トルコ民族の出現 ・ セルジューク・トルコのアナトリア征服

みなさんこんにちは。

今回から新しいテーマとして、現在のトルコを中心にアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる巨大国家を築いたイスラム世界の覇者、オスマン帝国についてお話したいと思います。

今自分は上で「オスマン帝国」と言いましたが、自分が学生時代の世界史の授業では、「オスマン・トルコ」と教わりました。おそらく昭和世代の方なら同様の人も多いのではないでしょうか? しかし、この帝国が最盛期に支配した地域は、上で述べた様にトルコ本国はおろか、現在の国にしておよそ30カ国以上にもなる広大なものであり、当然支配した民族も数十に及ぶため、単純に「トルコ人の国」とは言い難い事から、現在ではこの帝国を築き、600年以上に亘って世襲の君主として君臨したオスマン家の名だけを取ってこう呼ばれています。

オスマン帝国といえば、歴史好きの方ならば当然その名はご存知でしょう。あの有名な軍楽隊のメロディーに乗って、強大な軍事力で周辺の国々をことごとく討ち従え、全ヨーロッパを震え上がらせたイスラム最大最強の帝国。しかし、世界史などではもっぱらヨーロッパをその中心として語られる事が多く、とりわけ帝政ローマ時代から第二次大戦終結までのおよそ2千年は、世界史というより「ヨーロッパ史」と云った方が良いのではないかと思うほど情報が偏っています。

そのためこのオスマン帝国については、古代ローマ帝国に始まる世界史上比類ない大帝国のうちの一つであるのに、その実像や歴史についてはあまり知られていません。かつて彼らと数百年間も死闘を繰り広げたヨーロッパ人の、異教徒イスラムへの恐怖と憎しみという主観によって創り上げられたイメージが定着してしまっている様に感じられます。

そのイメージとは、「侵略者」「略奪者」「殺戮者」そしてそれゆえに戦いだけを好み、支配した民族に圧政を敷き、文化や芸術の素養のカケラも無い野蛮で凶暴な「悪の帝国」なのだというものです。しかしこれは事実なのでしょうか? 侵略と破壊と殺戮を繰り返し、人々を恐怖で支配するというやり方だけで、果たして600年以上もの間、繁栄する事が出来るのでしょうか? 当ブログではその様な疑問点も含め、オスマン帝国の誕生と栄枯盛衰を、帝国の支配者であるオスマン家の人々のエピソードも交えてお話したいと思います。

そもそもこのオスマン帝国はいかにして誕生したのでしょうか? それをお話しする前に、まずは帝国を築いた民族であるトルコ人がいつ頃どこから現れたのか、オスマン帝国建国以前にトルコ民族が最初に築いた知られざる帝国であるセルジューク・トルコから話を始めたいと思います。


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現在の私たちの地理的常識では、トルコという国は上の地図の位置、すなわちアナトリア半島(小アジアとも呼ばれます。)を思い浮かべますが、もともと彼らトルコ民族の発祥の地は、現在よりはるか東方の中央アジア一帯でした。

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上がその位置と中央アジアの風景です。私たち日本人の感覚では、この地域というと荒涼として荒れ果てたイメージがありますが、(自分だけでしょうか? 子供時代にNHK特集で放映されていた「シルクロード」を見て以来、自分の頭ではそんな感じなので・・・笑)意外に緑豊かなんですね。見渡す限りの大草原です。そしてかつてトルコ民族がこの地域一帯にいた事の証拠に、「トルクメニスタン」「トルキスタン」などがこの地域の国名に残っていますね。

ではもともとこの地域にいたトルコ人たちが、なぜ現在のトルコのあるアナトリアに移動したのでしょうか? 話は10世紀にまでさかのぼります。当時この地域で遊牧生活を営んでいたトルコ人たちは当然の事ながらいくつかの部族に分かれ、それぞれの族長をリーダーとしていました。そしてその中の一部族の族長であったセルジューク(生没年不詳)によって最初の国家が建国されました。それが「セルジューク・トルコ」です。

ただし、このセルジュークなる人物が一代で帝国を築いたわけではありません。彼はそれまで宗教などバラバラであったトルコ人たちの中でいち早くイスラム教に改宗し、王朝の基礎を築いたのですが、何しろ千年以上も前の人物であり、肖像画はもちろん詳細な記録も残っていないためにそれ以上の事は分かっていません。その後数代を経て正式に「帝国」として成立させたのは、セルジュークの孫かひ孫であるトゥグリル・ベグ(993~1063)という人物でした。

この人物も肖像画は残っていないのですが、記録によればトゥグリル・ベグは1038年、イスラム教の創始者であるムハンマド(570?~632)の死後、ムハンマドの代理としてイスラム世界をまとめる最高権威者であるカリフから初めて「君主」を意味する「スルタン」の称号を授かり、自らのスルタン即位をもって、祖先のセルジュークの血を引くセルジューク家世襲の帝国を開いたのです。

このあたりは、ヨーロッパの歴史におけるローマ教皇と皇帝や国王たちとの関係を思い浮べれば理解しやすいでしょう。つまりキリストすなわち「神」の代理人であるローマ教皇に皇帝や王として認められる事によって、その地位と権力が神に与えられた神聖不可侵なものとあまねく人民に知らしめた様に、イスラム世界においてもアッラーの神の言葉を伝えるムハンマドの「代理人」であるカリフからスルタンとして認められる事によって同じ効果を得ようとしたのです。(それにしても人間なんて考える事はみんな同じなんですね。笑)

そして彼の死後も帝国はセルジューク王家によって拡大し続け、最終的にはイラン、イラクを本拠地とする大帝国へと成長しました。


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上がセルジューク・トルコ最盛期の12世紀(1100年頃)の領土です。そしてトゥグリル・ベグの甥で、2代スルタンであるアルブ・アルスラーン(1029~1072)の代に、現在のトルコであるアナトリア方面に3万の軍勢で侵攻、当時この地域を支配していたビザンツ帝国と開戦します。そして迎え撃つビザンツ皇帝ロマノス4世(?~1071)率いる7万のビザンツ軍を破り、なんと皇帝ロマノス4世を捕虜にするという大勝利を挙げました。(1071年、マラズギルトの戦い)

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上がセルジューク軍に敗れて捕虜になり、アルブ・アルスラーンの前に引き立てられたビザンツ皇帝ロマヌス4世を描いた中世の絵です。この時彼はロマノスの首をかかとで踏みつけ、地面に口づけしろと迫ります。そして2人の間で次の様な会話が交わされたと伝えられています。

アルプ・アルスラーン「もし私が貴殿の前に捕虜として引きだされたら、貴殿はどのようにする?」

ロマノス「たぶん、貴殿を殺すか、首都コンスタンティノポリスの街頭でさらし者にするだろう。」

アルプ・アルスラーン「私の罰はそれよりはるかに重い。貴殿を赦免し、自由にするのだから。」

そして彼は捕虜にしたロマノスを本当に釈放してしまうのです。(もちろんタダではありません。多額の身代金に引き換え、彼の息子である王子とロマノスの娘である皇女を政略結婚させ、事実上人質に取ったのです。)

なんだかとてもアルブ・アルスラーンがロマノス4世にひどい仕打ちをしている様ですが、実はこの2人、アナトリアの支配をめぐって合計4回も戦っているのです。そして1度はアルブ・アルスラーンが敗退した事もあります。そこで彼は当初ロマノスに和議を申し入れたのですが、ロマノス4世がそれを拒否して自ら戦端を開いてしまったのです。上の2人のやり取りはそんな事情も隠れていました。

彼はロマノスの運命を見通していたのでしょう。なぜなら皇帝自らが敗れて捕虜になるなど、3世紀にペルシアと戦って捕虜になったローマ皇帝ウァレリヌス以来800年ぶりの恥辱であり、そのうえ多額の身代金を先払いで払わされ、おめおめと生きて帰ってきたロマノスがただで済むはずは無いと計算していたからです。(彼の予想は的中し、その後コンスタンティノポリスに戻ったロマノス4世は政敵によって捕えられ、両目をつぶされた挙句追放されてしまったそうです。)

こうしてセルジューク・トルコはビザンツ帝国からアナトリアを奪い取り、この時に初めてトルコ人がこの地に入植していく事になりました。しかし、強大さを誇ったセルジューク・トルコもその後代を重ねるうちにセルジューク王家の一族で内紛が相次ぎ、それぞれに勝手に「スルタン」を名乗って帝国は複数に分裂してしまいます。

そして最終的にアナトリア地方に王朝を打ち建てたセルジューク家の分家の一族を除き、その他のセルジューク王朝はみな滅びてしまいました。そしてその長い期間にそれまでビザンツとイスラムの攻防の最前線であったアナトリアが徐々にトルコ人によってイスラム化していく事になるのです。

次回に続きます。
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帝祖オスマン1世 ・ 信義に厚い騎馬戦士

みなさんこんにちは。

11世紀初頭に中央アジアから南下し、破竹の勢いで周辺諸国を平定して、1038年に現在のイラン・イラクを中心にトルコ民族最初の帝国を建国したセルジューク・トルコは、1071年のマラズギルトの戦いで西のキリスト教国家ビザンツ帝国を破り、ビザンツ帝国のアジア側の領土であったアナトリア地方を手に入れました。

そしてこのアナトリア地方こそ、後に成立するオスマン帝国本国そして現在のトルコ共和国となるのですが、新天地を求めて絶えず征服戦争を続けてきたセルジューク・トルコも、この頃をピークに早くもセルジューク家一族内部で主導権争いが起こり、帝国は細かく分裂してしまいます。そして1077年にそれらの中で最も西の果てにある、前回述べたアナトリア方面に地方王朝を建てた一族を除き、その後それ以外のセルジューク一族は共倒れや内紛により次々に自滅していきました。

このアナトリアの地に王朝を建てたセルジューク家の分家一族はセルジューク本家と区別するため、前者を「ルーム・セルジューク朝」後者の本家セルジュークの方は「大セルジューク朝」と呼ばれているのですが、規模が小さくなったに過ぎない事から歴史上では区別する事無く一つの「セルジューク・トルコ」として紹介している場合が多いです。


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上がルーム・セルジューク朝の勢力範囲とその拡大の様子を年代で表したものです。この「ルーム」というのは「ローマの」という意味で、古来からイスラム圏から見てローマ(つまり東ローマすなわちビザンツ)の勢力圏であるアナトリアの地に初めてイスラム国家が建国された事からそう呼ばれています。

しかしこのルーム・セルジュークも、君主であるスルタンがめまぐるしく入れ替わり、政権は不安定で1250年代をピークに次第に弱体化していきます。そこへはるか東から、疾風怒濤のごとく強大な軍団が侵攻してきます。モンゴル帝国の襲来です。彼らモンゴル軍は、北はロシアから南はイスラム世界までを呑み込み、衰退していたルーム・セルジューク朝もその支配下に置かれてしまいます。


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上がモンゴル帝国最盛期の領土です。ルーム・セルジュークも完全に併呑されていますね。

この様にセルジューク朝が衰えていったこの時代、それまでセルジューク家に仕えて来た部族の族長たちが、次第に自立の道を進み出します。彼らはセルジューク家から与えられた所領を根城に小領主として土着化し、やがて互いの領地をめぐって私戦を繰り返す様になりました。

その多くの小領主の中の一人にエルトゥールル(1198~1281)という人物がいました。彼はルーム・セルジューク家からアナトリア北西部のソユトと呼ばれる小都市とその周辺を所領として与えられた小さな部族長に過ぎませんでしたが、この時代には珍しく83歳まで生きた大変な長命で、それまで領地など持たない浮き草の様な集団だった自分の一族と、彼に従う戦士たちやその家族のために、所領の維持拡大に奔走します。(この「エルトゥールル」という名は、後にわが日本とトルコが深いつながりを持つ事になるある出来事で再び登場しますので、記憶に留めておいてください。)

そのエルトゥールルの晩年の息子であり、父が築いたわずかな所領とささやかな地盤を元手に本格的に勢力拡大に乗り出すのがオスマンです。この人物こそ読んで字のごとく、後のオスマン帝国の創始者であり、オスマン帝国初代スルタンとなるオスマン1世です。


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上がオスマン帝国初代スルタン(皇帝)にして、オスマン家の帝祖オスマン1世です。(1258~1326)

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(彼に始まるオスマン帝国について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は250ページ余りで、書店で「オスマン帝国」といえば必ずこれが置かれていて価格も安いので、多くの方がまずこの本を購入されています。内容はどちらかと言えば歴史的な記述よりも、著者の執筆の目的からオスマン帝国とイスラムの制度や文化についての記述が多いです。)

ただし、ここで間違えてはならないのは、彼は父の死後すぐに族長になれたわけではないという事です。なぜなら当時の多くのトルコ民族の部族集団の間では、リーダーになるには先代が率いる戦士たちの同意と推戴がなければならなかったからです。先に述べた様にオスマンは、父エルトゥールルが晩年の60歳になってから生まれた息子であり、(息子というより「孫」の年齢ですね。笑)父が死んだ時彼はまだ23歳の若者でした。当然ながらリーダーとするには経験不足で若すぎます。父の代から従ってきた戦士たちの同意と推戴を得るには容易では無かった様です。

この頃のオスマン家とその配下の戦士たちは、まだ君主国としての体を成していませんでした。指導者がオスマン家から選ばれるのは良いとしても、その指導者が無能であれば別の者が選ばれ、他家に乗っ取られてしまう可能性がありました。つまり彼は戦士たちから「試されて」いたのです。そこで何とか族長に選ばれたオスマンは、そんな戦士たちの信頼を得るために実績づくりに取り掛かります。その実績づくりとは「戦って領地を広げる」事です。戦い続け、常に勝利し、戦利品を戦士たちに惜しげなく分け与える事で彼らの心を掴もうとしたのです。

オスマンは、彼のささやかな領地のすぐ近くの強敵ビザンツ帝国を刺激しない様に、まずはビザンツから遠く離れた東の辺境地域を支配下に収め、8つの城を手に入れます。さらにモンゴルの攻撃で土地を追われた戦士や領民を率先して迎え入れ、自らの軍勢に加えていきました。

こうした努力が実り、率いる戦士たちの信頼を勝ち得たオスマンは1299年、もはや滅亡寸前のルーム・セルジューク朝に見切りを付け、ついに独立して自らの王朝国家を建国します。後の「オスマン帝国」の誕生です。

さて、上で述べた様に歴史上オスマン帝国は、オスマンがルーム・セルジューク朝から自立した1300年初頭をもって成立したとされている事が多いのですが、事実はそうではありません。確かにオスマンは父エルトゥールルの死後、その地盤を引き継いでさらに勢力を拡大し、亡くなるまでに父の時代のおよそ10倍ほどの支配地を獲得して自分の国家を建国するのですが、当時アナトリアには彼と同じ様に独立した者たちがたくさんいました。彼らは「君候」(ベイリク)と呼ばれ、やがてそれぞれの勢力拡大のために私戦を繰り返していきます。オスマンもそうした「君候」のうちの一人に過ぎず、この時点における彼の国も「オスマン君候国」と呼ばれる小国でしかありませんでした。


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上がオスマンが生きた1300年代初めのアナトリア地方の地図です。多くの君候国が乱立しているのがお分かりいただけるでしょう。オスマンの国は、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルの対岸、ボスポラス海峡を隔てたアジア側に広がっていますが、周辺はオスマンと同規模の君候国がひしめき合う「群雄割拠」の状態でした。こうした状況下に対し、もはやルーム・セルジューク朝に彼らの勝手な乱立を抑える力はなく、1038年に成立したトルコ民族最初の大帝国セルジューク・トルコは1306年ついに滅亡します。

正式にオスマンの国が「帝国」として扱われるのは、オスマンが自立してから100年ほど経った14世紀末、彼のひ孫に当たる4代バヤジットの時代であり、最初から「帝国」と称していたわけではないのです。

ともあれアナトリアの一角に小さいながらも誕生したオスマン国家は、その後も創始者オスマンの元で拡大を続けていきます。オスマンは先に述べた様に、海を隔てた対岸のビザンツ帝国を刺激しない様に、まずは支配地を反対側の東部に広げ、この地域の8つの城を手に入れ、これを当面の東部防衛ラインとします。さらに今度は南部諸国とも激しい戦いを展開していきました。とりわけ南の強国カラマン君候国はオスマン国家のライバルともいうべき強敵で、その後も両国は激しく争います。

そうした戦いの最中で、着実に支配地を広げていったオスマンが次に手に入れたかったのは、自らの国にふさわしい「首都」となるべき街でした。もともと彼らトルコ民族は一ヶ所に定住する事無く絶えず移動する遊牧騎馬民族であり、それまで都市に住むとか、増して自分たちで都市を築くというキャリアはとても持ち合わせていませんでした。しかし小さいながらも国家として独立した以上自分たちの「都」が必要です。

そこでオスマンが目を付けたのが、かつてアナトリア全域がビザンツ帝国の領土であった時代に彼らが築いた地方都市の一つ「ブルサ」でした。ここはオスマンの支配地には無かった本当の「街らしい街」であり、アナトリア全域制覇とビザンツ帝国との戦いのに備えるためにも十分な立地と規模を備えていました。


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上がそのブルサの現在の様子です。(人口およそ62万ほどのかなり大きな街です。)
オスマンはこのブルサを手に入れるため晩年の戦いに臨みます。しかし残念ながら彼はついに自らの都を手にする事は出来ませんでした。1326年オスマン帝国の創始者オスマン1世は、このブルサ包囲戦の陣中で68歳で亡くなります。

このオスマン1世については非常に古い人物であり、彼の生涯や人物について記した詳細な記録も残っておらず、言い伝えと伝説によるものを繋ぎ合わせた形で想像するしかないのですが、そうしたものを総合すると、とても信義に厚い人間味ある「戦士の中の戦士」であった様です。残忍なエピソードはなく、欲も無く、戦利品も配下の戦士たちに気前良く与え、また自分に味方したり協力してくれた者に対してもその恩を決して忘れず、必ず物質的な形で恩返しをする人でした。

こんな話が伝わっています。まだオスマンが君候になる以前の初期の戦いで、配下の軍勢の荷物が多すぎて戦いの邪魔になる事から彼は困ってしまいます。それらは全て戦士たちの私物であり、「捨てていけ。」と命じるわけには行きません。そこへその地域の小さな領主がそれらを預かってくれるというので、オスマンは彼を信じて荷を預け、戦いに出発します。そして戦いに勝利し、その領主の元に戻ると、預けた荷物はきちんと保管されてあったので、オスマンはその領主に大変感謝し、たくさんの皮袋に入れた大量のチーズとバターをお礼に贈ったそうです。

この話のどこが良いのかと思われるかもしれませんが、実はこの時オスマンが荷を預けたその領主はビザンツのキリスト教徒でした。イスラムのオスマンたちからすれば敵である異教徒です。つまりこの時代の常識から言えば、盗まれてもなんら不思議ではないのに、相手はきちんと約束を守って保管してくれていたのです。これは喰うか喰われるかの戦いに明け暮れていたオスマンにとって涙の出る思いだったのでしょう。彼はそうした人間らしい温情ある人物だったのです。

この様にオスマンが器の大きな人物であったのは間違いありませんが、そのために一方で彼自身はほとんど資産を持たない結果を招いてしまいます。実際彼が亡くなった時、息子オルハンが父から相続したのは、支配した領地以外ではわずかな身の回りの品々と何頭かのお気に入りの良馬、それに100頭に満たない羊の群れだけで、金銀の類いは全く無かったそうです。(理由は簡単です。敵の財を得ても、配下の戦士たちにみんな与えてしまうからです。)

しかし財貨などに代えられないあふれる温情ある指導者であったオスマンは多くの人々に愛され、彼の人柄に惹かれた多くの屈強な戦士たちが次々に従い、オスマン君候国は彼の死後も拡大発展を続けていきます。そうして彼の温情に直接触れた人々の支えもあって、オスマンの子孫たちは国を拡大させていく事が出来、やがてオスマン1世はそれら全ての人々によって、後のオスマン帝国の基礎を築いた偉大な帝祖として崇められる様になるのです。

次回に続きます。

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オスマン君候国の拡大 ・ バルカン半島への進出

みなさんこんにちは。

アナトリア西北部に独立国として自立した小国家を打ち建て、後のオスマン帝国の基礎を築いた創始者オスマン1世が1326年に亡くなると、その後を継いだのは彼の息子オルハンでした。


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上がオスマン帝国2代目のオルハン・ベイです。(1281?~1362?)彼は父オスマン・ベイの死後、小国とはいえ父が建国した国家を受け継ぎ、父の念願だったブルサの街の攻略を成功させるとそこに都を置き、その地に立派な霊廟を建てて父を埋葬しました。(上の彼の肖像は、彼が生きた時代より300年以上経た帝国全盛期に、歴代スルタンを称えるために想像で描かれたものです。また彼ら親子の名の下に付く「ベイ」というのは、イスラム世界におけるいわゆる「候」という称号です。まだ彼らの国は規模が小さく、それに周辺にも同規模の君候たちがしのぎを削っており、イスラム世界における「君主」すなわち「皇帝」を表す「スルタン」の称号を得るほどの力を持つ存在ではなかったため、彼らも「ベイ」を名乗っていました。)

新たにオスマン君候国の指導者となったオルハン・ベイでしたが、彼は前回もお話した様に父から自立した国家と軍団を相続したものの、金銭的にはそれほど裕福だったわけではありませんでした。なぜなら父オスマンは息子に軍資金となるほどの金銭的な資産をほとんど残さなかったからです。

しかしオルハンは落胆していたわけではありませんでした。なぜなら「金」などは自らの率いるオスマン軍団を持ってすれば今後いくらでも手に入れる機会はあったからです。といっても、そのオスマン軍団の勢力も決して大軍だったわけではありません。この時点におけるオスマン軍団は父オスマンの代から従う戦士たちからなるもので、せいぜい500騎程度のものであった様です。

それにしてもこのオルハン・ベイですが、父オスマンとは全く違ったタイプの強烈な個性の人物であった様です。これといった財も無く、率いる兵力もこの程度でしたが、彼は巧みな作戦で北のビザンツ帝国や周辺諸国との戦いに連戦連勝を重ねて領土を拡大していきます。


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上がオルハン・ベイが在位中に獲得した領土です。父オスマンから受け継いだ最初の領土からおよそ5倍程度にまで拡大させていますね。しかしこのオルハン・ベイ率いるオスマン君候国の拡大に大きな危機感を抱いていた国があります。それは海を隔てたすぐ間近のビザンツ帝国です。

もともとアナトリアを含む東地中海全域はビザンツ帝国の領土でした。それがイスラム勢力の出現によりじわじわとそれらを奪われ、アナトリア西北部にわずかに残っていたビザンツ領も、オスマン国家の興隆によって失っていました。もちろんビザンツ帝国もそれまで何もせず手をこまねいていたのではありません。そのイスラム勢力の出現以来その都度討伐軍を差し向け、イスラム軍を完膚なきまでに撃退した事も何度もあったのです。

しかしこのビザンツ帝国の抱える大きな問題はイスラム勢力などの対外的なものだけではありませんでした。一言で言ってしまえば、とにかくこの帝国は国内の政情が「不安定」なのです。常に帝位をめぐる争いと内紛が相次ぎ、混乱にさいなまれ、そうした混乱の隙を突いて新興周辺諸国に領土を掠め取られる衰亡の歴史を歩んできたのでした。

そして今やアナトリア全域は完全にオスマンらイスラム勢力に奪われ、ビザンツ帝国は「海」という天然の防衛線を盾にかろうじてイスラム教徒の侵入を防いでいる状態でした。時のビザンツ皇帝アンドロニコス3世は、オスマン君候国がまだ小国のうちに叩いてしまうべく、オルハンが即位して3年後の1329年に自ら2千の兵を率いてアナトリアに出陣しますが、逆にオルハン・ベイ率いるオスマン軍に撃破されて敗退してしまいます。


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上が当時のビザンツ皇帝アンドロニコス3世です。(1297~1341)彼はこの戦いで負傷し、帝都コンスタンティノープルに逃げ戻ると方針を転換し、オルハン・ベイに和睦と同盟を申し入れます。なぜならこの時彼には南のオスマンに加え、北にも強力な敵が迫っていたからです。

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上がこの頃の東地中海世界の地図です。ビザンツ帝国の北方に興隆したブルガリア王国とセルビア王国がビザンツ帝国を脅かしていました。それにしてもなぜアンドロニコス3世は同じキリスト教国である北の2カ国ではなく、異教徒のイスラムであるオスマン君候国と同盟したのでしょうか? その理由としては2つ考えられます。1つは単純にこれら南北の敵との2正面作戦すなわち「挟み撃ち」に合うのを避けるため、2つ目はオスマン他、南のイスラム勢力はみな遊牧騎馬民族であり、地上戦では圧倒的でしたが海上戦は苦手だったからです。

それにイスラム勢力とビザンツ帝国との間には、ギリシャのエーゲ海やマルモラ海という天然の防壁があり、これを越えて軍勢と軍馬を運ぶには大量の船舶が必要です。金も時間もかかるため一朝一夕でそろえられるものではありません。そこでアンドロニコス3世は、これを防衛線とすればなんとかイスラム勢力の侵入を食い止められ、北のブルガリアやセルビアとの戦いに兵力を集中出来ると判断し、事実上アナトリア奪還を断念(というより切り捨て)したのです。

このビザンツ側からの申し出はオスマン側にも有利でした。当時オルハン・ベイ率いるオスマン君候国は、すでに西北アナトリアに残っていたわずかなビザンツ領も全て手に入れており、その先は海であったため、この時点ではもはやこの方面に取るべき領土はありませんでした。そこで彼は軍勢を南へと転進させます。アナトリア南部にはオスマンと同規模の君候国がひしめいていました。しかしこれらを征服するためには北のビザンツ帝国との衝突は避けなければなりません。

こうした両者の思惑と利害の一致により1333年、ビザンツ帝国とオスマン君候国は同盟を締結します。その後8年ほど、両国はそれぞれの敵との戦いに傾注していたので、両国間においてほとんど戦闘はありませんでした(というよりその余裕が無かった)が、1341年のビザンツ皇帝アンドロニコス3世の急死により情勢はにわかに緊張します。

皇帝の急死は再びビザンツ帝国を恒例の帝位争いの混乱に陥れる事になりました。次の帝位をめぐって先帝の皇太子ヨハネス5世と先帝の重臣であった同名のヨハネス6世が争います。この時オルハン・ベイは南の諸君候国と争っていましたが、この方面の敵は意外に強敵で征服は困難を極めていました。そこで彼は再び侵攻先を北方に向けます。

彼は先に述べたビザンツ帝国の帝位争いの内紛に介入し、ヨハネス6世に味方して彼をビザンツ皇帝に即位させます。一方敗れた先帝の子ヨハネス5世は隣国セルビアに亡命して再起を図ろうとします。しかしこれはオルハン・ベイにとってバルカン進出の絶好の機会でした。


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上がオルハン・ベイのおかげでビザンツ皇帝となったヨハネス6世です。(1295~1383)彼は名門の学者出身で先帝の重臣でもあり、帝位継承権を持つ皇帝家の人間ではありませんでしたが、先帝の急死後まだ10歳の幼帝ヨハネス5世の母アンナ皇太后は、息子を脅かす存在の彼を排除しようと画策します。彼が生き残るには自らが皇帝となって帝国の実権を握るしか道はありませんでした。

オルハン・ベイはセルビアにかくまわれているヨハネス5世を捕えるため、セルビアへの侵攻をヨハネス6世に認めさせ、1346年に長男スレイマンを指揮官とする6千の軍勢をセルビアに差し向けます。もちろん勝敗の如何に関わらず、そうした軍事的支援の見返りに、海峡の反対側のビザンツ領の一部を得るという条件付きです。固有の軍事力の無いヨハネス6世はこれを認めざるを得ませんでした。(オルハン・ベイが即位して20年、この時点で彼の率いる兵力は12倍以上にも膨れ上がっていました。)

結局この戦いは戦上手のセルビア王ウロシュ4世の活躍により決着が付かず、オルハンは一旦オスマン軍をセルビアから退却させます。そうしているうちに成長したヨハネス5世が今度はオスマン側との同盟を申し入れてきます。


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上がヨハネス5世を支援したセルビア王ウロシュ4世です。(1305~1355)彼大変有能な国王で、彼の時代、セルビア王国は宿敵ブルガリアを破り、ギリシャの半分も手に入れ、同国の最盛期を迎えます。しかしそれは彼の個人的な有能さから実現できた事であり、彼の死後、セルビア王国もオスマン帝国の躍進によって急速に衰退してしまいます。

ヨハネス5世はオルハン・ベイに対し、自分をビザンツ皇帝に復位させてくれれば、セルビアに奪われた領土の一部を与えても良いと餌をちらつかせます。(彼にとってはセルビアも、オスマン同様ビザンツを蚕食する厄介な敵でした。そこでヨハネス5世はセルビアとオスマンを戦わせる事で両者を疲弊させる作戦に出たのです。つまり「毒をもって毒を制す。」ですね。)

そうした若い皇帝の策略を、はるかに老練なオルハン・ベイが見抜けないはずはありませんでしたが、オルハンはそれをおくびにも出さず、喜んでヨハネス5世の申し出を受け入れます。(オルハン・ベイの方も、もはや老齢のヨハネス6世より若い5世に挿げ替えた方が今後有利と判断したのでしょう。)

こうして1354年、両者の密約によってヨハネス6世は廃位され、本来の正当な後継者ヨハネス5世が正式にビザンツ皇帝に復位しました。(実に13年に亘る長い帝位争いでした。一方廃位されたヨハネス6世でしたが、オスマンをはじめ周囲の敵とのやり取りに疲れ果て、もはや帝位にも権力にも何の未練も持っていませんでした。もともと学者であった彼はその心情をヨハネス5世に伝えると、立場は違えど同じ辛酸を舐めてきた皇帝はその心情を良く理解し、二度と反逆しない事を条件に意外にも彼を処刑せず、帝都コンスタンティノープル退去を命じます。そして老いた元皇帝は残る人生を山奥の修道院で隠遁生活を送り、88歳の長寿で波乱の生涯を閉じます。)

しかし、やっとの思いで念願の皇帝に返り咲いたヨハネス5世も、その後オスマン・トルコにいい様に領内を蹂躙され、さらに今度は後継者である息子が父である自分に反旗を翻すなどの苦労にさいなまれていく事になります。

これら一連のビザンツ帝国の内紛はオスマン・トルコのバルカン進出と、ビザンツ領へのさらなる侵食を許す事になり、ビザンツ帝国は長い衰亡の坂道を転げ落ちていく事になりました。一方興隆著しいオスマン・トルコの方は、2代オルハン・ベイが亡くなる直前の1360年頃には、彼らにとって夢のまた夢であった海を越え、ヨーロッパ側にまで進出するほどの勢力にまで成長していたのです。

次回に続きます。

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コソボの戦い ・ 対オスマン連合軍の敗北

みなさんこんにちは。

ビザンツ帝国の帝位争いの内紛に上手く介入し、更なる領土拡大とバルカン半島への進出に成功したオスマン君候国のオルハン・ベイ(候)は、こうした戦いだけではなく後のオスマン帝国の基礎となるべき組織づくりに着手した人物でもありました。

そもそもオスマン帝国(前回もお話しましたが、この頃はまだ「帝国」と呼ぶほどの規模ではなく、イスラム独特の呼び名である「君候国」と読んでいました。)は、彼の父オスマンを建国の祖とする国家でしたが、元は一千騎に満たない兵力の戦士集団に過ぎませんでした。しかし彼ら親子の2代に亘る征服事業の結果、領土と支配地が広がり、支配する人民も大きく増加しました。

そのため、これら支配地の人民を円滑に統治する組織とシステムがどうしても必要になってきたのです。まずオルハン・ベイが手を付けたのは民生と裁判を担当する組織です。といっても、先に述べた通り創成期のオスマン帝国は戦士たちの軍事集団であったため、その方面の知識を持つ人材などいませんでした。

そこでこれらの専門知識を兼ね備えたイスラム法学者たちを各地から招き、彼らにそれを任せる事になりました。ここで登場するイスラム法学者というのは、いわばイスラム教の専門家なのですが、本来なら政治や裁判と宗教は別個に切り離して考えるべきもののはずです。しかしイスラム圏ではイスラム教の神アッラーの教えこそが絶対正義であり、そのアッラーの神の教えには、商売、結婚、相続などの人間世界のあらゆる活動の規範が示されているという考えから、イスラム法に精通した彼らにこれを担わせたのです。

彼ら法学者たちはいわば「官僚」(テクノクラート)であり、またイスラム法にのっとって裁判を行う「裁判官」でもありました。こうしてオルハン・ベイは、行政と司法の仕組みを整えたのです。

次に彼が着手したのは宰相制度と貨幣の鋳造、常備軍の創設でした。宰相制度は広がった領土全般を統括する国政の担当者として、また常備軍はそれまで独立心が強く、常に統制の取れた集団とはいえなかった初期のオスマン軍を、君主の命令一下、統制の取れた軍団として動員しやすくするために、一般の民衆から徴兵するというもの(もちろん給料も支給されます。)でしたが、どうも最後の常備軍構想は、既存の有力戦士たちの抵抗にあってうまくいかなかった様です。(笑)

A15C.jpg

上がオルハン・ベイが造らせたアクチェ銀貨です。彼が造ったこの銀貨は17世紀まで300年近くオスマン帝国で使われました。

ともあれオルハン・ベイは極めて初歩的ではありましたが、こうした政治、経済、行政、司法、軍事などの国家の基本システムを創り上げ、地味ですがオスマン帝国2代目の役割を見事に果たした有能な人物という点で評価出来るでしょう。また、現在のトルコ共和国の国定教科書では、彼の父オスマンゆずりの誠実な人格が称賛されています。彼の人間的な側面をうかがい知るエピソードとして、攻略した都市に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いて貧民を暖かく迎え入れたという話が伝わっています。(世界中に王侯はたくさんいますが、家臣や下の者ではなく自らの手で貧民に食事を配るなど、ほとんど聞いた事がありませんね。人柄が偲ばれます。)


Türbe_of_Orhan_Gazi,_Bursa

上が彼が最初に都を置いたブルサの街にあるオルハン・ベイの墓です。

オルハン・ベイは1360年前後に亡くなりますが、(この頃の記録が曖昧で、亡くなった年が諸説あります。)その後継者をめぐって彼の息子たちが争います。そして最終的に後継者となったのが次男ムラト1世でした。


Murat_Hüdavendigar

上が後の時代に描かれたムラト1世の肖像です。(1319?~1389)彼には後継者として、父オルハン・ベイにも周囲からもとても期待されていた有能な兄である長男スレイマンという人物がいましたが、狩猟の途中落馬して急死していたため、次男である彼と弟たちの間で相続争いになってしまった様です。

このムラト1世は、父オルハンがその足がかりを作ったバルカン半島の領土をさらに拡大させた人物でしたが、即位して最初の2年ほどは、アナトリア本土の反乱鎮圧に奔走する事になってしまいます。それというのも当時アナトリア南部には、拡大成長を続けるオスマン君候国にとって最大のライバルであった「カラマン君候国」があり、このカラマンの謀略によって各地で反乱の火の手が上がっていたからです。

ムラト1世は、即位の混乱に乗じてオスマン家の弱い所を突いて来たカラマンのやり方に怒りを覚えましたが、まずは国内を平定しなければなりません。彼はバルカン半島方面を信頼する将軍に任せると、自ら軍勢を率いてアナトリア方面の反乱を鎮圧し、背後のカラマン君候国を封じ込める事に成功します。

アナトリア方面を完全に手中に収めると、彼はいよいよ狙いのバルカン半島侵攻作戦を開始します。当時バルカン地域はビザンツ帝国が衰え、そこに興ったブルガリアとセルビアなどが覇を競っていました。この2国はライバル国であり、最初はブルガリアが優勢で10世紀から14世紀前半までブルガリア帝国として繁栄した時期がありましたが次第に衰え、1330年に隣国セルビアがブルガリアを破って勢力を拡大し、代わって「帝国」を称する様になります。

しかしそのセルビアの隆盛も束の間、1355年に名君ウロシュ4世が亡くなると急速に没落してしまいます。つまり、この頃のバルカン地域はオスマンにとって、侵攻するのに最適な権力の空白地帯だったのです。

バルカン半島に侵攻したムラト1世は1363年、ビザンツ帝国からアドリアーノプルの街を奪い取ると「エディルネ」と改称し、ここをバルカン半島におけるオスマン軍の拠点に定めます。そして以後、1453年のコンスタンティノープル遷都までここが、アナトリアのブルサと並ぶオスマン帝国第二の都となります。


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上がエディルネの位置と、後の時代に建てられたセリミエ・モスクです。(人口はそれほど多くなく、およそ12万ほどです。)

エディルネを手に入れたムラト1世率いるオスマン軍は瞬くうちに周辺地域を制圧し、1364年にはトラキア地方一帯がオスマンの支配下となります。このオスマン軍の躍進は広くヨーロッパ各地に知れ渡り、遠く離れた時のローマ教皇ウルバヌス5世は全キリスト教徒に対オスマン連合軍の結成を呼びかけます。


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上がそのトラキア地域の位置と、ヨーロッパ各国に対オスマン連合軍の結成を呼びかけた教皇ウルバヌス5世です。(1310~1370)この頃すでに異教徒オスマンの名は、ローマ教皇を動かすほどの勢力にまで拡大していました。

この教皇の呼びかけに、それまで対立と反目を繰り返していたハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、ボスニアなどのバルカン諸国は歴史上初めて一致団結してオスマン軍に対抗します。彼らは1371年、セルビア軍をその主力として2万を超える連合軍を編成すると、ムラト1世の留守の隙を突いてオスマン軍の拠点エディルネを奪還すべく進軍を開始します。対するオスマン軍は、ムラト1世が他の地域の制圧に向かって主力部隊を率いていったため、防衛軍は一千にも満たないものでした。

エディルネは完全な城塞都市ではなかったため、少ない兵力で籠城するのは困難でした。そこでムラト1世から留守を任されていた防衛司令官のハジ・イル・ベイは、敵が大軍である事で油断しているのを逆手にとって、夜襲による奇襲攻撃を決行します。これが「マリツァ川の戦い」です。

夜襲は見事に成功し、オスマン軍はわずか一千で2万を越えるバルカン連合軍を撃破、大混乱に陥った連合軍は総崩れとなり、多くがマリツァ川で溺死するという大敗を喫してしまいます。

配下の将軍の活躍でうまく危機を乗り越えたムラト1世は返す刀でただちに反撃を開始します。彼はブルガリアとセルビアを次々に攻めると1380年までにこの2国を属国とする事に成功します。さらにアナトリア本土で再び敵対してきたライバルのカラマン君候国を攻撃し、1387年には首都コンヤを占領してカラマン君候国を滅亡させます。

カラマン君候国を破った事で、オスマンによるアナトリア本土の全域制覇は時間の問題となり、バルカン半島の攻略も順調に進んでいたちょうどその頃、従えたはずのセルビアとブルガリアがオスマンの支配打破のために密かに動き出します。彼らはワラキア、アルバニア、ボスニア、ハンガリーなどのバルカン諸国と再び対オスマン連合軍を結成し、国の存亡とバルカンの支配権をかけてオスマン軍に対し、乾坤一擲の大反攻作戦を挑んできたのです。

1389年6月、両軍はセルビアのコソボで激突します。「コソボの戦い」の始まりです。両軍の兵力はオスマン軍4万に対し、バルカン連合軍もほぼ同数であった様です。


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上がコソボの戦いを描いた絵です。

この戦いは初戦から思いもかけない事態が発生します。オスマン帝国の君主ムラト1世が、セルビアの放った刺客によって暗殺されてしまったのです。これはバルカン連合軍にとっては勝利のための一大チャンスとなるはずでした。しかしオスマン側はすぐに29歳の彼の息子バヤジットを即位させるとただちに反撃に転じ、バヤジットの指揮の下、オスマン軍はバルカン連合軍を破って大勝利を収めました。


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上がコソボの古戦場に残るムラト1世の墓所と、ムラト1世が在位中に広げたオスマン君候国の領土です。(あずき色が即位当時、赤が在位中に広げた領土、それ以外は支配下に置いた属国です。3~4倍に拡大していますね。)

このムラト1世は生涯陣頭で指揮を執る人物でした。それが最後の戦いの彼の暗殺を招いてしまったのですが、それ以外では法律を遵守し、国家に対して献身的に奉仕し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられています。そして彼が父オルハンから受け継ぎ、拡大させたオスマン君候国は、彼の息子バヤジットの時代には内外から「帝国」と称される国家へと発展していくのです。

次回に続きます。

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