オーストリア継承戦争 ・ 襲い掛かる列国
みなさんこんにちは。
父帝カール6世の死により、始祖ルドルフ1世以来初めて女性のハプスブルク家当主となったマリア・テレジアでしたが、その彼女がオーストリアとヨーロッパ各地に散らばるハプスブルク家直轄領を相続した矢先、北から早くも危機が訪れました。1740年12月、プロイセン王国の王フリードリッヒ2世が、およそ2万7千の兵を率いてハプスブルク家の領土の一部であるボヘミアのシュレージェン地方に侵攻し、これを占領してしまったからです。
上が問題のシュレージェン地方の位置です。
このフリードリッヒ2世の侵略にマリア・テレジアは激怒し、ただちにオーストリア軍の精鋭部隊をシュレージェン奪還のため差し向けました。ここに8年に及ぶ「オーストリア継承戦争」の火蓋が切って落とされたのです。 同時にこれは女帝マリア・テレジアとフリードリッヒ大王の生涯をかけた長い戦いの始まりでもありました。
フリードリッヒはテレジアにこう要求しました。
「シュレージェンを引き渡せば、貴女のオーストリア継承と夫君フランツ公の皇帝即位を認め、わがプロイセンはオーストリアのお味方になりましょう。」
しかし、これに対するテレジアの答えは断固拒否でした。
「愚かしい思い上がりです。私は盗賊と交渉する気は毛頭ありません。この世の誰も私が父から受け継いだ領土を奪う事は出来ません。私の軍勢が貴方の兵を叩きのめす前に、早く私の庭から出ていく事を要求します。」
上がこの頃のマリア・テレジアの肖像です。 夫フランツ・シュテファンとの間にすでに4人目の子を懐妊中で、やがて1741年に無事出産したその4人目の子が、ハプスブルク宮廷が待ち焦がれた待望の男子(後の皇帝ヨーゼフ2世)でした。
私生活では待望の長男誕生で喜びに満ち溢れた彼女でしたが、君主としての彼女には多難が待ち受けていました。まず、前述したシュレージェンを巡るフリードリッヒ2世との戦いにおいて、バイエルン、ザクセン、そしてそれらを背後で操るフランスが、「テレジアのオーストリア継承は無効である」と称して次々に参戦し、一斉にテレジアのオーストリアに襲い掛かってきます。 中でもバイエルン公カール・アウグストは北のフリードリッヒと図って西からオーストリアをけん制し、執拗にテレジアを悩ませます。
上はオーストリアの隣国バイエルンの領主カール・アウグストです。(1697~1745)彼は少年時代にオーストリアにバイエルンを占領され、虜囚として連行されるなどしてオーストリア・ハプスブルク家を深く怨んでいました。 そんな彼に絶好の復讐の機会が訪れます。
「相手は小娘だ。この機に乗じて領土を奪い取り、わが家名の名を上げる好機だな。」
というわけです。そしてこれらの国々は、テレジアの父である先帝カール6世が定めたテレジアへのハプスブルク家全領土の継承を承認した国々でした。つまり彼らは先帝との約束など始めから守る気は無かったのです。そしてその筆頭が、バイエルン公カール・アウグストでした。(後に彼はハプスブルク家から神聖ローマ皇帝位を奪い取り、カール7世として皇帝となりますが、わずか3年の在位で亡くなります。)
これにはまだ若かったテレジアも大変なショックを受けました。当時の彼女はこんな言葉を残しています。
「私を支えてくれると父に約束した人たちが、みんな私に襲い掛かってきたわ。 私を助けてくれる人はどこにもいないのかしら。」
当時の悲嘆に暮れる彼女の苦悩が偲ばれます。しかし泣いてもどうにもなりません。こうしている間にもプロイセン軍は帝都ウィーンに迫る勢いです。彼女は戦い抜く事を決断します。
テレジアはハンガリー女王に即位してハンガリー軍を指揮下に入れると、先に派遣したオーストリア軍への増援部隊としてこれを差し向けます。さらにフランスに対しては、背後のイギリスと同盟する事で両者を戦わせ、フランスがこちらまで手が出せないよう仕向けました。これらの作戦によってフランス、バイエルン、ザクセンは退けたものの、強力なフリードリッヒのプロイセン軍の前にオーストリア軍は敗北を重ね、1748年にプロイセンとの交渉の末、テレジアのオーストリア継承と夫フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝位を認める代わりにプロイセンに対し、シュレージェンの割譲と100万帝国ターレル(現在の日本円でおよそ200億円ほど)の賠償金を支払う事で、足かけ8年に及ぶ戦争は終結しました。
この時のテレジアの悔しさは彼女の心に深く刻み込まれ、以後彼女はフリードリッヒを公然と「シュレージェン泥棒」と呼び、生涯彼を不倶戴天の仇敵として憎み続けました。
上がテレジアから「泥棒」と呼ばれたプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)彼はこの勝利で一躍プロイセンを強国へと押し上げますが、やがてテレジアによって大きな代償を払わされる事になります。
テレジアの君主としてのデビュー戦ともいうべきオーストリア継承戦争はプロイセンに敗れ、シュレージェンを奪われたものの、彼女はそれ以外のハプスブルク家の領土は守り抜く事に成功します。 そして「オーストリアにマリア・テレジアあり」と全ヨーロッパにその存在を印象付ける事に成功しました。
そして彼女はプロイセンに奪われたシュレージェン地方を取り戻すために国力を蓄えようと様々な国政改革を実行に移していきます。まずは財政、つまりお金の問題です。戦争には莫大な金がかかります。しかし当時のオーストリアは、貴族たちがそれぞれの領地で勝手に徴税し、納税額はばらばらで、納税をごまかそうと思えば容易く、中には全く納めない者もいました。これでは安定した財源は得られません。 そこでテレジアは全国の貴族たちの所領の納税額を統一し、彼らの財産を徹底調査させて記録し、いわゆる「脱税」が出来ない様にしました。
次に彼女が手を付けたのは軍の改革です。オーストリア軍がプロイセン軍に敗れた大きな原因は多民族の混成部隊、悪く言えば「烏合の衆」であった事でした。各民族で言葉が違うために指揮統率が困難で、これが迅速な作戦行動に大きな支障を来たしていたのです。そこでオーストリア軍における公用語をドイツ語に統一し、さらに国民に一般徴兵令を導入して、いつでも戦争に備えられる常備軍を組織し、兵士たちには決まった給料を支払う事で、常に兵力の補充が出来る様にしました。
上は当時のオーストリア軍歩兵部隊を描いた絵です。 各部隊の掲げる軍旗が混成部隊である事を示しています。
次に教育の普及です。テレジアは当時のヨーロッパ列国の中で最も早く義務教育を導入し、全土に小学校を建設して各地域の言語で均一な教育を行いました。またカトリック教会が禁じていた書物、とりわけ自然科学の本の閲覧を人々に許し、多くの図書館を開放しました。人々はこれらの書物をむさぼる様に読み漁り、これによって国民の知的水準が大きく向上していきました。
テレジアのこうした改革によって、オーストリアは着実に国力が増していきました。そして彼女は1756年、かねてから計画していたシュレージェン地方の奪還のため、いよいよ動き出します。
次回に続きます。
父帝カール6世の死により、始祖ルドルフ1世以来初めて女性のハプスブルク家当主となったマリア・テレジアでしたが、その彼女がオーストリアとヨーロッパ各地に散らばるハプスブルク家直轄領を相続した矢先、北から早くも危機が訪れました。1740年12月、プロイセン王国の王フリードリッヒ2世が、およそ2万7千の兵を率いてハプスブルク家の領土の一部であるボヘミアのシュレージェン地方に侵攻し、これを占領してしまったからです。
上が問題のシュレージェン地方の位置です。
このフリードリッヒ2世の侵略にマリア・テレジアは激怒し、ただちにオーストリア軍の精鋭部隊をシュレージェン奪還のため差し向けました。ここに8年に及ぶ「オーストリア継承戦争」の火蓋が切って落とされたのです。 同時にこれは女帝マリア・テレジアとフリードリッヒ大王の生涯をかけた長い戦いの始まりでもありました。
フリードリッヒはテレジアにこう要求しました。
「シュレージェンを引き渡せば、貴女のオーストリア継承と夫君フランツ公の皇帝即位を認め、わがプロイセンはオーストリアのお味方になりましょう。」
しかし、これに対するテレジアの答えは断固拒否でした。
「愚かしい思い上がりです。私は盗賊と交渉する気は毛頭ありません。この世の誰も私が父から受け継いだ領土を奪う事は出来ません。私の軍勢が貴方の兵を叩きのめす前に、早く私の庭から出ていく事を要求します。」
上がこの頃のマリア・テレジアの肖像です。 夫フランツ・シュテファンとの間にすでに4人目の子を懐妊中で、やがて1741年に無事出産したその4人目の子が、ハプスブルク宮廷が待ち焦がれた待望の男子(後の皇帝ヨーゼフ2世)でした。
私生活では待望の長男誕生で喜びに満ち溢れた彼女でしたが、君主としての彼女には多難が待ち受けていました。まず、前述したシュレージェンを巡るフリードリッヒ2世との戦いにおいて、バイエルン、ザクセン、そしてそれらを背後で操るフランスが、「テレジアのオーストリア継承は無効である」と称して次々に参戦し、一斉にテレジアのオーストリアに襲い掛かってきます。 中でもバイエルン公カール・アウグストは北のフリードリッヒと図って西からオーストリアをけん制し、執拗にテレジアを悩ませます。
上はオーストリアの隣国バイエルンの領主カール・アウグストです。(1697~1745)彼は少年時代にオーストリアにバイエルンを占領され、虜囚として連行されるなどしてオーストリア・ハプスブルク家を深く怨んでいました。 そんな彼に絶好の復讐の機会が訪れます。
「相手は小娘だ。この機に乗じて領土を奪い取り、わが家名の名を上げる好機だな。」
というわけです。そしてこれらの国々は、テレジアの父である先帝カール6世が定めたテレジアへのハプスブルク家全領土の継承を承認した国々でした。つまり彼らは先帝との約束など始めから守る気は無かったのです。そしてその筆頭が、バイエルン公カール・アウグストでした。(後に彼はハプスブルク家から神聖ローマ皇帝位を奪い取り、カール7世として皇帝となりますが、わずか3年の在位で亡くなります。)
これにはまだ若かったテレジアも大変なショックを受けました。当時の彼女はこんな言葉を残しています。
「私を支えてくれると父に約束した人たちが、みんな私に襲い掛かってきたわ。 私を助けてくれる人はどこにもいないのかしら。」
当時の悲嘆に暮れる彼女の苦悩が偲ばれます。しかし泣いてもどうにもなりません。こうしている間にもプロイセン軍は帝都ウィーンに迫る勢いです。彼女は戦い抜く事を決断します。
テレジアはハンガリー女王に即位してハンガリー軍を指揮下に入れると、先に派遣したオーストリア軍への増援部隊としてこれを差し向けます。さらにフランスに対しては、背後のイギリスと同盟する事で両者を戦わせ、フランスがこちらまで手が出せないよう仕向けました。これらの作戦によってフランス、バイエルン、ザクセンは退けたものの、強力なフリードリッヒのプロイセン軍の前にオーストリア軍は敗北を重ね、1748年にプロイセンとの交渉の末、テレジアのオーストリア継承と夫フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝位を認める代わりにプロイセンに対し、シュレージェンの割譲と100万帝国ターレル(現在の日本円でおよそ200億円ほど)の賠償金を支払う事で、足かけ8年に及ぶ戦争は終結しました。
この時のテレジアの悔しさは彼女の心に深く刻み込まれ、以後彼女はフリードリッヒを公然と「シュレージェン泥棒」と呼び、生涯彼を不倶戴天の仇敵として憎み続けました。
上がテレジアから「泥棒」と呼ばれたプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)彼はこの勝利で一躍プロイセンを強国へと押し上げますが、やがてテレジアによって大きな代償を払わされる事になります。
テレジアの君主としてのデビュー戦ともいうべきオーストリア継承戦争はプロイセンに敗れ、シュレージェンを奪われたものの、彼女はそれ以外のハプスブルク家の領土は守り抜く事に成功します。 そして「オーストリアにマリア・テレジアあり」と全ヨーロッパにその存在を印象付ける事に成功しました。
そして彼女はプロイセンに奪われたシュレージェン地方を取り戻すために国力を蓄えようと様々な国政改革を実行に移していきます。まずは財政、つまりお金の問題です。戦争には莫大な金がかかります。しかし当時のオーストリアは、貴族たちがそれぞれの領地で勝手に徴税し、納税額はばらばらで、納税をごまかそうと思えば容易く、中には全く納めない者もいました。これでは安定した財源は得られません。 そこでテレジアは全国の貴族たちの所領の納税額を統一し、彼らの財産を徹底調査させて記録し、いわゆる「脱税」が出来ない様にしました。
次に彼女が手を付けたのは軍の改革です。オーストリア軍がプロイセン軍に敗れた大きな原因は多民族の混成部隊、悪く言えば「烏合の衆」であった事でした。各民族で言葉が違うために指揮統率が困難で、これが迅速な作戦行動に大きな支障を来たしていたのです。そこでオーストリア軍における公用語をドイツ語に統一し、さらに国民に一般徴兵令を導入して、いつでも戦争に備えられる常備軍を組織し、兵士たちには決まった給料を支払う事で、常に兵力の補充が出来る様にしました。
上は当時のオーストリア軍歩兵部隊を描いた絵です。 各部隊の掲げる軍旗が混成部隊である事を示しています。
次に教育の普及です。テレジアは当時のヨーロッパ列国の中で最も早く義務教育を導入し、全土に小学校を建設して各地域の言語で均一な教育を行いました。またカトリック教会が禁じていた書物、とりわけ自然科学の本の閲覧を人々に許し、多くの図書館を開放しました。人々はこれらの書物をむさぼる様に読み漁り、これによって国民の知的水準が大きく向上していきました。
テレジアのこうした改革によって、オーストリアは着実に国力が増していきました。そして彼女は1756年、かねてから計画していたシュレージェン地方の奪還のため、いよいよ動き出します。
次回に続きます。
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