堕落するオスマン帝国 ・ 堕ちて行く皇帝たち

みなさんこんにちは。

1571年10月にギリシャ西岸部で行われたヨーロッパ連合艦隊と、オスマン帝国艦隊との大海戦、いわゆる「レパントの海戦」は、ヨーロッパ連合艦隊の大勝利に終わりました。

この海戦のきっかけとなったそもそもの発端は、前回もお話した様に時のオスマン帝国11代皇帝セリム2世の命による、オスマン軍のヴェネツィア領キプロス島への侵攻でしたが、強大なオスマン帝国軍に対して人口の少ない海洋都市国家に過ぎないヴェネツィア共和国では一国でオスマン帝国からキプロス島を奪還出来ない事から、ヴェネツィアは得意の外交戦略によってヨーロッパ諸国に救援を求め、当時最盛期を迎えていたスペインを主力とする一大連合艦隊を結成してオスマン帝国の大艦隊と激戦を繰り広げ、見事な大勝利を収めたのです。

しかし、海戦には勝利したものの、ヴェネツィアが最も期待した本来の目的であるキプロス奪還は果たせず、多数の敵船を拿捕して参加国で分配し、奴隷として酷使されていた多勢のキリスト教徒たちの解放に成功したというだけで、ヴェネツィアにとっては物理的には見返りの少ない、それどころか莫大な臨時戦費と人的損失による大きなマイナスという結果に終わってしまいます。(ただしそれは一時的なもので、この戦いの後にヴェネツィアとオスマン帝国は講和条約を結び、1644年に再び両国が開戦するまで73年間に亘る長期の平和を得る事が出来ました。そしてその間にオスマン帝国との通商を再開したヴェネツィアは大きな利益を上げ続け、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」の繁栄を続けていくのです。)

ただこの海戦の歴史上の意義はそれだけではありませんでした。なぜならオスマン帝国の興隆以来、拡大し続けた彼らに対して幾度と無く敗北と敗退を重ね、防戦一方であったヨーロッパ諸国が、この戦いにおいて「史上初めて」と言えるほどの完膚なきまでの大勝を収めたからです。この海戦の勝利のニュースはたちまち全ヨーロッパに知れ渡り、各国でそれぞれ戦勝を祝う式典が催され、遠くはオスマン帝国の脅威とは距離的にあり得ないはずのイギリスの人々まで狂喜させるほど、ヨーロッパの人々に与えたその心理的効果は絶大なものがありました。

それに対して敗れたオスマン帝国にとっては、この敗北はたしかに不快なものではありましたが、すでにアジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる広大な領域国家に拡大していた帝国にとっては、あくまで局地的な敗北という認識しか持ち合わせていませんでした。

「我らはヒゲを切り落とされたに過ぎない。だがヒゲはすぐにまた伸びてくる。」

これは当時オスマン帝国の大宰相であったソコルル・パシャの発言です。優れた政治家であった彼は一見ユーモアのあるものの言い方をしていますが、「こちらはまたいつでも、いくらでも戦い続ける事が出来るのだぞ。」という意味が強く含まれていますね。


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上はこの頃のオスマン帝国の領域図です。

そんな彼の自信とは裏腹に、当の帝国はそれまでとは違う方向へ向かう大きな転換点の時期にさしかかっていました。それはこれまで当ブログでお話してきた今回のテーマであるオスマン帝国の興亡の歴史において、それまで帝国を主導してきた歴代皇帝たちの質が、この時期を境に急速に堕ちていくのです。そしてそれはオスマン帝国を、それまでの強大な軍事征服国家から、「図体が大きいだけで規律も統制も無い」異質なものへと変貌させていくきっかけとなりました。

まず先に述べたキプロス攻略を命じてヨーロッパ諸国との無用な先端を開いてしまった11代皇帝セリム2世(1524~1574)ですが、彼は前回もお話した様に大酒飲みの遊び好きで、国政を先の大宰相ソコルル・パシャらに任せて遊び惚け、皇帝として何らの業績もほとんど残さず、挙句には酔って風呂で転倒し、頭を打ってそのまま亡くなるといういささかマヌケな最後を迎えた無能な人物でした。

オスマン皇帝家では、帝祖であるオスマン1世以来代々の皇帝たちは程度の差はあれ、それぞれに文武両道に優れた人物が続き、国を拡大させていったのですが、その家系の伝統もセリムの父である10代皇帝スレイマン1世を最後に途絶えてしまい、その息子であるセリム2世の代から、オスマン家では彼に代表される無能で怠惰な君主による帝位継承が繰り返されていく事になります。

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12代皇帝ムラト3世(1546~1595)

セリム2世の子、父セリム2世の死により28歳で即位、父と同じく国政に関心を示さず、ハレムで美女たちとの享楽に溺れ、それによる性病感染により崩御。

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13代皇帝メフメト3世(1566~1603)

ムラト3世の子、29歳で即位、暴飲暴食により38歳で崩御。

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14代皇帝アフメト1世(1590~1617)

メフメト3世の子、父帝が早死にしたため13歳で即位、彼自身は語学に堪能な詩を愛する文化人で、さらに人柄も温厚で周囲にも慕われ、それまで歴代オスマン家では恒例であった帝位継承の際の他の兄弟の処刑を廃し、「黄金の鳥かご」と呼ばれた宮殿内の一画への幽閉(「幽閉」といっても、その一画を出られないというだけで、それ以外の生活は何不自由の無い豪勢なものだった様です。)に留め、後の帝位継承の際の内乱を宮廷内だけに抑える事に成功し、オスマン家では久しぶりの名君誕生かと期待されましたが、残念ながらチフスによって27歳の若さで崩御。

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15代皇帝ムスタファ1世(1592~1639)

14代皇帝アフメト1世の弟、幼少時から精神病を患い、その弟を不憫に思った兄帝アフメト1世によって先の「黄金の鳥かご」が作られました。しかし保護者であったその兄帝の死後一旦は帝位を継承するものの、そもそも社会的生活が出来ない障害者であり、退位と復位を繰り返させられた挙句47歳で崩御。(病的なまでの女性嫌いで当然子孫はなし。)

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16代皇帝オスマン2世(1604~1622)

14代皇帝アフメト1世の子、14歳で即位、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」の改革を試みようとした最初の皇帝でしたが、その若さゆえに支持が得られず、逆にそれを阻止ししようとしたイェニチェリの将校らによって暗殺。

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17代皇帝ムラト4世(1612~1640)

同じくアフメト1世の子でオスマン2世の弟、オスマン家では久しぶりに軍事に秀でた勇敢な人物で、隣国サファヴィー朝ペルシア王国との戦いで自ら陣頭指揮に立つ。しかしその反面残忍な部分もあり、27歳の若さで病死。(彼は酒とタバコとコーヒーを極度に嫌い、特にタバコは彼の在位中3万人もの逮捕者を出したそうです。)

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18代皇帝イブラヒム(1615~1648)

同じくアフメト1世の子、「狂人皇帝」ともあだ名される人物。宮殿内の帝位継承の際の陰謀により兄弟たちが死んでいく様を見て育つうちに精神を病み、即位当初は慈悲深く貧しい人々を助ける事に努めましたが、皇帝に力を持たせたくない宰相らの抵抗で挫折すると、次第に常軌を逸した奇行に走る様になり、ハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという暴挙を行いました。これによって彼は人心を完全に失い、廃位の後暗殺。(彼の名はオスマン家でも忌まわしい人物として記憶され、そのため後に皇帝となる皇子たちに、彼の名「イブラヒム」が名付けられる事は無かったそうです。)

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19代皇帝メフメト4世(1642~1693)

先帝イブラヒムの子、大変な狩猟好きだった以外に特徴がありませんが、彼の在位中に大宰相カラ・ムスタファ・パシャによる15万の大軍を動員した154年ぶりとなる第2回目のウィーン包囲戦が行われています。しかしウィーン防衛軍の頑強な抵抗と救援に駆けつけてきたヨーロッパ各国の連合軍による奇襲で作戦は失敗。その後オスマン帝国に対して攻勢を開始したハプスブルク家のオーストリアに対して敗退を重ね、やがて退位の後幽閉先で崩御。

以上駆け足でセリム2世以後、途中まで歴代皇帝たちの経歴を述べてきましたが、14代皇帝アフメト1世を除いては、凡人や怠惰な人物、性急な改革による失敗者、精神を病んだ無能な君主などが続いた事がお分かりいただけることでしょう。

しかし、オスマン帝国の国家としての運営自体は、この様な皇帝たちが続いてもつつがなく成されていました。なぜなら帝国は、大宰相と有能な官僚たちによる国家行政システムがすでに確立されており、彼らにしてみれば、無能な皇帝でも玉座に座っていてくれれば誰でも良かったのです。

つまり、この時期のオスマン帝国は、それまでの皇帝個人の裁量による専制的な国のあり方から、大宰相らをはじめとする政治官僚たちが国を動かす「官僚国家」へと変貌していった時期でもありました。

また、帝国内で強大な勢力に発展していたある2つの集団が勢力を拡大し、それらが長い時間をかけて徐々に帝国を蝕んでいく存在となっていった事も見逃せないでしょう。

その2つの存在とは、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」軍団と、皇帝の後宮である「ハレム」の女たちです。


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上は現在トルコのイスタンブールで観光用に再現されているかつてのイェニチェリ軍団の軍楽隊です。

このイェニチェリは、これまで何度も述べて来た様に、元はキリスト教徒の奴隷少年たちをイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝個人にその命を捧げ、皇帝を警護すると共に、皇帝が直接遠征する場合にはその先頭に立って戦うオスマン帝国軍でも中核となる最強部隊でしたが、先に述べた様に無能な皇帝たちが続き、戦よりも国家の安定を図ろうとする大宰相ら官僚たちの帝国中央政府の政策によって対外戦争が減ると、活躍の場をなくした彼らは次第に自分たちの利益を追求する利己的集団へと変化していきます。

それはイェニチェリが常に皇帝のそばにいる事を良い事に、自分たちに都合の良い皇帝を即位させて帝国を動かし、その皇帝が役立たずか、逆にイェニチェリを抑え込む行為に及べば、直ちにクーデターを起こしてこれを挿げ替え、新帝を擁立してしまうというものでした。

このイェニチェリは常備1万程度であったものが、1600年代前半の最盛期には最大3万7千あまりにまで膨れ上がり、これには皇帝はもちろん大宰相ら帝国政府の官僚たちも、うかつに手を出せない巨大な存在となってしまいます。(「飼い犬に手をかまれる」とはまさにこの事ですね。)

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2つ目の存在であるハレムは、元は皇帝の憩いと肉体的快楽の場として造られたものである事はこれまで述べてきましたが、このハレムは当然ながら帝位継承者を造り出す場所でもありました。とにかく皇帝の子を産めば、やがてその子が皇帝となり、その皇帝の母として宮廷内で絶大な権力を握れるのです。そのためハレムの女たちは熾烈な女の戦いを繰り広げていき、念願叶って皇帝の寵愛を受け、その子を産んでも、その子が確実に帝位を継げる様に、宰相ら政府要人や、イェニチェリの将校らと結託して暗殺、謀殺、毒殺、贈賄など数々の謀略を図っていく様になるのです。

そして、オスマン帝国がこうした内向きの国内問題で徐々に弱体化と内部腐敗が進んでいくうちに、世界の情勢もめまぐるしく変わっていきます。すでに暗黒の中世は終わり、ルネサンスと大航海時代の到来を経て、ヨーロッパ諸国は自ら船団を世界中に送ってその活動範囲を世界中に広げ、もはや世界の中心は西ヨーロッパ諸国に移っていました。そしてそれは、長く世界の中心であり続けてきた地中海が、単なる一地域に成り下がり、その地中海をまたがる形で君臨していたオスマン帝国も、単なる地域大国としての存在でしかなくなってしまう過渡期でもありました。

次回に続きます。
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縮小するオスマン帝国 ・ 奪い返されていく領土

みなさんこんにちは。

時は西暦1680年代、オスマン帝国の領土と支配地は、その歴史において史上最大のピークに達していました。この時代、帝国の領域は北はオーストリアのウィーンに迫り、ポーランドと国境を接し、西はリビア、チュニジア、アルジェリア、南はエジプトのナイル川中流と紅海の南端エリトリアとイエメン、東はカスピ海からイラクのバグダッドを経てペルシャ湾沿いにまで至り、外から見れば、この時点のオスマン帝国は紛れも無く世界一の超大国でした。

しかし内側から見れば、すでに帝国は衰退の兆しがはっきりと見えるほど腐敗し始めていました。その原因は前回もお話した様に一つではなく、このオスマン帝国という国家の極めてユニークないくつかの要因が重なったものであり、それらの複合的要因が帝国を内側から蝕み、弱体化を促進していく事になっていったのです。


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上がオスマン帝国の最大版図です。(帝国の拡大していった様子が年代ごとに色分けしてあるので分かりやすいです。)

このオスマン帝国の弱体化と内部腐敗が進んだ要因は、前回お話したオスマン皇帝の堕落、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」軍団の専横、そして皇帝の後宮である「ハレム」の女性たちの宮廷への影響が挙げられますが、とりわけそれが顕著だったのは、帝国の支配者であるオスマン皇帝家そのものでした。

オスマン帝国が史上最大の領土を支配していたこの時代、帝国は19代皇帝メフメト4世(1642~1693)の治世下にありましたが、彼は趣味の狩猟に熱中するだけで、国政を自らが任じた有能な大宰相たちに任せきりにしていました。しかし、意外にも彼は自らがそうでない代償のゆえか、有能な人物を見極める目だけは持っていた様で、彼に登用された大宰相たちは帝国拡大のために辣腕を発揮し、それが帝国に最大の版図をもたらす事になりました。

この時にメフメト4世が大宰相に起用したのは「キョプリュリュ家」といういささか舌を噛んでしまいそうな変わった名の一族で、父親のメフメト・パシャ、その息子のアフメト・パシャ、さらにその娘婿であるカラ・ムスタファ・パシャと、メフメト4世の在位中に3代40年に亘って彼らキョプリュリュ一族が帝国の軍事と国政を担い、そのためキョプリュリュ家はその後も、さながらわが国の朝廷における藤原摂関家の様に、オスマン帝国の大宰相職を世襲で受け継いでいく名門になります。

さて、キョプリュリュ家の活躍により史上最大の領土を得たオスマン帝国でしたが、先に述べたカラ・ムスタファ・パシャが周囲の反対を押し切って推し進めた15万の大軍による1683年の第2次ウィーン攻略作戦が失敗し、反撃に転じたオーストリア・ハプスブルク家との16年に及ぶバルカン半島での戦争、いわゆる「大トルコ戦争」に敗れ続けてしまいます。皇帝メフメト4世は敗北の責めを問われて1687年に退位、帝位はその後10年余りの間に弟のスレイマン2世、さらにその弟アフメト2世、そしてその甥のムスタファ2世が継承しますが、いずれも4年足らずの短命で、1699年のカルロヴィッツ条約で、ついにオーストリアにハンガリーとトランシルヴァニアを割譲(「割譲」とは、戦争に敗れた結果、領土を「割き譲る」という意味です。)するという屈辱を味わう事態に陥ってしまいます。

オスマン帝国にとって、戦いに敗れる事はまれにあったものの、これほど広範囲の領土を他国に奪われるという経験は、1402年のティムールによるアナトリア侵攻以来実に300年ぶりの事でした。さらにオスマン帝国にとって「新たな敵」が北に現れます。ロシア帝国の出現です。

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上がその新たな敵であるロシア帝国の領域図と当時のロシア皇帝ピョートル1世(1672~1725)です。彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝5代皇帝で、彼の強力かつ優れた指導力によって、それまでヨーロッパの最果ての凍てつく辺境の一国に過ぎなかったロシアは、上の地図で見られる様な広大な領土を有する大国へと成長し、次なる領土的野心を南の黒海周辺に向け始めます。

時は18世紀に入り、国際情勢は急速に変転していました。特にヨーロッパ諸国の台頭は著しく、この様な事態に対し、もはやオスマン帝国は守勢と防戦に徹するのが精一杯の状態でした。この18世紀初頭にオスマン皇帝に即位したのがアフメト3世という人物です。

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上がオスマン帝国23代皇帝アフメト3世(1673~1730)です。彼は先帝である兄ムスタファ2世の退位によって、皇帝の親衛隊であるイェニチェリ軍団に擁立された人物で、帝国を取り巻く危機的状態を上手く切り抜け、短命皇帝が続いたオスマン家において久しぶりに27年もの長期在位を維持しました。

アフメト3世は即位してからすぐに、ロシア、オーストリアなどのヨーロッパ諸国と戦い続ける事になります。しかし、この戦いはこれまでオスマン帝国が慣れ親しんだ「征服戦争」ではなく、他国の侵入からの純然たる「防衛戦争」でした。この今まで帝国が経験したことの無い状況の中で、彼は未知の苦悩に悩まされる事になります。

アフメト3世が即位する3年前から、ヨーロッパ北方では先に述べたピョートル1世率いるロシアと、彼の生涯のライバルであるカール12世率いる北方の強国スウェーデンが、バルト海の覇権をめぐって激しく争う「大北方戦争」(1700~1721)の最中にありました。当然ロシアはこの戦争の間はスウェーデンとの戦いに傾注せざるを得ないため、黒海周辺のオスマン領に兵を向ける余裕は無く、アフメト3世はそれを良い事に当初中立を宣言し、付かず離れずどちらかといえばスウェーデン寄りに徹します。

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上がそのスウェーデン王カール12世(1682~1718)です。彼はスウェーデン第2王朝プファルツ朝3代国王で、若くして軍事的才能を発揮し、「北方のアレクサンドロス」の異名を持つ王様でした。(ご本人にとっては最高の賛辞だった事でしょうね。)

そのスウェーデン王カール12世はロシアとの戦いを有利に進めるため、しきりにオスマン帝国に同盟の打診を促します。理由は単純です。つまり、北はスウェーデン、南はオスマン帝国でロシアを挟み撃ちにしようという事です。また帝国内の主戦派も、スウェーデンと同盟してロシアをけん制すべきだという意見が多かったのですが、(これも理由は簡単です。いくらスウェーデンが強くても、国境を接するロシアと違って距離的にオスマン帝国と戦争になる危険は無いからです。)それでもアフメト3世は中立の姿勢を貫きます。

しかし状況は思わぬ事態から一変します。1709年にウクライナまで侵攻していたカール12世がロシアとの戦いに敗れ、なんとオスマン帝国に亡命してきたのです。カールとそのスウェーデン軍残存部隊はウクライナと接するオスマン領のモルダヴィアに逃げ込み、帝都イスタンブールに招かれたカールは再びアフメト帝に同盟を催促してきます。

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上の水色で示されたポーランド王国と、オスマン帝国との間に挟まれた明るい緑の枠で囲まれた地域がモルダヴィアです。(分かりにくくて申し訳ありません。汗)

さて、この大問題にアフメト3世は悩みました。

「このまま彼をわが国に居させればロシアは必ずわが領土に攻め寄せて来よう。といってスウェーデン王であるカールを国外追放すれば、スウェーデンを敵に回してしまう。いずれはロシアとの戦いは避けられぬのだから、ここは一戦してカールに恩を売っておいた方が先々何かと良かろう。」

カール12世より9歳も年長の彼はしたたかに計算し、それまでの方針を転換してスウェーデンとの同盟を決意します。一方オスマン帝国がスウェーデンと同盟した事を知ったロシアのピョートル1世は、1711年に攻撃の矛先をアフメト3世の予想通りモルダヴィアに向け、8万の軍を南下させます。これに対しオスマン帝国もロシアに宣戦を布告、10万の大軍でこれを迎え撃ちます。「プルート川の戦い」の始まりです。

戦闘は当時今だ精強を誇っていたオスマン帝国軍の精鋭部隊イェニチェリの活躍と、7月という季節に行われたために夏の暑さに不慣れなロシア軍将兵の士気の低下によって、オスマン軍の勝利に終わりました。(損害はオスマン軍約9千に対し、ロシア軍4800だったそうです。)

この戦い以後両国は講和条約を結び、オスマン帝国は「当面の間」ロシアとの戦争を回避する事に成功したのですが、これに不満だったのがスウェーデン王カール12世本人です。彼曰く、「もっと追撃してロシア軍を徹底的に叩くべきだった。」というのです。

カールは自分のスウェーデンへの帰国と本国のスウェーデン軍の建て直しが済むまでオスマン帝国とロシアを戦わせ、なるべくロシアを疲弊させておくつもりでいたのです。そんな彼の思惑を見抜いていたアフメト3世は、「良い様に利用されてなるものか。」といわんばかりに、この高貴ではあるが厄介な「お客人」とのこれ以上の関わりを避け、彼を丁重に宮廷から遠ざけてしまいます。結局カールは1714年に本国に帰国し、その4年後にノルウェーでの戦闘中流れ弾に当たって36歳の若さで戦死してしまいます。

一方ロシア問題を片付けて一息ついたアフメト3世のオスマン帝国は、態勢を立て直すために1714年に領土奪還の動きを見せます。それは先に述べた「大トルコ戦争」の敗北によりオーストリアその他の国と結ばされた1699年のカルロヴィッツ条約で、ヴェネツィアに奪われたギリシャのペロポネソス半島の奪還です。(上に載せた地図のギリシャ西岸の青い部分です。)

ヴェネツィアといえば、オスマン帝国にとっては小国ながらも巧みな外交戦略と強力な海軍力でオスマン帝国を向こうに回し、長く戦ってきた馴染みの宿敵でしたが、このヴェネツィア一国程度ならば、オスマン帝国の大軍で簡単に追い出せるはずであったからです。(理由はヴェネツィアが人口の少ない都市国家であり、終始一貫して陸軍が弱い事を知っていたからです。)

これに対しヴェネツィアも反撃に出ます。彼らはオスマン帝国によるペロポネソス半島再侵攻を受けると、しばらく防戦して時間を稼ぎ、その間に隣国オーストリアに救援を要請したのです。この要請を受けたオーストリアは1716年に再びオスマン帝国に宣戦を布告し、ここに「墺土戦争」(おうとせんそう、つまりオーストリア・トルコ戦争)が開戦します。

この墺土戦争は、オーストリア軍の名将オイゲン公の活躍によってオスマン軍はまたも敗退を重ねてしまいます。結局2年後の1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約で、オスマン帝国はボスニア北部、セルビア北部、ワラキア北部をまたもオーストリアに割譲する屈辱の敗北を喫してしまうのです。(しかし、オスマン帝国も当初の目的であったペロポネソス半島をヴェネツィアから奪い返す事に成功します。これはオーストリア軍がここまで侵攻して来なかったからです。結局この戦争で最も得をしたのはハプスブルク家のオーストリアでした。)

ここに至って、もはや誰の目にもかつて誰もが恐れた無敵のオスマン帝国が衰退期に入った事が明らかとなりました。そしてオスマン帝国の度重なる敗退は、西ヨーロッパ諸国、とりわけスペインに代わって大海洋王国へと急成長していたイギリスや、それに追いつけ追い越せと猛追するフランスにアフリカ、中東への領土的野心を芽生えさせる事になり、その後、オスマン帝国はこれらの敵とも長い戦いを強いられる事になっていくのです。

次回に続きます。

チューリップと皇帝 ・ かよわき花が一国を狂わせた

みなさんこんにちは。

18世紀初頭、東と西の大陸にまたがり、イスラム世界の覇者を自認していたオスマン帝国は、長くその脅威に怯えてきたヨーロッパ諸国、とりわけハプスブルク家のオーストリアの反撃と、凍てつく北の大地に興隆した新たな敵であるロマノフ朝ロシア帝国の出現により、軍事的敗退と領土の喪失が相次いでいました。

このオスマン帝国の度重なる敗北は、これらヨーロッパ諸国が剣と甲冑姿に代表されるそれまでの中世騎士道的な軍事編成から脱却し、身軽な軍装と大砲、銃火器を主要装備とする近代的軍隊編成に移行して、軍事力を質的に格段に強化させた事が大きな要因でしたが、一方でいち早くそれらを取り入れ、その集中活用による強大な武力で領土を拡大させていったオスマン帝国の方は、今や同等か、それ以上の軍事力を保有するに至ったこれらヨーロッパ諸国に対して、今後どの様に対応していくかが緊急の課題になっていました。


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上はバルカン地域のイベントなどで再現されているオスマン帝国軍の最精鋭であり、オスマン皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」の兵士たちの一斉射撃の様子です。

この軍事的パワーバランスの逆転は、その後のオスマン帝国の衰退をさらに深刻化させていく事になります。かつてオスマン帝国は、先に述べた様に周辺国がとても太刀打ち出来ない大量の大砲、銃火器をもって軍事遠征を繰り返し、周辺地域を手中に収めてきました。それに対し、それまでのヨーロッパ諸国などは、「軍」といっても王侯貴族の私兵や傭兵がその主力であり、当然軍隊の編成もバラバラで、大砲、銃火器も個別にそれらを持ち寄るという統一性を欠いたものでした。つまり、オスマン帝国の様に組織的に銃火器を集中運用してはいなかったのです。

しかし、今や時代は流れ、ヨーロッパ諸国は力を付け始めていました。これらの国々は幾多の戦いで経験を重ね、軍制を改革して装備も進歩させていったのです。そのため戦闘では必然的に互角の勝負になり、後は兵力の大小、兵の士気、指揮官の作戦指導力、食糧、武器弾薬の補給能力といったソフト面の差が戦闘を大きく左右し、これまで無敵を誇ってきたオスマン軍も敗北を重ねる事が多くなってしまったのです。

この時期に皇帝として君臨していたのはアフメト3世という人物でしたが、彼はこうした事態を踏まえ、軍はもちろん帝国の近代化のために西欧文化を積極的に取り入れていくよう奨励します。


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上がオスマン帝国23代皇帝アフメト3世です。(1673~1736)彼は1703年に即位してから十数年に亘ってロシア、オーストリアと戦い続けましたが、いずれも敗退が相次ぎ、帝国軍の力の限界を悟った彼は、バルカン半島の領土を大きく犠牲にしても両国と講和して共存していく道を選び、以後は平和外交政策に力を注いでいく様になります。

17世紀後半から18世紀初めまで30年近く続いたロシア、オーストリアとの戦争は、オスマン帝国を大きく疲弊させていました。とりわけ国家財政の悪化は著しく、アフメト3世はこの傾いた帝国の財政を早急に立て直す必要がありました。そのためには最も金のかかる戦争は極力避けなければなりません。彼が平和外交政策に転換したのは「お金」のためでもあったのです。


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上はトプカプ宮殿で外国からの使節団を謁見する皇帝アフメト3世です。(三角帽をかぶった西洋人はフランス、オーストリアなどの使節団です。)

アフメト3世は彼と同じ考えを持っていたイブラヒム・パシャを大宰相に起用し、その補佐を受けてヨーロッパ諸国の文化を積極的に取り入れていきます。特に皇帝が熱心だったのは西欧建築の分野でした。そこで皇帝の命を受けた大宰相イブラヒム・パシャはフランスに使節を派遣し、使節が持ち帰った建築資料を基に、それら西欧建築とイスラム様式を融合させた多くの建物が帝都イスタンブールに建設されていきました。


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上はこの時代に造られた「アフメト3世の泉亭」(せんてい)です。オスマン皇帝の居城であるトプカプ宮殿の正門前にある公共の水飲み場で、市民が誰でも自由に利用出来ました。外観は当時ヨーロッパで流行していた「ロココ様式」に、細かい彫刻とアラベスク模様のイスラム様式の装飾が施された見事なものです。

帝都イスタンブールは海の近くに築かれた街であるため、市民の生活に欠かせない飲料水は遠く離れた水源から引いて来るしかありませんでした。そのためこの街では、旧ビザンツ帝国の時代から市内の各所に巨大な貯水槽を設けていたのですが、オスマン帝国の時代になり、人口が増えるにしたがってそれらでは賄いきれなくなっていました。そこでアフメト帝は新たな水路と上の様な泉を各所に増設してこの問題を解決させました。

さらに画期的なのは、アフメト3世の時代にオスマン帝国で初めて「活版印刷」が始まった事です。それまで帝国では、皇帝や宰相らが決済する公的文書はもちろん、普通の書物まですべてアラビア文字による手書きでした。当然その書写には大変な手間と時間がかかり、そのため本は一部の裕福な特権階級の人々のみが所有出来る大変高価な貴重品でした。

しかし、これではもっと多くの一般の民衆に西欧文化や知識の普及を促す事は出来ません。そこでアフメト3世は、イスラム教に関する書物を除くそれ以外の書物の活版印刷を許可し、さらに印刷された書物の保管のために多くの図書館を建設させたのです。これにより大量の書物が帝国の一般の人々にも手に入り、オスマン帝国の人々の知識の普及と西欧化が促進されていく様になりました。

彼は治世の途中から周辺国との戦争を停止したので、軍事支出が大幅に減り、それまで逼迫していた帝国の国家財政は好転して黒字に転換、先の水路や図書館建設などの公共事業による建築ブームで帝国の経済は好景気となり、トプカプ宮殿では連日の様にアフメト3世主催の宴が盛大に催され、華やかな宮廷文化に人々は酔いしれました。


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上は当時のオスマン宮廷の晩餐会の様子です。皇帝を上座に招待された人々が、皇帝から振舞われるあり余るほどの酒と豪華な料理に舌鼓を打っているところです。(みんなムシャムシャおいしそうに食べてる姿が良く表現されていますね。笑)そしてその下が、当時のオスマン朝宮廷料理を再現したものです。この時代はヨーロッパの王侯貴族の宮廷においても銀の食器が多く使われていたので、招待客に配膳する給仕の人たちはきっと一皿一皿が腕にズシリと重たかったでしょうね。

この時、トプカプ宮殿の庭には、皇帝が好んで大量に植えさせていたある「花」が見事な大輪の花を咲かせ、訪れた人々の目を楽しませていました。その花とはみなさんも良くご存知の「チューリップ」です。


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このチューリップは、もともとオスマン帝国興隆の源であるアナトリア地方が原産で、人や動物を描いてはならないというイスラム教の教えによる制約から、その代償としてチューリップのデザインがモスクに多用され、皇帝や宰相以下帝国の支配階級の人々の衣服の模様にも使われるなど、トルコの人々にとっては馴染みの花でした。

やがて16世紀になり、オスマン帝国の勢力がヨーロッパ内陸部にまで達すると、それに付いて行くかの様に、このチューリップの花もヨーロッパに伝わります。(史実では、オーストリアのある外交官がオスマン帝国との和平交渉の際に持ち帰り、その形がトルコ人たちが頭に巻いていた大きなターバン(チュールバン)に似ていた事から、いつしかそれが転じてチューリップの名が付いたそうです。)

このチューリップはその後ヨーロッパ中の花愛好家に広まり、次第にその価値が上がってチューリップの球根が高値で取引きされる様になっていきます。そしてついに1637年、オランダで歴史上初めてという前代未聞の事態を引き起こします。世界最初のバブルといわれる「チューリップ・バブル事件」です。

事の起こりはその3年ほど前の1634年から始まります。当時オランダはスペインからの独立を果たしてネーデルランド共和国として独立、すでに海洋王国として世界の海に乗り出していたイギリスと並ぶ新興海洋国家として繁栄の絶頂期にありました。オランダでは海洋貿易で資産を築いた人々の間でも、富裕のステイタスシンボルとしてチューリップがもてはやされ、それに目を付けた一部の相場師たちが球根を買い占めて値を吊り上げ、素早く他者に転売する事で大儲けし、中には球根1個と豪邸一軒を交換した者までいたほどでした。

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上は大海に乗り出してゆく当時のオランダ艦隊です。

しかし、たかが一輪の花にこんな無茶な取引がいつまでも続くはずがありません。3年後の1637年に、オランダではチューリップの球根の価格が原価の100倍にまで高騰し、ついに買い手がつかなくなってしまいます。誰も買わない(というより高すぎて買えない)のですから、持っていても転売する事が出来ません。ほとんどの人々は借金をしてそれを元手に球根を売り買いしていたため、このままではその借金の返済期限が来てしまいます。

売れなければ当然その借金を返済する事は出来ません。そこで彼らは大慌てで球根を売り払おうと損失覚悟で一斉に安値で大量の売り注文を出し、チューリップの価格は暴落してしまいます。バブル崩壊です。(これは一度でも株式投資で損をされた事がある方ならば、痛いほど良く理解出来るのではないでしょうか? 笑)

この大騒動で3千人以上の人々が債務不履行に陥り、オランダ国内各都市は大混乱に陥ってしまいました。結局この騒動は、オランダ政府の介入によって大半の人々が債務帳消しとなったために終息して行きましたが、この小さなかわいい花が一国の人々を狂わせ、大混乱に陥らせた事は事実です。

このチューリップ・バブルはアフメト3世の時代からおよそ90年も前の事であり、オランダと違ってチューリップの供給国であったオスマン帝国では、この様な事態は起きませんでしたが、皇帝以下当時のオスマン帝国の人々は、つい近年までバルカン半島や黒海で負け戦が続き、領土を奪われた憂さを晴らすかの様に、宮殿の庭一面に咲き乱れるこの可愛らしい魔性の花を眺めながら「この繁栄がいつまでも続いて欲しい。」と願っていた事でしょう。

アフメト3世の治世の最後の10年間は、オスマン帝国が一時的に繁栄を取り戻した中興の時期であり、アフメト3世の時代は彼が愛したチューリップの花にちなんで「チューリップ時代」と呼ばれています。しかし皇帝が願った帝国の繁栄は、チューリップの花が咲き、そして枯れるのと同じくらいに短く儚い夢で終わりつつあったのです。

次回に続きます。

苦悩するオスマン帝国 ・ 露土戦争と黒海争奪戦

みなさんこんにちは。

時は1730年、およそ12年余り続いたオスマン帝国の束の間の「チューリップの繁栄」は終わりを迎えようとしていました。当時のオスマン帝国皇帝アフメト3世は西欧文化を積極的に取り入れ、軍事費を削減して度重なる戦争で逼迫していた帝国の財政を一時的に立て直し、浮いたお金を図書館、学校、水路などの公共建築物の建設に費やして帝国内の経済を大いに活性化させたのですが、皇帝のこうした政策が、一部の厳格なイスラム保守層には「浪費」と捉えられ、そうした保守グループによって密かに反乱が企てられていました。

やがて同年、ついに恐れていた事態が発生してしまいます。皇帝の親衛隊であるイェニチェリの元将校パトロナ・ハリルがクーデターを決行、彼に率いられた反乱軍は帝都イスタンブールを占領、皇帝の右腕であった大宰相イブラヒム・パシャを捕えて処刑し、皇帝アフメト3世に退位を迫ったのです。

皇帝は事態の沈静化のために彼に従い、退位してトプカプ宮殿の一画に幽閉されてしまいます。(その後、彼は幽閉されたまま6年後の1736年に亡くなります。)代わって新たな皇帝として反乱グループに擁立されたのは、先帝の甥に当たるマフムト1世という人物でした。


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上がオスマン帝国24代皇帝マフムト1世です。(1696~1754)彼は先帝アフメト3世の兄で、第22代皇帝ムスタファ2世の子であり、本来帝位は彼が継承するのが順当でしたが、父帝が崩御した時にまだわずか7歳の子供であったため、当時ロシアとの戦争が続いていた帝国の現状を考慮し、皇帝の親衛隊であるイェニチェリら帝国軍部は、叔父であるアフメト3世を皇帝に据えたという経緯がありました。

それまでオスマン宮廷でも忘れられた存在で、それを良い事に宮殿内でのんびり暮らしていたのに、思いもよらず帝位の「お鉢」が回って来たマフムト1世は、慌てて帝位を継承すると、当初は彼を擁立した反乱軍の首謀者パトロナ・ハリルらの好きにさせていましたが、実は以外にもしたたかな人物でした。

彼はしばらくの間は反乱グループの言いなりになる「傀儡皇帝」のふりをして油断させ、その裏で密かにかつての「チューリップ時代」を懐かしむ賛同者たちを集め、彼らを重用する事を条件に反乱鎮圧の機会をうかがっていたのです。そして翌1731年にその極秘計画が実行に移されます。彼らのたくらみは見事に成功し、寝込みを襲われたパトロナ・ハリルら反乱首謀者たちは捕えられ、処刑されてしまいます。こうして反乱を鎮圧したマフムト1世は、今度は名実共に完全に帝国の実権を握ったのです。

実権を握ったマフムト帝は、叔父の先帝が推進してきた西欧化と改革を継承し、特に西欧諸国に比べてその遅れが顕著になりつつあった軍事面での改革に取り組み、フランスから有能な将軍クロード・ボンヌヴァルを迎え入れると、彼を教育総監としてフランス式軍事教練を取り入れました。

その矢先の1735年、早くも戦雲が帝国に迫って来ます。オスマン帝国とロシア・オーストリアとの間で、再び戦争が勃発したのです。この戦争は1739年まで4年間続きましたが、オスマン軍は先の西欧式軍事改革が功を奏してかロシア・オーストリア軍を撃退し、オーストリアに対しては逆に奪われたベオグラードを奪還するなどの成功を収めました。

これ以後、彼は戦争を控え、ひたすら国力の回復に努めるのですが、帝国の現状は深刻なまでに悪化していました。皇帝の親衛隊であるイェニチェリの腐敗は進み、(具体的には、金欲しさに戦死したイェニチェリの兵士を生存扱いにして、その「幽霊兵士」の給料を着服するなど。)さらに度重なるクーデターの度に中央政府の統制が緩んだ隙に、地方の有力者たちが、自立した独自の支配権を確立していくなど、帝国の弱体化が進んでいきました。

皇帝マフムト1世は、こうした帝国の現状を憂いつつ1754年に心臓発作で崩御。帝位は弟のオスマン3世が継承しますが、その彼もわずか3年で亡くなり、オスマン帝国は漂流し続けていきます。

一方そんなオスマン帝国を尻目に勢力拡大を続ける北の大国がありました。ロマノフ朝ロシア帝国です。当時ロシアは長くオスマン帝国の支配下にあった黒海への野心をあらわにし、幾度となく戦いを仕掛けてオスマン帝国を悩ませていました。そしてこの時期に、そのロシア帝国の支配者であったのが女帝エカテリーナ2世です。


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上がそのエカテリーナ2世です。(1729~1796)彼女はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝8代皇帝で、元は7代皇帝ピョートル3世の皇妃でしたが、その彼の頼りなさに愛想を尽かし、夫を廃位して自ら皇帝となった男勝りの女性です。

エカテリーナ2世率いるロシア帝国は、それまでにウクライナを支配下に置き、冬にも凍らない港、いわゆる「不凍港」を求めて黒海に南下する「南下政策」を進めたという話は、歴史好きの方であればよく知られた話でもあると思います。しかし、そのためにそれまで黒海の支配者であったオスマン帝国との間で、1568年の最初の両国の開戦から、1918年の第一次大戦終結までの350年間に、なんと通算12回も戦争をしている事はあまり知られていません。

この宿敵ロシアとの戦いは、先に述べた様に黒海周辺で行われ、オスマン帝国歴代皇帝たちを大変悩ませました。なぜならその歴史は、オスマン帝国にとって敗退の連続と、少しずつロシアに領土を奪われていく屈辱の歴史であったからです。

その因縁深いロシアとオスマン・トルコとの間で1768年、再び戦争が勃発します。第6次露土戦争と呼ばれるものです。事の起こりはロシアから追われたポーランド人たちがオスマン領内に逃げ込み、それを追ってロシア軍の追跡隊が無断でオスマン領に攻め込んだ事がきっかけでした。

しかし、この戦争でロシアのエカテリーナ2世が差し向けた軍勢は最大2万程度と、これまでの数ある戦いの中ではさほどの大軍でもないのに、その3倍以上の兵力を動員したオスマン軍はまたしても敗れてしまいます。戦争は膠着したまま6年が過ぎますが、1774年にわずか8千のロシア軍が、4万を越えるオスマン軍を撃破すると、それ以上のロシアの南下を押しとどめるため、時の26代オスマン皇帝ムスタファ3世はロシアとの講和条約を調印せざるを得なくなってしまいました。


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上がその時の条約でオスマン帝国がロシアに割譲した地域です。(赤と緑のストライプの地域)さらにこの敗北で、オスマン帝国は長くその属国としていたクリミア・ハン国(緑と黄色のストライプの地域)の支配権を放棄させられ、事実上クリミア地域を失ってしまいます。一方ロシアは念願の黒海進出を果たし、「黒海艦隊」の新設と、オスマン帝国の帝都イスタンブールの眼下に広がるボスポラス海峡の通行権を得て、その先の地中海進出を目論むほどの見返りを手にする事に成功します。

これに味を占めたロシアのエカテリーナ女帝は、この地域におけるロシアの支配をさらに強めるため、彼女の愛人であったグリゴリー・ポチョムキンを黒海沿岸の総督に任命し、ポチョムキンは女帝の許可を得て、1775年にクリミアに軍を差し向け、これを力ずくで併合してしまいます。


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上がクリミアのセヴァストポリの現在の様子とその位置です。(人口36万)現在2014年時点において、この地域はロシアとウクライナでその帰属を巡って激しい応酬(というより戦闘)が繰り広げられているのは、海外ニュースでみなさんも良くご存知と思います。

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そして上がロシア帝国黒海方面軍司令官にしてクリミア総督のグリゴリー・ポチョムキン公爵です。(1739~1791)彼は先に述べた様に、女帝エカテリーナ2世と公然と愛人関係にあった人物で、女帝の寵愛を後ろ盾にとんとん拍子に出世していきます。彼の主導により、クリミアを含む黒海沿岸の地域のロシア化が進められ、黒海沿岸の豊かな産物とウクライナ穀倉地帯の膨大な小麦が、ロシア帝国の大きな財源となるのです。

余談ですが、現ロシア連邦のプーチン大統領のクリミア併合宣言も、狙いはこれらの豊かな資源の獲得が大きな目的でしょう。ロシアという国は、国民に日々の糧をもたらす産業といえば、農林漁業と鉱業すなわち原油・天然ガスの採掘といった一次産業が圧倒的に多く、また近年アメリカで大々的に商業生産が開始された「シェールオイル」が市場に出回りだしたために、これまでロシアにとって最大の稼ぎ頭だった原油が売れなくなり、それはすぐにロシア国民に「失業」という形で痛い影響を与えるからです。失業者が増えれば国民の不満は当然指導者であるプーチン大統領に向けられ、次の大統領選で彼は落選してしまうでしょう。プーチン大統領としては、ロシア国民を食べさせて自らの政権を維持していくためにどんな手段を使ってもこのクリミア周辺地域を手に入れ、黒海周辺の豊かな産物と、それらを得るための労働力として国内の失業者をこの地域に振り向けたかったのでしょうが、どうもそのやり方は、まるでかつての満州事変におけるわが関東軍の様ですね。

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プーチン大統領は柔道の有段者(なんでも8段とか。彼が実演した柔道の動画があるほどです。)で、大変な親日家である事から、日ロ両国の戦後70年来の懸案である「北方領土問題」の進展がわが国にとって最大の関心事ですね。上の写真はプーチン大統領と安倍首相です。秋田県の佐竹知事から東日本大震災の支援のお礼として、犬好きのプーチン大統領に贈られた秋田犬のメス犬「ゆめ」が安倍首相を出迎えています。日ロ両国の関係は彼女にかかっているのでしょうか?(笑)

さて、このロシアの勝手な黒海政策に対し、怒ったのは元の支配者である我らがオスマン帝国です。先の講和条約で、オスマン帝国はクリミアの支配権を放棄したものの、ロシアにクリミアをくれてやるとは一言も書いていないからです。

「これは明らかに講和条約違反だ!」

オスマン帝国内部ではロシアに対する強硬派が激怒し、時の27代皇帝アブデュルハミト1世は1787年、彼ら強硬派に押される形でロシアに対し宣戦を布告します。第7次露土戦争の開戦です。

この戦争において両国が動員した兵力は双方それぞれ10万程度とほぼ拮抗していましたが、残念ながらオスマン軍はせっかく西欧式の訓練を受けた兵士たちが奮闘しても、上層部の将軍たちの無能かつ無謀な作戦指導により、またもロシア軍に敗れてしまいました。

4年後の1791年12月末、ブルガリアのヤッシーにおいて、ロシア・トルコ両国の間で講和条約が結ばれ、オスマン帝国はクリミアのロシア併合を認めさせられ、さらに新たな領土をロシアに奪われてしまいます。(ヤッシー条約)

この2度の露土戦争は、それまで拮抗していたロシア帝国とオスマン帝国の力関係を大きく逆転させる事になりました。ロシアは一連の勝利で得た黒海沿岸の新領土から得られる多くの農産物によって、国内の食糧自給を十分に満たし、それでもあり余るこれらの農産物を西ヨーロッパ諸国に輸出して莫大な外貨を獲得する事が出来るようになり、ロマノフ王朝は世界屈指の財力を持つ王家へと急成長を遂げて行きます。黒海沿岸にはこれらの農産物を積み出すための港湾都市が次々に建設され、帝国を支えていく様になります。

それに引き換え敗れたオスマン帝国の凋落振りは目を覆うものがありました。一連の敗北でオスマン帝国は黒海の制海権を完全に失い、事実上黒海そのものをロシアに奪われたも同然だったからです。

このロシアとオスマン帝国の因縁の対決はその後も120年以上続き、両国の黒海争奪戦はさらに5回も行われるのですが、結果はその多くがオスマン帝国の敗北に終わっています。もはやヨーロッパ列強諸国は、かつてあれほど恐れたオスマン帝国に対して微塵の脅威も抱かなくなっていました。そしてその事実は、フランスからやってきたある一人の「英雄」の登場によって、リアルに現実のものとなってオスマン帝国を脅かしていく様になるのです。

次回に続きます。
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