暴君ネロの見果てぬ狂った夢の跡 ・ ドムス・アウレア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「暴君ネロ」の異名でその名を歴史に刻むローマ皇帝ネロが築いた「ドムス・アウレア」をご紹介したいと思います。

今回のお話の主役は暴君ネロなのですが、みなさんはこの人物について、一体どんなイメージをお持ちでしょうか? ローマ皇帝として悪逆の限りを尽くしたその名の通りの暴君? おそらくそういう印象が強烈なのではないかと思います。(かくいう自分もそうでした。)確かに、結果的に彼はそんな悪者に成り下がり、非業の最期を遂げた事から、2千年もの長い間人々にそんな風に語り継がれて来た事は事実です。

しかし、そんなネロも、最初からひどい暴君だったわけではないのです。物事にはどんな形であれ、そうなるに至った経緯というものがあります。というわけで、まずはそのネロという人物の生い立ちから今回のお話を始めたいと思います。


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上は皇帝ネロの胸像です。残されている彼の像にデジタルで色彩を施したものです。歴史上の人物がどんな顔立ちをしていたのかというのは、多くの場合残された文献などの記録や、抽象的な絵などで想像するしかないのですが、ありがたい事にローマ時代の人物の彫刻は実物と見間違えるくらい大変写実化が進んだ時代であり、多くのローマ皇帝の胸像が残されています。こんな顔立ちをしていたんですね。

ネロ(37~68)は、正式な名は非常に長く、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスといい(笑)その身分はローマ帝国5代皇帝です。ローマ帝国といえば、およそ2千年前に成立した人類史上最初の超大国である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。そして彼はその皇帝、つまり当時世界一の権力者であったのです。

このローマ帝国ですが、もちろんこの国も最初からこんな大国であったのではありません。大望を成す場合の最も有名な格言である

「ローマは一日にして成らず。」

の言葉通り、紀元前8世紀(今から2800年ほど前)に現在のローマの地に誕生した人口数千程度の小さな都市国家だったものが、徹底した共和制の仕組みの下に700年以上もの長い時間をかけて地中海全域を支配する広大な領域国家に成長し、やがてネロの高祖父(ネロの祖母の祖父)にあたるアウグストゥスが初代皇帝として即位した事により共和制から帝政に移行し、ローマ帝国となったものです。


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上がネロの偉大な祖先であるローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14)の有名な像と、ローマ帝国の最大領域図です。

ところで、このローマ帝国について詳しい方ならば良くご存知の事かと思われますが、実際のアウグストゥスの本名は「オクタヴィアヌス」といい、あのユリウス・カエサルの甥(カエサルの姉の子)で、志半ばで暗殺されたカエサルの遺志を継いで後継者として地中海世界を統一、ローマ元老院から「尊厳者」という意味の「アウグストゥス」という称号を贈られたのがその名の由来ですが、アウグストゥス本人は政・官・軍の全権を自分に集中させ、独裁権を握る一種の「国家元首」にはなったものの、存命中自らを「皇帝」と名乗った事は一度もありませんでした。つまり「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス」というのは、全て歴史上の後付けでそう呼ばれているものなのです。このあたりは、このローマ帝国という巨大国家のユニークで難解な部分です。(苦笑)

このアウグストゥスに始まる帝政ローマにおいて、彼の興した王朝は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれています。これはアウグストゥスの一族ユリウス家と、その妻リウィアの家系であるクラウディウス家を合わせたものです。

ネロは、そのアウグストゥスから数えて5代目のローマ皇帝にあたるわけですが、その血筋は純粋なアウグストゥスの直系というわけではありませんでした。なぜなら初代皇帝アウグストゥスは後継者の男子に恵まれず、その後に続いた皇帝たちも養子や甥などの傍系であり、ネロ自身もアウグストゥスの血を引いてはいたものの、それは女系であったからです。

では、ネロが皇帝に即位するに至った経緯とはどんなものだったのでしょうか? 事の起こりはネロの実母アグリッピナが先代の4代皇帝クラウディウスの皇妃になった事から始まります。


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上がローマ帝国4代皇帝クラウディウスの像です。(紀元前10~紀元後54)彼は初代皇帝アウグストゥスの皇妃リウィアの孫にあたりますが、生来病弱でユリウス・クラウディウス家一門の中でも疎まれ、長く日陰の道を歩み、耐え忍んで来ました。そんな彼が皇帝に即位出来たのも「毒にも薬にもならない目立たぬ凡人」の彼ならば、飾り物の傀儡(かいらい)としてうってつけだと皇帝の親衛隊に擁立されたからです。紀元41年、この時すでに彼は50歳になっていました。

しかし、「お飾りに過ぎない」と周囲に全く期待されていなかった彼は、皇帝となるや意外な有能さを発揮します。破綻寸前だった帝国の国家財政を立て直し、それまでローマ人あるいはローマ市民権を持つ者だけに限定していた元老院議員の門戸を、ローマ帝国が支配していた属州や異民族、果ては奴隷に至るまで大きく広げ、有能な者はその身分や出身を問わず積極的に登用していく態勢を整えたのです。さらに帝都ローマへの飲料水の供給のため、自らの名を冠した巨大な水道橋を建設、同時に食糧の安定供給のためにローマの外港としてオスティアの港湾を大規模に整備、外征にも熱心で、現在のイギリスであるブリタニアに兵を進めてこれを領土とするなどの功績を残します。


クラウディウス帝は病弱であったため、ユリウス・クラウディウス家に限らずローマ支配階級の名門の男子の義務であった「軍務」に付く事は出来ませんでした。しかし、持て余す時間を読書と学問に費やした事が、彼を知識豊富な政治家に育て上げたのでしょう。それゆえ、彼は「文人皇帝クラウディウス」と呼ばれています。

そんなクラウディウス帝でしたが、家庭生活には恵まれませんでした。これまでに3度結婚に失敗し、長男には先立たれ、ローマ皇帝という頂点の地位にありながら、肉親愛に恵まれぬ孤独な私生活だったのです。

そのクラウディウスに近づいたのが、ネロの母親であるアグリッピナ(15~59)です。彼女もユリウス・クラウディウス家の一族ですが、大変権力欲の強い野心家で、最初の夫との間に息子ネロを産み、その夫が死ぬと裕福な次の夫と再婚、数年後にその夫も亡くなると遺産を手に入れ、その金を賄賂としてクラウディウス帝の重用する側近たちにばらまき、彼女が皇帝に近づけるよう画策したのです。

こうしてうまくクラウディウスに近づいたアグリッピナは傷心の皇帝に甘い言葉で優しく接し、女性関係で失敗の連続であったクラウディウスはたちまちその色香に迷わされ、彼女はまんまとローマ皇帝妃の座に着くのです。紀元49年の事でした。

皇妃となったアグリッピナの次の狙いはもちろん息子ネロを次の皇帝にする事です。そのために彼女は夫クラウディウス帝にネロを養子にする事を勧め、後継者の息子がいなかったクラウディウス帝はそれを認めてしまいます。そこまですれば、もう彼女の願いは叶ったも同じです。そして彼女はその総仕上げとして、恐ろしい計画を実行します。それはもはや用済みとなった皇帝クラウディウスの暗殺です。

もともとアグリッピナはクラウディウスへの愛情で結婚したのではなく、自らの権力と野心の成就のためでした。後は息子ネロを次の皇帝にすれば、皇帝の実母である皇太后としてローマ帝国の実権を握る事が出来るのです。そのためには夫クラウディウスにあの世に行ってもらわなくてはなりません。彼女は宴の席の料理に「毒キノコ」を混ぜ、クラウディウス帝を毒殺してしまいます。

こうしてついにネロがローマ帝国5代皇帝として即位するのです。18歳の若き皇帝の誕生です。全ては母アグリッピナの思惑通りでした。若いネロの即位はローマ市民に歓呼で迎えられ、誰もが帝国の明るい未来を思い描いていました。この時、一体誰がその後の「地獄」を想像出来たでしょうか。

ネロの治世は最初の2年ほどは、長いローマ帝国の歴史の中でもまれに見る善政でした。しかし、それはネロの個人的な采配によるものではありません。まだ20歳前後の何も知らない若者にそんな政治力があろうはずがなく、それらはネロの家庭教師を務めた哲学者セネカ(?~65)という立派な政治的後見人の存在があってこそのものでした。

また、この頃からネロと母アグリッピナとの関係がギクシャクし始めます。アグリッピナは事ある毎にネロに干渉し、政治はもちろん私生活の面まで息子を支配しようとしたのです。そんな母親に対し、次第にネロは母を疎ましく思う様になり、どんどんそれはエスカレートしていきます。もはやネロにとって、母アグリッピナは目の上のこぶの邪魔者でしかありませんでした。やがてネロは皇帝直属の親衛隊を差し向け、母アグリッピナの抹殺を命じるのです。(思えばネロは野心と謀略にまみれた母の姿を見て育ったのです。その息子なのですから、その血を受け継いでいるのは当然ですね。皮肉にもアグリッピナは自らが産んだ息子によって生涯を閉じる事になってしまいました。因果応報とはまさにこの事です。)

最大の障害であった母を抹殺したネロを諌める人物は、もういませんでした。ネロは最初の皇妃オクタヴィアを3年後の62年に殺してしまいます。さらに、政治ブレーンであったセネカまでも65年に粛清してしまうのです。

ネロにとって、自分に歯向かう者はもちろん意見する者すら「邪魔者」でしかありませんでした。そしてそれらを次々に捕えて処刑、暗殺を繰り返し、自らは快楽と怠惰に溺れる手の付けられない「暴君」へと変貌して行ったのです。金に糸目をつけない娯楽競技にうつつを抜かし、女色はもちろん男色にもふけり(なんと気に入った美少年を「去勢」させ、女装させて周囲にはべらせたそうです。)果ては数千の観衆の前で皇帝自ら歌や芝居に興じるなど、その振る舞いは目も覆うばかりでした。そんな皇帝にあるまじき姿に失望し、元老院では密かに反ネログループが政権転覆の動きを加速させていく様になります。

そんな矢先に起きたのが「ローマ大火」事件です。


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上がローマの大火を描いたものです。

64年7月、ローマ市内の一画に起こった火の手が強風に煽られ、ローマ市街の3分の2を焼き尽くす大火災となったのです。さすがにこの時はネロも皇帝として自ら陣頭指揮を取り、火災の鎮火と被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし、この時にどこからかとんでもない「噂」が流されます。

「皇帝は宮殿でローマの焼け落ちる姿を眺めながら竪琴を片手に歌を歌っていた。」

市民の間に広まったこの噂をもみ消すため、ネロは思い切った手段に打って出ます。それは、なんとこの火災を当時帝国内外に広まっていたキリスト教徒が引き起こしたものとして、キリスト教徒を片っ端から捕えて公開処刑するというものです。もちろんこれは全くの濡れ衣であり、しかも、そんな事をしても、一度立てられた悪い噂はそう簡単に消えるものではありません。

後にローマ帝国はキリスト教国家となり、ローマを中心として全ヨーロッパがキリスト教に染まっていくわけですが、まだこの頃の帝国は多神教であり、キリスト教は多くの宗教の一つに過ぎませんでした。そのキリスト教徒を多数処刑した事により、後にネロは悪逆非道な暴君として、欧米社会で根強くその名を記憶される事になったのです。

さて、それまで遊び呆けていたネロには大きな仕事が待ち受けていました。それはもちろん焼け野原となった帝都ローマの再建です。ここでネロは強い指導力を発揮します。実は今日では意外なのですが、それまでのローマは木造家屋が密集するお世辞にも綺麗な街並みではありませんでした。それがゆえに今回の火事で大きな被害が出たのです。

そこでネロは、火災に強い都市造りのために大規模な都市計画に着手します。狭かったローマ市内の道幅を広げて建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲み、共同住宅には中庭と消火用器具の設置、住居は一定の部分を耐火性のある石で造る事などを義務付けました。火災に対応出来るよう水道も整備され、ローマの街並みはそれまでの木造から頑丈な石造りの家々が立ち並ぶ壮麗なものに生まれ変わったのです。それはまさに帝国の都にふさわしいものでした。

それと並行して、ネロはかねてから考えていたあるプロジェクトを実行に移します。それは今まで誰も造った事の無い巨大な宮殿を都ローマの中心に建設し、自らの名を歴史に永遠に残す事です。その宮殿の名は「ドムス・アウレア」 ローマ帝国の公用語であったラテン語で「黄金宮殿」と呼ばれるものです。


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上がその「ドムス・アウレア」の復元想像図と内部の様子をデジタルで再現したものです。高価な大理石をふんだんに使い、宮殿内の壁や天井は隙間無く見事なモザイク画やフレスコ画で覆われ、無数の彫刻が至る所に置かれていました。また、広大な庭園には皇帝の舟遊びのための大きな泉も配置されていました。(みなさんもローマ人になったつもりで想像して見てください。笑)

ネロがこの宮殿を黄金宮殿と名付けたのは、実際に宮殿を黄金で覆い尽くそうとしたからではありません。決して錆びずに輝く黄金は永遠の象徴。ネロは宮殿が自らの名とともに永遠に残る事を願ったのです。

しかし、この皇帝の誇大妄想は、ローマ市民の大不興を買ってしまいます。完成した宮殿のあまりの巨大さと壮麗さに、またもこんな噂が市民の間に広がります。

「皇帝はこの宮殿を造るためにわざとあの火事を起こしたのだ。」

ローマ市民の間のネロの人気は、この頃から坂道を転げ落ちる様に無くなっていきます。その隙を突いて、ローマを遠く離れたガリア(後のフランス)の地で、ヒスパニア総督であったガルバ(紀元前3~紀元69)が反乱を起こします。ガルバは自ら「皇帝」を名乗り、数万の大軍でローマに迫ってきたのです。ネロの手元には皇帝直属のおよそ1万の兵力からなる親衛隊がありましたが、長年の放蕩三昧の結果、すでに彼はその親衛隊からも見放されていました。元老院はこの機に乗じてネロを皇帝の座から引きずり落とすため、ネロを「国家の敵」とし、ローマに入城したガルバを新皇帝として迎え入れました。

孤立無援のネロは愛人の一人パオラに与えた別荘に逃げ込みます。しかし、元老院と新帝ガルバの差し向けた追っ手の軍勢に包囲され、ついに自害してその乱れた生涯を閉じました。時に紀元68年6月、わずか30歳でした。

ネロの死後、彼が造った夢の宮殿ドムス・アウレアは、その後の混乱と度重なる火災によって、そのほとんどが消滅してしまいました。


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上はローマ市内の地下に残るドムス・アウレアの遺構の一部です。

かつてここに、自らの名を永遠に残そうと狂った夢に取り付かれたある皇帝が、巨大な宮殿を造り上げました。しかし、その皇帝の名は歴史に「暴君」として永遠に刻まれ、彼の望みは醜くゆがんだ形で叶えられる事になりました。

今に残るのは、朽ち果てた天井に残るかつての見事なモザイク画の残骸と「暴君ネロ」にまつわる数々の狂ったエピソードだけです。

次回に続きます。
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海の底に眠る悲しき美女の宮殿 ・ アレクサンドリア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「絶世の美女」としてその名を歴史に刻むエジプト女王クレオパトラが住んだアレクサンドリアの宮殿をご紹介したいと思います。

クレオパトラといえば、なんといっても先に述べた「絶世の美女」という形容詞が古くから全世界に共通していますね。そして、それはその劇的でドラマチックな生涯と相まって、彼女の死から2千年もの間伝説として人々に語り継がれてきた事は、歴史好きでなくても誰でも知っていると思います。

しかし、それはあくまでも伝説の話。実際の所は彼女がどれほどの美女であったか? いや、そもそもどんな顔立ちをしていたのか? など、もちろん誰も知る由もありません。(笑)歴史上に登場する女性の中でおそらく最も有名な人物でありながら、その顔立ちを伝える物的な証拠は、彼女がエジプト女王として在位中に発行された不鮮明な横顔が刻まれた貨幣しかないのが実情だからです。(もちろん、彼女を描いた絵や彫刻は数多く存在しますが、それは全て後世の画家や彫刻家たちがそれぞれ自分たちなりに想像したものです。)


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上がクレオパトラ(紀元前69~紀元前30)と伝わる女性の横顔が刻まれた銀貨です。他にもいくつかの種類があります。(髪形を見れば明らかに女性であり、貨幣には在位中のその国の君主の顔を刻むのが普通ですから、女王クレオパトラ本人とみて間違いないでしょう。)

そうしたミステリアスな所もクレオパトラの魅力の一つなのだと思うのですが、彼女についてのエピソードを語れば枚挙に暇が無いので(笑)ここでは割愛させていただくとして、まずはこのクレオパトラという人物の経歴その他、事実上の確かな事柄から本テーマに話を移して行きたいと思います。

彼女の正式な名は「クレオパトラ7世」といい、プトレマイオス朝エジプト王国最後の女王です。(この程度の事は歴史好きな方であれば良く知られた事ですね。)彼女の王家プトレマイオス王朝というのは、あのアレクサンドロス大王の少年時代からの古い友人で、成長してからは側近中の側近としてアレクサンドロスの大遠征に付き従い、大王の死後も生涯不変の忠誠を守り通した将軍プトレマイオスが紀元前306年にエジプトに開いた王朝であり、同時に古代エジプト最後の王朝でもあります。


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上がそのプトレマイオス(紀元前367~紀元前282)の横顔が彫られた金貨です。彼はアレクサンドロス大王が最も信頼した部下であり、大王からエジプト総督兼エジプト方面軍司令官に任じられていました。その後、大王が32歳の若さでこの世を去ると、彼を含む部下の将軍たちの合議制によって帝国を運営して行こうと提案しますが、野心に燃える他の将軍たちとの調整が上手く行かずにそのプランは破綻。結局後継者争いとなり、彼は大王から賜った任地エジプトに自らの王朝を打ち立て、エジプト王(ファラオ)プトレマイオス1世として即位する事になったのです。クレオパトラにとっては偉大なご先祖様ですね。(笑)

エジプト王となったプトレマイオス1世は、君主としても優れた人物でした。彼は自らの王国の首都を、大王が築いたアレクサンドリアに定め、大王のエジプト支配の軍事拠点の一つに過ぎなかったこの街を、周到な都市計画に基づく壮麗な都に作り変えます。宮殿、神殿の類いはもちろん地中海に面した大規模な港湾、市民の暮らしに欠かせない市場(マーケット)学校、図書館、裁判所、病院、劇場や競技場などの娯楽施設も次々に建設され、アレクサンドリアは人口20万を超える地中海一の都に発展したのです。


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上がプトレマイオス1世によって拡大されたアレクサンドリアの様子です。古代からエジプトは、ナイル川流域の農地からもたらされる農産物に恵まれた豊かな国であり、さらに大規模に整備拡張されたこの街には、東西交易の中継地という絶好の地理的要件も相まって国内外から多くの商人たちが集まりました。先に述べたエジプトの農産物はもちろん、東洋と西洋の様々な品々が港や市場に集められ、それらを商い売り買いする多くの商人たちによって活発な商取引が行われました。この時代、すでに商取引は「お金」すなわち貨幣によってやり取りされており、うなるほど大量の金貨や銀貨が街の中を行き交います。プトレマイオス王朝は彼ら商人たちから関税と売り上げの割合に応じた税を徴収する事で莫大な富を得、それがエジプト王国の大きな財源となります。そして、その都アレクサンドリアは最盛期の紀元前200年頃には人口50万を越える大都市となり、あのローマが興隆するまで地中海世界最大の都として繁栄を謳歌し続けるのです。

さて、この様に優れた君主が華やかな都を建設し、大いに富み栄えたというだけなら、そうした例は他にもいくつもあります。しかし、プトレマイオス1世はアレクサンドリアをこれまでに築かれた他のどの都とも違う、文化と学問に秀でた学術都市にすべく、おそらく歴史上初めてといわれるある巨大な公共施設を建設します。それが「アレクサンドリアの図書館」です。


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上がアレクサンドリアの図書館内部の様子を描いたイラストです。歴史好きかつ読書好きな方であれば「アレクサンドリア」と聞いて思い浮かべるものの一つがこの図書館でしょう。但し、図書館といっても、この時代の書物は今日私たちが手にする本、すなわち「綴じ本」がまだ考案されておらず、エジプト原産のパピルスや羊皮紙に書かれた「巻物」でした。(その名残りとして、長編の本をいくつかに分ける際に「第何巻」とか呼びますね。ただ巻物では綴じ本の様にタイトルが一目で分からず、ジャンルごとに分かれた書棚にぎっしり詰まれた巻物を一つ一つ見ていかなくてはならないので、閲覧したい書物を探すのは厄介だったでしょうね。笑)

このアレクサンドリアの図書館は蔵書70万冊を誇り、文学、歴史、天文学、地理、数学、医学その他あらゆる分野の書物が集められ、一般市民にも無料で解放されました。そして多くの名だたる学者たちがアレクサンドリアに滞在して研究を重ねたのです。また印刷技術のなかったこの時代、図書館は貴重な書物のコピーに心血を注ぎ、多くの学生に書物の書写をさせて写本を作りました。これにより学生たちは書き写しながら書物を読み、書写の代金も図書館から支給された事から一石二鳥の良い「アルバイト」になりました。(笑)まさにアレクサンドリアの図書館は、当時それまでに人類が蓄積してきた古代世界最大の「知の宝庫」だったのです。

プトレマイオス1世は少年時代のアレクサンドロス大王の学友として共に育ちました。そして彼らの教育は、あのギリシャの大哲学者アリストテレスが行っていたのです。こうした事から、プトレマイオス1世が単なる軍人上がりの王ではなく、学問に深い興味と敬意を払う英邁な君主であった事がうかがえますね。

さらにプトレマイオス1世は、もう一つアレクサンドリアに歴史に名を残すものを建設しています。それが都アレクサンドリアの海の玄関口ファロス島に建てられた「ファロスの灯台」です。


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上がその「ファロスの灯台」のイラストです。この灯台は高さなんと134メートル、あのクフ王のピラミッドに次ぐ当時世界最高の高さの建造物でした。遠方からも分かるよう建材には白く輝く大理石が使われ、頂上部に大きな鏡を置き、昼間はこれに日光を反射させ、夜は大きなかがり火を反射させていたそうです。

それにしても、なぜプトレマイオス1世はこの様な巨大な灯台を作らせたのでしょうか? 実はこのアレクサンドリア周辺は見渡す限りの平野が続き、目印となる山などが何も無いのです。この都が大規模な港湾都市である事はすでに述べましたが、東西交易の中継地として多くの船を安全に入港させるには、遠方から一目で分かるこうしたランドマークタワーがどうしても必要でした。この灯台はプトレマイオス1世が建設を開始しましたが、結局彼の存命中に完成させる事は出来ず、完成したのはその子プトレマイオス2世の時代でした。(その後、このファロスの灯台はプトレマイオス王朝がローマに敗れて滅亡した後も、800年もの間アレクサンドリアのシンボルとしてその威容を誇っていましたが、796年の大地震で倒壊してしまいました。とても残念な事です。)

ともあれ古代エジプト王国は、3千年に及ぶその長い歴史の中で、最後の王朝(第32王朝にあたるそうです。)であるプトレマイオス朝時代が最も繁栄したといわれています。そしてその礎を築いたのが初代の王プトレマイオス1世であり、クレオパトラはその1世から数えて13代目にあたるプトレマイオス家最後の女王にして、同時にエジプト最後のファラオでもありました。

だいぶ話がテーマの「宮殿」から脱線してしまったので、この辺で本題の宮殿に話を戻したいのですが、その前にもう一つお話して置きたい事があります。実はこのプトレマイオス家という王家ですが、とてもユニークな、そして同時に現代の感覚からいえばとても「異常な」王家であるという事実です。

まず、前者のユニークな点ですが、この王家、恐らく歴史上最も「女王」の多い王家なのです。普通どこの国でも、王や皇帝などの君主は男性がまず即位します。女性が女王となるのは後継者の男性がいないか、幼少で後見の必要がある場合、王朝存続のためにいわばやむなく即位する「繋ぎ」としての役割が全てです。(わが国の君主にあらせられる天皇家でも、かつて推古帝や持統帝など8名の女帝が玉座におわしましたが、すべてそのケースです。それに、国家と王朝の創始者はその全てが男性であり、女性が初代の君主として国と王朝を創始した例は歴史上存在しません。まあ国を興すには強さが必要であり、強さとは武力すなわち軍事力ですから、女性に無理なのは当然ですが・・・。)

しかし、このプトレマイオス王朝では、クレオパトラも含めてなんと通算16人もの女王がいるのです。一体なぜなのでしょうか? 実はプトレマイオス家では、王が結婚して妃を迎えると「共同統治者」としてその王妃は自動的に「女王」になるのです。このシステムは初代プトレマイオス1世の代から始まり、彼の王妃ベレニケは「ベレニケ1世」としてプトレマイオス家最初の女王となっています。

これはやはり、女王の存在が基本的には王朝存続の繋ぎ役であるという点が大きな理由でしょう。先に述べた様に王朝というものは男性がまず継承します。その後継者が幼少の場合は母親、つまり王妃が後見人となって息子が立派な大人に成長するまで女王として国政を預かるのが最良の方法だからです。このシステムはその後もプトレマイオス王家の伝統として代々継承され、王朝が滅亡するまで受け継がれました。

次に後者の「異常な点」についてですが、このプトレマイオス家はなんと「近親婚」によって代々王位を継承していったというものです。それも半端な近親婚ではありません。何代にも亘って実の兄弟姉妹同士で結婚し、それで生まれた子が王位を継いでいるのです。しかし、こうした近親婚は古代エジプト歴代王朝では珍しくないもので、プトレマイオス王朝でもその習慣を踏襲したものと思われます。そもそもプトレマイオス家は、マケドニアすなわちギリシャ人の王家であり、純血のエジプト人ではないのですが、エジプトを統治して時を重ねるうちにすっかり土着化してしまったのでしょう。


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上はプトレマイオス朝エジプト王国最盛期の領域図です。

この様に非常に特異な王朝であったプトレマイオス朝エジプト王国でしたが、歴史に登場する多くの王朝の例を引き合いに出すまでも無く、その創始から200年を過ぎると衰退しはじめます。特に王位継承の際の王族間の争いが恒例となり、その都度内乱が頻発する様になります。

そうしている内に、地中海では新たな強国が急速に台頭していました。そう、イタリア半島に勃興した「ローマ」です。ローマは強大な軍事力で周辺国を次々に征服し、領土を拡大していきました。紀元前146年に最大のライバル国カルタゴを滅ぼし、西地中海を支配したローマはやがてその矛先を東地中海に向けます。そして紀元前50年代、地中海周辺はエジプトを除いてその全てがローマの領土になっていたのです。ローマがエジプトに侵攻して来るのは時間の問題です。クレオパトラが女王として即位したのはそんな時代でした。


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上がこの頃のローマの支配領域です。

ここからの彼女の物語は、とても当ブログではご紹介しきれないので割愛させていただきますが(汗)ユリウス・カエサルとの出会い、アントニウスとの運命的な恋、そして彼と共にエジプト存亡をかけて戦った紀元前30年のアクティウムの海戦の敗北などを経て、ローマによるエジプト併合はもはや避けられない状況になってしまいます。

勝利したローマの支配者オクタヴィアヌス率いるローマ艦隊はアレクサンドリアの港に入港、上陸したローマ軍は都アレクサンドリアを完全に占領し、今だ宮殿に立て篭もるクレオパトラに降伏を迫ります。

「命は取らぬ。速やかに降伏されよ。」

しかし、オクタヴィアヌスの降伏勧告を、クレオパトラは断固拒否しました。


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「わたくしはエジプトの女王。そのわたくしを捕えてローマに凱旋し、さらし者にするつもりね。そなたの好きにさせるものですか。」

そして彼女は栄光あるプトレマイオス王朝最後の女王としての誇りを抱き、自ら死を選ぶのです。

「ファロスの灯台はわたくしの命。わたくしはファロスの光となって海を照らし続けるでしょう。」

こうして紀元前30年8月、彼女は宮殿で自ら毒をあおり、命を絶ちました。そして彼女の死により、13代274年間続いたプトレマイオス王朝は滅亡したのです。

その後、彼女が住んだアレクサンドリアの宮殿は、8世紀に起きた大地震と津波により、ファロスの灯台とともに海に沈んでしまいます。


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上は現在のアレクサンドリア湾の様子です。クレオパトラの宮殿はアレクサンドリア市街ではなく、湾を埋め立てて造成した海の上に建てられていたのです。しかしそれらは全て先に述べた地震によって失われ、海の底に沈んでいます。(下の地図の緑の部分が沈んだ部分です。)

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上の一連の画像はアレクサンドリア湾内の海底に沈んだクレオパトラの宮殿の痕跡です。(ここで余談なのですが、「アレクサンドリアの海底遺跡」などと入力してインターネットで検索すると、海に沈んだファラオの像やスフィンクスの石像など多くの写真や引き揚げられた遺物が出てきます。しかし、これらはほとんどが「ヘラクレイオン」というプトレマイオス朝より以前の時代に海に沈んだエジプトの古代都市のもので、クレオパトラの宮殿とは全く違う別のものです。これは、この遺跡がアレクサンドリアに近い東のアブキール湾にあり、またこちらの方が遺跡の保存状態が良く、多くの遺物が沈んでいる事から、現在水中考古学者たちの目はこちらにばかり集中し、発掘が行われているのが原因の様です。)

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上は1963年製作の映画「クレオパトラ」で彼女を演じたエリザベス・テイラー(1932~2011)です。これまでクレオパトラを演じた女優で最もそのイメージにぴったりだといわれています。

みなさんもエジプトに旅行される機会があれば、ギザのピラミッドを見た後に、アレクサンドリアに立ち寄られてみてはいかがでしょうか? そして目の前に広がる青い地中海を眺めながら、女王クレオパトラに思いを寄せてみるのも良いと思います。もしかすると、夢の中で「絶世の美女」とお話出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。
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