テムズ河畔の霧の中に鳴り響くチャイム ・ ウエストミンスター

みなさんこんにちは。

今回ご紹介する宮殿は、イギリスのロンドンから、イギリス最初の本格的な宮殿として建設され、現在は国会議事堂として英国紳士たちの熱い議論が繰り広げられる政治家たちの宮殿「ウエストミンスター」についてお話したいと思います。

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上が現在は英国の国会議事堂として使用されているウエストミンスター宮殿です。各部の詳細については後述します。

ところでみなさんは、このイギリスという国がいつ頃どの様な成り立ちで国家として成立したかご存知でしょうか? これについてはいずれ当ブログで別のテーマを設けて詳しくお話したいと思いますが、今回このウエストミンスター宮殿についてお話するに当たり、さらりとごく簡単にご説明しておきたいと思います。

イギリスが歴史の表舞台に登場するのは古代ローマ時代にさかのぼります。当時イギリスには紀元前9世紀から5世紀頃にかけて上陸し、定住した先住民族ケルト人が住んでいましたが、紀元前54年にみなさんもご存知のローマの英雄ユリウス・カエサル(紀元前100~紀元前44)率いる2万7千から成るローマ軍が侵攻、この時は地理不案内とケルト人の抵抗に占領は断念しましたが、およそ90年後の紀元43年に、ローマ帝国4代皇帝クラウディウス(紀元前10~紀元54)が4万の遠征軍を差し向けてイギリス本島南部一帯の占領に成功。これを属州とします。

この時に、イギリスにいたケルト系先住民の諸部族をローマ人は「ブリトン人」と呼び、そこからこの地を「ブリタニア」と名付けた事が、イギリス本島を「大ブリテン島」と呼ぶ由来です。この辺りの事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いと思います。

しかし、ローマ帝国はイギリス全土を完全に占領出来たわけではありませんでした。後に「スコットランド」と呼ばれるイギリス北部と、大ブリテン島の隣に横たわるアイルランド島まではさすがのローマ軍も手が届かず、そのためこれらの地ではケルト人たちの部族社会が続き、今日に至るまでこれらの国の人々が独立心の強い大きな所以となっています。


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上がローマ帝国が支配出来た地域と、最前線でケルト人と戦うローマ軍の姿を描いたイラストです。一方ローマ帝国が属州として支配し、後に「イングランド」となる地域では、上の様にローマ軍によって石敷きの軍道が引かれ、各地に軍団が駐留し、それらのローマ軍団の駐屯地に街が築かれ、後のイギリス各地方都市の基礎が築かれていきます。

この時にローマ軍がブリタニア各地に築いた街の中で最も大きく、ブリタニア支配の本拠地としてテムズ河畔に築かれたのが「ロンディニウム」(ケルト語で「沼地の砦」という意味だそうです。)後の「ロンドン」となる街です。


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上がテムズ川(こちらもケルト人がそう呼んでいたものをローマ人もそれに倣ったのだそうですが、意味は不明です。)の岸辺に築かれたロンディニウムの全体像を描いたイラストです。今回お話するウエストミンスター宮殿はちょうど川岸の中間辺りに造られる事になります。城壁で囲まれた街の人口は建物の戸数から察するに、駐留軍を含めてもせいぜい多くて1万程度でしょうか。ブリタニア最大の街がこの程度かと思われてしまうかもしれませんが、ローマ帝国では拠点となる都市を建設する際は防衛と維持管理を考慮して大体このくらいの規模を基準にしており、ロンディニウムはそうした計画の下にローマ帝国が各地に建設した典型的なローマ都市の一つでした。

このローマ帝国によるブリタニア統治は、それからおよそ360年以上続くのですが、紀元5世紀に入り、度重なる内乱とゲルマン民族に代表される異民族の侵入によってローマ帝国が衰退すると、すでに東西に分裂していた帝国の西側、すなわち西ローマ帝国はブリタニア放棄を決め、紀元410年に撤退してしまいます。

支配者のいなくなったブリテン島には、新たな支配者としてそのローマを追いやったゲルマン民族の一派アングロ・サクソン人が上陸します。


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上がアングロ・サクソン人のブリテン島への侵入経路です。もともと彼らは上の図の様に現在のドイツ北部からデンマークにかけて居住していたゲルマン民族の一派ですが、海沿いに住んでいたせいか船の扱いに長けており、他のゲルマン民族が南下していったのに対し、必然的に海を越えてブリテン島を目指します。

ブリテン島を征服したアングロ・サクソン人は、この地に七つの王国を打ち建てます。これが「アングロ・サクソン七王国」(しちおうこく)と呼ばれるものです。そのうち、最も勢力の大きかったアングロ人の建てたアングリア王国が、後の「イングランド」の語源です。

この七つの王国はブリテン島の支配を巡って激しく争い、ブリテン島は長い戦国時代が続く事になります。それは彼らがブリテン島に上陸した紀元449年から829年まで、およそ380年の長きに亘り、最終的にはウェセックス王国が全土を統一するのですが、それも束の間でした。なぜならそれと前後して、彼らアングロ・サクソン人のもともとの故郷であったユトランド半島に移り住んだノルマン人の一派「デーン人」が一大勢力となってブリテン島に侵入して来たからです。「ヴァイキング」の時代の始まりです。


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上がデーン人のブリテン島への侵入経路とその支配地です。先に述べた様に、このデーン人はヨーロッパ北方全域を荒らしまわったあの強大な海洋武装集団ヴァイキングの一派であり、彼らの発祥の地が後の「デンマーク」の由来ですね。

この時のデーン人の王はクヌート1世(995~1035)といい、優れた指導力を発揮して一時は北海全域を支配下に置く「北海帝国」が成立しますが、その彼が亡くなると、もともと彼の個人的裁量だけで維持されていたデーン人の支配は長くは続かず、帝国はあっさり崩壊してしまいます。

さて、イングランドの支配者はめまぐるしく変わります。デーン人の去った後のイングランドでは、かつてのウェセックス王家が復権を果たします。この時の王はエドワード懺悔王(ざんげおう)といいますが、彼は非常に敬虔なキリスト教徒であり、その地位はイングランドの有力諸侯の都合で擁立された「一時しのぎ」のものでした。


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上がそのエドワード懺悔王です。(1004?~1066)彼はウェセックス王家の王子でしたが、1013年にデーン人のイングランド侵入から逃れるため、海を越えて母エマ王妃とともに彼女の実家であるノルマンディー公家に避難し、以後フランスで育ちました。彼はそこで修道士たちと生活しているうちにキリスト教に深く帰依し、自らも修道士として生涯を終えるつもりでしたが、デーン人のイングランド支配が終わると、1042年にノルマンディー公家ならびにイングランド諸侯の要請でやむなくイングランド王に即位した異色の王様です。(彼の名「懺悔王」ですが、ヨーロッパの君主は同じ名前の人物が非常に多いため、区別するために後の人々が後付けで名付けたものです。厳格なキリスト教徒であった王が常に神に祈る姿が、人々には懺悔する姿に見えたのかも知れませんね。笑)

実は、このエドワード懺悔王こそ、今回お話するウエストミンスター宮殿を最初に造ったその人なのです。その彼によって建てられた初期の宮殿の想像図がこれです。


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上の絵の、船が数隻浮かぶ川岸に立つのが初期のウエストミンスター宮殿です。ここで間違えてはいけないのは、絵の中央にあるひときわ大きく壮麗な建物です。これは宮殿ではなくウエストミンスター寺院で、全ての建物は、この寺院を中心に建てられています。つまり、宮殿も寺院の付属の建物の一つなのです。これは敬虔なエドワード王が、宮殿よりも寺院の方に力を入れた証拠です。彼は自らの宮殿よりも寺院の建設にお金と労力を惜しみませんでした。

このウエストミンスターの名は、テムズ川を挟んでロンディニウムの西側にある「西の寺院」と呼ばれていた事から名付けられたものです。(これは日本で言えば、奈良の都の東だから「東大寺」とか、東の京都だから「東京」とかと同じです。そのままですね。笑 しかし、地名なんて意外に安直なものです。それにしても人間なんて考える事はどこでも同じなんですね。)

もともとエドワード王は、何度も言う様に熱烈なキリスト教徒でした。そう、彼は修道士として生きていきたかったので、国王になどなりたくなかったのです。しかし、誰かが王位に付かなければ、イングランドは再び戦乱の渦となり、多くの命が失われるでしょう。イングランド王位継承者としても、彼は先王の王子として誰も異論のない正統な継承権を持っています。そこで彼は、無用な流血を避けるために嫌々ながら王に即位したのです。(歴史上の君主たちは、王であれ皇帝であれみな利己的な権力を欲して王位や帝位に付き、その例は枚挙に暇がありませんが、このエドワード懺悔王は非常に特殊で稀有な存在として記憶すべき人物と思います。)

このエドワード王の下で、イングランドは一時の平和を取り戻すのですが、所詮それは、彼が存命中の間の束の間のものに過ぎませんでした。1066年にエドワード王が亡くなると、再びイングランドに戦乱の嵐が吹き荒れます。なぜなら先王エドワードは、結婚して王妃はいたものの、それは形式的なものであり、修道士として純潔にこだわった王は世継ぎをもうけなかったからです。

次の王位はイングランド諸侯の推戴を受け、先王の妃エディスの兄(つまり義理の兄ですね。しかし、先王エドワードの方が20歳以上年上なので、義弟が義兄より年上というややこしい事になります。)にあたるウェセックス伯ハロルドが、ハロルド2世(1022~1066)として即位します.。しかし、これに異を唱えた人物がいました。それは先王エドワードが亡命していた母方の実家ノルマンディー公家の当主ギヨーム2世です。


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上がそのノルマンディー公ギヨーム2世です。(1027~1087)しかし、この名はフランス語読みで、歴史ではこの名よりも英語読みの「ウィリアム征服王」の名で広く知られています。そう、彼こそが今日の英国王室の遠い祖先に当たる王なのです。つまり英国にとっては事実上の建国の父と言えるでしょう。

ギヨーム2世は、先王エドワードがかつてノルマンディー公家で20年以上亡命生活をしていた事からエドワードと親しく、また、その母エマがギヨームにとっては大叔母に当たる事から、血統から言えば自分こそイングランド王の正統な継承権があると主張していました。

「あのハロルドめ! 先王となんの血のつながりもないくせにまんまと王位をせしめおって! 血筋から言えば私こそ正統な王なのだ。こうなれば力ずくでわが手に王冠を握ってみせるぞ。」

1066年9月、ギヨーム2世は配下の全軍に出陣を命じ、1万2千の兵を率いてイングランドに上陸を開始しました。「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン征服)の始まりです。これに対し、すでに交渉決裂していたハロルド2世もこれを迎え撃つべく迎撃準備を進めていました。

「血の気の多いあのギヨームめがついに動き出しおったか。ちょうど良い。返り討ちにして首を挙げ、この際ノルマン領もわがものにしてくれる。」

1066年10月、両軍はイングランド南岸ドーバー海峡沿いの岬で激突しました。これを「ヘイスティングスの戦い」と言います。


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上がヘイスティングスの戦いで激突するギヨーム2世のノルマン軍(右側)とハロルド2世のイングランド軍(左)です。両軍の戦力はノルマン軍6千に対してイングランド軍は7千。兵力はほぼ互角でしたが、上のイラストの様に騎兵中心であったノルマン軍はイングランドの歩兵部隊をその機動力で粉砕、敵王ハロルド2世も敗走中に目を矢に射抜かれて戦死し、戦いはノルマン軍の大勝利に終わりました。

勝利したギヨーム2世は勢いに乗り、周辺地域を次々に支配下に収めながら進軍を続け、同年12月にはロンドンに入城、これを占領します。そして12月25日のキリスト生誕祭に、ウエストミンスター寺院で「ウィリアム1世」として正式にイングランド王に即位、ここに彼を始祖とするノルマン朝イングランド王国が成立するのです。

ウィリアム1世はその後も征服を続け、征服した土地に多くの城を築き、それらを譜代の家臣たちに与えて貴族に取り立て、現在の英国王室と貴族階級の基礎を築きます。彼自身も当初はウェストミンスター宮殿の近くに城を築き(これが有名な「ロンドン塔」ですね。しかし、これは宮殿というより「お城」であり、今回は省かせていただきます。汗)そこに居住していましたが、イングランド征服が順調に進んでいくと、守るには良いが、住居としては住みにくいロンドン塔からウエストミンスター宮殿に移り住みます。

それから、彼の死後ノルマン朝は4代わずか88年で断絶してしまいますが、彼の後に続く王たちはもちろん、ノルマン朝の後に続いた英国歴代王朝においてもウエストミンスター宮殿はイングランド国王の宮殿であり続け、歴代の王は即位の戴冠式をまずウエストミンスター寺院で行い、隣の宮殿に居住するのが慣例となります。さらにその後に設けられる様になった議会や裁判なども宮殿内で行われ、時代に応じて増改築が成されていきました。


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上は中世頃のウエストミンスター宮殿です。冒頭にお載せした現在の写真とだいぶ違いますね。これには後述する様に大きな理由があります。

そんなウエストミンスター宮殿に大きな転機が訪れます。いや、正確には「大きな転機」などという言葉よりも「破滅的な危機」と呼んだ方が良いかもしれません。時代は大きく流れて19世紀の中ごろに差し掛かろうとしていた1834年10月、宮殿は謎の出火によりその大半が焼失してしまったのです。(800年の歴史が積み重なった英国のシンボルともいうべき本来の宮殿はこの時、永久に失われてしまったのです。涙)

時代は即位したばかりのビクトリア女王の下で、大英帝国がその繁栄の絶頂期に入ろうとしていた時期でした。すでにこの頃には新たな宮殿が各地にあったため、宮殿は王室が使用するよりももっぱら先に述べた英国議会議事堂として利用されていました。そこで英国政府はイギリスの威信をかけて、新たな議事堂の建設に着手します。

建設は1840年に始まり、20年の歳月をかけて1860年に完成。こうして新生ウエストミンスター宮殿が出現したのです。


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上がウエストミンスター宮殿の主要部分です。宮殿の両端に建つ2本の巨大な塔、ビクトリア女王の名を冠したビクトリア・タワー、そして巨大な時計塔「ビッグ・ベン」(現在はエリザベス女王の即位60年のお祝いに「エリザベス・タワー」と名が変わっています。)に挟まれた長さ280メートルの巨大な建物です。中央のセントラル・ロビーから写真左手が貴族院(上院)右手が庶民院(下院)になります。少し上に「ウエストミンスター・ホール」というのがありますが、これが幸運にも焼失を免れた宮殿の最も古い部分です。

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上が焼失を免れた宮殿の最も古い部分ウエストミンスター・ホールです。天井がなんと木造なんですね。ここでは英国王室のしきたりにより、毎年エリザベス女王の即位祝賀パーティーが催されるそうです。貴族、政財界、文化功労者など各界の人々が女王をお祝いしています。


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こちらは宮殿裏側です。真っ白なウエストミンスター寺院との対比が印象的です。ここでもう一つ、あまり知られていない事実をお話しておきます。私たち日本人が学校時代に散々聞いたあのチャイムの音「キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン」(笑)は、このウエストミンスター宮殿のビッグベンの鐘の音が使われているのです。

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上はエリザベス女王ご臨席の下に開かれる英国議会開会式の様子です。これは貴族院すなわち上院の議場で行われ、そのため当然国王の玉座も上院にあります。玉座に座るイギリス国王エリザベス2世女王陛下(1926~)と、その夫君エディンバラ公フィリップ殿下(1921~)を囲み、伝統的な衣装を身にまとった貴族階級出身の議員の人々が開会の儀式を執り行っています。(意外と狭いんですね。女王の座る黄金に輝く玉座がひときわ目立ちます。驚)

ちなみに余談ですが、英国貴族といってもその身分は大きく2つに分かれます。1つは代々続くオーソドックスな世襲貴族、もう1つは国家に大きな貢献をした功績から頂く爵位が一代のみの一代貴族です。その中で、本物の貴族である世襲貴族はなんと750家にもなるそうですが、その大半が18世紀から20世紀初頭までの大英帝国全盛時代に商業、貿易、植民地経営で財を成した新興貴族、いわゆる「成金」(失敬 笑)の人々で、ウィリアム1世に始まる中世以降から続く貴族はわずか数家しかおらず、英国では「金で買った爵位」などとジョークにもなったそうですが、そんな彼らも時代を経て100年、200年と代を重ねるうちに権威を持つ様になっていきました。

しかし、さすがに「貴族の数が多すぎる」との批判の声が上がり、第2次大戦後の1958年に先の「一代貴族」の制度が設けられ、以後は「余程の事」がない限り、新たに世襲貴族として爵位をもらう事はなくなったそうです。上の写真は貴族院であり、当然の事ながらその全てが英国貴族だけで構成されていますが、現在その貴族院の存在価値は近年の制度改革で大きく形骸化し、一応下院を通過した法案などの審議は行うものの、わが国の参議院と同じで否決されても下院の議決が優先されるため、もっぱら英国議会の伝統的な儀式の場を取り行うのがその大きな役割となっています。


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そして上が庶民院すなわち下院です。わが国における衆議院ですね。こちらは選挙で選ばれた議員の人々(もちろん貴族の人々も含みます。貴族であっても政治家として国政に携わりたければ下院議員として選挙に立候補するのです。その場合、当然兼任は出来ませんから、上院すなわち貴族院議員は辞職しなければなりません。そのため下院といっても多くの貴族の方が議員となっています。)が実際に国家の政策を決定する場です。議長席をはさんで左が与党席、右が野党席になります。

英国では労働党と保守党の二大政党が議席(650議席)の大半を占め、現在は保守党が与党ですが、きっとわが国と同じ様に、与党と野党が激しい論戦を繰り広げているのでしょうね。ちなみに英国にも自由民主党すなわち「自民党」という政党があるそうです。ただし、こちらの自民党は議席が10に満たない少数政党だそうですが。(笑)


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上は夕闇に照らし出されるウエストミンスター宮殿の姿です。このブログを書いている現在、英国ではEUからの離脱を巡ってそのEUと英国政府が交渉が続けています。英国とヨーロッパにとってまさに歴史の転換点に等しい出来事が今もリアルタイムで進んでいますが、英国の過去を決め、同時に未来を決めるウエストミンスターは、超然とその威厳に満ちた姿でテムズ河畔にたたずみ、時折発生する霧の中から今日もロンドンの街にビッグ・ベンのチャイムの音を鳴り響かせています。

次回に続きます。
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