大陸打通作戦 ・ 大勝利していた日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは、かつてのわが大日本帝国が、先の大戦において初戦の束の間の勝利の後、広がり過ぎた占領地域を維持出来ず、反撃を開始したアメリカなどにずるずると一方的な敗北を重ねて敗戦に至ったというイメージをお持ちではないでしょうか?(かくいう自分もそうでした。)確かに巨大な生産力と、圧倒的な物量で迫るアメリカとの太平洋戦線では、その様な展開になったのが事実です。しかし、そんな中にあって、わが日本軍が局所的とはいえ、大規模な攻勢で大勝利していた戦線があったのをご存知でしょうか? それは「中国戦線」です。

今回は、敗戦直前に中国大陸南部で日本軍が行った最後の大作戦である「大陸打通作戦」についてのお話です。

大陸打通作戦―日本陸軍最後の大作戦 (光人社NF文庫)

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この大陸打通作戦について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。実際にこの作戦に従軍された旧帝国陸軍将校の方の作品で、著者の佐々木春隆氏は、戦後陸上自衛隊陸将補(中将クラス)防衛大学校教授として日本の国防に人生を捧げられた生粋の軍人です。戦史で名高い光文社NF文庫でページ数はおよそ260ページ、当時の中国戦線におけるわが日本軍に関する全てが記された秀作ではないかと思います。

1943年(昭和18年)夏、大日本帝国は戦局の低迷と、始まりだしたアメリカ軍の反抗作戦によって、太平洋方面で苦戦を強いられていました。すでにソロモン諸島とニューギニア方面では、アメリカ・オーストラリア連合軍の反撃が始まり、両軍との戦いで、日本軍は大事な艦船50隻と1500機以上の航空機を失い、さらに両方面で合わせて20万以上の戦死者を出していたからです。

勢いに乗るアメリカ軍は、日本軍占領下の太平洋の島々を次々に攻略し、日本帝国本土に攻め上る作戦を立て、それを実行して行きます。こうしたアメリカ軍の動きに対し、大日本帝国は日本の勢力圏を守るために絶対に欠かせない地域を「絶対国防圏」と定め、ここでアメリカ軍の反撃を食い止めようとしますが、アメリカ軍がいつどこから攻めてくるか分からない状況下で、日本軍は太平洋の島々に守備隊を分散せざるを得ず、ひとたびアメリカの攻略目標とされれば、それらの日本軍守備隊はアメリカの大艦隊に包囲されて補給も救援も受けられず、持って数日か、長くて1週間で全滅させられてしまう「各個撃破」を繰り返す事になります。


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上は当時の太平洋戦線の地図です。

すでにこれまで当ブログで述べて来た様に、アメリカ軍の反撃は空と陸だけではありませんでした。海中からは100隻を越えるアメリカの潜水艦が太平洋中を荒らし回り、日本の艦船を徹底的に攻撃していきます。日本帝国本土と南方占領地を結ぶ資源輸送ルートはその第1攻撃目標とされ、物資の輸送に欠かせない大事な船舶が積荷もろとも海に沈められていきました。

こうした切迫した状況にあって、東京の日本帝国大本営では、事態打開のためにある一大作戦が計画される様になります。それが「大陸打通作戦」正式名称を「一号作戦」と呼ぶものです。これは、今だ日本軍が占領していなかった中国南部を攻略占領しようというもので、当時大本営陸軍部作戦課長であった服部卓四郎(はっとり たくしろう)大佐によって立案されました。


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上の画像1枚目が作戦の立案者である服部卓四郎大佐です。(1901~1960)彼は陸軍大学校をトップクラスで卒業し、恩賜の軍刀を拝領したエリートで、太平洋戦争における主な陸軍の作戦はほとんど彼が関わっていました。しかし、彼は卓越した作戦能力と企画力は持っていたものの、それはいわゆる典型的な「机上のプラン」であり、現実は実情を無視した強行的かつ無謀なものが多く、以前お話したガダルカナルの戦いも、部下の辻中佐とともに彼が推し進めたものでした。

この作戦は上の2枚目の画像の様に、中国大陸を「打ち通す」用に中国大陸南部に進撃し、日本軍占領下のインドシナ半島に到達して南方占領地と日本帝国本土を陸路で結び付けようというものでした。

服部大佐ら大本営参謀がこの大作戦を計画した最大の目的は、日本帝国本土と南方占領地を陸路で結ぶ事でした。先に述べた様に、アメリカ潜水艦によって海上の資源輸送ルートは遮断されつつあり、昭和19年以降日本本土の物資の不足は目を覆うばかりに悪化し、このままでは戦争の継続は不可能でした。そこで大本営陸軍部は、危険な海上輸送でせっかく手に入れた南方の資源を海没するよりも、はるかに安全な陸路で中国大陸を経由し、朝鮮半島から九州へ運び入れる計画を立てたのです。(これなら、危険な海上輸送は最短の朝鮮半島と九州までのわずかな距離で済み、せいぜい3~4時間で物資を運べますね。)

また、もう1つの目的として、そもそも日本軍が太平洋戦争を開戦するに至った発端の日中戦争における本来の宿敵、中国国民党主席蒋介石率いる中国国民革命軍を撃破し、その継戦意思を削いで、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件による日中戦争勃発以来の日本の宿願である中国征服を実現する事もその目的でした。


蒋介石

上が当時の中国の指導者である蒋介石です。(1887~1975)彼は1920年代から第2次大戦終結直後まで、中国の指導者として日本軍と戦った人物で、功罪分かれる人物ですが、個人としての彼は大変な親日家で、20代前半の若い頃、4年間も日本に留学して日本語も流暢に話し(東京神田の古本屋街に足繁く通い、本を探す若き蒋介石がいたそうです。)日本の陸軍にも入隊して新潟の高田連隊で2年以上厳しい訓練を受けて鍛え上げられ、そこで得た忍耐心が、後の日本軍との長い戦いを勝利に結び付けたと本人が後に回想しています。

ちなみに彼が目指した理想の国家とは、わが大日本帝国であり、それをモデルに当初は自らの独裁による中華民国とし、やがては彼の子孫を世襲の指導体制とする事でした。(彼は本心は、自身の王朝を開いて「中華帝国」としたかった様です。しかし、それは時代に逆行するものであり、また、かつてそれを行って3ヶ月で失敗した袁世凱(えん せいがい 1859~1916)の二の舞を避けたかったのでしょう。)

ただ、大本営はすぐにはこの作戦を実行出来ずにいました。なぜなら当時の日本軍は、アメリカ軍との太平洋での戦いに手一杯で、激戦が続く太平洋方面に兵力を振り向けるため、中国大陸に展開する「支那派遣軍」から次々に兵力を引き抜いていたからです。

この支那派遣軍とは、1939年(昭和14年)9月に編成されたもので、その名の通り当時中国大陸に派遣されていた日本陸軍最大の部隊の事です。(満州に展開していた有名な「関東軍」とは全く別のものです。)太平洋戦争開戦時、その兵力は90万を数える大軍でしたが、こうした太平洋方面への兵力転用によって、この時期その兵力は62万にまで減少していました。

しかし、海上輸送は急速に悪化していました。こうした状況の中で、当時首相兼陸相にして参謀総長も兼任していた東条英機大将は服部大佐の作戦計画を認可し、ここに大陸打通作戦は開始が決定されます。時に1944年(昭和19年)4月の事でした。

上層部の認可を得た服部大佐は、自身が温めて来た作戦計画の実行のために勇んで作戦準備を開始します。彼の作戦は支那派遣軍指揮下の25個師団(日本軍の1個師団の兵力はおよそ2万ほどだったそうです。この内純粋に戦闘を行う戦闘部隊はその6割で、残りはこれを支援する砲兵部隊や補給部隊などです。)と11個旅団(同じく1個旅団の兵力はおよそ1万ほど)の約8割に当たる18個師団と6個旅団を投入し、さらにこれを増強して中国南部一帯を占領するというもので、参加兵力実に50万、それらの兵や物資を運ぶトラック1万2千台、戦車800両、火砲1500門を動員するという、太平洋戦争開戦以来最大規模の作戦でした。

さて、これを最も喜んだ将軍がいました。支那派遣軍総司令官の畑俊六(はた しゅんろく)元帥です。


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上が支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥です。(1879~1962)彼は1941年(昭和16年)3月に支那派遣軍総司令官となって以来、中国方面の日本軍総司令官として蒋介石の中国軍と戦ってきましたが、太平洋戦争開戦で麾下の兵力が次々に引き抜かれてしまい、戦線を現状維持するのが精一杯で、これを苦々しく思っていました。

1944年(昭和19年)4月、畑元帥率いる支那派遣軍は、膠着していた中国戦線を一気に決着するために作戦を開始します。一方迎え撃つ中国軍は、この時点で全土に300万もの兵力がこれを待ち受けていました。

日本軍は相当な苦戦を予想していましたが、意外にも作戦自体は実に順調に進みました。日本軍は数に勝る中国軍を各地で撃滅しつつ、大きく2方面から進撃を続け、昭和19年12月にはほぼ予定通りの地域を占領して、インドシナ半島の味方部隊と合流したのです。全く予想外の大勝利でした。

それにしても、なぜ日本軍は勝利出来たのでしょうか? いかに50万もの大軍とはいえ、兵力の点では中国軍の方がはるかに多かったはずです。その答えは、日中両軍の軍隊としての「質」の違いでした。


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わが日本軍は、上の一連の画像の様に、その前進部隊が十分に増強配備された戦車、砲兵部隊を主力とする機甲部隊でした。これらの機甲部隊が中国軍の防衛線を蹴散らし、粉砕した後、歩兵部隊がこれを制圧していくのですが、その兵の移動もトラックなどを集中使用して(もちろん徒歩行軍も多かった様ですが。)迅速な作戦行動が出来たのです。

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また、日本軍の戦闘機や爆撃機が、蒋介石の本拠地である重慶をはじめ、各地の中国軍を空爆し、進撃する陸軍部隊を空から援護していました。(爆弾に「蒋介石に贈る」と書かれていますね。笑 これらはおそらく宣伝のために、信管と爆薬を抜いた「空っぽ」の爆弾を使って撮影されたものでしょう。)

この日本軍の航空戦力は、陸軍の第5航空軍がその主力でしたが、度重なる太平洋方面への兵力転用はこれらの航空部隊にも及び、この時期の可動戦力は250機余りと、50万の大軍を空から援護するには明らかに少なすぎるものでした。この点中国軍は、自前の空軍はなかったものの、アメリカなどの連合国の空軍部隊が中国奥地の山岳地帯に駐留し、その戦力は合計800機と、日本軍の3倍以上の数で空から日本軍を悩ませます。わが第5航空軍も、これらのアメリカ軍航空部隊との空中戦で100機以上を失っています。


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それに対して中国軍の方は、兵力こそ300万の大軍ではありましたが、中国兵の装備はせいぜいドイツ製の小銃や軽機関銃をコピーしたものが大半で、日本軍の様な機甲部隊や砲兵部隊などもちろんなく、兵の移動も完全な徒歩か、騎馬によるものでした。当然航空部隊などもありはせず、アメリカなどの連合国の空軍に頼るほかありませんでした。(そのため、実際に日本軍と戦闘を交えた中国軍は、全軍の2割にも及ばない40万ほどだったそうです。)

もちろん中国軍にも精鋭部隊はいました。これらはかつて日独伊三国同盟締結以前のドイツに大金を払って軍事支援を受けたものですが、その兵力は8個師団程度(およそ10万ほど)と数が少なく、とっておきの予備兵力として蒋介石の手元に温存されていたために活躍の機会はありませんでした。


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上がその中国国民革命軍の精鋭部隊です。彼らのヘルメットは完全にあのナチス・ドイツ軍のものですね。一見しても分かる様に、彼らの軍服は上に載せた一般の中国兵はもちろん、わが日本軍将兵のそれよりはるかに良い高級なものですね。(驚)おそらく撮影のために特別に礼装用の軍服を着用させたものと思われます。これらの精鋭部隊は強力なドイツ製の最新装備を備えていましたが、その数は全軍の30分の1程度でした。

こうした両軍の装備の違いとは別に、両軍の間にはさらに大きな差がありました。それは将兵の士気と忠誠心です。わが大日本帝国軍は、その全将兵の絶対的忠誠の対象として大元帥たる天皇のご存在がありました。そう、日本軍は「皇軍」すなわち全ての日本兵は一兵卒に至るまで、天皇家の菊の紋章を刻印された銃を持ち、天皇のために命を捧げる忠実な兵士なのです。その忠誠心と、前回お話した日本独自の武士道精神が生み出す士気の高さは、中国兵のそれとは比較にならないものでした。

それに引き換え中国軍の方は、その兵の大半が強制的に集められた徴募兵でした。つまり、嫌々ながら脅されて仕方なく付いて行かざるを得なかった貧しい農民がほとんどだったのです。当然命を懸けて戦おうとする意思も、増して忠誠心などありはしません。(忠誠の対象になるべき人物があの蒋介石ではなおさらですね。)彼らの頭にあるのは、隙あらば脱走して家族の待つ故郷の村に戻る事でした。モラルも悪く、銃を持つのを良い事に同じ農民を襲って平気で略奪をしていたのです。(つまり一言で言えば、中国軍は装備も兵も、外国製と無教養な農民の寄せ集めの「烏合の衆」に過ぎませんでした。)

もちろん、彼らの中にも心から国を憂い、一心に国のために戦った者もいました。彼らは将校クラスとして兵を指揮していましたが、それはそれなりの教育を受けた都市部の比較的良家の出身者が多く、また中国軍全体から見れば極めて少数でした。大半の中国兵は、初等教育もまともに受けていない貧しい地方の農民出身者であり、イデオロギーはもちろん

「一体何のために命を懸けて戦うのか?」

といった、この戦争の根本的な意味すら分からなかったのです。

こうした事情もあって日本軍は大勝利を収め、1944年(昭和19年)末には中国大陸南部一帯の占領に成功したのですが、日本陸軍が中国大陸で大勝利していたこの8ヶ月間の間に、すでに太平洋方面の戦局は大日本帝国にとって絶望的な状態に陥っていました。

日本海軍機動艦隊は、6月に行われたサイパン島近海のマリアナ沖海戦で、空母3隻と400機以上の艦載機を失う大敗を喫し、さらに10月のレイテ沖海戦では、残る艦隊の全てを投入するも、1機の航空援護もない無謀な作戦により水上戦闘艦艇の半数を失って、ここに日本海軍は事実上壊滅してしまいます。

艦隊の壊滅は、日本本土と南方占領地の資源輸送ルートを完全に断ち切られる事を意味しました。さらにサイパン島をアメリカ軍に奪われた結果、ここを基地とするアメリカの長距離大型爆撃機B29による日本本土への戦略爆撃によって、日本列島は連日の激しい空襲に見舞われ、軍需工業地帯はめくら潰しに破壊されていきました。

日本軍がせっかく手にした中国戦線での大勝利と新たな征服地は、南方からの重要資源の陸上輸送という本来の戦略目的を果たせず、結局わが大日本帝国は無条件降伏を要求するポツダム宣言を受け入れ、運命の敗戦を迎える事になります。大陸打通作戦の勝利は無意味に終わってしまったのです。

この時、中国大陸に展開していた支那派遣軍は、この大陸打通作戦の期間中に再び増強され、その兵力は開戦時を超える105万に達していました。また、作戦中の昭和19年11月に、それまでの総司令官であった畑元帥が、西日本の全陸軍を総括指揮する第2総軍の総司令官に就任するに当たり、新たに岡村寧次(おかむら やすじ)大将が代わって支那派遣軍総司令官の職を引き継いでいました。


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上が敗戦時の支那派遣軍総司令官である岡村寧次大将です。(1884~1966)彼は南京事件での日本軍の虐殺の反省から、配下の全軍に徹底した綱紀粛正を命じ、そのため大戦中の中国大陸における日本軍は、戦闘中を除けば現地の無辜の中国人民に極力損害の及ばないよう行動していたそうです。(逆に中国人民に危害を加えていたのは、日本軍よりも先に述べた蒋介石の中国国民革命軍の方であり、日本軍占領地域の中国の民衆は、進んで日本軍に協力した者が多かったそうです。)

これまで述べて来た様に、支那派遣軍は中国大陸で完全に勝利し、敗退していたのは蒋介石の中国軍の方でした。その勝っていたはずの日本軍が、負け続けの中国軍に降伏する事になったのです。岡村将軍は日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言の受諾を決定した日本帝国政府に対し、次の様な電文を送って抗議しています。

「数百万の陸軍兵力が、一度も決戦を交えずに降伏するなどという恥辱は世界戦史にその例を見ない。わが支那派遣軍は、日中開戦以来8年間連戦連勝を続けてきたのである。100万の精鋭健在のまま、敗残の蒋介石の重慶軍に無条件降伏するなどという事は、いかなる場合でも絶対に承服する事は出来ない!」

事実、彼の配下には100万の無傷の大軍が温存されているのです。岡村将軍の抗議は帝国軍人ならば当然の事でした。しかし、ポツダム宣言の受諾が昭和天皇のご聖断によるものである事を知ると彼は抗議を撤回し、ここに支那派遣軍100万の史上最大の降伏が実現する事になります。


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上が南京で行われた降伏文書調印式の様子です。中国大陸の全日本軍を代表し、支那派遣軍総司令官の岡村大将(正面の長身の人物)が署名しています。

「勝っていたのになぜ負けている連中に降伏しなければならんのだ。」

岡村将軍の憮然とした表情がそれを物語っていますね。


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一方上は勝利した(?)中国軍の将軍たちです。岡村将軍の署名した降伏文書を掲げて笑みをもらしています。確かに彼らにとってはうれしかった事でしょう、8年もの長い間続いた日本軍との長い苦しい戦いがやっと終わり、物理的にはアメリカなどの他力本願とはいえ、100万以上の日本の大軍を釘付けにして連合国の勝利に(一応)貢献したのですから。

ところで、両者の間にはもう一つの大きな問題が残っていました。それは100万を越える日本軍の武装解除と復員をどの様に進めるかという事です。何しろ支那派遣軍は日本陸軍最大最強の部隊です。日本軍の多くの部隊では今だ抗戦派が大勢で、その気になればいつでも戦闘を再開すると息巻いていました。こうした状況を踏まえ、中国の蒋介石は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず。つまり戦いが終わった以上、過去の怨みや復讐の気持ちは捨てよ。)という故事を表明して日本軍の復員に最大限の便宜を図る様支持していました。

これは蒋介石のエピソードとしては有名なものの1つですが、彼がこの様に配慮したのは、中国大陸の日本軍が非常に強力であり、彼の中国軍は日本軍との正面での戦いで1度も勝てなかったからです。その事を一番良く知っていたのが、長年日本軍と戦ってきた彼自身でした。戦争が終わった以上、彼はこの強大な日本軍100万をむやみに刺激せず、穏便かつなるべく早く中国大陸から撤退させて、中国再建を図る方が得策と考えたのです。(先に述べた様に、蒋介石は本来は親日家であり、彼は終始日本軍との戦いに消極的でした。彼が「敵」として最も恐れていたのは、日本軍よりも毛沢東率いる共産党勢力であり、すでに彼はこれらとの戦いの準備を進めていました。)

何はともあれ、蒋介石のこの方針により、わが日本陸海軍将兵120万、民間人80万の合計200万の復員と引き揚げは、たった10ヶ月という驚異的なスピードで完了したのです。

この大陸打通作戦の評価は現在もその賛否が分かれていますが、欧米の歴史家の間では、意外にも日本軍の予想以上に戦局に重大な影響を及ぼしていた事が分かっています。特に、戦えば常に負ける蒋介石率いる中国軍の脆弱さには、中国を支援していたアメリカのルーズベルト大統領や、イギリスのチャーチル首相を大きく失望させます。アメリカ軍内部でも、蒋介石に対する不信感を大きく増大させる事にもなりました。


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上はアメリカ・イギリス・中国の指導者たちです。にこやかな表情の裏で、彼らは自国の利益のために互いを利用しあっていました。

「蒋介石が日本軍と真剣に戦わなかったのは、日本の大軍を広大な中国大陸に釘付けにし、連合国と共闘するふりをしつつ、連合国から自分に補給される軍需品をためておき、やがて連合軍が日本軍を破った後に、その日本軍の退去に連れて、毛沢東ら共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりでいるからである。」

アメリカなどの連合軍指導部はこの様な結論を下しています。そのため、以後彼らは中国を当てにする事はせずに、独力で日本を屈服させる方針に切り替えたのです。

敵味方双方の思惑と、関わった人々のそれぞれの心情を含みながら、日本軍の最後の大作戦である大陸打通作戦の記憶は、歴史の流れの中に埋もれようとしています。

次回に続きます。
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アリューシャンの戦い ・ アメリカに上陸していた日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは、かの太平洋戦争(大東亜戦争)は、美しい南の青い海と空を主な戦場として繰り広げられたものであるというイメージをお持ちではないでしょうか? しかし、かつてのわが大日本帝国が進撃の矛先を向けたのは、南方ばかりではありません。灰色の空と、荒れた冷たい海で人を寄せ付けぬ北方にも艦隊と兵を差し向け、この地で激戦を展開しています。今回は、あまり知られていない日本軍による北方作戦、すなわちアリューシャン方面侵攻作戦についてのお話です。

さて、今回のお話の舞台となるアリューシャン列島の位置ですが、下に載せた場所になります。


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上が北方アリューシャン列島の位置です。恐らくこの地球上で最も文明社会から隔絶された「地の果て」の一つと呼べる場所でしょう。

それにしても、なぜ日本軍はこの様な「敵」となる相手もいなければ、軍需資源になるものとてない北方にまで戦線を広げたのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。

1942年6月、大日本帝国海軍はその総力を挙げて、史上最大の作戦を実施しようとしていました。いわゆる「ミッドウェー作戦」です。この作戦の目的はハワイのアメリカ太平洋艦隊をおびき出し、まだ艦船数と戦力でわが日本軍が優勢なうちに全力を挙げてこれを撃滅し、その後の戦局を有利に進めるべく行われたものですが、その勝敗の結果が日本側の無残な敗北に終わった事は、多くの方がご存知の事でしょう。

そのミッドウェー作戦の経緯については、いずれ当ブログで詳しく取り上げたいと思うので、今回は省かせていただきますが、今回の日本軍のアリューシャン方面への侵攻は、そのミッドウェー作戦の一環として行われたものでした。


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上はミッドウェー海戦の勝敗を知らせる当時の朝日新聞です。4隻もの空母を失った事はひた隠し、架空の戦果を国民に誇大に伝える大本営発表の記事です。

それではなぜこのミッドウェー作戦と、はるかはなれた北方のアリューシャン作戦が連動しているのでしょうか? それはこのアリューシャン作戦が、ミッドウェー作戦を支援するためにアメリカ軍の目をそらせるのが目的の「陽動作戦」であったからです。

この「陽動作戦」のために、日本海軍は細萱戊子郎(ほそがや ぼしろう)中将を司令官とする第5艦隊(北方艦隊)を編成し、アリューシャン列島の西の端に位置する2つの島、アッツ島とキスカ島の攻略に当たらせました。


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上が第5艦隊司令官細萱戊子郎中将です。(1888~1964)彼は駆逐艦や巡洋艦などの乗り組が長く、またどちらかといえば軍務官僚タイプの人物であり、いささか優柔不断の側面があった様です。それが後の実戦での失敗を招く事になります。

細萱中将率いる北方艦隊は重巡洋艦3隻、空母2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻から成り、さらに攻略する陸軍部隊を乗せた輸送船など10隻が随伴していました。そしてミッドウェー作戦そのものは日本軍の大敗に終わったものの、さしたる強力な敵がいなかった北方作戦自体は順調に進み、日本軍はアッツ、キスカ両島の占領に成功します。


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上がアッツ、キスカ両島の位置と、上陸した日本軍部隊です。当時この島々には、原住民であるアリュート人の人々が住んでいましたが、彼らは日本軍の占領に伴い北海道などへ抑留されたそうです。

日本軍占領後、これらの島々には太平洋戦争におけるわが日本軍最北端の占領地防備のためにそれぞれ守備隊が置かれ、アッツ島は「熱田島」(「あつたとう」安直というかそのままですね。笑)キスカ島は「鳴神島」(「なるかみとう」こちらは由来が不明ですが、どちらも恐らく天皇家にゆかりの深い神社の名前から拝借したのではないでしょうか?)と改称されていましたが、南方戦線の激化とともにその戦略的意義は薄れ、すっかり忘れられた存在となっていました。

しかし、この2つの島を忘れる事のなかった巨大な存在がありました。それはアメリカです。なぜならこのアリューシャン列島はアラスカ州の一部であり、れっきとしたアメリカ合衆国の一部であったからです。(つまり日本軍は、「アメリカ」に上陸してこれを占領していた事になりますね。)アメリカは日本に奪われたこの2つの島を取り返すため、1943年(昭和18年)に入り、大規模な奪還作戦を計画します。

アメリカ軍は巡洋艦と駆逐艦から成る9隻の艦隊で艦砲射撃を加え、さらにアリューシャン方面の制空権を握るために、キスカ島に近いアダック島に飛行場を建設し、空襲を開始します。これに対して日本軍は、防備を強化するために兵力を増強、そうはさせるものかと迎え撃つアメリカ艦隊と日本艦隊は、北方海域で初めての海戦を行います。これがアッツ島沖海戦(コマンドルスキー海戦)です。

日本艦隊は、先の細萱中将率いる重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、輸送船2隻で、アッツ、キスカへの増援部隊と補給物資を載せていました。対するアメリカ艦隊は重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻でこれを迎え撃ちます。

この海戦は太平洋戦争では珍しく、双方とも1機の航空機の援護もなく行われた純粋な砲雷撃戦だったのですが、距離が離れていたために命中率の悪い遠距離砲撃になってしまい、また細萱中将が米軍機の空襲を恐れて早々に撤収してしまった事などから本来の輸送任務が果たせず、援軍と補給を待ち望む守備隊は窮地に立たされる事になってしまいます。(細萱中将は、この海戦での指揮の不味さの責任を問われて更迭されてしまいました。)

1943年(昭和18年)5月、アリューシャン方面の制海・制空権を確保したアメリカ軍は、ついにアッツ・キスカ奪還のために上陸作戦を開始しました。まずアメリカ軍は手始めに、日本軍の守備隊が少ないアッツ島を狙います。その兵力は1万1千。対する日本軍守備隊は山崎保代(やまざき やすよ)大佐率いる1個連隊2600名余りでした。


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上がアッツ島守備隊司令官山崎保代大佐です。(1891~1943 前列の軍刀を地面に衝いた丸顔の方です。)彼はお寺の次男から軍人になった異色の人物で、太平洋戦争において最初に「玉砕」した帝国軍人として崇められる存在となります。

山崎大佐は補給も増援の望みも絶たれた今、自分たちには勝ち目がない事を良く承知していました。残された彼らに残された選択肢はただ1つ、栄光ある大日本帝国軍人として1人でも多くの敵を道連れにし、壮烈な最期を迎える事です。そう、わが大日本帝国軍にあるのは「勝利」か「死」か、2つに1つであり、「降伏」の2文字は存在しないのです。

「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ。 」

これは太平洋戦争開戦直前に東条英機陸軍大臣の名で布告された「戦陣訓」の最も有名な一文です。敵の捕虜になる事は日本軍人の最も恥ずべき事であり、捕虜になるくらいなら戦って死ぬか、潔く自決せよと説いたものです。日本軍はこの戦陣訓の精神を兵士たちに徹底的に叩き込み、「武人」としての本懐を遂げるよう教育していきました。そしてわが将兵たちは純粋にそれを守って死んでいったのです。

それはまさに「武士道」の精神であり、「騎士道」の精神を受け継ぐ敵アメリカ軍に敬意と恐れを持たれる敢闘精神を発揮する一方で、同時に今次大戦におけるわが将兵の犠牲を大きくしていった原因でもありました。(それにしても歴史とは恐ろしいほどに皮肉なものです。この戦陣訓を布告した東条将軍ご自身が、後に「虜囚」となって「罪禍の汚名を残す事」になるのですから。)


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上の画像1枚目は当時のアッツ島の様子です。この島は内陸が山岳地帯になっており、山崎大佐率いる日本軍はこれらの高地に防御陣地を敷いて、アメリカ軍を奥地に引き入れて撃滅する作戦でした。そのため、海岸には全く兵力を展開せず、1万を越えるアメリカ軍は何の抵抗も受けずに上陸出来たのですが、後に内陸部への進撃で日本軍に手痛く反撃されてしまいます。(彼の作戦は実に見事でした。日本軍はこの天然の地形を利用して、高みからアメリカ軍を狙い撃ち出来たからです。一方ふもとから斜面を登らなくてはならないアメリカ軍は大変苦戦し、600名以上の戦死者を出す損害を出しました。)

こうして日本軍は、3千に満たない兵力で4倍のアメリカ軍を相手に2週間以上に亘って善戦敢闘しましたが、これまでの戦闘で日本軍防御陣地の位置と規模を把握したアメリカ軍は、沖合いに停泊するアメリカ戦艦3隻の巨大な主砲によってこれを粉砕する作戦に切り替え、形成は逆転します。そして弾薬、食糧も尽きた山崎大佐以下残存日本軍300余は、最後の突撃を敢行、不意を衝かれたアメリカ軍は司令部周辺まで後退させられますが、数で圧倒してこれを撃破、日本軍は全滅します。(この最後の戦闘で、司令官山崎大佐は軍刀と日の丸を手に、最先頭に立って指揮を取っていた事がアメリカ軍によって確認されています。それは、戦後に行われた遺骨収集において、彼の遺骨と遺品が最前線で発見された事から立証されたそうです。)

アッツ島守備隊玉砕の報告は、5月末に東京の日本帝国大本営に伝えられ、大元帥たる昭和天皇は、これを上奏した参謀総長杉山元帥に、次の様なお言葉を発せられたそうです。

「良くやってくれた。この事をアッツ島守備隊へ打電せよ。」

それに対し、杉山元帥はこの様に答えます。

「恐れながら、わが守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません。」

これに対し、昭和天皇はこう述べられました。

「それでも良いから電波を出してやれ。」

昭和天皇は承知でそれを命じられたのです。そしてそのご命令は実行され、誰もいないアッツ島へ向けて、天皇のお褒めの言葉が打電されたそうです。(涙)

一方、もう1つの島、キスカ島の日本軍守備隊にも危機が迫っていました。アッツ島が陥落した今、次にアメリカ軍がキスカ島に上陸するのは時間の問題だったからです。キスカ島にはアッツ島よりはるかに多い6千の陸海軍部隊が駐留していましたが、このままでは彼らはアッツ島守備隊の二の舞になる事は必至でした。(キスカ島守備隊がアッツ島守備隊より兵力が多いのは、こちらの方がアメリカ本土に近いから、アメリカ軍は先にこちらを攻略してくるだろうという理由からだったそうです。実際はその逆で、日本軍は完全に裏を衝かれてしまいました。)

ここに至り、日本帝国大本営は戦略的価値の薄いアリューシャン方面の放棄を決定します。そして陸海軍共同で、キスカ島守備隊の撤退作戦が実施される事になりました。日本軍は、先のソロモン方面におけるガダルカナルの戦いにおいて、多くの輸送船と駆逐艦を失った失敗から、アメリカ軍に気付かれないよう潜水艦15隻を投入して、夜間に少しづつ兵を撤収させる作戦でした。

しかし、すでに最新の海中ソナーを開発し、これを駆使したアメリカ軍の厳重な哨戒網によって作戦は困難を極め、6月に行われた2回の作戦で、収容出来たのは800名余り、そのうち3隻の潜水艦を撃沈されるなどで、このやり方では効率が悪く、犠牲と損害が大きすぎると判断され、潜水艦撤収作戦は中止されます。

結局日本軍は、軽巡洋艦と駆逐艦から成る高速水上艦艇による撤収作戦に切り替えざるを得ませんでした。しかし、これはガダルカナルの二の舞になって多数の大事な艦艇を失う恐れが大きく、特に海軍は二の足を踏んでいました。そこで考え出されたのが、この地方特有の濃霧を利用し、深い霧にまぎれてキスカ島に突入し、素早く守備隊を収容した上で速やかに離脱する「忍者」の様な「霧隠れ」作戦です。

そして、この作戦の実行責任者として選ばれたのが、当時第1水雷戦隊司令官であった木村昌富(きむら まさとみ)少将でした。


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上がその木村昌富少将(1891~1960)と彼の旗艦「阿武隈」です。すごいヒゲですね。(笑)彼は海軍兵学校での卒業成績が118人中107番と、後から数えた方が早く(笑)当然海軍大学校にも進学しておらず、いわばエリートコースには全く興味の無い生粋の武人でした。しかし、海軍省や軍令部首脳の様に、エリート意識でお高くとまった海軍上層部の同僚たちとは違い、勇猛果敢かつ豪放磊落な性格で、一見怖そうな顔立ちとは裏腹に、部下や水兵をむやみやたらに怒鳴りつける事もなく、常に冷静沈着な態度であった事から艦隊将兵には大変人気がありました。(戦後彼はトレードマークのヒゲをそり落とし、彼の人柄を慕うかつての部下たちとともに製塩会社を興し、多くの旧海軍将兵の雇用に務めたそうです。)

木村少将は7月に入り、千島列島最北端の島、幌筵島(ほろむしろとう)から配下の軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦11隻を率いて出撃しますが、この時は途中で霧が晴れてしまい、彼の判断で作戦を中止して艦隊は引き返してしまいます。

一方、手ぶらでのん気に返ってきた木村少将に対し、北方方面艦隊である第5艦隊や連合艦隊司令部、ついには大本営までも怒りをあらわにしてしまいます。

「怖気づいたのか!臆病者め!」

「なぜ突入しなかったのだ! 今すぐ作戦を再開してキスカへ突入せよ!」

実戦を知らず、後方の安全地帯で地図の上から作戦を立てる海軍上層部の参謀らをはじめ、各方面関係者は一斉に木村少将を非難します。しかし、当の木村少将はそうした非難に一向にひるまず、じっと深い霧がキスカ島を覆う日を待ち続け、艦隊を待機させます。

そしてついにその日がやって来ます。木村少将は直ちに艦隊に出動命令を下し、キスカ島に向けて発進します。木村艦隊は深い霧に包まれ、周囲で日本艦隊を警戒するアメリカ艦隊に気付かれる事無くキスカ島に接近、湾内に投錨し、救出を待つ5200の残存守備隊を舟艇によるピストン輸送によりたった1時間で収容、すぐに艦隊は全速力で離脱し、全く損害を出さずに無事に引き揚げる事に成功したのです。まさに「奇跡」の撤退作戦でした。(全く見事な汚名返上ですね。これには彼を非難していた者たちも、さぞや「ぐうの音」も出なかった事でしょう。)

一方アメリカ軍は、7月末にはキスカ島の日本軍が撤退していた事を全く知らず、8月中旬にアメリカ・カナダ連合軍総勢3万4千(その内カナダ軍およそ5300)によるキスカ島上陸作戦を開始しました。しかし、アメリカ軍もこのアリューシャンの深い霧には完全に惑わされてしまいます。アメリカ艦隊は最新のレーダーを備えていたにもかかわらず、霧による電波の誤反応からありもしない残像を「日本艦隊」と捉え、付近に日本艦隊がいると終始思い込んでいたのです。

アメリカ軍は誰もいないキスカ島に猛烈な艦砲射撃と空爆を行い、深い霧の中で上陸作戦を開始します。しかし、そこで彼らが見たものは日本軍が遺棄した軍事施設と何匹かの「犬」だけでした。挙句に彼らは深い霧によって味方同士で同士撃ちをしてしまい、100名以上の死者を出してしまったそうです。(いかにこのアリューシャンの霧が深いものであるか想像出来ますね。)


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上は日本軍が放棄したキスカ島の特殊潜航艇基地の格納庫です。木造の屋根に覆われていましたが、アメリカ軍機の空爆によって吹き飛んでいます。

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上の一連の画像は現在のキスカ島の様子です。島には日本軍が置いていった数々の兵器や輸送船の残骸、軍事施設の遺構が各所に点在しています。現在このアッツ、キスカの両島はアラスカ国立海洋野生生物保護区に指定され、同時にアメリカ合衆国国定歴史建造物として、自然環境及び歴史遺産保護と安全確保のために、外来者の立ち入りが厳しく制限されている完全な無人島です。

かつてこの冷たい北の海と深い霧に包まれた島々で、身の程知らずの野望を抱いた愚かな人間たちが無益な戦いを繰り返し、そして敵も味方も何一つ得るものもなく去っていきました。今はアザラシなどの海洋生物の楽園として管理され、彼らが平和に暮らす静かな島です。


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次回に続きます。

本土防空戦 ・ B29との戦い

みなさんこんにちは。

少し日にちが遅れてしまいましたが、今年もあの3月10日の「東京大空襲」の日がやって来ました。1945年(昭和20年)のこの日、アメリカ軍の大型戦略爆撃機B29の大編隊による無差別爆撃で、一夜にして東京は「火の海」と化し、10万人もの死者を出したあの日です。(その翌日の11日は、まだ記憶に新しい2011年の「東日本大震災」で、2万人もの人々が犠牲になった日ですから、この2日間はわが国にとって実に忌まわしい2日間となりますね。怒涙)

この2日間は、天皇陛下も毎年皇后陛下とともに喪に服され、亡くなられた多くの方々に思いを寄せられているとお聞きしております。(恐懼)

そこで今回は、わが大日本帝国の息の根を止めたアメリカのB29による日本本土戦略爆撃と、敗戦目前の状況にあって、当時の日本軍がいかにしてB29と戦ったのか、あまり知られていなかったその迎撃作戦の実態についてお話したいと思います。

すでに何度か当ブログでお話してきた様に、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍機動艦隊はその空母と海上航空戦力の大半を失う大敗を喫してしまいました。この敗北により、大日本帝国は中部太平洋の制空権を失い、さらに同年10月に、残存艦隊の全てを投入したフィリピン沖海戦でも日本は敗れ、同じく制海権すらもアメリカ軍に奪われてしまいます。

空も海もアメリカに押さえられ、ここに、事実上日本の敗戦が決定したのですが、それでも、アメリカが日本への攻撃の手を緩める事はありませんでした。なぜなら太平洋方面では敗退が続いているとはいえ、日本軍は今だに中国大陸から東南アジアの大半に至る広大な地域を占領していたからです。

しかし、戦場が日本本土に近づくに連れて日本軍の迎撃も激しくなり、アメリカ軍の損害も次第に大きくなっていきました。そこでアメリカは、大型爆撃機による日本の軍需工業地帯への「戦略爆撃」で、日本の戦争遂行能力を奪う作戦を実行に移します。

その作戦のためにアメリカが開発したのが、大型長距離戦略爆撃機B29です。


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このB29(由来は「BOMBER 」ボンバー つまり爆撃機の29番目のタイプという意味です。)は、アメリカの航空機メーカー「ボーイング社」が開発した大型爆撃機で、合計4千機近くが生産され、全長30メートル、最高速度575キロ、搭乗員10名、最大9トンもの爆弾を搭載可能、航続距離は7トンの爆弾を搭載しても6600キロ、さらに武装も強力で、2連装機銃を機体の各所に6基合計12門も配備、そして1万メートルの高高度で飛行出来る当時世界最大最強の爆撃機でした。(ちなみにこのB29はアメリカ陸軍航空隊所属の爆撃機であり、空軍ではありません。実は意外ですが、アメリカに「空軍」が独立の軍として正式に発足するのは大戦後の1947年であり、それまではわが日本軍と同じく、陸・海軍でそれぞれの航空隊に分かれていたそうです。)

アメリカがこのB29をもって日本本土を爆撃するには、中部太平洋に浮かぶマリアナ諸島のサイパンやテニアンの島々を日本から奪取する必要があり、先に述べたマリアナ沖海戦で、迎撃に向かった日本艦隊を完膚なきまでに撃破し、これらの島々をB29の基地としたのです。


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上の2枚はサイパン島に集結したB29の大群です。特に2枚目は、恐ろしい数のB29が待機していますね。(驚異)

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そして上がB29の最大行動範囲です。当初このB29は、上の様に中国大陸の奥地成都(チョンツー)を基地としていましたが、ここからでは距離が遠すぎて、せいぜい九州までしか爆撃出来ませんでした。そこでアメリカ軍は、マリアナ諸島奪取後に日本から奪い取ったサイパンの飛行場を拡大整備して「イズリー・フィールド」と名付け、特別に「第21爆撃集団」と呼ばれる大部隊を編成して、ここを日本本土戦略爆撃の基地としたのです。

このB29による日本本土戦略爆撃は、1944年(昭和19年)11月中旬から本格的に始まります。しかし、アメリカ軍も最初から無差別爆撃を行なっていたわけではありませんでした。初期の日本への空襲は、日本軍の基地や軍需工業地帯への高高度からの精密爆撃に限られ、その編隊機数も30~40機程度で行っていました。しかし、日本の高高度上空に吹くジェット気流のために、爆弾が目標を外れる事が多く、当初は決して大した戦果を挙げていなかったそうです。

一方、わが日本軍は、このB29をどの様に迎え撃ったのでしょうか? これについては本当に残念と同時に情けない事に、ほとんど「手も足も出ない」といった状態が実情でした。

その原因はなんといってもB29の飛行高度が高すぎるからです。先に述べた様に、B29は高度1万メートルを時速570キロの高速で飛行出来ます。これを撃墜するには、高射砲による地上からの対空砲火と、戦闘機による迎撃の2つの方法しかありません。まず前者の対空砲火ですが、当時日本軍の主力高射砲は口径7.5センチと8センチのものが大半でしたが、その射程は高度8千メートル程度が限界で、B29の飛行高度には全く届きませんでした。


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上は日本軍の主力高射砲であった7.5センチ高射砲と、それを視察される昭和天皇です。この砲は合計2千門ほど、少し口径の大きい8センチ砲は約1千門近くが生産され、本土防空用に全国に配備されていました。

これらの砲は、通常戦闘機の撃墜には十分でしたが、B29には全く無力でした。そこで日本軍は、さらに大型で強力な12センチ高射砲を開発します。


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上がその12センチ高射砲です。この砲は射程1万メートルを越え、B29を撃墜出来た日本軍の新型対空砲でした。しかし、この砲が量産され、配備されたのは大戦も後半の1943年(昭和18年)以降であり、物資の不足から敗戦までに合計120門しか生産出来ず、東京、大阪、神戸などの大都市にしか配備出来ませんでした。(さすがにこの砲の威力は強力で、東京に配備された12センチ砲は、十数機のB29を撃墜しています。もっと早くこれを量産していれば、確実にもっと多くのB29を撃墜出来た事でしょう。本当に悔やまれてなりません。)

そして後者の戦闘機による迎撃ですが、これもB29の1万メートルという飛行高度に対しては、技術的かつ物理的に非常に困難でした。

日本軍は優れた戦闘機を数多く持っていましたが、これらの通常戦闘機が最高に能力を発揮出来る飛行高度は大体5千~6千メートルが限界でした。技術的にはB29と同じ1万メートルの高度まで上昇する事は出来ましたが、実際はそこまでたどり着くのが精一杯で、まともな空中戦はほとんど不可能でした。その理由は「空気の薄さ」です。

飛行機は当然の事ながら燃料を燃やし、エンジンを動かして飛びます。燃料を燃やすには酸素が必要です。この時代の戦闘機は時速550~600キロで飛ぶ事が出来ましたが、これがこの高さになると極度に薄くなり、エンジンの回転が遅くなってしまうのです。そのため日本の戦闘機はB29と同じ1万メートルまで上昇しても、速度は約半分の300キロにまで落ち込み、B29の速度に追いつけないのです。また、この高度になると、気圧や温度も地上とは全く違い、日本軍パイロットは猛烈な寒さと気圧の違いにさらされ、酸素マスク無しでは操縦する事すら困難でした。

その点B29は、この高度に達しても十分な酸素と空気を取り入れる装置がエンジンに付いており、また高高度での搭乗員の身体的負担軽減のために、圧力を調整する装置も機内に装備、アメリカ軍パイロットたちは機内で悠々とコーヒーを飲みながら飛行していたそうです。

この様な状態であった事から、日本軍はB29に対抗する有効な方法が見出せませんでした。そしてついに、日本軍は究極のB29迎撃作戦を実行に移します。それはB29を「体当たり」で撃墜するというものです。

当時、日本帝国本土の防衛は陸軍が主体でした。そして、帝都東京のある関東地区の防衛は東部軍(大阪など関西地区は西部軍)の担当でした。その関東地区の防空は陸軍第10航空師団が、およそ150機の戦闘機でその任務に当たっていました。(天皇陛下のおわす帝都周辺の防空に、たったこれだけでは明らかに少なすぎますね。この原因は太平洋戦争は海と空の戦いであり、飛行機の生産に必要なアルミなどが、当然それを担当する海軍に優先的に配分されたためです。)

東部軍はB29迎撃のために、配下の飛行戦隊に次の様な命令を発します。

「敵B29は高高度をもって帝都上空に来襲す、師団は特別攻撃隊を編成し、これを要撃撃墜せんとす。各戦隊は高高度で侵入する敵機に対して体当たりを敢行し、これを撃墜すべし。」

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上は出撃する陸軍航空隊のパイロットたちです。

この攻撃隊は、当時本土防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)陸軍大将によって「震天制空隊」と命名され、出撃します。


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上が本土防衛総司令官であられた東久邇宮稔彦王大将です。(1887~1990)とても長い名前のこの宮様は、昭和天皇の叔父に当たり、同時に今上天皇陛下の大叔父に当たるお方です。終戦時には降伏に反対する軍部の暴発を防ぐため、日本の歴史上最初で最後の「皇族首相」となり(理由は単純です。首相が皇族ならば軍部も「暗殺」やクーデターを起こせないからです。「逆賊」になりますからね。)日本の降伏文書調印と進駐軍の日本占領が完了するまで2ヶ月ほど首相を務められました。敗戦後は臣籍降下により民間人となられ、波乱の半生を送られました。また、歴代皇族としては最長寿の102歳の長命を全うされたお方でもあります。

さらに日本軍はこれらの特攻に加え、双発の戦闘機に強力な20ミリ機銃を「斜め」に装備し、B29の下からこれを狙い撃つ攻撃も考案します。


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上がその「斜銃」を装備した双発戦闘機「月光」です。操縦席の後に突き出た2本の棒状のものが「斜銃」で、B29の下に回り込んで狙い撃つというものです。それなりの戦果はありましたが、こんな苦肉の策を取るより他に、日本軍はB29に対抗する手段がありませんでした。

日本軍がこの様なやり方でB29の迎撃に苦労していた矢先、アメリカ軍に大きな異変が起きていました。1945年(昭和20年)1月、日本本土空襲を担当する第21爆撃集団の司令官が代わり、新たな司令官としてカーチス・ルメイ少将がその任に付いたのです。


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上が第21爆撃集団の新たな司令官カーチス・ルメイ少将です。(1906~1990)彼はアメリカ軍屈指の爆撃の専門家として名を挙げ、その知識と経験を買われて39歳の若さで少将にまで昇進し(日本軍なら30代で将官クラスになるなどあり得ませんね。)この第21爆撃集団の司令官に任命されます。後に彼はアメリカ空軍大将にまで登り詰め、戦後わが航空自衛隊の創設にも尽力しています。われわれ日本国民にとってアメリカの軍人といえば、マッカーサー元帥ばかりが印象に残りますが、この人物こそ、後述する様に決して忘れてはならない人物です。

ルメイ少将は、前任の司令官が高高度の精密爆撃に固執し、大した戦果を挙げていない事を指摘し、それまでの方針を転換してB29の大編隊により、日本の都市への焼夷弾による無差別爆撃を指令します。

この攻撃は多くの民間人の犠牲者が出る事から、彼の前任の司令官たちはそれを行いませんでした。もちろんルメイもそんな事は百も承知です。しかし彼は、戦争を早く終わらせるために日本の都市を焼き払う事を主張したのです。

彼の主張の根拠は2つあります。まず第1に、日本の都市はヨーロッパのドイツなどと違い、その住居の多くが密集した木造家屋であり、1923年(大正12年)の関東大震災でも、火災により多くの被害を出した事から、空襲による火災の危険性が、すでに大正の末年に欧米の専門家に指摘されていました。

また第2の理由として、日本の軍需工業は、その生産される多くの兵器の部品が中小の零細企業(いわゆる町工場ですね、これは現在でもあまり変わっていません。)によって製造されており、それらは東京の住宅密集地などに集中していました。そのためルメイは、日本の戦争継続能力を削ぐにはこれらを街ごと焼き払う必要があると考えていたのです。

そしてルメイはついに恐ろしい作戦を実行に移します。それはこれまでとは比較にならないB29の大編隊を編成し、これまでの様な高高度ではなく、高度2千メートル程度の低高度からの夜間爆撃により、東京を一気に焼き払うという作戦です。

彼はこの作戦のためにB29の機銃や弾薬を全て降ろし、その分多くの焼夷弾を積ませて出撃させます。こうして1945年(昭和20年)3月10日、325機に登るB29の大編隊による「東京大空襲」が実行されたのです。


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上の1枚目は富士山上空のB29の編隊です。わが大日本帝国の霊峰が、奇しくも大きな目印となっていました。そして2枚目は、まさに「雨あられ」の様に恐ろしい数の焼夷弾をばらまくB29です。

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上の3枚は空襲後に焼け野原となった帝都東京の姿です。火災で亡くなった方々の黒焦げになった遺体が山になっています。(閲覧注意)3枚目は亡くなられた方の遺体を記録する警官たちです。といっても、男女の性別もわからないほど黒焦げになった遺体の数を数える事ぐらいしか、彼らに出来る事はありませんでした。

この空襲でおよそ10万人の市民が亡くなり、東京は写真の様に焼け野原になりましたが、ルメイ率いるB29の空襲が止む事はありませんでした。その後もアメリカ軍は日本全国の都市を同様に焼き払い、広島と長崎の原爆による犠牲者を除けば、その死者は25万~33万人を越えるそうです。(統計にばらつきがあり、正確な数は不明です。)

戦後ルメイはインタビューで次の様に発言しています。

「我々は東京を焼いた時、たくさんの女子どもを殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。私は我々の所業の道徳性について憂慮する幹部やパイロットたちに対してこういったものだ。道徳? ふざけるな! 我々は今戦争をしているのだ。戦争に道徳などあるものか。勝つか負けるかそのどちらかだ。そんな事を言うなら最初から軍人になどなるな! と。」

B29による日本空襲は敗戦の日の8月15日当日まで続けられ、空襲に参加したB29は通算3万機以上に登りました。その間に日本軍が撃墜したB29はおよそ300機を越え、圧倒的に不利な状況下でもかなり奮戦したと思います。

そして敗戦。8月15日の日本のポツダム宣言受諾により、翌日の16日からB29が爆弾を落とす事はなくなりました。しかし、戦争に疲れ果てていた日本国民は、悠々と上空を飛ぶ大きな銀色の機体を見上げながら、史上初めての敗戦に茫然自失し、明日の自分たちの行く末に思いを巡らしながら数日間は焼け跡を彷徨っていました。

このB29に対し、意外な方が感想を述べられています。それは大日本帝国の皇后であられた先の香淳皇后です。


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上が在りし日の香淳皇后(皇太后陛下)です。(1903~2000)お名前は良子(ながこ)様といい、昭和天皇との間に7人のお子様を成し、昭和天皇をお支えして日本の激動の時代を供に歩まれ、さらに歴代皇后で最長の97歳の長寿を全うし、帝国皇后として、また日本の国母として見事にお役目を務められた偉大かつ高貴な女性ですね。その皇后としての在り方やご姿勢は、現美智子皇后陛下も「お手本」として忠実に継承されておられます。晩年は腰を痛められ、高齢による物忘れなどで国民の前にお姿を見せる事は少なくなり、昭和天皇崩御後は吹上御所で静かな余生を過ごされていましたが、その真似の出来ないふくよかな笑顔は「エンプレス・スマイル」(皇后の微笑み)として、海外でも大変な人気になりました。

一時期、無知蒙昧で卑しい週刊誌やマスメディアが、香淳皇后が現美智子皇后がまだ皇太子妃であられた頃に、何かと辛く当たっているなどと書きたてた事がありました。確かに、旧皇族久邇宮家(くにのみやけ)ご出身で、大正から昭和初期までの宮廷華やかなりし時代を過ごされ、皇室のしきたりや日本古来の伝統を厳格に守り、いわば古い世代の日本女性の代表であられた香淳皇后と、民間から初めて皇室に嫁がれ、古い皇室に新しい若い価値観の風をお入れになられた現美智子皇后との間に、多少の意見やお考えの相違があった事は事実でしょう。しかしそれは、一部週刊誌やマスメディアの書きたてた良くある嫁と姑の確執などという低レベルなものではなく、片や天皇家に連なる高貴な家柄に生まれたやんごと無き古い時代の女性と、一流企業経営の大資産家一族(現美智子皇后陛下のご実家は、日清製粉の創業家正田家といい、現在は実弟の修氏が名誉会長として経営されています。)ご出身とはいえ、全くの一般国民である新しい時代の女性との比較対象が、記事を読む読者に最も共感出来るよう(つまり、その方が雑誌が「売れるから」)誇大に伝えられた感がある様に思います。

ちなみに香淳皇后も、まだお若い頃は姑であるその前の貞明皇后(ていめいこうごう 1884~1951)から、「何をさせても不細工な事だね。」などとはるかに「キツイ」事を言われ、辛く当たられていた事があるそうです。この貞明皇后というお方は旧公爵九条家ご出身で、大正天皇の皇后にして、昭和天皇の母君にあらせられるお方ですが、頭の回転が速く、大変意志の強い(言葉を代えて言えば気の強い)女性であったらしく、おっとりのんびりしたご性格であった香淳皇后とは相性が悪かった様です。(笑)また大正帝との間に4人もの皇子をお産みになった事から、戦前の宮中におけるその権勢は絶大で、当初は内親王様方(つまり娘)ばかり4人続いた香淳皇后にとって大変なプレッシャーであった事でしょう。

そんな香淳皇后が、敗戦直後に日光に疎開されていた皇太子明仁親王殿下(今上天皇陛下)に宛てた手紙で、B29について次の様なご感想を述べられています。

「毎日B29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのか分からないほどです。B29は残念ながら立派なものです。」

次回に続きます。
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