ドラキュラとの戦い ・ トルコも恐れた串刺し公

みなさんこんにちは。

千年続いたビザンツ帝国を滅ぼし、その都であったコンスタンティノープルに帝都を移したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、新たに手に入れたこの街をイスラムの都にふさわしい街に造り変えるため、様々な手段を講じて街を建て直し、それによりかつてコンスタンティノープルと呼ばれていたこの街は、オスマン帝国の帝都「イスタンブール」と名を変えて昔日の繁栄を取り戻しつつありました。

しかし、この若い皇帝の野望はそれだけでは収まりませんでした。彼はその後も東西に活発な征服活動を続けていき、さらに帝国の領土を拡大していくのですが、その第一段階におけるバルカン半島征服において、その強大さと勇猛果敢さでヨーロッパ諸国に恐れられたオスマン軍将兵ですら震え上がったある「人物」が立ちふさがり、メフメト2世率いるオスマン帝国に計り知れない心理的恐怖を与える事になりました。 今回はその辺りのお話です。

1453年にコンスタンティノープルを攻め落とし、ビザンツ帝国を滅ぼしたメフメト2世は、先に述べた新たな帝都イスタンブールの建設を進めながら、次の征服先をどの方面にするか思いあぐねていました。


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上がオスマン帝国7代皇帝メフメト2世です。(1432~1481)上の画像はイラストですが、きっとこんな風に酒を飲みつつ、建設中のイスタンブールで海を眺めながら思いをめぐらせていた事でしょう。(自分の勝手なイメージです。笑)

彼には2つの征服先がありました。1つ目は西のヨーロッパ方面、そして2つ目はオスマン帝国発祥の地アナトリアと、その先に広がるアジア方面です。当時西のヨーロッパ方面は、セルビア、ブルガリアなどを属国として従えていたものの、アルバニア、ボスニア、ワラキア、モルダヴィアなどといったそれ以外のキリスト教諸国は今だオスマン帝国に服属していませんでした。そしてそれらの諸国を背後から操り、オスマン帝国との防波堤、いわば「盾」として戦わせていたのがさらにその北方の強国ハンガリー王国でした。


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上がこの頃のハンガリー王国の勢力範囲です。バルカン半島支配とさらなるヨーロッパ進出を目論むオスマン帝国にとって、ヨーロッパ方面における第一の敵国はこのハンガリーでした。

さらに東へ目を転ずれば、アナトリアにはオスマン帝国にとって古くからのライバル国であるカラマン君候国と、黒海沿岸には旧ビザンツ帝国の「親戚国」ともいうべきトレビゾンド帝国があり、その背後にはそれらを支援し、現在のイラン、イラク一帯に強大な勢力を誇った「白羊朝」と呼ばれる大国がひかえていました。

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上がその「白羊朝」(ホワイトシープ朝)の勢力範囲です。この白羊朝という国家については、イスラム世界の歴史に詳しい方を除いては、日本でご存知の方は非常に少ないと思いますが、1378年ごろに当時この地域に大勢力を振るっていたティムールの下で、それに従って力を蓄え、ティムールの死後はライバルであった「黒羊朝」(ブラックシープ朝)を倒してその領土を乗っ取り、(上の図の赤い部分です。)ティムール朝の混乱に乗じて勢力を拡大して、最盛期の王であるウズン・ハサン(1423~1478)の時代には、上の様にオスマン帝国を大きく脅かす存在にまでなっていました。

メフメト2世はオスマン帝国を取り囲むこうした諸々の事情を考慮した結果、まずは西のヨーロッパ方面を征服し、アジア方面はそれが一段落してから随時遠征を行う事に決します。

彼は1456年7月、バルカン半島全域征服を目指し、セルビア北部の要衝ベオグラードを攻撃します。この街を取れば、オスマン軍はバルカンはおろか中央ヨーロッパにまで侵攻する事が出来るのです。しかしここで彼らは、ベオグラードを守るために待ち構えていたハンガリーの摂政フニャディ・ヤノシュ率いる防衛軍によって手痛い損害を受け、多くの兵を失って撤退を余儀なくされてしまいます。


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上の1枚目がベオグラードの位置で、(赤く示されている範囲が現在のセルビア共和国で、ベオグラードは同国の首都です。)2枚目がベオグラードを守り抜いたハンガリー摂政フニャディ・ヤノシュです。(1386?~1456)彼はハンガリーの王ではありませんでしたが、同国最大の力を持つ大貴族で、彼とその息子で後にハンガリー王となるマーチャーシュ1世(1443~1490)の親子2代50年余りは、ハンガリー王国が最も強大であった時期です。

このベオグラード攻略の失敗がオスマン軍に与えた衝撃は大きかった様で、以後オスマン帝国はメフメト2世のひ孫であるスレイマン1世の時代まで65年もの長い間、ハンガリー侵攻を断念せざるを得なくなります。

しかしベオグラード攻略には失敗したものの、それは局所的な敗北に過ぎず、オスマン帝国によるその他のバルカン地域の征服は比較的順調に進んでいました。1459年にはベオグラード以南のセルビア領を支配下に置き、1460年までに旧ビザンツ帝国の遺領である全ギリシアを征服、1463年にはボスニア王国を滅ぼします。

メフメト2世はここで東に目を向け、1461年に先に述べた白羊朝の支援を受けていたビザンツの最後の後継国家トレビゾンド帝国に侵攻、最後の皇帝一族を捕えて処刑し、これを滅ぼします。


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上の地図の右下、黒海の最も奥の赤枠で示された一帯がトレビゾンド帝国です。(分かりにくくてすいません。汗)この国家は1204年の第4回十字軍で、西欧諸国の謀略によりドサクサに紛れて一度だけ帝都コンスタンティノープルが陥落した際に、当時のビザンツ帝国の皇帝家であったコムネノス王朝がこの地に亡命政権を打ち建てて出来た国です。「帝国」とはいっても規模は小さいながら、黒海の豊かな産物と東西交易から上がる収入を背景に周辺国としたたかに渡り合い、生き延びてきた国でした。しかし今度ばかりはその命運も尽き、ついに滅亡の時を迎える事になりました。いずれにせよこのトレビゾンド征服により、旧ビザンツ帝国の勢力は名実共に完全に滅び去ってしまいました。

このトレビゾンド征服は背後の白羊朝の王ウズン・ハサンを怒らせ、メフメト2世と彼は後に対決する事になるのですが、それは後に譲る事にして、そのメフメト2世の征服事業を大きく狂わせる一人の人物が、バルカン半島にその存在をあらわにしました。その人物の名はワラキア公ヴラド・ツェペシュ、後に「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなる男です。


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上がそのワラキア公ヴラド・ツェペシュです。(1431~1476)すごい強烈なインパクトのある顔の人物ですね。(笑)彼はわが国では、先に述べた「ブラド・ツェペシュ」の名で歴史好きな方には知られていると思いますが、正式にはワラキア(現ルーマニア)公ヴラド3世といい、ツェペシュというのは現地のルーマニア語で「串刺しにする者」という意味で、いわばニックネームとして付けられているのだそうです。

彼について今回取り上げたのは、歴史に残忍な王侯貴族は数あれど、その中でもこの人物が群を抜く残忍さで敵味方双方に恐れられた「恐怖の王」であり、その血まみれの生涯が、誰もが知る世界で最も有名な怪奇フィクションである「ドラキュラ」のモデルになった点に興味を引かれたからです。

このヴラド公は1431年、ワラキア公であった父ヴラド2世の次男として生まれました。この年、父2世は神聖ローマ皇帝からドラゴン騎士団の騎士に任ぜられ、「竜公」(ドラクル)と呼ばれる様になり、その子である彼は「ドラクレア」と呼ばれ、これが先に述べた小説「ドラキュラ」の語源になったのは容易にご想像が付くと思います。

しかし当時のワラキア公国はハンガリー王国とオスマン帝国の2大勢力に挟まれ、絶えずその影響に翻弄される小国でした。ヴラド3世も少年時代から弟ラドゥと共に両国に人質に出されてしまいます。その間に打ち続く戦乱、さらに父や兄を殺されるなど、少年時代から殺戮を目の当たりにして成長した事が、その後の彼を人々から恐れられる恐怖の王へと醸成していく事になります。

彼は成長すると1456年に25歳でワラキア公になります。(その彼を支援したのが、ベオグラードでメフメト2世の大軍を撃退したハンガリー摂政フニャディ・ヤノシュでした。)ワラキア公となったヴラドはこれまでの経験から、貴族たちに頼らない自分直属の軍勢を組織し、領内の貴族たちを次々に制圧して自分一人に権力を集中させます。(伝説ではヴラド公は貴族たちに和睦を申し入れ、その証として開いた酒宴の席で、油断した彼らを皆殺しにしたそうです。)その時に彼が使った手段が、例のニックネームに表される彼に歯向かう者への「串刺し」に代表される恐怖支配です。


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上の絵は当時描かれた絵です。この「串刺し」という処刑法は、非常に凶悪な重罪人で、かつ身分の低い者にのみ行われたものでしたが、彼はこの串刺しを貴賤の区別無く行い、見せしめとして盛んに国中にさらしていきます。

「ヴラド公は自分に歯向かう者を好んで「串刺し」にし、その串刺しの林を眺めながら食事を楽しんだ。」

彼の残忍な支配は、当時発明された活版印刷によって上の様なヴィジュアルな形で表現され、大量に印刷されてヨーロッパ中に盛んに宣伝されました。(実際に彼がこの様に食事していたか定かではありませんが、西欧には誇大に伝えられていった様です。)

他にも、疫病や伝染病の蔓延を防ぐため、病人や貧民、かつてジプシーと呼ばれた放浪の人々を一ヶ所の建物に集め、火を放って建物ごと焼き殺したなどという話も伝わっています。真偽は定かではありませんが、500年以上も連綿と語り継がれているからには事実なのでしょう。いずれにせよかなり冷酷非道な怖い王であったのは本当の様です。

それにしても、なぜ彼はこの様な残忍な方法で人々を恐怖に落としいれたのでしょうか? それは彼の国ワラキアが、オスマン帝国をはじめとする周囲の国から侵略されないようにするための、いわば「血まみれのパフォーマンス」でした。

思うに戦の勝敗というのものは、大軍で相手を圧倒すれば必ず勝てると決まっているものではありません。どこそこに遠征するとかを自由に決めるのは王や皇帝でも、実際に戦うのは末端の将兵たちです。その敵の将兵たちを戦う前から怖がらせて士気を削ぎ、敵兵を心理的パニックで総崩れに追い込む事が彼の狙いでした。

1459年、メフメト2世はこの恐怖の王ヴラド3世に対し、オスマン帝国への貢納金の支払いを迫ります。貢納金を支払うという事は、つまりオスマン帝国の属国になるという事です。ヴラド公はこれに怒り、メフメトの使者を得意の「串刺し」にして処刑してしまいます。

怒ったのは当然メフメト2世です。彼は1460年に大軍を率いてワラキアに侵攻し、ヴラド公を追い詰めようとしますが、ここで彼の駆使した少数の兵によるゲリラ戦や、焦土作戦によって苦戦を強いられます。メフメト2世は圧倒的な物量と財力にものを言わせ、大軍で攻め込んだのですが、ヴラド公は配下のワラキア軍2万を分散させ、いつ果てるとも知れないゲリラ戦に持ち込んでオスマン軍を悩ませます。そしてヴラド率いるワラキア軍の攻撃を受けたオスマン軍部隊の後に残されるのは、あの串刺しにされたトルコ兵たちの姿でした。

このヴラド公の作戦はオスマン軍に前述した様な大きな心理的恐怖を与え、メフメト2世はワラキア攻略を一時中断して本国に撤退してしまいました。

ここまではヴラド公の計算通りでした。彼は当時最強のオスマン帝国軍をはるかに少ない軍勢で見事に撃退し、彼の軍勢は一時4万にまで膨れ上がったのです。しかし彼は人々を恐れさせ過ぎました。ヴラド公のあまりの恐怖支配に対し、それまで彼を恐れて服属していたワラキアの貴族たちや民衆が次第に離反して行きます。そんなワラキア情勢を素早く逆手にとって反撃に転じたのがメフメト2世です。

メフメトは人質としてオスマン帝国にいたヴラドの弟ラドゥを新たなワラキア公に推挙し、ヴラドの下を離反したワラキア貴族たちを味方にしてヴラド公を追放する事に成功したのです。彼はその後北部のトランシルヴァニアに落ち延びますが、その地でハンガリー王マーチャーシュ1世に捕えられ、12年もの間幽閉されてしまいます。(「幽閉」といっても、ハンガリー王から大きな城を丸ごと与えられ、監視付きではあっても外出は自由で、何の不自由もなかった様です。)

やがて彼は釈放され、1476年に再びワラキア公に返り咲くのですが、再度侵攻したオスマン軍との戦いでついに命運尽き果て、戦死してしまいました。しかし、かつてヴラド公の恐怖支配に苦しんだワラキアの人々は彼の死を信じられず、再びこの様な恐ろしい王が生き返らないよう、ヴラドの遺体の胸に太い鉄の釘を打ち込んだそうです。


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このヴラド・ツェペシュの恐怖の物語は、彼の話を基に上に載せた19世紀末のイギリスの作家ブラム・ストーカー(1847~1912)によっておどろおどろしく創作され、「吸血鬼ドラキュラ」として出版されて誰もが知るドラキュラ伯爵のモデルになったのは前述した通りですが、今日のルーマニア本国では、このヴラド3世はオスマン帝国の脅威に敢然と立ち向かった英雄として評価され、彼に対する残忍な言い伝えは、当時のハンガリー王らが意図的に彼を悪者に仕立てるために誇大に捏造されたものであるとして修正する動きがある様です。

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上はヴラド3世の居城であったブラン城です。

ヴラド・ツェペシュは今日では、なんといってもあの「ドラキュラ伯爵」のモデル、そしてルーマニアが世界に誇る最も有名な人物としてその名を刻み、上に載せた彼の居城ブラン城には世界中から多くの観光客や「ドラキュラファン」が後を絶たず、ルーマニアで最大の人気観光スポットになっています。(当地の観光収入も相当大きいでしょうね。)かつて恐怖で人々を支配した彼は、今日では思わぬ形で人気者(?)となってルーマニアに大きく貢献しているのです。

みなさんもヨーロッパに旅行される機会があれば、フランスやイタリアといった王道の西ヨーロッパ諸国だけではなく、バルカン半島や東ヨーロッパ諸国を訪ねられてみてはいかがでしょうか? そしてもしルーマニアに行かれる事があれば、ぜひこのブラン城も訪ねて見ましょう。もしかしたら、上の様なドラキュラ伯爵が出迎えてくれるかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。

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ローマへの道 ・ 夢に終わったイタリア征服

みなさんこんにちは。

「串刺し公」として恐れられたワラキア公ヴラド3世に勝利したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、1462年にワラキア(現ルーマニア)を属国とすると、バルカン半島のほぼ全域を支配下に収めました。この時点で彼は、セルビア、ブルガリア、ワラキア、ボスニアを従え、これまでそれらの小国を背後から操り、オスマン帝国と戦わせていた北の強国ハンガリー王国も、メフメト2世の巧みな戦略により本国の防衛に集中するのが精一杯で、もはやこの地域でオスマン帝国に敵対する有力な勢力はほとんど排除されていました。

メフメト2世が、次の征服先をヨーロッパ方面とアジア方面の2方面に分けていた事は前回お話しましたが、その第一段階としてのバルカン半島支配がほぼ達成出来た事により、彼はこれを転換点として作戦の第二段階に入ります。それはアジア方面に軍を差し向け、これを機に背後の敵対諸国を完全に制圧してしまおうというものです。

当時オスマン帝国のアジア方面には、帝国の発祥地であるアナトリアに、オスマン帝国建国以来の古くからのライバル国であったカラマン君候国が今だ健在で、その先のイラン、イラク地域にはこれを支援する大国「白羊朝」が、隙あらばオスマン領に侵攻すべく虎視耽々と狙っていました。


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上がその「白羊朝」の勢力範囲です。(1460年頃)隣に現在のアフガニスタンを中心としてティムール朝がありますが、ティムールの子孫たちはそれぞれに独自の王国を打ち建てて次第に自滅してゆき、この時期は規模が大きく縮小していました。

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この白羊朝の最盛期を築いた王が、上に載せたウズン・ハサン(1423~1478)という人物で、この王との対決が、遠征の第二段階における最大の目的でした。

また現在のシリアからエジプトにかけては、マムルーク朝エジプト王国というこれも強大な大国があり、紅海経由で運ばれるインドからの香辛料貿易から上がる莫大な収入を背景に、常に相争うイスラム世界の国々とは一線を画した繁栄を続けていました。


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上がそのマムルーク朝エジプト王国の勢力範囲です。この王朝は別名「奴隷軍人王朝」と呼ばれ、もともとは先代王朝であったアイユーブ朝において、戦時に死んでも困らない奴隷たちを兵士として組織された軍団が、その武力を背景にして1250年にアイユーブ王家を簒奪して(つまり乗っ取って)築いたとてもユニークな王朝です。この王国はイスラムの聖地メッカをその支配下に置き、先に述べた香辛料貿易で巨万の富を得ていました。

これらの敵のうち、メフメト2世がまず狙ったのは最も勢力の小さいカラマン君候国でした。白羊朝とマムルーク朝のどちらに侵攻するにも、その通り道にあるカラマンを征服しなくてはその先には進めないからです。彼はこの国の最終的併合を目指して1466年にカラマンに攻め入り、同年中に首都コンヤを攻め落とし、カラマン君候国を完全に滅亡させます。

これに怒ったのが白羊朝のウズン・ハサンです。彼は対オスマンの「道具」として支援していたカラマン君候国が敗れ、その領土がオスマン帝国に奪われた事に危機感を覚え、新たな作戦を考える必要に迫られます。そこで彼が思いついたのが、東地中海においてオスマン帝国と利害が衝突していたイタリア最大の海洋都市国家ヴェネツィア共和国との同盟です。

ウズン・ハサンは強力な海軍を持つヴェネツィアと同盟する事で、オスマン帝国を挟み撃ちにしようとしたのです。ウズン・ハサンが最も欲しがったのは当時最新の西欧の大砲でした。そこで彼は1472年、ヴェネツィアに大量の大砲の発注を依頼します。しかし、彼のこの企みは、すでにメフメト2世に見抜かれていました。メフメト2世は先手を打って艦隊に命じ、白羊朝に大砲や弾薬を供給するヴェネツィア船舶を徹底的に拿捕してしまい、その結果ウズン・ハサンは不十分な軍備でオスマン軍と戦う事を余儀なくされてしまいます。

1473年、オスマン軍と白羊朝軍はアナトリア東部で大規模な会戦に踏み切ります。しかし剣と弓槍の歩兵や騎兵中心の白羊朝軍に対し、オスマン軍は鉄砲隊と大砲を駆使した「機械化部隊」による圧倒的な火力にものをいわせて圧勝し、ウズン・ハサンは敗れてしまいました。(その後、メフメト2世とウズン・ハサンとの間で講和条約が結ばれ、両国はユーフラテス川を国境線とする事で停戦します。)

この戦いの敗北によってウズン・ハサンは大きく権威を失墜してしまい、今まで彼に力で従わされていた各勢力が一斉に反乱の火の手を上げ、それどころか身内の王族までこれに加担して彼を悩ませます。そして1478年にウズン・ハサンが亡くなると、彼の王子たちは王位をめぐってたちまち内戦をはじめ、白羊朝は成立から100年余りで崩壊していきました。

こうして白羊朝に大打撃を与え、当分の間彼らのオスマン帝国への軍事行動を封じ込めたメフメト2世は、次の目標を黒海に向けました。目的は黒海とその沿岸でしか手に入らない豊かな産物を手に入れる事と、これらをヨーロッパ諸国に売りさばくための交易ルートの確保でした。


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上の図はメフメト2世が即位した当時のオスマン帝国の領土です。この時すでに帝国は黒海の半分を手に入れていましたが、メフメト2世はこの海を完全に我がものとする事を狙いました。(ちなみにこの「黒海」という名の由来は、海水の成分に鉄分が多い理由から、海水が独特の「黒み」をおびているからだそうです。)ここで黒海の産物の代表的なものを下にご紹介しましょう。

キャビア(ロシア産ベルーガ)

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黒海といえば、なんといっても1枚目の「キャビア」が有名ですね。チョウザメという魚の卵であるというのは、一般知識としてご存知の方も多いと思います。ちなみに自分も人生で一度だけこれを食べた事があります。といっても自分で買ったわけではなく、10年ほど前に自分の少年時代からの古い友人で商社勤務の者が、この地域に海外出張するというので、「買って来てくれ。」と冗談に言ったら、本当にお土産に買って来てくれたのです。値段はジャムのビンくらいの大きさで、日本円で1万円ほどだったとか。おかげでこちらも見栄を張ってしまい、彼に寿司とうなぎをおごる羽目になりましたが・・・(笑)

さてそのお味は? というと、はっきりいって「少し小粒の黒いイクラ」と言いましょうか、食感はそんな感じで大差はありませんでした。おいしいかどうかは食べ方や人によると思いますが、個人的には「1度食べたら十分かな。」と思いました。ただ普通の赤いイクラよりもかなりしょっぱいので、食後に喉が渇きます。

2枚目はクロテンの毛皮です。クロテンとはイタチの仲間で、その手触りの良い美しい毛並みは高級毛皮のなかでも最高級品といわれています。わが国でも平安時代には、かつて中国東北部にあった渤海から朝廷に献上されていたものです。高級毛皮といえば、同じくイタチの仲間で「ミンク」の毛皮が有名ですが、こちらはほぼ世界中に生息していて数が多く、価格はクロテンよりも安いそうです。これは良質なクロテンがロシアなどに生息が限定されており、その希少性の差が価格に表れている様です。

3枚目は小麦です。特に黒海北部に広がるウクライナの大穀倉地帯は温暖な気候と肥沃な大地に恵まれ、遊牧騎馬民族出身で、農耕によって食糧を得る事を知らないトルコ民族の築いたオスマン帝国にとって安定的な食糧供給先として、とりわけその地で栽培される大量の小麦は、日々の糧として欠かせないパンを得るためになんとしても手に入れなければならないものでした。

黒海を征服すれば、先に述べた黒海の産物のうち、この付近でしか手に入らない希少なものが、帝都イスタンブールを経由して帝国とヨーロッパ諸国に流通させることが出来、インドからの香辛料貿易を独占するマムルーク朝エジプト王国に十分対抗できる財源を得られるのです。

メフメト2世はこの黒海の完全征服を目指し、1475年に対岸にあるチンギスハンのモンゴル帝国の子孫にあたり、王位争いの渦中にあったクリム汗国に遠征軍を差し向け、同年にこれを服属させる事に成功します。


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上がメフメト2世が亡くなる直前のオスマン帝国の領土です。クリム汗国を属国(事実上征服)とした事で、黒海沿岸も一部を除いてオスマン帝国のものとなりました。

さて、ここまで来れば、黒海をほぼ制圧したメフメト2世が次に狙うのは、当然残る最後の大国マムルーク朝エジプト王国と思われるでしょうが、実際は彼はマムルーク朝とは1度も交戦せず、その在位中エジプトに遠征する事はありませんでした。その理由は定かではありませんが、おそらく隣国白羊朝との挟み撃ちに遭うのを避けたのではないかと思われます。

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そんな彼は、実は意外な方面に次の征服先を考えていました。それはなんとイタリア半島です。もともとメフメト2世は少年時代から、オスマン帝国の歴代皇帝の中で最もヨーロッパ文明と芸術に強い興味と関心を持った人物であり、上に載せた画像の様に、自分の肖像画をわざわざイタリアの画家ベッリーニを大変な報酬で呼び寄せて描かせたほどのヨーロッパファンでした。

折りしも当時イタリアは、都市国家フィレンツェの支配者として君臨していた大富豪メディチ家の下で、「ルネサンス」の絶頂期であり、メディチ家の庇護を受けた多くの芸術家たちによって、絵画、彫刻、建築などの数多くの傑作が生み出され、イタリア中にそれが波及していた真っ最中でした。かねてからこれらにとても興味を抱いていたメフメト2世が「イタリア半島征服」の夢を抱くのは自然の成り行きであった事でしょう。

彼は1480年8月、信頼する家臣の一人ゲディク・パシャをイタリア派遣軍司令官に任命し、およそ2万からなる軍勢をイタリア半島南部に差し向けました。オスマン軍司令官ゲディク・パシャは100隻を越える大艦隊でイタリア南部の都市、オトラントに上陸すると、市内に立てこもるナポリ王国のわずかな守備隊と市民からなる防衛軍をあっけなく壊滅させてこれを占領してしまいます。


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上がオトラントの位置と、その街並みです。(人口は5600人ほどですが、エメラルドグリーンの美しい海と白壁の街並みが魅力のリゾート地です。)しかし、かつてこの美しい街で、侵攻したオスマン軍によって徹底した略奪が行われ、およそ2万の市民のうち、1万2千が無残に虐殺されたそうです。

当時このイタリア南部にはナポリ王国がありましたが、ゲディク・パシャ率いるオスマン軍はこのオトラントだけではなく、周辺の都市も次々に攻撃し、恐怖に駆られた当時のナポリ王フェルディナンド1世は各国に救援を要請、事態を深く憂慮した時のローマ教皇シクストゥス4世の呼びかけで、ナポリ王の王子アルフォンソを司令官とする対オスマン十字軍が結成されます。

一方帝都イスタンブールでイタリア遠征が順調に進んでいた事に満足したメフメト2世は、いよいよ本腰を入れてイタリアの征服に取り掛かるべく、皇帝直属の精鋭部隊イェニチェリを主力とする大軍に動員令を発し、自ら指揮を取って出陣の準備に入りました。

メフメト2世にとって、オトラントなどの様な地方都市などどうでも良いのです。彼が目指していたのはローマ、すなわち古のローマ帝国の都で、現在はキリスト教世界の中心であるローマでした。このローマを征服し、ローマ教皇を捕えて教皇庁を滅ぼしてしまえば、その衝撃はヨーロッパ世界に計り知れない精神的打撃を与える事が出来、また同時に預言者ムハンマドがイスラム教を開いて以来、イスラム世界で未だに誰も成し得た事のない、「イスラムによるヨーロッパ征服」という偉業達成に大きく近づく事が出来るからです。

そしてイスラムによってヨーロッパが征服され、イスラム教を全ての価値観の中心に置き、先の優れたヨーロッパ文明と芸術をイスラム文明と融合させる事により、彼の理想とする真の世界帝国をこの世に実現させる事が彼の夢でした。

しかしアッラーの神はこの皇帝にその実現を許さなかった様です。なぜならすでに病身であったメフメト2世は病を押して夢の実現に向けて動き出した矢先、無理が祟って急死してしまったからです。享年49歳の決して長くない生涯でした。

メフメト2世の急死によって、もともとオスマン宮廷内でも、影で「スルタンの無謀な冒険」の感が強かったイタリア遠征は直ちに中止され、イタリア駐留のオスマン軍はわずかな守備隊を残して本国に撤退します。これを好機と見たヨーロッパ連合軍は反撃に転じ、残っていたわずか1300余りのオスマン軍守備隊を全滅させてオトラントを奪還し、イタリア半島からオスマン軍を一掃する事に成功しました。

少年時代に抱いたヨーロッパ世界への強い憧れ、そのヨーロッパをも組み込んだ帝国の建設のため、ローマへの道に足を進めようとしたメフメト2世のイタリア征服作戦は、こうして「夢」のまま未完に終わったのです。そしてこれ以後、オスマン帝国では歴代皇帝の誰一人として、ヨーロッパ文明に目を向ける者は無く、彼らの目はあくまで「イスラム世界」というきわめて限定されたものに主眼を置く、いささか視野の狭い地域的なレベルに硬直化する事になっていきました。

次回に続きます。

帝国を継ぐ者 ・ 黄金の玉座 を奪い取れ!

みなさんこんにちは。

1481年5月、それまでギリシャとアナトリアにまたがる程度の地域的な一国家に過ぎなかったオスマン帝国を、北はバルカン半島全域から黒海、南はイラクのユーフラテス川付近に至る広大な領域国家へと拡大させ、人々から「征服王」と呼ばれたオスマン帝国7代皇帝メフメト2世は、病身の身を省みずに無理を承知で興したイタリア遠征の途上、49歳の若さで急死してしまいました。

彼の死により、オスマン帝国では帝位継承の恒例ともいうべき、オスマン家一族による熾烈な帝位争奪戦が展開されていく事になります。今回はそのあたりのお話です。

先帝メフメト2世には、上から順にバヤジット、ムスタファ、ジェムという3人の皇子たちがいましたが、次男のムスタファは1474年に何者かに暗殺されていたため、オスマン帝国の次の支配者となる後継者候補は残る2人、バヤジットとジェムのどちらかで、この時2人の兄弟はどちらも帝都にはおらず、それぞれ地方の知事として任地に赴任していました。

ここで疑問に思うのは、普通に考えれば長男が後継者となるのが順当ではないか? という点ですが、このオスマン帝国においては、帝位継承に当たって兄弟間の順位は不定でした。それならば父親である先帝が在位中に、長子相続とかを法で定めてしまえば良かろうと思考が進むのですが、それもこのオスマン帝国という国家には通用しない論理でした。なぜならこのオスマン帝国は「皇帝以外は全てが奴隷の国」とヨーロッパ諸国から揶揄されるほどの専制君主国家であり、帝国の全権は皇帝のみにあるため、例えば先代の皇帝が定めた法なども、代替わりで新しく即位した皇帝は、それが自分の意に沿わなければ簡単に廃止なり変更なり出来てしまうからです。

そのためオスマン帝国(というよりオスマン家)では、帝位継承において真っ先に宮殿に入り、皇帝の黄金の玉座について宮廷をおさえ、群臣から臣従の誓いを受けた者が皇帝となる事が出来、それに敗れた者は皇帝を脅かす存在として処刑されるのが、およそ100年前の4代皇帝バヤジット1世以来の帝国の慣例として定着していました。


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上は現在トルコのイスタンブールにあるトプカプ宮殿の宝物館に展示されているかつてのオスマン帝国皇帝の玉座です。この玉座はなんと8万枚もの金貨を溶かして造り、さらに玉座の表面に鋲の様にある突起の部分には、1000個以上のエメラルドがはめ込まれているそうです。(驚)この黄金の玉座をめぐり、かつて歴代のオスマン皇帝家一族は血まみれの帝位争いを繰り広げたのです。

ちなみに、わが国の元首にあらせられる天皇陛下が国会の開会式にご臨席の際にお座りになられる玉座も、下に載せた様に美しくも重厚な彫刻に分厚い金箔を施し、戦前の日本工芸の粋を極めて作られた豪華なものですね。天皇家の菊のご紋章が、わが国の真の統治者がどなたであるかを良く表しています。

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上が参議院にて玉座にお座りになられている今上天皇陛下のお姿です。(これは自分の勝手な理想なのですが、ぜひ陛下には大礼服に頸飾と勲章をお付けいただき、首相以下大臣級をはじめ、議員の皆さんも陛下より授与された勲章をお持ちの方はそれを身に付けて参列してもらいたいものです。)

さて、オスマン家のそうした事情と並行して、皇帝を支える宮廷や政府内でも、多くの人々が選択の必要に迫られていました。2人の皇子のうち、どちらの味方に付くべきか、いやどちらを擁立すれば、自分たちに有利になるのか? といった思惑が複雑に絡み合っていたからです。メフメト2世の死を真っ先に知ったのは当然これらの宮廷や中央政府の人々で、彼らは一刻も早くこの知らせを自分たちが擁立すべきと考えたそれぞれの皇子の元へ送る必要がありました。


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上がメフメト2世の長子バヤジットです。(1447~1512)彼は長男でありながら、若い頃は年齢的な未熟もあって遊びにうつつを抜かし、父メフメト2世の不興を買っていた様です。しかし年齢を経て成熟するに連れ、やがて父帝を凌ぐほどの敬虔なイスラム教徒となります。そんな彼の下には、イスラム宗教界から多くの支持者が集まり、さらにペルシア人、ユダヤ人、イタリア人などの異民族を好んで重用した先帝メフメト2世の独裁的な帝国運営に対して不満を抱くトルコ人グループもバヤジット側に付いていました。つまり帝国内の多数派を抑えていたのです。これが後に彼に幸運をもたらす事になります。

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上がバヤジットの末弟ジェムです。(1459~1495)彼は兄より12歳も歳が離れていましたが、才気煥発で詩人として名高く、それゆえ兄弟たちのうち、文化や芸術を愛した父メフメト2世に最も可愛がられていたそうです。そのため特に先帝メフメトの傍で、実際に政治を行っていた大宰相カラマーニ・パシャらの政府中央グループは、このジェムを次の皇帝に擁立すべく画策していました。つまり簡単にいえば、先帝メフメト2世に対して同調していた人々がジェムの支持に回り、逆に批判的な人々がバヤジット派を形成していたのです。しかしジェムにとっての不運は、彼の支持者が帝国内で少数派であった事でした。

そこへ思わぬハプニングが起こります。ジェムの元へ先帝崩御の知らせを伝える使いが、バヤジット派によって足止めを食らい、ジェムに父の崩御を知らせるのが、バヤジットより4日も遅れてしまったのです。このたった4日間が、両者の運命を決定してしまいました。

最終的にこの帝位継承レースは、皇帝の親衛隊で、オスマン帝国軍の中核であるイェニチェリ軍団が「数は力」と判断し、早々に多数派のバヤジットの味方に付いた事からバヤジットの勝利に終わります。イェニチェリ軍団は、なんと先帝メフメト2世崩御の翌日に帝都イスタンブールでクーデターを起こし、ジェム派の頭目であった大宰相カラマーニ・パシャを暗殺、彼に連なるジェム派の要人たちも次々に捕えられ、帝国の実権はバヤジットの手に落ちる事になったのです。

このイェニチェリ軍団については、元キリスト教徒の少年奴隷たちをイスラム教徒に改宗させた、オスマン皇帝に絶対忠誠を誓う直属の親衛隊であるという事は以前にもお話しましたが、この頃からイェニチェリ軍団の中で、そうした本来の存在意義とは別の軍団独自の思惑が芽生えていました。つまり彼らイェニチェリ軍団にとって都合の良い人物を皇帝に据えれば、イェニチェリたちはその武力で皇帝を意のままに操って帝国を動かす実権を握る事が出来るからです。そしてこれ以後、イェニチェリ軍団は皇帝直属の親衛隊という本来の役目を逸脱し、その権威と武力を背景に、帝国の既得権益を握る集団へと異質に変貌していくのです。

ともあれ、こうしてバヤジットは弟ジェムに先んじて帝都イスタンブールに入り、トプカプ宮殿にて正式にオスマン帝国8代皇帝バヤジット2世として即位しました。しかし、当然これに収まらないのが敗れた弟のジェムの方です。(収まるはずがありませんね。先に述べた様に、帝位に就けなかった者は処刑されてしまうのですから。)

ジェムはイスタンブール入りで兄バヤジットに先を越された事を悟ると直ちに引き返し、自分の支持者を主力とする4千の兵力でオスマン帝国の最初の都であったブルサを占領、ここに立てこもり、兄帝バヤジットに対し、帝国を分割支配する案を提案します。その提案とは以下の様なものです。

・バヤジットはヨーロッパ側の皇帝となる。
・ジェムはアジア側の皇帝となる。

しかし、これを聞いた兄バヤジット2世は激怒し、これを拒絶して6月に入り、自ら大軍を率いてジェムの立てこもるブルサを攻撃します。5千に満たないジェムの軍勢はあっさり敗れ、彼は家族を引き連れて南の大国マムルーク朝エジプト王国を頼って亡命する事を余儀なくされてしまいました。

さて、ここからジェム殿下の流浪の人生が始まります。彼はマムルーク朝の力を借りてほぼ1年後の1482年5月にアナトリアに再侵攻、一時はアンカラまで進撃するほどの勢いでしたが、再びオスマン軍に敗れてしまいます。それどころか、兄バヤジットがエジプトへの陸路を封鎖したため、エジプトに戻れなくなってしまいました。

そこで彼はヨーロッパで再起を図るべく、当時エーゲ海に対イスラム十字軍の最前線部隊として駐留していた聖ヨハネ騎士団に身を寄せ、彼らの本拠地ロードス島に渡ります。


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上がロードス島の位置と、現在の島の様子です。(これも分かりにくくてすみません。右下の赤い範囲で示された付近が、当時この島を拠点としていた聖ヨハネ騎士団の勢力図です。)

ジェムはその後、騎士団の手引きではるか遠く離れたフランスに渡り、さらに今度はイタリアのローマ教皇国に送られます。この彼の旅路は、純粋に自らの復権を願っての事でしたが、しかし実際にはすでにヨーロッパ諸国にとって巨大な敵となっていたオスマン帝国に対する「駆け引きの道具」として利用されるために送られたのでした。(フランスもローマ教皇も、本気でジェムに協力する気など毛頭無く、トルコ本国のバヤジット2世に対して、彼をこちらに留め置く代わりに多額の身代金を要求し、その方が無用な混乱を引き起こさずに済むと踏んだバヤジット2世はそれを受け入れ、毎年ローマ教皇に大金を払っていた様です。つまり教皇らは裏で「ぼろ儲け」していたのです。)

結局ジェムの帝国復権の望みが叶う事は無く、彼は1495年、トルコから遠く離れたイタリアの地で36年の波乱の生涯を閉じます。

一方、弟との帝位争いに勝利し、彼を排除してオスマン帝国の新たな支配者となっていた兄バヤジット2世には、その後弟ジェムとはまた違った数奇な人生が待ち受けていました。バヤジット2世は皇帝となると、父メフメト2世とはあらゆる面で対照的なやり方で帝国を運営して行きます。彼は即位からその崩御まで、およそ33年というオスマン帝国歴代皇帝でもかなり長い在位を誇りますが、その彼の長期政権を支えた最大の要因は、父と違ってほとんど外征をしなかったという点にあります。

これには理由があります。といってもそれは非常に単純で、簡単にいえば「あまりお金が無かった。」という事です。彼の父メフメト2世は冒頭で述べた様に、皆から「征服王」と呼ばれるほどの戦好きで、その野望は飽く事を知らず、イタリア征服まで実行しようとしていた事は前回もお話しましたが、戦争にはとにかくお金がかかります。先帝メフメトは外征に湯水の様に大金を投じ、これらを捻出するために、従えた国々に盛んに多額の上納金を課し、足りなければ帝国全土に新たな税をかけていました。

「新たな征服地を得れば、金などいくらでも後から入って来る。」

先帝メフメト2世はこうした「血の投資」とでも言うべきやり方で帝国を拡大させていったのですが、その「投資」が帝国に富をもたらしていくには時間がかかります。そのためバヤジット2世が帝位を継いだ時のオスマン帝国は意外にも財政が決して豊かではなく、皇帝の親衛隊であったイェニチェリ軍団がメフメトの死によってクーデターを起こし、先帝の大宰相を暗殺したのも、先帝の晩年には彼らへの給料の支払いが滞る事が多くなり、財政を任されていた大宰相を憎んでいたからです。そこで新帝バヤジット2世は早急に財政を立て直す必要に迫られます。

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上はイスタンブールで観光用に再現されているオスマン皇帝の親衛隊イェニチェリ軍団です。

その一番の近道が外征を極力しない事で余計な軍事費を削減し、イェニチェリを中心とする帝国軍将兵たちへの給料の支払いだけは完全に出来る様にする事でした。(そうでなければまたクーデターを起こされてしまいますからね。)しかし、彼も全く戦をしなかったわけではありません。1492年に黒海沿岸のモルダヴィアに兵を差し向けてこれを属国とし、さらに北のハンガリーや南のマムルーク朝とも何度も交戦しています。しかしモルダヴィア併合を除いては、そのほとんどが国境付近の局地的な防衛戦に過ぎませんでした。

こうして帝国軍部を手なずけた彼でしたが、それだけでは父の負債ともいうべき帝国内の不満を解消出来ませんでした。その帝国内の不満とは先帝が新たに国民に課した外征のための新税です。外征をしないと決めた以上もうこれは必要ありませんし、軍部だけ優遇しては、国民の不満が皇帝に向けられてしまい、反乱を誘発しかねません。そこで彼はこの税を廃止していわゆる「減税」を行い、国民の不満をそらす事にも成功します。

他にも彼は父とは正反対の政策を実行しています。彼が父メフメトよりも敬虔なイスラム教徒である事はすでに述べましたが、そのイスラム教の教えでは偶像崇拝を固く禁じています。そのため彼は父が買い集めたヨーロッパの絵画や彫刻のコレクションを全て売却して国庫の足しにし、トプカプ宮殿から撤去してしまいます。そして新たに宮殿やモスクをイスラム美術で覆い、また父が外国人を重用しすぎた事へのトルコ人の不満も配慮し、一定のトルコ人も宮廷と中央政府に置いてこれらの勢力のバランスを取り、さらに学問を手厚く保護して多くのイスラム学者の養成に力を尽くすなど、彼が理想とする本来のイスラム文明に立ち返った帝国を造ろうと、政治、文化面での大きなゆり戻しを推進していきました。

バヤジット2世の治世は父メフメト2世の時代の反動で、オスマン帝国が積極的な対外行動を起こさなかった事から、いわゆる帝国発展の停滞期とされ、その時期の皇帝であった彼は、トルコ本国でもあまり評価されてはいませんが、「やりたい放題」であった先帝によって傾いた国家財政の建て直しのために支出を減らし、父の時代に拡大した領土の基盤固めを主な施策とするなど、とても現実主義でかなり有能な君主であったと思います。(実際彼は33年も長期在位しています。無能な君主ならこれほどの長期政権は無理でしょう。)

こうして地味ではあるが堅実なバヤジット2世の政策により、オスマン帝国の国力は彼の時代にさらに強固なものになり、そしてそれは次の世代の帝国の更なる拡大の大きな原動力となっていくのです。

次回に続きます。

ピラミッドを我が手に ・ エジプト征服作戦

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、8代皇帝バヤジット2世の統治下で対外進出の手を一旦休め、急速に拡大しすぎた領土の基盤整備と国力の回復、とりわけ国家財政の建て直しに注力していた西暦1500年前後、そのオスマン帝国の東の隣国イランにおいて、その後彼らの背後を長く脅かす存在となる、新たな新興国が誕生していました。1501年に成立したサファヴィー朝ペルシア王国です。

それだけであれば、特にこれまでのオスマン帝国を取り囲む状況と何ら変わりはなかろうと思われがちなのですが、このサファヴィー朝がオスマン帝国を(深く)悩ませる存在となるのは、その軍事的脅威よりも、彼らオスマン帝国をはじめとする中近東の人々が信仰するイスラム教において、その大多数を占めるほとんどの人が「スンナ派」と呼ばれる宗派であるのに対し、この王朝が宗派の異なる少数派「シーア派」の国家であったからです。


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上がペルシア(現在のイラン)とその周辺に勃興したサファヴィー朝の領域図と、建国者である初代国王シャー・イスマイール1世です。(1487~1524) 

このサファヴィー朝というのは、元々はイスラム教の一教団に過ぎなかったものが次第に力を付けて強大な軍事集団となり、その教団の当主の一族であったイスマイールが、それまでこの付近を支配していたティムール朝末期の混乱に乗じてクーデターを起こし、シャー・イスマイール1世として即位して自らの王朝を開いたものです。(ちなみにイランでは、王の事を「シャー」と呼んでいます。)

このイスマイール1世という王が、他のどの王侯よりも凄いのは、なんと14歳の若さにして王朝を樹立した事です。(いくら強力な軍事教団の当主であったとしても、果たして14歳の少年に周囲の大人たちを従えさせる事が出来たのか? 現代の感覚では大きな疑問ですが、現実にこの王朝は成立しています。)

さてこの王朝が、同じイスラム教の中でも宗派が異なるシーア派であるという事はすでに述べましたが、イスラム教というのは、大きく2つの宗派に分かれています。ここで、その違いをごく簡単にお話しておきましょう。 元々イスラム教というのは、預言者ムハンマド(570?~632)が、アッラーの神を唯一の神として広めた一神教の宗教である事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知と思いますが、その開祖ムハンマドが亡くなると、イスラム教の指導者を誰にするのかという、いわゆる後継者争いが起こります。

その争いの中で2つの派閥が対立します。1つは預言者ムハンマドの子孫かその血筋の者を指導者としていく一種の世襲体制派、これがシーア派と呼ばれるものです。そしてもう1つはイスラム学者の合議で選出された「カリフ」と呼ばれる最高権威者を立ててこれをムハンマドの代理人とし、その指導の下にイスラム共同体を創ってイスラム教を盛り立てて行こうとする派。これをスンナ派といいます。(オスマン帝国をはじめ、ほとんど大半のイスラム教国がこのスンナ派です。)

最終的にこの争いは、全イスラムの8割を占める圧倒的多数派であったスンナ派が勝利し、以降スンナ派はイスラム教の正統宗派として今日に至るまでイスラム世界を主導していく事になり、2割に満たない少数派のシーア派は辺境に追いやられてしまいます。

しかし、この時代になって、少数派のシーア派の王朝であるサファヴィー家が、イスラム世界のど真ん中ともいうべき一帯であるイランに広大な王国を建国したのです。これはそれまでイスラムの正統派として君臨してきたスンナ派、とりわけその領袖として台頭しつつあるオスマン帝国にとって、存亡に関わる重大な問題でした。 なぜならシーア派は、建前としてはムハンマドの子孫の者を指導者としていくというシステムであるために(ムハンマドの子孫など、とうに断絶していましたが、シーア派にとっては指導者として自分たちが都合良く利用出来れば誰でも良いのです。)このシーア派がイスラム世界に勢力を広げ、スンナ派に取って代わる様な事になれば、オスマン家をはじめとする他のスンナ派イスラム国家の王家はそれぞれの国を支配する権利を剥奪され、追放されるか滅ぼされてしまう理屈になるからです。

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上の図は全世界のイスラム教徒の分布図です。(黄緑がスンナ派、緑がシーア派、イランの付近に集中していますね。)このシーア派のサファヴィー朝がイランに王国を建国した結果、その後サファヴィー朝滅亡後も上の様にイランにシーア派が深く根付く事になり、それが今日も続く中東におけるイランと他のイスラム諸国との対立を招いて行く事になるのです。

そこで、オスマン帝国では皇帝バヤジット2世主導の下に、シャー・イスマイールの宣伝で帝国内に浸透しつつあったシーア派の弾圧が行われますが、それが返って人々の反感を買い、1511年にアナトリア各地で大規模な反乱を引き起こしてしまいます。

バヤジット2世はこの反乱を鎮圧するため、コルクト、アフメト、セリムの3人の皇子たちにそれぞれ軍勢を与え、各地へ派遣しました。しかしここで、コルクト、アフメトの2人の皇子が次々に反乱の鎮圧に失敗、帝国軍の中核であるイェニチェリ軍団の信用を失ってしまいます。イェニチェリ軍団は末弟のセリム皇子に期待を寄せ、そのイェニチェリの支持を得たセリムはこれを機に、かねてから心の奥に潜ませていた野心の実現のために、父帝に自分を後継者としてバルカン方面に留め置くよう要求します。(帝都イスタンブールの近くにいる方が、即位の際に有利だからです。)

しかし、すでに老齢で退位を考えていたバヤジット2世は、帝位を次男のアフメトに譲位する事を望み、(長男コルクトは文化人で帝位に関心を示さず、三男セリムは君主として気性が激しすぎたため、最もバランスの取れた性格のアフメトを後継者に指名した様です。)セリムの勝手に怒った彼はセリムをクリミアに追放し、これによりこの親子の仲は完全に決裂してしまいます。

前回お話しましたが、このオスマン帝国にあっては帝位継承の際、誰よりも早く皇帝の黄金の玉座に着き、宮廷を押さえた者が皇帝として認められ、それ以外の者はたとえオスマン家の皇族といえども処刑されてしまうのが非情な慣わしでした。(その事を身に染みて最も良く知っていたのが、自らもそうして帝位を継ぎ、実の弟とその一族を死に追いやったバヤジット帝その人でした。)

これは自分の勝手な想像で恐縮ですが、バヤジット帝がセリムを遠い異郷の地に追放したのは、あるいは隠れた親心であったのかも知れません。帝都から遠く離れた所にいれば外国に亡命する時間稼ぎが出来ますし、帝位継承の慣例で処刑されるのを免れるからです。長男コルクトについては定かではありませんが、こちらも生活に困らないだけの多額の資産を持たせてエジプトかグルジアにでも送り出すつもりだったのでしょう。

バヤジット2世は反乱が何とか鎮圧されると1512年に入り、アフメト皇子に対して譲位するから一刻も早く帝都に帰還せよと使者を遣わし、知らせを聞いたアフメトは急いで陣を引き払ってイスタンブールに戻ろうとしました。

しかし、ここで思わぬ事態が発生してしまいます。あろう事か皇帝の親衛隊であるイェニチェリ軍団が、父の怒りを買ってクリミアに逃亡していたセリムを支持してアフメト皇子の帝都入りを阻止、その間にクリミアから急ぎ戻ったセリムが父を廃位し、トプカプ宮殿で即位してしまったのです。完全なクーデターでした。


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上がオスマン帝国9代皇帝セリム1世です。(1465~1520)

新帝セリム1世は即位すると、真っ先に2人の兄とその一族を処刑し、帝位争いの芽を摘んでしまいます。そして廃位し、もはや無力な老いた父を帝都イスタンブールから追放し、トラキアの田舎町に隠棲させてしまいます。この息子の反逆に絶望した先帝バヤジット2世は、隠棲先でまもなく崩御してしまいました。(この彼の死は、セリム1世の毒殺の説が有力です。それは彼の死が、廃位からちょうど1ヵ月後というタイミングの良さからきています。)

こうして父と兄たち、その息子たちまでを完全に根絶やしにした「冷酷者」セリム1世は、オスマン帝国の新たな支配者として歴史にその姿を現しました。彼は即位すると、外征に消極的だった父とは正反対に、たちまち領土拡大の野望をあらわにします。セリムは父帝の時代にほとんど止まっていた帝国の拡大のため、まずは北の強国ハンガリーと和平条約を結び、背後を固めます。こうして北の脅威を除いた彼は、その矛先を南の新たな強敵サファヴィー朝に定めました。

一方サファヴィー朝の王シャー・イスマイール1世も、このオスマン帝国の挑戦を手ぐすねを引いて待ち構えていました。彼は数の少ないシーア派をもっと増やすため、最初の勢力拡大地域をオスマン帝国領であるアナトリアに定めていたからです。1514年8月、両国はその宗派の雌雄を決する戦いに突入します。これが「チャルディラーンの戦い」です。


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上がチャルディラーンの位置です。この戦いにおける両軍の戦力はオスマン軍が6万、サファヴィー軍が4万というものでしたが、騎兵を中心とするサファヴィー軍に対し、すでに鉄砲隊と大砲を効率良く配置した当時最新の軍備を整えていたオスマン軍はサファヴィー軍に圧勝し、敵王シャー・イスマイールは命からがら都に退却してしまいます。

この敗北は、シャー・イスマイールのプライドを大きく傷付けた様です。彼はなんとかセリム1世の追撃を押しとどめたものの、その後国政に関心を失って酒におぼれる毎日を過ごす様になってしまい、37歳という若さでこの世を去ります。(彼の死により王位はその子タフマースヴが10歳で継承しますが、この年齢では政務が取れるはずも無く、サファヴィー朝は崩壊の危機を迎えますが、幸い忠実な側近たちがこの少年王を良く支え、やがて成人した彼は52年もの長い在位中に大変な努力でサファヴィー朝の基礎を固め、そのおかげでサファヴィー朝ペルシア王国は彼の後も12代200年余り続きました。)

一方サファヴィー朝に大打撃を与え、シーア派の勢力拡大を阻止する事に成功したセリム1世は、それまでの歴代オスマン皇帝たちがまだ誰も成し遂げていない大計画を実行に移します。それはもう一つの大国であるエジプトのマムルーク朝に侵攻し、これを征服するというものです。

このマムルーク朝エジプト王国とは、前にもお話した様に元は先代のエジプト王朝であるアイユーヴ朝において、死んでも困らない奴隷を中心として組織された軍団が、その武力を背景に台頭し、アイユーブ王家を乗っ取って築いたというユニークな王朝で、それゆえその王位継承は王家による世襲ではなく、軍団の有力者が王位に着くという極めて珍しい国家でした。この王国はイスラムの聖地メッカを支配下に置き、紅海経由で運ばれるインドからの香辛料貿易を独占して巨万の富を得ていましたが、軍団の有力者が王位に着くというシステムであったために次第に派閥抗争が激化し、その都度繰り返される内乱により、王国はこの時期もはや衰退の極みにありました。

マムルーク朝が「突けば必ず崩れる」と見たセリム1世は1516年8月、マムルーク朝の領土であったシリアに侵攻を開始、これに対し、マムルーク軍も討伐軍を差し向け、両軍はマルジュ・ダービクで最初の戦闘を開始します。兵力はオスマン軍6万5千に対し、マムルーク軍は8万でした。しかし、この戦いにおいても、大量の鉄砲隊と800門ともいわれる多くの大砲を準備したオスマン軍が昔ながらの騎兵中心のマムルーク軍を粉砕、以後マムルーク軍は一度も戦線を維持する事が出来ず、追撃するオスマン軍に敗退を重ね、1517年1月には首都カイロが陥落します。


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上がセリム1世率いるオスマン軍のエジプト進撃の進路です。たった半年余りでシリアからエジプト全土までを蹂躙していますね。カイロ陥落により、マムルーク軍は戦意を失い、最後の王トマン・バイがオスマン軍に捕えられ、セリム1世の前に引き立てられた後処刑されます。彼の死により、267年続いたマムルーク朝エジプト王国は滅亡し、その後エジプトは19世紀までオスマン帝国の領土の一部になります。

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「我らはついにピラミッドをも手にした。」

セリム1世はエジプトを征服した事により、征服王と呼ばれた彼の祖父メフメト2世よりもはるかに広大な領土を帝国に組み入れる事に成功し、またエジプトのナイル川流域の豊かな耕作地帯で生産される豊富な農産物と、先に述べた紅海経由のインド東方世界との交易収入が帝国に莫大な富を持たらしていく事になります。

さらに彼はこうした物理的な利益だけでなく、もっと大きな宗教的権威を手に入れる事にも成功しました。それはイスラム世界において、神の預言者ムハンマドの代理人として連綿と受け継がれ、マムルーク朝においてもカイロでその保護下にあって生き延びてきたアッバース朝最後のカリフから、その地位をオスマン皇帝である彼が継承し、以後オスマン皇帝=カリフとして、政治、宗教両面でイスラム世界の全てを統べる唯一無二の存在を宣言したのです。(セリム1世にカリフの地位を譲った最後のカリフは、セリムの命により密かに抹殺されています。)

セリム1世のエジプト征服作戦は見事に成功し、オスマン帝国はその領土を一気に3倍にまで拡大させました。それだけではなく、彼は自らが預言者ムハンマドの代理人であるカリフになる事により、オスマン帝国をイスラム世界を構成する一国家から、イスラム世界を支配する神聖な国家へと大きく格上げしたのです。

セリム1世の在位はわずか8年余りという短い期間でしたが、その10年に満たない期間に彼が行った遠征によって、気が付けばオスマン帝国は自他共に認める大帝国になっていました。

次回に続きます。
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