マルヒフェルトの戦い ・ 貧乏伯爵の逆転勝利

みなさんこんにちは。

選帝侯たちの勝手な思惑で、事前に何の打診も無くドイツ王に決定されたルドルフ・フォン・ハプスブルクが、あたふたと即位して慣れない玉座の上で今後の事をぼんやり考えていた頃、彼のドイツ王即位を腹わたの煮え繰り返る思いで見ていた人物がいました。それは選帝侯の一人でボヘミア王であったオタカル2世です。

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上が当時のボヘミア王オタカル2世のイラストです。(1230?~1278)彼はボヘミア(現チェコ) のプシェミスル朝の王で、巧みな政治力と軍事力で周辺地域を支配下に収め、一時はボヘミア本国の他、オーストリア全域と、ハンガリーやポーランドの一部を領有する大勢力となり、当時の帝国最大の実力者でした。

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上が当時のオタカル2世の支配領域です。

彼は上で述べた様に非常に強力な王でした。そのため当然の事ながら次のドイツ王すなわち神聖ローマ皇帝には自分こそがふさわしいと自認していたのです。しかし彼がこの様な強い力をもっていたからこそ、強力な王を出したくない他の選帝侯たちから避けられ、王位は彼の元から離れていってしまったのでした。

オタカルは新たなドイツ王としてルドルフが決定した事に非常に腹を立て、その決定を下した選帝侯たちよりも、当のルドルフ本人にその怒りの矛先を向けていきます。(ルドルフにとっては大迷惑だったでしょうね。彼もなりたくて王位に付いたのではないのですから。)

「あの貧乏伯爵のルドルフめ!憎んでも飽きたらぬわ!こうなればどうするか見ておれ。」

オタカルは新たなドイツ王に即位したルドルフに対して、帝国諸侯の慣例である臣下の礼の証として召集される儀式も無視して参列せず、公然とルドルフへの対決姿勢をあらわにします。「自分はお前など絶対に王として認めないぞ。」というわけです。

彼がこれほどまでにルドルフに対して敵対心をあらわにしたのにはもちろん理由があります。つまりオタカルとルドルフではそもそも身分的な「格」が違うのです。オタカルは一国すなわちボヘミアの国王であり、先に述べた様にポーランドからアドリア海に至る広大な領地を保有し、そこから上がる収入も帝国一で、その財力を背景にいつでも数万の軍勢を動員出来る「金持ち王」でした。それに引き換えルドルフの方は前回も述べた様に、スイスの山奥の辺境の「一伯爵」に過ぎず、領地もオタカルの20分の1程度しかありませんでした。

一国の王であり、帝国最大の実力者である自分が、一伯爵上がりの田舎者にひざを屈して臣下の礼を取るなど、彼のプライドが断じて許せなかったのです。

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一方思わぬ事からドイツ王に即位したルドルフ(上の彫刻の人です。)の方は、その驚きからもじきに醒め、自らに課せられた運命を受け入れ「王」として帝国諸侯の上に君臨する事を決意します。その手始めとして彼はまず、自分に臣下の礼を取った諸侯以外で儀式に参列しなかったオタカル2世はじめ一部の者をリストアップし、その者たちに3度の機会を与えて自分に会いに来るよう招換します。(これはプライドの高いオタカルを刺激しないよう他の諸侯と合わせて勧告したものと思われます。) 

しかし他の一部の諸侯も皆ルドルフに従ったのに、結局オタカルは3回目の勧告も無視して最後までルドルフへの臣従を拒否しました。ここに至ってルドルフはドイツ王として最初の大なたを振るいます。彼はオタカルに対し、「帝国アハト令」を宣告したのです。このアハト令とはゲルマン古来から伝わるもので、言わば帝国諸侯としての一切の権利を剥奪し、帝国から追放するというものです。もちろん地位も領地も財産も全てです。

このルドルフの宣告によって両者の関係は修復不可能となってしまいますが、実はこれこそがルドルフの狙いでした。これによって彼は、「帝国への反逆者」オタカル2世を討伐する大義名分を得ることが出来たのです。

「あの様な性格の男では自分に従う事などあるまい。ならば王として力で駆逐するより他に道は無い。」

彼はオタカルの人となりを冷静に分析し、周到に時間をかけてその時を待っていたのでした。さらに彼はこの時、他の帝国諸侯たちから自分が王としての実力を試されている事を良く自覚していました。


1278年8月、ついに両者は帝国の支配権を巡り、オーストリアの地で激突します。「マルヒフェルトの戦い」の始まりです。両軍の戦力はルドルフ1世率いる帝国軍3万に対し、オタカル2世率いるボヘミア軍2万5千でした。

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兵力はハンガリー王と手を結んだルドルフの帝国軍が上回っていましたが、オタカル王のボヘミア軍も強力で、当初は帝国軍が押され気味の激戦でした。しかしここでルドルフが事前に戦場の森や丘の各所に配置した数十騎単位の伏兵が大きな威力を発揮します。突如現れた伏兵の攻撃にボヘミア軍は大混乱に陥り、さらにハンガリー軍による側面攻撃も相まってやがてボヘミア軍は総崩れとなって壊滅、総大将のオタカル2世もこの戦いで戦死してしまいました。戦いは「貧乏伯爵」ルドルフ1世の逆転大勝利に終わったのです。

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上はマルヒフェルトの戦いの勝利者たちであるドイツ王ルドルフ1世と、同盟者として供に戦ったハンガリー王ラースロー4世を描いた19世紀の絵です。(1262~1290)ルドルフはこの時すでに58歳でしたがラースローはこの時なんとまだ16歳の少年でした。恐らくハンガリー軍の実際の戦闘の指揮は、ルドルフと綿密に打ち合わせた側近の将軍たちによって行われたのでしょう。

この戦いの勝利によってルドルフはオタカルから取り上げたオーストリアとその周辺の地域を、ハプスブルク家の所領とする事に成功し、ハプスブルク家は一躍帝国有数の権門へと大きく勢力を拡大します。そしてこの時初めてハプスブルク家とオーストリアはつながりを持つ事になったのです。

ルドルフのこの勝利は、彼をドイツ王に選出した選帝侯たちをはじめ、他の帝国諸侯たちを大いに驚かせました。それだけではありません。彼らはこのルドルフという男を完全に甘く見ていました。つまり金も力もあまり無い、平凡な三流貴族に過ぎないと思っていたはずが、やがて彼らはそれが大きな間違いであった事を思い知らされます。なぜならこの「貧乏伯爵」はひとたびドイツ王となると、意外なしたたかさと巧みな政治力を発揮して王権の強化に乗り出していったからです。

それにルドルフは人間的な魅力にもあふれた人物でした。頭脳明晰で忍耐強く、人情細やかで世情に良く通じ、とても人望がありました。田舎貴族出身の彼に、帝国中の多くの諸侯が従い、先のマルヒフェルトの戦いでは3万もの軍勢がルドルフの下に集結したのも、彼の人柄に惹かれたからという諸侯も少なくなかったのです。

しかし、ルドルフが君主として優れた素質を持っているという事は、選帝侯たちをはじめ、大方の帝国諸侯にとって思いもかけない厄介な問題でした。優れた王、強大な皇帝、それは彼らが最も「望まない」ものであったからです。やがて彼らはルドルフの足を引っ張るため、あの手この手で邪魔だてを図り、ルドルフはかつての歴代皇帝たちと同じ様に、彼らとの勢力バランスと利害調整という複雑な心理的消耗戦に悩まされていく事になります。

次回に続きます。
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幻の英雄ウイリアム・テル ・ スイス独立戦争の始まり

みなさんこんにちは。

1278年のマルヒフェルトの戦いで競争相手であるボヘミア王オタカル2世を打ち破ったルドルフ1世は、その後どうしていたのでしょうか? 実は彼は戦いに勝利したからといって、すぐに強大な王権を手にしたわけではありませんでした。いやむしろこれによって彼は一層難しい帝国運営の舵取りをせざるを得ない状況になっていったといっても過言ではないでしょう。

なぜならオタカル2世を破ったとしても、帝国内には7人の選帝侯をはじめ、いつ彼に歯向かうか分からない無数の帝国諸侯たちがいたからです。そこでルドルフは実に臆病なほど慎重に事を運んで行く様になります。例えばルドルフに負けたオタカル王は戦死していましたが、彼の王家であるプシェミスル家はその幼い息子ヴァーツラフを後継者としてボヘミアに健在で、将来父の仇を打つために彼を脅かすかも知れず、そのためルドルフはボヘミア王家の力を削ぐため、本領のボヘミアと周辺の一部を除き、オタカル2世が手に入れたオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンなどを接収し、これらを全てハプスブルク家の所領としました。

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上がオタカルの子ヴァーツラフ2世です。(1271~1305)幸いヴァーツラフ2世は父の死の時は幼く、さらに彼はボヘミア王となったその後の関心を背後の隣国ポーランドやハンガリーに向けたので、ルドルフの心配は杞憂に終わりましたが、ルドルフはボヘミア王家から没収したこれらの領地をハプスブルク家領とするために帝国諸侯に慎重に根回しをし、それらの了承を得るまで4年もかかってやっとオーストリアを息子アルブレヒトらに与えています。

ともあれこれでハプスブルク家は元の領地の10倍ほどになるオーストリアを手に入れ、この時から第1次大戦の帝国崩壊までの630年以上に亘って中央ヨーロッパに君臨するオーストリア・ハプスブルク家がここに誕生したのです。

さらにルドルフは、歴代皇帝たちの失敗の原因であったイタリア政策も、その方針を転換します。その方針とは単純なもので、つまり「イタリアには手を出さない。」という事です。イタリアに目を向ければローマ教皇との対立を招く事になり、果てしない教皇との争いになります。そのためルドルフはドイツ王でありながら、1度もローマには行かず、そのため彼は教皇から戴冠していないため、正式には「神聖ローマ皇帝」にはなっていません。(これは大当たりでした。実際ルドルフの在位中、教皇は一貫してルドルフを支持し、これが帝国諸侯たちへのけん制にもなったからです。)

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上は甲冑姿のルドルフ1世です。(年号はドイツ王としての在位期間です。)ルドルフが皇帝として戴冠しなかった理由は定かではありませんが、恐らく彼は自分自身の役割を良く理解していたからではないかと思われます。つまり彼は、神聖ローマ帝国におけるドイツ王すなわち皇帝というものの存在がいかに帝国諸侯の思惑に振り回される脆弱なものであるかを身をもって経験し、ここで諸侯と対立してまで無理に王権を強化するよりも、自分の代においてはまずハプスブルク家の勢力拡大の基礎を築き、その後の事は子孫たちに委ね、「いつか栄光の日がわが家名にあらん事を。」と願ったのかも知れません。

さてその賢明なルドルフ1世が1291年に73歳で亡くなると、次の王位にはその子アルブレヒトが継承するのが当然なのですが、このアルブレヒトは父ルドルフの血を受け継いだ英邁かつ有能な君主でした。さらにルドルフが意外にしたたかに王位を維持して勢力を拡大させた事に慌てた選帝侯たちは、ハプスブルク家のこれ以上の勢力拡大を嫌い、次の王位をこれまたライン中部の辺境伯ナッサウ家の当主アドルフに与えてしまいます。

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上がナッサウ伯アドルフです。(1250~1298)彼は選帝侯の支持を得て正式に神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、帝国諸侯が最も嫌う皇帝権力の強化を図ったために結局廃位され、さらにその後ハプスブルク家のアルブレヒトとの戦いにも敗れて戦死してしまいました。ちなみに彼の一族ナッサウ家はその後ドイツ貴族の家系として絶える事無く続き、現在のルクセンブルク大公家は彼の子孫に当たるそうです。(下が子孫である現ルクセンブルク大公アンリ殿下です。)

さて先帝アドルフ1世の「裏切り」によって彼を廃位した選帝侯たちは、無用な混乱と争いを避けるため、結局王位をハプスブルク家のアルブレヒトに与え、彼はアルブレヒト1世として即位します。

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上がハプスブルク家2代目のドイツ王アルブレヒト1世です。(1250~1308)彼は先に述べた様に、父ルドルフに似て王としては大変有能でした。しかし彼には父ルドルフの様に他人の立場や心を汲んで事に接するという器量が欠けていた様で、父ルドルフの死後相続による一族への領地分配でトラブルとなり、甥のヨハンによって1308年に暗殺されてしまいました。

実はこのアルブレヒト1世ですが、こうした史実よりもある有名なフィクションの世界で有名です。それは19世紀ドイツの作家シラーが書いた戯曲「ウィリアム・テル」の中に登場する悪役の王のモデルなのです。

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上が戯曲「ウィリアム・テル」の作者フリードリッヒ・フォン・シラーです。(1759~1805)このウィリアム・テルの物語自体は彼の創作ではなく、スイスに古くから伝わる伝説を戯曲化したもので、弓の名手であったテルが、幼い息子の頭の上に載せた林檎を矢で射落とす場面が良く知られていますね。しかし原作はもちろんそれだけではなく、主人公ウィリアム・テルを通してスイスの独立を描いた長大なものです。またイタリアの有名な作曲家ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル 序曲」はきっと誰もが聞いた事のある勇ましい曲でしょう。

この物語は要約すると、ハプスブルク家の支配地であったスイスで、悪い王(アルブレヒト1世)から遣わされた悪い代官のゲスラー(いかにも悪者そうな名前ですね。笑)の圧政に立ち向かう弓の名手ウィリアム・テルの戦いと冒険の物語で、最後は悪代官ゲスラーと悪王アルブレヒトを倒してスイスの人々に勝利と自由をもたらすというストーリーです。

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上はスイスの各地にあるウイリアム・テルの銅像です。もちろんこの人物は実在の人物ではなく、いつしか作られていった伝説上の人物ですが、本国スイスの人々は彼の事が大好きで、今でもスイスの英雄として扱われています。

なぜアルブレヒト1世はこの物語で悪王としてその名を残す事になってしまったのでしょうか?それは彼の対スイス政策の失敗に端を発しています。元々スイスはハプスブルク家の所領だったのですが、彼の父ルドルフが王の時代までは、周辺のスイス人との関係に慎重に気を配り、ルドルフの人柄も相まってその関係も良好で上手くやっていたのです。しかしアルブレヒトが王になると、彼はスイスをハプスブルク家の完全統治下に置く事を狙い、家臣を派遣して強権統治を行う様になります。(上で悪代官とされているゲスラーという人物も、チューリッヒ方面の行政官として当時アルブレヒト王に仕えるハプスブルク家の家臣の中に実在しており、後に爵位を得ています。)

これは独立心の強いスイス人たちの怒りを買い、ハプスブルク城に近い3つの州が同盟して「反ハプスブルク」の旗を揚げ、やがてそれが拡大していく事になったのです。このスイスとハプスブルク家の戦いはやがてスイス独立戦争に発展しますが、このウィリアム・テルの物語はハプスブルク家の圧政に立ち向かったスイスの人々の誇りであり、そのために当時の王であったアルブレヒト1世が、スイス方面行政担当の家臣ゲスラーとともに「悪役」としてキャスティングされてしまったのでしょう。

次回に続きます。

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スイス農民軍の勝利 ・ ハプスブルク家の敗退と帝位喪失

みなさんこんにちは。

ルドルフ1世によってオーストリアを手に入れたハプスブルク家は、その後帝国有数の名家の仲間入りを果たしましたが、もともとの根拠地であったスイスにおいては、ルドルフの後を継いでドイツ王となったアルブレヒト1世の失政も重なり、一族は長年苦労して広げたスイスの地盤を失いつつありました。

スイスでは、前回お話した「ウィリアム・テル」の物語に代表される様にハプスブルク家への反乱が相次ぎ、これが当家の支配からの独立を目指す長い戦いに発展していきます。その最初のきっかけが、1308年のアルブレヒト1世の暗殺でしたが、彼は王妃エリザベートとの間に7男5女12人もの子に恵まれ、後の当家繁栄の原動力ともいうべき「子だくさん」でした。

ハプスブルク家の対スイス政策はアルブレヒト1世の死後、この息子たちによって続行されていくのですが、しかし彼の死によって選帝侯たちは次の国王候補からハプスブルク家を除外し、帝位はルクセンブルク伯ハインリッヒ7世に奪われてしまいました。

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上が新ドイツ王ハインリッヒ7世です。(1275~1313)彼は強い君主を出したくない選帝侯たちによって担ぎ出された地方貴族に過ぎませんでしたが、いざ王位に付くと彼らの目論見に反して王権の強化に乗り出し、家系の絶えたボヘミア王家に娘を嫁がせてボヘミア領を手に入れ、イタリアにも南下の野心を見せるなどの姿勢を見せます。しかし彼のこうした政策は選帝侯や当時フランスの影響下にあったローマ教皇の反発を買い、1313年彼は謎の急死を遂げます。(これは歴史家の間では「毒殺」が疑われていますが、真偽は定かではありません。)

帝位はめまぐるしく変わります。ハインリッヒ7世の死によって、選帝侯たちは次の国王にバイエルン公であるヴィッテルスバッハ家のルートヴィッヒ4世を推戴しますが、一方帝国のもう一つの主役ハプスブルク家では、アルブレヒト1世の死後、その子フリードリッヒ1世が「オーストリア公」としてその当主となり、弟レオポルトと協力してこれに反対し、「対立王」として立候補。ハプスブルク家による帝位奪還に動き出します。

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上が「オーストリア公」フリードリッヒ1世です。(1286~1330)彼は帝位奪還のため、ライバルのフリードリッヒ4世との戦いに突入しますが、同時にスイス政策も強行に推し進め、これがスイス人の「反ハプスブルク」の運動の火に油を注ぐ結果になってしまいます。

帝国内で権力者たちが帝位を争っていた頃、スイスではハプスブルク家への反発が日増しに増大していました。すでにフリードリッヒの父アルブレヒト1世の時代の1291年に、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州の農民たちが、ハプスブルク家の支配打倒とスイス独立のため「誓約同盟」を結成してこれと戦う事を誓います。

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上がスイス独立同盟の中心であるシュヴィーツ州の現在の姿とその位置です。(人口は州全体で13万ほど。)この州の名「シュヴィーツ」が、後の同国の国名「スイス」の語源になった(らしい)と言われていますね。

スイス独立派は国王選挙にも介入し、当然バイエルン公ルートヴィッヒ4世を支持してハプスブルク家の足を引っ張ります。業を煮やしたオーストリア公フリードリッヒ1世は1313年、弟レオポルトを総司令官としておよそ9千の軍勢から成る討伐軍を差し向けました。それに対し、迎え撃つスイス農民軍はシュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州を合わせてもわずか1300余りに過ぎませんでした。

兵力は7対1で圧倒的にハプスブルク軍が優勢です。司令官レオポルト公は一気にスイス独立派を殲滅すべくスイス領内に侵攻しました。そして軍勢がスイス独立派の本拠地シュヴィーツ州にあるモルガルテン山の近くの狭い谷底の道に差し掛かったその時、待ち構えていたスイス農民軍が一斉に山の上から石や積んであった丸太を投げ落とし、さらに身軽な農民兵の繰り出す長槍攻撃に、重さ40キロの鋼鉄の甲冑姿の騎士たちはろくに反撃も出来ず、大混乱に陥ったハプスブルク軍は2千の戦死者を出して大敗し、司令官レオポルト公は命からがらオーストリアに撤退してしまいました。(モルガルテンの戦い)

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上がモルガルテンの戦いを描いた絵と、現在のモルガルテン山の様子です。(写真で見る限り、それほど高い山ではない様です。せいぜい標高5~600メートルほどでしょうか。のどかで美しい風景ですね。きっと戦いのあった700年前とほとんど変わっていないのだと思います。)

この勝利によってスイス独立派は勢いを増し、それまでハプスブルク家の報復を恐れて様子を見ていた他の州も次々に同盟に参加、その勢力は最初の3州から8州へ、やがて13州へと拡大していきました。(といってもこの一度の勝利でスイスの独立がなったわけではなく、長い戦いの最初の勝利に過ぎません。それにハプスブルク家もスイスの所領はその後も維持し続けました。)一方敗れたハプスブルク家は敗北が相次ぎます。長期化していた帝位争いで、当主フリードリッヒ1世が1322年のミュールドルフの戦いでバイエルン公ルートヴィッヒ4世に敗れ、味方に付いた多くの帝国諸侯らと供に捕虜になってしまったのです。

その後1325年にヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家との間で妥協が成立し、(勝ったルートヴィッヒ側も長い帝位争いで疲弊していました。)神聖ローマ皇帝位とイタリア王位はルートヴィッヒ4世が継承し、フリードリッヒ1世はドイツ王となる事で和睦が成立しました。(彼は「ドイツ王」としてはフリードリッヒ3世となります。)

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上が新皇帝ルートヴィッヒ4世です。(1282~1347)彼の帝位確定で帝国内は束の間の安定が訪れますが、彼の死後、帝位は再び変転します。選帝侯たちは次の王としてルクセンブルク家のカール4世を選出し、この時もハプスブルク家は落選してしまいます。そしてこれ以後当家は130年以上に亘って神聖ローマ帝国の帝位候補からはずされ続け、ルドルフ1世、アルブレヒト1世と2代続いたハプスブルク家による帝位世襲は長い中断を余儀なくされます。

この時のハプスブルク家の当主はフリードリッヒ3世の弟で、オーストリア公アルブレヒト2世という人物でしたが、彼は兄たちと違って帝位奪還は事実上諦め、祖父ルドルフ1世の方針を踏襲し、長い帝位争いとスイスの反乱で傾いたハプスブルク家の力を取り戻すため、極力戦争を避けてひたすら内政に没頭し、力を蓄えようとします。

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上がオーストリア公アルブレヒト2世です。(1298~1358)彼は「賢公」とも呼ばれる名君で、父1世がスイスで失敗した教訓からオーストリアにおける内政の充実を図り、領民からも大変慕われました。彼がこの時期に基礎を固めた事で、オーストリア・ハプスブルク家はこの地に深く根付く事が出来たのです。

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そして上がこの時期の神聖ローマ帝国の領域図です。3つの色で表されているのはこの時期に帝位を争った各家の領地で、オレンジ色がハプスブルク家領、紫色がルクセンブルク家領、緑色がヴィッテルスバッハ家領になります。各家の領地が「飛び地」の様に散らばっているのは、当時諸侯の間で盛んに行われた政略結婚による結果です。

次回に続きます。

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金印勅書 ・ 権力を売った文人皇帝カール4世

みなさんこんにちは。

ハプスブルク家がスイスの民衆と長い戦いを繰り広げ、苦戦を強いられていた頃、神聖ローマ帝国の皇帝はそのハプスブルク家の当主ではなく、ルクセンブルク家の当主カール4世という人物でした。

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上が当時の神聖ローマ皇帝カール4世です。(1316~1378)彼は先に述べた通り、現在のルクセンブルク大公国のある一帯を所領としていた地方貴族ルクセンブルク家出身の皇帝で、「強大ではない」ゆえに選帝侯たちから選出された典型でした。

しかしこの皇帝は、この神聖ローマ帝国という愛すべき国家(あくまで自分が個人的に好きなだけです。笑)の歴史において、ターニングポイントともいうべき重要な役割を果たした事で、忘れるべからざる人物でもあります。ここでその事についてお話して置きたいと思います。

カール4世は1316年、ボヘミア王国(現チェコ共和国)の首都プラハで当時のボヘミア王であったヨハン・フォン・ルクセンブルクとボヘミア王女エリシュカの長男として生まれました。本来ネーデルラントの南を所領とするルクセンブルク家とボヘミアとはなんらつながりは無いのですが、彼の祖父に当たる神聖ローマ皇帝ハインリッヒ7世が、将来のボヘミア王家の断絶を見越して娘をボヘミア王家に嫁がせ、事実上ボヘミアを乗っ取った事から当家によるボヘミア支配が始まったのです。

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上は当時のボヘミア王国の領域です。

彼はその後3歳にして親元を引き離され、さらに7歳から14歳まで叔母マリー・ド・リュクサンブールの嫁ぎ先であるフランス王家に預けられてそこで養育されました。彼は生まれた時は叔父や外祖父の名である「ヴァーツラフ」と名づけられましたが、このフランス滞在時代に叔母の夫で、育ての父であった当時のフランス王シャルル4世の名を取って「シャルル」(ドイツ語でカール、チェコ語でカレル)と改名しています。

シャルル4世夫妻はカールを大切に養育し、手厚い高等教育と帝王学を身に付けさせ、カールは繊細で教養高い若者に成長しましたが、これが後に彼が神聖ローマ皇帝となった時に大きく役立ち、彼は育ての父シャルル4世に対して終生感謝していたそうです。

時は流れて1333年、17歳になった彼はボヘミアに帰国し、父ヨハンと再会して直に帝王学と統治を学び、さらに晩年失明した父に代わって1340年には摂政としてほぼ事実上ボヘミアの王となります。そしてその後の帝国内の帝位争いの最中、時のローマ教皇らの介入と選帝侯らの思惑によって、1347年ドイツ王に選出されました。

1355年にカール4世は恒例のイタリア遠征を行い、ローマで教皇から神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、その帰り道の北イタリアにおいて、彼はこの辺り一帯の都市群に貨幣の鋳造、関税の徴収といった本来なら皇帝の持つ特権を次々に与え、その見返りにこれらの都市から莫大な上納金を納めさせる事に成功します。(つまり特権を切り売りしたのです。この大金は、後に彼の統治資金として大いに役立った様です。)

カール4世が歴代の神聖ローマ皇帝たちと違う点は、母親の血を受け継いで半分チェコ人であったという事です。彼は片時もそれを忘れず、そのため彼の在位中、帝国の都はボヘミアの首都プラハに置かれ、ヨーロッパ中から富の集まる文化の薫り高い都となりました。

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上はボヘミアの首都プラハの現在の街並みです。(人口約120万)遠方に見える巨大かつ壮麗な宮殿は街を見下ろすプラハ城です。ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココといった各時代の建築様式で建て増しされているのがお分かり頂けると思います。

高い教養の持ち主であったカール4世は、この都においてドイツ語圏で初めての大学(カレル大学)を造ってプラハを学問の都とし、プラハの中央を流れるモルダウ川にはこれもプラハで初めての頑丈な石造りの橋(カレル橋)を築いて交通の利便を図ると同時に不必要なまでの彫刻で飾り立てるなど、他にも数々のいわゆる「公共事業」によってプラハを皇帝の都にふさわしい街に造り替えていきます。(この時に、皇帝が恥もいとわずに北イタリア都市から得た大金が大いに役立ちました。)

こうしてプラハには多くの知識人や文化人が集まり、彼らによって知識と文化の素養が蓄えられ、さらにプラハに行けば「仕事がある」事から帝国内外から集まった人々によって人口も増え、その人々を目当てに物を売る商人たちが財を成し、その徴税でカール4世の宮廷にはうなるほど金が貯まっていきました。

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上はプラハ郊外にある皇帝カール4世の建てた「カレルシュテイン城」です。このお城は王家の財宝を保管するために築城されたもので、その堅牢さと優美な外観が人気で訪れる観光客が後を絶ちません。さらにカール4世は自己宣伝にも余念がなかった様で、彼の造ったものにはほとんど自身の名「カレル」と名付けています。

さて、ここまで話すとこのカール4世という皇帝は大変有能な君主である事が分かりますが、本来神聖ローマ帝国の皇帝を選出する選帝侯たちはこの様な人物を望まないはずです。彼らにとって皇帝とは、自分たちの利益の為に動く何の力も無い「飾り物」であれば十分であり、皇帝が彼らの既得権益に手を出せば直ちに「廃位」してしまうからです。しかしカール4世は亡くなるまで皇帝として30年以上も君臨し続けました。ではどうやって彼は選帝侯たちを手なずけたのでしょうか?

そこで登場するのが「金印勅書」です。これは簡単に言えば、神聖ローマ帝国皇帝を選出する場合の選挙基準と、その皇帝の選出権を持つ7人の選帝侯たちの帝国内における権利と身分を明文化した全31か条に及ぶもので、下の様な皇帝の黄金の印が押された事からこの名があります。

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上が神聖ローマ皇帝の金印、つまり玉璽、ハンコです。(わが国の天皇陛下が公文書に目を通され、ご署名された後に押される玉璽も黄金製で3.5kgもある巨大なものですね。)

この金印勅書の主な内容は

1 選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの三大司教と、ザクセン公、ボヘミア王、ブランデンブルク伯、プファルツ伯の7人とする事。

1 選帝侯は帝国諸侯の最上位を占め、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権などを持つ事。

1 皇帝選出の選挙結果はローマ教皇の承認を必要としない事。

1 皇帝選出は単純過半数で行い、その結果に従わない選帝侯は選帝侯位を剥奪される事。

1 帝国諸侯間の同盟と都市の同盟を禁止する事。

1 選出されたドイツ王はその時点で自動的に神聖ローマ皇帝となる事。


その他となっており、特にローマ教皇の介入を阻止した条項と、選挙結果に従わない者は選帝侯の位を失うという条項が功を奏し、それまで散々繰り返されてきたこれらの者の都合によって別の王を立てるいわゆる「対立王」は不可能となり、カール4世以後、帝国はその滅亡まで一人の皇帝が立つことになります。(それが当たり前なんですけどね。笑)

カール4世がこれほどまでに選帝侯たちに有利な条件を定めたのには理由があります。つまりこれだけの特権を与えてやるのだから、彼の王家ルクセンブルク家を神聖ローマ帝国の「世襲の王家」として認めよというわけです。皇帝といってもどうせ選帝侯はじめ帝国諸侯を従える力などありません。それはこれまでの皇帝たちを見れば分かる事です。しかしそんな皇帝にもたった一つですが、何にも代え難い強力な「武器」がありました。それは神聖ローマ皇帝としての「権威」です。

この皇帝の権威というものは、人々の精神に絶大な影響力を持っていました。人々を支配する力は、軍事力や財力といった物理的なものだけではありません。人を精神面で支配する権威も必要です。そしてこの権威の力こそ、皇帝カール4世が目を付けた力の源でした。彼は自らの王家ルクセンブルク家を、他の諸侯とは違う地上で最も格式の高い永遠不滅の権威を持つ世襲の皇帝家にする事を望んだのです。そのためにこの金印勅書は必要不可欠な「道具」でした。

次回に続きます。

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皇帝の誤算 ・ お騒がせ大公のインチキ特許状

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を定め、モルダウ川のほとりに「黄金のプラハ」を築いていた頃、南のオーストリアでは、新たにハプスブルク家の当主となった一人の若者が大きな不満と反感を皇帝に対して抱いていました。その若者の名をオーストリア公ルドルフ4世といいます。

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上が当時のハプスブルク家当主にしてオーストリア公ルドルフ4世です。(1339~1365)彼はハプスブルク家の始祖ルドルフ1世のひ孫であり、また皇帝カール4世の娘婿でもありました。

この彼がなぜ皇帝に大きな不満を抱いたのかというと、前回お話したカール4世の「金印勅書」に定められた選帝侯の中に、ハプスブルク家の名が無かったからです。

「曽祖父ルドルフ1世、祖父アルブレヒト1世、伯父フリードリッヒ3世と、3代続けてドイツ王を出し、今やわがハプスブルク家は帝国有数の名家であり、当然選帝侯となるにふさわしいはずなのに、なぜわが一門が選帝侯から外されているのか?全く気に入らん!」


ルドルフ4世は舅である皇帝カール4世に対し反旗を翻します。といっても「武力で」ではありません。彼は思いもよらぬやり方で皇帝に挑みました。1359年、ルドルフは皇帝の発した金印勅書の内容に反発し、帝国中に自らを全ての帝国諸侯の最上位にして別格のオーストリア「大公」であると宣言し、その地位は選帝侯と同格であり、当然選帝侯と同じ権利を持つのだ。と主張したのです。

ここで注意すべきなのは彼が名乗った「大公」という位です。実はそれまで歴史上この様な階級は誰も見た事も聞いた事も無いものでした。この時初めて彼が勝手に創ったのです。つまりルドルフは、自分は皇帝や王ではもちろん無いが、全ての帝国諸侯の最上位すなわち公爵の上である「大公爵」なのだというのです。

事の次第はプラハの皇帝カール4世の元に報告されましたが、武より文の人であった皇帝は、相手が娘婿である事から穏便に済ませようと、ルドルフに対して「貴公の主張を裏付ける証拠文書を提出されよ。」と正論主義で応対しました。

そこでルドルフ4世は、奇怪な7つの文書を提出してこれに答えます。この7つの文書とは、5通の特許状と2通の手紙で、最初の5通の特許状とは、5人の歴代皇帝がオーストリアとハプスブルク家にこれだけの特権を与えた云々というもので、他の2通の手紙とはそれを裏付けるための証拠というものでした。

実はこの文書、全てルドルフの偽造したでたらめのインチキ文書でした。なぜなら5通の特許状とやらに添えられていた2通の手紙の差出人の名は、なんと「ユリウス・カエサル」だったからです。それを聞いた皇帝カール4世は最初は呆れましたが、(多分失笑していた事でしょうね。)後から不気味に思えてきました。

「どうしてルドルフはこんな誰にも分かる大嘘をついたのだろうか?」

皇帝は娘婿の真意を計りかねました。しかしやがて皇帝はこれがルドルフの断固たる決意を表す挑発だと気づきました。ルドルフは皇帝カール4世が自分からは争いを仕掛けない人物である事を見抜いていました。皇帝がそのまま何もしなければ、彼の主張を認めた事になるからそれも良し。明らかな偽文書を提出した事を理由として、皇帝がルドルフを罰するつもりならそれも良し。ルドルフは従うつもりなどありませんから当然戦いになるでしょう。

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上が当時の神聖ローマ皇帝カール4世です。

「これは自分を戦いの場に引きずり出すための作戦だ。」

皇帝は結局その様に結論付け、ルドルフの挑戦を受け流すと問題をうやむやにしてしまいます。皇帝にとって幸いな事に、騒動の張本人ルドルフ4世は1365年にまだ26歳という若さで亡くなったので、事件はとんだ結末を迎えますが、ルドルフの主張はいつしか既成事実として認められ、ハプスブルク家は帝国唯一の「大公」としてその地位と格式を有する様になります。(これは後にハプスブルク家の帝位世襲に大きく寄与します。)

このルドルフ4世「大公殿下」は、他にも根拠地ウィーンに壮麗なシュテファン大聖堂やウィーン大学を建設した事から「建設公」の名でも呼ばれています。とにかく一度思い立ったら何事も止まらない性格だった様で、ある作家は彼を「もう少し長生きしていたら、天下を取るか、または奈落の底に落ちるかのどちらかであっただろう。」と評しています。

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上がルドルフ4世の命により建設が始まったシュテファン大聖堂です。塔の高さは107メートルもあります。また外壁の表面が黒ずんでいるのは、第2次大戦中の戦災による延焼によるものだそうです。

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そしてこれもルドルフ公が造ったウィーン大学です。これは明らかに皇帝カール4世がプラハに造ったカレル大学に対抗するものでした。

さて、娘婿の思わぬ挑戦に手を焼かされた皇帝カール4世でしたが、その後も彼の治世は揺らぐ事無く続き、その間に彼はひたすらルクセンブルク家の権威と家門の拡大に努め、少なくとも彼の在位中においてはルクセンブルク家の栄華は揺ぎ無いものに思われました。彼はそのために多額の資金が必要と知るや、当時商工業の発達で帝国内に興隆しつつあった豊富な資金力を持つ都市群を味方に付けるため、自ら定めた金印勅書の内容の一部である「都市同盟の禁止」という条項を破ってまでこれらに同盟の許可を与えてしまいます。(この時に同盟の許可を貰ったのが有名な「ハンザ同盟」です。)

皇帝の勝手な行為に当然帝国諸侯からは非難の声が集まりましたが、カール4世は構わずそれを実行しました。一体何が彼をそこまで駆り立てたのでしょうか?それはひとえにルクセンブルク家による世襲王朝の確立のためでした。彼は子煩悩で特に後継者である長男ヴェンツェルを可愛がり、そのヴェンツェルに帝位を継がせる事が晩年の彼の願いでした。

しかし残念な事に、この長男は名君であった父には遠く及ばない凡庸な跡継ぎでした。1378年に皇帝カール4世が亡くなると、帝位はこのヴェンツェルが継承しますが、彼は帝国諸侯との対立を繰り返し、結局廃位されてしまいます。その後一代置いて、帝位はその弟ジギスムントに移りますが、厳格なカトリックであった彼は、そのカトリックを改革しようとした宗教家のヤン・フス(1369~1419)を処刑した事からボヘミア国民の強い反発を買い、その反乱鎮圧に明け暮れて亡くなります。

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上がルクセンブルク家最後となる皇帝ジギスムントです。(1368~1437)彼の失敗は宗教弾圧に走ってしまった事でした。そして、兄ヴェンツェル共々男子の子宝に恵まれなかった彼らの死によってルクセンブルク王家は断絶し、カール4世の夢は潰え去りました。そしてその遺領の多くは皮肉にも縁戚関係にあったハプスブルク家のものとなったのです。

次回に続きます。

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史上最弱の皇帝フリードリッヒ3世 ・ 臆病、ドケチ、戦わない、驚異の世渡り術

みなさんこんにちは。

黄金のプラハを中心に、ボヘミアで束の間の華麗な文化の華を咲かせたカール4世のルクセンブルク王朝が、その後を継いだ2人の息子たちの失策と相次ぐ死によって断絶した後、選帝侯たちが次のドイツ王に選んだのはハプスブルク家のフリードリッヒ3世という人物でした。

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上が新たなドイツ王フリードリッヒ3世です。(1415~1493)彼はアルブレヒト1世以来、実に130年ぶりにハプスブルク家からドイツ王として正式に選出された当時25歳の若者でしたが、彼は歴代ハプスブルク家の人々の中でもとりわけユニークな事で知られています。しかしそれは良い意味でではなく、ほとんど悪い意味でという意味です。

実はこの人物、とにかく臆病で優柔不断なのです。その上陰気でせこくて外見もみすぼらしく、「ドケチ」と呼ばれるほど倹約家であったにもかかわらず、常に借金に負われていました。そのため彼はその頃からすでにそれらの悪評で周囲に知られ、蔑まれていました。しかしこの事が、彼にドイツ王即位という思いもかけない幸運を呼び込む事になります。

フリードリッヒのこの冴えない評判に選帝侯たちは飛び付きます。彼らがこの頼りない人物を次のドイツ王に選んだ理由は、例によって有能な王を出したくない事から「人畜無害」な小心者のフリードリッヒが最適だと考えたからです。

ここまで書くと、このフリードリッヒ3世が意志薄弱で無芸無能な男に思われてしまうでしょうが、そんな彼にもたった一つだけ、長所というか、取り得と呼べるものがありました。それは他人とは比較にならない「忍耐心」です。どんなに屈辱的で、惨めな思いをしてもひたすら耐え忍び、逆境にあっても情況が好転するまで何年でも待ち続ける。これこそが彼が生きていく上での武器としたものでした。(忍耐の人といえば、わが国には「鳴くまで待とうホトトギス」で誰もがご存知の徳川家康がいますね。しかし家康には勇気と決断力がありましたが、このフリードリッヒ3世にはそんな崇高なものはカケラもありませんでした。)

さらにこのフリードリッヒ3世という人物ですが、非常に強運(というより悪運が強い)の持ち主でもありました。というのは、先ほど彼がハプスブルク家で130年ぶりのドイツ王と書きましたが、実は彼より先に同じハプスブルク家からアルブレヒト2世という人物がドイツ王に選出されていたのです。しかしフリードリッヒと正反対で好戦的な彼は、即位から1年足らずのうちにオスマン帝国との戦いに従軍中赤痢にかかって病死したため、フリードリッヒの元に王位が転がり込んで来たのでした。

フリードリッヒ3世の悪運の強さはそれだけではありませんでした。彼は1452年、神聖ローマ皇帝として正式に戴冠するためにローマに赴き、教皇から帝冠を授かるとともに、当時一早く海洋王国として栄えつつあったポルトガルの王ドゥアルテ1世の王女エレオノーレとの結婚式を同時に行っています。そしてこの時エレオノーレは、実家のポルトガル王家が海上貿易で得た莫大な持参金を借金にあえぐハプスブルク家に持たらしてくれたのです。

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上が皇帝フリードリッヒ3世とポルトガル王女エレオノーレ(1436~1467)との結婚式を描いた絵です。この時ポルトガル王が王女を莫大な持参金付きで皇帝に嫁がせたのは、神聖ローマ帝国と同盟する事で背後のスペインを挟み撃ちでけん制する事が目的でした。(ものぐさなフリードリッヒもさすがにこの時だけは、人生の一大事という事で活発に動いていますね。)

しかしその翌年の1453年、全ヨーロッパを驚愕させる事件が起こります。はるか東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルが、オスマン帝国のスルタン、メフメト2世率いる10万を越える大軍によって包囲され、一ヶ月の死闘の後ついに陥落、最後の皇帝コンスタンティヌス11世の戦死をもってビザンツ帝国が滅亡したのです。このビザンツ帝国は古代ローマ帝国の系譜を引き継ぐ正当な国家で、西ローマ帝国滅亡から千年もの長きに亘って生き続けて来たのですが、この時期すでに周囲はオスマン帝国に包囲され、その命運が尽きるのは時間の問題と広く知られていました。そして実際にそれが現実のものとなった時のヨーロッパの衝撃は凄まじいもので、いずれにしても、これによってヨーロッパ文明の源である「ローマ帝国」は完全に滅び去ってしまいました。

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上はコンスタンティノープル攻防戦を描いた中世の絵です。城壁を登る無数のオスマン軍に対し、ビザンツ軍が石などを投げ落としています。(これまでにも何度か当ブログで載せて来ましたが、中世の絵というのはルネサンス以降の写実的な絵画とは違う独特の表現が面白くて魅力的ですね。一見子供の絵の様ですが。笑)

このビザンツ帝国滅亡の知らせは、同じ「ローマ帝国」を名乗る神聖ローマ帝国にとりわけショックを与えました。なぜならキリスト教国家がイスラム教国家に滅ぼされたからです。「このままオスマン軍がヨーロッパまで攻め寄せてくるのではないか?」という恐怖感が選帝侯はじめ帝国諸侯の間に広がりますが、こういう時こそ諸侯をまとめ、なだめるべきである皇帝フリードリッヒはコンスタンティノープル陥落の知らせを聞いても「ああそう。」というだけで、のん気に宮廷の庭いじりをしていたそうです。

皇帝のこの体たらくには諸侯よりも身内のハプスブルク家から批判が集まり、フリードリッヒの弟であるオーストリア公アルブレヒト6世は兄の態度に呆れ果て、兄帝がウィーンを留守中にクーデターを起こし、皇后エレオノーレと幼い皇太子マクシミリアンをウィーンの宮殿内に幽閉してしまいました。

しかしこの時も、皇帝フリードリッヒ3世は幸運に恵まれます。皇帝は急遽ウィーンに戻りましたが妻子には会えず、それどころか弟から突きつけられた数々の屈辱的条件を認めさせられ、じっと耐え忍ぶのですが、弟アルブレヒト6世が制圧したウィーンであまりに強圧的支配をしたために市民の反感を買い、暗殺されてしまったからです。

状況は好転し、彼はウィーン市民と和睦して皇后と皇太子を取り戻す事が出来ました。その後も彼にはハンガリー王、ブルゴーニュ公と、とても彼が太刀打ち出来ない強大な敵が現れますが、その都度彼は戦いを避け、行方をくらまし、のらりくらりと逃げ回り、持ち前の忍耐と我慢で長期戦に持ち込んでいきます。すると不思議な事にこれらの強力な敵は、このまるで「ウナギ」の様にするりと掴まえ所の無いフリードリッヒ3世という人物に耐えかね、自滅するか、先に死ぬなどで彼の前から姿を消していくのです。

彼の徹底して戦いを避け、逃げ回り、わずかな家臣や護衛とともに山城に隠れてひたすらじっと耐え忍び、ほとぼりが醒めた頃に出てきて事後処理に当たるというやり方のあまりの手際の良さに、「この人物は凡庸を装った名君である。」などという見方までされるほどで、それが逆にこの人の魅力にすらなっていますが、これは完全な買い被りでしょうね。笑

しかしこの帝国史上最弱の頼りない皇帝が、それまでの歴代皇帝で最長となる、実に53年間もの間、帝位を維持し続けようとは、本人はもちろん誰も予想だにしなかった事でしょう。そして図らずもこの彼の長い在位期間中に、それまで各家を転々としていたハプスブルク家の帝位世襲が完成され、フリードリッヒ3世は気が付けば、その影の功労者となっていたのです。

次回に続きます。

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マクシミリアン1世 ・ 騎士の時代を終わらせた最後の騎士

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国史上最も頼りない皇帝フリードリッヒ3世でしたが、そんな彼にも自慢すべきものがありました。それは後継者である長男のマクシミリアンの存在です。

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上が後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世です。(1459~1519)彼は陰気で臆病な父よりも、ポルトガルから嫁いできた母である皇妃エレオノーレに似て明るく伸びやかな性格で、皇帝夫妻の期待を一身に背負って成長しますが、母エレオノーレは彼が8歳の時に亡くなってしまいます。

父帝フリードリッヒ3世は、前回もお話した様に並外れた忍耐心以外に取り得の無い小心者で、それが故に皇帝に選ばれた人物でした。それは当の本人自身が最も自覚していた事でしょうが、持って生まれた生来の性格というものは容易く変えられるものではありません。フリードリッヒは息子マクシミリアンが、自分に無い多くの長所を持っている事から、自分の数々の性格的欠点から果たせなかった本来の帝国のあるべき姿、「皇帝を頂点に全ての帝国諸侯が従い協力して帝国を運営していく」という夢を託していきます。

そのための準備として、1473年フリードリッヒ3世は隣国ブルゴーニュ公国のシャルル公に対し、彼の公女マリーと息子マクシミリアンの婚約を申し出ます。なぜこの時皇帝フリードリッヒがブルゴーニュ公国に目をつけたのかというと、それは当時このブルゴーニュ公国がヨーロッパ最高の「金持ち」であったからです。

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上が当時のブルゴーニュ公国の位置とその領域図です。このブルゴーニュ公国は、1363年にフランスのヴァロワ王家の分家の一族が樹立した国家で、優れた毛織物産業で隆盛を極め、イギリスから安値で輸入した羊毛で、高級衣料、壁掛け(タペストリー)絨毯などに加工してヨーロッパ全域から遠くアフリカ、オリエント地方まで売りさばき、莫大な富をもたらしていました。

皇帝フリードリッヒ3世は自慢の息子マクシミリアンを、このブルゴーニュ公国の公女マリーと結婚させる事で、このブルゴーニュの豊かな富を得ようと画策したのです。また相手のブルゴーニュ公国の方でも、皇帝からの申し出は拒否し難い魅力がありました。

当時このブルゴーニュ公国の領主はシャルル突進公という人物でしたが、彼は「突進公」の異名で呼ばれる様に猪突猛進タイプの激情的な性格で、その豊富な財力を背景にいつでも数万の強力な軍勢を編成出来た数少ない領主でした。その上彼は功名心も人一倍強く、現在の様な一公国の領主ではなく、立派な「一国の王」になることを夢見ていました。

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上がブルゴーニュ公国の領主シャルル突進公です。(1433~1477)彼は相手のハプスブルク家が当時は東の辺境オーストリアの田舎貴族に過ぎない事は百も承知でしたが、彼がその皇帝側の持ちかけた縁談に乗り気になったのは、相手が神聖ローマ皇帝であり、家柄としては皇帝家であるハプスブルク家の方が(一応)上だったからで、その権威の力を背景にドイツとブルゴーニュにまたがる強大な王になりたいという野心からでした。(いくら金を腐るほど持っていても、王として認められるには周囲にそれを認めさせるほどの権威が必要で、そのためには強力な「箔」を付ける必要があったのです。)

「金」が欲しいハプスブルク家と、「皇帝の権威」が欲しいブルゴーニュ家、両者の思惑と利害が一致し、縁談は成立するかに見えましたが、その後シャルル公があまりに無理な条件を皇帝フリードリッヒに突き付けたために話はこじれ、例によって忍耐強く状況の進展を待つ皇帝フリードリッヒに対し、業を煮やした短気なシャルル公は力ずくで事を進めようと1万余の軍勢で帝国内に侵攻し、1477年ナンシーの戦いでそれを迎え撃つスイス傭兵を主力とする2万の軍勢に敗れて戦死してしまいました。

さてこのシャルル公にはマリーという美貌の一人娘がいましたが、彼は男子に恵まれず、このままではブルゴーニュ家の断絶は時間の問題になってしまいました。さらにその混乱に乗じて犬猿の仲であったフランス王家が介入し、ブルゴーニュ公国を併合すべく軍勢を差し向けてきました。(もともとこのブルゴーニュ公国は、当時のフランス王家であったヴァロワ家内部の同族争いから、言わば「ケンカ別れ」して出来た国であり、ヴァロワ王家はかねてからブルゴーニュの領土と豊かな富を狙っていたのです。)

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上がブルゴーニュ公国の唯一の相続人マリー・ド・ブルゴーニュです。(1457~1482)彼女はこの時20歳で、先に述べた様に当時大変な美貌で知られ、さらに戦死した父シャルル公に似て男勝りの意志の強さを兼ね備えた女性で、ハプスブルク家以外にもヨーロッパ中の名だたる名家から求婚が絶えませんでした。

彼女はこの危機に、婚約者である2歳年下のマクシミリアンに手紙を書き、「私と結婚してください。そして私と私の国を貴方の力で救ってください。」と女性である自分から、男性であるマクシミリアンに求婚しました。この時マクシミリアンは18歳の立派な若者に成長しており、家臣からの信頼も厚い若き騎士となっていました。

こうして1477年8月に2人は結婚し、同時にハプスブルク=ブルゴーニュ同盟が完成しました。その頃ブルゴーニュ併合を目論むフランス王はルイ11世という人物でしたが、彼はフランス軍をブルゴーニュ領内に侵攻させていくつかの都市を奪い取り、さらに公国内の親フランス派の商人や市民を扇動し、盛んに揺さぶりをかけてブルゴーニュの崩壊を狙います。

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上が当時のフランス王ルイ11世です。(1423~1483)彼はフランス第4王朝であるヴァロワ朝第6代国王ですが、別名「蜘蛛」の異名を持つ奸知に長けた王でもありました。

若いマクシミリアンは、この強力な敵に対し敢然と立ち向かう事を決意し、オーストリアから連れて来た選りすぐりの家臣からなる軍団に、ブルゴーニュの女主人マリーに忠実な貴族、志願兵たち(マリーはブルゴーニュの領民に、「我らが姫」 と呼ばれるほど大変な人気がありました。)に、ブルゴーニュの豊富な財力を餌に集めた傭兵部隊を合わせた軍勢を組織してネーデルラントに向かいました。

戦いは2年の長きに及び、両軍は一進一退を繰り返しましたが、1479年8月、ギネガテの戦いでフランス軍を破り、ブルゴーニュで最も重要な富の集積地であるネーデルラントからフランス軍を追い払う事に成功しました。この戦いで敗れたフランス軍は昔ながらの重さ40キロ近い鋼鉄の甲冑姿の装甲騎兵を主力とするものでしたが、マクシミリアンはこの時代遅れな戦闘スタイルに見切りを付け、自らの帝国軍はかつて歴代ハプスブルクの当主がスイスで痛い目に合わされた農民兵の身軽な装備に学び、軍の主力を軽装歩兵による密集隊形に切り替え、大勝利を収めたのでした。

もちろんこの戦いで初陣を飾ったマクシミリアン自身の活躍も見逃せません。父皇帝フリードリッヒ3世が臆病で頼りなかった分、ハプスブルク家臣の彼に対する期待は大きく、彼もその期待に見事に応え、落ち着いた指導力と勇猛果敢で堂々たる若き騎士ぶりに、人々は彼を「中世最後の騎士」と称賛しました。

思うに「中世」とは、騎士の時代であり、数々の戦いでは重厚な甲冑姿の騎士たちが颯爽と活躍した時代でした。しかし時代はすでに、そんな騎士たちの馬上での一騎打ち戦法という伝統的なものから、多数の歩兵を効率良く集中運用した陣形と、限定的ながら大砲が使われる「近代戦」の時代に移行しつつありました。

マクシミリアンはそんな時代の流れを一早く読み取り、それを自分のものにしていく事で勝利しました。そしてもはや時代遅れとなった騎士の時代を終わらせ、新たな時代の幕開けを飾ったのは、マクシミリアン1世という皮肉にも「最後の騎士」と呼ばれた若者であったのです。

次回に続きます。

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ブルゴーニュ戦争 ・ フランス王の謀略と皇帝父子の絆

みなさんこんにちは。

1479年のギネガテの戦いでフランス軍を撃破したマクシミリアン王子は、ブルゴーニュの最も重要な地域である北部のフランドルとネーデルラントの確保に成功しました。しかし敗れたフランス王ルイ11世は今だこの地域の併合を諦めておらず、状況は一時的な膠着状態に近いものでした。

そんな状況の中で、マクシミリアン王子と美貌の妃マリーの新婚生活が始まりました。そしてこの時に、マクシミリアンをはじめ、彼がオーストリアから連れて来たハプスブルク家臣一同はブルゴーニュとオーストリアとの政治、経済、文化あらゆる面での隔たりに驚かされます。

例えば経済の面において、ウィーンでの金銭感覚は中世初期の初歩的なものでしたが、商業の発達で貨幣経済が著しく発達していたフランドルやネーデルラントでは、大金の決済の効率化と安全のため、すでに複式簿記の制度が確立されており、行政面においては官公庁の機構が見事に整備され、確実な徴税体制が完成されていました。また、オーストリアでは犯罪人の処罰などろくに行われず、盗賊らの略奪、暴行傷害などの類いは野放図でしたが、ブルゴーニュにおいては裁判所が正常に機能していました。

さらに文化面においては、折りしもイタリア・ルネサンス全盛期の影響を受け、独自に発達したフランドル絵画に代表される優れた宮廷芸術文化が花開き、「芸術」などのカケラも無いオーストリアからやって来たマクシミリアン以下のドイツ人たちは、人の手で創り出したそれまで見た事も無い「造形美」というものに初めて触れ、その美しさに酔いしれました。マクシミリアンはこのブルゴーニュの優れた部分を全てに遅れた故郷オーストリアに持ち帰るため、貪欲に吸収し、学び取り、家臣たちにも大いにそれを奨励します。

さて彼をこの地に招いた妃マリーとマクシミリアンとの結婚は、親同士の完全な政略結婚でしたが、この若い夫妻は極めて仲睦まじく、フィリップとマルグリットという男女2人の子宝にも恵まれます。

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上がマクシミリアン一家を描いた絵ですが、後列の夫妻と長男のフィリップはともかく、妃マリーは結婚後数年で急死しているのに、なぜか彼女が存命中には生まれているはずの無い孫たち(後の皇帝カール5世や弟のフェルディナント1世など)の姿が前列に描かれています。

若い夫マクシミリアンは美貌の妻からフランス語などの他、多くの洗練された宮廷マナーを学び、また活発な性格であったマリーも乗馬や狩りに夫と盛んに同行するなど、若い2人は束の間の幸せな時間を供に過ごします。しかし、悲劇は突然やって来ました。1482年3月、妃マリーが妊娠中にもかかわらず乗馬に出かけ、落馬して重体に陥ったのです。

MAITRE~1

上がマクシミリアンの妃マリー・ド・ブルゴーニュです。結局彼女はブルゴーニュ公国の行く末を夫に託し、数日後に亡くなります。結婚から4年余り、まだわずか25歳の若さでした。

彼女の死は、当然夫マクシミリアンを悲しみの底に突き落としましたが、事はそれだけではありませんでした。彼女の遺言により、ブルゴーニュ公国は長男フィリップが継承し、マクシミリアンが摂政として就任しましたが、それを不服とする反ハプスブルクの都市や諸侯が一斉に各地で反乱を起こし、その混乱に乗じてギネガテの敗戦で煮え湯を飲まされたフランス王ルイ11世が再びフランドルに兵を差し向けてきたのです。

これらの一連の動きは全て、ブルゴーニュ併合を目論むフランス王ルイ11世の謀略によるものでした。この執念深い王は、ブルゴーニュの豊かな富と領土の獲得を虎視耽々と狙い続けていたのです。

マクシミリアンはこれらの敵と戦う戦費調達のため、フランドルに重税を課しましたが、この一方的な増税が大失敗となります。なぜならブルゴーニュの商人や領民を敵に回す事になってしまったからです。1488年2月、反乱グループがブリュージュにいた彼を拘束、寝込みを襲われたマクシミリアンは幽閉されてしまい、護衛の家臣たちは彼の目前で次々に広場で処刑され、打つ手を無くした彼は父である皇帝フリードリッヒ3世に助けを求めました。

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上が当時のブルゴーニュの中心であったブリュージュの現在の街並みです。(人口およそ11万)中世の街並みが良く保存されている事から世界遺産として登録されています。

ここで再び登場する神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世ですが、彼は前々回から述べている様に臆病な性格で、戦には不向きの頼りない人物でした。しかしそんな彼でも、マクシミリアンは愛する自慢の息子であり、彼は勇気を振り絞って恐らく生涯ただ一度だけ、自ら軍勢を率いて息子の救出に向かいます。

しかしいかに彼が神聖ローマ皇帝とはいえ、フリードリッヒにそれが出来るだけの大軍を集める事など出来たのでしょうか? 彼の直属の軍勢など側近の家臣や護衛兵をかき集めてもせいぜい数百騎程度で、「軍勢」と呼ぶには程遠い数です。 しかし実はこの時も、彼の長年の忍耐心が積み上げた年月と悪運の強さがものをいいます。 

フリードリッヒの臆病と優柔不断は、彼が皇帝に即位した当初から帝国諸侯に知れ渡っており、当然諸侯は彼を蔑んで軽く見ていました。しかしそうして年を重ねるうちに、この時すでにフリードリッヒの皇帝としての在位は40年を越え、最初はフリードリッヒを軽く見ていた帝国諸侯たちも、それだけの在位を維持し続ける皇帝に対して敬意には程遠いにしても、ある程度の評価をする様になっていました。

小心なフリードリッヒは帝国諸侯たちに対して、「皇帝として帝国軍の召集を命じる。」のではなく、「お願いする。」という形で兵を募ったところ、意外にも多くの帝国諸侯が集まり、数万の軍勢を組織する事が出来たのです。(もちろん皇帝にそれなりの「見返り」の要求を期待しての事ではありましたが。)

「帝国軍現る。」の報に反乱勢力はひるみ、内心おっかなびっくりの皇帝フリードリッヒは幸運にも集められた数万の軍勢の威容にものを言わせ、精一杯の虚勢を張って人質のマクシミリアン王子の釈放を迫りました。そしてなんとか交渉は成功し、マクシミリアンは釈放され、目的を達した帝国軍はフランドルから撤退します。彼は父のお陰でようやく自由の身となれたのです。

もしこの時フリードリッヒが何もしなかったなら、マクシミリアンはそのままフランス王の命で処刑され、その後のハプスブルク家の栄光と繁栄は無かった事でしょう。その後父子は再会の喜びを分かち合った事でしょうが、この救出劇は、「頼りない皇帝」フリードリッヒ3世の数少ない誇れるエピソードとなっています。

このブルゴーニュを巡る戦いはその後も続き、結局ディジョンを中心とするブルゴーニュ南部はフランスが併合し、フランドルとネーデルラントなどを中心とする北部はハプスブルク領とする事で1493年に決着し、100年余の栄華を誇ったブルゴーニュ公国はここに消滅しますが、この時からフランス王家とハプスブルク家の300年続く長い確執が始まる事になります。

次回に続きます。

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