日清戦争9 ・ 黄海海戦と連合艦隊の勝利

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)9月の平壌の戦いは、日清両軍の大部隊(日本軍1万2千、清軍1万5千)が激戦を交えた初めての本格的な「会戦」でしたが、兵器の質、地の利、潤沢な弾薬と食糧の備蓄など、あらゆる面で清軍の方がわが日本軍よりも有利であったにもかかわらず清軍は敗れ、平壌を放棄して北方へと退却してしまいました。日本軍はたった一日で平壌を占領したのです。(損害は日本軍の戦死180名に対し、清軍は10倍を越える2千名以上に達したそうですが、清軍は直接の戦闘によるものよりも、撤退の際に日本軍から追撃され、大混乱に陥ってまともな反撃が出来なかった事が原因の様です。)

それにしても、なぜ清軍はいともあっさりと平壌を放棄してしまったのでしょうか? どうもこれは平壌防衛の清軍守備隊指揮官たちの不協和音が大きく影響している様です。


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上は当時の清軍将校たちの軍装です。(注 平壌防衛の司令官たちではありません。この時代の写真は資料がとても少ないので、敵の清軍将兵の姿などをお分かりいただくために苦労して探しました。汗 だいたいこんな感じだった様ですね。)

この時、清軍は1万5千の大部隊で、指揮官は5人いましたが、各部隊はそれらの指揮官が独自に率いる寄せ集めの混成部隊でした。当然指揮官たちの意見調整が難しく、最大の部隊を率いて徹底抗戦を主張する1人の将軍と、撤退して態勢を立て直すべきと主張する他の4人の将軍の意見が衝突し、最初から戦意が乏しかったのです。

そんな中で戦闘が始まり、徹底抗戦を主張し、陣頭に立って日本軍と戦っていたその将軍が戦死すると、それを知った撤退派の他の指揮官たちは早々に戦闘を切り上げてしまいます。彼らは配下の部隊をまとめ、雷鳴の轟く雨の中を長い隊列を組み、闇夜に紛れてあたふたと清本国を目指して退却していったそうです。そしてその翌朝、日本軍は清軍の逃げ去った平壌に入城を果たしたという訳です。

相当な損害を覚悟していたわが軍にとっては、まさに幸運ともいえる勝利(「勝利」というよりも、敵が戦闘を放棄したといえるでしょうね。笑)でしたが、ともかく今度も勝ったのです。先の成歓の戦いに続いて二度目の勝利は日本国内に大々的に宣伝され、当時のわが国民の戦勝ムードは大いに沸き返りました。

しかし、大本営はまだまだ手放しで喜べる状態にはありませんでした。なぜなら陸上での戦いは勝利が続いているものの、海上では清国最大の艦隊である北洋艦隊が清本国の港から出港しようとせず、そのため日本海軍は朝鮮半島と清国の間に広がる黄海の制海権を取れなかったからです。

この北洋艦隊は、清朝政府最大の実力者であった北洋大臣 李鴻章が創設したもので、巡洋艦13隻を主力とする総勢37隻の勢力を誇る当時東洋最大最強の艦隊でしたが、その北洋艦隊の「所有者」である彼は艦隊に臨戦態勢で待機を命じ、出動を許しませんでした。なぜならこの艦隊がいる限り、敵である日本艦隊は黄海から内海である渤海に進入する事が出来ない事を知っていたからです。(海さえ押さえておけば、陸上での戦いにのみ兵力を集中出来ますからね。)そのため、彼は切り札ともいえるこの艦隊を出来るだけ温存する方針でした。

黄海の制海権を取れなければ、日本軍は上陸している遠征軍が必要とする大量の物資を、はるか朝鮮半島南部から陸路による長距離輸送をせざるを得ず、今後の作戦行動に大きな制約となります。(朝鮮半島を支配下に置いた日本軍の次なる目標は、清国と朝鮮国の国境を流れる鴨緑江を越えて清本国に侵攻、清主力軍と一大決戦に臨み、これを撃破する事です。そのためには、黄海の制海権を握り、清領である遼東半島の軍港旅順を占領する事が必要不可欠でした。その方が、日本本土からの物資を船で早く大量に運べますからね。)


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上がその鴨緑江(おうりょくこう)の位置です。現在も中朝国境となっています。

一方、清軍が平壌を放棄して退却した9月16日、北洋大臣 李鴻章は、まだこの時配下の清軍の平壌撤退の事実を知らずにいました。当時はまだ電信のない時代であり、中央と現地軍との間の連絡にはかなりのタイムラグが生じていたからです。

しかし、清軍が敗退を続けている事は、北京の清朝宮廷にも伝わっていました。この様な状況下で、大清帝国皇帝 光緒帝は李鴻章を呼び出して彼にこう言い放ちます。

「そなたは何ゆえ北洋艦隊を出撃させぬ? 艦隊司令は日本艦隊を恐れているのか?」

まだ23歳の若い光緒帝は事を急ぎ、老練な李鴻章の深慮遠謀の戦略に我慢がならなかったのです。皇帝からの異例の叱責を賜り、これを無視するわけにはいかなくなった李鴻章は、平壌の守備隊に援軍として4千の兵を送る事を決め、これを5隻の輸送船に分乗させて海路朝鮮に差し向け、その護衛としてついにとっておきの戦力である北洋艦隊に出動を命じました。

「日本軍を平壌で食い止め、これ以上敵の進撃を許すな。」

それが李鴻章が平壌守備軍に与えた命令でした。彼はそうして時間を稼ぎ、長期持久戦で日本軍を疲弊させ、さらに欧米列強諸国にも手を回してこれらを巻き込み、各国に日本へ圧力をかけさせて講和に持ち込むつもりだったのです。

李鴻章の命令を受けた北洋艦隊司令官 丁汝昌(てい じょしょう)提督は、旗艦「定遠」(ていえん)を始めとする14隻からなる主力艦隊を率いて大連港を出港、先に述べた5隻の輸送船団の護衛に付きます。


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上が大清帝国北洋艦隊司令官の丁汝昌提督です。(1836~1895)彼は李鴻章の下で頭角を現した軍人で、元は陸軍出身でしたが、李鴻章が北洋艦隊を創設してからは海軍に転じた異色の経歴の持ち主です。

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上が北洋艦隊旗艦「定遠」です。同型艦「鎮遠」(ちんえん)とともに主砲として30センチ連装砲2基を備えていました。当時日本海軍にはこれに対抗出来る大型艦はなく、その存在は日本艦隊の大きな脅威でした。

「北洋艦隊出撃す。」

この知らせは直ちに日本海軍の知る所となります。ついに待ちに待った海上決戦のチャンスが巡って来たのです。これに備え、日本海軍は当時持っていた大型主力艦艇12隻を差し向けて攻撃に向かいます。その時のわが日本艦隊司令官は伊東祐亨(いとう すけゆき)中将という人でした。


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上がこの時の日本艦隊司令長官伊東祐亨中将です。(1843~1914)彼は薩摩出身の海軍軍人で、すでに少年時代から海軍に憧れ、ただ一心にその道に進んだ生粋の「海の男」でした。そのため、当時薩摩と長州の二大派閥がしのぎを削った政治闘争には一切興味を示さず、純粋な武人としての生涯を貫き通しました。日清、日露戦争で海軍の重鎮としてこれを指導し、その功績により後に元帥号と子爵号を賜ります。

ここで一つ余計ではありますが、この時初めてわが日本帝国海軍に「連合艦隊」が編成されました。これは戦時に二つ以上の艦隊を合わせて一つの大艦隊を編成し、その総力を挙げて敵艦隊を撃滅するという思想から生まれたものです。当時日本海軍には、後の第1艦隊とか第2艦隊などの区別は無く、主力艦艇からなる「常備艦隊」と、老朽艦や小型艦などの二級艦艇からなる「警備艦隊」の二種類しかありませんでした。(当時の貧しい日本にはそれほど多くの軍艦が無かったからです。)

しかし、島国の日本は国防上海軍が必要不可欠であり、国力が上がればいずれ海軍を拡張して多くの軍艦を建造し、各方面に複数の艦隊を常備していく計画でした。そこで、将来的にそれを見越し、いざ戦時にはそれら複数の艦隊を合わせ「連合して」日本近海に侵攻して来る敵艦隊を一気に叩き潰すという海の国防プランのために「連合艦隊」というものが生まれたのです。そして伊東中将は、その初代司令長官に就任したばかりでした。

1894年(明治27年)9月17日、黄海の制海権をかけた日清両国艦隊の決戦の幕が切って下ろされました。「黄海海戦」です。双方の戦力は、わが連合艦隊が伊東中将率いる旗艦「松島」以下12隻、対する清国艦隊は丁汝昌提督率いる旗艦「定遠」以下の14隻です。


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上がわが連合艦隊旗艦「松島」です。30センチ主砲が後ろ向きについているのがユニークですね。この艦は当時の日本海軍が持っていた最大の艦でしたが、排水量は4200トン余りに対し、清艦隊旗艦「定遠」は7200トンと倍近い差があり、また清艦隊の多くが分厚い装甲を備えていたのに対し、わが日本艦隊はほとんど装甲していませんでした。(理由は清艦隊の軍艦はその多くがドイツに発注して建造された「高級艦」だったのに対し、貧しかった当時の日本は軍艦の数を1隻でも多く増やすために、価格の高い装甲艦よりも、費用が安くて短期間で建造出来る無装甲艦を買い揃えたからです。)

海戦は双方とも相手の煙でその接近を知ります。そして距離6千メートルまで接近した時、伊東中将の命令一下、旗艦松島の敵旗艦定遠への砲撃により海戦は始まりました。


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上が黄海海戦の写真です。右側の4隻が日本艦隊で、左側はるか遠方の清艦隊を砲撃しています。

戦闘は重装甲を誇る清艦隊の猛烈な反撃により苦戦を強いられましたが、装甲していない日本艦隊は速力で勝り(軽いからスピードが速いのは当然ですね。)装甲による重さで動きの遅い清艦隊を圧倒、敵艦を次々に撃沈していきます。もちろん装甲のない日本艦隊も多数の命中弾を受けますが、敵弾の多くが船体を突き抜けてしまうために沈没には至りませんでした。

やがて海戦は日本艦隊の圧倒的優勢に傾きます。5隻の巡洋艦を撃沈され、他の艦艇も大損害を受けた敵の丁汝昌提督は、残存艦隊をまとめて母港威海衛への撤退を命じ、海戦は日本艦隊の勝利に終わりました。一方日本艦隊も、多くの命中弾により多数の死傷者(約300名、対する清国側は沈没艦が多かったために850名に達したそうです。)を出し、旗艦松島以下4隻が大破したものの、1隻の沈没もありませんでした。

この海戦の敗北により、清艦隊は二度と威海衛を出る事は無く、黄海の制海権は日本の手に落ちる事になります。日本海軍は念願の制海権をようやく手にしたのです。そしてこれにより、後の日本軍の大陸進攻作戦は、はるかにスムーズに進む事になっていきます。

しかし、まだ手放しで喜べるほど状況は日本に甘いものではありませんでした。なぜなら敗れたとはいえ、依然として北洋艦隊は威海衛の港にその多くが健在であり、その気になればまたいつでも威海衛を出撃して日本艦隊を脅かす事が出来たからです。実際、北洋艦隊司令 丁汝昌提は、威海衛の防備を固めて再度出撃の構えを見せており、一刻の油断も出来ない状況でした。

次回に続きます。
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