オーストリア大公暗殺事件 ・ 運命の世界大戦へ

みなさんこんにちは。

ヨーロッパ列強諸国が、それぞれの海外植民地やその勢力圏を守るため、利害の一致した国同士で同盟を結び、せっせと軍備を増強して激しく対立していた1910年代前半、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア・ハンガリー帝国も、否応なくその大きな枠組みの中に組み込まれていきました。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)彼はこの時すでに80歳の高齢でしたが、その在位期間は歴代皇帝で最長の60年を越え、国民からは「国父」と呼ばれるほど敬愛され、その絶大な人気と、立派な白いひげを生やした圧倒的な存在感はまさに帝国の「象徴」でした。

しかし、皇帝の晩年はその絶大な権威と帝都ウィーンの華やかさとは裏腹に、大変孤独で寂しいものでした。ハプスブルク家一族内では次々に身内の不幸が相次ぎ、帝国内では独立を求める少数民族をなんとか帝国内につなぎとめる事に苦心し、さらに帝国の外では先に述べた列強諸国による権謀術数渦巻く対立に翻弄され、それらとの長い闘いが、この老いた皇帝を地上で最も保守的で孤独な老人に変えてしまったのです。

もちろん彼も最初からそうだったのではありません。彼は18歳で即位してから、その若さで新しい国づくりを周囲に期待され、歴代皇帝たちが成しえなかった様々な改革を行って帝国を運営していきました。ハンガリーとの二重帝国の完成、立憲君主制の導入、労働者保護の立法、普通選挙法の成立など、彼の下で着々とリベラルな体制づくりが進められていったのですが、その半面で彼の統治は貴族たちと軍部に支えられる旧態依然としたものでもありました。

時はすでに20世紀、街には汽車、自動車、電話、電灯、映画などが出回り、これらの文明の利器が人々の興味を大きくそそっていましたが、皇帝はそれらに一切関心を示さず、ひたすらかたくなに王家の格式としきたりに固執しました。

こんな話があります。フランツ・ヨーゼフが帝都ウィーンの近代化のために、ウィーンを取り囲む城壁を撤去させたのはすでにお話しましたが、そのためにウィーンは一大建築ブームで好景気となります。しかしこれは典型的な「建築バブル」でした。折りしもウィーン証券取引所で株価の大暴落が起こり、一転大不況が帝国を覆います。建築中の建物も資金が無くなり、人々は造りかけの建物の建設を中止するか、外装の装飾を出来るだけ簡素にして建築費用を安く抑える様になりました。(仕方がありません。お金が無いのですから。)帝都のあちこちでそれらが急増し、やがて皇帝のいるホーフブルク王宮の目の前で建設中だったカフェまで、建物の外装の装飾の無いものが建てられました。


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上がそのカフェ「ロースハウス」です。(1910年完成)現在は銀行として使われている様です。これは当時出現した斬新な建築スタイルで、出来るだけ装飾を省き、「線」と「面」だけを強調する事で新時代を表現しようというものです。同時に費用も浮かせるので依頼する側には喜ばれました。

しかし、王宮の執務室からこれを見たフランツ・ヨーゼフはこれを大変嫌い、このカフェが見えない様にカーテンをおろして過ごしていたそうです。やがて彼はどうしても行かなければならない場合を除いて王宮には立ち寄らなくなり、晩年の大半を彼の偉大な高祖母である女帝マリア・テレジアが建てたハプスブルク家の本宮殿ともいうべき壮麗なシェーンブルン宮殿に引きこもってしまいます。

なぜ彼はこんな何の変哲も無い建物をそこまで嫌ったのでしょうか? 実はその理由はまさにこの「何の変哲も無い」という点にありました。つまり皇帝の頭では、美しい建物というものは柱の一本に至るまで彫刻をほどこし、豪華絢爛な外装で飾り立てるべきであり、ただ窓が並ぶだけのロースハウスは、彼にとってつまらない四角四面の「のっぺらぼう」にしか見えなかったのです。

そして彼の保守性は身内に対しても表れます。フランツ・ヨーゼフは皇后エリザベートとの間に4人の子がいましたが、そのうち3人はいずれも女子であり、唯一の男子であり、後継者(のはずであった)皇太子ルドルフは父帝と意見が合わず、やがて30歳の若さで愛人と拳銃自殺を遂げてしまいました。

そのため皇帝はやむなく後継者を彼の3番目の弟であるカール・ルートヴィッヒ大公の長男で、最も血縁が近い甥に当たるフランツ・フェルディナントに指名します。しかしこの帝位継承にはある「条件」がありました。それはこの帝位継承はフランツ・フェルディナント一代限りのもので、彼の子孫には帝位継承権を与えないというものです。


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上が皇帝の甥に当たるフランツ・フェルディナント大公(1863~1914)とその妻ゾフィー(1868~1914)です。

なぜ皇帝はこの様な一方的な条件を甥夫婦に突きつけたのでしょうか? それはフェルディナントの妻ゾフィーの身分に関係がありました。彼の妻ゾフィーはボヘミアの伯爵家出身ではありましたが、成長すると皇帝の従兄弟に当たるテシェン公フリードリッヒの妻イザベラの女官として仕えていました。フェルディナントは公の館に滞在している時に彼女に一目惚れして結婚するのですが、皇帝フランツ・ヨーゼフはそれが気に入らなかったのです。

「ハプスブルク皇帝家の一族がボヘミアの女官を妃にするとは何事か。」

つまり皇帝の頭では、皇帝家ハプスブルク家の者は同格の王族と結婚するのが当然であり、ゾフィーはその身分が低すぎるからその子孫を世継ぎにするのは許さんというのです。こうした皇帝の時代錯誤で保守的な価値観は、当然夫の帝位継承者フェルディナント大公も面白いはずがありません。彼は妻ゾフィーとのつながりから大の親スラヴ主義になり、半面でハンガリー人を大変嫌っていました。それはハンガリーとの二重帝国を創った伯父帝の考えに反するもので、次第に彼らは意見が衝突していく様になります。その姿は、さながらかつての皇太子ルドルフのそれと同じ状況の繰り返しでした。

「伯父上ももうお年だ。いずれ私が皇帝になれば、私のやり方で帝国を導いていくつもりだ。そのときは見ているがいい。」

大公はこう述べると、自らの考えによって行動する事が多くなっていきます。大公は帝国南部のクロアチア、スロベニアのスラヴ人に自治権を与え、ゆくゆくは同君連合の三重帝国にする事を構想していたそうです。これはバルカン半島において、オスマン・トルコの衰退により独立し、急速に勢力を拡大しつつあった南の小国セルビアに対する「盾」とするつもりであったと思われますが、しかしこの彼の構想は当然その先の標的であるセルビアにとって悪夢意外の何ものでもありませんでした。


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上は当時のヨーロッパの地図です。オーストリアとセルビアの位置がお分かりいただけると思います。

セルビアは、500年の長きに亘って続いたオスマン・トルコ帝国の支配から解放され、民族の悲願であった独立を達成してからまだ年数が浅い小国でした。セルビアはその苦い経験を踏まえ、自存自衛のために強い国づくりを目指します。その方針は、バルカン半島にセルビアを盟主とするスラヴ連合国家を建設するというものでした。その帰結として、周辺国にも勢力拡大を図ろうとしていくのですが、そんなセルビアにとって大きな脅威が国境を接する北のオーストリアでした。

セルビアにとってはハプスブルク家とオーストリア帝国も、オスマン帝国と同様に数百年続く不倶戴天の大敵だったのです。やっと独立を勝ち取ったのに、今度はオーストリアが南下して自分たちを支配しようとしている。セルビアは危機感を募らせ、そしてセルビア人の急進派によって「黒い手」なる民族主義の過激な秘密組織が結成され、オーストリアに対してテロ攻撃を画策していく様になります。

フェルディナント大公は、そんなバルカン半島の危険な情勢をどうも少し軽く見過ぎていた様です。彼はセルビアの危険な動きをもちろん知ってはいましたが、何も出来ないだろうとタカをくくっていました。そしてまさか自分自身がその標的になるだろうとは・・・。

そして運命の日は訪れます。1914年6月28日、フェルディナント大公夫妻は伯父フランツ・ヨーゼフ帝が1908年に帝国に併合したボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに軍事演習の視察に訪れました。


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上がその時の様子と事件現場の現在の写真です。当地ではもちろん厳重な警戒態勢が敷かれていましたが、所詮限界がありました。そして一行がサラエボ市内の橋を通過中に、先に述べたセルビア人過激派組織「黒い手」に所属する若者の拳銃によって大公夫妻は暗殺されてしまいます。

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そして上が犯人逮捕の瞬間を捉えた有名な写真と実際に犯行に使われた拳銃です。(赤錆びた姿に注目)

このオーストリア大公暗殺事件は今からちょうど100年前の1914年に起こりました。そしてこの事件を契機にヨーロッパはドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランスなどの連合国との間で人類史上初めての「世界大戦」が勃発する事になります。そしてそれは、それまでの戦争とは比較にならない破壊と大量殺戮による「生き地獄」となって人々の上に降りかかってくるのです。

次回に続きます。
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世界大戦勃発 ・ 皇帝の死そして帝国の死

みなさんこんにちは。

1914年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナの都市サラエヴォで起きた、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻の暗殺事件は、全ヨーロッパを震撼させる大事件となりました。この報を受けた大公の伯父である皇帝フランツ・ヨーゼフは当然の事ながらショックを受けましたが、それ以上に彼を悩ませたのが、国民の全ての階級で「セルビアを討て!」という声が激しく上がり、手が付けられなくなってしまった事です。

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この時皇帝は84歳。その長い在位中に数々の試練に直面し、もはや人生の酸いも甘いも知り尽くしていた彼は、この状況が自分の帝国にどのような影響をもたらすかを予見していました。

「このままでは戦争になる。それだけは避けなければならぬ。」

皇帝は過去に自分が経験してきた苦い戦争の経験から開戦には消極的でしたが、対セルビア強硬派である時の外相レオポルト・ベルヒトルトはそんな皇帝の思いとは逆に、7月23日にセルビアに対して10か条からなる「最後通牒」を突きつけ、48時間以内の無条件受け入れを要求します。(これに対し、セルビアは意外にも一部を除く要求の受け入れを受諾します。なぜならこの事件はセルビアが「国家の意志」として行ったものではなく、過激な民族主義グループによるテロ行為だったからです。しかし、ベルヒトルトは頑として譲りませんでした。)


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上がオーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵です。(1863~1942)彼は開戦に慎重だった皇帝を説き伏せ、強引にセルビアへの宣戦布告を主導します。(皇帝が開戦に消極的だったのは、セルビアの背後にはロシアがいたためで、セルビアに宣戦を布告すれば当然ロシアとも戦わざるを得なくなるからです。そこで外相ベルヒトルトはかねてからの密約通りドイツに助けを求め、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はオーストリアがセルビアに宣戦布告すれば、ドイツはオーストリアに味方して共に戦う事を約束します。)

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上がそのドイツ皇帝ウィルヘルム2世と当時のドイツ軍首脳部の将軍たちです。中央で足を組んで座っているのがウィルヘルム2世。その後ろには、後にドイツ敗戦後に指導者となるヒンデンブルグとルーデンドルフの姿もあります。(写真下の人物名を参照)彼の率いるドイツ帝国はすでに開戦準備は整っており、手ぐすねを引いてこれを待ち構えていました。

7月28日、オーストリアはセルビアに対して宣戦を布告し、事ここに至ってセルビアも戦う意志を決め、ロシアに対して援助を求めました。一方セルビアからの要請に基づき、ロシアは直ちに全軍に動員令を発し、これに対抗する形でドイツも大軍をロシアとの国境に集結させます。ここに4年に亘る第一次世界大戦の幕が切って落とされたのです。


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この時皇帝フランツ・ヨーゼフは一人、王宮の礼拝堂で戦争を回避出来なかった事による国民の犠牲への懺悔と帝国の勝利を神に祈りました。そう、老いた彼に出来る事はもうそれぐらいしかなかったのです。

さて、この第一次大戦の勃発はさらにイギリスとフランスも巻き込み、瞬く間に全ヨーロッパ、いや世界中に波及していきましたが、とはいえ関係各国も当初は「すぐに終わるだろう。」とかなり楽観的でした。というのは、セルビアの様な小国などたやすくオーストリアに占領されてしまうであろうし、これまでの戦争の経験から、大抵の場合は数回の大会戦の後、形成不利になった方が講和を持ち出し、その後は外交的努力で解決して速やかに兵を引き上げるのが常道だったからです。ヨーロッパにおける戦争は1871年の普仏戦争以来43年ぶりであり、戦争を知らない若い世代が若さゆえのロマンチックと騎士道精神に憧れて大勢志願し、各国の末端の若い兵士たちの間には異様な高揚気分がみなぎっていました。

「クリスマスには帰れるさ。」

若者たちは軽い気持ちで志願し、まるで冒険に出る少年の様に戦場へと出征していきました。しかし、すぐに彼らはそこで恐ろしいこの世の地獄を目の当たりにして死んでいくのです。


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上は各国の兵士たちです。1枚目は進撃するドイツ軍歩兵部隊。2枚目は同じくイギリス軍。3枚目はフランス軍です。(開戦当初のドイツ軍将兵のヘルメットは、写真を見てもお分かりの様に中世の騎士の兜の様な突起が付いています。後にこれは戦場で兵士たちには邪魔な飾りで実益が無い事と、生産の簡素化のために無くなりますが、まだこの時代のドイツの人々にはこうした中世の記憶が色濃く残っていたのでしょうね。)

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戦争は主に、フランス東部のドイツとの国境線付近で激しい戦いが繰り広げられていましたが、本テーマの主役であるオーストリア・ハンガリー帝国もドイツとの同盟に基づき、東部戦線でロシアとの激戦を繰り広げていました。(もちろん当初の目的であるセルビア攻撃も行っていますが、こちらはセルビア軍の頑強な抵抗にあって苦戦してしまいます。)

しかし開戦から1年が経とうとする1915年5月、思いもかけない事態がドイツ・オーストリア両国にふりかかります。それまで中立を表明して参戦せず、戦争の成り行きを見ていた南のイタリアが同盟を離脱、逆に連合国側に加担してオーストリアに宣戦を布告してきたのです。

しかしイタリアはかつてドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいたはずです。それなのになぜ彼らはドイツ・オーストリアを裏切って連合国に寝返ったのでしょうか?その理由は2つ考えられます。1つはこのままドイツ側に味方していてもイタリアはドイツに利用されるだけで、仮にドイツが勝利してもイタリアが得るもの(領土など)は大して期待出来ない事。2つ目はかつてイタリアがドイツ・オーストリアから数え切れない侵略を受け続けてきた長い歴史から、両国を信用出来ないという情緒的なものです。

イタリアは参戦の見返りに、連合国勝利のあかつきには現時点でオーストリア領である南チロル、トリエステなどをイタリア領とする事を要求し、イギリス・フランスの了承を得るとオーストリアに宣戦、これによりオーストリアはロシア、セルビア、イタリアに兵力を分散せざるを得ない苦しい三正面作戦を余儀なくされてしまいました。

これに対し、ドイツ・オーストリア側も反撃に転じます。まずは仲間を増やさなくてはなりません。そこで両国は1915年9月に、セルビアと仲の悪いブルガリアを新たに同盟国に引き入れる事に成功し、すでに開戦前からドイツ・オーストリア側であったさらに南のオスマン帝国も合わせてこの四カ国による「中央同盟国」が成立します。(オスマン帝国は黒海沿岸でロシア軍と戦いますが、南の中東地域ではエジプト駐留のイギリス軍の支援を受けたアラブ反乱軍との戦いに苦戦します。)


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上の1枚目が第一次大戦時の各国の勢力図で、赤色が中央同盟国。2枚目がその君主たちです。(左からドイツ皇帝ウィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オスマン皇帝メフメト5世、ブルガリア王フェルディナンド1世です。)

こうして文字通りの「世界大戦」がその後も繰り広げられていくのですが、この大戦はそれまでの戦争とは比較にならない大量殺戮兵器が使用され、それによって桁外れの死者が出た事は、歴史好きの方ならばご存知の事と思います。戦車、飛行機、毒ガス、中でも最も戦場で威力を発揮したのが機関銃です。すでにこの機関銃は、1904年の日露戦争における旅順要塞攻略戦で、わが日本軍が多大の犠牲を出していましたが、それから10年後の今次大戦においても、同様の戦闘が展開され、攻撃する側はずらりと待ち構える機関銃の前に白兵突撃を繰り返し、十字砲火の餌食となっていたずらに犠牲を増やすばかりとなっていました。


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ドイツ・フランス国境沿いの西部戦線と、ドイツ・ロシア国境沿いの東部戦線では、両軍は上の画像の様な何重にも張り巡らせた長い塹壕を掘りぬき、これが「すぐに終わる。」はずの戦争を長期化させることになります。同盟軍、連合軍双方とも攻撃前進して敵陣地を突破したくても、網の目の様に張り巡らされた塹壕で待ち構える数え切れない機関銃によって動くに動けず、東西両戦線で数百万の両軍がいつ果てるとも知れない不毛な局地戦とにらみ合いで完全な膠着状態に陥ってしまっていました。(上のドイツ兵は毒ガスに備えてガスマスクを着けていますね。今にも手投げ弾を投げようとしているという事は、敵兵がそんな近くの距離にいるのでしょう。)

そんな最中の1916年11月、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が戦争と帝国の行く末を深く憂慮しながらついに崩御します。(享年86歳)18歳の若さで即位して以来、神聖ローマ帝国時代から続く歴代皇帝で最長の68年もの在位を誇る、波乱に満ちた生涯でした。その生涯を通して常に勤勉であった彼は、風邪気味にもかかわらず死の前日まで執務をこなし、最後の言葉は側近の侍従に対してのこんな一言でした。

「明日は3時に起こしてくれ。まだ仕事が残っているんだ。」


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上が亡くなったフランツ・ヨーゼフ帝です。皇帝は王宮の執務室の横に、彼が深夜まで仕事をするために作らせた仮眠用のベッドに入るとそのまま息を引き取ったそうです。その死はそれを看取る妻も子も誰もいない、あまりにも寂しいものでした。

皇帝の死は、一向に進展の兆しが見えない戦局と戦時下の統制生活に飽いていたオーストリア国民に計り知れないショックを与えました。そして同時に彼の死によって、彼が創り出し、命懸けで守ろうとしたオーストリア・ハンガリー二重帝国も、いやハプスブルク帝国そのものが、皇帝の後を追う様にその死に向かって歩みだす事になるのです。

次回に続きます。

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世界大戦の終結 ・ 勝利をつかみ損ねたドイツ帝国

みなさんこんにちは。

オーストリア・ハンガリー二重帝国の「現人神」として68年もの長きに亘って君臨した皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の崩御は、帝国の運命を決定付けました。なぜなら彼の死によって、オーストリア・ハンガリー帝国はさながら枯れかけた大樹が音を立てて倒れる様に、崩壊と滅亡へ一気に突き進んで行ったからです。

先帝フランツ・ヨーゼフの後を継いで皇帝となったのは、先帝の三番目の弟であるカール・ルートヴィッヒ大公の孫にあたるカール1世が即位しましたが、帝国の内外では何といっても先帝のイメージが強烈で、新帝カール1世の存在は当初から影が薄く、頼りないものでした。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国4代皇帝にして最後の皇帝となるカール1世です。(1887~1922)彼は早くから軍人の道を進み、陸軍少将にまで昇進しますが、大伯父である先帝の長男ルドルフ皇太子の自殺と、それを受けて次の帝位継承者となった伯父に当たるフェルディナント大公の暗殺によって29歳で皇帝となりました。しかし運命のいたずらは、ハプスブルク皇帝家の一族とはいえ本来なら一皇族として平穏な人生を終えるはずだったこの若者に、あまりにも重いものを背負わせる事になり、それが彼の人生を大きく狂わせてしまう事になります。

カール1世が即位した当時、ヨーロッパは第一次世界大戦の真っ最中でした。しかし、戦局はドイツ・オーストリアをはじめとする同盟軍と、イギリス・フランスなどの連合軍が、塹壕と鉄条網を張り巡らせた数百キロにも及ぶ戦線を築き、双方ともこれを突破しようにも待ち構える無数の機関銃によって身動きがとれず、全くの膠着状態に陥っていつ果てるとも知れない長期戦が延々と続いていました。


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上の1枚目は塹壕で戦闘を行うドイツ軍で、2枚目が迎え撃つイギリス軍です。やがてこの状況を打開すべく両陣営で次々と新兵器が投入されていきます。その代表が戦車と毒ガスです。

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上がイギリス軍が開発した世界初の戦車「マーク1型」です。(戦車といっても、ずいぶん不恰好ですね。今日の戦車の様な大きな砲塔が無く、側面に申し訳程度にそれらしき物があるのみです。しかしこの戦車が作られた目的は、何重にも張り巡らされた塹壕による敵の防衛線を突破し、その開いた穴から大軍をなだれ込ませて一気に敵陣を総崩れにさせる事だったので、これで充分だったのです。そして英語で戦車を「タンク」と呼ぶのは、ドイツのスパイを欺くために、「これは水を入れたタンクだ」と言ってごまかした逸話は有名ですね。)

また、ドイツ軍は敵に多大な人的損害を与えるために、これも世界初の毒ガスを使用しました。


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上がドイツ軍による毒ガス攻撃の様子です。下の写真は軍用犬もガスマスクをつけていますね。

これらはすぐに両軍によってマネされ、応酬の連鎖が繰り返されるのですが、結局それでも戦局を変える事は出来ませんでした。(その理由は戦車作戦も、毒ガス作戦もその効果は一時的で、仮に戦線を突破出来ても後方にひかえる敵の大軍によって撃破され、すぐに退却する羽目になってしまうからでした。)

そんな折、ようやく大戦の流れを変える大きな事件がはるか東で発生します。1917年2月、連合国の一員であったロシア帝国内で革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位して300年続いたロマノフ王朝が倒れたのです。そして新たに成立したソヴィエトの指導者レーニンは、革命による国内の混乱の収拾のために交戦中のドイツと講和条約を結ぼうと画策。結局ドイツ側にフィンランド、バルト3国、ウクライナなどの広大な領土割譲と、多額の賠償金の要求を受け入れて両国の間で講和が成立し、ロシアは戦争から手を引いてしまいました。(この条約は後のドイツ敗戦によって破棄されたので、ソヴィエトはこれらの領土を取り返します。)


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上がロシア革命で人々の前で演説するウラジーミル・レーニンです。(1870~1924)個人的な感想ですが、今日のロシアという国の悲劇はこの人から始まったといえるのではないでしょうか?

さて、これに勢いづいたのはドイツです。なぜならこれまでロシア国境の東部戦線に割いていた兵力を、イギリス・フランスとの西部戦線に投入出来るからです。ドイツ軍は一気に戦争の決着をつけるべく、西部戦線に大軍を集結させ始めます。そして同時にこれは、強力なドイツ軍との戦いに疲れ果てていたイギリス・フランス連合軍にとって、大きな危機でもありました。しかしここでまたも状況が変わります。1917年4月、それまでヨーロッパの戦争には中立の姿勢を通していたアメリカが政策を大転換し、連合国側に加わって参戦してきたのです。

学生時代に世界史で教わった話では、大戦中にドイツの潜水艦Uボートによって、イギリスの豪華客船「ルシタニア号」が撃沈され、多くのアメリカ人が犠牲になった事が参戦の原因と言われましたが、それは参戦のほんの一因に過ぎず、史実はドイツがアメリカの南のメキシコに、ドイツに味方してアメリカに攻め込めば、アメリカ西部をくれてやるとメキシコ政府に謀略の手を回した事が、大きな原因であった様です。(もちろんドイツによる、無制限潜水艦作戦も参戦の理由ですが。)

焦ったのはドイツです。アメリカが出てくれば、ドイツはじめ中央同盟国の敗北は時間の問題です。一刻も早く決着をつけなければなりません。しかし当時のドイツ軍司令部は状況を軽く見すぎていました。

「アメリカが参戦してくるといっても、戦争準備には時間がかかる。イギリスとフランスはわが軍との戦いに釘付けで余裕は無い。それまでに充分に戦力を蓄え、決着を着ければ良いのだ。」


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上の1枚目は当時のドイツ軍の最高首脳である参謀総長ヒンデンブルク元帥(左)と参謀次長ルーデンドルフ将軍(右)で、2枚目は彼らから戦局の報告を受けるドイツ皇帝ウィルヘルム2世(中央)です。第一次大戦のドイツ軍の戦争指導はほとんどこの2人のコンビによって行われたものといえるでしょう。そして開戦の張本人であるドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ベルリンの宮殿でただ彼らから戦況の報告を受けるだけのお飾りの存在になっていました。(その理由は、彼は皇帝として軍の統帥権は持っていたものの、実際の軍事作戦については何も分からない全くの素人であったからです。彼に出来た事は、稀に前線の兵士たちや負傷兵にねぎらいの言葉をかけるか、戦功のあった将軍に勲章を授ける程度の事でした。)

実はドイツ軍も勝利のためには時間稼ぎが必要でした。ロシアとの東部戦線に割いていた兵力を西部戦線に回せる様になったといっても、兵力を移動させるだけでは戦争にはなりません。充分な武器、弾薬の蓄積が必要です。ドイツ軍司令部は、アメリカ国内に忍び込ませていたスパイたちからの報告により、アメリカが戦争準備を整えてヨーロッパに軍を送り込める態勢が整うのは1918年夏以降であると分析していました。つまりまだ1年以上あるわけです。

それまでは西部戦線で現態勢を維持し、イギリスとフランスを油断させ、その間にドイツ国内の軍需工場をフル稼働させて出来るだけ武器、弾薬を蓄積し、時が来たら突如大奇襲攻撃をかけて一気に戦争を終わらせる計画でした。

そして1918年3月、その時が訪れます。ドイツ軍はルーデンドルフ将軍指揮の下、なんと動員兵力192個師団(約250万)の大軍をもって大攻勢に出ました。「カイザーシュラハト」(皇帝の戦い)と呼ばれる大作戦です。

これに対し、連合軍も173個師団(およそ220万)の兵力をもって迎え撃ちますが、それまで塹壕の中で息を潜めていたイギリス・フランス連合軍はこのドイツの大攻勢に耐え切れず次々に戦線を後退させ、ドイツ軍はパリまで120キロの地点まで進撃します。連合軍は防戦一方で、もはやパリの陥落も時間の問題でした。

「パリを落とせばフランスは降伏する。そしてイギリス軍もドーバー海峡に追い詰める。孤立したイギリスは講和を求めて来るだろう。そうすればアメリカはヨーロッパに兵を送る理由が無くなる。好き好んで多くの兵の犠牲と莫大な戦費がかかる戦争をしようとは思わないからな。」

ルーデンドルフはそう考えていました。そしてこの段階では、情勢はドイツ軍の圧倒的優勢で進んでいました。ドイツ本国では、皇帝ウィルヘルム2世はじめ、多くの国民がドイツ勝利を確信していたのです。しかしまたしても思わぬ事態が発生しました。それまで快進撃を続けていたドイツ軍の進撃が全ての戦線で止まってしまったのです。

なぜドイツ軍の進撃が止まってしまったのでしょうか? その理由は実はとても単純なものでした。簡単に言えば、弾が無くなってしまったからです。


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上の画像はこの作戦でドイツ軍が撃ちまくった砲弾の空薬莢の山です。ドイツ軍戦闘部隊は砲兵隊の充分な援護射撃によって連合軍を撃破していったのですが、ここに来てそれを支える砲兵部隊の多くで弾薬切れが続出し、またドイツ軍の進撃があまりに早すぎたために全ての戦線に弾薬の補給が追いつかず、ドイツ軍は進撃を停止せざるを得なくなってしまいました。

そしてそうこうしている内に、ついにドイツの最も恐れていた事態が起こります。作戦開始から2ヵ月後の1918年5月、ようやく戦争準備を整えたアメリカがヨーロッパに大軍を送り込んで来たのです。それはドイツの予想よりはるかに早いものでした。

戦局は同盟軍優勢から一気に連合軍優勢に大転換します。同年8月、アメリカという強力な味方を得たイギリス・フランス連合軍はドイツ軍に対して大反攻作戦を開始。アメリカは毎月30万以上の兵力をヨーロッパに派遣し、最終的にドイツ降伏まで200万以上の大軍で攻め立て、さらに圧倒的な物量でドイツを追い立てます。これに対し、すでに人的、物的に国力を使い果たしていたドイツは後退を始め、以後防戦一方になります。

そして1918年11月3日、ドイツ北部キール軍港で、もはや敗戦は必至とみたドイツ海軍の水兵たち約1千名が反乱を起こします。やがて彼らの勢力は、長い戦争に疲れ果てていた大勢の市民も参加してたちまち4万に膨れ上がり、このニュースがドイツ中に流れると全国で帝政打倒の革命が勃発。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位してホーエンツォレルン王朝は倒れ、彼は持てるだけの財宝と共にオランダに亡命してしまいました。

事ここに至って1918年11月11日、ドイツは連合国との間で休戦協定に調印。一切の戦闘行為は停止され、ここに4年3ヶ月続いた悪夢の第一次世界大戦は幕を閉じるのです。

次回に続きます。

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翼の折れた双頭の鷲 ・ その後のハプスブルク家

みなさんこんにちは。

1918年秋、人類が引き起こした最初の地球規模の大戦争である第一次世界大戦は、ドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランスをはじめとする連合国の4年に亘る熾烈な戦いの末、ようやく終盤を迎えようとしていました。

戦局は、当初同盟国側であったイタリアの連合国への寝返りや、またこれも最初は連合国側であったロシアの革命勃発による一方的な戦争離脱によって二転三転、そして最終的に中立を守っていたアメリカの連合国への参戦という大番狂わせによって、ドイツをはじめとする同盟国側の敗北という形で大勢が決していました。

この同盟国側とは、ドイツをその筆頭として、オーストリア・ハンガリー、オスマン・トルコ、ブルガリアの4カ国からなるもので、「中央同盟国」とよばれていたものですが、この時期この4カ国はそれぞれの抱える事情から、もはや不可能となった「勝利」よりも、「敗北」を甘受してでも国家を生き残らせるため、戦争終結へと大きくその方針を転換させていました。

すでに1918年9月末、中央同盟国の中で最も小国であったブルガリアが、連合国との間でテッサロニキ休戦協定を結んで同盟から離脱、さらに1ヵ月後の10月末には、南のオスマン帝国がイギリスなどの連合国との間でムドロス休戦協定に調印して戦闘を停止、中東・アラブ戦線も終結します。こうして中央同盟国は完全に崩壊し、残るはドイツとオーストリアだけになってしまいます。

そして同年11月初め、同盟の首魁であるドイツで帝政打倒の革命が発生、皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命してしまい、もはや全ての戦線で総崩れとなっていたドイツ帝国軍司令部は11月11日、ついに連合国との間に休戦協定を結び、戦死者1千万、民間人の死者1千万、負傷者2200万という膨大な犠牲者を生み出した第一次世界大戦はここに幕を閉じる事になりました。


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上がフランス、コンピエーニュの森で行われたドイツと連合国間の休戦協定調印式の様子です。ちなみにここで使われている「休戦協定」というのは、戦勝国が敗戦国に対し、国際条約で認められた一部を除いて完全な服従を要求する「無条件降伏」ではなく、交渉の進展次第ではいつでも戦闘を再開し、戦争を続行する文字通りの「休戦」という建前でしたが、現実にはもはやドイツにその余力は無く、事実上の「降伏」に近いものでした。

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上は休戦協定調印によって停戦し、タバコに火を付け合うドイツ兵とイギリス兵です。(泥と埃にまみれ、擦り切れて薄汚れたボロボロの軍服姿のかつての敵同士は、一服しながら何を語りあったのでしょうね。)

そして同じ頃、このテーマの主役であるハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国はどうなっていたのでしょうか?

1918年のこの時期、ドイツとともに、中央同盟国の中核を担っていたオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝は即位から2年足らずのカール1世という人物でした。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国4代皇帝カール1世です。(1887~1922)

しかし、彼が皇帝となったのは大戦が始まって膠着状態になっていた1916年の終わりであり、そもそもこの戦争自体は彼が始めたものではなく、彼の大伯父である先帝フランツ・ヨーゼフ1世から引き継いだものでした。

もともと軍人出身であった彼は、皇帝となった時点で早々に同盟国側の敗北を悟り、密かに妻である皇妃ツィタの兄弟のコネクションを通じてフランスとの単独講和に動き出します。(残念ながらこの作戦は、ドイツ・オーストリア間の離反を狙った方が得策と判断したフランス側の裏切りによって暴露されてしまい、これを知ったドイツの信用を失ってしまいました。)

そして迎えた1918年、同盟国ドイツの乾坤一擲の大反攻作戦は失敗し、上で述べた様にブルガリア、トルコなどの同盟離反によって各戦線は崩壊していきます。そしてこれまで鳴りを潜めていた帝国内の他の民族(チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドなど)が一斉に独立を宣言、帝国自体も崩壊していきました。

もうカール帝にこの激流の様な状況の変化を止める事は出来ませんでした。11月3日、彼は交戦していたイタリアとの間でヴィラ・ジュスティ休戦協定を結んで戦争から手を引き、シェーンブルン宮殿において自らの「退位」とハプスブルク家による国事不関与を宣言すると、皇帝一家をはじめ主だったハプスブルク家の一族は宮殿を去りました。こうして初代ルドルフ1世以来600年余り続いたハプスブルク家によるオーストリア支配は終焉を迎え、オーストリア・ハンガリー帝国は滅亡しました。そして後には共和制の臨時政府が樹立され、新生オーストリア共和国が誕生したのです。

さて、情勢の激変によって退位したカール1世はじめ、ハプスブルク家の人々はその後どうなったのでしょうか?

皇帝、いや「元皇帝」のカール1世とその一家は、大戦後スイスに亡命しますが、カールは「復権」を諦めてはいませんでした。彼はかつて自分が「ハンガリー王」も兼ねていた事からハンガリー国王に復帰し、そこからオーストリア・ハンガリー帝国を復活させようと目論んでいたのです。彼はその実現のため1921年にハンガリーに現れます。

しかし、当時のハンガリーの指導者ホルティ・ミクローシュをはじめ多くのハンガリー人たちは、この彼の動きを認めず、また帝国崩壊後に生まれたチェコ、ユーゴスラビアなどの周辺国も反対し、それどころかこれらの国々は、

「カールをハンガリー王にすればハンガリーに攻め込む。」

とまで言い放って強く牽制します。理由は簡単です。これを認めればハプスブルク家が復活し、つまり彼らにとって忌まわしい旧勢力によってせっかく手にした自由と独立が、再び奪われてしまう事になりかねなかったからです。


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上が当時のハンガリー王国執政であったホルティ・ミクローシュです。(1868~1957)彼は元はオーストリア・ハンガリー帝国海軍中将で、大戦中はアドリア海と地中海において、イギリス、フランス、イタリア艦隊を相手にはるかに少ない艦艇で互角の戦いを展開した名提督でした。その名声と人気から、戦後は母国ハンガリーで執政(首相に相当)に推挙されて国政を担います。彼自身はハプスブルク家に忠義を感じていましたが、それは個人的な問題であり、ハンガリー国家としては、長いハプスブルク家の支配に耐え忍んできた国民感情から、カールを国王にする事そのものが不可能でした。(そのためハンガリーは国王不在のまま「王国」として独立します。理由は東のソヴィエトの共産主義が国内にはびこるのを防ぐため、共産主義と最も対極的である君主国にして置く必要があったからでした。)

こうしてカール1世のハプスブルク家復権の夢は潰え去り、彼は空しくスイスに戻ります。そしてこのハプスブルクという名の翼の折れた双頭の鷲は、それから二度と再び栄光に輝く大空へ飛び立つ事は出来ませんでした。

困難と不幸は重なるもの、それが世の中というものです。さらなる苦難がカールに降りかかります。なぜならこの彼のハンガリーでの動きが、中立国スイスをも怒らせる事になってしまい、カール一家は国境で足止めされてしまったからです。(もともとスイスもハプスブルク家と戦い続けてきた長い歴史がありますからね。)スイス政府はカール一家のスイス入国を許さず、やむなく一家は自分たちを受け入れてくれる他の中立国を探し、やっとポルトガル政府に入国を許され、同国に亡命しました。(彼らがポルトガルに亡命したのは、皇妃ツィタの母が旧ポルトガル王家ブラガンサ家の出身であったからです。)


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上が亡命したカール1世一家です。写真には2人の子しか写っていませんが、彼は皇妃ツィタとの間に5男3女8人の子に恵まれました。

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上が皇帝一家が亡命したポルトガル領マデイラ諸島とその位置です。(人口約25万)写真で見ると、温暖で風光明媚な美しい島ですが、その位置は地図をご覧になればお分かりの様に、彼らの故国オーストリアからはるか離れた大西洋の沖に浮ぶ絶海の孤島でした。(それにしても、かつて「神に選ばれた一族」としてヨーロッパはおろか世界に君臨した名門王家がこんな地の果てにまで追いやられてしまうとは、歴史とはつくづく恐ろしいものです。)

そしてこの地が、オーストリア・ハンガリー帝国の「ラストエンペラー」であるカール1世最期の地となります。彼は皇帝となってからの数々の苦労によってその寿命を縮めてしまったのか、ポルトガルへの亡命から1年後の1922年4月に肺炎によって亡くなりました。(享年34歳)

カール帝の死後、残された皇妃ツィタはしばらくはマデイラに滞在していましたが、夫の葬儀や雑事が一段落すると、やがて幼い子供たちを連れてヨーロッパ各国を転々とする様になります。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇妃ツィタ・ブルボン・パルマです。(1892~1989)彼女はその名の通りフランス革命で滅んだブルボン王朝の流れを組むパルマ公家からハプスブルク家に嫁ぎ、王侯貴族特有の選民意識を持っていました。それゆえ亡き夫カール1世よりはるかにプライドが高く、ハプスブルク王朝の存続を当然の事と思っており、いつの日かハプスブルク家に再び君主の座が戻ってくると亡くなるまで信じて疑いませんでした。(先に述べたカール1世のハンガリー王への復帰計画も、皇妃ツィタの強い後押しで進められたものです。)

彼女は、かつて大帝国の皇后として何不自由の無かった豪華絢爛な生活から一転、8人もの子供たちを抱えてその生活は大変苦しかった様です。しかし意志の強い彼女は、「栄光あるハプスブルク家最後の皇后」という間違う事なき自分の身分を武器としてしたたかにヨーロッパ社交界を渡り歩いていきます。その彼女を影に日向に援助したのは、かつて全ヨーロッパに散らばっていたハプスブルク家の血を引く一族でした。そうした助力の支えもあり、8人の子供たちを立派に育て上げた彼女は、東西冷戦終結の年である1989年、92歳の長寿を全うして亡くなります。

それから・・・時は移ろい、月日は流れ、ヨーロッパの歴史はさらに激しく変化していきます。ヒトラーの出現、ナチス・ドイツのオーストリア併合、そして第二次世界大戦、再び繰り返されたさらにひどい悪夢の大戦、その後の40年以上続く東西冷戦。激動する時代のうねりの中で、それにつれて人々の間でも、いつしかハプスブルク家とその長い歴史については記憶の片隅に深く沈みこんでいきました。

しかし、このハプスブルクという名の双頭の鷲は、帝国滅亡によって人々の記憶にわずかに残るだけの存在になっても、強くたくましく生き続けていました。

最後の皇妃ツィタが育て上げた8人の子供たちのうち5人の息子たちは、成長してからもハプスブルク家の正等な末裔としてそれぞれの立場で活動し、また多くの子孫を残してその誇りと伝統を未来へとつないでいたのです。

その筆頭が最後の皇帝カール1世の長男であり、同時に最後の皇太子でもあったオットー・フォン・ハプスブルク氏です。


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上が近年までハプスブルク家の当主であったオットー・フォン・ハプスブルク氏です。(1912~2011)彼は東西冷戦後に出来たヨーロッパ連合(欧州連合)の議員を長年務め、彼が唱えた先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢が、中世的な帝国的思想であると非難される事もありましたが、欧州連合による欧州統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目されています。

残念ながら彼は2011年に98歳の高齢で亡くなりましたが、彼も、他の4人の弟たちもオーストリア皇帝としての帝位請求権は頑として捨てる事はありませんでした。(それゆえ現在でも彼らハプスブルク一族はオーストリアへの入国が禁止されています。)

現在このハプスブルク家の当主は、オットー氏の長男カール氏が引き継ぎ、父がその成立に大きく貢献してきた欧州連合議会の議員を兼ね、また名目上ですが「オーストリア皇帝家並びにハンガリー王」の正当な権利者となっています。


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上が現ハプスブルク家当主であるカール・フォン・ハプスブルク氏です。(1961~)その隣の少年が彼の長男フェルディナント(1997~)で、ハプスブルク家の伝統はやがて彼に受け継がれていくでしょう。彼ら親子は他にも、その姻戚関係から順位は遠いものの、スペイン、ベルギー、ルクセンブルクなどの各国王家の王位継承権を持っており、これらの王家で後継者が絶える事になれば、再び君主として復権する可能性を秘めているのです。

彼らハプスブルク家が君臨した帝国はとうに滅び去り、今日のヨーロッパにおいて、かつての様な絢爛豪華な王朝が再興される事はありえないでしょう。しかしハプスブルク家がヨーロッパ中に広めた「一致団結」の思想は、長く分裂して互いに争ってきたヨーロッパ諸国の歴史に初めて民族、宗教、国境の垣根を取り払い、全ヨーロッパを一つの国家として統一するという途方もない夢を実現させ、今まさにそれが着実に進行しています。これはヨーロッパの人々が自分たちに課した壮大な実験でもあり、その動静を今だに分裂と争いが続く全世界が注目しています。しかし、彼らはこの実験を見事に成功させ、繰り返されてきた戦争によるものではない統一されたヨーロッパという理想の新国家が誕生する日も、そう遠い事ではないものと思います。

駆け足ではありましたが、ヨーロッパに640年に亘って君臨した名門王朝ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国についてのお話はここで筆を置きたいと思いますが、いかがだったでしょうか?(毎度の事ながら自分の起承転結まとまりの無いヘタクソな駄文で、こんなブログを読んで頂いた方には申し訳ありません。汗)

続きものの長編が続いたので、次回から少し趣きを変えて一話完結の短編ものでも書こうかと思っているので、(テーマは知られざる「世界のびっくり兵器」についてで、ただいまネタ探し中です。)こんなブログでも目に留めて頂いたら、飲み物でも飲みながら暇つぶしにお立ち寄りください。(笑)

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