身はすでに高齢であった事もあり、領地の豪華な館で静かに余生を過ごし、5年後に亡くなります)

Jcarvalho-dmariaI-mhn.jpg

上が女王マリア1世です。父王ジョゼ1世には王子が生まれず、4人の王女の長女であった彼女が1777年に「ポルトガル王国初の女王」として即位しました。彼女はポンバル侯爵の政策を基本的には踏襲しつつ、行き過ぎた部分は是正しながら統治していきますが、即位から12年後の1789年、フランスで全ヨーロッパを震撼させる「大事件」が起こります。そしてこの「大事件」を契機にポルトガル王国は歴史の大きなうねりに翻弄され、前代未聞の選択を迫られる事になるのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポルトガル王国の危機 ・ ナポレオンとの戦いとブラジルへの脱出

みなさんこんにちは。

父王の元で独裁権を振るっていたポンバル侯爵を宰相職から解任した(つまり「クビ」にした。)ポルトガル王国初の女王マリア1世は、個人的にポンバル侯を毛嫌いしてはいたものの、その政策などはおおむね踏襲し、さらに拡大発展させ、またヨーロッパ各国との貿易も好調で、特にイギリス向けのポートワイン、ブラジル産砂糖の輸出などで(砂糖はこの頃からイギリスで「紅茶」を飲む習慣が広まったためです。)女王の治世の最初の10年余り、ポルトガル王国は好景気に湧いていましたが、その束の間の繁栄も長くは続きませんでした。

MariaIpedroIII.jpg

上がマリア女王と王配ペドロ3世夫妻です。しかしマリア女王自身の家庭生活は不幸が続きました。彼女の即位後数年の間に、母、夫ペドロ3世、長男ジョゼ王子が相次いで亡くなり、それ以前に次男と三男も生まれてすぐに亡くしています。そして1789年、さらに追い討ちをかけるかの様に大事件が発生します。フランス革命の勃発です。

640px-Jacques_Bertaux_-_Prise_du_palais_des_Tuileries_-_1793_.jpg

上は国王軍を打ち倒してテュイルリー宮殿になだれ込むパリ市民。下は平民に変装して脱出しようとした所を市民に見破られ、逮捕されるルイ16世と王妃マリー・アントワネット、その幼い王子たちです。

640px-Arrest_of_Louis_XVI_and_his_Family,_Varennes,_1791

これは全ヨーロッパを震撼させる出来事でした。あのヴェルサイユ宮殿を中心とする絢爛豪華な絶対王政のシンボルであり、王家の中の王家として常にヨーロッパ中の君主の憧れの的であったフランス・ブルボン王朝が、外国にではなく事もあろうに自国の民衆による革命で倒され、国王一家が逮捕幽閉されたのです。

この事件は度重なる家族の死で病んでいたマリア女王の心に大打撃を与えてしまいました。「マリー・アントワネットの様になりたくない。もし革命がポルトガルにまで及んだら・・・」という恐怖心にかられ(これは彼女に限らず全ヨーロッパの君主が同じ思いだったでしょう。)極度の緊張と不安から現実と妄想の判断の区別が付かなくなり、1791年ついに彼女は精神に異常をきたして政務を執ることが出来なくなってしまいました。

やむなく女王の四男で後継者のジョアン王子が摂政として国政を預かり、1793年隣国スペインに侵入したフランス革命軍を迎撃するためスペインに援軍を送ります。この戦いは当初スペイン・ポルトガル連合軍が優勢でしたが、長期戦で敗北が続くとスペインは政策を転換し、スイスのバーゼルでフランスと和平を結んでこれを終わらせ、今度は逆に敵であったフランスと、密かにポルトガルを占領する密約を交わします。

1801年、革命で今だ混乱していたフランスに彗星のごとく一人の「英雄」が表れます。ナポレオン・ボナパルトです。(1769~1821)

Bonabarte_Premier_consul.jpg

彼はクーデターを起こして脆弱な革命政府を倒すと、自ら統領政府を興してその第一統領となり、事実上フランスの全権を掌握します。そして宿敵イギリスを包囲する作戦の一環としてスペインと正式に同盟し、スペイン軍にポルトガルを攻撃させてその領土の一部を占領してしまいました。摂政ジョアン王子率いるポルトガル側は講和を申し入れますが、ナポレオンはその条件として賠償金の支払い、ブラジルの一部の割譲、ポルトガル国内へのイギリス船の入港禁止というポルトガルが到底受け入れられない条件を突き付け、当然ポルトガルは拒絶します。

1804年「フランス皇帝」となったナポレオンは1806年に「大陸封鎖令」を出してイギリスを孤立させる作戦を開始、ポルトガルもこれに参加させようとしますが、前回お話した様にポルトガルにとってイギリスは経済的に最大の貿易相手国であり、これに従うわけには行きませんでした。

ポルトガルはスウェーデンと供に「中立」を宣言しますが、怒ったナポレオンは1807年11月、同調しない他の国への見せしめのために、スペイン軍と連合してポルトガルに軍を差し向けました。もはやナポレオン軍が首都リスボンに迫るのは時間の問題です。かねてからこの事を予想し、イギリスと密約を交わしていた摂政ジョアン王子は事ここに至ってブラジルへの亡命を決意、王家と主だった貴族、官僚、富裕な商人たちなどの資産家も合わせ、合計6千の人々と、9千の兵が乗船するポルトガル全艦隊を率いてイギリス艦隊の護衛の下、一路ブラジルへと脱出しました。

この時、すでに周囲の状況の把握すら出来ないほど病んでいた女王マリア1世は、どこに連れて行かれるのかも分からず、王宮から艦隊の待つ港へ急ぐ自分たちの行列を見て、「まるで逃げようとしていると国民に思われてしまう。急がずゆっくり行きなさい。」と言ったといわれています。

これはポルトガル建国以来初めての事で、また同時に世界史を見てもこれほど大規模な「国家の移転」は非常に珍しい事例です。(もちろんあまり誇れる様なものではありませんが。)これ以後ポルトガル本国は、1822年にジョアン王子が国王となってから帰国するまでの15年間に亘り、最初はフランス、次にそれを追い出したイギリスによって支配される事になります。

さてナポレオンの手を逃れて脱出に成功し、1808年無事にブラジルに到着したマリア女王と摂政ジョアン王子率いるポルトガル亡命政権はリオデジャネイロに王宮を構え、ここをポルトガルの首都に定めます。ポルトガル本国ではフランス軍との戦闘が続いていましたが、その戦火もここまでは届かず、ジョアン王子はじめ王家の人々は成り行きを見極めるため、以後15年もの間この地で待ち続ける事を余儀なくされます。そしてその最中、哀れな女王マリア1世はついにポルトガルに帰ることなく、1816年に82歳で亡くなりました。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

落日のポルトガル王国 ・ ブラジル帝国成立と王家の帰国

みなさんこんにちは。

1807年のナポレオン軍によるポルトガル侵攻を受け、ポルトガル本国を脱出して植民地ブラジルのリオデジャネイロにたどり着いたジョアン王子率いるポルトガル王国亡命政権は、ナポレオンの動きとヨーロッパ情勢を見極めるため、当地に遷都します。そして彼の母である女王マリア1世が1816年に亡くなると、摂政ジョアン王子がジョアン6世(1867~1826)としてブラジルで即位しました。(彼はポルトガル史上初めて本国以外で即位した国王です。)

DEBRET~1

上がジョアン6世です。(失礼ながら見事な二重あごですね。)彼は本国がナポレオン軍を追い出したイギリス軍の支配下にある事に切歯扼腕していましたが、やがてナポレオンが失脚してセントヘレナ島へ流され、ヨーロッパ情勢が落ち着くと1820年にポルトガルでイギリスの軍政に対して革命が起き、これに勝利した革命政府から正式に「国王」として帰国を請願され、1822年喜び勇んで亡命政権をたたみ、息子のペドロ王子をブラジル摂政に残して王家以下亡命者たちはめでたく帰国の途に着きました。

帰国したジョアン6世を待っていたのは、革命政府によって作られた立憲君主制に基づく憲法の制定とその遵守でした。世界の情勢は王侯貴族の一存で(極端に言えば君主の我がままや個人的な好き勝手で)国の方針の全てが決まる「絶対王政」から、三権分立を基本とした近代立憲君主制に移行しつつありました。それまでの王なら、君主の権力を制限した憲法など当然拒否したでしょうが、ナポレオンによって散々悩まされ、これと戦い続けて亡命までした苦労人の彼は、新しい時代の君主のあり方に理解を示してこれを受け入れます。

30-_Rei_D__Miguel_-_O_Absoluto.jpg

しかしこれに反対したのが上に載せた国王の次男ミゲル王子(1802~1866)です。彼は絶対王政の信奉者だったので議会側と衝突し、1824年に議会側は再び革命を起こして国王一家を拘束してしまいました。ジョアン6世はイギリスに救援を求めて脱出し、イギリスの力を無視出来ない議会側もミゲル王子を罷免する事を条件に講和します。ミゲル王子は父王の許しを得てオーストリアに亡命し、ジョアン6世は何とか復位することが出来ました。

ちょうどその頃、海の向こうのブラジルでも異変が起きていました。国王ジョアン6世は摂政として植民地ブラジルを任せた長男ペドロ王子に対し、「国内の混乱が収まったから早く帰国するように」と何度も命じていたのですが、王子は父の命令を無視して全く帰国しようとせず、それどころかブラジル独立派に擁立されて1822年に「ブラジル帝国」の建国とポルトガルからの独立を宣言、「初代皇帝ペドロ1世」として即位してしまいました。

この王子たちの不祥事にそれまでの長い苦労もたたり、国王ジョアン6世はすっかりまいってしまい、1826年59歳で亡くなりました。しかしそこで新たな問題が起きてしまいます。当然新たな王を決めなければなりませんが、正当な後継者は長男のペドロ王子です。しかし彼は先に述べた様に「ブラジル皇帝」になってしまっているので両国が認めず、やむなく彼はまだ7歳の娘マリア王女(後のマリア2世)をポルトガル国王とします。

DpedroI-brasil-full.jpg

上がブラジル帝国初代皇帝ペドロ1世(1798~1834)です。実はこの人物、肖像画では一見優しそうに見えますが、実際はとても短気ですぐにヒステリーを起こし、妻である皇后マリア・レオポルディーネに暴力を振るうなど粗暴な性格だった様です。まだ20代で若かった事もあるでしょうが、女たらしで愛人を何人も作り、さらに1825年には領土をめぐって隣国アルゼンチンに攻め入り(500日戦争)逆に撃退されて敗北するなど、およそ「名君」には程遠い人でした。

504px-29-_Imperatriz_rainha_D__Leopoldina.jpg

そしてこの女性が皇后マリア・レオポルディーネ(1797~1826)です。彼女はオーストリア皇帝フランツ1世の娘で、頼りない夫ととは比較にならない巧みな政治手腕を発揮し、実際にブラジル独立に大きく貢献したのは夫のペドロ1世ではなく彼女でした。また貧しい国民のために「畜産業」を新たな産業として育てるなどしてブラジルのために尽くし、それゆえ生前からブラジル国民に絶大な人気があり、現在でも「ブラジルの国母」として崇められているそうです。

しかし皇后の私生活は、ペドロ1世との間に7人の子供を授かったものの、夫ペドロ皇帝の暴力と愛人問題に悩まされる不幸なものでした。そして1826年、皇后レオポルディーネは8人目の子の流産のショックと産褥熱によって29歳の若さで亡くなります。

皇后の死にブラジル国民は深く悲しみ、彼女に辛く当たった夫ペドロ1世に批判が集まり、さらに1828年には彼が1825年から始めたアルゼンチンとの戦争が敗北に終わった事なども重なり、ペドロ1世の人気は坂道を転がるように落ちていきました。そして1831年ついに暴動が発生、そこでペドロ1世は、自らを護衛する近衛兵たちまで彼を見捨てて宮殿を逃げ出す様に愕然とし、もはやこれまでと、まだ5歳の皇太子(後のペドロ2世)に譲位してイギリス軍艦に乗船し、ポルトガル本国に脱出します。

434px-RetratodompedroIIcrianca.jpg

上が譲位されたペドロ皇太子です。(もちろん政治は出来ませんから彼が成人するまで宮廷の忠実な家臣たちが一年交代で摂政を務めたそうです。)こうしてブラジルの混乱は一応収束しましたが、ポルトガル本国では帰国したペドロ1世と、亡命先のミゲル王子が王位をめぐって対立し、再び戦いの火蓋が切られることになります。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポルトガル王国の終焉 ・ 運命の王政廃止

みなさんこんにちは。

1831年のブラジル暴動で幼い皇太子に帝位を譲位したペドロ1世は、ポルトガル女王にさせた娘のマリア2世の摂政となるべく、翌年ポルトガル本国に帰国しますが、本土にはすでにオーストリアに亡命していた弟のミゲル王子が、1828年から「正当な王位は自分にある」と主張して地主、教会などの旧勢力を味方に付け、立憲政府を倒して立憲王政派を弾圧していました。なぜなら前回お話した通り、彼は熱烈な「絶対王政派」であったからです。

これに対して兄のペドロ1世は、意外にもリベラルな「立憲王政派」でした。(これも前回お話した様に、彼は家庭人としては完全な落第生でしたが、政治スタイルなどの局所的な部分だけは、新しい時代の君主のあり方を理解していました。)

やむなくペドロ1世はイギリスの力を借り、本土の手前のアゾレス諸島に逃げていた国内の立憲派を指揮してこれと戦います。戦いは一進一退でしたが、1833年7月にはイギリスの支援を受けていたペドロ1世率いる立憲王政派が首都リスボンを奪還し、ミゲル王子とその軍勢およそ2万は地方に逃げ延びます。そして1834年5月に両者の間で講和が結ばれ、ミゲル王子はポルトガル王位を全面的に放棄し、国外に永久追放となる代わりに終身年金を受給するという形で終結しました。

こうして1834年9月、ポルトガル議会は15歳のマリア2世を正式な王として推戴し、ようやく彼女は戴冠する事が出来ました。そしてそのわずか3ヵ月後に不肖の父ペドロ1世は35歳の若さで急死します。

Rainhamariaii.jpg

640PX-~3

上がポルトガル王国2人目の女王マリア2世(1819~1853)と彼女のネセシダーデス宮殿です。(とても女性らしい趣味の宮殿ですね。そしてこの宮殿が1910年の王政廃止までブラガンサ王家の宮殿となります。)

ようやく落ち着いたポルトガル情勢ですが、マリア2世の治世は父と叔父の王位争いで活躍した将軍たちによる軍人政権が続きます。そしてマリア2世が亡くなる2年前にジョアン・サルダーニャ将軍(1790~1876)がクーデターで実権を掌握するなど、軍人たちの強権政治に悩まされます。やがてマリア2世が1853年に亡くなると、その息子のペドロ5世、さらにその弟ルイス1世へと王位が引き継がれていきますが、政治の実権はサルダーニャ将軍が握り続けていました。

Duque_de_Saldanha.jpg

上がジョアン・サルダーニャ将軍。彼は首相を3度も務め、80歳を過ぎてもクーデターを起こす様な「暴走老人」でした。(軍人の思考というのはいつの時代も万国共通の様ですね。)そして下がマリア2世の息子でブラガンサ朝第11代国王(ポルトガル王としては31代)ルイス1世(1838~1889)です。

391px-Luis_I_of_Portugal.jpg

彼の治世、最初はサルダーニャ公らの軍人政権に国を牛耳られ、公の死後は王制を廃止して完全共和制を求める「共和派」が台頭し始め、王政派との間で議会が対立、当然国家の政策や方針もなかなか定まらず、ブラジルを失ったとはいえまだ世界各地に広大な植民地を保持していたものの、他のヨーロッパ諸国に比べて科学、教育、経済などあらゆる面で遅れた後進国に転落していました。(上の彼の表情をご覧ください。内憂外患でかなりお疲れの様です。)

そんな状況の中で国王ルイス1世の解決出来た事は少なく、彼は次第に政務より文化面に執着する様になります。そして国の将来を憂いつつ1889年に51歳で亡くなります。(彼は文学や詩、海洋学などに興味を示し、世界最初の「水族館」を造るなど、この分野では功績を残しました。)

ちょうどその頃、海を隔てたかつてのポルトガル最大の植民地ブラジルで、またも異変が起きていました。ルイス1世の叔父であり、ブラジル帝国2代皇帝のペドロ2世が外遊中にブラジル軍部がクーデターを起こし、彼を廃位してしまったのです。

Fala_do_trono.jpg

466px-Pedro_II_1890_00.jpg

上がブラジル皇帝ペドロ2世です。(1825~1891)彼は父ペドロ1世からわずか5歳で帝位を譲られて後、58年間も皇帝としてブラジルを統治し、奴隷制度の廃止、鉄道の建設、隣国パラグアイとの戦争の勝利など、様々な面で父とは比較にならない有能で英邁な君主でしたが、その政策が大農場主や有力者などのこれを嫌う保守旧勢力の度重なる抵抗に遭い、1889年彼が留守中についに帝政打倒のクーデターが発生、帝政を廃止して共和制に移行しました。

行き場を失ったペドロ2世は当初は父祖の地であるポルトガルに帰ろうとしますが、王国政府は彼に冷たく、結局彼はフランスに亡命し、1891年66歳で失意の内にパリで亡くなりました。(ポルトガル政府が彼に冷淡だったのは、彼の父ペドロ1世が勝手に最大の植民地ブラジルを独立させてしまった事で、ポルトガルにとって最大の収入源を失ってしまった事と、その後の王位をめぐる本国での内戦など、全て父ペドロ1世に起因する事柄のせいと思われます。しかし今日のブラジル本国では彼は名君として尊敬されているそうです。)

さてポルトガル本国ではルイス1世の後を継いだカルルシュ1世(1863~1908)が王位にありましたが、彼の浪費による財政の悪化でポルトガルは2度も財政破綻し、国内は大混乱、暮らしに困った国民の不満が共和主義者のさらなる台頭を生み、彼はこれを弾圧、そして1908年共和主義者の報復により彼は歴代国王で唯一暗殺されてしまいました。

396px-S_M_F__El-Rei_D__Carlos_I_de_Portugal.jpg

上が歴代国王で唯一暗殺されたカルルシュ1世。彼の死は、ポルトガル王家の終焉を決定付けました。

カルルシュ1世の暗殺を受け、19歳の若い王マヌエル2世(1889~1932)が即位します。彼は自由選挙を行い、これまでの偏った政治の決め方を是正する方針で国民の不満をそらそうとしますが、結果は共和主義者と社会主義者の大勝に終わり、1910年10月に王政打倒の革命が起こり、ついに彼は退位し、ジブラルタルからイギリスに亡命しました。

Manuel_II_of_Portugal.jpg

Manuel_-_Ultimo_Foto.jpg

上がポルトガル王国最後の王マヌエル2世と、イギリスで一市民となった晩年の彼の姿です。こうして13代270年余り続いたブラガンサ王朝は滅び、同時に12世紀から760年近く続いたポルトガル王国は消滅して新生「ポルトガル共和国」が誕生したのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

その後のポルトガル共和国 ・ 海上帝国から文化国家へ

みなさんこんにちは。

1910年の革命によってブラガンサ王朝を倒し、王制を廃止して共和国となったポルトガルは、その後何人もの軍人たちによるクーデターや政変に見舞われ、政情は混乱していましたが、1932年になってアントニオ・サラザールが首相に就任、第二次大戦時にはナチス・ドイツやファシスト・イタリアなどの枢軸国と連合国、戦後の東西冷戦時には米ソ両陣営のどちらにも着かず離れずバランスを保ちつつ「中立国」として巧みに運営していきました。

51594159.jpg

上がポルトガル首相アントニオ・サラザールです。(1889~1970)彼は熱心なカトリック信者で、若い頃は「神父」を目指していましたが、コインブラ大学で政治経済学の教授となり、この時代に論文や新聞などに記事を書く様になったのが政治家への道に進む発端でした。しかし「神」を信じた穏やかな青年は、後にそれとは正反対の人々から恐れられる冷酷な独裁者になってしまいました。

彼は破綻していたポルトガルの財政問題を解決して経済を安定させ、「エスタド・ノヴォ」(新国家体制)をスローガンに掲げてポルトガルの全権を掌握し、1968年まで36年に及ぶ長期独裁政権を維持しましたが、その間にポルトガルのアフリカにおける海外領土アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウで次々にポルトガル本国に対する独立戦争が勃発、1961年彼は「ポルトガルの名誉にかけてこれらを叩き潰す」として国家予算の40%(軍事費ではありません「国家予算」の4割を使ったのです。)もの巨費を投じて合計14万8千という、小国のポルトガルにとっては歴史上初めての大軍を派遣しました。

Sempreatentos___aoperigo!.jpg

23-1961-ReconquistaBeiraBaixa.jpg

上はアンゴラとモザンビークに展開するポルトガル軍地上部隊です。サラザールはアンゴラに6万5千、モザンビークに5万1千、ギニアビサウに3万2千のポルトガル軍を送り込みます。(一度に3正面作戦とはこれはもう無茶苦茶ですね。)しかし時はすでに20世紀、もはや植民地帝国主義の時代はとうに終わりを迎え、イギリス、フランス、スペイン、オランダなど、かつてポルトガルと数百年に亘って熾烈な植民地争奪を繰り広げた国々も、二度の世界大戦ですっかり疲弊し、もう軍事的、経済的に広大な海外領土を維持する事が出来ず、次々にこれらの独立を許し、または独立戦争で失っていました。

にもかかわらずサラザールは植民地戦争を続行し続け、反対する者は秘密警察を使って次々に逮捕投獄して徹底的に弾圧し、亡くなるまで信念を変えようとはしませんでした。(これはもう執念ですね。)結局この戦争でポルトガルが得たものは何も無く、8千の戦死者、1万5千の負傷者、(旧植民地側ははるかに多い7万の戦死者を出したそうです。)巨額の軍事費による財政圧迫と「時代遅れの最後の帝国主義」と揶揄された国際社会からの非難と孤立だけでした。

FM37.jpg

上は戦死者を埋葬して悲しみに暮れる国民です。そんな中の1968年、独裁者サラザールが不慮の事故で重体となり、その2年後に亡くなります。(なんとハンモックで昼寝中コンクリートの地面に頭を強打し、2年間も意識不明だったそうです。そしてその間に後任者のカエターノが政権を引き継ぎ、サラザールが意識を回復した時、彼は「最高権力者」から無位無官の一市民になっていました。しかしもはや高齢で余命いくばくも無く、周囲の人々は彼を不憫に思い、彼にその事を知らせまいと執務室を元通りにしたり、偽の新聞まで作って亡くなるまで数ヶ月の間、彼が最高権力者のままであると思い込ませ、騙し続けたそうです。サラザールがその事に気づいていたかは不明ですが、こんな変わった最後を迎えた人も珍しいですね。)


サラザールの死後も戦争を継続した後任政権に対して、戦争の中止と自由を求める国民の怒りが頂点に達し、1974年4月25日に「カーネーション革命」という無血革命で政府と秘密警察を倒し、市民による民主化が成し遂げられました。そして新政府は一部を除くポルトガル海外領土の全てを放棄する事に決して兵を引き上げ、1961年から13年続いた「植民地戦争」は終結し、事実上この時点を持って「海上帝国」は消滅しました。

Mural2.jpg

上はカーネーション革命のポスターです。個人的な推測で恐縮ですが、時代的に恐らくベトナム反戦やジョン・レノンの「ラブ・アンド・ピース」の影響を受けているのではないかと思います。


その後のポルトガルは現在に至るまで大きな混乱は無く、リーマンショック後の経済苦境はあれど(それはわが国も含め、世界中みな同じでしょうが。)EU(ヨーロッパ連合)加盟国として、また国際社会の一員として小国ながらその役割を立派に果たしています。現在の人口は1064万人で、首都はリスボン(人口56万)主な産業は農業、漁業などの一次産業と観光などの三次産業ですが、もちろん工業も相応に発達しています。主な産物はオリーブ、ワイン、小麦、コルクなどであり、中でもコルクは全世界の生産量の52%が同国の生産だとか。(わが国で使われるコルクの3分の2がポルトガル産だそうです。)またこの国は米の消費量がヨーロッパ一多く、下の画像の様に日常的に良く食べられているそうです。

FEIJOA~1

640px-Arroz_de_marisco.jpg

上がポルトガルの家庭料理フェジョアーダ(豆と野菜、豚肉、牛肉の煮込み)下が海鮮リゾットです。どちらもおいしそうですね。これなら我々日本人の口にも合うと思います。

さらにこの国は二度の世界大戦でも中立国であったために戦火を免れ、その結果中世から近代に至る貴重な建築物や文化財が数多く残っており、世界中から多くの観光客が集まり、各国から歴史物の映画やドラマの撮影に使用されたりして、文化国家として生まれ変わった今日のこの国の観光業を支える大きな財産となっています。

ポルトガル人は、我々日本人の祖先が始めて出合い交流した「西洋人」であり、その彼らから伝えられた様々な西洋の知識と文化、「鉄砲」を初めとする驚くべき品々などはその後のわが国の歴史を変える大きな原動力となりました。そして何よりこのヨーロッパ最西端の小国が「大航海時代」を先頭を切ってスタートさせ、世界の歴史を大きく変えた事は、「国家の繁栄」というものが国土の大小や机上の優劣ではなく、そこに住む人々の「自分たちの未来への揺ぎ無い自信」、繁栄への「明確な戦略と確固たる方向性」、失敗を恐れぬ飽く事の無い「探究心と努力」によって成されるものだという事を、長い低迷にあえぐ現代のわが国に教えてくれる良い手本ではないかと思います。

ポルトガル海上帝国への道 終わり。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

クローヴィス1世とメロヴィング王朝 1

みなさんこんにちは。

今回から中世ヨーロッパ最初の大国であるフランク王国と、それに係わる様々な人々についてお話したいと思います。最初はフランク王国の創始者であるクローヴィス1世とメロヴィング王朝についてです。

FRANCO~1

クローヴィス(466~511)はゲルマン民族の一部族であるフランク族の王です。彼が生きた時代、ヨーロッパはローマ帝国に代表される「古代」から「中世」に移行する激動の新時代を迎えていました。

クローヴィス (文庫クセジュ)

新品価格
¥999から
(2014/4/8 02:50時点)



メロヴィング朝 (文庫クセジュ)

新品価格
¥1,134から
(2014/4/8 02:52時点)



クローヴィスとメロヴィング王朝について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。 この時代についての書籍は非常に少なく、彼の生涯と、彼が築いたメロヴィング王朝について書かれた日本でほとんど唯一の本と思われます。

ここで彼が登場する前の時代背景をご説明します。


紀元370年以降、はるか東方のロシア、ウラル山脈の向こうからやって来た凶暴な遊牧騎馬民族「フン族」の襲来によって、それまでライン川の向こう側である現在のドイツに居住していた「ゲルマン民族」が、フン族の侵略から身を守るため、大挙してライン川を越え、ローマ帝国内に侵入を開始しました。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」の始まりです。

この頃すでに、ローマ帝国は度重なる内乱によって衰退しており、かつての栄光もとうに色褪せ、もはや彼らの侵入を自力で食い止める力はありませんでした。そして彼らに「大移動」をするに至らしめたこのフン族は、族長アッティラ(406?~453)の代に最盛期を迎え、一時的にせよライン川からドナウ川に至るヨーロッパの半分を領する大帝国を築き、殺戮と破壊、略奪の限りを尽くして暴れ回りました。

456px-Brogi,_Carlo_(1850-1925)_-_n__8227_-_Certosa_di_Pavia_-_Medaglione_sullo_zoccolo_della_facciata

Hunnen.jpg

Huns_empire.png

上の1枚目がアッティラの肖像、2枚目が敵をなぎ倒すフン族、3枚目がフン族の最大勢力範囲です。

この時にローマ帝国領に侵入した異民族は、西ゴート族、東ゴート族、ブルグンド族、ヴァンダル族などのいくつかの大集団に分かれ、フン族に劣らぬ勢いで領内を荒らし周りました。


歴史の授業などでは、ローマ帝国が衰え、それに乗じてゲルマン民族が侵入した様な教え方をしていますが、実際はこの「フン族」の襲撃から逃れるために、押し出されて逃げて来たというのが実情の様です。また移動を余儀無くされたのはゲルマン人だけでなく、ロシアや東欧のスラブ人も多かったので、単純に「ゲルマン民族の」大移動とは言えないそうです。

この様な危機を迎え、ローマ帝国は新たな国づくりを目指し、都をローマから時の皇帝の名を冠したコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に遷都、さらに395年、ローマ帝国は東西に分裂してしまいます。(「新たな国づくり」とは聞こえは良いですが、これらの異民族の侵入によって、もはや救い様が無いほど四散していた帝国の西側部分を「切り捨てた」という方が正しいでしょう。)

Theodosius_Is_empire.png

上が分裂後の東西ローマ帝国です。

その後フン族とその国家については、王である族長アッティラの死によりあっけなく崩壊して、歴史の表舞台から姿を消しますが、彼らによって押し出された異民族はその後も西ローマ帝国内に留まり、時期はばらばらになりますが、それぞれの族長が「王」を名乗ってその支配地に王国を打ち建て、西ローマ帝国を分割支配してしまいます。

この様な事態に西ローマ帝国(もはや「帝国」などと呼べる様なものではありませんでしたが。) は凋落の一途をたどり、その後の皇帝たちには成す術がありませんでした。帝国の行政機構も帝国軍の主力軍団も、その他重要なほとんどのものが東西に分裂した際に東ローマ帝国に移されており、西ローマ皇帝は「皇帝」とは名ばかりで、東ローマ皇帝から西側の始末を任された「総督」の様な存在でしかありませんでした。

そこで彼らは「蛮族には蛮族で」という事で、同じゲルマン人の少数部族を「傭兵」として戦わせる事を以後の国防方針とします。しかし410年、族長アラリック(360~410)率いる西ゴート族が都ローマに侵入、その前にすでに現在のフランス南部からスペインに至る地域に「西ゴート王国」を建国。さらに432年には族長ガイゼリック(389~477)率いる8万のヴァンダル族が北アフリカに上陸して「ヴァンダル王国」を建国。455年には海側からローマに侵入、西ゴート族よりもはるかにひどい略奪と破壊の限りを尽くし、奴隷にするための多数の女子供や、市民たちから奪い取った財宝を山と船に積んで北アフリカに凱旋しました。(ローマ掠奪)

S070Map.gif

478PX-~1

このヴァンダル王国の建国は西ローマ帝国に大打撃を与える事になります。それまで海の向こうで異民族の侵入を受けず、無傷の領土であった北アフリカの穀倉地帯を奪い取られ、ゲルマン人の傭兵たちに支払う資金源を失ってしまったからです。それでも西ローマ皇帝は、残るイタリア半島の領土を切り売りしながら傭兵たちに与える事で、さらに40年ほど「帝国」の延命を図りますが、470年代にはついにそれも底を尽いてしまいました。

ここに至って傭兵たちは「金の切れ目が縁の切れ目」とばかりに西ローマ帝国を見限り、最終的にそれら傭兵たちの長で、皇帝の親衛隊司令官でもあったゲルマン・スキリア族の族長オドアケル(433~493)によって、476年最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス帝が廃され、ここにイタリア半島を発祥の地とする「古代ローマ帝国」は滅亡します。


Young_Folks_History_of_Rome_illus420.png

上はオドアケルにひざまづいて帝冠を差し出す西ローマ最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス(466~511?)奇しくも最後の皇帝の名が、ローマ建国の父ロムルスと、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスである事は皮肉ですね。飾り物に過ぎなかったとはいえ皇帝ともあろう者が、傭兵隊長上がりの将軍に冠を差し出す姿がとても哀れです。しかし幸いにも彼はまだ少年であった為か命までは奪われず、それどころかオドアケルから恩給まで与えられて家族と供にカンパーニャに移り住み、修道院を建てるなどの業績を残したそうです。

その彼を退位させたオドアケルは、西ローマ皇帝位を時の東ローマ皇帝ゼノン(426~491)に返上し、代わりに「イタリア王」となる事を要求して認められ、全イタリアの統治権を承認されますが、成り上がり者の思い上がりからか、東ローマ帝国の内政にまで干渉して皇帝ゼノンの怒りを買い、皇帝がイタリア半島を餌として差し向けた族長テオドリック(454~526)率いる東ゴート族との戦いに敗れて暗殺されてしまったので、彼の王国は一代で終わってしまいます。(その後には、これに勝ったテオドリックが「東ゴート王国」を建国しました。)

厳密にはローマ帝国は、その東半分であり、西側よりもはるかに多くの富が集中するギリシャ、オリエント地域に東ローマ帝国が健在で、しかも1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまでおよそ千年もの長きに渡って続くのですが、歴史上の位置付けではこの時を境に「古代」が終わり、コロンブスやマゼランなどの探検家が活躍する大航海時代までの約千年間を「中世」と呼び表しています。

クローヴィスがフランク族の族長の子として生まれたのはちょうどこの前後に差し掛かる時期でした。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR