マリアナの七面鳥撃ち ・ ゼロ戦を破った空の盾

みなさんこんにちは。

みなさんは、現代のわが国が世界でも高度に科学技術が発達した「科学技術立国」である事は良くご存知の事と思います。それは下は私たちが日常使用している多くの高性能電化製品や、高燃費の自動車にはじまり、上は全く独力でロケットと人工衛星を打ち上げ、欧米人以外で最もノーベル賞を授与されている事からも立証されています。

その日本の「お家芸」である科学技術は、一般には戦後に培われたものというイメージがありますが、実際にはわが国は戦前から、局所的かつ限定的な範囲ではありましたが、相応の科学技術力は有していました。しかし、当時のわが大日本帝国は貧しく、大学以上の高等教育を受けられるのは、華族、軍人、官僚、地主などの裕福な家庭や上流階級の子弟といった生まれながらの身分に限られた人々のみで、その割合は3%程度(つまり大学進学者が100人の内3人という事です。ちなみに現在の日本の大学進学率は50%前後だそうです。)であったそうです。そのため、戦前の日本の科学技術は欧米諸国には遠く及ばない二流以下のレベルに留まるものに過ぎませんでした。

さらにもう一つの理由として、わが国は欧米諸国と違って明治維新の近代化から太平洋戦争開戦まで70年余りと短く、この年数では科学や技術の知識の蓄積や経験に雲泥の差があった事も挙げられます。そんな貧しく、高等知識人口も極めて限られた極東の島国である大日本帝国が、数少ない貴重で優秀な技術者たちを総動員し、太平洋戦争開戦の前年の1940年(昭和15年)に、世界を仰天させる驚異的な新型戦闘機を開発させました。その名は「零式艦上戦闘機」みなさんも良くご存知の「ゼロ戦」です。


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上がその「ゼロ戦」です。正式名称は「三菱A6M零式艦上戦闘機」といい、たまたま正式採用された昭和15年が、皇祖にあらせられる初代神武天皇ご即位の年を紀元元年として数えた皇紀2600年にあたり、その最後のゼロを取った年式で「ゼロ戦」と呼ばれる様になったという話は、歴史好きな方ならば良く知られているでしょう。その名の通り三菱重工業で開発された大日本帝国海軍の主力戦闘機です。(日本人なら子供でもいつしかその名を記憶している名戦闘機ですね。独特の丸みを帯びた翼が印象的な実に美しいデザインの戦闘機と思います。)

戦前のわが大日本帝国陸海軍の全ての兵器は、昭和に入ってからは軍艦を除いて皇紀の最後の数字を取った年式で呼ばれ、また当時は海軍の戦闘機は三菱、陸軍の戦闘機は中島飛行機(現在の富士重工)が製造していました。このゼロ戦は大きく分けて4つのタイプがあり、その中でも52型が最も多く、およそ6千機も生産されました。

最高時速565キロ、航続距離(これは簡単にいえば、燃料満タンの状態でどれだけの距離まで飛べるか? という事です。)およそ2200キロ、武装は強力な20ミリ機銃2門を装備し、小型ながら速力と格闘性能に優れ、その速力と軽快な運動性を生み出すため、脚を機体に折り曲げて格納し、機体に打った鋲を埋め込み型にし、エンジンの排気すらスピードアップに利用するなどといった最新の様々な工夫を凝らした、まさに当時の大日本帝国の科学技術の粋を集めた戦闘機でした。


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上の一連の画像はゼロ戦に施された画期的な技術です。1枚目はゼロ戦の骨組みと内部構造で、最高時速500キロを越えるために徹底して機体の軽量化が図られ、機体の骨組みには無数の穴が設けられています。2枚目は博物館に展示されているものですが、エンジンの排気を速度向上に利用するために設けられた後方に流す排気管です。(エンジンのカウリングと機体の間に見える4~5本の「パイプ」です。)これを取り付けた事により、最高速度は最初の530キロから20キロ以上も上がったそうです。3枚目はこれもスピードと運動性能向上のために機体に打たれた鋲を埋め込み型にしたものです。これにより空気抵抗が大きく減り、エンジンの馬力に比して時速500キロを越えるスピードを実現させました。

しかし、このゼロ戦には大きな致命的弱点がありました。それは徹底した軽量化のために防弾装備が全くなく、そのため銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまうという点です。そのツケは後の戦いで日本軍に重くのしかかる事になります。

ともあれ、このゼロ戦こそ大日本帝国の主力戦闘機として、太平洋戦争を戦うために生まれて来た存在といえるでしょう。このゼロ戦が太平洋戦争の前年に開発された事自体、まさに運命的なものを感じます。日本はこの戦闘機をもって今次大戦に突入し、大戦の全期間を通じておよそ1万400機ものゼロ戦を生産しました。ゼロ戦は期待に違わぬ性能で太平洋中を飛び回り、日本陸海軍の進撃を空から援護、連合国の戦闘機を次々に撃破し、アメリカをはじめとする連合国のパイロットに「ゼロファイター」と呼ばれ、

「死にたくなければゼロ戦と空中戦をしてはならない。後に付かれたらお終いだ。」

というブラックジョークが出るほど恐れられました。

このゼロ戦の出現は、特にアメリカに大きなショックを与えました。なぜなら当時アメリカ海軍にとって最大の敵であった日本海軍は、世界で最も空母を多く保有しており(開戦時10隻、そのうち大型主力空母は6隻で、その6隻の空母が搭載する日本の第一線航空戦力はおよそ400機。)その優れた熟練パイロットたちが操縦するゼロ戦の攻撃によって、アメリカはその艦艇がみな沈められてしまうのではないかという言い様のない恐怖感を持つに至ったからです。(その懸念はすぐにハワイの真珠湾で的中してしまいます。)

そこでアメリカは、このゼロ戦をはじめとする日本の攻撃機から水上艦艇を守るために、全米の大学、企業などからなんと「3万人」という日本とは比較にならない数の優秀な科学者や技術者を総動員し(当時の日本なら、全国からかき集めても果たして千人に達したでしょうか?)防御のための3つの大きな「盾」の開発を急ぎました。

1つ目はゼロ戦を上回る性能を持つ新型戦闘機の開発です。アメリカは各地で鹵獲した日本のゼロ戦を集め、それらのサンプルを徹底的に研究し、ゼロ戦を超える性能を持つ戦闘機を開発させました。それが「グラマンF6Fヘルキャット」です。


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上の画像は1枚目がアメリカ軍に鹵獲されたゼロ戦で、2枚目が復元された機体によるアメリカの航空ショーのものです。一緒に飛んでいるわがゼロ戦と比較してかなり大きくずんぐりした形をしていますね。(ちなみにこの「ヘルキャット」とは、直訳では「地獄の猫」という意味だそうですが、「性悪女」という意味もあるそうです。いかにもアメリカ人が好みそうなネーミングですね。笑)

このヘルキャットはアメリカの軍用機メーカーグラマン社で開発され、最高時速610キロ、航続距離は最大2500キロ、武装は12.7ミリ機銃6門、運動性もゼロ戦を上回る最新鋭戦闘機でした。また、このヘルキャットにはゼロ戦にはない大きな外形的利点がありました。それは「折りたたみ翼」です。


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上の画像を見ればお分かりの様に翼を大きく折りたためるのです。これによりアメリカの空母は日本の空母よりはるかに多い100機もの艦載機を搭載出来る様になり、それは直ちに航空兵力に大きな差を与える事になりました。一方日本はここまで折りたたむ技術を敗戦まで作れず、そのため日本の空母は最も多く艦載機を積めた翔鶴級空母で最大搭載機数は72機(実際は84機で、その差の12機は「補用機」として機体をパーツごとに分解し、普段は格納庫の側面に貼り付けて置いて、いざ大海戦となればそれらを格納庫内で組み立てるというやり方でした。)でしかありませんでした。まさに日米の技術力の差が大きく現れた一例でしょう。

2つ目は接近する敵の攻撃機を遠方から探知する電波探知機、いわゆる「レーダー」の開発です。


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このレーダーについては特に詳しい説明は不要でしょう。電波を出して対象物に跳ね返ったエコーからその距離と方向を知る事が出来る単純な論理の探知機ですね。アメリカは開戦前からこのレーダーの開発に力を注ぎ、上の2枚目の様に自動的に360度全方向を表示する「PPI」と呼ばれる優れたレーダーを完成させていました。(上の1枚目は空母レキシントンの艦橋にびっしりと装備されていた各種レーダー群です。方向や距離、高度などが極めて正確に探知出来、その情報を持っていち早く敵機の接近を知り、全艦に速やかな迎撃準備を行わせるためのものです。

これに対し、わが大日本帝国においてもレーダーの開発は開戦前から行われていました。しかし、その開発ペースは遅々として進まず、硬直化した精神主義に凝り固まった軍人たちの科学技術に対する無理解の下で、一部の技術者たちが細々と続けている程度に過ぎないレベルのものでした。

それでも、開戦後には徐々に帝国海軍の主要艦艇に続々とレーダー(当時は「電波探信儀」略して「電探」と呼んでいました。)が装備されていきます。しかし、その性能はアメリカのそれとは比較にならない低レベルなものでした。


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上は当時日本海軍で最大の空母であった翔鶴(しょうかく)型空母の2番艦である瑞鶴(ずいかく)の艦橋に設置された日本のレーダーです。しかし、アメリカのレーダーの様にクルクル回転して360度全方向を探知出来る様にはなっておらず、なんとアンテナを人力で動かし、その向けた方角しか探知出来ないという極めて不正確なものでした。また故障も多く、画像も不鮮明で、当時電測員と呼ばれた専門の技師が「勘」に頼って読み取ったというシロモノだったそうです。

当時の日本の艦艇は、優秀な視力を持った「見張り」の水兵たちに艦の防御が任されていました。双眼鏡や望遠鏡で遠くの目標を見分ける訓練で鍛え上げられ、それは「名人」とさえ呼ばれるほどでしたが、所詮は限界がありました。それに、そうした見張りは海上でしか役に立ちませんでした。なぜなら海上であれば「水平線」という指標があるのに対し、空の上には指標となるものなど何もないからです。

3つ目はこれが最も大きな威力を発揮したもので、敵機を確実に撃墜する驚異的な命中率を誇る画期的な対空砲弾「VT信管」(近接信管)です。


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上がこのVT信管の断面図です。弾頭内部に電波を放射する機器が詰め込まれています。このVT信管というものは、従来の対空砲弾の様に直接敵機に砲弾を命中させるというのではなく、砲弾から周囲15メートルの範囲に電波を出し、敵機がその範囲に入るとそれを感知して自動的に爆発、その破片と爆風によって直接砲弾が命中しなくても敵機を撃墜出来るという画期的な対空砲弾です。このVT信管も、アメリカがゼロ戦などの日本の新型戦闘機の脅威から自国の水上艦艇を守るために開戦前から多くの科学者を動員して開発した新兵器でした。

ゼロ戦と、それに対抗してアメリカが開発した3つの空の盾、これら日米の科学技術力を結集した兵器が、やがて本格的な対決をする時がやって来ます。1944年(昭和19年)6月の「マリアナ沖海戦」です。

この戦いは、第2次世界大戦の枢軸国すなわちドイツ、イタリア、日本の3カ国のうち、すでに前年9月にイタリアが早くも脱落し、もはや劣勢が明らかとなったドイツ、日本に対し、本格的な反抗作戦を開始したアメリカ、イギリスなどの連合国が、太平洋における日本への反撃の第2弾として狙った中部太平洋の要衝サイパン島攻略に対し、サイパンを絶対国防圏と定める大日本帝国が、その阻止と敵艦隊の撃滅を図って起きたものです。

それではなぜアメリカはこのサイパン島を狙ったのでしょうか? それはある「秘密兵器」の存在が大きく影響していました。その秘密兵器とは、アメリカが開発した長距離大型戦略爆撃機「B29」です。


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上がそのB29です。日本ではこの名が一般的ですが、アメリカ軍では「スーパーフォートレス」(超要塞)と呼ばれていました。航続距離はおよそ6500キロ、最大速度はゼロ戦並みの570キロで、最大9トンもの爆弾を搭載出来、日本機の飛行上昇限度をはるかに越える最大9700メートルもの高度まで飛行出来るまさに「空飛ぶ超要塞」でした。(この独特の丸いコックピットは、われわれ日本国民にとって「憎たらしい」顔ですね。このB29こそ、大日本帝国の息の根を止めた「地獄の使者」といえるのではないでしょうか。)

このB29は1944年には運用を開始、サイパンを基地とすれば、日本本土への長距離戦略爆撃が可能となるのです。そこでアメリカ軍は、このサイパン奪取のために前回お話したレイモンド・スプルーアンス大将麾下のアメリカ第5艦隊を主力とする大艦隊と、上陸部隊総勢7万からなる大軍をもって進行して来たのです。

これに対し、迎え撃つ大日本帝国ではアメリカ艦隊を撃滅する「あ号作戦」を発動します。日本海軍はアメリカ艦隊との決戦に備え、戦艦中心だったそれまでの艦隊編成を改め、戦艦を主力とする第1艦隊を廃止し、戦艦と重巡洋艦などの水上打撃部隊からなる第2艦隊と、空母を主力とする第3艦隊に分け、この第2、第3艦隊を合わせて「第1機動艦隊」を編成し、アメリカ艦隊との決戦に備えていました。日本機動艦隊の総司令官は小沢治三郎(おざわ じさぶろう)中将で、彼はこの時に備えて温存してきた航空戦力と、とっておきの作戦を準備してこの戦いに臨もうとしていました。


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上が第1機動艦隊司令長官小沢治三郎中将です。(1886~1966)彼はもともとは敵艦隊に魚雷攻撃を仕掛ける水雷戦隊(駆逐艦隊)出身でしたが、空母の重要性にいち早く目を付けてからは熱心に空母の戦術を研究し、それを買われて自らその指揮を取る事になった海軍でも開明的な提督でした。

この時に小沢が秘めていた取って置きの作戦とは、「アウトレンジ作戦」というものです。これは日本の空母艦載機の航続距離がアメリカのそれより長い事の特性を活かしたもので、簡単にいえばアメリカ艦隊の艦載機の行動範囲の外からいち早く攻撃隊を発進させれば、理論上は「必ず勝てる」(少なくとも味方艦隊への損害は無い。)という作戦です。

1944年(昭和19年)6月15日、アメリカ軍はサイパン攻略作戦を開始、迎え撃つ日本軍守備隊との間で凄まじい水際での攻防戦が繰り広げられます。この報に際し、すでにB29の存在と脅威をご存知であられた昭和天皇は、陸軍大臣に参謀総長も兼任していた東条首相と、海軍大臣兼軍令部総長の嶋田繁太郎大将を宮中にお呼びになり、東条参謀総長に対してサイパン島喪失の場合のB29による本土空襲への懸念を述べられています。また嶋田軍令部総長に対しては、次の様な激励のお言葉を発せられました。

「この度の海戦は、帝国の興隆に関わる重大なるものなれば、日本海海戦のごとく立派なる戦果を挙げる様、作戦部隊の奮励を望む。」


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上は大日本帝国第124代天皇にして、帝国陸海軍大元帥にあらせられた昭和天皇です。

天皇からのお言葉は嶋田総長から小沢中将に伝えられ、彼は必勝の信念を胸に、全艦隊を率いてマリアナ沖へと出撃していきました。この時点における日米の戦力比較は、わが日本艦隊が戦艦5隻、空母9隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦23隻に、支援艦船として艦隊へ給油する燃料を積んだ油槽船(タンカー)6隻、これを護衛する軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、海防艦5隻など総勢68隻に空母艦載機は450機(この数字については、440機から498機など補用機を含むか否かで諸説あります。)を数えました。対するアメリカ艦隊は戦艦7隻、空母15隻、重巡洋艦8隻、軽巡洋艦12隻、駆逐艦67隻など、水上戦闘艦艇だけで総勢100隻、空母艦載機に至っては900機に達する大艦隊でした。(この時、日本は持てる艦船と航空機の全てを投入していましたが、アメリカの方はこの時期すでに艦船、航空機ともに日本の2倍に達していました。)

第1機動艦隊はマリアナ沖に群がるアメリカ艦隊を撃滅するため、6月19日にマリアナ諸島近海に接近します。小沢長官は「アウトレンジ作戦」の発動を指令、第1次攻撃隊240機が次々に発艦して行きました。この瞬間、艦隊司令部も東京の軍令部も喜びに包まれ、大戦果を待ちわびました。この時、9隻もの空母から次々に飛び立ち、空を覆うわが航空部隊の姿に、第1機動艦隊では戦う前から

「これは勝ったも同然だ。これだけの大軍ならば今度こそ負けるはずはない。」

と小沢長官以下、幕僚や多くの将兵たちがそう思い込むほどの興奮に包まれていたそうです。しかし、彼らの期待はこの後大きく打ち砕かれてしまう事になるのです。

日本艦隊が第1次攻撃隊を発進させた後、アメリカ艦隊では最新のレーダーで日本の攻撃隊の接近を察知していました。アメリカ軍は直ちに迎撃のために戦闘機を発進させます。その主力は先に述べた「ヘルキャット」でした。そうとは知らない日本編隊は、アメリカの戦闘機隊が待ち受ける空域に飛び込んでしまいます。アメリカ編隊は日本編隊の真上から何段にも重なって攻撃を開始、重たい爆弾や魚雷を抱えて身動きの遅い日本編隊は大混乱に陥り、次々にヘルキャットの餌食となって撃墜されていきました。

この時の日本の攻撃隊のパイロットたちは、その多くが操縦経験も未熟な二十歳前後の若者たちでした。なぜならこれまでの戦いで大日本帝国は多くの熟練パイロットを失っており、また彼らはこの大事な作戦の前においても、燃料不足などから空母への発着艦の訓練すら満足に受けられませんでした。そのため、敵機との空中戦や回避のための高度な技量が身に付くはずがなかったのです。

それでも、なんとかヘルキャットの迎撃をかわした攻撃隊の一部は目指すアメリカ艦隊を発見、攻撃のため猛然と突っ込んでいきます。しかし、その日本攻撃隊に待ち受けていたのは、あのVT信管付き砲弾をセットした猛烈な対空砲火の炸裂の嵐でした。


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上がその様子です。1枚目はアメリカ軍の40ミリ機関砲で、2枚目はVT信管付き砲弾の炸裂する様子です。(海上に落下して水しぶきを上げている砲弾の破片に注目して下さい。1つの砲弾でこれだけの範囲に破片が散らばるのですから、そこに飛び込んだ飛行機はひとたまりも無いのがお分かりいただけると思います。)

どの砲弾もかつてないほどの精度で日本機の近くで炸裂し、この凄まじい対空砲火のために日本攻撃隊は全く手も足も出ずに壊滅してしまったのです。

一方大戦果を待ちわびる日本艦隊司令部では、次第に不安の色が出始めます。それもそのはずで、攻撃隊から全く何の連絡も入らないのです。しかし、この時わが攻撃隊はその大半が戦況報告の打電をする暇もなくほぼ全滅していました。

翌日、アメリカ艦隊の反撃が始まります。日本艦隊追撃のため、アメリカ攻撃隊216機が発進します。一方日本艦隊も、この時主要艦船にレーダーが装備されてはいましたが、日本艦隊旗艦、空母大鳳(たいほう)のレーダーがアメリカ攻撃隊の接近を探知した時には、もう敵は間近に迫っていました。(この時の司令部の幕僚だった方の証言では、もう肉眼で敵機が見える頃になって「敵機接近」の報告が来たのには「呆れてしまった」そうです。)

前日の戦闘で大量のゼロ戦を出撃させ、そのほとんどを失っていた日本艦隊には、これを迎え撃つ援護の戦闘機も、それを発進させる時間すらもありませんでした。


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上はアメリカ軍機の攻撃を受け、対空砲火で応戦しつつ回避行動をとる第1機動艦隊です。しかし、射撃を全て目測に頼る日本艦隊の対空砲火では、襲いかかる200機以上の敵機の攻撃を完全に防ぐ事は出来ませんでした。

この2日間の海戦で、大日本帝国は出撃させた9隻の空母の内、就役したばかりの新型空母であった旗艦大鳳をはじめ、大型空母3隻が撃沈、軽空母4隻を大破され、さらに艦載機400機以上を失い、これ以後、太平洋における制海権と制空権を完全にアメリカに奪われてしまいます。マリアナ沖の大敗は東京の日本帝国海軍軍令部の期待を大きく打ち砕きました。当時の軍令部の士官だった方の証言では、みんな徹夜で軍令部に泊り込んでいたそうですが、朝になって軍令部総長の嶋田海相がこの敗北の報告を聞くと、彼は居並ぶ海軍幕僚たちの前ではばかりもせず、

「がっくりと肩を落とし、椅子から立ち上がる事も出来ずにいつまでも座っておられた。」

そうです。(この時の彼らの心情は想像を絶しますね。)

一方勝利したアメリカ軍側では、第5艦隊司令スプルーアンス大将がワシントンに次の様な報告をしています。

「これほど損害の少ない勝利は、わが軍にとって開戦以来初めての事であった。レーダーなどの新型兵器の開発に心血を注いできた事が、決して無駄ではなかった事が立証された。」

このあまりの一方的な勝敗の結果に、アメリカ軍将兵はこの戦いを「マリアナの七面鳥撃ち」と名付けて一層勝利への自信を深めました。ほどなく救援の望みを絶たれたサイパン島の日本軍守備隊約3万は、日本人住民2万2千を道連れに玉砕して全滅。サイパンはアメリカ軍の手に落ち、昭和天皇が恐れられたB29の日本本土空襲によって、大日本帝国は敗戦へと追い込まれてしまうのです。

戦後、アメリカは日本の科学技術について詳細な報告書を作成しています。その中には次の様な一文がありました。

「日本の軍部は、現代の戦争における科学技術の兵器への活用の重要性を認識出来なかった。優れた科学者を擁しながら、人的資源を有効に活かせなかったのは、全て軍部の独善と偏見によるものである。」

次回に続きます。
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ガダルカナル島攻防戦(前編)・ オーストラリアを目指した日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは「攻勢終末点」という言葉をご存知でしょうか。これは言葉を変えて言えば「攻撃の限界点」とも言えるもので、戦争において敵国に侵攻し、優勢であった攻撃側の国が、占領地域の拡大と本国との距離の増大、そしてその国の国力の限度からその維持が限界点に達し、やがては攻守が逆転していくという考え方です。

これは19世紀初頭のナポレオン戦争時代に、当時ドイツ東部にあったプロイセン王国の将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによって提唱された軍事理論の1つで、彼は戦争の拡大と長期化が招く危険性を指摘し、戦争は出来る限り短期決戦で臨み、大勝利を収めた時点で攻撃側が優勢なうちに早期講和と外交的解決を図るべきであると説いています。


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上がそのカール・フォン・クラウゼヴィッツです。(1780~1831)彼は上で述べた様にナポレオン戦争期のプロイセンの陸軍少将で軍事学者でもあり、自らもそのナポレオンと戦った名将です。ナポレオンの栄光と転落を目の当たりにし、ナポレオンが続けた戦争とその失敗の事例から多くを学び、それを研究して著した著作「戦争論」は、その後の世界中の軍人、歴史学者に大きな影響を与えました。現在でも欧米の陸軍士官学校はもちろん、わが国の防衛大学校においても必ず学ぶ人物です。

戦争論〈上〉 (岩波文庫)

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このクラウゼヴィッツの「戦争論」は、中国の兵法家孫子の「兵法」と並んで戦争の常道を表した古典的名作として名高いものですが、孫子の兵法の様に「簡潔」なものではなく、残念ながら未完成かつ非常に文章が長くて難解(自分の読感でも説明が長くてまわりくどいと感じました。しかし、そもそも学者の書いた研究論文的なものですし、また小説や物語の様に面白おかしいフィクションではないのですから当然でしょう。)である事から多くの方が途中で挫折してしまう様です。(笑)

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このクラウゼヴィッツの理論は、その後の幾多の戦争においてもその正しさが立証されていますが、当ブログの今回のテーマの主役であるわが大日本帝国も、その自らが引き起こした大戦争である太平洋戦争において、クラウゼヴィッツがその危険性を訴えた国力の限度を越える戦争の拡大という愚を犯し、絵に描いた様な彼の理論通りの展開を招いてしまいます。今回はそのターニングポイントとなった「ガダルカナル島の戦い」についてのお話です。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は東南アジアのほぼ全域を制圧。翌1942年1月下旬にはニューギニアの近くビスマルク諸島の要衝ラバウルを占領しました。このラバウルはその地形と良港に恵まれた天然の要塞で、日本軍はここを南太平洋における最大の軍事拠点として活用します。


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上が日本軍占領下のラバウルとその位置です。多くの日本艦船が湾内に停泊しています。(上空を飛んでいるのはゼロ戦と並んで大戦中の日本海軍の主力爆撃機であった「一式陸上攻撃機」です。)

日本軍がこの地を占領した理由は、大日本帝国にとってアメリカ以外の連合国としては最大の敵である南のオーストラリアの動きを抑え、そのオーストラリアとアメリカとの連携を遮断するためでした。しかし、ここで日本軍内部において、今後の戦争遂行と作戦面における見解の相違が露呈します。日本海軍は巨大な生産力を持つアメリカに対して長期戦は絶対不利として、早期決着のために戦線を拡大し、積極攻勢でアメリカ太平洋艦隊を撃滅してアメリカの継戦意欲の喪失を図るとともに、同時にオーストラリアを占領して大日本帝国の資源供給地である東南アジアへの連合軍の反抗を阻止する事を主張します。


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上は日本海軍が思い描いた占領地域の拡大図です。オーストラリアはおろか、インドやニュージーランドまで入っていますね。当時のわが帝国海軍は本気でこんな事が可能だと思っていたのでしょうか?

こうした海軍に対し、中国戦線の早期決着を図りたい日本陸軍は、東南アジアを占領した時点で長期持久戦に入り、それ以上戦線を広げない方針でした。(実は意外なのですが、日本陸軍は開戦後においてもアメリカと戦う事などあまり考えていなかったのです。その理由は日本陸軍の仮想敵国は当時のソ連であり、中国大陸や満州を主たる戦場に想定していたからです。)

それに兵力と物資輸送の問題もありました。海軍は陸軍3個師団(およそ4~5万)をもってオーストラリアに上陸、ポートダーウィンなどの北部沿岸地域を占領するつもりでいましたが、中国大陸と満州に40個師団、およそ130万以上もの大軍を釘付けにされていた陸軍は、東南アジアを占領するために兵力と輸送船をかき集めるのが精一杯で(日本陸軍が東南アジア征服のために準備出来た兵力は、開戦時11個師団およそ21~22万程度でした。)オーストラリアにまで差し向けられる兵力など、とてもそろえる事は出来なかったからです。

そこで大本営陸海軍部は作戦面で妥協を図ります。それはオーストラリア侵攻を断念する代わりに、ソロモン諸島のさらに南に広がるフィジー、サモア、ニューカレドニア諸島などを攻略、これを占領する作戦です。海軍はこの程度であれば、兵力は多くても1個連隊(約2~3千)程度で済み、最小のコストでオーストラリアとアメリカの連携を遮断出来るだろうと提案し、陸軍の同意を引き出します。

日本海軍は1942年(昭和17年)4月から早速作戦を開始します。まずはこれらの島々の近くにそのための前線基地を造らなくてなりません。しかし先に述べたラバウルでは遠すぎて兵や物資の輸送が困難です。そこで海軍が目を付けたのが、ソロモン諸島中央部に浮かぶガダルカナル島でした。


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上の画像の1枚目がガダルカナル島の位置と日本との距離です。ざっと5500キロも離れていますね。そして2枚目が日本軍が島に建設した飛行場で、島のルンガ岬の近くであった事から「ルンガ飛行場」と名付けられました。3枚目はその飛行場の現在の姿で、今はソロモン諸島の空の玄関「ホニアラ空港」として使用されています。

ここで、このソロモン諸島とガダルカナル島の名前の由来について簡単にお話しておきますが、このソロモン諸島は16世紀の大航海時代にこの地にやって来たスペインの探検隊がこの島で「砂金」を発見し、これが旧約聖書に登場する「ソロモン王の財宝」であると信じた事からその名が付けられたそうです。また、「ガダルカナル」というのはその探検隊のスペインの故郷の地名から付けられました。(現地の固有名詞ではないのですね。)

その後、19世紀の終わりごろにイギリス領になりましたが、今次大戦で日本軍によって占領され、太平洋戦争の激戦地として知られる様になるまで歴史に登場するはずのなかった南の島です。大きさは日本の栃木県とほぼ同じくらいで、島としては大きいですね。現在はソロモン諸島共和国の首都が置かれ(首都はホニアラで人口はおよそ5万、ソロモン諸島の国全体の人口は52万ほど。)かつてここで、合計10万に達する日米両軍の血みどろの激戦があったとは思えないほどの静かで平和な常夏の国です。

この急ごしらえの短い滑走路1本だけの小さな飛行場が、日本軍の南方における最南端の前線基地でした。1942年(昭和17年)8月、飛行場はいつでも基地として活用出来るまでに完成していましたが、これに大きな脅威を感じたアメリカ軍は、太平洋における日本への反攻作戦をこの島の奪還から開始する事に決定し、輸送船23隻に分乗した第1海兵師団1万9千と、それを護衛する空母3隻を主力とする50隻ほどの艦隊で上陸作戦を開始しました。


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上は1942年8月7日、ガダルカナル島に上陸するアメリカ海兵隊と、第1海兵師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将です。(1887~1973)彼は後に大将に昇進、アメリカ海兵隊総司令官に就任します。当時アメリカはまだ戦時生産体制が整っておらず、艦艇は既存のものを使うしかありませんでした。そのためアメリカは、太平洋にあったほとんど全ての艦船をこの作戦に動員したそうです。

この時島にいた日本軍はおよそ2200名でしたが、戦闘部隊は陸戦隊が400名足らずで、大部分が飛行場建設の労働者でした。そのためアメリカ軍はその日の内にガダルカナルを無血占領したのです。これに対し、日本軍はただちに反撃を開始します。ラバウルにあった使用可能な全機(先に述べた一式陸上攻撃機27機、艦上爆撃機9機、護衛のゼロ戦17機)を発進させて飛行場を爆撃すると同時に、駐留していた第8艦隊(重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)にも出動を命じ、その夜にガダルカナル島近海に群がるアメリカ艦隊に夜襲をかけ、重巡洋艦4隻と駆逐艦1隻を撃沈する大戦果を挙げます。(第1次ソロモン海戦)

この海戦で日本艦隊は軍艦ばかりに攻撃を集中したために、今だ多くの輸送船に分乗していたアメリカ軍部隊はからくも難を逃れましたが、それでも一夜にして沈んだ艦船の乗組員1000名以上が犠牲になり、アメリカ艦隊は大変な心理的パニックに陥ります。何しろ先に述べた様に、アメリカ軍はこの時に太平洋艦隊のほとんどをこの作戦に投入しており、大事な空母3隻などを失う恐怖感から、一時的に護衛艦隊の大半が上陸している味方を残して日本軍の手が届かない安全海域まで退避してしまったからです。

夜が明けてからこれを知ったヴァンデグリフト少将ら上陸していた海兵隊は、味方艦隊の弱腰に怒り、同時に今だ飛行場に航空機すら一機も配備されていない状態で、敵日本軍の制海・制空権下にあるこの地に取り残された絶望感に打ちひしがれたそうです。(後に圧倒的な物量と最新兵器で日本を追い詰めていく強大なアメリカ軍も、この頃はまだ見ぬ敵日本軍に対して恐る恐るだった事が分かりますね。)

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上は作戦行動中の一式陸上攻撃機の編隊です。この爆撃機は最高速度450キロ、爆弾搭載量1トンの双発爆撃機で、日本軍の主力爆撃機として2400機以上生産され、大戦の全期間を通じて使用されましたが、前回お話したゼロ戦と同様防弾装備が全くなく、主翼部分がそのまま燃料タンクとなっていたために、一発でも銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまう事から、アメリカ軍パイロットに「ワンショットライター」と揶揄される脆いものでした。

このアメリカ軍のガダルカナル島上陸は、直ちに東京の大本営陸軍参謀本部に伝えられました。しかし、当の大本営では、その時このガダルカナルという島がどこなのか、誰もその名前すら知りませんでした。当時大本営陸軍部の参謀であった方はこう証言しています。

「太平洋は海軍の担当だというのが開戦前からの取り決めであり、これは海軍の事だから大した事は無いと参謀本部の者は誰もそれに注意を払わず、ガダルカナルという島がどこにあるのか、地図を引っ張り出して初めてその位置を知る様なそんな状態から事は始まったのです。」

ともかく大本営陸軍部は、8月18日にガダルカナル奪還のための第1陣が送り込みます。しかし、それは一木清直(いちき きよなお)大佐率いる1個連隊(2300名)の先遣隊およそ900名というわずかなものでした。


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上がガダルカナル奪還部隊第1陣の司令官一木大佐です。(1892~1942)彼の連隊は、北海道の旭川第7師団に所属する日本陸軍の精鋭部隊でした。

それにしても、2万近いアメリカ軍に対してなぜ日本軍はこれほどわずかな兵力しか差し向けなかったのでしょうか? それはなんといっても情報を自身に良い様にしか受け取らない日本軍の悪いクセが災いしたのが大きな理由でしょう。日本軍はこんな最果ての小さな島に、アメリカがこれほどの大軍を差し向けてくるとは思わず、せいぜい1個連隊(2~3千程度)と甘く見積もっていたからです。また、当時日本陸軍は中国の蒋介石政権を屈服させるためにおよそ100万の大軍を動員する「重慶侵攻作戦」を計画していました。そのため、南太平洋方面に差し向ける陸軍兵力はわずか1万程度でしかなかったのです。

さて、駆逐艦6隻に分乗してガダルカナルに上陸した一木部隊は、敵がこれほどの大部隊であるとも知らずに夜陰に乗じて白兵突撃による飛行場奪還作戦を開始します。これを支援する火力は機関銃8丁と大砲2門だけでした。一方日本軍のこの動きに対し、アメリカ軍はすでにそれを察知していました。飛行場の周囲に塹壕が掘られ、なんと300丁以上の機関銃を配備して日本軍を待ち構えたのです。深夜、日本軍900名は闇にまぎれて銃剣突撃を開始します。しかし、その彼らの前にかつて目にした事のない光景が広がりました。凄まじい機関銃の十字砲火です。


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この攻撃に日本軍は全く手も足も出せず、夜が明けると日本軍は司令官一木大佐以下ほぼ全滅していました。上はその時の写真ですが、これは歴史上それまで不敗を誇ってきた日本軍の敗れた姿を写した最初のものといわれています。

この第1次ガダルカナル奪還作戦の失敗は、すぐに東京の大本営に伝えられます。大本営は現地軍に再びガダルカナル奪還部隊を差し向けるよう指令、その第2陣として9月に入り、川口清武(かわぐち きよたけ)少将率いる1個旅団がガダルカナルに送り込まれます。今回の兵力は6200名に増強されました。


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上の写真最前列中央が川口少将です。(1892~1961)この時の日本軍はアメリカ軍の3分の1に過ぎず、その戦法も一木部隊と同じ夜襲による白兵突撃で、これを支援する火力も機関銃60丁と大砲20門しかありませんでした。

川口旅団およそ6千は再び夜襲による銃剣突撃を決行、そして一木部隊と同じ目に遭って多大な犠牲を出し、作戦はまたも失敗してしまいます。この時、川口少将は慌てて撤退する途中で、彼がルンガ飛行場奪還に成功した暁に着用するつもりであった礼装用の軍服を置き忘れ、それを発見したアメリカ軍将兵はこんなジョークを言ったそうです。

「カワグチ将軍は、きっとシドニーの社交界で大いにモテるつもりだったに違いないよ。」

一方、2度の失敗に東京の日本帝国大本営は業を煮やします。そこで大本営は事態打開のため、現地軍に任せきりにしていた作戦を大本営直轄に切り替え、参謀本部きっての名参謀を当地に派遣します。その名は辻政信中佐。そしてその後日本軍は、ガダルカナルの戦いにおいてこの1人の参謀に大きく振り回されていく事になります。

次回に続きます。

ガダルカナル島攻防戦(後編) ・ 距離に敗れた日本軍

みなさんこんにちは。

1942年(昭和17年)5月、飽く事を知らぬ野望を抱いたわが大日本帝国は、ついに赤道を越えてその手を地球の南半球に伸ばし、その周辺の島々に軍を差し向けました。「米豪分断作戦」の始まりです。この作戦はそもそも海軍が立案し、陸軍に持ちかけたものですが、その目的は前回もお話した様に、オーストラリアとアメリカの間に連なって横たわる周辺の島々(フィジ-、サモア、ニューカレドニア諸島など)を攻略、これを占領する事で、両国の間に「楔」を打ち込み、その軍事的連携を遮断してオーストラリアを孤立化させる事でした。

日本海軍はそのための前線基地として、ソロモン諸島のほぼ中央に位置するガダルカナル島に飛行場を建設し始めます。しかし、これに大きな脅威と不安を感じたアメリカとオーストラリアは、これ以上の日本軍の南進を阻止すべく、陸海共同でガダルカナル島に上陸、これを占領してしまいました。

ここに、半年間に及ぶ日米両軍の太平洋の支配権をかけた死闘が始まったのです。日本軍はアメリカ軍に奪われた飛行場を奪い返すために、これまで2度に亘って陸軍部隊を差し向けました。しかし、その兵力は合計7千余りと、2万に達するアメリカ海兵隊の3分の1程度に過ぎず、しかも2度とも無謀で時代遅れな銃剣による白兵突撃を繰り返し、その都度アメリカ軍の数百丁の機関銃の十字砲火の餌食となって壊滅してしまいます。

この2度の失敗により、はるか離れた東京の大本営は、ようやく事態の深刻さを悟る様になりました。そうでなくてもこのところ大日本帝国は、1942年(昭和17年)4月のアメリカ軍爆撃機16機による史上初の日本空襲、5月に実施したニューギニアのポートモレスビー攻略作戦の失敗、そして何よりショックだった6月のミッドウェー海戦における空母4隻の喪失など、戦局の低迷が相次いでいるのです。こうしている間にも、アメリカは着々と戦時生産体制を整えており、この様な所でモタモタしていれば、アメリカに日本への一大反攻への時間と猶予を与えてしまう事になってしまいます。大本営中央は焦りを募らせていました。

そこで大本営は、それまで現地軍に任せていたガダルカナル奪還作戦の指揮権を「大本営直轄」とし、今度は本腰を入れて直接作戦を指揮するために大本営直属の参謀を現地に派遣し、一気に戦況の打開を図ろうとします。その名は辻政信(つじ まさのぶ)中佐と言い、開戦時のマレー・シンガポール攻略作戦を成功させた名参謀でした。ところで、戦時中の日本を語る上で必ず登場するこの「大本営」というものは、そもそも一体どんな組織なのでしょうか? ここでごく簡単にそれをお話して置きたいと思います。

歴史好きの方でなくても、ごく普通に教育を受けていれば、現代国家というものが司法・立法・行政の3つの権利を基礎として成り立っているという事は、一般常識としてご存知の事と思います。(いわゆる「三権分立」というものです。司法は裁判を行う権利、立法は法律を制定する権利、行政はその法律を執行する権利ですね。)これらはそれぞれ独立しており、わが国であれば司法は裁判所、立法は国会、行政は内閣がそれぞれその権利を行使しています。

しかし、戦前のわが大日本帝国では、今の日本にはないもう一つの大きな権利がありました。それは「統帥権」というものです。この統帥権とは、簡単に言えば軍の指揮権、すなわち大日本帝国陸海軍の指揮命令権の事で、これを持つのは大日本帝国の統治者であり、帝国陸海軍の大元帥であった天皇でした。


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上は白馬にまたがり、大元帥として軍を閲兵されている昭和天皇です。

しかし、現実には天皇お一人で全軍の指揮統率をする事は非常に困難です。そこで天皇の統帥権を補佐し、天皇に代わって実際に帝国陸海軍に指揮命令を下していたのが「大本営」という組織です。この大本営は陸軍と海軍でさらに別れ、陸軍の事ならば大本営陸軍部が、海軍ならば同じく海軍部がそれを担っていました。ちなみにこの「大本営」は、戦時に大元帥である天皇の下に置かれるものであり、常設のものではありません。戦時に天皇のおられる場所が「大本営」であり、そのため大本営という決まった建物などが存在していたわけではありませんでした。(つまり、天皇が皇居におられれば宮中に設置され、軍の視察などで各地に臨幸される場合は、その滞在地が臨時大本営です。そもそも「大本営」という語源も、軍の総司令官が陣を敷く司令本部の意味を表しています。)

先に述べた三権同様この統帥権は独立したものであり、何より天皇の持つ絶対神聖不可侵の大権でした。そのため大本営の参謀たちはその無敵の威光を背景に、軍の作戦決定に当たって行政を担う帝国政府の長である内閣総理大臣でさえ口をさしはさむ事は一切出来ない強い権限を持っていたのです。そして、大日本帝国において何者も逆らえないその強大な権限を持って現地に乗り込んだのが辻中佐でした。


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上の1枚目が東京の市ヶ谷にあった旧陸軍省の建物です。もともとはその4年前の昭和12年に陸軍士官学校の本部庁舎として建てられたものですが(そのせいか、飾り気も素っ気もない学校の校舎の様な外観をしていますね。笑)1941年(昭和16年)以降、向かって左側に陸軍省、右側に参謀本部が置かれる様になりました。(現在は、平成19年の防衛省の移転と同時に取り壊され、一部が記念館として同じ敷地内に移築されています。かつてここで、戦後に極東国際軍事裁判が開かれ、作家の三島由紀夫が自決するなどのセンセーショナルな事件があったいわく付きの建物です。)

2枚目が大本営陸軍部参謀の辻政信中佐です。(1902~1961)彼は陸軍士官学校から陸軍大学校まで、常に主席か次席というトップクラスの優秀な成績で卒業した日本陸軍のエリート中のエリートで、開戦以来の日本陸軍のほぼ全ての作戦の立案に携わり「作戦の神様」などと周囲から持ち上げられていました。しかしこの人物、頭の回転は速いものの非常に気性の激しい極端な性格で、それは彼の一連の強気の作戦指導にも現れており、そのために日本軍は大きな犠牲を払う事になります。(彼にまつわるエピソードは枚挙に暇がないので、ここでは割愛させていただきますが、非常にキャラクターの濃い問題人物であった事だけはここで申し上げておきます。)

1942年(昭和17年)10月、大本営は兵力をさらに増強し、丸山政男中将麾下の第2師団およそ1万3千を現地に派遣します。すでにラバウルに到着していた辻参謀は、2度の作戦の物理的な失敗は「火力の不足」にあると断じ、今度は出来るだけの火砲をガダルカナルに陸揚げして正面突破を試みるつもりでいました。


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上がガダルカナル奪還部隊の第3陣として送り込まれた第2師団長丸山政男(まるやま まさお)中将です。(1889~1957)彼の率いる第2師団は、宮城県仙台市基幹の部隊で、「夜襲」を得意とする歴戦の師団でした。

一方、日本軍の2度の攻撃を撃退したアメリカ軍は、日本軍から奪い取ったルンガ飛行場を「ヘンダーソン飛行場」と名付け(由来はミッドウェー海戦で戦死した同名の人物にちなんでいるそうです。)戦闘機を常駐させて周辺の制空権を握るとともに、新たに「第2飛行場」を建設して日本軍の来襲に備え、迎撃態勢を整えていました。


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上の1枚目が上空から見た「ヘンダーソン飛行場」です。右端に写る本来の飛行場に加え、アメリカ軍が新たに建設した第2飛行場が左にあるのがお分かりいただけるでしょう。(日本軍が1本の滑走路を作るのに2千の人員の手作業で3カ月かかっていたものを、アメリカ軍は数十台のブルドーザーで、少なくとも4本の滑走路をわずか1ヶ月で築いていました。)2枚目はずらりと並ぶアメリカ軍戦闘機です。

1万3千もの大部隊である第2師団をガダルカナルに上陸させるには、この飛行場の敵機が邪魔です。そこで辻参謀は、上陸作戦の間この飛行場を「黙らせておく」ために、海軍に次の様に要請します。それは

「わが軍の上陸の間、戦艦と重巡による艦砲射撃をお願いしたい。」

というものでした。しかしなぜ彼は、陸軍の参謀でありながら海軍にこんな要請をしたのでしょうか? それはこの戦いが始まって以来日本軍を悩ませてきたある物理的な問題が大きく影響していました。その日本軍を悩ませる物理的問題とは戦場の「距離」の遠さです。

前回もお話した様に、このガダルカナル島は日本軍のソロモン方面最大の補給基地ラバウルから千キロも離れています。この距離は、日本軍の主力戦闘機であるゼロ戦にとってはちょうど1往復出来る距離ですが、帰りの燃料を考えると、上空での戦闘時間はわずか15~20分しか取れないのです。そのためラバウルから発進した日本の爆撃隊と、それを護衛するゼロ戦隊がヘンダーソン飛行場を爆撃して滑走路に穴を開けても、アメリカ軍はブルドーザーなどの機械力ですぐにそれを埋めて復旧してしまうのです。


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上は作戦行動中のゼロ戦隊を空中撮影したものです。パイロットの方の表情まで良く分かりますね。

この一大航空基地と化したヘンダーソン基地から発進したアメリカの戦闘機隊により、日本軍は容易に島に近づけませんでした。そこで辻参謀は、艦隊に夜間艦砲射撃させてヘンダーソン飛行場を敵の戦闘機隊もろともなぎ払い、その間に第2師団と多くの火砲と弾薬を満載した大型高速輸送船団を島に突入させ、上陸作戦を決行するという作戦を立案します。

海軍でも、この飛行場の存在を何とかしなければならないという必要性は、辻から受けずとも良く分かっていました。そこで海軍は、日本海軍が持っている最も高速な「金剛」型戦艦4隻を交互に出動させ、さらに戦艦に次ぐ大型艦である重巡洋艦部隊も加えて砲撃作戦を実施します。


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上は日本海軍の高速戦艦「金剛」(こんごう)と重巡洋艦「古鷹」(ふるたか)です。海軍はこれらの大型艦の強力な主砲で海上から陸軍の上陸作戦を援護しました。

この作戦は部分的には成功しました。日本艦隊の猛烈な艦砲射撃によって飛行場の戦闘機は吹き飛ばされ、滑走路は穴だらけになり、一時的に基地は使用不能になります。そして何より、アメリカ軍将兵に与えた心理的恐怖は大変なものでした。なぜならヘンダーソン飛行場を守るアメリカ海兵隊は、昼間は轟音とともに連日飛来する日本軍の爆撃隊に飛行場を爆撃され、さらに夜には日本艦隊の恐ろしい砲撃にさらされる事になったからです。そのわずかな間隙を縫って、日本軍輸送船団は夜間上陸作戦を決行、陸軍部隊の大半を上陸させる事に成功しました。しかし、ここで先ほどお話したアメリカ軍の第2飛行場が力を発揮します。

日本艦隊は第1飛行場の砲撃に集中したため、第2飛行場の方はほぼ無傷でした。アメリカ軍はこの第2飛行場に避難させていた戦闘機隊を出撃させて物資の揚陸途中だった日本の輸送船団を攻撃したのです。重たい火砲や砲弾、食糧など、浜辺に積んであったこれらの物資はアメリカ軍機の攻撃で破壊され、燃やされてしまい、輸送船も次々に沈められてしまいます。


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上はガダルカナルの海岸に各坐した日本の輸送船の姿です。

火砲と弾薬の陸揚げが上手く行かず、当初の目的であった多くの火砲の援護射撃で飛行場を奪還するという辻参謀の作戦は変更を余儀なくされます。しかし、第2師団とともにガダルカナルに上陸していた辻参謀は全く動じる事無く、日本陸軍が最も得意とした伝統の戦法である銃剣による白兵突撃で総攻撃を仕掛ける作戦を立てるのです。

「わが軍は第2師団と川口旅団の残存兵力を合わせて合計1万5千の大部隊である。これだけの兵力で総攻撃を仕掛ければ、あんな小さな飛行場の奪取など造作のない事だ。」

というわけです。

彼の立てた作戦は、これまで2回日本軍が行っておびただしい犠牲者を出し、無残な失敗に終わったものでした。しかし辻は、同じ場所で再びそれを繰り返そうとしているのです。これには前回総攻撃を加えた川口少将が大反対をし、最低でも攻撃位置を変える様進言します。これに対して辻は激怒し、作戦開始前日、川口少将を罷免してしまいます。(階級でははるかに上の少将を一中佐が罷免するなど本来なら有り得ませんね。いかに大本営参謀の権力が強かったか分かります。)


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10月24日、日本軍は3度目の夜間総攻撃を決行します。それに当たり、辻参謀は東京の大本営に次の様な自信に満ち溢れた電文を送りました。

「天佑神助(てんゆうしんじょ)により、一挙飛行場付近の敵を撃滅せんとす。」

そして日本軍は再び時間も場所もバラバラに飛行場に突撃を敢行、はるかに強化されたアメリカ軍陣地の機関銃の十字砲火の前に壊滅してしまうのです。夜が明けるとヘンダーソン飛行場の周囲の丘は日本兵の死体で埋め尽くされ、「血染めの丘」と名付けられる事になります。

さらにこの無謀な作戦の総責任者である辻参謀がマラリアにかかり、高熱を発して逃げる様に東京に帰還してしまいます。(バチが当たったのでしょうか?)もはやガダルカナルの奪還が不可能である事は誰の目にも明らかでした。しかしその後も大本営はガダルカナルを諦め切れず、またも陸軍部隊を乗せた輸送船団や高速の駆逐艦隊を差し向け、強行突破させようと試みます。しかし、アメリカ機動部隊から発進した戦闘機隊がこれを待ちうけ、1隻も島に近づけまいと空から襲い掛かり、日本軍は一連の突破作戦で大事な輸送船30隻余りと10隻以上の駆逐艦を失ってしまいます。


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上はガダルカナル上陸部隊に食糧と武器弾薬を送り届けるために海岸に乗り上げた日本の輸送船です。船の上に設置された高射砲が、来襲するアメリカ軍機を最後まで迎え撃った様子が目に浮かびます。手前には小型の潜航艇が転がっていますね。日本軍は潜水艦やこんな小型艦まで使って何としてでも食糧を送り届けようとしたのです。しかし、これでは運べる量はわずかなものでした。

輸送船団の壊滅は、ガダルカナル島に上陸していた日本軍残存部隊をさらに窮地に追い込む事になります。食糧の補給がないため、兵は飢えに苦しみ、辻参謀も倒れたマラリアや熱帯での喉の渇きから、ジャングルの小川の水を飲んだ兵たちが赤痢にかかり、次々に倒れていったのです。

一方はるか離れた大日本帝国本国でも、ガダルカナルの戦いの影響が出始めていました。このテーマの最初の輸送船団の回でお話した様に、物資輸送に必要な大型船舶が不足し始めたのです。この様な状況の中で、ついに大本営はガダルカナル奪還を断念し、1942年(昭和17年)12月31日の天皇ご臨席の御前会議において、正式にそれが決定されました。大日本帝国は戦勝気分に酔い痴れた1年前とはうって変わり、悲嘆に暮れた年末年始を過ごす事になります。

明けて昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島からの撤退作戦を開始します。ケ号作戦と呼ばれるものです。その由来は「捲土重来」(けんどちょうらい)からで、20隻もの駆逐艦により3回に分けて行われました。日本軍はかなりの損害を覚悟していましたが、実際には駆逐艦1隻を失ったのみで、島に残っていた残存部隊1万余の撤退を無事終える事が出来ました。(アメリカ軍はこれまでの激しい日本軍との戦いで、日本軍が新手の増援軍を送り込んできたものと思い込んでいました。そのため、まさかその逆に日本軍が撤退していたとは全く知らず、日本軍が島からいなくなった3日後にそれを知ったそうです。)

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上はアメリカ軍機が撮影した日本の駆逐艦隊です。35ノット以上(時速64キロ)の高速で強行突破を試みるその姿が、上空からは列車の様に連なって見える事から、アメリカ軍パイロットに「東京急行」(トーキョー・エクスプレス)などと呼ばれました。

この半年間におよぶガダルカナル島の戦いで日本軍が投入した兵力はおよそ31400名、そのうち無事に撤退出来た兵は1万600名ほどで、2万以上の兵が犠牲になりました。そのうち、実際の戦闘による戦死者は5千ほどで、残りの1万5千は飢えと病による死者でした。(アメリカ軍の戦死者はおよそ1500名ほど。)2月に行われた撤退作戦においても、1人で歩く事が出来ない兵士はそのまま島に置き去りにされたそうです。(その大半は、自決と味方兵士による「介錯」(かいしゃく)によって「処分」されていました。戦友をこんな形で手に掛けざるを得なかった兵士たちの心情は想像を絶します。号泣)

この戦い以降、著しく戦力と物資を消耗した日本軍は疲弊し、積極攻勢はすっかり鳴りを潜めてしまいます。そうしているうちにアメリカはすっかり戦時増産態勢を整え、太平洋方面に新型の艦艇や戦闘機を続々と送り込み始めていました。海軍や大本営が恐れていた事態がついに現実のものとなったのです。

このガダルカナルを巡る戦いは、一般にはアメリカ軍との激しい消耗戦が大きな敗因の様にいわれています。しかし、実際にはこの戦いの敗因は、当時の大日本帝国陸海軍の組織が持っていた体質的な欠陥と、時代遅れな白兵突撃戦法に固執した日本陸軍の武士道的精神主義、そして何よりもガダルカナルの島の距離の遠さにあるものと思います。

日本から6千キロ近く離れたこの様な地の果て(というより海の果て)にまで戦線を拡大した事自体、当時の大日本帝国がいかに自らの国力とその限界を度外視していたかが分かります。このガダルカナルには、その犠牲となって死んでいったわが兵士たちの多くの遺骨が今だ残されたままなのです。

次回に続きます。

剣は銃よりも強し? ・ 武士道の驕りが招いた敗戦

みなさんこんにちは。

みなさんは、今日のわが国が先進の科学技術が生み出す産業と、それを生業に年間500兆円ものGDP国内総生産を稼ぐ強大な経済、さらに古くから伝わる伝統工芸と、アニメや新しいキャラクター、先進のファッションなどに代表される自由で豊かな想像力に富んだ文化国家である事は良くご存知の事と思います。その点については世界中から異論を差し挟む国は存在しない事でしょう。

全く世界中でこれほど平和で繁栄した国家も珍しいですね。自分は心の底から日本人に生まれて良かったと常に思っています。しかし、歴史というものはそれぞれの国でいろいろあれど、わが日本ほど昔と今で国のあり方が違う国家は世界でも珍しいのではないでしょうか? なぜなら歴史好きな方ならば良くご存知の様に、わが国が国運を賭けて引き起こした太平洋戦争敗戦前の日本は、現代の日本とはまったくかけ離れた「超軍事国家」であったからです。

今年2015年(平成27年)は、1868年の明治維新によって、わが国が近代国家としての道を歩みだしてから147年目に当たります。その147年間に及ぶ日本の近代国家としてのキャリアは、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦を境に、前半の77年間の偉大なる大日本帝国時代と、敗戦後の70年間の自虐的「平和国家」日本国という、歴史を学ぶ上では非常に分かりやすい区切りで分けられるでしょう。

そのうち前半の帝国時代の日本は、「富国強兵」の明快な国家スローガンを掲げて急速に近代化と軍備増強を推し進め、台湾、南樺太、朝鮮半島、南洋諸島を次々に征服し、アジア、太平洋に燦然と君臨した一大軍事帝国でした。


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上は戦前の大日本帝国の領域図です。この地図は純粋に当時の日本の領土を表したものであり、中国東北部いわゆる満州などは含まれていません。それはこの地域が日本の傀儡とはいえ「満州国」という独立国であり、「日本の領土」ではないからです。

その一大帝国を築いた原動力は、何をさて置き当時の日本が心血を注いで増強してきた強大な軍事力だったのですが、明治初年の何もない状態から、これほどの規模の領域国家へと日本が成長した背景には、その興隆を支えたもう一つの大きな力がありました。それは日本独自の価値観である「武士道」です。

明治維新以降、わが国はそれまでの封建制から四民平等の社会へと大きく進歩しましたが、実際には日本社会の至る所で「身分制」が厳然として残っていました。中でもとりわけそれが顕著だったのが帝国陸海軍です。戦前の日本は、当時の欧米諸国同様当然の事ながら「徴兵制」が敷かれていましたが、兵の多くはそのほとんどが貧しい農家の次、三男が大半でした。(理由は単純です。軍に入れば薄給とはいえ給与が貰え、さらに軍服も食事も無料で支給される上に、住まいも兵営があてがわれ、つまり悪い言い方をすれば「食っていける。」からです。その代わり、兵たちには徹底した天皇への忠誠心が叩き込まれ、厳しい訓練が待ち受けていましたが、それが天皇に命を捧げる筋金入りの日本兵を創り上げていきます。)


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上は戦前(昭和12年以降)の一般的な日本陸軍兵士の方々です。みなさんまだ20代前半か半ばの若者たちですね。

この様に軍隊の大半を構成する兵は貧しい農民でしたが、それを指揮する将校以上の者は、裕福な地主や、元は名のある武士階級出身者がその大半を占めていました。これらの者たちは、軍隊を指揮するエリートとして別格とされ、その教育も士官学校や陸軍大学校(海軍は海軍兵学校)で特別な高等教育を受けます。そしてそれを修了すると、その証として所持を許されたのが「軍刀」です。


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上は陸軍大学校を優秀な成績で卒業した士官たちです。帝国陸海軍では彼ら成績上位者に対し、大元帥である天皇から菊のご紋章入りの豪華な「恩賜の軍刀」(おんしのぐんとう)を拝領する慣わしでした。これを拝領した将校らは一般の将校と違い、「軍刀組」と称されて参謀本部や軍令部、そして前回お話した大本営の参謀などの要職に付き、これら日本軍部の中枢を担うエリートとなっていたのです。

この軍刀は、まさに日本の階級社会において、長くその頂点に君臨していた武士階級の証であり、武士の魂でした。そのため日本帝国陸海軍の将校たちは常にそれを腰に下げ、特に陸軍においては突撃の際にそれをもって戦闘に臨んでいたのです。この軍刀に対する思い入れは、将校はもちろん農民出身者が大半の一般の兵士たちも強くそれを持っていました。なぜなら先に述べた様に、刀は武士の証であり、農民たちにとって何よりの憧れであったからです。

しかし、帯刀を許されるのは上の様に尉官(少尉~)以上の階級の人々であり、一般の兵士には手の届かないものでした。そこで、その代わりに兵士たちが大事にしたのが「銃剣」です。


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「銃剣」とは上の写真の様に銃の戦端に付けるものです。一般の兵士たちは軍刀の代わりにこれを腰に下げていました。

この銃剣は一般の日本兵士たちにとって、軍刀の代わりとなるものであり、これを持った兵の多くは自分の身分が上がった様な、高揚した気分になった者が多かった様です。

大日本帝国は、こうした封建時代の武士道の名残りを強く受け継ぎながら明治以来の対外戦争に勝利していきます。しかしそれは日本の軍事的隆盛に大きく貢献しましたが、同時に弊害も招いてしまいます。なぜならそうして勝利を重ねるうちに、当時の日本人は次第に自分たちが「無敵」であり、「神」に守られた特別の存在なのだという思い上がった「錯覚」に陥いらせる事になってしまったからです。そしてそれは日本軍部において、戦争に欠かせない武器や装備、戦術の発達と進歩を大きく遅らせてしまう事にもつながりました。

さて、太平洋戦争におけるわが大日本帝国陸海軍の「主力兵器」とは何でしょうか? ゼロ戦? 戦艦大和? いや違います。正解は下に載せた「三八式歩兵銃」(さんはちしきほへいじゅう)です。


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この銃は1904年(明治38年)の日露戦争時に日本陸軍に正式採用された事から、武器の名を固有名詞ではなく年式で表す日本独特の習慣によりその名が付けられました。ドイツ製のモーゼル小銃を改良した頑丈なボルトアクション式小銃で、上の様に5発の弾薬クリップを上から装填する仕組みです。日露戦争から太平洋戦争まで40年以上に亘り、日本軍の「主力兵器」として使用されました。

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上は三八式歩兵銃を手に南方攻略作戦に従事するわが軍将兵たちです。この銃と将兵たちの武士道的精神主義のコンビネーションが、大日本帝国の躍進を底辺で支えたのです。

しかしこの三八式歩兵銃も、日露戦争当時は最新鋭でしたが、太平洋戦争勃発時にはすでに旧式化していました。何よりこの銃は連続発射が出来ず、1発撃つ毎に手元のボルトを後へ引いて空薬莢を出さなくてはならない「単発式」だったからです。

そこで疑問に思われるのが、なぜ日本軍は自動小銃すなわちマシンガンを開発し、全将兵に持たせなかったのか? という点です。すでに同盟国のドイツ軍はもちろん交戦国のアメリカも多くの将兵にマシンガンを持たせていました。これさえあれば、戦闘でも敵に大きな損害を与える事が可能です。しかし、もちろん日本軍も機関銃は多数保有してはいたものの、それはあくまで戦闘での援護射撃のためのものであり、一定の数の部隊に1丁という割合で配備される程度で、全ての兵士にそれを持たせる事はありませんでした。


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その疑問はやはり、前述した日本独自の価値観である武士道が大きく影響していました。なぜなら日本軍、特に陸軍において、敵軍との戦闘における必勝の戦法は、先に述べた軍刀と銃剣による「白兵突撃戦法」であったからです。しかしそれは決して無謀な思考で行われたものではありませんでした。というのは、大勢の兵が一斉に正面から突撃してくるのを見た敵兵は心理的パニックを引き起こし、防衛線が総崩れになる場合が多かったからです。当時の日本陸軍将兵であった方々の多くが次の様に証言しています。

「日中戦争までは、敵(中国)の力も弱かったから、それで結構何とかなっていたんです。とにかく銃剣を持って一斉に突撃して行けば、彼らは驚いて逃げてくれるんです。いや、逃げてくれるというより、逃げてしまうんです。」

もちろんそうした心理的効果を狙った理由の他にも、物理的な理由もありました。それは簡単に言えば「お金」と生産力の面です。自動小銃は通常の小銃よりはるかに価格が「高い」のです。それに当然の事ながら弾薬の消費量も多いため、物資の生産力においてアメリカに太刀打ち出来ない差がある日本では、たとえ自動小銃を開発しても、とてもそれを全ての将兵に持たせるほどの弾薬を生産する事は出来ませんでした。

そのため日本軍は、将兵たちに弾薬を大事に使わせるために、多くの弾薬を消費する自動小銃よりも、単発式の小銃を兵に使わせ続けたのです。とはいえ日本軍も自動小銃を開発してはいました。それが下に載せた「100式機関短銃」と呼ばれるものです。


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上がその「100式機関短銃」です。1941年(昭和16年)に日本軍が正式採用した唯一の自動小銃で、拳銃用の弾薬を30発装填出来ましたが、弾倉が横についているために射撃のバランスが悪く、実戦では不評で、さらに生産数も1万丁程度と少なく、空挺部隊などの特殊部隊に配備された他は、第一線で使用される事はほとんどありませんでした。

日本軍は、すでに戦争というものが、最新兵器とその開発力、そしてそれを大量に作り出す生産力が勝敗を決する時代に移っていた事を認識していませんでした。それは、20世紀の半ばに達するというのに、飾りとはいえ「刀」を近代戦に用いていた事にも現れています。もちろん、それが時代遅れなものである事は多くの軍人たちも分かっていました。しかし、彼らはどうしても、心理的に「刀」を捨て切れなかったのです。また、かつて陸大で恩賜の軍刀を拝領し、太平洋戦争を指導した大本営陸軍部のエリート参謀らがまとめた報告書にも、次の様な一文があります。

「わが白兵突撃は物質的威力を凌駕する必勝の戦術である。」

こうした「驕り」(おごり)が、時代錯誤の武士道的精神主義と相まって日本軍の装備の近代化と進歩を大きく阻害して行ったのです。そしてそれは太平洋戦争におけるアメリカ軍との戦いで表面化してしまいます。アメリカ軍将兵の優れた装備に時代遅れの旧式の装備で戦わされ、その犠牲となって死んでいったのは、皮肉にもかつて武士に憧れ、武士の持つ刀を羨望の眼差しで見ていた農民出身の兵士たちでした。

太平洋戦争の戦局が悪化し、大日本帝国が敗退を重ねる各地の戦場で、わが将兵たちは圧倒的なアメリカ軍の無数の機関銃に向かって「玉砕」と美化された白兵突撃を繰り返し、全滅していったのです。

そして敗戦。アジア大陸と太平洋の諸島に布陣していた大日本帝国陸海軍の第一線部隊270万は、昭和天皇のご命令の下で一斉に停戦し、各地の連合軍に降伏します。その時、わが日本軍人たちが最後まで肌身離さず身に付けていたものは、武士の魂である「刀」でした。


Japanese_Peace_Emissaries_Arrive_at_Rangoon,_Burma,_1945_SE4588

Japanese_Surrender_in_Malaya,_1945_IND4845

上の画像1枚目は敗戦により連合軍に降伏する日本陸海軍の将官のお二方です。その手には軍刀が握られています。立派な軍装からどちらも中将クラスではないでしょうか。そして2枚目は降伏に伴い武装解除される一般の将校たちです。降伏の証として、軍刀を地面に置いています。この時の彼らの心情はどんなものだったのでしょうか?

太平洋戦争終結後、アメリカ軍上層部は日本軍将兵について次の様な報告書を作成しています。

「戦争において勝敗を決するのは優れた武器であり、我々ならば出来るだけ多くの優れた武器を持って戦争に勝とうとする。しかし、日本兵にとって武器は単なるアクセサリーに過ぎない。この背景には武士道精神を重んじる日本文明が、他の何よりも優れているとの思い込みがあり、これが彼らの視野を狭め、敗北を招いた原因である。」

また、大日本帝国の統治者にして、彼ら帝国陸海軍人の絶対的忠誠の対象として君臨しておられた大元帥たる昭和天皇も、敗戦直後に日光に疎開されていた幼少の皇太子明仁親王殿下(現今上天皇陛下)に宛てた手紙で次の様に述べられています。

「敗因について一言言わせて欲しい。わが軍人は精神に重きを置きすぎて科学を忘れた事である。」

次回に続きます。
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