伊400 ・ 米国も驚嘆した潜水空母

みなさんこんにちは。

今回のびっくり兵器は、前回に続きわが日本帝国海軍についてお話いたします。今回の主役は世界で唯一の大型潜水空母「伊400」です。

この潜水艦も、軍艦にお詳しい方や、そうでなくても戦史や歴史好きな方ならば、その存在は知識としてご存知の方も多いと思いますが、このテーマでこの「伊400」型潜水艦を外しては語れないでしょう。まずはその姿をご覧ください。


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この潜水艦は、正式には「伊号四百型潜水艦」といい、同型艦3隻が建造され、太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)12月末に1番艦伊400が就役し、翌年1月に2番艦401が、そしてもはや終戦直前の7月に3番艦402が就役しました。

全長122メートル、基準排水量3500トン(「基準排水量」とは、満載排水量から燃料と水を差し引いたものです。この艦の場合、満載排水量は5200トンにもなります。)というそれまで世界中で建造された潜水艦の中で最大の大きさを誇り、2012年に中国でそれを上回る大きさの潜水艦(この伊400よりわずかに大きいもので、弾道ミサイル用に造ったらしいですが、みなさんもご存知の様に自前の努力で独自に開発するという素養が無く、「ものづくり」の基本というものが全ての面で薄っぺらな中国のはロシア製のコピーか他国の模倣に過ぎず、単に「大きい」というだけで実戦ではわが国の対潜哨戒機部隊と潜水艦隊の敵ではありません。)が建造されるまで世界最大の潜水艦でした。速度は水上で18ノット(水中で6.5ノット)乗員150名、武装は53センチ魚雷20本、14センチ単装砲1門、25ミリ3連装機銃を3基も備えています。

これだけ見ると、「ただ大きいというだけではないか。」と思われてしまうでしょうが、この潜水艦の性能はそれだけではありません。なんと37500海里(約69450キロ、地球の1周が約4万キロですから1周半以上出来ますね。驚)という驚異的な航続距離を誇り、そして何より最大の特徴は、艦橋下部に設けられた格納庫に特殊攻撃機を3機搭載し、その長大な航続距離を活かしてはるか遠方の敵地を空爆出来るという点です。


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上の写真の1枚目が、この潜水艦に搭載するために特別に開発された特殊攻撃機「晴嵐」(せいらん)です。この機は最高時速470キロ(下のフロートを外せばゼロ戦並みの時速560キロにもなるそうですが、その場合帰りは海上に不時着するか、地上の基地に着いても胴体着陸するしかないですね。)で、250キロ爆弾を4発も搭載出来たそうです。2枚目はその晴嵐を格納庫から出した様子の模型です。(手前に写るクレーンは帰還した攻撃機を吊り上げて母艦に収容するためのものです。必要無い時は潜航の邪魔になるので折りたたまれます。)格納庫から出した攻撃機はカタパルトに載せられ、3枚目の写真の様に射出して発進します。

この様に水上機を搭載する潜水艦は、日本以外でも第一次大戦後に欧米各国で研究されたのですが、これらの国々はあまり熱心ではなく、事故や実益性の点で皆止めてしまっています。日本海軍だけが潜水艦への航空機搭載に熱心で、そのためこの種類の潜水艦を数多く保有して実戦に投入したのは世界でも日本だけでした。

また、日本海軍は戦艦や空母の様に「大和」「瑞鶴」といった固有の名称を潜水艦には採用しませんでした。理由は不明ですが、そのため当時の平仮名の最初の「いろは」から大きさ順に、排水量千トン以上を「伊」号、500トンから千トン未満のものを「呂」号、500トン未満の小型を「波」号と呼んで区別していました。

戦前戦中の日本の潜水艦は非常にたくさんのバリエーションがあり、型式も複雑でとてもここでは説明が困難なので割愛させていただきますが、太平洋戦争開戦時点における日本海軍の潜水艦保有数は64隻(そのうち伊号は48隻、呂号は16隻で、最も小型の波号は戦争後半から急造されたものです。そして開戦時の伊号潜水艦48隻のうち、35隻が水上偵察機1機を搭載出来るタイプでした。ちなみに大戦中に日本が建造した潜水艦は大小合わせて126隻にも上るそうです。)の勢力を誇っていました。

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太平洋戦争中のわが日本潜水艦について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。1冊目は、かつて潜水艦乗組員であった方の著作で、戦中の日本潜水艦の艦内と乗組員が、いかに過酷な状況下で戦闘に従事していたかをあらゆる視点から事細かく文章で表現された第一級の名著です。また2冊目は、文庫でありながら当時の日本潜水艦を数多くの写真で詳細に説明したもので、そのコンパクトさと、数多くの写真によるビジュアル的な資料としての内容の濃さから最もお薦めするものです。どちらも戦記・戦史専門で名高い光人社NF文庫で、価格は900円程度。ページ数は323ページになります。(*この伊号潜水艦は艦船ファンに大変人気があり、当然これに関するビジュアル的な本はたくさんあるのですが、出版と絶版のサイクルが比較的短く、入れ替わりが多いせいかほとんどが中古か雑誌の別冊などの大きなものになってしまう様です。)

ここで潜水艦というものがどんなものか簡単にご説明しましょう。潜水艦とは読んで字のごとく水中に潜って敵艦を魚雷で攻撃する軍艦の一種ですが、「潜水する」という目的のために当然の事ながら普通の艦船とは全く違った特殊な構造となっています。

そもそも潜水艦はどうやって浮いたり沈んだり出来るのでしょうか? それについては下の図をご覧ください。


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潜水艦は簡単に言えば二重構造になっていて、乗組員の居住スペースの外側、つまり艦の外殻に、上の図の様に海水を注入するタンクスペースがあり、潜りたい時は各バルブを開いてそこに海水を注入し、その重みで海中に潜ります。(ブクブク)そして浮上したい時は、艦内の強力なボンベで圧縮した空気を海水を注入したタンクに送り込み、排水弁を開いて注入した海水を外に押し出せばその浮力で浮かぶのです。

また動力はほとんどの潜水艦がディーゼル機関と電動モーターの併用で、その燃料タンクは上で述べた艦の海水注入スペースの内側に二重構造となって存在していました。ただし潜水している時は燃料を燃やすディーゼルエンジンは使えませんので、(理由は単純です。潜水するのだから煙を排気出来ないからです。)浮上して水上航行している時はディーゼルで走り、その間に発電機を回して蓄電池に充電し、水中航行の時には排気弁を閉じて充電した電動モーターで艦を動かします。(現代のわが国の全ての潜水艦も含め、世界中の通常型潜水艦も皆このタイプです。)

そしてもう一つ興味があるのが潜水艦の潜航深度、すなわち「どれくらいの深さまで潜れるか?」という点ですが、これは意外に浅く、この時代の潜水艦はおおむね最大100~200メートル程度だったそうです。(現代の潜水艦は当時の2倍程度の200~400メートルほどは潜れるそうですが、いずれにしてもあまり大差が無い様です。理由としては数千メートルもの深海に潜って海洋調査を行う特殊な潜水艇と違い、海の上に浮かぶ水上艦艇を攻撃するという性質上あまり深く潜る必要が無いためです。)

では潜水艦の乗り心地、すなわち居住環境はどんなものなのでしょうか? これについては一言で言えば「ひどい」と言う言葉が妥当の様です。特に第二次大戦時やそれ以前のものは居住性が劣悪で、兵器や貨物、燃料を大量に積み込む必要があるためにそれらにスペースが取られてしまい、艦内は湿気だらけで洗濯物も乾かせず、また燃料・排気・カビなどの臭気が充満しているのでそれらの臭いが体に染み付いてしまい、体を洗おうにも真水は貴重で入浴は制限され、乗組員は皆臭かったそうです。

またトイレについては排泄物を溜めるタンクがあり、一杯になると潜航中に先ほど述べた圧縮空気を送り込んで海中に放出されていました。(これは現代の潜水艦も変わらないそうです。)ただし戦闘中などは乗組員それぞれ持ち場を離れられないので、かつての帝国海軍潜水艦隊の乗組員の方々のお話などでは、空き缶やバケツに用を足す事も多かった様です。(しかしこれらが潜航や浮上の際にひっくり返ってしまう事が多く、その時は最も始末に困ったそうです。笑)

そんな潜水艦乗組員の過酷な状況を考慮してか、意外にも彼らの食事だけは海軍の中でも特別な配慮がされていました。食料不足に悩んでいた大戦末期の日本やドイツでも、潜水艦部隊には優先的に食料が配給されたそうです。ただし、狭くて環境の悪い潜水艦では新鮮な食べ物は出航後数週間で消費し尽くされるので、(1度出航すると、作戦期間は平均2~3ヶ月に及んだそうです。)その後は似た様な保存食がずっと出される事になります。


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上が乗組員の唯一の楽しみである食事中の様子です。皆さん笑顔ですね。(笑)

ちなみに大戦中の日本の潜水艦の場合、食事は主食に白米・乾麺、副食に乾燥野菜(切り干し大根など)と缶詰、漬物各種の他、比較的保存しやすい生鮮野菜としてタマネギとジャガイモ(とはいえこれらの生鮮野菜は一週間程度で底をついていた様です。)などを材料とした各種のメニューが提供されていたそうです。

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旧大日本帝国海軍の食事について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。わが帝国海軍の食事に関する一切が、幕末の海軍創建から太平洋戦争敗戦までの全期間に亘って写真入りで詳細に記されており、ページ数は250ページ余りです。こうした分野にご興味をお持ちの方に良いと思います。

さて、話を伊400に戻しますが、この伊400型が建造された主な目的は、先に述べた様にその長大な航続能力を活かして敵国すなわちアメリカの沿岸部に浮上し、搭載攻撃機で奇襲攻撃をかける事でした。そして日本海軍はこの3隻の潜水艦を主力として思い切った作戦計画を立案します。それはなんと南北アメリカ大陸を結ぶ最も細い地帯のパナマ運河を攻撃し、水門を破壊してしまう作戦でした。

ここを破壊すれば、アメリカは大西洋に展開している艦隊をすぐに太平洋に差し向けられず、南アメリカ大陸を数ヶ月かけて大きく迂回する遠回りをせざるを得なくなり、日本にとって作戦上有利になります。海軍は同じく水上機を2機搭載出来る少し小型の潜水艦2隻を付けて合計5隻、攻撃機13機をもって攻撃を行う作戦計画を立案しましたが、時はすでに1945年(昭和20年)この頃の日本海軍はもう艦隊、航空部隊とも壊滅状態にあり、アメリカ軍のB29による本土空襲が始まって戦局は絶望的でした。そのうえ空襲で搭載機である晴嵐の生産工場が破壊されて積む攻撃機の数が揃わず、結局作戦は断念されてこの「パナマ運河奇襲作戦」は幻に終わります。

とはいえ水上艦艇のほとんどが全滅していた当時の日本海軍において、この伊400型潜水艦は数少ない貴重な戦力です。そこで海軍首脳部は作戦を変更し、日本本土に迫りつつあったアメリカ艦隊の集結地であった中部太平洋のウルシー環礁への奇襲攻撃を計画、それを実行に移しました。


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上がウルシー環礁に集結したアメリカの大艦隊です。

作戦には伊400と401が投入され、攻撃は8月17日と決定されました。そして7月下旬に両艦はウルシーへ出撃しましたが、8月に入って広島、長崎への原爆の投下、ソ連の対日参戦で戦争継続の不可能を悟られた昭和天皇がポツダム宣言の受諾をご聖断あらせられ、わが国は8月15日の敗戦を迎えます。昭和天皇のご命令により本土防衛軍400万と、アジア大陸や太平洋の各地に展開していた日本帝国陸海軍およそ270万の全部隊には一斉に停戦命令が発せられ、その命令はこの2隻にも届きました。そして両艦は直ちに作戦を中止して、ここに伊400型は1度も戦果を上げる事無くその役割を終える事になったのです。

その後この2隻には思わぬ運命が待ち受けていました。伊400は8月29日、本土から500海里付近までたどり着いたところでアメリカ駆逐艦に拿捕され、同じく伊401も同じ頃三陸沖でアメリカ軍に接収されてしまいます。そしてアメリカ軍関係者にその存在が初めて知られるのですが、彼らはこの2隻の巨大さに驚嘆し、また3機も水上機を搭載出来る点に大変な関心を示しました。


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上がアメリカ軍に接収された時の様子です。すでに降伏にあたって魚雷と晴嵐は海上投棄されています。アメリカ軍関係者もこの潜水艦の存在については全く知らず、彼らの表情を見ても分かる様にとても興味心身だった様子がうかがえます。

それからこの2隻は様々な技術調査のためにアメリカ本土まで回航され、終了後2隻ともハワイ沖で撃沈処分されました。それが日本帝国海軍最大にして世界で唯一の潜水空母の最後でした。

日本海軍潜水艦隊は世界有数の隻数とそれなりの戦果を誇ったものの、大戦後半には優秀なソナーやレーダーを完成させ、それらをいち早く有効活用したアメリカ軍の徹底した対潜哨戒によって次々に撃沈され、多くの乗組員が戦死しています。(大戦中に就役したものも含め、日本海軍が保有した全潜水艦190隻のうち100隻以上が撃沈されたそうです。これだけの損害を出したのは、当時の日本の潜水艦のスクリュー音が大変うるさく、潜航しても簡単にソナーで位置を知られてしまい、駆逐艦からの爆雷や対潜水艦用の攻撃機からの爆弾でほとんどが沈められてしまったからです。)そんな中でこの伊400型は終戦まで生き延びた幸運な潜水艦でした。

この伊400型潜水艦はその誕生が大戦末期であり、わずか3隻しか完成しなかった事から戦果を上げる事はありませんでしたが、日本海軍がそれまでに培った潜水艦建造技術の粋を集めた優秀艦であり、その点はアメリカも認めています。アメリカはこの潜水艦を接収した時に得たデータを後の自国の潜水艦技術に応用し、第二次大戦後の潜水艦の設計・運用姿勢に大きな影響を与えました。そしてそれが、後の核の時代の弾道ミサイル発射能力を持った現代のアメリカの戦略潜水艦を生み出す事につながったのです。(水上機をミサイルに変え、衛星で位置が知れてしまう地上発射の弾道ミサイルと違って衛星では探知出来ない海中からミサイル攻撃出来ますからね。)つまり、伊400の思想と技術は時代を超えて現代の潜水艦にも広く活かされているのです。


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ナポレオンの失脚 ・ 外相メッテルニッヒとウィーン会議

みなさんこんにちは。

今回から新たなテーマとして、 「ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国」 と題して神聖ローマ帝国滅亡後のハプスブルク家の辿った歴史についてお話したいと思いますので、ご興味のある方は暇つぶしにお立ち寄りください。

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このハプスブルク家とハプスブルク帝国について詳しくお知りになりたい方は上の3冊をお薦めします。ヨーロッパ最大の名門王朝である当家について知るには、とても1冊程度では全貌を把握出来ません。ハプスブルク家研究の権威江村洋先生の文庫を読みつつ図説で照らし合わせると理解が早いでしょう。3冊目は自分が個人的にお薦めするのですが、始祖ルドルフ1世に始まるほぼ全てのハプスブルク家の人々の肖像画や写真がフルカラーで掲載されており、資料としてとても優れた貴重な本です。

時は19世紀初頭の1812年、フランス革命後の大混乱の最中に彗星のごとく現れ、数々の戦いに勝利してフランス皇帝に即位したナポレオンは、その権力の絶頂期を迎えていました。 今や彼のフランス帝国はヨーロッパの西半分をその領土とし、さらにヨーロッパ中央部に800年以上の長きに亘って存在したドイツ神聖ローマ帝国を崩壊せしめ、その皇帝家として君臨していたハプスブルク家のオーストリアを破り、さらに強力な新興軍事国家であったプロイセンをもその支配下に置いて、ナポレオンの勢力範囲ははるか東のロシアと国境を接するまでになっていました。

しかしそのナポレオンにとって今だに大きな脅威が海の向こうにありました。 それは彼の、いやフランスにとって永遠の宿敵イギリスの存在です。 ナポレオンはまだ誰も成功した事の無いこの「イギリスの征服」を自分の手で完成させることを望み、その第一段階として全ヨーロッパに「大陸封鎖令」を出し、イギリスを海上封鎖する作戦に出ました。

しかし、東の大国ロシアがこの命令を拒否してイギリスとの貿易を続行したため、激怒したナポレオンはロシア遠征を決意、1812年6月総勢70万という史上空前の大軍を持ってロシアに侵攻しました。

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上がナポレオンのロシア遠征の様子を描いた図です。 この時の遠征軍の兵力はフランス軍45万、その他ナポレオンが従えた国々の兵25万からなり、迎え撃つロシア軍は総勢90万という歴史上最大のものでしたが、結果はロシア軍の焦土作戦とロシアの猛烈な寒さによってフランス軍は大敗を喫し、参加兵力70万のうち、無事に本国に退却出来たのはわずか2万2千という見るも無残な大失敗に終わりました。

このロシア遠征の失敗はナポレオンの運命を決定付けます。 彼の敗北を知ってそれまで力ずくでナポレオンに従わされていた国々が一斉に反旗を翻し、同盟してフランスに攻撃を仕掛けてきたからです。これら同盟軍の兵力は総勢50万を越え、ロシア遠征によって多くの兵力を失っていたナポレオンの兵力は10万に満たず、1814年3月には首都パリが陥落してナポレオンは退位を余儀なくされます。

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上がこの時のナポレオンの姿を描いた肖像です。 この絵を見てしまうと失礼ながら大きく幻滅せざるを得ないですね。 彼はこの時45歳でしたが、すっかり太って頭も禿げ出し、表情も度重なる敗北と味方の裏切りによって、下に載せた若い頃の肖像の様なスマートで勇ましい精悍さが失われています。

同年4月、ナポレオンは退位してエルバ島に追放され、ついに彼に勝利したヨーロッパ各国はナポレオン失脚後のヨーロッパを巡ってウィーンで国際会議を開きました。 この時のオーストリアの君主はフランツ1世という人物で、ナポレオンのマネをして 「オーストリア皇帝」 に即位し、それまで就いていた神聖ローマ皇帝を自ら退位してさらに帝国を解散させた張本人でしたが、彼はこの時外交の全権を信頼する外相メッテルニッヒに任せていました。

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上が当時のオーストリア帝国皇帝フランツ1世です。(1768~1835)良く見ると、皇帝の被っている帝冠が明らかに大きすぎてアンバランスですね。 画家が構図と縮尺を無視してわざと強調したのでしょうか?(笑)

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そして上が時のオーストリア帝国外相クレメンス・フォン・メッテルニッヒ侯爵です。(1773~1859)彼は皇帝時代のナポレオンとフランツ1世の皇女マリー・ルイーズを結婚させ、オーストリアとフランスの共存と均衡を図る事に成功し、ナポレオン失脚後はヨーロッパの国際秩序の構築のため、皇帝フランツ1世の信任を得てウィーン会議を主催しました。

このウィーン会議は1814年9月に開催され、主催国オーストリアをはじめ、イギリス、フランス、ロシア、プロイセン、スウェーデン、スペイン、オランダなど、当時のヨーロッパ主要国のほとんどの全権代表が集まりましたが、各国はてんでにそれぞれの利害を主張するばかりで中々話はまとまらず、半年たっても結論が出ませんでした。 その間各国の代表使節団はウィーンで連日舞踏会やパーティに明け暮れ、主催国であるオーストリア(というより皇帝フランツ1世)がその費用の全てを負担していたそうです。

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上がウィーン会議の様子を描いた絵です。 話し合いが決着しないため、次第に彼らは連日の豪華なパーティや舞踏会にうつつを抜かすようになってしまいます。後にこの会議を表して有名な

「会議は踊る、されど進まず。」


と言われる所以です。そしてそれら各国の代表団の接待費用は全てオーストリア皇帝フランツ1世の言わば 「ツケ」 になっていました。これは主催国であり、帝国皇帝としてのメンツからやむを得ない事だったのでしょうが、ナポレオンとの長い戦争による莫大な戦費にあえいでいたフランツ帝にすればたまらないでしょうね。 各国の代表らはみな高い位の貴族たちがほとんどで、随行の者も含めて数千人からなる彼らのウィーン滞在中の宿泊から飲み食いの費用まで全部なのですから。もちろん皇帝のメンツにかけて粗末な物は出せませんから、全て一流の豪華な物を用意して皇帝とハプスブルク家の権威を各国に見せ付けなければなりません。おかげでこの会議の期間中ウィーンは皇帝からのたくさんの注文で好景気に沸いたそうですが、こんな事にいつまで金を使わせるのかと業を煮やしたフランツ帝がメッテルニッヒに会議の決着を催促し、メッテルニッヒが冷や汗をかきながら皇帝をなだめている姿が目に浮ぶ様です。(笑)

そんな事をして時間とお金を浪費するうちに、ナポレオンが旧家臣の手引きで追放先のエルバ島を脱出し、再び復権したとの報が入り、状況は一変します。すっかりだらけていた各国はこの事態に対応するために急遽妥協を図り、これを好機と見たメッテルニッヒは、ナポレオンによって奪われた北イタリアやヴェネツイアなど、かつてのオーストリアの領土の大部分を取り戻し、さらに新たな領土を獲得する事に成功します。(これでフランツ帝もさぞ上機嫌になった事でしょう。 接待にお金をつぎ込んだ甲斐がありましたね。 笑)さらに彼は、オーストリアやプロイセンをはじめ、旧神聖ローマ帝国を構成していた35のドイツ諸侯国と4つの帝国自由都市をもって、オーストリア皇帝をその盟主とする新たな国家連合として「ドイツ連邦」を成立させました。

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上がこの時発足した「ドイツ連邦」の領域図です。(黄色がオーストリア、 青がプロイセン、灰色がその他の君主国、そして赤線が旧神聖ローマ帝国です。)これは事実上かつての神聖ローマ帝国を名前を変えて復活させた様なものですが、ここで2つの疑問が浮びます。 一つはなぜメッテルニッヒはこんなものを創ったのでしょうか。 その答えは今も歴史家の間で意見が分かれる様ですが、恐らく彼は各国の勢力均衡のため、ヨーロッパ中央部に大きな軍事的緩衝地帯を置いておきたかったのでしょう。

また、もう一つの疑問としてなぜこの時点でドイツに統一国家が成立しなかったのでしょうか? それはやはり800年以上続いた神聖ローマ帝国という極めて特殊な国家の影響が大きいでしょう。 帝国の2大勢力であるオーストリアとプロイセンを除くその他の君主国はそれぞれ自主自存の意志を持った独立国であり、まだこの時点では同じドイツ民族として、互いの境界を無くして一つになるという考えに至っていなかったのがその原因と思われます。

さて、話がずれましたが、その後のヨーロッパの歴史はまたも変転します。1815年6月、復権したナポレオンは彼に不変の忠誠を誓う精鋭7万の軍勢をもって、彼にとって最後の戦いとなる有名な「ワーテルローの戦い」に臨みましたが、イギリス・プロイセン連合軍12万に敗れ、たった3ヶ月で再び退位してイギリス軍に降伏し、大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されてしまいます。 このあたりは、歴史好きの方であれば良く知られた話ですね。そして6年後の1821年5月、一代で皇帝にまで上り詰めた「英雄」ナポレオンは52年の波乱に富んだ生涯を閉じました。

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上がナポレオンの死に顔を描いた肖像です。彼の死因については不審な点が多い事から、長らく何者かによる毒殺説が唱えられていますが、もはや真相など永久に分からないでしょうね。 それにしてもこの地で彼はどんな思いでその晩年を過ごしたのでしょうか。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

宰相メッテルニッヒの誤算 ・ 三月革命とウィーン体制崩壊

みなさんこんにちは。

1815年、皇帝ナポレオン1世が「ワーテルローの戦い」に敗れて退位すると、イギリス、オーストリアをはじめとするヨーロッパ各国は、そもそもの混乱の元凶であったフランスに再び革命を起こさせない様にするため、フランスを元の王政国家に戻す事を画策し、フランス革命により処刑された旧ブルボン王朝最後の王ルイ16世の弟で、プロヴァンス伯爵であったルイ・スタニスラスをルイ18世として即位させました。 いわゆる「復古ブルボン朝」です。

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上が復古ブルボン朝のフランス王ルイ18世です。(1755~1824)彼はフランス革命勃発時にからくも難を逃れてイギリスで亡命生活を送り、ナポレオン失脚後は処刑された兄ルイ16世の次男で幼い王子17世がわずか10歳で哀れな最後(この少年の亡くなり方はあまりにひどくてかわいそうでとても自分には語れません。涙)を遂げた事から18世として即位しました。

このルイ18世は兄16世の失敗を教訓に、国王の国家予算の浪費を防ぐため、世界初の会計制度を取り入れ、また王権を法の下に制限する立憲君主制を構築するなどの一定の改革に貢献しましたが、1820年に親しかった甥のベリー公シャルルが市民らに暗殺されると人が変わった様にそれまでの方針を転換し、自ら親政を開始します。

「賤民どもが、よくもわが兄や甥たちを無残に殺してくれたな。 どうするか見ておれ!」

彼の中に、それまで抑えに抑えていた感情、市民たちが引き起こした革命によって兄や甥を殺された肉親の情が激しく燃え上がります。 彼は穏健だった政策を絶対王政に戻してしまい、反対者を徹底弾圧して行きます。 それはあたかも彼の個人的な復讐の様でした。


ルイ18世の政策は1824年の彼の死後、王位を継いだ弟のシャルル10世に受け継がれますが、弟シャルル王は兄以上に絶対王政の復活を強化したために市民の反発を買ってしまい、やがて1830年に再び革命(七月革命)を引き起こされ、ブルボン王朝の復活は潰え去ることになります。

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上が復古ブルボン朝2代国王シャルル10世です。(1757~1836)彼の政策は革命で財産を没収されたフランス貴族たちにそれを返し、旧ブルボン王朝の栄光を取り戻そうとするもので、国民の考えと相容れないものでした。(まさに本当の意味で「復古ブルボン朝」ですね。) 結局再び起こった革命によって彼は退位を余儀なくされ、復古ブルボン朝は2代わずか15年で消滅してしまいました。

さて、その頃ハプスブルク家のオーストリア帝国はどうしていたのでしょうか?

この時代、オーストリア帝国の主はフランツ1世という皇帝でしたが、青年期から激動するヨーロッパ情勢の過渡期に翻弄され、必死に帝国とハプスブルク家の栄光を守り抜き、すでに老齢に達していた彼はこの頃国政を信頼する重臣たちに任せていました。 そしてその重臣の中で最もフランツ帝の信任が厚かったのが、外務大臣として帝国の外交を担い、ナポレオンとの戦いを最終的に勝利に導いたクレメンス・フォン・メッテルニッヒ侯爵です。

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上がそのメッテルニッヒ侯爵です。(1773~1859)

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このメッテルニッヒについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。 ページ数は400ページ余りの割りに少し値段が高いですが、メッテルニッヒと彼が生きた時代について書かれた日本で最も詳細な本と思われます。

彼は外務大臣としてしたたかに国際情勢を計算し、時には謀略も辞さない冷徹な戦略家でもありました。 彼の活躍によってオーストリアはナポレオンに奪われた領土を取り戻し、傾きかけていた帝国は再び中央ヨーロッパに息を吹き返したのです。 フランツ帝はメッテルニッヒの働きに大いに満足し、1821年に彼を帝国宰相に任命して国政の全権を委ねます。


主君であるフランツ帝から厚い信頼を得たメッテルニッヒは、ハプスブルク家とオーストリア帝国繁栄のためにますます忠勤に励みます。 宰相として国政の実権を握った彼は、ナポレオン失脚後に自らが主催したウィーン会議でヨーロッパ各国と取り決めた、いわゆる「ウィーン体制」の下での国際関係の維持に心血を注ぎます。

このウィーン体制は、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアなどの主要国が国際的に協力し合い、勢力を均衡させる事で無秩序な革命を阻止し、正等君主制をもって平和と安定を維持していこうという建前でしたが、その裏で各国が諜報戦を展開してしのぎを削る「闇の戦い」が繰り広げられており、そしてヨーロッパ大陸にあってその中心にあったのがメッテルニッヒでした。

彼はウィーン体制で自らが創り上げた「ドイツ連邦」内において、学生たちによる自由主義を求める運動が盛んになると、これを「帝国への反逆」として苛烈な弾圧を加えていきます。 まず当時の知識人の養成を担う大学を厳重な監督下に置いて学生たちの行動を監視、また書籍の出版も当局の検閲無くしては一切出来ないよう義務付けます。

メッテルニッヒはこれらの「危険分子」の排除の永続化を目的として、彼の下に直属の「秘密警察」を創設して、彼の政策に反対する者たちを反帝国グループとして次々に逮捕、投獄していきました。 これが後に市民の反感を買い、彼の失敗の元になるのですが、彼のこうしたやり方は、後のナチスのゲシュタポや、旧ソ連のKGB、さらに戦前のわが国の特別高等警察(特高)、そして現代においてもまだいくつか存在する「独裁国家」の支配のあり方の元祖となり、またそうでない普通の民主国家においても、治安の維持と犯罪を取り締まる通常の警察とは別に、大抵の場合多かれ少なかれ体制に反対する団体や組織を監視、摘発する事実上の秘密警察が置かれています。

例えばわが日本においても、犯罪を取り締まる普通の警察(街中で見かける交番やパトカーのお巡りさん)とは別に「公安警察」というものがあります。これは戦前の特高を戦後名を変えて復活させたもので、極左、極右は言うに及ばず、なんとクーデター防止のために自衛隊まで監視しているそうです。 よく右翼団体の街宣車の後ろにぴたりと張り付く、スーツ姿の屈強な男たちが乗り込んだ明らかな公安の専用車を見かけます。またこれから話す事は私たち国民にほとんど知られていない事ですが、彼らは秘密捜査のため、全国の様々な職場などに潜入して諜報活動をしているそうです。(まるでテレビドラマの様な話ですが、「事実」なのです。)もしかしたら今これをご覧になっているみなさんの職場にも、そんな秘密任務の公安警察官が密かに潜入しているかも知れませんよ。それはみなさんの良く知る同僚など、身近の意外な人物かも知れません。(笑)

さて話を戻しますが、メッテルニッヒは周辺国と再び戦火を交える事態に立ち至った際、オーストリア帝国に極力戦禍が及ばないようにするため、その気になればいつでもわけなく併合できる様な小国を国境線上にいくつも置いています。これはその向こう側の敵国との戦闘の際、それらの小国を戦場にする事で帝国に被害が及ばない様にするためで、いわば「犠牲」にするためです。 その彼の方針を如実に表した言葉で、彼自身がこんな事を言っています。

「イタリアは地理的概念に過ぎない。」

つまり、イタリアなどという国は歴史上一度も存在せず、単に地域を表すものだというものです。 イタリアといえば現代の私たちには「長ぐつみたいな形の国」というイメージがありますね。(スパゲティやピザのイメージも強烈ですが。笑) しかし今のイタリアという国が統一国家として成立したのはこの時代より40年も後の1860年代になってからで、この頃までのイタリア半島は古代ローマ帝国滅亡以来、複数の小国に分かれていました。


メッテルニッヒはオーストリアの軍事的防波堤としてイタリア地域を想定し、その向こう側の仮想敵国フランスに備えていたのです。 そのためには断じてイタリア半島に統一国家などを成立させてはならず、いつまでも分裂させておく必要があります。 彼はイタリア半島の人たちにも芽生えつつあった「自分たちの国を造る」という考えの芽を摘み取るため、先の様な事を言ったのです。

しかし、フランス革命がヨーロッパの人々に及ぼした影響は彼の想像をはるかに超えていました。フランス革命の精神、すなわち人は生まれながら誰もが平等であり、その権利は何者も犯す事の出来ない神聖なものであるという考えは、それまで人は生まれながらに身分が決められ、その身分で一生を生きるのが当たり前と思われていた当時の人々に、王侯貴族の支配する古い国のあり方から、名も無い自分たち人民による新しい国のあり方を創り上げていくのだという熱い思いを醸成していったのです。これはメッテルニッヒの大きな誤算でした。

そうした人々の熱い思いは、いくらメッテルニッヒが帝国の内外に目を光らせても一掃する事は出来ませんでした。 そして1848年3月、ついに運命の時を迎える事になります。人々はついに各地で立ち上がり、メッテルニッヒ政権打倒の火の手が上がります。「三月革命」の勃発です。

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上が三月革命の様子です。この革命は上の絵でお分かりの様に最初はフランスで起こり、その後ドイツ、オーストリアなど各地に伝播していきました。この時、メッテルニッヒの後ろ盾であった皇帝フランツ1世はすでにこの世になく、帝位はその長男フェルディナンド1世が継承していました。

皇帝フェルディナンド1世はこの一連の革命騒ぎを抑えるため、メッテルニッヒを帝国宰相から解任します。 こうしてそれまで27年に亘りオーストリア帝国宰相として権力の頂点に君臨していたメッテルニッヒは失脚しますが、メッテルニッヒの恐怖政治に長く虐げられていた市民の怒りは収まらず、皇帝はじめ宮廷と主だった貴族たちはインスブルックの王宮に避難し、居場所を無くしていたメッテルニッヒは同盟国イギリスに亡命。 彼が築いたウィーン体制は完全に崩壊してしまったのです。

しかし、この三月革命ははじめは勢いが強かったのですが、時を経るうちに次第に人々の熱意は下がってしまいます。やがて帝国軍は帝都ウィーンをはじめ各地の反乱を鎮圧。オーストリアの議会では旧体制派が議席を奪回し、皇帝と貴族たちもウィーンに戻り、革命を招いた元凶のメッテルニッヒさえ3年後の1851年に亡命先のイギリスから帰国を許されています。つまり、フランス革命の様なドラマティックなものではなく、中途半端な大騒動で終わってしまったのです。

オーストリア帝国史上初の革命がこの様な結末を迎えた原因はいくつかありますが、最も大きな理由として、革命の求心力となる強力な指導者がいなかった事がその原因ではないかと思われます。 名も無い大勢の市民が集まって力ずくで旧政権を倒した。そこまでは良いとして、彼らをまとめる有力な指導者がいないために、そこから市民たちは何をどうして良いやら分からず、結局は破壊と略奪に終始するのみになってしまったのです。

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上は晩年のメッテルニッヒの肖像です。彼はオーストリアに帰国後一切の公職から身を引き、ウィーンの自宅でひっそりと晩年を過ごし、1859年に86歳の長寿で亡くなりました。かつて有能な青年外交官としてヨーロッパ中を飛び回り、フランス革命という大事件に始まる巨大な歴史のうねりを乗り越え、ナポレオンという稀代の英雄をも向こうに回し、ついには帝国宰相としてオーストリアはおろか全ヨーロッパを動かした最高権力者の彼も、歴史というものに翻弄された脆弱な一人の人間に過ぎませんでした。

次回に続きます。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

運命の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 ・ 血塗られた若き絶対君主

みなさんこんにちは。

1848年のウィーン3月革命で、それまで最高権力者として絶大な権力を振るい、自由主義や帝国に反旗を翻すものを徹底的に弾圧してきたオーストリア帝国宰相メッテルニッヒは失脚してしまいました。 彼を宰相職から解任したのは時の皇帝フェルディナント1世という人物でしたが、それまで長い間メッテルニッヒの圧政に耐え忍んで来た市民らの怒りはそれだけでは到底収まらず、革命勢力の勢いに危険を感じた皇帝は、宮廷を一時的にチロルのインスブルックに避難させ、宮廷を支える大勢の貴族たちもそれに従い脱出します。


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上が時のオーストリア皇帝フェルディナント1世です。 (1793~1875) 彼はオーストリア帝国2代皇帝でしたが、生来病弱で国政をメッテルニッヒら重臣たちに任せきりにしていました。 彼が行った重要な事と言えば、そのメッテルニッヒを解任し、宮廷を避難させた事、さらにかつて「日の沈まない帝国」と呼ばれた世界帝国の主である偉大な先祖カール5世以来300年ぶりに、皇帝自ら「退位した」事くらいでしょう。(彼の父である先帝フランツ1世も 「神聖ローマ皇帝 」を退位していますが、彼はすぐに「オーストリア皇帝」に即位しているので、事実上このフェルディナントがカール5世以来の皇帝退位です。また彼は病弱なのにも関わらず意外に長命で、82歳の長寿を全うしています。本当に病弱だったのでしょうか? 笑)

しかしインスブルックに避難した後も市民らの怒りは治まらなかったため、皇帝は周囲の廷臣や貴族たちに半ば迫られる形で退位せざるを得なくなります。 理由としては、先に述べた様に彼が病弱であった事から子孫を儲ける事が出来ず、さらに政務の全てをメッテルニッヒなどの重臣に委ねる事になった事が今回の争乱を引き起こしたという批判と、父フランツ帝や宰相メッテルニッヒ同様、彼自身も厳格な保守主義者であり、改革や変化を嫌ってひたすら過去の帝国の姿を求め続けた事が考えられます。

「何も変えてはならぬ。 それこそが帝国とわがハプスブルク家の生きる道なのだ。」

先帝フランツ1世は死の間際、後継者フェルディナントにこういい残していました。 そしてお気に入りの宰相メッテルニッヒを信じ、彼に全てを任せておけば良いのだと。 父の言葉を息子は忠実に守りましたが、その結果がこの革命の勃発でした。 そしてそれにより、ハプスブルク家はそれまでの皇帝がせっかく醸成してきた「改革」と「進歩」に背を向け、「停滞」と「過去の栄光」にしがみ付く様になってしまったのです。

この3月革命自体は、その後帝国軍の名将ラデツキー将軍らの活躍で鎮圧され、オーストリアの混乱は終息に向かいますが、帝国はもっと若い新たな指導者を求めていました。

1848年12月、フェルディナント1世は正式に退位し、新しい皇帝として甥に当たるフランツ・ヨーゼフ1世が即位、オーストリア帝国は新たな時代を迎える事になります。 ここに運命の皇帝の誕生です。


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上が新皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916) 彼は伯父フェルディナント1世に子がいなかった事から、伯父帝の退位により若干18歳で即位しました。(彼の写真や肖像画はたくさんあり、後にいくつか載せていきますが、ほとんどが年を取った晩年の大きな髭を生やした姿ばかりです。 しかし若い頃は上の様にとても美男子だった様ですね。驚)

フランツ・ヨーゼフ: ハプスブルク「最後」の皇帝 (河出文庫)

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このフランツ・ヨーゼフ1世について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。 日本のハプスブルク研究の第一人者である江村洋教授の執筆されたものの一つで、フランツ・ヨーゼフ帝の生涯が、彼の死とともに滅びゆくオーストリア・ハンガリー帝国の歴史とあわせて語られていきます。 ページ数は450ページ余り、値段も手ごろで文章も堅苦しさを感じさせないとても読みやすい本です。

このフランツ・ヨーゼフ1世こそ、後のオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝となるべく生まれて来た存在といえるでしょう。 二重帝国は彼が創り出し、彼の人生とともに歩み、そして彼の死をもって潰え去るのですから。

さて、オーストリア本国における3月革命は終息に向かっていましたが、それ以外の帝国の各地では今だ激しい革命の争乱が続いていました。 特に帝国内で古くから最大の勢力を持つハンガリーと、統一国家成立への道を模索し始めたイタリアで、帝国軍と革命勢力との激しい戦闘が続いており、新皇帝フランツ・ヨーゼフにとってこれらの速やかな鎮圧が最初の大仕事となります。

といっても、皇帝とはいえまだ18歳に過ぎない彼に、革命の鎮圧はもちろん国政の全てが出来ようはずもなく、帝国の舵取りはメッテルニッヒ失脚の後、新たに帝国宰相となったシュヴァルツェンベルクが担います。


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上が新宰相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵です。(1800~1852) 彼は経験豊かな政治家で国際政治にも長けた有能な外交官であり、軍人でもありました。 残念ながら在任期間わずか4年ほどで亡くなりますが、政治、軍事、外交に活躍し、まだ若年のフランツ・ヨーゼフを良く補佐して皇帝から「最高の大臣」と称えられました。

フランツ・ヨーゼフはまず、帝国内の最大勢力ハンガリーの革命勢力を潰す事に決し、シュヴァルツェンベルクにそれを命じますが、当時オーストリア帝国軍は各地に飛び火していた革命勢力の鎮圧のためにその多くが出払っており、ハンガリーの革命勢力を叩くには帝国軍の兵力がとても足りない状況でした。

そこでシュヴァルツェンベルクは、先代宰相メッテルニッヒ並みのしたたかさで一計を案じます。 それは隣国ロシアに援軍を求め、その軍勢をもってハンガリーの革命勢力を挟み撃ちにするというものです。 しかし彼は何を餌にしてロシアを動かしたのでしょうか? それは簡単です。 それは「餌」というよりいわゆる警告で、

「このままハンガリーの革命を野放しにすれば、いずれ貴国にもそれが及びますぞ。 その前に力を合わせて葬ってしまいましょう。」

シュヴァルツェンベルクはフランツ・ヨーゼフの了解を得て、当時のロシア皇帝ニコライ1世に上の様にしたためた手紙を送り、事態を憂慮したニコライ1世からハンガリーへの出兵の約束を取り付ける事に成功します。


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上は当時のロシア皇帝ニコライ1世です。(1796~1855) 彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝11代皇帝で、当時のハプスブルク家同様「変化」を嫌う厳格な保守主義者でした。宰相シュヴァルツェンベルクはそんな彼の性格を上手く利用したのです。(ちなみにこのニコライ1世は、あの「白衣の天使」で有名なナイチンゲールが活躍したクリミア戦争の時のロシア皇帝です。)

こうしてオーストリア帝国軍は若き新皇帝フランツ・ヨーゼフの名の下、ハンガリー革命勢力壊滅作戦を開始します。 彼らのたくらみは見事に成功し、東からは約束通りロシアの大軍がハンガリーに侵攻、勝ち目の無くなった革命勢力のメンバーは次々に討ち取られてしまいます。 こうしてハンガリーの争乱も終息に向かうのですが、実はここでフランツ・ヨーゼフは、その高貴な人生の初めに生涯の禍根ともなる大きな過ちを犯してしまったのです。

それは彼の軍勢がハンガリーにおいてあまりに徹底した弾圧を加えたために、戦闘での死者も含めて大勢の市民が巻き添えとなってその犠牲となってしまったからです。 そして元来独立心の強いハンガリー人の独立への夢を潰し、たくさんのハンガリー人の命を奪ったとして、以後彼は「血塗られた悪の皇帝」というレッテルを貼られ、その名はハンガリー人たちの心に憎悪の対象として深く刻み込まれてしまう結果となってしまいました。

そしてこの事が、後のオーストリア・ハンガリー帝国成立のきっかけになるのですが、多民族で構成されるオーストリア帝国の中で、皇帝フランツ・ヨーゼフは帝国の維持と、ハンガリー人の自分に対する悪いイメージを払拭するために、ハンガリーに対して他の民族よりはるかに優遇した特権を与え続ける事になります。 しかし、いくらそうして過去の過ちを相殺しようとしても、一度してしまった事は取り返しがつかず、ハンガリー人の皇帝への悪感情が消える事はありませんでした。(それは現在でも変わらず、今でもハンガリーの人々は、後にお話しする彼の皇妃エリザベートは大変慕っていますが、その夫である皇帝フランツ・ヨーゼフは嫌っています。)

その後もフランツ・ヨーゼフは、帝国の内外でくすぶる内乱鎮圧に奔走しますが、この時のハンガリーでの失敗が、その後の彼の人生とハプスブルク家に重くのしかかっていく事になります。

次回に続きます。

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イタリア統一と普墺戦争 ・ ビスマルクの罠

みなさんこんにちは。

1848年の3月革命と、それによるウィーン体制の崩壊によって、若干18歳の若さで新たにオーストリア皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、その最初の大仕事として帝国内外での激しい戦いを一刻も早く鎮圧させる必要に迫られていましたが、残念ながら彼はその86年に及ぶ長い生涯において、およそ戦争をして勝つ事は出来ませんでした。


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上がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世です。(1830~1916)30代の頃のものと思われます。すごいヒゲですね。(笑)

彼はまずハンガリーなど、帝国本土の内乱を終息させる事には成功したものの、その後3月革命が飛び火したイタリア方面における戦争(イタリア統一戦争)に敗れ、北イタリアの帝国領土を失ってしまいます。


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上が当時のイタリア方面の地図です。いくつかの小国に分かれていますが、このイタリア統一戦争はこれらを一つにまとめ、この地域に「イタリア」という新国家を建設しようと試みたもので、最終的にフランスの支援を受けたヴィットリオ・エマヌエレ2世率いるサヴォイア王家のサルデーニャ王国がイタリア全土を統一し、1861年に「イタリア王国」が成立します。(上の図の年号はサルデーニャ王国が征服、併合した年です。)

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上がイタリアを統一し、初代イタリア国王となったヴィットリオ・エマヌエレ2世です。(1820~1878)彼はフランスとオーストリアという大国に挟まれた北イタリアの小国サルデーニャの国王に過ぎませんでしたが、両国の不仲と混乱を巧みに利用し、ついに念願のイタリア統一を成し遂げました。(まさに「世渡り上手」ですね。)

当時この北イタリアにはオーストリアの領土であるロンバルディア・ヴェネトがありましたが、イタリア統一を狙うエマヌエレ2世と、それを裏で支援し、オーストリアをイタリアから追い出したいフランスのナポレオン3世の利害が一致し、彼らは協力してこの地に軍を進めてきたのです。

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上がそのナポレオン3世です。(1808~1873)彼はみなさんもご存知の英雄ナポレオン1世の甥に当たる人物で、最初は共和制における一政治家に過ぎませんでしたが、やがてフランス議会で台頭し、ついに偉大な伯父1世を受け継いで「フランス皇帝ナポレオン3世」として即位しました。(いわゆる「第二帝政」というものです。ちなみに彼が「3世」を名乗っているのは、その前に伯父ナポレオン1世と当時のオーストリア皇帝フランツ1世の皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた実の子で、彼にとっては従兄弟である「ナポレオン2世」がいたからですが、その彼は父ナポレオン1世退位の後、「ライヒシュタット公」としてオーストリア・ハプスブルク家に預けられ、1832年に21歳の若さで亡くなっています。)

これに対し、フランツ・ヨーゼフはこれを阻止せんと自らオーストリア軍を率いて北イタリアに出陣し、フランス・サルデーニャ連合軍を迎え撃ちます。「ソルフェリーノの戦い」の始まりです。


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上が1859年6月に、フランス・サルデーニャとオーストリアが北イタリアの支配権を巡って激突した「ソルフェリーノの戦い」の様子です。両軍の兵力は皇帝フランツ・ヨーゼフ自ら率いるオーストリア軍10万に対し、これもフランス皇帝ナポレオン3世と、サルデーニャ王エマヌエレ2世が直接陣頭指揮に当たる連合軍12万で、ほぼその戦力は互角でしたが、戦闘の結果はオーストリア軍の敗北に終わりました。これによりフランツ・ヨーゼフはナポレオン3世との講和条約で、ヴェネツイア以外の北イタリア地域のフランスへの割譲を余儀なくされます。

一方北ドイツでは新たな脅威がオーストリアに迫りつつありました。1862年にプロイセン王国首相に就任したビスマルクが大胆な軍制改革を行い、ドイツ統一のための対外政策を開始したからです。


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上が当時のプロイセン王国首相オットー・フォン・ビスマルク侯爵です。(1815~1898)彼については「鉄血宰相」として有名ですね。後に成立するドイツ帝国宰相となり、伊藤博文をはじめとするわが明治政府に多大な影響を与えた人物である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。

ビスマルクにとって、プロイセンを盟主とするドイツ帝国を成立させるにはオーストリアとフランスの存在が邪魔でした。そこでまず彼は手始めにオーストリアから片付ける事にします。それはオーストリアがメッテルニッヒの時代に成立させたドイツ連邦からのプロイセンの脱退を通告する事でした。

ドイツ連邦はオーストリア帝国をその盟主とする国家連合でした。つまりオーストリア皇帝であるフランツ・ヨーゼフがプロイセンを含む全ドイツの主であるのです。しかし連邦で最大の王国プロイセンが脱退すれば連邦は崩壊してしまい、フランツ・ヨーゼフの面目は丸つぶれです。彼はビスマルクの通告に怒り、プロイセンを懲らしめるために連邦内の他の同盟国に呼びかけてプロイセンへ宣戦を布告してしまいます。これが「普墺戦争」の始まりです。

しかし、これこそビスマルクの罠でした。彼はオーストリアと戦争をする大義名分が欲しかったのです。当時先に統一されたイタリアに触発され、ドイツ人たちの間でも統一国家の成立が強く望まれていたのですが、その範囲をどの程度にするか大きく2つの考えに分かれていました。一つは純粋なドイツ民族だけで構成する「小ドイツ主義」、そしてもう一つは他の民族を支配するオーストリアも含めた「大ドイツ主義」です。そしてビスマルクが考えていたのは前者の純粋なドイツ民族によるドイツ帝国の成立であり、そのためには多民族国家オーストリアをドイツから排除する必要がありました。

皇帝フランツ・ヨーゼフはプロイセン討伐のため、同盟国も含めてなんと60万もの兵力を集めました。これに対し、プロイセンもビスマルクの策略によって連邦内の構成国を味方に付け、50万の兵力でこれに対抗します。さらにビスマルクは統一の先輩イタリアも味方に引き入れる事に成功し、イタリア軍30万がこれに加わりました。

フランツ・ヨーゼフにとってこれは予想外の展開でした。大軍で圧倒してプロイセンの抗戦意志を削ぐのが目的だったのに、連邦内の同盟国はプロイセンへの寝返りが相次ぎ、さらに南のイタリアに備えて兵力を南北に分けなくてはならなくなったからです。1866年6月、両国はついに開戦し、各地で両陣営の戦闘が始まりましたが、最終的な決着はオーストリア軍とプロイセン軍との直接対決が鍵を握っていました。そしてそれは思いのほか早く到来します。同年7月3日、両軍はボヘミア北部ケーニッヒグレーツで対陣し、戦闘が開始されました。これが「ケーニッヒグレーツの戦い」です。


この戦いの両軍戦力はオーストリア軍20万に対し、プロイセン軍22万とほぼ互角でしたが、両軍の間には決定的な違いがありました。それは両軍兵士たちの持つ小銃です。実はこの時期、銃の歴史において画期的な新型銃が出現し、それがこの戦いの、いやこの戦争の決着を短期間で決めてしまったからです。

プロイセン軍は、優れた銃器設計者ドライゼが開発した世界初の「後込め式小銃」を全将兵に持たせていました。この銃は読んで字の如く、弾薬を銃口から入れるのではなく手元のボルトを操作して後ろから入れるもので、この銃の出現により射撃と弾薬の装填が飛躍的に早くなりました。


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上がプロイセン軍の新型小銃「ドライゼ」です。(この種類の銃を「ボルトアクション式小銃」と言います)それまでの小銃と言うのは先に述べた様に弾薬を銃口から入れる「先込め式」で、銃口の下に見える長い棒で弾薬を奥まで押し込まなければならず、射撃から装填まで1分ほどもかかるものでした。このドライゼ銃は、上の写真のボルトを後ろへ動かしてそこに弾薬を装填するタイプで、射撃と装填は5倍の速さで出来る様になりました。またこの銃はいわゆる現代の銃の原型であると同時に世界初のボルトアクション式小銃でもあります。

それに対し、オーストリア軍将兵は従来型の先込め式小銃であり、まさに兵器の質の点ですでに勝敗が決していたと言っても良いでしょう。プロイセン軍はオーストリア軍に比較にならない速さで集中射撃を浴びせ、大勝利を得ました。(この戦いで両軍の死傷者はプロイセン軍約9千に対し、オーストリア軍はその5倍に登る4万4千というものでした。)

この戦いの敗北で皇帝フランツ・ヨーゼフは帝都ウィーンを守るため、急遽プロイセンとの講和に臨まざるを得なくなってしまいました。普墺戦争はこうしてたった7週間で終わってしまったのです。結果はオーストリアの大敗に終わり、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は崩壊、事はビスマルクの思惑通り進み、翌1867年彼はプロイセンを盟主とし、その他の同盟国22カ国をもって「北ドイツ連邦」を成立させる事に成功しました。


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上が北ドイツ連邦の地図です。ザクセン、バイエルンなどを除くドイツ中部から北部のほとんどが参加しています。この戦争の敗北により、オーストリア帝国はドイツから完全に閉め出される事になってしまいました。

イタリア統一戦争と普墺戦争の相次ぐ敗北によって、フランツ・ヨーゼフのオーストリア帝国は大きくその力を削がれてしまいました。そして彼らはその存立のため、新たなアイデンティティを求めて行く様になります。

次回に続きます。

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