フィレンツェの興隆 ・ 煌きの始まり

みなさんこんにちは。

今回から、ヨーロッパ中世において「ルネサンス」を花開かせ、人類の至宝ともいうべき多くの芸術作品を生み出した「花の都」フィレンツェと、この街で巨万の富を築き、そのあり余る富を惜しげ無く投じて多くの芸術家や文化人を保護育成し、フィレンツェの街そのものを巨大な「芸術作品」に造り上げ、やがて一市民から「トスカーナ大公」という君主にまで上り詰めた謎の大富豪一族「メディチ家」についてお話したいと思います。

最初はその舞台となるイタリア半島中部の都市フィレンツェの歴史と成り立ちからご紹介いたしましょう。

フィレンツェ (講談社学術文庫)

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フィレンツェの歴史と成り立ちについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。イタリア美術史がご専門の若桑みどりさんの執筆で、少し専門的ですがページ数は480ページとボリュームがあり、フィレンツェの歴史とその興亡を美術とからめて詳細に記した優れた本です。写真も270枚も掲載されており、モノクロで小さいのが残念ですが、それらは読み進める上では全く違和感はなく、とても満足出来る作品と思います。

この街が造られたのは古代ローマ以前にこの地に栄えた古代エトルリア時代の様ですが、最初に歴史に登場するのは古代ローマ時代の紀元前50年ごろで、ローマ時代の植民都市として拡大建設されたのが始まりです。そしてローマ神話に登場する花の女神フローラにちなみ「フロレンティア」と名付けられたのがフィレンツェの街の名の由来です。

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上がフィレンツェの位置と街の名の由来である花の女神フローラ。しかしこの街はあくまでもローマ帝国が各地に建設した数多くの一般的なローマ都市の典型であり、ローマ時代には一地方都市にすぎず、またローマ帝国滅亡後の長い混迷の時代にはすっかり衰退し、忘れ去られた存在となっていました。

状況が変わるのは9世紀に入ってからで、この地を支配したカロリング朝フランク王国のカール大帝が、従えた豪族をトスカーナ辺境伯に任じてこの地を統治させた頃から街に人々が集まり出し、10世紀にその後を継いだオットー大帝の神聖ローマ帝国時代になると、商業活動が活発な「重要都市」にまで復活していました。

この時代はフィレンツェを含むイタリア中部から北部の都市でも同様に商工業が盛んになり、やがて商工業の発達によって富を得た人々が団結して1115年に「自治都市」を宣言、最初は認めなかった神聖ローマ皇帝も1187年には正式にこれを認めます。(この背景にはやはり「お金」の問題が絡んでいます。神聖ローマ皇帝は国内外で常に戦いに明け暮れ、多くの軍資金を必要としていました。そのため力で支配し続けるよりも、これらの都市に自治権を与えて好きなだけ商売をさせ、その代わりに戦時には儲けた金を軍資金として提供させる様にした方が得策と判断したのでしょう。)

その頃フィレンツェでは、古くからの支配者である貴族階級が、ローマ教皇を主君と崇める教皇派(グエルフ)と、ドイツ神聖ローマ皇帝に忠誠を誓う皇帝派(ギベリン)に分かれ、街の主導権を巡って争っていました。両者の争いは熾烈を極め、商人などの平民たちは第三勢力として「組合」(アルテ)を造り、自衛しながら時には教皇側に、これが不利になると皇帝側にと状況次第で味方に付く相手を変え、最終的には教皇側に付いてしたたかに生き延びていきました。

この争いはおよそ200年以上続き、最終的には教皇派が表面上勝利しますが、長い抗争で貴族階級はすっかり疲弊し、代わって商人たち平民階級が台頭します。彼らは抗争の期間中も争いを上手く利用しつつ富を蓄え、13世紀の終わりには街の実権を握って「フィレンツェ共和国」を樹立させました。

この頃になるとフィレンツェの人口は10万を超え、商人たちの豊かな財力を武器に周辺地域へ勢力を伸ばします。彼らは純度の高い良質なフィオリーノ金貨(フローリン金貨)を鋳造して各国に流通させ、その信用度の高さから「中世のドル」といわれるほど数百年に亘って各国で使われました。

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上がフィオリーノ金貨(フローリン金貨)です。大きさは直径約2センチ、重さは3.5グラムほどで意外と小さい様に思われますが、ある資料によればこれ1枚で現在の日本円で約12万円の価値があるそうです。また表面にはフィレンツェの街の紋章であるユリの花が刻印され、裏面には街の守護聖人ヨハネの姿が刻まれています。 (この人は何でもイエス・キリストのいわば「先輩」にあたる人物で、「ヨハネの黙示録」で有名なキリストの弟子のヨハネとは別人だそうです。)

この時代のフィレンツェで最も力を持った商人は毛織物業者と金融業者でした。前者は羊の毛、つまり羊毛で柔らかいふわふわの衣類を生産して多くの人々に珍重されて莫大な利益を得、フィレンツェを含む北イタリアと、後のオランダ・ベルギーの元となるフランドル地方がヨーロッパにおける二大生産地でした。後者は言わずと知れた「金貸し」で、今回のテーマの主役であるメディチ家はこれを生業として財を成した一族です。

14世紀から15世紀にかけて、それまでに周辺の地域を手に入れて都市国家から領域国家となっていたフィレンツェは、同じく勢力を広げていた北の強国ミラノ公国と戦争を繰り返す様になります。その理由は両国とも内陸にあったため、海への出口を求めて斜塔で有名な海洋都市ピサを奪い合ったのが原因です。(港を手に入れれば海上貿易でさらに儲けられますからね。)

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上がそのミラノ公国の最大勢力範囲です。ミラノはフィレンツェと同様自治都市でしたが、貴族のヴィスコンティ家を君主とする「公国」として早くから君主国となり、さらにその後のスフォルツア家の時代も含め、事実上フィレンツェのライバル国家でした。(上の図ではミラノがフィレンツェの領土を深く侵食していますが、後にフィレンツェがこれらを奪い返し、最終的にピサなどの港はフィレンツェのものとなります。)

フィレンツェの敵は北のミラノ公国だけではありませんでした。南には皇帝派のシエナ共和国があり、都合により表面上は教皇派であったフィレンツェとは戦争が絶えませんでした。(この争いは1556年にシエナが敗れてフィレンツェに併合され、滅亡するまで続きます。)

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上がフィレンツェを含む中世イタリアの諸勢力の図です。年号は少し後のルネサンス期になりますが、大体この様なパワーバランスになっています。そしてメディチ家とその一族はこの複雑な時代に歴史の表舞台に登場する事になるのです。

次回に続きます。
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メディチ家の出現 ・ その起源と台頭

みなさんこんにちは。

前回はルネサンスを育んだ「舞台」であるフィレンツェについて、その起源と街の歴史を簡単にお話いたしました。その「舞台」でルネサンスを創り上げた「主役」は数多くの芸術家たちですが、今日はそれらを影で「演出」したスポンサーであるメディチ家についてお話したいと思います。

メディチ家 (講談社現代新書)

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このメディチ家について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は358ページ、メディチ家研究の権威である森田義之さんの著作で、個人的には表紙のカバーデザインが単純すぎるのが残念ですが、メディチ家の全てについて網羅した日本で唯一の本で、メディチ家の興亡を知るには申し分の無い秀作です。

メディチ家 ルネサンス・美の遺産を旅する (別冊家庭画報)

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このメディチ家に関する本でもう一つ個人的にお薦めしたいのが上の本です。雑誌の別冊で140ページ程度のものですが、何より雑誌特有の綺麗なビジュアルデザインと大きなカラー写真が魅力で、また文庫には無い多くのエピソードや、メディチ一族の家系図がその人物の肖像入りで掲載されているなど、非常に興味深い本です。上の森田氏の文庫と照らし合わせて読み進めると良いと思います。

このメディチ家というのは、改めて簡単にご説明すると、フィレンツェ出身の大銀行家・政治家であり、当時の中世ヨーロッパ屈指の大富豪で、その莫大な富で多くの芸術家たちの創作活動を支援し、さらにローマ教皇を3人も輩出、後に神聖ローマ皇帝から、フィレンツェとその周辺を領国とする「トスカーナ大公」の位を与えられた一族の事です。

しかしこのメディチ家ですが、最初から大富豪でも名門の出であったわけでもありません。後にメディチ家がトスカーナ大公国の君主となってから作られた一族の由来を表す17世紀はじめの「伝記」では、メディチ家の祖先はかつてこの地を支配したカロリング朝フランク王国のカール大帝に仕えた勇敢な「騎士」であり、カール大帝によるランゴバルド王国征服の際に武勲を立て、その戦功から大帝より「貴族」に列せられた云々とされていますが、、実際に彼らの祖先が「貴族」であったという確かな記録も証拠も無く、歴史家の間でもこれはメディチ家が自らの起源に「箔を付ける」ために作らせた創作であるとされています。


実際には彼らの起源は前述した様に確かな記録がほとんど残っておらず、謎に包まれており、ヨーロッパの他の名門と同じく発する所はかなり「怪しげ」で、一説には彼らの祖先はフィレンツェ近郊の森の中で「炭焼き」をしていた一人であったとさえ云われています。  

また彼らの家名である「メディチ」ですが、これは現地のイタリア語で「医者」や「薬」を表す単語で、この事からメディチ家の祖先は「炭焼き」から何代目かにその類いの商いに転進して成功した者が、多少資金が出来た事で、後にメディチ家の家業となる「高利貸し」や「両替商」に転じたのではないかというのが通説となっている様です。これはメディチ家の紋章にもそれをうかがい知ることが出来、紋章に表される複数の丸い玉が、「丸薬」または両替の際に使われる、秤に乗せる丸い分銅を表しているのだというのがその根拠になっています。   

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上がメディチ家の紋章です。しかし上で述べた事は全て後付けの推測であり、確かな証拠はありません。     

メディチ家が記録に初めて登場するのは12世紀後半で、フィレンツェが自治都市として自立した頃には、すでに市内で店を構えて両替商を営んでいた様です。13世紀になると共和国の議員などを務め、同時に多くの土地を所有するまでになりますが、当時のフィレンツェには彼らをはるかに凌ぐ財を持つ古くからの有力豪商が競い合い、まだこの段階でのメディチ家は、たくさんいる二流の資産家の一つに過ぎないものでした。  

14世紀に入ると、ヨーロッパは深刻な不況、戦争、飢饉、疫病に次々に見舞われ、特にはるか東方からもたらされた黒死病(ペスト)の猛威がヨーロッパ全土を覆います。(このペストとその恐ろしさについては今だにヨーロッパで語り草になっていますね。なんとこのペストの大流行により、当時のヨーロッパの人口の3割に当たる2500万人以上が死亡したそうです。)フィレンツェもその被害は甚大で、1348年には市民の4割にあたる4万人が死亡し、メディチ家も一族に大勢の死者を出して多くの人材を失った結果、一時的に衰退します。
  

しかしこの事が、メディチ家をフィレンツェ屈指の有力者に押し上げる事になります。ペストや内乱などで、それまでフィレンツェを支配していた古くからの有力家門が次々に没落して行き、代わってそれらをうまく切り抜け、地道に銀行業に勤しんで財を蓄え、さらにローマ教皇庁と深い関係を持った新興財閥のメディチ家が一躍その座に躍り出たのです。

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その時点におけるメディチ家の当主は上のジョバンニ・ディ・ビッチ(1360~1429)という人物でした。彼は一族が代々築いてきた銀行業をさらに拡大発展させ、特に彼の代にローマ教皇位を巡る争いで彼が即位させた教皇ヨハネス23世から、褒美としてローマ教皇庁の金融部門の責任者を任され、教会収益からそれまでと比較にならない莫大な利益を上げました。そのため事実上この人物が「メディチ王朝」の始祖とされています。

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上がジョバンニ・ディ・ビッチが擁立した教皇ヨハネス23世(1370?~1418)本名はバルダッサレ・コッサという海賊とも傭兵であったともいわれる素性の知れない人物です。しかしジョバンニからすれば、彼の「操り人形」として利用出来れば誰でも良かったのでしょう。

やがて彼が失脚し、新たに即位した教皇マルティヌス5世(1368~1431)もジョバンニをそのまま教皇庁の財務管理者に留任させます。彼はそれだけでなくジョバンニに伯爵位まで授けようとしていますが、ジョバンニは当時まだ「共和制」であったフィレンツェにおいて、「貴族」になるのは政治的にまずいと判断し、これを辞退しています。

さて、メディチ家を成功と栄達の道へと導いた家業である「銀行業」と「両替商」について少し触れておきましょう。両替商とは読んで字の如し、自国の貨幣と外国の貨幣を手数料を取って「両替」する商売で、もちろん金貸しも行います。国際商業都市であったフィレンツェには各国から多くの商人たちが集まり、当然その決済に相手の国の貨幣が必要です。そのため両替の需要はいくらでもあり、また「物」を売る商売ではないので在庫や売れ残りを抱える心配が無いのも強みでした。(彼らが商売で使った台が「バンコ」と呼ばれ、それが英語で銀行を表す「バンク」の語源になったのは良く知られていますね。)

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上は両替商の夫婦を描いたルネサンス期の絵です。これを見ると分かる様に、当時の両替商というのは街角の個人営業がほとんどでした。しかしこの時代はこの程度で充分事足りた様で、これら個人営業の中でさらに成功した者が、さらに上のレベルの銀行業を興し、王侯貴族や一国の政府などの「大物」に大金を貸し付ける様になります。メディチ家はそうしてのし上がった一族でした。(ジョバンニが当主としてメディチ銀行を継いだ時も、各地の支店を合わせて従業員は20名ほどだったそうです。中世の銀行などその程度でした。)

その後のメディチ家は、ジョバンニの息子コジモの代になるとさらに大きな波乱が待ち受け、彼らの運命もそれにつれて大きく変動していく事になります。

次回に続きます。

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メディチ家の躍進 ・ フィレンツェ支配の確立

みなさんこんにちは。

ジョバンニ・ディ・ビッチによって巨万の富を得たメディチ家ですが、このジョバンニの代になって、後の芸術へのパトロンとして動き出す様になります。(それ以前のメディチ家は、芸術や文化などに全く無関心で、それどころか一族の中には素行の悪い者が数多く、市民の間でも「乱暴で危険な一族」として悪評が絶え無かった様です。)ジョバンニは資産が増えるにつれ、教会や修道院に多くの資金を投じる様になり、これらの建築を名だたる芸術家に任せるなどしてその悪評の払拭に努めます。そしてその彼が1429年に亡くなると、息子のコジモ・デ・メディチ(1389~1464)が新たにメディチ家の当主となります。(記録によれば、ジョバンニが息子コジモに残した遺産額は約18万フィオリーノ、およそ216億円であったそうです。)

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彼は父以上の商才と政治的手腕に長けた優れた当主でした。また父ジョバンニが実務本位の商人教育しか受けていなかったのに比して、文化や学術などにも厚い英才教育を受けて育ち、父の後を継いでメディチ家の当主になった時には、すでに押しも押されぬフィレンツェの実力者になっていました。

ちょうどその頃、フィレンツェは数百年続く古くからの有力家門であるアルビッツィ家を筆頭とする二十数家の名門派閥と、メディチ家を代表とする新興派閥が勢力を競っていました。この新旧両勢力は政策面で事あるごとに対立し、やがてそれが表面化します。

最初に仕掛けたのは旧勢力アルビッツィ派でした。折からフィレンツェは周辺国と戦争が続いており、主戦派の彼らは1433年9月、戦争中止派のメディチ家当主コジモを「国家反逆罪」で逮捕し、20日間に亘って拘禁します。コジモは危うく「死刑」にされる所でしたが、戦争に反対する市民らの世論のおかげで国外追放とされます。

せっかくこれまで築いてきたものを全て失ったかに見えたコジモ率いるメディチ家ですが、実は彼は事前にアルビッツィ派の動きを察知しており、資産の大半を国外の支店に移していました。また父ジョバンニの代から親子二代で築き上げてきたメディチ銀行の信用と人脈のネットワークがこの時大いに役立ちます。彼は行く先々で大歓迎され、亡命先のヴェネツィアで何不自由なく過ごしながら復権の機会を窺います。

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上はコジモが亡命していた当時のヴェネツィアの様子です。この頃のヴェネツィアは最強の海洋都市国家として地中海交易を独占し、全盛期を迎えていました。

さてメディチ家を一掃して一時の勝利を得たアルビッツィ家でしたが、度重なる戦争に戦費調達のための重税が市民に重くのしかかり、それらを強行するアルビッツィ家をはじめ旧勢力に対し、市民の怒りは頂点に達していました。そしてコジモが追放されてからほぼ1年後、ついに議会はメディチ派に占められ、市民集会でコジモの追放が取り消しとなります。(こうしたフィレンツェ本国の情報は、ヴェネツィア滞在のコジモに逐一報告されていました。恐らくこれらは全てコジモが影で操っていたのでしょう。)

こうして彼は見事にフィレンツェに帰還し、フィレンツェ市民から歓呼の声で迎えられます。同時にそれまでフィレンツェを支配していたアルビッツィ家などの旧勢力は全て国外追放とされ、反対勢力のいなくなったフィレンツェにはコジモ率いるメディチ家による一極支配が確立しました

しかし、いくらメディチ家が新たな支配者となっても、何もかも自由に出来たわけではありませんでした。伝統的に共和制の精神が強いフィレンツェでは、指導者に対して常に反対勢力が目を光らせ、隙あらばこれを追い落とさんと手ぐすねを引いていたからです。専横に振舞えばアルビッツィ家ら旧勢力の二の舞になってしまう。コジモはこれを一番理解していました。

そこで彼は自らは表に立たず、表向きは共和制を尊重しつつ、実際は議会と政府の要職を全てメディチ派で固め、影でフィレンツェを支配する独裁体制を築きました。また彼は交戦中の各国と交渉して(裏で相手にかなりの金をばらまいた事でしょう。)うまく戦争を終わらせると、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国、ローマ教皇領のイタリア5大国による勢力均衡を図る事を今後の対外政策の基本とします。そしてこれら5カ国の間で「ローディの和」と呼ばれる和平条約を結んで長い戦乱に終止符を打ちました。

当時は国民に兵役を義務付けたいわゆる「国軍」というものは存在しませんでした。特にフィレンツェやヴェネツィアなどの商業国家は商人の国なので戦いの事は何も知らず、戦争になると多額の金を払って下の画像の様な多くの「傭兵」を雇い、彼らに戦争を任せていました。そのため戦争になるとこれらの国の市民は傭兵たちに支払う報酬の費用を捻出するため、重税だけでなく強制的に公債を買わされ、その負担が国の慢性的な財政問題として重くのしかかっていました。

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彼は周辺国を力で支配する事で他国の財貨を奪い取るよりも、諸外国との戦争を極力避け、自国の市民に安心して本来の商業活動に従事させ、大いに他国と商売していわば「持ちつ持たれつ」の関係にした方がはるかに国を富ませ、また戦争も起こりにくくなる事を熟知していたのです。

さらに彼は父ジョバンニの代からの強力なローマ教皇庁との結びつきをさらに一層強め、長く対立していたカトリックとビザンツの正教との合同を図ります。(これは結局両者にその気が無かった事と、1453年のビザンツ帝国の滅亡により実現しませんでしたが、その後にメディチ家からローマ教皇を輩出する足がかりとなります。)

こうした政治的動きと合わせ、コジモは本来の仕事である銀行業にも精を出し、それまでイタリア周辺のみであったメディチ銀行の支店網を、イギリス、フランス、スイス、オランダなどヨーロッパ各国へと広げ、メディチ銀行は彼の時代に全盛期を迎えます。またメディチ家は銀行業以外にも工業原料(羊毛、絹、毛皮、染料)鉱物資源(明礬、「みょうばん」錫、鉛、金)高級衣服(毛織物、絹織物)工芸品(タペストリー、ベッド、銀製品、宝飾品、写本、)香辛料(塩、胡椒)農産物(オリーブ、アーモンド、柑橘類)などあらゆる商品の輸出にも係わり、これらによる莫大な収益で、イタリアだけでなくヨーロッパ屈指の大富豪となりました。

次回に続きます。

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メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 1

みなさんこんにちは。

コジモ・デ・メディチの活躍によりフィレンツェの「支配者」となり、一連の商業活動を通じてフィレンツェの一銀行家からヨーロッパ有数の大富豪へと変貌を遂げたメディチ家ですが、前回も述べた様に彼らは政治、経済だけではなく芸術と文化の方面にも、そのあふれんばかりの富を費やしています。ここでメディチ家の人々がどの様にして芸術や文化を保護し、その担い手であった芸術家たちと係わったのかを、その後のメディチ家とフィレンツェの歴史や出来事と合わせてお話しましょう。

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まずメディチ家のフィレンツェ支配を確立し、「祖国の父」コジモ・イル・ヴェッキオ(イル・ヴェッキオは「老人」の意味だそうです。これ褒め言葉なんでしょうか?)と呼ばれたコジモ・デ・メディチから始めますが、彼が生きた時代はすでに始まっていた「ルネサンス」の前期に当たります。(この「ルネサンス」というのは、フランス語で「復活」または「再生」を表すもので、古代ローマ帝国滅亡からおよそ千年続いた「暗黒の中世」が終わり、キリスト教カトリックが禁じていた諸々の束縛から人々を解き放ち、古代ギリシャ、ローマの自由で豊かな表現を追い求めた一連の文化復興運動の事です。)

彼が保護支援した芸術家で最も有名なのは、ブルネレスキ、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコなどがいます。ブルネレスキは建築家、ドナテッロは彫刻家で後の二人は画家として有名です。

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建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377~1446)彼は彫刻家でもありましたがローマを旅した時にローマ建築に魅了され、建築に没頭する様になったそうです。その彼が手がけた最も大きな仕事はフィレンツェの街のシンボルでひときわ目立つ巨大なドームが印象的な「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」のドームでしょう。

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上の画像をご覧になれば分かる様にこの部分を彼が担当しています。(この大聖堂の全てを彼が造ったのではありません。大聖堂自体は1296年から造られ始め、完成までに140年以上かかっています。)彼が造ったこのドームの素晴らしさは後のミケランジェロに大きく影響を与え、彼はローマのサン・ピエトロ大聖堂のドームを造る時にこれを真似ています。

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この大聖堂については2008年に日本の某短大の女子大生ら数人が、大理石の壁に落書きをするという呆れ果てた行為を行い、それが他の日本人観光客の訴えによって発覚し、日本のマスコミで大きく報道され批判されたという、同じ日本人として恥ずかしい出来事がありましたが、大学側が直ちにイタリア側に謝罪と賠償と申し出、学生らと教員を厳重注意処分した事が、逆にイタリア本国で大きく報道され、観光客の落書きだらけの自国の街並みや文化財の惨状を恥じ、日本人観光客の潔癖さと、大学側が迅速に学生らを処分した事がイタリアのマスコミで称賛されました。(修復費用についてはイタリア側から大学側に不要であるとの旨が伝達されたそうです)

次にドナテッロ(1386?~1466)ですが、こちらは数多くの彫刻を手がけたほぼ純粋な彫刻家として分類される人物で、その代表作はダヴィデ像です。

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これも後のミケランジェロに大きな影響を与え、彼も同じ「ダヴィデ像」を造っていますね。(しかしこの作品は見ての通り若者の全裸をそのまま表現しており、見方によっては作者ドナテッロの「同性愛」的趣味も見え隠れする事から当時は賛否両論大騒ぎになったそうです。)

コジモはこれらの芸術家たちのパトロンとなる他、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427~~紀元前347)の思想に執心し、「プラトン・アカデミー」を主催して多くの知識人と高度な議論を交わしました。また彼は本の収集にも熱心で古代からの貴重な写本を金に糸目をつけずに買いあさり、図書館を造って寄贈しています。さらに熱心なカトリックであった彼は、多くの教会や修道院、大聖堂などの建築にも貢献しています。

コジモは1464年に75歳で亡くなりますが、息子で後継者のピエロは病弱でした。そのため彼は自分亡き後のピエロと一族の将来を心配し、あらゆる手段を使ってメディチ家の支配を確立し、出来るだけ長くそれが続くよう様々な手を打ちました。

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ピエロ・デ・メディチ(1419~1469)はコジモの長男で重症の痛風持ちでした。そのためピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)といういささか酷な通称で呼ばれています。(痛風とは、血液の欠陥から足、腰、膝の関節など、体の可動する部位に激痛を伴う病気で、「風が吹いたり止んだりする様に痛みに波がある」事からこの名が付けられ、また患者の9割以上が男性だそうです。)

コジモの死後、彼がメディチ家の新たな当主となると、まだ制度化されていなかったメディチ家の権力世襲に対し、それまでコジモによって抑えられていた反対勢力がメディチ家打倒に動き出します。彼らは隣国フェラーラ公国のエステ家と結び、エステ侯は4千の兵をフィレンツェ攻撃に差し向けます。これに対してピエロはミラノ公国と同盟し、急遽集めた傭兵とミラノの援軍1千とともにこれを迎え撃ちます。兵力は倍の開きがあり不利でしたが、しかし幸いにも敵の一部の寝返りにより形成が逆転、フェラーラ軍は退却し、ピエロは反対者を国外追放にして反乱勢力を一掃する事に成功しました。

彼は父コジモに倣い、芸術と文化のパトロンとして大いに彼らを育成していますが、どちらかといえば質実剛健な趣向であった父と違って絢爛豪華で華美な装飾を好み、これは彼の息子ロレンツォにも受け継がれ、後のメディチ宮廷の基礎がこの時に出来ました。またピエロはコレクションの類いも父と異なり、絵画や彫刻よりも、金銀宝石や宝飾品などに価値を見出す人であった様です。(もちろん絵画や彫刻、建築なども大事にしています。)

しかしこの頃からメディチ家の力の源であり、豊富な資金力を誇った銀行業に陰りが見え始めます。メディチ銀行は先代コジモの卓越した経営手腕によって彼の代に全盛期を迎えていたのですが、その彼が亡くなると、病弱で銀行経営の経験に乏しいピエロは失敗と損失を繰り返し、大きくなりすぎたメディチ銀行は次第に経営に行き詰まる様になりました。

ピエロは当主となってからわずか5年後の1469年に53歳で亡くなります。そのため影の薄い人物ですが、歩けないほどのひどい痛風に悩まされながら病弱な身で、巨大企業となったメディチ家の当主として、またフィレンツェの指導者として激務をこなすのは並大抵の苦労ではなかった事でしょう。それでも出来るだけの事をしてメディチ家とフィレンツェの繁栄を守り、次の後継者である息子ロレンツォに繋いだのは賞賛に値すると思います。

こうしてメディチ家とフィレンツェは彼の息子ロレンツォ・デ・メディチに継承されていきます。そしてそのロレンツォの元でルネサンスは最盛期を迎え、数多くの芸術家や天才たちによって次々と人類の宝が生み出されていく事になります。

次回に続きます。

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メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 2

みなさんこんにちは。

持病の痛風と闘いながら、なんとかフィレンツェ共和国を運営していたメディチ家当主ピエロが1469年53歳で亡くなると、彼の息子で20歳のロレンツォ・デ・メディチ(1449~1491)が新たな当主となりました。

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彼は祖父コジモや父ピエロ同様最高の英才教育を受け、まだ20歳の若者でありながら、すでに「王者」の威厳と品格を兼ね備えた人物でした。その事は周囲の人々を通じて広く知れ渡っており、またフィレンツェ共和国は祖父コジモ、父ピエロと2代40年に亘ってメディチ家の支配の下にあって、もはやメディチ家無しでは国が立ち行かなくなっていたので、共和国の代表たちはこの若き当主に、国家の頂点に立って国政を司るよう激励します。

ロレンツォは自分の年齢と未熟さを理由に最初は渋りますが、結局折れてその役目を引き受けます。しかし彼は一旦指導者となると、たちまちそのしたたかで有能な政治家ぶりを見せて周囲を驚嘆させます。彼はまず政権の安定を図るため、それまで権限が分散していた政治、軍事、財政などの重要権限を全て議会で意思決定出来る態勢とし、その議会の大半を親メディチ派の議員で固め、さらに選挙管理委員会の委員もメディチ派のみに限定する事により、反メディチ派を徹底排除しました。これによりいかなる場合でも、メディチ派の人間に有利に政策が決定され、以後政府と議会の運営はロレンツォとメディチ派の意のままに動かされていきます。

さらにロレンツォは政治力だけでなく断固たる軍事力も行使します。1471年フィレンツェの隣の一都市ヴォルテッラで明礬の採掘権を巡って市民とフィレンツェ人が衝突、やがて暴動に発展し、怒ったロレンツォは3千の傭兵を差し向けてヴォルテッラを包囲します。一ヶ月の籠城の末ヴォルテッラが降伏すると、フィレンツェ傭兵軍は徹底した略奪と殺戮を行い明礬鉱の採掘権とともにヴォルテッラを併合しますが、その命令を下したのはロレンツォ自身だったそうです。(これはまだ若い彼が自分を侮らせまいとするために、内外に見せしめとして行ったのかもしれません。)

さてこのロレンツォですが政治家としての側面もさる事ながら、自身は大変な快楽主義者、つまり悪い言い方をすれば「遊び人」でした。ありとあらゆるゲームやスポーツに興じ、多くの仲間たちとのふれ合いやたくさんの女性との恋愛に熱中しました。(まだ20代の若者ですからこれくらいごく普通と言うか当然ですね。)彼はこんな詩を残しています。

「青春は素晴らしい
しかしすぐに過ぎてしまう
だから大いに今を楽しもう
明日はどうなるか分からないのだから。」


まさに彼の価値観をそのまま表した分かりやすいものですね。こんな性格であったためか、同時代の年長のお堅い人々から「酒と女と遊びに耽る退廃者」などと言われる事もありました。しかしロレンツォは道徳も常識も良くわきまえており、特に家庭人としてもいささか社交的過ぎる面はありましたが良き夫であり、良き父親でした。(彼は当主となった翌年21歳で、ローマの名門貴族オルシーニ家の令嬢クラリーチェと結婚して7人の子供を儲けますが、祖父や父の様に正妻以外の女性との間に出来たいわゆる「私生児」は一人もいません。またとても子煩悩で子供たちを大変可愛がり、その教育にも熱心に気を配っています。)

そしてロレンツォは、祖父や父をはるかに凌ぐ芸術のパトロンとしても有名で、彼の治世、ルネサンスはその最高潮に達し、誰もが名前を聞いた事のある芸術家が活躍した時期でもありました。(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人が代表ですね。)

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ルネサンス芸術について網羅した本は上に載せたものが良書です。ページ数は127ページで、どの芸術家の作品がフィレンツェ市内のどこにあるか詳しく紹介されています。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)この人の名前と代表作「モナリザ」だけは小学生でも知ってるでしょう。絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に多くの業績を残し、「万能の天才」と称される人です。

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次にミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)彼もメディチ家の庇護の元で創作した人物です。彼も絵画や彫刻、建築などジャンルは問いませんでしたが、本人は自身を「彫刻家」であると言っており、事実彼は多くの彫刻作品を残しています。

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ミケランジェロの代表作「ダヴィデ像」。実はこのミケランジェロという人はかなり気難しいひねくれ者で、「他の者と同じは嫌だ」と言って当時タブーであった「裸体」ばかり造っています。さらに彼にとっては「男性の肉体」こそ美の極致であって、そのため彼は絵も彫刻も、女性は聖母マリアを除いてはほとんど描いていません。とても偏った天才でした。(余談ですが、上の「ダヴィデ像」は完成までに3年を要し、ミケランジェロが受け取った報酬は現在の日本円で1千万円ほどだったそうです。どういう計算で換算したのか不明ですが、3年がかりでこの金額という事はさほど高給だったわけではない様ですね。)

上の二人は生涯独身で、ダ・ヴィンチの方は若い弟子たちを寵愛し、ミケランジェロも20代前半の若者や15歳の少年などに宛てて彼が書いた詩の文面などから、どちらも同性愛者だったのではないかと云われていますね。

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さらにもう一人の巨匠がラファエロ・サンティ(1483~1520)です。彼はフィレンツェ出身ではなく近郊の小国ウルビーノ公国出身で、主な活躍の舞台はローマでした。そのため直接にはロレンツォ率いるメディチ家とは係わってはいないのですが、フィレンツェには何度も滞在し、その間にレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を強く受けたそうです。

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彼は「聖母子の画家」と言われるほど聖母マリアと幼子イエスを描いた絵を数多く残しています。ちなみに下は彼が10歳の少年時代に描いた「自画像」だそうです。(美少年ですね。とても10歳の子供の絵とは思えません。)

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(ラファエロはダ・ヴィンチやミケランジェロと違い、ごく普通に好きな女性と恋愛したので健全です。笑 しかし残念な事に彼は短命で、37歳の若さでこの世を去っています。)

また上の3大巨匠とは別で、ロレンツォと最も親しく仲間として交際し、楽しく時を過ごしたのが下に載せたサンドロ・ボッティチェリ(1445~1510)です。

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彼の代表作は「ヴィーナスの誕生」が有名ですね。何かで見た事がある人も多いと思います。

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彼らの作品や業績についてはこんな数行ではとても語り尽くせず、また他にもこの時代に活躍した芸術家は枚挙に暇が無いのですが、それは別の機会にいずれもっと詳しく触れたいと思いますので、今回はこの程度で終わらせて頂きます。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

メディチ家の戦い ・ ローマ教皇の謀略

みなさんこんにちは。

20代の若さでフィレンツェの指導者として政治、軍事、文化の面で卓越した指導力を発揮したロレンツォ・デ・メディチでしたが、その彼に人生最大の強敵が現れます。ロレンツォがメディチ家の当主となってから2年後に即位した、時のローマ教皇シクストゥス4世です。

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上がシクストゥス4世(1414~1484)彼は教皇に即位すると徹底した縁故同族主義(ネポティズム)で自分の一族を側近に登用し、これにより本来枢機卿の選挙(コンクラーベ)で選ばれる教皇位の、言わば「世襲化」を図った人物の一人でした。ロレンツォは当初は新教皇の即位を祝い、ローマに赴きますが、教皇はフィレンツェの近くのイーモラを買収すると言い出し、その費用をメディチ銀行に負担させようとします。当然ロレンツォが断ると、教皇はメディチ家の古くからのライバルであるパッツィ家に工面を依頼し、さらに1474年には教皇の甥であるジュリアーノ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)に命じて別のウンブリア地方に傭兵を侵攻させました。

これに対しロレンツォはウンブリア近郊に6千の兵を差し向けてこれをけん制、これ以上の教皇の勢力拡大を阻止するため、ミラノ、ヴェネツィアと同盟を結びます。シクストゥス4世も南のナポリ王国と同盟し、さらにロレンツォへの報復として、メディチ家がロレンツォの曽祖父ジョバンニ・ディ・ビッチの代から独占して来た教皇庁の会計特権と教皇領内の明礬の採掘権を剥奪し、これをパッツィ家に与えてしまいました。

今度はメディチ家とパッツィ家の対立が激化しますが、フィレンツェ国内で圧倒的に有利な立場にいたロレンツォはパッツィ家の力を抑えるため様々な手段で彼らを妨害し、パッツィ家の激しい憎悪を買ってしまいます。やがてそれはロレンツォの暗殺計画に発展し、ついに1478年4月、教皇の暗黙の了解を得てそれが実行に移されました。これが「パッツィ家陰謀事件」です。

暗殺者たちはサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂のミサの席上で、出席したロレンツォとジュリアーノ兄弟を狙いました。しかし計画はあえなく失敗し、暗殺者たちは捕らえられてしまいます。この事件で幸いにもロレンツォは軽い怪我で済みましたが、弟ジュリアーノは致命傷を負って亡くなってしまいました。

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上が事件現場のサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂の正面と、暗殺されたロレンツォの実弟ジュリアーノ・デ・メディチ(1453~1478)まだ25歳の若さでした。

ロレンツォは弟ジュリアーノと大変仲が良く、最愛の弟を失った彼は激怒し、捕らえた暗殺者たちをただちに処刑して、見せしめのために市庁舎のヴェッキオ宮殿から吊るし、さらにパッツィ家当主以下一族と、陰謀に加担した関係者全ての者を処刑、逮捕、投獄し、その数は100名に登りました。こうして11世紀から続くフィレンツェきっての名門パッツィ家は断絶してしまいます。

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上は処刑された暗殺者たちが吊るされたヴェッキオ宮殿です。現在もフィレンツェ市庁舎として使用されています。

さて暗殺失敗の報を受けた事件の「黒幕」である教皇シクストゥス4世は、自分と結んでいたパッツィ家がロレンツォによって全滅させられた事に激怒し、ロレンツォとメディチ家はおろかフィレンツェ共和国そのものを「破門」してナポリ王国と組み、フィレンツェに宣戦を布告しました。これに対し、ロレンツォのフィレンツェもミラノに援軍を要請し、さらに全ヨーロッパ各国の王侯貴族に宣伝して、教皇の身勝手さと不当性を訴える外交戦を展開します。

教皇はロレンツォを追い詰めるため各方面に謀略の手を伸ばし、フィレンツェ陣営の切り崩しと離反を画策して「フィレンツェ包囲網」を形成。これによりロレンツォは窮地に立たされる事になりました。しかしここで彼の天性の政治、外交力がいかんなく発揮されます。彼は冷静に現在の状況を分析し、ローマ教皇の軍事的な後ろ立てがナポリ王国である点に注目すると、ナポリ王と直接交渉するため1479年ナポリを訪問して直談判におよびました。

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上が当時のナポリ王フェルディナンド1世(1423~1494)ロレンツォはおよそ2ヶ月滞在し、王と親交を深め、初めはロレンツォの人物を疑い様子を見ていたナポリ王も、ロレンツォの人柄と勇気に感銘し、ついに両者は和平を結ぶ事になり形勢は逆転します。(ナポリ王にとっても、教皇の勢力拡大は望ましいものではなく、さらに高齢で老い先短い教皇に味方するよりも、若いロレンツォと交流した方が今後有利と判断したのでしょう。)

ロレンツォのこの命を賭けた英雄的行為にフィレンツェ市民は歓呼し、彼はフィレンツェの「救済者」として迎えられ、「優れた政治家」としてその名声を内外にとどろかせました。しかしこれを憎らしげに見ていた人物がいます。教皇シクストゥス4世です。彼はロレンツォの活躍でナポリ王国が脱落した事によりせっかく造り上げた「包囲網」が瓦解した後も、フィレンツェに対する敵対姿勢を崩しませんでしたが、思わぬ外圧がロレンツォに味方します。1480年のオスマン帝国によるナポリ領オトラント侵攻です。

危機に陥ったナポリ王国は全イタリア各国に対イスラム共闘を呼びかけ、教皇に圧力をかけてフィレンツェとの講和を求めます。やむなく教皇はロレンツォと一時的に講和しますが、オスマン軍が退却すると1484年、再び戦争状態になります。しかし今度はナポリ王国が教皇に敵対したたために北のフィレンツェ、南のナポリに挟まれた教皇は打つ手が無くなって追い詰められました。形成が自らに有利と見たロレンツォは教皇に再度講和を求めて教皇もこれを受諾、その2年後に「稀代の謀略家」教皇シクストゥス4世が亡くなり、ようやく一連の戦乱が収束に向かいました。こうしてロレンツォは大きな代償を払いつつ、教皇との戦いに勝利したのです。

このシクストゥス4世は己が野心のために無用の戦乱を引き起こした「悪徳教皇」の一人として歴史に名を残す事になりましたが、荒れ果てていたローマの街の美化と補修、彼の名を冠したシスティーナ礼拝堂の建設や、バチカン図書館の拡充など、ルネサンスにおける彼の果たした文化面での役割は、メディチ家に引けを取らぬ大きなものでした。

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上がシスティーナ礼拝堂の有名な天井画(旧約聖書の天地創造)です。しかしこれはシクストゥス4世の死後24年も経ってからミケランジェロによって描かれたもので、創建当初は天井を天空に見立てて星空を配したシンプルなものだったそうです。そしてこのシスティーナ礼拝堂は、サン・ピエトロ大聖堂と並んでバチカンで最も人気のある観光スポットになっています。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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メディチ家の失敗 ・ 栄光の光と影

みなさんこんにちは。

ローマ教皇シクストゥス4世の仕掛けた数々の謀略をはねのけ、教皇との争いに勝利したロレンツォ・デ・メディチは、その類い稀な政治力と巧みな外交戦略、優れた文化人としてのルネサンス芸術の保護者、その豪快で明るい人柄と気前の良さで多くの人々に慕われ、また困難に挑む勇気と断固とした決断と行動、人々を引き付け魅了する天性の会話力や弁術で、生前からロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)と呼ばれ、また建前上一市民でありながらフィレンツェ共和国の全てを操る故に、「肩書きの無い君主」「豪華王」などと内外から奉られていました。

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しかし「人間」である以上完璧ではありません。そんな「偉大なる」彼にも大きな欠点というか、かなり欠落した弱い部分がありました。それは金銭感覚、つまりお金の事に関してあまりにも無頓着であったという点です。そのためそれまでヨーロッパ屈指の大富豪であったメディチ家はロレンツォの時代に大きくその財を減らし、それどころか破産寸前の状態にまで追い込まれる事になります。

それにしても、かつてあれほどの隆盛と莫大な資産を誇った彼らがなぜその様な事態にまで陥ってしまったのでしょうか?

その原因は大きく2つ挙げられます。まず1つ目はメディチ銀行の経営悪化です。そもそもメディチ家は、これまで述べて来た様に代々受け継いできた銀行業すなわち「金貸し」によって財を築いた一族であり、ロレンツォの祖父コジモ・デ・メディチの代に、コジモの卓越した経営手腕によってヨーロッパ各国に支店を開き、それらの国々の王侯貴族にまで大金を貸し出して、ヨーロッパ最大の国際銀行としてその頂点を極めました。

ところがコジモの死後、それらの王侯貴族たちへの過剰な貸付が裏目に出ます。なぜか?それは王侯たちが借りた金の返済を渋り、最終的には債務免除の要求、つまり乱暴な言い方をすれば借金を「踏み倒し」て来たからです。

普通金を貸す場合には貸し倒れに備えて土地などの「担保」を取ります。金を貸す相手が同じ商人や一市民であれば、債務不履行を理由にそれで何とか債権の回収が出来ますが、相手が絶対権力を持つ王侯貴族ともなるとそうはいきません。仮に「担保」を取っても彼らはその権力と武力でいつでもそれを取り上げる事が出来るからです。

こんな事を書くと、まるでそれらの君主たちが身勝手で横暴に聞こえますが(実際そうですが。)もちろん全ての君主たちがそうだったわけではありません。しかしメディチ家が金を貸した各国の君主たちの多くが、戦争と国内統治に明け暮れて全く余裕が無く、返したくても返せないのが実情でした。そのため元本はおろか利息すら取れず、それら「大口」の貸付がいわゆる「不良債権」となり、メディチ銀行の経営を大きく圧迫していったのです。

2つ目の理由はメディチ家の総帥であるロレンツォ自身が、先に述べた様に商売や金儲けに終生興味を示さず、その能力も無かったと言う事です。なぜならロレンツォが生まれた時、メディチ家はすでに祖父コジモの活躍により「ヨ-ロッパ屈指の大富豪」となっており、つまり彼は「金」の心配などする必要が無かった事から、商売や銀行経営などについて学ぶ機会が無く、ロレンツォが当主となってメディチ銀行がますます経営悪化していっても、彼はどうすれば良いのか分からず、祖父の代から仕える幹部たちに経営を任せきりにしていました。

ロレンツォはあくまでも「政治家」でした。彼の価値観の第一は国家の命運を左右する大勢力となったメディチ家の権力を維持、拡大しつつ、同時にいかにしてフィレンツェ共和国の国家としての繁栄を導いていくかという点にあり、金儲けだけ考えていれば良かった商人時代のメディチ家とは大きく違っていたのです。

もちろんロレンツォもメディチ銀行の危機的状況は分かっており、再建のため何度も経営建て直しの努力をしたのですが、もはやメディチ銀行はあちらこちらで火がついた状態で手が付けられず、フィレンツェの本店以外ではローマとナポリの支店を除き、全ての支店を閉鎖するまでに規模を縮小せざるを得ませんでした。

この様な状況下で資金難に陥ったロレンツォは、自分が後見人となって預かっていた分家の兄弟の資産総額5万3千フィオリーノを無断借用、(ある資料によると、1フィオリーノは現在の日本円で12万円ほどだそうですから約63億円以上になりますね。)さらにフィレンツェ国内の自らの権力を悪用し、秘かに政府の金まで横領する様になりました。(記録では約7万5千フィオリーノ、およそ90億円。ちなみにロレンツォ時代のフィレンツェ共和国の国家予算が30万フィオリーノだったそうなので4分の1も使っています。これらの金は大半が、悪化したメディチ銀行の損失補てんに費やされた様です。)

ロレンツォのこの行為は後にメディチ家にとって大きな禍根となります。特に前者の分家の兄弟たちに無断借用がばれると彼らはその返済をロレンツォに要求し、やむなくロレンツォはメディチ本家が所有するいくつかの館や土地などの不動産で弁済しますがそんなものでは到底足りず、当然その分家兄弟とは救いようの無い溝が生じ、やがてそれがロレンツォの死後、メディチ家を二つに割る争いとなります。

それにしても優れた政治家で文化人でもあった彼が、どうしてその様な「犯罪的」行為に及んでしまったのでしょうか?その理由については推測の域を出ませんが、どうやらロレンツォは自分とメディチ家が国家であるフィレンツェ共和国と絶対不可分な一体のものと考えていた様です。つまり彼曰く「フィレンツェの全ては自分とメディチ家のものだ。これまでわがメディチ家は代々フィレンツェのために尽くして来たではないか。ゆえに少々の事は許されて当然なのだ。」という錯覚に陥ってしまった事と、それまで金は持っていても一市民に過ぎなかったはずのメディチ家が、長く国政を司る内に「支配者」としての意識を持つようになり、ロレンツォも次第にそれに傾倒していった事が理由ではないかと思われます。

ロレンツォ率いるメディチ家のもとで、フィレンツェ共和国は繁栄を謳歌し、ルネサンス芸術はその絶頂期を迎えていましたが、その「光」の裏でこうした「影」の部分が存在していたのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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嵐の予感 ・ 偉大なる人の死

みなさんこんにちは。

銀行業の経営悪化によりお金に困り始めていたロレンツォでしたが、国家の指導者としての優れた政治力、外交力は終生いささかも衰える事はありませんでした。彼はこれまで述べて来た様に、フィレンツェとその周囲を取り囲む状況を冷静かつ的確に分析し、国内においてはメディチ家一党による支配体制を、対外的にはイタリア5ヵ国体制(フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、教皇国)による勢力の均衡と、間にいくつかの小国を挟む事でこれをいわゆる軍事的緩衝地帯とします。(仮に戦争となってもこれらの地で戦闘を行えば自国領土に損害が及びませんからね。犠牲になる小国にとってはたまりませんが。)

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上がロレンツォが亡くなって2年後(1494年)におけるフィレンツェと周辺各国の勢力図で、オレンジ色の部分がフィレンツェ共和国です。

さらに彼はメディチ家の将来を考えて、歴代当主で初めてとなる野望の実現に動き出します。それはメディチ家から「ローマ教皇」を輩出する事です。

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このローマ教皇の治める教皇国はキリスト教カトリックの総本山であり、全ヨーロッパにおけるその宗教的権威は絶大で、各国の君主はローマ教皇の支持の有る無しでその政策に大きく影響を与えるため、教皇庁の動向に対して過剰なまでに神経を使っていました。また教皇国はイタリア半島の中央にあってフィレンツェと国境を接しており、先にロレンツォを散々悩ませたシクストゥス4世の様な野心家の教皇が即位すると当然無用な争いの元となり、常にフィレンツェの「頭痛の種」であったのです。

そこでロレンツォはそのローマ教皇庁に自分の子孫を入れる事で、このローマ教皇国をコントロールしようと画策したのです。(つまり悪い言い方をすればメディチ家による「乗っ取り」ですね。)もしメディチ家から教皇が出れば、これまで金はあっても言わば「成り上がり者」に過ぎなかったメディチ家が、全ヨーロッパの君主たちと肩を並べる「名門」となり、同時に教皇庁の莫大な財産を手に入れる事で、困っていたメディチ銀行の状況も一気に解決するからです。

ロレンツォには3人の息子がいましたが、その中の次男ジョバンニ(当時13歳の少年でした。)を1489年ローマ教皇庁に送り込みます。そして教皇庁内の人々に巨額の買収資金をばらまいて、ジョバンニを教皇の選挙権を持つ「枢機卿」になれる様取り計らいます。念願叶って3年後の1492年、ジョバンニは史上最年少の16歳で枢機卿に就任しました。(この彼の次男ジョバンニが後の教皇レオ10世となります。さらにロレンツォはメディチ家からの教皇選出を慣例化するため、彼の甥でパッツィ家事件で死んだ弟ジュリアーノの息子ジュリオをわが子同然に育て、そのジュリオも教皇庁に送り込みました。そしてジュリオも教皇庁内で順調に昇進し、後の教皇クレメンス7世となるのです。)

このロレンツォによるメディチ家の将来を見据えた計画は実に見事でした。なぜならこの事が、彼の死後フィレンツェを追放され、茨の道を歩む事になるメディチ家を救い、やがて正式な「君主」となって再びフィレンツェに返り咲く原動力になるからです。

こうして未来の「メディチ教皇」選出の布石を打ったロレンツォでしたが、彼自身は30代後半から次第に体調を崩すようになります。特に彼の父ピエロと同じ痛風に悩まされ、各地の温泉などの湯治療法の甲斐も無く病状は悪化する一方でした。(この痛風はメディチ家代々の家病であった様で、祖父コジモ、父ピエロをはじめ歴代の当主はほとんどこれにかかっています。)

病の悪化によりロレンツォは歳を追うごとに宗教心を強めていきました。そんな最中の1490年、フィレンツェに一人の「怪僧」が現れ、人々に「終末論」を吹聴し始めます。その名は修道士サヴォナローラ。彼は極端な禁欲的修行を積んだドメニコ会所属の修道士で、ロレンツォとメディチ家による支配と、その彼らのもとで長年に亘って享楽の日々を送ってきたフィレンツェ市民を猛烈に批判し、フィレンツェに対する「神の罰」と「神をも恐れぬ悪行三昧の限り」を尽くしたロレンツォの死を予言しました。

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上が修道士ジローラモ・サヴォナローラ(1452~1498)彼はその過激な言動から教会でも「問題児」扱いされ、地方に左遷され続けて来たのですが、ロレンツォを攻撃する彼自身の指示で、フィレンツェのサン・マルコ修道院の院長に就任します。(これはロレンツォの数少ない失敗の一つでした。彼はサヴォナローラを懐柔してうまく手なずけるつもりだったようですが、正真正銘の「狂信者」であるサヴォナローラには全くそれが通用しなかったからです。)彼は多くのフィレンツェ市民の前で連日激しい説教を行い、ロレンツォとメディチ家に代表される「退廃した」生活を改めて神への信仰に立ち返るよう訴え、市民の心を掴んで急速に影響力を拡大していきました。

そんな中でロレンツォの病は次第に悪化の一途をたどり、1492年には死期の近い事が誰の目にも明らかでした。この年フィレンツェでは3月に彼の次男ジョバンニの史上最年少の枢機卿就任を祝う祭典が盛大に執り行われ、また外でははるかに歴史的な出来事「コロンブスによる新大陸発見」などがありましたが、メディチ家では一族の誰もが偉大な当主亡き後の漠然とした不安にさいなまれていました。

この時メディチ家の人々の脳裏によぎったのは、一族の繁栄を築いたロレンツォの祖父コジモの予言めいた言葉でした。そしてその予言はやがて見事に的中し、一族に降りかかって来ます。コジモはこう言ったのです。

「50年もしない内に、わがメディチ家は追放されるだろう。だが私の造った建物は残るはずだ。」

1492年4月、「ロレンツォ・イル・マニフィコ」(偉大なるロレンツォ)と市民から慕われたメディチ家当主ロレンツォは43歳の若さで亡くなりました。彼の葬儀は国を挙げて盛大に執り行われ、遺体は最愛の弟である亡きジュリアーノの眠るメディチ家代々の聖堂であるサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。(奇しくも聖堂の名が同じでした。)こうしてフィレンツェ共和国とメディチ家の「黄金時代」は、優れた政治家であり、強力な指導者だった彼を失った事で突如として終わり、以後彼らは再び嵐の様な時代の流れに激しく翻弄されて行く事になります。

次回に続きます。

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メディチ家の悪夢 ・ 屈辱のフィレンツェ追放

みなさんこんにちは。

1492年ロレンツォ・イル・マニフィコの死によって、メディチ家とフィレンツェは強力な指導者を失いました。そしてその後継者として新たにメディチ家の当主となったのは、亡きロレンツォの長男ピエロでした。(このメディチ家の人々ですが、どうも同じ名前を持つ者が多く、コジモ、ピエロ、ロレンツォ、ジョバンニ、ジュリアーノの繰り返しです。そのため区別する為にそれぞれ「あだ名」が付けられています。それを踏まえてお読みください。)

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上がロレンツォ・イル・マニフィコの長男ピエロ・デ・メディチ(1472~1503)です。彼は父イル・マニフィコと同じ20歳で当主を継承しますが、傲岸不遜な性格で教養はありましたが人望がありませんでした。

亡きイル・マニフィコにはこの長男で後継者のピエロ、次男でローマ教皇庁に送り込んだジョバンニ、そして三男で温和なジュリアーノという息子たちがおり、彼は生前から息子たちをこう評していたそうです。

「私には3人の息子がいるが、一人は愚かで一人は賢く、そしてもう一人は心優しい。」

彼はあえて名指ししていませんが、上から順番に当てはめていけばおのずと誰の事を言っているか分かりますね。息子たちそれぞれの個性を良く表現しています。いずれにしても長男ピエロは、メディチ家の当主としてもフィレンツェの指導者としても、父には遠く及ばない人でした。

ピエロは父の死後権力を継承しましたが、政治もすでに破綻寸前であった家業の銀行業も、側近や大叔父などに任せ、自らは私的な享楽に興じて日々遊び暮らし(彼が父イル・マニフィコから受け継いだ所があるとすれば、唯一この「遊び人」的な部分だけでしょう。)その自分勝手で軽率な言動がメディチ家支持の有力者の失望と反感を買い、そのためフィレンツェ市民から父のロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なロレンツォ)というあだ名と対比して、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)という有難くないあだ名を付けられています。(つまり典型的な「お坊ちゃま」育ちだった様ですね。)

彼はそれだけでなく、父イル・マニフィコがメディチ銀行の資金難のために勝手に莫大な財産を流用して仲が悪くなった分家のピエルフランチェスコ兄弟を冷遇したため、彼らとの対立がエスカレートしていきました。

そんな中の1494年9月、思いもかけない外圧がフィレンツェ共和国に襲い掛かります。フランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻です。彼はイタリア半島の南部ナポリ王国の王位継承権を主張して8万とも9万とも云われる大軍を率いて突如イタリア半島に侵攻を開始します。

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上がフランス国王シャルル8世(1470~1498)です。彼はフランス王国第4王朝に当たるヴァロワ朝第7代の王ですが、隣国スペインとの勢力争いからナポリ王国征服を狙っていました。(彼がナポリ王の継承権を主張したのは、ナポリ王国が元々は彼の王家であるヴァロワ朝の分家アンジュー家を王家としていたからですが、1442年にスペインのアラゴン王家がこれを征服し、50年以上奪われたままでした。シャルル8世はこれをスペイン王から奪い返す事に執念を燃やしていたのです。)

この危機にピエロ2世は、最初は父の代から続くナポリ王との友好関係から抗戦の準備をしますが、フランス軍が10万近い大軍である事を知るや態度を一変させ、すでにミラノを通過してフィレンツェ北部にいたシャルル8世の陣営に自ら赴いて勝手に王と交渉し、ピサとリヴォルノなどの重要な都市の領有権の放棄や多額の賠償金の支払いという悪条件を呑まされた挙句、フランス軍のフィレンツェ領通過を承諾してしまう大失態を犯します。

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いかにメディチ家の支配下にあるとはいえ、本来この様な重大な決定は共和国議会で決すべきであるのに、ピエロ2世はほぼ独断で領土の放棄や、シャルル王率いるフランス軍のフィレンツェ入城を認めてしまった事から市民は激怒し、彼がフィレンツェに戻るとメディチ家の周囲はまさに四面楚歌で非常に危険な状態でした。

身の危険を察知したピエロ2世はここに至り、ジョバンニ、ジュリアーノの二人の弟たちをはじめ、メディチ家の主だった人々と供にあるだけの財宝を持ってフィレンツェを脱出し、ボローニャへ逃亡しました。共和国政府はこのピエロ2世率いるメディチ家一党の共和国への「裏切り行為」を糾弾し、メディチ家のフィレンツェからの「永久追放」を宣言。これによりコジモ・デ・メディチ以来4代60年続いたメディチ家によるフィレンツェ支配は一旦終わります。

同年11月、シャルル8世率いるフランスの大軍はフィレンツェに無血入城を果たし、主のいなくなったメディチ家本邸を司令部とします。そしてこの時期にメディチ銀行も正式に破綻し、その負債の回収とばかりにそれまでにピエロ2世らが持ち出す暇のなかった多くの財宝が共和国政府や市民によって略奪され、残りもフランス軍が接収していきました。

こうしてヨーロッパでも指折りの大富豪であり、権勢を振るったメディチ家の支配はあっけなく崩壊し、その後彼らは十数年に亘って放浪の身に甘んじる事を余儀なくされます。このメディチ家にとっての「悪夢」は、先の当主イル・マニフィコの早過ぎた死、後継者ピエロ2世の指導能力の欠如、そして何よりシャルル王のイタリア侵攻という様々な複合原因が重なって起きたものですが、時代がそれまでのフィレンツェやミラノの様な都市国家に代表される小国乱立の均衡体制から、広大な領土を持つ絶対王政の大国同士の覇権争いにシフトしていった事も見逃せないでしょう。そしてシャルル8世のイタリア侵攻に始まる戦乱はその後160年続き、周辺十数カ国を巻き込む「イタリア戦争」と呼ばれる長期の戦争に発展していく事になります。

さてフィレンツェを追放された(実際はそれより先に逃亡していたのですが。)ピエロ2世率いるメディチ家はその後どうなったのでしょうか?

大抵の場合この種の一族はその後没落して歴史から消えていくのですが、このメディチ家という一族はそんな「ヤワ」な一族ではありませんでした。ここでめげずにしぶとく生き抜いたのがメディチ家です。彼らはこの「どん底」の時期から驚異的な力を発揮して這い上がり、やがてここから再びフィレンツェに復権を果たす事になります。


次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フィレンツェの嵐 ・ サヴォナローラの神権政治

みなさんこんにちは。

イタリアへの侵攻を開始したフランス王シャルル8世率いる大軍によってメディチ家は追放され、フィレンツェはフランス軍に占領されてしまいましたが、幸いにもそれは一時的なものでした。ナポリ攻略を急ぐシャルル8世はすぐに全軍を率いて南下し、ローマを経て一路ナポリを目指したからです。彼は1495年5月にナポリに入城、戴冠して念願のナポリ王となります。

しかしシャルル王の天下も長くは続きませんでした。フランスのイタリア介入を嫌った時のローマ教皇アレクサンデル6世の画策により、ドイツ神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、ミラノなどの諸国が同盟を結び、これらの連合軍によって包囲されたシャルル8世率いるフランス軍は、慣れない異国での戦闘に大損害を受けてフランス本国に撤退しました。

そしてこのイタリア遠征の失敗によってフランスは、シャルル8世の命により国力の限界を度外視して無理に集めた10万近い大軍の戦費のために莫大な負債を抱えてしまったそうです。(開戦の張本人シャルル8世は撤退後の1498年に28歳の若さで亡くなっています。死因はなんとうっかり部屋の鴨居に頭をぶつけた事による、失礼ながらいささか「マヌケ」なものだったそうです。)

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上はシャルル8世との戦いに勝利した時のローマ教皇アレクサンデル6世(1431~1503)です。好色、強欲な「最悪の教皇」の一人とされていますが、反面で政治力と息子チェーザレ・ボルジア(1475~1507)を右腕として教皇国の軍事的自立を目指した点で評価される部分もあります。

さてその後フィレンツェは、メディチ家追放後にそれまでメディチ家が彼らに有利に構築していた共和国の組織を廃止し、コジモ・デ・メディチの台頭によりメディチ家が実権を握った1434年以前の元の体制に戻しました。そして復活した共和制議会において、新たに権力を握ったのは「怪僧」ジローラモ・サヴォナローラ(1452~1498)でした。

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サヴォナローラ―イタリア・ルネサンスの政治と宗教

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神の代理人 (新潮文庫)

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このサヴォナローラについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は348ページで、彼について書かれた日本で読める唯一の本です。(残念ながら目下刊行されている書籍でサヴォナローラに関するものは中古品しかない様で、自分の記憶ではこれ以外の本となると、塩野七生さんの「神の代理人」が良いと思います。ただしこちらは教皇とサヴォナローラとの手紙のやり取りを塩野さん独自の視点と文体で表現したものなので、その点を踏まえてお読みください。)

彼はすでに述べて来た様に、ロレンツォ・イル・マニフィコの死の数年前から堕落した教会とフィレンツェに対する「神の罰」によって、フィレンツェに破局が訪れる事を予言し、それがメディチ家支配の崩壊とフランス軍によるフィレンツェ侵略という形で(偶然にも)的中すると、彼に対する権威とフィレンツェ市民への影響力はたちまち頂点に達します。

彼の影響力を無視出来なくなったフィレンツェ政府は彼を「政治顧問」とし、公的な地位を得たサヴォナローラは国政全般に積極的に関与し始めました。彼が目指したのはメディチ家がもたらした悪弊を打破し、開かれた共和制と真の「キリスト教」国家の樹立であり、それを全イタリアひいては全ヨーロッパに及ぼす事が彼の理想でした。

サヴォナローラは自分の理想を実現するため、メディチ時代の価値観の徹底的な否定と破壊を行います。すなわち彼の言う所、メディチ家に代表される贅沢、華美、遊興、好色、男色、芸術は全て「悪」であり、全キリスト教徒は唯一絶対の神イエスの教えに立ち返るのだというもので、言わばルネサンスを完全に否定するものでした。彼はそれを目に見えた形で市民に知らしめるため、政庁前のシニョリーア広場で多くの官能的な絵画、俗悪な書物、豪華な調度品、華美な装身具や衣類を山の様に積み上げ、盛大に「焼却」します。これによりそれまで蓄積されて来た多くの貴重なルネサンス芸術の品々が失われてしまいました。

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上は現在のシニョリーア広場です。かつてここで多くの歴史上のドラマが展開されました。

サヴォナローラのこうした過激な政策は、それまでルネサンスの担い手だった多くの芸術家や文化人にも深い傷を与え、多くの者が彼に帰依します。中でもかつてロレンツォ・イル・マニフィコの元で享楽の日々を過ごしたボッティチェリの豹変振りは痛々しいものでした。彼はそれまでの自由奔放な作風を棄てて、下の様な硬直したお堅い宗教画ばかり描く様になってしまいました。

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しかしサヴォナローラのこうした「神権政治」も長くは続きませんでした。なぜならやがて彼はローマ教皇をも批判する様になったからです。批判の対象とされた教皇アレクサンデル6世は激怒し、1497年5月に彼を「破門」します。さらに彼の教皇批判はローマ教皇庁と取引のあるフィレンツェの銀行家たちの反発を買い、彼の急激な政策によって引き起こされた様々な混乱で、サヴォナローラに対する市民の人気はたちどころに急落していきました。そして1498年5月、数々の失敗ですっかり孤立した彼は共和国政府に逮捕され、絞首刑となってしまいます。

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上はシニョリーア広場で絞首刑となり、焼かれるサヴォナローラの遺体。皮肉にも彼は自分が多くのルネサンス芸術の品々を焼いた場所で、最後に自らが焼かれる事になってしまいました。

こうしてフィレンツェを振り回した「怪僧」は最後を迎えましたが、その後のフィレンツェは名門貴族出身で、かつてロレンツォ・イル・マニフィコの支持者だったピエロ・ソデリーニ(1450~1522)によっておよそ10年間統治されます。この人物は肖像画も残っておらず、記録によると良く言えば「穏健」悪く言えば「優柔不断」という評価なのですが、激動する予測不可能なイタリア情勢の中で、フランス軍侵攻で失ったピサの再征服などを成功させ、メディチ家追放後のわずかな期間とはいえ10年の統治を維持したのはある程度の評価は出来るでしょう。そしてそのソデリーニ政権下の外交官として重要な役割を果たしたのが「君主論」で有名なニッコロ・マキャベッリ(1468~1527)です。

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このマキャベッリはフィレンツェ出身の外交官で、ソデリーニの側近として周辺諸国との対応に奔走し、その間に様々な経験を通して代表作「君主論」を書き上げました。これは感情論を排した徹底的な現実主義(リアリズム)で、君主などの指導者のあり方、国際関係、軍事、政治姿勢や国家国民への対応を説いたものです。特に彼は他国との外交交渉で軍事力の欠如から散々苦い思いを味合わされ、その結果外交官でありながら「軍事」の重要性を説き、この彼の思想は彼の名を冠して「マキャベリズム」と称され、その作品は今日でも世界中で多くの政治家や指導者層に読み継がれ、研究されています。

(わが国の政治家たちもこれをもっと研究熟読して「戦争放棄」「平和憲法」などという非現実的妄想から一刻も早く脱却し、天皇陛下を元首として主体的打撃力を持つ精強な陸海空軍を再建し、本来あるべき真の日本の国家の姿を取り戻して欲しいものです。)


次回に続きます。

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メディチ家の逆襲 ・ 栄光を取り戻せ

みなさんこんにちは。

1494年のフランス軍侵攻でメディチ家を追放し、束の間の共和制を復活させていたフィレンツェ共和国でしたが、追放されたメディチ家の人々はその後どうしていたのでしょうか?

実は彼らは混乱するイタリア各地を転々としつつ、追放される失態を招いた張本人である当主ピエロ2世を頭に一族の主力メンバーは健在でした。そしてフィレンツェ奪還の軍事行動を起こすためにその拠点をローマに置き、復権の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

ピエロ2世はまず1497年4月に手持ちの資産で傭兵部隊を集めると自ら兵を率いて最初の反撃を開始します。しかしこれはあえなく失敗し、それに懲りて今度は策を講じ、同年8月に一族の者を送り込んでフィレンツェにクーデターを起こさせようとしました。ですがこれも事前に計画が発覚し、送り込んだ反乱メンバー5人は処刑されてしまいます。(「愚か者」と言われつつピエロ2世もメディチ家復権のために一定の努力はしています。しかし残念ながら彼の打った手はその計画の稚拙さからことごとく失敗し、また時も運も彼に味方しませんでした。)

1503年10月ピエロ2世は時の教皇アレクサンデル6世の息子で教皇軍総司令官であった悪名高いチェーザレ・ボルジア(1475~1507)の軍勢と行動を供にしていましたが、その戦闘の最中にナポリ近郊のガリリャーノ川で溺死し、無念の最後を遂げました。そのためピエロ・ロ・スフォルトゥナート「不運なピエロ」というあだ名で呼ばれる事になります。いずれにしてもこれによりメディチ家当主の座は次弟であるジョバンニ・デ・メディチ枢機卿が引継ぎ、以後メディチ家復権の事業は彼によって行われる事になりました。

兄ピエロ2世の死によってメディチ家当主となったジョバンニ・デ・メディチ枢機卿ですが、彼は父イル・マニフィコの血を最も良く受け継いだ人物で、政治、政略に長け、メディチ家のDNAともいうべき芸術と文化のパトロンであり、さらに社交的で父譲りの「遊び好き」でした。

彼は父イル・マニフィコによって少年時代に「未来のメディチ教皇」となるべくローマ教皇庁に送り込まれ、イル・マニフィコが亡くなる直前に史上最年少の16歳で枢機卿に就任(イル・マニフィコは息子の枢機卿就任のために2万フィオリーノ、現在の日本円で約24億円もの買収資金を使っています。)しましたが、1494年のメディチ家追放によってフィレンツェを追われ、一族と供にヨーロッパ各国を転々としながら最終的にローマを本拠とします。(しかしかつて権勢を誇ったメディチ家の威光は今だに健在で、彼らが行く先々で大歓迎され、追放の際持ち出した財宝の一部や他国に持つ資産も巨額のものだったため、メディチ家一門の生活ぶりは何の不自由も無い豪勢なものだった様です。)

1503年に教皇アレクサンデル6世が亡くなると、次の教皇ユリウス2世の即位に尽力して重用され、側近としての地位を確かなものとします。折りしもイタリア半島はフランスの介入によって戦乱の真っ只中にあり、教皇ユリウス2世はフランスの脅威を打破するため、1511年ナポリ・スペインと同盟してこれを撃破、ジョバンニ枢機卿も教皇軍に同行して当時フランス側に付いていたフィレンツェに迫りました。

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上がメディチ家の強力なパトロンであった教皇ユリウス2世。(1443~1513)画像ではサンタクロースを思わせる優しそうな老人の印象ですが、実際はかなり気性の激しい好戦的な人物で、その辣腕ぶりから「恐るべき教皇」と呼ばれ、さらに戦争ばかりしていた事から「軍人教皇」とも呼ばれています。しかしその反面芸術や文化の力でローマ教皇庁の権威を取り戻す事に心血を注ぎ、さらに内政でも教皇庁の機構を改革して国庫収入を大幅に増大させ、その豊かな資金を背景にサン・ピエトロ寺院の新築、バチカン宮殿の大拡張などの公共事業に着手し、それらを壮麗なものとするため各方面から芸術家を集めました。そのため彼の治世からルネサンスの中心はフィレンツェからローマへと移って行く事になります。

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上の画像の一枚目が現在のサン・ピエトロ大聖堂。「サン・ピエトロ」とはキリストの最初の弟子であり、キリストの死後このローマで布教し、ローマ帝国に処刑された「聖ペテロ」の墓がここにあった事から建てられたものですが、(これゆえに聖ペテロは「初代教皇」とされ、歴代ローマ教皇がキリストの後継者を自認する根拠となっています。)実はこれは2代目で、元々は4世紀のキリスト教公認後のローマ帝国時代末期に造られたものがありました。それが2枚目の画像ですがさすがに創建から千年が経過して老朽化が激しく、また内外装とも質素で壮麗さに欠けるものでした。そこでローマ教皇庁の権威高揚のため、ユリウス2世の代に大々的な新築工事が行われたのです。3枚目は同じ目的で拡大された教皇の住むバチカン宮殿です。

1512年9月、スペイン軍を主力とする教皇軍はフランス軍を撃退すると北上し、フランス軍撤退によって無防備であったフィレンツェ政府に対し、降伏と指導者ソデリーニの追放、メディチ家の復帰を通告します。フィレンツェ政府はやむなくこれを受諾してソデリーニは亡命、ジョバンニ枢機卿は1500のスペイン軍を率いてフィレンツェに入城、先に入国していた弟ジュリアーノ、従兄弟のジュリオらと合流し、見事フィレンツェに帰還しました。

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1494年の追放以来実に18年ぶりにメディチ家は悲願のフィレンツェ復権を果たしたのです。この時の彼らの喜びはどれほどのものであった事でしょうか。

ジョバンニ枢機卿率いるメディチ家一党はフィレンツェ復権を果たすと共和国の政治行政機構をかつてのメディチ家時代の体制に戻してメディチ家支配の復活を急ぎます。そのスタイルは一族興隆の祖であるコジモ・イル・ヴェッキオの取ったいわゆる「裏からの支配」を踏襲するもので、表向きは共和制を尊重しつつ議会と政府の要職の全てをメディチ派が握るというものでしたが、さらにジョバンニ枢機卿は用心深くこれをローマから統治する事にしました。つまり重要な決定はローマで彼が行い、その指令を受けた弟たちや腹心の幹部らによってフィレンツェを支配していくというものです。

これは前回の追放の際、危うくメディチ家一門全てが根絶やしになる所だった反省から、リスクを分散する事が目的だったものと思われます。同時にフィレンツェ市内には、それまで戦時の時だけ集めていた傭兵部隊を常時駐留させて市民の動きに睨みを利かせました。これによりメディチ家の支配は以前よりはるかに強化され、以後フィレンツェではメディチ家に対する反乱を起こす事が困難になります。

こうしてフィレンツェ支配の足元を固めたジョバンニ枢機卿は復権後しばらくの間、温和な文化人で、市民にも人気のあった弟ジュリアーノをフィレンツェの表向きの指導者とし、実際は当主の自分が全てを指示するという形で統治していましたが、その矢先に教皇ユリウス2世が亡くなり、新たな教皇選挙のためローマに帰国します。そして彼は亡き父イル・マニフィコから課せられた、メディチ家の将来を左右する大きな「野望」実現のために動き出していく事になります。

次回に続きます。

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メディチ教皇の誕生 ・ 君主への道

みなさんこんにちは。

屈辱の追放から18年の時を経て、ついに念願のフィレンツェ復帰を果たしたメディチ家でしたが、当主ジョバンニ枢機卿にはまだ大きな仕事が残っていました。いや実はこれこそ本来彼が、父イル・マニフィコからその全てを捧げるよう与えられた「生涯の使命」と言ってもいいでしょう。それは自らの教皇即位です。

彼らメディチ家がフィレンツェ復帰を果たした半年後の1513年3月、教皇ユリウス2世が亡くなり、次の教皇を決める枢機卿たちの選挙(コンクラーベ)が行われる事になり、枢機卿であるジョバンニも当然それに参加すべく、弟ジュリアーノにフィレンツェを任せるとローマに戻ったのですが、実はこの時点での彼は、決して次期教皇の有力候補だったわけではありませんでした。

しかし父イル・マニフィコの代から20年以上積み上げてきた枢機卿としての経験と、父譲りの社交的で才知に富んだ性格、さらに30代後半という若さにもかかわらず病弱で健康状態があまり良くないという意外な理由から(これは即位しても長命でないという予測も重要な判断理由だったからだそうです。)急速に最有力候補として浮上し、1週間の密室協議の末ほとんど買収行為が無いという極めて稀なケースで新教皇に選出され、レオ10世として即位します。

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上が初のメディチ教皇レオ10世です。(1475~1521)メディチ家からローマ教皇を出し、ローマ教皇国を支配してメディチ家をヨーロッパの王侯と肩を並べる名門にするというロレンツォ・イル・マニフィコの計略は、20年の時を経てようやく実現したのです。この時メディチ家一門はもちろんの事、フィレンツェでもこの街で初めての教皇誕生に市民が狂喜し、お祭り騒ぎが何日も続いたそうです。

レオ10世は気性の激しい先代のユリウス2世とはまるで正反対の、柔和で社交的な享楽主義者であり、またフィレンツェの豊かな知的環境で優れた教育を受けた多彩な文化人でした。また政治、外交面でも能力を発揮しています。彼は最初はイタリア半島中央部にメディチ家を君主とする大公国を建国する事を目論んでいましたが、1515年にフランス国王となったフランソワ1世がイタリアに侵攻すると、この計画を諦めてフランソワ1世と交渉し、フランス国内の聖職者の叙任権(任命権)を譲る代わりに侵攻を止める事を認めさせます。それ以後も再三に亘りイタリア半島に手を伸ばすフランスに対し、当時のイタリア半島諸国とスペイン、神聖ローマ帝国などの勢力バランスをうまく利用し、これを何度も退けました。

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上がフランス王フランソワ1世(1494~1547)彼はヴァロワ朝第9代の王で、フランス王でありながら後にスペイン・ハプスブルク家のカール5世と神聖ローマ皇帝の座を争い敗北します。他にも多くのエピソードがあり、現在でもフランスで最も人気のある国王だそうです。

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その頃フィレンツェではレオ10世の弟で、上に載せたジュリアーノが統治していましたが、彼は元々温和な文化人であり、権力支配には向かなかったためにローマの兄の下に呼ばれ、1516年に37歳の若さで亡くなります。代わって甥のロレンツォ2世が新たな統治者となっていましたが、(このロレンツォ2世というのはレオ10世の兄だったピエロ2世の息子です。)この人は父ピエロ2世に似て傲岸不遜で権力欲の強い人物でした。

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上がロレンツォ・デ・メディチ2世(1492~1519)彼は叔父のジュリアーノとはまるで正反対の野心家で、フィレンツェの隣国ウルビーノ公国を力ずくで奪い取ると「ウルビーノ公」を名乗り、その戦いで多大の出費を負わされたフィレンツェ市民から大変嫌われます。「貴族」となった彼はその後フランス王族の娘と結婚して娘カテリーナを儲けますが、無茶が祟ったのか27歳の若さで没します。そして彼の残した娘カテリーナが、後のフランス王妃として権勢を振るい、「悪女」として名高いカトリーヌ・ド・メディシスです。

さてレオ10世に話を戻しますが、彼は政治、外交に長けているだけでなく、先に述べた様に父イル・マニフィコ譲りの大変な享楽主義者であり、そしてお金に無頓着な超浪費家という点でも父譲りでした。彼はローマをフィレンツェ以上の華麗な宮廷文化の中心とするため、ありとあらゆる遊興、音楽、演劇、舞踏会、見世物、祝祭、スポーツ、美食を尽くした宴会を催し、彼のもとにはイタリア中から銀行家、貴族、学者、芸術家、文化人などが集まり、享楽的気分に満ちた一大宮廷社会が形成されます。

また彼は芸術と文化のパトロンとしても、惜しみなく金を注ぎ込みました。彼は歴代の教皇がしてきたローマ教皇庁の権威回復の事業を引き継ぎ、多くの芸術家たちを登用します。中でもラファエロは彼のお気に入りで、バチカン宮殿を飾る壁画の多くを発注し、上に載せたレオ10世自身の肖像画もラファエロの作によるものです。

こうして湯水の様に金を使い続けた結果、ローマ教皇国は未曾有の財政危機に陥ります。彼の教皇在位はわずか8年余りでしたが、「彼は教皇3人分の収入を1人で食い潰した。」と言われ、彼が在位中に使いまくった金額は総額450万フィオリーノ、これまでに何度か述べた様に1フィオリーノが現在の日本円で約12万円ですからおよそ5400億円という巨額の浪費であったそうです。そのためそれらを補うために莫大な借金と大掛かりな聖職売買が行われ、その数は1200以上に登りました。つまり金次第でいくらでも司教とか大主教とか枢機卿などといった位を与えたのです。

そうした中で最も彼の名を(悪い意味で)有名にしたのが「免罪符」の売買でした。これは簡単に言えば「この免罪符を買えば過去に犯した罪は神の許しを得られる。」という呆れたもので、もとは十字軍の時代の戦費調達などで発案されたらしいのですが、レオ10世はこれを大量に発行して人々に買わせ、その金で遊興に耽る毎日を送ったのです。

しかしこの「免罪符」が後にローマ教皇庁はおろか、全ヨーロッパを巻き込む大戦争の引き金になろうとは、この時誰も予想だにしませんでした。そしてそれによって、メディチ家とフィレンツェの運命も大きく影響を受けていく事になるのです。

次回に続きます。

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退廃の都 ・ 悪夢のローマ略奪

みなさんこんにちは。

念願のローマ教皇に即位し、その権威と影響力で世のあらゆる栄華を欲しいままにしたレオ10世でしたが、そのあまりの散財ぶりにせっかく先代教皇ユリウス2世が蓄えたローマ教皇国の国庫はすっかり空になってしまいました。彼は故郷フィレンツェはおろか各国の銀行から莫大な借金をし、これまで歴代教皇がバチカンに飾り立ててきた絵画や家具などの調度品、金銀の食器まで「担保」に出し、それでも足らずについに手を出してはならない代物に手を伸ばします。それが「免罪符」です。

この免罪符は前回お話した様に、「これを買えば過去の罪は全て神の許しを得られ、死んでも天国にいける。」という子供じみたものでしたが、レオ10世はこれを大量に発行し、身分の上下を問わず全ての階級の人々に売り出し、その収入で遊興三昧の日々を送っていました。(まだ「科学」というものが無く、「この世の終末」や「天国と地獄」などを信じていた迷信深い中世の人々の事です。たくさんの無名の人々がこれを買い求めました。)

しかしこの免罪符に対して激しい批判を浴びせた人物がいました。ドイツの神学者マルティン・ルターです。

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上が神学者マルティン・ルター(1483~1546)彼は免罪符以前から始まっていた教会の腐敗と堕落を「95か条の論題」と称して痛烈に批判し、それがもとで始まる「宗教改革」の創始者となりました。この宗教改革は後にドイツ神聖ローマ帝国を中心として全ヨーロッパを巻き込む一連の宗教戦争へと発展し、キリスト教はカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれる事になります。(プロテスタントとは、ラテン語でカトリックに対する「抗議」という意味だそうです。)

この宗教改革の嵐は瞬く間に広がり、プロテスタント勢力によるカトリックへの攻撃にはさすがの教皇レオ10世も手を付けられず、劣勢に立たされた彼は態勢を挽回しかつこれを叩き潰すため、1521年それまで協調していたフランスと手を切り、代わって同じカトリックである神聖ローマ皇帝カール5世を味方にしてこれに対抗しますが、その矢先にもともと病弱であった彼は風邪をこじらせ、46歳でこの世を去ります。

新たな教皇としてカール5世の元家庭教師であったオランダ出身のハドリアヌス6世(1459~1523)という人物が立ちますが、厳格な学者であった彼は先代レオ10世とは対照的な堅物で、レオ10世の残した莫大な負債もあり、(レオ10世はおよそ60万フィオリーノ、現在の日本円で約720億円もの負債を残したそうです。ハドリアヌス6世にとっては大迷惑だったでしょうね。)極端な緊縮財政でローマは活気が無くなり、華やかな雰囲気は一変します。(しかしこの人物はすでに高齢であったため、わずか1年半の在位で亡くなります。)

そして1523年次の教皇として即位したのがレオ10世の従兄弟ジュリオ枢機卿です。(彼は教皇クレメンス7世として即位します。)

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上がクレメンス7世(1579~1534)彼はメディチ家2人目の教皇で、かつてパッツィ家反乱事件で暗殺されたイル・マニフィコの弟ジュリアーノの息子です。彼はレオ10世と同じくイル・マニフィコの命により少年時代にローマ教皇庁に送り込まれ、未来の教皇となるべく仕立てられた人物で、従兄弟のレオ10世とも仲が良く、彼の忠実な側近として良く仕え、枢機卿時代までは有能な実務家でしたが、いざ自分が教皇として頂点に立つと、優柔不断で決断力に欠け、結果として失政を重ねる事が多くなります。

クレメンス7世は最初は従兄弟のレオ10世の方針を踏襲し、神聖ローマ皇帝カール5世側に付いていましたが、フランス王フランソワ1世に勝利し、勢いに乗るカール5世の力があまりに強大すぎて全イタリア半島までも支配下に置く勢いであったため、これを憂慮した彼は1526年5月、反撃するフランソワ1世と、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェも合わせて同盟し、皇帝側に反旗を翻します。

CARLOS~2

上が神聖ローマ皇帝カール5世(1500~1558)ハプスブルク家出身の彼は、父からドイツ神聖ローマ帝国とネーデルランド(オランダ・ベルギー)を、母からはスペイン王国を受け継ぎ、その類い稀な軍事の才能で連戦連勝を重ね、事実上当時の全ヨーロッパ最強の皇帝でしたが、その人生はライバルのフランス、したたかな歴代のローマ教皇やプロテスタント反乱勢力、東のオスマン帝国など、次から次へと現れる敵とのいつ果てるとも知れない戦いに明け暮れる多忙なもので、晩年彼は持病の痛風と自らの広大な帝国の統治と戦争に疲れ果てて退位し、修道院に引退してしまいます。(晩年は亡き愛妻と過ごした日々の思い出だけが彼の唯一の救いだったそうです。)

さて教皇クレメンス7世の包囲網に対してカール5世はただちに反撃に転じます。皇帝はローマの貴族コロンナ家をそそのかして反乱を起こさせ、教皇のいるバチカン宮殿を散々に荒らしました。辛くもサンタンジェロ城に避難した教皇に対し、皇帝はさらに追い討ちをかけます。翌1527年5月にドイツ傭兵団とスペイン軍からなる合計2万の強力な軍団を差し向けたのです。しかしこれはカール5世の失敗でした。実は皇帝軍の主力部隊である傭兵たちの多くがカトリックを憎むプロテスタントであり、長い戦いで金も食糧も底を着いていた彼らはローマ市内になだれ込むと統制を失った暴徒と化して掠奪の限りを尽くして暴れ回りました。

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上が教皇クレメンス7世が逃げ込んだサンタンジェロ城です。「城」と言っていますが、実はこれはもとはローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスの霊廟だったものを城塞に改造したものです。

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上はローマに侵攻したドイツの傭兵たちの姿を描いた「ローマ略奪」の絵です。奪い取った掠奪品を並べて城外で一休みしている所でしょうか。

このローマ略奪はローマ帝国末期の5世紀に西ゴート族の襲撃を受けた時から数えて千年ぶりのもので、この時の虐殺によりローマ市民の死者はおよそ8千人以上に登り、市内のあらゆる建物が破壊され、財宝は奪い取られました。もちろんこの様な命令をカール5世が命じたのではありません。しかし偶発的出来事で防ぎ様が無く、後でこれを知った皇帝は大変悔やんだそうです。そしてその事態を招いた張本人である教皇クレメンス7世はこの事態に何も出来ず、半年以上もサンタンジェロ城に籠城し(というより出られないから幽閉状態です。)皇帝軍との交渉でその包囲を解く代わりに莫大な賠償金(記録では40万フィオリーノ、およそ480億円)と複数の重要都市の支配権の放棄などを認めさせられます。

このローマ略奪の知らせは各方面にトップニュースとして伝えられ、堕落した「退廃の都」ローマに恐るべき神の罰が下されたのだと人々に受け止められ、激しい衝撃を与えました。そしてこの事が、やがてフィレンツェに悲惨な戦禍をもたらす事になってしまいます。

次回に続きます。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

フィレンツェ包囲戦 ・ 共和国の終焉と公国の誕生

みなさんこんにちは。

1527年5月神聖ローマ皇帝カール5世の差し向けた傭兵主力の2万からなる皇帝軍によって引き起こされたローマ略奪で、ルネサンスの都として復活しつつあったローマは荒れ果て、皇帝に歯向かった教皇クレメンス7世は莫大な賠償金を負わされて完全に敗北してしまいました。

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上が晩年の教皇クレメンス7世。そんな傷心の教皇にさらに追い討ちをかける様に、フィレンツェから最悪の知らせが入ります。ローマ略奪からわずか10日後に、それまで押さえつけられていた反メディチ派によるクーデターが勃発し、教皇が統治を任せていた息子のアレッサンドロと亡き従兄弟ジュリアーノの息子イッポリト、さらにまだ若い彼らの補佐役として教皇が派遣していた部下のパッセリーニ枢機卿らを追放してしまったのです。

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上がアレッサンドロ・デ・メディチ(1510~1537)と下がイッポリト・デ・メディチ(1511~1535)この2人は後にフィレンツェの支配権を巡って争う事になります。

このアレッサンドロとイッポリトの2人は粗暴で我がまま、ごう慢な性格で、彼らの後見人であったパッセリーニ枢機卿も陰険かつ非情な人物として市民から大変嫌われていました。そのため反乱はこれら市民の支持を得て成功し革命政府が成立、メディチ家は1512年の復権以来15年の時を経て、再びフィレンツェを追われる事になってしまいました。

この事態に教皇はそれまでの方針を転換して皇帝カール5世との和睦を急ぎます。皇帝の強大な軍事力でフィレンツェの革命政府を叩き潰し、フィレンツェにメディチ家を世襲の君主とする公国を樹立させるためでした。

1527年9月スペインのバルセロナで皇帝カール5世と教皇クレメンス7世との間で正式な和睦が成立します。その内容は教皇は教皇国を除く全イタリア半島の皇帝の支配権を認める代わりに、皇帝はフィレンツェにおけるメディチ家の世襲支配を認め、「公爵」の位を与えるというものです。皇帝側は約事通りにフィレンツェに対して降伏とメディチ家の復帰を要求しますが、革命政府はこれを拒否、これによって教皇・皇帝同盟軍とフィレンツェ革命政府との開戦は避けられない状況となりました。

同年秋、4万からなる皇帝軍はフィレンツェを包囲、迎え撃つフィレンツェ市民軍との間で「フィレンツェ包囲戦」の幕が切って落とされました。市民軍は市内に籠城し、堅固な城壁を楯に果敢に抵抗しますが、皇帝軍はフィレンツェを完全に包囲し、兵糧攻めと攻撃を繰り返しつつ敵の疲弊を待つ持久戦を展開したため、食料の尽きたフィレンツェ側は10ヶ月の死闘の後、およそ3万の犠牲者を出して降伏します。(革命政府のメンバーは全員処刑され、反メディチ派の市民も全て永久追放となり、12世紀の自治都市成立から400年続いたフィレンツェの共和制はここに幕を閉じます。)

凄惨かつ悲惨なフィレンツェ包囲戦が終わると教皇クレメンスは息子アレッサンドロと一族の者を再びフィレンツェの統治者として送り込み、メディチ家の支配を再確立させます。そして2年後の1529年、アレッサンドロは皇帝カール5世から「フィレンツェ公」の位を与えられ、ここにメディチ家は正式に君主となり、同時にフィレンツェはそのメディチ家を君主とする「フィレンツェ公国」となりました。

激変するイタリア情勢の最中にあって、思う様な政治が出来なかった教皇クレメンス7世にとって、もはやメディチ家の安泰と繁栄を築き上げる事が唯一の望みでした。晩年の教皇はこの一事に大変執着し、皇帝家との結びつきをさらに強めるため息子アレッサンドロとカール5世の皇女マルガレーテの結婚を画策、さらに彼はフランス王家とも緊密な関係を築くため1533年10月、亡き従兄弟の先々代教皇レオ10世の姪にあたるカテリーナとフランス王フランソワ1世の第2王子アンリ(後のフランス王アンリ2世)を結婚させます。

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上がカテリーナと下がアンリ2世と婚礼を挙げるカテリーナです。彼女は後にフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)となり、夫アンリ2世の死後王子たちの後見人(事実上の摂政)として30年に亘りフランス王国に君臨する事になります。

しかしこうした教皇のなかば強引な政略に反発していた者がいました。かつて教皇の子アレッサンドロとともにフィレンツェを共同統治していたイッポリトです。彼は教皇が息子アレッサンドロを優遇してフィレンツェ公にした事に憤慨し、アレッサンドロに対して嫉妬と敵意を持っていました。

もともと軍人志望で気性の激しかった彼は、教皇がその埋め合わせに枢機卿の位を与えてもすぐに返上してしまい、やむなく教皇は対オスマン帝国の教皇軍司令官に任命していわば厄介払いしますが、1534年に教皇が亡くなると、彼はアレッサンドロの暗殺を企てて失敗、次に彼は皇帝カール5世に対してアレッサンドロの暴君ぶりを(自分の事は棚に上げて)書状で訴えるなどして世を騒がせました。

しかしすでに「フィレンツェ公」の位を与えてしまったアレッサンドロを今さらすげ替えるわけにもいかず、皇帝はイッポリトの訴えを退けて相手にしませんでした。彼は失意の内にマラリアにかかり、1535年8月に急死します。(これは当時からアレッサンドロの配下の者によって逆に毒殺されたのではないかと言う噂があった様ですが、真相は謎のままです。)

さて政治面では失政の多かった教皇クレメンス7世でしたが、メディチ家の遺伝子である芸術、文化のパトロンとしてはそれなりの功績を残しています。彼はラファエロとミケランジェロを重用し、特にミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁にあの有名な「最後の審判」を描かせた事が最大の功績でしょう。

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上がシスティーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」です。これも何かで一度は見た事がある方も多いのではないでしょうか。

クレメンス7世は他にも彼らに芸術作品を発注していますが、先々代の教皇レオ10世に始まる莫大な負債もあってローマ教皇国の財政は苦しく、あまり多くのパトロンは出来無かった様です。彼は1534年9月に56歳で亡くなりますが、予測のつかない激動のイタリア情勢の中で、ついにメディチ家をフィレンツェの君主とする事に成功し、その後に成立する「トスカーナ大公国」の君主としてさらに200年続くメディチ家の繁栄の礎を築いたのは評価出来るでしょう。しかしそのあまりのメディチ家偏重主義によって大混乱を招き、その結果ローマ略奪やフィレンツェ包囲戦などの様な大きな犠牲が出てしまった事も事実です。そのため教皇が亡くなった時、彼の死を悼む者は誰もいなかったという事です。

次回に続きます。

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トスカーナ大公国の成立 ・ 栄光の再来 1

みなさんこんにちは。

メディチ教皇クレメンス7世が1534年に亡くなると、次の教皇にはイタリア屈指の名門貴族ファルネーゼ家出身のパウルス3世(1468~1549)が即位し、メディチ家の後ろ盾はドイツ神聖ローマ帝国皇帝カール5世に移りました。

新教皇は前教皇クレメンス7世の失敗から、台頭著しいプロテスタント勢力との対話と共存の道を図ろうとしますが、厳格なカトリックの皇帝カール5世はこれを認めず、両者は(今に始まる事ではありませんが。)次第に対立して行きます。

当時のメディチ家の当主は、前回お話した様にアレッサンドロ・デ・メディチという人物で、皇帝カール5世から「フィレンツェ公」の位を与えられ、皇帝の娘マルガレーテと結婚してフィレンツェにメディチ家を世襲の君主とする「フィレンツェ公国」を樹立していましたが、生来の粗暴で放蕩な性格から周囲の反感を買い、1537年1月、一族の者によって暗殺されてしまいました。

後には彼の息子でまだ赤子のジュリオしかいなかったため、メディチ家の重臣たちは次の後継者としてメディチ分家のコジモを新たな当主として迎えます。(このメディチ分家はイル・マニフィコの時代に彼に資産を横領されたピエルフランチェスコ兄弟の子孫で、メディチ本家の横暴勝手に振り回されながら時には対立しつつも影で支えた一族でした。)

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上が初代トスカーナ大公コジモ1世(1519~1574)彼は曽祖父ロレンツォ・イル・マニフィコ以来の優れた政治、外交手腕を発揮し、さらに軍事にも秀でた有能な君主で、彼が築いたトスカーナ大公国はその後1737年のメディチ家断絶まで200年間揺らぐ事なく続きました。

実はこの時メディチ家の重臣たちは、まだ若い彼を名目上の当主とし、実権は自分たちが握るつもりでいた様です。しかし彼らのこの思惑は早々に打ち砕かれてしまいます。それは彼らにとって予想外だった事にコジモ1世はとても有能で強固な意志と断固たる決断力を備えた英邁な君主であったからでした。

コジモ1世は当主となると、まずメディチ家に対する反対勢力を撃破します。そして捕らえた反対勢力の指導者たちを容赦なく全員処刑して反対派への見せしめとします。(人々はこれに恐怖し、以後反対勢力はすっかり鳴りを潜めてしまいます。)

コジモ1世のこの勝利をメディチ家の後援者である神聖ローマ皇帝カール5世は高く評価し、第2代フィレンツェ公コジモ1世として彼を認め、こうして彼は名実ともに君主としての地位を確立しました。その後彼は1539年、皇帝の勧めでスペインの大貴族トレド公の公女エレオノーラと結婚し、皇帝とスペイン両方との緊密な関係を構築します。

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上がコジモ1世の公妃エレオノーラ(1519~1562)画像からも分かる様に清楚な美人だった彼女はコジモ1世との間になんと11人もの子に恵まれ、夫コジモ1世も喜怒哀楽が激しい所はありましたが良き夫であり、家庭生活は幸福でしたが晩年は体調を崩し、愛妻家であった彼は妻のためにピッティ宮殿を買い取って住まいとしたり、ピサに静養させたりと大変気遣ったそうです。しかしその甲斐なく彼女は43歳の若さでマラリアで亡くなります。

コジモ1世はその後自らの権力基盤を固めるため、それまでフィレンツェ市内に分散していた各官庁を集め、市庁舎であるヴェッキオ宮殿の隣に新たな統合官庁を設置しました。これはパラッツォ・デリ・ウフィツィ(諸官庁)と呼ばれ、今日の「オフィス」の語源になったと言われています。

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上がそのウフィツイとその内部(後方に市庁舎であるヴェッキオ宮殿が見えます。)現在はメディチ家が収集した美術コレクションを展示するウフィツィ美術館となっています。コジモ1世がここに官庁を集約したのは国家行政の効率的な運営のために中央集権化を図る事と、国政に携わる有力者を一ヶ所に集めて厳重な監視下に置く事が目的でした。

コジモ1世はさらに秘密警察の監視網を網の目の様に張り巡らせ、メディチ家に敵対する者は容赦なく逮捕、投獄し、市内にはおよそ3万からなる傭兵主力の「常備軍」を常時駐留させる事で、反体制派の動きを封じ、また国内外のいかなる変事にも対応出来る様「臨戦態勢」で待機させました。

こうして国内を固めたコジモ1世は、1554年にフィレンツェの南にあって長年の宿敵であったシエナ共和国に侵攻し、長い戦いの末3年後の1557年にこれを征服します。これによって約400年続いたシエナ共和国は滅亡し、以後トスカーナ大公国の一部となりました。

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上が現在のシエナ市街(人口は約5万3千)今は世界遺産の静かな田舎町です。

コジモ1世はシエナを手に入れると、1562年にフィレンツェの歴史で初めてとなる「海軍」を創設しました。これは対オスマン帝国への防衛を名目として造られた16隻のガレー軍船からなるもので、後にこの艦隊は1571年のオスマン帝国艦隊と西欧連合艦隊との海上決戦となる有名な「レパントの海戦」にも参加して戦功を挙げる事になります。

こうしたコジモ1世のしたたかな勢力拡大政策に、これまで彼を支援していた神聖ローマ皇帝カール5世と、その息子でスペイン王のフェリペ2世は警戒心を募らせ、何度かその動きを封じ込めるために軍を動員してけん制していますが、コジモ1世は皇帝たちの弱点であるフランスやプロテスタント勢力、ローマ教皇などの力関係をたくみに利用して独立を維持していきました。

1569年、時の教皇ピウス5世はスペイン王フェリペ2世らを説得し、コジモ1世に「トスカーナ大公」の位を授ける事を了承させ、ここに彼は改めてトスカーナ大公コジモ1世となり、同時にフィレンツェ公国は併合したシエナを合わせ、人口70万の「トスカーナ大公国」として生まれ変わる事になりました。(この大公の位はイタリアではそれまで前例が無く、皇帝カール5世やフェリペ2世も長い間それを認めませんでしたが、カール5世の死後11年を経てようやく認められる様になったそうです。)

こうしてメディチ家はコジモ1世のもとで再びフィレンツェに栄光の時代を再現していく事になります。

次回に続きます。

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トスカーナ大公国の成立 ・ 栄光の再来 2

みなさんこんにちは。

初代トスカーナ大公となったコジモ1世ですが、彼は政治、外交、軍事だけでなく、もちろんメディチ家の当主として芸術や文化を手厚く保護しました。彼の命によって多くの教会、修道院、聖堂が建てられ、または既存のそれらに対して拡充がなされ、その内部は多くの絵画や彫刻で飾り立てられました。しかし徹底したリアリスト(現実主義者)であったコジモ1世は芸術や文化を楽しむために保護したのではなく、彼自身の宮廷とメディチ家の栄光を内外にアピールするための「道具」として利用したという方が正しいかもしれません。

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大公コジモ1世は歴代のメディチ家当主のみならず、過去に存在したイタリアの君主の中でも最も自己宣伝の多かった人物で、数え切れないほど多くの自分の肖像画を描かせ、各国の君主や有力者、臣下の者たちに配り、徹底的にこれらを政治利用しています。

彼の治世ルネサンスの3大巨匠の内の2人、レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロはすでにこの世に無く、唯一ミケランジェロだけが存命でしたが(ミケランジェロは1564年に88歳という長寿で亡くなります。)彼はメディチ家支配のフィレンツェを離れて晩年はローマで活動したため、コジモ1世はフィレンツェ在住のあらゆる芸術家を集めてこれらに当たらせました。

その中で最も大公の信任厚い芸術家だったのがジョルジュ・ヴァザーリ(1511~1574)です。

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上がジョルジュ・ヴァザーリ。彼は前回お話したウフィツイ宮殿の造営をはじめ、それ以外に大公が命じたほとんどの芸術、文化政策に携わった中心人物でした。また彼はルネサンス期の芸術家たち133人の活躍と生涯を一冊の本にまとめ、「芸術家列伝」として出版しています。

コジモ1世はフィレンツェをメディチ家の宮廷にふさわしい街にするため大規模な都市改造事業を行います。先のウフィツイ宮殿をはじめ、政治を行うヴェッキオ宮殿、病気がちの公妃エレオノーラのために後年移り住んだピッティ宮殿の増築、さらにそのピッティ宮殿から政庁のあるヴェッキオ宮殿までのおよそ1キロ余りをアルノ川にかけられたヴェッキオ橋を通して一つの通路で結び、大公以下メディチ家一族が護衛無しに2つの宮殿を往復出来る「空中回廊」を設けました。(これもヴァザーリの手によって造られ、「ヴァザーリの回廊」として現在も残っています。)

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上の1枚目がピッティ宮殿で2枚目がヴァザーリの回廊です。宮殿の後ろからアルノ川にかかるヴェッキオ橋を通って一つの通路で結ばれているのがお分かりいただけると思います。(しかし画像をご覧になれば分かると思うのですが、これ橋の橋脚にかなり負担がかかると思うのですが構造上大丈夫なんでしょうか?いずれにしても建造から450年以上経った今日まで持っているのは凄いですね。)3枚目は現在の回廊内部でこれも絵画美術館となっています。

コジモ1世は自らの宮廷を飾り立てるばかりでなく、市民生活の向上のため多くの公共事業を手がけています。市民の生活に欠かせない食材を大量に売り買い出来る市場(マーケット)を各所に設け、街の中央を流れるアルノ川にいくつもの橋を造って交通の不便を軽減し、流通と商売の活性化を図りました。またシエナを併合して国土も人口も倍増した事から、それまでのフィレンツェ中心の経済政策を改め、トスカーナ全体の利益を考えた経済政策を打ち出します。具体的にはトスカーナ全土の農業の振興、鉱物資源の採掘、毛織物産業の増産などで、これによって都市人口は停滞しましたが、代わりに農村部の人口が増えていきました。

大公のこうした政策によって、それまで商人の街であったフィレンツェはメディチ家の栄華を体現した宮廷都市へと変貌をとげ、今日見られるフィレンツェの姿が形作られる事になったのです。

コジモ1世の都市改造事業は、後継者である息子フランチェスコと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョバンナ・ダウストリアとの結婚に合わせて急ピッチで進められ、彼らの婚礼は1565年12月にメディチ家の威信をかけて盛大に執り行われました。なぜならこのハプスブルク家とメディチ家の婚礼は、元は金貸しから成り上がった銀行家出身のメディチ家が、正式にヨーロッパの王侯君主の仲間入りを果たした事を内外に知らしめる絶好の宣伝であったからです。

しかし対外的には栄光に包まれていた大公コジモ1世の晩年は不幸の連続でした。彼は前回お話した公妃エレオノーラとの間に11人の子を儲けますが、その大半が10代なかばで夭折か不幸な死をとげ。成人したのは長男フランチェスコと四男フェルディナンドだけでした。(この2人は後にそれぞれ大公位を継承します。)

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中でも最も大公を打ちのめしたのは上に載せた最愛の公妃エレオノーラの死でした。年を経るごとに病弱になっていった彼女は1562年に静養先のピサで43歳で亡くなりますが、政略結婚ではあったものの珍しく相思相愛の夫婦だったため、この時の大公の悲しみは計り知れず、この事が大変な精神的打撃となってしまいます。

1564年大公は長男フランチェスコを摂政に任じ、政務の大半を任せますが、これによって余暇の多くなった大公はそれまで謹厳実直で公務に明け暮れる毎日だった生活から一変し、乱れた女性関係を持つ様になってしまいます。2人の女性と関係を持ち、それぞれに子を産ませると、相続の混乱からそれを諌めた家臣を激情に駆られて自ら斬り殺してしまうなど、常軌を逸した行動に走る様になります。

さらに悲惨だったのは1567年、48歳の時に卒中で倒れ、意識は回復したものの半身不随になってしまい、話す事も不自由になって心身の衰弱と精神的退行が進んでしまった事でした。(側近の記録では子供の様にわめいたり泣き叫び、かと思えば大笑いしたりふさぎ込んだりと、とても手の付けられない状態だったそうです。)

幸いな事に大公国の政治行政は、壮健であった頃の大公が築き上げた統治システムがうまく機能しており、メディチ家の他の一族や家臣たちはこれを基に国家運営を行えたので、すでに引退同然の大公がその様な状態でも支障は無かった様ですが、かつてあれほど人々を恐れさせ、また畏敬の対象であった名君の変わり果てた姿に、周囲の人々はさぞ驚き、また哀れんだ事でしょう。

1574年4月、晩年の7年余りを除き、およそ30年に亘ってフィレンツェに君臨した功罪多き初代トスカーナ大公コジモ1世は55歳でこの世を去りました。葬儀は彼が「父」と慕った神聖ローマ皇帝カール5世の葬儀に倣い、メディチ家中興の祖としてメディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂で荘厳に執り行われたそうです。

次回に続きます。

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黄金の国の少年たち ・ 変わり者大公と天正少年使節

みなさんこんにちは。

1574年、トスカーナ大公国を築いた初代大公コジモ1世が亡くなると、次の大公には長男のフランチェスコ1世が即位しました。しかし残念ながら彼は父コジモ1世とは全く対照的で、国の統治者としては明らかに不向きな人物でした。

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上が第2代トスカーナ大公フランチェスコ・デ・メディチ1世(1541~1587)彼は即位当時33歳の立派な大人で、父コジモ1世から摂政に任じられて政務の大半を委譲され、10年のキャリアがありましたが、陰気で気まぐれな上に自己中心的で責任感に乏しく、さらにそもそも政治に関心がありませんでした。父コジモ1世は後継者である息子の多すぎる欠点を心配し、彼に早くから摂政職を任せたのもこれらの欠点を少しでも解消し、次期大公としてふさわしい人物として国政を任せられる様にする事を願っての事でしたが、残念ながら全く効果が無かった様です。

そのためフランチェスコ1世がトスカーナ大公として在位した13年間に彼が大公として果たした政治的、外交的成果はほとんど無く、内政も外交も父コジモ1世が生前作り上げていた官僚機構(ビューロクラート)によってつつがなく運営されていました。

フランチェスコ1世は名門ハプスブルク家からジョバンナ・ダウストリアを大公妃として迎えていましたが、やがて愛人ビアンカ・カペッロと不倫に走り、1579年にジョバンナ大公妃が亡くなるとビアンカと再婚して彼女を大公妃にするなど勝手気ままに振舞い、さらに当時流行していた錬金術(「れんきんじゅつ」これは鉛から金を作り出そうという浅ましくも幼稚な発想から当時流行し、盛んに「実験」と「研究」が行なわれていました。もちろんそんな事が出来ようはずも無くやがて飽きられますが、意外にもこの時の「実験」などが、やがて近代化学の基礎を成す事になり、産業革命と科学文明の発展につながって行きます。)に熱中し、いかがわしい「研究」に没頭する様になります。

そんな「変わり者」の大公と贅沢好きな大公妃ビアンカに対し、周囲の者や市民たちも呆れ果て、そして1587年、大公夫妻は別荘に滞在中マラリアに感染して2人とも急死してしまいました。(これは当時市民の間で「大公は道楽の錬金術で作った「不老長寿の薬」を夫婦で飲んで死んでしまったのだ。」などという噂が流れたそうです。)

さて良い所が無かった変わり者大公フランチェスコ1世ですが、彼は意外にも日本と接点があります。それは当時戦国時代後期であったわが国において、すでに日本に来航していたポルトガルの宣教師らの発案で、九州のキリシタン大名たちがヨーロッパに派遣した「天正遣欧少年使節」の4人の少年たちが、ローマに向かう途中でトスカーナに立ち寄った際に、彼らをピサの宮廷に招いて舞踏会を催し、フィレンツェでヴェッキオ宮殿に宿泊させるなど、少年たちを手厚くもてなしているのです。

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この天正少年使節について詳しくお知りになりたい方は、上の若桑みどりさんの本が良書です。上・下巻両巻500ページを越える大作で、使節団について書かれた日本で最も詳細な本です。

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上が歴史の教科書などで良く知られた「天正少年使節」を描いた絵です。(右上の王冠を手にしているのがリーダーの伊東マンショ、左上が中浦ジュリアン、右下が千々石ミゲル、左下が原マルチノです。中央の黒い服装の人物は同行した通訳の宣教師だそうです。)記録では彼らは1582年2月に長崎を出発し、3年後の1585年3月にトスカーナのピサに入っています。出発当時12,3歳だったそうですからトスカーナを訪れた時は15,6歳になっていますね。

この天正少年使節の4人の少年たちは、後の幕末戊辰戦争の時の「会津白虎隊」の少年たちと並んで、歴史好きな女性の方々や漫画家さんなどの間でとても人気がある様ですね。現代のアイドルの少年たちが舞台や芝居で演じている事も多い様です。検索すると漫画やイラストなどではさらさらの黒髪を結った「美貌の少年」というイメージで描かれていますが、実際は上の絵を見ると坊主頭だった様です。しかし無邪気な笑みを浮かべて慣れないぶかぶかの派手な洋服を着た彼らの姿は可愛らしいですね。

しかしこの無邪気な少年たちが、知られている限りでは日本史上初めてヨーロッパを訪れた日本人なのですから驚きです。ただ彼らも普通の少年ではなく全員が九州の名門の武家の出身であり、選りすぐりの優秀な少年たちで、同行した宣教師らによって言葉はもちろん西洋のマナーや習慣を教育された「小さな紳士」たちでした。記録ではこの時最年長のリーダーであった伊東マンショがピサの宮廷での舞踏会で、大公妃ビアンカとダンスまでしています。何度も間違え、普通なら大笑いされる様な場面だったそうですが、一生懸命役目を務めようとする彼のひたむきさに大公以下宮廷の人々はとても感銘を受けたそうです。

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この少年使節は目的地であるローマに向かう途上、フィレンツェやピサだけでなく上の図の様に数多くの都市を訪問していますが、使節のニュースはグーテンベルクの活版印刷の普及により大量に刷られた印刷物で盛んに宣伝され、当時のヨーロッパの人々は遠い地の果ての「黄金の国」ジパングからやって来た彼らに興味深々でした。そのため少年たちはどこに行っても行く先々で疲れるくらいに大歓迎され、彼らは嬉しい反面で、まだ少年に過ぎない自分たちがなぜこれほど歓迎されるのか訳が分からなかった様です。

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フィレンツェを後にした少年使節はその2週間後に最終目的地ローマに到着し、バチカンで時の教皇グレゴリウス13世(1502~1585)の謁見を賜ります。(上がその時の様子を描いた絵です。)教皇は大喜びで彼らを迎え、長い旅路の労をねぎらいました。すでに高齢であった教皇はこの2週間余り後に亡くなりますが、最後まで少年たちの事を心配していたそうです。

彼らはその後帰国の途に着き、さらに5年の月日を経て1590年に日本に帰国します。出発時まだ少年であった彼らも20歳前後の立派な若者に成長していましたが、その後の彼らには過酷な運命が待ち受けていました。天下はすでに豊臣秀吉によって統一されており、秀吉の発したバテレン追放令や徳川幕府によるキリシタン弾圧によって日本に彼らの居場所はもう無かったのです。そして4人の若者は伊東マンショが病で早世し、千々石ミゲルが現実に絶望して棄教、中浦ジュリアンが処刑により殉教、原マルチノがマカオに追放と、それぞれ全く違った運命をたどる事になり、歴史の中に消えていきました。

彼らの最後は悲しく哀れなものでしたが、その彼らの人生において、使節として派遣されたこのヨーロッパ訪問の長い旅の時代がまぎれもなく最も楽しい幸せな至福の時だったでしょう。個人的には帰国などせず、あのままヨーロッパに留まって聖職者になっていれば幸福な人生を送れたのではないかと悔やまれてなりません。そしてその彼らの人生の最も幸福な時代に、ほんのわずかな間ですがメディチ家とフィレンツェも関わっているのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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最後の名君 ・ 最後の繁栄

みなさんこんにちは。

変わり者大公フランチェスコ1世の急死によって、トスカーナ大公国では次の大公を急ぎ即位させる必要がありましたが、前大公の子は娘ばかりであり、初代大公コジモ1世の子らはほとんど若くして早世したため、メディチ家内には、その長男である前大公フランチェスコ1世以外で大公位を継承出来る成人男子は、その弟で枢機卿であった五男のフェルディナンドだけでした。

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上が枢機卿時代のフェルディナンド。そのため彼は時の教皇シクストゥス5世に願い出て枢機卿位を返上し、1588年にトスカーナ大公として正式に即位しました。

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そしてこれが第3代トスカーナ大公となったフェルディナンド・デ・メディチ1世です。(1549~1609)彼は15歳でローマ教皇庁に入り、過去にレオ10世、クレメンス7世と続き、すでにメディチ家の伝統になっていた枢機卿から未来の教皇へという道を歩んでいましたが、メディチ大公家の血脈を絶やさないために大公位を継ぎました。

彼は内向的で政治に無関心だった兄フランチェスコ1世とは全く正反対の外交的で積極的な人間味と温情あふれる性格で、大柄で堂々たる体格から市民にも人気を博し、そして何より明敏な政治、外交感覚を備え、また有能な実務家として行政面でも能力を発揮し、父コジモ1世の優れた部分を全て受け継いだ最も統治者にふさわしい人物でした。

新大公フェルディナンド1世は、兄の時代に低迷したトスカーナの国威を挙げるため様々な積極政策を次々と打ち出します。そのための第一段階として、彼はまず国内経済の建て直しから取り掛かります。当時トスカーナは彼の父コジモ1世の産業振興政策の成功の後、フランチェスコ1世の無為無策のために再び経済が悪化し、人民の多くが貧しさにあえいでいました。この国家経済と国内産業の建て直しを進め、富を増やして国庫収入の増大と国内経済の安定を図る事が急務でした。(つまり何をするにもまずは「金」が無くてはならなかったという事でしょう。)

彼はトスカーナの古くからの重要産業である毛織物産業の拡大とともに、新規産業として絹織物産業を育成し、さらに農地開墾と干拓事業で新たに広大な農地を作って農産物の増産に努めました。これらの地には裕福な貴族や商人たちがこぞって進出し、大農園を経営する「大地主」となり、貧しい人々を「小作人」として雇って次々と郊外に別荘や屋敷を建てていきました。(他にも塩田、鉄鉱の開発も手堅く進めています。)

フェルディナンド1世はこうして作った国内の産物を売りさばくため、自ら各国に出かけて外遊先でトップセールスを展開します。(そのあまりの熱心さに「商人大公」などと云われたそうです。)トスカーナ国内の貴族や商人たちもそれに倣って各地に販路を広げ、国際貿易が盛んに行われていきました。この時の一連の外遊で経済産業と流通の活性化を痛感した彼は、大量の商品のやり取りを自由に出来る様にそれまでのピサに代わり、新たにリヴォルノを自由貿易港として開放し、あらゆる国々の商人に対して25年間の関税免除を実行しました。

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上が現在のリヴォルノ。人口は14万8千ほどで、今も当時の面影を偲ばせる活気あふれる港町です。

これによってリヴォルノにはヨーロッパ各地はおろか、オスマン帝国支配下の地中海沿岸からも多くの商人が集まり、これらの国々の領事館が置かれて国際貿易港として発展しました。こうした大公の一連の経済政策によってトスカーナの経済は大きく向上し、国庫収入は大きく増加しました。記録によればメディチ家がトスカーナ大公となる1569年頃までのフィレンツェの国庫収入は30万フィオリーノ前後(現在の価値でおよそ360億円)であったのに対し、フェルディナンド1世が亡くなる1609年時点のトスカーナの国庫収入は140万フィオリーノ(同じくおよそ1680億円)という驚異的な数字であったそうです。

外交面では、父の代から続くスペイン・ハプスブルク家一辺倒の政策を転換します。特に1588年にスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に敗北すると、それに乗じてフランス王家に急接近し、1589年に自らの妃としてフランス王アンリ2世の孫娘に当たるクリスティーヌ・ド・ロレーヌ(1565~1637)を迎え、さらに1600年には姪に当たるマリー・ド・メディシスをフランス王妃として嫁がせました。これによってフランスの後ろ盾を得たフェルディナンド1世はそれまで頭が上がらなかったスペインに対して、トスカーナの外交的自立を得る事に成功します。

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上がフランス王妃マリ-・ド・メディシス(1575~1642)彼女はフランス王アンリ4世の妃としてなんと60万フィオリーノ(約720億円)という前代未聞の莫大な持参金付きでフランス王家に嫁ぎました。しかしこれは完全な政略結婚で、当時フランスは財政難にあえいでおり、アンリ4世にとってはこの持参金が目当てでしかありませんでした。そのため嫁いだフランスで彼女は寂しさから贅沢と浪費に走り、さらに生涯に50人もの愛人と関係を持ち、恋多くもスキャンダラスな生活を送る反面、金と権力の道具に使われるという哀れな生涯をたどった女性でした。

フェルディナンド1世はこうした優れた君主であると同時に、派手好きな浪費家でもあり、メディチ家の伝統である芸術と文化のパトロンとして歴代の当主同様惜しみなく金を注ぎ込みました。大公がそれだけの金をどうやって得ていたかと疑問に思われるでしょうが、共和制だった頃と違ってこの時代のメディチ家はフィレンツェを中心とするトスカーナ大公国の絶対君主として国家と一体となっており、メディチ家の財産はそれすなわち国庫そのもので、国家の全ての金を自由に使えた事が大きな理由でしょう。

そしてフェルディナンド1世はそのあり余る金で自分とメディチ家の栄光と栄華をあらゆる形で具現化し、金と宝石、光り輝く様々なモニュメントでメディチ王朝を好きなだけ飾り立てていく事が出来たのです。その詳細については、これまでの当主がして来た事の拡大と踏襲に尽きるので省きますが、彼の治世がメディチ家とフィレンツェの栄光と繁栄の最後の輝きを放った時代でした。

しかし最後の名君であった彼の死後、残念ながらメディチ家には傑出した人物がついに現れず、また大航海時代の到来で世界の中心はイタリア半島のある地中海から、広大な領土と人口を持つ西ヨーロッパ諸国へと移り、もはや都市国家レベルで覇を競う時代ではなくなっていました。こうした大きな世界の流れの中で、メディチ家とフィレンツェは緩やかに衰退と忘却の道を歩んでいく事になるのです。

次回に続きます。

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斜陽の都 ・ 沈み行くメディチ家

みなさんこんにちは。

メディチ家とフィレンツェにとって最後の名君であったフェルディナンド1世が1609年に亡くなると、その後には19歳の長男コジモ2世が大公位を継承しましたが、彼は病弱であったため、国事はフランス王家出身の大公母クリスティーナと、ハプスブルク家から迎えた大公妃マリア・マッダレーナが取り仕切っていました。

しかしこの2人はいわゆる典型的な「嫁と姑」の間柄であり、当然ながら仲が悪く、何かといえば張り合う「女の戦い」の中で、トスカーナの国政はそれに振り回されつつも何とか安定を保っていました。

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上が第4代トスカーナ大公コジモ・デ・メディチ2世(1590~1621)彼は実母と公妃に終生頭が上がらず、その上短命で在位は12年ほどでしたが、性格は温厚で教養も豊かであり、国政よりも芸術と科学のパトロンとして貢献しました。

この時代、トスカーナ大公国は前大公フェルディナンド1世の強力なリーダーシップによって再興した経済発展の諸政策がまだ功を奏していたのですが、彼の死後年数を経る内にそれらも息切れし始め、やがて全ての産業は停滞、コジモ2世の即位から10年目には再びトスカーナの経済は下降線をたどり始めます。

学問好きのコジモ2世は特に科学に大変な興味を示し、彼がパトロンとなった人物で最も有名なのが「天文学の父」と称される天文学者ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)です。

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上がガリレオ・ガリレイ。この人の名は一般的な知識として大抵の方はご存知と思います。望遠鏡で宇宙を観測して多くの星を発見し、この地上は全能の神が創った宇宙の中心であって、全ての星はその地上を中心として周っているとする「天動説」を否定し、この地上も宇宙の一つの星に過ぎないとする「地動説」を唱え、当時のローマカトリック教会から「異端者」として何度も裁判にかけられた人です。他にもピサの斜塔から重さの違う2個の玉を落として「落下の法則」を実験したエピソード(これは彼の弟子の創作らしいですが。)が有名ですね。また「振り子の法則」も発見して、それを基に振り子時計が発明されたそうです。

コジモ2世は病弱だった割には公妃との間に8人もの子を成し、1621年31歳の若さで亡くなりますが、彼の死をもって、それまでどちらかと言えば多産であったメディチ家の繁殖力も次第に弱くなっていきます。

コジモ2世の死後はその長男フェルディナンド2世、さらにその死後はその子コジモ3世が即位します。彼らの在位はフェルディナンド2世が50年、コジモ3世が53年と親子合わせてなんと103年という長期間に及びますが、この長い間にトスカーナの国際的な地位は著しく衰え、経済は疲弊し、市民は飢えと重税に苦しみ、かつてルネサンスの花開いた華麗な「花の都」フィレンツェは、貧民と乞食のあふれる寂しい田舎町に成り果てていきました。

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上がメディチ家最長の在位だったフェルディナンド2世(1610~1670)と下がコジモ3世(1642~1723)親子。しかし彼らがその長い在位期間にフィレンツェとトスカーナに果たした役割は私的な芸術と文化のパトロンとなった程度であり、政治、経済、軍事、外交においては見るべきものはほとんどなく、彼らの長い治世はメディチ家とフィレンツェの長い衰退と没落の時代でもありました。

さらにこの時期、フィレンツェとトスカーナの君主であるメディチ家にも、彼らがそれまで経験した事のない「大きな危機」が訪れていました。それはメディチ家自体の家系の断絶です。

メディチ家がこの様な危機に立ち至った原因は大きく2つあります。1つは歴代大公と妻である大公妃との間に生まれた子が少なかった事です。先に少し述べた様に、第4代大公コジモ2世は8人もの子に恵まれた子だくさんでしたが、彼の後を継いだ5代大公フェルディナンド2世には男子は一人しか生まれず、その唯一の男子で後継者の6代大公コジモ3世も後継男子は2人しかいませんでした。

もう1つの理由はその6代大公コジモ3世の2人の息子たちがどちらも同性愛者であったために子供が生まれず、彼ら以外の他のメディチ家の一族もすでに死に絶えてしまっていた事です。

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コジモ3世の2人の息子。上が兄のフェルディナンド(1670~1713)で下が弟ジャン・ガストーネ(1671~1737)兄フェルディナンドは音楽を愛する才気にあふれた人物でしたが、男色相手、特にカストラートと呼ばれる複数の去勢された少年歌手(変声期前のボーイソプラノを維持するために性器を切り取られた少年)との情事を重ねる内に性病にかかって亡くなり、弟ジャン・ガストーネも同様に男色と酒びたりの日々を送る自堕落な人物でした。

(余談になりますが、上の肖像画のコジモ3世以下息子たちは、3人ともとても派手な長いもじゃもじゃ頭をしています。しかしこれは自毛ではなく「かつら」です。元はどうやら「太陽王」と呼ばれたフランス王ルイ14世が、小柄だった身長を少しでも大きく見せるためにかぶっていた物で、かのヴェルサイユ宮殿でそれを見ていた貴族たちが「マネ」してかぶりだしたのが始まりの様で、やがて全ヨーロッパで大流行し、17世紀後半から18世紀末までの約100年もの間、王侯貴族などの上流階級や裕福な資産家たちのおしゃれのステイタスになりました。)


この様な非常に「特殊」な状況であったため、もはやメディチ家の家系の存続が絶えるのは時間の問題となりつつあったのです。この問題はメディチ家がいかに財を誇ってもどうにもならない問題でした。そしてこの問題に起因するメディチ家最後の時は、もう目の前にまで近づいていました。

次回に続きます。

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メディチ家の最後 ・ 永遠の美の都へ

みなさんこんにちは。

第6代トスカーナ大公コジモ3世が全ての後継者の望みを絶たれ、メディチ家の避けられぬ消滅を嘆きつつ1723年に81歳の歴代最長寿で亡くなると、大公位を継承したのはその次男であるジャン・ガストーネでした。前回もお話した様に長男の兄フェルディナンドは同性愛者であり、バイエルン選帝侯の娘と形ばかりの結婚はしたものの、子孫を残さずにすでに亡くなっていたため、もうメディチ家には彼しか後継男子がいなかったからです。

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上が第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチ(1671~1737)しかし即位の時すでに彼は52歳になっており、これも前回触れた様に、彼も兄フェルディナンド同様男色家であり、父コジモ3世の命令で、1697年ドイツ北部ザクセンのラウエンブルク公爵の娘アンナ・マリアと結婚はしていたものの、当然子供は出来ませんでした。

住み慣れた温暖な故郷フィレンツェから遠く離れたボヘミア近郊のライヒシュタットという田舎町の陰気な山城で、口やかましく横柄で魅力に乏しい妻と暮らす羽目になった彼は、その頃から人生に無気力になり、寵愛する若い家臣ジュリアーノ・ダーミと密かな男色やギャンブルに耽り、時折プラハやパリに遊びに出かけては放蕩三昧を繰り返すが、それ以外では酒におぼれるだけの毎日を送っていました。

そんな生活が10年も続き、いたずらに年を重ねる事に耐えかねた彼は、1708年頑迷な妻を置いてわびしいライヒシュタットを飛び出し、お気に入りの家臣ダーミとともに故郷フィレンツェに戻って来ます。しかし彼の帰国は父コジモ3世を喜ばせる事はありませんでした。なぜならすっかり染み付いてしまったジャンの自堕落な生活は全く変わる事はなく、逆に大公を絶望させるだけに過ぎなかったからです。

この様な状況下で新大公に即位したジャンに対し、もはやメディチ王朝の断絶が誰の目にも明らかな中で、当然の事ながら周囲の人々も誰も期待する者はなかったのですが、こんな彼でもいざ大公になると彼なりに良き君主である事を目指し、父の時代の政策を改め、次々に開明的な政策を打ち出していきます。

彼が行った政策は教会勢力の政治干渉の抑制、政治警察と公開処刑の禁止、減税による農民負担の軽減と貧民の救済、ピサ大学の規制の撤廃による自由闊達な学問研究の推進、ユダヤ人迫害の禁止(これは資産家の多いユダヤ人に自由に商売させて経済を復活させるのが目的だったのでしょう。)などが挙げられます。

こんな彼ですが、実は意外にも学問には熱心で教養は豊かであり、特に語学力に堪能でギリシア語、ラテン語、スペイン語、フランス語、英語などに通じ、植物学や古代遺物の研究に打ち込むアマチュアではありましたがかなりの学者でした。つまり全く無芸無能な人物ではなかったのです。しかし先に述べた不幸な結婚で青年期を無為に過ごした事が、彼の人生を狂わせてしまったのかもしれません。

しかし彼の行った政策でも、すでに衰退の極みにあったトスカーナ大公国の状況は好転せず、ジャン大公は次第に国政に関心を失い、1729年には公的な生活から引退してピッティ宮殿に引きこもり、一日の大半をベッドの上で過ごすという自堕落な生活に戻ってしまいました。

こうしてメディチ家の断絶は時間の問題となっていたのですが、すでにヨーロッパ列強諸国(イギリス、フランス、スペイン、オーストリア、オランダ)はコジモ3世の亡くなる数年前からメディチ家亡き後のトスカーナについて利権がらみの協議を重ねていました。各国は虎視淡々とトスカーナの領土を狙っていましたが、1731年の会議における当初の取り決めでは、メディチ家断絶後のトスカーナ大公位はスペイン王家が引き継ぐ事が決定されていました。

しかしその後の動乱で状況は変転し、最終的にトスカーナ大公国はロートリンゲン公フランツ・シュテファン(オーストリア)が継承する事が決められました。当事者の自分や公国政府を無視したこの列国による勝手な差配に、余命いくばくもない大公ジャン・ガストーネはなす術もなく、ただ宮殿の豪華なベッドの上で事の成り行きを見届ける事しか出来ませんでした。

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上がトスカーナ大公国を継承する事が決まったロートリンゲン公フランツ・シュテファン(1708~1765)彼はその前年、神聖ローマ帝国皇帝カール6世の皇女であるマリア・テレジアと結婚し、オーストリア・ハプスブルク家の当主として将来の皇帝となる事が約束されており、これによってトスカーナは神聖ローマ帝国の一部となってしまい、独立国家ではなくなってしまう事が予想されました。

死の間際にいたジャン大公でしたが、彼もメディチ家の人間の端くれでした。彼はここで一族の名誉とプライドをかけ、またトスカーナ大公かつメディチ家の当主として最後の意地を見せます。彼はフランツ・シュテファンから、自分亡き後の大公国の継承を認める代わりに、トスカーナは将来に亘って帝国領には編入されず、公国として独立を保つという約束を取り付ける事に成功したのです。(これは彼が大公として果たした唯一の、しかし最も重要な事でした。)

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上はトスカーナ大公国メディチ家の紋章。当家のシンボルである5つの玉と、王冠をかぶせたデザインが印象的です。こうして最後の大公ジャン・ガストーネは1737年7月、66歳でこの世を去ります。そして彼の死は同時に初代アレッサンドロ公以来8代205年続いたメディチ王朝の終焉でもありました。


さて最後の大公ジャン・ガストーネの死後、メディチ家とフィレンツェはどうなったのでしょうか?

1737年フィレンツェは、ジャン大公の亡くなる半年前から6千のオーストリア軍によって占領されていました。そしてそのフィレンツェにおいて、メディチ家の血を引く最後の人物が、亡きジャン・ガストーネの姉であるアンナ・マリア・ルイーザ(1667~1743)でした。もうメディチ家は彼女以外には誰もいなかったのです。
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上がメディチ家の最後を看取ったアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ。彼女はプファルツ選帝侯に嫁いでいましたが、夫の死後フィレンツェに戻り、ピッティ宮殿でジャン大公とともに静かに暮らしていました。弟ジャン大公が亡くなった時すでに70歳の高齢で、弟の死後ますます信仰心を深めた彼女はメディチ一族代々の教会であるサン・ロレンツォ聖堂をはじめとする教会施設の造営を進め、それらを数多くの絵画や彫刻で飾り立てました。

メディチ家の最後の人間として彼女が自らに課した事は、芸術と文化の保護者として君臨したメディチ一族の栄光を未来永劫残す事でした。

1743年メディチ家最後の人物アンナ・マリア・ルイーザは、ピッティ宮殿で75歳で亡くなりました。そして彼女の死によって、13世紀から500年続いたイタリア一の名門メディチ家は完全に滅亡します。彼女は歴代の一族が眠るサン・ロレンツォ聖堂に葬られ、その後には、メディチ家が300年に亘って蓄積してきた膨大な財産(宮殿、別荘、絵画、彫刻、宝石、豪華な家具調度品や工芸品、貴重な写本)が残されましたが、これらは彼女の遺言により1つの条件付きで全てが新大公ロートリンゲン家とその後継者に委譲される事になっていました。

その条件とはこうです。

「これらの物は全て国家と市民の財産であり、外国人の好奇心を引き付ける物であるゆえ、何一つとして譲渡されたり、フィレンツェおよび大公国の領土から持ち出されてはならない。」


彼女の遺言は継承したハプスブルク・ロートリンゲン家によって固く守られました。アンナ・マリア・ルイーザはメディチ家の最後の人間として、弟ジャン・ガストーネよりはるかに巨大で誇り高い優れた功績を残したのです。そして彼女の偉大な功績によってメディチ家の財宝は「人類の至宝」として今日まで残され、フィレンツェは「永遠の美の都」となったのです。

フィレンツェの森の中の名も無い「炭焼き」から身を起こし、数百年かけて高利貸し、銀行家、政治家、大富豪となり、やがてローマ教皇、一国の君主にまで昇り詰めた風変わりで華麗な一族メディチ家と、彼らが活躍した舞台である美と商人の街フィレンツェの物語いかがだったでしょうか?

私たち日本人には、京都に代表される伝統的な日本文化に基づく独特の美意識があり、西洋の美や芸術に触れたのは明治以降からですが、日本にはない西洋独特の豪華絢爛で写実的な造形美には大いに学ぶべき所があり、見る者を引き付けてやまない魅力があります。(簡単すぎる陳腐な表現で恐縮ですが。)皆さんも日々の日常生活の中で、時には美術館などに足を運んでみてはいかがでしょうか?些細な事から意外な人生の発見や転機が訪れ、もしかしたらメディチ家の様な「大富豪」になれるかもしれませんよ。(笑)

メディチ家とフィレンツェ 終わり。

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