日清戦争最終回 ・軍事帝国日本の誕生

みなさんこんにちは。

いよいよこの日清戦争のお話も今回が最終回となりました。前回は、その日清戦争終結後における朝鮮国と清国の行く末をお話しましたが、今回はわが日本が今次戦争において得た物理的な利益と損害の程度、さらにこの戦争において日本が投じた戦費その他を多面的にご紹介して、このテーマの結びとしたいと思います。

これまでも述べて来た様に、日本は今次戦争に大勝利を収めました。この戦争におけるわが国の動員兵力は、陸軍が当時の日本陸軍の全兵力である7個師団を総動員し、平時兵力6万5千程度であったものが、開戦による緊急動員でなんと24万600名に膨れ上がりました。それ以外に、物資の補給と運搬のために「軍属」として雇用された荷物運びの軍夫(ぐんぷ)およそ15万4千名含めると、この戦争における軍人軍属は総勢40万近くに達します。そのうち、戦争による純粋な陸軍の損害は、戦死者約1万3300名、負傷者約3800名にのぼりました。

しかし、戦死者の全てが戦闘によるものではなく、純粋な戦闘におけるわが将兵の戦死者はおよそ1400名余りでした。つまり、残りの死者は戦病死であったのです。そして、その死亡原因のトップは、大陸に派遣された将兵においては脚気(かっけ)であり、台湾平定作戦においては亜熱帯の気候から、赤痢、マラリア、コレラなどの伝染病であったそうです。(軍属である軍夫の損害は、これらの病気の蔓延により、およそ7千名が死亡したとされ、それを含めると、わが軍の死者は2万を超えます。)

では、相手側の清軍の損害はどの程度のものだったのでしょうか? 残念ながらこれについては信頼出来る統計がありません。理由としては清国が専制君主国家であり、その政府も近代国家の政府とはほど遠く、さらに軍に至っては、各地方の有力者の私兵集団であり、指揮統率も詳細な管理把握も困難であったからです。それでも、断片的な記録を総合して、およそ3万~3万5千程度の清兵が戦死、戦病死したものと推定されています。

ここで余談になりますが、マラリアは蚊に刺された事による高熱、コレラや赤痢はいずれも細菌が腸を侵し、猛烈な下痢によって死に至るものであるのはみなさんも一般知識としてご存知でしょう。しかし、脚気については意外に知られていないと思うので、ここで簡単にご説明しておきます。

脚気とは、ビタミンB1が欠乏する事で、全身の倦怠感(つまり、体がだるい。自分もしょっちゅうだるいのですが、生来ぼーっとしてだらしないのが原因で脚気ではありません。笑)などの様々な異常が引き起こされる病気で、 主な症状は全身の倦怠感の他に、食欲不振が発生し、やがて足がしびれたり、むくみが目立つ様になります。 その他、動機、息切れも起きる様になり、 症状が進めば手足の力が入りにくくなり、さらに重症になると心不全に至る事もあるという怖い病気です。

この脚気というものは、偏った食事が最大の原因で、かつて貧しかったわが国の人々が、国内で唯一自給出来た主食、つまり白米ばかり食べていて、肉や魚、野菜といったおかずを副食としてバランス良く取れなかった事から、私たち日本人の祖先が有史以来悩まされてきた病気です。この日清戦争においても、大陸に派遣されたわが陸軍将兵は、限られた食糧のうち、白米ばかりを食べざるを得ず、その結果この脚気が大流行してしまったそうです。


tp08_ph02.gif

その点、イギリス海軍を模範とした海軍においては、上のイラストの様に米ではなくパンと洋食が食事の中心であったため、陸軍の様に脚気が艦隊乗組員に蔓延する事は少なかったそうです。

さて、話を日清戦争後のわが国の状況に戻しますが、この戦争の勝利は、わが国にいくつもの大きな利益をもたらしました。これを列挙すれば、軍事賠償金、台湾の獲得、欧米列強諸国との不平等条約改正の促進などです。その中で最も注目すべきなのは、なんといっても清国からの賠償金でしょう。

この賠償金は、総額2億3千万両(テール)日本円にしておよそ3億5700万円(さらに日本はこれを手堅く国際金融市場で運用し、その利益が800万円以上発生したので、実際は3億6500万円ほどになります。)で、当時の日本の国家予算(約8500万円程度、ちなみに当時の日本の国内総生産、いわゆるGDPは、およそ13億4千万円であったそうです。)の4倍以上という巨額なものであった事は以前にもお話しましたが、では、当時のわが国はこの大金を一体何に使ったのでしょうか?


p0770.jpg

それについては上のグラフをご覧ください。実に84%以上が臨時軍事費と軍備拡張費に使われています。そのうち、後者の軍備拡張費についてですが、これはすでに大きな脅威となっていたロシアの南下に備えるために、陸海軍が政府に要求した結果で、その内訳は陸軍が5700万円、海軍が1億3900万円になります。

このお金で、陸軍は7年以内にそれまでの7個師団(常備兵力およそ7万)から13個師団(同じく13万)へとほぼ2倍に増強、それとは別に、独立部隊として騎兵2個旅団、砲兵2個旅団(旧日本陸軍の編成では2個旅団で1個師団ですから、事実上この時増強されたのは、先の6個師団とこの独立部隊4個旅団を合わせて8個師団になりますね。)を新たに新設し、海軍は1万5千トン級の大型戦艦6隻、それに次ぐ1万トン級の大型巡洋艦6隻を主力とし、その他大小合わせて100隻の艦艇を10年で建造する「六六艦隊」計画という大建造計画を立てます。

154b13dc21330ae5cac86e097b2fae80.jpg

上はこの六六艦隊計画で建造された新型戦艦敷島(しきしま)型の4番艦「三笠」(みかさ)です。全長132メートル、排水量1万5千トン、主砲として30センチ連装砲2基を備える当時世界最大の最新鋭戦艦で、後の日露戦争における日本海海戦で、日本連合艦隊旗艦となり、東郷平八郎大将指揮の下で、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに壊滅させた栄光ある戦艦ですね。しかし、この戦艦を含め、この時建造された新型艦のほぼ全てが、イギリスに注文して造ってもらった外国製でした。(理由は単純です。この頃の日本はまだ自前で軍艦を造る技術が未熟で、そもそも鋼鉄を造る大規模な製鉄所すら国内には無かったからです。)

また、前者の臨時軍事費についてですが、これは戦争遂行に必要な戦費(武器、弾薬、食糧の他、将兵や軍夫に支払う給料などの人件費、将兵の軍服代その他)の事で、およそ8000万円になります。といっても、誤解してはならないのが、この金額が日清戦争における戦費の全てではないという事です。

では、この戦争ではどれだけの戦費がかかったのでしょうか? それについてははっきりした数字があり、およそ2億円余りであったそうです。これは、当時のわが国の国家予算の2.3倍という巨額なものですが、戦争というものはいつ終わるか、どれだけのお金がかかるか分かりませんから、通常の国家予算の一般会計の様に単年度方式の予算編成は出来ません。そこで「臨時軍事費特別会計」という国家予算とは別の予算を組みます。

その臨時軍事費特別会計で、戦争期間中にかかるお金の処理をするわけですが、もちろんこれだけの大金を一度で捻出したのではありません。当時のわが国は、国庫の剰余金(つまり国の貯金ですね。)が2500万円ほどしかなく、この程度では到底足りません。そこで当然足りない分は公債(つまり国債)を発行して賄うのですが、そのやり方は国民の愛国心に訴え、かなり強制的に公債を買わせる強引なものであったそうです。これには財界から

「国の景気が悪くなるので、欧米諸国に公債を発行すべきだ。」

との声が盛んに上がったのですが、時の大蔵大臣 渡辺国武(わたなべ くにたけ)氏は、断固として国内公債にこだわり、なんとかやりくりしたそうです。


Kunitake_Watanabe.jpg

上が日清戦争時の大蔵大臣 渡辺国武氏です。(1846~1919)彼は長野県の諏訪出身で、その卓越した財務企画力を買われ、薩摩、長州の二大派閥出身者が要職の大半を占めていた当時の政府内では珍しく、それ以外の出身にも拘らず大蔵大臣にまで登り詰めたたたき上げの人物です。(いかにも意志の強い頑固一徹そうな方ですね。笑)後に子爵位を賜っています。

彼が国内公債にこだわった理由は、欧米諸国に公債を発行する(つまり、欧米に借金するという事です。)のは、欧米に対して弱みになる事、また、戦争がいつまで続くか分からないのに、当時の貧しい日本の国家財政で欧米向けに公債を発行すれば、償還期限までに支払えるかどうか分からず、もし支払えずに債務不履行(いわゆるデフォルトですね。)になれば、欧米諸国にどんな要求を突きつけられるか分からず大変危険であるという理由でした。その点国内公債ならば、戦費が足りなくなっても戦争が続いている間はまた何度でも発行して、その償還期限が来ても、国の都合でそれをいくらでも引き伸ばし、事実上国民から「タダ」同然で戦費を調達出来るからです。

そこで先ほどの賠償金の使い道の中にあった臨時軍事費の話に戻りますが、先に述べた様に賠償金の6割以上が軍の要求で軍備増強に費やす事になりました。これはロシアとの来るべき戦争に備える事と、富国強兵をスローガンとする明治日本としてはやむを得ない事だったのですが、「強兵」ばかり優先しても「富国」が伴わなくては意味がありません。

当然、そのために残りのお金を「富国」のための費用、つまり今だ手を付けられずにいた様々な分野のインフラ整備と、国民に償還しなくてはならない公債金に分けて使う事になったのですが、賠償金の総額3億6500万円のうち、これらに廻せるお金はおよそ37%の1億3500万円余りです。これをそれらに出来るだけ均等に配分した結果、日清戦争において実際にかかった戦費2億円のうち、およそ8000万円を臨時軍事費として特別会計に繰り入れたのです。これにより、臨時軍事費特別会計の歳入は、軍事公債として国民から集めた約1億1700万円、賠償金からの充当約8000万円、国庫剰余金2500万円その他を含めて2億3千万円余りになり、実際にかかった戦費2億円を差し引いても3千万円ほど余ったそうです。(もちろん、この余ったお金は公債の償還などに使われます。)

話が、ややこしい会計処理の説明になってしまったので、これはこの辺で終わりにして、その他の賠償金の使い道についてお話しましょう。上のグラフをご覧になれば分かりますが、軍事費に次いで多いのが皇室財産への編入です。およそ2千万円が天皇家に献上されています。皇室財産は当時御料(ごりょう)と呼ばれ、天皇のおわす皇居宮殿(当時は「宮城」とお呼びしていました。)や、御所、天皇家ゆかりの古くからの離宮、別荘に当たる御用邸、数多くの森林(御料林)からなる御料地(つまり不動産)と、日本銀行や日本郵船などの当時の大企業の株式や債券などの有価証券、預貯金その他の金融資産から成りますが、それに加えて今回献上されたお金で、天皇家は日本一の資産家になりました。(その後、わが天皇家は日本帝国の躍進に歩調を合わせ、その金融資産の評価額がうなぎ登りに上がり、大正時代にはイギリス王家やロシア帝国のロマノフ皇帝家と並ぶ、世界屈指の財を誇る王家としてその名を知られる様になります。驚)

その他の使い道では、教育関係と、災害準備費用が並びます。前者は言わずと知れた学校建設費用で、当時の日本は毎年およそ100万人近い規模で人口が増え続けていたそうです。これは富国強兵の政策に伴い、「産めよ増やせよ」と多産を奨励した結果、子供の数が急激に増えたためです。彼ら日本帝国の未来を担う子供たちに、初等教育の充実を図るため、全国各地に小学校が建てられていきました。

また、意外に多いのが後者の災害準備費用です。これはこの日清戦争があった明治20年代半ばから後半にかけて、全国で地震が頻発し、その被害が大きかったためです。(特に被害が大きかったのは、明治29年6月に発生した明治三陸沖地震で、津波により2万人以上が亡くなったそうです。記憶に新しいあの東日本大震災を髣髴とさせる大災害が、その110年前にも起きていたのですね。)


beead5ce.jpg

c9e69e9e.jpg

20110427033012.jpg

上の画像2枚はこの時の地震の被害の様子です。まさに、あの東日本大震災の爪跡と同じですね。そして3枚目は当時の人が、いずれまた起きるであろう地震と津波に備え、子孫のために残した警告文を刻んだ石碑です。

「ここより下には家を建てるな。」

しかし、この碑文を刻んだ石碑は長い年月の間に草に埋もれ、地震の記憶も人々から忘れ去られ、この警告が活かされる事はありませんでした。(涙)

さて、その他の賠償金の使い道で、良く歴史で教わったのが、あの九州の八幡製鉄所です。これは日本で事実上最初の大規模な国産製鉄所であり、それまで欧米列強諸国からの輸入に頼っていた鋼鉄を、日本国内で自前で生産するために必要不可欠なものでした。


pmasakondo31755.jpg

上が良く歴史の教科書で目にした八幡製鉄所の様子です。完成間近の溶鉱炉の前で、関係者の皆さんが記念撮影をしていますね。(ただし、製鉄所自体の建設費用は当時のお金で58万円だったそうで、賠償金の使い道としてはほんのわずかでした。)ここで作られた鉄は、後に全国の鉄道のレールや橋、軍艦、船などの鋼材として使われる様になります。この製鉄所は、後に日本全国で続々と建設されていく製鉄所のモデルとなり、そこで得た知識と経験、ノウハウが、その後のわが国の重工業の発展に大きく寄与していきます。

この八幡製鉄所の完成により、わが国はやっと国産の戦艦を造れる様になり、その後、先に述べた「六六艦隊」を凌ぐ「八八艦隊」(これは戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の計16隻を連合艦隊の主力とするというものでしたが、その後の第1次世界大戦の結果による世界的な軍縮と大戦後の深刻な不況による財政難で、この計画は中止となってしまいます。)を計画し、1920年代には英米に次ぐ世界第3位の勢力を誇る艦隊を擁する大海軍国となるのです。(この製鉄所は、今も新日鉄住金の重要な製鉄所として現在も稼動するバリバリの現役です。そして2015年に、これらが「明治日本の近代化産業遺産」として世界遺産に登録されたのは記憶に新しいですね。)

手に入れたばかりの新領土、台湾へのインフラ投資も、およそ1200万円が使われています。当時まだほとんど未開の地が多かったこの亜熱帯の島に、まずは上下水道、鉄道、学校、病院などが次々に建設され、台湾の住民に、大日本帝国臣民としての皇民化教育が施されていきます。

この戦争の勝利がわが国にもたらしたものは、こうした物理的なものばかりではありません。なんといっても東洋の大国、「眠れる獅子」と呼ばれて欧米諸国が潜在的な恐れを抱いていた大清帝国を、極東の最も端にある痩せた島国日本が打ち破ったのです。この事は、それまでの日本に対する欧米諸国の見方を大きく転換させる契機となります。その代表的な例が、明治政府がその成立から悲願としてきた欧米諸国との不平等条約の改正です。

この不平等条約は、旧江戸幕府がペリー来航以来欧米各国と結ばされたもので、特に欧米人が日本国内で犯罪を犯したとしても、日本側は一切手を出せず、欧米諸国の法に基づいて裁判を行ういわゆる「治外法権」や、欧米諸国からの輸入品に対して日本側が自由に関税をかけられないなどの二点は、日本が今後欧米諸国と相対していく上でどうしても撤廃しなければならない第一外交目標でした。

1894年(明治27年)7月、日清戦争開戦直前、日本政府はようやくイギリスとの間で「日英通商航海条約」を結ぶ事に成功します。これは、先に述べた「治外法権」の撤廃と、「関税自主権」の部分的回復を約したもので、これにより日本は開国以来の悲願を達成し、清国との開戦に踏み切ったといわれています。


Aoki_Shūzō

上がこの時条約を調印した日本側代表の駐英公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)氏です。(1844~1914)彼は長州出身で、若い頃は医者を目指してドイツに留学していましたが、当時の日本の留学生の専攻が軍事と医学に偏りすぎていると考え、途中から政治、経済学に転向した事から政治家への道に進む事になったきっかけでした。その後外務省に入り、その卓越した語学力と外交力で駐英、駐独公使を歴任し、さらに外務次官から外務大臣に登りつめ、一貫して不平等条約の改正に尽力した人物です。その功績により子爵位を賜っています。(すごいヒゲですね。笑 彼に限らずこの時代の人物は、明治天皇を筆頭に主だった政治家、軍人以下みなさんこの様に立派なヒゲを生やしています。しかし、これは決して当時の流行だったからではなく、権威と威厳を相手に見せつけ、言葉は悪いですが相手に「舐められない」様にするための「演出」効果でもあった様です。外交にはそんな事も必要だったのでしょう。)

mw138539.jpg

そして上がイギリス側代表の外務大臣ジョン・キンバリー伯爵です。(1826~1902)彼はヴィクトリア女王治世下における大英帝国絶頂期の政治家として、主に外交、植民地総督などの要職を歴任した筋金入りの典型的な「英国貴族」でした。

イギリス側が、日本との関係でこれまで治外法権を認めなかったのにはそれなりの理由があります。それは当時の日本にはまだ近代国家としてきちんとした法律(民法、商法、刑法などの基本的な法)が整備されておらず、そんな遅れた国に自国の国民を引き渡すのは危険だと思われたからです。(つい20年前までろくな取調べや裁判もなく、刀で斬首して「さらし首」にしていたのですから無理もありませんね。)しかし、その後ドイツに倣った大日本帝国憲法の発布や、フランス民法に倣った民法の編纂など、日本が着々と近代国家としての基礎を築いていくに連れ、次第に欧米諸国の日本に対するそうした見方も変わりつつありました。

さらに、イギリスが条約改正に応じたのにはもう一つの大きな理由があります。それはロシアのこれ以上のアジアへの南下を阻止し、イギリスがアジアに持っている広大な植民地や権益を保護するため、当時興隆期にあった日本に味方しておいた方がイギリスの国益のために良いという高度な戦略があったからです。(仮にロシアと戦争になっても、それで血を流すのは日本であり、イギリスは痛い思いをしないで済みます。つまり、そのための「道具」として日本を利用しようとしたのです。まさに大人のやり方ですね。今のわが日本政府も、これくらいのしたたかさでどこかの反日国や北方領土問題に当たってもらいたいものです。)

この条約の締結後、キンバリー外相は次の様に発言しています。

「日英間に対等条約が成立した事は、日本の国際的地位を向上させる上で、清国の大軍を撃破した事よりも重大な事になるだろう。」

彼の予見は見事でした。その後日本は、イギリス以外の欧米諸国14カ国とも不平等条約の撤廃に成功し、さらにイギリスとの間には、1902年(明治35年)に「日英同盟」を結び、両国関係は飛躍的に強化されます。そしてこの日英同盟が、その2年後の日露戦争で日本がロシアに勝利出来た大きな力となった事は、歴史好きな方であれば良くご存知の事と思います。

この日清戦争は、単純に言えばわが国にとってとても「儲かった」戦争でした。それはこれまで上でお話した賠償金のくだりでもお分かりの通りです。そしてその勝利により、日本は13個師団と4個独立旅団(合わせて常備兵力およそ15万)を基幹戦力とする精強な陸軍と、6隻の最新鋭戦艦を主力とするおよそ30隻以上の常備艦隊からなる強力な海軍を造り上げ、それまで貧弱だった軍事力は飛躍的に大きくなりました。

さらに、後段で述べた様に、わが国はその国際的地位を向上させ、欧米諸国から「近代国家」の末座に加えてもらう事を一応認めてもらった事も見逃せないでしょう。

それは当時の国際情勢、歴史では良く「帝国主義」と教えられたこの時代では必然的な成り行きでしたが、それは同時にわが国の中に、大きな心境の変化をもたらす事にもなります。なぜなら、これに味をしめた日本はそれから次々と対外戦争に積極的になり、領土の拡大、軍事的膨張の道を突き進んでいく事になるからです。

「朝鮮を従え、清国も破った、もはやアジアではわが国が最も進んだ強国だ。次なる敵はロシアだがなんとか退けてみせる。」

そして日露戦争でそれを果たしたわが国は、その後の国家戦略を大きく転換させます。それまでの日本は、とにかく近代国家になる事が至上の第一目標でした。しかし、ここまで来てその目標はおおむね達成され、今度は次なる目標として、イギリスの様な世界に君臨する大帝国を建設するという大きな野望を抱き、その国策を練るのです。つまりこの時からわが国は、理性的な文明国から、対外進出を狙う野心的で危険な軍事帝国へと大きく変貌したといえるでしょう。

「イギリスもヨーロッパの最も端にある島国だ、地理的にはわが国と同じ条件にある。そして国内にこれといった資源がないのもわが国と同じだ。それゆえにイギリスは海外に進出してライバル国と戦争を繰り返し、植民地を広げて今日の大英帝国を築いたのではないか。そのイギリスに出来た事が同じ島国の日本に出来ないはずがない。ならばわれわれも、イギリスの様な帝国をアジアに築いて何が悪い。天皇を君主とするわが大日本帝国が全アジアの盟主となり、やがてはこれを一つにまとめてアジアに帝国を築き、アジアをわが大日本帝国のものにするのだ。」

そう、これはあの「大東亜共栄圏」構想のスローガンです。50年後にわが国が太平洋戦争で掲げた目標が、この時にすでにわが国の中に野心として芽吹いていたのです。そしてその結果がわが国を破滅に導いた事は、歴史好きな方でなくとも私たち日本国民の共通認識である事は言うまでもない事ですね。

18回に亘ってお送りしてきた「忘れられた戦争」ともいうべき日清戦争についてのお話はこれで終わりにしたいと思いますが、いかがだったでしょうか? しかし、この戦争は上で述べた様に、その後の日本の進む方向を位置付けた最初の出来事であり、決して忘れ去ってはいけないものであると思います。縁あって自分の駄文を読んで頂いた方や、ご興味を持たれた方などの暇つぶしにして頂ければ自分としては幸いです。(最近更新が遅くてすみません。無い知恵を絞って文章推敲しつつ、画像などもなるべくいいものを探しながら書いてるとかなり時間がかかり、月に一、二回程度になってしまいます。汗)

次回からはまた新しいシリーズのテーマを書こうと思っているので、ご興味を持たれた方はふらりと立ち寄って見てください。(笑)
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR