世界帝国への道 ・ ハプスブルクの政略結婚大作戦

みなさんこんにちは。

ブルゴーニュ公国の支配権をめぐる戦いで、フランス王ルイ11世の謀略によってブルージュで反乱勢力に捕えられ、一度は危機に陥ったマクシミリアン王子が、助けを求めた父皇帝フリードリッヒ3世の大芝居(というよりほとんど「はったり」でしたが、笑 その詳細は前回をご覧下さい。)によって救出されてからも、ハプスブルク家はフランス王家と事あるごとに争い、いつしかその関係は、互いを「宿敵」と呼ぶほどに悪化していきました。

ともあれ故郷オーストリアに帰国したマクシミリアンは、フランドルで商人たちを敵に回して失敗した経験から、今度は彼ら商人たちを積極的に味方に付けていく様になります。そんな中の1489年、同じハプスブルク家の一族でチロル地方の領主であったジークムントが、隣の領主であるバイエルン大公アルブレヒト4世から、なんと領地のチロルを抵当にして莫大な借金をしながら返済しない事から「大ゲンカ」になるという事件が起こります。

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上がチロル公ジークムントです。(1427~1496)彼の莫大な借金の原因は、自身の浪費と放蕩三昧からでした。

一方もう一人の当事者であるバイエルン公アルブレヒト4世は、マクシミリアンの妹の夫、つまり義理の兄に当たるので、彼は両者の争いの仲裁に入り、マクシミリアンがジークムントの負債の肩代わりをする代わりにチロルの領主となる事で決着します。

それから4年後の1493年、神聖ローマ帝国史上最も頼りない皇帝と言われつつ、歴代皇帝で最長の53年間もの帝位を維持し続けたマクシミリアンの父フリードリッヒ3世が77歳で崩御します。

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上が皇帝フリードリッヒ3世の棺です。現在ウィーンのシュテファン大聖堂に安置されています。彼については近年の研究で、その長い在位中にひたすら忍耐と我慢で、ハプスブルク家が世界帝国の主へと躍進するきっかけを地道に作った点などが見直されつつあります。

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またこのフリードリッヒ3世は「A・E・I・O・V」という謎の暗号の様な5つの文字を残し、宮殿の壁に彫らせたり、自らの公文書のサインや、身の回りの品々などにも好んでこれらを彫らせています。

この謎の5つの文字については研究者の間で、ラテン語やドイツ語の単語の略で、「オーストリアは全世界を支配する。」または、「オーストリアは不滅なり。」の意味を表すものという説が有力ですが、中には「ハプスブルク家の財宝のありかを示すものだ。」などとまるで映画の様な説を唱える人もいる様です。皆さんはどう思われますか?

マクシミリアンは父の死に伴い帝位を継承し、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世としてここに正式に即位しました。(彼の代からローマ教皇による戴冠式は行われなくなります。)

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上が皇帝に即位するマクシミリアン1世です。ローマ教皇から帝冠を頂くのではなく、幼子イエスを抱く聖母マリアから帝冠を授かる姿を描かせる事で、自らの帝位の神聖さをアピールしているものと思われます。

彼は帝位に付くと、都を負債の肩代わりの条件として継承したチロルのインスブルックに置き、アルプスに囲まれたこの街で借金返済のための経済改革に着手します。当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延していました。マクシミリアンは6年間でこれらの腐敗を一掃します。

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上がマクシミリアン1世が都を置いたインスブルックの現在の街並みと王宮です。(人口およそ12万)

また彼は保護した商人たちの助けを借り、全ての借金を返済する事にも成功しました。中でもフッガー家のヤーコブ・フッガーには銀の採掘権を与える事で、引き換えに莫大な収益を上げ、またチロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てると、優秀な職人たちを集め、これまでの戦闘でその重さに悩まされていた甲冑の軽量化を実現します。

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上がインスブルック旧市街に残る皇帝の「黄金の小屋根」です。(「黄金」といっても金の延べ板ではなく、銅版に分厚い金メッキを施したもので、それが2600枚以上も使われているそうです。)チロルの豊かな鉱物資源の採掘で大きな富を得た皇帝マクシミリアン1世は、この様な豪華なバルコニーや先の王宮などを建設し、祭りなどではここから市民の歓呼に答えたそうです。

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そしてこれがマクシミリアン1世が造らせた新型の軽量甲冑で、「フリューテッドアーマー」と呼ばれています。(重さはそれまでの40キロから、18キロまで軽くなったそうです。)

さて、こうして着々と足元を固めていったマクシミリアン1世でしたが、彼はかつてフランドルで自分を窮地に陥れた宿敵フランスとの決戦を諦めてはいませんでした。また当時南のイタリア半島では、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィアといった都市国家がローマ教皇国と戦いを繰り返し、その裏にはイタリアへの野心を持つフランスが暗躍していました。そしてこれらの国々は、やがて「イタリア戦争」と呼ばれる数十年に及ぶ戦いを繰り広げていきます。

その様な情勢下で、当然マクシミリアン1世の神聖ローマ帝国もその戦争に加担していきました。彼は1496年、まずフランスの動きを封じるため、長男のフィリップ王子を当時のカスティーリャ・アラゴン(スペイン王国の前身)の王女と、娘のマルグリット王女を同じくその王太子と結婚させる事で、イベリア半島と南イタリアのナポリ・シチリア王国を手に入れます。(後のスペイン・ハプスブルク家がここに誕生したのです。そしてフィリップの長男カルロスが、成長後カール5世としてスペイン王兼神聖ローマ皇帝として君臨する事になります。)

それだけではありません。彼はその2年前の1494年に自らミラノ公国の公女ビアンカと再婚し、これによりミラノ公国を支配下に置きます。(これはフランス王がイタリア半島に南下するのを阻むためと思われます。)さらに帝国の東にも目を向け、長男フィリップと結婚させたスペイン王女との間に次々と子が生まれると、彼にとっては孫に当たるその子供たちのうち、次男のフェルディナントと三女のマリアをハンガリー王家の子女と結婚させました。 

このハンガリー王家との縁組によって、ハプスブルク家はハンガリー王国の領有権を得、これが後にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立する要因となります。

「戦争は他国にさせておけ、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」

上の言葉はどこの誰がいつ頃から言い出したのか不明なのですが、ハプスブルク家当主である皇帝マクシミリアン1世の徹底的な婚姻政策を表した言葉です。この様に子や孫を他国の王侯と政略結婚させ、戦わずしてその国の王位と領有権を得る、(つまり乗っ取る)という独特な手法で、気が付けばハプスブルク家は、神聖ローマ帝国という名ばかりの連合国家の中の、オーストリア大公という辺境の一領主から、ハンガリー、ミラノ、ナポリ・シチリア、ネーデルラント、スペイン、そして大航海時代の到来で強大な海洋王国となったそのスペインを通し、同国が世界に広げた植民地をも支配する「世界帝国」の主となっていくのです。


次回に続きます。

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中世の終わり ・ 宗教戦争とオスマン帝国の影

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が、自らの子や孫たちを各国の王家と政略結婚させてハプスブルク家の支配地を着々と拡大させていた頃、その皇帝の長男にフィリップ王子という人物がいました。

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上がそのフィリップ王子です。(1478~1506) 彼は父皇帝よりも、美女として名高かった皇妃の母マリーの血を引いて女性と見まがうほどの大変な美青年であったそうで、そのため「フィリップ美公」、または「端麗公」と呼ばれています。彼はそれだけでなくスポーツ好きで話術も巧みであったため、女性たちにとてもモテたそうです。(最高の名門皇帝家の長男で、金持ちの美男子で、スポーツマンで、会話も面白い、これだけ好条件が揃っていればモテないはずはありませんね。うらやましい事です。笑)

彼は父帝の命によりスペイン王女フアナと結婚し、そのフアナとの間に2男4女、6人もの子に恵まれますが、ある時スポーツを楽しんだ後に飲んだ水に当たって28歳の若さで急死してしまいます。(その不自然さから毒殺説も疑われています。)

若い美貌の夫の急死に彼を熱愛していた妃フアナはそのショックで正気を失い、「フィリップが生き返る。」などというくだらない占い師の言葉を信じて彼の棺を埋葬せずに馬車に乗せ、数年もスペイン国内をさ迷い歩き、見かねた当時の父王フェルナンド2世は娘を修道院に幽閉してしまい、後に神聖ローマ皇帝兼スペイン王となる息子のカール5世も母の処遇には困り、結局亡くなるまで40年以上もの間修道院に幽閉され続けます。そのあまりの狂気ぶりから 「狂女フアナ」 と今日まで語り継がれています。

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上が「狂女フアナ」の肖像です。(1479~1555)長い間こんな呼び名をされてきた彼女ですが、近年の研究では、彼女の精神疾患は物事が自分の思う様に上手く進まないとか、考えの合わない人物などに対して激高する「ヒステリー」程度で、伝えられるほど大げさなものではなかったのでは、といわれています。ただ夫フィリップに対する彼女の熱愛の情だけは疑いの余地は無い様ですね。哀れな女性です。

さて、長男夫婦の不幸もありましたが、皇帝マクシミリアン1世の帝国拡大政策は着実に進んでいきます。フィリップ夫妻の6人の子供たち、(皇帝にとっては孫たち)がすくすくと成長し、4人の孫娘たちは後にそれぞれポルトガル、デンマーク、ハンガリーの王家に嫁ぎ、2人の孫息子たちは、やがて神聖ローマ皇帝位とスペイン王位を継がせる予定であったからです。

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上が晩年の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の肖像です。彼はそれまでの騎士同士の戦いから、歩兵と銃火器の戦いへの転換を図った改革者でしたが、そのために馬から下りた大量の騎士たちが、それまでは一部のはみ出し者の集まりの職業と蔑まれていた「ランツクネヒト」(ドイツ語で傭兵)に転身しました。そのため彼ら傭兵たちは戦闘への参加の代償として、領地ではなく金銭での支払いを要求したので、それ以後の戦いではそれまでとは比較にならない莫大な戦費がかかる結果を招き、晩年は皇帝自身も帝国内外の大小の敵との戦いに明け暮れ、その戦費調達による多額の負債が皇帝を悩ませました。そのせいもあってか体調も崩す事が多くなり、やがて1519年に「中世最後の騎士」といわれ、ハプスブルク家を世界帝国の主へと押し上げた偉大な皇帝は莫大な負債を残し、60歳で亡くなります。

そのマクシミリアン1世の崩御に伴い、新たに神聖ローマ皇帝となったのが19歳の孫カールでした。

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上が新皇帝カール5世の少年時代の肖像です。(1500~1558)彼こそ正に祖父マクシミリアン1世が創り上げた「ハプスブルク帝国」を象徴する人物でした。彼は祖父からドイツ神聖ローマ帝国を、父フィリップからはネーデルラントを、母フアナの父フェルナンド2世からはスペインとナポリ・シチリアを受け継ぎ、さらに皇帝即位後に手に入れた領土や称号など、その肩書きの多さと来たら枚挙に暇がありません。(帝位1つ、王位4つ、大公位1つ、公伯位などは15にのぼります。)

このカール5世(スペイン王としてはカルロス1世となりますが、ここではカール5世に統一させて頂きます。)については、歴史に詳しい方であればご存知の様に「スペイン王」というイメージが強いのですが、(かくいう自分だけでしょうか?笑)元々彼は父フィリップ美公の領国であったフランドルで生まれ、その後17歳までネーデルラントで育ちます。その前年母方の祖父フェルナンド2世の死に伴いスペイン王位を継承しますが、それまではスペイン語など全く話せず、スペインに行った事も無かったそうです。(スペイン王になってからは、熱心に勉強して完璧に話せるようになり、スペインを見事に統治しましたが。)

彼は先に述べた様にネーデルラントで生まれ育ったために終生この地に愛着を持ち、王位を継いで初めてスペインに行った時の同国の荒涼とした風景と文化の遅れに驚き、スペイン王ではありましたが実際はそのスペイン自体はあまり好きでは無かった様です。またネーデルラント地域は位置と距離的にフランスに近い事から、カールはフランスとパリをこよなく愛し、そのため彼が日常最も良く使っていたのはフランス語で、ドイツ神聖ローマ皇帝でありながらドイツ語はあまり上手くなく、ナポリ・シチリア王でもありながらイタリア語も苦手だったそうです。

彼の言語に対する考え方を表す言葉に次のものがあります。

「スペイン語は神への言葉、フランス語は男性への言葉、イタリア語は女性への言葉、ドイツ語は馬への言葉だ。」

何だか当時の各国の状況を如実に表していますね。


彼が皇帝として即位した時代、ヨーロッパはおよそ千年続いた「暗黒の中世」と呼ばれる時代から、近世へと移行しつつある激動の時代を迎えていました。

時は大航海時代、コロンブスの新大陸発見によってスペイン・ポルトガル二大海洋王国が競って南北アメリカ大陸やアフリカ沿岸部、インドや東南アジアに広大な植民地を広げ、金銀宝石、香辛料、その他それまで手に入らなかった様々な珍しい産物が船でヨーロッパに大量に運ばれ、それらの海上貿易で莫大な富がスペイン・ポルトガルにもたらされました。

また文化面においてもイタリアのフィレンツェやローマを中心としてルネサンスが花開き、多くの天才芸術家たちによって絵画、彫刻、建築など、数え切れない傑作が生み出されていきました。

しかしこの様な光の部分とは対照的に、影の部分ももちろん存在します。最もそれが顕著だったのは宗教面で、当時カトリックの総本山ローマ教皇庁の腐敗と堕落は著しく、特に歴代のローマ教皇が自身の享楽と統治や政策資金の捻出のため、その都合の良い財源として大量に発行した、金で罪を許す「免罪符」に端を発する神学者ルターの宗教改革の嵐が瞬く間に全ヨーロッパに広がり、カトリックの保護者である皇帝カール5世も、反カトリック勢力(プロテスタント勢力)との長い戦いを強いられていきます。

またもう一つの影は、遠くはるか東のオリエント地域から迫りつつありました。それは異様に大きなターバンを頭に巻いた強大な集団、イスラム世界の覇者、「オスマン帝国」の脅威です。 彼らはこの時期地中海の制海権を握り、更なる領土獲得のため、ヨーロッパへの侵略を狙っていました。

若き皇帝カール5世の行く手には、これら全てとの激しいせめぎ合いが待ち受けていたのです。

次回に続きます。

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皇帝とフランス王の激突 ・ パヴィアの戦いと第1次ウィーン包囲戦

みなさんこんにちは。

「中世最後の騎士」と呼ばれた偉大な祖父マクシミリアン1世から、神聖ローマ皇帝位とヨーロッパ各国にまたがる広大な領土を受け継いだカール5世ですが、彼はその時まだ19歳でした。しかし領土などはともかく、決して最初からその帝位を順風満帆に受け継いだわけではありませんでした。なぜなら神聖ローマ帝国において皇帝を選出するのは7人の選帝侯たちであり、彼らの選挙によって過半数(つまり4人以上)の賛同を得た者が皇帝となる事が出来たからです。

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上が神聖ローマ皇帝カール5世の壮年期の肖像画です。(1500~1558) 

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このカール5世とスペイン・ハプスブルク家について詳しくお知りになりたい方は、上の2冊の本が良書です。上の本はページ数も150ページ余りで、さらりと知識を得るにはちょうど良いと思います。下の本はさらに詳しいものでページ数は約390ページ。中世ヨーロッパとりわけ神聖ローマ帝国とハプスブルク家の権威である江村洋教授の著作です。

実はこの皇帝選挙にはカール以外にもう一人の強力な候補者がいました。それは何を隠そう時のフランス国王フランソワ1世です。

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上が当時のフランス国王フランソワ1世です。(1494~1547)彼はフランス第4王朝ヴァロワ朝第9代国王で、あの天才芸術家レオナルド・ダヴィンチの晩年のパトロンとなった事でも知られていますね。 彼がフランス王でありながらドイツの皇帝選挙に名乗り出たのは、実際に皇帝になりたいというよりも、ドイツとスペインを領土とするカール5世のハプスブルク家によってフランスが挟み撃ちに遭ってしまうのを嫌ったためともいわれています。(史実は彼の恐れた通りそうなってしまいますが。)

両者は帝位をわがものとするため、莫大な金を使って選帝侯たちの買収合戦を繰り広げます。(すでにとうの昔から行われていましたが、今回はそれまでの規模とは比較にならない資金が使われた様で、さぞや選帝侯たちはウハウハだった事でしょうね。笑)結局最終的にこの争いはカール5世の勝利に終わり、フランソワ1世は落選してしまいました。

しかしカール5世は皇帝となっても、とても手放しで喜べる状態ではありませんでした。なぜなら皇帝選挙で選帝侯たちを買収するために、なんと当時のスペイン王国の国家予算の5年分もの大金を投じてしまい、その全てが借金であったからです。それだけではありません。彼は先帝である祖父マクシミリアン1世が晩年の大小の戦いで、傭兵たちの賃金の支払いのために作ってしまった膨大な負債も相続していました。つまり「大借金王」だったのです。

カール5世はこの膨大な負債を少しでも清算するため、彼にとっては馴染みの薄いスペイン各都市に、上納金と売上税の課税を命じます。皇帝の強引かつ一方的な課税にこれらの都市は反発し、1520年コムネロスの反乱と呼ばれる大規模な乱が勃発します。しかしカール5世は断固武力によってこれを覆滅し、1年余りで全スペインを手中に収めました。

ともあれ最初の混乱を鎮め、皇帝として華々しいデビューを飾ったカールでしたが、それを快く思わない人物がいました。それはかつて皇帝選挙でカールと帝位を争ったフランソワ1世です。彼は帝位が手に入らないのなら、せめて歴代フランス王が成し遂げられなかったイタリア領有をなんとしても実現すべく、イタリアへとその手を伸ばして幾度も軍勢を南下させ、それを阻止せんとするカール5世との間で激しい戦いを繰り広げます。

そして1525年2月、カールとフランソワはイタリアの領有をかけ、北イタリアにおいてついに激突しました。「パヴィアの戦い」の始まりです。両軍の戦力はカール5世率いる帝国軍2万4千、対するフランソワ1世率いるフランス軍もほぼ同数で兵力は互角でしたが、帝国軍の小銃と長槍を効果的に使った戦術によりカール5世が勝利し、総崩れとなったフランス軍は帝国軍の10倍の8千もの死傷者を出し、その上あろうことか総司令官であるフランソワ1世自身が捕虜になるという決定的な敗北を喫します。

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上が「パヴィアの戦い」を描いた当時の絵です。帝国軍が無数の長槍でフランス軍を撃破する様子がお分かりいただけると思います。

勝った皇帝は捕虜にしたフランス王を投獄し、王に対して釈放して欲しくば全イタリアはもちろんブルゴーニュ、ミラノ、フランドルなどから手を引くよう要求し、1526年フランソワ1世はやむなくこの屈辱的な要求を受け入れてようやく釈放されます。(マドリード条約)

しかし皇帝カール5世は完全に騙されました。なぜならフランソワ1世は釈放されるとあっさり約束を破り、条約を破棄したからです。そしてこの後もこの2人は「生涯のライバル」として戦火を交え続ける事になります。

皇帝カール5世の敵はフランス王だけではありませんでした。帝国内には腐敗したローマ教皇庁への批判と宗教改革を唱えるマルティン・ルターの興したプロテスタント勢力が瞬くうちに帝国諸侯を二分し、新旧キリスト教徒の対立が大規模な内乱を引き起こしていました。当然カトリックの保護者である神聖ローマ皇帝は旧教すなわちカトリックのローマ教皇庁を守らなくてはなりません。しかしカール5世はフランソワ1世その他大小の敵との戦いに追われて対応が遅れ、時が過ぎるうちにプロテスタント勢力は勢いを増し、1530年に「シュマルカルデン同盟」を結んで、皇帝に対して公然と反旗を翻しました。

本来なら皇帝自身がこの反逆者たちを討つのが正等ですが、先に述べた様にカール5世はあまりに多忙でした。そのため弟のフェルディナントをドイツ方面の自分の名代として政務を任せる様になります。(このフェルディナントはやがて兄カールの退位後皇帝となります。)

そして1529年、皇帝カール5世にとってさらに強大な敵が東から迫って来ました。オスマン帝国の襲来です。

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上はウィーンを包囲したオスマン軍と、城壁や堀に囲まれた当時のウィーンの様子です。(第1次ウィーン包囲戦)

このオスマン帝国は第7代スルタンであったメフメト2世の時代の1453年に、三重の大城壁に護られ、難攻不落の代名詞であったビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを、圧倒的な大軍と物量にものを言わせて攻め落とし、新たにこれを自分たちの都としてからも領土を拡大させ、ついに1529年、メフメト2世の孫である第10代スルタン、スレイマン1世率いる10万余の大軍がドナウ川を越え、ウィーンへと侵攻して来たのです。


このウィーン包囲戦については、あたかもオスマン帝国が勝手に攻め上って来たかのように思われがちですが、実は裏でフランス王フランソワ1世が仕掛けたものでした。彼はカール5世を挟み撃ちにするため、あろう事か異教徒のオスマン帝国と同盟してまでカールを追い詰めようとしたのです。(つまり「敵の敵は味方」という論理ですね。)

オーストリアとその都ウィーンはハプスブルク家の本拠地です。カール5世はなんとしてもこれを死守すべく、なんと対立するプロテスタント諸侯と和睦し、足りない兵力を補うため、彼らの信仰を許す約束までして援軍をウィーンに送ります。(といってもこれは一時しのぎであり、オスマン軍を追い払えば再びプロテスタントを弾圧するつもりでした。)また籠城するウィーン市民やハプスブルクのウィーン防衛軍も頑丈な城壁を盾に善戦したため、結局オスマン軍のウィーン攻略は失敗し、スレイマン1世は全軍に撤退を命じて戦いは終わりました。

なぜこの時オスマン軍は、コンスタンティノープルの時の様にウィーンを陥落させる事が出来なかったのでしょうか? その理由は2つ考えられます。1つはコンスタンティノープルと違ってウィーンは内陸であり、10万余の大軍を維持する大量の兵糧の補給が難しかった事です。(コンスタンティノープル攻防戦の時は大船団で大量に運べましたが、陸上戦では牛馬に引かせた荷車に頼らざるを得ず、運べる量が段違いで需要と供給が追いつかなかった様です。)

もう1つの理由は戦闘が10月に行われたため、緯度の高いオーストリアではすでに晩秋に近い寒さで、暑さに慣れた南国育ちのトルコ兵たちには耐え難かった事などが挙げられます。

ともあれオスマン・トルコの脅威を1度は退ける事が出来た皇帝カール5世は、この後も宿敵フランソワ1世の仕掛ける有形無形の戦いに敢然と立ち向かい、彼は広大な帝国内を駆けずり回る事になります。

次回に続きます。

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世界の支配者カール5世 ・ 太陽の沈まない?帝国

みなさんこんにちは。

1529年、宿敵フランソワ1世の謀略によってオーストリアにまで侵攻して来たオスマン・トルコ軍を撃退し、何とか彼らのウィーン攻略を阻止した神聖ローマ皇帝カール5世でしたが、その後もオスマン帝国との戦いは続きました。当時このオスマン帝国は第10代スルタンであるスレイマン1世のもとで最盛期を迎えており、地上戦では敗れた(というより都合で撤退した)ものの、彼らは次なる戦いを海上に求め、地中海の制海権を狙って大艦隊を繰り出してきました。

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上が当時のオスマン帝国のスルタン(君主)スレイマン1世(1494~1566)とオスマン帝国の領域図です。

皇帝カール5世はこの脅威に対抗するため、1535年歴代皇帝として始めて地中海を越え、北アフリカのチュニス(上図参照)にまで遠征してこれを粉砕します。しかしこの勝利は一時的なものに過ぎず、再びオスマン軍は態勢を立て直し、今度は大艦隊で海上決戦を挑んで来ました。

これに対し、さすがにヨーロッパ諸国は危機の重大さの一致に達し、恩讐や対立を一時的に凍結して1538年 「対イスラム神聖同盟」 を結び、神聖ローマ帝国、ローマ教皇国、ヴェネツィア、ジェノヴァなどの4カ国で連合艦隊を編成し、ここに「プレヴェザの海戦」の幕が切って落とされます。 戦場はギリシアの西、レフカダ岬です。

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上が「プレヴェザの海戦」の様子を描いた絵です。この戦いにおける両軍の戦力は、ヨーロッパ連合艦隊がおよそ6万の兵と、軍船162隻であったのに対し、海軍力の弱いオスマン帝国は海賊を味方に付け、およそ2万の兵と、軍船122隻というものでした。数の上ではヨーロッパ連合艦隊が優勢でしたが、混成艦隊であったために連携がうまくいかず、ヨーロッパ側は50隻の軍船を失い、3千の捕虜を出して早々に撤退し、対するトルコ側は戦死400名、負傷800名程度で、この戦いの結果地中海の制海権はトルコが掌握する事になりました。

この戦いで地中海の制海権を失ったカール5世は、その後も剛毅不屈の精神で諦める事無くオスマン帝国と戦い続けますが、それによる莫大な戦費が彼に重荷となってのしかかっていきます。

さて、この時点におけるカール5世の勢力範囲はどの程度だったのでしょうか?前々回からお話している様に、彼は祖父や父から、帝位の他にヨーロッパの複数の王位とその領土を継承していました。

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上がこの時代におけるカール5世の支配地です。彼は神聖ローマ皇帝でしたから、まずドイツとその周辺国 (黒い太線が当時の神聖ローマ帝国の領域) が入ります。そのうちオーストリア、スイス(黄色の部分)ネーデルラント(オレンジ色の部分)などがハプスブルク家の直轄領でした。また彼はスペイン王でもあったので、イベリア半島のポルトガルを除く部分と南イタリアのナポリ・シチリア王国、サルデーニャ王国、北イタリアのミラノ公国(小豆色の部分と赤の部分)も支配していました。

さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、大海洋王国となったスペイン、ポルトガルが南北アメリカ大陸とアフリカ沿岸部、インド、東南アジアに植民地を獲得中でした。またカール5世はポルトガル王の王女イザベルを皇妃として迎えていたのでポルトガル王位の継承権も持っており、その気になればポルトガルも支配下に置く事が出来たので、(彼はそこまではしませんでしたが。)それらも含めると彼の影響力が及ぶのは下の図の様になります。

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上の図は、彼の息子フェリペ2世の時代に完成される事になりますが、このカールとフェリペ親子2代80年に亘る時代がスペイン・ハプスブルク家の絶頂期となります。 また彼らの帝国を歴史の世界では「太陽の沈まない帝国」といささか大げさな表現で表される事が多いのですが、これは単純にその繁栄ぶりを太陽に例える意味の他に、上の図をご覧頂ければお分かりの様にスペイン、ポルトガルの広げた海外領土が地球をぐるりと一周してしまうほど広大なものであるために、彼らの支配地では「いつもどこかで太陽が昇っている。」事から付けられたものであるそうです。

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上は怪力のヘラクレスの捧げ持つ地球儀を握り、黄金の帝冠を頭上に置いて「全世界の支配者」としての皇帝カール5世の姿を描いたものです。(なぜかヘラクレスが少年として描かれていますね。カール5世の威厳を現すためでしょうか?)

しかしこの様な表面上の栄光とは裏腹に、カール5世の治世は前回から述べている通り、宿敵フランソワ1世やオスマン帝国などの強大な敵とのいつ果てるとも知れない戦いの連続でとても多忙なものでした。さらにこれも前回触れた事ですが、彼は皇帝即位の際に選帝侯の買収に使うためと、祖父から相続したものも含め莫大な借金を抱えており、それが払い切れないうちに次々と現れる敵との戦いにかかる膨大な戦費が彼の大きな悩みでした。

あれだけの広大な植民地を世界中に持っているのだから、そんな借金などすぐに完済してしまえばいいのにと思われるかもしれません。 確かにカール5世は上の地図の様にあり余る領土を持ち、特に南北アメリカ大陸で先住民やアフリカの黒人の人々を奴隷として酷使して産出された金銀が大量に船でスペイン本国に運ばれました。 しかしカール5世の負債はそうして得られた金銀をはるかに越える巨額のものだったのです。

そのため、せっかく海外から運ばれた金銀も彼の負債の返済や利払いですぐに債権者である商人たちに渡ってしまい、絶えず続く周囲の敵との戦いの戦費でまた新たな負債を作ってしまうために一向に元本が減らず、王家の国庫は常に空っぽの状態だったそうです。 また新大陸からもたらされた金銀のうち、特に銀の量がはるかに多く、その結果ヨーロッパでは主要通貨であった銀貨の価値が大きく下がってしまい、いわゆるインフレによる経済混乱を招いた事も見逃せない事実でしょう。 ともかくこうした「お金の問題」は皇帝カール5世を終生悩ませました。

ここでだいぶ話は脱線しますが、もう一つ彼にまつわるお話をして置きましょう。 それはカール5世の有名な 「あご」 の話です。 実はこのカール5世、これまでに当ブログで載せてきた肖像画でもお分かりの様にとても大きなあごの持ち主で、こういう人を「下顎前突」(かがくぜんとつ)というそうです。

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これはご本人も気にしていた様で、後に立派なあごひげで隠す様になりますが、下顎が普通の人よりも大きいために重さでどうしても絶えず口が半ば開いた状態になっていたそうです。ただしこれは彼に限った事ではなく、当家の始祖ルドルフ1世以来このハプスブルク一族に遺伝として受け継がれた身体的特徴の典型であり、事実彼以外の歴代ハプスブルク家の皇帝たちの肖像画にもそれが顕著に現れています。これはハプスブルク家が近親結婚、すなわち限られた最上級の王家との政略結婚を繰り返したために発生した特異な例である様です。

これは日本でも似た様な一族がいます。かつて天皇家に次ぐ、わが国第二の名家であった藤原摂関家の流れを組む近衛家の一族です。 この一族は特にその「腫れぼったいまぶた」が特徴的で、現在は日本赤十字の名誉総裁をお勤めにあらせられる皇后陛下をお助けして理事か社長などを歴任している現当主の近衛忠輝氏や、戦前の元首相近衛文麿公爵をはじめ、そのひ孫である細川護熙元首相など、皆さんとても良く似ています。これも当家が戦前から名門中の名門であった事から、それに見合った身分の名家(必然的に親戚同士)との近親結婚が繰り返された結果であると思われます。

次回に続きます。

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アウクスブルク反逆事件 ・ カール5世の退位

みなさんこんにちは。

新大陸から東南アジアまで、地球を一周してしまうほどの広大な海外領土を持ち、正に当時の 「世界の支配者」 となっていた神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、1538年にオスマン帝国との地中海の制海権をかけた海戦に敗れはしたものの、その損失は物理的には大して痛いものではありませんでした。 なぜなら先に述べた様に大航海時代の到来によって、すでにヨーロッパ世界はそれまで地中海を経由してしか手に入れる事が出来なかった東洋の産物などを、船団を組んで自由に往来し、好きなだけ運ぶ事が出来たからです。

そしてそれは同時に、それまで地中海とその周辺という「地域」で歴史が動いていた時代から、全世界が一つのつながりを持つ歴史を共有する時代の始まりでもありました。

しかし世界の歴史がその様にマクロ的に変化していたにもかかわらず、わが愛すべき神聖ローマ帝国においては相変わらず皇帝と帝国諸侯の権力争いが続き、さらにそこに宗教改革という複雑怪奇な要素が絡み合い、皇帝カール5世を大いに悩ませていました。

カール5世率いるカトリック派は反カトリック(プロテスタント)を弾圧、プロテスタント勢力はそれに対抗して「シュマルカルデン同盟」を結成し、両者は幾度も軍事衝突を繰り返していました。 皇帝はこの戦いに決着を着けるため、プロテスタント諸侯の指導者であったザクセン公ヨハン・フリードリッヒの親族に当たるモーリッツに対し、ザクセン選帝侯の位を与えるから自分の味方に付く様説得し、モーリッツは皇帝の誘いに乗って同盟を裏切ります。

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上が新ザクセン公モーリッツです。(1521~1553)彼の寝返りによって、シュマルカルデン同盟は大きな亀裂が走り、皇帝に敗れることになります。モーリッツはそれ以外の戦いでも皇帝の勝利に大きく貢献し、カール5世はザクセン公の位を与えて彼を厚遇するようになります。

モーリッツを味方に付けた皇帝は、1547年ミュールベルクの戦いでプロテスタント軍を破り、首魁であったヨハン・フリードリッヒら主だった諸侯を捕える事に成功しました。 勢いに乗った皇帝はこの機を逃さず、アウクスブルクに帝国議会を召集すると、全帝国諸侯に対して、ルターの唱えた新教すなわちプロテスタント思想を捨てて、本来のカトリックの教えに立ち帰る事を要求し、従わなければ「攻め滅ぼす」と迫りました。


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上がこの時のアウクスブルク帝国議会の様子を描いた当時の版画です。 居並ぶ諸侯たちの背後には皇帝軍の兵士たちが槍を構えて彼らを取り囲み、また議場の外にも皇帝の大軍が包囲していました。諸侯たちには成すすべもありません。従わなければ滅ぼされるのです。彼らはやむなく皇帝の突き付けた条件に従います。

正にこの時こそ、皇帝が全ての帝国諸侯を従えるという歴代皇帝の念願を初めて果たす事が出来た瞬間でした。神聖ローマ帝国の成立以来、初めてそれが実現されたのです。そして同時にこの時が、カール5世が世界の頂点に登り詰めた時でもありました。

しかしこの世の頂点に立ったカール5世は思いもかけない所から一転奈落の底へと突き落とされる事になります。1552年、あろう事かカールがもっとも信頼していたザクセン公モーリッツが皇帝を裏切り、配下の手勢でクーデターを起こして皇帝を捕らえようとしたのです。アウクスブルクの本陣で油断していた皇帝は、幸いモーリッツとその軍勢の異変を察知した家臣の知らせで直ちに脱出し、取るものも取らずインスブルックへ逃亡したので間一髪の所で難を逃れましたが、(その差はわずか数時間だったそうです。)これによりせっかく討ち従えたプロテスタント諸侯が再び息を吹き返してしまい、何より最も信頼していた臣下の裏切りに皇帝は計り知れないショックを受けました。

なぜザクセン公モーリッツはこの時地上の最高権力者であり、自分を引き立ててくれた皇帝に対して謀反を起こしたのでしょうか? それはもともとモーリッツがプロテスタントであった事に関係があります。 カール5世はプロテスタント勢力を従えるためにモーリッツを利用したのですが、そのモーリッツ自身も皇帝を利用して自らの立身出世と広大な領地を獲得する事が出来たのでした。

しかしそんな彼も皇帝の独裁による帝国支配は望んではいませんでした。彼も他の帝国諸侯と同じ様に皇帝というものは自分たちに利益を与えてくれる存在というだけで良かったのです。 それにそもそもシュマルカルデン同盟を瓦解させたのは、彼が駆けずり回って他のプロテスタント諸侯を説得したおかげという側面が大きかったのですが、カール5世は早々に降伏したその者たちを幽閉したままで、いくらモーリッツが取り成しても釈放せず、またその中には彼の親族も多かったのです。

皇帝の横暴なやり方にモーリッツの中のプロテスタント魂に火が点きました。彼は新たにプロテスタント勢力の代表になると、それだけでは勝てないので、皇帝をけん制するためにフランス王アンリ2世と帝国領の一部割譲をえさに同盟までしてカールに対抗します。(但し彼はこのフランスへの割譲など最初から破棄するつもりだったそうです。)しかしそこまでする事は無かった様で、すでに皇帝カール5世のショックは凄まじく、彼は弟のフェルディナントに調停を任せて寝込んでしまいました。

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上がカール5世の弟フェルディナントです。(1503~1564)彼はプロテスタントに対して兄カールより穏健派でした。フェルディナントはハプスブルク家の態勢を立て直すため、モーリッツとカトリック、プロテスタント双方の共存を約した「パッサウ条約」を締結し、事態は沈静化に向かいました。(その後一連の首謀者であるザクセン公モーリッツは、パッサウ条約に従わないカトリック諸侯との戦いで1553年に戦死してしまいます。 まだ32歳の若さでした。)

皇帝カール5世はこの条約に大いに不満でしたが、情勢は皇帝に完全に不利でした。結局彼は弟フェルディナントに説得され、1555年因縁の地アウクスブルクで再び帝国議会を開き、プロテスタントの存在と権利を認めるのです。事実上の皇帝の敗北でした。(アウクスブルクの和議)

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この会議の後皇帝カール5世は完全に気力を失い、また持病の痛風の悪化も相まってまだ50代半ばにも拘わらずすっかり老け込んでしまいました。そしてあまりにも広大すぎる彼の帝国の統治に精根尽き果てたかのごとく翌年の1556年、故郷のネーデルラントで弟フェルディナント以下のハプスブルク一族を集めて皇帝を退位する事を宣言し、帝位と神聖ローマ帝国を弟フェルディナントに譲り、長男フェリペにはスペイン王位とスペイン王国を譲って帝国を二分してしまいました。こうしてカール5世の世界帝国はあっけなく終わったのです。

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在位中の皇帝が自らの意思で退位するなど、神聖ローマ帝国の歴史上初めての事でした。しかし帝国はすでにとうの昔に皇帝の手を離れており、何の支障もありませんでした。カール5世は第二の故郷スペインのマドリード郊外、サン・ユステ修道院(上の画像の閑静な邸宅です。)に側近の家臣60余名とともに隠棲し、時折息子フェリペ2世らの訪問を受けながら、早くに亡くした妻イザベラの肖像画(上の画像の美しい女性です。1503~1539 ポルトガル王女で、カール5世はこの妻を大変愛しました。)を眺めながら静かな晩年を過ごします。その姿はかつて地上最強の皇帝であった人とは思えない、一人の疲れ果てた老人の姿だったそうです。そして2年後の1558年9月、58歳で亡くなりました。

次回に続きます。

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ハプスブルク家の分裂 ・ スペイン家とオーストリア家

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国史上最も広大な領土を治め、かつその帝国を維持するために次々と現れる敵と戦い続けた皇帝カール5世が、その多忙さと持病の痛風に疲れ果て、退位してから2年後に崩御すると、ハプスブルク世界帝国は弟フェルディナントのドイツ・オーストリアと、長男フェリペのスペインに分かれる事になりました。

2つに分かれたハプスブルク家のうち、その後大きく繁栄したのは後者のフェリペ率いるスペイン・ハプスブルク家で、父の退位で正式にスペイン国王フェリペ2世となった彼のもとで、スペイン王国は大海洋帝国として繁栄を謳歌するのですが、そちらのフェリペ2世のスペインについての話は有名であり、それはいずれ別の機会に詳しく述べたいと思うので今回は割愛させていただくとして、今回はその叔父であり、先帝カール5世の弟であるフェルディナントのオーストリア・ハプスブルク家についてお話したいと思います。

カール5世は亡くなる2年前に退位し、1556年に神聖ローマ帝国とその帝位を信頼する弟フェルディナントに譲りました。(これにより彼は皇帝フェルディナント1世として即位します。)

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上が新皇帝フェルディナント1世です。(1503~1564)彼は兄カールより3歳年下で、兄とは仲も良く、兄カールが皇帝在位中はその右腕として影に日向に兄を良く支えた忠実な弟でした。また彼は兄と違って戦よりも政治、外交に長けていた様で、長く兄カールを悩ませたプロテスタントに対してはその考えも理解尊重し、カトリックとの共存を約したパッサウ条約やアウクスブルク和平条約を成立させるなど、現実主義の実務家として評価出来る人物でした。

彼は皇帝となるとボヘミアとハンガリーへの支配力を強めようと画策し、独立心の強いハンガリーではオスマン帝国の妨害もあってうまくいかなかったものの、ボヘミアではある程度成功し、後のオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立は、この時に彼が築いた地盤の上に成り立つものでした。

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上はフェルディナント1世の在位した時代、1560年前後のヨーロッパの地図です。 緑の部分がハプスブルク家の領土で、フェリペ2世のスペイン・ハプスブルク家がスペイン、ナポリ・シチリア、サルデーニャ、ミラノ、ネーデルラントを支配し、フェルディナント1世のオーストリア・ハプスブルク家がオーストリア、スイス、チロル、ボヘミア、ハンガリー、ケルンテン、ダルマチアなどを支配地としています。(いかに広大なものかご理解いただけると思います。 先帝カール5世が帝国を2つに分割した理由も統治機構を分けて分割統治した方が良いと考えたからです。)

スペイン家とオーストリア本家の2つに分かれたハプスブルク家でしたが、両家の関係は非常に良好で、緊密に連携を取りながらそれぞれの所領を統治していきました。 そもそも王家が2つに別れたのも、互いの反目や相続争いではなく、その方が広大すぎる領土の円滑な統治の実現に有利との認識で両家が一致しており、また何よりこのハプスブルク王家の遺伝的長所として、ごく一部の例外を除いて一門が代々とても仲が良かった事が挙げられます。

フェルディナント1世は兄カールともども明朗快活で肉親愛も強く、人間的にはとても良い人だった様です。 また時はルネサンス真っ盛りの時でもあり、特に料理や建築などの文化をオーストリアに広め、ウィーン初の料理学校を設立しています。 そしてここで学んだ人々によって豪華な宮廷晩餐会のレシピが数多く考案され、豊かな食文化がオーストリアに定着していきました。さらに彼は子だくさんでもあり、皇妃との間に4男11女なんと15人もの子を成し、娘たちの多くが名だたる王侯家に嫁ぎ、まさにハプスブルク家繁栄の源である「多産」の先駆けとなりました。 しかし彼は残念な事に在位わずか8年余りで亡くなってしまいます。

フェルディナント1世の死後、帝位は長男のマクシミリアンが継承し、マクシミリアン2世として即位しましたが、彼の時代に父フェルディナント1世らが苦労して結んだ条約などで束の間平穏だった神聖ローマ帝国に、再びカトリックとプロテスタントの対立の火種が生まれてしまいます。

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上が若い頃の皇帝マクシミリアン2世です。(1527~1576)彼は「中世最後の騎士」と呼ばれた偉大な曽祖父の1世にあやかり、同じ名を付けられましたが、彼の治世は言わば「迷走」と言っても良いほど不安定なものでした。なぜなら彼はカトリックの絶対的保護者である神聖ローマ皇帝でありながら、その思想はプロテスタント寄りだったからです。

新帝マクシミリアン2世は父である先帝フェルディナントと違い、ほとんどプロテスタントでした。父フェルディナントは自身はカトリックでありながら、現実的な理由でプロテスタントに妥協したに過ぎず、そのため彼は息子にカトリックでなければ帝位を譲らぬと生前から強く釘を刺していました。やむなく王子はカトリックに留まりますが、その父が亡くなると、帝位を継いだ彼は大手を振ってプロテスタントの保護と自由を認める政策を打ち出します。

しかし彼の政策はがちがちの厳格なカトリックであり、年上の従兄弟にあたるスペイン王フェリペ2世の大反対にあって断念せざるを得なくなります。 また帝国東部ハンガリー辺境においては、国境でオスマン帝国との小競り合いが延々と続き、これらのイスラム勢力の駆逐にも失敗してしまいます。

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上はオスマン軍とハンガリー軍との戦いの様子を描いた絵です。強大なオスマン軍に対してハプスブルク家の軍勢だけではこれらを撃退する事叶わず、皇帝はやむなくオスマン帝国スルタンに、キリスト教徒の保護のためと称して事実上の貢納金を払っていました。

彼は帝国皇帝として諸侯の兵も動員出来るよう帝国軍の実権を握ろうとしますが、今度はプロテスタント勢力が、先に皇帝がスペインの横槍でプロテスタント政策を断念した事への反発などで妨害したためにこれも失敗に終わります。

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上は晩年の皇帝マクシミリアン2世です。 細身の青年時代とうって変わり、年を取ってすっかり恰幅が良くなっていますが、残念ながら彼の在位中には政治、軍事両面において見るべき成果はほとんどありませんでした。しかしそんな彼ですが、学問や自然科学に大変造詣が深く、また父フェルディナント1世に負けぬ、9男6女15人の子に恵まれ、これらの子らを成長の後は各国の王侯と政略結婚させるというハプスブルク家の伝統を繋いでいます。

彼の場合は父フェルディナント1世の逆でどちらかというと娘より息子たちが多く、娘たちのうち2人をスペインとフランスの王家に嫁がせていますが、息子たちはネーデルラント総督やドイツ騎士団長など、いわゆる武人の道に進みました。しかしその彼の息子たちのうち、武系には程遠い長男である一人の変わり者が次の皇帝になった事で、ハプスブルク家と神聖ローマ帝国はまた一騒動起きる事になります。

次回に続きます。

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稀代の変人ルドルフ2世 ・ 魔術を信じた皇帝

みなさんこんにちは。

アウクスブルクの和議で、一旦収束しつつあったカトリックとプロテスタントの対立は、時の皇帝マクシミリアン2世の政策の迷走により再び再燃し、その原因を作ってしまったマクシミリアン2世は結局それを解決する事が出来ずに1576年49歳で崩御してしまいます。

マクシミリアン帝は前回お話した様に子だくさんでしたが、帝位はその長男ルドルフがごく当たり前の事として継承し、彼はルドルフ2世として即位します。 今回はこのルドルフ2世が主人公です。

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上が神聖ローマ皇帝ルドルフ2世です。(1552~1612)以前カール5世の回でも触れましたが、このルドルフ2世も大伯父のカール5世同様ハプスブルク王家の人々の顔立ちの特徴である「大きな下あご」を受け継いでいますね。

彼は父マクシミリアン2世がプロテスタント寄りであった事を苦々しく思っていたスペイン王フェリペ2世の意向によって、少年時代をスペインの宮廷で過ごし、徹底的なカトリック教育を受けたために厳格なカトリック教徒として成長しました。 その結果皇帝となると父が行った宗教政策を廃し、徹底的にプロテスタントを弾圧していきます。 しかし、こんな一方的なやり方が通用する様な神聖ローマ帝国ではありません。 スペインで育った彼はあまりにも帝国の実情に対して無知でした。 これにより帝国内のプロテスタント勢力が一斉に反発し、彼らを敵に回してしまったからです。

中でも特にハンガリーの反発が激しく、1608年には大規模な反乱が発生します。しかしルドルフ2世は皇帝でありながら国政にはあまり関心を示さず、重臣たちに任せきりにしていたため、反乱の火の手は瞬く間に帝国中に広がっていきました。 その様な中で彼はハンガリー王位を弟のマティアスに譲り、(というより最も面倒なハンガリーの統治を弟マティアスに押し付けたと言った方が良いかもしれません。)ウィーンからボヘミアのプラハに遷都すると、巨大なプラハ城内の宮殿に引きこもってしまいます。

ここまで書くと、このルドルフ2世が無能な皇帝であるかの様に思われるかもしれませんが、宗教政策に失敗した初期の段階で、彼は200を越える帝国諸侯や帝国自由都市で構成されるこの神聖ローマ帝国という「怪物国家」に対して完全な統治など不可能と早々に見切りを付けてしまいました。 そしてまったく別の分野に自らの生きる価値を見出します。

それは芸術と学問という文化面でした。彼は政治には無関心でしたが並外れて教養に富み、多くの芸術家や学者を都プラハに招いて彼らを大いに保護しました。この時に皇帝が招いた学者で最も有名なのが、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーでしょう。

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上が天文学者ヨハネス・ケプラーです。(1571~1630)彼は、惑星は太陽の周りを楕円軌道を描いて周っているという「ケプラーの法則」で知られていますね。また彼は数学者でもありながら、占星術師でもあるといういさかか矛盾したキャリアの持ち主でもありました。

また美術面において、ルドルフ2世のお気に入りの画家はブリュッセル出身のピーテル・ブリューゲルです。

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上がピーテル・ブリューゲルです。(1525?~1569)彼の代表作で最も有名なのは下の「バベルの塔」でしょう。これは人間が天にも届く塔を建てようとして神の怒りに触れ、神は人間たちの言葉をばらばらにしてしまい、互いの意思の疎通が図れなくなった人間たちは塔を造り上げる事が出来なくなったという、旧約聖書の物語の題材で、きっと何かで見た方もいると思います。

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上が皇帝ルドルフ2世が居城としたプラハ城です。彼はこの巨大な城郭宮殿で、たくさんの芸術家や学者たちを招いては文化と学識談義に没頭していました。 中でもとりわけ皇帝の心を強く掴んだのが「錬金術」です。

この錬金術というのは、「鉛などから金を造り出そう。」という人間の欲望の浅ましさから生まれたなんとも幼稚な試みなのですが、すでに古代ギリシャ時代から行われていたそうです。しかしルドルフ2世は実際に金を造れるか否かという事よりも、錬金術で使われる様々な実験や道具類などに魅力を感じていた様で、プラハ城内に錬金術師を名乗る者たちを住まわせていました。

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上が当時の錬金術師の様子を描いた絵と、皇帝が彼らを住まわせていたプラハ城内の「黄金の小路」です。ルドルフ2世は皇帝でありながら結婚もせず、変人扱いされても一向に構わず時には彼らと錬金術の実験にのめりこみ、プラハ城はさながら「魔術の城」となっていました。

ルドルフ2世が帝国の現実に目を背け、ひたすら趣味に情熱を注いでいた頃、そんな兄の無責任ぶりに、最も腹を立てていたのが実弟であるマティアスです。彼は兄ルドルフと違って急進的な野心家であり、兄が国政を投げ出して趣味の美術やいかがわしい錬金術などに没頭する姿に我慢がなりませんでした。また隣国ポーランドの王位継承争いでも、せっかく東への領土拡大の好機であったのにも関わらず、兄ルドルフが何等の策も講じなかったために北方のスウェーデン王に取られてしまい、兄に対する怒りは頂点に達していました。

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上がルドルフ2世の弟マティアス・ハプスブルクです。(1557~1619)ハプスブルク王朝は代々親子兄弟一族みな仲が良く、それがこの王家の良い所でもあるのですが、その当家において彼と兄帝ルドルフ2世は残念ながら最も仲が悪い兄弟であった様です。 やがて彼らの対立は、弟マティアスによる兄の帝位剥奪という結果を招いてしまいます。

マティアスは1611年、ついに実力行使に出ます。彼は自ら軍勢を率いて兄のいるボヘミアのプラハに侵攻し、すでにその頃病身であった兄ルドルフに、帝位を自分に譲るよう要求しました。しかしとうに国政に絶望し、もはや帝位にも未練の薄かったルドルフ2世は弟の要求を受け入れ、翌年60歳で崩御しました。

先にこの2人の兄弟が仲が悪い事は述べましたが、だからといって弟マティアスは兄を投獄したり、まして処刑しようとまではしませんでした。ただ帝位を取り上げただけで、それ以外は余命の少ない兄を郊外の山城で自由にさせていました。これはこのハプスブルク家の人々にほぼ共通しているのですが、他の名門や王侯貴族たちが、王位や相続争いで親子兄弟骨肉相食む血みどろの戦をして、勝者が敗者とその一族をとても冷酷残忍に処刑して根絶やしにしている事が多いのに、このハプスブルク家の人々には、始祖ルドルフ1世以来その様な残酷非道な人物はほとんどいません。この様な点からも、この王朝が今でもヨーロッパでとても人気があるのが理解出来ますね。


さて、次の皇帝には目論見通りマティアスが即位し、彼は神聖ローマ皇帝となりますが、最初は威勢の良かった彼も、その後は自らが追いやった兄や歴代皇帝たち同様宗教問題に悩まされ、その上彼自身の治世も長くは続かず、結局即位からわずか7年余りの1619年に亡くなります。

ルドルフ2世は政治面では見る影もありませんでしたが、文化や学問では大きな貢献を果たしました。とりわけ晩年の彼がのめりこんだ魔術ともいうべき錬金術の様々な実験による副産物が、後の「化学」を生む土台となり、それがさらに産業革命へと発展する大きな原動力となっていったからです。彼の最後は実の弟によって帝位を追われるというショッキングな幕引きでしたが、もともと皇帝になど向いていなかった彼にとってはそれで良かったのかもしれません。 それによって彼は生まれた時から決められていた長くて重い重圧から解放され、亡くなるまでのほんのわずか数ヶ月ほどですが、好きな美術や学問を生まれて初めて心から楽しめたのでしょうから。

次回に続きます。

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ドイツ三十年戦争勃発 ・ 帝国は地獄となった

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国史上最大の変わり者皇帝ルドルフ2世が、その弟マティアスによって譲位させられ、さらにその死後に帝位を継いで皇帝となったマティアス帝も1619年にわずか7年余の在位で亡くなると、次の帝位はその従兄弟であるオーストリア大公フェルディナントがフェルディナント2世として継承しました。(ルドルフ2世は生涯独身で、マティアス帝も皇后との間に子は成さなかったからです。)

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上が新帝フェルディナント2世です。(1578~1637)彼は熱烈なカトリックであり、皇帝になる以前から激しくプロテスタントを弾圧していました。そして彼こそが後にその後のドイツを地獄の戦場へと変えてしまう「三十年戦争」を引き起こしてしまった開戦の張本人でした。その最初の発端となる事件が1618年の「プラハ窓外投擲事件」(そうがいとうてきじけん)です。

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これはフェルディナントが皇帝となる前年にボヘミア王に即位した際、それを認めようとしないボヘミアのプロテスタント貴族たちに扇動されたプラハ市民がプラハ城を襲撃、王の家臣5名が城の3階の窓から投げ落とされたというものです。 幸い地面に干し草が積んであったため、投げ落とされた者たちはケガもなく、ウィーンに脱出してプラハの反乱とこの暴挙を王に報告しました。

知らせを聞いたフェルディナントは激怒し、直ちにボヘミアに討伐軍を派兵しますが、反乱軍も頑強に抵抗し、ここに事実上三十年戦争の火蓋が切って落とされます。翌年皇帝となったフェルディナント2世はボヘミアの反乱軍を壊滅させるため、プラハ郊外の白山に軍を集結させ、これを迎え撃つボヘミア軍との間で最初の大規模な戦闘が始まります。「白山の戦い」の始まりです。

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上が白山の戦いを描いた当時の絵です。皇帝軍の兵力はスペインからの援軍も含め、総勢2万7千を数え、対するボヘミア反乱軍は1万5千でした。この戦いは戦上手で敬虔なカトリックであった傭兵隊長ティリー伯を総司令官とする皇帝軍の大勝利に終わり、プロテスタント側はおよそ5千の死傷者を出して敗退します。 勢いに乗った皇帝フェルディナント2世は捕らえた反乱首謀者のボヘミア貴族たち27名をプラハの広場で斬首によって公開処刑しました。

しかし、いかに勝利したとはいえ、皇帝のこの様なやり方はプロテスタントにカトリックへの憎悪と憎しみを掻き立てる結果となってしまいます。 その後も双方の戦いは続き、戦火はやがて帝国全土に広がり、どさくさに紛れて領土を掠め取ろうと狙うフランス、スウェーデン、デンマークなどの介入も相まって大規模な長期戦へと発展していきました。

この三十年戦争は、最初は上で述べた様にカトリックとプロテスタントの宗教対立によるものでしたが、徐々に国家間の権力闘争の側面が露わになり、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力間の国際戦争として展開する事になりました。

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上の図は1600年代のヨーロッパの勢力図です。現在のドイツに当たるヨーロッパ中央部は数え切れないほどの大小の領主によって細かく分かれてしまっているのがお分かり頂けると思います。

世界の歴史〈9〉ヨーロッパ中世 (河出文庫)

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この三十年戦争を含むヨーロッパ中世について体系的にお知りになりたい方は上の本が良書です。河出文庫の世界史シリーズの1冊で、ページ数はおよそ400ページ余り、価格の割には情報が非常にコンパクトにまとめられており、文章も読みやすいです。

これらの諸侯たちがハプスブルク家を旗頭とするカトリック派と、反カトリックのプロテスタントに別れ、さらにハプスブルク家には同じカトリックのスペインと、ナポリ・シチリア、ローマ教皇国が味方に付き、プロテスタント側にはそのスペインからの独立を目論むネーデルラント、その隣国で当時北海とバルト海を支配していたデンマーク、スウェーデンが支援し、さらに本来カトリックでありながら、領土欲しさにフランスも味方に回り、女王エリザベス1世の下で海洋国家として歩みだし、すでに海洋帝国となっているスペインを追い落としたいイギリスも加わるなど、実に複雑怪奇な様相を呈していました。


この三十年戦争で最も(悪い意味で) 活躍したのは身分の高い王侯貴族たちよりも、名もない傭兵たちでした。彼らは金次第でどこにでも雇われる荒くれ者の集団であり、宗教も政治思想も彼らにとってはどうでも良く、ただ彼らの興味は次の戦いでどこの王侯の味方に付き、どれだけの報酬をもらえるか、その一点だけでした。

傭兵の二千年史 (講談社現代新書)

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中世ヨーロッパの傭兵について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。中世ヨーロッパの歴史がご専門の菊池芳生先生の作品で、ドイツ三十年戦争についても詳しく説明されています。ページ数は230ページ余りでそれほど分厚くはありませんが、この時代を知る入門書として最適ではないかと思います。

当時は国を守るために志願して兵士となる近現代の軍隊などありませんでした。従って皇帝や国王でさえも、純粋に彼らの軍隊といえば、代々仕える直属の家臣たちから構成された多くても数千から1万程度に過ぎず、この兵力ではとても複数の戦いを同時進行する余力はありません。また戦には莫大な戦費がかかる事から、そういつでも戦いをし続けるわけにもいかず、財政的に困難でした。


そこで皇帝や王侯たちは大きな戦いの前になると、死んでも誰も困らない名も無い傭兵たちを大量に召し抱え、末端の彼らに血を流させる事で戦争を続けていく様になります。(死ねば金を払う必要はないし、大事な家臣たちを失う事もありませんからね。)

ただし、戦いはいつでもあるわけではありません。先に述べた様に戦費の問題から、王侯たちは金が尽きると傭兵たちを一時的にいわゆるリストラします。失業した傭兵たちはその間は当然無収入です。 次の戦いはいつになるか分かりません。 全ては王侯たちの情勢次第です。そこで傭兵たちは食べていくために帝国内の農村を略奪して廻る様になります。

農民たちにとっては戦争があれば重税を課せられ、領主はその金で傭兵を雇い、村が戦場になれば畑が踏み荒らされ、戦争がない時は失業中の傭兵部隊がいつ襲って来るか分かりません。傭兵部隊に襲われたら、略奪、暴行、虐殺、やりたい放題にやられるというまさに「この世の地獄」でした。(まるで黒澤明監督の映画「七人の侍」に登場する野武士軍団の様ですね。)


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上の絵は傭兵たちによって虐殺され、見せしめに広場の木に吊るされる村人たちの死体です。

「十里歩いても人っ子一人、家畜一頭、雀一羽にすら出くわさない。全ての村で、家々が死体と腐臭に満ちており、老若男女、子供、馬、豚、牛が並び重なり合って飢えとペストで死に、蛆虫だらけだ、そしてもう亡骸を埋葬して悲しみの涙を流す者もいないため、狼や犬やからすに食い荒らされるに任せている。」

上の文章は当時のドイツの農村の惨状を記したパトキンなる人物の「ドイツ壊滅」の一文です。

この三十年戦争は非常に複雑な様相を呈していて、とても当ブログではその全容をお話するのは困難なのですが、ごく大雑把に説明すると、戦争の前半はカトリックの優勢、後半はプロテスタントの巻き返しという流れでご理解いただくのが良いでしょう。

やがてこの長い戦いの中盤から2人の英雄が現れ、戦争は宗教対立の次元を超えて、最初の国際戦争ともいうべき段階に入っていく事になります。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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