王妃への愛が生んだ空中庭園 ・ バビロン

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、エジプトと並ぶ人類最古の文明発祥の地である古代メソポタミアから「バビロン」をご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、この地域についてどの様なイメージをお持ちでしょうか? これは愚問だったかもしれませんが(笑)おそらく100%の方が「砂漠」と答えるでしょう。確かに、現在は気温50度にも達する猛烈な灼熱の砂漠地帯が広がっているのが事実です。しかし、古代メソポタミア文明が花開いた遠い昔、このあたりは今とは全く違う水と緑に溢れた豊かな土地だったのです。

それについてお話する上で欠かす事の出来ない大きな存在があります。それは古代メソポタミア文明を育んだ二つの大河、ティグリス川とユーフラテス川です。メソポタミアとは、ギリシャ語で「二つの川の間の土地」を意味しています。(この程度の事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いかもしれませんね。)


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上は今回の主役、バビロンを含むメソポタミアの主要地域です。

では、その二つの大河が生んだ古代メソポタミアの歴史は一体いつ頃から始まるのでしょうか? これについては現在までの発掘調査とその研究成果によって、このメソポタミアにおける最初の都市文明が興ったのは紀元前3500年頃(今から5500年ほど前)に、シュメール人が築いた都市国家ウルクに始まるとされています。

彼らシュメール人は、水路を作って人工的に川から水を農地に引き込む灌漑(かんがい)農業によって、食糧の安定供給を実現し、それが人口の増加と生活の安定につながり、やがて数十の都市国家群からなるメソポタミア文明が花開いた大きな理由でした。


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上の画像1枚目がユーフラテス川沿いの湿地帯を船で渡る現地の方々です。そう、これこそ数千年前の古代メソポタミアの原風景なのです。そして2枚目がティグリス川沿いで行われている灌漑農業の様子です。二つの川の上流から中流域では、この様に可能な範囲で川から水を引いて農地を潤しています。

この灌漑農業によって、古代メソポタミアは多くの作物が実る豊かな地になったのですが、その中で最も多く栽培されていた作物が「小麦」でした。人々の生きていく糧となるパンの原料として、小麦は欠かす事の出来ない一番大事な農産物だったからです。


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この小麦がこの地で多く栽培されたのにはもう一つ理由があります。実は意外に思われるかもしれませんが、小麦は乾燥した気候を好むのです。そのため、私たち日本人の主食である「米」の様に、収穫までの長い間多くの水がいらず、この地域の様に暑くて乾燥した地域でも、時折水を流してやる程度で十分育つのです。

この様に、かつては豊かな土地であった古代メソポタミアでは、シュメール以後もさまざまな民族、国家が興亡を繰り返していく事になります。今回お話するバビロンも、そうしてこの地に生まれた国家の一つ「バビロニア王国」の都として栄えた街でした。

古代メソポタミアでは、先に述べたシュメール人によって、すでに紀元前3500年頃には楔形文字が考案され、さまざまな記録に使用されていました。それはシュメール滅亡後も後継国家に受け継がれ、その記録によれば、バビロンは紀元前2300年頃には、地方都市として存在していた様です。それがメソポタミアの中心となるのは、紀元前1894年に成立したバビロニア王国(「バビロン第1王朝」または「古バビロニア王国」と呼ばれます。)の時代になってからです。

この古バビロニア王国は11代の王が君臨し、メソポタミアの主要地域を支配しておよそ300年続きましたが、前回お話したヒッタイト王国の侵攻によって紀元前1595年に滅亡してしまいます。しかし、バビロンの街そのものは、その後もメソポタミアの中心都市として揺らぐ事無く繁栄し続けるのです。


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上が当時のバビロンの繁栄ぶりを描いたイラストと、古い記録や発掘調査などから復元された全体像を上から見た図です。(人口は都市とその周辺を含めておよそ12~13万程度と推定されています。)このバビロンはユーフラテス川をまたぎ、縦2.5キロ、横3.5キロのほぼ長方形をしています。堅固な二重の城壁に囲まれ、さらにその外側にユーフラテス川の水を引き込んだ堀が都市を囲んでいます。街の真ん中をユーフラテス川が流れている事から、自然と上流、下流の両方を行き交う船の寄港地として、そしてそれによって運ばれてくる様々な物資をやりとりするために周辺から多くの人々が集まり、これがバビロンが栄えた大きな地理的要因でした。

このバビロンの「大人気ぶり」は、その支配者が交代しても変わる事はありませんでした。なぜなら古バビロニア王国が滅んだ後も、なんと9つの王朝がこの街を支配し、そのうち8つの王朝がここを都としたからです。(バビロンに都を置かなかったのは9つ目のアッシリア帝国でした。アッシリアはニネヴェという街を都とし、バビロンは帝国末期の100年余りを支配していましたが、経済文化の中心地としてのバビロンの地位は、アッシリア時代においても揺ぎ無いものでした。)

そのバビロンが、メソポタミア全域を支配する強力な統一国家の都として歴史に燦然と輝く日が再び巡ってきます。紀元前625年にアッシリア帝国のメソポタミア南部方面総督であったナボポラッサル将軍が、アッシリア王家の王位争いによる混乱に乗じて挙兵し、バビロンを占領して自らバビロニア王として即位したのです。彼が新たに興した王朝は「新バビロニア王国」と呼ばれ、バビロンはその都となります。


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上が新バビロニア王国を興したナボポラッサル王です。(?~紀元前605)これはいつもながら自分がネットで拾ったイラストで(汗)もちろん彼の肖像など残っていないのですが、王国の創始者として人々を従えさせる威厳と力強さに満ち溢れるたくましい人物だったのだろうと思います。(自分の勝手なイメージです。笑)

その後、ナボポラッサル王率いる新バビロニア王国は、領土拡大を狙ってメソポタミア北部へと侵攻を開始します。当時この地域には1400年以上に亘ってこの地を支配したアッシリア帝国がありましたが、度重なる王位争いと反乱によって帝国は大きく衰退していました。


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上がアッシリア帝国の最盛期の支配地域です。

しかし、かつてはメソポタミア全土を支配し、ヒッタイト滅亡後のアナトリアとエジプトまでも支配下に収めた強力な軍事力は今だ健在で、それゆえ堅実なナボポラッサル王はバビロニア単独での戦いを避け、東の隣国メディア王国と同盟を結び、さらに密かにアッシリア軍を率いる将軍たちでその待遇に不満を抱く者などに、味方になれば今よりも高い地位と莫大な報酬を約束して離反を促し(こういうのを「調略」と呼びます。)16年もの時間をかけて着実にアッシリアを追い詰めていきます。そしてついに紀元前609年、バビロニア・メディア連合軍はアッシリア帝国を滅亡させるのです。

こうしてメソポタミア北部をも手中に収めたナボポラッサル王は、さらにその先のシリア、パレスチナなどの地中海沿岸の領土も支配すべく軍を差し向けます。狙いは地中海沿岸部を支配する事で、東西の海洋交易路を確保する事です。しかし、その先には同じくこの地を狙うエジプト王国が待ち受けていました。バビロニアとエジプトはこの大きな利権を巡って戦争に突入しますが、勢いに乗るバビロニア軍はエジプト軍を破り、シリア、パレスチナはバビロニアの手に落ちます。新領土獲得にナボポラッサル王は大いに喜びますが、もはや老齢で体調を崩していた王は、紀元前605年に急病に倒れて亡くなってしまいます。その後を継いで2代国王となったのは、先王の長男ネブカドネザル2世という人でした。


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上がネブカドネザル2世(?~紀元前562年)の彫刻と、アッシリア滅亡後の国際情勢です。主に4つの大きな国に分かれていますね。そしてひときわ目立つのが最大の領域を支配するメディア王国の存在です。この国は上の図にもある通り、新バビロニアより90年ほど早く成立し、現在のトルコ東部からイラン、アフガニスタンに至る広大な地域を支配した巨大な王国でした。

新王ネブカドネザル2世は、すでに先王の後継者として老齢の父王に代わってバビロニア軍を指揮し、アッシリア打倒戦やシリア方面での戦いでも前線で戦っていた生粋の武人でした。シリア、パレスチナも平定したところで父王が亡くなると、その遺志を継いで即位、父が築いた王国の更なる拡大発展のために尽力します。

ところが、このバビロニアでの王位交代の隙を突き、エジプトが再びシリア、パレスチナ方面に介入してきたのです。その兵力はエジプト軍と旧アッシリア帝国の残党を合わせて総勢4万。これに対し、ネブカドネザル2世はシリア奪還のため直ちに軍を率いて出陣しますが、その兵力は敵の半数以下の1万8千でした。紀元前605年、両軍はシリア北部カルケミシュで激突します。これが「カルケミシュの戦い」です。

兵力は圧倒的にエジプト軍が優勢です。しかし、思わぬ誤算がエジプト軍に生じます。彼らはアッシリア軍の残党を加えた混成部隊であったため、指揮統率が思う様に取れず、うまく連携出来なかったのです。ネブカドネザル王はこの敵の混乱の隙を突いてエジプト軍に甚大な損害を与え、見事に大勝利を収めました。これにより、エジプト王国はシリア、パレスチナ方面への進出を断念し、その後二度とこの地域へ進出を企てる事はありませんでした。

こうして西の脅威を取り除いたネブカドネザル2世は、意気揚々とバビロンへ凱旋しますが、彼には一つの大きな悩みがありました。その悩みとは、いつの時代も時の権力者を振り回す存在。つまり「女性」の事です。

ネブカドネザル王はすでに結婚して妃がいました。お相手は隣国メディア王国の王女アミュティス姫です。といっても、互いに好き合って結婚したのではありません。これは彼らの父王たちが、先に述べたアッシリア打倒の軍事同盟を結ぶ際に、その「証」として行われた完全な政略結婚でした。両国の末長い関係維持のためには必要なものだったと思われますが、見た事も会った事もない相手と結婚させられる方はたまったものではありません。アミュティス姫は父王に抗います。

「父上。わたくしは絶対嫌でございます! 何ゆえあの様な地の果てにわたくしが行かねばならないのですか? わたくしはこのメディアの国を離れとうはございません。」

このメディア王国のあった現在のイラン一帯は、高原と山脈の多い地域です。メソポタミアよりはるかに緑に溢れ、とりわけ、雪を頂く3千メートル級の山々が連なる壮大なザグロス山脈を見て育った彼女には、見渡す限りの平野と川の周囲の農地以外は砂漠の続くメソポタミアでどんな暮らしが待ち受けているのか想像するのも身震いがしたのかもしれません。

当時、バビロニアの隣国メディア王国の王はキュアクサレス2世という人でした。彼は娘をなだめ、説得します。

「そなたにはすまぬが、これはもうバビロニア王との間ですでに決めた事なのだ。今さら取り消す事など出来ぬ。もしそんな事をすれば、わしの立場がないではないか。ここは父のため、わが国のためにどうかバビロニアに行ってくれ。頼む。」

結局父王の命には逆らえず、アミュティスはバビロニアに輿入れする事になります。キュアクサレス王は娘のために大勢の女官と信頼の置ける家臣たちをつけて彼女を送り出しました。一方のネブカドネザルの方は、アミュティスの心情について臣下からの報告で良く理解しており、彼女が退屈しないよう贅を凝らした宮殿を建設して出迎えます。

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「遠い所から良く参られた。これからはここがそなたの国だ。至らぬ事や欲しいものがあれば何でも私に言ってもらいたい。」

まだ皇太子であったネブカドネザルは妃にこう言ってやさしく迎えたのですが、先に述べた様に当時彼は父王の代理でシリア方面征服作戦の途中であり、その忙しさからバビロンに妻を残して長い遠征に出かけてしまいます。バビロンに一人残されたアミュティスは、次第に募る故郷への望郷の思いと寂しさから、すっかり塞ぎ込んでしまう様になってしまいました。

やがてアミュティスにとっては義理の父であるナボポラッサル王が崩御し、ネブカドネザルがバビロニア2代国王に即位しますが、王妃となったアミュティスはなかなか彼に心を開こうとはせず、王は困り果ててしまいます。

夫婦仲が悪いわけではないのです。アミュティスもメディア王家の王女として立派な教養と品格を備えた女性です。しかし、あまりにも違いすぎる環境の変化に、彼女は自分を合わせていくのが精一杯でした。


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「可哀相な事をしてしまった。何か良い方法はないものかな。」

ネブカドネザル王は悩みます。なぜなら王である彼は世継ぎをもうけなければなりません。そのために彼ならその権力で自分の好みの女などいくらでも手に入れられます。しかし、事はそんな単純なものではないのです。もし、彼が正妻であるアミュティスを疎んじ、側室らとの情事にばかり耽る様になれば、アミュティスの実家メディア王家が怒ってメディア王国との関係が悪化し、戦争になるかもしれません。

上の地図でお分かりの様に、メディアは当時オリエント最大の領土を支配する大国で、その軍事力も侮れない大きなものです。もし戦争になれば、メディア王キュアクサレス2世には「娘を取り返す」というバビロニア侵攻の絶好の口実があるのです。

そこで彼は、王妃のためにとんでもない事を思いつきます。


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「わが王宮をメディアの地と同じにせよ。木と草花を植え、水を通して池も作れ。宮殿を森と泉で埋め尽くすのだ。」

王は家臣たちにこう命じたのです。宮殿の改装工事は王の直接指揮のもとで行われ、出来るだけメディアの風景に近づけるよう配慮がなされました。こうして歴史上初めての屋上庭園を持つ宮殿が完成したのです。これを「バビロンの宮中庭園」と呼びます。


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上がバビロンの空中庭園の復元想像図です。宮殿を階段状にし、そのテラスに各地から取り寄せた樹木と季節の花々が植えられ、魚が泳ぐ泉はもちろん滝まで作られていたそうです。ポンプなどないこの時代に、どの様にして水を宮殿の屋上にくみ上げていたのか謎ですが、おそらく水車をいくつも組み合わせていたものと推定されています。(現在東京などの大都会でも「屋上緑化」されたビルが見受けられますが、2600年も大昔にすでに作られていたのには驚きですね。)

自分のためにここまで気を使ってくれた夫に対して、妻のアミュティスがなんと答えたのかは残念ながら記録がありません。しかし、確かなのは、その後ネブカドネザル王夫妻には無事に後継者の王子が誕生し、新バビロニア王国はネブカドネザル2世の40年以上の長い在位中に最盛期を迎えたという歴史的事実です。


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上は伝説の空中庭園があったとされるバビロンの王宮の現在の姿です。

しかし、その後新バビロニア王国は、ネブカドネザル2世の死からわずか26年後の紀元前536年、メディア王国の属国であった南の小国アンシャンから興ったアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされる事になってしまいます。そして空中庭園を含むバビロンの王宮はその戦乱の際にペルシア軍によって破壊され、オリエント最大の繁栄を謳歌したバビロンの栄光の日々も終わりを迎えます。

それから月日は流れ、この地の支配者も目まぐるしく移り変わる中、メソポタミアは前段で述べた灌漑農業の弊害ともいうべき「塩害」(農地に引き込んだ川の水が蒸発する際に、含まれていた塩分が土壌に噴出し、作物を駄目にしてしまうものです。)によってかつての肥沃な緑の大地は荒れ果てた砂漠へと変わり果ててしまいます。

かつて一人の王が、王妃への愛の証として建てた壮麗な宮殿は、今はイラクの砂漠の中にその土台部分だけがその遺構を留めるばかりです。今この宮殿の跡を包み込んでいるのは、時折吹きすさぶ暑い砂嵐だけです。

次回に続きます。
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鉄の王国ヒッタイトの都 ・ ハットゥシャ

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、遠い昔から幾多の古代国家が興亡を繰り返し、アジアとヨーロッパ、東洋と西洋が交じり合い、悠久の歴史を刻んできた魅惑の国トルコから、「ハットゥシャ」をご紹介したいと思います。この「ハットゥシャ」は、紀元前1600年頃にこの地に興った最初の統一国家である「ヒッタイト王国」の都として築かれたものです。

ヒッタイト。この王国こそ初めてアナトリアを統一し、強大な軍事力で周辺国に恐れられ、後には東のメソポタミアに侵攻してこれを征服。さらに転じて南のエジプトにも進軍し、迎え撃つエジプト軍と激しく争った恐るべき軍事国家でした。では、そもそも今回のお話の主役であるヒッタイト王国はいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか? まずはそのあたりからお話したいと思います。

現在知られている最も有力な説では、ヒッタイト人は紀元前2千年頃(今から4千年前)にカスピ海の北方からアナトリアの地に移動し、定住したといわれています。もちろんその時期も場所もばらばらで、大小いくつもの集団に分かれ、最初からまとまっていたわけではありませんでした。彼らはそれぞれ移住した地に都市を築いていきましたが、やがてその中で大きな集団を率いる者が指導者として周辺のヒッタイト都市を従えていく様になります。

ちなみに「ヒッタイト」という名ですが、これははるか後の19世紀から20世紀にかけて、この地域を調査研究していたセイスなるイギリスの考古学者が、旧約聖書に登場する「ヘテ人」にちなんで名付けたのがその由来だそうです。(もともとの固有名詞ではなく、後の学者が後付けで名付けたのですね。ただし、なぜこう名付けたのかは不明です。)

そして紀元前1580年頃、全ヒッタイト民族を統一して最初の王になったのがラバルナ1世(?~紀元前1565年頃)という人物です。彼が築いた最初のヒッタイト王国はおよそ80年ほど続き、歴史上ではこれを「ヒッタイト古王国」と呼んでいます。ヒッタイト王国はその後、70年続いた「中王国」そして滅亡するまで最も長く続いた250年余りの「新王国」に分かれ、合わせて400年間に亘り、アナトリアから現在のシリア、イラクに至る地域を支配しました。


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上がこの地域における当時の国際関係を表した図です。ヒッタイトと合わせ、南にはエジプト王国、東のメソポタミアにはこれも強大なアッシリア帝国が覇を競っていました。(注)上の図では、Reich「ライヒ」すなわちドイツ語で「帝国」と表記されていますが、「帝国」とは「皇帝」の統治する国家であり、この時代にはまだ「皇帝」という称号は存在せず、さらにヒッタイトをはじめ、その他の国々においても、その頂点に君臨するのは「王」である事から、厳密には「王国」と表記すべきでこれは正しくありません。しかし、世界史では多くの場合、そうした国でも帝国と呼んで(ペルシャ帝国や大英帝国など。いずれも君主は王です。)それがすっかり定着している場合も多いです。頭が固いかもしれませんが、当ブログでは原則論に従ってヒッタイト王国と呼ぶ事にするので、その点を踏まえてご了承ください。(苦笑)

さて、ヒッタイト王国を建国した最初の王ラバルナ1世ですが、残念ながら彼については「ヒッタイト王国初代国王」であるという事くらいしか分かっていません。なにしろ3600年も昔の人物であり、肖像はもちろん彼にまつわる記録も粘土板に記された極めてわずかな記述しか残っていないからです。では、そのラバルナ1世に始まるヒッタイト王家歴代の王たちにまつわる記録は、一体どの様に記録されたのでしょうか? それについては下の画像を見て下さい。


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上はいわゆる「楔形」(くさびがた)文字をが刻まれた粘土板です。この文字はもともとメソポタミアで考案され、古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)と並んで歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ヒッタイト民族がカスピ海の北方からアナトリアに移住したというのは先に述べましたが、その途中で彼らは地理的にメソポタミアの影響を強く受け、その結果自分たち自身で文字を作らず、メソポタミアの楔形文字をそのまま導入してさまざまな記録に活用しました。

この楔形文字によって、ヒッタイト王国についての記録は極めて断片的かつ大雑把ではありますが、今日の私たちも知る事が出来るのです。それによると、初代ラバルナ1世については次の様に記述されています。

「狭かった国土をラバルナが大きく広げた。ラバルナは7つの街を征服し、敵を海にまで追いやり、それぞれに息子を支配者として送り込んだ。」

彼が強大な武力を持っていたのは間違いないと思われますが、しかし、諸部族を統一して広大な王国を建国するには、単に強大な武力を持っているだけではなく、人々を従えさせる王としての品格と度量の広さ、さらに統治者としての政治指導力なども無くては無理でしょう。おそらくそうしたものも全て兼ね備えた優れた王であったのだろうと思います。(と、いうのは自分の勝手な想像ですが。汗 みなさんはどう思われますか? 笑)

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上はヒッタイト王のイメージです。(拾いもののイラストです。笑)

記録によれば、その後初代ラバルナ1世が亡くなると、後継者には彼の王妃の従兄弟にあたるハットゥシリ1世(?~紀元前1540年頃)が2代国王に即位します。ここで疑問に思うのは、先王ラバルナ1世には少なくとも7人の息子すなわち王子たちがいたのに、血筋では全く関係ない他人である王妃の従兄弟が王位を継いでいるという点です。記録には残されていませんが、おそらくこの時、王位を巡る争いがあったのは間違いないでしょう。そして先王の王子たちを破り、勝ち進んだハットゥシリが彼らを粛清し、王位を奪ったものと思われます。(この時点でヒッタイト王国は王朝が交代しているわけですが、この王国はその後も王位を巡る内紛が幾度も続き、その都度王朝の交代が恒例化していく事になります。)

ともあれ、ヒッタイト王国2代国王となったハットゥシリ1世ですが、この彼の変わった名を聞いて、誰もがすぐに「ピン」と来るのではないかと思います。そう、彼こそが今回のテーマの主役である王国の都「ハットゥシャ」を築いたその人なのです。彼は新体制のシンボルとして、自らの名を冠した新たな街を築き、ラバルナ1世が都を置いていたクッシャラ(所在不明)なる街からハットゥシャに遷都し、それ以後このハットゥシャは、ヒッタイト王国の滅亡まで王国の都であり続けるのです。


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上の画像1枚目がハットゥシャの復元想像図です。尾根沿いに堅固な城壁が街を取り囲んでいますね。2枚目の同じ位置の画像と見比べて見てください。3枚目は現在のハットゥシャの見所の配置図です。大きさは東西およそ1.2キロ、南北およそ3キロの楕円形をしています。(人口は都市の規模からおよそ4~5万程度と推定されています。)

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上の一連の画像は現在のハットゥシャ遺跡の様子です。上空から見た画像を見ると、遺跡は石が削り取られたかの様にきれいになくなっていますね。これは後の時代にこの地に興り、滅んでいったあまたの国々が城壁などの資材として転用するために長い年月をかけて持ち去ってしまったためです。しかし、転用を免れた石には多くの彫刻やレリーフが残され、当時の繁栄を偲ぶ事が出来ます。

最後の写真に注目して下さい。これは兵士ではなく神々を掘り刻んだもので、「ヒッタイトの12神」と呼ばれています。これを見るだけで、この国が多神教国家であったのは容易に想像出来ますね。キリスト教もイスラム教もないはるかな昔、さまざまな異教の神を信ずる多くの民族を束ねるには、その方が都合が良かったのでしょう。

このハットゥシャは、ドイツの考古学者フーゴー・ウィンクラー(1863~1913)によって1906年に発掘調査が行われ、失われたヒッタイト王国の都の全貌が明らかにされました。そして1986年世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が後を絶たないトルコでも人気の観光スポットです。

それからのヒッタイト王国は隆盛期に入ります。歴代の王たちによって繰り返された外征により、その領土と支配地域は大きく広がっていくからです。それではヒッタイト王国躍進の原動力とは一体なんだったのでしょうか? なぜ彼らヒッタイト軍はそんなにも強かったのでしょうか?

それは歴史好きの方ならば知識としてご存知と思いますが、このヒッタイト王国は史上初めて「鉄」を大々的に生産、加工する技術を確立した今で言う「先進テクノロジー国家」であったからです。


前回のミケーネでもお話した様に、この時代の世界は「青銅器時代」の全盛期でした。青銅とは銅と錫の合金で、加工がしやすいのが特徴ですが、銅の産出地が多い所でないと大量生産は出来ない欠点がありました。そのため銅や錫が取れない国では高価な貴重品だったのです。

しかし、鉄は銅よりはるかにその埋蔵量が多いのです。みなさんも子供時代、磁石で砂の中から「砂鉄」を取り出した事があると思います。そう、ヒッタイトの製鉄技術は主にこの砂鉄から作り出す「たたら製鉄」によって生産されたものでした。


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上はたたら製鉄によって炉から流れ出した「銑鉄」(せんてつ)です。これを鋳型に流し込んで形を整え、叩いて剣や槍、矢じりを作ったり、それ以外の様々な鉄器を生産しました。

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上はヒッタイトの戦車のイラストです。その車輪にも鉄が使われています。ヒッタイト軍はこの様な戦車を数百両集めた「機甲部隊」で敵の防衛線を打ち破り、その後を鉄剣や鉄槍で武装した歩兵部隊が怒涛のごとくなだれ込み、敵国の都まで一気に侵攻する電撃作戦で連戦連勝を重ねました。

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さらに鉄の利点はなんといってもその強度です。青銅の硬度は50~100程度に対し、鉄の硬度は150~200で、2~3倍の強度の違いがあるのです。(鉄の剣と青銅の剣で戦えば、当然青銅の剣は折れてしまいますね。これでは実戦では勝負になりません。)

ヒッタイトはいち早くこの製鉄技術を確立すると「国家機密」として厳重に管理し、いわゆる「ブラックボックス化」して独占しました。そのため周辺国は、ヒッタイトの滅亡まで製鉄技術を得る事が出来ず、青銅器を使い続けざるを得なかったそうです。

このヒッタイト王国の躍進に大きな脅威を感じていた南の大国がありました。それはエジプト王国です。ヒッタイトとエジプトは現在のシリアとイスラエル付近を挟んだ国境地帯で戦争を繰り返しましたが、双方ともなかなか決着が付かず、戦争は300年も続いていました。しかし、その300年に及ぶ歴史に終止符を打つべく、エジプトで一人の王が大きな決意を固めていました。古代エジプト最強の王として有名なラムセス2世(紀元前1302頃~紀元前1212)です。


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上は戦車に乗って大きく弓を引くラムセス2世の絵です。彼はエジプト第19王朝3代国王(ファラオ)にして、エジプトのファラオとして通算すると138代目に当たるそうです。

領土拡大の野望に燃える若きラムセス2世は、シリアをヒッタイトから奪い取ろうと紀元前1274年、自ら大軍を率いて北上、これを迎え撃つ時のヒッタイト王ムワタリ2世の軍と一大決戦に臨みます。これが「カデシュの戦い」です。


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上はカデシュの戦いで奮戦するラムセス2世を描いたイラストです。この戦いにおける両軍の兵力はエジプト軍が歩兵1万6千、戦車2千両(1両の戦車には3名程度が乗るので、それを合わせると2万2千程度でしょうか。)これに対しヒッタイト軍は歩兵2万、戦車3千両(同じく計算するとヒッタイト軍は2万9千。兵力ではヒッタイト軍が有利ですね。)

ラムセス2世は捕えたヒッタイトのスパイの情報から、ヒッタイト軍が到着する前にカデシュを占領してしまおうと無理して兵を進軍させます。しかし、これはヒッタイト王ムワタリ2世の仕掛けた罠でした。彼はエジプト軍をカデシュに引き込み、包囲殲滅するつもりでいたのです。これにまんまと引っかかってしまったラムセスのエジプト軍にヒッタイトの戦車部隊が一斉に襲い掛かります。油断していたエジプト軍は大混乱に陥りましたが、ラムセス2世がいざと言う時に備えて温存していた取って置きの別動部隊が側面からヒッタイト軍を撃退し、ラムセス2世はようやく戦場を離脱する事が出来ました。

その後、戦線はこう着状態になり、ムワタリ2世とラムセス2世との間で講和条約が結ばれ、戦闘は終結します。この戦いによってラムセス2世は当初の目的であったシリア獲得は成らず、大勢の兵を失う大損害を被り、事実上戦いはラムセス2世の惨敗なのですが、偉大なファラオが「敗れた」とはいえないため、エジプト側の記録では全てラムセス2世の大勝利と改ざんされています。(負けず嫌いのラムセス2世らしいですね。笑)

この時、エジプトとヒッタイトとの間で結ばれた講和条約こそ、明文化されたものでは歴史上世界で最初の和平条約として有名で、これ以後両国は、ヒッタイト王国の滅亡までおよそ100年以上もの間、国境線上で均衡を保つ事になるのです。


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上がヒッタイト・エジプト平和条約を記した粘土板です。これもハットゥシャの遺跡で発掘され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されています。

この様に精強を誇ったヒッタイト王国でしたが、このカデシュの戦いの始まる頃から衰退の兆しが見え始めていました。特に東のメソポタミア地域には、新興国家アッシリア帝国が徐々にヒッタイト領を侵食し始め、国境紛争が後を絶たなくなります。さらに西からは、これも新興勢力「海の民」が地中海からヒッタイトに襲い掛かります。

ヒッタイト軍は騎馬を中心とする陸軍が主力であり、基本的に海の戦いは不得手でした。そのため海の彼方からいつ攻め寄せてくるか分からない海の民からの防衛のため、地中海沿岸の各都市に守備隊を分散配置せざるを得ず、その結果各個撃破される悪循環に陥ってしまったのです。

さらにヒッタイト王家の王位争いによる内乱が追い討ちをかけます。内憂外患とはまさにこの事です。これら一連の混乱により国の統制は乱れ、王国は崩壊の道を転げ落ちていきます。そしてついに紀元前1180年、ヒッタイト王国は滅亡し、都ハットゥシャは放棄されてしまうのです。

長い間、ヒッタイト王国は海の民の攻撃によって滅んだと言われて来ましたが、近年の発掘による研究結果から、ヒッタイト滅亡の原因はそれだけでなく、末期の3代に及ぶ王位を巡る内紛と、それにともなう深刻な食糧難、それに付け込んだアッシリアの介入などの複合的な要因により滅亡に至ったものと推定されています。


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上は草原の中に広がる現在のハットゥシャの遺跡の姿です。遠い昔に栄え、そして滅び去った古代の王国の都の跡を、今はその子孫の少女が無邪気に歩いています。

次回に続きます。
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