日清戦争15 ・ 台湾制圧作戦と幻の台湾民主国

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)8月に始まり、およそ8ヶ月余り続いた日本と清国との戦争、いわゆる日清戦争は、1895年(明治28年)4月の日清講和条約(下関条約)の締結によって、わが日本のほぼ完全勝利で幕を閉じました。これにより日本は、前回お話した様に清国から当時の日本の国家予算の4倍もの多額の賠償金を得たのですが、それ以外にもう一つ大きな「獲物」を清国から得る事に成功します。それはわが国初の海外領土とも言うべき台湾の獲得です。


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台湾の地理的位置については、一般知識としてみなさんご存知の事と思いますが、今一つピンと来ない方のために上に地図と日本の主要都市との距離をお載せしておきます。東京からおよそ2500キロほど離れた亜熱帯のかなり蒸し暑い島です。

ここでこの「台湾」という名の由来についてですが、残念ながらこれは諸説あって定かではありません。しかし、台湾原住民の言語に由来(「海に近い土地」を意味するらしいです。)するのは確かな様で、少なくとも中国語ではない様です。

この台湾こそ、わが国がその歴史上初めて手に入れた海外領土であり、また同時に、その後アジア太平洋に膨張を続ける事になる日本の対外進出の最初の布石となる地でした。この地を手に入れた日本政府は、当時日本海軍のトップであった軍令部長樺山資紀(かばやま すけのり)大将をその総督に任じ、近衛師団を率いてこの新領土を速やかに接収する事を命じます。


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上が初代台湾総督に任命された樺山資紀海軍大将です。(1837~1922)彼は薩摩出身で当初は陸軍軍人として少将にまで昇進しましたが、明治16年に海軍に「転職」した異色の人物です。その後海軍大臣に登り、さらに内務大臣や文部大臣も歴任し、伯爵位を賜っています。

しかし、ここで誤解してはならないのが、日本がこの台湾に兵を送るのはこれが初めてではないという点です。実はこれより20年前の1874年(明治7年)に、わが国は最初の台湾出兵を行っています。では、なぜ日本が出兵したのかというと、さらに話はそれより3年前の1871年(明治4年)にさかのぼります。

当時日本は徳川幕府を倒した明治新政府の元で、新たな国づくりを進めている最中でした。その頃まだ「琉球」と呼ばれていた沖縄本島へ米を運ぶ宮古島の島民69名の乗る船が台風により難破し、そのうち66名(3名が溺死)が台湾に漂着しましたが、そこで原住民に囚われ、54名が殺害されるという忌まわしい事件がありました。なんとか逃走に成功した残りの12名は、当時台湾を統治していた清国の役所に救助を求め、無事に宮古島へ送還されたのですが、話はそれからです。

日本側は清国に対して賠償を要求しましたが、なんと清国側にこれを拒否されてしまいます。当然これに怒ったのがわが明治政府です。特に西郷隆盛の実弟である西郷従道(さいごう つぐみち)中将ら薩摩グループは、断固とした武力による討伐を主張します。そこで日本政府はおよそ3千の討伐軍を編成して台湾に差し向けたのです。

上陸した日本軍は事件のあった地域の原住民を苦も無く制圧しましたが、日本政府がこれを清国はおろか、列強諸国にも通知せずに行ったためにいわゆる国際問題に発展してしまいます。結局その後に行われた日清両国の交渉によって、清国が事件の被害者らに10万両(テール)の見舞金(当時の日本円で15万5千円余りになります。しかし、この出兵で日本が要した戦費はその10倍に達したそうですから「投資」としては大失敗ですね。笑)を支払う事で合意が成立し、日本は撤兵しました。これが最初の台湾出兵です。

この第一次台湾出兵の時に、参謀の一人として従軍していたのが、当時陸軍中佐だった樺山大将でした。彼が初代台湾総督に任命されたのは、台湾の地理や気候風土について、当時の日本軍首脳部では最も良く知っていたからです。

一方その台湾では、日本側が予想もしなかった別の動きが進行していました。同年5月25日、日本の領土になるのを嫌った台湾の地元有力者たちが結集し、それまで台湾を統治していた清国の地方長官を元首として、なんと「台湾民主国」なる新国家を樹立、独立を宣言したのです。


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上が台湾民主国総統に就任した唐景崧(とう けいそん 1841~1903)と、台湾民主国の国旗「黄虎旗」です。彼は清王朝の地方官僚を代々継承してきた名門の出で、ベトナム領有を巡るフランスと清国との清仏戦争(1884~1885)においてもフランス軍と勇敢に戦った功績があり、その実績を買われて総統に推挙されたのですが、そうした有能さも中年期までで、この頃は保身に怯える「定年間近の官僚」に成り下がっていました。それでもこの台湾民主国こそ、実は歴史上アジアで最初の共和制国家なのです。この当時(1895年)の台湾の人口はおよそ300万。しかし、その運命は後述する様に短く儚いものでした。

この知らせは直ちに台湾総督樺山大将の知る所となりましたが、彼は構わず当初の計画通りに台湾制圧作戦の開始を近衛師団に命じます。

「小ざかしいマネをしおって、すでに台湾はわが大日本帝国のものとなったのだ、台湾民主国などひねり潰してくれる。」

1895年(明治28年)5月29日、樺山総督率いる日本軍およそ1万は台湾北部に上陸を開始します。乙未戦争(いつびせんそう)の勃発です。(「乙未」とはこれも干支で、この年がそうだったからです。しかし、日本では歴史上日清戦争の一部としてあつかわれています。)これに対して台湾民主国軍はおよそ3万を擁していましたが、その大半がこれまで当ブログで何度かお話してきた様に金で雇われた「傭兵」であり、戦意は低く、日本軍の攻撃が始まるとすぐに総崩れとなります。これを見た「総統」の唐景崧はあっさり抗戦意欲を失い、金庫から持てるだけの公金を持ち出すと、6月4日になんと「老婆」に変装して大陸に逃走してしまうのです。

それは民主国成立からわずか十日足らずの事でした。それにしても、これはあまりにも情けないというか、無責任すぎますね。なぜなのでしょう? それは彼らが台湾出身ではない事に原因があります。もともと逃げ出した総統の唐景崧らは、先に述べた様に大陸人であり、その軍隊もみな大陸で集められた傭兵たちでした。そのため台湾に対する愛着などなく、つまりもともとやる気など無かったのです。それが彼らを簡単に逃亡の道に走らせる事になったのですが、しかし、これで台湾民主国が一気に崩壊したわけではありませんでした。

日本軍は6月14日、なんの抵抗も無く台湾最大の街台北に無血入城を果たし、17日には台湾総督府が発足し、正式に日本の統治が始まるのですが、抵抗の主体は清国から台湾の地元住民に移っていました。彼らは逃亡した唐景崧に代わり、彼の下でフランスとの清仏戦争で名を馳せた勇将である劉永福(りゅう えいふく)将軍を新たな総統に迎えて日本軍への抗戦を続けたのです。


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上が新たな総統となった劉永福(1837~1917)将軍です。彼は先に述べた様にベトナムにおけるフランス軍との戦いで清軍を率いて善戦した有能な軍人で、台湾では「英雄」として尊敬されています。

劉永福将軍は台湾の南の台南に首都を移し、台湾の住民からなる義勇軍を組織して日本軍を迎え撃ちます。その数は10万にも達しますが、所詮はろくな武器もなければまともな訓練も受けていない素人の集まりに過ぎませんでした。当時最新装備の日本軍とは比べるべくもありません。そこで彼は山岳部からゲリラ戦で抗戦を続けるよう指示し、日本軍を大いに悩ませます。それでも、日本軍は南下して次々に各都市を攻略し、民主国政府の首都台南に迫りました。


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上は山岳地帯で日本軍に抵抗する当時の台湾原住民です。

しかし、日本軍が進撃するに連れ、台湾住民の抵抗は次第に激しくなっていきます。もともとこの台湾という島は開拓地であり、開拓民の多くが大陸からの移住者でした。彼らは台湾原住民やその他の移住者集団と対立抗争を繰り広げつつ開拓を進めてきた経緯があり、戦いには慣れていました。(これは昔のアメリカ西部劇映画を思い浮かべていただければ少しは理解出来るかもしれません。)村々は防御のために銃眼を備えた煉瓦塀で囲まれた家々が立ち並び、さらに見張りの櫓や密生した竹やぶに囲まれ、それらが格好の防御施設の役割を果たしていたのです。そのため日本軍の主力である近衛師団の兵力だけでは完全な台湾全土の制圧は難しくなっていました。


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上はわが台湾制圧軍の実戦部隊の指揮官であられた近衛師団長の北白川宮能久親王(きたしらわかのみや よしひさしんのう)殿下です。(1847~1895)とても長い名前の宮様ですが、彼は少年時代から僧侶になるために各地の大寺院で過ごし、幕末の戊辰戦争勃発時には日光の輪王寺におられた事から、旧幕府軍により奥羽越列藩同盟の盟主に擁立され「東の天皇」とまで呼ばれたお方です。明治維新以降その責めを負われて親王の身分を解かれ、しばらく蟄居されるなど不遇の思いをされますが、もともとご本人のご意思とはいえない事情であった事は誰の目にも明らかであった事からすぐに許され、その後は陸軍軍人としての道をひたすら歩まれました。ちなみに彼は、最近お騒がせのあの明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏の祖先にあたるお方で、彼の長男恒久王(つねひさおう)が、明治天皇の第6皇女にあらせられる昌子内親王(まさこ ないしんのう)と結婚して竹田宮家を創設され、現在に至るそうです。

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上は前線で野営されている北白川宮中将殿下とその幕僚たちです。急ごしらえのテントの前で、殿下だけは皇族というかしこき身分である事から革張りのお椅子(多分本土から運ばせたのでしょう。)にお座りになってタバコを一服されていますが、幕僚らは地べたにござか何かを敷いてあぐらをかいて座っています。おそらく掃討作戦の合間の休憩中の一枚なのでしょう。住民によるゲリラ戦に悩まされ、憔悴と疲労に耐えながら戦闘を続けているのが彼らの表情からも分かりますね。

そこで、台湾総督樺山大将は増援軍の派遣を大本営に要請、これを受けて大本営は講和により大陸から順次撤兵中の陸軍師団から第2師団を差し向け、同年8月中旬には台湾制圧軍は近衛、第2の2個師団その他を含めた実戦部隊だけで総勢3万7千、占領地域の警備その他の部隊を含めるとおよそ5万にも達する大部隊になっていました。

新たな兵力を得た日本軍は、一気に台湾全土を手中に収めるべく進撃を再開します。しかし、ここでさらに恐ろしい敵が日本軍を襲います。マラリアと伝染病の蔓延です。5月下旬の戦闘開始以来すでに3ヶ月を越え、季節は夏真っ盛りの8月、ただでさえ年中蒸し暑い高温多湿の台湾で、日本軍将兵は分厚い生地の長袖の黒い軍服姿でろくに防暑をしておらず、喉の渇きに苦しみ、その上高温ですぐに腐ってしまう食べ物も我慢して食べざるを得ず、当然自然発生的に赤痢や脚気が蔓延しました。そして亜熱帯の無数の蚊に刺された兵たちは高熱のマラリアで次々に倒れていきます。

このままモタモタしていては日本軍全部隊が危険です。そのため日本軍は一刻も早く台湾民主国の首都台南を攻略して台湾の抵抗勢力を葬り去るべく、同年10月に三方向から台南総攻撃を開始しました。そしておよそ1週間の市街戦の結果、日本軍は台南に入城、武器弾薬食糧も底を突いて、もはや抵抗は無理と悟った台湾民主国総統劉永福将軍は大陸へ逃亡、ここにアジアで最初の共和国である台湾民主国はわずか5ヶ月余りで崩壊してしまいました。

11月18日、樺山総督は台湾平定を東京の大本営に報告し、およそ半年余り続いた乙未戦争すなわち台湾制圧作戦の組織的な戦闘は終了しました。この戦いにおける双方の損害は、わが日本軍が戦死164名(負傷者は500名余り)と実際の戦闘での戦死者は少なかったのですが、驚くべきは先に述べたマラリアや赤痢などの伝染病の蔓延による病死者で、実に4600名以上に登ります。対する台湾側の死者ははるかに多い1万4千以上に達したそうです。

この伝染病の蔓延による日本軍の損害は、日清戦争における日本軍全体の戦死者の3分の1に当たります。そして、その犠牲者の中には、先にご紹介した近衛師団長の北白川宮能久親王殿下も含まれ、彼は台湾平定を目前にした10月下旬に現地でマラリアにより薨去されています(あと少しの所だったのに、わが日本の高貴な親王殿下がこんな暑い異郷の僻地でさぞご無念であられた事でしょう。涙)

この戦いは先にお話した様に、歴史の上では日清戦争の戦いの一つとしてくくられ、そのために歴史好きな方でも詳しく知る方は意外に少ないのではないかと思います。(かく言う自分も、今回この記事を書くために資料を集めるまでは良く知りませんでした。汗)しかし、日本軍が占領したのは台湾の西部平野地帯のみであり、東部山岳地帯はほとんど占領出来ていませんでした。そのため、樺山総督が平定宣言をした後でも、台湾では残存勢力が山岳地帯にこもって抵抗を続け、日本軍が最終的に全土を制圧したのは10年後の1905年(明治38年)になるそうです。

今日、日本と台湾はおそらく世界で最も仲が良い間柄です。その信頼が築かれたのは、その後にわが国が行った台湾統治政策と、太平洋戦争敗戦までの50年に及ぶ長期支配が大きく影響しているのは確かであり、戦前の台湾人は本土の我々と同じ大日本帝国臣民であったのです。しかし、その最初の出会いは、決して友好的でも平和的でもなく、それどころか全く正反対の血なまぐさい戦いの結果であったのは実に悲しく皮肉な事です。歴史というものの非情さを痛感しつつ今回のお話しを終えたいと思います。

次回に続きます。
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