クリミア戦争(後編) ・ 戦場に降りた天使

みなさんこんにちは。

バルカン半島進出を目論むロシアと、それを阻止せんとするオスマン帝国との間で1853年3月に勃発した第10次露土戦争は、その後ロシアの南下を嫌ったイギリス、フランスなどがオスマン帝国に味方して参戦し、1854年3月、その戦場を黒海におけるロシアの最重要基地クリミア半島の南端セヴァストポリに移して激戦が繰り広げられていました。

両軍の兵力は、攻撃するイギリス、フランス、オスマン連合軍17万と、防衛するロシア軍8万5千余りで、その戦闘の様子は前回お話した様に双方それぞれの軍事的な理由により一進一退の長期戦に陥り、それが敵味方合わせて25万を越える前線の将兵たちに大きな負担と犠牲を強いる様になっていきました。

そのため負傷兵が続出していましたが、現地軍司令部首脳は「使い捨ての道具」に過ぎない一般兵士の犠牲を顧みずに、ロシア軍の築き上げた堅固な大要塞セヴァストポリの正面攻略に固執し、それによって負傷した兵士たちは「役立たずの足手まとい」として後方に移送され、ろくな手当てもされずに放置されて次々に死んでいったのです。


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上は前線で作戦指導に当たる連合軍司令部の人々です。みなさんサーベルをさげたほとんど汚れていない立派な軍装姿から、身分の高い貴族出身の連隊長か師団長クラスとその参謀たちでしょうか。

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上は一般の兵士たちです。司令部の指揮官たちと違って身なりはお世辞にも良いとはいえませんね。前回もお話しましたが、市民社会がすでに根付いていたイギリスやフランスにおいても、当時はまだ封建的身分制が人々の間に色濃く残っており、当然それは軍隊においてもこうして目に見えた形で表れていました。

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上はセヴァストポリ要塞攻防戦の様子をロシア側から描いた絵と、クリミア戦争当時のセヴァストポリ要塞周辺図です。このセヴァストポリは街全体が小高い台地になっており、街全体が天然の要塞になっていました。「要塞」というと、思い浮かべるのは堅固な城壁に備え付けられた巨大な大砲群を思い浮かべますが、実際は上の絵の様に頑丈な城壁は主要な部分に限定されて築かれ、それらをつなぐ様にいわゆる土塁と塹壕がびっしりと設けられ、その各所に無数の火砲が備え付けられていました。

そのため、連合軍がいくら大砲で砲撃しても、山の斜面の土砂を吹き飛ばすだけで要塞そのものには大した効果はなく、砲撃後に突撃する連合軍将兵は、要塞からのロシア軍による狙い撃ちの集中射撃を受けていたずらに犠牲と損害を出し、全く身動きが取れずに退却を繰り返して戦線がこう着状態に陥っていました。(この様な構築法は、後の日露戦争における旅順要塞にも応用され、わが日本軍が同じ愚を冒しておびただしい死傷者を出した事は、歴史ファンなら良く知られていると思います。)


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上がセヴァストポリ近郊で野営する連合軍陣地と、現在のセヴァストポリの様子です。当然の事ながら白黒写真なので、荒涼とした風景に見えてしまいますが、3枚目の写真の現在の姿をご覧になればお分かりの様に、もともと高い樹木が少なく岩肌がむき出した乾燥性の地中海性気候の様ですね。

さて、要塞がなかなか攻略出来ずに戦闘が長引くに連れ、前線の将兵の負傷者は増大の一途を辿り、その様子は各国の新聞社が派遣した特派員によって、当時最新の電信によって直ちに本国に伝えられる様になり、人々は連日の戦況に大きな関心を抱いていました。そしてその中の一人、ロンドンタイムスの記者が書いた前線の負傷兵たちの扱いが極めて悲惨な状況である記事が新聞に載ると、それらの将兵を送り出していた一般の民衆たちが、政府に対して早急な対応を迫る様になっていきます。

この様な中、一人の高貴なイギリス女性がこの地獄の戦場へ旅立つ事を決意します。彼女の名はフロ-レンス・ナイチンゲール。みなさんも良くご存知の「看護婦さん」の始祖となる人です。(わが国においては、2002年の法改正によって「看護師」と呼ぶようになりましたが、長らく女性らしいネーミングであるこの呼び方で呼ばれてきた事から、このテーマにおいては「看護婦」と呼ばせていただきます。)


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上がフローレンス・ナイチンゲールです。(1820~1910)彼女はイギリスの裕福な地方地主(「ジェントリ」と呼ばれ、貴族ではないが、それに順ずる階級の人々を指すそうです。ここから紳士を表す「ジェントルマン」という語が生まれたのは容易に想像出来るでしょう。つまりナイチンゲール家は、日本で言えば庄屋とか名主を務めた「豪農」階級でしょうか。また「ナイチンゲール」という変わった家名は、小鳥の一種である小夜啼鳥「さよなきどり、英語名でナイチンゲール」が同家の紋章であった事に由来しています。)であった両親が新婚旅行中に滞在していたイタリアのフィレンツェで生まれ、そのフィレンツェの英語名を取って、「フローレンス」と名付けられました。(彼女の両親はなんと新婚旅行だけで2年間もヨーロッパ中を旅していたそうですから、その裕福さが分かりますね。)

帰国後、彼女の両親はフローレンスをいずれはふさわしい良家(出来れば貴族など)に嫁に出せるよう、金に糸目を付けずに贅の限りを尽くした教育を施し、もともと知能の高かったフローレンスは語学(フランス、イタリア、ギリシャ、ラテン語)哲学、経済学、心理学、歴史、地理、美術などの高い教養を身に付けた才女へと成長して行きます。

この時代は欧米においても女性がこれほどの高等教育を受ける事は、彼女の家の様に裕福な家や、王侯貴族などの身分の高い人々に限定されていました。しかし、せっかくそうした高い教養を身に付けても、残念ながら当時の大学などの高等教育機関では女性を入学させる所はありませんでした。

この時代は欧米でも、女性は

「早く結婚して子供をたくさん産み、夫を支えてよい母親になるのが女性のあるべき姿である。だから女性は学問などしなくて良いし、しても意味が無いのだ。」

という男性的固定観念が支配的であり、当然フローレンスもこれほどの高い教養の持ち主でありながら、実際は無学歴でした。(仕方がありません。この時代は女性を入学させる大学など皆無に近かったのですから。欧米において、大学などの高等教育機関が女性に対してもその門戸を開いたのは20世紀になってからで、あのキュリー夫人ですら大学に入るのは大変だったそうです。)しかし、この時に身に付けた高度な知識が、後に彼女を大きく助ける事になります。

やがてフローレンスは成長するに連れ、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、何不自由の無い自分の暮らしとそれらを比較して大変なショックを受け、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考える様になっていきます。そしてそれは「看護婦」という形で彼女の中に結実し、1851年に当時数少ない看護教育を行っていたドイツの看護学校に留学します。そして帰国後、フローレンスはロンドンの病院で働き始めました。(働くといっても、なんと無給だったそうで、実際はボランティアですね。)

しかし彼女のこうした考えは、母フランシスの激しい反対に遭います。なぜなら当時「看護婦」などという仕事は、身分の低い卑しい者が行うものとされており、やはり同じ良家のお嬢さん出身で気位が高く、苦労を知らずに育ったためにいささかわがままな欠点があった母フランシスは、よりにもよってそんな職に就きたがる娘の考えが全く理解出来ず、この母娘は終生理解し合えなかった様です。

しかし、父親のウィリアムはフローレンスの気持ちを理解し、無給だったフローレンスの生活費などを金銭的に援助したのは父ウィリアムでした。そして彼女がそこで働き始めてから3年後の1854年にクリミア戦争が勃発し、運命の歯車が大きく動き出します。連日の戦況を伝える新聞、そして彼女の目に飛び込んだ野戦病院の悲惨な状況を伝える記事。すでに数少ない看護の専門家として知られていたフローレンスは自ら従軍看護婦として現地に赴く事を政府に希望し、当時のイギリス戦時大臣シドニー・ハーバート男爵は正式に彼女に戦地への従軍を依頼したのです。


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上がナイチンゲールに戦地への従軍看護を依頼したシドニー・ハーバート戦時大臣です。(1810~1861)彼が彼女に従軍を依頼した背景には、負傷兵の扱いに対する市民の政府への批判をかわそうとする政治家としての思惑がありました。

ナイチンゲールは修道女(シスター)24名と、彼女が教育した職業看護婦14名の計38名の女性たちからなる当時としては異例の大看護団を編成し、負傷兵が収容されているイスタンブール郊外の野戦病院へと赴きます。しかし、そこで彼女たちを待っていたのは、想像を絶する過酷な状況でした。とにかく野戦病院などとは名ばかりで、ただ建物内に傷病兵が横たえられて放置されていただけであり、病院内の衛生状態は最悪だったからです。

さらに現地でこれらを取り仕切るホール軍医長官らは、意地とメンツからナイチンゲールらの受け入れを拒否。病院内への立ち入りを禁止してしまいます。

「素人女どもごときに何が出来る。戦場からはいくらでも負傷兵が運ばれてくるのだ。もう死にそうな連中の看護のために、あんな女どもに大事な医薬品を任せられるか。」

ホール長官ら現地軍の後方医療部隊首脳らのナイチンゲール看護団に対する態度は、こうした信じられないほどの無理解なものだったのです。

このままでは病院に入る事が出来ません。といって何もせずに本国に引き返せば、今まで重ねて来た苦労が水の泡です。しかし、ナイチンゲールはこの程度の事であっさりと諦めてしまう様な意志の弱い女性ではありませんでした。そこで彼女は別の方法を思いつきます。それは病院内の便所の担当がどこの部署でもなかったのに目を付け(便所の担当など誰でも嫌がりますからね。笑)まず便所掃除から始めたのです。この作戦は大成功でした。ホール長官らにとって最もやりたくない仕事をナイチンゲールたちがやると言っているのです。部下から報告を受けた長官は、

「便所掃除ならやらせて良かろう。物好きな女どもに好きにさせておけ。そのうち嫌になって逃げ帰ってしまうだろう。」

そう言って病院内にナイチンゲールたちが入る事を許可します。こうして看護団は病院内に居場所を設けたのです。しかし、これはナイチンゲールの巧妙な作戦の一つに過ぎませんでした。そもそも彼女らの本来の仕事は負傷兵の看護です。そのために苦労してはるばるこの地へやって来たのです。そこでナイチンゲールは看護団にその権限をもらうため、とっておきの「強力な味方」に応援を頼みます。その「強力な味方」とは、誰あろうヴィクトリア女王でした。


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上が大英帝国女王ヴィクトリアです。(1819~1901)彼女が在位した60年余の治世は、イギリスが最も繁栄した栄光の時代であったのは良く知られていますね。ナイチンゲールはこのヴィクトリア女王に現地の深刻な状況を手紙で報告し、同じ女性として共感した女王は政府に野戦病院の改善を命じます。(女王命令。まさに「最強の味方」ですね。これには現地軍幹部も手も足も出ないでしょう。ホール長官の苦虫を噛み潰す顔が目に浮かびますね。笑)

女王の命により現地軍幹部らの抵抗はなくなり、ナイチンゲールは晴れて病院看護の総責任者として辣腕を振るう事になるのです。それからの彼女は水を得た魚の様に仕事に没頭していきます。まずは最悪だった病院内をきれいにするために徹底して病室を洗浄し、放置されるままの負傷兵たちをシーツを敷いたベッドに寝かせ、十分な医薬品と清潔な包帯で傷を手当し、負傷兵たちの痛みを分かち合うために優しく声をかけ、夜になってもランプを片手に毎日の夜回りを欠かしませんでした。


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上はそのイメージです。一般に看護婦さんを表す代名詞として良く使われる「白衣の天使」というのは、看護婦の白い制服に由来しますが、実際のナイチンゲールは上の様に黒衣に白いエプロンを着けた姿だった様です。

ナイチンゲールの一連の病院改善策により、それまでなんと42%にも上っていた野戦病院の死亡率は5%以下にまで下がり、劇的な改善を遂げました。(このひどい死亡率の原因は負傷によるものではなく、病院内の不衛生による感染症の蔓延が原因でした。ナイチンゲールが最初に始めた「便所掃除」は、決して病院に入り込むための口実というためだけではなかったのです。)

そして何より、それまで劣悪な環境に放置され、絶望していた傷病兵たちにとって、ほのかで暖かいランプの明かりを片手に毎夜欠かさず夜回りをして自分たちを優しく見守る彼女の姿は、この世の人とは思えない「戦場に降りた天使」に見えた事でしょう。

そして月日は流れ、ナイチンゲールがイスタンブールに着任してから2年後の1856年3月、20万の戦死者を出したクリミア戦争はロシアの敗北で終わり、講和条約締結後、最後の患者の帰国を見届けたナイチンゲールは同年8月にイギリスに帰国します。

この時、すでに一連の活動によりイギリス本国で「クリミアの天使」と呼ばれて有名になっていた彼女でしたが、偽名を使ってこっそり帰国しています。(国民的英雄に祭り上げられる事を嫌がったのです。それほど無私無欲な人でした。)その後彼女はクリミア戦争での経験を生かし、イギリスに最初の専門的看護学校を設立して、現在に近い看護婦養成体制の構築に人生を捧げますが、彼女自身は裏方に徹して公の場に出る事はなくなります。

なぜなら、このクリミア戦争での2年間でナイチンゲールは精根使い果たし、帰国してから亡くなるまでのほぼ50年余りをベッドで過ごさなければならないほどになってしまったからです。


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上が晩年のナイチンゲール女史です。彼女はクリミア戦争終結後は体調を崩し、ほとんどベッドで過ごさざるを得なくなってしまいます。しかしそんな不自由な状態であっても、ナイチンゲールの看護への情熱と思い、そして明晰な頭脳はいささかも衰える事はなく、以後彼女は精力的に執筆活動に勤しんで人々へ看護の重要性を啓蒙していきます。彼女の作品の代表作として「看護覚書き」があり、これは全世界の看護婦さんが肌身離さず身に付けている看護婦のバイブルとなっています。(細身だったお若い頃に比べてすっかりやさしそうなお婆ちゃんになっていますね。笑)

1910年8月、世界の歴史に名を刻む数少ない偉大な女性の一人フローレンス・ナイチンゲールは90歳の長寿を全うして亡くなります。生涯独身でした。かつて人々に「天使」と呼ばれた偉大な女性は、今度は本物の「天使」となってこの世を去ったのです。(歴史に登場する有名な女性は、失礼ながら欲と嫉妬に満ち溢れる悪女が多いのですが、彼女に関してはそういう子供じみた次元の低い感情的な部分がない本当の「大人の女性」として、先に少し触れた「キュリー夫人」と並んでいくらでも賞賛されるべき稀有な存在でしょう。男性の目から見ても全く非難する点など見当たりませんね。)


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ナイチンゲールが創始した「近代看護制度」は現在も世界中で脈々と受け継がれ、看護学校の戴帽式では上の様に、かつて戦地で毎晩見回りを行ったナイチンゲールにあやかって、講堂でキャンドルに灯した火のやわらかい光の中で、看護師を目指す若い女性たちが「ナイチンゲール誓詞」を読み上げるのだそうです。それは次の様なものです。

・われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん。

・わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさん事を

・われは全て毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いる事なく、また知りつつこれをすすめざるべし

・われはわが力の限り、わが任務の標準を高くせん事をつ務むべし

・わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事の全て、わが知りえたる一家の内事の全て、われは人にもらさざるべし

・われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん

これはナイチンゲール本人の作ではなく、彼女の偉業を称えて後にアメリカの看護学校関係者によって作詞され、医者を目指す医学生が読み上げる古代ギリシャの医学者ヒポクラテスにちなんだ「ヒポクラテスの誓い」にならって伝統的儀式となったものです。こうしてナイチンゲールの思いは160年の時を越え、今も看護の道に進もうとする全世界の崇高な女性たちに受け継がれているのです。

次回に続きます。
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皇帝たちの失敗 ・ 昔の栄華今いずこ

みなさんこんにちは。

1853年に勃発したロシア・トルコ間の第10次露土戦争、いわゆるクリミア戦争は、3年の死闘の末双方合わせて20万以上の戦死者を出し、1856年に終結しました。この戦争はもともとロシアとオスマン帝国2国間での戦争でしたが、これ以上のロシアの南下とバルカン半島への進出を食い止めたいイギリス、フランスなどがオスマン帝国に味方して参戦し、一気に国際戦争へと発展したものでした。

このクリミア戦争は、歴史上の位置付けでは「ロシアの敗北」という事になっていますが、現実には「勝者のいない戦争」といっても過言ではありませんでした。なぜならこの戦争に参戦した4カ国は、その全てが大きく疲弊し、その挙句に物理的に得られたものは何一つ無かったからです。(クリミア戦争の戦後処理をめぐってパリで行われた講和条約では、ロシアがオスマン帝国から奪い取った領土を返還する事を各国が認めるというものでした。つまり、開戦前の状態に戻っただけで、参戦各国が莫大な戦費をかけて得られたものは、「束の間の平和」だけだったからです。)

さて、この時期に本テーマの主役であるオスマン帝国の皇帝だったのはアブデュルメジト1世という人でした。


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上がオスマン帝国第31代皇帝アブデュルメジト1世です。(1823~1861)彼は16歳で即位し、父の代から続く帝国の近代化を継承して、帝国の古い体質を根底から覆すために様々な改革を試みた皇帝でした。

アブデュルメジト1世は若くして即位したためか、当初は改革に非常に熱心で、実際彼の治世の最初の10年ほどは、信頼する宰相レシト・パシャの補佐を受けて改革は着実に進むかに見えました。しかし、そこへ思わぬ邪魔が入ります。オスマン帝国にとって恒例のロシアの魔の手が北から迫ってきたのです。それが「クリミア戦争」でした。もちろん皇帝は新鋭のオスマン軍を総動員してこれに立ち向かいますが、近代戦の経験の浅いオスマン軍は各地で苦戦と敗退がを重ねてしまいます。そこで彼はとにかくロシアの南下を防ぐため、イギリスとフランスに貿易上の関税特権を与えるなど、不平等を承知でなりふり構わず助けを求めたのでした。

こうして苦労してロシアを退けたアブデュルメジト帝でしたが、この戦争中に彼の改革のスピードは停滞してしまいます。その一番の理由は財政、つまり「お金」の問題です。なぜなら本来戦争が無かったなら改革に振り向ける事が出来た資金が、みな戦費に費やされてしまったからです。それに、もうこの時代オスマン帝国の国家財政はとうの昔に債務超過していました。もともとこれまで行ってきた帝国の近代化と改革のための費用も、足りない部分はオスマン帝国政府発行の公債によって、イギリスやフランスなどの列強諸国から借り入れて行っていました。(アブデュルメジト1世の改革の物理的集大成として今日に残るのが、旧トプカプ宮殿をうち捨てて新たに彼が造営した西洋式宮殿であるドルマバフチェ宮殿ですが、その莫大な建設費用も、大半はこれらの公債によってまかなわれていました。)

やっと戦争が終わっても、今度はこれらの負債がオスマン帝国に重くのしかかってきたのです。(当然それらは大幅な「増税」という形でトルコ国民に負担を強いる事になり、国民の不満は皇帝政府に向けられていきます。)さらに不幸は続きます。クリミア戦争終結から2年後の1858年、皇帝が最も信頼する宰相レシト・パシャが亡くなり、皇帝は国政を相談する相手がいなくなってしまったのです。

お金も無く、周辺の国々は敵だらけなのに、かつて世界最強を誇った軍隊は、今では三流以下で「戦えば負ける」という体たらく、そしてプライドを捨て、恥を忍んでイギリスやフランスに助けを求め、領土や特権を切り売りして必死の思いで戦争をしのいだのに、今度は増税に反対する国民がいう事を聞かず、帝国各地で暴動を起こす。どうすれば良いか誰かと対策を相談しようにも、信頼出来る経験豊かな大臣もいない。この様な状況で一人孤立した皇帝は次第に無気力になり、その孤独を紛らわす様に酒と遊びにうつつを抜かす様になってしまいます。つまり、アブデュルメジト1世はあれほど熱心だった改革を完全に投げ出してしまったのです。

何かやろうと思い立ち、勇んでプランだけは立派に立てても、あれやこれやの邪魔が入ってうまく行かず、結局嫌になって止めてしまう。こんな経験は誰しも一度はあるのではないでしょうか? かく言う自分などしょっちゅうだったので、心情的には彼の気持ちがとても良く分かります。自分の場合はだらしがないのが原因ですが。(笑)

純粋な精神と気高い理想を持った誇り高い人物ほど、その理想が現実によって挫折し、失敗した時の心身への衝撃は計り知れないほど大きいものです。彼の場合はまさにその典型でした。クリミア戦争終結から5年後の1861年、新たな帝国を夢見たロマンチスト皇帝アブデュルメジト1世は39歳の若さで崩御してしまいます。

代わって新たに帝位を継承したのは、先帝より7歳年下の弟アブデュルアジズでした。


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上がオスマン帝国第32代皇帝アブデュルアジズです。(1830~1876)彼はオスマン帝国歴代皇帝でも数少ない単独名の皇帝です。なぜなら彼の後に正式に皇帝として即位した人物で彼と同名の者がいないからです。また彼は歴代皇帝でも稀に見る大変な巨漢で、写真をご覧になればお分かりの様に、外見は皇帝というよりたくましいプロレスラーみたいですね。(笑)

アブデュルアジズ帝は兄帝とはまた違う方向に目を向けた皇帝でした。彼は兄や父をはじめ、歴代の皇帝たちが改革に失敗したのは、皇帝自身が帝都イスタンブールから一歩も離れず、外の世界をあまりにも知らなかったためだと考え、オスマン皇帝としては初めて「遠征」以外の目的で自ら西欧諸国への外遊を決意します。

折りしも当時の西欧諸国、とりわけ産業革命を成功させたイギリスとフランスの発展が著しく、英仏両国は何かと激しく競い合っていました。その最も目に見えた形での表れが「万国博覧会」です。


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上が1867年の第2回パリ万博の会場であったトロカデロ広場です。(現在は1937年に新たに建てられたシャイヨ宮殿となっています。パリの万博は終始この付近一帯で行われました。)この万国博覧会というものは、簡単に言えば参加各国の誇る優れた技術や文物、商品などを持ち寄り、それらを各国の割り当てのエリアで展示して訪れた多くの人々に見てもらい、経済・文化交流の促進を図ろうというもので、1851年にイギリスのロンドンで第1回万国博覧会が開かれたのを最初に、その後も主に英仏両国で20世紀初頭まで交互に盛んに行われました。

新しい物好きのアブデュルアジズ帝は即位6年目に開かれた第2回パリ万博を訪れ、そこで様々な物を見物するうち、西欧諸国の先進さと発展ぶりに大きな衝撃を受け、それと比較して全ての分野ではるかに遅れたオスマン帝国の実態を痛感させられます。


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上がパリ万博を見物して回る各国の君主や代表たちの姿を描いた絵です。アブデュルアジズ帝は左端にいます。また右から2番目の衣冠姿の小柄な人物は、わが日本の代表として訪問していた徳川昭武です。

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上がその徳川昭武公です。(1853~1910)彼はこの時まだ14歳の少年で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の弟にして、水戸徳川家最後の当主でもあります。当時フランスの支援を受けていた兄慶喜の名代として、大勢の幕臣とともに訪欧していました。しかし、翌年すぐに戊辰戦争により幕府は倒れ、役割を失った彼らも明治維新とともに帰国しますが、この時に西欧文明にすっかり魅了された彼は、いち早く窮屈な衣冠装束を脱ぎ捨てて洋服を召し、写真、時計、自転車、鉄道などの最先端の文明の利器に親しむ様になります。彼を西欧に派遣した兄慶喜とは大変仲が良く、明治維新後は華族として子爵号を賜り、同じく新しい物好きであった兄慶喜と親しく交流し、仲良く平穏な人生を歩みました。(ちなみに彼は、今上天皇陛下の弟宮である常陸宮正仁親王殿下の奥様である華子妃殿下の母方の曽祖父に当たる人です。)

さて、話をアブデュルアジズに戻しますが、この西欧外遊ではパリ万博で目にした多くのもの以外で最も皇帝の心を魅了した「あるもの」がありました。それは西欧各国が競って建造していた蒸気装甲軍艦です。


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上がその装甲艦です。この時代は動力は風任せで多くの帆を張ったそれまでの木造帆船型の軍艦から、蒸気機関で舷側の外輪を回して進み、同じく舷側に分厚い装甲を施したこの様な軍艦が各国で続々と就役していました。

訪問した各国の港を埋め尽くす装甲軍艦の艦隊を目の当たりにした彼は、すっかりその虜になってしまいます。思えばオスマン帝国は、その建国当初から陸軍国であり、海軍は伝統的に弱く、これまで重要視されて来ませんでした。しかし、この時皇帝は、オスマン帝国に大艦隊を創設し、イギリスの様な大海軍国となって海外に植民地を広げ、それによって新たな富を帝国にもたらし、オスマン帝国を再び栄光と繁栄に導こうという途方も無い夢を抱いたのです。

外遊から帰国した彼は、ただちに海軍力の強化に乗り出します。大量の軍艦建造のために海軍先進国イギリスから大勢の技術者とベテラン工員が招かれ、建造された軍艦の操艦にもこれらの外国人の艦長や機関長、航海長が配されます。こうして「いけいけどんどん」で多くの軍艦が建造された結果、アブデュルアジズ帝の在位末期の1875年には、オスマン帝国は大型装甲艦20隻を主力として、中、小型を合わせて合計200隻の大艦隊を保有し、艦艇の数ではイギリス、フランスに次ぐ当時世界第3位の海軍国にのし上がります。

しかし、皇帝のこの大海軍計画は、最初から無謀なものでした。なぜなら「大艦隊が欲しい。」というあまりにも単純な発想の元で事を急いだために、建造された艦艇の建造費用の多くはまたも公債で賄われ、また見た目の数を増やすために外国から中古の艦艇も買い揃えた結果、帝国の国家財政をさらに悪化させ、「破産」に近い状態に陥る事になってしまったからです。

さらにこれらの軍艦を動かす乗組員も、艦長以下多くがイギリスなどの「お雇い外国人」を高給で雇い入れ、さらに艦艇を建造するドックや工廠なども、ほとんどがこれらの人々でした。つまり、海軍や船を作るために必要な知識や技術が、ほとんどトルコ人に根付く事が無かったのです。またこの時代は軍艦の建造技術の過渡期であり、構造の全てが鋼鉄製の軍艦が登場し始めると、せっかく莫大な費用をかけてそろえた大艦隊も、すぐに旧式化してしまう事になってしまいました。

アブデュルアジズ帝は残念ながら「お金」に関しては無頓着だった様です。これはこの王家の遺伝的特徴なのですが、君主がそれで良くても、帝国を運営する大臣などの政治家たちにはたまったものではありません。ただでさえ膨大な負債で数十年先まで首が回らない上に、増税による国民の不満がいつ大暴動に発展し、帝国が崩壊してしまうか分からないからです。そこで1876年、これらの改革派政治家の代表であった宰相ミドハト・パシャを中心とするグループがついに行動を起こします。

ミドハト・パシャは皇帝を廃位し、新たに別の皇帝を立てたのです。廃位されたアブデュルアジズは幽閉され、同年失意の内に亡くなります。(彼はまだ47歳の若さであった事から、毒殺が疑われていますが、真相は定かではありません。)

こうしてマフムト2世に始まる親子兄弟3人の皇帝たちによるオスマン帝国近代化計画は、彼らが思い描いた理想とはかけ離れた姿で中途半端に頓挫してしまったのです。後にオスマン帝国に残されたものは、皇帝たちの夢の跡であるいくつかの宮殿と積もり積もった膨大な負債、そして一度も使われる事なくそのほとんどが解体される事になる「役立たずの大艦隊」だけでした。

しかし、アブデュルアジズ帝が彼なりの理想の下に夢を抱いて建造させたこれらの大艦隊のうち、ある1隻の軍艦が、後にわが日本とトルコの友好の礎として長く両国の歴史に刻まれる事になろうとは、この時誰も予想だにしませんでした。その軍艦の名は「エルトゥールル号」 やがてこの艦は遠い異国の地である日本でドラマチックな最後を迎えるのですが、それについては別の機会にお話いたしましょう。

次回に続きます。

エルトゥールル号遭難事件 ・ 永遠の友好を運んだ船

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、帝国に迫る内外の危機感から、19世紀の初めから70年以上の時間をかけ、3代の皇帝たちが着々と進めてきた近代国家への脱皮は、周辺国との絶え間の無い戦争や、イスラム国家独特の国内問題などが複雑に絡み合い、それを推し進めて新たな帝国を夢見た皇帝たちの理想とは大きくかけ離れた「不完全」なものに終わりました。

特に、アブデュルメジト1世、アブデュルアジズ帝の皇帝兄弟が次々に行った大宮殿の建設と、海軍力増強のための見境の無い大艦隊計画によって、帝国はイギリス、フランスなどのヨーロッパ列強諸国に膨大な債務を負ってしまい、それが帝国の国家財政を大きく圧迫し、逆に帝国をさらに弱体化させる結果となってしまったのです。

この皇帝たちの失敗は、それまで皇帝たちを信じ、皇帝家を盛り立ててオスマン帝国に再び栄光を取り戻そうと同じ夢を見て従ってきた人々を大きく失望させました。そしてその筆頭である宰相と大臣たちからなる帝国政府の改革派政治グループは、もはや皇帝を当てにせず、自分たち政治家による健全な国家運営を目指し、これまでとは全く違った方法で帝国の改革を行っていく決意を固めました。

「一連の改革の失敗は、国家の政策の全てを皇帝一人の独善によって進めるという、ほとんど専制時代と変わらないやり方で行った事が大きな原因である。国家には君主と国家が遵守する基本となる法、すなわち憲法が必要なのだ。」

こう主張したのが、アブデュルアジズ帝の下で帝国宰相を務めた改革派のミドハト・パシャでした。


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上がそのミドハト・パシャです。(1822~1884)彼は大変有能な官僚で、若い頃から地方で行政経験を積み、さらに先進国イギリス、フランスにも派遣されて両国の進んだ立憲国家のあり方を熱心に研究し、やがて皇帝に次ぐ帝国のトップである宰相に登り詰めると、オスマン帝国をヨーロッパ諸国の様な立憲君主国家とするために動き出します。

ミドハト・パシャはオスマン帝国を西欧型の立憲君主国とするため、「憲法」の制定を計画したのです。この憲法というものは、私たち一般人の感覚では国の最高法規であり、国民全てがまず守らなくてはならない全ての法律の「王様」の様に思われている場合が多いのですが(自分だけでしょうか?笑)実際は憲法と云うものは君主と国家が守るべきものなのです。

つまり、憲法というものは国民が守るものではなく、君主と国家(正確には政治を行う政治家や議員、官僚などの政府)が国を運営していく上で、憲法の条規に従って統治していかなくてはならない「縛り」のための法なのです。(そういう「縛り」が無ければ、国は君主と政府の思うまま「やりたい放題」になってしまうからです。それゆえに憲法は全ての法律の中で別格扱いになっています。)

3代のオスマン皇帝たちが帝国の改革に長い時間をかけつつ失敗したのは、ロシアなどの周辺国との戦争が続いた事もありますが、国政を皇帝個人の独断に委ねてしまうため、例えば先帝アブデュルアジズ帝が行った大海軍計画の様な無謀なものに対しても、オスマン帝国にそうした君主の無茶な政策を許さない「縛り」の仕組みが無かった事が大きな原因でした。(君主の行動を制限する法がないのですから、皇帝の「やりたい放題」になってしまうのは当然ですね。)そのため皇帝たちは理想ばかり夢見て国家財政の逼迫を顧みずに膨大な借金を作ってしまったのです。

ミドハト・パシャは1876年、この憲法の制定のために主君であるアブデュルアジズ帝を廃位し、代わってその甥であるムラト5世を即位させます。しかしこの人選は失敗でした。この人物はミドハトの立憲制には理解を示した進歩的な人でしたが、先帝アブデュルアジズ帝にそれを疎まれ、長く監視されていたためにすっかり精神を病んでいたからです。

仕方なくミドハト・パシャは彼をたった3ヶ月で退位させると、その弟アブデュルハミト2世を擁立します。


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上がオスマン帝国第34代皇帝アブデュルハミト2世です。(1842~1918)彼はこの時34歳で、叔父帝アブデュルアジズの西欧外遊にも進んで同行するなどで、宰相ミドハト・パシャから開明的な人物として皇帝に擁立されました。しかし、後にミドハトは、それが大きな間違いであった事を思い知らされてしまいます。

ミドハト・パシャはベルギーの憲法を参考に1876年ついにオスマン帝国憲法の発布にこぎつけます。これによりオスマン帝国は、それまでの皇帝専制の中途半端な体制から、皇帝を名目上の君主とし、政治は皇帝の勅撰による名門有力者からなる上院と、民選の下院からなる帝国議会の多数決によって決する立憲君主制国家となったのです。(わが日本がドイツ憲法を参考に大日本帝国憲法を制定したのが1890年ですから、トルコはわが国より14年も早く近代憲法を作っていた先輩なのです。)

しかし、この時ミドハト・パシャは大きな過ちを犯していました。それは彼が名目上の君主として即位させたアブデュルハミト2世がそれを望んでいなかったという事です。皇帝は憲法の制定を認める代わりに、憲法の条文に戒厳令の行使や「国家の危険人物は皇帝の勅命で国外追放に出来る。」などの強い権限を皇帝のものとして要求し、憲法の制定を急ぐミドハト・パシャはそれを認めてしまいます。

これが彼の失敗でした。玉座に座ってただ大臣たちの差し出す書類にサインするだけのお飾りの君主になるのを嫌った皇帝はその条文を利用し、なんと宰相ミドハト・パシャを「国家の危険人物」として解任、国外追放してしまったのです。(後に彼は先帝アブデュルアジズ帝暗殺の首謀者として逮捕、処刑されてしまいます。)こうした皇帝の勝手なやり方は当然出来たばかりの帝国議会で大きな批判を浴びます。業を煮やした皇帝は折りしも勃発していたロシアとの戦争を理由に非常事態を宣言。つまり「戒厳令」を行使して邪魔な存在である議会も解散してしまいます。こうしてミドハト・パシャが苦労して築いた立憲君主制オスマン帝国は、たった1年2ヶ月でもろくも瓦解してしまったのです。

以後オスマン帝国は、アブデュルハミト2世によって1908年まで30年間に亘る長い専制体制が続く事になります。帝国は再び古い皇帝専制の時代に逆戻りしてしまったのです。

権力を取り戻したアブデュルハミト2世がその後に行った事は、文字通り典型的な「独裁恐怖政治」でした。彼はイスタンブールのユルドゥズ宮殿に居を構えると、皇帝直属の秘密警察を創設して密告を奨励、軍隊を動員して彼の政策に反対する国民を弾圧、彼の治世に殺された者は数知れず、そのため彼はオスマン帝国歴代皇帝の中で最悪の「血まみれの皇帝」として名を刻む事になるのです。


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上がアブデュルハミト帝が玉座を置いたイスタンブールのユルドゥズ宮殿とその内部です。コンパクトながら美しい宮殿ですが、この宮殿の主アブデュルハミト帝の行った恐怖政治は、宮殿の「美しさ」とはまるで正反対の「醜い」ものでした。しかし、後にそれはやがて皇帝自身に跳ね返ってくる事になります。

そんな皇帝の元に、同じアジアの東の端に位置するはるか極東の島国が、驚異的なスピードで近代化を成し遂げつつあるという話がしきりに入って来る様になり、そのやり方はともかく帝国の近代化自体には大賛成であった皇帝は、大いにその国に対する興味を抱く様になります。その国の名は「日本」それまでオスマン帝国では聞いた事もない未知の国でした。

アブデュルハミト2世はこの未知の国日本に対し、同じ皇帝の治める帝国として、親善と友好的外交関係樹立のため、1隻の軍艦を差し向けます。その軍艦の名は「エルトゥールル号」かつて彼の叔父である先帝アブデュルアジズ帝が見境無く建造した大艦隊の中の1隻でした。


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上がその「エルトゥールル号」とその乗組員たちです。この艦は1864年に建造された全長76メートル、乗員600名ほどの中型フリゲート艦です。(この「エルトゥールル」という名は、オスマン皇帝家の帝祖である初代オスマン1世の父親の名から命名されたものです。またこの時代の船は蒸気機関でスクリューを回して進むタイプに進化していましたが、燃料である石炭の節約のため、昔ながらの帆走設備も兼ね備えていました。)1889年7月、この船は皇帝の命を受けてイスタンブールを出航、完成して間もないスエズ運河を通り、紅海からインド、東南アジアを経て、およそ1年がかりの大航海の末1890年6月に日本の横浜港に到着しました。

トルコ使節団は皇居にてわが明治天皇の謁見を賜り、アブデュルハミト帝からの親書を明治帝に奉呈、西欧列強諸国でない遠い異国からの「珍しいお客さん」という事で、当時の日本の人々から大歓迎を受けます。

しかし、同年9月になって帰国のため出航した彼らに思わぬ悲劇が降りかかります。折りしも台風の季節であったため、船は和歌山県の南端の大島村(現串本町)沿岸近くであえなく座礁沈没、多くの乗組員が荒れ狂う海に投げ出されたのです。幸い座礁地点が沖合いではなく海岸から50メートルも離れていなかったため、何とか海岸に泳ぎ着いた69名が当時の大島村の人々によって助けられましたが、587名もの死者を出す大惨事となってしまいました。

こうして付近の人々に助けられたトルコの生存者たちは、村人たちの手厚い救護を受けて神戸に送られ、翌1891年1月に日本海軍の軍艦2隻に分乗してようやく故郷のトルコに帰国出来たのです。

この時最初にトルコの生存者たちを救った大島村の人々が、台風のために漁に出られず、サツマイモや卵、にわとりなど、貧しい当時の村人たちの貴重な食糧まで差出して生存者に与えた事や、日本全国から多くの弔慰金が集められた事、当時としては極めて迅速に日本政府が対応した事に対し、オスマン帝国内では新聞などで大きく報道され、当時のトルコの人々は遠い異国の恩人である日本人に対して感謝の念と好印象を抱いたそうです。

この事件は、事故そのものは大勢の犠牲者を出した悲劇でしたが、日本とトルコが初めて出会い、厚い友情で固く結ばれるきっかけとなる最初の出来事でした。その後、両国の関係は歴史の大きなうねりの中で疎遠になってしまい、いつしか日本国内では「エルトゥールル号沈没事件」そのものが忘れ去られてしまいます。しかし、一方で日本人がどこかに置き忘れてしまった義理と人情に厚いトルコの人々は、この事件を忘れる事なく語り伝えていたのです。

そしてエルトゥールル号事件から95年の時を経た1985年(昭和60年)今度は日本がトルコに助けられる事になります。昭和世代の日本人にとっては今だ記憶に新しいイラン・イラク戦争において、当時のイラク大統領サダム・フセインは、イランとそれに味方する国々の航空機に対して無差別攻撃の宣言を行ったのです。

その時イランの首都テヘランには200名以上の在留日本人がいましたが、当時の首相中曽根康弘氏率いる日本政府は、救い様のない平和憲法の制約からこれらの救出のために自衛隊を動員出来ず、また当時の日本政府は自由に使える「政府専用機」も保有していませんでした。さらに日本航空などの民間航空会社からも

「イラン上空の安全が確保されなければ飛行機は出せない。」

としてイランへの救援機派遣を拒否されてしまいます。当時の中曽根内閣は八方塞で手の打ちようがありませんでした。


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上は当時の中曽根首相です。忌々しい現行憲法ではこの様な事態は全く想定されていなかったため、議会において野党に責任を追及されて苦悩している彼の姿です。(ちなみにこの事件を教訓にその後自衛隊法が改正され、現在では在外邦人の救助のための自衛隊の動員が可能となっています。)

そこへ救いの手を差し伸べてくれたのがトルコでした。トルコ政府は95年前のエルトゥールル号の恩返しとして、自国民の救出より日本人救出を優先させ、危険を顧みずにテヘランに救援機を飛ばせてくれたのです。到着したトルコ航空の飛行機に搭乗した日本人215名はトルコに到着、無事に日本へ帰国する事が出来ました。(この時イランには、日本人よりはるかに多い500人ものトルコ人がいたそうですが、彼らは陸路車でイランから脱出するしかなかったそうです。我々日本人はこの事実を子々孫々まで語り継ぎ、そうまでしてくれたトルコの人々に対して感謝しなければなりません。涙)

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上は日本の安倍首相とトルコのエルドアン首相(現在はトルコ大統領)です。

現在でもトルコは世界の国々でも群を抜く大親日国として、両国の関係は世界でこれほどのものはないほど良好であり、トルコは事ある毎にわが日本に対して協力してくれる真の友邦国です。(最近決まった2020年の東京オリンピックの開催も、トルコのイスタンブールと競い合ったのですが、わが東京に決まったのはトルコ側が「譲ってくれた」のではないかと勝手に思い込んでいる今日この頃です。笑)

このエルトゥールル号は、日本とトルコを結びつけ、両国間に永遠の友好を運んでくれた忘れるべからざる船なのです。

次回に続きます。
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