ツァーリ・ボンバ ・ 世界を滅ぼす魔の「皇帝」

みなさんこんにちは。

今回から新しいテーマとして、これまでの歴史で人類が作り出した数々の知られざる「びっくり兵器」についてお話していきたいと思いますので、ご興味をお持ちの方は暇つぶしにお立ち寄りください。

第1回は今だ記憶に新しい東西冷戦下の時代、旧ソ連において造られた史上最大の核兵器、「ツァーリ・ボンバ」についてです。

このツァーリ・ボンバは1961年(昭和36年)7月、当時のソ連首相ニキータ・フルシチョフの命令によって造られ、3ヵ月後の同年10月末にソ連北方の北極に近い大きな島、ノヴァヤゼムリャで爆発実験が行われました。


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上が当時のソ連首相セルゲイ・ニキータ・フルシチョフです。(1894~1971)彼はレーニンに始まる旧ソ連3代目の最高指導者であり、先代の独裁者スターリンによる数々の圧政と個人崇拝を批判したのは良く知られていますね。彼がソ連の指導者として君臨していた時期は、アメリカとの激しい核兵器開発競争の真っ只中にありました。

フルシチョフは、アメリカを始めとする西側諸国との「共存」をその基本政策にしていましたが、同時にソ連の軍事的強大さをアメリカに見せつけるために、これまで米ソ両国で行われたどの核実験をも凌ぐ、最大最高の威力を持つ「水爆」による核実験を実行させたのです。


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上が水爆ツァーリ・ボンバの実物大の模型です。横に写っている人たちと比較すると、いかに巨大な物かお分かりいただけると思います。この水爆はソ連における「水爆の父」と呼ばれた(あまりうれしくないというか、自慢にならない呼び名ですね。苦笑)アンドレイ・サハロフ博士らのグループによって開発されました。

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上がツァーリ・ボンバの生みの親であるアンドレイ・サハロフ博士です。(1921~1989)彼はこの時40歳で、他にも多くの核兵器を開発した当時のソ連最高の物理学者であり、1948年のソ連最初の原子爆弾も、若干27歳の彼の手により造られた物でした。しかし、彼はこのツァーリ・ボンバを始め、自らが造り出してしまった多くの核兵器の実験による放射能汚染のひどさを目の当たりにし、それまでの自分のキャリアを捨てて核兵器反対を訴えていく様になります。

さて、前置きが長くなりましたがこの史上最大の水爆「ツァーリ・ボンバ」についてのお話を続けます。

そもそもこの怪物爆弾の名前「ツァーリ・ボンバ」の由来はロシア語で「爆弾の皇帝」を意味し、単純にその巨大さと、他に並ぶものの無い破壊力の凄まじさから、あらゆる全ての核爆弾の王の中の王すなわち「皇帝」として、西側諸国によって名づけられました。

その大きさはなんと重量27トン、全長8メートル、直径2メートルという巨大なものです。ここでこの「水素爆弾」というものの原理についてごく簡単にご説明すると、その名の通り水素をそのエネルギー源に、この核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用して核融合反応を誘発し、莫大なエネルギーを放出させるものです。大変な高温による核融合反応(熱核反応)を起こす事から「熱核爆弾」や「熱核兵器」とも呼ばれ、その破壊力は原爆をはるかに上回ります。(この水素に核融合反応を起こさせるには膨大なエネルギーが必要であり、そのため水爆の起爆装置には「原爆」が使われているそうです。)

1961年10月30日、この水爆実験のために特別に改造されたソ連最大の戦略爆撃機TU-95によって、先に述べたノヴァヤゼムリャ上空に運ばれ、北緯73度付近の高度1万500メートル付近で投下されました。


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上がそのノヴァヤゼムリャの位置と、ツァーリ・ボンバを運んだソ連最大の長距離戦略爆撃機TU-95です。(全長約50メートル、四発の大型プロペラ機ですが、驚くべき事にこの爆撃機、現在でもロシア空軍で現役で使用されているそうです。その理由はプロペラ機でありながら最大時速900キロ以上を誇る高速性で、ターボジェットエンジンであるアメリカ軍の長距離戦略爆撃機B-52の最大時速860キロを凌ぎ、また今日においてもこのTU-95を越える速度のプロペラ機はなく、世界最速のプロペラ機として有名だそうです。)

このツァーリ・ボンバはその巨大さから、そのままではTU-95に搭載できなかったため、爆弾倉の扉と翼燃料タンクは実験に際して取り外され、それでも全容を納める事は出来ず、やむなく半埋め込み式に搭載されました。


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上がその様子と爆弾投下の瞬間です。(不鮮明ですいません。汗)爆弾の後ろにたなびいているのは爆弾の投下速度を遅らせるための減速用パラシュートで、これだけでも重さは800キロにもなったそうです。これを取り付ける理由は投下機が爆心地から45キロメートル程にある安全圏へ退避する時間を与えるためで、もしこれが無ければ猛烈な熱線と衝撃波が搭乗員もろとも投下機を一瞬にして消し去ってしまい、また弾頭が高速で地面に激突して一面に想像もつかない結果を引き起こしてしまうからでした。

ツァーリ・ボンバは高度4千メートルに達したところで空中爆発、爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う熱線の効果範囲は実に58キロメートルにも及んだと見られています。


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上の3枚の写真がツァーリ・ボンバ爆発の瞬間を捉えたもので、4枚目と5枚目が他の核実験で使われたものとの火球とキノコ雲の比較です。(数字は中心からの距離で、つまりツァーリ・ボンバの火球の直径は4.6キロ)爆発による火球は地表まで届き、上部は投下高度と同程度の高度1万メートルまで到達し、その様子は千キロメートル離れた地点からも見えたそうです。これにより生じたキノコ雲は高さ60キロメートル、幅30~40キロメートルにまで達しました。(ちなみに核爆発で生じる「キノコ雲」というのは、爆発による熱線によってその周辺の空気中の水分が一瞬にして気化蒸発し、水蒸気となって上に上がっていく現象です。)

水素爆弾の性質上、核分裂による放射性汚染はわずかでしたが、この爆発による衝撃波は地球を3周してもなお空振計に記録され、日本の測候所でも衝撃波到達が観測されたそうです。その威力は50メガトン(1メガトンは千キロトン、つまり百万トン分のTNT爆薬が爆発したときに発するエネルギーに相当する核出力を意味します。TNT爆薬とは、核兵器以外で最も破壊力の強い高性能爆薬の事です。)人類がこれまでに造り出した最大最強の兵器であり、同時に世界を滅ぼす威力を持ったまさしく「魔の皇帝」でした。

最後に、この怪物爆弾を出現させた2人の人物、フルシチョフとサハロフ博士についてお話して置きましょう。実験を命じたフルシチョフはその後、1962年に米ソ核戦争の瀬戸際までに至った有名な「キューバ危機」を、当時のアメリカ大統領ケネディとの間で上手く収め、またサハロフ博士の進言を聞き入れて、アメリカやイギリスと「部分的核実験禁止条約」を結び、核軍縮を進めるなどの功績を残したものの、その短気で激情的な性格から暴言や粗野な振る舞いが嫌われ、さらに権力を自分に集中させようとした事から、1964年10月(昭和39年、わが国では東京オリンピックの年ですね。)政敵であるレオニード・ブレジネフらの反フルシチョフグループによって強制的に更迭され、失脚してしまいました。


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上が会談するケネディとフルシチョフです。みなさんもご存知の様にケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚し、1971年(昭和46年)に77歳で亡くなるまで、モスクワ郊外の別荘で当局の監視下に置かれてしまいます。(部屋中に盗聴器が仕掛けられていたそうです。)ちなみにこのフルシチョフは、意外にもわが日本に対しては親日的で、特に戦後の焼け跡から復興し、驚異的な経済発展を遂げていた当時の日本の姿を大変羨み、

「わがソ連がサンフランシスコ平和条約に調印しなかったのは誤りだった。たとえ北方領土問題で譲歩してでも、日本と友好関係を持つべきだった。」

と述べています。彼があのままソ連の指導者であったなら、今日も続く北方領土問題は違った展開を見せていたかもしれませんね。(個人的な考えで恐縮ですが、この件さえ片付けば、わが国はロシアといくらでも友好関係を持てると思います。個々のロシアの人々はとてもいい人たちなのですから。)

そしてツァーリ・ボンバの生みの親であるサハロフ博士は、先に述べた様にこの実験の後で核兵器反対を唱え、さらにそれはソ連共産党指導部への自由と民主化を求める反体制的運動へとエスカレートしていきました。やがて彼はその活動が国際的に評価され、1975年(昭和50年)にノーベル平和賞を受ける事になりますが、次第にブレジネフらのソ連政府にとって邪魔な存在となっていきます。そして1980年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻に際しても公然と抗議したため、業を煮やしたブレジネフ書記長によって一切の栄誉を剥奪され、流刑にされてしまいました。

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上がサハロフ博士を流刑にした当時のソ連最高指導者レオニード・ブレジネフ書記長です。(1907~1982)彼はフルシチョフを失脚させた後、亡くなるまで18年間もソ連の最高権力者として君臨し続けました。しかし、その間に彼がした事といえば、国内での激しい権力闘争とアフガニスタンへの侵攻、モスクワオリンピックでアフガニスタン侵攻に抗議する米国以下西側諸国のボイコット、さらに米国との止め処の無い軍拡競争とその挙句の財政破綻が、9年後の1991年にソ連崩壊を招いた事は記憶に新しいですね。(多分多くの人が、彼のその太い眉毛に注目してしまうかもしれませんが。笑)

しかしその後、1986年(昭和61年)に改革派のゴルバチョフが書記長となって流刑を解かれ、彼の進める「ペレストロイカ」を支持してその改革に大きく寄与し、さらにその良心と勇気に基づく発言が西側の人々の尊敬も集めました。そして1989年(平成元年)2月に日本にも来日して即位されたばかりの今上天皇陛下にも謁見を賜わり、同年12月に68歳で亡くなりました。

このツァーリ・ボンバは単一の兵器としては人類史上最大最強でしたが、その巨大さゆえに実戦には不向きとされ(この地球上で核兵器そのものが不向きだと思いますがね。)量産される事はありませんでした。この様な恐ろしい「皇帝」が二度とこの世界に出現する事の無い様祈るのみですね。(「皇帝」は世界でただ一人、東京の皇居におられるわが天皇陛下お一人で十分です。笑)


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80センチ列車砲 ・ 史上最大の大砲

みなさんこんにちは。

今回のびっくり兵器は、これまで人類が造りだした大砲の中で最大の大きさを誇る、ドイツの「80センチ列車砲」についてご紹介します。

兵器についてお詳しい方ならばよくご存知と思いますが、初めて知る方のために改めて説明させていただくと、この80センチ列車砲というのは、第二次大戦中に当時のナチス・ドイツがその威信をかけて開発した超大型砲の事です。下に写真をいくつか載せますので、まずはその巨大さをご覧ください。


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上が今回のテーマの主役「80センチ列車砲」です。この巨大な大砲はドイツ最大の重鉄鋼企業クルップ社によって造られました。

総重量およそ1350トン、砲身も含めた全長は47.3メートルに達し、その重量を支える台車のために、線路はなんと複々線(つまり線路が4つ)も必要だったそうです。そしてその名の由来である口径(大砲の穴の大きさ)は80センチ、その巨大な砲門から発射される砲弾の重さは最大7トン、最大射程距離は48キロメートルという、まさに何もかも全てが最大の「怪物」でした。

もともとこの砲は、第一次大戦後にフランスがドイツとの国境線上に築いた長さ数百キロに及ぶマジノ要塞の攻略用に1934年から開発が始まり、当初は3両造られる予定でしたが、そのあまりの巨大さゆえに第二次大戦勃発に間に合わず、1940年にようやく2両が完成しました。(3両目は開戦当初の戦局がドイツ軍の圧倒的優勢に進んだために必要ないと判断され、中止となった様です。)

完成したこの2両の「怪物」は、当時のクルップ社の会長であったグスタフ・クルップと、設計者エーリッヒ・ミュラーの妻の名を取って(こんな怪物みたいな大砲に自分の名を付けられて、この奥さんはなんて思ったでしょうね。笑)「グスタフ」「ドーラ」と名づけられました。しかし、完成時すでに第二次大戦は始まっており、ドイツ軍機甲部隊はマジノ要塞を迂回してフランス領内になだれ込み、要塞の後方からフランス軍に襲い掛かってあっけなくフランスを降伏させてしまったので、当初の目的であったマジノ要塞攻略で使われる事はありませんでした。

それにしても、よくもこんな化け物みたいな大砲を造り出したものですが、一体誰がそれを命じたのでしょうか? もちろんそれは言わずと知れた事ですね。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーです。


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上の一枚目がこの巨砲を視察に訪れたヒトラー。そして彼の隣にいるナチスの紋章ハーケンクロイツの腕章をした人物が、軍需大臣アルベルト・シュペーア(1905~1981)です。2枚目は後姿ですが、右からシュペーアとヒトラーです。

ヒトラーがこのお化け大砲開発の許可をした真意は不明ですが、あの人物の事です。実戦兵器としての価値よりも、自らの名を歴史に刻む巨大な鋼鉄のモニュメントの一つとして、それまで前例の無い巨大な大砲を造らせ、自分とドイツ第三帝国の強大さを全ヨーロッパの人々に見せ付けるつもりだったのでしょう。(ヒトラーはこの砲以外にもいくつかの巨大な兵器を造らせていますが、それは全て大砲や戦車といった「陸上兵器」でした。どうもこれは、彼が第一次大戦中はドイツ陸軍の一兵士として戦い、つまり陸軍出身であった事が大きく影響している様です。)

ここでこの「列車砲」について簡単にご説明して置きましょう。この列車砲というものが歴史に登場したのは意外にもヨーロッパではなく、1860年代のアメリカ南北戦争で、当時の北軍が鉄道に臼砲(「きゅうほう」臼の様な形をした砲身の短い大砲)を載せて使用したものが最初といわれています。その後鉄道の発達とともに改良され、次第に射程距離の長い強力なものが求められる様になり、長砲身・長射程・大重量・強力な破壊力を持つ最大の陸上兵器として、主にヨーロッパ諸国で盛んに造られ、第二次大戦前まで地上におけるあらゆる兵器の王者でした。

一般に「大砲」というと、側面に車輪が付いて自由に移動させる事が出来るものを思い浮かべる方が多いと思いますが、先に述べた様に射程距離の長い強力なものが求められる様になると、大砲自体も砲身が長くなり、その長い砲身を支えるために砲の本体部を巨大化せざるを得ず、(そうして本体を重くしないと長い砲身を支えきれず、また砲撃の際に砲身の重さと発射の反動でひっくり返ってしまいますからね。)その巨大な本体の移動のために鉄道を利用した列車砲が発達したのです。

さて、第二次大戦初期におけるドイツ軍の圧倒的な快進撃によって活躍する機会の無かったグスタフとドーラでしたが、その後独ソ戦の開始とともに東部戦線に送られ、1942年7月、クリミア半島南部に位置するセヴァストポリ要塞攻略のためにクリミアにその巨大な姿を現します。そしてこの地で初めて実戦に参加し、その威力を発揮しました。


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上が砲撃の瞬間と砲弾の実物大のレプリカです。記録によれば、2つの砲のうちグスタフが当地に運ばれ、合計48発の巨弾を撃ち込んでいます。さらにドーラの方も、同時期に行われていたスターリングラード攻防戦で使用されました。

しかしこのグスタフとドーラ、残念ながら逆にドイツ軍にとって大きな負担になってしまいます。なぜならこの砲一門を使うには、砲自体の操作に約1400人、防衛・整備等の支援に4千人以上の兵員と技術者が必要で、(合計すると最大6千近くになり、一個旅団規模ですね。そして指揮官は少将クラスだったそうです。)しかも砲弾が5トンから7トンほどもある巨大なものであるために砲撃は一日に14発が限度で、さらに砲身の寿命が100発程度と短く、重さ400トンもある砲身の交換だけでも大変な時間がかかってしまうからでした。


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上が砲身の交換場面です。(砲身の大きさと分厚さに注目。)

このグスタフとドーラは2門合わせて合計1万を越える人員を必要とするため、ソ連軍との戦いで多くの兵力を失っていたドイツ軍にとって、一個師団規模に当たる貴重な兵力をたった2門の大砲に削がれてしまい、それだけの労力を割いても2門合わせて一日に最大28発しか発射出来ないなど、図体の大きさの割には見返りの少ない、つまり今風に言えば「極めてコストパフォーマンスの悪い」兵器でした。また大戦後半には連合軍の反撃によりドイツ軍がヨーロッパの制空権を失ったため、その後使用される事はほとんどなくなってしまいます。(移動するにもその巨大さから航空攻撃の格好の的になってしまいますからね。)

すでに戦場では多くの戦闘機や爆撃機の空爆によって制空権を握り、地上を戦車をはじめとする機械化された地上部隊によって迅速に攻撃制圧するスタイルが主流になっていました。それは大戦初期にドイツ軍自身が大いにそれを実証して見せたものです。そんな中にあってこの様な巨大な大砲や要塞などというものは、もはや時代遅れの無用の長物になっていました。にもかかわらずドイツ軍は、動かすだけで大量の兵力を削がれ、極めて局所的にしか効果の無いこの砲を使い続け、結果として貴重な兵力を遊兵にしてしまう事になってしまったのです。

結局このグスタフとドーラはその巨大さが仇となり、その後敗退続きのドイツ軍にとって大きな「お荷物」に成り下がってしまいます。やがて終戦直前、もはや巨大な鉄くず同然で手に余ったドイツ軍は、「このまま放棄して連合軍の手に落ちるよりは。」と2門とも自ら破壊してしまいました。(そのため詳細な記録すら残っていません。)

それが史上最大の大砲の最後でした。そしてそれは同時に列車砲の歴史の終わりでもあり、その後この様な巨大な大砲が造られる事はありませんでした。残念ながら今日の私たちはその巨大な姿を見る事は出来ませんが、しかしその名はかつて人類がその歴史の中で造り出した造形物の、ある最大にして最高到達点の一つ(あくまでも一つですが。笑)として記憶に留めて置くべきものではないでしょうか。

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アクロンとメイコン ・ 幻の飛行空母

みなさんこんにちは。

今回のびっくり兵器は、かつて1930年代のアメリカで建造された世界唯一の飛行空母「アクロン」と「メイコン」をご紹介します。

「飛行空母って何だ?」と思われてしまうかも知れませんが、別にアニメ映画の様に鋼鉄の軍艦が空を飛ぶのではありません。飛行船に小型戦闘機を搭載したとてもユニークな実在の飛行船の事です。(あの宮崎駿監督が全盛期の名作アニメ映画「天空の城ラピュタ」に登場する巨大な飛行戦艦ゴリアテは、明らかにこれらをモデルにしたものでしょう。)


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上がその飛行船「アクロン」です。飛行船の下に、まるでコバンザメの様に小さな飛行機が付いているのがお分かりいただけると思います。このアクロンは1931年10月に就役し、全長約240メートル、最高速度は時速130キロ、乗員90名、武装は機銃7基を装備する典型的な「ツェッペリン型飛行船」でしたが、何と言ってもこの飛行船の目玉は、上の様に小型戦闘機を4機搭載出来るという点です。

しかしここで疑問に思うのは、「どうやって飛行機を船体に格納するのか?」という点ですね。それについては下の一連の写真をご覧ください。


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上の1枚目が着艦するために母艦に近づいて来た搭載機です。そして着艦の方法は2枚目と3枚目の様に、飛行船から張り出されたフックに引っ掛けて格納庫に引っ張り上げるのです。この時代はすでに写真の様な翼が2枚の複葉機は旧式化していましたが、飛行船の速度に合わせて飛行出来る低速の小型複葉機が特別設計で作られました。(なんだか可愛らしい戦闘機ですね。笑)

それにしても、なぜこの様なものが造られたのでしょうか? ここでまずは今回のテーマの主役である飛行船の歴史と合わせてご説明しましょう。

そもそもこれら一連の大型飛行船を初めて実用化したのはドイツの貴族で軍人のツェッペリン伯爵でした。


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上が飛行船の創始者とも云うべきフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵です。(1838~1917)歴史好きの方はもちろんですが、そうでない方でも彼の名は聞いた事があるでしょう。(変わった名前ですからね。笑)彼は若い頃は勇敢な軍人として名を馳せ、ドイツ陸軍中将にまで昇進した歴戦の軍人でしたが、飛行船事業に夢中になるあまりに軍司令官としての職務を度々脱け出すなどで周囲を困らせ、1890年には更迭されて辞職してしまうという異色の経歴の持ち主でした。

しかし彼にはその方が良かったのかも知れません。彼は軍人としての栄達よりも、大空を飛ぶ飛行船に夢を馳せ、退役後はひたすら飛行船の開発に全てを捧げ、そのおかげで彼は歴史にその名を残す事になります。その後彼は1898年に自らの飛行船会社を立ち上げ、やがて1900年に最初の大型飛行船「ツェッペリン1号」を完成させ、初飛行に成功しました。


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上がその「ツェッペリン1号」です。この船は金属の骨組みをアルミニウム製の外皮で覆い、その中に水素ガスを積めた「硬式飛行船」と呼ばれるタイプで、以後この種類の大型飛行船を総称して「ツェッペリン型」と呼ばれる事になります。そしてこの船が空を飛んだのは、ライト兄弟が飛行機で初めて空を飛んだより3年前の1900年でした。つまり、飛行機が出来るはるか以前に人類は「空を飛ぶ」という夢を実現していたのです。

こうして人類の歴史に登場した飛行船はその後も改良拡大され、まだ幼稚な段階だった飛行機を尻目に先行して発達し、やがて50人程度の乗客を乗せられる旅客飛行船が多く就役して新しい物好きの富裕層にもてはやされ、第一次大戦中には飛行船先進国だったドイツで合計119隻ものツェッペリン型飛行船が建造され、偵察や爆撃に活躍しました。

時が流れて第一次大戦後の1920年代、戦争に敗れたドイツは多くの賠償金を課せられ、その賠償の一部として建造中の飛行船1隻がアメリカに引き渡されました。かねてから飛行船の軍事利用に目を付けていたアメリカは1924年、構造と技術を習得するためにこの船を持ち帰り、「ロサンゼルス」と改名して独自に運用を開始しました。

なぜアメリカはこの飛行船というものに関心を抱いたのでしょうか? その理由は飛行船の長大な航続能力です。飛行船は内部に水素ガスなどを積めればいくらでも浮いたままでいられるので、気流に乗れば1万キロから2万キロという驚異的な航続能力が可能で、側面に付いているプロペラエンジンは姿勢制御と飛行のための補助的なものでした。

アメリカはこの飛行船の長大な航続能力を生かして遠距離の仮想敵国の海軍基地(当時日本がドイツから奪い取り、その後日本の委任統治領となった中部太平洋に建設中だったトラック基地など)周辺まで進出させ、そこから格納された搭載機で強行偵察を行う作戦を考えていたのです。

しかしこの飛行船というもの、見た目には悠々と大空を飛ぶ姿が印象的ですが、飛行機と違ってその整備その他に多くの人手と細心の注意を払わなければならないとても危険なものでした。特に突風に弱く、突然の強風に煽られて多くの飛行船が墜落事故を起こし、このロサンゼルス号も下の写真の様なとんでもない目に合っています。


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「あれっ? れれれ!」

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「あ~あ!」

上の写真は1927年8月に起きた「ロサンゼルスの倒立」と呼ばれる事故です。一陣の強風がこの船をこの様に持ち上げてしまいました。しかし驚いた事に翌日には元の姿勢に戻り、幸い乗員は全員無事だったそうです。

この出来事も、前述した宮崎駿監督の名作アニメ映画「魔女の宅急便」のストーリーにそのまま使われていますね。ここで個人的な意見で恐縮ですが、彼はこの作品までが才能のピークでしたね。自分はアニメには詳しくありませんが、宮崎氏の作品はそれまでのアニメとは比較にならない非常に繊細で美しい絵コンテによる写実的表現が魅力で、当時多くの人がそのクオリティの高さに驚嘆し、ベテラン声優陣と、またこれも全盛期だった久石譲氏の優れた音楽とも相まって、それが昭和末期の彼の初期の一連の作品の大ヒットにつながったのだと思います。アニメというものを大きく変えた類い稀な人であるのは確かですが、平成以降は周囲に巨匠に祭り上げられ、良く分からない理由でプロの声優を使わずに魅力的な声でもなければ滑舌も悪い芸能人ばかりを起用して作品の質の低下を招き、さらに肥大化した自らの事務所の彼に憧れる大勢のアニメーターたちに仕事を与えるため(というより食わせるため)に過去の模倣と駄作を作り続ける悪循環に陥り、その結果鳴かず飛ばずの連続でしたからね。だいぶ話が脱線してしまいました。アニメに限らず毎年の様に名作映画が大ヒットしていた時代にわくわくしながら少年期を過ごし、あの頃を懐かしむ昭和アナログ世代の中年男の勝手な個人的感想なので他意はありません。ご不快に思われる方はこの駄文読み飛ばしてください。(笑)

この様な突風は飛行船関係者を大いに悩ませました。突風による事故は飛行空母アクロンと姉妹船メイコンも同様に見舞われ、やがて1933年4月、ついに最悪の事故が発生してしまいます。アクロンがニューイングランド沖合いで演習中突然の嵐に遭遇して墜落、搭乗していた指揮官モフェット海軍少将以下乗員73名が犠牲になったのです。(天候を無視した無謀な訓練が原因だった様ですが、軍人が無茶をするのはどこの国でも同じ様ですね。)

それから2年後の1935年2月、姉妹船メイコンもアクロンの後を追う様にカリフォルニア沖で墜落事故を起こし、(幸い気候が暖かい地域だったため、救命胴衣を着けた乗員の大半が海に投げ出されても救助され、乗員76名のうち、死者は2名だけでした。)この世界唯一の飛行空母アクロンとメイコンは、両艦ともわずか数年でこの世から消えてしまいました。

これ以後、アメリカ軍は偵察目的の大型飛行船の運用を中止してしまいます。それに時はすでに1930年代、飛行機の性能が著しく向上し、もはや飛行船は時代遅れの遺物としてその役目を終えようとしていました。

そして1937年5月、大型飛行船の息の根を止める、20世紀の歴史に残る重大事故が発生します。「ヒンデンブルク号爆発事故」です。


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上がヒンデンブルク号の爆発の瞬間を捉えた写真です。この事故で乗員乗客36名が亡くなりました。この事故の映像は当時ニュース映画として記録され、それを見た多くの人々に大きな衝撃を与えました。(同時にラジオでも実況中継されており、事故の瞬間を伝えるアナウンサーの涙声が有名ですね。動画などで検索すれば今でも見られます。)

この事故については、燃えやすい水素ガスに静電気が引火したものだという説が有力で、以後飛行船は不燃性のヘリウムガスに切り替えられたというエピソードは、歴史ファンの方ならば良く知られていると思いますが、不審な点も多いとの理由から何者かの謀略説も噂されています。なぜならこれまでの飛行船の事故は、先に述べた突風や嵐による墜落がほとんどで、内部のガスが自然現象で引火して大爆発を起こしたケースはこの事故だけだったからです。(謀略説の内容は保険金目的とか、ナチスと不仲だった当時のツェッペリン飛行船会社の社長がヒトラーの顔に泥を塗るためにしたなど、かなり荒唐無稽なものが多く、もちろん真相は定かではありません。)

この大事故は飛行船の歴史に一定の終止符を打つものとなりました。この事故の衝撃は世界中に喧伝され、ドイツをはじめ各国は相次いで飛行船の運用を中止、アメリカでも以後の全ての飛行船が、安全な不燃性のヘリウムガスを積めた小型の軟式飛行船(骨組みの無いガスだけを積めたタイプ)に切り替えられました。

こうして世界最初で最後の「飛行空母」は、本来の目的であった「戦時における敵地への強行偵察」という任務を一度もする事無く失われ、その後の航空機の発達とともに飛行船そのものも廃れ、いつしか忘れられていきました。しかし、そもそも飛行船というものを軍事利用しようという考え自体が無理なものなのです。


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現在わが国を含め、世界中で飛行船がかつての様に旅客を乗せたりする事はありませんが、今でも上の写真の様に企業の宣伝やPRのために結構使われています。やはり飛行船は大空をのんびりと優雅にふわふわと浮んでいる姿が良く似合いますね。(笑)

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伊勢と日向 ・ 驚異の航空戦艦

みなさんこんにちは。

今回のびっくり兵器は、わが日本帝国海軍が造りだした世界史上唯一の航空戦艦「伊勢」と「日向」をご紹介します。

戦前のわが日本軍も、いくつかの非常にユニークな兵器を造り出していますが、その中でもこの「伊勢」と「日向」は最大最強のものではないかと思います。

軍艦にお詳しい方の間ではこの2隻は良く知られた艦なのですが、知らない方のために簡単にご説明すると、この伊勢と日向は艦の後半分(実際は3分の1ほど)を空母に改造した世界に例を見ない戦艦と空母の合体艦なのです。下に写真を載せますので、まずはその異様な姿をご覧ください。


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上の写真の1枚目は伊勢の方です。ご覧の様に艦の後方が小さな飛行甲板になっています。

しかしこれではあまりにも飛行甲板が短いですね。当然ここで疑問に思うのが、たったこれだけの長さの飛行甲板で、艦載機をどうやって発進させるのか?という点です。それについては2枚目をご覧ください。後部マストの下の4番目の主砲の両脇にカタパルト(油圧などの反動で飛行機を射出させる装置)が付いています。このカタパルトまで飛行機を運び(もちろん人力です。レール状の特殊甲板の上を滑らせる様に大勢で押していくのです。)カタパルトの上に機体を載せます。操縦士はこの時にエンジンをかけて合図と共に一気に飛行機を射出します。


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上がカタパルトを使用して水上機を射出させた様子です。この伊勢と日向はこの様な水上機を22機(2隻合わせて44機)搭載し、機体下部に250キロ爆弾などを装着させて発進させる予定でした。(カタパルトを両脇に付けたので、4番砲塔はほとんど砲撃に使えませんが、これは最初から犠牲にするつもりだった様です。)

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この伊勢と日向を含む戦前戦中の日本の軍艦について、詳しくお知りになりたい方は上の2冊が良書です。大戦中のわが日本帝国海軍のほぼ全艦艇が、2冊合わせて1000枚もの豊富な写真(驚くほどとても綺麗な写真です。)で詳細に説明されています。個人的には戦艦や空母などの大型艦の方よりも、軽艦艇編の方が興味深いです。こちらは駆逐艦や潜水艦以外の海防艦、水雷艇、駆潜艇、哨戒艇、魚雷艇といった小型艦艇や、潜水母艦、工作艦、給油艦、給糧艦、輸送艦などのあまり知られていないマイナーな特務艦艇まで全て鮮明な写真入りで掲載されており、艦船ファンにとっては貴重な資料ではないかと思います。ページ数は大型艦の方が460ページ、軽艦艇の方は480ページとボリュームも十分で、その割に価格も安いです。

それにしても、なぜ日本海軍はこの様な奇妙な艦を造ったのでしょうか? それについては太平洋戦争による戦局の悪化が大きく影響していました。ここで伊勢と日向の経歴をお話して置きましょう。

伊勢と日向は1917年(大正6年)から18年にかけて相次いで就役した当時の日本海軍が誇る最新鋭戦艦でした。完成時の全長は208メートル、排水量3万2千トン、主要装備は36センチ連装砲6基12門、14センチ単装砲20門、8センチ単装高角砲4門、速度23ノット、乗員1360名というものです。(ここで船の速度を表す単位である「ノット」について簡単にご説明しますが、これは1時間に1海里進む速さという意味です。1海里というのはおよそ1852メートルで、これは地球上の緯度の1分がちょうどこの長さである事から、位置をコンパスで測る艦船では単純な時速で速度を表すよりも都合が良いためにこの単位が使われているのだそうです。つまり時速で表せば1ノットは単純に1.852キロですから、完成時の伊勢と日向の速度は時速42キロ程度ですね。)


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上が竣工時の伊勢です。だいぶ形が違いますね。

この伊勢型戦艦が完成した時は第一次大戦が終わった時期であり、多くの犠牲を出したその反省から世界各国で軍縮の機運が高まっていた時代でした。その影響は日本にも及び、1922年(大正11年)日本を含む主要各国はワシントンで軍縮条約を締結、その結果日本海軍はこの伊勢型の後に建造中だった新型戦艦のうち、長門と陸奥の2隻を除いて全ての戦艦の建造を中止または廃棄する事になります。

この軍縮条約は1934年(昭和9年)に日本の脱退によって崩壊しますが、それまでの10年余り、各国は条約に従って一切戦艦の建造を行わなかったので、ネイバル・ホリデイ(海軍の休日)と呼ばれています。そして条約を脱退するまでの日本の戦艦保有数はこの伊勢型を含めて4タイプ合計10隻で、伊勢と日向は帝国海軍の主力戦艦として戦前の日本国民、特に軍国教育を受けた少年たちに広く親しまれた存在でした。

軍縮条約といっても、定められた各国の保有数を越える新型の艦艇の建造を禁止したもので、その間も軍艦の進歩は目覚しく、それに合わせて大改装する必要があり、全ての日本の戦艦も何度かそれを受けています。伊勢と日向もエンジン機関を交換して、それまでの4万5千馬力から約1.8倍の8万馬力にパワーアップし、欠点だった速度を23ノットから25ノット(時速46キロほど)まで上げる事に成功しました。また2つあった煙突を1本にまとめて艦橋も大型化し、航空攻撃に備えて対空兵装も高角砲を12.7センチ連装砲4基8門に強化、さらにそれまで無かった25ミリ連装機銃10基20門と、艦尾を8メートル延長して水上偵察機を発進させるカタパルトを新設し、水上機を3機搭載するなどしています。

これらの大改装により伊勢と日向は全長216メートル、排水量4万トン近い近代的な戦艦に生まれ変わりました。(エンジンの馬力が2倍近くになったのに速度がわずか2ノット、つまり時速でたった4キロほどしか上がっていないのは、上に述べた様々なものを増設したために艦の重量が8千トン以上も増えてしまったせいです。しかし広大な海の上で移動する艦船にとってはわずか2ノットの速度の違いが大きいのです。なぜなら敵艦隊との砲雷撃戦の際に、敵艦の放つ砲弾や魚雷を回避するのに雲泥の差があるからです。)


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上が大改装後の伊勢型戦艦の姿です。これぞ「戦艦」という力強さに満ちあふれていますね。

やがて時代が流れてわが国は太平洋戦争を引き起こします。伊勢と日向も戦艦部隊である第一艦隊の主力として待機しますが、時代はすでに航空機と空母機動部隊が海戦の主役となっており、これらの戦艦部隊は30ノット(時速55キロほど)以上の高速で活躍する空母や巡洋艦などの他の艦艇に速力で劣る上に多くの乗組員を必要とし、また多くの燃料を喰う割りに燃費も悪く、敵艦隊との砲撃戦ぐらいしか使い道がないなどの理由から、慢性的に燃料不足に悩んでいた日本海軍は戦艦を海戦に投入する機会に恵まれませんでした。

こうして出番も無く、美しい瀬戸内海に空しく錨を下ろしたままの伊勢と日向に思わぬ転機が訪れます。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦です。この海戦は参加艦艇約200隻、(水上戦闘艦艇107隻、支援艦船90隻以上)兵員10万という当時の日本海軍の可動全艦を投入した大作戦で、もちろん伊勢と日向も出撃しますが、結果は歴史好きの方ならご存知の様に、アメリカ軍に暗号を解読されて作戦が筒抜けだったわが日本軍は、待ち構えていたアメリカ軍機動部隊の攻撃を受け、主力空母4隻と重巡1隻、さらに280機もの艦載機を一挙に失う大敗を喫してしまいます。

当時日本は13隻の空母を保有していましたが、そのうち大規模な航空作戦を展開出来る50機以上の艦載機を搭載出来る大型主力空母は8隻で、残りは30機程度しか搭載出来ない小型空母3隻と、戦時には空母にするために国が助成金を出して日本郵船などに造らせた客船を改造した同じく搭載機数30機に満たない低速空母(大鷹「たいよう」型空母といい、3隻建造されましたが、元が客船なので速度は21ノット程度しか出ず、これらは実戦には使えず飛行甲板に航空機を並べて日本占領下の基地へ運ぶ輸送任務しか出来なかったそうです。)2隻だけでした。つまり全空母の3分の1、主力空母の半数を失ったのです。これほどの大損害は帝国海軍創設以来初めての出来事であり、海軍が慌てふためくのも無理ありませんね。

この敗北で4隻もの大型空母を失った日本海軍は、急遽空母を大増産する戦時建造計画を進めます。しかし空母の様な大型艦は完成までにどんなに急いでも2年はかかってしまいます。そこで日本海軍首脳部は、既存の艦艇のうち最も大型で使い道の無かった戦艦を空母に改造する事で工期を短縮し、一刻も早く空母として使う事を思い立ちます。こうして選ばれたのが伊勢と日向の2隻でした。

伊勢と日向は1942年(昭和17年)12月から相次いで空母への改造工事が行われますが、時間的な制約から全面的な空母への改造は、最初から新型空母を建造した方が時間も手間も掛からない事から見送られ、結局5番6番砲塔を撤去してその位置に飛行甲板を設けるプランに決定し、その結果あの様な姿になったのです。

こうしておよそ1年後の1943年(昭和18年)11月、世界に例を見ない2隻の「航空戦艦」が誕生しました。

しかし開戦から2年が経過し、すでに戦時態勢を整えたアメリカ軍の反撃が始まり、戦争の主導権は完全に日本の手を離れていました。わが日本軍は太平洋の各地で陸海ともに敗れ続け、ついには日本帝国が最低勢力圏と定めた「絶対国防圏」も破られてしまいます。せっかく航空戦艦に改造された伊勢と日向も載せる飛行機が無く、本来の目的であった艦載機を発進させてアメリカ艦隊を攻撃するという機会に一度も恵まれる事はありませんでした。彼ら2隻に出来た事は、飛行甲板に物資を積んで本土と南方占領地を行き来する物資輸送だけだったそうです。(戦艦でありながら輸送任務しか使い道がないとはただの輸送船と同じですね。今風に例えれば荷物を運ぶのにトラックでなくリムジンやロールスロイスを使う様なものでしょうか。笑)

1944年(昭和19年)10月、アメリカ軍はフィリピンにまで迫ります。ここを取られれば南方資源ルートは断ち切られ、日本の敗戦は決定的です。(すでに勝敗は決していましたが・・・)そこで日本海軍は残存艦隊の全てを投入して最後の決戦に挑みます。「捷号作戦」(しょうごうさくせん)の始まりです。(捷号作戦とは「勝利の作戦」という意味なのだそうです。それにまだ当時の日本軍は空母機動艦隊と航空部隊は壊滅していたとはいえ、戦艦や重巡洋艦などの大型艦を中心として、大戦中に新たに就役した新型艦も含めて60隻以上の戦闘艦艇が健在で、これらを結集して大水上部隊を編成し、さらにそれを大きく3つの艦隊に分けてフィリピン周辺の海で最後の決戦を挑んだのです。)

この作戦で伊勢と日向は上の3つの艦隊のうち、アメリカ艦隊を引き付ける囮として本土から出撃した17隻から成る小沢艦隊に所属し、開戦以来初めて大活躍します。指揮官松田少将の考案した「爆弾回避術」という航法(敵機が爆弾を投下する際に、狙いをつけるために必ず轟音とともに急降下してくる特性を逆手に取り、すぐに舵を切って回避する航法です。)で投下される爆弾を次々に回避し、航空戦艦に改造された時にさらに増設された高角砲や対空機銃、最新のロケット砲(当時は噴進砲「ふんしんほう」と呼んでいたそうです。)などの充実した対空兵装のおかげでほとんど損害も無く、かなりの敵機の撃退に成功したのです。


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上が対空戦闘を行う伊勢です。艦は撃ち出す高角砲と機銃の砲煙に覆われています。

しかし伊勢と日向の活躍も空しく、結局この捷号作戦においても航空戦力の援護の無い日本軍は参加艦艇の半数以上を失う大敗を喫し、生き残った艦艇は日本に逃れて南方資源ルートは完全に遮断され、ここに日本の敗戦が決定します。

伊勢と日向も作戦終了後本土に帰還しますが、南方資源ルートを失った結果、本土に逃れたこれらの残存艦艇も動かす燃料が無くなり、本土決戦のための水上砲台として係留されるままになりました。

そして1945年(昭和20年)7月28日、運命の時が訪れます。アメリカ海軍のハルゼー大将麾下の第38機動部隊の攻撃機およそ950機による「呉軍港空襲」です。この戦いで、伊勢と日向は栄光ある帝国海軍の主力戦艦として最後の戦闘に臨みます。


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上が軍港内で米軍機による激しい攻撃にさらされる伊勢です。燃料の無い彼らはただ雨あられと降り注ぐアメリカ軍機の爆弾を受け続けるしかありませんでした。しかしそれでも伊勢と日向は主砲とハリネズミの様にびっしりと装備した対空砲で一機でも多く敵を道連れにするべく沈没の瞬間まで果敢に応戦しています。そして数え切れない爆弾を浴びて戦闘不能になった彼らはついに大破着底し、その生涯を閉じました

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上は大破着底した日向です。

この空襲は日本の残存艦隊の全滅を目的として実行されたものですが、先に述べた様にほとんどの艦艇が燃料が無いためにただ海に浮かんでいるだけの存在でした。伊勢と日向も同様です。つまり極端に言えば、もはや必要ないにもかかわらずアメリカ軍は執拗にこれらの無力な艦艇に攻撃を加えています。しかしそれは裏を返せば彼らの恐怖心の表れであったのかもしれません。とりわけ、伊勢と日向の異様な姿に米軍パイロットたちはむしろ恐怖に駆られていたのではないでしょうか。

これはあくまで自分の勝手な想像ですが、彼らが

「沈め!沈め!この化け物め!」

と叫びながら爆弾を落としている姿が目に浮かぶ様です。

ともあれ、こうして世界唯一の航空戦艦伊勢と日向は失われ、わが国はその2週間後の8月15日の敗戦を迎える事になるのです。

敗戦後の昭和21年、伊勢と日向はサルベージで引き上げられ、解体されて正式にこの世から消滅しましたが、そのユニークな姿と性能に違わぬ激戦敢闘振りは、今次大戦において活躍する機会の少なかった日本戦艦の中でも特筆すべき存在だと思います。日本の戦艦といえば、日本人なら誰でも知る戦艦「大和」が有名で、そちらばかりが語られる事が多いのですが、かつてこんな誇るべき戦艦もいたのだという事実は記憶に留めて置くべきでしょう。

そして21世紀の今日、わが国の領海を守る海上自衛隊(いつまでこの曖昧な名称で呼ばされるのか。早く堂々と「日本海軍」と呼ぶ日が来る事を願ってやみません。)の最新鋭艦として、「いせ」と「ひゅうが」は再び誕生しました。


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上が2009年(平成21年)に就役した「ひゅうが」です。兄弟艦「いせ」も、2011年(平成23年)に就役しています。全長197メートル、排水量約2万トン、速度30ノット、乗員350名、敵潜水艦を探索攻撃する対潜ヘリコプターを11機搭載し、日本が誇る最先端の電子ハイテク機器を数多く装備した最新鋭艦です。

無念の思いで沈んだ航空戦艦伊勢と日向は60年後の今こうして蘇り、新たな「いせ」と「ひゅうが」は再びわが国防衛の任に就いているのです。
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