日清戦争6 ・ 戦争か和平か? 迷う清国

みなさんこんにちは。

前回は、日清戦争開戦に至るまでのわが日本側の事情と思惑についてお話しましたが、では、相手側の清国の事情はどうなっていたのでしょうか? 今回はそのあたりを、当時の清王朝の人々の思惑などを絡めてお話したいと思います。

わが大日本帝国が、1894年6月に朝鮮国で起きた「東学党の乱」鎮圧を口実に、朝鮮半島におよそ8千から成る陸軍の大部隊の派兵を決定した同年7月の同じ時期、対する清国でも前回お話した日本側と同様に、開戦派と和平派が政府内で対立していました。

ここで言う「開戦派」とは、時の大清帝国皇帝である光緒帝(こうしょてい)と、その側近である李鴻藻(り こうそう)並びに翁同龢(おう どうわ)の2人の重臣から成る皇帝グループです。それに対して「和平派」とは、これまでのお話で何度か登場してきた李鴻章(り こうしょう)と、彼を重用する「恐怖の女帝」西太后(せいたいごう)のグループです。


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上が大清帝国第11代皇帝 光緒帝です。(1871~1908)彼は先に述べた西太后の甥に当たり、その西太后によってわずか3歳で皇帝に擁立された典型的な「傀儡」でしたが、成長するに連れて伯母の西太后の支配から独立したがる様になり、18歳で自ら親政(君主が直接国政を担う事。)を開始します。しかし、甥を自由にコントロール出来なくなった西太后と次第に対立する様になり、後に早すぎる不可解な謎の死を遂げる事になります。(上の絵は書類に署名しようとしている皇帝を描いたものですが、やさしそうな眼差しが印象的ですね。もしそんな高貴な身分に生まれなければ、学問と読書を愛する好青年として、静かな人生を送れた事でしょう。)

彼ら「開戦派」は、1840年のアヘン戦争によってイギリスに敗れて以来、外国勢力に好き放題にされて久しい帝国の現状を憂い、諸外国に大清帝国の真の力を見せ付ける事で、列強に侮られない様にする事が何より重要だと考えていました。

こうした「開戦派」に対し、今は戦争などに余計なお金と力を使わず、ひたすら国の近代化と国力の回復に努める事で、帝国を立て直すべきだと考えていたのが「和平派」であり、その中心人物が李鴻章です。

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上が和平派の筆頭である李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴に付いては以前にもお話したので、ここでは省かせていただきますが、清王朝の臣下では最大の、そして最も富裕な実力者でした。

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そして上が、かの有名な「恐怖の女帝」こと西太后です。(1835~1908)彼女は元は清王朝に仕える中堅官僚の娘でしたが、その父親が1853年に太平天国の乱に巻き込まれて亡くなると、生活のために皇帝の後宮(「こうきゅう」 つまりハーレムですね。)に入ったという女性でした。そこで9代皇帝である咸豊帝(かんぽうてい 1831~1861)の目に止まってその側室となり、やがて後継者となる男子(後の10代皇帝同治帝「どうちてい」)を産んだ事から彼女の運命が大きく変わります。といっても、咸豊帝にはれっきとした正式な皇后がおり、その皇后が皇帝の居城である「紫禁城」の東側の宮殿に住んでいた事から「東太后」(とうたいごう)と呼ばれ、側室である彼女がその西側の宮殿に住んでいた事が「西太后」の名の由来です。(写真の彼女の指先に注目して下さい。何やら「付け爪」をしていますね。何かこんなおしゃれなんでしょうか? 自分にはまるで「魔女」の様にしか見えませんが。 笑)

この女性については長らく中国歴代王朝最大の悪女として語り継がれ、特に1984年製作の映画「西太后」では、非常に残虐なシーンや「中国7億の民を揺るがした恐怖の女帝」というナレーションも相まって、強欲で嫉妬深い徹底的な悪者に描かれているのですが、それらはほとんど完全な「フィクション」です。(実際、彼女は正式な皇后である東太后の事を実の姉の様に慕い、咸豊帝が手を付けたほかの側室の女性たちとの関係も極めて良かったそうです。)しかし、彼女が権力欲の非常に強い女性であった事は事実であり、宮廷における自らの権力掌握のために数々の謀略を巡らした事が、そうした悪女のイメージを後の人々に強く印象付けてしまった様です。

しかし、さすがに権謀術数渦巻く宮廷での権力闘争を勝ち抜いてきた人物であるだけに、有能な人材を見極める目は優れていた様です。彼女は女性的な直感で早くから李鴻章を重用し、彼が帝国の重職に就けるよう何かと便宜を図りました。李鴻章がとんとん拍子に昇進を重ねて行ったのは、彼自身の努力と功績の他に、彼を気に入った西太后の見えない後押しがあったからです。また、彼女が李鴻章ら和平派に与したのは、国家と人民のためというよりも、彼女自身の60歳の還暦の祝祭を盛大に執り行い、それを無事に終えたいという極めて「利己的な理由」からであったそうです。

この両派のうち、先に述べた開戦派(言葉を代えて言えば「皇帝派」というべきでしょうか。)の李鴻藻と、翁同和の2人は、後に述べた和平派(これも言葉を代えれば「西太后派」というべきでしょう。)の筆頭である李鴻章とは大変仲の悪い「政敵」でした。彼らは李鴻章の様に豊富な財力と、固有の強力な武力はありませんでしたが、歴代3代の皇帝たちに仕えてこれまで清王朝を支えてきた何にも代えがたい「実績」と、その長い間に各界に幾重にも張り巡らした人脈のコネクションがありました。それゆえ若い光緒帝の彼らへの信頼は絶大で、実際の清王朝最大の実力者である李鴻章でさえも容易に排除出来ない相手でした。

「成り上がりの李鴻章め、お主ごときに清帝国の実権を握らせて成るものか。清王朝はこれまで通り我らがお守りし、帝国を運営していくのだ。」

という訳です。実際、彼ら側近は長く清朝中央政府に君臨してきたエリート大物政治家でした。そのため、地方である中国南部から実績を積み上げてのし上がって来た李鴻章を意識的に見下していたのです。この様な状況の中で、清朝政府では皇帝の臨席の元に、日本と戦争するべきか、それとも和平かを決める御前会議が連日開かれ、激しい議論が繰り広げられますが、両派が混在する中で意見は対立し、結論はなかなか出せずにいました。

開戦派は事あるごとに李鴻章の邪魔立てをして彼の足を引っ張ります。そのため、当時事実上清帝国の外交と軍事を司っていた李鴻章は、今回の日本の挑戦に対して一気に大軍を派遣して決着を着ける事も、あるいは何もせずに欧米列強に手を廻し、国際政治の圧力で日本に兵を引かせるという高度な外交作戦を取る事も出来ず、結局彼は自身の配下の北洋軍から、先遣部隊としておよそ2千、さらに主力部隊として6千の兵力を小出しに朝鮮に差し向け、とりあえず様子を見るという中途半端な手段を取らざるを得なくなってしまいます。

では、なぜ李鴻章はそんな手段を取らざるを得なかったのでしょうか? それは彼が先に述べた様に、この時点において日本との戦争は避けたかったからです。振り返れば彼が生きた時代はまさに清王朝の動乱期でした。度重なる戦乱で国内は荒れ果て、疲弊し、かつての繁栄と強大さは見る影も無く、すっかりこの国はただ国土が広大で、人口が多いだけの遅れた貧しい未開国に転落していました。(それは今も変わっていない様ですが・・・。笑)

彼は若い頃からそんな祖国の現状を目の当たりにし、戦いに身を投じて生きて来たのです。そのため彼は、極力外国との戦争は避け、国の近代化と国力の回復に務めて再び清帝国を強大国に甦らせる事を望む様になります。しかし、それを実現するには最低でも数十年単位の時間がかかります。なぜなら当時の中国の民衆はその大半が無知蒙昧であり、特に彼は国の未来を担う次の世代、つまり子供や若者の教育が最優先課題であると考えていたのです。

もちろん彼自身も軍人として、いざ国家の危機ともなれば自らの築いた北洋軍の全力を投じて戦い抜く決意には微塵の戸惑いもありません。しかし、それは彼の本心とは相反する最後の手段であり、そうでなければ無用な外国との戦争に多額の費用を使いたくないのが彼の考えでした。といって、もし、このまま何もしないでいれば日本の思うままに朝鮮を奪い取られ、彼はその失敗を先の政敵である皇帝の側近たちに糾弾されて失脚してしまう恐れもありました。(皇帝の側近たちは手ぐすねを引いて常にそれを待ち構え、その機会をうかがっています。)この時の李鴻章の迷いは想像を越える複雑なものであったのです。


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上の一連の画像は当時の清王朝の軍隊の兵士たちです。といっても、度重なる戦乱と財政悪化により、当時の清王朝に正式な「国軍」を作る余裕は無く、そのやり方は以前お話した様に、帝国内の有力者たちに私費で軍隊を作らせ、それらを清王朝政府が認可するという間接的システムでした。上の画像の兵士たちも、実際は李鴻章の作り上げた「北洋軍」の兵士たちで、彼の北洋軍は当時の清国における最大最強の武力集団でした。(この時代の画像は資料が少なく、探すのに苦労しました。笑 彼らの服装に注目して下さい。いかにも中国らしいデザインですね。)

一方、清国が朝鮮に兵を差し向けたという情報は、当然日本側も素早くそれを掴んでいました。日本側が待ちに待った「開戦理由」の到来です。日本側にしてみれば、とにかく清国が軍をこちらに向けてくれれば良いのです。後は陸海軍のどちらでも、戦闘を開始して、

「そちらが先に撃ってきたから反撃した。」

などと、後からいかようにも理由をつけて開戦するのは容易な事です。こうして日本陸海軍は完全に戦闘準備態勢に入り、事態は本心は戦いたくない清国側の

「とりあえず一部隊を差し向けて、日本側の出方と今後の様子を見てみよう。」

という場当たり的なものをはるかに越え、一気に開戦へと大きく動き出していく事になったのです。

日清戦争開戦は目前に迫っていました。

次回に続きます。
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日清戦争5 ・ 日清開戦への道

みなさんこんにちは。

19世紀も末に入った1894年のアジア極東地域において、新興帝国主義国家として少しづつ着実に力を付けつつあったわが大日本帝国と、かつての繁栄と強大さを取り戻さんと必死に近代化を急ぐ大清帝国は、両国の中間に位置する朝鮮半島の支配権を巡って次第に対立の度合いを深めていました。

さかのぼる事10年前の1884年、朝鮮国で起きた動乱鎮圧のために、両国の派兵した軍隊が交戦した事は以前にもお話しましたが、その後に結ばれた天津条約の結果、日清両国はおよそ10年間の平和と均衡を保ちました。しかし、その平和と均衡も、いずれは破られる事は予想されており、両国にとっては次なる戦いの時間稼ぎに過ぎませんでした。

前回もお話した様に、日清両国はその10年の間に大幅な軍備の増強と近代化を急ぎ、互いの出方次第ではいつでも戦争が出来る体制を整えていました。その日清両国の間にあって一人近代化に立ち遅れ、改革も出来ず、ただ両国の動きに翻弄され続ける貧しい弱小国であった朝鮮国において、再び大規模な反乱が勃発してしまいます。「東学党の乱」です。

当時朝鮮国は500年の長きに亘って李王朝の統治下にありましたが、相次ぐ内乱と日本、清国などの外国勢力の干渉、経済、貿易上の不平等条約の押し付けなどにより、ただでさえ貧しく、対外的に売れるものなどほとんどないこの国は財政危機に陥っていました。当然朝鮮国民は貧苦にあえぎ、事に農民はせっかく作った米や大豆も安く買い叩かれ、その上李王朝政府が課した重税に苦しんでいました。

人間というものは、現実世界の悲惨さの逃避から、自然と人智を超えた大いなる存在を創り上げ、それにすがって救いを求める様になります。これは洋の東西を問わず人類の歴史に必ず見られるもので、そうした中で生まれてきたものが「神」と「宗教」です。それはここ朝鮮でも例外ではありませんでした。当時朝鮮国は(現在もそうですが。)中国の孔子が創始した「儒教」(じゅきょう)の国でしたが、この儒教というものは「宗教」というよりも、君主など統治者の「徳」によって国や人民を治めるための「思想」であり、一般の民衆には非常に難解なもので、何よりそこには人々が拝む大いなる存在、すなわち「神」が存在しませんでした。

そこで当時の朝鮮国に広まったのが「東学」という宗教です。これはごく簡単に説明すれば、「神」はこの世の全ての人の心の中に等しく存在するのだと説くもので(そういう事にしておけば簡単だし「便利」ですからね。笑)西洋のキリスト教を「西学」と呼ぶのに対してこの様に呼ばれました。この東学は小難しい儒教や意味も分からないお経に代表される仏教とは違い、その単純さから朝鮮南部の貧しい農民たちを中心に広まっていきます。

東学の信者の大半は無学な農民でしたが、それを彼らに説いて回ったのは少数の知識人たちでした。やがて1894年(明治27年)5月、彼らの扇動により立ち上がった6千の農民たちがついに武装蜂起します。

「目指すは都だ。王様にわしらの苦しさを訴えて税を下げてもらおう。」

6千余の農民軍は大挙して都漢城に向けて進軍を開始しました。これに対し、李王朝政府はただちに討伐軍を差し向けます。一方農民軍は火縄銃や弓槍剣といった古い武器しか持っていませんでしたが、必死の彼らは戦意の薄い(つまり、あまりやる気の無い 笑)政府軍を撃破してしまったのです。勢いに乗る農民軍は、当初の6千からその数を数万に増やし、都漢城に迫る勢いを見せました。慌てた李王朝政府は自力での反撃を諦め、再び清国に援軍を依頼しました。

「朝鮮で再び大規模反乱勃発。」

この知らせは海を隔てた日本にも直ちに伝わります。すでに日本では内閣制度と議会政治が始まっていましたが、時の日本の総理大臣は皆さんもご存知の伊藤博文が再び就任していました。しかし、彼は当時帝国議会の運営、とりわけ薩摩、長州二大派閥と板垣退助らの率いる自由党などの野党勢力の政争に明け暮れており、朝鮮情勢に対しては前回の経験から、その裏にいる清国との衝突を招くなどの危険もある事から、再派兵などの軍事行動には消極的でした。

それに対し、大規模な軍事行動を主張したのが時の外務大臣、陸奥宗光(むつ むねみつ)です。


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上が当時の外務大臣 陸奥宗光です。(1844~1897)彼は紀州出身で、薩摩、長州二大勢力出身者が要職を占めていた当時の明治政府内で、そのどちらにも属さない珍しい人物でした。幕末に旧江戸幕府が欧米諸国と結んでしまった不平等条約の撤廃に終生を捧げ、その功績から伯爵号を賜っています。

陸奥外相は兵力が少なかったために清国に敗れた前回の失敗から、陸軍の大部隊を差し向けて一気に朝鮮の反乱を鎮圧し、これに清国が反撃するならば、清国と開戦すべしと強硬に閣議で主張したのです。彼は渋る伊藤首相に詰め寄ります。

「閣下。本件に関してはいずれは避けられない戦であり、それは閣下も良くお分かりのはずです。ここで二の足を踏んでいるうちに、朝鮮を清国に取られてしまいますぞ。どうかご決断を。」

陸奥外相はこう言って伊藤首相に開戦を促したのです。しかし、ここで疑問に思うのは、なぜ彼が戦争も辞さない強硬論を主張したのか? という点です。陸海軍の首脳ならばまだしも、本来外務大臣といえば、国家の外交責任者として自国と諸外国との問題や交渉に当たる最も重要な役職であり、その性質上外国との戦争などは最も避けようとしなければならない存在のはずです。その外務大臣が口を開けば戦争を声高に叫ぶのです。一体なぜなのでしょうか?

実はこれには彼の外務大臣としてのこれまでの人知れぬ苦労が影響している様です。彼が欧米諸国との不平等条約(具体的には「治外法権」つまり外国人犯罪者の逮捕裁判権や、「関税自主権」これは外国の製品を輸入する時にかける税金ですね。)の改正に心血を注いだ事は先にお話しましたが、その際に彼は欧米諸国との交渉で非常な苦労を強いられたのです。その理由はなんといっても当時の日本と欧米諸国と比較した国力、とりわけ軍事力の差でした。

明治維新からまだ30年に満たないこの時代、当時の日本はその全てが発展途上の弱小国でした。とにかく軍艦1隻建造するのに欧米列強の2倍の時間(欧米諸国が2~3年で建造する軍艦が、日本では技術の経験不足から6年もかかっていました。)がかかるのです。それ以外でも、医学、科学、建築、法律、軍事など近代国家として必要不可欠な分野の習得には、進んだ欧米列強諸国から学ばなくてはなりません。つまり、欧米に絶対に頭が上がらないのです。

当然それは条約改正の交渉の場において、終始陸奥を苦しめます。そうした日本の立場の弱さを熟知しているアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアなどの列強諸国は、露骨に日本側を見下し、なかなか不平等条約の改正に応じようとはしませんでした。

そこで彼が力を入れたのが「ご接待」作戦です。(笑)当時日本が不平等条約を結んでいた全ての国の大使や領事を政府主催のパーティーに招いては豪華な食事でもてなし、「贈り物」と称してはまず間違いなく相当な「賄賂」などを彼らに持たせたのです。その時に特に大きな力を発揮したのが日本の「美女」たちでした。


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上は陸奥宗光の妻である陸奥亮子です。(1856~1900)彼女は東京の元旗本の娘でしたが、士族である実家の没落でやむなく芸者に身を落としていました。しかし、上の写真を見ても分かる様にその美貌と武家出身の教養の深さから、特に明治政府の重臣たちの間でたちまち「売れっ子」となります。中でも最も彼女を気に入ったのが陸奥で、自分の妻として彼女に求婚したのです。

陸奥外相は自身の妻亮子夫人に指揮を取らせ、あらゆる美女たちを集めて外国使節をもてなし、それらの美女たちに時には「夜の相手」までさせて、夫婦二人三脚で条約改正に奔走します。こうした努力が実り、欧米諸国との不平等条約は徐々に撤廃されていくのですが、意地もプライドも捨てて外国大使や領事にペコペコしなければならなかった陸奥外相の苦労が偲ばれますね。

陸奥外相は、日本が今後の外交交渉で欧米諸国に「なめられない」よう日本の「強さ」を示す事が必要だと考えていました。彼が清国との開戦を強硬に主張したのは、先の不平等条約改正交渉で終始下出に回らなければならなかった彼の苦労の反動であったのかも知れません。

さて、話を戻しますが、1894年(明治27年)6月初め、日本の閣議では陸奥外相の強硬論に押し切られ、結局伊藤首相は明治天皇のご裁可を得て、完全武装の1個旅団(およそ8千)の朝鮮への派兵を決定します。その名目は、表向きは日本公使館員と在朝日本人の保護というものでしたが、それにしては明らかに過大かつ過剰な兵力でした。そして同時に日本がこれほどの大軍を朝鮮に差し向けるのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、実に300年ぶりの事でもありました。

しかし、ここで思わぬ誤算が生じます。日本軍が朝鮮に上陸し、都の漢城(ソウル)に入城した時、すでに東学党の乱はほとんど終息してしまっていたのです。その理由は季節が農繁期であり、もともと感情的な理由から始まった反乱だったため、時間が経つにつれて田畑の作物が気になりだした農民たちが大勢戻ってしまったからでした。首都漢城市内は何事も無かったかの様に平穏であり、何にしてもこれで日本の大部隊が駐留し続ける意味が無くなってしまいました。

これに慌てたのが伊藤首相ら日本政府と大本営です。日本側はこちらが大部隊を送り出せば、清国も対抗して必ず大軍を差し向けて来るから、それを口実に開戦に踏み切るつもりでいたのです。しかし、日本軍が到着した時にはすでに乱が収まっており、またその時点では、清国も軍隊を朝鮮に送り込んではいませんでした。さらに悪い事に、陸奥外相が以前に清国に対して、

「清国がわが国に対して軍事的威嚇をしない限り、わが方から戦端を開く様な事はしない。」

と宣言してしまっていました。つまり、日本側から清国に対して宣戦する「大義名分」がなくなってしまったのです。日本側はこのまま何もせずに(というより「何も得るものなしに」といった方が正しいでしょうね。笑)兵を引き揚げる訳にはいかなくなってしまいました。

当時の日本の世論は対清開戦論が大勢を占めていました。新聞が連日の様に戦争を煽る記事を書き立て(理由は簡単です。その方が新聞が売れるからです。)国民はその記事をむさぼる様に読みあさり、開戦論が国民の間に広く浸透していったのです。そして伊藤博文をはじめとする明治の政治家たちの頭に真っ先に湧いたのは「選挙」の事でした。同年9月に総選挙を控えており、もし、このまま何もせずに兵を引けば国民の失望を買い、先に述べた自由党などの野党勢力がここぞとばかりに喜び勇んで政府与党を批判して(今のわが国の議会を見て下さい。与党自民党のする事を野党民主党が「下らない事で」足を引っ張っていますね。今も昔も変わりません。笑)帝国議会の議席数を大きく減らす事になるでしょう。過半数を取れなければ内閣の政策や法案の全てが否決されてしまうのが議会政治の基本である事は、みなさんもお分かりの事と思います。


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上はみなさんもご存知の伊藤博文公です。(1841~1909)明治以後の近代日本は、ほとんど彼が創り上げたといっても良いのではないでしょうか?

ともかく伊藤首相らは、清国と開戦する立派な大義名分を作り出さなくてはならなくなりました。

しかし、そこはさすがにあの明治維新を成し遂げたしたたかな男たちです。伊藤首相以下の明治の元老たちにとって、それを作り出すのはさほど困難な事ではありませんでした。要は相手を挑発して怒らせ、開戦せざるを得ない状況に持って行けば良いのです。そして、そのための口実に使われたのはまたしても朝鮮問題でした。

日本政府は、今回朝鮮国において東学党の乱が発生したのは朝鮮政府に統治能力が欠落しているからであると断じ、今後朝鮮国で無用な動乱が起きる事の無いよう日本が朝鮮政府の改革を行うと清国政府に通告したのです。これは明らかな他国への「内政干渉」であり、増して朝鮮国を属国と見ていた清国にとって絶対に許すべからざる事でした。

ただし、ここで誤解してはならないのは、伊藤首相は決して清国との戦争を望んでいたわけではないという点です。開戦を強硬に主張した陸奥外相とは対照的に、彼は最後まで清国とは協調していくべきだと考えていました。青年時代に欧米先進国に留学し、広く見聞して国際政治のあり方を学んだ伊藤は熱心な国際協調主義者でした。そのため、後の日本軍部が抱いていった軍事力による膨張拡大主義には反対していたのです。

その理由は実に単純で難しい事ではありません。そんな事を続ければ次から次へと戦争の繰り返しになるからです。仮にわが大日本帝国がアジア太平洋にその軍事的野心を向ければ、そのはるか先にいる欧米諸国との対立と戦争を招くのは必至であるという高度な政治判断からでした。(その後のわが国が辿った歴史が、彼の恐れた通りの事態になってしまったのは誰もが周知の事実ですね。)

そして何より戦争というものは大勢の人を死なせ、莫大なお金がかかる非生産行為です。そして勝てれば良いが、負ければ国家を滅亡に導くかもしれない非常に危険なものでもあります。(あの太平洋戦争敗戦時のわが国を思い起こして下さい。)長州の貧しい貧農の子に生まれ、幕末の動乱で多くの戦いを経験してきた彼だからこそ、その悲哀と空しさを誰よりも良く知っていました。といっても、それはあくまで彼の個人的な考えであり、大日本帝国首相としての彼の立場としては全く別でした。彼は首相として国内外のあらゆる状況を大局的に見極め、時には戦争も辞さない強い姿勢を示す必要がありました。時代がそういう時代だったのです。

次回に続きます。
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