ナイルの海戦 ・ ナポレオンのエジプト遠征

みなさんこんにちは。


18世紀末、世紀を通して行われたロシアとの黒海を巡る戦争は、オスマン帝国を大きく疲弊させていました。度重なる敗北で、トルコは黒海周辺の領土とそこから上がる豊かな資源をロシアに奪い取られ、かつて最強を誇ったその軍事力は、ヨーロッパ列強諸国にとってもはや恐るるに足りない時代遅れのものとなりつつあったのです。

この様な状況の最中の1789年、はるか西のフランスで全ヨーロッパを震撼させる大事件が起こります。「フランス革命」の勃発です。貧しい国民を無視し、国家財政の悪化にもかかわらず贅沢三昧に暮らす国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを頂点とするブルボン王朝に対し、フランス民衆が一斉蜂起した事件です。(といわれていますが、実際にはフランスの国家財政を悪化させたのは先代、先々代の王であるルイ14世とルイ15世で、ルイ16世は彼らの膨大な負債を相続したにすぎず、彼はこの国家財政の建て直しのために、革命の起こる6年以上前から様々な改革を行おうとしていましたが、長く王家を支え、さらに絢爛豪華で贅沢な暮らしに慣れてしまった保守派貴族の抵抗に遭って実現出来なかった様です。)


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上がフランス国王ルイ16世です。(1754~1793)彼はフランス第5王朝であるブルボン朝5代国王です。肖像画では老けて見えますが、実際は処刑された時にまだ39歳の若さでした。

4年後の1793年、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは民衆の目前でギロチンによって処刑されますが、その知らせはヨーロッパ中の王候君主たちを恐怖に陥れました。

「このままフランスを野放しにしておけば、わが民衆にもそれが及んで我らもルイ16世の様に処刑されてしまうかも知れない。」

恐怖に駆られた王候たちは、フランス革命政府を叩き潰すために同盟して一斉にフランスに戦争を仕掛け、フランスは窮地に陥ります。その最中、フランスに「救国の英雄」となる一人の若い将軍が現れ、これらの敵を次々に撃破してフランスの危機を救います。それはみなさんもご存知のナポレオン・ボナパルトです。


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上が若き日のナポレオンです。(1769~1821)彼はフランス革命勃発当時まだ20歳の青年士官でしたが、その後武勲を重ねて昇進し、1795年には若干26歳の若さで将軍となり、フランス国内軍司令官、イタリア派遣軍司令官などを歴任して、フランスに侵攻しようとするオーストリア、プロイセン、スペインなどの列強諸国に対し連戦連勝を重ね、フランス国民から熱狂的な支持を得ます。

しかし、無敵を誇る若き将軍ナポレオンが、どうしても勝てない強力な敵が海の向こうにひかえていました。それはイギリスです。強力な海軍を擁するイギリスは地中海の制海権を握っており、陸軍出身であるナポレオンは専門外の分野である海戦で、なかなかイギリスに打ち勝つ事が出来なかったのです。

そこで彼はイギリスに打撃を与えるため、独特の奇抜な作戦を当時のフランス総裁政府に進言し、これを認められます。その奇抜な作戦とは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとイギリス本国との連携を遮断するため、なんとオスマン帝国の領土であるエジプトを攻略占領してしまおうというものです。

当時イギリスは、インドから得た豊かな産物を最短ルートである紅海経由で、エジプトのカイロやアレクサンドリアに集め、ここから海路イギリス本国へ運んでいました。もちろんエジプトの支配者であるオスマン帝国には、イギリスから関税や入港税、港湾使用料などの莫大な金が得られるので、オスマン側にとってイギリスは「良いお客さん」であり、利害の一致した両国の関係は極めて良好なものでした。

ナポレオンの作戦は、エジプトを占領する事でイギリスとオスマン帝国との間に楔を打ち込み、その連携を遮断するとともに、イギリスのインド植民地政策を大きく妨害してイギリス経済に大打撃を与えるのが目的でした。(実際にはフランスにエジプトを取られても、イギリスはアフリカ周りでインドとの通商は可能ですが、アフリカ大陸を大きく迂回する最も遠回りのルートになってしまい、それによる時間とコストの差を考えれば、イギリスにとってエジプトの重要性は計り知れないものでした。)

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上はラクダにまたがって進軍するナポレオン軍です。

1798年7月、ナポレオンは5万のフランス軍を率いてエジプト攻略作戦を開始し、これを200隻もの輸送船に乗せてアレクサンドリアに上陸します。一方オスマン帝国でも、フランス軍のエジプト侵攻の知らせは帝都イスタンブールに届いていました。この時のオスマン帝国の皇帝はセリム3世という人物でしたが、帝国は1792年の第7次露土戦争でロシアに敗れてからまだ6年足らずであり、財政と軍の建て直しの最中で、すぐにはこれを迎撃出来る状況にはありませんでした。


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上がオスマン帝国28代皇帝セリム3世です。(1761~1808)彼は度重なるロシアとの戦争で疲弊した国力を立て直すために帝国の近代化を促進し、最も厄介な相手である皇帝の親衛隊イェニチェリの廃止と、西洋式に統一された全く新しい帝国軍を創設しようとしますが、それが明るみになると自分たちの既得権益の消滅を恐れたイェニチェリによって廃位され、後に暗殺されてしまいます。

このナポレオンのエジプト侵攻作戦は、オスマン帝国にとってまさに突然の「奇襲攻撃」でした。そのため迎え撃つにも軍の動員がとても間に合いません。そこでセリム3世は帝国政府と図り、軍の動員が完了するまでエジプト在地のマムルークたちに迎撃命令を下して時間を稼ごうとします。

このマムルークというのは、イスラムの奴隷出身の軍人の事であり、かつてエジプトを支配していましたが、この時代から280年も前の1517年に、オスマン帝国によってその王朝が滅ぼされていました。


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上がマムルークの騎兵です。

しかし、王朝が滅びても、マムルークそのものも消滅したわけではありませんでした。1517年のマムルーク朝エジプト王国滅亡の際に最後の王と運命を共にしたのは、ごく少数の忠実な者たちだけであり、大半のマムルークたちは、王朝崩壊が近いと見るや早々にオスマン帝国に寝返り、やがてエジプトが完全にトルコの手に落ちると、当地の状況をよく知る彼らはオスマン帝国の地方総督や代官として召し抱えられて統治に参加し、したたかに生き延びていたのです。

実は、オスマン帝国は帝都イスタンブールの中央政府の直接統治下にあったのは、現トルコ本国のあるアナトリア地方がせいぜいで、それ以外の広大な領土の大半は、この様に征服した国の有力者たちを帝国の臣下として取り込み、彼らを通して間接的に支配する「間接統治」の方式を取っていました。

ここエジプトにおいても、オスマン帝国は全土を24の地方に分け、それぞれに任命したマムルークに統治させていました。それらマムルークたちはオスマン帝国の「官吏」としてエジプトの支配階級を形成して富を蓄え、次第に帝国が衰退していくに連れて、蓄えた財力を背景にそれぞれ独自の「私兵」を持つ様になり、18世紀前半にはエジプト中にそんなマムルーク領主が乱立して抗争を繰り広げる様になっていました。やがてそんなマムルーク領主の中でさらに大きな力を持つ者が「ベイ」(候)の称号を得て(というより勝手に名乗って。)エジプトの事実上の実権を握ります。それがムラード・ベイという人物です。


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上がそのムラード・ベイです。(1750~1801)彼は当時のエジプトのマムルーク領主の中でも最大の勢力を持っていましたが、なんと読み書きは全く出来なかったそうです。

ナポレオン率いるフランス軍がアレクサンドリアに上陸した知らせを受けた彼は、配下の軍勢2万余を率いて出陣します。しかし、彼の軍勢はその大半が昔ながらの騎兵6千と、剣と弓矢の歩兵1万5千が主力で、銃火器はごくわずかしかありませんでした。一方フランス軍はアレクサンドリアの守備に3万を残してカイロに進軍を開始、兵力はムラード軍とほぼ同数の2万でしたが、当時最新の装備を備えた近代的な軍隊であり、さらにその指揮官はあのナポレオンです。最初から勝負は見えていました。

1798年7月、両軍はカイロ郊外ギザの3大ピラミッドのすぐ近くで戦闘を開始します。ピラミッドのすぐ近くで行われたため「ピラミッドの戦い」と呼ばれるものです。


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上がピラミッドの戦いの様子を描いた絵と、当時のフランス軍の軍装です。

ムラード・ベイ率いるマムルーク軍はときの声を上げて一斉にフランス軍陣地目掛けて突撃していきます。しかし、その勢いは最初だけでした。待ち構えるフランス軍の大砲と無数の小銃の一斉射撃を浴びて、ムラード軍はひとたまりもなく壊滅、全軍の8割以上の損害を出して、ムラード・ベイはわずかな兵とともに命からがらエジプト南部へと敗走してしまいました。それに対し、フランス軍の損害は戦死30名に負傷260名というわずかなものでした。ナポレオンの大勝利です。

この勝利で勢いに乗ったフランス軍はカイロに入城、これを占領します。

「わが兵士諸君。4千年の歴史が諸君を見下ろしている。」

ナポレオンはピラミッドを見上げながらこう言って兵士たちを激励し、フランス軍将兵の士気は大いに盛り上がりました。(実際に彼がこう言ったのかは定かではありませんが、長く語り継がれているナポレオンの名セリフの一つです。)

しかし、この大勝利も束の間、彼らの喜びはナポレオンが最も恐れる強力な敵によって、いとも簡単に粉砕されてしまいます。この勝利からわずか10日後に、エジプト奪還の命を受けた名将ネルソン提督率いるイギリス艦隊14隻が、アレクサンドリア近郊のアブキール湾に停泊中のフランスのエジプト派遣艦隊17隻と海戦、1隻の損害も出さずにフランス艦隊を壊滅させて大勝利を得たのです。これを「アブキール湾の戦い」または「ナイルの海戦」と呼びます。


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上が「アブキール湾の戦い」の様子とイギリス海軍の名将ホレイショ・ネルソン提督です。(1758~1805)彼はナポレオンを最も悩ませた「ライバル」として有名ですね。

この海戦でフランスは戦艦4隻を失い、9隻をイギリスに鹵獲され、残存艦艇は上陸しているナポレオンの陸軍部隊を残してフランス本国に逃走してしまうという大敗を喫してしまいます。この時遠征軍を乗せてきた輸送船団は大半が本国に戻っており、護衛艦隊は全滅、つまり、ナポレオン軍はエジプトに置き去りにされてしまったのです。(ナポレオンの激怒する顔が目に浮かびますね。)

そこにやっとオスマン帝国の正規軍の動員が終了します。オスマン軍はエジプト奪還のためにシリアへと南下、これを阻止しようとするフランス軍と一進一退の激しい戦闘になります。そうこうしている内にフランス本国では緊急事態が発生していました。1799年、ナポレオンが留守の間にオーストリア軍が北イタリアに侵攻、フランス軍を撃破して国境に迫る勢いを見せていたのです。この事態にフランス本国の総裁政府は全く無力でした。ナポレオンは大いに焦ります。もはやエジプトどころではありません。

ナポレオンの決断はとても早いものでした。彼は知らせを受けるとなんとエジプト遠征軍をそのままにして、わずかな側近と共に直ちにフランス本国に帰国してしまうのです。その後彼は素早く反撃してオーストリア軍を撃退し、国民から歓呼の声で迎えられて自らを統領とする統領政府を興し、事実上フランスの全権を握り、やがて皇帝へと登り詰めていきますが、不幸なのはエジプトに残されたフランス遠征軍です。彼らは補給を絶たれ、灼熱の砂漠で疫病に悩まされながら、それでもオスマン軍やイギリス軍との苦しい消耗戦を2年間に亘って繰り広げました。

しかし、その彼らもついに武器弾薬が底を突き、1801年にフランス軍残存部隊1万5千はオスマン帝国とイギリス軍に降伏、足かけ3年続いたエジプト戦役は終結します。この戦いで、オスマン帝国は独力ではありませんでしたが、イギリスなどと協力してナポレオンという強大な敵をなんとか撃退する事に成功したのです。

結局ナポレオンのエジプト遠征は敵味方双方に大きな犠牲を出しただけで、戦略的には完全な失敗でした。しかし、考古学と文化の面で世界に大きな業績を残した事は、歴史好きな方であれば良く知られていますね。ナポレオンは遠征の際、160名以上の科学者や技術者からなる当時としては最大の学術調査団を同行させ、エジプトの地勢や物産の調査の他、古代遺跡の調査に当たらせています。このフランス調査団はこれらを詳細に調査し、その後のエジプト考古学研究を大きく進展させる数々の貴重な遺物を発見していきます。そしてその中で世紀の発見といわれる最大のものが、「ロゼッタ・ストーン」です。


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上がその「ロゼッタ・ストーン」の実物で、現在ロンドンの大英博物館に展示されています。大きさは縦114センチ、横72センチ、厚さ28センチ、重さ760キロもある花崗岩の一種の石柱の一部で、上から順に古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)で書かれた碑文、さらにそれを文書体にしたデモティック、そしてそれを訳したものが3段目のギリシア文字で刻まれています。

この石は、その名の通りエジプトの港湾都市ロゼッタで当時のフランス軍の一大尉が発見し、(彼の指揮下の兵士が、「洗たく板」にちょうど良いと駐屯地に持って帰るために引きずっていたところを、その大尉が取り上げたという話も伝わっていますが、定かではありません。笑)明らかに違う3種類の文字が刻まれたその石版の重要性に気付いた彼は調査団にこれを委ねます。

当時ヒエログリフは全く解読不能の謎の文字であったため、この発見は直ちにヨーロッパ全土の考古学者たちの胸を躍らせました。その後フランス軍の降伏によってロゼッタ・ストーンの実物自体はイギリス軍に接収され、大英博物館に収められますが、書かれていた碑文は写し取ったものが広くヨーロッパ中の学者たちに出回り、その中の一人フランスの言語学者にして考古学者のジャン・シャンポリオンによって、1822年についに謎の文字ヒエログリフが解読されます。


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上がそのジャン・シャンポリオンです。(1790~1832)彼は語学の天才で、20歳になるまでになんと11ヶ国語を習得していたそうです。ヒエログリフを解読したのは31歳の時で、長命ならもっと多くの業績を残したでしょうが、残念ながら彼は短命で、41歳の若さでコレラで亡くなります。

このナポレオンのエジプト遠征は、先に述べた様に惨憺たる失敗に終わりましたが、ヨーロッパがあれほど恐れたオスマン帝国の領土であるエジプトに、そのヨーロッパの一国フランスが遠征したという事自体が、当時すでに西欧諸国にとってオスマン帝国の存在が、かつての畏怖すべき大帝国から、辺境の遅れた一国という程度のものになってしまった事を如実に表す事件でした。その後、ナポレオン亡き後もフランスはイギリスと競ってアフリカにおけるオスマン帝国の領土に遠征し、次々にこれを奪い取っていきます。

しかし、オスマン帝国にはもはやこれを防ぐ力はありませんでした。そしてこれを機に、帝国は周辺国の侵食と国内の独立派の台頭がますます進み、さながら海辺の砂浜の上に築いた山が、波に洗われて崩れていく様に、少しづつ縮小から崩壊への長く緩慢な道を歩む事になっていくのです。

次回に続きます。
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ギリシャ独立戦争 ・ ビザンツ帝国復活の夢

みなさんこんにちは。


19世紀初頭、「英雄」ナポレオンのエジプト侵攻をなんとか撃退した(というよりイギリスに撃退してもらった)オスマン帝国でしたが、かねてから当ブログで述べて来た様に、もはや帝国の凋落ぶりは目を覆うものがありました。そして、そのナポレオンが「フランス皇帝」となって自らの王朝を開き、スペイン、ポルトガル、オランダ、イタリア半島を支配下に収め、ドイツ神聖ローマ帝国を崩壊させ、プロイセン、オーストリア、ローマ教皇庁をも屈服せしめ、果てはロシアにまで大遠征を行うなど、全ヨーロッパを縦横無尽に暴れ回っていたその時期、オスマン帝国はその激動の歴史の流れから取り残されたかの様に、相変わらず国内において帝国を長く蝕んできたある「怪物」の存在によって、改革と近代化が遅々として進まずにもがいていました。

オスマン帝国を長く蝕んできたその「怪物」とは一体何でしょうか? それは帝国の頂点に君臨する皇帝の傍にあって、その皇帝を護る「親衛隊」であり、「近衛師団」ともいうべき存在であったイェニチェリです。彼らはこれまで述べてきた様に、元はキリスト教徒の少年奴隷たちをイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝に生涯絶対忠誠を誓う皇帝直属の精鋭部隊として、帝国の拡大発展に大きく寄与した帝国軍の中核でしたが、この時代より200年前の16世紀に、帝国の領土的拡大が限界点に達し、それ以上の軍事的拡大が不可能になるとその役割を失い、戦いのない平和な時代が続くと、すでに総勢3万を越えるまでに肥大化していた彼らは、今度はその武力を背景に自分たちの利益追求のみを欲する巨大集団と化してオスマン帝国を動かす様になっていったのです。

歴代の皇帝はこのイェニチェリが擁立したあまり才の無い人物が即位し、当然それらの皇帝たちはイェニチェリの支持がなければ宮廷を維持する事が出来ず、そうしたイェニチェリを抑えて改革しようとする有能な皇帝が出て来ると、イェニチェリは自分たちの存在と既得権益を守るために直ちにクーデターを起こし、自分たちに都合の良い新帝を擁立して先帝を廃位、その多くを密かに暗殺してしまうという悪循環が200年以上も続いていたのです。

しかし、時は19世紀に入り、オスマン帝国を取り囲む内外の情勢は危機的状態にありました。帝国は台頭著しいヨーロッパ諸国との戦争で、すでに100年前の18世紀から敗退が相次ぎ、次々と周辺国に領土を奪われていきます。そしてついには今回のナポレオンの様に、帝国領域のど真ん中ともいうべきエジプトにまで他国の侵攻を許してしまうまでに帝国が弱体化してしまったのです。この衝撃的事実が帝国に及ぼした心理的影響は甚大で、皇帝以下末端の市民に至るまで、早急な抜本的改革を切望する様になっていました。


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この時期にオスマン帝国の皇帝になったのが、上に載せた第30代皇帝マフムト2世です。(1785~1839)彼自身もイェニチェリによって1808年に擁立された皇帝でしたが、帝国にとって幸いな事に、彼はこの巨大な怪物イェニチェリを「退治」する事に成功し、それに代わる最初の西洋式近代化軍隊の創設と、数々の改革を成功させた名君としてその名を刻む事になります。

マフムト2世が即位した時期、ヨーロッパはナポレオンがその権力の絶頂期にありましたが、その彼がロシア遠征の失敗によるつまづきから失脚すると、戦後のヨーロッパ世界の再構築を話し合うウィーン会議に使節を派遣し、帝国領土の現状維持を西欧諸国に認めさせる事に成功します。ナポレオンによる長い戦争によって、ヨーロッパ諸国が疲弊していた事実を見越していたマフムト2世は、当分彼らが帝国領土に手を出す事は無いと判断し、10年以上の時間をかけてイェニチェリとは別の西洋式軍隊を創設、イェニチェリの反発を買わないよう彼らに高い報酬を与えてうまく手なずけつつ巧妙に根回しをして、徐々にその規模を拡大させていきます。そして1826年にいよいよかねてから密かに計画していた極秘作戦を実行に移しました。

彼は同年6月、突如としてイェニチェリの廃止を宣言し、自らが創り上げていた新軍を動員してイェニチェリを挑発します。これに対し、当然イェニチェリは存亡をかけて反乱を起こします。しかし、彼らの手の内を良く研究していた皇帝にとってこれは予定通りのシナリオでした。皇帝軍は最新の大砲と銃火器の完全装備で旧式のイェニチェリ軍を圧倒、反乱はたった1日で鎮圧され、反乱軍は徹底的に逮捕、投獄、処刑されました。こうしてオスマン帝国建国以来、500年に亘って帝国を支え、さらに200年以上もの間影の支配者として君臨してきた皇帝親衛隊イェニチェリは、皇帝自身によって粛清され、消滅したのです。

イェニチェリの粛清に成功したマフムト2世は、早くも反乱鎮圧の翌日に自らの新軍を「ムハンマド常勝軍」と命名し、これを中核とする一元的に統一された新たな帝国軍を創設しました。以後オスマン軍は、軍服をはじめそれまでの古いイスラム様式のスタイルから、ヨーロッパの軍隊に引けを取らない同じスタイルで構成されていきます。(この時点では、まだ国民に兵役を課した徴兵制ではありませんでしたが、それでも軍制改革としては大きな前進でした。)


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上がマフムト2世の創設したオスマン帝国初の西洋式軍隊である「ムハンマド常勝軍」です。(近代的軍隊らしくなってきましたね。)

マフムト2世の改革は軍隊だけではありませんでした。イェニチェリの粛清によって誰にも脅かされる事なく改革に専念出来るようになった皇帝は、帝国政府のあり方も大きく見直します。それまで大宰相全てに国政のほとんどを任せていた点を改め、外交を司る外務大臣、警察と治安維持を担当する内務大臣、財政と法律をそれぞれ専門とする財務、司法大臣などの大臣職を置き、大宰相の職名も「首相」に変更、帝国政府はこれらの閣僚の閣議によって国政を遂行し、「首相」はそれらを取りまとめる議長職的な役割に権限を縮小され、いわゆる西欧式近代内閣制度に近い新たなスタイルに生まれ変わります。

また帝国の次世代を担う若者たちのため学校教育の近代化も推し進められました。医学校、士官学校、音楽学校、法律学校などが次々に創設され、入学した若者たちのうちで優秀な者は西欧諸国に留学生として派遣し、オスマン帝国の未来のエリート官僚として養成されて行く事になったのです。(まさにわが日本の明治維新後の近代化を見ている様ですね。トルコはわが国よりも50年も早くこれらに着手していた偉大なる大先輩なのです。)

マフムト2世の時代に帝国に取り入れられた画期的なものがもう一つあります。それは「洋服」の普及です。人は他者のそれを真似る時、大抵は手っ取り早く「形」から入っていくものです。それまでオスマン帝国では、皇帝以下国民の末端に至るまで伝統的なトルコ風の服装が一般的でした。しかし皇帝は「目に見えた形」で人々にあまねく改革を意識させるため、上の肖像の様に歴代皇帝として初めて自ら西洋式の軍服を身に付け、人々に洋装化を奨励していきました。(マフムト2世はわが国に例えれば、まさに明治天皇と同じ存在であったといえるでしょう。わが明治帝もいち早くまげをご断髪あそばされ、古い朝廷の束帯姿から、サーベルを提げた西洋の大礼軍装をお召しになったそのりりしい若き日のお姿を写真に残されています。)

こうしてオスマン帝国の国内における近代化は大きく前進していったのですが、同時にそれは帝国内部において、長くトルコ民族の支配化に甘んじてきた多くの民族に自主独立を促す起爆剤となっていきました。

その最初の火花が散ったのはなんと帝都イスタンブールのすぐ近くのギリシャでした。これもそもそもの起こりはフランス革命による旧体制の打破と、その後のナポレオンの遠征によってその思想が真っ先にギリシャに流れ込んだ事が発端です。1797年イタリア半島に侵攻したナポレオンは、千年続いたオスマン帝国の宿敵ヴェネツィア共和国を滅亡させ、その旧領であったキリシャの西岸部に位置する7つの島から成るイオニア諸島をフランス領としてしまいます。ナポレオンはこの7つの島をもって「イオニア七島連邦国」なる傀儡国家を樹立させ、極めて限定的ながら島民であるギリシャ人たちに自治を任せました。


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上がそのイオニア諸島の7つの島の位置です。

このイオニア七島連邦国は、その後の情勢の変化によってたった10年で消滅してしまいますが、オスマン帝国の興隆以来真っ先に征服され、最も長くその支配に耐え忍んできたギリシャ人たちにとってこれは千載一遇のチャンスでした。なぜなら彼らギリシャ人は、ローマ教皇に代表されるカトリックやプロテスタントよりはるか以前にキリスト教の正統派であった正教徒であり、イスラムのオスマン帝国の支配下にあってもその信仰だけは絶対に捨てず、その彼らをして失っていた自分たちの国を再建するという大きな夢を抱かせる最初の出来事がこの事件だったからです。

ギリシャ人たちの心に火をつけたこの熱い思いは、瞬くうちにギリシャ全土に広がっていきます。各地でギリシャ独立を唱える秘密結社が創設され、やがて1820年に同じ正教徒のロシアの支援を受けた大規模な反乱が勃発し、鎮圧に出動したオスマン軍とギリシャ各地で激しい戦闘を繰り広げます。戦いはヨーロッパ諸国のこの地域への思惑と介入もあって長期化しますが、ギリシャ人たちの粘り強い抵抗とヨーロッパ諸国の支援もあってオスマン軍に勝利、その余勢を駆って1827年ついにギリシャに共和政府が樹立され、初代大統領にイオニアス・カポディストリアスが選出されます。


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上がそのギリシャ初代大統領イオニアス・カポディストリアスです。(1776~1831)彼はその名の通りイオニア諸島の裕福な貴族出身で、イタリアに留学して医者となり、上のイオニア連邦国の時代にはなんと25歳の若さで国務大臣に就任していました。その後彼は独立戦争の変転を経て頭角を現し、国民会議で初代大統領に任命されます。ただし、この時点ではオスマン帝国はギリシャの独立を認めておらず、完全な独立は1832年まで待つ事になります。

しかし、このギリシャ共和国の成立は当時のヨーロッパ列強諸国にとっては受け入れがたいものでした。なぜなら当時の列強諸国はその全てが帝国、または王国などの君主制国家であり、共和制のギリシャの出現は自国の民衆にそれが波及する恐れがあったからです。そこで列強はギリシャを君主制国家として独立させる事を画策します。この様な状況の最中の1831年10月、ギリシャ初の大統領カポディストリアスは彼の政策に反対する政敵らによって暗殺され、ギリシャは再び内乱状態に陥ってしまいます。

ヨーロッパ列強諸国はこの混乱を良い事に、この機に乗じてギリシャを王国として独立させる事で一致し、1832年にバイエルン王国のヴィッテルスバッハ王家の王子オットーを初代ギリシャ国王として擁立、オットーはギリシャ名「オソン1世」として即位しました。ギリシャ王国の誕生です。


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上がギリシャ王国初代国王に即位したオソン1世(1815~1867)と、彼ら一行がギリシャに上陸した時の様子です。彼はこの時まだ18歳だったため、父のバイエルン王ルートヴィッヒ1世はまだ若くて未熟な息子を心配し、多くの廷臣たちを同行させていました。またこの時、ドイツの名門王家出身の彼が、一見何のつながりも無いギリシャの国王に擁立されたのは、彼の王家ヴィッテルスバッハ家が、その女系を辿ればかつてオスマン帝国に滅ぼされた旧ビザンツ帝国の皇帝家の血を引いていたからです。

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そして上がこの時に成立したギリシャ王国の最初の領域図です。(濃い青色の部分が最初の国土、やがて徐々に領土を拡大していきます。)

一方この事態に、かつての支配者オスマン帝国は何をしていたのでしょうか? 実はこの時帝国は、ロシアとの間で再び勃発した戦争に苦しんでいました。(第9次露土戦争1828~1829)この戦いはロシアの勝利に終わり、オスマン帝国はまたも黒海周辺の東側に残る領土をロシアに奪われ、多額の賠償金を課されてしまいます。そこで皇帝マフムト2世はこの賠償金の捻出のために思い切った手段に出ます。なんと彼はそれまでの方針を転換し、イギリスなどが進めていたギリシャの王制による独立を承認、その見返りとして多額の償金を要求したのです。

イギリスを筆頭とする西欧列強はこの要求を受け入れ、ここにギリシャはオスマン帝国からも認められた完全な独立国家としての道を歩みだす事になりました。(つまり、マフムト2世はギリシャを金で売ったのです。)しかし、この独立は決してギリシャ人の自由意志で決められたものではなく、あくまでも列強諸国の思惑と都合によって強制されたものでした。そのため、その象徴である国王オソン1世に対するギリシャ国民の目は厳しく、(いくら遠い先祖がビザンツ皇帝につながるとはいえ、全く見ず知らずのドイツ人である彼を、いきなり自分たちの君主とするのは無理がありますからね。笑)その事を最も良く体感していたオソン1世は、生まれたばかりのギリシャを、自らを頂点とする王国として国民を一つにまとめるために大きなスローガンを掲げました。それが「大ギリシャ主義」「メガリ・イデア」と呼ばれるものです。

この思想はオソン1世のオリジナルではなく、もともと独立戦争の最中から唱えられていたものですが、国王はこの思想をさらに拡大させ、かつてギリシャがその中心として地中海に千年の繁栄を誇ったキリスト教国家ビザンツ帝国の復活を目指そうと呼びかけたのです。

「ギリシャ人が住む所、その全てがギリシャである。我々は祖先が築いた栄光あるビザンツ帝国を再びこの地に蘇らせるのだ。」

これはギリシャ国民に夢を持たせ、まだ生まれたばかりで決して一枚岩とは言えなかったギリシャを一致団結させるため(同時に国民の国王政府への不満をそらせる「ガス抜き」として)に立ち上げた壮大なプロジェクトでした。

オソン1世がどれだけ本気でそれを考えていたかは定かではありませんが、彼が掲げた大ギリシャ主義の考えはその後多くのギリシャ人たちに深く浸透し、やがてオスマン帝国の衰退と呼応して次第に少しづつ領土を拡大させていく事になります。かつてオスマン帝国は、キリスト教を信ずるギリシャ人たちの帝国であったビザンツ帝国を取り囲み、滅亡へと追いやりました。そしてその流れは、400年の時を越えて逆流し、ビザンツの子孫であるギリシャが、今度はイスラム教国家オスマン帝国を侵食しようとしていたのです。この様な事態を当時誰が想像し得たでしょうか? まさに「盛者必衰の理をあらわす。」ですね。

このギリシャ独立戦争は、オスマン帝国にとってそれまでの様に周辺国との戦いに敗れて領土を奪われたのではなく、帝国内の支配下にある民族が帝国から離反した最初の例となりました。そしてギリシャの独立は、帝国内の他の民族にも徐々に波及していき、同じイスラムでありながら中東のアラブ世界の人々にも自主独立の気運が高まっていきます。そしてこの未知の状況下において、帝国は内と外の2正面の圧迫に苦しむ様になっていくのです。

次回に続きます。

瀕死のオスマン帝国 ・ 皇帝たちの努力

みなさんこんにちは。

1821年から1831年まで、およそ10年に亘って断続的に続いたギリシャ独立戦争は、同じキリスト教国家を復活させてこの地域への影響力を確保しておきたいイギリス、フランス、ロシアなどの列強諸国の介入によって、1832年にギリシャ王国を誕生させる事になりました。このギリシャ王国は前回お話した様に、君主としてかつてギリシャ人の帝国であった旧ビザンツ帝国皇帝家の血を引くドイツのバイエルン王家から国王を迎え入れるという、形の上ではギリシャに配慮したものでしたが、それは世界初の民主共和制を誕生させた古代ギリシャに倣い、当然の事ながら当初は共和制を選択したギリシャ国民の自由意志で成立したものではありませんでした。

しかし、何はともあれ1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落と、それに伴うビザンツ帝国滅亡によって、実におよそ400年もの長い間オスマン帝国の支配下にあったギリシャ国民は、小さいながらも悲願であった自分たちの国家の再建を大いに喜び、新国家の発展と、さらなる拡大のために力強く前に進み出したのです。

一方このギリシャ独立は、本テーマの主役であるオスマン帝国の弱体化をさらに大きく進行させて行く事になりました。なぜならこの1830年代に、帝国はそれまでの対外戦争で失った地域をはるかに上回る広大な領土をさらに失う事になったからです。この時期を境に、オスマン帝国はもう弱体化という表現を超えて、まさに「瀕死の状態」に陥ろうとしていました。


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上がオスマン帝国の年代ごとの領土失陥の変遷を表した地図です。

オスマン帝国がかつての勢いを失い、近代化を着実に進めて力関係が逆転したヨーロッパ諸国との度重なる戦争による敗北で次々に領土を失っていった経緯は、これまで何度か当ブログでもお話して来ましたが、それは大半が帝国北部のバルカン地域、すなわちもともとヨーロッパの一部であったものを取り返されたものでした。

しかしこの時期、ついに同じイスラム圏であるはずの帝国南部、中東・北アフリカ地域が次々と帝国から離脱していく様になります。すでに19世紀に入ってから、ヨーロッパ列強諸国のオスマン帝国に対する政治・軍事的干渉は年を追うごとに遠慮が無くなって行ったのですが、帝国建国以来の独特の専制国家体制による幾重にも折り重なった複合的な弊害によって近代化の波に乗れず、西欧列強に100年の遅れを取ってしまっていた当時のオスマン帝国には、それら列強の干渉を跳ね返し、はるか辺境のこれらの地域を維持するために差し向けられるほどの軍事力はありませんでした。

そうしたオスマン帝国を尻目に、ヨーロッパ諸国によるオスマン領の侵食はじわじわと進んでいきます。1830年にはフランスが帝国最西端のアルジェリアを占領。やがて徐々に東のチュニジア、リビアへとその手を伸ばしていきます。またその隣のエジプトには、インドから得た様々な産物を本国に運ぶ最短ルートとして重視していたイギリスが、隙あらば自国の植民地の一つとしてしまうべく、虎視眈々と狙っていました。

この時期にオスマン帝国の皇帝であったのが、第30代皇帝マフムト2世という人です。彼はオスマン帝国にとって長く影の支配者として帝国を迷走させ、最大の「内なる敵」であった皇帝親衛隊イェニチェリを粛清する事に成功し、西欧諸国に倣った近代的軍隊の創設と、それまでの皇帝たちが成し得なかった数々の近代化政策を断行したオスマン家でも久しぶりの名君でしたが、北の宿敵ロシアとの相次ぐ戦争と、ギリシャ、エジプトの帝国からの離脱に大いに悩まされていました。


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上がオスマン帝国第30代皇帝マフムト2世です。(1785~1839)彼は歴代皇帝で初めて「洋服」を身に付け、強力なリーダシップを発揮して帝国の改革に着手し、西欧を参考に新たな時代の君主のあり方を模索した啓蒙君主でもありました。(同じ様なターバン姿でどの皇帝が何代目なのか区別が付かないそれまでの皇帝たちの肖像画と全く違い、自ら大きく前を指し示した姿で描かれています。きっと彼は、自らの改革への熱意をあまねく人々に知らしめるために、この様に大きくデフォルメして描かせたのでしょう。)

マフムト2世が始めた帝国近代化政策は、これまでの皇帝たちが行ってきた局所的で行き当たりばったりなものではなく、それまでの帝国のあり方を抜本的に改め、新たな時代に即した西欧列強と肩を並べる近代国家を目指そうという非常に先進的なものでした。(これも、明治維新後のわが国の掲げた目標と同じですね。)彼の主導により、帝国は立ち遅れていた近代化が大きく進んでいきます。

しかし、マフムト帝がこうした改革を進めていた矢先、今度はエジプトが帝国から離脱のため動き出していました。事の起こりは1798年のナポレオンのエジプト遠征に始まります。イギリス撃滅を企図してエジプトに侵攻したナポレオンのフランス軍撃破のためにオスマン帝国が差し向けたエジプト派遣軍の中に、マケドニア出身のムハンマド・アリーという男がいました。この男は300人から成る一部隊の指揮官に過ぎませんでしたが、フランス軍との戦いで昇進を重ね、やがて6千の大部隊の司令官にまで出世し、その武力をもってフランス軍降伏後のエジプトにおける激しい権力闘争を制し、1805年に「エジプト総督」となり、エジプトの全権を掌握します。


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上がそのエジプト総督ムハンマド・アリーです。(1759?~1849)彼は後にオスマン帝国に対して「独立戦争」を挑み、自らの王朝を築く事になります。

やがて時が流れて1821年、ギリシャ独立戦争が勃発します。彼は形の上ではオスマン帝国の「総督」という身分であったため、マフムト2世の求めに応じて配下の軍勢をギリシャに派兵、その見返りとしてシリアの支配権を要求しますが、ギリシャが独立してしまったため、皇帝はこの要求を拒否してしまいます。

「約束通り兵を提供し、長い戦いで大勢の兵を失ったのに、これでは我らはタダ働きではないか。皇帝め、私を騙して道具に使いおったな!」

怒ったムハンマド・アリーは独力でシリアをもぎ取るべく、1831年シリアに兵を差し向け、オスマン帝国に宣戦、ここに10年に及ぶ「エジプト・トルコ戦争」が始まります。このムハンマド・アリーの反逆は、当然皇帝マフムト2世を激怒させました。

「素性も知れぬ卑しい成り上がり者が、誰のおかげで今の地位を得たと思っておるのか!余の馬前にあの者の首を持って参れ!」

マフムト帝は自分が創設した新鋭の帝国軍8万を動員、同じくシリアに差し向けます。両軍はシリアで激戦を展開し、ロシア、イギリス、フランスなどを巻き込んで戦争は長期化していきました。しかし、その長い戦いもついに終わりの時を迎えます。戦いは戦術的には西欧列強諸国に有利な条件を餌として味方に付けたマフムト2世率いるオスマン帝国の勝利に終わり、1841年6月にイギリスの仲介の下で講和条約が締結されました。


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上がその時の様子です。中央の大きな赤いソファの左側にムハンマド・アリー、右側にイギリス代表らがいます。これにより最盛期15万以上の大軍を擁したムハンマド・アリーは、その常備軍を2万以下にまで減らされ、海軍の保有禁止や治外法権、低率の関税など多くの不平等条約を結ばされてしまいます。しかし、エジプトとその南のスーダンにおける総督職は彼の子孫による世襲が認められ、形の上ではオスマン帝国の統治下という建前でしたが、実際は帝国中央政府から完全に自立した行政権を認められた独立国としてほぼ認められました。つまり、戦略的にはムハンマド・アリーの望み通り、エジプトを彼の王国として独立させる事に成功したのです。こうしてエジプトに、1517年のマムルーク朝エジプト王国滅亡以来324年ぶりに自立した新王朝が誕生する事になりました。(彼が築いたこのムハンマド・アリー朝エジプト王国は、その後第2次大戦後の1953年まで11代112年続く事になります。)

こうしてやっとの思いでギリシャ、エジプトの戦役を終結させた皇帝マフムト2世でしたが、彼はなぜギリシャとエジプトの独立を許してしまったのでしょうか? これは自分の勝手な想像ですが、恐らく彼は帝国の改革のためにこれらの地域を「切り捨てた」のではないかと思います。とにかく今のオスマン帝国の力では、これらの問題を軍事的に解決させる事は出来ないのです。そこで彼は、自分の代においてまずは帝国本国の改革と近代化を最優先し、再び西欧列強に立ち向かえるだけの国力を回復させてから、後事は後の世代に託す事を道を選んだのではないでしょうか。しかし帝国を取り巻く内外の長年の重大問題は、この優れた皇帝の健康を大きく蝕み、彼はこの時重い結核で余命いくばくも無い状態でした。そしてもはや自分の生涯が終わりに近い事を察した彼は、改革の完遂を息子に託し、1839年に53歳でこの世を去ります。

皇帝崩御を受けて新たに皇帝として即位したのは、先帝の長男アブデュルメジト1世でした。彼は父帝の遺志を受け継ぎ、オスマン帝国の近代化のために改革の続行を推し進めていきます。


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上がオスマン帝国第31代皇帝アブデュルメジト1世です。(1823~1861)彼は即位当時まだ16歳の少年でしたが、帝国に次から次へと降りかかる内外の苦難に立ち向かいつつ、断固改革を進める父の姿を見て育ち、父を手本として帝国を再び盛り立て、かつての繁栄を取り戻す事を自らの使命として帝位に着きました。

しかし、若き新帝は改革への熱意は高かったものの、いかんせんまだ10代後半の少年でした。つまり政治経験などありません。そのため有能な宰相を補佐役に選ぶ必要がありました。そこで彼は先帝の下で外務大臣を務め、西欧列強諸国との外交交渉を巧みにこなしてきたレシト・パシャ(1800~1858)を帝国宰相に任命、熟練の彼の補佐を得て次の様な勅令を発します。

「わがオスマン帝国の全臣民は、法の下に全て平等であり、帝国全臣民の生命・名誉・財産は、これを全て保障する。」

これは明らかに、フランス革命で有名な「フランス人権宣言」の内容そのままですね。同時にこれは建国以来、長く専制君主国家であったオスマン帝国が、その国家体制を全面的に改めた歴史的瞬間でもありました。そして皇帝はこの勅令と並行して、行政・軍事・文化・財政・司法・教育といった国家の根幹となるあらゆる分野の全面的な刷新を宣言したのです。

皇帝はそのために、かねてから父帝とは違う思い切った計画を考えていました。その思い切った計画とは、帝国の古い体質の巨大な象徴として、およそ400年に亘って帝都イスタンブールにその威容を誇ってきたオスマン皇帝の居城トプカプ宮殿を捨て、新たに造営した西洋式の宮殿に宮廷を移す事です。


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上がオスマン帝国の中心であったトプカプ宮殿の現在の様子です。(現在は博物館として一般公開されています。)この宮殿は、かつてビザンツ帝国を滅ぼし、ここイスタンブールを帝国の都と定めた第7代皇帝メフメト2世によって造営され、その後、歴代皇帝たちが増改築を繰り返した結果、上の様に「迷宮」といっても良い複雑で住みにくいものになっていました。

アブデュルメジト1世は即位4年目の1843年に巨額の費用を投じて新宮殿の造営に取り掛かり、彼の偉大な祖先であり、トプカプ宮殿を造ったメフメト2世が同じく離宮として別の場所に建設した海沿いの木造の宮殿を取り壊し、その跡地に13年の歳月をかけて壮麗な新宮殿を建造させました。


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上が1856年に完成した「ドルマバフチェ宮殿」とその内部の様子です。(この「ドルマバフチェ」とは、トルコ語で「埋め立てた庭」という意味だそうです。もっと宮殿の壮麗さにふさわしい名前にすれば良かったのではと思いますが、そのままですね。トルコの人はこれほどの壮麗な宮殿を造りながら、肝心のネーミングにはあまり興味が無いのでしょうか? 笑)この新宮殿は部屋数285、ホールが46もあり、現在はトルコ共和国の迎賓館として使われ、もちろん一般公開もされています。

オスマン帝国において皇帝がその宮殿を移すなど、1453年のコンスタンティノープル占領によって、皇帝の宮殿がイスタンブールに定まって以来、実におよそ400年ぶりの事でした。(わが国に例えれば、京都御所におられた明治天皇が、明治維新によって江戸城を「東京城」と改め、居をお移りになられたのと同じ状況でしょうか。あの時は桓武天皇の平安遷都以来1072年ぶりでしたが。)アブデュルメジト1世は、人々により目に見えた形で帝国の近代化の新たなる象徴となるようこの巨大な新宮殿を建設させたのです。着々と建設が進む宮殿の完成を待ちわびながら、若い皇帝はどんな気持ちだったのでしょうか?

瀕死の帝国を救わんとする皇帝たちのこうした懸命の努力によって、オスマン帝国は生まれ変わるために必死に過去の古い体質から脱皮しようとしていました。そしてその成果は着実に帝国を大きく変えつつあり、そのまま平和な時代が続けば、これらの改革が実を結んで帝国は再び強国として復活する可能性は十分にありました。しかし、オスマン帝国の近代化は、すでに「植民地帝国主義」の時代に移行していたヨーロッパ列強諸国にとって許すべからざるものでした。

彼ら列強諸国にとって、彼らのレースにオスマン帝国が新たな走者として参加してもらっては困るのです。そして彼ら列強は、帝国をそのレースから追い落とすために再び戦争という最悪の「病気」を伝染させます。そしてそれは、この必死に生き延びようと努力し、回復しかけていた「病み上がりの病人」を、再び「瀕死の病人」に逆戻りさせてしまう事になるのです。

次回に続きます。

クリミア戦争(前編)・ ロシア皇帝の野望

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、皇帝の主導の下で近代化と改革を進めていた1850年代、それを快く思わない北の大国が不穏な動きを見せていました。その大国とは、オスマン帝国の仇敵ロマノフ朝ロシア帝国です。

ロシアはこの時代よりさかのぼる事およそ40年前、ナポレオンの70万からなるロシア侵攻軍を、その広大な国土を生かした徹底的な焦土作戦(敵軍を自国領土内に引き込み、巧みに後退しながら利用価値のある建物・施設や食料を焼き払い、敵軍に食料の現地調達と、占領確保を困難にする戦法です。)と、何よりも猛烈な冬の寒さ、いわゆる「冬将軍」によって、ほぼ全滅に近い状態にまで追いやり、見事撃退したものの、それに伴う国土の荒廃が著しく、今だにその後遺症から抜け切れていませんでした。

そのため国力の低下が常態化し、この時期ロシアはイギリス、フランス、プロイセンなどの列強諸国に国力、とりわけ軍事力の面で大きな遅れを取る様になっていました。(理由は単純です。軍備の近代化には莫大なお金がかかるからです。)この時期におけるロシアの君主はニコライ1世という人でしたが、彼は帝国の国力回復とロシアの勢力圏拡大のために、新たな方面に活路を見出そうとします。その方面とはバルカン半島です。


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上がそのニコライ1世です。(1796~1855)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝11代皇帝で、皇帝直属の秘密警察を創設して帝国内外のあらゆる自由主義革命勢力を徹底弾圧し、自らを「ヨーロッパの憲兵」と称する最後の強権専制君主とも呼べる人でした。今回のお話では、失礼ながらそんな彼に「悪役」になってもらいます。(笑)

先に述べた通り、ロシアの近代化には国力の回復が不可欠でした。国力を回復させるには何と言っても「お金」が必要です。そのお金を得るためには、他の国を奪うのが最も手っ取り早い方法です。これまでロシアは黒海周辺のオスマン帝国の領土を次々に奪い、南下して領土を広げ、新たに得たこれらの地から上がる富から国力を蓄えていきました。しかし、その彼らの南下政策ももはや限界に達していました。なぜならその先はオスマン帝国をはじめとするイスラム圏であり、キリスト教の一派である正教を国教とするロシアがこれ以上進むのは宗教的な面で困難だったからです。

さらにイギリス、フランスなどの西ヨーロッパ諸国が、ロシアによるこれ以上の南下と地中海への進出を阻止するため、それを防ぐ「防波堤」として、事あるごとにオスマン帝国に味方していた事も大きな要因でした。そこでニコライ1世は、今後のロシアの進出方面を、同じスラヴ民族で正教を信ずる人々が多く住むバルカン半島に切り替えたのです。

彼は全スラヴ民族の連帯と統一を理想とする「汎スラヴ主義」を掲げ、バルカン半島にロシアを盟主とする「共栄圏」を創ろうと遠大な作戦を計画します。(もちろんこれは「建て前」で、実際は思想的影響力によりバルカン地域をロシア化し、機会があればロシア領土として編入してしまおうというものでした。)

ニコライ1世はバルカン進出の手始めとして、1852年にオスマン帝国の領土であったモルダヴィアとワラキアに兵を差し向けます。表向きはこの地域の正教徒の保護という名目でしたが、実際は彼らを煽って反乱を引き起こし、オスマン帝国からの離反を促す謀略でした。ロシアのこの動きに対し、当然オスマン帝国は反撃のため北部に軍を送ります。

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上がそのモルダヴィアとワラキアの位置です。現在のモルドヴァ共和国とルーマニアの北部地域です。

両軍は当地で交戦を繰り広げ、戦闘は長期化してしまいます。しかし、この時点では極めて局地的な小戦闘であり、両国とも本格的な戦争を避けるため(とにかく戦争はお金がかかるからです。)西欧諸国の仲介の下に外交交渉が続けられていました。

この交渉はイギリス、フランス、オーストリア、プロイセンといった当時の名だたる列強が、複雑にその利害を絡めて暗躍し、またロシアがあまりに過大な要求を主張していたために非常に難航し、結局交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。そして最終的にこれ以上の交渉継続は時間の無駄と見たロシア皇帝ニコライ1世は、開戦準備のために陸軍の大部隊を国境沿いに集結させ、さらにそれを海から支援するため、クリミア半島南端の軍港セヴァストポリに駐留する黒海艦隊に出動命令を下します。事ここに至り、1853年3月、ロシアとオスマン帝国は開戦します。第10次露土戦争、いわゆる「クリミア戦争」の勃発です。(この1853年に、わが国ではアメリカのペリー提督率いる4隻の黒船が来航、長い鎖国から開国へと動き出した節目の年ですね。)

このクリミア戦争ですが、これまで述べて来た様に本来の戦場はバルカン方面でした。オスマン帝国は当初、侵攻して来たロシア軍をドナウ川を防衛線として食い止めていましたが、ロシアの謀略によって扇動されたバルカン各地の対オスマン反乱勢力がオスマン軍の背後からゲリラ戦を仕掛け、オスマン軍は挟み撃ちに遭って窮地に陥ってしまいます。

さらに海上での戦いでも、オスマン軍は大敗を喫してしまいます。1853年11月、黒海沿岸のオスマン艦隊の軍港シノープにおいて、停泊していたオスマン艦隊12隻が、ロシア黒海艦隊10隻の奇襲攻撃を受けて全滅してしまったのです。


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上がシノープの位置と、「シノープの海戦」の様子を描いた絵です。ご覧の様にロシア艦隊の基地セヴァストポリの対岸にあって黒海におけるオスマン海軍の根拠地でした。しかし、オスマン艦隊は古い木造帆船であったのに対し、ロシア艦隊はすでに自走出来る蒸気船であったため、オスマン艦隊は成すすべもなく撃沈されてしまい、黒海の制海権はロシアの手に落ちてしまいます。

この戦争はそもそもロシアとオスマン帝国2国間のものであり、当初イギリスもフランスも参戦していませんでした。しかし、このままではオスマン帝国の敗北は時間の問題です。もし、これを放置すれば、オスマン帝国は今度こそ崩壊してしまい、ロシアは益々バルカン方面に進出してしまうでしょう。それはつまり、ロシア艦隊が地中海に出てくるという事です。イギリス、フランス両国にとって、それは悪夢以外のなにものでもありません。

イギリスもフランスも、ロシアが地中海に出て来られては困るのです。海外植民地政策を進める彼らは、ロシアをはるか東の辺境にいつまでも封じ込めておきたいのです。そのためには、先に述べたロシア封じ込めの「防波堤」であるオスマン帝国に何としても勝ってもらわなくてはなりません。そこで両国は協力してオスマン帝国に味方し、1854年3月、ついにロシアに宣戦を布告して参戦しました。(イギリスもフランスも、オスマン帝国をロシアに対する壁として「倒れない程度に」生かしておく必要がありました。かつて恐れられたオスマン帝国は、もはや列強諸国にその程度の存在としてしか見られていなかったのです。)

イギリスとフランスという強力な味方が付いたオスマン帝国はようやく反撃に転じます。イギリス・フランス・トルコ連合軍はロシア軍の裏をかくため、黒海におけるロシアの最重要基地であるクリミア半島のセヴァストポリ攻略を目指し、クリミア半島に上陸します。このセヴァストポリをめぐる戦いにおける両軍の戦力は、英仏土連合軍17万に対し、ロシア軍は陸軍の大半をバルカン方面に差し向けていたため、黒海艦隊などの海軍部隊を主力とするおよそ8万5千というものでした。

兵力だけ見れば、連合軍はロシア軍の2倍の戦力でしたが、このセヴァストポリは先に述べたロシア黒海艦隊の基地であり、街そのものが難攻不落の堅固な要塞都市となっていました。そのためロシア軍は要塞の守りに集中するために駐留艦隊を湾内の奥深くに係留し、それらの軍艦の艦砲を全て陸揚げして要塞砲に転用、さらに艦隊の水兵たちを要塞守備隊に回して防衛体制を整えていました。


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Crimean War (5)

上がクリミア戦争当時のセヴァストポリ軍港内の様子を撮影した貴重な写真です。以下の写真も全て当時のものです。

1854年9月、両軍の猛烈な砲撃の応酬によって、セヴァストポリ要塞攻略戦の火蓋が切って落とされます。しかし、攻撃する連合軍はロシア軍の築いた堅固な要塞の前に苦戦を強いられて容易に要塞に近寄れず、やむなく塹壕を掘って少しづつ攻めて行くより方法がありませんでした。一方ロシア軍の方も、元々の要塞守備隊と艦隊の水兵からなる混成部隊であったために指揮統率が乱れ、要塞にこもっている間はともかく、いざ要塞から反撃に出てみても、本来陸軍でない彼らは攻勢を維持出来ずに苦もなく連合軍に押し返され、結局要塞内に逃げ込んでしまうという展開が続き、戦闘は長期化していきました。


Crimean War (21)

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上の2枚はセヴァストポリ郊外で野営する連合軍部隊です。イギリス軍かフランス軍か判然としませんが、たくさんのテントが印象的です。3枚目はセヴァストポリの街の遠景です。

Crimean War (3)

Crimean War (14)

Crimean War (19)

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上の4枚はいずれも連合軍将兵たちです。これらの写真は1855年ごろ撮影されたものです。160年前の人々の生き生きとした表情や、当時の服装などが驚くほど鮮明に写っていますね。ちなみにこの写真というものは、1839年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787~1851)という長い名前の人物が発明した銀板写真(彼の名を冠して「ダゲレオ・タイプ」と呼ばれています。)というものが最初の実用的なものとして知られ、最初は撮影するのに10分以上もかかるものでしたが、徐々に改良されて撮影時間は短くなっていきました。(しかし、それでも数十秒か1分程度はかかっていた様です。撮影時間が長いためか、こうした古写真に写る人たちは顔や体を横や斜めに向けていたりする人が多いですね。)

このクリミア戦争は、イギリス、フランスと、ロシアとの技術力と工業力の進歩の差が顕著に現れた戦争でもありました。この戦争における各国の動員兵力は、イギリス25万、フランス40万、オスマン30万、ロシアに至ってはなんと200万以上というものでしたが、兵力の点で見れば、ロシア軍の方が圧倒的な大軍です。しかし、ロシア軍の装備は40年前のナポレオン戦争当時と変わらない時代遅れなもので、特に大砲の射程距離は連合軍の半分しか届きませんでした。またロシア軍の一般兵士は、農奴(封建領主に従属する最も底辺の農民)が強制的に徴兵されて嫌々来ていたために士気は最低でした。(彼らにとっては戦争の勝ち負けなどどうでも良く、早く終わって家族の待つ家に無事に帰りたいだけでした。)

さらにロシア軍は戦場に武器、弾薬、食糧、兵員を輸送するのに荷馬車を使っていました。(それらの作業人夫も強制徴用された農奴たちです。)しかし、舗装された道路など皆無だったので、雨でも降ればすぐに道はぬかるんで馬車は進めません。そのため物資の補給が追いつかず、数だけは200万の大軍でも、実際の戦闘可能な戦力はその4割程度で(それでも大軍ですが。)思うように迅速な作戦行動が取れませんでした。

それに引き換えイギリス、フランス軍の方は、蒸気船で本国からどんどん物資を輸送し、さらに港から戦場まで鉄道を敷設して前線に武器、弾薬を運び、部隊の駐屯地には水道も設けていたほどでした。すでに産業革命を成功させていた両国と今だ途上国のロシアとの間には、こうした工業力の違いがはっきりと出たのです。本国から遠いイギリス、フランス軍の方が、輸送が円滑で兵士への補給は順調に行われていました。

しかし、戦争というものは所詮は人間同士の殺し合いです。戦争が長引けば当然負傷者が多く出ます。そうした負傷者は作戦上足手まといになる事から、後方に移送されて「野戦病院」に収容されていましたが、それらの野戦病院における負傷兵の惨状は見るも無残なものでした。なぜならこれらは「野戦病院」とは名ばかりで、実際は負傷兵をろくな治療もせずに一ヶ所に集めて放置しただけに過ぎなかったからです。(この時代はまだ封建的身分制が色濃く残っており、一般の兵士は社会の底辺の人々が多く、身分の高い貴族出身の将軍たちをはじめとする現地軍司令部にとって兵士は使い捨ての道具であり、そうした彼らに対する手厚い看護は不要と考えていたからです。)

重傷者は受けた傷が腐って感染症により次々に死んで行き、さらにそれが周囲に蔓延してたちまち遠征軍全体に広がり、兵士たちはばたばたと倒れていきました。このクリミア戦争における死者は両軍合わせて20万にも及びますが、実際の戦闘での戦死者よりも、こうした感染症の蔓延による病死の方がはるかに多かったのです。

クリミア戦線におけるこうした野戦病院の劣悪な惨状は、発明されて間もない電信を通して本国に伝えられ、新聞記事に大々的に掲載されて大いに人々の関心をさらいます。やがてそれを読んだある一人のイギリス女性が大きな決意を胸に、その後の世界の歴史に大きく名を残す偉業を成し遂げるために、クリミアの地に旅立つ事になるのです。

次回に続きます。
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