オーストリア継承戦争 ・ 襲い掛かる列国

みなさんこんにちは。

父帝カール6世の死により、始祖ルドルフ1世以来初めて女性のハプスブルク家当主となったマリア・テレジアでしたが、その彼女がオーストリアとヨーロッパ各地に散らばるハプスブルク家直轄領を相続した矢先、北から早くも危機が訪れました。1740年12月、プロイセン王国の王フリードリッヒ2世が、およそ2万7千の兵を率いてハプスブルク家の領土の一部であるボヘミアのシュレージェン地方に侵攻し、これを占領してしまったからです。

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上が問題のシュレージェン地方の位置です。

このフリードリッヒ2世の侵略にマリア・テレジアは激怒し、ただちにオーストリア軍の精鋭部隊をシュレージェン奪還のため差し向けました。ここに8年に及ぶ「オーストリア継承戦争」の火蓋が切って落とされたのです。 同時にこれは女帝マリア・テレジアとフリードリッヒ大王の生涯をかけた長い戦いの始まりでもありました。

フリードリッヒはテレジアにこう要求しました。

「シュレージェンを引き渡せば、貴女のオーストリア継承と夫君フランツ公の皇帝即位を認め、わがプロイセンはオーストリアのお味方になりましょう。」

しかし、これに対するテレジアの答えは断固拒否でした。

「愚かしい思い上がりです。私は盗賊と交渉する気は毛頭ありません。この世の誰も私が父から受け継いだ領土を奪う事は出来ません。私の軍勢が貴方の兵を叩きのめす前に、早く私の庭から出ていく事を要求します。」

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上がこの頃のマリア・テレジアの肖像です。 夫フランツ・シュテファンとの間にすでに4人目の子を懐妊中で、やがて1741年に無事出産したその4人目の子が、ハプスブルク宮廷が待ち焦がれた待望の男子(後の皇帝ヨーゼフ2世)でした。

私生活では待望の長男誕生で喜びに満ち溢れた彼女でしたが、君主としての彼女には多難が待ち受けていました。まず、前述したシュレージェンを巡るフリードリッヒ2世との戦いにおいて、バイエルン、ザクセン、そしてそれらを背後で操るフランスが、「テレジアのオーストリア継承は無効である」と称して次々に参戦し、一斉にテレジアのオーストリアに襲い掛かってきます。 中でもバイエルン公カール・アウグストは北のフリードリッヒと図って西からオーストリアをけん制し、執拗にテレジアを悩ませます。

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上はオーストリアの隣国バイエルンの領主カール・アウグストです。(1697~1745)彼は少年時代にオーストリアにバイエルンを占領され、虜囚として連行されるなどしてオーストリア・ハプスブルク家を深く怨んでいました。 そんな彼に絶好の復讐の機会が訪れます。

「相手は小娘だ。この機に乗じて領土を奪い取り、わが家名の名を上げる好機だな。」

というわけです。そしてこれらの国々は、テレジアの父である先帝カール6世が定めたテレジアへのハプスブルク家全領土の継承を承認した国々でした。つまり彼らは先帝との約束など始めから守る気は無かったのです。そしてその筆頭が、バイエルン公カール・アウグストでした。(後に彼はハプスブルク家から神聖ローマ皇帝位を奪い取り、カール7世として皇帝となりますが、わずか3年の在位で亡くなります。)


これにはまだ若かったテレジアも大変なショックを受けました。当時の彼女はこんな言葉を残しています。

「私を支えてくれると父に約束した人たちが、みんな私に襲い掛かってきたわ。 私を助けてくれる人はどこにもいないのかしら。」

当時の悲嘆に暮れる彼女の苦悩が偲ばれます。しかし泣いてもどうにもなりません。こうしている間にもプロイセン軍は帝都ウィーンに迫る勢いです。彼女は戦い抜く事を決断します。


テレジアはハンガリー女王に即位してハンガリー軍を指揮下に入れると、先に派遣したオーストリア軍への増援部隊としてこれを差し向けます。さらにフランスに対しては、背後のイギリスと同盟する事で両者を戦わせ、フランスがこちらまで手が出せないよう仕向けました。これらの作戦によってフランス、バイエルン、ザクセンは退けたものの、強力なフリードリッヒのプロイセン軍の前にオーストリア軍は敗北を重ね、1748年にプロイセンとの交渉の末、テレジアのオーストリア継承と夫フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝位を認める代わりにプロイセンに対し、シュレージェンの割譲と100万帝国ターレル(現在の日本円でおよそ200億円ほど)の賠償金を支払う事で、足かけ8年に及ぶ戦争は終結しました。

この時のテレジアの悔しさは彼女の心に深く刻み込まれ、以後彼女はフリードリッヒを公然と「シュレージェン泥棒」と呼び、生涯彼を不倶戴天の仇敵として憎み続けました。

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上がテレジアから「泥棒」と呼ばれたプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)彼はこの勝利で一躍プロイセンを強国へと押し上げますが、やがてテレジアによって大きな代償を払わされる事になります。

テレジアの君主としてのデビュー戦ともいうべきオーストリア継承戦争はプロイセンに敗れ、シュレージェンを奪われたものの、彼女はそれ以外のハプスブルク家の領土は守り抜く事に成功します。 そして「オーストリアにマリア・テレジアあり」と全ヨーロッパにその存在を印象付ける事に成功しました。

そして彼女はプロイセンに奪われたシュレージェン地方を取り戻すために国力を蓄えようと様々な国政改革を実行に移していきます。まずは財政、つまりお金の問題です。戦争には莫大な金がかかります。しかし当時のオーストリアは、貴族たちがそれぞれの領地で勝手に徴税し、納税額はばらばらで、納税をごまかそうと思えば容易く、中には全く納めない者もいました。これでは安定した財源は得られません。 そこでテレジアは全国の貴族たちの所領の納税額を統一し、彼らの財産を徹底調査させて記録し、いわゆる「脱税」が出来ない様にしました。

次に彼女が手を付けたのは軍の改革です。オーストリア軍がプロイセン軍に敗れた大きな原因は多民族の混成部隊、悪く言えば「烏合の衆」であった事でした。各民族で言葉が違うために指揮統率が困難で、これが迅速な作戦行動に大きな支障を来たしていたのです。そこでオーストリア軍における公用語をドイツ語に統一し、さらに国民に一般徴兵令を導入して、いつでも戦争に備えられる常備軍を組織し、兵士たちには決まった給料を支払う事で、常に兵力の補充が出来る様にしました。

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上は当時のオーストリア軍歩兵部隊を描いた絵です。 各部隊の掲げる軍旗が混成部隊である事を示しています。

次に教育の普及です。テレジアは当時のヨーロッパ列国の中で最も早く義務教育を導入し、全土に小学校を建設して各地域の言語で均一な教育を行いました。またカトリック教会が禁じていた書物、とりわけ自然科学の本の閲覧を人々に許し、多くの図書館を開放しました。人々はこれらの書物をむさぼる様に読み漁り、これによって国民の知的水準が大きく向上していきました。

テレジアのこうした改革によって、オーストリアは着実に国力が増していきました。そして彼女は1756年、かねてから計画していたシュレージェン地方の奪還のため、いよいよ動き出します。

次回に続きます。
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七年戦争 (前編) ・ 女たちの反撃

みなさんこんにちは。

1748年に終結したオーストリア継承戦争によって、マリア・テレジアはオーストリアの継承とその存在を全ヨーロッパに認めさせたのですが、その代償は大きいものでした。 8年続いたこの戦争で、オーストリアの国力は大きく疲弊し、さらにテレジアにとって屈辱的な事に、最も最初に彼女に戦いを仕掛けたプロイセン王国のフリードリッヒ2世に帝国の北部領土であるシュレージェン地方を奪われ、多額の賠償金を支払わされるはめになってしまったからです。

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この時期の彼女はまだ20代で若く、君主としては経験不足でした。そのためテレジアは有能な家臣たちを身分や階級を問わず次々に登用して国事に当たらせ、国政改革を断行していきます。 まず、国内統治と行政、財政には徹底した改革を唱えるボヘミア出身の貴族、ハウクヴィッツ伯に任せ、さらに軍の改革は歴戦の軍人であるダウン伯レオポルト将軍を任命、外交にはハウクヴィッツ伯の後を受けて宰相となったカウニッツ伯が当たります。

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上がハウクヴィッツ伯フリードリッヒです。(1702~1765)彼はプロイセンの侵略を受けたシュレージェンに領地を持っていた決して名門とはいえない田舎貴族出身でしたが、シュレージェン奪還のためにハプスブルク家に忠誠を誓い、テレジアを行財政面で支えます。 彼の尽力でオーストリアの国力は急速に回復していきますが、その彼の巧みな行政手腕を見抜いてテレジアに登用を薦めたのは、夫フランツ1世でした。

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そして上がハウクヴィッツ伯の後任として宰相となったカウニッツ伯ヴェンツェルです。(1711~1794)彼もハウクヴィッツ同様それほどの名家ではないボヘミア貴族出身でしたが、夫フランツ1世がその才能を評価して妻のテレジアに薦めた人物でした。(夫フランツ1世は政治的には何の実権も持っていませんでしたが、人を見る特殊な才能があった様ですね。) 彼は特に外交を得意とし、それまで誰も考え付かなかった驚くべきプランを計画し、テレジアに進言します。

その驚くべきプランとは、かつてハプスブルク家とヨーロッパの覇権を争ってきた300年来の仇敵であるフランスのブルボン家と同盟し、さらに東のロシアとも同盟して三方向からプロイセンを包囲するというものでした。

本来なら、これまでの両家の確執と経緯からこの様なプランは一蹴されてしまう所でしたが、当時のオーストリアは若いテレジアの下で徹底した改革の最中であり、シュレージェン奪還に燃えるテレジアの承認を受けて彼の計画は実行に移されていきます。

一方オーストリア・ハプスブルク家から「同盟」という話を持ちかけられたフランス側でも、最初はあまりの突飛さに「謀略」ではないかと疑われたものの、当時の情勢がフランスにおいてもこの話に乗る土台を作り上げていました。 この頃フランスはライバルであるイギリスの海外植民地競争に押され気味で、そのイギリスを支援していたのがプロイセンでした。そのため彼らはイギリスの孤立化を図るため、プロイセンを叩く必要があったのです。

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上は当時のフランス国王ルイ15世です。(1710~1774)彼はフランス第5王朝であるブルボン朝4代国王で、太陽王ルイ14世のひ孫でしたが、祖父や父が曽祖父ルイ14世よりも早くに亡くなったためわずか5歳で即位しました。しかし彼は国政を大臣たちに任せきりで、多くの愛人(なんと15人もいたそうです。)との間に13人もの私生児を成し、さらに正妻である王妃との間にも11人もの子を成した子だくさんでした。

そんなルイ15世の囲っていた多くの愛人のうちで、最も王の寵愛を受けたのがポンパドゥール侯爵夫人で、彼女は王の権威を背景に政治にも口を出すほどの権勢を振るっていました。

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上がそのポンパドゥール侯爵夫人です。(1721~1764)侯爵夫人といってもそれは後にルイ15世から与えられたもので、彼女自身は貴族出身ではなく平民の銀行家の娘でした。しかしその美貌と知性にすっかり惚れ込んだルイ15世は彼女を深く愛し、彼女の言う事なら何でも聞いてしまうほどのぼせ上がってしまいます。 やがて彼女は王の寵愛を良い事に国政にまで影響力を及ぼしていく様になります。

実はこのポンパドゥール夫人もプロイセンの王フリードリッヒ2世を毛嫌いしていました。その理由はフリードリッヒがたびたび女性を蔑視する発言を繰り返していた事にあるといわれ、彼女がルイ15世にオーストリアとの同盟を仲介したのは、政治的な意味よりも女性を公然と見下すフリードリッヒ2世に「思い知らせてやりたい。」という個人的な感情論から来るものではなかったかとも言われています。

マリア・テレジアはこのポンパドゥール夫人に、フリードリッヒ2世を共通の敵として供に戦おうという趣旨の手紙を何度も書き送ります。この手紙はカウニッツの手を通して夫人に届けられ、テレジアの言葉巧みな手練手管と同じ女としての心情から夫人はテレジアに同調し、彼女はルイ15世にオーストリアとの同盟を促します。 こうして1756年、両国の間で同盟が成立し、作戦は成功しました。

テレジアと宰相カウニッツ伯は、プロイセン包囲のためさらに東の大国ロシアへと目を向けます。 当時ロシアは女帝エリザヴェータの治世下にあり、同じくプロイセンに対して脅威を感じていました。テレジアはこのエリザヴェータにも手紙を書き送ります。

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上がロシアの女帝エリザヴェータです。(1709~1762)失礼ながらかなりお太りになった「ころころおばさん」という所ですね。(笑)宮殿を出てどこかへお出かけの様です。 彼女はロシア帝国第2王朝であるロマノフ朝第10代皇帝であり、テレジアにとってはうらやましい事に公然と「女帝」と認められていた唯一の存在でした。(このロシア帝国において女帝が認められているのは、彼らがゲルマン民族ではなくスラヴ民族の帝国であるからで、ロマノフ王朝においてはなんと4人もの女帝を出しています。)このエリザヴェータ女帝も、ポンパドゥール夫人同様に女性を蔑視するフリードリッヒ2世をとても嫌っており、テレジアの手紙にすぐに同調します。

こうして1756年、オーストリア・フランス・ロシアによる対プロイセン三国同盟が正式に成立し、マリア・テレジアは念願のシュレージェン奪還に向けてついに動き出します。

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上の図がこの時のヨーロッパの国際関係を表したものです。

彼女は8年がかりで養成した新鋭オーストリア軍に動員令を発して国境付近に軍を集結させます。 一方オーストリア軍の不穏な動きは、プロイセンの王フリードリッヒ2世も一早く察知していました。 しかし今回は先のオーストリア継承戦争の時の様に彼の方から攻めていく戦いではありませんでした。 彼はマリア・テレジアが8年かけて周到に準備した対プロイセン包囲網によって完全に包囲され、今度は自分が周囲から攻められる状況に陥ってしまったのです。 まさにテレジアの見事な仕返しでした。 そして彼はこの3人の女たちの反撃によって、その後7年に及ぶ苦しい3正面作戦を強いられる事になります。

次回に続きます。

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七年戦争 (後編) ・ 追い詰められるフリードリッヒ大王

みなさんこんにちは。

1756年のオーストリア・フランス・ロシアによる対プロイセン三国同盟は、その標的となったプロイセン王フリードリッヒ2世を驚愕させました。何しろロシアはともかく「水と油」のごとき仇敵同士であったフランスとオーストリアが手を結んだからです。彼は最初この事実を信じられませんでした。さらにこの同盟には北の軍事大国スウェーデンや、神聖ローマ帝国で古くからの強国ザクセン公国も加わっており、これによって彼のプロイセン王国は東西南北全方向から完全に包囲されてしまいました。

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上がプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)

この対プロイセン包囲網によって、プロイセンとこれらの諸国との人口比は400万対8千万という圧倒的な大差がついてしまい、常識的に考えれば全く勝ち目が無い状態に追い込まれたのです。そして彼は諸国に忍び込ませていた密偵らの報告により、裏でその全てを画策したのがオーストリアのマリア・テレジアである事も知っていました。

「これでは身動きが取れん。 あの女狐め! よくもやってくれたな。」

もとはといえば16年前の1740年、テレジアのオーストリア継承の弱みに付け込んでシュレージェン地方を奪い取り、あまつさえ多額の賠償金までふんだくった彼が悪いのですが、彼がシュレージェン地方に侵攻したのは鉄や石炭など、かの地の豊富な鉱物資源を求めての事でした。プロイセンは軍事国家であり、大砲や小銃、弾薬、砲弾の製造にそれらは不可欠であったからです。


彼の悩みは他にもありました。 それはプロイセンの領土内にこれといった産物が無く、さらに緯度が高すぎて寒冷なため、小麦などの作物が育ちにくい上に土地が痩せていて食糧が自給出来なかった事です。 そのため人民は貧しく常に飢えに苦しんでおり、フリードリッヒは王としてそうした人民の貧しさを肌身を持って良く知っていました。

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上がプロイセン王国の位置です。 領土の大半がバルト海沿岸部に面する辺境の一国に過ぎませんでした。

「この貧しさから我が人民を救うには、軍事力を強化して他国に領土を広げる他に手段はない。」

彼はそういう考えに帰結し、その第一段階として最も手近のシュレージェンを狙ったのです。 つまり権力者にありがちな貪欲な領土支配欲からではなく、彼の国プロイセンが周辺諸国から侮られ、さらにはそうした弱点を突かれて周辺国から攻められない様にするには、自国が強力な軍事国家となって周辺国から「恐れられる存在」にならなければならないという彼なりの定義があったからなのです。

「3枚のペチコートが私を陥れ、私の破滅を狙っている。」

これは彼が対プロイセン三国同盟の首謀者である3人の女たち、すなわちオーストリアのマリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の事を皮肉を込めて言い表した言葉です。(「ペチコート」とは、女性がスカートの中に穿く白いレース状のものですね。自分が子供時代などは、母親の世代がよそ行きの服で出かける時に穿いていたのを記憶しています。最近の女性はどうなのか知りませんが。 笑 )


この様な情勢の下で「男」フリードリッヒは死中に活を見出そうとします。 彼は同盟の盟主マリア・テレジアのオーストリア軍が動く前に、先手を打って先制攻撃を仕掛けたのです。こうして1756年8月、以後7年続く事になる「七年戦争」の幕が切って落とされました。

彼はまず6万2千のプロイセン軍主力部隊を率いて隣国ザクセンに侵攻し、(位置は上の図参照)9月初めに首都ドレスデンを占領、ザクセン軍残存部隊約2万は天然の要塞ピルナに後退して抗戦を続けますが、10月初めにザクセン救出のためやって来た3万のオーストリア軍がロボジッツの戦いで敗退すると戦意を失い、まもなくプロイセン軍の包囲と兵糧攻めによって食糧が底を尽き、10月中旬に降伏します。

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上がザクセン軍が立てこもったピルナのケーニッヒシュタイン城です。画像では見えませんが、周囲にはいくつもの川が「天然の堀」として流れており、防御には理想的な地形です。

短期決戦を狙うフリードリッヒ大王は勢いに乗って翌1757年ハプスブルク領ボヘミアに進撃、6万4千の兵力で首都プラハを包囲し、ほぼ同数のオーストリア軍はここでも敗れ、総司令官カール・フォン・ロートリンゲン公率いる主力4万がプラハ城に籠城します。

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上がオーストリア軍総司令官カール・フォン・ロートリンゲン公です。(1712~1780)彼はマリア・テレジアの夫である皇帝フランツ1世の弟で、政治、行政には有能でしたが、どうも軍人としては落第生だった様で、それが証拠に彼は大きな作戦で5回も敗れており、その内4回がフリードリッヒとの戦いでした。(いや彼が弱かったのではなく、フリードリッヒ大王がそれだけ戦上手で強かったというべきでしょうか。)

ここまではフリードリッヒ大王率いるプロイセン軍が優勢でした。しかし、プラハ救援のため新たにテレジアが差し向けたダウン伯レオポルト将軍率いる増援軍5万がプラハに接近、大王は包囲軍の半数の3万2千の兵を率いてこれを迎え撃ちます。これが「コリンの戦い」です。しかしこの戦いでこれまで無敵を誇ってきたフリードリッヒ大王は、敵将ダウン将軍の巧妙な作戦によって1万3千もの死傷者を出し、初めて大敗してしまいました。

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上がプラハ救援オーストリア軍司令官のダウン伯レオポルト将軍です。(1705~1766)彼がどの様にして戦上手のフリードリッヒ大王と強力なプロイセン軍を破ったのかというと、何度も後退と攻勢を繰り返す事で敵を焦らし、疲れさせ、業を煮やした敵が一気に決着をつけるべく総攻撃を仕掛けてきた所で温存していた伏兵部隊によって両側面から挟み撃ちにするというものでした。ロシアやフランスが動かないうちに早く決着を着けたい大王は、焦りのためかこれに引っかかってしまった様です。(見事プラハを奪還したダウン将軍は、テレジアの命によってカール公からオーストリア軍総司令官の職を引き継ぎます。)

この敗北によってフリードリッヒ大王はプラハ攻略を諦めざるを得なくなり、ボヘミアからの撤退を余儀なくされます。それだけではありません。7月には戦争準備を整えたフランス軍が西からドイツに攻め入り、ドイツにおけるプロイセンの唯一の味方であるハノーヴァーを攻撃、さらに8月にはロシア軍が東プロイセンに侵攻し、南からはオーストリア軍が迫るという大王が最も恐れていた3正面作戦に陥ってしまいました。 いかに強力な軍隊を持つとはいえ総兵力が10万余りで、圧倒的に兵力の少ないプロイセンは本国の防衛のため完全に守勢に回る事になり、フリードリッヒは夜討ち朝駆けで各地を転戦せざるを得なくなります。

しかし凡人なら普通ここで早々に降伏してしまう所でしょうが、このフリードリッヒ2世は違いました。 彼はすでにこの時期から将兵たちに「大王」と呼ばれていた男です。 彼はこの様な追い詰められた状況にあっても決して折れる事無く不屈の精神で戦い抜いていき、戦いは一進一退の膠着状態が続きます。(これはかつてのオーストリア継承戦争で、まだ若かったマリア・テレジアが味わわされたものと同じ苦痛をそのまま返された状態ですね。それにしても因果応報とはいえ人の恨みとは恐ろしいものです。みなさんも気をつけましょう。 特に女性には。 笑 )しかしそんな彼にもやがて正真正銘の存亡の危機が訪れ、彼は本当に死を覚悟するほどに追い詰められていく事になるのです。

次回に続きます。

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ブランデンブルクの奇跡 ・ ヒトラーが信じた神話

みなさんこんにちは。

プロイセン王フリードリッヒ2世に奪われたシュレージェン地方の奪還を目論むオーストリア女帝マリア・テレジア(正式には「女帝」ではありませんが。)が仕組んだ対プロイセン包囲網によって、フリードリッヒ2世のプロイセン王国は、西からはフランス、東からはロシア、南からはオーストリアに攻撃され、さらに北からはスウェーデンにバルト海を封鎖され、正に「四面楚歌」の状態にありました。

この圧倒的に不利な状態の中で、フリードリッヒ大王は少ない兵力で周囲の敵に出来るだけ打撃を与えるため、重点に兵力を集中させ、プロイセンを取り囲む敵の中で最も兵力の少ない部分を潰しながら素早く転進を繰り返す「各個撃破」戦法で何とかこれらの大軍との戦いをしのいでいました。

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上はこの頃のプロイセン王フリードリッヒ2世の姿です。 苦しい戦いの連続でかなりお疲れのご様子ですね。 一国の王が、荒れ果てた民家の壁の前で丸太に腰掛け、虚ろな目でこちらを見上げている姿が戦局の厳しさを物語っています。

しかし、そんな彼にもたった一国ですが強力な味方がありました。それは今や新興海洋王国として世界の海に乗り出していたイギリスです。彼がイギリスを頼ったのは母がイギリス王の娘であり、つまりイギリス王家が母方の実家であった事もありますが、このイギリスがフランスを背後から攻撃してくれれば、フランスはもともとあまり実益の無いこの戦争で、プロイセンとの挟み撃ちを嫌って兵を引き、彼は対フランス方面に割いていた兵力を主敵であるオーストリア・ロシア方面に回せるからです。

またイギリスの方も、プロイセンに味方する大きな理由がありました。先に述べた様にイギリスは当時海洋王国として発展途上の最中にありました。しかしその行く手には最大のライバルであるフランスが大きく立ちはだかっており、その足を引っ張る存在が必要だったのです。

「足を引っ張る」とは、イギリスが海外政策を進めていく上で、フランスが出て来れない様にする事、すなわちフランス本国の周囲で何でもいいから戦争を行わせてフランスを巻き込み、たくさん金を使わせてフランスが海外進出をしたくても財政的に出来ない様に「邪魔立て」をする事です。

また東のロシアの存在も、イギリスがプロイセンに味方する理由でした。もしプロイセンが敗れて消滅すれば、恐らくロシアとオーストリアで領土を分割する事になり、シュレージェンさえ奪い返せれば良いテレジアのオーストリアはともかく、ロシアは間違いなくバルト海に面するプロイセン領を取るでしょう。 そうなればバルト海の制海権はロシアの手に落ち、イギリス本国はバルト海を出ようとするロシア艦隊の脅威にさらされる事になりかねません。

そうさせないためにも、イギリスはロシアをはるか東の奥深くの辺境に、幾重にも小国を間に挟んでいつまでも封じ込めて置く必要があったのです。プロイセンはその位置と規模からロシアのヨーロッパ進出の防波堤として格好の存在でした。

イギリスとプロイセンは、こうした利害の一致から同盟関係を維持していました。しかしイギリスは資金面などではプロイセンを支援したものの、フリードリッヒ大王が最も欲した援軍の派遣はしませんでした。 そのため彼は軍事的にはほぼ純粋に孤軍奮闘する事を余儀なくされます。

そんな中の1759年8月、ついに最大の脅威が訪れます。オーストリア軍3万とロシア軍4万が合流し、プロイセンの首都ベルリンを目指して進撃を開始したのです。その数合計7万余。それに対しフリードリッヒ大王はこれを阻止すべく、配下の主力部隊およそ5万を率いてこれを迎え撃ちます。「クネルスドルフの戦い」の始まりです。

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上は戦闘中のプロイセン軍将兵の姿です。 しかしこの戦いは大きな失敗でした。彼の作戦ミスにより、ただでさえ少ない兵力のうち1万9千もの死傷者を出し、最強を誇ったプロイセン軍は総崩れとなり、フリードリッヒ大王自身も負傷して、彼の元に残った残存兵力はわずか3千という大敗を喫してしまいます。この時彼はこの惨めな敗北にベルリンの留守を預かる大臣に手紙をしたため、自分亡き後の王位を甥のフリードリッヒ・ヴィルヘルムに譲る事を告げ、さらに死を覚悟してこんな事を書いています。

「私のせいで多くの兵を失った。 私にはもうプロイセン軍の総司令官としての資格などない。 私は生き恥をさらして祖国が滅びる様を見たくは無い。 皆さようなら、永遠に。」

いかに彼が死を覚悟して絶望していたか分かりますね。

しかしここで「奇跡」が起こります。プロイセン軍が敗れたことによって首都ベルリンへの道は無防備に開かれていたのに、オーストリア・ロシア連合軍はそれ以上進撃しなかったのです。 その理由は両軍が決して仲が良くなく、不協和音と意地の張り合いから協力しなかった事です。さらにそうしているうちに一旦総崩れとなったプロイセン軍が再び王の下に集結し、兵力は一気に3万にまで回復していました。


勢力を盛り返すと、人間の心情とは現金なものです。大王は数日前までの意気消沈した姿から一変、自ら兵の先頭に立ち、軍旗を掲げてたった一人で前進し、その姿を見た将兵たちは大いに士気を上げ、「王に続け!」と彼の後に付き従いました。

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このプロイセン軍が強かった理由は、当時最新の装備と厳しい訓練や軍律などが挙げられますが、何よりも戦場で常に兵士たちと苦楽を共にするフリードリッヒ大王に対する兵士たちの絶対的な忠誠心が大きいでしょう。この戦い以降も彼らにとって苦しい戦いは続き、1760年には首都ベルリンがついにオーストリア・ロシア連合軍に占領されるのですが、大王率いるプロイセン軍がたった4日で取り返し、(というより連合軍は略奪しただけですぐに撤退したそうです。)その後もしぶとく抗戦を続けていきました。

そこに2度目の「奇跡」が起こります。1762年1月、プロイセン包囲網の東の敵であるロシアのエリザヴェータ女帝が52歳で急死したのです。 後を継いでロシア皇帝となった甥のピョートル3世は使節をベルリンに送ってプロイセンと講和し、さっさと戦争から離脱してしまいました。

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上がロシア皇帝ピョートル3世です。(1728~1762)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝11代皇帝で、プロイセンのフリードリッヒ大王の熱烈な崇拝者でした。彼はそうしたかなり個人的な理由からプロイセンと講和してしまったので、ロシア国内から激しい反発を買い、なんと皇妃エカテリーナのクーデターによってわずか6ヶ月で帝位を剥奪され、近衛部隊によって密かに暗殺されるという非業の最期を遂げています。(かわいそうですね。)

この2つの奇跡(その舞台がベルリンを含むブランデンブルク一帯であった事から「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれています。)によって、風前の灯であったプロイセンは息を吹き返します。 すでに戦争開始から7年が経過し、プロイセンはもちろん関係各国も長い戦いに疲れ果てていました。フランスはイギリスとの新大陸での戦争に釘付けでとうにドイツから手を引き、ロシアは先に述べた通り、さらに北のスウェーデンも撃退に成功し、残るはオーストリアのみとなっていました。

情勢は一気にフリードリッヒ大王に有利となります。1763年プロイセン軍は再びシュレージェン地方を奪い返し、オーストリア軍を蹴散らして戦線を大きく南に押し戻す事に成功しました。そしてついに彼は状況不利と見たオーストリアのマリア・テレジアと講和条約を締結し、戦争を終結させる事が出来たのです。

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この「ブランデンブルクの奇跡」は多分に偶然と幸運が重なったものですが、それによって救われたフリードリッヒ大王の逸話はその後のドイツの人々に強烈に記憶され、フリードリッヒ大王を最も尊敬する人物と敬愛し、第2次世界大戦を引き起こした独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソ連軍に包囲されて敗北目前のベルリンの地下壕で、自分と似たような状況にあった大王と自分を重ね合わせ、この奇跡が自分にも起こる事を願い続けていたそうです。(ヒトラーがそんな妄想を抱いたのは、ちょうど1945年4月に米国大統領ルーズベルトが亡くなり、情勢が変わるかもしれないと期待したからです。 しかし結果は皆さんもご存知の通り何も変わらず、ヒトラーは破滅する事になります。上の画像はベルリンの地下壕で生前のヒトラーの姿を映した最後の写真といわれているものです。)

次回に続きます。

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異色のライバル ・ 女帝と大王のその後

みなさんこんにちは。

1763年2月、プロイセン王フリードリッヒ2世に奪われた領土奪還のため、フランス、ロシアを巻き込んで復讐戦に臨んだオーストリア女帝マリア・テレジアが起こした「七年戦争」は、終わりを迎えようとしていました。

その名の通り7年続いたこの戦争で、一度は宿敵プロイセンのフリードリッヒ大王を存亡の淵にまで追い詰めたテレジアでしたが、フリードリッヒ大王率いる強力なプロイセン軍の粘り強い抵抗により戦争は長期化、フランスはイギリスとの戦いに明け暮れてけん制の役に立たず、さらに同盟者ロシアの女帝エリザヴェータの死と、ロシアの一方的な同盟離脱という思わぬ誤算が致命的となり、オーストリア絶対優勢であった形勢は逆転、反撃に転じたフリードリッヒ大王によって再びシュレージェン地方を奪い取られ、テレジアのオーストリア軍は国境付近まで後退を余儀なくされてしまいます。

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上がこの頃のマリア・テレジアです。(1717~1780)

もともと彼女がプロイセン打倒のためにフランスやロシアと同盟したのは、オーストリア一国だけでは軍事的に強力なプロイセンに勝てない事を最も良く知っていたからです。テレジアは自国の軍隊の改革に力を注ぎましたが、オーストリア軍の弱点である多民族の混成部隊ならではの言語、宗教、文化の違い、さらに帝国内の民族間の階級差別や対立などは容易に変える事は困難でした。(いくら最新の銃や大砲を持たせても、それを使う末端の将兵たちが一致団結していなくては、戦いには勝てないでしょうね。 その点プロイセン軍将兵の方は純粋なドイツ人だけで構成され、さらに彼らが死をもいとわぬ忠誠の対象と崇める強大なフリードリッヒ大王という存在がありました。)

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上がプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)

長い戦いに各国は大きく疲弊していました。特に財政面の痛手が大きく、膨らむ戦費が国家財政を圧迫し、国内からは戦争をやめろという声が階級を問わず広がり、諸国は次々に兵を引いて本国に撤退してしまいます。 またマリア・テレジアも年を取り、若さゆえの意地とプライドから戦争を継続していた未熟な頃とは違い、物事を大局的に見る君主として大きく成長していました。

「これ以上戦い続けるのは無理です。あの男に譲るのは私としては痛恨の極みですが、わが国民のためにこのあたりで戦争を終わらせましょう。」

彼女はついにこう決断してプロイセンとの講和条約交渉を臣下に命じます。「あの男」とは、テレジアが生涯の仇敵として憎んだプロイセン王フリードリッヒ2世の事です。(この2人は恐らく世界史上稀に見る異色のライバルでしょう。 なぜなら同性同士のライバルは珍しくありませんが、この2人は異性同士だったのですから。)こうして1763年2月、オーストリア、プロイセン両国との間で講和条約が結ばれ、プロイセンによるシュレージェン地方の領有が確定します。 何のための戦争だったのか、テレジアにとってさぞ無念だった事でしょうね。

さて、その後この2人はどの様な生涯をたどったのでしょうか?

まずマリア・テレジアの方ですがこちらは有名なので、歴史好きな方なら良く知られていると思います。彼女は相思相愛の夫フランツ1世との間に5男11女16人もの子宝に恵まれ、ウィーンの郊外に壮麗なシェーンブルン宮殿を建設し、ハプスブルク家の栄華を内外に知らしめます。


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上がマリア・テレジアの居城ともいうべきシェーンブルン宮殿と内部の大ギャラリーです。(シェーンブルンとは「美しい泉」という意味だそうです。)この宮殿は部屋数実に1400以上を数え、フランス・ブルボン王家のヴェルサイユ宮殿を完全に真似たスタイルで造られています。

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上がマリア・テレジアの家族と夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世です。(1708~1765)神聖ローマ皇帝位はすでに200年以上前からハプスブルク家世襲のものになっていましたが、テレジアの父カール6世が後継男子に恵まれず、さらに女帝を認めない帝国の古い慣習法によって娘のテレジアを皇帝にする事は出来ず、やむなく夫であるフランツ・シュテファンが皇帝となり、テレジアは正式にはその皇后という存在でした。(この時点でハプスブルク家はフランツ・シュテファンの実家ロートリンゲン家と一つになり、「ハプスブルク・ロートリンゲン家」となります。)

このフランツ1世は皇帝とは名ばかりで、国政の実権は全て妻テレジアが握っており、ハプスブルク宮廷の家臣や貴族たちからも影ではよそ者扱いされ、フランスとドイツ国境の小国ロレーヌから名門ハプスブルク家に 「婿入り」 した彼はとても肩身の狭い思いをしていた様です。 しかし彼は別段すねる事もなく運命を受け入れ、天性の陽気さと大らかさから愛する妻テレジアに尽くし、また子供たちの良き父親としての生涯を見事に全うしました。

ほとんど知られていませんが、このフランツ1世はうらやましい事に大変な財運の持ち主で、ハプスブルク家の所領から上がる様々な産物 (トスカーナのワイン、ミラノの絹織物、チロルの岩塩、ウィーンの陶磁器、ハンガリーの牛肉、ボヘミアのカットグラスなど)を巧みに各国に売りさばいて大きな利益を上げ、さらに金融業や保険にも投資して莫大な資産家になっていました。妻のテレジアがオーストリアを継承して以来、絶えず続いた対外戦争で、オーストリアの国家財政は何度も破綻寸前になりましたが、その都度彼は妻のために自分の個人資産から戦費を無償で供与し、テレジアは戦争を続ける事が出来たそうですから、彼が一国の財政を肩代わり出来るほどの巨額の資産を持っていた事がお分かりいただけると思います。

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その愛する夫フランツ1世が1765年に57歳で亡くなると、テレジアは悲しみに暮れ、以後は彼女自身が亡くなるまで上の画像の様に喪服で過ごし、あれほど気に入っていたシェーンブルン宮殿にも、夫フランツを思い出してつらいからと滅多に行く事は無くなったそうです。

では一方のフリードリッヒ大王はその後どうしていたのでしょうか?

実は彼はこの七年戦争で手ひどく痛い思いをしたものの、その後もしたたかに領土を広げていました。といってもテレジアのオーストリアに対してではありません。(もうこりごりでしょうからね。笑)ポーランドの混乱に付け入り、ロシア、オーストリアとともにポーランドを分割したのです。


それにしても、ロシアはともかくつい数年前まで熾烈な戦いを繰り広げていたプロイセンとオーストリアが、なぜ今度は接近する事が出来たのでしょうか? 実はこの時オーストリアには宿敵マリア・テレジアが健在でしたが、帝位はフランツ1世の死後長男ヨーゼフ2世が継承していました。しかし母テレジアにとって皮肉な事に、最愛の息子ヨーゼフ2世はなんと彼女の仇敵フリードリッヒ大王の大ファンだったのです。

そんな母子の隙間を大王は見逃しませんでした。彼は若いヨーゼフを上手く誘い込み、この分割に参加させます。

「私はかつて貴方の母上から卑劣にも領土を奪った者です。その許しを得ようなどとは思いませぬが、せめてものお詫びとして新たな領土をオーストリアに進呈して差し上げましょう。」

この時30歳の若いヨーゼフ2世は憧れの大王からの言葉にすっかり乗せられ、母の反対を押し切ってこの分割に参加してしまいます。 もちろん彼なりの考えもありました。ヨーゼフは母テレジアの愛情には深く感謝していましたが、今だに院政を敷く母テレジアに対して対抗したい年齢を迎えていました。 またハプスブルク宮廷においても、ヨーゼフ2世を奉ずる若い家臣や貴族たちが台頭し、テレジアとその側近たちからなる古参家臣との間の対立もあったのです。


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上がポーランド分割の3カ国の取り分です。この分割は20年以上をかけて3度に亘って行われ、最終的に1795年の第3回分割でポーランド王国は消滅してしまいます。

フリードリッヒ大王はうまくヨーゼフを利用し、今度は戦わずして広大な領土を手に入れたのです。彼は七年戦争で大きく学び、以後は大規模な戦争を避け、外交戦を駆使してプロイセンが孤立する事の無いよう苦心し、疲弊した国力の回復に努めます。また貧しい国民のために、プロイセンの寒冷で痩せた土地でも栽培出来るジャガイモの栽培を奨励し、後にこの 「ジャーマンポテト」 はドイツの代表的農産物になります。

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上は農地を視察して農民に気さくに接する晩年のフリードリッヒ大王です。度重なる戦を招いて国土を荒廃させ、国民を苦しませてしまった贖罪の気持ちがあったのでしょうね。

晩年の彼は戦争に明け暮れた生活から一変、戦争を極力避け、政務に没頭する生活になります。 彼は自らが設計にも携わったサンスーシ宮殿に居を構え、亡くなるまでこの宮殿で過ごします。

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上がフリードリッヒ大王の居城であるポツダム郊外のサンスーシ宮殿です。(サンスーシとはフランス語で、 「憂いの無い」 つまり「何の悩みも不安も無い」という意味だそうです。きっと彼の願望だったのでしょう。)この宮殿は部屋数がたった10しかなく、1400もの部屋数を誇るマリア・テレジアのシェーンブルン宮殿とはとても対照的ですね。

1786年8月、フリードリッヒ大王は老衰のため74歳で崩御します。プロイセン国民は親しみを込めて「フリッツ爺さん」の死を心から悲しんだそうです。彼は結婚はしていたものの、父王が決めた結婚への反発からその王妃との間に子を成さなかったため、王位は甥のフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世が継承しました。

一方マリア・テレジアの方はフリードリッヒ大王より早く、夫フランツ1世の死から15年後の1780年に63歳でウィーンの王宮で崩御しています。彼女の愛した子供たちに看取られた安らかな死だったそうです。

次回に続きます。

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革命皇帝ヨーゼフ2世 ・ 改革とモーツァルトを愛した皇帝

みなさんこんにちは。

数々の戦いを勝ち抜き、「オーストリアの国母」と国民から慕われた女帝マリア・テレジアが1780年に63歳で崩御すると、新たに神聖ローマ皇帝並びにオーストリアの主となったのはその長男ヨーゼフ2世でした。

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上が新皇帝ヨーゼフ2世です。(1741~1790)彼は偉大な母マリア・テレジアが産んだ待望の長男として特に溺愛され、将来の皇帝になるべく他の兄弟たちとは別格の扱いを受けて育ちました。(あのフランス革命で処刑される事になるマリー・アントワネットの一番上の兄に当たる人です。)

ヨーゼフ2世は先帝である父フランツ1世が1765年に亡くなった後24歳で皇帝となり、その即位は母テレジアとの親子共同統治という建前でしたが、実際には国政の実権は母テレジアが依然として握っており、君主としての経験の浅い彼は父フランツ1世同様「お飾り」に近いものでした。

皇帝とはいえ国の重要な事は全て母とその取り巻きの家臣たちによって決められてしまうため、若い頃の彼はかなり暇を持て余していた様です。そんな彼に一人の人物の著作が目に止まります。それは北の隣国プロイセンの王フリードリッヒ2世の書いた政治や君主のあり方についての著作でした。

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上は宮殿で親しい人々を招いて得意のフルートを奏でるプロイセンのフリードリッヒ大王です。(1712~1786) 彼は軍事の天才で、一代でプロイセンを強国に仕立てた優れた王ですが、私生活では音楽や哲学を愛し、その政治思想と合わせて当時の内外の君主たち、とりわけ若い王侯貴族たちに多大な影響を与えています。 ヨーゼフ2世もそんな若い君主の一人でした。

ヨーゼフ2世はフリードリッヒ大王の本を読んでその政治思想にたちまち共鳴し、すっかり大王の魅力の虜になってしまいます。 このフリードリッヒ大王の政治思想とはフランスの啓蒙思想に影響されたもので、彼曰く

「君主とは、国家の第一の下僕である。」

というものです。 つまりそれまでの君主は国家と国民を「所有物」として私物化し、その上に君臨する支配者であったのですが、彼は国家を第一の存在とし、その国家における君主というものの在り方や役割を、国家の運営と繁栄のために必要な一種の「機関」として考えるというものでした。


それからのヨーゼフは熱心に大王の著作を読み耽り、やがて自分が皇帝として親政を開始する際の教科書として大いに活用します。 しかし彼の行為は母テレジアにとって許すべからざるものでした。 なぜなら彼女にとってフリードリッヒ大王は、彼女がオーストリアの女帝として即位してからその脆弱さに付け込んで攻め入り、領土を奪い取った不倶戴天の敵であったからです。

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上はヨーゼフ2世の母マリア・テレジアです。

テレジアは彼女がその生涯で最も憎み嫌ったフリードリッヒ大王を、愛する息子を惑わす「魔王」に例え、なんとかヨーゼフの大王への心酔を止めさせようとしました。(テレジアにはフリードリッヒ大王が領土だけではなく、今度は何ものにも代えられない愛する息子ヨーゼフを彼女から奪おうとしている様に思えたのかもしれません。)しかし、ヨーゼフの心を動かす事は出来ず、逆に息子から母の国政の進め方への反対を招く様になってしまいます。 その例が1772年の第一回ポーランド分割です。

これはフリードリッヒ大王の主導の下、プロイセン、オーストリア、ロシア3国でポーランドを分割しようというもので、ヨーゼフ2世にも大王から丁重な参加の打診が来ていました。

これを知ったテレジアは、かつてウィーンがオスマン帝国の大軍に包囲された時に、ポーランド王率いる救援軍によってオーストリアが救われた事や、それ以前からもポーランド王家とハプスブルク家の関係は伝統的に比較的良好であった事から、「恩を仇で返す様なものだ。」として分割に反対しました。

しかしヨーゼフは母の反対を押し切ってこの分割に参加してしまいます。

「母上のお考えは良く承知いたしております。しかし皇帝は私です。母上にはこの件について口を差し挟まれる事はご遠慮願いたく存じます。」

このヨーゼフの返事に、テレジアは言葉を返す事は出来ませんでした。それもそのはずで、なんといっても皇帝は息子ヨーゼフなのです。それにこの頃からハプスブルク宮廷においても世代交代の波が押し寄せて来ており、ヨーゼフの下には若い家臣たちのグループが出来上がっていました。


さすがは偉大な女帝です。 すでに老齢で体調も崩しがちであったテレジアは自分の役割が終わりに近づいている事を感じ、それ以上固執する事無くこの頃から自分亡き後の息子ヨーゼフへの速やかな権力移譲に向けて内外への根回しに動き出します。(かつての自分が即位した時の様な苦労を愛する息子にさせたくないという親心でしょうね。)

そうした母の愛情を息子ヨーゼフは知っていたのか定かではありませんが、ともあれ1780年に偉大な母テレジアが崩御した際にも、ヨーゼフはさしたる混乱も無く今度は完全に帝国の全権を継承しました。

名実ともに帝国の主となったヨーゼフ2世は、早速母の時代に自由に出来なかった様々な改革を実行に移します。彼がまず手を付けたのは農奴解放でした。 この「農奴」というのは中世ヨーロッパにおける農民の大半がそうであったもので、その身分は土地とそれを支配する封建領主に釘付けにされていました。彼は農奴に土地の私有と自由を与え、農民たちにやる気を起こさせて農業生産力を高めようとしたのです。

次に彼が手を付けたのは宗教政策でした。彼は帝国内の多くの修道院を解散させ、その財産を国庫に入れる事で財政の健全化を図ります。(彼がこんな形で強硬に教会の財産を取り上げたのは、母テレジアが続けた戦争によって国家財政が苦しかったためと思われます。)

さらに階級の上下を問わず、市民の誰でも入れるウィーン総合病院を開設したり、ハプスブルク家の領地の一部に大きな公園を造り、市民に無料で開放して市民から大変喜ばれました。

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上がヨーゼフ2世が造った「プラーター公園」です。 後の時代に公園内に大規模な遊園地が造られ、現在もウィーン市民自慢の憩いの場となっています。

この皇帝ヨーゼフ2世は音楽愛好家でもあり、彼が宮廷に招いた数多くの音楽家のうちで最も有名なのが、誰もがご存知のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。

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上が良く知られたモーツァルトの肖像画です。(1756~1791)彼は35年の短い生涯のうちに900曲もの曲を残し、ベートーベンと並んでその名は小学生でも知っているでしょう。ちなみに上の肖像画は最も有名な彼の肖像とされていますが、これは彼が亡くなってから28年後に想像で書かれたもので、本当にこんな顔立ちであったか定かではないそうです。

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このモーツァルトについては、本よりも上に載せた1984年製作の映画「アマデウス」をご覧になるのが一番でしょう。皇帝ヨーゼフ2世もモーツァルトにとって欠かせない人物として作中に頻繁に登場します(演じている俳優さんがヨーゼフ2世そっくりです。笑)モーツァルトの才能に深く感動し、同時に激しく嫉妬する宮廷音楽家サリエリによって、彼が死に追いやられていく姿が印象的です。

様々な改革を実行に移し、商工業を発達させ、王権強化と富国強兵を図ったヨーゼフ2世に対し、市民は彼を「皇帝革命家」と呼び、亡き国母テレジアと同じく慕われた存在でしたが、残念ながら彼が行った改革はごく一部の当たり障りのないものを除いてほとんどが挫折を余儀なくされます。その原因は貴族や教会などの旧勢力の抵抗でした。 彼らは自分たちの既得権益を守るためにあの手この手で皇帝の改革を邪魔立てしたのです。

皇帝の改革の失敗は、彼が尊敬する精神的な師匠でもあったフリードリッヒ大王をして

「第一歩より先に、第二歩を踏み出している。」

とまで批評されてしまいます。つまりあまりにも改革を急ぎすぎたのです。


フリードリッヒ大王の毒舌は有名でしたが、憧れの大王からこう批評され、皇帝はかなりのショックを受けた様です。 さらに1789年、はるか西のフランスで本物の大革命が勃発、その翌年の1790年、ヨーゼフ2世は失意の内に49歳で病で亡くなります。その墓碑銘は尊敬するフリードリッヒ大王に似て自らへの皮肉と毒舌を込め、

「良き志を持ちながら、何事も成さざる者ここに眠る。」

というものでした。

次回に続きます。

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帝国崩壊の序曲 ・ フランス革命とナポレオンの出現

みなさんこんにちは。

国母マリア・テレジアの後を継いで神聖ローマ皇帝となり、数々の改革を実行に移しながら、その性急さと旧勢力の抵抗により挫折を余儀なくされた長男ヨーゼフ2世が1790年に亡くなると、次に帝位を継いだのは弟のレオポルト2世でした。

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上が皇帝レオポルト2世です。(1747~1792)彼は母マリア・テレジアの三男で、長兄ヨーゼフ2世との間にもう一人次男のカール・ヨーゼフという兄がいましたが、その兄は16歳の若さで亡くなっており、長兄ヨーゼフ2世も皇妃を早くに亡くして子を残さなかったため、相続順位から彼が皇帝となりました。

レオポルト2世は最初は父フランツ1世の死後、父からイタリアのフィレンツェを中心とするトスカーナ大公国を受け継ぎ、18歳の若さでその大公となっていました。 そこで彼は兄ヨーゼフ2世とは比較にならない名君ぶりを発揮して、かつてトスカーナの支配者であった名門メディチ家の断絶後、疲弊と没落の極みにあったトスカーナを見事に復活させ、皇帝になるまで25年間もフィレンツェを統治していました。

彼は父フランツ1世譲りの財政家としての才能もあり、父から受け継いだ莫大な遺産も手堅く増やしています。 また兄ヨーゼフ帝が失敗した改革も、兄と同じく進歩的な啓蒙思想に彩られた彼のトスカーナではかなり成功していますが、これはトスカーナが小国で人口も少なかったため、領土の隅々まで彼の改革が届き易かったからでしょう。 その点兄ヨーゼフ2世は広大な帝国領土の維持と、依然として力を持つ旧勢力の抵抗などの帝国の古い体質、さらに帝国内の多くの民族が抱える複雑多岐な問題などが改革失敗の原因の一つと思われます。

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上は兄帝ヨーゼフ2世と手を取り合う弟レオポルト2世です。すでに何度か当ブログでも触れましたが、このハプスブルク家の遺伝的長所として代々一族親子兄弟みな大変仲が良く、この肖像画を見ても、兄弟力を合わせて帝国を運営していこうという2人の強い意志が伝わってきますね。(自分がそう感じるだけでしょうか。 笑)

さて、レオポルト2世が帝位を継ぐ2年前の1789年、西のフランスでは大事件が起きていました。1789年7月、フランス革命が勃発、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが逮捕されたのです。

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上がフランス革命の発端となった「バスティーユ牢獄の襲撃」と、王妃マリー・アントワネットです。この牢獄をパリ市民が襲撃したのは多くの知識人が収容されていた事と、武器弾薬の貯蔵庫であった事から戦いに必要なそれらを奪うのが目的でした。 またマリー・アントワネットは皇帝レオポルト2世の妹で、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家との政略結婚でフランスにいた事が彼女の悲運であった事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。

マリー・アントワネットは兄レオポルト2世に救援を要請し、レオポルト帝は妹を救うべく革命の波及を恐れるプロイセンと同盟して「国王一家を釈放しなければ軍勢を差し向ける。」とフランスの革命政府に通告します。しかしこれは逆効果でした。革命政府といっても、彼らは激情に駆られて王政を倒した烏合の集団に過ぎず、

「このまま国王一家を生かしておいては自分たちが外国に攻め込まれて滅ぼされる。 それに諸国の圧力に屈して国王一家を釈放すれば、そもそも革命を起こして王政を倒した意味が無い。」 

として要求を断固拒絶し、徹底抗戦を決定したのです。


そんな中の1792年、皇帝になったばかりのレオポルト2世が急な病で崩御してしまいます。即位からわずか2年余りの短い在位でした。彼はトスカーナで発揮した政治手腕とその名君ぶりから多くの人々から期待されていたのですが、45歳の早すぎる死に、後の歴史家などは彼がもっと長生きしていれば、情勢はかなり変わっていたのではないかといわれています。いずれにせよ、彼の急死によってマリー・アントワネットの救出はほぼ絶望的となってしまいました。

しかし、幸いレオポルト2世はハプスブルク家にとっては大きな遺産を遺して逝きました。それは彼が大変な子だくさんであった事です。彼はスペイン王女であった王妃ルドヴィカとの間に16人もの子を成し、さらにそのうち12人が男子でした。この様に彼がたくさんの男子を残した事により、以後ハプスブルク家はマリア・テレジアの時の様に後継者に困る事は無くなります。(現在のハプスブルク家当主も彼の家系の子孫です。ここで個人的に全く余談で恐縮ですが、わが天皇家もいずれ悠仁親王殿下ご結婚の際には、たくさんの皇子殿下のご誕生を天照大神にお祈り申し上げてやみません。)

そしてレオポルト2世の多くの息子たちのうち、その帝位を継承したのは長男フランツ2世でした。

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上が新皇帝フランツ2世です。(1768~1835)彼は先に述べた先帝レオポルト2世の長男として、またやがては次の皇帝となるべく教育され、即位した時は24歳の若者でしたが、どうもその後の歴史を見ると、他の多くの弟たちの方が有能な人材が多かった様です。 しかし彼はそれよりも別の次元で歴史に名を刻む事になります。それは彼が最後の神聖ローマ皇帝として、800年以上続いてきた帝国の歴史に終止符を打つことになるという事です。 まさかこの時点で彼がこの神聖ローマ帝国の最後の皇帝になるとは、本人はもちろん誰も予想だにしませんでした。

若いフランツ2世が即位した頃、フランス革命はその真っ最中でしたが、ハプスブルク家の奮闘空しく彼の叔母に当たるマリー・アントワネットは処刑され、さらにフランス革命政府を倒すべくオーストリア他各国の君主国が同盟してフランスとの戦争が勃発していました。そしてその混乱の最中、彗星の様にフランスに一人の英雄が現れます。 みなさんご存知のナポレオン・ボナパルトです。

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上がこの頃のナポレオンです。(1769~1821)彼はフランツ2世とほぼ同い年で、フランス革命勃発時はまだ若干20歳の見習士官でした。また意外なのですが、若き日のナポレオン自身は革命にはほとんど無関心で、実際故郷のコルシカ島に帰っているくらいです。彼が将軍として抜擢され、栄達の道を歩む事になるのは1795年以降で、たまたま革命とナポレオンの人生が重なっただけに過ぎないともいえるでしょう。 それが証拠にその後の彼の人生は、革命とはあまり関係が無い、自分自身の野望達成と栄光を追い求めたものでした。

革命の混乱を武力で収拾し、イギリスやオーストリアをはじめとする周辺国との戦いにも次々に勝利したナポレオンはフランス国民から絶大な支持を得、1799年に脆弱な政府を倒して自ら「統領政府」を興し、その第一統領として事実上フランスの実権を握ります。なんとこの時ですら彼はまだ30歳でした。

やがてこのコルシカ生まれの気性の激しい若者の目は、ドイツ神聖ローマ帝国へと向けられていきます。

このナポレオンの台頭に対して、皇帝フランツ2世率いるオーストリアは各国と協力して敢然と立ち向かいましたが、結果は惨敗に終わります。 このナポレオンとの一連の戦いで、オーストリア・ハプスブルク家はネーデルラント南部(現ベルギー)とミラノを中心とする北イタリアをナポレオンに奪われてしまいます。

もはや飛ぶ鳥を落とす勢いのナポレオンに対し、皇帝フランツ2世はアルプス山脈を自然の要塞として国境の防戦に手一杯でした。 やがて全ヨーロッパはこのナポレオンの思いもよらない前代未聞の行動により激しく揺さぶられ、その最中で神聖ローマ帝国はその長い歴史の終わりを迎える時が迫っていたのです。

次回に続きます。

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神聖ローマ帝国の最後 ・ 皇帝自ら帝冠を脱ぐ

みなさんこんにちは。

1789年のフランス革命の勃発と、その後のナポレオンの出現によって、今やヨーロッパは一大転換期を迎えようとしていました。この革命によってフランスが共和制国家となる事は、ハプスブルク家のオーストリアをはじめとする全ヨーロッパの君主国に対する挑戦であり、断じて認める事は出来ないものでした。またこれらの国々の王侯たちが何より恐れたのは革命の波及が自国にも及ぶ事で、フランス王であったルイ16世と王妃マリー・アントワネットの様に、民衆によって処刑されるかも知れないという言い様の無い恐怖感が王侯たちの中に渦巻き、彼らはフランス革命政府を叩き潰すべく、同盟して一斉にフランスに攻撃を仕掛けたのです。

「どうと言う事は無い。 革命政府など潰してしまえば良いのだ。 その後でフランスの領土をみなで山分けにすれば良い。」

という訳です。

これらの国々は一致団結して「対フランス大同盟」を結成します。この同盟に参加した主な国はイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、スウェーデンなどで、1793年の第一次からナポレオンの失脚に終わる1815年の第七次まで7回も結ばれ、ヨーロッパは通算20年以上に及ぶ「ナポレオン戦争」の渦に巻き込まれていきます。


正にフランスにとっては国家存亡の危機です。しかしこの時フランスには若き将軍ナポレオン・ボナパルトが頭角を現し、巧みな戦術でこれらの敵を次々に撃破してフランス民衆から絶大な支持を得るとともに、脆弱な政府を倒して自らの政権を樹立し、フランスの実権を握ります。

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上が有名な「ナポレオンのアルプス越え」を描いた肖像画です。ナポレオンがお気に入りの宮廷画家ダヴィッドに描かせたもので、彼を描いた最も有名な絵ではないでしょうか。白馬にまたがり、颯爽と軍勢を指揮する勇ましい姿ですが、良く見ると人物と馬の大きさがおかしいですね。乗馬の経験があれば分かりますが、どんなに足が長い人でもここまで足を折り曲げた状態にはなりません。それに現実にはアルプス越えの際にナポレオンが乗っていたのは「ロバ」だったそうです。(これは明らかにカッコ良く誇張して描き過ぎですね。 ナポレオンの性格からして無理からぬ事ですが、ダヴィッド画伯の苦労が偲ばれます。 笑)

さて、ナポレオンがフランスの新たな指導者となっていた頃、オーストリア・ハプスブルク家の皇帝はフランツ2世という人物でしたが、彼をはじめとする対フランス同盟軍はナポレオンの活躍によって連戦連敗を重ね、逆にそれがナポレオンに権力の階段を登らせる事になってしまいます。

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上が皇帝フランツ2世です。(1768~1835)彼は神聖ローマ皇帝ではありましたが、すでにその帝位は何の価値も無いものになって久しいものでした。

1804年、ナポレオンはついにそれまで誰も考えも付かなかった計画を実行します。 彼はなんとフランス民衆の絶大な支持を背景に、議会の議決と国民投票を経て、ナポレオンとその子孫に世襲でその位を継がせる「フランス皇帝」の地位についたのです。これによりフランスは帝政となり、ボナパルト朝フランス帝国なるものが成立します。(いわゆる「第一帝政」というものです。といってもナポレオン一代限りでしたが・・・。)

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上が皇帝となったナポレオンと、その戴冠式の様子を描いた絵です。

このナポレオンの皇帝即位に、「本物の皇帝」であるフランツ2世はもちろん、ヨーロッパ中の人々が驚愕しました。なぜなら「フランス皇帝」などというものは、今まで誰も見た事も聞いた事も無いものだったからです。

ヨーロッパの人々にとって、「帝国」とは「ローマ帝国」の事であり、「皇帝」とは「ローマ皇帝」を指すものでした。そのローマ帝国も、その系譜を引き継ぐ直系の東ローマすなわちビザンツ帝国もとうに滅び去り、ヨーロッパにおいて帝国とその皇帝といえば、ローマ教皇庁が自身の権威付けのために、当時興隆していたカロリング朝フランク王国を利用して復活させた西ローマ帝国の後継である東フランク王国から発展した「神聖ローマ帝国」の事でした。(実際には、はるか東の辺境にオスマン帝国とロマノフ朝ロシア帝国がありますが、オスマンは異教徒イスラムであり、またロシアの場合はロマノフ家が先に述べたビザンツ帝国の最後の皇帝家であるギリシャのパレオロガス家の皇女を皇妃に迎え、ゆえにロシアがローマ帝国の継承者であるとかなり「苦しく」自称しているに過ぎないものでした。)

ナポレオンは、自分の帝位はこれらの古い皇帝の概念とは違い、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たないものであるとして、自らの皇帝即位が全く新しいものである事を内外に宣言したのです。

この「新しい皇帝」ナポレオンに対し、「古い皇帝」フランツ2世は初めは怒りを覚えましたが、すぐに別の考えが閃きます。 それは彼もナポレオンのマネをして全く新しい「オーストリア皇帝」となる事です。彼は神聖ローマ皇帝ではありましたが、彼の帝位は神聖ローマ帝国というもはやとうに実体の無い名ばかり国家のものに過ぎず、当然何の実権もありません。「ならばこんな帝位など捨てて、自分もナポレオンの様に自分の国オーストリアの皇帝になって何が悪いというのだ。」というのです。

フランツ2世はこう決心すると、ナポレオンの皇帝即位から3ヶ月もしないうちに、「オーストリア皇帝フランツ1世」として即位してしまいました。

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上が「オーストリア皇帝フランツ1世」として即位したフランツ2世です。 ここで彼が「1世」を名乗っているのは、オーストリア皇帝としては彼が初代であるからです。

こうしてヨーロッパに皇帝が3人も並ぶ、世にも奇妙な事態が発生しました。ただしここで間違えてはいけないのは、フランツ帝は神聖ローマ皇帝の位もすぐに捨ててしまったわけでは無いという事です。その間にもナポレオンとの戦争は続いており、帝国内のドイツ諸侯を味方にしておく必要があったからです。 しかしナポレオンとの戦いはオーストリアの敗北に終わり、1806年7月に帝国内のドイツ諸侯16カ国がナポレオンの圧力に屈し、「ライン同盟」を結成して神聖ローマ帝国からの離脱を宣言してしまいます。

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上の図の一枚目がナポレオンの最大勢力範囲で、二枚目がライン同盟を結んで帝国から離脱したドイツ諸侯です。ドイツのほとんどが帝国から離脱した事がお分かりいただけると思います。

もはやドイツ神聖ローマ帝国の維持は完全に不可能となりました。事ここに至り、フランツ帝は神聖ローマ皇帝の退位と、帝国の解散を決意し、次の様な宣言を発しました。

「朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたものと見なし、これにより、朕とドイツ神聖ローマ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。

これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そしてその他全ての帝国の構成員に対し、帝国法によって定められた全ての義務を解除する。」


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上がフランツ2世の神聖ローマ皇帝退位と帝国解散の宣言書です。これが、ヨーロッパ中央部に800年以上に亘って君臨した大帝国の最後でした。 そしてさかのぼる事800年以上前の962年、初代皇帝オットー大帝の即位によって成立して以来、4つの王朝と40人の皇帝が君臨した世界史上稀に見るユニークな国家「神聖ローマ帝国」はここに正式に滅亡したのです。

このテーマの第一回冒頭で述べた様に、この神聖ローマ帝国の歴史はそれそのまま古代ローマ帝国滅亡から千年続いたヨーロッパ中世の歴史そのものであり、この帝国の歴史を学ぶ事はヨーロッパ中世の知識を網羅して学ぶ格好の材料と思います。 この神聖ローマ帝国の歴史はここで終わりますが、当ブログの今回のテーマである神聖ローマ帝国の記事は全部で48回もありますので、歴史好きの方などがコーヒーでも飲みながら暇つぶしに読んで頂いたり、大学生などの若い方のレポートなどに活用して頂けたら嬉しい限りです。

次回から、帝国のもう一つの主役であるハプスブルク家のその後を番外編の様な形で始めたいと思いますので、ご興味のある方は立ち寄ってみてください。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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