三十年戦争の転換点 ・ グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインの対決

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝フェルディナント2世率いるカトリックとプロテスタント勢力との戦いは、1618年のボヘミアにおける皇帝への反乱から始まりました。このボヘミア戦役は1623年に皇帝軍の勝利で終わり、皇帝はボヘミアを完全に支配下に置くと、「カトリックの守護者」を名目にハプスブルク家による絶対君主制の確立を目指して動き出します。

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上が当時の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世です。(1578~1637)

しかし初戦の勝利も束の間、劣勢に立たされたプロテスタント勢力の救援要請によって、1625年に北方からデンマーク王クリスチャン4世率いる2万余のデンマーク軍が北ドイツに侵攻し、戦争は新たな局面を迎えました。

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上が時のデンマーク王クリスチャン4世です。(1577~1648) 彼はデンマーク第6王朝オルデンブルク朝第7代国王で、父王の死により11歳で即位し、17歳から親政を始めて亡くなるまで54年間もの間善政を敷いた名君で、今でもデンマーク本国で人気の高い王様です。しかし彼の治世、対外的にはドイツ三十年戦争への介入の失敗と、それまで支配下に置いていたスウェーデンとの力関係が逆転し、デンマーク衰退のきっかけを作ってしまった面も否定出来ません。 (ちなみにデンマーク王家はわが国の天皇家に次ぐ、世界で2番目に長く続く古い王朝で、その起源はおよそ千年前の10世紀頃だそうです。しかしわが天皇家の様に1500年余の万世一系ではありませんが。)

皇帝フェルディナント2世はこの脅威に対し、取っておきともいえる「強力な切り札」を用います。それは皇帝が召し抱える傭兵隊長の中でも最大の兵力を有する人物、ヴァレンシュタイン将軍の北方派遣です。

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上が皇帝軍最大の傭兵隊長アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインです。(1583~1634)彼はもともとはドイツ系ボヘミア人の小貴族でしたが、青年時代からハプスブルク家に仕えてハンガリーでオスマン帝国と戦い、その後裕福な未亡人と結婚して彼女の遺産を金融業などで上手く運用して大きく財を増やし、その資金で大勢の傭兵たちを集めて力を蓄えていったとてもしたたかな人物でした。

皇帝はボヘミアの反乱に勝利したものの、そのために多額の戦費を使ってしまい、デンマーク王の侵攻に対処するのが困難でした。そこへこのヴァレンシュタインが資金供与と配下の軍勢の提供を申し出ます。皇帝は喜んでそれを受け、彼を皇帝軍総司令官に任命します。これはヴァレンシュタインにとっても立身出世の大チャンスです。すでに彼は大きな財力は持っていましたが、そもそも彼はボヘミアの小さな下級貴族に過ぎません。そんな彼が次に望んだのは家柄、すなわち名門貴族となって帝国諸侯の一員となる事でした。彼は金を惜しみなく投じ、なんと3万もの大軍を集めると1626年北ドイツへ出征しました。

一方北ドイツに侵攻していたクリスチャン4世も同じく2人の傭兵隊長あがりの将軍を使っていましたが、次第に彼らとの意見の相違から別行動を取るようになり、軍勢が3つに分かれてしまっていました。しかしこれはヴァレンシュタインにとって好都合でした。圧倒的に兵力に勝るヴァレンシュタインは、先遣部隊指揮官であった同じ傭兵隊長ティリー伯の軍と合流すると彼らと協力し、これらを各個撃破してデンマーク軍を撃退する事に成功したのです。それだけではありません。皇帝軍は勢いに乗ってデンマーク本国に侵攻し、ユトランド半島全域を占領するまでに至りました。

地上戦では敗退続きのデンマーク王クリスチャン4世でしたが、かつてバルト海を制した強力な艦隊で海から反撃に転じ、スウェーデンの力も借りて何とかデンマーク本国を取り戻すと、1629年、皇帝フェルディナント2世とリューベックで和平条約を結び、その後2度とドイツには現れませんでした。つまりこの戦いも皇帝とカトリック側の勝利に終わったのです。

一連の勝利によって皇帝フェルディナントの権威は高まり、1629年彼は「復旧令」を発しました。これはプロテスタントに奪われたカトリックの領土返還と、皇帝の許可のない同盟の禁止などを定めたものでしたが、これが大失敗でした。なぜならプロテスタントはおろか、皇帝権力の拡大を恐れるカトリック諸侯までこれに反発したからです。 カトリック諸侯は皇帝が傭兵上がりのヴァレンシュタインを重用し、その権威を背景に彼の傭兵軍が帝国中を荒らし回っている事を非難し、ヴァレンシュタインを罷免しなければ皇帝に協力しないと迫りました。

さすがにこれには皇帝も手も足も出ず、やむなくヴァレンシュタインを皇帝軍総司令から解任します。一方皇帝とカトリック側が低レベルな内輪もめをしている間、プロテスタント側は今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフ2世を総大将とする新たな戦力で再び反撃に転じました。

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上が当時のスウェーデン王グスタフ・アドルフ2世です。(1594~1632)彼はスウェーデン第1王朝であるヴァーサ朝第6代国王で、バルト海の支配権をめぐってロシア、ポーランド、デンマークなどの列強を、大砲を集中使用した砲撃戦で次々に打ち破り、スウェーデン王国の最盛期を築いて「北方の獅子王」と恐れられた強大な王でした。

グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍は1631年、まずライプチヒの北でヴァレンシュタイン解任後の総司令ティリー伯率いる皇帝軍と最初の大会戦にのぞみます。「ブライテンフェルトの戦い」 の始まりです。戦力はスウェーデン軍2万3千とザクセン軍1万7千の合計4万に対し、皇帝軍3万3千でした。この戦いでグスタフ・アドルフは100門もの大砲で集中砲撃を浴びせ、その3分の1しか大砲が無かった皇帝軍を撃破して大勝利します。

これはそれまで敗戦続きだったプロテスタント勢力にとって初めての勝利でした。これに勢いづいた彼らは勇んでグスタフ王の下に馳せ参じ、彼の軍勢は総勢10万の大軍に膨れ上がります。続いて1632年にはバイエルンにまで南下し、「レヒ川の戦い」で迎え撃つ皇帝軍をまたも撃破します。(この戦闘で皇帝軍総司令のティリー伯は負傷し、それがもとで戦死します。)

2度の大敗と信頼していた有能な指揮官ティリー伯の戦死に、皇帝フェルディナント2世は大いにうろたえました。 バイエルンはハプスブルク家の本拠地オーストリアのすぐ隣です。いつ都ウィーンにスウェーデン軍が迫るかわかりません。

「このままではわが方は負ける、何とかしなければ。」

皇帝は最後の切り札として、一度解任したヴァレンシュタインを再度皇帝軍総司令に任命します。ヴァレンシュタインにとっては名誉挽回と復権のチャンスです。 彼は皇帝に総司令官になる条件として、「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」というあまりにも過大な要求をしました。本来ならこんな要求など通るはずもないのですが、切羽詰っていた皇帝はそれらを全て呑んでまで彼の助力を得ようとします。こうしてヴァレンシュタインは総司令官職を引き受け、皇帝の了解を得て2万6千の軍勢を率いてグスタフ・アドルフとの戦いに出撃しました。


両軍は再びライプチヒの南西、リュッツェンで激突します。戦力は両軍ともおよそ2万づつでほぼ互角でしたが、大砲の数はスウェーデン軍が60門に対し、皇帝軍は20門余りしかありませんでした。つまり普通に考えればグスタフ王が圧倒的に優勢だったのです。しかしここで思わぬ大誤算が生じます。 両軍が大砲を撃ちまくったためにその砲煙で戦場は大変視界が悪く、さらにこの状況下で好戦的なグスタフ・アドルフ自身が、わずかな護衛とともに前線に突出しすぎたために皇帝軍に包囲され、乱戦の最中に戦死してしまったからです。

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上が「リュッツェンの戦い」でのグスタフ・アドルフ戦死のシーンを描いた絵です。彼の戦死によって指揮系統を失ったスウェーデン軍は大損害を被りましたが善戦し、結局この戦いでヴァレンシュタイン率いる皇帝軍は敗退します。しかしこの時彼は勝ったも同然でした。なぜなら総大将であったグスタフ・アドルフの死はプロテスタント軍にとって大打撃となり、これにより再びカトリック軍が勢力を盛り返したからです。 この戦い以後プロテスタント側はカトリック側に大きく戦線を押し戻され、戦局は再び長い膠着状態に陥りました。

「北方の獅子」グスタフ・アドルフを戦死させ、皇帝とカトリックの窮地を救ったヴァレンシュタインの名声はこれでいよいよ高まるかに見えました。 しかしその後の彼には思いもかけない運命が待ち受けていました。

次回に続きます。
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フランスの三十年戦争参戦 ・ 宰相リシュリューの謀略

みなさんこんにちは。

1632年のリュッツェンの戦いで敗れはしたものの、プロテスタント軍の総大将であるスウェーデン王グスタフ・アドルフ2世を戦死させた皇帝軍総司令ヴァレンシュタインは、その後も残敵を掃討しながら各地を転戦していました。

彼の活躍によって皇帝率いるカトリック勢力は再び勢いを盛り返し、プロテスタント勢力をドイツ北部へと追いやる事に成功しましたが、ヴァレンシュタインの雇い主である神聖ローマ皇帝フェルディナント2世にとって大きくなり過ぎた彼の存在は、次第に邪魔なものになっていました。

特にヴァレンシュタインが皇帝軍の指揮を取る代わりに要求した数々の過大な条件が、今度は大きな心配となって皇帝にのしかかって来ます。 ヴァレンシュタインは軍の全権はもちろん、選帝候位やハプスブルク家の直轄領まで欲しいと言っていたからです。

「このままではあの傭兵上がりのボヘミア男に帝国の実権はおろか、わがハプスブルク家世襲の領地まで奪われてしまう。 グスタフ・アドルフが死んだ今、プロテスタント諸国をまとめる事だけの力を持った強者はいない。 ならばもはやあの男に使い道はあるまい。」

皇帝の中で恐ろしい考えが芽生え、やがて彼はついにそれを実行に移します。それはもはや皇帝にとって不要な存在となっていたヴァレンシュタインを粛清するという事です。

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1634年2月、皇帝フェルディナント2世は密かに側近にヴァレンシュタインの暗殺を命じます。皇帝の命を受けたハプスブルク家臣の将校たちからなる暗殺部隊はエーガーの居城で油断していたヴァレンシュタインを襲撃しました。寝込みを襲われたヴァレンシュタインは逃げる事も叶わず殺害され、こうして一介の傭兵隊長から公爵、皇帝軍総司令官にまで上り詰めた稀代の出世男は50歳で無念の死を遂げました。

皇帝がヴァレンシュタインを切り捨てた理由は他にもあります。この頃カトリック軍はプロテスタント軍に対して反撃に転じ、皇帝軍が勢いを取り戻すと、内心は宗教対立などどうでも良く、それまで情勢的に優位だったからという理由でプロテスタントに付いていた諸侯たちが再び皇帝軍の味方に転がり込み、皇帝は必ずしもヴァレンシュタインの力を借りなくても兵力の点で困らなくなっていました。

さらに傭兵による略奪を防ぐ目的で、占領地かその領主に対して略奪免除をする代わりに税金を取り立て、それを傭兵たちの報酬に還元するというヴァレンシュタインが考案した「軍税」のシステムを皇帝軍も取る様になり、ヴァレンシュタインを介さずとも皇帝が独自に傭兵たちを召し抱える事が出来る様になった事も挙げられます。

ヴァレンシュタインの暗殺によって皇帝軍総司令官の座は皇太子フェルディナント大公が就任しますが、これは皇帝にとって息子への帝位世襲を諸侯に知らしめるためのパフォーマンスでした。

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上が皇太子フェルディナント大公です。(1608~1657)彼は後に父帝の死後、フェルディナント3世として皇帝となります。彼の皇帝軍総司令官の就任は飾り物に過ぎませんでしたが、1634年の「ネルトリンゲンの戦い」で3万3千の帝国軍を率いた彼は、スウェーデン・ザクセン同盟軍2万5千を撃破し、皇帝父子はカトリックの権威と力を内外にアピールする事に成功しました。

しかし、ドイツにおけるハプスブルク家の勢力の復権を快く思わない西の大国がありました。それはフランスです。当時フランスはブルボン王朝初期で、それまでドイツ三十年戦争には表立って参戦はせず、もっぱら南のスペインとの勢力争いを続けていました。この頃の王はルイ13世でしたが、実際の王国の実権は宰相であるリシュリューが握っていました。

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上が当時のフランス国王ルイ13世です。(1601~1643)彼はフランス第5王朝であるブルボン朝2代国王で、あの有名なヴェルサイユ宮殿を造った「太陽王」として名高いルイ14世の父親です。

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そしてこの人物が当時のフランス王国宰相アルマン・リシュリュー公爵です。(1585~1642)彼はローマ教皇庁の枢機卿でもあり、1624年から亡くなる1642年までルイ13世の宰相を務めた人でした。

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上は馬に乗って海岸を視察するルイ13世と、後ろでそれに同行する赤い僧衣の宰相リシュリューを描いた絵です。 国王が海を指して何か指示し、家臣がその海の方角を見つめているのに、リシュリューの視線は国王に向けられています。 なんだか当時のフランスの姿が垣間見える絵です。

実はこのリシュリューこそ、密かにデンマークとスウェーデンに資金援助をしてドイツへの戦争に介入させ、フランスの代わりに戦わせた影の人物だったのです。 本来フランスはカトリックでしたが、当時彼らは南の強敵スペインと交戦中であり、その間スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家が連携してフランスを挟撃出来ない様にさせて置く必要があったのです。 全ては彼が裏で糸を引いていました。

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このリシュリューについては、上に載せた19世紀のフランスの大作家アレクサンドル・デュマ(1802~1870)原作の小説「三銃士」の中で、主人公ダルタニャンたち三銃士に対して数々の策謀を巡らす悪役として描かれています。このデュマの作品で他に有名なものは、何といっても一大復讐劇として名高い「モンテ・クリスト伯」(または「巌窟王」)がありますね。

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このリシュリューが登場する 「三銃士」 や 「モンテ・クリスト伯」 は上の本です。 各社から出版されていますが、両方とも岩波文庫版が最も良書であると思います。 「三銃士」 は上・下巻それぞれ600ページ以上あり、「モンテ・クリスト伯」 の方は全7巻各350ページほどの長編で、全巻まとめ買いすると5千円以上になってしまいますが、どちらも200年読み継がれる名作です。 ジェラール・ドパルデュー主演で1998年に作られたDVDもありますが、こちらは買うよりレンタルなどで視聴され、よほど気に入られた場合に購入されると良いでしょう。

リシュリューが後の作家によって悪名高い「謀略家」としてキャスティングされたのは、史実における彼の内外の政策が後世に与えた影響が大きかった事が挙げられるでしょう。

さて、話を三十年戦争に戻しますが、老練なリシュリューの策謀によってドイツへの戦争に介入させられ、偉大な王グスタフ・アドルフと多くの兵を失ったスウェーデンとフランスの仲は次第に険悪になり、1635年両国はついに開戦します。戦争は新たな局面を迎えたのです。スウェーデンではグスタフ・アドルフの戦死によって後継男子がおらず、王位は彼の娘クリスティーナが女王として即位し、その宰相オクセンシェルナが辣腕をふるい、リシュリューと熾烈な駆け引きを繰り広げ、彼はフランスをドイツでの戦争に引きずり出す事に成功します。

一方ドイツにおいて、ヴァレンシュタインを粛清したハプスブルク皇帝家は大攻勢を仕掛け、スウェーデン軍を一気に壊滅させる作戦に出ます。 両軍はエルベ川の近郊ヴィットストックで激突しましたが、(ヴィットストックの戦い)皇帝軍2万5千は1万8千のスウェーデン軍に敗れてしまいました。これを機に、戦局は再びプロテスタント側が優勢になり、また南のスペインもネーデルラントにおいてオランダに敗れ、これによってオランダの独立は時間の問題となりました。

その直後の1637年、今次戦争開戦の張本人である罪多き皇帝フェルディナント2世が59歳で崩御します。帝位は皇太子フェルディナント大公がフェルディナント3世として即位、戦争は続行されますが、南のスペインもネーデルラントを失うなど、戦局はハプスブルク家とカトリック側に不利な状況になっていきました。

この様な状況下で、それまで父の意思を継いで徹底抗戦を主張していた新皇帝フェルディナント3世の中で、次第に 「和平」 への道を模索する考えが大きくなっていきました。

次回に続きます。

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ウェストファリア条約 ・ 帝国の死亡宣告書

みなさんこんにちは。

三十年戦争開戦の責任者である先の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が1637年に崩御した後、帝位を継いだのは29歳で同名のフェルディナント3世でした。 しかし彼にはそれを喜んでいる暇はまったくありませんでした。 なぜなら彼が父から受け継いだ帝国は、すでに20年続く殺戮と破壊のために荒廃し、人間世界のあらゆる悲惨の巣窟と化していたからです。

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上が新皇帝フェルディナント3世です。 (1608~1657)

さらに彼が帝位に就く2年前の1635年から、フランスがドイツの戦乱に本格的に介入し、前回お話した謀略家として名高い宰相リシュリューによって引き立てられた名将テュレンヌ将軍率いる精鋭部隊が帝国領に侵攻、皇帝軍は今だドイツ北部に居座るスウェーデン軍と、テュレンヌのフランス軍との二正面作戦を余儀なくされ、せっかく亡きヴァレンシュタインが押し戻した戦線は再び崩れ、皇帝軍は次第に押されて後退していきます。

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上がフランスのドイツ派遣軍司令官アンリ・テュレンヌ子爵です。(1611~1675)彼は宰相リシュリューから皇帝軍の撃滅と同時に、すでにフランスと険悪になっていたスウェーデン軍への威嚇と牽制の2つの命令を受けており、その難しい務めを見事に果たして賞賛され、後に軍人として最高の位である元帥号を授かります。

この様な状況下で、皇帝フェルディナント3世とカトリック軍は敗退を重ね、さらに彼らに追い討ちをかける出来事が起こります。1640年、オーストリア・ハプスブルク家にとって南の強力な味方であるスペインが、かつて60年に亘って併合していたポルトガルが起こした独立戦争に敗れ、これの独立と王政復古を許したのです。 その数年前からスペインはすでにネーデルラントの支配権も失い、同地にプロテスタントのオランダという新国家が誕生していました。

戦局は完全に皇帝とカトリック側に不利となっていました。すでに開戦から20年以上が経過し、戦争の主導権はスウェーデンとフランスに握られ、皇帝自身はもちろん多くの帝国諸侯、家臣や兵たち、そして最も犠牲となっていた無辜の領民たちなど、帝国の全ての階級で深刻な厭戦気分が広がっており、すでに逼迫していた皇帝は和平の道を真剣に考え始め、1644年に和平会議が開かれました。

この頃、一方の主役であるフランスでは政権交代が起きていました。長くフランスを動かしていた影の指導者である宰相リシュリューが1642年に亡くなり、その翌年には彼が仕えた国王ルイ13世も亡くなったのです。後にはわずか4歳のルイ14世が新国王に即位しますが、当然政治が出来るはずはなく、フランスの実権はリシュリューの腹心の部下であったジュール・マザラン枢機卿によって継承されていきます。

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上がリシュリューの後継者であるフランス新宰相ジュール・マザラン枢機卿です。(1602~1661)彼の下でフランスは中央集権の絶対王政が確立され、彼の死後親政を開始したルイ14世が、その体現者であるのは有名ですね。

さて、和平会議の設置と和平交渉を始めた皇帝フェルディナント3世でしたが、彼も心の内ではこのまま帝国をフランスとスウェーデンの好きにさせたくないという意地と面子がありました。 そのため彼は交渉を少しでも有利に運ぶため、残る戦力を総動員してフランスとスウェーデンに一矢報いようとまたも余計な先端を開いてしまいます。

しかし皇帝の最後の望みをかけた作戦は完全な失敗に終わります。皇帝軍は1645年にプラハ近郊のヤンカウの戦いでスウェーデン軍に敗れ、さらにその後のフランスとスウェーデンの内輪揉めで勢力を盛り返し、再び挑んだ1648年のアウクスブルク近郊での戦いでも両軍に敗れてしまいました。 事ここに至って皇帝は和平条約に署名することに同意し、三十年戦争の実質的な勝敗は皇帝とカトリックの敗北という形で終わりを迎える事になりました。

1648年11月、現在のドイツ、ヴェストファーレンにおいて、今次戦争に参加した関係各国の全てが集まり、戦争の終結とその後の各国の権利などを定めた 「ウェストファリア条約」 が締結されました。(ドイツ語読みでは「ヴェストファーレン条約」ですが、歴史では古くから英語読みの「ウェストファリア条約」で呼ばれているので、こちらの方で呼ばせていただきます。)

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上が条約締結の様子と居並ぶ帝国諸侯と各国代表団の様子です。

この条約は非常に膨大なものなのですが、代表的なものを挙げると下の様になります。

1、神聖ローマ帝国はフランスにアルザス、ロレーヌ地方を割譲する。(両地方の帝国からの離脱)

1、神聖ローマ帝国はスウェーデンに500万帝国ターレル(現在の日本円で1千億円以上)の賠償金を支払う他、ドイツ北部ポンメルンとその周辺都市を割譲し、スウェーデンはこれらを領する帝国諸侯の一員として帝国議会に参加する。

1、神聖ローマ帝国はスイスとオランダ (独立当時はネーデルラント連邦共和国) の独立を承認する。(両国の帝国からの離脱)

1、カトリックとプロテスタントは同権とする。

1、神聖ローマ帝国内の全ての諸侯はそれぞれ主権と外交権を持つ。

1、神聖ローマ皇帝は、法律の制定、戦争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なければならない。


などです。

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上が1648年のウエストファリア条約によって確定された帝国の姿です。ハプスブルク家は薄緑色で表されたオーストリアとハンガリーを中心として、帝国の3分の1を支配する最大の領土を保全してはいるものの、以後それ以外の帝国諸侯への介入は出来なくなります。(結局何のための長い苦しい戦争だったのか。 疲れ果てた皇帝の顔が目に浮かぶ様です。)

このウェストファリア条約は、近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき画期的な条約で、史上初の多国間条約とも言えます。 これによりヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終結し、条約締結国は相互の領土を尊重して内政への干渉を控える事を約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至りました。

しかし、ここに至るまでに流された兵士と人民のおびただしい血は、それまでの戦争の比ではありませんでした。 この三十年戦争における参加兵力はカトリック側が総勢約45万、プロテスタント側は約65万に達し、一般民衆の死者は各国合計でおよそ800万人に登りました。(ちなみに開戦前のドイツの人口はおよそ1700万人ほどで、そのうち500万人以上が犠牲になったそうです。)

この戦争の結果、神聖ローマ皇帝を世襲してきたハプスブルク家の帝国内の権力は著しく弱められ、全く形式的かつ儀礼的なものに過ぎなくなり、その支配権はオーストリア、ハンガリー、ボヘミアなど中央ヨーロッパ内陸部に押し込められる事になりました。 またそれまで海洋帝国として栄華を誇っていたスペインも、イギリス、フランス、オランダに次々と敗れ、正に「盛者必衰」の言葉通り没落の道を歩み始めます。 そしてそれらに代わってヨーロッパには、絶対王政の確立に成功したフランスのブルボン王朝が豪奢な宮廷文化の花を開かせ、太陽王ルイ14世の君臨する時代が到来するのです。

次回に続きます。

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第2次ウィーン包囲戦 ・ オスマン帝国との戦い

みなさんこんにちは。

カトリックとプロテスタントの宗教対立から三十年に亘って続いた文字通りの三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約の締結でようやく終結しましたが、この戦争は主戦場となったドイツをはじめ、関係各国に甚大な被害をもたらしました。 特に傭兵軍の略奪で食糧を奪われ、飢餓と虐殺によって放置された無数の遺骸から発生したペストの大流行により、一番の被害者であった農民の人口の激減が著しく、戦乱が終わったとはいえ、各国の戦後復興には相当な年月と容易ならざる努力が必要でした。

このドイツ三十年戦争はさらに、神聖ローマ帝国の国家としての機能を停止させ、事実上この時に帝国はほぼ瓦解したも同然の結果を招きました。 300に及ぶ帝国諸侯や帝国自由都市、教会領はウェストファリア条約によってそれぞれの領土主権と外交権を認められた独立国となり、帝国は実体のない名ばかりの存在でしかなくなってしまいました。

一方名ばかりに成り下がったとはいえ、一応この神聖ローマ帝国の皇帝家であったハプスブルク家でしたが、当家も他の帝国諸侯と同様に「人、物、金」 の全てにおいて疲弊し、興隆著しい西の大国フランス・ブルボン王朝に、ヨーロッパの覇権を大きく掠め取られてしまいます。 しかし、そんな中でも彼らは本拠地オーストリアをはじめ、ボヘミア、ハンガリーなどの直轄領の死守と維持には成功し、この地域におけるカトリックは厳として守り通されました。

この時期ハプスブルク家では、戦争終結時点の皇帝フェルディナント3世が1657年に崩御し、長男で同名の4世が先に亡くなっていたため、帝位は次男のレオポルト1世が継承しました。

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上が新皇帝レオポルト1世です。(1640~1705)三十年戦争の終盤に生まれた彼は次男であったため、本来帝位に就くはずはなく、父帝から枢機卿など聖職者の道に進むべく教育されていましたが、兄の早世により一転帝位継承者となります。

しかし彼もすぐに皇帝に即位出来たわけではありませんでした。すでに形骸に過ぎなかったとはいえ、帝位継承には7人の選定候の過半数の承認が必要であり、これらへの選挙資金(というより買収資金)がかさんだ上に、当時のフランス宰相マザランの差し金によりライン川流域の諸侯が結成した「ライン同盟」によって、この地域へのフランスの再侵攻が懸念される苦しい状況下に置かれていました。(このライン同盟は、その後黒幕のマザランの死と、1667年の内紛により自滅したためこの懸念は杞憂に終わりました。)

1658年にやっと帝位に就いたレオポルト1世ですが、その彼の元に早速東から新たな脅威が迫りつつありました。イスラムの覇者オスマン帝国がヨーロッパへの領土拡大のためにハプスブルク家の領土であるハンガリーに再び大攻勢を仕掛けてきたのです。

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上が当時のオスマン帝国最大領域図です。先に何度か当ブログでもお話しましたが、このオスマン帝国は1453年のコンスタンティノープル陥落以来、周辺諸国に侵略の手を伸ばし続け、その領土は上の様にアジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる広大なものになっていました。

しかし最大最強を誇ったこのオスマン・トルコも、最盛期の第10代スルタンであるスレイマン1世の時代を過ぎ、絶えず続く後継者争いと、オスマン家伝統のスルタンに就いた者による他の兄弟の根絶やしによって、彼の後のスルタンには政治、軍事ともにあまり才のない人物が続き、この時期すでに衰退の兆しが見えてきていました。

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上が当時のオスマン帝国第19代スルタン、メフメト4世です。(1642~1693)彼は狩猟などの趣味に熱中するばかりで国政に関心を示さず、オスマン帝国の実権は大宰相と呼ばれる大臣たちが握っていました。

この様な状況はオスマン帝国内部でもその危機感を心配する者が多く、時の大宰相カラ・ムスタファ・パシャはこの状況の打開と払拭のため思い切った手を打ちます。それはかつて名君スレイマン大帝が成し得なかったハプスブルク家の帝都ウィーンを攻略し、ヨーロッパに再侵攻するというものです。

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上が当時のオスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャです。(1635~1683)自らも軍人出身であり、若い時から多くの戦いに従軍した彼がウィーン攻略を計画したのは「領土拡大」こそオスマン帝国発展の原動力であるとの堅い信念によるものでした。

1683年7月、大宰相ムスタファ・パシャは自ら15万の大軍を率いてバルカン半島を北上、瞬くうちにハンガリーを制圧してウィーンに迫ります。 この時敵の大軍に驚いた皇帝レオポルト1世は、対オスマン戦の名将であり、彼らとの戦いを知り尽くした信頼するシュターレンベルク将軍をウィーン防衛司令官に任命すると早々にウィーンを脱出し、パッサウに避難してしまいました。

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上がウィーン防衛軍司令官リュディガー・シュターレンベルク将軍です。(1638~1701)彼は皇帝から預かったハプスブルク守備隊とウィーン市民の義勇軍からなる1万5千の兵力でウィーンに籠城し、3ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い抜きます。(オスマン軍に比べ、ウィーン防衛軍は10分の1に過ぎませんが、当時のウィーンは街全体を堅固な城壁で囲んだ城塞都市であり、その面積を考えると立て籠る兵力はこれが限度でした。)

オスマン軍は圧倒的な大軍でウィーンを完全に包囲し、街の西部から城壁の突破を図って攻撃を仕掛けました。 しかし最新の築城法で要塞化されて第1次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破る事ができず、攻城戦は長期化します。 遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦も撮りましたが失敗に終わりました。一方防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んで、たびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃しましたが、その割には包囲軍に対してほとんど損害を与える事は出来ませんでした。

一方ウィーンを脱出してパッサウに逃れていた皇帝レオポルト1世はその頃何をしていたのでしょうか? 実は彼は何も命が惜しくて家臣や市民を置きざりに自分たちだけ逃げたのではありません。彼は今のハプスブルク家の力では独力でオスマン軍には対抗出来ない事を一番良く分かっていました。そのため他の帝国諸侯や各国に救援の兵の派遣要請と、支援を得るための外交戦を展開していたのです。

ハンガリー辺境におけるこれまでの小競り合いとは明らかに違う、今回のオスマン軍の大攻勢にさすがに危機感を募らせた諸侯と各国は、皇帝レオポルトの訴えもあって直ちに軍勢を集結、戦上手のポーランド王ヤン3世率いるキリスト教連合軍7万がウィーン救援に駆けつけ、ウィーンを包囲していたオスマン軍に襲い掛かりました。

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上がウィーン攻防戦の様子です。この時すでに2ヶ月続いた包囲でオスマン軍は疲れきっており、兵の士気は弱く、ヤン3世はこの期を逃さずオスマン軍の最も防備の手薄な部分を急襲して敵陣を切り崩し、なんと1時間ほどで大勢が決してしまったそうです。 総司令官ムスタファ・パシャ以下、オスマン軍は散り散りになって総撤退を余儀なくされ、 戦いはキリスト教連合軍の逆転大勝利に終わりました。

この第2次ウィーン攻略の失敗とオスマン軍惨敗の知らせはスルタン、メフメト4世の元にも届き、ムスタファ・パシャが強引に進めたこの作戦に不満を持っていた彼の政敵たちの策謀によって、メフメト4世は大宰相ムスタファ・パシャの処刑を命じます。ベオグラードで反撃の態勢を整えていたムスタファは捕らえられ、即日処刑されてしまいました。

この第2次ウェーン包囲戦は、その後バルカン半島における16年に及ぶ「大トルコ戦争」の幕開けとなるのですが、この戦いの敗北によってそれまで無敵を誇って来たオスマン帝国の衰退が明らかとなり、それまで200年以上ヨーロッパ諸国を脅かしていたオスマン帝国の脅威は大きく後退していきました。そしてこの危機を乗り越え、勝利したオーストリア・ハプスブルク家は徐々にバルカン半島への南下を進めて行く事になります。

次回に続きます。

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大トルコ戦争 ・ 名将プリンツ・オイゲンの活躍

みなさんこんにちは。

1683年の第2次ウィーン包囲戦で、150年ぶりに15万 (各方面に展開した兵力も含めると20万以上) という前代未聞の大兵力で大攻勢を仕掛けてきたオスマン帝国の大軍を幸運にも撃退し、(といってもほとんど総大将であるポーランド王ヤン3世とドイツ諸侯の手柄ですが。) 帝都ウィーンをイスラム教徒から死守したオーストリア・ハプスブルク家でしたが、その後の状況はどうなったのでしょうか?

この第2次ウィーン包囲戦の時のハプスブルク家当主にして、神聖ローマ帝国皇帝はレオポルト1世という人物でしたが、彼は前回お話した様にオーストリア一国だけではオスマン帝国の大軍に対抗出来ないため、各国に援軍と救援要請の外交戦を展開し、これが実ってウィーンを包囲する敵を撃退する事に成功しました。

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上が当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世です。 (1640~1705)

しかしこの時の彼の高度な政治判断というか大局的な戦略が、 「帝国皇帝たるものが帝都と臣民を置き去りに自分たちだけ逃げ出した。」 などと批判され、歴史家の間では彼を 「騎士道精神に反する優柔不断な臆病者」 と酷評する人もいる様です。 しかしもともと次男であった彼は兄の早世で急遽皇帝になったのであり、帝位に就くためのいわゆる 「帝王学」 の教育を受けておらず、また大司教や枢機卿などの高位聖職者になる教育を受けていたために軍事的知識もほとんどありませんでした。 (本来神に仕える身である聖職者と、軍人や戦争は全く対極にありますからね。)


しかしこの帝国史上空前の異教徒の攻撃をなんとか撃破出来たのは、ひとえに彼の外交戦略の勝利であり、その後も続くオスマン帝国やフランスとの戦いでも、ウィークポイントの軍事面で優秀な軍人や将軍を登用してこれらとの戦いに当たらせ、彼の在位中オーストリア・ハプスブルク家は三十年戦争の敗北と低迷から抜け出し、再び大国への道を歩みだす事になります。 また帝王学教育を受けていないにも関わらず、彼なりに良き皇帝になるべく努力し、200年前の先祖である皇帝フリードリッヒ3世と並ぶ53年間もの帝位を維持したのは十分評価出来るのではないかと思います。

余談ですが、このレオポルト1世は政治、軍事には向いていませんでしたが文化人としては大変優れており、特に音楽の分野では自ら作曲するほどの才能の持ち主で多くの音楽家のパトロンとなり、彼らを保護育成しました。 後にウィーンがモーツァルトなどの活躍する音楽の都として発展するのはこの時の彼の功績によるものです。

その音楽皇帝レオポルト1世が、自分の専門外の軍事分野で引き立てた優秀な軍人で最も有名な人物が、プリンツ・オイゲンの名で知られるオイゲン・フォン・サヴォイエン将軍です。

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上が名将として名高いプリンツ・オイゲンです。 (1663~1736) 彼は本名をウジェーヌ・ド・サヴォワというフランス貴族で、オイゲンとはウジェーヌのドイツ語読みであり、北イタリア一帯を支配していたサヴォワ公国の領主サヴォワ家の分家ソワソン伯爵家の公子 (プリンツ) でした。

長男でなかったために伯爵家を継ぐ事は出来ず、軍人の道を進んだ彼は最初は故国フランスのルイ14世に仕えようと19歳の時に王に仕官します。 しかし派手好きで有名なルイ14世には、オイゲンが地味で風采の上がらない田舎者にしか見えず、素っ気なく不採用になってしまいます。

後の歴史はこの時のルイ14世の判断が完全な誤りであった事を証明しています。 もし彼がこの時に、若きオイゲンをフランス軍の一員に加えていたら、ルイ14世のフランスは西ヨーロッパの大部分を支配下に置いて、その後の歴史は大きく変わっていたかも知れません。

さて若きオイゲンの 「就職活動」 は続きます。 ルイ14世に気に入られなかった彼は、やむなくフランス・ブルボン王朝の宿敵であるオーストリア・ハプスブルク家の門を叩きます。 ハプスブルク家の当主、皇帝レオポルト1世はこの若者の軍人としての素質を見抜き、彼をオーストリア軍将校として自軍に入隊させました。

ハプスブルク家の下でようやく自分の居場所を得たオイゲンは、その後軍人として水を得た魚の様に次々に手柄を立て、トントン拍子に昇進していきます。 折しも当時オーストリアはオスマン帝国との激しい戦いの最中であり、彼は第2次ウィーン包囲戦を初陣に、ハンガリー戦線でオスマン軍を何度も撃破して武勲を立て、それに驚いた彼の上官で、ウィーン包囲戦の英雄であるシュターレンベルク将軍は、老いた自分に代わって彼を対トルコ作戦の総指揮官に推薦し、皇帝もこれを了承しました。

オイゲンは自分を引き立ててくれた皇帝レオポルト1世とハプスブルク家のために、それまで以上にオーストリアに忠誠を尽くす様になっていきます。 それが最も良く表されたのが1697年の 「ゼンタの戦い」 です。

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上が 「ゼンタの戦い」 を描いた絵です。 この戦いはオスマン帝国の攻撃を撃退して反撃に転じたオーストリア・ハプスブルク家が、今度はオスマン軍を追撃してハンガリーを奪い返し、逆にオスマン帝国領であるセルビアにまで進行して、それを阻止するべく出陣した当時のオスマン帝国スルタン、ムスタファ2世自ら率いるオスマン軍と、対トルコ方面の総司令官となったプリンツ・オイゲンのオーストリア軍が、同地のゼンタ近郊を流れるドナウ川の支流ティサ川付近で戦った会戦です。

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上が当時のオスマン帝国第22代スルタン、ムスタファ2世です。 (1664~1703) 絵で見ると失礼ながらずんぐりむっくりして愛嬌のある人物ですね。 (笑)

この戦いにおける両軍の戦力は、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍5万に対し、ムスタファ2世率いるオスマン軍は8万で、兵力はオスマン軍が優勢でした。 オスマン軍は上の絵の様にティサ川を背後に半円状に陣地を構築しており、これを好機と見たオイゲンは全軍を同じく半円状に展開させて総攻撃し、オスマン軍をティサ川に追い込んで大勝利を得ました。 この時のオスマン軍の戦死者 (というより溺死者) はなんと3万に達し、オーストリア軍の戦死者はたった500人ほどだったそうです。

この戦いから2年後の1699年、ハンガリー南部カルロヴィッツで、オーストリアはじめヨーロッパ各国とオスマン帝国との間で和平条約が結ばれ、これにより1683年の第2次ウィーン包囲に始まる足かけ16年に亘る大トルコ戦争は終結しました。 オスマン帝国が夢見た一連のヨーロッパ侵攻作戦は完全な失敗に終わり、それどころかオスマン帝国は、その建国以来初めてハンガリー、トランシルヴァニアなどの領土をオーストリアに割譲する事になってしまいました。

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上が和平条約の結ばれたカルロヴィッツの現在の姿です。 (人口約9千人ほど) 温泉保養地として有名な静かな田舎町です。

この戦争でオーストリアを勝利に導き、さらに新たに広大な領土をもたらした最大の功労者プリンツ・オイゲンは、その後も皇帝とオーストリア・ハプスブルク家に忠誠を誓う将軍として、イタリア、スペインなどヨーロッパ各地を転戦します。 しかし皮肉な事に、元はフランス人である彼の前に敵として立ち塞がったのは、多くの場合そのフランスでした。 彼はその後の人生をかつての同胞たちとの果てしない戦いに費やしていく事になります。

次回に続きます。

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スペイン継承戦争 ・ ハプスブルク家対ブルボン家

みなさんこんにちは。

名将プリンツ・オイゲンの活躍でオスマン・トルコを撃ち破り、1699年のカルロヴィッツ条約でトルコからハンガリーの奪還に成功、それどころかトルコ領であったトランシルヴァニア(現ルーマニア)やクロアチア東部などを手に入れ、東へと大きくその領土を広げたオーストリア・ハプスブルク家は、三十年戦争の敗北で疲弊していた国運が再び隆盛しつつありました。

しかしその反面もう一つのハプスブルク家であるスペイン・ハプスブルク家の命運は、その同じ頃に風前の灯といった状態でした。 その原因は先のドイツ三十年戦争で、カトリックの代表としてオーストリアとともに戦ったスペインが、一連の戦闘でイギリス、フランス、オランダに敗れ続け、大海洋国家としての地位をこれらの新興国に取って代わられ、かつて「日の沈まない帝国」と称して世界に誇った国家の座から転落し、急速に没落の道を歩みだしていたからです。

さらに王家の存続でも、スペイン・ハプスブルク家は危機的状態にありました。それというのも当時のスペイン国王はカルロス2世という人物でしたが、彼は生来病弱であったため、家系の断絶が誰の目にも明らかであったからです。

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上が当時のスペイン王カルロス2世です。(1661~1700)彼はわずか4歳で即位しましたが、先に述べた様に生来病弱で、成長してからも癲癇などいくつかの病気に悩まされ、フランス王ルイ14世の姪であるマリア・ルイーサと結婚はしたものの性的には不能に近く、子孫を残す事は出来ませんでした。さらに軽い知的障害もあった様で、そのため政治は王母のマリアナ王妃が摂政として取り仕切っていました。

彼の先天的な病弱は歴代ハプスブルク家が200年にわたって繰り返した「近親婚」が原因であった様です。 ハプスブルク家はヨーロッパ最高の名門王家であり、当然結婚相手は同格の王家が条件とされ、必然的に同族のオーストリア本家との近親婚が続きました。余談ですがこうした近親婚は、子孫が短命か遺伝的欠陥で生まれる確率が非常に高くなる事が歴史上立証されている様です。

その摂政マリアナ王妃が1696年に亡くなり、すでに妻マリア・ルイーサも若くして亡くしていたカルロス2世は心の支えを失い、その妻の遺骨を掘り起こして手元に置くなど、次第に奇行に走る事が多くなっていきます。そして1700年にこの哀れな王が35歳の若さでついに亡くなると、カール5世以来5代180年余り続いたスペイン・ハプスブルク家はついに断絶してしまいました。

同時に後継者の絶えたスペイン王位を巡り、各国が動き出します。先王カルロス2世は一応後継者としてルイ14世の孫で、自分の甥に当たるアンジュー公フィリップを指名しており、彼はフェリペ5世として即位しました。これはそのフェリペ5世の祖母が、カルロス2世の姉でルイ14世の王妃マリア・テレサであったからですが、実はルイ14世が周到に裏で糸を引いていました。

これに対し、フランスにスペインを取られてなるものかとオーストリア・ハプスブルク本家の皇帝レオポルト1世が異を唱え、オーストリアはイギリス、オランダと対フランス同盟を結成してこれに対抗し、1701年ここに「スペイン継承戦争」の幕が切って落とされます。

開戦から4年後の1705年、オスマン帝国との戦いに勝利し、オーストリアを建て直して50年以上の帝位を維持した皇帝レオポルト1世が崩御。帝位は長男ヨーゼフが27歳で継承し、戦争を続行します。

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上が新皇帝ヨーゼフ1世です。(1678~1711)彼は根っからのカトリックで、「わが一族は神に選ばれた神聖な一族」であり、それゆえに異教徒トルコとの戦いに勝利したのだという堅い信念を持った自負心の強い人物でした。 そして全てのキリスト教徒の守護者として、同じカトリックのスペインをハプスブルク家の下に維持して行く事に熱い闘志を燃やしていました。

彼は弟のカール大公をスペイン王位継承者として同国に送り込み、さらに父の代から仕え、優れた戦術で対オスマン戦を勝利に導いた帝国きっての名将プリンツ・オイゲンを対フランス作戦の総司令官に任命します。

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上が名将プリンツ・オイゲンです。彼は前回もお話した様に先帝レオポルト1世の下で、ヨーロッパに侵攻してきたオスマン帝国の大軍を何度も撃破してオーストリアを勝利に導き、トルコから新たに広大な領土を奪って東へと帝国を広げた将軍でした。

オイゲン公はすでに先帝レオポルト1世の最晩年に、およそ3万の大軍で北イタリアに侵攻し、フランス軍を次々に破って連戦連勝を重ねており、オランダ方面では同盟国イギリスの名将マールバラ公ジョン・チャーチルが北からフランス軍を叩いてフランスを挟み撃ちにしていました。

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上がイギリスの名将マールバラ公ジョン・チャーチルです。(1650~1722)この名を聞いて歴史好きの方はお分かりと思いますが、彼は第二次大戦時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルの先祖であり、また事故死したレディ・ダイアナ・スペンサーも彼の血を引く子孫です。

ジョン・チャーチルとオイゲン公はライン川で合流し、1704年に「ブレンハイムの戦い」で彼らの連合軍5万2千が6万のフランス軍に大勝利を収め、戦いはオーストリアに有利に進んでいました。

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上はブレンハイムの戦いの勝利の後、前線の将兵をねぎらうマールバラ公ジョン・チャーチルです。この戦いでフランスは2万の戦死者を出し、対するオーストリア・イギリス連合軍は4500余りに過ぎませんでした。

しかしフランスもさるもので、戦術を変えて頑強に抵抗します。フランス軍は戦っても勝てないこの2人の名将との直接の戦闘を避け、彼らが不在のイタリア戦線で反攻を開始、戦局は膠着状態に陥りました。そして数年を経るうちに情勢が大きく変動します。

まず1711年に皇帝ヨーゼフ1世が33歳の若さで崩御してしまいます。彼には後継男子がいなかったため、やむなくスペイン王になるために兄からスペインに送り込まれ、同国で戦っていた弟のカール大公が急遽カール6世として皇帝となります。(これにより、オーストリアはスペイン王位継承権を諦めざるを得なくなってしまいます。その理由は皇帝となったカールがスペイン王も兼ねれば、力を持ちすぎると同盟国イギリスとオランダが反対したためです。)

さらにプリンツ・オイゲンにとって共に戦った盟友のジョン・チャーチルが、軍資金横領の罪で総司令官を解任され、イギリスが戦争から離脱するなど状況がオーストリアに不利になって行きました。オイゲン公はカール6世が皇帝となった今、もはやスペイン王位継承をめぐる戦争の継続は不可能と判断し、同じ考えのフランス側と交渉を重ねた結果、1714年にフランス王ルイ14世と、皇帝カール6世との間で戦争終結のための妥協が成立し、ここに「ラシュタット条約」が結ばれて13年に及ぶスペイン継承戦争は終結しました。

この条約によってオーストリアはルイ14世の孫であるフェリペ5世をスペイン王として認め、スペイン王位継承権は放棄しますが、スペインが南北アメリカ大陸に持つ植民地を除くネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャなどのヨーロッパにおける旧スペイン領を手に入れる事に成功します。

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上はオイゲン公が全権代表として結んだラシュタット条約によってオーストリアが手に入れた新領土です。このプリンツ・オイゲンがいかにオーストリアに貢献し、多くの領土をオーストリアにもたらしたかお分かりいただけると思います。彼はこの後も軍人、政治家として活躍し、帝国最大の功労者としてその地位を不動のものとしていきます。そしてこの条約の結ばれた翌年の1715年、72年の在位を誇ったフランスの太陽王ルイ14世が亡くなり、歴史は新たな時代を迎える事になるのです。

次回に続きます。

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オーストリア・バロック ・ 海を夢見た皇帝カール6世

みなさんこんにちは。

スペイン・ハプスブルク家の断絶とそれに伴うスペイン継承戦争の結果、スペインとその広大な海外植民地を失ったオーストリア・ハプスブルク家でしたが、オーストリアの名将プリンツ・オイゲンの尽力で、スペインのヨーロッパにおける領土であったネーデルラントの南部(現ベルギー)ミラノ、ナポリ、サルデーニャを手に入れ、帝国の版図は大きく広がりました。

この時代の神聖ローマ皇帝にして、ハプスブルク家当主はカール6世という人で、前回お話した様に兄ヨーゼフ1世の急死により急遽皇帝になった人物でした。

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上が時の神聖ローマ皇帝カール6世です。(1685~1740)彼はスペイン継承戦争の際、父レオポルト1世からスペイン王となるべく同国に送り込まれ、その死後帝位を継いだ兄ヨーゼフ1世とともにフランスと戦ったのですが、兄ヨーゼフ帝の急死 (天然痘によるものだそうです。) によりスペイン王位を断念し、1711年皇帝に即位しました。

カール6世はスペイン本国を失う代わりに新たに手に入れた領土の統治に専念します。そしてやっかいなハンガリーの反乱を鎮圧し、ミラノの隣国サヴォイア公国とはサルデーニャとシチリアの交換を申し出てこれを成功させました。(これは距離的にナポリから離れたサルデーニャよりも、間近のシチリアを領土としたかったからでしょう。この2カ国はギリシャ時代から切っても切れない間柄ですからね。)

しかしその矢先、東の方で不穏な動きをする大国がありました。かつてオーストリアに敗れて領土を大きく失ったイスラムの覇者オスマン帝国が、新スルタン、アフメト3世の下で再び外征の動きを見せていたからです。

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上がオスマン帝国第23代スルタン、アフメト3世です。(1673~1736)彼は父や兄の時代に大きくその勢力の後退を余儀なくされた帝国を建て直すため、ロシア、オーストリア、ヴェネツイアと熾烈な戦いを繰り広げます。しかしその反面で西欧文化を積極的に取り入れ、名君と呼ぶほどではないにしても、彼の在位中のオスマン帝国はとても景気が良く繁栄していました。

1716年、オーストリアとトルコはバルカン半島の覇権を巡って再び開戦します。「墺土戦争」(おうとせんそう)の勃発です。この戦争においても、先のトルコとの戦いで活躍したオイゲン公がオーストリア軍の総司令官となってオスマン軍を迎え撃ち、ペーターヴァルダインの戦いで15万の敵を約半分の8万の軍で見事に破り、さらにベオグラード包囲戦で同じく15万のトルコの大軍を10万の軍で再び破りました。

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上が「ベオグラード包囲戦」で陣頭指揮を執るオーストリア軍総司令官のオイゲン公です。この将軍はとにかく強いんです。彼の活躍により、この「墺土戦争」は1718年にオーストリアの勝利で終わり、同年両国間で結ばれたパッサロヴィッツ条約で、トルコはオーストリアにさらに領土を掠め取られてしまいました。

オイゲン公の活躍でトルコの脅威を退けた皇帝カール6世は、この時点でハプスブルク家単独の領土としては歴代最大の版図を支配していました。(それまでの皇帝はあくまで神聖ローマ皇帝として、その神聖ローマ帝国の領土として各国を支配していましたが、この時はハプスブルク家直轄領として各国を支配していました。)

そのカール6世は意外にも大きな夢を抱いていました。それはオーストリアも海外植民地を手に入れ、かつてのスペイン、ポルトガルの様な大海洋国家にしたいというものです。つまり彼は、歴代ハプスブルク家の皇帝としては初めて「海」に目を向けたのです。

もともとハプスブルク家の本拠地オーストリアは内陸国であり、その支配地であるボヘミア、ハンガリー、チロルなども全て内陸国でした。そのため歴代ハプスブルク家の皇帝たちは海外進出など考えた事もなかったのです。それに先のスペイン継承戦争で、皇帝になる前のカール6世がスペイン王になろうとしたのも、そもそも海外領土から上がる莫大な富が欲しかったからに他なりませんでした。

しかしオスマン・トルコの衰退が明らかとなり、トルコの脅威が去った今、オーストリアがアドリア海から地中海に進出する絶好の機会が到来したのです。彼はその手始めとして、オーストリアにおけるアドリア海の表玄関としてトリエステの港を整備し、ここを海外進出の拠点とします。

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上が皇帝カール6世が目を付けた港町トリエステです。(人口約20万ほど)現在はイタリア領ですが、当時はオーストリア領でした。この街は古代から港として栄え、後にオーストリア・ハンガリー帝国海軍の軍港にもなります。(皇帝の先見の明は見事でした。この港町はその後、第一次大戦の敗北によってオーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊するまで、帝国の海の玄関として発展します。)

カール6世の在位中は後期バロック時代と呼ばれています。「バロック」とはポルトガル語で「歪んだ真珠」という意味だそうで、もともとはその歪んだ真珠をいかにしてジュエリーとして利用出来るかという、それまでの型にはまった伝統に縛られない、宝飾師たちの自由奔放な発想とデザインから生まれた芸術様式で、ジュエリーだけでなく、建築、文学、美術、音楽など全ての分野においてルネサンスの後のヨーロッパ全土に広まりました。このバロック時代を代表する人物といえば、なんといっても音楽の分野でヨハン・セバスチャン・バッハ (1685~1750)がいますね。

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上がバッハの肖像画ですが、子供時代に音楽室で良く見かけた方も多いでしょう。彼の「トッカータとフーガ」や「小フーガ」のメロディは今でも聞くと鳥肌が立つほどの名曲です。

さて話をカール6世に戻しますが、彼にとって最大の悩みは男子の後継者に恵まれなかった事です。 彼は皇妃との間に4人の子が生まれましたが、唯一の男子は生まれてすぐに夭折し、後の3人は全て娘たちでした。つまりこのままではハプスブルク家の家系が絶えてしまいます。

しかし神聖ローマ帝国のゲルマン法においては女性の君主は認められず、それがゆえに建国以来今だかつて一度も女性の皇帝すなわち「女帝」は一度も存在した事がありませんでした。しかし後継ぎが娘しかいない彼には他に選択の余地がありません。そこでカール6世は歴代皇帝として初めて長子相続と領土の分割相続禁止を定めます。これによりそれまでハプスブルク家内で時折相続争いのもとになった領土分割を防ぎ、また後継男子がいない場合、長子すなわち娘でも帝位を継ぐ事が出来る様にしたのです。

カール6世の在位中は周辺諸国との戦争が続いていましたが、彼はこの取り決めを諸外国から承認してもらうため、オイゲン公が苦労して広げた各地の領土を各国に割譲してまでその根回しをします。こうして次なるハプスブルク家の後継者は彼の長女となる事が正式に決定しました。その長女の名は「マリア・テレジア」しかしカール6世の死後、彼女の相続を巡って周辺諸国は先帝が予想だにしなかった行動に走り、そして帝国は再び戦乱の渦に巻き込まれていく事になります。

次回に続きます。

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若き女帝マリア・テレジア ・ 忍び寄るプロイセンの魔の手

みなさんこんにちは。

1740年、オーストリアは不安な年を迎えました。時の神聖ローマ皇帝にしてハプスブルク家の当主カール6世が胃がんで倒れ、余命いくばくも無い状態であったからです。そして何より皇帝はじめ、ハプスブルク宮廷が心配していたのが、これからのハプスブルク帝国の将来についてでした。なぜなら皇帝カール6世はついに後継男子に恵まれず、始祖ルドルフ1世以来多産の家系でこれまで1度も後継者に困らなかったハプスブルク家にとって、この様な事は初めて経験する事態であったからです。

皇帝は自分と皇后との間に男子誕生の見込みが年齢的に無理になった時点で、彼の2人の娘のうちの長女マリア・テレジアを後継者と定めますが、神聖ローマ帝国には前回お話した様に女帝や女王を認めないという、かつてのメロヴィング朝フランク王国以来の古い法があったため、帝国諸侯や周辺国からの反発が予想されました。そこで皇帝はこれら各国に領土を割譲してまでその了解を得るために奔走します。

そしてようやく皇帝は各国に娘テレジアへのハプスブルク家直轄領の相続を認めさせたのですが、その彼の考えの甘さが、後に娘テレジアを大いに苦しめてしまう事になりました。

さて父帝が限りなく大きな不安をもってその行く末を案じていた愛娘マリア・テレジアですが、彼女は父帝が自分への相続のために苦労していた頃はまだ何も知らない、ただ素晴らしい男性との燃えるような恋を夢見るうら若き少女にすぎませんでした。

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上が少女時代 (16、7歳頃) のマリア・テレジアです。(1717~1780)後に「女帝」としてヨーロッパに君臨し、現在においてもオーストリア本国で「国母」と慕われ絶大な人気を誇る女性です。

マリア・テレジア: ハプスブルク唯一の「女帝」 (河出文庫)

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このマリア・テレジアについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。 日本のハプスブルク研究の第一人者である江村洋教授の著作の一つで、恐らくマリア・テレジアの生涯について最も詳しく紹介した本ではないかと思われます。 ページ数は約400ページですが、江村氏の文章は学者にありがちな難解な言い回しが無く、とても読みやすいです。

さてそんな彼女に、やがて生涯の愛を捧げる男性が現れます。フランスとドイツの間に位置する小国ロレーヌ公国の公子でウィーンに留学していた9歳年上のフランツ・シュテファンです。陽気で優しいフランツに彼女はすっかり一目惚れし、「寝ても覚めても彼の事ばかり話している。」と周囲から笑われるほどの熱の入れ様で、若い2人は逢瀬を繰り返し、愛情を育みました。

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上がそのフランツ・シュテファンです。(1708~1765)彼は先に述べた様にもともとは小国ロレーヌの公子でしたが、フランスとオーストリアという大国の思惑に翻弄され、ウィーンへと送られます。そしてここでマリア・テレジアに出会った事が、その後の彼の人生を大きく変える事になりました。

フランツを気に入ったのはテレジアだけではなく、父である皇帝カール6世も娘の結婚相手として大いに彼を気に入り、本来なら神聖ローマ帝国の皇帝家であるハプスブルク家とは身分的に釣り合わない小国ロレーヌの公子フランツと娘テレジアの結婚を認め、1736年2月、2人は結婚しました。(これはハプスブルク家の「お家芸」であった政略結婚ではなく純粋な恋愛結婚で、まさに奇跡とも言えるものでした。)

実はこの時、テレジアの結婚相手としてもう一人の人物が候補に挙がっていました。北ドイツの新興軍事国家プロイセン王国の王子フリードリッヒです。当時20歳前後の若者であった彼は密かにウィーンを訪れ、まだ可憐な少女であったテレジアに好意を抱き、それを知った帝国の元老オイゲン公が皇帝にテレジアの結婚相手としてフリードリッヒを推薦しましたが、テレジアはもちろん皇帝もフランツを結婚相手と決めており、結局この話は流れてしまいました。

この時オイゲン公がプロイセンの王子フリードリッヒを推挙したのは、この結婚で強力な軍隊を持つプロイセンとオーストリアが一つになれば、再びハプスブルク家を盟主とする帝国をヨーロッパに創る事が出来るという、オイゲン公の冷徹な計算が隠されていました。(トルコ、フランス、スペインなど、これまで強大な敵と戦い、勝利してきた名将オイゲン公にとっては力こそ正義であり、力とはすなわち軍事力そのものでした。 彼がプロイセンのフリードリッヒとテレジアを結び付けようとしたのは、軍事力の弱いオーストリアの欠点を最も良く熟知していたオイゲン公のそうした思惑があったからです。)

オイゲン公は2人の結婚式には老齢を理由に欠席しますが、これは彼なりの無言の反発だったのでしょう。20歳からハプスブルク家に仕え、50年以上に亘って命を懸けてオーストリアの拡大に貢献した最大の功労者であり、帝国一の名将として政治的にも皇帝に次ぐ帝国第2の実力者であった彼も、相思相愛の若い2人の愛を引き裂く事は出来ませんでした。 (同年不敗の名将プリンツ・オイゲンは73歳でこの世を去ります。)

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余談ですが、この名将プリンツ・オイゲンの名は、その後オーストリアとドイツの人々に長く記憶され、後のオーストリア・ハンガリー帝国時代には同帝国海軍の巡洋戦艦 (通常の戦艦よりも速度の速いいわゆる高速戦艦) にその名が付けられ、(写真上)またドイツにおいても、ナチス・ドイツ海軍の重巡洋艦に同じ名が与えられています。(写真下) 艦形がスマートで均衡の取れた美しいデザインの重巡ですね。

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ちなみにドイツ重巡の方のプリンツ・オイゲン号は終戦まで生き残り、あの有名な太平洋ビキニ環礁におけるアメリカの核実験において、わが日本帝国海軍のかつての旗艦であった戦艦長門や軽巡洋艦酒匂、その他大小70隻の老朽艦艇とともに標的艦とされましたが、実験で他の艦は沈んだのにこの艦はそれでも沈まず、クエゼリン環礁まで運ばれる途中で座礁転覆し、現在も赤錆びた姿でクエゼリンの美しい浅瀬の海に眠っているそうです。


こうしてテレジアとフランツは結ばれましたが、父である皇帝カール6世はテレジアへの相続は一時的なものとして考えていました。 皇帝は自分亡き後の次の皇帝として、娘婿のフランツを帝位に就かせる事にしていましたが、最後の瞬間まで孫の男児誕生を夢見ていました。つまり2人の間に男児が生まれてくれれば、すぐにもその子を後継者とするつもりでいたのです。

そのため皇帝は娘テレジアに対し、政治教育を一切施す事をしませんでした。しかしこの事も、後にテレジアがオーストリアを継承した際に、娘に大きな苦労をさせてしまう事になってしまいます。そして残念ながら皇帝は彼の存命中にその誕生をひたすら待ち望んだ男児の顔を見る事はついに出来ませんでした。

1740年10月、神聖ローマ皇帝にして最後のハプスブルク家の男系であった皇帝カール6世が55歳で崩御し、ここにオーストリア・ハプスブルク家は歴代で初めて女性の当主を迎える事になりました。 この時テレジアは23歳で、すでに3人の子を産んでいましたがいずれも女子であり、さらに事実上の後継者であるテレジアが全く政治教育を受けていなかった事からハプスブルク宮廷の家臣たちも失望が広まっていました。

そこへ最初の新たな脅威が迫って来ました。同じ年、はるか北の新興国プロイセンがオーストリア領であるシュレージェン地方に侵攻し、これを武力で占領してしまったのです。そしてそのプロイセンの王はかつてテレジアの結婚相手の候補にも挙がっていたフリードリッヒ2世でした。彼はテレジアのオーストリア継承を認める代わりに石炭や鉄などの資源が豊富なシュレージェン地方の割譲を要求し、テレジアがこれを拒否すると初めからその答えが分かっていた様に準備していた軍を差し向けたのです。

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上が問題のシュレージェン地方の位置で、現在はほとんどポーランド領になっています。この地域は前述した様に石炭や鉄鉱などの地下資源が多く、古くから各国の争奪が繰り返された地域です。

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上が若き日のプロイセン国王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)彼は後にフリードリッヒ・デア・グロッセ、すなわちドイツ語で「フリードリッヒ大王」と呼ばれ、ドイツ本国でかつてのシュタウフェン王朝の神聖ローマ皇帝バルバロッサと並んで大変人気があります。(あのヒトラーが最も尊敬していた人物です。)

このフリードリッヒの暴挙に若きテレジアは激怒し、ここにフリードリッヒとテレジアの生涯をかけた長い激しい戦いが始まります。そして彼女は名門ハプスブルク家とオーストリアを守り抜くという自らに課せられた使命を全うするため、宿敵フリードリッヒのプロイセンと戦う事を心に誓うのでした。

次回に続きます。

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