日清戦争2 ・ 王妃の逆襲と天津条約

みなさんこんにちは。

1882年(明治15年)7月に起きた壬午事変(じんごじへん)によって、朝鮮国には動乱の嵐が吹き荒れました。この反乱は前回お話した様に、そもそもは朝鮮政府による朝鮮国軍の兵士たちへの俸給米の大幅な遅延と、やっと支払われた俸給米が砂混じりのひどい物であった事に激怒した兵士たちが、当時朝鮮を支配していた李王朝政府に対して暴動を起こし、同じくそれに同調した多くの貧しい庶民が大挙して首都漢城(かんじょう 現在のソウル)の王宮を取り囲み、宮廷と政府を牛耳っていた時の国王高宗(こうそう)の妃である閔妃(びんひ)とその一族を追放したものですが、実はそれを陰で操っていたのは国王の実父であり、閔妃にとっては舅(しゅうと)の興宣大院君(こうせんだいいんくん)でした。

この事件により閔妃一族は追放され、弱った国王高宗は事態の収拾のために、国政経験豊富な父大院君に再び国政を委ね、大院君は「その求めに応じる」という形で(実際は全て彼の計算通りでしたが。笑)復権を果たしました。こうして復権した大院君でしたが、首都漢城とその周辺では今だ暴動が収まってはいませんでした。なぜなら彼ら暴徒は閔妃の死を望んでいたからです。そこで大院君は、閔妃の消息が今だ不明であるにも関わらず、

「閔妃はすでに死んだ。」

と宣言して彼らの沈静化を図ります。何はともあれ早くこの騒動を抑えなければなりません。まず彼が手を付けたのは一連の暴動の発端となった兵士たちへの俸給米の支給です。彼は兵士たちへの俸給米の支払いを急がせ、閔妃一族が行った改革を白紙に戻してしまいます。

この反乱により、首都漢城在駐の日本公使館も焼き討ちされ、花房公使ら公使館員たちが命からがら日本に脱出した事は前回もお話しましたが、当の日本政府上層部は花房公使からの電報でこの事実を知ると、時の井上馨(いのうえ かおる)外務卿は花房公使を今回の騒動に対する朝鮮政府への賠償その他を要求する全権代表に任じ、護衛のため陸軍歩兵一個大隊(およそ550名)を軍艦5隻に分乗させて7月末に再度朝鮮に差し向けます。

img281.jpg

上は時の外務卿井上馨です。(1836~1915)彼は長州出身の倒幕と明治維新の功労者の一人で、後に伊藤博文内閣で初代外務大臣に就任する元老ですが、この頃の日本政府は、まだ太政官制度に基づく体制化で、役職名も「大臣」ではなく「卿」となっています。

それでは問題の閔妃はどうしていたのでしょうか? 実は彼女は反乱勃発をいち早く知ると直ちに王宮を脱出し、実家の別邸に身を隠していました。死んだはずの彼女はしたたかに生き延びていたのです。しかし、都では舅の大院君率いる保守派が政権を牛耳っており、彼女が都に戻る事は不可能でした。そこで彼女が頼ったのが朝鮮の宗主国ともいうべき清国です。当時朝鮮には清国の守備隊が駐留しており、彼女はこの清軍の力を借りて都の反乱軍を撃破し、再び政権を自らに奪い取る事を画策します。


1425555814584.jpg

上がその閔妃です。(1851~1895)

彼女はただちにその清軍の守備隊長に、協力の申し出を願う手紙を書き送ります。その清軍の指揮官の名は袁世凱(えん せいがい)といいました。


Yuan_Shikai_in_Korea.jpg

上が当時の清国朝鮮方面軍指揮官であった袁世凱です。(1859~1916)彼については、清朝末期から中華民国成立までの激動の時代を代表する人物として、歴史好きならその名を知る方も多いと思います。一軍人からやがて「皇帝」にまで登り詰めた非常にエピソード豊富なキャラクターの濃い人物ですが(笑)この時の彼は、まだ弱冠23歳の野心に燃える青年将校でした。

清国においても、この反乱事件はすでに北京の清朝政府に伝えられていました。とりわけ清朝政府が懸念したのは、日本が軍を派遣した事です。そこで清朝政府は、8月第1週に先に述べた袁世凱の率いる部隊とあわせ、日本よりもはるかに多い3千以上の軍を朝鮮に差し向けて反乱を鎮圧すると共に、事件の黒幕として閔妃から告発されていた大院君を逮捕し、彼を清国に連行してしまいます。形勢は逆転、事態は閔妃側の優勢に傾き、彼女は袁世凱率いる清軍の護衛の下で、晴れて王宮に舞い戻ったのです。(この時の彼女の勝ち誇った姿を想像してみて下さい。)


Daewongun-1883.jpg

上は清国に連行され、天津に軟禁された大院君です。朝鮮国王の父という高貴な身分である事から丁重に扱われてはいたものの、清朝政府はこの老人が再び「暴走」しないよう厳重に監視していました。(苦虫を噛み潰した彼の姿です。する事がないので読書ばかりしていた様ですね。彼の軟禁は実に3年に及んだそうです。)

日本側は、清国が予想よりも早く、しかも日本よりはるかに多い軍を派遣した事に驚き、現地の清軍と衝突しないよう派遣部隊に通達します。しかし清国も日本との衝突を望んでいない事を知ると、双方が「外交使節保護のため」にそれぞれ数百ないし数千の軍を朝鮮に駐留させる事に合意します。

この時、花房公使は、本土から率いてきた完全武装の一個大隊の武力にものを言わせ、朝鮮政府に対して賠償金の支払いと、今後の日本公使館の護衛には警官隊ではなく、陸軍部隊を駐留させる事を認めさせました。また清国も、混乱に乗じて3千の軍の駐留と自国に有利な不平等条約の締結を朝鮮に認めさせています。(もちろん駐留軍の費用は朝鮮の負担です。)結局この反乱事件で損をしたのは、国内の混乱と日清両国への多額の金の支払いなどを課せられた朝鮮国でした。

この反乱事件は、朝鮮国内におけるその後の姿勢を大きく変動させました。清国のおかげで復権を果たした閔妃一族は、それまでの日本寄りの政策を一変させ、外交軍事を清国に大きく依存していく様になります。これに対し、朝鮮国内では清国からの完全独立を目指す独立派が台頭し、清国の朝鮮支配の強化を嫌った日本に接近を図ります。

彼ら独立派が日本を頼ったのは、彼らの目指す理想の国家が日本の様な君主を頂点とする近代的立憲君主国家であったからです。折りしも当時1884年(明治17年)に、清国はベトナムの支配権を巡ってフランスと交戦中であり(清仏戦争)朝鮮駐留の清軍もその半数がこれに引き抜かれていました。そこで独立派は、清軍の兵力が減って首都漢城の防備が手薄になった隙を突いて、花房公使の後任である竹添進一郎公使の協力を得て、政権奪還のクーデターを実行に移しました。これが甲申政変(こうしんせいへん)と呼ばれる事件です。

彼ら独立派の計画は、朝鮮駐留の日本軍守備隊の力を借りて王宮を占拠、国王高宗を奉じて日本の様な立憲君主国家を打ち建てるというものでした。彼らの目指す政策は以下の様なものです。

1 国王は今後殿下ではなく「皇帝陛下」とし、独立国の君主として振る舞う事。

2 清国に対して朝貢の礼を廃止する事。

3 内閣を廃し、税制を改め、宦官制度も廃止する事。

4 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。

1884年(明治17年)12月、クーデター計画は実行されました。不意を衝かれた閔妃らは王宮内に囚われ、独立派の計画はまんまと成功したかに思われました。しかし、またしても閔妃は清軍司令官袁世凱に救援を要請し、彼は1500の手勢を率いて王宮に迫りました。対する独立派の兵力は、日本公使館警備の日本軍150名にすぎず、銃撃戦の末多勢に無勢で計画の失敗を悟った竹添公使らは早々に長崎に脱出し、この独立派クーデターはたった3日で失敗に終わります。

さて、この騒動に困ったのが当時の日本政府です。やっと前々年の壬午政変が収まったのに、またも朝鮮で面倒な事件が発生し、清軍と日本軍が戦闘状態に陥ってしまったからです。事が事であるだけに、日本政府は今度は井上馨外務卿本人が全権代表として直接交渉に当たり、朝鮮政府にはまたも賠償と謝罪を認めさせますが、最大の問題は今だ朝鮮国内で睨みあう日清両軍の緊張した状態をどう解決するかでした。

しかし、今度の戦闘では日本軍が少数であったために清軍に敗れて敗退しており、いわば敗れた日本側から勝った清国側に「兵を引け」とは言い出せない状況でした。(当然ですね。)そこで当時の日本政府トップであった伊藤博文は一計を案じます。彼は当時国際社会で最強の影響力を持っていたイギリスに交渉の仲介を依頼し、清国に揺さぶりをかけたのです。


person_index_p01.jpg

上がその伊藤博文です。(1841~1909)彼については、わが日本の初代内閣総理大臣としてあまりにも有名ですね。自分の個人的見解ですが、彼は近代日本の最高の政治家ではないかと思います。この頃の彼は大日本帝国憲法の起草と他の政務を合わせ、多忙を極めていました。

一方清国においても、今回の日本との小競り合いは望んでいたものではありませんでした。とりわけ、当時の清国の外交責任者であった李鴻章(り こうしょう)にとっても頭の痛い大問題でした。


800px-Li_Hung_Chang_in_1896.jpg

上が当時の清国の事実上の「外務大臣」であった李鴻章です。(1823~1901)彼は先に述べた袁世凱の上官で、数々の大臣や総督を歴任し、滅び行く清王朝を支えて清国の近代化を主導した優れた政治家でした。しかし、政治家としては大変有能であった彼も、残念ながら軍事的には敗北を重ね、それが清王朝の滅亡につながっていく事になります。

当時清国は、先に述べたベトナムにおけるフランスとの戦争に敗れ、さらに北のロシアの動きにも集中せねばならず、李鴻章はこらら諸外国との外交交渉に奔走していました。その矢先、日本との間で新たな外交問題が起きてしまったのです。そのため彼はこれを早急に片付け、列強諸国のこれ以上の清国への進出を食い止めたかったのです。

日清両国は1885年(明治18年)4月、清国の天津で交渉を開始します。日本側は伊藤博文が全権代表として乗り込み、清国側はもちろん李鴻章が全権として交渉に当たります。伊藤は竹添公使が暴走して勝手に兵を動かした事を隠してこう切り出します。

「朝鮮国王の求めに応じて王宮を警備していたわが日本軍守備隊が、あなたの部下である袁世凱率いる清国軍に攻撃され、多数の死者が出ました。これについて貴国はどの様に責任を負われるおつもりですかな?」

それに対し、李鴻章も負けてはいません。

「先に兵を動かしたのはあなた方日本ではないか。我々が何も知らないとでも思っているのか。そちらの公使が独立派と結託していた事実はとうにバレていますぞ。」

この様に、交渉は当初は双方とも互いの主張と責任をぶつけるだけでしたが、これはそれぞれの立場上のパフォーマンスでした。いつまでもこれでは埒が開きません。両者の目的は早く穏便かつ双方が納得出来る形で軍を撤兵させる事です。結局日清両国は、伊藤が手を廻しておいた先のイギリスの仲介の助けもあって、以下の様な内容で合意に至ります。

1 日清両国は朝鮮国から完全撤兵し、軍を駐留はさせない。

2 今後日清両国は、朝鮮に派兵する場合には事前に通告する。

これが1885年(明治18年)4月に日清両国の間で結ばれた「天津条約」というものです。これにより両国は、日清戦争開戦までおよそ10年間の平和と均衡を保つ事になります。

次回に続きます。
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR