遠すぎた同盟 ・ 遣独潜水艦作戦

みなさんこんにちは。

みなさんは、わが国が先の第2次世界大戦でドイツ、イタリアと「日独伊三国同盟」を結び、「枢軸国」として共に戦ったのは良くご存知の事と思います。その中で、失礼ながら最も脆弱であったムッソリーニのファシスト・イタリアが大戦中盤の1943年(昭和18年)9月に連合国に降伏してからは、日本とドイツはたった2カ国で全世界を相手に戦い続ける事になります。(実際には日本もドイツも、占領した多くの国々に、意のままに操れる「傀儡政権」を樹立させ、これらを「同盟国」と称して自らの戦争に無理やり協力させていましたが。)

ところでみなさんは、日本とドイツの距離がどれだけあるかご存知でしょうか? 実際に旅行や出張で行かれた事がある方ならばお分かりとは思いますが、その距離はなんと実におよそ9200キロ、東京から飛行機で直行便のあるフランクフルトやミュンヘンまでの所要時間は12時間もあるのです。

この様に、地理的にこれだけ離れていた日本とドイツは「同盟国」とは言いながら、現実には軍事的な共同作戦を大規模に行う事は物理的に不可能であり、日本はアメリカや中国と、ドイツはソ連やイギリスといったそれぞれの敵を相手に独自の戦いを展開せざるを得ませんでした。

しかし、そんな中にあって、日本とドイツが共同で行った唯一の作戦がありました。今回は第2次大戦中、日独両国の間で5回に亘って行われた「遣独潜水艦作戦」の知られざる実態についてのお話です。

わが大日本帝国と、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツとの同盟関係は、1936年(昭和11年)の日独防共協定に始まり、その後にベニト・ムッソリーニ率いるイタリアが加わって、1940年(昭和15年)9月の「日独伊三国同盟」に発展しましたが、すでにヨーロッパでは第2次大戦が始まっていました。ヒトラーのドイツ軍は、その1年前からヨーロッパ全土に侵略の手を伸ばし、破竹の勢いで進撃を続けていたのです。


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上は日独伊三国同盟締結を祝って三国の国旗を掲げたベルリンの日本大使館と、その祝賀パーティーの様子です。中央で演説するのは、この日独伊三国同盟の推進者である当時の松岡洋右外相です。

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上が三国同盟の推進者である時の日本帝国外務大臣松岡洋右氏です。(1880~1946)彼については、あの国際連盟脱退の演説と、そのまま随行員たちを促して議場を退出していく姿が有名ですね。他にも日ソ中立条約の締結など、とかく軍人ばかりが登場するこの時代の日本にあって、数少ない軍人以外の著名人であり、戦前の日本外交の中心人物として活動した非常にキャラクターの濃い人物です。(笑)しかし、彼は当時の世界のパワーバランスを考慮した彼なりの思惑から、日本にとって良かれと思って行った事でしょうが、それらは次第に日本を破滅の道に追いやる結果となってしまいました。

この時、日独間の連絡や人的・物的な交流は、主にソ連のシベリア鉄道を経由して行われていましたが、1941年(昭和16年)6月に、ヒトラーがソ連との間で結んでいた不可侵条約を破り、300万という大軍をもってソ連領内に侵攻(独ソ戦)したために、日独間の陸上連絡路は途絶してしまいます。その後しばらくの間は海上船舶での交流が続きましたが、同年12月の日米開戦によって、この海上連絡路もほぼ途絶えてしまいます。

それでも、ドイツはまだ日独軍の圧倒的優勢であった1942年半ばまで、連合軍の厳重な海上封鎖を強行突破する「封鎖突破船」を日本へ派遣しています。これらは日本名「柳輸送」(やなぎゆそう)と呼ばれ、ドイツから日本へは、精密機械、鋼材、兵器などの軍需品を運び、日本からドイツへは、その帰り道に生ゴム、錫、モリブデン、タングステン、マニラ麻、コプラなどの日本占領下のアジア原産の原材料をドイツへ持ち帰りました。


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上がドイツの封鎖突破船の1隻である「リオ・グランデ号」です。これらの船は、7千トンから8千トンクラスで速度20ノット以上(時速およそ40キロ)という、軍艦以外の船舶としては高速の優秀船で、合計16隻が日本へ向けて出航しましたが、その多くは連合軍に撃沈され、封鎖を突破して無事に往復し、積荷を積んでドイツの港にたどり着いたのはたった2隻だけでした。

そこでドイツ側から、今後の日独間の連絡と物的なやり取りは潜水艦によって行うべき旨の提案がなされ、レーダー、ロケットエンジン、暗号機など、ドイツの優れた最新の軍事技術を手に入れたい日本もこれに同意します。


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上がその基本的なルートです。アジアとヨーロッパを結ぶ大航海ですね。

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この遣独潜水艦作戦について詳しくお知りになりたい方は、「戦艦武蔵」や「大本営が震えた日」などで有名な吉村昭さんの小説「深海の使者」が良書です。ページ数は427ページで、派遣された5隻の潜水艦それぞれの詳細と、関わった人々の心情が見事な文章で表現されています。

第1回目の遣独潜水艦作戦は1942年(昭和17年)4月から始まります。最初にその遣独潜水艦として選ばれたのは「伊30」潜水艦で、4月11日に呉軍港を出航、日本海軍の潜水艦基地があるインド洋に面したマレー半島のペナンで補給を受け、インド洋を経由して大西洋を北上、4ヵ月後の8月6日ドイツ軍占領下のフランス、ロリアンに入港します。


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上の画像1枚目が伊30潜水艦の同型艦(伊15)で、下2枚がフランス・ロリアンの現在の姿です。(人口5万8千ほど)3枚目に写るのが、今も残るかつてのドイツ潜水艦「Uボート」の基地で、伊30潜水艦はここに入港しました。連合軍の空爆から潜水艦を守るために築かれた分厚い鉄筋コンクリート製の巨大な施設に注目して下さい。これはドイツ語で「ブンカー」(防空施設の意味)と呼ばれ、ドイツ本国のキール、ハンブルク、ブレーメンなどの主要軍港と、フランス、ノルウェーなどのドイツ軍占領地域の港に建設されていました。これを見ても、当時のドイツの技術力の高さが分かりますね。これらのブンカーはあまりにも巨大かつ頑丈すぎる構造のために、取り壊しや撤去に莫大な費用がかかる事から戦後も残され、歴史を語る観光名所や民間の倉庫、作業場、資材置き場、ヨットなどの保管庫として今も利用されているそうです。一方わが日本海軍は、終始この様な巨大な防空施設を軍港に建設する事はなく、潜水艦は岸壁に係留する方式でした。

伊30は2週間ほど滞在し、ドイツが望む鉱物資源を下ろすと、ドイツ製の最新レーダーなどの軍需品を積んで日本への帰路に着きます。そして2ヵ月後の10月はじめにペナン港に到着しました。ここまでは順調な航海だったのですが、ここから思わぬアクシデントに見舞われてしまいます。その後シンガポールに入港した伊30は、海軍の連絡不行き届きから誤って味方の機雷敷設海域に進入してしまい、機雷に触れて爆沈してしまったのです。

このアクシデントにより、せっかくドイツから運んで来た最も重要な積荷である最新レーダーや、その他の軍需品が使い物にならなくなってしまいました。(これは本当に残念です。この時沈んだドイツのレーダーが日本で生産され、これと連動した新型の強力な「15センチ高射砲」が量産配備されていれば、前回お話したその後のB29による本土空襲においても、日本の防空態勢はかなり強固になって、かなりの数のB29を撃墜出来たのではないかと思います。)

さて、第2回目の遣独潜水艦作戦は、それから10ヵ月後の1943年(昭和18年)6月に実施されます。今回派遣されたのは「伊8」潜水艦で、前回の伊30とほぼ同じ大きさと性能を持つ潜水艦でした。


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上がその伊8潜水艦です。全長109メートル、排水量2200トン、速度23ノット(潜航した水中での速度は8ノット)14センチ単装砲1門、水上偵察機1機搭載という日本海軍の典型的な主力潜水艦でした。

今回の遣独潜水艦作戦が前回と違うのは、相手先のドイツの最高指導者ヒトラー総統が、日本へ無償譲渡(つまりヒトラーが「タダ」でくれるという事です。)する様命じたUボート「1224号」を日本へ回航する日本の乗組員(ヒトラーがくれた潜水艦を日本まで乗って帰る乗組員たち)を乗せていくという点です。(もちろん、日独間の物資のやり取りは前回同様行います。)

6月1日に呉軍港を出航した伊8は、先に載せた地図のルートを通り、大西洋のアゾレス諸島で待っていたドイツ潜水艦と会合、その案内でおよそ2ヵ月後にフランス・ブレスト軍港に入港しました。


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上の画像1枚目がブレストのブンカーに入港するわが伊8の乗組員たちです。写真のブンカーの屋根のコンクリートの分厚さを、その上に乗って見下ろしている人々の大きさと見比べてみてください。そして2枚目がブレスト・ブンカーの全景で、3枚目がその内部です。

わが乗組員たちは、こんな巨大な基地を目の当たりにしてみんなすっかり緊張した面持ちですね。一方出迎えるドイツ軍側でも、はるか遠い異国日本の潜水艦の巨大さと、水上偵察機を1機搭載出来る点には大いに驚いていたそうです。なぜなら、世界的に有名なドイツのUボートは、その大きさが日本の潜水艦の7割程度(全長70~80メートル)で、トン数も半分の1200トンクラスが主力であり、水上機の搭載に至っては考えた事も無かったからです。東洋と西洋の考えの違いが面白いですね。

伊8は、ドイツから贈られる潜水艦の乗組員と、天然ゴム、錫、雲母(「うんも」といいます。鉱物の一種で電子部品の絶縁体などに使用されます。)などのドイツへの積荷を降ろし、ドイツからの軍需品を積み込みます。また、当時ベルリン駐在の海軍武官であった横井少将を乗せて日本への帰路に着きます。


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上はドイツ海軍総司令官のカール・デーニッツ元帥(1891~1980)に見送られ、伊8に乗って日本へ帰国する駐独大使館付武官であった横井忠雄海軍少将です。(1895~1965)彼は親ドイツ派の海軍軍人で、ベルリンの日本大使館に赴任していましたが、大のナチス嫌いでそれを隠そうともしなかったため、「好ましからざる人物」としてドイツ外相リッベントロップから日本側に人選の交代を要求され、いわば更迭された日独の「やっかい者」でした。(横井閣下には失礼ですが。笑)一方今回の第2回遣独潜水艦作戦は、ヒトラー直々の命令であったためにドイツ側も力を入れ、海軍最高司令官のデーニッツ元帥自ら横井少将を見送りにブレストを訪れていました。見送るデーニッツは、横井少将を巡る日独間の政治的思惑には無関心の生粋の海軍軍人であり、横井少将の心情を同じ軍人として理解していた様で、2人ともにこやかな表情で別れの握手を交わしていますね。

こうしてドイツ側に見送られた伊8潜水艦は1943年(昭和18年)10月初めにブレストを出航、2ヵ月後の12月中旬に呉軍港に無事到着し、任務を成功させたのです。

しかし、この遣独潜水艦作戦の成功はここまででした。その後も遣独潜水艦作戦は間を置いて続行され、それから3隻の伊号潜水艦がドイツに向けて派遣されましたが、連合軍の攻勢によって戦局は日独双方に著しく不利になり、残念ながらそれら3隻の潜水艦は全て途中で撃沈されてしまいます。

この遣独潜水艦作戦は、1944年(昭和19年)6月に、大西洋でアメリカ海軍に撃沈された伊52潜水艦を最後に、その後実施される事はありませんでした。この作戦は、日独にとって同盟関係をつなぐ唯一の方法でしたが、その成果は実に「労多くして実りの少ない」ものでした。特に科学技術先進国のドイツにとっては、当時の日本から欲しいものはほとんどなく、生ゴムやアジア原産の鉱物資源も、たった1隻の潜水艦で運べる量など最大でもせいぜい200トン程度でたかが知れています。それでも、ドイツ側は誠意を持ってはるかに価値のある高性能の軍需品や技術を日本へ供与してくれたのは特筆に価するでしょう。

むしろ、この遣独潜水艦作戦で得るものが大きかったのはわが日本の方であり、わずかながら持ち帰る事が出来たドイツの軍需品や技術を応用して、戦局挽回のための新兵器開発に、遅まきながら力を入れていきます。しかし、全ては遅すぎました。結局わが国は、ドイツ側から供与された技術や新兵器をほとんど活かす事が出来ずに敗戦に至ってしまうのです。

この遣独潜水艦作戦は、日本とドイツの同盟と共闘の証でした。両国のやり取りがもっと活発かつ数多ければ、戦局は日独にもっと有利に展開していたかも知れません。その日独両国の運命を大きく左右し、また阻害したのは、やはり最初に述べた両国の距離の遠さにあるものと思います。つまり、あまりにも「遠すぎた同盟」だったのです。

この作戦のそもそもの遠因となった日独伊三国同盟を締結した松岡洋右元外相は、後に次の様な言葉を残しています。

「こんな事になってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった。陛下と8千万の国民に申し訳なく、死んでも死に切れない。」

次回に続きます。
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消えた大艦隊 ・ 敵わなかった艦艇建造計画

みなさんこんにちは。

みなさんは、日本が四方を海に囲まれた完全な島国であるという事は良くご存知と思います。この地理的な特徴ゆえに、わが国は鎌倉時代の2度の元寇(蒙古襲来)を除いては、1度も大陸からの外敵の侵攻を受けずに済み、2千年の長きに亘って独立を維持出来たといえるでしょう。

このわが国の地理的な特徴は、当然の事ながら過去現在未来永劫変わる事のない特殊なものであり、日本列島を取り囲む海は、日本の国防上の「天然の防壁」としてこれからも機能し続けてくれるものですが、わが国には国家と産業、経済、国民生活を維持していく上で必要不可欠な資源と食糧を、その細長い国土と領海内で完全自給出来ないという島国ならではの致命的かつ宿命的な弱点があります。

そこで、それらを得るには外国から輸入して、それを大量の船舶でわが本国に運び入れる事になる訳ですが、いざ外国と戦争になった際に真っ先に狙われるのが、この物資の海上輸送(シーレーン)です。この日本の生命線ともいうべき海上輸送と領土・領海を敵の攻撃から守るには、海の軍隊すなわち「海軍」が必要不可欠です。

そのため、わが国は明治維新以来、心血を注いで海軍力の整備増強に努め、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時点における大日本帝国は、イギリス、アメリカに次ぐ勢力を持つ世界第3位の大海軍国でした。しかし、それだけの勢力を誇り、太平洋を縦横無尽に暴れ回ったわが日本帝国海軍が、太平洋戦争開戦からわずか3年後の1944年(昭和19年)末には、水上戦闘艦艇のほとんどを失う壊滅状態に陥ってしまいます。

今回は、日本帝国海軍の今次大戦における艦艇の戦時建造の流れとその実態を、それにかかったお金と絡めてお話したいと思います。


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上は開戦の前の年1940年(昭和15年)10月に横浜沖で行われた皇紀2600年記念の特別観艦式の様子です。皇祖にあらせられる初代神武天皇ご即位に始まるわが大日本帝国建国2600年を祝い、戦艦、空母、重巡、軽巡、駆逐艦、潜水艦、その他の補助艦船など、大小合わせて総勢98隻の艦艇と500機以上の航空機を動員して盛大に行われたものです。しかし、これが日本帝国海軍の最後の観艦式となりました。

では、太平洋戦争開戦時点における日本海軍は、一体どれだけの艦艇を保有していたのでしょうか? これについては詳細な資料が数多く残っており、また軍艦にお詳しい方ならば良くご存知の事と思われますが、知らない方のために代表的な戦闘艦艇の実数を下に載せておきます。

戦艦・・・・・10隻
航空母艦・・・10隻
重巡洋艦・・・18隻
軽巡洋艦・・・20隻
駆逐艦・・・111隻
潜水艦・・・・64隻
海防艦・・・・・4隻

合計237隻

ちなみに、この時のアメリカ海軍の艦艇総数は以下の様になります。

戦艦・・・・・15隻
航空母艦・・・7隻
重巡洋艦・・・18隻
軽巡洋艦・・・19隻
駆逐艦・・・・176隻
潜水艦・・・・111隻

合計346隻(このうち駆逐艦と潜水艦の数は、資料によって内訳にかなりの変動があります。)

この様に、すでにこの時点において、日本はアメリカに対しておよそ7割の戦力しか持っていませんでした。この理由は、第1次世界大戦後の1920年代から1930年代にかけて、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの5大海軍国の間で結ばれた2回の海軍軍縮条約(戦艦や空母などの大型艦の保有量を決めた1922年のワシントン条約と、巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の保有量を決めた1930年のロンドン条約。)で、日本はアメリカとイギリスの高度な戦略によって、これら2カ国との艦艇保有数がおおむね7割に定められてしまった事に原因があります。

これらの条約は、結局1936年(昭和11年)に日本が脱退した事により崩壊しますが、これにより条約の制限がなくなり、思う存分好きなだけ軍艦を建造出来る様になった大日本帝国は、早速条約時代に造れなかった新型艦艇の建造に着手します。これは当初第3次海軍軍備補充計画(通称マル3計画)と呼ばれ、昭和12年から17年までの5年間に、大小合わせて66隻の新型艦を建造する予定でいました。しかし、その途中の1938年(昭和13年)に、アメリカが「ヴィンソン計画」と呼ぶ大幅な軍艦建造計画を進め始めたため、日本はこれに対抗して、従来の計画に加えてさらに第4次海軍軍備充実計画(マル4計画 昭和14年から19年までの5年間に大小80隻の新型艦を建造する。)を立てました。

このマル3、マル4計画によって建造される予定であった新型艦(戦闘艦艇のみ)の主なものと、それにかかる予算(「予算」ですので、実際にかかった金額はもっと大きくなります。)は以下の様になります。

戦艦・・・・・大和型4隻(1隻1億3千万円)
航空母艦・・・翔鶴型2隻、大鳳型1隻(翔鶴型1隻8500万円、大鳳型1億200万円)
水上機母艦・・日進型1隻(1隻2600万円)
軽巡洋艦・・・阿賀野型4隻、大淀型2隻(阿賀野型1隻2640万円、大淀型1隻3100万円)
駆逐艦・・・・陽炎型19隻、夕雲型11隻、秋月型6隻、島風型1隻(秋月型1隻1200万円、それ以外は1隻1千万円)
潜水艦・・・・伊号潜水艦各種40隻(1隻1300~1600万円)
海防艦・・・・4隻(1隻320万円)
掃海艇・・・・12隻(1隻220~260万円)
駆潜艇・・・・13隻(1隻160万円)
砲艦・・・・・大型2隻、小型2隻(大型1隻350万円、小型1隻120万円)

その他の補助艦艇を含め、合計140隻、総額24億円もの大プロジェクトでした。カッコ内に当時の金額を載せておきましたが、当時と今とでは物価も貨幣価値も全く違いますので、ピンとこないと思います。ちなみに、この時代の日本の年間国家予算はおよそ47億円ほど(現在は98兆円)で、1万円あれば家が1軒買え、1俵(60キロ)のお米の値段が13円ほど(現在は1万5~6千円)だったそうです。


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これから割り出すと、例えば上の戦艦大和の建造費は1隻で1億3千万円ほどですから、当時の大日本帝国の年間国家予算の2.7%という事になります。これを現在のわが国の国家予算に比例させると、なんとおよそ2兆7千億円というとんでもない金額になります。しかし、これは当時と現在の国家予算との対比で換算した金額であり、先のお米の値段を基準とした実際の物価変動で考えると、当時のわが国の国家予算47億円という金額は、現在の金額に換算しておよそ5兆6千億円程度になります。(現在の日本の税収は、消費税の増税の結果およそ54兆円余りですから、大体10分の1ほどですね。いかに当時の日本が貧しい国だったかお分かりいただけると思います。)同様に考えると、戦艦大和1隻の価格はおよそ1550億円という事になりますね。(あくまでど素人の個人的な試算です。笑)

さて、この日本の大建造計画を知ったアメリカは、従来のヴィンソン計画の予算を大幅に増やし、1940年(昭和15年)に「両洋艦隊」の建設を目指す海軍大拡張計画を打ち出します。これは太平洋と大西洋の2大洋に、同規模の戦力を持つ大艦隊を造ろうというもので、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの主要戦闘艦艇合わせて合計216隻、航空機に至ってはなんと1万5千機を増産するという大計画でした。(大西洋艦隊はヨーロッパのドイツを、太平洋艦隊は言うまでもなくアジアの日本をけん制するためのものです。)

この数字は、上に載せた当時の日本海軍の総戦力の9割にも登るものであり、これが実現すれば、既存の艦艇も合わせたアメリカ海軍の勢力は、旧式艦と新型艦を更新して差し引いても500隻を越え、マル4計画を終えて同様に旧式艦と新型艦を更新すれば、せいぜい300隻程度(それでも十分過ぎるほどの大艦隊だと思いますが・・・。)にしかならない日本海軍との間には圧倒的な差が付いてしまう事になります。(実際には、アメリカ海軍は500隻を越えても、その半数は大西洋に振り向けられるので、日本海軍が相手とすべき太平洋艦隊との戦力比は、数的には日本の方が若干優勢でした。)

これに焦ったのは日本海軍首脳部です。貧しい日本の国力では、どうあがいても物量や生産力でアメリカには敵わないのです。そこで日本海軍首脳部内で、これらのアメリカの新型艦艇が完成する前に先制攻撃をかけ、アメリカ太平洋艦隊を撃滅してしまうべきという考えが急速に浮上します。その考えの急先鋒であったのが、当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六(やまもと いそろく)海軍大将です。


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上が連合艦隊司令長官山本五十六大将です。(1884~1943)彼については、これまで数多くの映画やドラマに描かれ、彼にまつわるエピソードは枚挙に暇がなく、いずれ別のテーマで詳しくご紹介したいと思いますので、ここでは省略させて頂きますが、恐らく日本の軍人として最も人気のある人物ではないでしょうか。海軍武官時代に広くアメリカを旅行した彼は、アメリカの巨大な工業生産力には到底敵わない事を熟知していました。それゆえ、軍人でありながら断固日米開戦に反対し続けたのは有名ですね。しかしその彼も、いざ開戦となれば話は別で、限られた国力でアメリカに立ち向かうならば、アメリカの戦備が整わないうちに大打撃を与え、常に日本が攻勢を保つ事が重要だと考えていました。

この頃、すでにヨーロッパではヒトラー率いるナチス・ドイツによって第2次大戦が勃発しており、そのドイツと同盟していた日本に対し、アメリカは石油と鉄の輸出を全面禁止し、さらにアメリカにある日本の資産(アメリカの銀行に預けてあるお金など)を凍結する経済制裁を実施します。

もはや、日米開戦は時間の問題となりました。そこで日本海軍は、開戦に備えて新たに「戦時艦艇急速建造計画」(通称「マル急計画」を立てます。これは開戦に伴う戦闘によって失われる艦艇の補充用に計画されたもので、大小合わせて合計293隻、予算総額16億7千万円というものです。この計画で建造されるのは主に小型艦艇が多く、その主なものは以下の様になります。

重巡洋艦・・・2隻(1隻6千万円)
航空母艦・・・雲龍型1隻(1隻8700万円)
水上機母艦・・秋津洲型1隻(1隻4700万円)
駆逐艦・・・・夕雲型16隻、秋月型10隻(1隻1700万円)
潜水艦・・・・伊号12隻、呂号21隻(伊号1隻2千万円、呂号1隻500~800万円)
海防艦・・・・4タイプ30隻(1隻500万円)
掃海艇・・・・28隻(1隻370万円)
駆潜艇・・・・20隻(1隻300万円)
魚雷艇・・・・18隻(1隻230万円)
駆潜特務艇・・100隻(1隻78万円)

などです。(実際には、その後の戦局の進展による計画変更や物資の不足から、計画された293隻のうち、65隻が中止または取り止めになっています。)

ここで個人的に残念に思うのは、限られた予算と物資をかなり無駄な使い方をしているのではないかという点です。特に、魚雷艇や駆潜艇などの小型艦艇は、実戦でどれほど役に立ったか大いに疑問です。これらの小型艦建造の予算と物資を、もっと大型の駆逐艦や護衛の海防艦の建造に振り向けていればと思うと悔やまれてなりません。

さらに日本海軍は、数年後の増勢が目に見えているアメリカ海軍に対して、第5次海軍軍備充実計画(マル5計画)を策定します。この計画もすごいもので、総予算44億円、大小159隻の艦艇と3400機以上の航空機を、昭和17年から昭和25年までの8年間でそろえるというものです。(しかし、これはあくまで計画のみであり、実行される事はありませんでした。その理由はなんといっても費用が莫大過ぎたからです。)

そして迎えた太平洋戦争開戦、初戦の束の間の勝利の後、わが日本軍は先に述べたアメリカの戦備が整わないうちに短期決戦を狙い、運命のミッドウェー作戦を実行します。そして、アメリカ艦隊の待ち伏せ攻撃によって一挙に4隻もの空母を失った日本海軍は、急遽計画段階だったマル5計画を全面的に見直した「改マル5計画」を策定します。

これは、大小合わせて360隻もの艦艇を建造するという途方もないもので、先のマル5計画で考えていた3隻の大和型戦艦の建造を全て取り止め、またこれも11隻建造予定だった軽巡洋艦の数を2隻に減らし、その浮いた費用と物資で航空母艦の大増産と、駆逐艦、潜水艦、海防艦などを大幅に増強するというものです。

これにより、当初マル5計画で3隻建造予定だった空母は、改マル5計画ではなんと一気に18隻に増やされ、同じく潜水艦は45隻から139隻へ、海防艦も4隻から34隻へと大幅に増やされたのです。


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上は日本海軍が改マル5計画で建造した「雲龍」(うんりゅう)型空母です。全長227メートル、排水量1万7500トン、速力34ノット、53機の艦載機を搭載出来る中型空母で、日本海軍はこのタイプの空母を15隻計画しましたが、実際に完成したのは3隻のみで、しかもそれは大戦も終盤の1944年(昭和19年)8月以降でした。すでにその2ヶ月前のマリアナ沖海戦で、3隻の空母と400機以上の艦載機を失っていた日本海軍には、せっかく建造したこれらの新型空母に載せる搭載機はなく、また発着艦出来る熟練パイロットも多くを失っていました。

しかし、時はすでに遅すぎました。開戦から1年が過ぎ、アメリカは国内の工業地帯と造船所のドックをフル稼働させて、日本をはるかに上回る数の艦船の大増産を進めていたからです。


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上の3枚の画像は第2次大戦中にアメリカが建造した代表的な空母3種類です、1枚目はエセックス級空母で、全長270メートル、排水量2万7千トン、速力33ノット、およそ100機の艦載機を搭載出来る大型正規空母でした。アメリカはこの空母をなんと32隻発注し、その後戦局がアメリカに有利に進んだ事から8隻がキャンセルされ、合計24隻が完成しました。2枚目は軽巡洋艦を改造したインディペンデンス級空母で、全長190メートル、排水量1万1千トン、速力31ノット、30~40機の艦載機を搭載する軽空母です。このタイプは9隻建造されました。3枚目は、輸送船団を空から護衛したり、敵の潜水艦を空から沈める対潜攻撃機を載せた護衛空母です。これらは貨物船やタンカーを改造したもので、搭載機は20機程度、7タイプ合わせて実に76隻も建造されました。つまり、アメリカは空母だけで100隻以上も建造していたのです。

その他の艦艇ともなれば、もはや恐ろしい数です。これに対し、わが日本はすでに敗北の連続と戦局の悪化で必要な物資は入手困難となり、先に述べた改マル5計画で計画した艦艇で終戦までに建造出来たのは、予定の360隻には到底及ばず、先の空母雲龍を含めて完成はたった22隻という惨憺たるものでした。


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上は終戦直後に撮影された雲龍型空母の2番艦「天城」です。終戦間際、積む飛行機も動かす燃料もないこれらの空母は、アメリカ軍によって行われた昭和20年7月の呉軍港空襲によって大破し、なんの活躍も出来ないまま終戦を迎えたのです。しかし、この時沈んだ雲龍型空母のうちで1隻が奇跡的にアメリカ軍機の激しい攻撃をくぐりぬけて生き残った艦がありました。それが3番艦「葛城」(かつらぎ)です。

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上がその葛城です。この艦は飛行甲板に被弾して穴が開いたものの、エンジンには被害がなかったので、自力で航行する事が出来る日本海軍残存艦艇のうちで最大のものでした。

敗戦後、葛城には思いもかけない仕事が待っていました。それはその巨体と格納庫の収容能力を活かし、特別輸送艦として外地からの邦人の引き揚げを担当するというものです。葛城はそのために格納庫の仕切りを取り払う工事を施し、最大5千人もの人々や復員兵を乗せて、はるか南方の外地から日本へおよそ5万人の人々を送り届けました。(上の画像下の日の丸をつけたのが、終戦後「特別輸送艦」として人々の輸送に従事する葛城の姿です。)

1年後の1946年(昭和21年)11月、任務を終えた葛城は解体され、その姿を消しました。こうして大日本帝国海軍最後の空母は、戦場では全く何の役にも立ちませんでしたが、それよりはるかに有益で大きな仕事を最後に全うしたのです。

次回に続きます。

ニ号研究 ・ 大日本帝国の最後の切り札

みなさんこんにちは。

みなさんは、第2次大戦中にアメリカが行っていた原子爆弾開発計画、いわゆる「マンハッタン計画」について聞いた事がある方が多いと思います。そして、それにより作られた原子爆弾があの広島と長崎に投下され、一瞬にして20万もの人々が犠牲になった事は、われわれ日本人にとって消える事のない忌まわしい記憶となって刻み付けられている事は、今さらここで述べるまでもないでしょう。

そしてそれは、同時に人類がその歴史において、ついに「核兵器」という全てを滅ぼす事の出来る究極の最終兵器を持ってしまった瞬間でもあります。

この原爆と、それに呼応したソ連の対日参戦によって、わが大日本帝国はついに無念の敗戦に至ってしまうのは良く知られた流れですが、その原爆開発自体は決してアメリカだけが行っていた訳ではありません。実はアメリカとほぼ同時進行で、日本でも行われていた事実をご存知でしょうか? 今回はその知られざる戦時中の日本の原爆開発計画「ニ号研究」についてのお話です。

時は1941年(昭和16年)4月、日独伊三国同盟の締結と、日本軍のフランス領インドシナ(現ベトナム)進駐により、日米関係が悪化の一途を辿り、もはや日米開戦は時間の問題となっていた頃、帝国陸軍航空本部は、ある「新型爆弾」の研究開発を正式に開始するよう各機関に指令しました。その3年ほど前の1938年(昭和13年)に、ドイツの物理学者が原子核分裂によって膨大なエネルギーが得られる事を発見し、その情報は当時の科学雑誌などで日本でも知られており、その情報に接した陸軍航空本部では、これを利用した「ウラン爆弾」の開発を計画したのです。

そして、日本陸軍がその開発の責任者として選んだのが、当時理化学研究所にいた仁科芳雄(にしな よしお)博士でした。


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上が今回のテーマの主役である仁科芳雄博士です。(1890~1951)彼は「日本の原子物理学の父」といわれる優れた物理学者で、当時の日本の最高の化学者の一人でした。軍が彼に原爆開発を依頼したのはごく自然の人選でしたが、ご本人は戦争にはもちろん自らの研究が軍事利用される事にも反対していました。しかし、ご本人のそうした個人的なご意志とは全く正反対に、彼はその名を歴史に残す事になります。

さて、陸軍から正式に原爆開発の以来を受けた仁科博士でしたが、だからといってすぐにそれに着手したわけではありませんでした。何しろ当時今だに誰も作り出したもののない物をこれから作り出そうというのです。いかに彼が優秀な物理学者であっても一朝一夕で出来るものではありません。まずは当時の日本の技術力でそれが可能かどうか十分な調査研究が必要です。やがて始まった太平洋戦争開戦から2年余り、彼はそれらに時間を費やします。

そして大戦も中盤の1943年(昭和18年)5月、ついに彼は「ウラン爆弾」の開発が可能であるとの報告書を軍に提出します。戦局の悪化に苦しんでいた軍はこれに飛びつき、仁科博士に原爆開発の続行を指示します。この計画は最高軍事機密として仁科博士の頭文字を取り、「ニ号研究」と命名され、仁科博士は開発に必要な人材、物資の調達、予算の確保に飛び回り、理化学研究所内で原爆開発が開始される事になりました。


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上の画像1枚目は原子核分裂に必要な「サイクロトロン装置」を操作している仁科博士で、2枚目は部下の科学技術者たちとともに装置を設置する仁科博士です。

こうして仁科博士を筆頭に優秀な人材が揃い、開発に必要な資材も軍から優先的に配分され、いざ原爆開発に取り掛かろうとした矢先、困った問題が起きてしまいます。それは原爆製造に必要不可欠な燃料、すなわち「ウラン」が日本国内でほとんど産出されないのです。慌てた軍は、当時日本帝国の占領下にあった朝鮮、中国大陸、東南アジア一帯まで方々手を尽くしましたが、どこにもウランは見つかりませんでした。

ここで余談ですが、日本国内で「ウラン鉱石」が発見されたのは、戦後の1954年(昭和29年)の事であり、岡山県と鳥取県の境に位置する「人形峠」という場所だったそうです。ここで採掘されたウラン鉱石を元に、日本で最初の濃縮ウランが製造され、これも日本初の原子力発電所の燃料に利用されたそうですが、その後、世界中でウラン鉱山の採掘が盛んになったために、海外の安いウランを輸入した方がコストの面で有利との判断から、現在この鉱山は閉山されています。(「閉山」と書きましたが、実際はウラン鉱石が枯渇したからではなく「いざ」という時のために、貴重なウラン鉱石を温存して置きたいというわが日本政府上層部の政治的思惑もある様です。)

そこで陸軍は、同盟国ドイツからウランを購入し、潜水艦でこれを日本まで運ぶ作戦を立てました。しかし、時は1945年(昭和20年)に入り、状況は切迫していました。すでに日本帝国海軍連合艦隊は、アメリカ艦隊との度重なる海戦で一方的に敗退を繰り返し、その水上戦闘艦艇の大半を失って壊滅状態にありました。アメリカ軍の大型戦略爆撃機B29の大編隊による日本本土への空爆も始まり、日本軍は戦局打開のために藁をもすがる思いで原爆開発に望みを繋ごうとします。

ドイツから日本への潜水艦によるウラン輸送作戦は、ただちにベルリンの日本大使館に指令され、1945年(昭和20年)3月、ベルリン駐在の日本大使館付き海軍武官であった友永英夫技術中佐と庄司元三技術中佐がその実行役としてドイツ潜水艦「U234」に乗艦し、最新のレーダーにロケットエンジン、設計図、ドイツ第一級の技術者らとともに、最も重要な積荷である「ウラン235」560キロを積んで、一路日本への大航海に出発しました。(日本からは、ドイツに対してそれらの対価として相応の金塊を支払う予定だった様です。ドイツの潜水艦は無事に日本へ到達してから積荷のウランその他の重要物資を陸揚げして日本側に引き渡した後に、今度は日本側から「後払い」で支払われた金塊を積み込んでドイツ本国に戻る訳です。)


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上がこのウラン輸送作戦の日本側の実行者の1人である友永英夫中佐です。(1908~1945)彼は東京帝国大学(現東京大学)工学部を卒業後海軍に技術士官として任官した日本海軍のエリートで、とりわけ潜水艦を専門分野とし、30代前半の若さで数々の優れた技術装置を発明していました。開戦後にドイツの最新の技術取得のため、伊号潜水艦でドイツに渡り、それらを集めていた所に今回の任務が彼に降りたのでした。

しかし、この日本とドイツの動きをいち早く察知していた巨大な存在がいました。それは日独共通の敵アメリカです。アメリカは、日本とドイツの暗号を傍受してそのほとんどを解読しており、今回の作戦もアメリカには事前に漏れていたのです。

1945年(昭和20年)4月、ウランを積んだU234号潜水艦が、ドイツ占領下のノルウェー、クリスチャンセンを出航したとの情報を得たアメリカ海軍では、ジェイムズ・フォレスタル海軍長官が早朝から海軍の提督たちを海軍省に呼び集め、緊急会議を開きます。


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上の画像1枚目が当時のアメリカ海軍長官ジェイムズ・フォレスタル(1892~1949)で、2枚目はフォレスタルと海軍首脳たちです。

朝早くからたたき起こされ、まだその事情を知らない海軍の司令官たちは、不機嫌そうに皮肉を交じえてフォレスタル長官にこう言い放ちます。

「朝まで待てないほど重要なご用件の様ですな。一体何事の騒ぎですか?」

「諸君に集まってもらったのは他でもない。現在ドイツから日本へ1隻のUボートが向かっている。その積荷がやっと分かった。」

「ほう。それは何です?」

「ウラニウムだ。」

「ウラニウムですと!」

海軍の首脳たちは一斉に声をそろえて驚愕します。

「ドイツから日本へ、ウランを運ぶ計画があることは察知していた。問題はその手段と時期だが、それがやっと分かったのだ。」

「Uボートか。しかし、まだ原爆を作る技術は日本には無いでしょう? それに日本にそれが出来る化学者などいるのですか? どうです?」

海軍の提督たちは口々にフォレスタルに質問を浴びせかけます。

「いやいる。ニシナ博士と彼の率いる化学チームだが、開発はわが国よりはるかに遅れている様だ。ニシナ博士も理論的には原爆の製造法を知っているが、日本とその占領地域ではウランが取れないので、連中もそれ以上は事を進められなかった。そこでドイツだ。」

重苦しい沈黙が彼らを覆います。やがて提督の1人が口を開きました。

「これは放っては置けませんな。もしウランが日本に運ばれ、奴らが原爆を完成させれば、敵はわが艦隊の頭上からこれを投下する事でしょう。そうなればひとたまりもありませんぞ。」

海軍首脳たちはその有様を想像してみな一様に青ざめた表情を浮かべます。フォレスタル長官もそれに同意し、そして次の様に全海軍に命じました。

「その通りだ。ウランがヒトラーからヒロヒト天皇の手に渡る前に、海軍の全力を挙げて何としてもそのUボートを沈めて欲しい。」

こうして大西洋全域にアメリカ海軍の総力を上げた一大捜索網が展開されたのです。一方そんな事は全く知らないU234号は、先に述べた日独の関係者を乗せ、敵に見つからないよう昼間は潜航し、4ノット(時速およそ7.4キロ)という緩いスピードで進んでいましたが、そうしてノロノロとしているうちに日本側にとって思いもよらない事態が起きてしまいます。

1945年(昭和20年)4月30日、ソ連軍がベルリン市内に突入してベルリンは陥落、ヒトラー総統はカール・デーニッツ海軍元帥を後継者に指名して自殺したのです。それから1週間後の5月7日、デーニッツ元帥は全ドイツを代表して連合軍に降伏してしまいます。これにより大日本帝国にとって唯一の同盟国であり、頼みの綱であったナチス・ドイツ第三帝国は崩壊し、今やかつての枢軸国で残るのは日本1国のみとなってしまったのです。

ドイツ降伏の知らせはU234号にも届きます。艦長らドイツ側はデーニッツ元帥の命令に従って連合軍に降伏する道を選び、それを日本の友永中佐らに伝えます。もちろん友永中佐は抗議しましたが、結局乗組員の安全を第一に考える艦長の心情を理解し、抗議を取り下げます。日本の運命をかけた極秘任務を遂げられなかった彼らに残された最後の道はただ1つ、おめおめと敵の捕虜になるくらいなら、栄光ある日本帝国軍人として潔く自決する事でした。(友永、庄司両中佐は多量の睡眠薬を飲んで自決されました。両人の遺体はドイツ側の手で手厚く水葬されたそうです。涙)

もはや全ての束縛から解放されたU234号潜水艦は5月中旬、浮上して北大西洋上でアメリカの駆逐艦に降伏し、ウラニウムその他、日本へ運ばれるはずだった物資は全てアメリカ軍に没収され、これにより日本の原爆開発計画は完全に不可能となったのでした。


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上の画像はその時の様子です。

一方日本でウランの到着を待ちわびていた仁科博士ら原爆開発グループでしたが、彼らにも災厄は降りかかります。U234号が降伏した2日前の5月15日、理化学研究所内に完成されていた原爆製造に不可欠なウラニウムを濃縮するための装置である熱拡散装置がアメリカ軍の空襲で破壊されてしまったからです。ここに至って日本軍は原爆開発を完全に打ち切り、仁科博士らの数年がかりの苦労は水泡に帰してしまいます。そして3ヵ月後、わが国は8月15日の敗戦を迎える事になるのです。

ここで今回のお話のエピローグを載せておきましょう。

今回のテーマの主役である仁科芳雄博士は、終戦直前に広島と長崎に相次いで投下されたアメリカの原爆の調査のためにそのわずか2日後に現地に向かい、それが自らが作ろうとしていた原子爆弾である事を政府に報告し、それがポツダム宣言受諾の一因になっています。その彼の元に、日本降伏後直ちに連合国軍最高司令部すなわちGHQの手が伸ばされます。その目的は言うまでもなく彼らが行っていた一連の原爆開発と、その全ての施設の差し押さえと研究成果の押収です。


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上は研究所から運び去られるサイクロトロン装置です。この装置自体は、原爆開発というよりも原子物理学の様々な実験に必要なものなのですが、この時アメリカ軍関係者は、理化学研究所内に仁科博士らが建設した様々な核研究施設を目の当たりにして、その進展が今だ基礎的段階に過ぎないものにもかかわらず、そもそも日本が原爆を作ろうとしていたという事自体に驚き、ほとんど恐怖心に近い状態で一刻も早く「日本の手からこれらを奪い去りたい」ただ一心で、手当たり次第に施設を破壊、それらをスクラップとして東京湾などに沈めてしまいます。(この時の仁科博士のご心情はいかばかりであった事でしょうか。)

その後博士は、1946年(昭和21年)に理化学研究所の所長に就任しますが、

「かつて原爆を作ろうとしていた中心人物の物理学者を所長にするなど論外だ。理化学研究所の存在自体を消滅させるべきである。」

というGHQの意向で理化学研究所は解体されてしまいます。その後仁科博士は戦後創設された「文化勲章」の最初の授与者として、昭和天皇の御手からこれを賜る栄誉を得ますが、この頃から体調を崩す事が多くなります。そして1951年(昭和26年)1月、日本の独立と占領軍の撤退を見る事無く60歳で亡くなりました。(彼の死因に付いては、長年原子物理学には付きものの放射線の研究に携わっていた事や、先に述べた広島と長崎の原爆調査にわずか2日の早さで出向いた事から、いわゆる「残留放射能」を浴びてしまった事からではないかなどの複合要因が指摘されています。)

戦中のわが国が、原子爆弾を完成させる事が出来なかったのは、いくつかの要因があります。まず第一に燃料であるウランやプルトニウムの欠如、第二にアメリカと比較した研究開発予算の圧倒的な差があります。日本がこのニ号研究に投入した予算は、当時のお金でおよそ2千万円程度だったそうです。といわれてもピンと来ないと思いますが(笑)ちなみに日本海軍の主力潜水艦である伊号潜水艦1隻分の建造費用がほぼ同じ金額であったそうです。つまり当時の日本軍人たちの頭では、「これだけあれば十分だろう。」という事で、その範囲内で完成させろという無理な注文を仁科博士らに課したのです。

ところが、アメリカが原爆開発に投じた費用は、当時のお金でなんと103億円以上というのですから比較になりません。さらにアメリカは原爆開発に総勢12万人もの技術者・研究者を総動員していましたが、対するわが日本側は仁科博士を筆頭にせいぜい数十人に満たないというお寒いものでした。こうした科学技術というものに対する日米両国の力の入れ方や考え方の違いが、日本が原爆を完成出来なかった第三の理由であると思います。

しかしわが国にとって、結果的にはその方が良かったのかも知れません。なぜなら第2次大戦後、アメリカをはじめロシア、中国などいくつかの国々が核兵器を開発し、その勢力を競いましたが、それらの核兵器は逆にそれを持つ国々に「恐怖の重荷」を背負わせる事になっているからです。

戦前のわが大日本帝国は、単純に言えば

「どの国よりも強くなりたい。」

という考え方で興隆しましたが、それは周辺国との対立を生み、当然の帰結としてその目論見は失敗、惨めに崩壊しました。やがてその反省から、今度は

「どの国よりも豊かになりたい。」

という考えで再出発し、国民のたゆまぬ努力で世界もうらやむ豊かな国家として見事な成功を遂げました。それはみなさん誰もが周知の事実です。わが国が、この繁栄を未来永劫末永く続けていけるかは、ひとえに私たち末端の日本国民の意識にかかっており、私たちはそれぞれの置かれた立場で全力を尽くす事で、今日の繁栄を後の世代に引き継いでいく神聖な義務があるのです。

この「大日本帝国はなぜ敗れたのか?」というテーマはここで筆を置こうと思いますが、いかがだったでしょうか? これはあくまで自分の勝手な命名ですが、かつてのわが大日本帝国は「偉大なる失敗国家」の見本と呼べるものではないかと思います。成功は失敗からという格言の通り、現在のわが日本政府上層部の方々には、大日本帝国の二の舞にならないように、天皇陛下と国民に滅私奉公の精神で国を導いていただきたいと強く願う次第であります。

終わり。

恐るべき日本核武装計画 ・ 宰相佐藤栄作の極秘指令

みなさんこんにちは。

みなさんは現在、世界にどれだけの数の国があるかご存知でしょうか? 外務省の最新のデータによれば、現在この地球上には196の国があるそうです。(2013年時点)そしてその中で、国連に加盟している国は193カ国に上ります。(加盟していないのは、宗教上の理由から加盟していない「世界で最も小さい国」として知られるバチカン市国や、独立したばかりで加盟準備が出来ていない国などです。)

さらにその中で、核兵器を保有している国は8カ国あります。言わずと知れたアメリカとロシアをはじめ、イギリス、フランス、中国の5カ国に、東西冷戦終結後、「自衛のため」に世界の反対を押し切って核兵器を開発したインド、パキスタン、北朝鮮です。それ以外に、公式ではありませんが中東のユダヤ人国家イスラエルが核兵器を持っているといわれています。(「いわれている。」というより、確実に持っているでしょう。なぜならイスラエルと4回に亘る熾烈な中東戦争を繰り返したアラブ諸国が、その後1度もイスラエルと戦争していないのは、もしイスラエルを攻撃すれば、彼らは間違いなく核で反撃して来るので、周辺のアラブ諸国の方が危険だからです。)

「核兵器」 それは原子核分裂による膨大なエネルギーによって、鋼鉄をも溶かす高温の熱線と猛烈な爆風で、地上の生きとし生けるもの全てを一瞬にしてこの世から消滅させる威力を持つ、人類がこれまでに作り出した究極の最終兵器である事は誰もがご存知ですね。そして世界196カ国の中で、その核兵器による攻撃を唯一受け、筆舌に尽くせない被害と惨めな敗戦により300万以上の尊い人命を失い、その自虐的な反省から「平和国家」なる妄想的理想を掲げているのが今日のわが日本です。

その世界で唯一の被爆国にして「平和国家」である日本で、かつて政府が核兵器を保有しようと具体的な検討と調査研究を進めていたという恐るべき事実をご存知でしょうか? 今回はその「幻の日本核武装計画」についてお話したいと思います。

話は1964年(昭和39年)にさかのぼります。

この年の10月10日、わが国ではアジア初の東京オリンピックが開催され、国内はこの一大イベントに浮かれ騒いでいました。あの惨めな敗戦と見る影も無い無残な焼け跡からわずか19年、日本は国民のたゆまぬ努力によって世界が驚嘆する驚異的なスピードで復活を成し遂げ、その日本復活の国家的シンボルイベントともいうべき夢の祭典であるオリンピックに国民が酔いしれていた頃です。


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上は第18回国際オリンピック東京大会開会式におけるわが日本選手団の入場行進の様子です。名誉総裁として昭和天皇が開会の宣言をお読みになられ、当時のわが国はこの盛大なスポーツイベントに、上は天皇陛下から、下は街角の子供たちに至るまで心躍らせていました。またこのオリンピックに合わせ、これもアジア初の超特急「新幹線」が少し前の10月1日に開業し、全国では高速道路の建設が急ピッチで進められるなど、日本はその歴史上初めて経験する空前の高度経済成長時代の真っ只中にありました。

しかし、日本政府と国民がその夢のオリンピックに夢中になっていたわずか1週間後の10月16日、日本政府を驚愕させる事態が起きていました。隣国中国がアジアで初の核実験に成功したのです。


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上の画像1枚目がこの時に中国が実験に使用した核爆弾のレプリカで、2枚目がその時のキノコ雲です。写真で見るとずんぐりむっくりした形をしていますが、これはこの爆弾が、長崎に投下されたタイプと同じウラニウム型核爆弾で、構造上この様な丸みを帯びた形になるのだそうです。そして3枚目が実験が行われた新疆ウイグル自治区の位置です。実験はなんとあの「さまよえる湖」と消えた幻の都市国家「楼蘭王国」で知られる有名なロプ・ノール周辺地域で行われました。もし古代へのロマンに魅せられて、この放射能まみれの地域に旅行など計画されている方がおられましたら、「絶対に」お止めになる事を心からご忠告いたします。

この現在「新疆ウイグル自治区」なる名で呼ばれる「新疆」とは「新たな征服地」を意味し、かつてこの地を征服した中国最後の王朝である清王朝でそう呼んでいた事に由来しています。つまりチベットと並んでこの地はもともと中国ではないのです。また、この地で中国はこれまでに合計40回以上もの核実験を住民へ知らせもせずに行い、この地域の数十万のウイグル人が放射能汚染の犠牲となって死亡し、その影響から現在も3万人以上の奇形児が次々に生まれてきてしまっているそうです。「中国」という国がどういう国なのか、多くの国民の方々に知って頂きたいものです。(怒)

さて、日本ではこの事実に最も脅威を感じていた人物がいました。その人物とは、オリンピック終了直後に就任した時の佐藤栄作首相です。


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上が当時の内閣総理大臣佐藤栄作氏です。(1901~1975)彼は前回お話した岸信介元首相の実弟で(兄信介氏の姓が違うのは、信介氏が佐藤家の婿養子であった父の実家である岸家を継ぐために、岸家の養子になったためです。戦前の日本はこうした封建時代の厳格な家督相続の制度がありました。)兄と同じく東京帝国大学(現東京大学)法学部を出て鉄道省に入省しましたが、早くから順調にエリート官僚の道を進んだ兄と違い、若い頃の彼は長い地方勤務や左遷などでかなり苦労した様です。しかしこうした苦労が、後に彼をしたたかな政治家へと成長させ、日本の歴代首相で最長となる7年8ヶ月もの長期政権を実現させる事になりました。(現安倍信三首相の母方の大叔父に当たる人です。)

佐藤首相は就任から2ヵ月後の1965年(昭和40年)1月に訪米し、日米首脳会談で当時のアメリカのジョンソン大統領にこの中国の核実験成功と、これに対する「懸念」を伝えます。しかしこれは、日本首相としての彼の立場上の遠まわしの表現であり、個人としての彼は、これを日本に対する大きな脅威であると断じ、はるかに踏み込んだ考えをジョンソン大統領に伝えていました。

「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきと考えている。」


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上が会談するリンドン・ジョンソン大統領(1908~1973)と佐藤首相です。ジョンソン大統領は暗殺された先代のケネディ大統領の後任として副大統領から昇格し、政権を引き継いでいました。理想主義で議会との対立が多かったケネディの失敗から、巧みな議会工作で人種差別撤廃の公民権法を成立させるなどの功績の傍ら、当時激化していたベトナム戦争に一気に「ケリをつける」ために50万を越える大軍を送り込む積極攻勢で、逆に泥沼の戦いに陥ってしまいます。

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上は佐藤首相が日本と中国が戦争になった場合に、アメリカに中国を「先制核攻撃」する事を希望したという驚くべき事実を掲載した新聞記事です。彼はそこまで考えていたのです。

個人的とはいえ佐藤首相のこの発言にジョンソン大統領は驚き、彼にそれを思いとどまらせるよう説得します。この時は2人の個人的見解を述べるに留まりましたが、この佐藤の発言がジョンソンに与えた影響は大きかった様です。アメリカはその後「核軍縮」の名の下に、これ以上核兵器保有国を増やさないため(というよりこれ以上他の国に「核兵器を持たせない」ため。)たまたま核兵器保有国が国連の常任理事国5カ国と同じであった事を良い事に、1968年(昭和43年)7月に「核拡散防止条約」(NPT)を制定、各国にこの条約への加入を促し、62カ国がこれを批准します。

当然日本も真っ先にこの条約を批准したと思われるでしょうが、実は以外にもわが国はこの条約の批准を先送りしていました。確かにこの条約により、これ以上核兵器保有国が増える心配はなくなりましたが、佐藤首相の懸念と不安は払拭されたわけではなかったからです。また日本政府内では佐藤首相と同様の危機感を持つ者が多数いると同時に、それとは別の考えを持っていた者たちがいました。というのも、この条約は「核軍縮」の大義名分の下に、経済成長で力を付けた日本やドイツ(当時は西ドイツ)などに核兵器を持たせない事が目的であったからです。

「これを批准すれば、わが国は永久に2流国として格付けされる事になる。それだけは絶対に耐え難い。」

日本政府内ではこうした意見を持つ政治家や官僚が多く、それが日本のNPT参加保留の大きな理由でした。彼らは日本が唯一の被爆国であるといった情緒的な理由で頭から核兵器を持たないというのではなく、日本国家の至高の利益が脅かされる様な緊急事態になれば、日本も自衛のために核武装して当然であると考えていたのです。

そこで佐藤首相は、首席秘書官ら側近たちにある極秘指令を命じます。それはなんと日本が核武装するに当たり、その技術的かつ物的な可能性を調査研究し、報告せよという驚くべきものでした。側近たちは早速その指令を政府直属のある「特殊機関」に実行させます。その特殊機関とは、日本の国家情報局ともいうべき内閣調査室でした。(現在は「内閣情報調査室」略して「内調」と呼ばれています。)


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上が内閣調査室のある内閣府の建物です。現在内調はおよそ170名ほどで構成され、そのほとんどが警察官僚出身者である様です。

内調はその極秘任務のために、当時の日本の第一線級の核物理学者や安全保障の専門家、防衛庁の担当幹部らも集め、極めて詳細な調査研究を行い、それを報告書にまとめて上層部(つまり佐藤首相)に提出しました。その主な内容は以下の通りです。

1 核爆弾製造の技術

2 核物質製造の技術

3 ミサイルに使うロケットの技術

4 目標を正確に攻撃するための誘導装置の開発技術

さらに核兵器の原料となるプルトニウムの製造法などです。そして報告書は結論として「原爆を少数製造する事は可能であり、比較的容易である。」としています。

では、当時の日本に内調が報告した様な核兵器開発の技術が果たして本当にあったのでしょうか? 実はそれがあったのです。ちょうど1966年(昭和41年)7月、日本で最初の原子力発電所が茨城県東海村で稼動を開始していたからです。報告書は、この東海原子力発電所で核爆弾の製造に必要な純度の高いプルトニウムが年間100キログラム以上取り出す事が出来るとしています。これは長崎に投下された原爆を10発以上製造出来る量でした。


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上が日本初の東海原子力発電所です。この発電所は1998年(平成10年)に老朽化により稼動を停止、現在廃炉作業が進められています。(この原発は出力が16万キロワット程度と小さいのですが、それでも年間10発もの核爆弾を作れるだけのプルトニウムが抽出出来たのですから、その後に全国に建設されていった100万キロワットを越える大出力の原発を合わせれば、恐ろしい数の核兵器を製造出来る事になりますね。驚)

しかし内調の報告書は、日本の核武装について「容易に可能であるが、その実現には大きな困難がある。」と結んでいます。なぜなら日本が核武装すれば、周辺国はもちろん日本にとって最大の(というより唯一の)同盟国アメリカをも敵に廻す事になり、また広島と長崎の経験から国民も大反対する事が目に見えていたからです。

報告書を読んだ佐藤首相は、これにより最終的に核兵器開発の構想を断念したものと思われます。しかし、これでは彼が最も恐れた中国の核兵器に対して日本を防衛する手立てが無くなってしまう事になります。そこで彼は1967年(昭和42年)の2度目の訪米で、ジョンソン大統領にその意向を「日本の意思」として伝えます。その代わり、彼はアメリカに対して次の様な要求を求めました。

「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守るという約束を期待しています。」

それに対し、ジョンソン大統領はこう答えたそうです

「私が大統領である限り、我々の間の約束は守りましょう。」

同時に佐藤首相は、当時のロバート・マクナマラ国防長官にもこう言っています。

「日本の安全確保のために核兵器を持たない事ははっきり決心しているのだから、日本は米国の核の傘のもとで安全を確保する事に致します。」

こうしてわが日本は、戦時における自国の防衛を大きくアメリカに依存する道を自らの意思で選択したのです。この選択は日本としては、当然の帰結としてやむをえないものでしたが、先に述べた政府内のNPT反対派は不満をあらわにします。

「これではわが国は、2流国どころか自国の防衛すらアメリカに依存する属国になってしまうではないか。」

帰国した佐藤首相を待っていたのはこうした政府内の大きな不満でした。そこで彼はこうした不満を取り除くために新たな方策を講じる必要に迫られます。そこで彼の側近たちが考え出したのが「非核三原則」でした。これは核兵器を

「持たず、作らず、持ち込ませず。」

という3つの単語を並べた、まるで小学生の標語の様な極めて単純なものですが、実はその単純さの裏には、その表す言葉の意味の他に、もう一つの秘められた大きく複雑な事情と目的が込められていました。

「彼らNPT反対派は、日本が核保有国とならぶ超大国として世界を主導していくのを望みとしている。ならばわが国は核兵器を持てない以上それを逆手に取り、唯一の被爆国という他国に無い強みを生かして逆に核兵器廃絶を世界に訴える事で、別格の存在として世界をリードして行けば良い。」

この非核三原則は1968年(昭和43年)1月に佐藤首相の施政方針演説で披露されました。

「われわれは、核兵器の絶滅を念願し、自らもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意であります。」

佐藤首相は国会演説で高らかにこれを読み上げます。しかし当の佐藤首相は、この非核三原則を「ナンセンスだ。」と言って嫌っていたそうです。(本来極秘で核武装を計画したほどの人物ですから当然ですね。しかし彼は、首相としての立場と政権維持のために政府内の不満派を抑える必要があったのです。それにしても、これほど表と裏で行動と考えが別なケースは、他に例を見ないのではないでしょうか?)とはいえこの非核三原則は国会で決議され、その後日本の「国是」となるのです。

それでも、政府内の不満派を完全に納得させる事は出来ませんでした。その筆頭が日本の外交政策を司る外務省の幹部たちです。彼らは日本が「超大国」として世界に君臨するための手段として、日本の核武装を完全否定出来ずにいたからです。そこで外務省幹部らは1969年(昭和44年)2月、世界で日本と同じ立場にあり、かつて第2次世界大戦でともに戦い敗北した同盟国ドイツ(当時は西ドイツ)に極秘で会談を申し入れ、日独両国で連携して核保有を目指そうと協力を要請します。


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上がその日独極秘会談におけるドイツ側の代表であった当時の西ドイツ外務省の政策企画部長エゴン・バール氏です。(1922~)彼は後に西ドイツ首相府副長官(日本で言えば内閣官房副長官でしょうか。)となり、東西ドイツ統一にも大きく貢献した人物です。

第2次大戦の同盟国であった日独の接近は他国(とりわけアメリカ)を警戒させてしまう事から、会談は箱根の旅館で「接待」という形で極秘に行われました。この極秘会談で日本の外務省幹部らは、バールとその部下の参事官らドイツ側に次の様に話を切り出します。

「日本と西ドイツは、アメリカからもっと自立する道を探るべきです。そのために両国が連携する事が、超大国になるために重要だと思います。」

これに対し、バールらはこう答えます。

「あなた方日本とわれわれ西ドイツのおかれている状況は違いすぎます。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定は出来ないのです。」

慎重なドイツ側に対し、日本側はさらに踏み込んだ発言をします。

「15年以内に、インドなど中国以外の他のアジア諸国が核兵器を保有する様な非常事態が起こるものと考えています。その場合、わが国は核保有を検討せざるを得ません。それにわが国は、憲法9条がある事で平和利用の名の下に、すでに誰にも止められる事なく原子力の技術を手にしています。日本は核弾頭を作るための核物質を抽出する事が出来るのです。」

この極秘会談は、結局双方のおかれた立場の違いから物別れに終わりましたが、とかく「弱腰外交」と批判される事の多いわが日本外務省が、なんとアメリカすら欺きながら、この様な強硬的な裏取引を他国と交わしていたという事実は、極めて興味深い出来事として記憶に値するでしょう。

さて、最後にこの極秘の日本核武装計画の主役である佐藤首相のその後についてお話しておきましょう。彼はその後、1965年(昭和40年に)の日韓基本条約締結や、1968年(昭和43年)の小笠原諸島に続いて1972年(昭和47年)の沖縄のアメリカからの返還を実現させ、先送りしていた核拡散防止条約にも1970年(昭和45年)に署名(批准はさらに遅れて6年後の1976年。やはり政府内の反対は根強かったのでしょうか?)国内においては、1967年(昭和42年)に高度経済成長の負の遺産である公害対策基本法の制定や、1970年(昭和45年)の大阪での日本万国博覧会の開催などといった功績を上げます。高度経済成長の助けもあって、7年8ヶ月という日本歴代首相で最長の長期政権を維持しますが、当時の自民党内部ではさすがに「政権が長すぎる。」と他の派閥から遠まわしの勇退を薦められます。

その意を理解した彼は1972年(昭和47年)7月に退陣し、あの「ロッキード事件」で有名な「コンピューターつきブルドーザー」(笑)こと田中角栄が次の首相となったのは、昭和世代の方なら良くご存知でしょう。


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上は政権を田中角栄に移譲する佐藤栄作です。

退任後の佐藤氏は、1974年(昭和49年)12月に、日本人としては初めてのノーベル平和賞を受賞します。受賞理由は「非核三原則」を打ち出し、世界に先駆けて核軍縮に大きく貢献したというものでした。


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上はノーベル平和賞受賞の電報を受け取って笑顔を見せる佐藤元首相です。しかし、その笑顔の裏で、彼はその受賞理由とは全く正反対の考えで、極秘に核武装を計画した中心人物であった事は、この世でこれ以上ないほど皮肉な事でした。当のご本人は、本来のご自身の意思とは相反する受賞理由という運命的な皮肉に、内心なんと思っていたのでしょうか?

それから40年以上の時を経た今日、わが国の周辺では隣国中国が再び不穏な動きを見せ、日本やフィリピン、ベトナムなどとの間で領土領海を巡って激しい対立が生じています。現在わが国は、その中国の動きをけん制・封じ込めるためにアメリカと共同で南西諸島方面の軍事力を強化し、最新鋭の艦艇と戦闘機を続々と増強配備していく計画です。海上航空戦力で日米に敵わない事を最も良く分かっている中国が、最後の切り札として持ち出して来るのは当然核戦力でしょう。

現在のわが日本政府がこの時にどうするつもりでいるのかは分かりません。しかし、実際にそんな非常事態に立ち至り、核戦争の危険から自国を守るためにアメリカが日本防衛を放棄する様な事になれば、わが日本はそこは怖い国で、「非核三原則」などあっさり捨てて、必ず躊躇する事なく速やかに核戦力を保有するでしょう。

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日本が核武装する可能性は、非核三原則の出現によって決して消滅してしまったのではありません。それは今でも日本政府の中で生き続け、日本国家存亡の最後の究極の手段として残されているものと思われます。なぜならわが国は「3日もあれば」核兵器を持てるほどの国なのですから。ご興味のある方は上にご紹介する本をどうぞ。あの田母神俊雄(たもがみ としお)元航空自衛隊空将(空軍大将に相当)閣下の著作の一つです。氏は航空自衛隊(いつまでこの曖昧な名で呼ばなければならないのか。早く「日本空軍」と呼びたいものです。)航空総隊司令官や航空幕僚長を歴任し、わが皇国の空を守った現代の軍人です。

私たち日本国民は、国家に対して経済活動ばかりではなく、外交と国防という国の存亡に関わる重大事案にも注目し、上層部の人々に一任してしまうのではなく、もっと国民的な議論を盛んにしていくべきであると痛切に考えます。40年以上前の「幻の日本核武装計画」は、それを今日のわれわれ日本国民に突きつけているのです。

終わり。

三無事件 ・ 知られざる日本クーデター計画

みなさんこんにちは。

平成27年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

当ブログ開始以来、ヨーロッパ関連の歴史ばかり書いてきたので、今回からは気分を変えて日本に舞台を移し、新たなテーマとして「知られざる日本の秘密計画」と題し、われわれ日本人があまり知らない戦後日本の「闇」の部分にスポットを当てた短編ものを2つほどお話したいと思いますので、興味を持たれた方はお立ち寄りください。

みなさんは「クーデター」という単語を時折国際ニュースなどで耳にされる事と思います。これは元は「国家への攻撃」を意味するフランス語で、大抵は政情不安な発展途上国などにおいて、その国の軍隊の司令官などが武力で現政府を倒し、時の大統領ら政府首脳を逮捕、投獄、処刑または追放して(最近は事前に察知して早々に脱出しているケースが多い様ですが。笑)全権を掌握し、その後に形ばかりの選挙をして、圧倒的多数の得票を得て自らが大統領なり首相となって独裁政権を開くというパターンを繰り返している場合が多いです。

わが国や欧米諸国をはじめ、法と秩序、高い知識と教養を持つモラルの高い国民によって形成された民主主義を基本とする今日の先進国ではもはや起こり得ない、少なくとも第2次世界大戦後はこれらの国では一度も起きていない、まさに旧世代の過去の異物というべき無法行為でしょう。

しかしそのクーデターが、かつて一部の極右集団によって戦後のわが国で実際に計画され、あわや実行される寸前であったという事実を、一体どれだけの人がご存知でしょうか? 今回はその知られざる幻の日本クーデター計画「三無事件」(さんむじけん)についてスポットを当ててみたいと思います。

事の起こりは1960年代(昭和30年代)に始まります。

当時日本は、1960年(昭和35年)1月にアメリカとの間で結んだ2国間の軍事同盟、つまり「日米安全保障条約」をめぐる一連の大騒動で国内が揺れに揺れていました。この日米安全保障条約というのは、みなさんもニュースなどで飽きるほど耳にしてきたものと思いますが、改めて簡単に説明させてもらえば、東西冷戦下における日米両国の安全保障のために、日本にアメリカ軍が駐留する事(もちろんその駐留費用は日本の負担です。みなさんもご存知の「思いやり予算」ですね。確か毎年1千億円程度払っているはずです。)を定めたもので、10年を期限とし、その後は一方の希望により1年前の予告を条件として条約を破棄出来るというものです。(しかし、今まで日米両国で1度もそんな話が出た事はありませんので、この条約は「自動延長」という形で現在も有効であり、同時に日米関係の基本となる最も太いパイプであるといえるでしょう。)

問題は、先に述べた駐留経費の負担やアメリカ軍への基地の提供、事実上の治外法権など、ただでさえ日本側に不平等な内容が多いのに、当時この条約を結んだ自民党の岸信介内閣が、あまり慎重な審議をせずに強行採決を行って法案を通してしまった事に端を発します。まだ太平洋戦争敗戦から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かった事や、岸首相がかつて東條内閣の閣僚であった事への反感があったことも影響し、

「安保条約は日本をアメリカの戦争に巻き込むものだ!」

として政府のやり方に反発する野党議員、労働者や学生、市民、それに批准そのものに反対する社会党や共産党などの国内左翼勢力が一斉に反政府運動を展開し、その影響はたちまち全国に飛び火していきます。


当時の日本は高度経済成長が始まる直前であり、国民生活は現在とは比較にならないほど貧しく、質素なものでした。人々はより豊かな暮らしを目指し、明るい未来を信じてただひたすら懸命に働き、頑張っていた時代です。ちなみにこの安保闘争が起きた年、昭和35年度のわが国のGNP国民総生産は13兆6千億円程度だったそうです。(現在わが国では、平成以降国の実体経済を表す指標としてGDP「国内総生産」という数値が使われており、その額は景気の変動によって上下するものの、だいたい500兆円前後ですが、昭和時代はこのGNPという数値が使われていました。その違いはGNP国民総生産が海外での生産活動による利益分を含んでいるのに対して、GDP国内総生産はその名の通り、それを含まない純粋な国内における生産活動の利益のみを表すという点です。)

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上は昭和35年頃の東京の一般庶民の姿です。この時代は大卒の公務員とサラリーマンの平均月収がおよそ1万2~3千円程度だったそうで(現在は19万5千~20万円程度でしょうか。)数字だけ見れば15倍程度になっていますが、当時と今とでは当然物価が全く違うため、単純な比較は出来ません。およその目安としては、10キロのお米がその当時850~900円で買えたそうで、現在は3000~3500円くらい(もっと安いお米もありますが。笑)ですから、この時代の日本人は、現代の日本人のおよそ4分の1くらいの収入(つまり家庭持ちで月収30万円の人は7万5千円程度、という事は物価もだいたい4分の1くらい?)で暮らしていた計算になりますね。いかに貧しくつつましいものであったかご想像頂けると思います。

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上は1960年(昭和35年)6月に国会議事堂前に集結した日米安保条約に反対するデモ隊(こんなの現代の日本では有り得ませんね。驚)と、当時の岸信介首相です。(1896~1987)彼は東京帝国大学(現東京大学)法学部出身でエリート官僚の道を歩み、戦前の東条内閣で商工大臣、戦後には外務大臣と首相を歴任した重臣で、その独特の容貌からまたの名を「昭和の妖怪」といわれた人物ですが、この安保闘争を招いた責任を問われて辞任に追い込まれ、以後は政治の表舞台に顔を出す事は無くなります。(現在の安倍信三首相の母方の祖父に当たる人です。)

この騒然とした国内情勢の最中で、全く別のグループが日本の将来を憂い、彼ら独自の主観で日本のために行動を起こすべく極秘の計画を進めていました。そのグループとは、旧日本帝国陸海軍の元将官、将校や、かつての軍需産業の経営者を中心とする極右・超国家主義者たちです。


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写真上から1枚目が、事件の実質的な首謀者である長崎県の造船会社「川南工業」社長の川南豊作、2枚目が元帝国陸軍少将の桜井徳太郎、3枚目が元帝国海軍中尉の三上卓(彼は戦前の5.15事件で、「話せば分かる。」といって思いとどまらせようとした時の犬養毅首相を「問答無用!」といって射殺した反乱グループのメンバーです。)

彼らは他に、元陸軍士官学校出身の若手メンバーを中心として右翼思想研究組織「国史会」を立ち上げ、さらに彼らにとって「兵隊」として使うために、川南工業の従業員や、もっと若い世代の学生たちからなる「三無塾」を作らせ、その「極秘計画」実行に必要な人手を集めていきます。

その極秘計画とは、「国家革新」を企図し、武力で国会議事堂を占拠、その際辞任した岸信介の後を継いだ池田勇人首相をはじめとする政府首脳らを暗殺し、首都東京に戒厳令を敷いて、臨時政府を樹立するという途方も無い荒唐無稽な計画でした。その具体的な内容は以下の様なものです。

1 昭和36年の第40回通常国会開会式当日(12月上旬)を決行日とし、自動小銃、拳銃、手榴弾などで武装した川南工業従業員や、三無塾の塾生ら配下の手勢およそ200余名をもって全閣僚が揃った開会中の国会を占拠する。

2 閣僚ら政府要人と議員を全員監禁し、抵抗、逃走を図る者は容赦なく射殺する。さらにマスコミには報道管制を敷き、自衛隊には中立を働きかけ、また鎮圧に出動するのを内部から押さえて協力させる。その後で戒厳令を敷き、「失業者、重税、汚職のない平和国家」のスローガンを掲げた臨時政府を樹立する。

ちなみにこの事件の名である「三無」とは、この時に彼らが掲げるつもりでいた3つのスローガン「無税・無失業・無戦争」の3つの「無」からきています。(一体彼らはどうやってこれらを実現するつもりでいたのでしょうか? 言うだけなら簡単ですが。笑)

それにしても、なぜ彼らはこの様な誇大妄想とも言うべきクーデター計画を立てたのでしょうか? それは前段でお話した当時の日本の国内情勢が大きく影響しています。先に述べた安保闘争が全国規模で拡大し、その勢いは政府をも転覆しかねない激しいものでした。そしてその運動の先頭を旗を振って先導していたのが、共産、社会党を支持する左翼系グループでした。

「このまま放っておけば、日本は左翼に牛耳られ、共産化してしまうかもしれない。その前に我々憂国の士がこの危機から日本を救うのだ。」

桜井、三上らの元帝国軍人たちはその掲げる3つのスローガンなど建て前で、本音は純粋に反共とかつての日本、すなわち旧大日本帝国の復活を願っていたのです。一方、この事件のもう一人の首謀者である川南工業社長の川南豊作は、それと同時に軍需産業経営者として別の野望を持っていました。というのは、彼の経営していた会社「川南工業」というのは造船会社であり、戦中は軍の求めに応じて大量の船舶を建造し、急成長を遂げた一大軍需コンツェルンだったからです。

太平洋戦争中、日本海軍は多くの船舶をアメリカ潜水艦によって撃沈され、物資の輸送に欠かせない船舶の不足に悩んでいました。そこで戦前に製缶業で財を成した川南はその経験を元に、ベルトコンベア式で続々と船を建造する案を海軍に提出します。本来ならばこの様な建造法など認められるはずがありません。しかし、海軍の船舶不足は日に日に悪化し、まともな作戦も立てられないほど海軍は追い詰められていきます。

やむなく海軍は川南の案を許可し、大量の船舶の建造を彼の会社に発注します。川南工業はその求めに応じて大量の船舶を建造し、最盛期には彼の会社は従業員1万5千人を数え、一時は日本における造船最大手である三菱重工業の造船量に匹敵する船舶を建造するほどの大躍進を遂げたのです。


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上は彼の川南工業が建造した船舶の1隻で、後に初代南極観測船として有名になる「宗谷」です。この宗谷はそもそも1936年(昭和11年)にソ連からの注文で同型船2隻とともに建造された特別設計の砕氷船で、川南工業は他にも多くの輸送艦や輸送船を建造しました。この時建造されたこれらの輸送船は「戦時標準船」と呼ばれるものですが、実際は粗製乱造で急造されたために船体のあちこちに無理がたたって故障が多く、速度も遅い粗悪な船でした。

この時期は川南にとって人生最良の時だった事でしょう。しかしそれはわずか2年ほどの短くも儚い「夢」で終わります。戦局の悪化と敗戦によって造船の受注は大きく減り、戦後の昭和25年についに川南工業は倒産してしまったからです。

川南はクーデター成功の暁には、当然「臨時政府」で真っ先に自衛隊の実権を握るであろう桜井ら元軍人たちから、自衛隊の艦船や武器弾薬の調達を独占的に請負い、自分の築いた川南工業を復活させて、再び戦時中のあの時の「夢」を再現しようとこのクーデター計画を主導したのです。そのために彼は、この計画で全般の企画と資金・武器の調達を担当します。

川南は戦前に築いておいた政界へのコネクションを通じ、自分の部下数名を何人かの国会議員の秘書として送り込み、国会議事堂内の電源・通信機器の配置や、警備員の数を調べさせ、いざクーデター決行の当日には、これらの者たちの手引きと合図で突入する手筈を整えていました。

こうして彼らが着々と極秘に計画を進めようとしていた矢先の昭和36年12月12日、計画は思いもよらぬ形で露見し、このクーデター計画は未遂に終わります。この日、川南、桜井、三上らの頭目を筆頭とする組織のメンバー13名(最終的に32名)が一斉に警視庁公安部に逮捕されたからです。

それにしても、なぜ警視庁公安当局は彼らのクーデター計画を事前に察知出来たのでしょうか?

実は川南ら国史会の計画には、自衛隊の協力が必要不可欠でした。その自衛隊の協力を得るのは、桜井や三上ら元軍人たちの仕事で、彼らは「軍人同士」のよしみで旧知の自衛隊幹部らに「臨時政府」樹立の暁には自衛隊を中心に据えて国家権力を握るためにその働きかけを行っていたのです。しかしこれが、そもそも彼らの失敗でした。

ところで、世界中どこの国でも、軍隊の中には「憲兵隊」というものがあります。これは簡単に言えば「軍隊の警察」で、軍内部におけるあらゆる犯罪、外国への機密漏えいといったスパイ行為を取り締まるために軍隊を監視するものです。当然わが国の軍である自衛隊にもこれと似た組織があり、現在はこれを「警務隊」と呼んでいます。


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上がその警務隊の隊員たちです。陸・海・空3自衛隊それぞれに警務隊があります。彼らの視線は日々の国防に勤しむ同じ同僚である自衛隊員たちに向けられています。つまり、彼らの主な監視対象は同じ同僚である自衛隊員たちなのです。

この警務隊は上の写真の様に「MP」(ミリタリーポリス)の腕章をしていますが、外国の憲兵隊や戦前の帝国陸海軍の憲兵隊と違い、一般国民に対する警察権の行使は出来ません。また自衛隊内部で犯罪行為や不祥事があっても、現代の日本には旧帝国陸海軍の様に軍法会議や営倉、軍事刑務所といったものも無いので、逮捕した容疑者は検察に身柄を引き渡すだけです。

川南一味のクーデター計画は、どうやら桜井や三上ら元軍人グループが自衛隊幹部に協力を働きかけた事から、その内容の重大さに驚いた幹部の誰かが警務隊に報告し、そこから警視庁公安部が情報を察知して露見したものと思われます。

また彼らの計画自体も、決行の日にちの延期が重なり、また川南らが最初に計画した自動小銃や手榴弾などと言った必要な武器を入手する事が出来ず、使える武器と呼べるものはライフル銃が数丁と日本刀が6~7本という杜撰なものでした。(家宅捜索では、その他に自衛隊の作業衣と戦闘帽が100個、さらに防毒マスク150個に鉄カブト300個などが押収されています。これらはクーデター決起部隊の戦闘服とするつもりだったのでしょう。)

事件発覚後にクーデターのメンバーは「政治目的のため、殺人・騒乱を計画し、その準備をした」として、破壊活動防止法第1号の適用を受けて起訴され、川南とその部下らはそれぞれ懲役2年から1年の実刑判決(桜井と三上など元軍人らは証拠不十分で不起訴。)を言い渡されました。(これほどの大それた国家転覆を企てたにしては刑が軽すぎるように思われるかもしれませんが、その理由は簡単です。彼らはクーデター計画を立ててその準備はしていたものの、実行する前に逮捕された「未遂」だからです。また組織と接触のあった自衛官は34名にも上り、幹部も含めてその全てが中央から左遷されたそうです。)

その後、川南ら組織のメンバーはその多くが2度と社会に顔を見せる事は無く、みな人知れず世間からその姿を消していきました。その後日本は、昭和35年に就任した池田勇人首相の打ち出した国民所得倍増計画(1960年から10年以内に、国民総生産を2倍の26兆円程度まで引き上げるというもので、実際は7年でそれを達成。)によって、高度経済成長の道をまっしぐらにひた走っていきます。それに連れて国民の関心も政治から経済に移り、安保闘争は国民的なものから、一部の学生たちの学生運動に移行していき、さらにそれが究極的なまでに先鋭化した日本赤軍に代表される極左テロリスト組織を生み出します。その彼らの行った数々のテロ行為が、昭和40年代以降日本社会を震撼させていったのは、歴史好きの方ならば良くご存知と思います。

そして事件から50年以上の時を経て、この事件に関わった当時の関係者はほとんどが亡くなり、この幻の日本クーデター計画「三無事件」は、戦後日本の動乱期における瑣末な出来事の一つとして、今や人々の記憶からも忘れ去られようとしています。


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上の写真は事件の首謀者である川南がかつて戦時中に経営していた造船所の廃墟です。驚いた事にこれらは創業者も会社も無くなったのに、つい数年前まで放置されたまま残されていた様です。しかしついに2012年に取り壊され、撤去されて跡地は公園として整備されたそうです。

しかし、かつて50年以上前、この廃墟をアジトとして日本を武力で支配しようとしたある一党の集団がここに集結し、「国家の革新」を合言葉に奇声を上げていた事は紛れも無い事実です。この造船所の廃墟は、過去の亡霊の様な誇大妄想に取り付かれた闇の世界の一群の策謀者たちがわずかな時間に見た鉄の夢を、今の私たちに語りかけてくる様な気がしてなりません。

次回に続きます。
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