太平洋資源輸送作戦(後編) ・ 日本輸送船団の壊滅

みなさんこんにちは。

1943年(昭和18年)に入り、戦時体制を整えたアメリカは、その巨大な生産力で大量生産した潜水艦を続々と太平洋に差し向けていました。前回もお話した様に、日本を海上封鎖して兵糧攻めにし、資源や食糧などの日本帝国本土への流入を遮断するためです。

これらのアメリカ潜水艦の魚雷攻撃によって日本の輸送船は次々に沈められ、さらに前年のソロモン諸島ガダルカナル島攻防戦によって多くの輸送船を失った日本軍は深刻な輸送船不足に陥り、開戦前に政府と取り決めた日本が保有する全ての船舶640万トンの内、国民生活と国内生産活動のために最低必要とされた300万トンから、新たに62万トンを軍用に廻すよう政府に要求します。

東条内閣はやむなくこの要求を受け入れ、最終的に民需用船舶から58万トンを軍用に転用する事で政府と大本営は同意します。この時点で開戦時に取り決めた民需用国内船舶300万トンの維持は崩れ、242万トンに落ち込んでしまったのです。

この軍による民需用の資源輸送船舶の引き抜きの影響は、たちまち国民生活を直撃しました。なぜならこの時に新たに軍用に引き抜かれた船舶は、開戦前に国民生活と国内産業の維持のために必要な「最低限」の物資輸送船舶の総トン数300万トンの2割に相当するものであったからです。

すでに日本では、開戦の年の昭和16年から米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖など10品目に切符制度が実施され、昭和17年の4月からは米の配給の割りあてが大人一日2合3勺(約330グラム)と決められていました。(だいたいお茶碗1杯くらいでしょうか。1食ではありません。1日でご飯がこれだけなのです。)しかし、この民需用船舶の新たな軍事転用によって、南方占領地からの米の輸入が減ったために、政府は米に代わって「芋」を主食にするよう国民に命じます。


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上はジャガイモの配給に集まる戦時下の人々の様子です。(籠一杯にジャガイモを貰って微笑む少女の笑顔が何よりの救いですね。)

輸送船の引き抜きの影響は食糧の配給だけに留まりませんでした。そもそも大日本帝国が東南アジアに侵攻したのは、南方の豊かな資源を手に入れるためです。しかし、それらの資源を帝国本土に持ち帰る輸送船が全体の2割も減らされた上に、この時軍が引き抜いた船は全て大型船であったため、残された中小の船舶では運べる量に限りがあり、そのため軍需工場や造船所に運ばれるはずの鉄や石炭など、戦争遂行に必要な原材料の供給が減り、武器弾薬の増産がそれ以上出来なくなってしまうのです。(入って来た分しか造れないのですから当然ですね。)

そこで政府は、国民を動員しての「金属回収」まで行いますが、到底足りるはずがありません。特に、新たな船舶を建造する造船所に廻される鉄が減ると、完成を急ぐあまりにやむなく船の強度と速度を犠牲にして外板を薄くした粗製乱造の粗悪な船舶が大量に建造される事になります。こうした船は「戦時標準船」と呼ばれるものですが、これらは速度が遅く、積荷を満載した場合の速度は10ノット程度で(1ノットは時速1.852キロになります。積荷を積んでいない最も軽い状態でも最高速度は13ノットほど。)これでは日本への物資の輸送力はさらに低下する事になり、工業地帯の生産力も日増しに落ちていきました。


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上の1枚目は戦時中の金属回収令でお寺の鐘を供出する人々の様子です。(これは最も良く知られた事例でしょう。他にも、みなさんもご存知の渋谷の忠犬ハチ公の銅像や、仙台の伊達政宗の銅像まで持っていかれたそうです。)2枚目は戦時中増産された「戦時標準船」の1隻です。とにかく一刻も早く完成させるために徹底して工事を簡素化したため、遠くから見てもいかにも「薄っぺらな」船である事がお分かりいただけると思います。

大戦も中盤に差し掛かった1943年(昭和18年)9月末、御前会議は日本の勢力圏を守るために絶対に欠かせない地域を「絶対国防圏」と定めました。それは海軍主導で拡大しすぎた戦線を縮小し、北は千島列島から東はサイパン、南はニューギニアと東南アジアから西はビルマを結ぶもので、ここでアメリカ軍の反撃をくい止めようというものです。


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上が大日本帝国が定めた絶対国防圏の範囲です。(縮小したといっても広大ですね。笑)

この御前会議で、逼迫する国内事情と悪化する戦局に、政府側の原嘉道(はら よしみち)枢密院議長は軍部にこう問いただします。

「絶対国防圏を確保する事は出来るのですか。」

それに対し、海軍軍令部総長永野修身(ながの おさみ)大将はこの様に答えます。

「絶対確保の決意はありますが、戦の勝敗は時の運であります。戦局の前途を確言する事は出来ません。」

なんと弱気な答えでしょうか。これには政府側の原議長も呆れてしまいます。

「軍部が作戦に自信を持てない様では困ります。」

すぐ目の前には、大元帥である昭和天皇が海軍の答えを待って視線を向けておられます。永野大将が冷や汗をかきながら返答に窮していると、首相兼陸相にして、すでに陸軍参謀総長も兼任していた東条首相が、この時ばかりは同じ軍人として永野大将に「助け舟」を出しました。

「今次戦争は、わが国の自存自衛のため已むに已まれず起こったものであります。今後の戦局の如何に関せず、日本の戦争目的完遂の決意には、何らの変更もありません。」

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上がそのお三方です。

こうしたやりとりがあったものの、この御前会議では初めて輸送船の護衛体制を強化する事も決定されました。そのための専門部隊として「海上護衛総隊」が創設され、さらに輸送船の単独航海を禁止し、護衛艦の護衛の下で必ず船団を組んで航行する事が決められたのです。(当時日本の輸送船団は、船団ごとにカタカナと数字を組み合わせた、まるで暗号文の様な名前が付けられていました。ヒ86船団、ミ27船団、テ04船団などです。これらの命名の由来は行く先や積荷の種類によるもので、数字は偶数が往路で奇数は日本への復路なのだとか諸説ありますが、定かではありません。しかし、現代の電車の側面に書いてあるモハOO、クハOO、キハOOと同様の意味があるものと思われます。)

しかし、船団といってもその規模は10隻から多くても20隻には満たず、また海上護衛総隊も、その戦力は大正期に建造された旧式駆逐艦と、「海防艦」と呼ばれる小型の護衛艦合わせて20隻に満たない貧弱なもので(小型艦ばかりであったため、「艦隊」と扱われずに「隊」レベルのものでした。)しかも1つの輸送船団に付けられる護衛艦はわずか2~3隻程度でしかありませんでした。


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上がその「海防艦」です。排水量は700トンから1000トンほどで、速度も20ノットに満たない小型艦でした。(これらの海防艦は固有名詞でなく「海23」とか番号で呼ばれ、戦時中に各種合計で170隻以上も建造されたそうです。この海防艦も、外観を見ればいかにも装甲が薄いのがお分かりいただけるでしょう。これでは魚雷1発命中すれば船体が真っ二つになってしまうのではないでしょうか?)

一方ガダルカナル島における日本軍との血みどろの戦いに勝利したアメリカ軍は、1943年(昭和18年)の後半から本格的な対日反攻作戦を開始しました。日本軍の広大な占領地域の中で、その手始めとしてアメリカ軍が狙ったのが中部太平洋です。

反撃に転じたアメリカ軍は怒涛のごとく進撃し、中部太平洋の日本軍基地を次々に攻略していきます。それに連れてアメリカ潜水艦も、さながら獲物の群れを追う「サメ」のごとく日本の輸送船団に襲い掛かるのです。さらに追い討ちをかける様に、輸送船にとって潜水艦以上に恐ろしい敵が中部太平洋にその姿を現します。アメリカの高速空母艦隊です。

1944年(昭和19年)2月、レイモンド・スプルーアンス大将率いるアメリカ第5艦隊の攻撃機が、日本海軍の中部太平洋における最重要基地トラック島を奇襲攻撃します。一挙に輸送船33隻、20万トンが撃沈され、その中には大型タンカー5隻が含まれていました。(この基地に停泊していた日本の連合艦隊は、その2週間ほど前にアメリカ軍の空襲が近い事を知るや、本土とパラオ諸島などに脱出していたので無事でしたが、補給基地だったトラック島にはまだ多くの輸送船が停泊していたのです。)


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上の2枚の画像はアメリカ軍機の攻撃を受け、トラック島の港内を逃げまどう日本の輸送船です。しかし、何の武装もない無力な輸送船は成すすべもなく次々に撃沈されていきました。(アメリカ軍の攻撃により、この1ヶ月の間に日本が失った船舶はトラック島だけで122隻、およそ54万トンに上りました。これは当時の日本が持っていた全船舶の1割以上にあたる数で、それをたった1ヶ月で失ってしまったのです。)

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上がアメリカ第5艦隊司令官のレイモンド・スプルーアンス大将です。(1886~1969)彼は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥の下で頭角を現し、ハワイの司令部から全軍の指揮を取る上官ニミッツに代わり、後に述べるハルゼーとともに実戦部隊を率いて空と海から日本海軍を壊滅させ、大日本帝国を降伏させた事実上の指揮官でした。

この時点で国内向けの民需用船舶の総トン数は、開戦時の300万トンから206万トンにまで落ちていました。そこへ、軍の要求でさらに30万トンが軍用船に引き抜かれてしまいます。

これ以降もアメリカ軍の進撃は続き、その4ヵ月後の昭和19年6月にはマリアナ諸島のサイパン島が陥落してしまいます。こうして絶対国防圏はいともあっさり破られ、東条首相はサイパン陥落の責任を問われて辞任に追い込まれてしまうのです。

勢いに乗るアメリカ軍はそのままフィリピンにまで迫り、昭和19年10月にはフィリピンに上陸、迎え撃つ日本軍と激しい戦闘を繰り広げながらフィリピン全土を手中に収めていきます。そして運命の昭和20年を迎え、もはや日本の敗北は時間の問題となっていました。


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上は1945年(昭和20年)における大日本帝国の支配領域です。絶対国防圏はアメリカ軍によってズタズタに切り裂かれ、日本本土と南方占領地とは、南シナ海の一部でかろうじて皮一枚でつながっている状態でした。

アメリカ軍は、日本本土と南方占領地との間の資源輸送ルートを完全に断ち切るため、この南シナ海だけで開戦時の2倍を越える118隻もの潜水艦を投入して日本の輸送船団を徹底的に沈めていきます。特に狙われたのが日本のタンカーでした。

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上が日本本土と南方資源ルートです。

そして昭和20年1月、ついにこの海域にもアメリカの空母艦隊が侵入して来ました。艦載機およそ1000機を持つ、ウィリアム・ハルゼー大将率いるアメリカ軍最強の第3艦隊です。すでに前年10月のレイテ沖海戦で日本の連合艦隊は壊滅しており、もはや日本海軍には南シナ海でこれを迎え撃つ水上艦艇は残っていませんでした。日本本土へ持ち帰る資源や物資を積んで、シンガポールを出航した日本の各輸送船団と護衛艦隊はこの報に接すると北上を急ぎます。どの輸送船も、石油、鉄鉱石、ゴム、鉛、錫(スズと読みます。メッキに使うものです。)ボーキサイト(アルミの原料です。)など、日本が待ち望んでいる資源を満載していました。


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上がアメリカ第3艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将です。(1882~1959)彼は先に述べた第5艦隊司令官のスプルーアンス大将とは親友で、堅実かつ冷静沈着な性格のスプルーアンスと違い、その容貌と敢闘精神に満ちた短気な性格から「ブルドッグ」(ご本人には悪いですが、まさにそのままですね。笑)と呼ばれたアメリカ海軍史上最高の猛将でした。(ちなみに彼の名字「ハルゼー」ですが、本来の英語読みでは「ホルジー」というのが正しいそうです。しかし日本では昔から「ハルゼー」ですっかり定着しているので、現代でも昔ながらの言い方で呼ばれています。)

猛将ハルゼー大将は、そうはさせるものかと直ちに攻撃隊を発進させます。そして戦いは実に一方的なものでした。襲い掛かる数百機のアメリカ軍機の前に、輸送船も護衛艦も1隻残らず成す術もなく沈められてしまいます。


このハルゼー艦隊による1ヶ月余りの攻撃で、大日本帝国は輸送船83隻、およそ28万トンと最後に残された唯一の南方資源ルートを失い、日本本土と南方占領地との間は完全に断ち切られて物資輸送は途絶えてしまうのです。

それでも大日本帝国では、ほぼ壊滅して発言権が弱くなった海軍に代わり、今度は陸軍主導により残された国力を振り絞って「本土決戦」の準備を進めますが、日本帝国本土はアメリカの戦略爆撃機B29による絶え間ない空襲で工業地帯は破壊され、日本の戦争遂行能力は完全に息の根を止められて、ついにわが国は昭和20年8月15日の敗戦に至るのです。

大日本帝国は前回お話した様に、開戦時におよそ2440隻、約640万トンの船舶を持って太平洋戦争に突入しました。その後、戦時中に急造された船舶も含めると、その数はおよそ4000隻、約1000万トン近くに達していた様ですが、驚くべきはその損害の多さで、戦時中に日本が失った船舶はおよそ2570隻、実に850万トンに上りました。

敗戦の時、日本に残っていた船舶(これはつまり、とにかく海の上に浮かんでいたもの。)はおよそ130万トン余りで、この内動かせる満足な状態で残っていたのはわずかに31万トンに過ぎませんでした。(開戦時の20分の1ですね。驚)船員の死亡率はほぼ2人に1人で、陸海軍将兵の死亡率をはるかに越える6万2千名が亡くなったそうです。


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上は瀬戸内海の島影に各坐した日本の連合艦隊最後の姿です。1枚目が重巡洋艦「利根」、2枚目が同じく「青葉」3枚目が戦艦「伊勢」 いずれもかつて太平洋中を縦横無尽に暴れ回り、激戦敢闘した艦艇たちです。敗戦間際、動かす燃料もないこれらの残存艦艇は、空しく本土決戦のための「水上砲台」とされ、アメリカ軍攻撃機の格好の標的となって沈んでいきました。

こうして戦前世界第3位の海軍力と、同じく大海運国を誇った大日本帝国海軍と日本の商船隊は、太平洋を墓場に壊滅したのです。

次回は日本とアメリカの戦時中の科学技術力の違いにスポットを充てたお話です。
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