イスタンブールへようこそ ・ オリエント急行と皇帝

みなさんこんにちは。

19世紀の後半、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギーなど、アジア、アフリカ地域に広大な植民地を持つヨーロッパ列強諸国は、それら海外の植民地をめぐって激しい競争を繰り広げていました。いわゆる「帝国主義」の時代です。

これらの列強諸国では、海外植民地の鉱山や大農場で現地の住民を安い賃金と粗末な食事で働かせ、そうして得られた莫大な富を本国に持ち帰って資産家になった富裕層が政財界に台頭し、更なる利益の拡大を求めて植民地政策を推し進めていく様になります。

この様な世界の流れの中で、本テーマの主役であるオスマン帝国は完全にそうした動きに乗り遅れ、戦争には敗れ続け、列強諸国に次々に領土を奪い返され、かつて繁栄を欲しいままにした強大さは見る影もなく、この頃の帝国はヨーロッパ列強諸国の思惑と都合によって、かろうじて独立を維持している状態でした。

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上がオスマン帝国の領土の変遷です。すでに1841年までにエジプトをはじめとするアフリカも失い、ヨーロッパ側の領土であるバルカン半島においては、それに先立つ1832年にギリシャが王国として独立、さらに1880年代には、セルビア、ブルガリア、ルーマニアも相次いで王国として独立していました。(つまり、オスマン帝国が領土として保全していたのは、帝都イスタンブール周辺のトラキア地方一帯と、アナトリア半島から現在のイラク、シリア、ヨルダン、イスラエルと、イスラムの聖地メッカなどを含むアラビア半島の紅海沿岸、その反対側のペルシャ湾沿岸部のある中東地域のみだったのです。)

この頃オスマン帝国の皇帝だったのは、アブデュルハミト2世という人物でした。彼が即位した1876年頃は、オスマン帝国に初の近代憲法と多数決によって国策を決する帝国議会が設立され、人々が願った真の近代化が実現されるはずでしたが、彼はひたすら皇帝主導による専制国家に固執してこれらを全て否定し、憲法を無期限停止して議会も解散してしまいます。その後に彼が行ったのは30年に亘る長い独裁政治であり、その間人々は皇帝の行った内向きの圧政と弾圧に怯えて過ごす事を余儀なくされてしまいます。


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上がオスマン帝国第34代皇帝アブデュルハミト2世です。(1842~1818)2枚目の写真は馬車に乗ってモスクへ礼拝に出かけるアブデュルハミト2世です。大臣たちを従えて道を行く皇帝の行列の周囲を大勢の護衛兵が警護していますが、その外側で皇帝を見つめる人々の彼に対する目は冷たく、怒りに満ちたものでした。アンデルセンの童話に「裸の王様」というものがありましたが、この立派なひげもじゃの皇帝は彼に対する人々の視線に気づいていたのでしょうか?

これは自分の勝手な分析ですが、600年以上に亘る長いオスマン帝国の歴史は、建国から400年は拡大発展期、それ以後の200年は長期衰退期に分けられます。そしてこの長い衰退期に、オスマン帝国は政治、経済、軍事、外交の主導権をヨーロッパ諸国に取って代わられ、近代化にも立ち遅れ、人々に日々の生活の糧をもたらす生業(なりわい)となるこれといった産業も育たず、帝国庶民の生活は苦しく貧しいものでした。

当然国民の暮らしへの不満は、せっかく近代化しかけた帝国を元の時代遅れな体制に戻したアブデュルハミト帝と帝国政府に向けられていきます。皇帝はこうした動きを秘密警察と軍隊を動員して力ずくで押さえ込み、政権を維持し続けますが、それは同時に国民にオスマン皇帝家への反発心を根付かせて行く事になってしまいます。

「このままでは自分の代は良いとしても、後の世代にいつかわがオスマン家は国民に革命を起こされ、追放されてしまうかも知れない。」

いつしか皇帝はこうした不安を抱く様になり、それはやがて彼の思考の中で、「国民生活の向上のための新たな収入源の確保」という形に帰結します。

とにかく帝国は「お金が無い。」のです。度重なるロシアなどの周辺国との戦争による莫大な戦費と敗戦による賠償金、さらに彼の前の歴代皇帝たちが行った帝国近代化のため、ヨーロッパ諸国から借り入れた膨大な債務がオスマン帝国の国家財政を圧迫していたからです。しかし、先に述べた様に当時のオスマン帝国にはこれといった産業が無く、いわば対外的に「売る物」がありません。そこで皇帝が目を付けたのが「観光」でした。

この19世紀後半から20世紀初頭にかけての時代、特にヨーロッパにおいては1870年の普仏戦争(フランスとプロイセンとの戦争)を最後に、1914年の第1次世界大戦までおよそ40年以上に亘って大規模な戦争がない平和な時代が続きます。この間ヨーロッパ列強諸国では、先に述べた海外植民地経営によって財を成した新興富裕層が、古くからの支配層である王侯貴族たちの栄華を真似て広大な土地に巨大な城館を建て、毎日の様に豪華なパーティーを開いて優雅な生活を謳歌していました。


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上は19世紀末のヨーロッパ上流階級の人々です。男性はシルクハットにステッキとフロックコートやタキシード姿が定番でしたが、その奥方の女性たちは派手な絹のドレスにまばゆい宝石を散りばめたティアラやネックレスなどのジュエリーを身に付け、ファッションセンスを競い合いました。

彼ら新興富裕層は、植民地から上がるあり余る富を背景に湯水の様にお金をばら撒いていきます。豪邸に住まい、高価な衣服を身にまとい、最高級の酒と料理などの美食に明け暮れ、ついには爵位までも金で買う「にわか貴族」まで出現します。こうして物理的に欲しい物は何でも手に入れ、思いつくあらゆる物欲を一通り満たした彼らが次にその手を伸ばしたのが「旅行」でした。

「知らない国に行ってみたい。見た事のない景色や風景をたくさん見てみたい。」

こうした単純な欲求から、彼ら新興富裕層からなるヨーロッパ上流階級では海外旅行が大ブームとなります。折りしもヨーロッパ各国では鉄道の建設ラッシュであり、ヨーロッパ主要都市は線路でつながりつつありました。そうした「金持ち連中」の動きをいち早く掴み、当時最新のインフラであった鉄道を利用してビジネスを立ち上げた一人のベルギー人がいました。


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上がその人物ジュルジュ・ナゲルマケールスです。(1845~1905)彼はベルギーの実業家で、富裕層を顧客のターゲットにした豪華寝台列車を運行する「国際寝台車会社」を創業します。

このナゲルマケールスなる長い名前の人物は知らなくても(かくいう自分も全く知りませんでした。笑)彼が生み出した世界最高の豪華列車の名は、歴史好きの方であれば知らない人はいないでしょう。彼はあの「オリエント急行」の生みの親なのです。


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上が当時のオリエント急行の様子と運行経路、そしてポスターです。

このオリエント急行というのは、彼が創業した国際寝台車会社が運行する一連の列車群を指し、1883年に運行が始まりました。いくつかの路線に分かれていますが、主にフランスのパリからトルコのイスタンブールを結ぶものが主要路線で、その名の由来は最終目的地、オリエント地方の大都市イスタンブールを目指すという壮大なプロジェクトから名付けられました。

ナゲルマケールスは、ただ人を乗せて運ぶに過ぎなかったそれまでの鉄道の常識を破り、最高級ホテル並みの設備を備えた寝台客車と食堂車を連結した「走る最高級ホテル」ともいうべき豪華列車を考案し、富裕層向けのツアー旅行を企画したのです。

彼の読みは大当たりしました。この走る最高級ホテル「オリエント急行」はヨーロッパ中の王侯貴族や富裕層で大評判となり、予約が後を絶たないほどの大人気となります。

大評判となったこのオリエント急行に、皇帝アブデュルハミト2世は飛び付きます。オリエント急行の最終目的地はオスマン帝国の首都イスタンブールです。つまり、それに乗ってヨーロッパの富裕な人々が大勢来てくれるのです。当時のオスマン帝国にはヨーロッパに輸出して外貨を稼げるものなどほとんどありませんでしたが、首都のイスタンブールはもちろん帝国各地にはその長い歴史に培われた数多くの古代遺跡群をはじめ、風光明媚な土地がたくさんあります。見るものがたくさんあるのです。また、トルコ料理はフランス料理や中華料理と並んで「世界3大料理」に数えられるほどの珍味と美食にあふれる豊富なレシピとバリエーションを誇っていました。


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上はトルコ料理の数々です。トルコ料理で最も有名なのは2枚目の写真のドネルケバブですね。香辛料などで下味をつけた肉を大まかにスライスして積み重ね、特別な垂直の串に刺してあぶり焼きにしてから外側の焼き上がった部分を大きなナイフで薄くそぎ落として盛り付ける肉料理です。

皇帝はオリエント急行によってヨーロッパ中からたくさんの「観光客」を招き入れ、それらの観光客から得られる観光収入を落ちぶれ果てていた帝国の新たな財源とする方針を打ち出したのです。(幸いな事に、オリエント急行自体はオスマン帝国ではなく、ナゲルマケールスの国際寝台車会社が運営しているものであり、帝国は一切金をかけずに向こうから観光客が来てくれるシステムになっていました。)

皇帝のオリエント急行に対する期待は大きく、自らイギリスのロンドン・タイムズの記者を宮殿に招いてインタヴューに応じるほどでした。

「イスタンブールへようこそ。わがオスマン帝国は皆さんを歓迎し、全力でおもてなし致します。どうか心行くまで存分にお楽しみください。」

皇帝はその記者にこんなセールストークでも言っていたのでしょうか?(笑)

アブデュルハミト帝の観光政策で、オスマン帝国ではそれまでなかった観光業が成長します。ヨーロッパの富裕層の宿泊する豪華なホテルやレストランが各地に建てられ、大勢のトルコ人がスタッフとして雇われて収入を得るようになり、皇帝は暮らしに対する市民の不満をある程度緩和する事に成功したのです。また、それまで中東イスラム圏の人々が顧客の大半であったイスタンブールのグランド・バザールなどでは、ここを訪れたヨーロッパの富裕な観光客が、トルコ特産の絨毯や工芸品などの土産物を買っていってくれる新たな「お客さん」となります。

ヨーロッパ人たちも、アジアとヨーロッパの中間に位置する「文明の十字路」として、古代と中世、近代が入り混じった魅惑の国トルコ・イスタンブールを目指すオリエント急行の旅に多くの人々が魅了され、この列車に乗る事は富裕と特権階級のステイタスシンボルとして定着していきました。(ちなみに当時のオリエント急行の料金は、それに乗る富豪たちに仕える召使などの使用人の1年分の年収と同じだったそうです。)


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上はオリエント急行を表す国際寝台車会社の2頭のライオンの紋章と、最も人気が高かった水の都ヴェネツィアを経由するコースを走るベニス・シンプロン・オリエント急行の列車です。ダークブルーの外観に金文字の縁取りが並みの列車ではない事を象徴しています。

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上の1枚目は乗員スタッフのみなさんです。オリエント急行ではこの様にクルーがお客さんをお出迎えする慣わしです。みなさんにこやかな笑顔の中で、究極のサービスを極めたオリエント急行のスタッフとして誇りを持つプロ中のプロなのでしょうね。そして2枚目と3枚目は食堂車の様子です。(バーカウンターまで備えられています。オリエント急行では一般の列車の様に座席が並んだ「客車」というものはなく、こうした「食堂車」と、乗客がそれぞれ宿泊する個室の「寝台車」で構成されています。)

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上が乗客の個室が並ぶ「寝台車」です。格調高いマホガニーと、細かい彫刻で飾られたシックな調度品の数々、それらが暖かいランプに照らされて一層温もりを引き立たせます。まさに「走る最高級ホテル」ですね。

オリエント急行の旅 (ほたるの本)

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このオリエント急行について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。実際に何度もこの列車に乗られた方の著作で、豊富なカラー写真と車内の様子が詳しく記されています。ページ数は206ページで、恐らくオリエント急行について紹介した日本で最も詳細な本ではないかと思われます。

オリエント急行の殺人 (創元推理文庫)

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また、オリエント急行の名が付く作品で私たち日本人に最も馴染みが深いのは、なんといってもイギリスの女性推理作家アガサ・クリスティー原作の「オリエント急行殺人事件」ですね。彼女の最も有名な代表作とも言える作品でしょう。各社から出版されていますが、個人的には創元推理文庫のものが最もオーソドックスかつ、表紙のカバーイラストのセンスも良いと思うのでお薦めかと思います。1974年にアルバート・フィニー主演で公開された映画も名作です。彼女が創作した名探偵エルキュール・ポワロが乗り合わせたオリエント急行の車内でアメリカ人の富豪が刺殺され、12人の乗客が容疑者となります。犯人は一体誰なのか? みなさんもオリエント急行に乗った気分でクラシックの名曲でも聴きながら、コーヒーや紅茶を片手にミステリーに浸ってみてはいかがでしょうか。(笑)

このオリエント急行は、その後2度の世界大戦と東西冷戦、さらに自動車や飛行機の発達により次第に客離れが進み、残念ながら昔の華やかな豪華列車ではなくなっていきます。路線もどんどん短くなり、ついに2009年にパリとイスタンブール間の本線が営業を停止してしまいました。しかし、「オリエント急行」のネームバリューは今だに絶大で、戦前の本物の列車を使用して復元した支線は各地で運行されており、鉄道ファンに根強い人気を誇っています。みなさんもヨーロッパに旅行に行かれた際は、乗られてみてはいかがでしょうか。古き良き時代のヨーロッパを堪能出来る最高級のサービスがみなさんをお迎えして、まるで王侯貴族になった様な気分にさせてくれるかもしれませんよ。(笑)

次回に続きます。
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伊土戦争とバルカン戦争 ・ 帝国滅亡の足音

みなさんこんにちは。

時は20世紀初頭、オスマン帝国では皇帝アブデュルハミト2世による独裁統治が続いていました。彼の統治は苛烈を極め、皇帝の政策に反対する者はもちろん、疑わしい者まで密告と秘密警察によって徹底的に逮捕、投獄、処刑し、そのためトルコ国民は、30年もの長い暗黒時代を耐え忍ばなければならない事になります。

しかし、皇帝はやりすぎました。彼のこうした恐怖政治は、それまでオスマン帝国の人々にとって帝国の最高権力者であると同時に、イスラムの神アッラーの代理人であるカリフを兼任する畏敬の絶対的存在であったオスマン皇帝に対して怒りと憎しみの感情を抱かせ、やがてそうした人々が集まって国外で組織が結成されていきます。


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上がオスマン帝国第34代皇帝アブデュルハミト2世(1842~1918)と、彼の恐怖政治を非難する当時の欧米新聞のイラストです。(真っ暗な背景で、ひときわ大きなトルコ刀の前に浮かび上がる皇帝の顔。彼の耳にはイヤリング代わりに死者の墓標である十字架が描かれています。)彼は対外的には、前回お話した豪華列車オリエント急行の帝都イスタンブールまでの招致や、これも以前お話したわが日本との友好の架け橋となった「エルトゥールル号」の派遣といった一定の成果はありましたが、国内における彼の治世は先に述べた様に暗く、血にまみれたものでした。

アブデュルハミト2世がここまで冷酷になっても守ろうとしたものは、なんといっても第一にオスマン皇帝家の永続と自身の宮廷、政権のため、つまり、全ては己がための極めて利己的なものでした。(皇帝の頭では、帝国はあくまでオスマン家の「私物」であり、国家も人民も全て主権者たる皇帝の「所有物」であるという信じがたいものだったのです。)

こうした帝国の現状を憂いた人々は、国内ではなく国外(主にギリシャ)において、アブデュルハミト帝による政治の打倒と、現皇帝が1876の即位後1年余りで停止させたオスマン帝国初の憲法と、立憲君主体制の復活を求めて活動を開始していきます。

そしてついに1908年7月、当時はまだオスマン領であった現ギリシャのテッサロニカで軍による反乱が勃発します。怒った皇帝は当地に討伐軍を差し向けますが、あろう事かその軍隊まで反乱軍に加わって皇帝に反旗を翻します。形勢が逆転した反乱軍は帝都イスタンブールに無血入城を果たし、皇帝に対して立憲態勢の復活を要求しました。事態の急変に驚いた皇帝はやむなく立憲体制の復活を認め、ここに30年続いたアブデュルハミト2世の親政は終わりました。反乱軍のメンバーはこの立憲革命の英雄として市民に歓呼で迎えられ、その中心となったのは下の3人の人物でした。


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上から1枚目が陸軍部隊の指揮官エンヴェル・パシャ(1881~1922)後に彼は陸軍大臣に就任します。2枚目が同じくジェマル・パシャ(1872~1922)彼もエンヴェル・パシャと同じ陸軍の軍人ですが、後に海軍大臣となります。3枚目は行政官僚のタラート・パシャ(1874~1921)です。彼は先の2人とは違って軍人ではないため、(何と元は郵便局長だったそうです。)警察を取り仕切る内務大臣に就任、さらにその後首相になります。(ここで彼らの名の下に付いているこの「パシャ」というものについて説明させていただくと、この「パシャ」というのはオスマン帝国において、国家に大功ある高貴な位の人物に対して皇帝から与えられる称号で、名字ではありません。つまり、イギリス貴族の騎士すなわち「~卿」を表す「サー」などと同様に考えていただくと良いでしょう。)

彼ら3人はオスマン憲法と立憲制を復活させると、1909年に議会でアブデュルハミト帝の廃位を議決、アブデュルハミト2世は帝国史上初めて多数決の議会で廃位された皇帝となります。オスマン帝国議会は先帝の弟メフメト5世を新たな皇帝として擁立し、先帝に悪用された憲法の欠陥部分(皇帝による戒厳令と危険人物の国外追放などの特権その他)を改正し、皇帝が二度と国政に関与できない様にしてしまいます。この時から、オスマン皇帝は事実上のお飾りの存在になったのです。そしてオスマン帝国は新体制の下で新たなスタートを切る事になりました。


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上が新たに即位したオスマン帝国第35代皇帝メフメト5世です。(1844~1918)彼は政治的権力の無い完全な名目上の皇帝として初めて登場しました。

しかし、ようやく過去の清算を果たして新たな国づくりを始めようとしたオスマン帝国に新たな敵が戦いを挑んできました。それはイタリアです。1911年9月末、イタリアはかろうじて北アフリカに残っていた最後のオスマン領であるリビアの割譲をオスマン帝国に要求し、当然の事ながらオスマン帝国がこれを拒絶すると、10月に入り一方的に宣戦を布告し、リビアに遠征軍を上陸させてきたのです。これがイタリア・トルコ戦争(伊土戦争)と呼ばれるものです。

これまでの歴史で、オスマン帝国はロシア、オーストリアなど数多くの敵と戦って来ましたが、今回の敵イタリアは1861年に成立した新興国であり、帝国にとって初めて戦う敵国でした。それではなぜイタリアはオスマン帝国に戦いを挑んできたのでしょうか?

当時イタリアは、国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世を君主とする王国でしたが、それまで長く小国に分かれていたイタリア半島が一国に統一されたのは1861年になってからであり、イギリスやフランスなどの様な他のヨーロッパ列強に比べて海外植民地獲得競争に出遅れていました。そのため国家が統一されても国内経済は常に不況であり、イタリア国民は貧しく、日々の暮らしにあえいでいたのです。

次第にイタリア国民は、他の列強諸国の様に植民地獲得を王国政府に求める様になっていきます。そこで、当時のイタリア首相ジョバンニ・ジョリッティは国内世論と経済苦境の打開のため、ついに海外遠征を計画します。その標的となったのがイタリアに最も近い北アフリカのリビア地域でした。


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上が当時のイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世です。(1869~1947)彼はイタリア王国サヴォイア朝3代国王で、イタリアを統一した優れた祖父である同名の2世の名を父王から与えられていましたが、その47年に及ぶ長い在位は、後のイタリア独裁者ムッソリーニ率いるファシスト党や、二度の世界大戦に翻弄される波乱に満ちたものでした。(ちなみにこの王様は写真では分かりにくいですが大変小柄な人物で、身長は153センチしかなかったそうです。ご本人はそれを大変気にしており、生涯のコンプレックスであった様です。笑)

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上がリビア遠征を決断した当時のジョヴァンニ・ジョリッティ首相です。(1842~1928)彼は政治家としては有能で、なんと5回もイタリア首相を務めています。国王の信頼も厚い重臣で、イタリアの工業化に尽力しましたが、その半面で国王と同じく後の独裁者ムッソリーニとファシストの台頭を許してしまう事になります。

ジョリッティ首相は国内の戦争反対派を押さえ込むと、第1次遠征軍約2万をリビア最大の都市トリポリに差し向けます。対するオスマン軍は6千程度しか駐留しておらず、イタリア軍は瞬くうちにリビア沿岸部の主要都市を攻略占領してしまいます。


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上はイタリア軍の進撃経路図と上陸したイタリア軍部隊です。

イタリア軍の攻勢の前に、兵力の少ないオスマン軍は成すすべもなく後退を余儀なくさせられてしまいます。しかし、これはオスマン軍の戦略でした。彼らは戦線を南部に移動してその間に兵力を2万8千にまで増強し、イタリア軍が内陸部に深入りしてきた所で一気に反撃に転じたのです。そしてその指揮を取ったのが1908年の立憲革命で皇帝アブデュルハミト2世を退位させたオスマン陸軍の名将エンヴェル・パシャでした。

しかし、イタリア軍は装備、兵力でオスマン軍をはるかに凌駕していました。現地からの報告を受けたローマのジョリッティ首相は北アフリカに増援軍を送り込み、イタリア軍は10万の大軍に膨れ上がったのです。エンヴェル将軍率いるオスマン軍は再び後退させられ、オスマン軍は塹壕を掘って迎撃する作戦に切り替えます。

これに対し、イタリア軍も塹壕を掘り、戦線は長いこう着状態に陥ってしまいました。焦ったのはイタリア本国のジョリッティ首相です。軍人ではなく政治家の彼としては一刻も早く戦争を終わらせて兵を引きたいのです。(そうしなければ、イタリアも財政的に持ちませんからね。)

イタリアとしても、莫大な戦費を投じて今回の遠征を決断したのはかなり危険なイチかバチかの賭けでした。それほどの危険を冒してリビア遠征を決断した以上何も取らずに撤退するわけには行きません。失敗は許されないのです。

そこで彼は短期決戦を狙い、海軍に命じて艦隊をオスマン帝国本国の近海に差し向け、直接オスマン帝国を脅す作戦に出ました。戦争は海の上で新たな局面に移ったのです。1912年2月、イタリア艦隊は東地中海のオスマン領海に侵入、本土のベイルートに艦砲射撃を加えて市街を徹底的に破壊し、さらにその帰り道、陸戦部隊をエーゲ海のロードス島を含むドデカネス諸島に上陸させ、これを占領してしまいます。


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上は地中海を進むイタリア艦隊とドデカネス諸島の位置です。

このイタリアの海上作戦は大成功を収めました。海軍力の弱いオスマン軍はこれに立ち向かう事が出来ず、直接帝国本土を狙われたオスマン帝国政府は震え上がります。すると今度はイタリアの快進撃を見ていたセルビア、ブルガリア、ギリシャなどのバルカン半島諸国が同盟を結び、オスマン帝国に宣戦を布告してきました。

これらの国々は、長くオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、そのオスマン帝国の衰退とともに19世紀後半に次々と独立を果たしていました。しかし、今度はイタリアに押されるオスマン帝国の窮状に乗じて更なる領土を帝国から奪い取るべく同盟したのです。その兵力はこれら3カ国を合わせて総勢70万を越える大軍で(内訳はセルビア22万、ブルガリア37万、ギリシャ11万)これに対し、バルカン方面のオスマン軍はその半数以下の34万程度でした。

1912年10月、これらのバルカン同盟軍とオスマン帝国軍との間で戦闘が始まります。第1次バルカン戦争の始まりです。事ここに至り、オスマン帝国は二正面作戦を避けるため北アフリカのリビア放棄を決定、これをイタリアに割譲する事に決します。伊土戦争はイタリアの圧倒的勝利に終わったのです。

1912年10月、スイスのローザンヌで開かれた講和会議で、オスマン帝国はイタリアに対して要求の大部分を認める条約に署名しました。これにより約1年間に亘って続いた伊土戦争は、オスマン帝国のイタリア王国に対する敗北という帝国にとっては屈辱的な形で終結したのです。両国の損害はイタリア軍の戦死者約3千余に対し、オスマン軍は5倍近い1万4千の戦死者を出しました。講和の内容は以下の通りです。

1、オスマン帝国皇帝はリビアの宗主権をイタリア国王に譲渡する。

1、ドデカネス諸島とロードス島は条約履行後にオスマン帝国に返還されるが、イタリア軍は引き続き駐留し続ける。

この伊土戦争による敗北は、長くオスマン帝国に支配されてきたバルカン諸国を刺激し、それが第1次バルカン戦争を引き起こした事は先に延べた通りです。この戦争は伊土戦争終結の前後である1912年10月に始まり、兵力に勝るバルカン連合軍の優勢のままに、翌1913年5月に終結します。この戦いでオスマン帝国はバルカン半島に残る残りの領土であったアルバニアとマケドニアを失い、バルカン諸国はこれらの領土をさながら獲物に食らい付く狼の様に奪い合います。そしてそれに不満を持つブルガリアが同盟を離反して第2次バルカン戦争に至ります。

この伊土戦争とバルカン戦争は、第1次世界大戦の直前に行われた「前哨戦」ともいうべき戦争でした。しかし、戦争自体がはるか辺境の局地的なものであったため、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアといった名だたるヨーロッパ列強諸国の関心は低く、各国はそれぞれの利害と思惑からこれらの戦争の結果を黙認します。

そして、オスマン帝国を苦しめたこの2つの戦争の終結からわずか1年後の1914年7月、ボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件を契機に、世界は第1次世界大戦の巨大な嵐に突入し、やがてオスマン帝国の長い歴史に終止符が打たれる事になるのです。

次回に続きます。

アラビアのロレンス ・ 砂漠に残る夢の跡

みなさんこんにちは。

1914年6月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国領であったボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻暗殺事件の影響はたちまち全世界に波及し、1ヵ月後の7月28日、ついに世界はドイツ、オーストリアなどの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国との人類史上最初の大戦争である第1次世界大戦に突入しました。

それではこの第1次世界大戦で、本テーマの主役であるオスマン帝国は一体どちらの味方に付いたのでしょうか? 実はオスマン帝国は意外にもドイツ側に付いて参戦し、その同盟関係に基づいて、200年来の宿敵ロシアと黒海周辺地域で激しい戦いを繰り広げていたのです。

ドイツとオスマン帝国とが同盟関係を持つに至った経緯は、大戦勃発からさかのぼる事20年以上前の19世紀末にまで話を戻さなくてはなりません。当時オスマン帝国は、1876年に即位した第34代皇帝アブデュルハミト2世による独裁政権下にありました。彼の30年に及ぶ統治下、帝国が内向きに停滞している間に、ヨーロッパ列強諸国は世界中で植民地争奪戦を繰り広げていました。

中でもイギリスの突出ぶりが群を抜き、その影響はかつてのオスマン領であったエジプトにスエズ運河を築き、オスマン帝国の東の隣国イランのガジャール朝ペルシア王国(1796年成立、1925年滅亡)を半植民地化するなど、東西からオスマン帝国を取り囲む勢いを見せていました。

その頃ヨーロッパでは新たな強国が著しく台頭していました。1871年に成立したドイツ帝国です。ドイツは中世以来多くの小国に分裂していましたが、18世紀に興隆したプロイセン王国主導の下に統一が進み、100年以上かけてようやく統一されたドイツ帝国の成立をみたのです。しかし、ドイツが国家統一の戦いに明け暮れている間に、イギリスやフランスは海外植民地を広げ、新興国であるドイツとしてはこれらのライバル国と対等にわたり合うために、イギリスなどが今だ手をつけていない残りの海外植民地を急いで手に入れる必要に迫られていました。

その当時のドイツを率いていたのが皇帝ウィルヘルム2世です。


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上がドイツ皇帝ウィルヘルム2世です。(1859~1941)彼はドイツ帝国ホーエンツォレルン朝3代皇帝として1888年に即位し、プロイセン王としては9代目に当たります。ドイツをイギリスと並ぶ世界帝国に押し上げる事に執念を燃やし、その野望実現のために軍備増強と数々の謀略や外交政策で暗躍、そして何より1千万人の戦死者を出した後の第1次世界大戦の完全な責任者なのですが、歴史上では第2次世界大戦を引き起こした独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの様な悪者扱いをされる事はほとんどありません。やはりそれはヒトラーの様な成り上がり者と違い、生まれながらの王にして皇帝というその高貴な身分だからでしょうか?

遅れてきた新興帝国主義国家ドイツ帝国は、ウィルヘルム2世の元でアフリカのナミビア、タンザニア、カメルーン、さらに太平洋のニューギニア、ミクロネシアなどの南洋の島々を手に入れます。しかし、アジア、アフリカ地域はそのほとんどがすでにイギリスなど他の列強に押さえられており、ドイツによるこれ以上の植民地獲得は難しい状況でした、それでもウィルヘルム帝の領土欲がこの程度で満足する事はありませんでした。

そこで彼が目をつけたのが、オスマン帝国の南に広がる広大な中東地域でした。ウィルヘルム2世はかつて世界一の繁栄を謳歌した古のバビロンやバグダッドにドイツ帝国の鷲の国旗を打ち建て、中東全域をドイツ領にする事を夢見る様になります。そこで接近したのがオスマン帝国でした。

オスマン帝国としても、東西を物理的にイギリスに押さえられ、さらにこれまでに行った近代化改革の費用や対外戦争の戦費もイギリスなどからの膨大な借金であり、これらによって頭の上がらないイギリスの影響から抜け出したい感情が強く、そのための強力な軍事、経済的援助国としてドイツに近づくのはごく自然的な成り行きでした。

その両国の思惑が目に見えた形で実現したのが1900年に始まる「ヒジャーズ鉄道」の建設です。このヒジャーズ鉄道は、当時のオスマン皇帝アブデュルハミト2世の命によって、シリアのダカスカスからイスラムの聖地であるメッカまでを結ぶ総延長1300キロに及ぶ長大な鉄道で、建設費用はドイツ最大の銀行であるドイツ銀行が全面出資し、ドイツ人の技術者の指導や支援を受けながら、大量のトルコ人労働者を動員して鉄道の敷設作業が進められていきました。


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上がヒジャーズ鉄道の建設の様子とその路線図です。(この「ヒジャーズ」という名はこの地域一帯の地名です。)アブデュルハミト2世がこの鉄道を建設した狙いは、単にイスラムの聖地メッカへの巡礼のためだけではなく、紅海沿岸の物産をオスマン帝国本国へ陸路で大量に輸送するためでした。なぜなら1869年のスエズ運河の開通によって、海運はイギリスに支配されており、各国は高い通行料金と関税をイギリスに払わなければならなかったからです。

ヒジャーズ鉄道の建設は、1908年9月1日の皇帝の即位記念日に間に合わせるために急ピッチで進められましたが、結局最終目的地メッカまでには届かず、その手前のもう一つの聖地メディナまで開通させるのがやっとでした。しかし、物理的には紅海沿岸の物資輸送という目的は十分に果たせるほどに達成されていました。


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上が完成したヒジャーズ鉄道に乗るオスマン帝国の人々です。この鉄道の開通によって、オスマン帝国は陸路で安くこの地域の物資を輸送出来るようになり、またこのヒジャーズ地方以南の軍事支配や交易強化に大きく貢献しました。

ドイツ、オスマン両国の合弁事業はこのヒジャーズ鉄道だけではありませんでした。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、先に述べた様にバグダッドへの自らの入城を夢見ており、ドイツ帝国の帝都ベルリンと、オスマン帝国の帝都イスタンブール(旧ビザンティウム)それにバグダッドの3つの都の頭文字を並べたいわゆる「3B政策」の要となる「バグダッド鉄道」の建設も進めていたのです。


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上がドイツの「3B政策」の図です。同時代のイギリスの「3C政策」(エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタを結ぶ。)に対抗するものとして、歴史で習った方も多いのではないでしょうか?

しかし彼のこの壮大な計画は、第1次大戦の勃発によって頓挫する事になります。ドイツはヨーロッパで、オスマン帝国は中東で互いの健闘を祈りつつ、激しい戦いを繰り広げていく事になります。今次大戦において、ドイツが同盟国であるオスマン帝国に期待したのは、はるか南にあってアジアとヨーロッパの中間に位置するオスマン帝国の地理的条件を活かし、ドイツ、オーストリアの東の強敵ロシアを南の黒海周辺から攻撃して、東部戦線のロシア軍兵力を割くと同時に、中東におけるイギリスにとって最大最重要の権益であるスエズ運河をオスマン軍が奪取し、イギリス本国とインドなどのアジア植民地との連携を遮断する事でした。

オスマン帝国はドイツの求めに応じ、黒海沿岸やコーカサスでロシア軍と激戦を交え、またスエズ運河奪取のためにシナイ半島のエジプトとの国境線上に大部隊を集結させ、これをうかがう勢いを見せます。その作戦のために大いに利用されたのがヒジャーズ鉄道でした。

これに大きな危機感を抱いたのがイギリスです。もしスエズ運河をトルコ軍に奪われる様な事になれば、イギリスの損失は計り知れないからです。しかし、当時イギリス軍はドイツ軍とフランスの西部戦線で激しい戦いを繰り広げており、その戦いに100万以上もの大兵力を削がれた結果、中東方面に廻せる兵力は極めて限られていました。(この当時におけるイギリス中東方面軍はわずか7個師団およそ9~10万ほどで、そのうち2個師団はオーストラリアとニュージーランドの混成部隊だったそうです。)対するオスマン軍は20個師団総勢25万を越える大軍でした。そこでイギリス陸軍は、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人たちをオスマン帝国と戦わせる事で、兵力の不足を補う作戦を立案しました。

しかし、何の見返りもなしに中東において強大な力を持つオスマン帝国軍と戦うほど、彼らアラブ人もお人好しではありません。そこでイギリスは、彼らを動かすためになりふり構わぬ大きな「餌」を与えます。

「わが軍に協力し、戦争に勝った暁には大英帝国はアラブ人国家の樹立を承認し、その独立を支援する。」

イギリスはこんな甘い言葉でアラブ人たちに戦争への協力を要請したのです。もちろんアラブ側とて、イギリスの腹の内が読めないわけではありませんでした。

「イギリスの道具として良い様に利用されてしまうだけではないのか。」

こんな不安と不信感をイギリスに対して持つ者も多かったのです。しかし、イギリスが提示した条件は、数百年もの間オスマン帝国の支配にあえいできたアラブ人たちの悲願であり、彼らを動かす強力な「てこ」の役割を果たしました。結局アラブ側はイギリス軍への協力に応じてオスマン軍と戦う事を決意します。

その作戦のために一人の若い将校がイギリス中東方面軍に送り込まれます。彼の名はトーマス・エドワード・ロレンス。後に「アラビアのロレンス」として、アラブ反乱軍とともにオスマン帝国と戦う人物です。


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上がトーマス・エドワード・ロレンス中尉(後に大佐に昇進)です。(1888~1935)彼はもともとは軍人ではなく、名門オックスフォード大学出身の中東アラブ地域を専門とする考古学者で、戦争が無ければ静かで平凡な学者人生を送っていた事でしょう。しかし、彼の専門分野が中東であった事と、アラビア語の堪能さを買われてこの特殊任務を命じられた事が彼の人生を大きく変え、彼は歴史にその名を残す事になりました。

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このロレンスについて詳しくお知りになりたい方は、1962年公開の映画「アラビアのロレンス」をご覧になるのが一番でしょう。イギリスの名監督デビッド・リーンの代表作の一つで、主役のロレンス中尉を演じるピーター・オトゥールと、エジプトの名優オマー・シャリフとの共演が見事です。他にも画質の綺麗なブルーレイがありますが、パッケージのデザインがこちらのDVD盤の方が綺麗で豪華なのでお薦めです。

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ロレンスに関する詳しい書籍としては上の2冊が良書です。ページ数は上が309ページ、下が250ページ余りで、情報量としては上の方が良いかもしれません。他にもう1冊「アラビアのロレンスの真実」というものがありますが、こちらはページ数336ページの割には価格が高い(およそ4千円。余裕のある方はどうぞ。笑)ので、上の2冊をお薦めします。

1916年10月、カイロの陸軍情報部に配属されたロレンスは情報将校として勤務する傍ら、アラブ反乱軍の指導者となれる人物をリストアップし、これと接触する事に成功します。その人物とはファイサル・イブン・フセインといい、イスラム教の開祖ムハンマドの血筋を引く名門王家の王子でした。


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上がそのファイサル王子です。(1883~1933 写真中央のアラビア服の人物。その彼の後に居並ぶ4人の人物の右から2人目がロレンス。後にこのファイサル王子は1921年に初代イラク国王になります。)彼はムハンマドの血筋(といってもムハンマドの娘の家系なので、女系になりますが。)を引く名門ハーシム家の王族で、この時代ハーシム家はヒジャーズ地方一帯を取り仕切る太守としてオスマン皇帝から認められた存在でした。(ちなみにこのハーシム家は、写真のファイサル殿下の兄アブドラ王子が、第1次大戦後の1921年に初代ヨルダン国王アブドラ1世として即位、彼の一族が現在のヨルダン王国の王家として現在に至り、わが国の天皇家とも親密な交流を続けています。)

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上が現ヨルダン国王アブドラ2世(1962~)で、彼はハーシム王家4代目の王になります。ほぼ毎年の様に、王妃はもちろん王弟や王妹、従兄弟などの王族まで連れて来日し、皇居でわが天皇皇后両陛下と昼食を共にされるほどの大親日家であり、おそらく世界の君主で最も来日回数の多い「日本大好き」な王様です。(笑)

アブドラ国王はあり余るほどの深い木々と緑に包まれた天皇陛下の宮殿である広大な皇居に大変感動し、皇居訪問を楽しみにしているそうです。(その理由は、中東の砂漠の国では「水と緑」は黄金よりも貴重なものであり、満々と水をたたえた巨大な堀に囲まれ、あふれんばかりの緑に覆われた東京の皇居は、砂漠の国がほとんどの中東諸国の人々にとっては何よりも贅沢な「うらやましいもの」であるからです。

彼の国ヨルダン王国(正式国名はヨルダン・ハシミテ王国。「ハーシム家のヨルダン王国」と言う意味です。)は、中東にありながら国内に油田がほとんど無いため、オイルマネーのおかげで王族以下、一般国民までが贅沢に暮らすペルシャ湾岸諸国と違って国民生活は決して豊かとはいえないそうですが、この王様はそんな国民の暮らしへの不満や、政治家たちの評判などといった「国民の生の声」が聞きたいからと言って、なんとタクシーの運転手に変装し、一人で王宮を抜け出したりして護衛の人々を困らせるなど、何かとお騒がせの「濃い」キャラクターの人物だそうです。(笑)しかし、それも国王として、国民を思うゆえの行為であるため、ヨルダン国民には大変人気のある王様です。

さて、ファイサル王子は大戦勃発当初から、配下の軍勢数千を率いてオスマン軍と戦っていましたが、彼の軍勢は大半が騎馬とラクダの遊牧民族が主力で、武器と言えばイギリス軍から供与された小銃や軽機関銃などしかなく、それも全軍の3分の1程度しか持っていませんでした。

これには理由があります。イギリスとしては彼らアラブ人に軍事的に強大になってもらっては困るのです。イギリスはオスマン軍と戦うための「補完戦力」として彼らアラブ人を利用しようとしていただけであり、その目的はオスマン軍を引き付ける「囮」や、最も戦死、負傷率が高い最前線で彼らをオスマン軍と戦わせ、イギリス軍の損耗を軽減するのが狙いでした。そして戦争が終わればアラブ独立の約束などうやむやにして、これまでの様な半植民地的状態を継続するつもりでいたのです。そのためイギリスは、戦車や大砲といった強力な武器をアラブ側に与える事はしませんでした。

こうした上層部の考えをよそに、ファイサル王子のアラブ反乱軍の連絡将校に任命されたロレンスは、その役目を果たすべく懸命の努力を続けていました。初めのうちは、ロレンスも上層部と同じ様に「アラブ人たちをオスマン軍といかにしてうまく戦わせるか。」といった打算的な考えで動いていた様です。しかし、戦争が長引くに連れ、アラブ人たちと長く交流するうちに、次第にロレンスは彼らの心情に共感し、アラブ人たちと命を懸けて前線で戦う様になります。

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上はイギリスの軍服を脱ぎ捨て、ファイサル王子から贈られた純白のアラビア服を身にまとうロレンス。まさに「アラビアのロレンス」ですね。(笑)

ロレンスは、強力なオスマン軍との正面での戦闘を避け、各地でオスマン軍の補給線を叩く「ゲリラ戦」をファイサル王子に提案し、その了承を得ます。彼はアラブ軍を数十人から百人単位の小部隊に分け、各地でゲリラ戦を展開します。そのロレンスの第1攻撃目標が例のヒジャーズ鉄道でした。


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上の画像は映画「アラビアのロレンス」のワンシーンです。線路に仕掛けた爆薬の起爆スイッチを握るピーター・オトゥール演じるロレンス。実際のロレンスもこの様にして戦ったのでしょうね。

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上の画像は現在のヒジャーズ鉄道沿線の様子です。ロレンスたちに爆破されて横倒しになった機関車の残骸が、今も100年前の当時そのままに赤錆びた姿をさらして残されています。(驚)

ロレンスのゲリラ作戦は大成功でした。ヒジャーズ鉄道に対するアラブ軍の絶えない攻撃と破壊活動により、オスマン軍は鉄道沿線に守備兵力を釘付けにされ、スエズ運河奪取のためのエジプト侵攻作戦に廻す兵力を大きく削がれてしまいます。同時にイギリス軍は、その後のパレスチナ進軍を容易にする事が出来る様になりました。

やがて1918年以降、戦局はイギリスはじめ連合軍の優勢に傾きます。中東各地で敗退を続けるオスマン軍を追撃し、イギリス軍は本国からの増援軍3個師団を得て、総勢10個師団およそ15万の兵力で北上、同年10月ついにヒジャーズ鉄道の出発点であるシリアのダマスカスを占領します。オスマン軍は帝国本土の国境線上の防衛に手一杯で再南下する余力はなく、同月オスマン帝国と連合国との間でムドロス休戦協定が結ばれ、オスマン帝国は降伏。これにより中東戦線はイギリスの勝利で終結する事になったのです。

この勝利の最大の功労者であるロレンスは、わずか30歳の若さで陸軍中佐にまで昇進(本来この年齢なら、大尉など尉官クラスでしょう。)していましたが、戦争は終わり、それと同じく彼の役割も終わりに近づいていました。この頃ロレンスは、数年間寝食を供にして一緒に戦ったアラブ軍に対して大きく同情的になっており、末端のアラブ人たちの願いである共和制のアラブ国家独立の支援を主張する様になります。

しかし、それは自らを君主とするハーシム家世襲の王国の樹立を目論むファイサル王子や、それを利用してイギリスに都合の良い中東の権益を望むイギリス上層部との考えとは相容れぬものでした。イギリス上層部とアラブの指導者ファイサル王子は次なる目的、すなわちオスマン帝国亡き後の中東地域の支配権をめぐって高度な政治的駆け引きを繰り広げており、その様な状況の中でロレンスの居場所はもうなかったのです。

戦争終結後の1919年、イギリス陸軍上層部はロレンスを大佐に昇進させると、イギリス本国への帰還を命じ、彼は青春時代を過ごした灼熱の中東を失意の内に離れ、その後はイギリス国内やインドなどに派遣されて地味な軍務をこなす退屈な毎日を送ります。

しかし、そんな毎日に嫌気がさしたのか、彼は次第に生活にスピードとスリルを求める様になり、陸軍軍人でありながら空軍に入隊を志願。この頃からオートバイなどのモーターサイクルにも熱中するスピード狂になり、人々を困らせる様になります。そして1935年5月、稀代の英雄トーマス・エドワード・ロレンスは、猛スピードでオートバイを運転中に道路わきの2人の少年を避けようとして事故を起こし、意識不明の重体となって1週間後に亡くなりました。(享年46歳)


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上は愛車のオートバイに乗ってご機嫌のロレンス大佐です。しかし、彼はヘルメットを着用していなかったために早すぎる死を迎える事になってしまいました。この事故により、その後オートバイ走行時のヘルメット着用が義務付けられていく様になります。

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上は砂に埋もれた現在のヒジャーズ鉄道の線路です。この鉄道はオスマン帝国滅亡後、破壊されたまま砂漠に放棄され、その後にこの地域に成立したヨルダンやシリアなどで、ごく一部が主に観光用に使用されている他はほとんどが廃線となっています。

しかし、かつてこの鉄道で繰り広げられた男たちの熱い戦いの面影は、100年の時を越えて今も灼熱の中東の砂漠に夢の跡となって残っているのです。

次回に続きます。

オスマン帝国降伏 ・ 皇帝の裏切り

みなさんこんにちは。

時は1918年、その4年前から始まっていた第1次世界大戦の戦局は、ドイツとその同盟国3カ国(オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国)から成る中央同盟国に著しく不利な状況に傾いていました。それに伴い、今次大戦において、その同盟関係に基づいてドイツ側に立って参戦したオスマン帝国の運命も、もはや「風前の灯」となっていたのです。

この時期にオスマン帝国の皇帝であったのはメフメト5世という人でしたが、もともと先帝の長い独裁に反発した人々によって擁立された存在の彼に、この帝国存亡の危機を乗り切る力などあるはずがありませんでした。


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上がオスマン帝国第35代皇帝メフメト5世です。(1844~1918)彼は兄である先帝アブデュルハミト2世の30年に及ぶ長い独裁に耐えかねた軍人たちが、1908年に起こした立憲革命によって擁立されたオスマン帝国史上初の実権の無い正真正銘の「立憲君主」であり、実際の帝国の運営はその立憲革命で実権を握った首相のタラート・パシャが行い、戦争指導は陸軍参謀総長のエンヴェル・パシャら軍部の将軍たちが行っていました。

そもそもオスマン帝国がドイツと同盟したのは、互いの利害の一致という両国の思惑もありましたが、若い頃からドイツに留学し、熱心なドイツ支持者であったエンヴェル・パシャ将軍の強い圧力によるものが大きく、皇帝も否やを口にする事は出来ませんでした。


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上は第1次大戦中の1917年10月に、イスタンブールを訪問したドイツ帝国皇帝ウィルヘルム2世を歓迎するパレードで、共に馬車に乗ってドルマバフチェ宮殿に向かう2人の皇帝の姿です。

しかし、その選択が、やがて帝国を破滅の道に追いやる事になろうとは、この時誰が予想し得たでしょうか? オスマン帝国は1914年7月、大戦勃発と同時に宿敵ロシアに攻撃を仕掛けます。それは建て前としてはドイツの支援でしたが、実際はこの機に乗じて長年ロシアに奪われ続けた黒海と、その沿岸の領土を奪還する事が、エンヴェル将軍らオスマン軍部の大きな目的でした。しかし、彼らはすぐにそれが甘い考えであった事を思い知らされてしまいます。オスマン軍は事前の準備もあって初戦は勝利するも、ただちにロシア軍の反撃にあって苦戦し、領土奪還どころかロシア軍を黒海沿岸で釘付けにするのが精一杯の状態に陥ってしまいます。


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上が当時の国際関係を表した図です。

そうしている間に最初の危機が帝国に迫ります。イギリス、フランスなどの連合国がロシアからの要請を受け、オスマン帝国の首都イスタンブール攻略のため、その近くのガリポリ半島に上陸作戦を仕掛けてきたのです。


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上がガリポリ半島の位置です。(画像小さくてすみません。汗)

このガリポリ上陸作戦は、当時イギリス海軍大臣であったウィンストン・チャーチルの主導によって、陸・海・空3軍の総力を結集した近代史上初の大規模上陸作戦で、その目的はイギリス・フランス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなど主要連合国5カ国の精鋭5個師団およそ8万の兵力をもってこれを制圧し、さらに帝都イスタンブールに進撃してこれを占領する事で、直接オスマン帝国の「息の根」を止めてしまおうというものでした。


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上がガリポリ作戦の主導者ウィンストン・チャーチル海軍大臣です。第2次大戦でヒトラーの猛攻に耐え、イギリスを勝利に導いた大政治家であるのは、歴史好きの方ならば誰でもご存知の事とは思いますが、この頃の彼はまだ40歳前後で若く、将来の首相の座を狙う野心家でもありました。そのための大きな実績づくりとして、この作戦を立案させた側面がある様です。

しかし、この連合軍の作戦はかなり杜撰で無謀なものでもありました。イギリスはじめ連合軍は、これまでの経緯でオスマン帝国が敗退の連続であった事から彼らを軽視し、「オスマン帝国など簡単に倒せる。」と軽んじていたのです。

連合軍のガリポリ上陸に際し、オスマン軍では精鋭6個師団およそ10万を各所に配置し、海峡の沿岸におびただしい数の大量の火砲を配備して要塞化するとともに、海にはこれも恐ろしい数の機雷を敷設した万全の防衛体制で連合軍を待ち構えていました。


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上の1枚目は上陸して物資を陸揚げする連合軍。2枚目と3枚目はその連合軍を迎え撃つため集結していたオスマン軍各部隊の将兵たちです。

1915年4月、ガリポリ半島上陸に成功した連合軍は、首都イスタンブールを目指そうとしますが、帝都絶対死守のオスマン軍の猛攻に遭って前進できず、全く身動きが取れなくなってしまいます。(前はオスマン軍、後は海なのですから当然ですね。つまり彼らはオスマン軍を「追い詰める」どころか、逆に自分たちが「追い詰められた」状態になってしまったのです。)事態打開のため、イギリス本国のチャーチル海相は増援軍を送り、連合軍の兵力は14個師団約20万にまで膨れ上がりますが、オスマン軍も同じ規模にまで兵力を増強、両軍とも第1次大戦の象徴ともいえる「塹壕」を掘って戦線は長い膠着状態に陥ってしまいます。

そうこうしているうちに連合軍に深刻な疫病が蔓延してしまいます。その猛威は強烈で、実際の戦闘による戦死者4万3千に対し、疫病による死者はなんと14万にも達し、連合軍はほぼ壊滅に近い悲惨な状態になってしまったのです。この状況に連合軍は作戦の失敗を悟り、1916年1月に撤退を決定。「ガリポリの戦い」はオスマン軍の逆転勝利に終わったのです。

この戦いではオスマン軍も戦死者8万6千を越える大損害を被りましたが、久々の大勝利に長く西欧諸国に敗れ続けてきたトルコの人々は狂喜し、オスマン帝国の戦意高揚に多大な貢献を果たしました。また、この戦いでオスマン軍の最前線で戦闘部隊の指揮を取り、連合軍を撃退して名を馳せた一人の将軍がいました。その名をムスタファ・ケマルといい、彼はその功績で皇帝より「パシャ」の称号を贈られ、彼の活躍が新聞で大きく報道されると、一躍ケマル・パシャは英雄となります。(逆に、この作戦を主導したイギリス海軍大臣チャーチルは、18万以上もの戦死者を出して失敗した一連の責任を問われて辞任に追い込まれてしまいます。)


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上がそのケマル・パシャです。(1881~1938)彼は後にトルコ共和国初代大統領として、「英雄」と同時に「建国の父」と呼ばれる様になるのです。

さて、ケマル・パシャらの活躍で一度は連合軍を撃退したものの、その後のオスマン帝国の戦況は一向に好転せず、じりじりと連合軍に押されていく様になります。しかし、1917年3月にオスマン軍にとって戦局挽回の大チャンスが訪れます。宿敵ロシアで革命が起き、300年以上続いたロマノフ朝ロシア帝国が倒れてウラジミール・レーニン率いる世界初の共産主義国家ソヴィエト連邦が成立したからです。

革命を成功させたといっても、今だ国内は混乱して態勢が脆弱だったレーニンの政権に対し、共産化を嫌ったロシア最大の穀倉地帯ウクライナが対立し、独立を宣言します。ウクライナはドイツ以下の中央同盟国と結び、軍事協力と領土割譲の見返りに、ウクライナのあり余る穀物を提供する秘密協定を結んだのです。(ウクライナにしてみれば、「共産国になるくらいなら、君主制のドイツ・オーストリアの領土になった方がはるかにマシだ。」という訳です。近年ロシアとウクライナの対立が国際問題となっていますが、両国の確執はすでにこの頃から始まっていたのです。)

結局この騒動は、早く戦争を止めて国内を安定させたいレーニンのソ連側が、ドイツ・オーストリア・オスマンなどの同盟国にウクライナを譲り、多額の賠償金を支払う事で1918年3月に決着し、ロシアは大戦から離脱してしまいます。(その後、この条約はドイツ以下の敗戦によってソ連が一方的に破棄したため、実現する事はありませんでした。)

こうした中の1918年7月、皇帝メフメト5世が74歳で崩御。帝位は弟のメフメト6世が継承しますが、もはやお飾りの立憲君主としての存在でしかなかった皇帝の代替わりに関心を持つ者はほとんどいませんでした。


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上がオスマン帝国第36代皇帝にして、最後の皇帝となるメフメト6世です。(1861~1926)彼は立派なあごひげと威厳に満ちたこれまでの歴代皇帝たちと違い、外見は皇帝というより痩せた初老の学者といった人物で、いずれにしても頼りなさそうな印象ですね。(笑)まさにオスマン帝国の末期をそのまま体現した人といえるでしょう。そして彼を最後にオスマン帝国はその途方もない歴史に終止符を打つ事になるのです。

このメフメト6世が即位してわずか2ヶ月後の1918年9月、中央同盟国で最も弱小であったブルガリアが連合国に降伏して同盟から離脱してしまいます。ヨーロッパにおいては、西部戦線で大攻勢に失敗したドイツ軍が総崩れとなって総撤退を開始、この短い期間に情勢は中央同盟国に一気に不利に傾きました。特にオスマン帝国は、ブルガリアの脱落で首都のイスタンブールには連合軍が迫り、さらに南からはイギリス軍が、前回お話した「アラビアのロレンス」ことロレンス中佐率いるアラブ反乱軍の協力を得てエジプトからパレスチナを北上、シリアの首都ダマスカスまでも占領されてしまいます。

もはや中央同盟国の敗北は誰の目にも明らかでした。それでもオスマン帝国では、軍部の実権を握る陸軍参謀総長のエンヴェル将軍ら強硬派が徹底抗戦を主張し、あくまで戦争を続行するつもりでいたのです。(このあたり、まるで太平洋戦争末期のわが日本帝国軍部を見ている様ですね。)

この状況の中、意外な人物が動き出します。1918年10月、それまで何の実権もないお飾りの存在と思われていた皇帝メフメト6世が、なんと自身の地位の保証とオスマン皇帝家の存続を引き換えに、エンヴェル将軍ら帝国政府を無視して連合国と休戦協定を結び、事実上降伏してしまったのです。(実権がないとはいえ、国の代表である国家元首はあくまで皇帝ですからね。)この皇帝の思いもかけぬ「裏切り」に、それまで帝国政府を支配していたエンヴェル将軍らは万策尽き果て、連合軍のイスタンブール進駐の直前に国外に逃亡し、イスタンブールは1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしてこの地に都を置いて以来、実に465年ぶりに西欧キリスト教諸国である連合軍によって占領されたのです。

この時脱出した軍人たちの中に、あのガリポリの戦いで連合軍を撃退した名将ケマル・パシャらもいました。彼の率いる一派はアナトリア東部の奥地に潜伏し、トルコ民族の団結を唱えて抵抗運動を組織する様になります。

大戦終結後の1920年8月、フランスのパリ郊外セーヴル(あのフランスが誇る最高級陶磁器「セーヴル焼き」で有名な街です。)で、連合国とオスマン帝国との間に最初の正式な講和条約が締結されます。この条約によって、皇帝メフメト6世の政府は、その広大な領土の9割以上を連合国に割譲するというとんでもない条約を結んでしまいます。


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上が「セーヴル条約」で決められたオスマン帝国の連合国による分割を示した図です。メフメト6世のオスマン帝国政府に残された領土は、上の図のオレンジ色の縦線で示された帝都イスタンブール周辺のわずかな地域のみで、それすらも連合国の国際管理下に置かれるという「ひどいもの」でした。

ここまで屈辱的な内容に譲歩しても、メフメト6世は皇帝としての自らの地位の保証とオスマン皇帝家の存続に固執したのです。彼としては、初代オスマン1世に始まる栄光あるオスマン皇帝家を自分の代で終わらせる様な事になっては歴代皇帝に申し訳ないという先祖たちへの畏敬と、オスマン家当主としての意地とプライドがあったのでしょう。

とはいえ皇帝も、ここまで連合国に徹底的に領土を奪い取られるとは思っていなかったのでしょうが、国と国民を無視し、なりふり構わず国土を切り売りして、あくまで皇帝家の存続にのみこだわる皇帝のこうした「売国」姿勢は、帝国臣民の中心であったトルコの人々を大きく失望させ、皇帝の権威は失墜、国民は帝政廃止を強く望む様になります。そしてメフメト6世が国を売ってまで望んだ皇帝家の存続は、結局わずか数年の「延命」で終わる事になるのです。

次回に続きます。

オスマン帝国の最後 ・ その後のオスマン家

みなさんこんにちは。

第1次世界大戦末期の1918年10月、南北から迫る連合軍に追い立てられ、もはや勝ち目の無くなったオスマン帝国は、連合国との間でムドロス休戦協定に調印。事実上降伏しました。今次大戦でドイツ側に付き、宿敵ロシアに奪われた黒海とその沿岸領土の奪還を果たすというオスマン帝国の目論みは完全に失敗し、戦争は帝国の惨めな敗戦で幕を閉じたのです。

連合国との間でこの休戦協定を結んだオスマン帝国皇帝メフメト6世は、皇帝としての自身の地位の保証とオスマン皇帝家の存続を条件として、帝国政府や軍部を通さずに降伏してしまったのです。


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上がオスマン帝国第36代皇帝メフメト6世です。(1861~1926)彼は前回お話した様に、オスマン帝国最後の皇帝です。眉をひそめ、不安そうにうつろな眼差しで遠くを見る彼の表情には、帝国皇帝としての威厳も自信もなくなっていますね。

皇帝の独断による降伏に、彼を無力なお飾りに過ぎないと思っていた政府と軍の首脳らは驚愕しました。なぜなら休戦協定によって前線では兵士たちの投降と武装解除が始まり、戦争の継続が出来なくなってしまったからです。やがて1920年3月、イギリス、フランスなどの連合軍は首都イスタンブールに入城します。その直前、帝国議会の議員からなる政府首脳や軍の将軍たちはイスタンブールを脱出して国外に逃亡、一方勝利したイギリス以下の連合国と、メフメト6世の側近たちからなる皇帝政府は、イスタンブール占領から約半年後の同年8月に、フランスで新たに「セーヴル条約」を締結し、連合国はその内容に従ってオスマン帝国の各地を分割占領してしまいます。

しかし、この時連合国の中で、条約の取り決めをはるかに上回る領土を主張した一国がありました。それはトルコの隣国ギリシャです。ギリシャは国王コンスタンティノス1世主導の下で、北はブルガリアの南半分から、南はトルコ本国アナトリア西部と地中海のキプロス島、そして東は黒海沿岸地域までも「ギリシャ領」であると主張します。


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上がギリシャが主張した領土と、当時のギリシャ国王コンスタンティノス1世です。(1868~1923)彼はギリシャ王国第2王朝グリクシンブルグ朝2代国王です。ギリシャは1832年にドイツのバイエルン王国出身の王オソン1世を初代国王とする王国としてオスマン帝国から独立しましたが、そのオソン1世が国民に不人気で1863年に廃位され、その後継として列強諸国に擁立されたのが、デンマーク王国の王家で現在も続くグリュックスブルク家(ギリシャ語で「グリクシンブルグ」となります。)出身で彼の父である先王ゲオルギウス1世でした。

ギリシャ王としては3代目に当たるコンスタンティノス1世は、若い頃からドイツの士官学校で学び、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の妹ゾフィーを王妃に迎え、大変な親ドイツ派でした。当然の事ながらドイツ流の軍事拡大思想の影響を強く受けており、その彼が目指したのが、王家は違えど初代国王オソン1世が唱えた「大ギリシャ主義」によって、かつてオスマン帝国に滅ぼされた旧ビザンツ帝国の領土をトルコから奪い返し、かつてのビザンツ帝国を現代に復活させようとするものでした。

1919年5月、ギリシャ王コンスタンティノス1世はその「夢」を実現させるべく、20万の大軍をトルコ最大の港湾商業都市イズミールに上陸させ、ここを拠点としてアナトリア侵攻作戦を開始します。「希土戦争」(きとせんそう。ギリシャ・トルコ戦争)の始まりです。これは明らかに講和条約に違反したギリシャによる「侵略」でしたが、この事態にイスタンブールのメフメト6世らオスマン皇帝政府に成す術などありはしませんでした。ギリシャ軍はトルコの各都市を次々に占領、トルコ領内の奥深くに進撃して行きます。


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上の1枚目は港湾都市イズミール市内を行進するギリシャ軍で、2枚目はトルコ領内を進撃するギリシャ軍部隊です。(それにしても、歴史とは本当に怖いものです。思い起こせば、かつてギリシャはオスマン帝国に数え切れないほど侵略され、500年もの長い間支配され続けてきた歴史がありますが、今度はそのギリシャがオスマン帝国(もはや「帝国」などと呼べるものではありませんが。)を侵略しようとしているのです。進軍するギリシャ軍将兵たちは、さぞや先祖たちが苦しめられたオスマン帝国への「復讐心」と、それを実行出来る喜びに湧いていたのではないでしょうか?

しかし、この危機に立ち上がった1人のトルコの将軍がいました。その名をムスタファ・ケマルといい、かつて第1次大戦中に帝都イスタンブールに迫った20万の連合軍を撃退した「ガリポリの戦い」の英雄です。ケマルは連合軍がイスタンブールに進駐するはるか以前に首都を離れ、各地に分散していたオスマン軍の司令官たちや、その配下の残存部隊を集結させつつアナトリア東部に潜伏していましたが、その後1920年3月に連合軍がイスタンブールを占領すると、大挙して脱出してきた帝国議会の議員ら旧帝国政府グループと合流し、アナトリア中央部アンカラに「大国民会議」を開いて、ここを本拠地とし、イスタンブールの皇帝政府に代わる「正統な政府」の樹立を宣言して、その議長に就任します。


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上がそのムスタファ・ケマルです。(1881~1838)彼はこの時40歳で、無力なイスタンブールの皇帝政府よりはるかに強力な政・官・軍を備えた政権を打ち建てたのです。これによりトルコはギリシャの侵略と戦う態勢を整える事が出来る様になりました。

ケマルは自らオスマン軍を率いて各地を転戦、この時オスマン軍は大戦終結と敗戦により兵力が大きく減り、ケマルの率いる軍は総勢5万程度とギリシャ軍より圧倒的に不利でしたが、この5万のオスマン軍は連合軍に降伏する事を拒否した筋金入りのオスマン帝国軍の精鋭であり、ギリシャ軍を次々に撃破して行きます。

一方反撃に転じたトルコ軍の攻勢の前にギリシャ軍は敗退を重ね、ついに1922年9月にイズミールが陥落、ギリシャ軍は撤退します。こうして3年半続いた希土戦争はトルコの勝利に終わったのです。(両軍の損害はギリシャ軍の戦死者2万4千に対し、トルコ軍は戦死者1万1千でした。また、この戦争を起こした張本人とも言うべきギリシャ国王コンスタンティノス1世は、軍のクーデターにより敗北の責任を問われて退位させられ、シチリアに亡命してゲオルギウス皇太子がギリシャ王位を継承します。)

ケマルの活躍で希土戦争はトルコの勝利に終わりましたが、首都イスタンブールでは大きな不満と不安にさいなまれる人物がいました。その人物とは皇帝メフメト6世です。なぜなら皇帝はアンカラに独立政府を樹立したケマルを裏切り者の「逆賊」とし、皇帝に不変の忠誠を誓うわずかに残っていた皇帝直属の近衛部隊をもってケマル一派を弾圧していたからです。

一方希土戦争に勝利したケマルは、これを機に自分のアンカラ政府をトルコの正統な唯一の政府にする事を目論み、イスタンブールの皇帝政府を廃止するための動きに出ました。彼は1922年11月の大国民会議で「帝政の廃止」を決議させたのです。これによりイスタンブールの皇帝メフメト6世は廃位され、同時にオスマン家は皇帝家から一市民へと一夜にして転落させられてしまいます。これに対し、メフメト6世は何もする事は出来ませんでした。


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上の1枚目は帝政廃止により廃位され、ドルマバフチェ宮殿を退去するメフメト6世です。オスマン皇帝家に仕えて来た家臣や軍人たちが皇帝に対して最後の敬礼をしています。2枚目は宮殿を出た後、地中海の真ん中に浮かぶイギリス領マルタ島に亡命するためにイギリスの軍艦に乗り込むメフメト6世。(階段を下りる最も下の人物。)夕日に照らされ、肩を下ろしながら疲れた様子でイスタンブールを後にする姿は正に「落日の帝国」そのままですね。そして皇帝以外の他のオスマン家一族もその全てが国外追放となり、こうして1299年に初代オスマン1世が国を興して以来、36代623年続いた驚異のイスラム国家オスマン帝国はここに滅亡したのです。

帝政を廃止してオスマン家を追放したケマルは、およそ1年後の1923年10月に総選挙を実施、圧倒的多数で当選して新生トルコ共和国の成立を宣言し、自らその初代大統領に就任します。トルコに新しい指導者が誕生したのです。


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上が初代トルコ大統領となったムスタファ・ケマルです。大統領として強大な権限を握った彼は、その後トルコ共和国をオスマン帝国とは違う全く新しい国とするために次々と改革を実行して行きます。その手始めとして彼が手を付けた最初の仕事は、周辺国との国境線をはっきりと画定する事でした。ケマルはメフメト6世が連合国と結んでしまったトルコにとってあまりにも不平等なセーヴル条約に代わる、新たな条約を連合国との間で結ぶ旨を打診し、連合国もこれを受け入れます。(これはケマル率いる新生トルコがオスマン帝国時代よりも国家としては強固であり、大戦で大きく疲弊していた連合国も、これを不服として大して実益のないアナトリアに執着してトルコと無用な争いをする余裕は無かったからです。)

トルコと各国は、1923年7月にスイスのローザンヌで新たな講和条約を正式に締結します。


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上が「ローザンヌ条約」で確定したトルコとその周辺国の国境線です。(これが現在のトルコとなります。ギリシャやブルガリアとの国境線の紫色の部分は「非武装地帯」です。)

この条約でトルコはシリア以南のアラブ地域と地中海のキプロス島を失いますが、ケマルはトルコの関税自主権を取り返し、さらに敗戦国としては異例の賠償金の大幅減額(その支払いはトルコ経済の回復まで延期。これはつまり「賠償金の支払いは無し」という意味です。莫大な賠償金を課され、荷車1台に山と積んだ札束でも「パン1個」しか買えないほどのハイパーインフレに陥ったかつての同盟国ドイツとは大きな違いですね。驚)に成功します。

さらにこの条約がユニークなのは、ギリシャとトルコ2国間で「住民交換」が行われたという点です。これは当時トルコ領内にいた100万人のギリシャ正教徒をトルコからギリシャに移住させ、同時にギリシャ領にいた50万人のイスラム教徒をギリシャからトルコへと移住させるというもので、これまで繰り返されてきたキリスト教とイスラム教の宗教対立を避けるために両国間の合意で行われたものです。

ケマルはトルコをイスラム教とは無縁の国家とするため、憲法を改正して政治と宗教は別のいわゆる「政教分離」を行い、またトルコ語の表記に極めて使いづらいアラビア文字を廃止し、アルファベットに切り替えるなどの文字改革を実行、さらにトルコ人といえば必ず思い起こさせる「ターバン」やトルコ帽子を廃止、女性のヴェール(イスラム圏の女性が顔を隠しているあれですね。)も「イスラムの遺物」として排除させます。司法制度もスイスの民法をそのまま導入し、それまで名前だけであったトルコの人民に「姓」を付けるよう義務付けるといった社会、文化改革を推し進めていきました。


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上は視察先でアルファベットの読み書きを自ら教える「ケマル先生」です。もちろんこれは政治家としての彼の「パフォーマンス」ですが、常に自らが率先して指導するダンディなスーツ姿のケマル大統領はトルコ国民に熱烈に支持され、彼自身が国民に義務付けた「創姓法」の施行に伴い、国民の代表であるトルコ国民議会はケマルに「アタテュルク」(トルコの父)という姓を贈ります。(これはケマルにとって、かつて帝政時代に皇帝から送られた「パシャ」の称号よりはるかにうれしいものだったでしょうね。笑)

しかし、強力なリーダーシップでトルコを新しい道へ導いた偉大な政治家であった彼も、ある誘惑に勝てなかった一人の「人間」でした。その偉大な英雄である彼がどうしても勝てなかった誘惑とは「酒」でした。

もともと大変な酒好きであったケマルは、大統領になってからの激務でさらに飲酒量が増え、それが彼の寿命を縮める事になってしまったのです。1938年11月、トルコ救国の英雄にして国父ケマル・アタテュルクは、イスタンブールのかつてのオスマン皇帝の宮殿であるドルマバフチェ宮殿の大統領執務室で57歳で亡くなります。死因は過度の飲酒による肝硬変でした。

さて、帝政廃止によって皇帝の座を追われたオスマン帝国最後の皇帝メフメト6世とオスマン家の人々はその後どうなったのでしょうか?

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まず、メフメト6世ですが、彼は1922年11月の帝政廃止により一旦イギリス領マルタ島に亡命した後、さらに地中海に面したフランスとの国境に近いイタリアの港町サン・レモに移り住み、4年後の1926年に65歳で亡くなります。(しかし、帝国の皇帝として権力と戦争に翻弄されるよりも、彼にとってはその方が良かったのかも知れません。重すぎる重圧から解放され、一市民として静かな余生を過ごせたのでしょうから。遺体は彼の偉大な先祖である帝国最盛期の第10代皇帝スレイマン1世が、シリアの首都ダマスカスに建てたイスラム寺院に埋葬されました。)

メフメト6世には実子がいなかったため、オスマン家当主すなわち帝位は、その従兄弟に当たるアブデュルメジト2世が継承します。(帝国が滅びたのに「帝位継承」というのもおかしな話ですが。笑)その彼も、第2次大戦中の1944年8月に亡命先のフランス・パリで亡くなり、その後オスマン家当主と帝位継承権は、世界に散らばったオスマン家一族間で親等の近い人物の順に受け継がれていきました。

そして21世紀の現在、かつてのイスラム世界の覇者、オスマン帝国皇帝の正統な後継者にしてオスマン家当主は第44代バヤジット・オスマン氏が継承し、その系譜を未来につないでいます。


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上が現オスマン家当主であるバヤジット・オスマン氏です。(1924~)彼は第31代皇帝アブデュルメジト1世のひ孫にあたり、第44代オスマン皇帝として「バヤジット3世」を名乗っています。(もちろん名目上の話です。笑)ただし、ご本人も90歳を越える高齢でお子さんもいない事から、次の後継者が別のオスマン家一族から選出される事でしょう。

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上は現在のオスマン家一族の方々ですが、これはほんの一部の人たちです。(中央にいる白いシャツのご老人で、何代目かのオスマン皇帝の血を引くどなたかとそのご家族の様ですが、お名前は分かりませんでした。申し訳ありません。汗)オスマン家はご覧の様に子孫が大変多く、後継者に困る事はない様です。(ここで全く個人的な願望で恐縮ですが、わが天皇家も太平洋戦争敗戦時に臣籍を降下された旧宮家の方々に皇族として復帰して頂き、将来の天皇にお成りになる悠仁親王殿下をお支えして、皇統の存続と皇室の伝統と繁栄を未来につないで頂く事を「切に切に」望んでやみません。)

約半年間に亘って当ブログでお送りしてきた驚異のイスラム国家、オスマン帝国の興亡の歴史はここで筆を置きたいと思いますが、いかがだったでしょうか?(このテーマも全35回の長編なので、歴史好きの方の暇つぶしの読み物として、または何がしかの調べもので検索される方の助力の足しになればうれしい限りです。)

次回からはまた別のテーマで新シリーズを書こうかと思っておりますが、完全に自分の個人的な趣味と気分でテーマを選んでいるので、短編か長編かまだ未定です。

次回をお楽しみに。
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