日清戦争17 ・日本になれなかった二つの帝国

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)10月、日清戦争勃発のそもそものきっかけを作り、20年以上に亘って夫の国王をしのぐほどの権力を振りかざした朝鮮王妃 閔妃(びんひ)は、日本の三浦梧楼(みうら ごろう)公使らの謀略により暗殺されました。この事件については、前回もお話した様にうやむやのまま闇から闇に葬り去られてしまうのですが、何にしても、日清戦争の引き金となった諸々の事件の渦中には常に閔妃が絡んでおり、その彼女の死によって、日清戦争というものが本当の意味で終結したと言えるのかも知れません。

では、この日清戦争が日本、清国、朝鮮三カ国に与えた影響と、この三カ国がその後に辿った歴史はどの様なものだったのでしょうか? 今回はまず朝鮮国と清国からお話したいと思います。

まず、日本と清国がその支配権をめぐって激しく対立し、そしてついに開戦するに至った原因である朝鮮国の日清戦争後の状況ですが、これは前回もお話した様に、長く朝鮮国を二分する権力争いに明け暮れた二人の人物、すなわち朝鮮国王妃の閔妃と、国王の父親にして宮廷の陰の実力者であった摂政の興宣大院君(こうせんだいいんくん)が相次いでこの世を去ると、後に残った国王の高宗(こうそう)が、1897年(明治30年)10月、朝鮮の歴史上初めて「皇帝」に即位、国名を「大韓帝国」と改めて自主自立した独立国を目指して動き出します。


e12bf7f4.jpg

上が大韓帝国初代皇帝「光武帝」として即位した旧朝鮮国李王朝第26代国王の高宗です。(1852~1919)彼は長い間悩まされ続けた妻の王妃と摂政の父の権力争いからようやく解放され、今度こそ朝鮮を自らの理想とする新国家とすべく、皇帝即位と帝政の開始という思い切った手段により、国の近代化を図ろうとしました。(その手本となったのが、明治維新によって近代化を成し遂げたわが大日本帝国である事は、歴史好きの方であれば容易に察しが付く事でしょう。)しかし、彼が思い描いた「夢の国」は、後にその手本とした帝国に呑み込まれてしまう運命にありました。

高宗、いや光武帝は、貧しく遅れた朝鮮、いや大韓帝国を、日本の様な近代国家にすべく、自らの名を冠した「光武改革」という近代化政策を立ち上げます。しかし、彼のやり方はその第一歩からわが日本の明治維新とはかけ離れたものでした。なぜなら日本の場合は立憲君主制に基づく議会政治を確立したのに対し、光武帝はあくまで皇帝親政による絶対王政を目指したからです。(これでは完全に封建制ですね。全く何のために帝政に移行したのか意味が分かりません。)

さらに彼はもう一つの大きな失敗も犯してしまいます。それは財政、すなわち「お金」の事です。近代国家として生まれ変わるためには何と言ってもたくさんのお金がかかります。その財源を捻出するために彼は国民に増税を強いたのです。その結果どうなるかは目に見えています。ただでさえ貧苦にあえぐ朝鮮の民衆はさらなる増税に耐えかねて各地で反乱を引き起こし、改革どころではなくなってしまいます。これは完全に光武帝の失政でした。

そうして朝鮮、いや大韓帝国が一向に近代化出来ずにモタモタと年を重ねるうちに時代は20世紀を迎え、再び周辺で大きな戦争が勃発します。1904年(明治38年)の日露戦争です。この戦争で強敵ロシアを破った日本は、ロシアの南下を食い止める防波堤として、朝鮮半島を日本の支配下に置く事を列強諸国、とりわけイギリスとアメリカに認めさせる事に成功(その見返りとして、アメリカによるフィリピンの領有の承認、イギリスとは日英同盟を締結します。)

欧米列強の了解を取り付けた日本は、三度に及ぶ「日韓協約」を結ばせて大韓帝国の外交権を剥奪、さらに軍隊の解散と警察、司法までも日本に委任させます。つまり、外交、国防、司法、治安といった独立国家としての権利を全て韓国から奪い、日本の「保護国」としたのです。(この保護国というのは、主に外交権を他国に一任する国の事です。外交権がないのだから、その国はそれを一任した国の一部とみなされます。)

こうした一連の失敗により、光武帝は皇帝としての威信を失い、1907年(明治40年)大韓帝国首相であった李完用(り かんよう)らのグループによって退位に追い込まれ、息子である皇太子純宗に帝位を譲って「太上皇」(「だいじょうこう」 これは退位した皇帝の尊称です。わが日本の天皇家においても、かつて譲位あそばされた帝に対して「太上天皇」略して「上皇」とお呼びしていましたね。)となります。


img_17.jpg

上が譲位して光武太上皇となった高宗(左)と、その跡を継いで大韓帝国2代皇帝となった純宗(右)親子です。しかし、彼ら李王家の皇帝としての系譜は、もはや風前の灯でした。

Lee_Wan-yong_Portrait.jpg

そして上が、光武帝に譲位を迫った大韓帝国首相の李完用です。(1856~1926)彼は伊藤博文の推薦を受けて大韓帝国の首相に抜擢されたエリート政治家で、さらに日韓併合後には朝鮮総督府の要職に着き、その功によりわが日本政府から侯爵位を賜っています。(そのため彼は何度も暗殺者に襲撃され、また韓国独立後、その名は国賊として「売国奴」の代名詞となっています。しかし、彼は決して親日であったわけではなく、それが証拠に彼は日本語を一切学ばず、日本人との会話では英語で話していたそうです。また、当時から彼に対する同情者も数多くいて、近年の韓国では高宗と並んで歴史の流れに逆らえなかった哀れな人物としての冷静な評価が定着しつつあります。)

そしてついに1910年(明治43年)8月、大韓帝国はわが大日本帝国に併合されます。いわゆる日韓併合または韓国併合です。これにより大韓帝国はその成立からわずか13年で滅亡し、朝鮮半島は1945年(昭和20年)のわが国の敗戦まで35年余り、日本領となるのです。

日韓併合後、高宗と李王家の人々は日本の皇族に準ずる王公族とされ、それぞれ日本流の長い命名による王公名で呼ばれて京城(けいじょう)と改名された旧漢城の李王家の離宮でその命脈を保ちます。そして1919年(大正8年)1月、朝鮮最後の王高宗はその波乱に満ちた67年の生涯を閉じました。

ちなみに現在、旧李王家の末裔は、高宗のひ孫に当たる李源(り げん)氏が李家30代当主としてその系譜を繋いでいます。


277095_101656_4627.jpg

上が李家第30代当主にして朝鮮王家の王位請求者(もちろん名目上の話です。笑)の李源氏です。(1962~)彼は現在は現代グループの一企業に勤めるサラリーマンで、後継者として息子さんが2人いる様です。

さて、それでは清国の日清戦争後の状況はどんなものだったのでしょうか? これについては、戦争に敗れた清国が日本に多額の賠償金を課され、その支払いのために欧米列強諸国から莫大な債務を負ってしまった事は以前にもお話したと思いますが、これにより大清帝国は、借金したそれらの国々になりふり構わず国土を租借させ、もはや帝国などとは名ばかりの半植民地に成り下がってしまいました。

20130731072440b37.gif

上が日清戦争後の清国の状況です。清王朝がかろうじて直接統治していたのは、都である北京周辺の中部地域のみでした。

この帝国の状況を最も嘆いていたのが、時の皇帝光緒帝(こうしょてい)です。彼は全ての責任はこれまで清帝国の事実上の「宰相」として辣腕を振るってきた北洋大臣の李鴻章(り こうしょう)にあるとして彼を罷免し、代わって改革派の側近たちを重用して新体制により帝国の建て直しと勢力挽回を図ろうと動き出します。


200612414138.jpg

上が大清帝国第11代皇帝の光緒帝です。(1871~1908)彼は伯母の西大后がその権力維持のために、わずか3歳で即位した典型的な傀儡皇帝でしたが、成長するに連れて「院政」を敷く伯母からの離脱と、自らの親政による新たな国づくりを願う様になります。

李鴻章

そして上が光緒帝に罷免された前北洋大臣 李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴については、これまで何度かお話してきたので今回は省きますが、当時の清王朝最大の実力者である点は、皇帝から罷免されても変わりませんでした。

光緒帝は、自ら登用した改革派の側近たちと図り、日清戦争敗北から3年後の1898年(明治30年)に、思い切った新体制への移行を実現しようとします。それはわが日本の明治維新を参考に、立憲君主制の近代国家を造ろうというもので、これを戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう 「戊戌」とは干支の事で、この年がそうだったからです。)といいます。

光緒帝は側近たちにこう言い放ちます。

「西欧諸国が500年かかって成した事を、日本は20年余りで成し終えた。日本に出来た事ならばわが国にも出来ぬ事はない。我が国土は日本の10倍以上あり、明治維新に倣えば3年にして大略成り、5年にして条理を備え、8年にして効果を上げ、10年にして覇業を達成するのだ。」

この時、まだ27歳の若い皇帝はどれだけ期待に胸を膨らませていた事でしょう。しかし、それはあまりにも事を急ぎ過ぎた無茶なものでした。とりわけ、これまで清王朝を支え、賄賂の横行と肥大化により腐敗した旧体制の官僚たちは、新体制への移行に伴いその多くが切捨て(つまりリストラですね。)される事になり、大きな危機感を持つ様になります。彼らは同じくそんな皇帝の計画を快く思わないある人物を担ぎ上げ、「抵抗勢力」としてその前に大きく立ちはだかります。その人物とは、誰あろう皇帝の伯母 西太后です。


b8aeed96b908182cb84e05.jpg

上がその西太后です。(1835~1908)悪名高い彼女の経歴についても、以前お話したので省略しますが、皇帝にとって生涯最大の敵は、この怖い伯母さん(失敬。笑)だったのではないでしょうか?

西太后は、清王朝と帝国そのものが、自分のために存在する「私物」であると思っていました。しかし、女性である彼女は「皇帝」になる事は出来ません。(そう、清王朝に限らず、中国歴代王朝では皇帝は男性だけであり、ただ一人として女帝というものは存在しませんでした。)そこで彼女は、清王朝の皇帝家である愛新覚羅家(あいしんかくらけ)の皇族から、自分に血筋が最も近く、さらにまだ何も分からない幼児を傀儡として皇帝に据え、その後見人として帝国の全権を握る「間接統治」で権力を欲しいままにしてきたのです。彼女はこれまで通り自らが影で実権を握り続ける事を望んでいました。

西太后ら保守派グループは、皇帝ら改革派グループに対してクーデターを起こし、この戊戌の変法を潰してしまいます。(この時の光緒帝の失望はどれほど深いものだった事でしょう。若者の夢を老人が潰した典型ですね。)結局、帝国の実権はその後も西太后が握り続け、光緒帝は終始その傀儡から脱する事は出来ませんでした。

こうして清国が内向きの障害により一向に近代国家へと改革出来ないまま時は流れます。やがて起きた1900年(明治33年)の義和団の乱の勃発、これは義和団と呼ばれる宗教集団が外国勢力に対して引き起こした反乱でしたが、これに目を付けた西太后は、この義和団を利用して外国勢力を追い出そうと彼らに味方します。これに対して日本と欧米各国は、この反乱鎮圧と自国のそれぞれの権益の確保のために協調して連合軍を組織し、反乱を叩き潰してしまうのです。

またも敗れた清王朝の凋落はもはや目を覆うばかりでした。そして1908年(明治41年)10月、何も成し遂げられなかった哀れな皇帝光緒帝は、帝国の行く末を嘆き悲しみながら37歳の若さで謎の死を遂げます。(彼の死因については、近年中共が行った遺体の発掘調査と検死により、遺体の髪の毛から致死量をはるかに越える砒素が検出された事から、どうやら毒殺されたらしい事は明らかな様です。その犯人は不明ですが、言わずともそれが誰の命なのかは、皆さんも容易にご想像が付く事でしょう。)

その翌日、彼を生涯悩ませた伯母の西太后も亡くなり、清帝国の新しい皇帝には、彼女の指名によりまたも何も分からぬ3歳の幼児が12代皇帝として即位します。そう、彼こそは宣統帝(せんとうてい)皆さんもご存知の「ラストエンペラー」溥儀(ふぎ)です。


10295423_971142.jpg

上が大清帝国第12代皇帝として即位したまだ3歳頃のラストエンペラー溥儀です。(1906~1967)この幼い男の子に待ち受けるその後の波乱に満ちた人生を、一体誰が想像出来たでしょうか?

度重なる外国との戦争に敗れ続け、国内は乱れ放題、中国の人心はとうの昔に腐敗しきった清王朝に対して微塵の期待も敬愛も抱いてはいませんでした。そもそも清王朝自体が中国を征服して成立した征服王朝なのです。もはや清王朝の命脈が潰えるのは時間の問題でした。そしてついに1911年(明治44年)10月、その時は訪れます。辛亥革命(しんがいかくめい 「辛亥」とはこれも干支です。)の勃発です。翌1912年1月1日、革命家孫文(そんぶん)を大総統とする共和制の中華民国が成立、1644年の成立以来12代268年続いた清王朝はついに滅亡するのです。

だいぶ駆け足で、朝鮮国と清国、二つの国の日清戦争後の行く末をお話しました。この二つの国はそれぞれの置かれた状況を憂い、このままでは「国が滅びる」との危機感(というより恐怖感)から、最後の力を振り絞って懸命に生き残ろうとしました。そして、その目指す模範としたのが、わが日本すなわち大日本帝国でした。そう、彼らは日本の様な立憲君主制の近代国家になろうと必至にもがいたのです。

しかしその結果、前者は大日本帝国の一部に併合され、後者は帝国とは全く正反対の完全共和制国家となり、二つの帝国は共にほぼ同じ時期に滅亡してしまいます。結局彼らは日本の様になる事は出来ませんでした。そして、この二つの国を外的に滅ぼしたのは、誰あろう彼らがその目指すべき模範としたわが大日本帝国であったのです。

次回に続きます。
スポンサーサイト

日清戦争16 ・ 王妃殺人事件 あの女狐を抹殺せよ

みなさんこんにちは。

この日清戦争についてのお話も、いよいよ終わりに近づいてきました。すでに戦争そのものは、わが日本の勝利で幕を閉じた事はこれまでにお話してきましたが、今回はその日清戦争開戦のきっかけである朝鮮国の「ある一族」が、不和と内紛、そして謀略によって滅んでいく最初の発端となった事件を、日清戦争の番外編という形でご紹介したいと思います。それは「朝鮮王妃殺人事件」です。

事の起こりは日清戦争からさかのぼる事30年近く前の1866年(慶応2年 日本では明治維新の2年前です。)に始まります。この頃朝鮮国は、1392年に前王朝高麗を滅ぼして成立した李王朝の支配する王国であり、この時国王であったのは高宗(こうそう)という王でした。しかし、彼はまだ14歳の少年であり、当然国政など出来るはずがありません。そのため実際に朝鮮国の国政を担っていたのは、その高宗の父親である興宣大院君(こうせんだいいんくん)という人でした。

この年、朝鮮の宮廷に一人の少女が王の妃として入ります。その名は閔玆暎(びん ちゃよん)彼女はその出身一族の名字から、その後閔妃(びんひ)と呼ばれる様になります。


8728331.jpg

上が若い朝鮮国王夫妻です。(注)閔妃の写真についてはいくつかあり、その中の一枚を上にお載せしましたが、彼女は後述する様に謀略により抹殺され、写真なども証拠隠滅のために失われてしまったので、上の女性が閔妃のものであるかは不明です。あくまで「伝 閔妃」としてご覧になってください。

朝鮮国王高宗(1852~1919)は李王朝朝鮮国26代国王で、同時に最後の王でもあります。しかし、彼は性格的に優柔不断で気が弱く、君主としては明らかに不向きでした。それに対し、王妃の閔妃(1851~1895)は夫とは全く正反対の性格で、意志が強く、さらにそれ以上に強い権力欲を持っていました。彼女は頼りない夫に代わって自らが朝鮮国の実権を握る「女王」になる事を狙って行動を開始します。

この閔妃は、もともと高宗の父である興宣大院君が、高宗の先代の王の外戚として勢力を振るっていた金家(この名字、朝鮮ではうんざりするほどとても多いですね。呆)を宮廷から追い出すために、さほど力のない地方の中クラスの家柄だった閔家の娘を息子の妃に選んだのですが、この選択は彼の生涯最大の過ちでした。先に述べた様に、この嫁は大変な権力欲を抱いており、やがて舅(「しゅうと」つまり義理の父ですね。)である興宣大院君を悩ます強敵となり、彼はそれから20年以上に亘ってこの嫁との権力闘争に明け暮れる事になるのです。


img_200.jpg

上が問題のお二人です。以上が今回お話する当時の李王家の人々ですが、それにしてもこの王家、とにかく仲の悪い家族なのです。特に上の二人は、後に熾烈な権力争いを繰り広げる「仇敵」となります。といっても、実は彼らも最初から仲が悪かったわけではありませんでした。

もともと閔妃を王妃に据えたのは、摂政として国政を担っていた右の興宣大院君(1820~1898)であり、彼のおかげで国王の妃になれた訳ですから、閔妃にとっては大恩人なのです。しかし、彼女の結婚生活は決して幸せなものではありませんでした。なぜなら夫の国王高宗は側室が何人もおり、正妻である王妃の閔妃には愛情を持たなかったからです。(父親が勝手に決めた好きでもない女性と政略結婚させられたのですから無理もありませんね。しかし、これは父の興宣大院君に対する彼なりのささやかな反抗だったのかも知れません。)

その上、彼女を王妃に据えた興宣大院君自身も、閔妃を相手にしていませんでした。なぜなら彼は、先に述べた金家一族を宮廷から追い出したかっただけであり、彼にとって閔妃はそのための「道具」に過ぎなかったからです。国の実権は大院君が全て握っており、国王夫妻の生活(特に宮廷予算、つまりお金の事ですね)も大院君に支配され、これが、彼女には我慢がなりませんでした。そうして年を重ねていくうちに、閔妃は次第に義理の父を自分の前に立ちはだかる邪魔者として憎む様になっていくのです。


00300.jpg

上は当時の朝鮮王宮の正門の様子です。王宮は立派ですが、一歩外を出ればご覧の様に粗末で汚いわらぶきの家々(家とはいえない「小屋」ですね。)が並んでいます。当時の朝鮮の人々の貧しさが分かりますね。

1873年、国王高宗が成人しました。もう未成年だからという理由で王の父である大院君が摂政として君臨する大儀はありません。そこで閔妃は夫の高宗に働きかけ、大院君を隠居させてしまいます。それだけでなく彼女は大院君の側近らを全て宮廷から追放し、自らの実家である閔家一族30人以上を高官に採り立てて一気に朝鮮国の実権を握るのです。

そして彼女は、1874年に夫高宗との間に生まれた王子(後に純宗という名で皇太子となります。)を次の王位継承者にするため、朝鮮国の宗主国である清国からそれを認めてもらう事にも成功します(もちろん裏で多額の賄賂を清の高官たちにばらまいたのです。)

さらに彼女は、夫の高宗が手を付けた側室らも追放、特に王との間に子を産んだ側室をその子ともども暗殺してしまうのです。この様に自身を脅かす恐れのある者を次々と徹底的に粛清していく王妃のやり方に、夫の国王高宗はただ恐れるばかりで何も出来ず、妻の指図に盲目的に従うだけでした。

foulkletters9a.jpg

上が朝鮮国王の高宗です。しかし、彼は閔妃と大院君の争いにただただ翻弄される無力な存在でした。(彼の表情を見て下さい。妻と父の板ばさみでかなりお疲れの様子です。)

名実共に朝鮮国の実権を握った閔妃とその一族は、わが世の春を謳歌します。特に国庫のお金を自由に使える様になった閔妃は、怪しげな占いや呪術に夢中になり(女性はこういうものが大好きですね。これは万国共通の様です。苦笑)国庫の数倍もの多額のお金をこれらに浪費、高官たちは閔妃に採り立ててもらうために競って贈収賄に走り、また宮廷を牛耳る閔家一族も、庶民が苦しい生活をしている中、俳優や歌手を宮中に招き、毎晩遅くまで豪華な宴を催して遊興三昧に耽り、起床はいつも午後で、宮廷は絵に描いた様な退廃と腐敗が蔓延していたそうです。

しかし、これを快く思わない存在がいました。誰あろう王の父興宣大院君です。

「あの小娘が! 誰のおかげで王妃になれたと思っておるか! このままあの女の好きな様にはさせておかんぞ。」

それから大院君と閔妃の20年以上続く長い権力争いが続きます。両者の争いは苛烈を極め、暗殺、処刑は言うに及ばず、クーデター、果ては宮殿の爆破まで実行されるのです。そうした彼らの権力闘争はわが日本と清国をも巻き込み、それが今回の日清戦争へと発展する大きな原因となったのでした。

さて、そうして時が流れて1895年(明治28年)4月、日清戦争は日本の大勝利に終わりました。それはこれまでお話してきた通りです。ではその頃、問題の李王家の人々はどうしていたのでしょうか?

実は、この時点に至るも閔妃と大院君の争いはまだ続いていました。そしてこの時点において優勢だったのは大院君側です。彼は日清戦争に勝った日本の後ろ盾を得て、今度こそ閔妃を追い詰めようと画策していました。もちろん閔妃の方もそれは百も承知です。しかし、これまで常に清国の力に頼ってきた彼女はこの時大きく不利でした。

「見ているがいいあの老いぼれめ。この国は私のものよ。誰にも邪魔はさせないわ。」

それでも彼女は諦めません。したたかな彼女は、頼りにならなくなった清国に代えて、なんと今度はロシアに接近し、ロシアの力を利用して巻き返しを図ろうと狙っていたのです。そしてすぐに彼女は動き出します。閔妃はロシア公使と密約を交わし、同年7月、ロシア公使と公使館警備のロシア軍部隊を使ってクーデターを起こし、首都漢城の宮廷を襲って大院君の後ろ盾である日本の傀儡政権を倒したのです。

このクーデターは直ちに日本政府の知る所となります。しかし、今回は日本政府もすぐには対応出来ませんでした。なぜなら閔妃の背後にはあの大国ロシアがいるのです。先の三国干渉でロシアの圧力に事実上屈服させられた日本としては、手が出せない状況でした。

そこで日本政府はある人物を特命全権公使として朝鮮国に送り込みます。その名は三浦梧楼(みうら ごろう)彼に与えられた任務は、情報の収集と今後の朝鮮へのロシアの影響を本国に報告し、それを元に、あくまで外交的に状況を日本側に有利な方向へ戻す事でした。


Goro_Miura.jpg

上が新任の在朝鮮日本公使 三浦梧楼氏です。(1847~1926)彼は長州出身の元陸軍軍人で、幕末の動乱や萩の乱、西南戦争といった明治前期の国内反乱の鎮圧で名を挙げたやり手の将軍で、陸軍中将にまで昇進し、子爵位を賜りますが、同郷の山縣有朋と若い頃から仲が悪く、事ある毎に対立したために中央から左遷され、予備役に廻された異色の経歴の人物です。今回の公使任命も、彼を国内から遠ざけたいという山縣の意向が大きく反映された結果ですが、その選択が今回の重大事件を引き起こす事になります。

しかし、彼を朝鮮公使に任命した事は大きな過ちでした。彼は日本政府が考えていた外交的解決とは全く対極的な過激なやり方で、情勢を日本に有利な形にしようと目論んだのです。それはなんと「閔妃の暗殺」です。

「過去20年に及ぶ日清朝三国の間に横たわる問題は閔妃に始まる。つまり全ての諸悪の根源はあの王妃なのだ。このままあの王妃を生かしておいてはわが国はロシアの脅威にさらされる事になろう。それを絶つためにもあの女にはこの世から消えてもらわねばならん。あの女狐を抹殺せよ。」

彼は王妃に対してもはや「あの女」と呼び捨て、果ては「女狐」とまで形容して彼女の暗殺計画を練るのです。そう、彼は今は公使という肩書きですが、もともと生涯戦い続けてきた生粋の軍人であり、外交官ではないのです。そんな彼にとって、閔妃は古来国という国を渡り歩いてその国の君主をたぶらかし、その国を滅ぼしてまた別の国へと乗り移る伝説の妖怪「九尾の狐」にしか見えなかったのでしょう。

1895年(明治28年)10月8日深夜、彼は計画を実行に移します。三浦公使の命を受けた日本公使館警備の日本軍守備隊と、彼が極秘に集めた日本人壮士たち(彼らは別名「大陸浪人」と呼ばれ、その多くがかつて明治初期の日本国内の反乱で国内を追われた旧士族たちでした。彼らの思想は過激な超国家主義であり、ひとえに日本の帝国としての膨張拡大、やがて全アジアを日本の主導の下にまとめて西欧列強に対抗する後の「大東亜共栄圏」へと発展していくのです。そのために積極的に日本軍に協力して通訳や諜報、後方攪乱、特務工作などに従事した放し飼いの「特務機関員」でした。)20名以上が、あらかじめ買収しておいた朝鮮の王宮警備の親衛隊の手引きで首都漢城の王宮を急襲したのです。


200408_img_3.jpg

上がその時の様子を描いた絵です。日本軍守備隊は王宮全域を占拠し、実際に閔妃を襲撃した実行犯は三浦公使配下の大陸浪人たちでした。上の絵では襲撃する日本人壮士らは侍の格好で描かれていますが、襲撃現場に遭遇した人々の証言では、実際に彼らはこれに近い装束で、手に手に日本刀で武装して閔妃を殺害した様です。

寝込みを襲われた閔妃は惨殺され、その遺体は証拠隠滅のために石油をかけて焼却されてしまいます。その最後はとてもあっけない、それでいて凄惨なものでした。

さて、この事件に慌てたのが本国の日本政府です。またも日本政府を悩ませる事件が発生し、しかもそれが朝鮮公使自らの主導で行われた謀略であったからです。すでに事件は朝鮮在住の欧米ジャーナリストによって欧米諸国に伝えられ、特に閔妃とつながっていたロシアの今後の出方も予想が着きません。とりあえず日本政府は三浦公使を解任して、今度は生粋の外交官である小村寿太郎外務省政務局長を後任の朝鮮公使に任命、三浦以下今回の事件に関わった軍人、壮士ら48名が謀殺罪で起訴され、広島監獄に収監されますが、その後の裁判で証拠不十分により結局釈放され、事件の真相は謎に包まれたままうやむやになってしまいます。

さて、この事件でまたもひそやかな笑みを浮かべていた人物がいました。閔妃と長く争ってきた興宣大院君です。

「ついにやった。あの女を始末してやったぞ。わしはあの女に勝ったのだ。これでこの国は再びわしのものじゃ。」

しかし、事態は彼の思う様には進みませんでした。そう、彼はこの時すでに75歳の老齢で体調を崩しがち、死期が迫っていたからです。その上彼の息子である国王高宗も、この頃には40代の成熟した大人に成長していました。高宗はあれほど恐れていた妻が死に、年老いた父の命も長くは無い事を見越し、今度こそ朝鮮国王として自分が朝鮮国の真の支配者になろうとこの時初めて決心し、父への対抗を公然と決意しました。

「何もかも、全ては父上の所業から始まった。もうあなたにこの国を好きな様にはさせない。」

高宗は父大院君を李王家の離宮の一つに幽閉させ、今度は安全なロシア公使館に居を移してそこで政務を執り行う事にしたのです。そこで興宣大院君は3年後の1898年、78歳で失意の内に亡くなります。しかし、その葬儀に息子高宗は一切出席しませんでした。

1897年10月、長い間悩まされ続けて来た妻と父の争いの呪縛から解放され、ようやく自由になった高宗は、今度こそ自分が思い描いてきた理想の近代国家を作り出すべく動き出します。彼は新しい理想の国家として、隣のわが大日本帝国に倣い、国号を「朝鮮」から「大韓帝国」と改め、自らその初代皇帝に即位したのです。


Gojong_of_the_Korean_Empire_01.jpg

上が国王から皇帝に即位した時の高宗です。古い装束を脱ぎ捨て、近代国家の君主にふさわしい大礼服に身を包んでいます。これ以後彼は「高宗光武帝」と呼ばれる事になります

しかし、彼が目指した理想の国は、その模範とされた国にとって許すべからざるものでした。その模範となる国とは誰あろうわが大日本帝国です。そしてこの哀れな王様が夢見た理想の国は、短くも儚い運命で終わる事になるのです。

次回に続きます。
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR