日清戦争8 ・ 朝鮮半島占領作戦

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)8月1日、わが大日本帝国と大清帝国は完全な戦争状態に突入しました。「日清戦争」の勃発です。これまでお話してきた様に、この戦争に至るまでの経緯は、日本と清国の中間に位置する朝鮮国の支配権を巡る両国の思惑と、それぞれの抱える国内事情などの利害が複雑に絡んでいましたが、主にわが日本側のかなり利己的な都合からついに開戦するに至ってしまったのです。

すでに日本では、6月に参謀本部に大本営が設置されており、さらに7月中旬にはそれが宮中に移され、大元帥にあらせられる明治天皇ご臨席の下に陸海軍首脳らが作戦会議を開いていました。ところで、この時点で日本側はどんな作戦を思い描いていたのでしょうか? それは清国が大軍を動員する前に清国北洋艦隊を撃滅し、黄海と渤海の制海権を手中に収め、清国の海上からの朝鮮への進攻を遮断するとともに、清国に大軍の動員をさせる猶予を与えずに速やかに陸軍の大部隊を朝鮮半島から清国本土に進攻せしめ、帝都北京近郊まで攻め寄せて一大決戦を挑むという「短期決戦」を目指したものでした。


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上は日清戦争における主要な戦場となった地域です。

しかし、この作戦計画は早々に変更を余儀なくされてしまいます。なぜなら清国最大の艦隊である北洋艦隊が、その創設者で清国最大の実力者でもある北洋大臣李鴻章の命令によって、大連、威海衛(「いかいえい」 場所は上の地図を参照して下さい。)などの主要軍港からなかなか出撃せず、そのため日本海軍は制海権を握る事が出来なかったからです。

そのため大本営は作戦を大幅に変更し、清軍との陸上での本格決戦を翌年の春まで先送りする長期戦に切り替えざるを得なくなります。その作戦のため、陸軍は朝鮮半島占領軍として第5師団と第3師団に、すでに先遣部隊として朝鮮に送り込んでいた第9旅団(これはもともと第5師団所属です。)を合わせ、およそ4万からなる第1軍を編成し、その司令官として山縣有朋大将が任命されます。さらに遼東半島の最重要軍港である旅順の攻略を目的として、第1、第2、第6の3個師団およそ5万8千からなる第2軍が編成され、その司令官には大山巌大将が就任します。

以前に、日清戦争当時における日本と清国の軍事力の比較についてお話しましたが、この当時のわが国の陸軍常備兵力は、6個師団に虎の子の予備戦力である天皇直属の近衛師団を合わせたわずか7個師団に過ぎませんでした。つまり、日本本国に残るのは第4師団と近衛師団の2個師団のみで、陸軍はその主力部隊のほとんどをこの遠征につぎ込んだのです。こうして総勢10万に達する日本の大軍が大陸への大遠征を行う事になりました。この数字は、後にわが国が遂行していく日露戦争から太平洋戦争での動員兵力に比べればずいぶん少ない様に思われるでしょうが、しかし、これは明治20年代の貧しい日本が準備出来た精一杯の兵力であり、これが当時の日本の国力の限界でした。

さて、いざ開戦と決まったわが国は、先に述べた作戦の第一段階として、まずは何より朝鮮半島を占領するために編成した第5、第3師団からなる第1軍を朝鮮に差し向けます。目指すは朝鮮国の首都漢城(「かんじょう」 現在のソウル)です。当然日本から輸送船で都に最も近い仁川(じんせん)の港に全軍を上陸させるのが最短ルートなのですが、これも先に述べた様に、清国艦隊が清本国の港からなかなか出てこようとしなかったために、日本艦隊は黄海の制海権を確保出来ず、そのため日本軍は日本海側の釜山(ぷさん)と元山(げんざん)の2ヵ所に分けて上陸し、陸路漢城を目指しました。

しかし、この時日本軍は思いも寄らない問題に直面します。それは武器、弾薬、食糧などの物資輸送すなわち補給の問題です。当然の事ながらまだ自動車もトラックもないこの時代、陸上で大量に物資を輸送出来る方法は鉄道以外では馬に荷車を引かせるしかありませんでした。そしてこの当時、まだ朝鮮半島には鉄道など全く敷設されていなかったため、日本軍は全国から大量の馬をかき集めたのですが(その数は各師団で合計1万8千頭以上になったそうです。)それだけでは遠征軍の必要とする大量の物資を運搬するにはとても足りないのです。


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上の写真は釜山に上陸した日本軍第5師団の部隊です。たくさんの馬たちがいますね。

ところでみなさんは、軍隊というものはその兵力の全てが戦闘を行うものだと誤解されてはいないでしょうか? 実は一口に軍隊といっても、その中にはそれぞれに役割を持つ様々な部隊があります。そしてそれは実際に戦闘を行う戦闘部隊(敵軍と直接戦闘を交える歩兵部隊、大砲で砲撃してこれを支援する砲兵部隊などです。)と、これを支援する後方部隊(味方と連絡を取る通信部隊、道路や橋の構築を行う工兵部隊、戦闘で負傷した将兵を救護する衛生部隊、そして武器、弾薬、食糧などを各部隊に補給する補給部隊などです。)の二つに大きく分けられます。

どの部隊も、軍隊を構成する上で無くてはならないものばかりなのですが、その中で軍隊が戦争を続けていく上で最も重要なのが補給部隊(日本軍においては輜重部隊「しちょうぶたい」と呼んでいました。)です。いくら戦闘部隊が精強を誇っても、武器、弾薬、食糧その他を補給してもらわなくては戦えません。これは子供にも分かる極めて単純な話でしょう。その最も大事な補給能力の不足が、日本軍の前進を大きく阻んだのです。(この補給能力の不足という欠点は、後の太平洋戦争の敗戦までわが日本帝国軍を常に悩ませ、苦しめる事になったのは良く知られた事実ですね。)

そこで足りない分は人が背負ったり、数人で荷車を押したりして物資を運搬するわけですが、輜重部隊の兵すなわち輜重兵では到底数が足りず、やむなく日本軍はこれら輜重部隊以外の全将兵にも荷物を運ばせ、それ以外に荷物運び専任の民間人を大勢臨時雇用し、急場をしのぐ事を余儀なくされます。(彼らは人夫「にんぷ」ならぬ軍夫「ぐんぷ」と呼ばれ、当然彼らに支払う賃金は軍が支払うのです。)日清戦争では出征した各師団合計で、およそ3万8千名以上の軍夫が動員されたそうですが、所詮は人が背負って運べる荷量などたかが知れていますから、わが軍の作戦行動に大きな制約となってしまったのは容易に想像出来るでしょう。

先に述べた第1軍2個師団のうち、先に朝鮮に上陸した第5師団は、釜山と元山の二方面に分かれて陸路で首都漢城を目指しましたが、季節は夏真っ盛りの8月であり、漢城までの長い道のりを(元山から漢城までおよそ200キロ、釜山から漢城までは400キロもあったそうです。)40度にも達する猛暑の中で、銃以外にそれぞれ平均重さ20キロもの荷物を背負って運ばなくてはならなかったわが将兵と軍夫たち(当時の人々の平均身長は、およそ160センチ前後で体重も50キロ程度が大半でしたから、そんな小柄な体格でどれだけの負担であったか想像してみて下さい。)の苦労は想像を絶する過酷なものでした。

第5師団のこの失敗から、その後に朝鮮に渡った名古屋の第3師団は、第5師団の5倍以上の馬(その数4154頭、しかし、第5師団は785頭しか馬を持っていませんでした。)を調達して物資の輸送に当たらせたため、第5師団よりははるかに物資の輸送力は高くなりましたが、あくまでこれは場当たり的なものであり、こうした補給能力の欠点は根本的に改善されず、その後のわが日本軍の最大の弱点として重くのしかかる事になって行きました。

さて、大変な苦労を重ねて首都漢城に入城した日本軍でしたが、この時のわが日本軍司令官はこうした状況をよそに、いささかとんでもない作戦を考えていました。それは朝鮮国第二の都市である北部の平壌(ピョンヤン)を奇襲攻撃し、ここに集結している清軍を撃破して、一気に朝鮮半島全土を占領してしまおうというものです。この作戦を考えたのは、第5師団の司令官である野津道貫(のづ みちつら)中将という人物でした。


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上が日本陸軍第5師団長であった野津道貫中将です。(1841~1908)彼は薩摩出身の軍人で、奇襲作戦を得意とする歴戦の猛将でした。この日清戦争はもちろん、後の日露戦争での戦功で侯爵号と元帥号を賜り、生粋の武人として明治天皇からも大変気に入られていた帝国軍人の見本の様な人ですが、その反面で彼の作戦指導は無謀に近い強引なものが多く、後の日本軍人たちにもそれが受け継がれていくという弊害を招く事になります。

情報によれば、平壌に集結している清軍の兵力は「およそ1万5千程度」との事でした。対して彼の率いる第5師団は2万を越え、兵力の上では有利でした。そこで野津中将は先にお話した補給の現実を無視し、平壌への北進を強行してしまいます。とはいえ彼も補給の現状を知らないわけではありませんでした。特に最も早く大量に必要なのが食糧です。2万以上の大部隊を食わせていく米が、本国からの輸送ではとても足りないのです。そのため彼は、朝鮮の民衆から可能な限りの米を調達(「調達」とは聞こえは良いですが、つまり強制的に奪い取る「略奪」に近いものでした。)する様各部隊に命令します。

しかし、こんなやり方が上手く行くはずはありません。そもそも貧しい朝鮮の民衆には、日本軍に引き渡せるほどの余分な米などありはしないのです。

「それを持っていかれたら、わしらは何を食って生きていけばいいんじゃ。」

日本軍の調達部隊に対し、民衆は投石してまで抵抗します。この報告を受けた野津将軍は激怒し、

「朝鮮の百姓どものふるまい勘弁ならん! 手向かう様ならば村という村を焼き払ってでも米を集めよ!」

これはもう脅迫です。結局日本軍は十分な食糧を確保出来ず、野津中将は手持ちの食糧(米に粟と大豆を混ぜたものに、固焼きのビスケットやパン、缶詰、干し魚、塩魚、佃煮などの組み合わせなどで、たった2日分しかなかったそうです。)だけで平壌攻略作戦を強行する羽目になります。

一方平壌でこれを迎え撃つ清軍の兵力は、日本軍が得た情報通り約1万5千で、大砲32門、ガトリング機関砲6門を備えて日本軍を待ち構えていました。対する日本軍は野津中将率いる第5師団主力1万2千で、攻撃を支援する火力は大砲が44門ありました。ここで、両軍の兵器の質を比較してみると、清軍の大砲は鋼鉄製で、当時の軍事先進国ドイツの鉄鋼メーカーであるクルップ社製、清軍将兵の持つ小銃もドイツ製の最新型小銃を装備していました。

対するわが日本軍は、この頃まだ国内で鉄鋼を生産する技術も製鉄所もなかったため、日本で豊富に産出されていた銅を用いた青銅製の7.5センチ砲が主力でした。小銃はわが国初の国産小銃である「村田銃」を装備していましたが、兵器の質もレベルにおいても、明らかに清軍の方が上であったのが事実です。(歴史では、日清戦争では日本軍の兵器の方が優秀であったかの様に説明されていますが、これは間違いです。)


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上は当時の日本軍砲兵部隊です。

当時の平壌は、周囲に堅固な城壁を巡らした城塞都市でした。清軍はこの城壁の上に砲台を設置し、攻略は困難が予想されました。しかし、日本軍には時間がありません。先に述べた様にわが軍の食糧は、切り詰めてもせいぜい3日程度なのです。そこで野津中将は短期決戦を狙い、清軍の兵力を分散させるために4方向から攻撃を仕掛けました。これが「平壌の戦い」と呼ばれるものです。

戦闘は最初の数時間激戦を極めましたが、もともと戦意に乏しかった清軍は状況不利を悟るとたった1日で平壌を放棄し、その夜のうちに清本国を目指して脱出してしまいました。翌朝、野津中将率いる日本軍は清軍の逃げ去った平壌に入城してこれを占領、あまりにあっけない勝利に日本軍は拍子抜けしましたが、それよりも清軍が置いていった大量の備蓄米に大いに喜びました。(この時に日本軍が得た米は、1個師団の1か月分に相当するものだったそうです。まさに「棚からボタ餅」ですね。笑)

この平壌の戦いの勝利によって、日本軍は朝鮮半島から清軍を追い出し、朝鮮半島を占領する事に成功しました。しかし、戦いはまだ始まったばかりであり、行く手には乗り越えなくてはならない困難が待ち受けています。なぜなら清軍は陸上では敗退が続いてはいるものの、海上では今だに東洋最大最強の清国北洋艦隊が健在であったからです。そしてその北洋艦隊がついに動き出そうとしていました。

次回に続きます。
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日清戦争7 ・ 日清開戦と明治天皇の尊いお嘆き

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)7月、清国の朝鮮へのおよそ8千の派兵により、ついに日本政府は清国との開戦を正式決定するに至りました。といっても、まだこの段階においては両国との間に戦端は開かれてはいませんでしたが、日本側は「清国が軍をこちらに向けて来た。」というその事実をもって、かなり強引に開戦を決定したのです。7月19日、大本営は陸海軍に動員令を発し、日本軍は完全に戦闘準備態勢に入りました。

この時、清国は大きく2つに分けて軍を朝鮮に差し向けていました。一隊はおよそ2300名から成り、輸送船3隻に分乗し、武器、弾薬、食糧その他を満載して朝鮮の都漢城に近い港である牙山(がざん)を目指して天津を出航、これを2隻の巡洋艦が護衛していました。また、さらにもう一隊は6千の兵から成り、朝鮮国第二の都市平壌(へいじょう 今のピョンヤン)に向けて陸路進軍を開始していました。

日本軍は、北から迫る6千の清軍は徒歩行軍であり(当時清国と朝鮮国の間にはまだ鉄道が無かったからです。)到着まで時間がかかるであろう事から、海路南から迫る2300の清軍から先に「片付ける」事にします。

「清国艦隊および輸送船団を撃滅し、朝鮮半島沿岸の制海権を確保せよ。」

7月23日、大本営から海軍に対してこの様な命令が発せられ、日本艦隊はただちに佐世保軍港を出撃します。一方日本側の一連の動きなど知る由もない清国艦隊は、何も知らずに朝鮮近海に近づきつつありました。そして、ついに両国艦隊は運命の遭遇をしてしまいます。今回のテーマ「日清戦争」の最初の戦いの火蓋を切る「豊島沖海戦」(ほうとうおきかいせん)の始まりです。

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上は豊島沖海戦を描いた当時の錦絵の一つです。(残念ながらこの海戦は夜明け前に行われたために、海戦そのものの写真はありません。)海戦はわが日本艦隊が巡洋艦3隻、清国艦隊は先に述べた5隻でしたが、日本艦隊の砲撃により清国艦隊はほぼ全滅、乗っていた清軍兵士のうち1100名が戦死したのに対し、日本側の損害は皆無という日本側の完全な勝利でした。

この海戦については、現在まで「どちらが先に攻撃したのか?」という点で日中双方に論争があり、双方とも「向こうから撃ってきた」といって相譲らない様ですが、どうも歴史家の間では日本側の先制攻撃であったのは間違いないと思われます。

一方、この時朝鮮半島にいた日本軍の兵力は、大島義昌(おおしま よしまさ)陸軍少将率いる第9旅団およそ8千余りで、朝鮮国の首都漢城(ソウル)市内に1千、その郊外に主力の7千が駐留しており、本国からの命令一下、清軍といつでも戦闘開始出来るよう準備を整えていました。


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上が朝鮮派遣軍先遣部隊司令官の大島義昌少将です。(1850~1926)彼は長州(山口県)出身で、明治維新以来、陸軍軍人として黙々と任務を全うして来た人物です。今回の日清戦争における功績で男爵号(後に子爵、陸軍大将)を授けられています。ちなみに彼は現安倍晋三首相の父方の高祖父(「こうそふ」 安倍首相の父方の祖母が大島将軍の孫娘なのだそうです。つまり安倍首相から見れば「ひいひいお祖父さん」になり、安倍首相はその玄孫「やしゃご」つまり「孫の孫」になりますね。笑)に当たります。

しかし、この時もう一つ極秘の作戦が日本側で企てられていました。それは日本軍による「朝鮮王宮の占領」です。この作戦を計画したのは、驚くべき事に日本軍ではなく、時の朝鮮公使であった大鳥圭介(おおとり けいすけ)でした。


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上が当時の朝鮮公使であった大鳥圭介です。(1833~1911)彼は元幕臣で、あの戊辰戦争最後の「五稜郭の戦い」まで、徹底して明治新政府と戦った人物ですね。明治維新後、本来学者であった彼は幕臣時代に身につけた豊富な西洋の知識と英語力を買われて明治政府に仕え、主に技術官僚、外交官としての道を歩み、後に男爵号を賜っています。

それにしても、なぜ軍人ではない彼が、この様な大それた計画を立てたのでしょうか? その理由は日本が清国と戦争を開始する開戦理由を作り出すためでした。

これまでお話してきた様に、日本側は全ての混乱の原因は、朝鮮政府の自国内の反乱に対する無為無策が引き起こした事であり、朝鮮政府が改革を行わなければ、日本が主導してこれを行うと勝手に清、朝鮮両国に通告していました。もちろんこんな強引なやり方を両国が認めるはずはありません。日本側もそんな事は百も承知でした。しかし、日本の目的は相手の清国を挑発して「戦争するための理由」を作り出す事であり、とにかく何でも良かったのです。

大鳥公使は、本国の上司である陸奥宗光外相の指示により、当時の李王朝朝鮮政府に対して内政改革を直ちに行うよう要求していました。しかし、朝鮮政府の返答は

「改革はもちろんするが、それは日本軍が撤兵してから自分たちが行う。」

という日本側が予想した通りのものでした。そこで大鳥公使は、現在の朝鮮政府には改革の意思がないものとして、首都漢城内外に駐留する大島少将の第9旅団をもって朝鮮王宮を占拠し、朝鮮政府を日本側主導の新政府に挿げ替えようとしたのです。大鳥公使の謀略はすでに大島少将も了解済みであり、7月23日未明、日本軍は行動を開始します。

「計画通り作戦を実行せよ。」

大鳥公使からの指令により、大島少将は各部隊に命じ、王宮を包囲宮殿内に突入して警備の朝鮮兵と銃撃戦を交えますが、所詮は多勢に無勢です。日本軍はわずか数時間で王宮を占領し、国王高宗以下政府要人を拘束する事に成功しました。


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上は当時の朝鮮の都漢城の王宮と、その前の大通りの様子です。

作戦に成功した大鳥公使の次の計画は、朝鮮に日本に有利な新政府を樹立させる事です。これには国王高宗の父であり、国王の妃である閔妃(びんひ)とその一族と対立していた興宣大院君(こうせんだいいんくん 1820~1898)を政府の首班に擁立する手筈になっていました。その狙いはただ一つ「朝鮮に迫る清軍を日本軍に撃滅して欲しい。」という要請を彼に出させ、これをもって日本が清国と開戦する大義名分にするためです。成す術の無い大院君はやむを得ずこれに同意、それはまさに脅迫によって出させたものでした。

こうして日本軍は堂々と清軍と戦う事が出来る様になったのですが、この作戦に時間を取られたために、大島少将率いる日本軍はすでに豊島沖海戦前に上陸していた牙山の清軍先遣部隊の攻撃に遅れてしまいます。ここにはおよそ3500の清軍がおり、これを撃滅してからでないと、清本国の李鴻章が差し向けた北から迫る6千の清軍との戦いに臨めないからです。(南北から挟み撃ちに遭ってしまいますからね。)

7月28日、大島少将は手勢の半数の4千の兵を率いて牙山に向かい、迎え撃つ清軍と戦闘を開始します。これを「成歓の戦い」(せいかんのたたかい)といい、先に述べた豊島沖海戦と並んで日清戦争最初の戦いとなります。

この戦いにおいて、日本軍はたった80名余りの損害を出しただけで清軍を撃破する事に成功しましたが、完全な勝利とは呼べませんでした。なぜなら清軍の指揮官が味方の不利を悟るとただちに撤退し、残存部隊およそ3千を集結させて北の平壌(ピョンヤン)の清軍本隊と合流すべく素早く移動していたからです。

こうして陸海両面での戦闘が始まり、日清両国は8月1日に至って国交断絶と宣戦布告を互いに通告し、ここに日清戦争が正式に始まったのです。そしてそれは日本が明治維新以来、近代国家として歩みだしてから初めて経験する対外戦争でもありました。

この事に付き、ある高貴なお方が大きな不安と恐れ、そして何より深い悲しみとお嘆きの意を表されています。わが大日本帝国第122代天皇にあらせられる明治天皇です。


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上は珍しいカラーの明治天皇の肖像画です。ヨーロッパの王候君主に全く引けを取らないスマートで凛々しいお姿ですね。(ルンルン)

この時天皇は41歳で、成熟した壮年期をお迎えになっておられましたが、明治帝は大変慎重かつ繊細なご性格であり、また記憶力に優れたお方で、明治最大の臣下である伊藤博文首相はじめ他の大臣たちも、何度も書類の間違いや言い間違いを指摘され、

「陛下の御前ではごまかしが利かない。」

と冷や汗をかきっ放しだったそうです。(笑)また、貧しい国民の生活を常に気にかけられ、決して贅沢に溺れる事無く、真冬でも「火鉢一つ」で過ごされたほど質素倹約を第一の信条とされる無私無欲なお方でした。(国家予算の配分で、海軍力増強のために軍艦の建造費用が足りなくなった時にも、明治天皇は自らの内廷費、つまり天皇家の生活費の6年分を節約してまで国にご返上されたそうです。)

そんな明治天皇が、今回の日清戦争開戦について、次の様なお言葉を発せられています。

「朕はもとより不本意である。全ては重臣たちの上奏によってやむなくこれを許したものであり、この様な事態に立ち至った事に対し、朕は歴代天皇になんとご奉告申し上げれば良いものか大いに苦しんでいる。」

明治天皇は皇祖にあらせられる初代神武天皇から2千年の長きに亘り、連綿と受け継がれてきた万世一系の尊い皇位と国家を危険にさらす事を何よりも恐れておられました。明治維新からたった27年、今だに近代国家として全ての面でまだまだ幼稚で経験不足な日本の事を最も良く理解しておられたのは、誰あろうその君主にあらせられた明治天皇ご自身であったのです。

とりわけ天皇が恐れられたのは、戦争によって負けるかもしれないという「敗戦への恐怖」でした。そのため明治帝は、その在位中極力対外戦争を避け、諸外国との協調と友好を常にお望みでした。

しかし、実際に日本の国政を執り行う伊藤博文首相ら大臣たちはそうは行きません。彼らは弱肉強食であった当時の国際情勢を睨みつつ、時には戦争という残酷で巨大な事業を遂行しなければならない立場にあったからです。つまり「理想」が明治天皇であったとすれば「現実」は伊藤博文であったといえるでしょう。

明治天皇は非の打ち所無い英邁な君主です。「ごまかしが利かない」天皇に対し、明治天皇のご意志が戦争に反対である事を知る伊藤首相や陸奥外相は肝心な所で天皇を避ける様になり、本来なら真っ先に天皇の裁下を得るべきこれらの重要な決定についても次第に事後承諾が多くなります。特に天皇は陸奥外相の外交指導に大きな不満を持っておられた様で、今回の日清開戦に際しても、事前になんの了承も無いまま突然開戦の詔書を見せられ、熟慮する時間もなく裁下させられたために、天皇は大変お怒りになられたそうです。

この様に、明治天皇は今回の日清開戦を深く嘆いておられましたが、天皇も決して完全無欠な「平和主義」であられたわけではありませんでした。先ほどの天皇のご意志と相矛盾する様ですが、天皇ご自身の個人的な理想や御心と、大日本帝国の立憲君主としてのお立場は全く別のものです。事ここに至った以上、明治天皇は帝国陸海軍の大元帥として戦争指導に一身をお捧げになり、やがてわが国を勝利へとお導きになられるのですが、そこに至るまでの明治天皇のご心情とご心労は、想像を絶する大変な重圧であったのです。

次回に続きます。
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