日清戦争11 ・ 真相はいかに? 旅順虐殺事件(後編)

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)11月20日、大山巌大将率いる日本軍およそ2万5千は、遼東半島の最重要拠点「旅順」攻略作戦を開始、たった一日でこれを占領しました。ここは清国北洋艦隊の根拠地であったため、清軍によって前面の軍港を中心とする海側と、旅順市街を挟んで背面の山側の大きく2つに分けて要塞化されていましたが、防御の重点は海側に集中(重砲58門、軽砲8門、機関砲5門など)しており、背面の山側の防備(重砲18門、軽砲48門、機関砲19門など)は手薄でした。そのため清軍は、陸側から攻め入った日本軍によってわずか数時間で防衛線を突破されてしまったのです。

また、ここを守備していた清軍およそ1万3千は、前回お話した様にその兵の大半がいわゆる「新兵」であったために戦意に乏しく、さらに指揮官たちも、徹底抗戦する「猛者」もいれば、状況不利と見るや配下の部隊を置き去りに素早く逃亡する「お調子者」もいるなど、指揮系統が大きく混乱しており、それが清軍の戦意喪失に更なる拍車をかける事になってしまいました。


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上は旅順攻略前に、清軍の砲台陣地を砲撃するわが日本軍砲兵部隊です。清軍があっさり日本軍に防衛線を突破されてしまったのは、先に述べた様にこの頃の旅順要塞が、後の日露戦争の際にロシア軍によってコンクリートで大増強される前の仮の築城であり、大量の機関銃を持ち込んだロシア軍と違い、わずか19門しか機関銃を備えていなかったからです。そのため清軍守備隊は、日本軍の銃剣による一斉強襲突撃に対処出来ずに総崩れとなりました。

さて、いとも容易く旅順攻略に成功した日本軍でしたが、敵清軍は砲台陣地を放棄し、山を降りて旅順市内に退却していました。そのため日本軍は、旅順の完全占領を目指して市内に潜伏する清軍残存兵の掃討作戦に入ります。そしてここで、わが日本軍は後々まで語り継がれ、日本の対外的イメージを大きく損なう事件を引き起こしてしまいます。それが「旅順虐殺事件」と呼ばれるものです。

事の起こりは、前回もお話した様に日本軍が旅順攻略作戦前に遼東半島を進撃中であった時期にすでに始まっていました。わが日本軍は清軍を徐々に追い詰めていったのですが、その戦闘中に戦死、負傷し、そのまま前線に残されたわが日本軍将兵の遺体が、首や手足を切断され、中には耳や鼻を削ぎ落とされた無残な状態で味方に発見されたのです。それは一ヶ所ではなく数か所で見つかり、それを知った日本軍将兵たちの心の中に、敵清軍に対する激しい憎悪と報復心が沸き起こります。

それにしても、なぜ清軍はこの様な野蛮な行為を行ったのでしょうか? その理由は敵日本軍への挑発と警告(「これ以上進めばお前たちもこうしてやるぞ。」という様なものです。)それももちろんあったでしょうが、第1の理由は「報奨金」をもらうための証拠付けでした。もともと清国には、敵兵を多く倒して手柄を立てた事の証として、その証拠となる敵兵の首や手足を切断して持ち帰り、褒美に銀などを貰う慣習があり、それはこの時代になっても根強く残っていました。

これまで当ブログでお話してきた様に、清王朝は度重なる内乱と西洋列強諸国との戦争による財政難で、正式な近代的国軍というものを創設する事が出来ませんでした。そのため各地方の有力者に高位官職や地方の利権と引き換えに金を出させて「私設軍隊」を作らせ、それを北京の清朝政府が認可するという独特の間接的なやり方で軍を組織していった訳です。


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上は当時の清軍の兵士たちです。

それらの中で最大であったのが、当時の清王朝最大の実力者であった北洋大臣 李鴻章(り こうしょう)の率いる北洋軍であり、日清戦争において日本軍と戦ったのはこの北洋軍でした。つまり清軍は清軍といいながら、その中身は清の国軍ではなく、李鴻章に金で雇われた私兵集団であったのです。当然彼らが北洋軍に入った目的は、何を置いてもひとえに「金のため」であり、清王朝のために命を捨ててまで戦おうという忠誠心など持ちうるはずがありませんでした。

清軍が、日本軍よりも優れた武器や装備を持ちながら、戦えば負けていた(というより、一応雇い主の李鴻章からお金を貰っているので、「仕事」として戦う事は戦うが、あくまでそれは貰った金に見合う程度で、分が悪いと見るや頃合いを見てすぐに引き揚げてしまう。といった方が正しいかもしれません。死んでは元も子もないですからね。笑)のは、こうした事情が大きく影響していた様です。

つまり清軍によるわが日本兵の遺体損壊は、特に敵への憎しみという様な感情的な理由からではなく、清兵の「ビジネス」としての証拠立てのためであり、当時の彼らの感覚からすれば敵が誰であれこうしていた訳で、たまたまその敵が今回は日本軍であっただけなのです。しかし、それは相手にとっては単なる「残虐さ」と「野蛮さ」以上の何ものにも映りません。彼ら清軍は今回の敵であるわが日本軍を甘く見過ぎていました。そして彼らは数日のうちに大きくその報いを受ける事になるのです。

一方、日本軍総司令官 大山巌大将は、降伏した敵兵や無力な負傷兵に対する保護を約した国際条約であるジュネーブ条約に従い、全将兵に対してそれを命じていましたが、それは理想論でした。先に述べた様に、清軍による行為は全軍に知れ渡っており、末端の兵はもちろん、大山将軍に最も近いはずの各師団長ら上級指揮官までが怒りと復讐心に燃えていたのです。

特に、はっきりとその意思を明確に表していたのが、第1師団長であった山地元治(やまじ もとはる)中将でした。


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上が第1師団長であった山地元治中将です。(1841~1897)彼は土佐(高知県)出身の陸軍軍人で、幕末の動乱から名を挙げ、写真を見ても分かる通り少年時代に右目を失明していたために「独眼流将軍」とあだ名された猛将でした。旅順攻略の功により子爵位を賜っています。

山地中将は旅順市内に潜伏している清軍の残存部隊の掃討に当たり、自らが率いる第1師団に次の様な恐ろしい命令を発します。

「これよりわが軍は、敵敗残兵の掃討を開始する。それに当たり、これを妨害する者は市民といえども残らず殺すべし。」

さらに、同じ第1師団所属の当時の兵士の方が残した日記にも、次の様な記述が残されています。

「清人の男子は皆逃さず、生かさず、全て切り殺せとの命令が下り、我々の士気は大いに上がり、勇気に溢れた。」


こうした異常な状態の中で、殺気立った日本軍は旅順市内に突入します。しかし、そこで清軍は思わぬ反撃に出て来ました。彼らは軍服を脱ぎ捨て、当時の清国の民衆が多く着用していた便衣(べんい)に着替え、ゲリラ戦で抵抗して来たのです。そのため日本軍には敵兵か無辜の市民なのかという判断が付かなくなり、それがやがて全ての旅順市民を標的とする無差別な殺戮へと移ってしまいます。

実際には、この時旅順防衛に当たっていた清軍1万3千の内、旅順市内に潜伏していた清軍は2~3千程度であり、本隊を含む大半(およそ1万)は陸路旅順を脱出して、北方で遼東半島奪還のために差し向けられていた増援軍に合流していました。(日本軍は旅順占領を優先したために、脱出する清軍本隊を追撃出来るほどの余剰兵力がなかったからです。)しかし、それからの3日間、旅順市内では文字通りの「血の嵐」が吹き荒れます。

日本軍は旅順市内の建物という建物、家々の扉を蹴破り、窓を割り、そこに便衣姿の清人の男性が潜んでいれば「清兵」として容赦なく射殺、または銃剣で刺殺、抵抗の激しい場合は建物もろとも焼き払うなどの激しい殺戮と破壊を行ったのです。それはとても戦闘と呼べる様なものではなく、まさに反論の余地の無い「虐殺」そのものでした。そして日本軍が旅順の街を完全に占領した後に残されたのは、清兵と市民合わせて数千の死体が累々と倒れる地獄絵図だったのです。


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上の画像1枚目は旅順占領後、累々と倒れている清兵の死体を一ヶ所に集めて埋葬している日本軍です。その傍ら2枚目では、わが軍将兵たちが清兵の死体を踏みつけながら銃剣を衝き立て、記念撮影しています。戦友の仇討ちと勝利の喜びに浸る彼らの表情に注目して下さい。

さて、前線部隊が旅順陥落に湧きかえっていた頃、その際に起きたこの虐殺事件はすぐに日本政府の知る所となりました。なぜなら当時第2軍に従軍していた欧米の新聞記者たちが、その事実を本国の新聞に打電していたからです。彼らは日本政府が今回の清国との戦争で、日本が国際法を遵守する文明国である事を見せるために同行させていたのですが、逆にそれが裏目に出てしまいます。記者たちが一斉に日本軍の虐殺を盛大に書き立てたために、これを読んだ欧米諸国の日本に対する国際的世論が著しく硬化し、日本政府が外交上の最大の目的としていた欧米諸国との不平等条約の改正はやはり無期限で延期すべきだという意見が出てしまったからです。

「日本はうわべは文明国を装っているが、その本性は清国と変わらない野蛮国である。」

というわけです。

事態を重く見た日本政府と大本営は、現地軍の大山総司令官に事の真偽を問いただす書簡を送ります。

「旅順陥落の際、第2軍はみだりに殺戮を行い、捕えた捕虜を殺害し、住民の財貨を略奪するなどの野蛮な行いがあったとの多くの報がある事に付き、釈明されたい。」

これに対し、もはや事態を隠し切れないとみた大山大将は次の様な弁明を大本営に返します。

「やむなく敵兵と民間人を混一して殺害し、敵軍への懲戒のために一部で捕虜を殺害した事は認めるが、略奪については全くの出たらめである。」

現地軍の総司令官が虐殺の事実を認めたのです。これには日本政府トップの伊藤博文首相と、外交責任者の陸奥宗光外相が慌てふためきます。軍人ではなく政治家である彼らは、戦局が日本に有利に進んでいた戦争そのものよりも、彼らが長年苦労して携わってきた欧米諸国との不平等条約改正交渉が、今回の軍の失態によって頓挫してしまう事を恐れたのです。


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上は当時の大日本帝国首相 伊藤博文公です。

そこで伊藤首相ら日本政府は、今回の事件に対する欧米諸国への申し開きと弁明工作に躍起になります。彼らが行った欧米諸国への弁明と、その主な要旨は以下の通りです。

1 清兵は軍服を脱ぎ捨てて逃亡していた。

2 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ清軍の兵士であった。

3 住民は交戦前にほとんど逃亡していた。

4 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。

5 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。

6 日本側は軍紀を守っていた。

7 旅順が陥落した際、捕えた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、治療のため東京へ連れてこられる事になっている

伊藤首相はこれを日本政府の公式な弁明として、欧米各国の新聞に載せさせ、事態の沈静化を図ります。(かなり「苦し紛れ」な弁明なのが分かりますね。苦悩する彼の表情が目に浮かぶ様です。)

現地の第2軍でも、大本営からの指示により、弁明のための下の様な「演出」が行われます。


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上は捕虜にした清兵を治療する日本軍衛生部隊です。写真を撮るためにわざわざ勲章をつけた左端の軍医らしき人物の下で、粗末な台の上に横たわる弁髪姿の清兵が治療を受けています。これはジュネーブ条約に従い、日本軍が敵の清軍兵士を保護して治療しているのだという姿を欧米諸国の新聞に載せるために撮影されたものと思われます。

結局この事件は、その後時間の経過とともに、この様な出来事は戦争には付きものであり、欧米においても歴史上何度もあったのだから、そういう自分たちの事を棚に上げておいて日本の事をとやかく言う資格は無かろうという論調に変化していきます。そして伊藤首相ら日本政府が恐れていた不平等条約改正交渉は、戦争が日本の優勢であった事から予定通り進んで行き、わが国は幕末以来30年以上に亘って長らく外交の足かせであった欧米諸国との不平等条約を次々に改正していく事に成功するのです。

今回の事件における清国の犠牲者の数は、2千から6千まで諸説あって定かではありません。(中国側はなんと「2万人」が殺害されたとしています。一体何を根拠にこんな数字が出てくるのでしょうか?これは旅順攻略のわが軍の兵力とほぼ同じではありませんか。呆)しかし、虐殺があったのは紛れも無い事実であり、あちらの歴史の授業では、あの著しい誇張と捏造によって、わが国への「反日教育」の最高の道具に利用されているみなさんもご存知の「南京大虐殺」に先駆けて日本軍が行った最初の蛮行として子供たちに教えています。(怒)

この旅順での出来事は、文明国の軍隊として敵に紳士的に振舞おうとした日本軍が、「邪悪な侵略軍」として(これはもちろん中国側の主観です。)歴史に記憶される事になった最初の事件でした。そしてその後、中国人は日本人を「日本鬼子」(リーベングイズ 「日本の鬼ども」)と呼んで恐れ、それが今日に至るまで中国人の心の根底に深く刻み込まれてしまったのは事実です。

最後に、この旅順攻防戦において、最も被害を受けた人たちの姿を載せてこの忌まわしい事件のお話を終わりたいと思います。それは、旅順の名も知れぬ一般市民です。


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上は日本軍の旅順占領に伴い、避難していく母子の姿です。日本軍に従軍していた温情あるカメラマンが撮影したもので、写真の下の説明文にある通り、この母子たちの様な貧しい人々は、行く当てもなくどこかへ落ち延びていきました。季節は12月、大陸の凍える様な寒さの中を、着の身着のまま綿入りの布団を担いでいる姿が哀れです。その後の長い戦乱と動乱に明け暮れる中国において、彼女たちは無事に生き延びていてくれたのでしょうか? ただそれを祈るばかりです。

次回に続きます。
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日清戦争10 ・ 真相はいかに? 旅順虐殺事件(前編)

みなさんこんにちは。

当ブログをご覧頂いている歴史好きのみなさんは、旅順(りょじゅん)という街の名を当然ご存知であるかと思います。今回のテーマである日清戦争から10年後のロシアとの日露戦争において、わが日本軍が壮絶な死闘と多大な犠牲の末に、ようやく攻略出来た「旅順要塞」のあった港町ですね。

しかし、この旅順が戦場になったのは、先に述べた後の日露戦争が最初ではありません。この旅順港は前回お話した清国の主力艦隊である「北洋艦隊」の根拠地であり、当然本テーマである日清戦争においても日本軍の主要攻略目標として、ここを守る清軍と激しい戦闘が行われています。

つまり、わが日本軍はこの港町を2回も攻撃しているわけです。しかし、2度目の日露戦争の際は敵ロシア軍が築いた大要塞の前に、大変な犠牲と4ヶ月以上の時間を費やしてやっとの思いで占領した事は良く知られていますが、1回目の日清戦争の時は、たった1日でこの重要な軍港を占領する事に成功しています。これは、当時まだこの旅順が、後の日露戦争の時に比べて要塞化されておらず、清軍の防備が手薄であった事に起因するのですが、実はこの第1回目の旅順攻防戦において、栄光あるわが大日本帝国軍は大変な「不祥事」を引き起こし、あれから120年たった今日においても長く尾を引く大きな禍根を残してしまう事になります。今回はそのあたりのお話です。

1894年(明治27年)9月、日清戦争開戦から1ヶ月あまりが経過し、わが日本軍は陸と海で清軍に対して勝利を続けていました。すでに陸上では、9月末までに日本軍は朝鮮半島から清軍を一掃し、朝鮮国のほぼ全域を占領する事に成功。清・朝国境の鴨緑江(おうりょくこう)を越えて、清本国への進攻を目前に控えていました。また、海上においても、9月中旬の黄海海戦において、日本連合艦隊は清国北洋艦隊に勝利し、大損害を被った清艦隊は本拠地の威海衛(いかいえい)に逃げ込み、黄海の制海権もほぼ日本海軍が掌握していました。

言わば、日本は今次戦争における第1段階の目標をほぼ達成したと言えるでしょう。そして日本軍の次なる目標、すなわち第2段階は、清本国に進攻後、残る清主力軍と大会戦を行ってこれを撃破し、日本の優勢を決定的にした所で講和に持ち込み、速やかに戦争を終結させる事でした。(そうでなければ日本の貧しい国家財政が持たないからです。)その作戦のための足がかりとして日本軍が何としても手に入れなければならなかったのが、清国と朝鮮国の間にあって、黄海の奥の渤海(ぼっかい)にトゲの様に突き出した遼東半島(りょうとうはんとう)であり、その先端に位置する軍港「旅順」でした。


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上の画像1枚目が遼東半島と旅順の位置、そして日本軍の進撃経路で、2枚目と3枚目が現在の旅順の様子です。現在この街は単独の都市ではなく、中国の行政区分上、正式には大連市旅順港区(だいれんしりょじゅんこうく)と言い、つまり大連の一部なのだそうです。この旅順だけの人口はさほど多くはなく、およそ21万ほどです。(この旅順も含めた大連市の人口は600万ほど。)

近年この街は、急速な経済発展による建設ブームにより、3枚目の写真の様に高層住宅が次々に建てられており、街並みが大きく様変わりしつつあります。ここは上の地図でも分かる様に遼東半島の先端に位置する天然の良港であり、現在も中国海軍の重要な基地となっています。(2枚目の写真では中国海軍の艦船が停泊しているのが分かりますね。駆逐艦かフリゲート艦でしょうか。)

ここを手に入れれば、日本軍は大陸進攻作戦のための物資を、日本本土から直接輸送船で大量に運び入れる事が可能になり、これまでの様に馬や人が背負って朝鮮半島を南から北へ運ぶなどという将兵に大きな負担を強いる非効率を大幅にカット出来ます。

そこで日本軍は、この旅順を含む遼東半島一帯の占領を目的として、第1、第2、第6の3個師団およそ5万8千からなる第2軍を編成し、大山巌(おおやま いわお)大将を総司令官として、10月下旬に攻略作戦を開始しました。


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上が第2軍司令官の大山巌大将です。(1842~1916)彼は薩摩出身の陸軍軍人で、陸軍大臣、参謀総長、文部大臣、内大臣などを歴任し、この日清戦争と、後の日露戦争を勝利に導いた功績により元帥号と公爵位を賜り、以前お話した山縣有朋と並ぶ明治最大の元老の一人です。陸軍軍人なので、当然陸軍大臣としての経歴が長い(なんと6回も就任しています。)のですが、山縣と違ってご本人は終生政治権力には無関心で、何度も首相候補として名が挙がりましたが、その都度これを固辞し、生粋の武人としての生涯を全うした人です。(敬意)あの西郷隆盛(1828~1877)とは従兄弟同士で、その容貌から「ガマガエル」などとありがたくないニックネームで呼ばれていたそうですが、ご本人はけろっとしていたそうです。(笑)薩摩出身という事で、当然日頃から独特の薩摩弁(「おいどんは~でごわす。」とか「おはんら~してたもんせ。」「これでよか。」など)で話し、頑固一徹なイメージですが、プライベートでは意外にも大変な西洋好きで(明治維新後のまだ若い頃に4年間もヨーロッパに留学した影響です。)食事もステーキやワインなどの美食に凝り、自宅や別邸などもフランスやドイツの城館を模した豪華絢爛なものだったそうです。またブランド品にも目がなく、特にルイヴィトンなどを好んで買い揃えて楽しんでいた趣味人でした。

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上がその大山将軍のお宅です。下に写る人たちと大きさを比較してください。大山閣下は徹底して洋風にこだわり、この家もドイツの古城を模して建てられたそうです。しかし、残念ながらこの家は大山大将亡き後の1923年(大正12年)関東大震災で倒壊してしまい、現在は残っていません。

大山大将率いる日本軍は、何の抵抗も受けずに遼東半島中央部への上陸に成功し、順調に周辺を征圧。11月上旬には目標の旅順近郊にまで迫ります。この時の清軍の旅順守備兵力はおよそ1万3千、対する日本軍は3万5千余でしたが(他方面の占領維持に兵力を割いたからです。)そのうち純粋な戦闘部隊は2万を超える程度でした。

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上は清軍陣地を占領して記念撮影する第2軍部隊の将兵たちです。

ところで、今回の日清戦争は、これまでお話してきた様に簡単にいえば、日本と清国の朝鮮半島の支配権を巡って起きたものですが、日本側にはそれとは別にもう一つの大きな戦争目的がありました。それは欧米列強諸国に対して、日本が国際法を遵守する近代国家であるという事を「見せ付ける事」です。当時のわが国は、幕末から明治初期にかけて欧米列強諸国に結ばされた「不平等条約」の撤廃を第一の外交目標にしていました。外交とは国と国とが対等の立場で互いを尊重しあう事で成り立つものであり、これが成立して初めて日本は欧米諸国に「いっぱしの国家」として認めてもらえるからです。しかし明治維新からまだ27年余り、今だに欧米諸国の日本に対する見方は、

「東洋の片隅の貧しく遅れた弱小途上国」

でしかありませんでした。そのため彼らは、なかなか日本との不平等条約を改正しようとはせず、当時の明治政府は常に外交面で辛い立場に立たされて来たからです。特に明治政府が目指していたのが、当時の超大国イギリスとの条約改正であり、これが成れば、フランス、ドイツ、アメリカなど他の列強との条約改正もスムーズに運ぶはずでした。そのためには、日本が戦時国際法を遵守する「文明国」として「野蛮国」である清国との戦争に勝利したという実績が必要だったのです。

この日本政府の意向は、陸軍首脳である大山大将も良く承知していました。先に述べた様に西欧への長い留学経験を持つ彼は、陸軍でも最も国際法に通じた将軍であり、1886年(明治18年)に日本が加盟した敵味方を問わず負傷者を保護する「ジュネーブ条約」に則り、

「戦争は国と国との事であり、敵の将兵であっても個人的な遺恨を持ってはならない。彼らもそれぞれ家族があり、我らと変わらない同じ人間である。敵の負傷者に対してはそのつもりで仁義をもって対応する様に。」

とする訓令を発し、麾下の全将兵にそれを印刷した冊子を持たせ、敵の清軍の将兵であっても、負傷者は丁重に保護する事を命じていました。少なくともこの時点では、わが日本軍将兵はそのつもりだったのです。しかし、これはいかにも典型的な「官僚型」のやり方でした。人の心というものは、なかなか理想の様にはいかないのが世の常です。日本政府と大山将軍の意思はその後、思わぬ形で大きく破綻し、彼らは戦争の現実を痛感させられてしまうのです。

それは旅順への進撃中に起きた事です。日本軍は旅順偵察のために偵察隊を出します。そこで清軍と戦闘になり、その部隊は死傷者数十名を出して退却したのですが、問題はその後です。翌日その遺体が、清軍によって首や手足を切断された無残な状態で発見されたのです。この知らせはたちまち全軍に知れ渡り、日本軍将兵の心の中に大きな変化を生じさせてしまったのです。

以前にもお話したのですが、軍隊というものは男同士の友情を極限にまで高めます。所属部隊は違えど、共に命を懸けて戦った戦友たちが敵に無残に殺害された事を知った時のわが将兵の怒りは凄まじいものであった事でしょう。そしてそれは、わが将兵たちの心の中に、敵清軍に対する激しい憎悪と報復心という醜いものを生み出してしまうのです。

この兵たちの心の変化を、総司令官の大山将軍は知る由もありませんでした。そしてそんな大きな問題を抱えた状態の中で、彼は11月20日に旅順攻略作戦を開始してしまいます。早朝から日本軍の攻撃により始まった戦闘は、それ自体は敵清軍がその大半が新兵であった事から戦意に乏しく、旅順の街を取り囲む周囲の山々に築かれた清軍の要塞や砲台は、数時間足らずの戦闘で、同日昼ごろまでに大半があっさり日本軍に占領され、午後には清軍は旅順市街へと退却、もはやこの時点で、旅順の戦いの勝敗は完全に決していました。

日本軍の次なる目標は旅順市内に退却した清軍の掃討です。すでに時刻は日の沈みが早い晩秋の夕方、すでにあたりは暗くなり、夕闇と不気味な静けさが旅順の街を包みつつありました。そして、それはまさに嵐の前の静けさのごとく、これから始まる「血の嵐」の前触れでもありました。

次回に続きます。
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