オーストリア・ハンガリー帝国成立 ・ 皇帝の帝都大改造計画

みなさんこんにちは。

1859年のイタリア統一戦争で北イタリアを失い、さらに1866年のプロイセンとの戦争(普墺戦争)で、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの巧みな戦略によりわずか7週間で敗れた事は、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国に深刻なダメージを与えていました。なぜならそれによりこの帝国の最大の特徴であり、また弱点でもある民族問題が再び表面化してしまったからです。


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上が30代半ばのオーストリア帝国3代皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)

当時のオーストリア帝国は主な民族だけで10を数える多民族国家でした。その中で最大の民族は皇帝家ハプスブルク家を頂点とするドイツ人で、帝国の支配階級の筆頭を成していましたが、その数は帝国全人口約5千万の4分の1に満たないものでした。(下に当時のオーストリア帝国の人口構成を載せますので参考にして下さい。但し、1910年の数字なので、少し時代が後になってしまいますが・・・汗)

ドイツ人・・・・・・・・・・・・・1200万人 (23.9%)
ハンガリー人・・・・・・・・・・・1010万人 (20.2%)
チェコ人・スロバキア人・・・・・・ 850万人 (16.4%)  
クロアチア人・セルビア人・・・・・ 520万人 (10.3%)
ポーランド人・・・・・・・・・・・ 500万人 (10.0%)
ウクライナ人・・・・・・・・・・・ 400万人 ( 7.9%)
ルーマニア人・・・・・・・・・・・ 320万人 ( 6.4%)
スロベニア人・・・・・・・・・・・ 130万人 ( 2.6%)
イタリア人・・・・・・・・・・・・ 100万人 ( 2.0%)
合計・・・・・・・・・・・・・・・5030万人 (99.7%)


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上の地図は帝国内の各民族の居住地域を表したものです。赤がドイツ人、緑がハンガリー人、青がチェコ人などとなっています。

このオーストリア帝国は上に載せた多くの民族と、様々な種類の領土で形成された複雑な集合国家でした。まず、ハプスブルク家の「世襲領」であるオーストリアとその周辺、さらにボヘミア、ハンガリー、ダルマチアなどの「王国」、さらに旧神聖ローマ帝国時代から続く「大公国」「公国」「辺境伯領」などがあり、皇帝フランツ・ヨーゼフは、オーストリア皇帝の他に、これらの王、大公、公、辺境伯などの称号も兼ねていたのです。

そして多民族国家オーストリア帝国を構成する各民族のうち、とりわけ民族独立運動が活発で、ドイツ人の次に多い民族が、上の数字をご覧いただければお分かりの様に1千万の人口を擁するハンガリー人でした。

ハンガリーといえば、かつてフランツ・ヨーゼフが皇帝に即位して早々に激しい独立運動を起こし、彼が行った徹底的な武力弾圧により一度は鎮圧されたものの、ハンガリー人たちの心に深く根付いた独立への思いは消えるどころかさらに強くなり、ついに1853年には、そうした一ハンガリー人の暴漢によって皇帝暗殺未遂事件が起こるほどになっていました。

皇帝フランツ・ヨーゼフは、そうした帝国の抱える情勢に鑑みて、1867年ついに一大決定をします。それはハンガリーに完全な内政自治権を与え、オーストリアと同権の君主国とするというものです。ハンガリー国王は皇帝フランツ・ヨーゼフが兼ねますが、両国は皇帝の下にそれぞれ独自の内閣と議会を持ち、外交、軍事、財政の三分野においてのみ両国の同数の議員で構成される代表によって協議し、それらを除く他の全てにおいては、ハンガリー人たちの自由意志で決める事を許すものでした。

こうして1867年、「オーストリア・ハンガリー帝国」が成立しました。いわゆる二重帝国です。


しかし、皇帝はなぜハンガリーに対してだけこの様な優遇した特権を与えたのでしょうか?それは下の地図をご覧になれば多少理解していただけると思われます。

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上の図の緑の部分が帝国領土におけるハンガリーの占める割合です。いかにハンガリーの存在が大きいかお分かりいただけると思います。北イタリアを失い、プロイセンに敗れてかつてハプスブルク家の「庭」であったドイツからも締め出され、かろうじて「主屋」のオーストリアだけになってしまった(といっても今だ広大な領土を持っていますが。)帝国の維持のためには、ドイツ人に次ぐ勢力のハンガリー人の協力無しでは立ち行かなくなっていたのです。

そこで皇帝はハンガリーとの「アウスグライヒ」(ドイツ語で「和解」とか「均衡」という意味だそうです。)を成立させる必要に迫られたのでした。

しかし、長年の悲願であった独立がほぼ達成され、大いにハンガリー人が喜んだその裏で、帝国内の他の民族は大きな不満を抱く様になってしまいます。中でも帝国内で第3位の勢力を擁するボヘミア人(チェコ・スロバキア人)は自分たちにもハンガリーと同等の権利を与えて欲しいと、「三重帝国」を皇帝に要求しました。(この要求は、さすがに「切りが無い。」事から皇帝が拒否した事に加え、帝国の支配階級に君臨するドイツ・ハンガリー人たちの妨害で実現しませんでした。)

ともあれ帝国の安定のため、最大の障害であったハンガリー問題を一応解決させたフランツ・ヨーゼフは、次の言葉を掲げて各民族の結束を促します。

「ウィリヴス・ウニティス」(一致団結して。)

それまでハプスブルク家の皇帝たちは、全ての民族の上に「支配者」として君臨するという考えに固執していました。つまり「神に選ばれた一族」であるハプスブルク家の下に、みんな「従え」というものでした。しかしフランツ・ヨーゼフはこうした古い独りよがりな思考を捨て、歴代皇帝として初めて、各民族同士で力を合わせ、帝国を運営して行こうと呼びかけたのです。

そして彼は、自らが創り出した新国家であるオーストリア・ハンガリー帝国の輝かしい未来のため、更なる大事業を計画し、実行に移します。それは帝国の都ウィーンの大改造です。


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上の画像は1枚目がまだ城壁に囲まれていた頃のウィーン中心部を上から見た図で、2枚目はその模型です。当時帝都ウィーンは、上の様に中世以来、オスマン・トルコをはじめとする異教徒からの防波堤として築かれた堅牢な城壁で囲まれた城塞都市でした。しかし大砲の出現によって城壁というものの存在価値がほぼ無くなり、(大砲の進歩により射程距離が伸びたため、砲弾が城壁を飛び越えて市内に着弾してしまいますからね。)また人口の増加によってウィーンはひどい住宅難と交通渋滞に見舞われ、これらが経済の活性化を大きく阻害していました。(市内の中心部に入るには限られた数の狭い城門をくぐらなくてはならず、城門の出入り口でたくさんの馬車が大渋滞になっている所を想像してください。)

そこでフランツ・ヨーゼフは、もはや無用の長物であるこれらの城壁を全て撤去し、その跡地に渋滞にならない大きくて広い環状道路と様々な建物を建設し、ウィーンを新たな帝国にふさわしい帝都に造り変える事を決意したのです。工事はまずウィーン市内を取り囲む城壁の撤去と周囲の堀の埋め立てから開始され、すでにイタリア統一戦争の前年の1857年から始められていましたが、城壁が非常に堅牢だったので、これの撤去にはかなりの時間がかかってしまった様です。


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上の画像の1枚目が城壁の撤去の様子です。そして苦労して撤去された跡地には、2枚目と3枚目の画像の様に市内をぐるりと一周する広くて大きな環状道路(リングシュトラーゼ)が造られ、そのリング通りに面して、巨大な建築物が次々と建設されていきました。(ちなみに2枚目の建物は1869年完成のウィーン国立歌劇場で、音楽の都ウィーンに無くてはならないものですね。3枚目は1883年完成の帝国議会議事堂で、現在も国会議事堂として使われています。)

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上の3枚も同様にリング通りに面して建設された建物です。1枚目が高名な自然科学マニアであったフランツ・ヨーゼフの曾祖母マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの収集した膨大なコレクションを収蔵した自然史博物館で、1889年に完成しました。また2枚目は1891年に、同じ敷地に相対して建設された美術史美術館で、これもハプスブルク家が数百年に亘って収集した膨大な絵画、彫刻などの芸術作品が収蔵されています。(この2つの建物はなぜかほとんど同じデザインで建てられています。設計者が同じ人だったんでしょうか?それとも費用の節約のためでしょうか?)
3枚目は1883年完成のウィーン市役所です。これ以外にも数多くの公共建築物や貴族、富裕層などの邸宅が建てられ、ウィーンはこれらの公共事業のために全般的に好景気だったそうです。

皇帝フランツ・ヨーゼフのこうした一連の大事業により、それまで中世さながらのいかめしい城塞都市だったウイーンは、全く新しい近代的で開放感のある都に変貌しました。そしてウィーンには数多くの文化人、知識人たちが集まり、彼らによって文化の薫り高いウィーンの世紀末が形成されていく事になります。そしてそのための大きな「器」というか、方向性の道筋を造ったのは、なんといっても皇帝フランツ・ヨーゼフ1世その人であったのです。

次回に続きます。
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ハプスブルク家の黄昏 ・ 次々に逝く皇帝家の人々

みなさんこんにちは。

オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、帝国に再び栄光と繁栄をもたらすために帝都ウィーンの城壁を取り払い、「新しい夢の都」の建設に情熱を注いでいた19世紀後半は、同時にハプスブルク家にとって度重なる不幸が相次ぐ暗い時代でもありました。

なぜならこの時代、皇帝家の重要人物が暗殺、自殺、銃殺など、およそこの世で最も高貴な家柄の人々にあるまじき形で次々と不慮の死を遂げ、かつて多産で代々親子兄弟みな仲の良いにぎやかな一族であった当家に、あり余る富と権威を背景とした見かけの豪華絢爛さの裏で、不和と寂しさ、そして帝国の将来への大きな不安という得体の知れない不気味なものが、重くのしかかっていく様になっていったからです。

今回はその辺りのお話です。

帝国皇帝フランツ・ヨーゼフは、多くの民族を束ねる帝国を運営する自らを支えてくれる皇妃を求めていました。そんな彼が23歳の時に出合ったのが7歳年下のバイエルン王女、エリザベートでした。


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上が若き日の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)と、皇妃エリザベートです。(1837~1898)もともと彼は、母ゾフィー大公妃の強い薦めでオーストリアの隣国バイエルン王国の王家ヴィッテルスバッハ家との政略結婚のため、エリザベートの姉ヘレーネと「お見合い」をする予定だったのですが、彼はその妹であるエリザベートに一目惚れし、彼女に求婚したのです。

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皇妃エリザベートについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。現在国内で知られているエリザベート個人に限定して紹介した本ではこの3冊が最も良いでしょう。3冊ともカラー写真とイラストが豊富に掲載されており、どれを買われても失敗は無いと思いますが(笑)個人的には最も上の本が価格と情報量(ページ数190ページ、下の2冊は140ページ余り)の面では良いかもしれません。表紙のデザインは最も下の3冊目の本も捨てがたいですね。

さて、この時皇帝の母ゾフィーがバイエルンのヴィッテルスバッハ家との縁組を息子に薦めたのは、当家が自分の実家であった事と、またかつてハプスブルク家と神聖ローマ皇帝位を激しく争い、時には戦い、時には親しく交わってきた名門中の名門王家で家柄として申し分の無い、ハプスブルク家にとっては付き合いの長い「お隣さん」であった事などがその理由でした。

しかし息子フランツ・ヨーゼフは母の薦めた相手の妹を好きになってしまったのです。彼は母の猛反対を押し切り、エリザベートと結婚してしまいます。

そしてこのエリザベートという女性ですが、彼女は上で述べた様に皇帝と結婚した時はまだ16歳の何も知らない少女でした。(皇帝は彼女を熱愛していましたが、当時の彼女はどちらかといえば、周囲の流れによって「結婚させられた。」という方が正しかった様です。つまり彼女の実家であるヴィッテルスバッハ家からすれば、ハプスブルク家と縁組出来れば誰でも良かったのでしょう。)

バイエルンの田舎で自由奔放に育ち、もともと勉強嫌いだった彼女はお妃教育と、全てを伯母であり姑のゾフィー大公妃が取り仕切るウィーンの宮廷での厳格な生活に耐えられず、皇后としての職務や義務も嫌い、(というよりろくに行わず。)「病気の療養」と称してウィーンを飛び出し、各地を転々と長期間旅行して周る様になります。


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上が当時のハプスブルク皇帝家の人々です。中央に座る年配の女性がゾフィー大公妃(1805~1872)で、その左に座って皇帝との間に生まれた2人の子供たちを抱きながら顔を横に向けているのが皇后エリザベート。そして後列で立っている人々のうち、最も左にいる黒い軍服姿の男性が皇帝フランツ・ヨーゼフです。

実はこのエリザベートという女性ですが、良くある話では美貌の皇妃とか、悲劇のヒロインという形で語られる事が多いのですが、実際はかなりナルシスティックで情緒不安定、尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かった様です。

彼女の贅沢と浪費家ぶりは、かつてのマリー・アントワネットを思い起こさせるほどのものであり、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていました。それでいて気まぐれでそれらにもすぐに飽きてしまい、つまり成熟した大人の女性とは程遠い人でした。

そんな不真面目な彼女でしたが、そんな彼女にも局所的ですが夫フランツ・ヨーゼフ帝の帝国運営に貢献した部分があります。それはハンガリー問題の解決です。エリザベートは旅先で出向いたハンガリーにおいて、この国の全てを大変気に入り、独学でハンガリー語を習得してこの国の統治にだけは非常な関心と情熱を傾け、またハンガリーの人々にも、かつてハンガリーの独立運動を弾圧し、彼らにとって憎悪の対象である皇帝フランツ・ヨーゼフやゾフィー大公妃をそっちのけで自由気ままに振舞うエリザベートの姿に、新鮮さと

「この人ならハンガリーの王妃になって欲しい。」

とまでいわれるほどの大きな人気を博す様になります。夫フランツ・ヨーゼフがハンガリーの独立問題で頭を悩ませていた頃、そのハンガリーの人々の心を掴み、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立に大きく貢献したのは他ならぬエリザベートでした。

しかし、こんな身勝手気ままな妻を、皇帝フランツ・ヨーゼフは終生変わる事無く深く愛し続け、常に落ち着きが無く、気まぐれにどこかに旅行に行って数ヶ月も戻らない彼女に対し、本当は自分のそばにいて自分を支えて欲しい心情を押し隠し、

「好きなだけ楽しんでおいで。いつも貴女を想う夫より。」

と手紙を毎日書き送っていたそうです。(エリザベートとは正反対に几帳面なフランツ・ヨーゼフは、皇帝としての政務をこなしながら、王宮の執務室に彼女の等身大の肖像画を机のすぐ脇に置いて、執務に疲れた時にそれを眺めていました。それが彼にとって、たった一つの心の慰めだったのでしょうね。)

しかし惨劇は突然やって来ます。1898年9月、エリザベートは旅行先のスイス、ジュネーブのレマン湖畔のほとりで、イタリア人の無政府主義者にナイフで暗殺されてしまいます。享年60歳でした。

次に不幸に見舞われたのがそのエリザベートの愛息である皇太子ルドルフです。


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上がルドルフ皇太子です。(1858~1889)彼は皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃エリザベートの間に長男として生まれ、将来の皇帝となるべき帝位継承者でした。

彼はウィーンのカフェで多くの進歩的な文化人たちと交流して行くうちに自由主義に傾倒するリベラリストになり、父帝の時代遅れで保守的なやり方に強く反発していく様になります。(彼はなんと帝位継承者でありながら「君主制などやめてしまえば良い。」と言い放つなど、王家の問題児になってしまいます。当然父とは上手くいくはずがありませんね。)

ルドルフはペンネームで新聞に投書し、(ペンネームなど簡単にばれていた様ですが。)父帝のやり方を激しく非難し、自由主義を唱えていきます。父帝はそんな皇太子に激怒し、以後秘密警察を動員して息子の行動を24時間監視するまでに親子の対立はエスカレートしてしまいました。

皇太子とはいえ絶対権力を持っているのは父帝です。これには敵いません。次第にルドルフは自暴自棄になり、皇太子でありながら身分の卑しい売春婦と夜を共にするようになります。それはあたかも権威の権化である父帝に対する彼の個人的な抗議の様でした。

やがて彼に最後の日が訪れます。1889年1月、ルドルフは愛人マリー・ヴェッツラと別荘で拳銃自殺を遂げてしまいます。(享年30歳)息子の死は、とりわけ母エリザベートを悲しませ、彼女はルドルフの死後、かつての女帝マリア・テレジアの例に倣って自らが暗殺されるまで喪服を身にまとう様になったそうです。(ルドルフの死については、この様な人物を帝位継承者にしては置けないというハプスブルク家臣の貴族たちによる暗殺も疑われていますが、真相は定かではありません。)

そしてもう一人の重要な人物の死が皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアン大公です。


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上がマクシミリアン大公です。(1832~1867)写真で見ると大きなヒゲのせいかだいぶ老けて見えますが、彼の生涯は34年という短いものでした。

皇帝銃殺: ハプスブルクの悲劇 メキシコ皇帝マクシミリアン一世伝 (河出文庫)

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このマクシミリアン大公については上に載せた本が良書です。神聖ローマ帝国史とオーストリア・ハプスブルク家についてがご専門の菊池良生教授の執筆された今年出版されたばかりの最新作で、メキシコ皇帝マクシミリアンの数奇な生涯が、兄フランツ・ヨーゼフ帝とからめて語られていきます。ページ数は370ページ余りで、日本では余り馴染みの無いメキシコの歴史についても知る事が出来る良作です。

彼は先に述べた様に皇帝フランツ・ヨーゼフの弟で、兄とは子供時代から大変仲が良く、兄が皇帝に即位してからはその右腕として良く兄帝を支えた人でした。しかし、この兄弟の関係が微妙になっていくのは1859年のイタリア統一戦争の頃からでした。

当時フランツ・ヨーゼフは弟マクシミリアンを北イタリア総督として派遣していましたが、その地で弟が現地の住民に自治を認めるなど、あまりに自由主義的な統治を行った事に怒り、マクシミリアンを解任してしまいます。(これはマクシミリアンが、現地イタリアの自由と独立を求める人々の思いの強さから、ある程度はやむを得ないという考えに至ったからですが、兄帝は一つでもそれを認めれば、他の民族も次々にそれを求める様になり、帝国の維持が出来なくなるといって、断固それを認めませんでした。)

この件をきっかけに兄弟の間には亀裂が生じ、マクシミリアンは謹慎してアドリア海のほとり、トリエステの自らの居城ミラマーレ城に引きこもってしまいます。しかし、兄の怒りに触れ、全ての公職を解かれて悶々と日々を過ごす彼に、再び権力への道が開かれます。1864年ヨーロッパからはるか離れた全く縁もゆかりも無いメキシコから、皇帝として即位して欲しいとの打診があったのです。


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上がその時の様子です。メキシコ政府の代表たちがミラマーレ城を訪ね、マクシミリアンに皇帝即位を招請しています。彼は新天地で自らの理想とする新たな帝国建設を夢見、これを受諾してメキシコに渡る決意をします。しかし、ここで大きな疑問を抱く方が多いと想われます。そもそもなぜハプスブルク家とは何のつながりも無いメキシコからこんな打診があったのかという事です。

実はこれはフランスが陰で糸を引いていました。当時フランスはナポレオン3世の下で第二帝政下にあり、ナポレオン3世は新たな植民地獲得に大きな野心を抱いていました。折りしもフランスが多額の債権をもっていたメキシコが、財政難から一方的にその負債を棚上げしようとしたため、怒ったナポレオン3世はフランス軍を差し向けてメキシコを占領し、その傀儡政権のシンボルに格好の存在としてマクシミリアンが選ばれたのでした。

しかし、メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世として即位した彼でしたが、最初から無理な冒険でした。現地のメキシコ人たちはフランス軍の支配に激しく抵抗し、元よりその傀儡に過ぎない外国人のマクシミリアンを自分たちの君主にするつもりなど毛頭無かったのです。(当然ですよね。)

即位から3年後の1867年に入ると、戦局はマクシミリアンの皇帝政府に著しく不利になり、損害の多さからメキシコ支配を諦めたそもそもの発端の張本人であるナポレオン3世は、フランス軍を撤退させてしまいます。残されたマクシミリアンは残った残存兵力8千の兵で革命軍に立ち向かいますが、(メキシコ人にも帝政に賛同する者も少なくなく、マクシミリアンの率いる兵力はそんな人々でした。)結局敗れ、マクシミリアンは帝位を剥奪されて銃殺刑になってしまいました。(享年34歳)


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上がマクシミリアンと、最後まで彼に従ったその側近の将軍たちの銃殺の場面の写真です。(写真最も右側のタキシード姿の人物がマクシミリアン皇帝です。不鮮明ではありますが、それにしてもこの写真良く残っていましたね。)

処刑の前、彼は兄フランツ・ヨーゼフに手紙を書いています。

「愛する兄上様、思いもかけない事態に立ち至り、不本意な死を迎える事になってしまいました。この愚かな弟をお許しください。私は兄上が私に示してくださった愛情に深く感謝し、兄上とハプスブルク家の繁栄を祈りつつ、旅立つつもりです。どうかいつまでも健やかに、さようなら。」

この手紙を、一体兄はどんな気持ちで読んだ事でしょうか。仲の良かった兄弟の悲しい別れですね。(涙)

相次ぐこれらハプスブルク家の人々の死は、当主である皇帝フランツ・ヨーゼフの心に深く大きな衝撃を与えました。そしてそれは、彼を孤独で厳格な保守主義者へと変えていってしまいます。そして時代はそんな皇帝の心情と、ハプスブルク家の裏側を尻目に世紀末と新しい世紀へと動いていくのです。

次回に続きます。

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世紀末ウィーン ・ワルツに乗った帝国の最後の輝き

みなさんこんにちは。

19世紀後半から世紀末までのオーストリア・ハンガリー帝国の歴史は、度重なる対外戦争の敗北とそれによる領土の喪失、国内においては10に及ぶ民族が、それぞれ支配者であるハプスブルク家を頂点とするドイツ人階級に対して自治と独立を要求するなど複雑な民族問題が噴出、また、前回お話した様に、皇帝家であるハプスブルク家でも非業の死を遂げる人物が相次ぐなど、政治、軍事の両面における混乱が帝国を大きく揺るがしていました。

この様に帝国が凋落していく状況の中で、やがて人々は次第にその関心を「文化」の面に向けていく様になります。

この様な流れが醸成されていったのは、もともとオーストリア・ハンガリー帝国が多くの民族で構成される多民族国家であり、いわゆるコスモポリタン的な要素を十分に兼ね備えていた事と、折りしもその頃帝国の都ウィーンでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世による大規模な帝都大改造が進行中であり、帝国内外から民族を問わず多くの人々が仕事を求めて移住してきた事により、これらの人々によって持ち込まれて来た思想、哲学、音楽、美術、文学、建築などの様々な有形無形の産物がウィーンの人々に受け入れられ、さらにそれを大きく発展させて見事な世紀末の文化の華を開花させる事になったのです。

そしてその様に帝国が導かれていった背景には、他ならぬ時の皇帝フランツ・ヨーゼフ自身の意向が大きく反映していたのです。


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上がオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)30代後半から40代の頃と思われます。

皇帝は帝国内の多くの民族の中でもそれまで特に冷遇されていたユダヤ人に対して特別に寛大な姿勢をとります。職業、居住、結婚など、それまでユダヤ人にのみ課せられていた制限を撤廃し、それによって多くのユダヤ系の人々が帝都ウィーンに集まってきました。そして今回お話しする世紀末ウィーンで花開いた文化の多くが、それらユダヤ系の人々によって形作られていったのです。

まずウィーンといえば音楽の都として有名ですが、この時代に最も活躍したオーストリアの音楽家が「ワルツ王」として知られるヨハン・シュトラウス2世でしょう。


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上がヨハン・シュトラウス2世です。(1825~1899)彼が「2世」と呼ばれるのは別に彼が王侯貴族であるからではなく、単に父親と同名であるからです。彼の父「1世」も同じく音楽家であり、ユダヤ系の血を引く人でした。そしてウィンナ・ワルツの基礎を築いた事から「ワルツの父」と呼ばれています。彼には長男ヨハン、次男ヨーゼフ、三男エドゥアルトという3人の息子がおり、父の影響と才能を受け継いで3人とも作曲家となりました。つまりシュトラウス家は音楽一家だったのです。そしてシュトラウス・ファミリーの中で最もその才能を花開かせたのが長男ヨハンでした。(彼は父の築いたワルツの基礎を拡大発展させ、多くのワルツを作曲した事から「ワルツ王」と呼ばれています。)

彼が作った曲は大変多いのですが、その中でみなさんも聞いた事がある有名なものは、かつて1968年製作の映画「2001年宇宙の旅」で使われた事もある「美しく青きドナウ」でしょう。またその父1世が作曲したもので、同じく誰もが聞いたことのあるものといえば、軽快なテンポでコンサートでは観客も手拍子で参加する「ラデツキー行進曲」などがありますね。

そのヨハン・シュトラウスと同じ時代を生きた作曲家で、親しく交流したのがヨハネス・ブラームスです。


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上がヨハネス・ブラームスです。(1833~1897)彼はユダヤ系ではなくハンブルク出身の純粋なドイツ系で、ベートーベンの熱烈な崇拝者でした。(そのせいか性格もベートーベンに似たところが多く、無愛想で人付き合いが苦手で、周囲とのいさかいも多かったそうです。しかし、芸術家には短気で怒りっぽい人が結構多いですからね。笑)

彼が作った曲でみなさんもご存知なのは「ハンガリー舞曲第5番」ではないでしょうか。

さらにこの時代に活躍した作曲家には、アントン・ブルックナーやグスタフ・マーラーがいます。この2人は師弟関係にあり、生涯を通じて親しく交流しました。


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上がアントン・ブルックナーです。(1824~1896)ブルックナーはユダヤ系ではなくオーストリア・ドイツ人であり、優れたオルガン奏者でした。そしてウィーン大学で音楽の講義を受け持つ教授として指導した教え子の中に若きマーラーがいました。

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そして上がグスタフ・マーラーです。(1860~1911)彼はボヘミア出身の裕福なユダヤ人実業家の次男として生まれ、父親は家業の酒造会社を継がせるつもりでしたが、息子の音楽的才能を見抜いて早くからその方向への教育を熱心に薦めた理解者でした。成長した彼は優れた指揮者、音楽劇場監督としては名を馳せましたが、肝心の彼が作曲した曲は当時の聴衆には理解されず、また彼がユダヤ系出あった事から逆に多くの非難を浴び、残念ながら彼の存命中は作品が評価される事はありませんでした。しかし近年は再評価が進み、現在は数多く演奏されています。(この人の曲ですが、演奏時間が非常に長いものが多いので、クラシックファンでも好き嫌いの分かれる作曲家です。ご興味のある方はその点を踏まえてお聴きください。)

音楽の分野はこの辺までとして、他の分野に目を転ずると、文学の世界においてはフランツ・カフカがいます。


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上がフランツ・カフカです。(1883~1924)彼は顔立ちを見ればすぐ分かる様に典型的なユダヤ系で、マーラーと同じボヘミアのプラハで裕福な醸造家の長男として生まれました。しかしマーラーの場合とは逆に、カフカの父親は現実主義のたたき上げの経営者で、息子の繊細な感性や文学活動に関心も興味も示さず、この親子は終生理解し合えなかった様です。彼は成長すると保険局に勤務し、そこで巧みな文書作成能力を生かして主任にまで昇進し、そのかたわら執筆活動をしていました。つまり純粋な作家だったのではなく、「サラリーマン」だったのです。(そのため彼の作品は未完成のものが多く、彼が亡くなってから友人によって出版されたものが高い評価を受ける様になりました。彼の作品で有名なものは「変身」「審判」「城」「失踪者」の4部作がおすすめです。)

このカフカという人は、写真を見ると少し怖そうな印象を受けますが、実際は物静かで大変礼儀正しく、意見を求められた場合を除いては常に聞き役に徹し、自分が意見を述べる時でも持論を押し通すのではなく、相手の話を尊重しつつユーモアを交えながら控えめに述べ、(現実には相手を言い負かそうとする幼稚な思考の人間が多いですからね。)勤務先でも普通なら目にも止めない掃除人にもにこやかに挨拶するなど、とても温厚で心の優しい人だったそうです。そして彼はその人柄から多くの人々に愛され、彼の周囲の人々で彼を悪く言う人は皆無でした。


さらに美術の方面に目を向けると、代表者に画家のグスタフ・クリムトがいます。

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上がそのグスタフ・クリムトです。(1862~1918)彼もユダヤ系で、父親が彫刻関係の職人であった事から最初はその道を目指しますが、次第に絵画の世界に引かれてその才能を大きく開かせました。

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彼の作品で最も有名な「接吻」の絵です。クリムトは特に「金色」を好み、彼の作品には金箔が多く使われています。

学術関係に目を向けると、精神分析の父といわれ、「心理学」という新しい分野の学問を興したジークムント・フロイトがいます。

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上がジークムント・フロイトです。(1856~1939)彼もユダヤ系オーストリア人で、人間の心の奥底に潜む深層心理を体系化した「心理学」の生みの親ですね。

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19世紀末のウィーンはこれらの著名な文化人たちが上の様な快適なカフェに集い、薫り高いウィンナ・コーヒーやケーキ、クロワッサンなどの軽食を摂りつつ、シュトラウスのワルツを聴きながら何時間でも心置きなくあらゆる分野について自らの持論を相手と語り明かし、それらに刺激を受けた人々がさらに鋭敏な感性を研ぎ澄ませてそれぞれの作品や研究にそれを反映させてゆき、「世紀末ウィーン」と呼ばれる夢の様な優れた文化の華が咲き誇る事になりました。(本場ウィーンのカフェは数百席ものテーブルを擁する広大な店舗内で、開店中は誰でも好きなだけゆったりと優雅に時を過ごす事が出来ます。画像のケーキもクロワッサンもおいしそうですね。)

そしてそれは、世界の歴史においてもはや中心ではなくなっていたオーストリア・ハプスブルク帝国の放つ、最後の輝きでもあったのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

三国同盟対三国協商 ・ ヨーロッパ列強諸国の思惑

みなさんこんにちは。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア・ハンガリー帝国が、多民族国家ゆえの寛容さで音楽、芸術、科学、文学など、様々な分野のスペシャリストたちを国内外から分け隔てなく受け入れ、夢の様な輝ける文化と知恵の華を咲かせて繁栄を謳歌していた19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパは、列強諸国が二つの巨大陣営に分かれて激しく対立する危険なパワーバランスの均衡によって、かろうじてその平和が維持されている時代でもありました。

その二つの巨大陣営とは、一つはドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアを軸として一足早く1882年に成立した「三国同盟」陣営と、それに対抗する形で20世紀に入ってから1907年にイギリス、フランス、ロシアとの間で締結された「三国協商」陣営です。


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上が当時のヨーロッパ主要各国の国際関係を表した図です。

このうち前者の「三国同盟」は、ドイツ帝国成立の立役者であり、その初代宰相でもあった大政治家オットー・フォン・ビスマルクによってつくられた純粋な軍事同盟でした。


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上が独墺伊三国同盟をつくったドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵です。(1815~1898)彼がこの三国同盟を成立させた本来の目的は、フランスを軍事的に孤立化させて封じ込める事でした。

ビスマルクは1871年に、当時ナポレオン3世の下で第二帝政下であったフランスを普仏戦争で破り、その講和条件でかつて200年以上前の旧神聖ローマ帝国の三十年戦争時代において、フランスに奪われたアルザス、ロレーヌ地方を奪い返す事に成功したのですが、これに対するフランス人のドイツへの復讐心が大変激しい事を知っていました。彼はいずれフランスが態勢を立て直し、ドイツに対して必ず反撃してくるだろう事を予測していたのです。

彼は巧妙な戦略でフランスを破りましたが、かといってその勝利に驕り高ぶる事はなく、決してフランスを侮ってはいませんでした。そこで彼はフランスの国力回復は目をつぶるとしても、彼らが自分が創り上げた「生涯の作品」であるドイツ帝国に対して容易に復讐戦を挑む事が出来ない様にする仕組みを創り上げたのです。(オーストリアはともかくとして、南のイタリアを仲間に入れておけば、フランスは兵力をドイツとイタリアの二方面に分散せざるを得ず、また海上でも、フランス艦隊は地中海の制海権をめぐってイタリア艦隊に備えなければなりませんからね。)

これに対しフランスはビスマルクの予想通り、ドイツに対する対抗作戦を展開していきます。しかもそれはビスマルクの予想をはるかに超える驚異的なものでした。彼らは数百年来の宿敵であったイギリスと、貿易や漁業権、両国が世界中に持つ広大な植民地の利権の調整を名目に、はるか東のロシアも入れて同盟を結んだのです。これは表向きは経済、商業関係の盟約であったために「三国協商」と呼ばれていますが、実際はそれらの保護のために相互に軍事協力し、ドイツに対抗する軍事同盟でした。

それにしても古くは英仏百年戦争の時代から、近くはナポレオン戦争に至るまで、常に相争ってきた「永遠のライバル」ともいうべきイギリスとフランスが、よくも積もり積もった積年の恩讐を乗り越えて同盟する事が出来たものだと不思議に思われるでしょうが、これには新興帝国主義国家として驚異的な進歩を遂げ、凄まじい速さで軍備増強を続けるドイツに対する英仏両国の共通の危機感が大きく影響していました。また、当時イギリスにおいては、その在位中イギリスを七つの海を支配する「大英帝国」に押し上げ、63年に亘って君臨したビクトリア女王が1901年に亡くなり、新たにイギリス国王に即位したその長男エドワード7世が、なかば神格化された母の時代とは違う対外政策を求めた事も無視出来ないでしょう。


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上がイギリスのヴィクトリア女王です。(1819~1901)彼女は先に述べた様に、イギリス歴代国王で最長の63年間もの在位を誇り、彼女が君臨していた19世紀は、「イギリスの世紀」と呼ばれるほど同国が最も繁栄した時代でもあります。彼女の出身王家はハノーヴァー家と言い、元はドイツのハノーヴァー公国の君主でしたが、1714年にそれまでイギリス王家であったスチュワート王朝が断絶した事により、遠い親戚筋であった同家がイギリス王として招かれたのです。そのため彼女は生涯を通して大変な「親ドイツ派」であり、自分の子孫たちの多くをこれらの名門王家と結婚させました。ちなみに後の第一次世界大戦でイギリスと戦う事になるドイツ皇帝ウィルヘルム2世は彼女の孫に当たります。

(彼女が名前だけで呼ばれるのは、同名のヴィクトリアという女王が後にも先にも存在していないからです。それから余談ですが、このヴィクトリア女王は大変小柄な女性で、身長はなんと145センチしかなかったそうです。それでありながら太りやすい体質で、晩年には体重が70キロを越え、そのため上の写真を見てもお分かりの様に、少し体重が増えてもすぐに目立ってしまい、彼女は終生それを気にしていたそうです。また性格は意外に短気で我がままで、夫のアルバート公を深く愛してはいたものの、夫婦喧嘩の時は常に夫のアルバート公の方が折れていたそうです。やはり女性らしいですね。笑)


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そして上がヴィクトリア女王の後を継いで即位したエドワード7世です。(1841~1910)良く見ると母親似ですね。そして彼も母の血を引いてかなりの肥満体質でした。ただし母と違う所は父母が相思相愛だったのにもかかわらず、彼自身はデンマーク王家から嫁いできた王妃との仲は終生悪く、女好きで愛人が何人もいたそうです。しかし性格は派手好きな豪快奔放な人で、母のドイツ好きに対比して彼はフランスをこよなく愛し、それが英仏協商締結に一役買っていたのも事実です。

またはるか東の大国ロシアは、時の皇帝ニコライ2世がシベリアから清朝末期の中国東北部(満州)に20万の大軍を南下させてこれを事実上占領し、その先の朝鮮半島をも窺う勢いを見せて、同じく朝鮮半島支配を目論む新興国日本との間で激しく対立していました。


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上がロシア皇帝ニコライ2世です。(1868~1918)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝14代皇帝で、同時に最後の皇帝でもあります。彼とその一家の哀れな最後については、近年その詳細がNHKなどのドキュメンタリーで放映されたりしているので、歴史好きの方ならば知識としてご存知の事と思います。

実はこのロシアの極東進出は、ある一人の人物によって盛んにけしかけられたものでした。その人物とは時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。


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上がそのドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。(1859~1941)彼はドイツ帝国ホーエンツォレルン朝3代皇帝で、なんといってもぴんと跳ね上がったその特徴的な口ひげで有名ですね。(このひげは彼にちなんで「カイゼルひげ」と呼ばれています。)

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上は並んで記念撮影する2人の皇帝の姿です。左がドイツ皇帝ウィルヘルム2世で右がロシア皇帝ニコライ2世。外交儀礼として両国の君主が互いの国の軍服を着用しています。(これはわが国でも、天皇陛下が国賓として来日した外国の君主をおもてなしされる宮中晩餐会などで、陛下が国賓の相手国の君主の勲章や頸飾などをお付けになったりしていますね。)

ウィルヘルム2世はニコライ2世とは従兄弟に当たり、ニコライを「ニッキー」と親しく呼んで盛んに手紙をやり取りしています。しかし、彼がニコライに対してその様に親しく振舞うのは、何も単純に親戚同士であったからというわけではありません。そんなレベルをはるかに超える巨大な思惑があったからに他なりませんでした。

ウィルヘルム2世率いるドイツ帝国にとって、ヨーロッパにおける最大の宿敵はビスマルクの所で述べた様にフランスでした。彼はいざフランスと戦争になった際、背後のロシアから攻撃されて挟み撃ちに合うのを避けるためにロシアの目を極東に追いやって置きたかったのです。そこで彼が利用したのが、日本人をはじめとする「黄色い肌」の東洋人が、いずれヨーロッパ人に対して戦いを挑んでくるという思想、いわゆる「黄禍論」です。


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上が黄禍論を描いた当時のイラストです。はるか彼方で黒雲と共に不気味な光を放つ大仏を指し、キリスト教の大天使ミカエルが古代ギリシャやローマの神々に扮したヨーロッパの人々に対して団結して戦おうと呼びかけているという、なんともメチャクチャなものです。(笑)

ウィルヘルムは、当時日本との関係が悪化していたニコライに宛ててこのイラストを送り、次の様な手紙を書いています。

「親愛なるニッキーへ、我々は今重大な危機に直面している。それははるか東洋の蛮族に、我々キリストの子供たちが狙われているという危機だ。このまま彼らを放置すれば、いずれ東洋人たちはヨーロッパに攻め寄せてくるだろう。今君が日本との間で抱えている問題はまさしくそれだ。これを解決する方法は一つしかない。戦う事だ。そして日本の野望を打ち砕き、ヨーロッパを救うのだ。これが出来るのは世界でただ一人、君しかいない。君がそれを達成するまでヨーロッパはわがドイツがしっかり見張っているから安心したまえ。」

この手紙を読んだニコライ2世がどんな感想を述べたか定かではありませんが、(まさか本気で信じ込んだ事は無いと思いますが。笑)当時のロシア蔵相で、後に日露戦争後のポーツマス講和条約でロシア全権代表となるニコライの忠実な大臣であったウィッテはこう述べています。

「こうして彼はわが皇帝を言葉巧みにたぶらかし、そしてわがロシアは極東へ極東へとおいやられてしまったのである。」

しかしこの三国協商の成立により、ビスマルクが企図したフランス封じ込め作戦は崩壊し、逆にドイツが東西から挟み撃ちされる状態に陥ってしまいました。(三国協商が成立した頃、すでにビスマルクは亡くなっていたのですが、彼はイギリスとフランスが、海外植民地政策で対立し、いつまでも争わせておく事が最良の策と考えていました。しかし、事は彼の計算とは逆の方向に動いてしまったのです。もし彼が存命であれば、この不利な状況を一体どの様に打開したでしょうか?)

次回に続きます。

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