皇帝バルバロッサの死 ・ 第3回十字軍の失敗

みなさんこんにちは。

1173年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ・バルバロッサと、ローマ教皇・ロンバルディア都市同盟の連合軍との対決は時間の問題となっていました。翌1174年から皇帝バルバロッサはこれらの敵対勢力を討伐するため、4回目となるイタリア遠征を計画し、帝国諸侯に参陣を命じます。

しかしそれまで常に皇帝に献身し、皇帝に次ぐ帝国第二の実力者であったザクセンのハインリッヒ獅子公が公然と皇帝を批判し、自領ザクセンの紛争と帝国東部のポーランドとの国境防衛を理由に、「今度ばかりは付いていけぬ。」と出兵を拒否。それに多くの諸侯も同調し、バルバロッサの軍勢は自らの直属軍数千を数えるのみでした。

これでは戦になりません。やむなく彼はロンバルディア都市群の商人たちが持つ豊富な金を与える事を餌に傭兵をかき集め、自分の直属軍を合わせて何とか1万を越える軍勢を集めると第4次イタリア遠征を開始しました。

しかしこの遠征は最初から無茶なものでした。そして1176年5月に北イタリアのレニャーノで、皇帝バルバロッサの軍勢3千はロンバルディア都市同盟の連合軍3千5百と激突しましたが、ロンバルディア側にも大損害を与えたものの、結果は皇帝軍がほぼ全滅に近い大敗に終わり、このイタリア遠征は大失敗に終わります。

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上は19世紀前半に描かれた「レニャーノの戦い」の様子です。金次第でどこにでも付く粗末な身なりの荒くれ者の傭兵たちが、豪華な身なりの皇帝の騎士たちをなぎ倒しています。このレニャーノの戦い以後、ヨーロッパではナポレオンの登場する近世までのおよそ600年以上に亘り、彼ら傭兵が戦争の中心となります。

この戦いの敗北で命からがらドイツ本国に帰還したバルバロッサの怒りは凄まじく、特にその怒りは自分に味方せず、公然と彼を批判した帝国諸侯の筆頭であるザクセンのハインリッヒ獅子公に向けられ、「この敗戦の責任は帝国最大の兵力を持ちながら我が下に参陣しなかったハインリッヒ獅子公にある。」として、1180年にハインリッヒ獅子公を「皇帝に対する不服従と帝国への反逆」により、ザクセン、バイエルンなど彼の全領地を没収し、彼を帝国から追放してしまいます。(哀れな獅子公は妻の父親(義父)に当たるイギリス王ヘンリー2世を頼って亡命しました。)

皇帝バルバロッサの怒りはそれだけに留まらず、「獅子公に同調して遠征に参加しなかった諸侯どもも皆同罪だ。」として主だった帝国貴族たちを獅子公同様に追放、領地没収などの刑に処しました。これにより諸侯の数は大きく減り、帝国は整理統合され、何よりこれらの措置で震え上がった残りの諸侯たちが皇帝バルバロッサに反対する事は二度と無くなりました。

さてこうして帝国内の反対勢力はねじ伏せたものの、皇帝バルバロッサと外敵であるローマ教皇・ロンバルディア都市同盟との関係は今だ戦争状態でした。こちらについてはこう着状態のまま時が流れ、結局1180年に彼は教皇アレクサンデル3世との講和に応じ、事実上彼のイタリア征服は完全な失敗に終わりました。

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上は「講和の証」として教皇アレクサンデル3世にひざまづく皇帝バルバロッサを描いたフレスコ画です。実際に皇帝がこの様に教皇に屈したのかは定かではありませんが、この戦いにおける皇帝の敗北は事実です。

しかし、彼はこれで引き下がる様な小者ではありません。バルバロッサは非常に有能な皇帝でした。彼は教皇との直接対決を避け、南のノルマン人勢力が築いたオートヴィル朝シチリア王国に接近し、後継男子のいなかった同国の王グリエルモ2世の王女コンスタンツァと息子ハインリッヒ6世を結婚させ、将来のシチリア王位の獲得に成功しています。これによりローマ教皇を南北で挟み撃つ事が出来、さらにこの時彼が布石を打ったおかげで、彼の孫フリードリッヒ2世の時代にシュタウフェン朝はドイツではなくシチリアで「12世紀ルネサンス」と呼ばれる華やかな文化の華を咲かせるのです。

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上の図はノルマン人のオートヴィル家が築いたシチリア王国の範囲です。やがてバルバロッサの目論見通り、息子ハインリッヒ6世が王位に付き、シュタウフェン家がこの国を乗っ取る事になります。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはローマ教皇やロンバルディア都市同盟との戦いには一時的に敗れたものの、それ以外の方面では彼自身の類い稀な才能によってほぼ全面勝利していました。この時期の彼はドイツ、北イタリア、ブルゴーニュ、ボヘミアなどを支配下に収め、これまでの歴代皇帝の中で最も強大な皇帝として帝国に君臨します。(1184年に行われた皇太子ハインリッヒ6世の刀礼式には、祝いのために帝国中から諸侯と騎士が集まり、その数は7万を越えたそうです。戦でもないのにこれだけの諸侯が集まったのは、皇帝バルバロッサに対する畏敬の念以外の何ものでもないでしょう。)

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上の図はこの時代の神聖ローマ帝国の勢力範囲です。(正確にはザクセン、ザリエル朝時代のものですが、バルバロッサが君臨したシュタウフェン朝時代の帝国の版図と大差はありません。)

これまでの皇帝たちの中で最も完全に帝国を支配し、権力の頂点にいる中で、やがて皇帝バルバロッサの中に、聖地エルサレム奪還のための十字軍に対する熱い想いが込上げていきます。当時エルサレムはアイユーブ朝イスラム帝国によって占領されており、彼は「神から与えられた神聖な権利によって世界を支配する皇帝として、聖地エルサレムが異教徒に蹂躙されるのを黙って見ているわけにはいかぬ。」として1189年、時の教皇グレゴリウス8世の呼びかけに応じ、第3回十字軍の総大将として、総勢10万の大軍を率いて小アジアに遠征します。

入念に準備し、充分な戦力で同地に上陸したバルバロッサ率いるキリスト教国連合軍はイスラム軍を次々と撃破し、大戦果を収めましたが、1190年6月総大将である皇帝バルバロッサは野営地の近くの川で水浴中深みにはまって溺死するという不幸な事故で急死してしまいました。(享年68歳)

総大将を失ったキリスト教軍は、態勢を立て直して反撃に転じたイスラム軍の攻勢によって総撤退を余儀なくされ、こうして第3回十字軍は失敗に終わります。しかしその事よりも、皇帝バルバロッサのあまりに突然の意外な死がヨーロッパ社会に与えたショックは大きく、特に生前の彼の強大さを知る帝国本土、とりわけドイツ本国では、「皇帝フリードリッヒ・バルバロッサは不死身であって、ドイツが危機に陥った時に蘇ってドイツの危機を救うのだ。」という皇帝伝説として、長くドイツの民衆の間に語り継がれていく様になったそうです。

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後の第2次大戦中に、ヒトラー率いるナチス・ドイツが行った300万の大軍によるソ連への侵攻作戦を「バルバロッサ作戦」と呼ぶのは、強大な皇帝であった彼の伝説にあやかり、ドイツ勝利の願いを込めて名づけられたものです。(上が作戦指導するヒトラーとドイツ軍首脳部。結果は広大なソ連領内に深入りしすぎてもたもたしているうちに冬になり、猛烈な寒さとソ連軍の反撃で泥沼の消耗戦に陥り、ヒトラーの補給を軽視した独善的な作戦指導も相まって大戦後半は多くの兵を失うひどい負け戦となり、逆にドイツを破滅に導いてしまいましたが。)

次回に続きます。
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バルバロッサの遺産 ・ シチリア王国併合

みなさんこんにちは。

962年のオットー大帝の即位によって築かれた「神聖ローマ帝国」の歴史の中で、これまで帝位についた就いたどの歴代皇帝よりも最も完全に帝国を支配した強大な皇帝フリードリッヒ1世・バルバロッサが、第3回十字軍の遠征先である小アジアの荒野で急死した後、その後は息子のハインリッヒ6世が25歳で帝位を継承しました。

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上がシュタウフェン朝3代皇帝ハインリッヒ6世です。(1165~1197)彼はわずか4歳でドイツ王となり、父帝バルバロッサと親子二人の共同統治者として君臨し、やがて父の急死によって北の帝国本土以外に南のノルマン・シチリア王国の王位もその「遺産」として継承していました。

彼が父バルバロッサの死によって帝位を継いだ1190年の終わりにノルマン・シチリア王国の王家オートヴィル家で、彼の皇妃コンスタンツァの父に当たるグリエルモ2世が亡くなり、後継者の絶えた同家は生前のバルバロッサとグリエルモ2世の取り決めにより、娘婿のハインリッヒ6世がシチリア王位を継ぐ事が決まっていたからです。

ハインリッヒ6世は君主としては父には及ばないにしても、若き皇帝として出来る限りその務めを果たすべく奔走します。しかしシチリア国民は外国人の皇帝に支配される事を嫌い、オートヴィル家初代国王の庶子(私生児)の子孫であるレッチェ伯タンクレーディ(1139~1194)をシチリア王に擁立します。

ハインリッヒ6世はこの動きを封じるためシチリア遠征の準備をしますが、ここで思いもかけぬ敵が彼の前に立ちふさがります。その敵とは父バルバロッサのライバルであり、かつて父が追放した帝国第二の実力者ハインリッヒ獅子公でした。獅子公はバルバロッサの死によって密かにドイツに戻り、自領のザクセンを奪い返して再び帝国に復権を果たすべく反乱の火の手を挙げたのです。

ハインリッヒ6世はこの反乱に忙殺され、獅子公とは一時休戦してようやくシチリアに向かったのは1191年になってからでした。そしてイタリア半島を南下した皇帝軍は、シチリア軍の最重要拠点であるナポリを包囲します。しかしシチリア軍の抵抗は激しく、ナポリの街を取り囲む城壁に阻まれた皇帝軍は、さらにこの地でひどい疫病に悩まされ、皇帝軍の苦戦を知った獅子公が休戦を破って再び反乱を起こしたために、やむなく遠征を中止して撤退する事を余儀なくされてしまいました。

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上がこの時のナポリ包囲戦を描いた絵と、下が現在のナポリの街並みです。

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ドイツ本国に戻ったハインリッヒ6世と獅子公との戦いはその後3年余り続きますが、帝国随一の剛勇で知られた獅子公も老齢には勝てず、皇帝との協議でかつての領地を大幅に減らされたものの、追放の解除と帝国貴族への復帰を最終条件として、1194年6月に両者は完全講和に至りました。(名誉挽回を果たした獅子公は、翌1195年に66歳で亡くなります。)

こうして帝国本土の内乱を終わらせたハインリッヒ6世は、いよいよ待ちに待ったシチリア征服のために遠征軍を組織するとイタリア半島の南下を開始します。ちょうどその頃、彼にとって幸運な事に「正当なシチリア王」を名乗っていたタンクレーディが亡くなり、彼の子でまだ9歳のグリエルモ3世が王位を継いでいましたが、ここで皇帝は一計を案じます。

彼はシチリア側に対し、自分のシチリア王位を認めてくれれば、まだ幼いグリエルモ3世を元のレッチェ伯として領地を安堵し、他の者たちも一切罪は問わないと約束したのです。シチリア人たちはこの申し出を受け入れ、1194年9月に同国の首都パレルモが無血開城されました。

しかしこれは皇帝による完全な「騙まし討ち」でした。彼は同年12月25日のクリスマスに念願のシチリア王として戴冠しましたが、その際シチリア側と交わした「一切の罪は問わない。」との約束を破り、反乱に加担したシチリア貴族数百名を逮捕、投獄、処刑してしまいます。それだけではありません。ハインリッヒ6世はなんと幼い少年王グリエルモ3世の両目を潰し、さらに去勢までしてドイツ本国に送り、幽閉してしまったのです。(この皇帝ひどいですね。度重なる反乱が彼をこんな残酷な人物にしてしまったのでしょうか?それだけ皇帝がこの少年王の復権を恐れていたのでしょう。)

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上がこの時王位を奪われ、失明させられた哀れな少年王グリエルモ3世です。(1185~1198?)彼の死によって、フランス北部の傭兵から身を起こし、その知略と勇猛果敢さで南イタリアを征服し、ナポリ・シチリア王国を建国したノルマン人王朝オートヴィル家は、5代わずか60年余りで断絶してしまいます。

皇帝のこの卑劣なやり方に、当然シチリア人たちは怒りを爆発させます。彼らは皇帝に対して再度の反乱を企てますが、シチリアの有力者たちは皇帝によってほとんど抹殺されており、すぐに行動を起こす事は困難でした。そこで彼ら反乱グループは地下に潜伏してその機会を窺います。戦に破れ、祖国を帝国軍に占領されたとはいえ、彼らは決して諦めませんでした。なぜなら彼らには「強力な味方」が背後から支援していたからです。

その「強力な味方」とは神聖ローマ皇帝の仇敵とも言うべき「ローマ教皇」でした。教皇にとって、南のシチリアが皇帝のものになれば、ローマを中心にイタリア半島中央部に位置する教皇国は南北から挟み撃ちにあって身動きが取れなくなるからです。しかし状況は今のところ皇帝ハインリッヒ6世に有利に動いていました。権謀術数に長けた教皇庁は反乱の火の粉を温存しつつ、静かに時を待ちます。

そんな事が影で進行していた事を知ってか知らずか、念願のシチリア王位を手にした皇帝ハインリッヒ6世はわが世の春を謳歌していました。さらに彼の幸運は続きます。シチリア王として戴冠した翌日、後継者となる待望の王子が生まれたのです。これが後に次期皇帝となるフリードリッヒ2世です。

ドイツ本国を抑え、南のイタリアを支配した彼の次の目的は、亡き父バルバロッサが果たせなかった異教徒からの聖地奪回、すなわち十字軍です。その前に彼は父のやり方に倣い、生まれたばかりの王子フリードリッヒをドイツ王にするため、諸侯と教会の承諾を得るための帝国議会に出席するためシチリアを離れ、1195年にドイツ本国に帰国します。

「皇帝不在」シチリアの反乱勢力とそれを陰で操るローマ教皇庁が待っていたのはまさにこの時でした。彼らはハインリッヒ6世の留守の隙にシチリア全土で一斉に反乱の火の手を上げ、留守部隊の皇帝軍に襲い掛かります。この情報は直ちにドイツ本国の皇帝の下にもたらされ、急遽シチリアに戻った皇帝によって、反乱は再び鎮圧されます。

すでに先に述べたグリエルモ3世の例にもある様に子供にも容赦しない冷酷さを発揮し、反乱に対しては徹底的な弾圧で応じる事を信条にしていたハインリッヒ6世は、今回も捕らえた反乱者たちを苛烈極まる方法で次々に処刑していきましたが、彼のこのやり方はシュタウフェン家に対するシチリア人たちの憎しみを増幅させるだけでした。

そしてその報いは、やがて皇帝ハインリッヒ6世の下に戻ってくる事になります。1197年9月、彼は反乱鎮圧の作戦中マラリアに感染し、高熱にうなされた挙句32歳の若さで急死してしまったからです。彼の皇帝在位はわずか7年余りでした。

彼の死によって帝位はわずか3歳のフリードリッヒ2世に移りますが、シュタウフェン王朝はあまりにも脆弱でした。やがてまだ何も分からぬこの幼帝を巡って、ローマ教皇と帝国本土のドイツ諸侯が(自身の利益のために)駆け引きを繰り広げていく事になります。

次回に続きます。

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ブーヴィーヌの戦い ・ 熾烈な帝位争奪戦

みなさんこんにちは。

1197年9月、父バルバロッサに劣らぬしたたかさでシチリアを手に入れた神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世は32歳の若さで亡くなりましたが、後を継ぐ息子のフリードリッヒ2世はまだわずか3歳でした。そのため当初は母である皇后コンスタンツァ(1154~1198)が摂政として幼い息子の後見人となりますが、シチリア王女でもあった彼女は夫ハインリッヒ6世の命によりシチリア弾圧を実際に実行していたドイツ諸侯を嫌い、彼らをシチリアから追い出そうと彼らにドイツ本国への帰国を命じます。

しかしドイツ諸侯がこれに素直に従うはずがありません。皇后と諸侯は対立しますが、結局それから1年余り後の1198年11月、皇后コンスタンツァはまだ幼いフリードリッヒ2世の事を案じながら夫の後を追う様に亡くなります。そして彼女のドイツ諸侯への対応はその後のシチリアに10年に及ぶ内乱を招く事になってしまいました。

それでも彼女は短い期間でしたが摂政として息子フリードリッヒのために奔走し、時のローマ教皇インノケンティウス3世にフリードリッヒのシチリア王即位を認めさせ、自らの死が近づくと、自分亡き後のフリードリッヒの後見人を教皇に託しました。

一方帝国内では、幼少のフリードリッヒを巡って帝国諸侯が対立を激化させていました。皇后コンスタンツァ亡き後、先帝ハインリッヒ6世の末弟であり、シュタウフェン王家の実質的家長であったシュワーベン公フィリップと、シュタウフェン家の宿敵であるヴェルフェン家のオットー4世が帝位を狙って帝国を二分する争いを展開していたからです。

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上がシュワーベン公フィリップです。(1178~1208)彼は幼いフリードリッヒ2世の叔父に当たり、当初はライバルのオットー4世より優勢でしたが、1208年に娘の結婚問題からバイエルンの貴族に暗殺されてしまいます。(この暗殺は、教皇インノケンティウス3世が影で糸を引いていた様です。教皇はシュタウフェン家のシチリア支配を阻止するため様々な妨害をしていました。)

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そしてこの人物がヴェルフェン家のオットー4世です。(1175~1218)彼はバルバロッサのライバルでもあったハインリッヒ獅子公の次男で、フィリップの暗殺によって正当な後継者であるフリードリッヒ2世が幼い事を良い事に、これを差し置いて1209年、神聖ローマ皇帝として教皇インノケンティウス3世から戴冠されます。

オットー4世の皇帝即位によって、シュタウフェン家は一時的ではありますが、神聖ローマ皇帝位を他家に奪われてしまいます。しかしその後、皇帝オットー4世は神聖ローマ皇帝の慣例ともいうべき「イタリア遠征」を計画し、軍勢を集結させました。しかしこれが彼のつまづきの始まりとなります。(これは彼にとってその地位を脅かす最大の存在であったシチリアのフリードリッヒ2世を狙ったものと思われます。) 

なぜならそのオットー4世の前に、世界で最も難しい(というより面倒な)敵が立ちふさがったからです。それは彼を皇帝にしたローマ教皇インノケンティウス3世その人でした。皇帝のイタリア遠征計画を知った教皇はこれに怒って1210年に皇帝を「破門」してしまい、これによってオットー4世は帝国諸侯の支持を失う事になってしまいます。

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上が皇帝オットー4世を破門した時の教皇インノケンティウス3世です。(1161~1216)彼は先帝ハインリッヒ6世の皇后コンスタンツァから幼いフリードリッヒ2世の後見人を託されていました。また彼はローマ教皇がその宗教的権威を最も発揮した「教皇権全盛時代」の教皇の一人でもあり、彼の演説にある「教皇は太陽であり、皇帝は月である。」の言葉からも当時の権威のほどがうかがえます。

皇帝オットー4世にとって状況は悪くなる一方でした。こうして時を重ねるうちに、南のシチリアにいる神聖ローマ帝国の正当な帝位継承者フリードリッヒ2世はすくすくと成長してすでに13歳になっており、その彼の後見人は他ならぬローマ教皇自身でした。オットー4世が敵になった以上教皇はまだ少年であり、自由に操れるフリードリッヒ2世を帝位に付かせる事は時間の問題です。そうなれば教皇と諸侯の都合でうまく皇帝になった彼はいつ廃位されてもおかしくないのです。

それだけではありません。シチリアを狙うフランス王フィリップ2世がフリードリッヒ2世の帝位継承を支持し、南の教皇とともに西からオットー4世を追い立てる手筈を整えていました。不利な状況に陥った皇帝オットー4世は態勢を挽回するため、当時フランスにおける領土奪還に燃えていた叔父に当たるイングランド王ジョンを味方にしてこれらに対抗します。(今回の事態はこれまでの皇帝たちがかつて散々悩まされた教皇と諸侯に加え、イングランド王とフランス王まで介入する大規模なものになっていました。)

やがて彼らの対立は激化し、ついに1214年7月、フランス北部フランドルとの国境に近いブーヴィーヌで両者は決戦に及びます。「ブーヴィーヌの戦い」の始まりです。両軍の兵力は皇帝軍2万5千に対し、フランス軍は1万5千で、兵力ではイングランド軍を含めた皇帝軍が圧倒していました。そのため戦闘は当初は皇帝・イングランド連合軍が有利でしたが、皇帝軍は帝国諸侯も合わせた混成部隊であったために指揮統率が乱れ、結局フィリップ2世の下で統一組織されたフランス軍の反撃で皇帝軍は戦死1千に対し、1万近い捕虜を出して大敗してしまいました。

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上が開戦の前に騎士たちを鼓舞激励する当時のフランス王フィリップ2世です。(1165~1223)彼はフランス第2王朝であるカペー朝第7代国王で、イングランド、神聖ローマ帝国、ローマ教皇、国内のフランス諸侯らを巧みな政略で向こうに回しつつ、それまで脆弱だったフランス王国の国威を高めた事で、フランス最初の偉大な王として「尊厳王」と呼ばれています。

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そして上の人物が皇帝オットー4世の同盟者であり、当時のイングランド王ジョンです。(1167~1216)彼はイギリス第2王朝であるプランタジネット朝第3代国王で、世界で始めて君主の権力を制限し、後の立憲君主制の元となるあの「大憲章」(マグナ・カルタ)を認めさせられた事で有名な王ですね。彼はこの戦いでフランスに敗れて領土を大きく失なった事から「欠地王」、「失地王」などと呼ばれ、さらに教皇には「破門」され、国内統治もうまくいかなかった事からイギリス本国では「イギリス屈指の暗君」と呼ばれてしまっています。

上のフランス王フィリップ2世とは正反対ですね。彼の失敗は長くイギリス歴代王家に語り継がれ、そのため後のイギリス歴代王朝では「ジョン」という名は縁起が悪いと言う事で、彼と同名の「ジョン」という王はその後現在に至るまで一人も存在しません。彼が「ジョン1世」と呼ばれないのはそのためです。(先日生まれたイギリスのウイリアム王子とキャサリン妃の王子も「ジョージ」でしたね。将来彼がイギリス王になれば、現エリザベス女王の父王がジョージ6世でしたから、順番からいって「ジョージ7世」になると思われます。)

さて皇帝オットー4世に話を戻しますが、彼はこの敗北によって当然のごとく皇帝としての権威も信用も失い、帝国諸侯と教皇によって1215年廃位され、失意の内に自領のブラウンシュヴァイクで3年後に亡くなります。そして帝位はすでに18歳の立派な若者に成長していたフリードリッヒ2世に戻り、シュタウフェン家が皇帝家として返り咲くのです。

次回に続きます。

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フリードリッヒ2世とシチリア王国 ・ 早熟の秀才皇帝

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国の帝位がシュタウフェン王家に戻った1215年頃、同王家の当主は若干18歳の若き王フリードリッヒ2世でした。彼はバルバロッサの孫に当たり、ドイツ王であり、帝国皇帝であった父ハインリッヒ6世と、ノルマン・シチリア王国の王女であったコンスタンツァを母に持つ、まさに北と南の申し子でした。

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上が神聖ローマ帝国シュタウフェン朝第4代皇帝フリードリッヒ2世です。(1194~1250)しかし彼の幼少期はわずか3歳で父を、その翌年には母を亡くし、物心ついた時点ですでに寄る辺なき「孤児」という不幸なものでした。その上まだ幼い彼を利用して権力を握らんとする叔父や帝国諸侯など、周囲の大人たちの都合勝手に振り回され、母コンスタンツァの計らいで何とか「シチリア王」の王位とローマ教皇の庇護という身分的保護を得てはいたものの、彼の立場は「吹けば飛んでしまう」非常に弱いものでしかありませんでした。


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このフリードリッヒ2世について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。上巻300ページ、下巻は278ページほどで、地中海世界の歴史を語らせたら他に並ぶものの無い作家、塩野七生さんの最新作です。この方は小説家なので、学者の書いた本とは全く違うくだけて分かりやすい、それでいて緻密な分析に基づいた優れた作品である点が大きな魅力です。

そんな幼い王の後見人兼保護者であったのが当時のローマ教皇インノケンティウス3世で、彼は懐に飛び込んできたこの幼子を、将来の神聖ローマ帝国と、ローマ教皇国の命運を左右する「強力な切り札」として手厚く保護育成し、まだ幼い今の内にローマ教皇に絶対臣従する敬虔なカトリック信者に仕立て上げ、成長した彼を帝位につけて間接的に帝国を教皇の意のままに動かし、支配する事が出来るよう教育すべく、選りすぐりの教師団を彼のいるシチリアの首都パレルモに差し向けます。

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上がシチリアの首都パレルモの現在の街並みの様子です。(人口およそ67万人。)しかし教皇の将来を見据えた遠大な計画の命を受け、はるばるシチリアにやって来た教師団は早々に驚愕させられました。なぜならこの幼い王が、あまりに早熟した頭脳を持つ天才であったからです。

幼いフリードリッヒは諸侯によって人質生活を余儀なくされ、その生活は日々の食事にも事欠く有様で、哀れに思ったパレルモ市民から食糧を分け与えてもらう様な状況でしたが、彼は食事に代えて「知識」を貪欲に食べ続けていきます。彼はすでに4歳にしてラテン語を習得し、普通の子供なら絵本に親しんでいる年齢で歴史と哲学の本を読み始め、10代に達する頃にはギリシア語、アラビア語、ドイツ語、イタリア語、フランス語などを合わせ6ヶ国語を操り、科学にも深い興味を抱き、さらに知力だけでなく肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示したからです。

これは教皇にとって全く予想外でした。教皇はフリードリッヒを意のままに操れる狂信的カトリック教徒にするか、さもなくば知と教養の場から遠ざけ、政治にも軍事にも無関心で酒色に溺れる無能な王に仕立てるか、いずれにしてもローマ教皇国に無害な人物にするつもりでいたからです。周囲の大人たちがこの様な人々ばかりの中で、フリードリッヒは徹底的な現実主義者へと成長していきます。

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もともとフリードリッヒ2世の生まれ育ったシチリアのパレルモは、地中海の中央にあってイスラム、ビザンツ、ラテン文化が入り混じる当時最先端の知の宝庫でした。ヨーロッパとオリエント両方の全てが融合し、互いに共存して豊かな文化を花開かせていたシチリアは、当時の人々の憧れの場所だったのです。フリードリッヒは幸運にもこの地で生まれ育ち、それらに直に触れながら豊かな教養を身に付けていきました。

その頃北のドイツ本国では、諸侯が帝位を狙って相争い、それにローマ教皇、さらにはイギリス、フランスの王まで介入する始末でした。フリードリッヒは1210年わずか15歳でアラゴン王国の王女コンスタンツァと結婚し、(奇しくも亡き母と同じ名の妻でした。)その翌年には早くも後継者ハインリッヒ王子を儲けます。そして彼のいない間に皇帝となっていたヴェルフェン家のオットー4世が教皇との対立から廃位されると、新たなドイツ王となるべく初めてドイツに向かいます。

神聖ローマ皇帝はまずドイツ王になってからローマ教皇に戴冠されないと皇帝になれないのです。彼は生まれたばかりの息子ハインリッヒにシチリア王位を譲り、1220年までドイツ本国に滞在し、諸侯と教会の支持を集め、入念に自らの皇帝即位の準備をしていきます。そして同年、新教皇ホノリウス3世から即位の暁には「十字軍の実行」を条件にめでたく25歳で神聖ローマ皇帝として戴冠しました。

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上は彼が宮廷を置いたパレルモのノルマンニ宮殿です。オートヴィル朝時代のものをそのまま引き継いだもので、アラブ、ビザンツ、ノルマンの各様式が混合した典型的な建物です。(両翼の建物も全て宮殿の一部で、写真には写っていませんが、もっと大きな宮殿です。)

皇帝となったフリードリッヒ2世でしたが、彼は活躍の場を終生イタリアとシチリアに留め、帝国本土であるドイツ本国は息子ハインリッヒに任せきりで、ほとんどドイツに赴く事はありませんでした。彼がドイツに滞在したのは、皇帝即位前のドイツ王時代の最初の8年間のみです。これは彼のシチリアへの強い思い入れが影響しているのでしょう。

皇帝フリードリッヒ2世は長い内乱で荒れ果てたナポリ・シチリア王国の再建に取り掛かります。彼は父の代から続くシチリア反乱勢力の覆滅のため、各地の城砦を攻撃、陥落後破壊して新たな皇帝直轄の城を建設し、信頼出来る直属の行政官を派遣して支配を徹底させます。さらに将来の帝国の行政を担う官僚を養成するため1224年にナポリ大学を創設しました。(この大学はヨーロッパで最も古い大学の一つとしても有名です。)

こうして彼の統治は着々と進んでいたのですが、彼を皇帝として戴冠させた教皇ホノリウス3世は、皇帝がいつまでたっても約束の十字軍遠征に出かけようとしない事にいらいらしていました。さらに彼は、皇帝がイスラム教徒たちを優遇し、有能な者を側近として重用している事を苦々しく思ってもいました。

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上が教皇ホノリウス3世です。(1148~1227)彼はフリードリッヒの家庭教師として前教皇インノケンティウス3世から遣わされた人で、言わば「先生」でした。教皇は再三皇帝に対し、約束通り十字軍に出かけて異教徒を討伐し、聖地エルサレムを取り返すよう要求しますが、皇帝フリードリッヒは統治の忙しさを理由にのらりくらりとそれを先延ばし、結局教皇が亡くなるまで動こうとはしませんでした。

育ての親である教皇インノケンティウスと、教師のホノリウスも死んだ今、もはや彼にとって頭が上がらない相手はいなくなり、「重荷」の取れた彼とローマ教皇国とのつながりは途切れるのですが、やがてこの十字軍問題が、皇帝フリードリッヒとローマ教皇の長い戦いの引き金となり、以後彼は異教徒ではなく教皇の差し向ける敵と戦い続ける事になっていくのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

早過ぎた近代人 ・ 敵はローマ教皇なり

みなさんこんにちは。

皇帝フリードリッヒ2世の家庭教師であり、フリードリッヒの十字軍遠征を何度も催促していた教皇ホノリウス3世が、ついにそれを見る事なく1227年に亡くなると、次の教皇グレゴリウス9世は一向に腰を上げようとしないフリードリッヒに対し、ついに十字軍を率いて聖地エルサレムを奪回しなければ「破門」すると脅しをかけて来ました。

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上が新教皇グレゴリウス9世です。(1143?~1241)彼は先の二代の教皇と違って皇帝フリードリッヒとなんらつながりは無く、また100歳近く生きた大変な長命で、歴代教皇でも屈指の厳格な法学者でもありました。

「破門」を突きつけられ、廃位の危機が迫ったフリードリッヒ2世はやむなく1228年、4万の軍を率いてエルサレムへと出発します。第6回十字軍の始まりです。しかしその途中で軍内に疫病が蔓延して多くの兵を失い、皇帝自身もそれに感染してその時は上陸もせずに帰って来てしまいました。

この知らせを聞いた教皇は、「戦に赴き、戦いもせずに逃げ帰ってくるとは何事か!」と激怒し、皇帝の病など「仮病」だといって結局フリードリッヒを破門してしまいました。フリードリッヒは破門を解くために教皇との会談を持ちかけますが、頑固な教皇は彼に会おうともしませんでした。 

仕方なく皇帝は破門されたまま残存部隊を率いて再び遠征に出かけますが、キリスト教軍の総大将である皇帝がそのキリスト教徒としての身分を剥奪されているのですから士気が上がるはずはありません。現地では味方の離反が相次ぎ、それ以前に宗教に寛容なシチリアで育った皇帝自身が、そもそも十字軍などやる気はありませんでした。

しかしはるばるやって来たからには何かしなければなりません。幸い彼は幼い頃からイスラム文化に深く接し、イスラム教徒のものの考えも良く理解していたので、当時のアイユーブ朝イスラム帝国のスルタンであったアル・カーミルとの間で極めて理性的かつ現実的な交渉が行われ、1229年2月、10年間の期限付きでエルサレムとその周辺の返還と、和平条約の調印に成功します。

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上がエルサレム返還と和平交渉に臨む皇帝フリードリッヒ2世(左)と、アイユーブ朝君主アル・カーミル(1180~1238)です。この2人はその後何度も手紙をやり取りしてその学識の豊かさを語り合い、親睦を深めてとても仲が良くなり、互いを「わが親友」として生涯親交を交わしました。

なぜこの時フリードリッヒ2世はこの様な条約を結んだのでしょうか?それは彼が徹底した現実主義者であった点からある程度推測が出来ます。幼い頃から歴史を良く研究していた彼は、人類の歴史に「恒久平和」など一度も存在せず、今後もありえない事を分かっていました。それならばたとえ10年という期限付きでも、「少なくともその間は平和と安定が享受出来れば良いではないか。」というのが彼の考えでした。

それに彼は民族、文化、宗教の違いといった「価値観の多様性」を認め、例えば「宗教はキリスト教だけが唯一絶対のもの。」という様な一つの価値観で他を完全否定するのではなく、考えの違う相手でもそれを尊重し、互いに共存し合う国家の建設を思い描いていました。つまり彼の目指した理想の国家とは、かつてそれを歴史上唯一実現した「古代ローマ帝国」であったのです。

しかし彼の理想は凡人たちには理解出来ようはずがありません。ローマ教皇をはじめ、現地のキリスト教騎士団は今回の皇帝の異教徒への対応を「弱腰だ。」として非難し、教皇グレゴリウス9世は、北イタリアの諸都市に命じて南イタリアに兵を進めさせます。まだ皇帝が帰国しないうちに先手を打ってフリードリッヒの根拠地ナポリ・シチリア王国を占領してしまうつもりでした。皮肉な事に、フリードリッヒの敵はエルサレムにではなく、ローマにいたのです。

「敵はローマ教皇なり。」 

フリードリッヒの命令一下、イタリアに戻った皇帝軍は素早く反撃してたちまち教皇軍を撃破し、劣勢に立った教皇は1230年にフリードリッヒの破門を解かざるを得なくなります。こうして破門を解き、十字軍もやり終えた皇帝は、1231年に以前から考えていた法令の発布を実行し、帝国内にシュタウフェン王家による絶対主義体制の確立を打ち建てようとします。彼が発布した法令の主なものは、かつての古代ローマ皇帝たちが思考したもので、

・都市・貴族・聖職者の権利の制限、
・司法・行政の中央集権的性質の確立、
・税制・金貨の統一、


の3本柱から成り、他にもはるか後の18世紀以降の近代啓蒙君主たちが思考した次の様な条文なども含まれています。

・貧民を対象とした無料の職業訓練・診察、
・私刑の禁止、
・薬価の制定、
・役人に対する不敬・賄賂の禁止、

この様に先進的な考えの持ち主であった事から、フリードリッヒ2世は後の歴史学者から「玉座の上の早過ぎた近代人」と称されるようになります。


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上は皇帝フリードリッヒ2世が発行した金貨です。地中海交易の中継地であるシチリアを持つ彼は帝国の経済的安定のため、交易から上がる収入を徴税する事を基本として様々な経済政策を打ち出しますが、この分野においてはあまり上手くいかなかった様です。なぜなら、フリードリヒはシチリア統治の初期時代から収入を商人からの借金の返済に充てており、治世末期には財政の大部分を商人からの借金に依存する構図が完成していたからです。

しかし彼は、学問と文化、芸術に大変な興味を抱いていました。パレルモの彼の宮廷ではユダヤ人以外にプロヴァンス、イングランド、イタリア、ビザンツ、イスラムの知識人が招かれ、シチリア宮廷は13世紀ヨーロッパにおいて最高の文化サロンとして発展します。

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上は19世紀に描かれたパレルモの宮廷の様子です。皇帝フリードリッヒ2世を中心に、人種、宗教を問わず、様々な人々が描かれています。皇帝の学問への飽く事無き興味は文学、天文学、数学、物理学、生物学にも及びました。

フリードリッヒ2世がみずからの権力基盤の強化に着々と取り組んでいた頃、ローマでは教皇グレゴリウス9世が焦りを募らせていました。このままフリードリッヒを野放しにしていては、ドイツとイタリアは完全に一つの帝国として一体化してしまい、南北から挟まれたローマ教皇国は存立の危機に立たされてしまう。教皇にとってナポリ・シチリア王国と北のドイツ神聖ローマ帝国本国は、なんとしても分断させたままにしておかなければなりませんでした。

「あのイスラムかぶれが、我らを侮りおって!何か貶める手立てはないものか?」

教皇は密かに帝国諸侯と北イタリア諸都市に謀略の手を回し、再びフリードリッヒへの攻撃準備に取り掛かります。そしてそのための「道具」としてある人物を巻き込み、その事がやがてフリードリッヒとシュタウフェン家に悲劇をもたらす事になっていきました。


次回に続きます。

テーマ : 歴史
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堕ちた鷲の紋章 ・ シュタウフェン王朝の滅亡

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世がシチリアのパレルモで華やかな宮廷文化の花を咲かせていた1230年頃、その長男で後継者であるハインリッヒ7世は、父帝から共同統治者であるドイツ王として北のドイツ本国を任されていましたが、ドイツでは帝国諸侯が相変わらずそれぞれの利益と権利を取り合う状態で、国王であるハインリッヒ7世の統治の及ぶ地域は限定されており、事実上彼の地位は父帝からドイツ本国を任された「総督」に過ぎないものでした。

これは「古代ローマ帝国」を理想の国家としていた父フリードリッヒ2世が南のナポリ・シチリアを帝国の本拠地とし、ドイツその他をその「属州」の様に考え、その属州に皇帝権力に対して反乱を起こさせないためには絶えず諸侯同士を争わせて「足の引っ張り合い」をさせて置く方が良いという方針だったからですが、息子ハインリッヒ7世は父のこうしたやり方に反発し、王として全ての上に君臨する事を望んでいました。

彼は自らの王権の強化を図ろうと諸侯の領地経営に介入しますが、これは諸侯の猛反発を買い、父フリードリッヒも息子の意向より諸侯の権利を尊重して1231年に「諸侯の利益のための協約」を結んで多くの権利を諸侯に認めてしまったので、ハインリッヒは父に対して大きな不満を抱くようになります。

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上がドイツ王ハインリッヒ7世です。(1211~1242)そんな皇帝親子の行き違いにつけ入り、若いハインリッヒをそそのかしたのが、父フリードリッヒの仇敵であったローマ教皇グレゴリウス9世でした。帝国の南北分断と皇帝フリードリッヒ2世の失脚を画策していた教皇は、そのための格好の「道具」として、皇帝の最大の弱点である息子を利用しようとしたのです。

教皇はハインリッヒにこう入れ知恵します。

「そなたは一人ではない。ロンバルディアと手を組めば良いのだ。」

ロンバルディアとは北イタリアの諸都市の事で、毛織物産業と金融業で財を成した富裕な商人たちが、その豊富な財力をバックに自治権を得、かつてバルバロッサをはじめ歴代皇帝と激戦を交えた事もある皇帝もおいそれと手を出せない地域でした。教皇はこのロンバルディアにも皇帝への抵抗を促します。

「あのバルバロッサの孫フリードリッヒが再びそなたらの自由を奪いに来るぞ。」 と。


ハインリッヒは教皇の誘いにまんまと乗り、同じく同調したロンバルディアと同盟してついに1234年、父に反旗を翻しました。しかし彼の計略はあまりに稚拙で無謀でした。なぜなら彼に味方する帝国諸侯は一人もおらず、彼の軍勢はその直属の家臣からなる数百騎の手勢だけだったからです。頼みの綱のロンバルディア都市同盟も、堅固な城壁を盾にした籠城戦は得意であったものの、平地での地上戦となると話が違い、結局彼の反乱は父によってあっさりとひねり潰されてしまいました。

降伏したハインリッヒの運命は悲惨なものでした。彼は王位継承権を剥奪された上、両目を潰されてプーリアの城に幽閉されてしまったのです。そして1242年2月に別の城に護送される途中で、父の兵の監視の隙を突いて谷底に身を投げて自殺してしまいました。(享年31歳)

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上がハインリッヒの投身自殺を描いた当時の絵です。この知らせに父である皇帝フリードリッヒ2世の心は当然痛みました。しかし皇帝である彼は心を鬼にするしかなかったのです。そしてこの事件を境にシュタウフェン家は滅亡への道を歩んでいく事になります。

ハインリッヒの死後、フリードリッヒは次男コンラート4世を新たな後継者にすると、今だ敵対するロンバルディア都市同盟に対して、これを討伐するため北イタリア遠征を行います。戦いは激戦の末皇帝軍が勝利したものの、彼の前にはその後も教皇の放つ敵が次々と現れました。業を煮やした皇帝は、教皇に従う全ての者を「敵」とみなすと脅しをかけ、教皇の下に集まる聖職者たちを逮捕、投獄していきます。そんな中の1241年、最大の敵ローマ教皇グレゴリウス9世が亡くなり、一時的に教皇側に権力の空白が出来ますが、1243年に新教皇インノケンティウス4世が即位して再び皇帝との戦いが再燃します。

新教皇インノケンティウス4世は前教皇グレゴリウスに引けを取らない謀略家でした。彼はフリードリッヒの手から逃れるため、ローマから遠くフランスのリヨンに移り、ここから対皇帝戦を展開します。教皇はフリードリッヒを破門の上廃位し、さらにはフリードリッヒを「神の敵」として帝国諸侯に「十字軍」まで呼びかけて反乱を煽り立てました。

事態はシュタウフェン王家にとって悪くなる一方でした。ドイツ本国ではハインリッヒの死後ドイツ王にしたフリードリッヒの次男コンラート4世に対して対立王が次々と現れ、教皇が焚きつけた帝国諸侯の反乱も各地で起こっていました。皇帝フリードリッヒ2世はそんな状況の中で、彼にとって唯一信頼出来る直属のイスラム軍部隊を率いて残りの生涯をこれらとの戦いに費やしていきます。(それにしてもキリスト教の守護者であるはずの神聖ローマ皇帝の軍勢が異教徒のイスラムであり、その敵がキリスト教徒の教皇や諸侯なのはなんとも皮肉な事ですね。)

そしてその戦いの最中の1250年12月、早過ぎた近代人にして早熟のリベラリスト皇帝フリードリッヒ2世は、56歳でその波乱に富んだ生涯の幕を閉じます。彼の夢見た帝国の建設は、幻のまま終わりを迎えました。帝位は次男コンラート4世が継承しますが、彼はわずか4年の在位で亡くなり、シュタウフェン王朝の終焉はもはや時間の問題となっていました。

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上がシュタウフェン朝5代皇帝コンラート4世です。(1228~1254)彼の死後、その子コンラディンがシチリア王になりますが、皇帝として戴冠は出来ず、事実上彼がシュタウフェン家最後の皇帝となりました。

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そしてこの少年がシュタウフェン王家最後の人コンラディンです。(1252~1268)彼はバイエルン公の下に身を寄せていましたが、叔父たちが教皇との戦いに敗れて敗死すると、シチリア王位奪還のためイタリアに向かい、フランス王ルイ9世の末弟で、かねてから南イタリアを狙うシャルル・ダンジューと戦います。しかしまだ少年であった彼は百戦錬磨のダンジューに敗れて捕らえられ、1268年同世代の親族7人とともにナポリのマルカート広場で斬首されました。(享年わずか16歳)

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上が捕らえられ、斬首を言い渡されるコンラディンたちを描いた絵です。3歳年上の親族で、仲の良かったバーデン辺境伯フリードリッヒ1世とともにいる所で、勝利したシャルル・ダンジューは彼らを処刑する事で、シュタウフェン家の根絶やしを図ったのです。こうして初代コンラート3世以来6代130年余り続いたシュタウフェン王朝は滅亡し、皇帝の鷲の紋章は地に堕ちてしまったのです。

次回に続きます。

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大空位時代 ・ ローマ教皇と帝国諸侯の思惑

みなさんこんにちは。

1254年、神聖ローマ皇帝コンラート4世が即位してわずか4年後に26歳の若さで崩御すると、権力の空白が生まれた帝国内では帝国諸侯が次の帝位を巡って動き出し、また外においてはローマ教皇やイギリス王、フランス王などがこの機に乗じてそれぞれの勢力を伸ばそうと暗躍していました。

この間に「帝国皇帝」として戴冠するための前提条件である「ドイツ王」には候補者が乱立しますが、ローマ教皇や帝国諸侯らの足の引っ張り合いによってどれも決め手となる人物がおらず、神聖ローマ帝国は約20年に亘って帝国と言いつつも皇帝のいない時代を迎えることになります。いわゆる「大空位時代」の到来です。

先帝であるコンラート4世は、それまで5代120年以上も続いた帝国第3王朝であるシュタウフェン王朝出身でしたが、この王家は宿敵ローマ教皇との積年の対立によって次第に弱体化し、その後コンラート4世の子コンラディン王子はじめ、生き残った一族の帝位奪還のための奮闘も空しく、1268年のコンラディン王子の処刑と、彼の叔父であり、先帝コンラート4世の末弟であるエンツォの獄死によって、1272年に同家は断絶してしまいました。

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上が投獄されるエンツォです。(1220?~1572)彼はフリードリッヒ2世の私生児であり、父に似て教養も豊かな人物でした。その後先帝コンラートの異母兄弟としてサルデーニャ王を名乗りますが敗れて捕えられ、服役中に亡くなります。彼と甥のコンラディンの死で、ナポリ・シチリアに君臨したシュタウフェン王家は完全に滅亡しました。

さて残された帝国ですが、こちらは先に述べた様に教皇と帝国諸侯によってすでにシュタウフェン朝末期の数年前から対立王が次々と擁立されては消えていきます。チューリンゲン伯ラスペ、ホラント伯ウイレム(オランダ)、カスティリア王アルフォンソ10世(スペイン)、コーンウォール伯リチャード(イギリス)などです。これらの人々のうち、前者の2人は擁立後数年で亡くなり、後者の2人はそもそもドイツ諸侯ですらありませんでした。(当時の帝国諸侯にとって「皇帝」の存在がいかに「誰でも良い」ものであったか良く分かりますね。)

しかしこの中の1人であるホラント伯ウイレムという人物が、ここでささやかですが、ある意味で重要な事をしています。彼はドイツ王擁立の際に、将来自らが君臨する(予定であった)帝国にそれまで統一されていなかった名称をはっきりと付けたのです。それが「神聖ローマ帝国」でした。

後に「ドイツ国民の」という呼称が蛇足の様に付けられますが、初代皇帝オットー大帝即位以来300年の時を経て、それまで時の皇帝の方針次第で「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」などところころ名が変転していたこの国家に、この時初めて正式な名が与えられたのです。名付け親のホラント伯ウイレムは、その後不慮の事故で亡くなり忘れ去られますが、その後19世紀の帝国崩壊まで550年以上に亘ってこの国は公私共にこの名で統一される事になったのです。

さて話を戻しますが、この頃帝国内は20年に亘る皇帝不在の間に混乱が続き、諸侯同士の争いも相まって各地で略奪が横行していました。中でもその損害を最も多く被っていたのが、諸侯よりもはるかに固有の武力が弱い教会領でした。そしてそれらの教会領を統べる、時のローマ教皇グレゴリウス10世は

「このままでは我らの財源である教会領が盗賊どもや諸侯によって奪われてしまう。」

と懸念し、1272年に帝国諸侯に次の様な声明を出して一刻も早く新国王を選出する様促します。


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上が当時のローマ教皇グレゴリウス10世です。(1210~1276)彼の懸念は教会領を荒される事だけではありませんでした。この頃から西のフランス王国が力を付け始め、当時のフランス王フィリップ3世が帝位を狙って立候補して来たからです。もし彼が皇帝になれば、帝国はフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大なものになってしまいます。それはローマ教皇にとって「悪夢」以外の何物でもありませんでした。

「直ちに新国王を選出して混乱を終結されよ。さもなくば自分が新王を決定する。」

教皇にとって帝国が強大になってしまっては困るのです。帝国の領域はあくまでもドイツとその周辺部に限定し、ドイツ諸侯の中から選出された者が「ドイツ王」となり、さらにローマ教皇の手によって戴冠されてはじめて「神聖ローマ皇帝」となるというスタイルにして置かなければなりませんでした。


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上が教皇グレゴリウスが密かに恐れた当時のフランス王フィリップ3世です。(1245~1285)彼は勇敢ではありましたが単純で乗せられ易い性格で、彼の帝位立候補は、叔父であり、シュタウフェン家を滅ぼしてナポリ・シチリア王となった野心家のシャルル・ダンジュー(1227~1285)が裏で暗躍していた様です。

教皇から新国王選出の通告(というより脅し)を受けた帝国諸侯たちでしたが、今日の議会の様に全ての諸侯に国王選出の権利があったわけではありませんでした。この頃からその権利を持つ「選帝侯」と呼ばれる一部の有力諸侯たちが大きな力を持つ様になります。

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上がその「選帝侯」を描いた中世の絵です。彼らは7人で構成され、上の絵の左側にいる赤い帽子の3人の聖職者(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教)と、4人のドイツ諸侯(ザクセン公、ボヘミア王、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯)から成る言わば当時の「G7」でした。このうちマインツ大司教が筆頭とされ、名目上ではありますが「帝国大宰相」という最高官位を持っていました。

彼ら選帝侯たちはこの時代に(それ以前からですが。)帝国の混乱に乗じて特権と領地を掠め取り、のし上がっていった帝国随一の実力者たちで、以後帝国皇帝は彼らのみの選挙によって決められていくのですが、その彼らの新国王選出の判断基準は極めて利己的なものでした。

つまり彼ら選帝侯たちは、(他の諸侯もそうですが。)自分の領地で好き勝手やっていたいのです。そのためにはあまり有能で強大な皇帝を選んで即位させてはそれが出来なくなり、今までの様に甘い汁が吸えなくなります。神聖ローマ帝国に絶対君主は要らない。彼らにとって「ドイツ王」すなわち「皇帝」などは、諸侯をまとめるそこそこの力量を備えた言わば「毒にも薬にもならない。」人畜無害な人物であれば充分だったのです。

教皇の圧力でようやく新国王選出の準備に取り掛かった選帝侯たちですが、ここで困った事が起こります。彼らの目にかなう格好の人物がいないのです。これまでに擁立した人々はこの時期皆すでに亡くなっており、前王朝シュタウフェン家に連なる人物は、ローマ教皇らの絶対反対にあって実現せず、残る候補はフランス王フィリップ3世と、ボヘミア王オタカル2世でした。

このうちフランス王の方は、ドイツ諸侯で無い事を理由にあっさり否決されたので、教皇が最も恐れた「帝国の拡大」は杞憂に終わりますが、選帝侯の一人であるボヘミア王は候補から外すわけには行きませんでした。しかしこのボヘミア王オタカルは野心家でなおかつ力を持ちすぎているため、強大な皇帝を出したくない他の選帝侯たちが彼を選ぶはずはありません。

そこで新たなドイツ王として彼らが選んだのは、それまで誰も注目していなかったスイス辺境の山奥の小さな領主に過ぎないある一人の伯爵でした。その名をルドルフ・フォン・ハプスブルクといいます。そしてこの時からこのルドルフと、彼の一族であるハプスブルク家が歴史の表舞台に登場していく事になるのです。

次回に続きます。

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鷹の城の主 ・ ルドルフ1世とハプスブルク家の出現

みなさんこんにちは。

1254年のコンラート4世の死から20年近く、ドイツ王すなわち皇帝のいなかった神聖ローマ帝国でしたが、その間に帝国内外に生じた数々の混乱にたまりかねた時のローマ教皇グレゴリウス10世の新国王選出の催促によって、国王選出の権限を持つ7人の「選帝侯」たちはようやく重い腰を上げ、新たなドイツ王を選出しました。

しかし彼ら選帝侯たちが選んだのは、誰もがその結果に「仰天」する様な全く意外な人物でした。その名はルドルフ・フォン・ハプスブルク。ライン川上流、スイスのバーゼルからさらに奥地にある辺境の一領主でした。

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上が新たなドイツ王に選出されたルドルフです。(1218~1291)彼は正式にはハプスブルク伯ルドルフ3世といい、前述の様に帝国内に数多くいる「辺境伯」の一人に過ぎませんでした。この時彼は隣の領主であったバーゼル司教と領土争いの最中で、バーゼルの街を包囲し、明日にも総攻撃を仕掛ける準備をしていた所でした。

そこへ選帝侯の筆頭であるマインツ大司教から、使者としてニュルンベルク伯フリードリッヒがルドルフの陣に遣わされ、彼にドイツ王即位の決定を伝えたのです。ルドルフは彼と旧知の仲でしたが、フリードリッヒがあまりに突拍子の無い事を言い出したので、呆れたルドルフは彼に対して思わずこう言ったと伝えられています。

「人をからかうにもほどがある。そんな冗談は宴の時だけにしてもらいたい。」

そのやり取りを描いたのが上のイラストです。(さぞかし驚いた事でしょうね。情景が目に浮かぶようです。)しかしすぐにそれが事実である事を知るや、ルドルフはただちに明日の総攻撃を中止し、バーゼル司教と和睦して軍勢を引き揚げ、大急ぎで選帝侯会議の行われているフランクフルトに向かいました。もちろん国王即位のためです。

この時選帝侯たちが、ルドルフの様な辺境の裕福でもない弱小貴族を新国王に選出した理由は、前回もお話した様に自分たちの利益のために有能で強大な皇帝を即位させたくないという徹底した利己主義からでした。その結果領地も少なく、率いる兵力はかき集めても一千に満たず、質素で敬虔なカトリックである(つまり金はあまり無く、武力も強くなく、ローマ教皇と対立する心配も無い厳格なカトリック教徒である。)彼が選出されたのです。

こうして1273年9月、ハプスブルク伯ルドルフはドイツ王ルドルフ1世として即位しましたが、この人物、かなり外見に特徴のある人だった様です。痩せた長身でそれだけでも人の目を引くのですが、それ以上に人の注目を引いたのが彼のその大きな「鷲鼻」と、突き出た顎や下唇でした。(かなり強烈なインパクトのある顔の人だった様ですね。この彼の特徴的な顔立ちは、後に彼の子孫たちである歴代ハプスブルク家の人々に隔世遺伝として受け継がれていきます。)

さてこれでおよそ20年続いた神聖ローマ帝国の「大空位時代」は終わり、帝国の歴史は新たな段階に入っていくのですが、その前にここでルドルフの一族であるハプスブルク家について、彼らの起源と発祥地などをご紹介して置きましょう。

ルドルフがドイツ王に選出された時から遡る事200年ほど前、10世紀の中ごろからハプスブルク一族は、スイスのバーゼルとチューリッヒの中間に位置する地域を領地とし、そこに小さな城を築いて当家の居城としました。その城の名は「ハビヒツブルク城」といい、ドイツ語で「鷹の城」を意味します。(「鷲」ではないんですね。)そしてこの「ハビヒツブルク」が、当家の名「ハプスブルク」の由来であると云われています。

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上がハプスブルク家発祥の地である現在の「ハビヒツブルク城」の全景と城内の様子です。写真で見ると本当に小さな城であるのがお分かり頂けると思います。日本のお城でいうところの「天守閣」に相当する城の半分が現存していますが、「二の丸」とも言うべき部分は崩れて土台だけが遺構を留めています。(現在このお城はハプスブルク家発祥の地として、城内にささやかなミュージアムが作られ、それ以外はなんと結婚式場やレストラン、各種イベント会場として利用されているそうです。時代の移り変わりもここに極まれりですね。)

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上は築城当時のハビヒツブルク城の想像図です。ルドルフ1世はこの「鷹の城」の城主でした。後にヨーロッパ最大最長の王朝の創始者とされる彼は、かつてこの小さな城で寝起きしていたのです。そしてこの小さな城から「神に選ばれた一族」ハプスブルク家の人々の途方も無い物語が始まるのです。

ハプスブルク一族が領有したこの地は確かにスイスの山奥の辺境でしたが、近郊にはライン川につながる支流がいくつも流れる水上交通の要所があり、またドイツとイタリアを結ぶアルプス越えの街道にも近い、陸の交通の要所でもありました。ハプスブルク一族はこれらを行き来する人々から「通行税」などを徴収して財源とし、また十字軍遠征に失敗して留守中に領地や財産を失った騎士たちなどを召し抱えるなどして少しづつ勢力を伸ばしていった様です。

さらに彼らはザクセン家、ザリエル家、シュタウフェン家といった初期3王朝の歴代神聖ローマ皇帝たちのイタリア遠征などに同行して皇帝への忠義に励み、何度か武功を立てて皇帝から「辺境伯」の地位と、所領の安堵などを認められ、小さいながらも帝国諸侯の一員としてその末座に加わっていったのです。

しかしこの時期のハプスブルク家の歴史について、その他の詳しい事は良く分かっていません。何しろ900年も昔の事ですし、そもそも記録そのものがほとんど残っていないのです。彼らハプスブルクの名が歴史にはっきりと登場したのは、やはりこのルドルフがドイツ王として選出されて以降の事で、そのため後に当家が神聖ローマ帝国の皇帝家となってからは、彼の子孫たちはこのルドルフ1世を一族の始祖として、その後のルドルフの伝説的な大勝利や数々のエピソードを神話化し、永遠の繁栄と栄光を当家に導く守り神として崇めていきます。

さてここでもう一つ意外な事実があります。思いもかけずドイツ王になったルドルフに対して、真っ先に彼に臣下の礼を示して従ったのが、ルドルフに国王選出の知らせを届けに来た親友であるニュルンベルク伯フリードリッヒ(1220?~1297)でした。

それはごく自然に親友として、また信義に厚い騎士道精神から彼らの間で必然的なものだったと思われますが、彼は当時はルドルフとさして変わらない程度の規模の貴族でしかなかったホーエンツォレルン家と呼ばれる一族の当主でした。しかしこの一族はやがて400年後の17世紀半ばに「プロイセン王国」を興し、その王家となって後にオーストリア・ハプスブルク家と覇を競う争いを続ける事になるのです。(かつての親友同士の子孫が数百年後に仇敵になってしまうとは、歴史とは本当に残酷なものです。)

次回に続きます。

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