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ブランデンブルクの奇跡 ・ ヒトラーが信じた神話

みなさんこんにちは。

プロイセン王フリードリッヒ2世に奪われたシュレージェン地方の奪還を目論むオーストリア女帝マリア・テレジア(正式には「女帝」ではありませんが。)が仕組んだ対プロイセン包囲網によって、フリードリッヒ2世のプロイセン王国は、西からはフランス、東からはロシア、南からはオーストリアに攻撃され、さらに北からはスウェーデンにバルト海を封鎖され、正に「四面楚歌」の状態にありました。

この圧倒的に不利な状態の中で、フリードリッヒ大王は少ない兵力で周囲の敵に出来るだけ打撃を与えるため、重点に兵力を集中させ、プロイセンを取り囲む敵の中で最も兵力の少ない部分を潰しながら素早く転進を繰り返す「各個撃破」戦法で何とかこれらの大軍との戦いをしのいでいました。

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上はこの頃のプロイセン王フリードリッヒ2世の姿です。 苦しい戦いの連続でかなりお疲れのご様子ですね。 一国の王が、荒れ果てた民家の壁の前で丸太に腰掛け、虚ろな目でこちらを見上げている姿が戦局の厳しさを物語っています。

しかし、そんな彼にもたった一国ですが強力な味方がありました。それは今や新興海洋王国として世界の海に乗り出していたイギリスです。彼がイギリスを頼ったのは母がイギリス王の娘であり、つまりイギリス王家が母方の実家であった事もありますが、このイギリスがフランスを背後から攻撃してくれれば、フランスはもともとあまり実益の無いこの戦争で、プロイセンとの挟み撃ちを嫌って兵を引き、彼は対フランス方面に割いていた兵力を主敵であるオーストリア・ロシア方面に回せるからです。

またイギリスの方も、プロイセンに味方する大きな理由がありました。先に述べた様にイギリスは当時海洋王国として発展途上の最中にありました。しかしその行く手には最大のライバルであるフランスが大きく立ちはだかっており、その足を引っ張る存在が必要だったのです。

「足を引っ張る」とは、イギリスが海外政策を進めていく上で、フランスが出て来れない様にする事、すなわちフランス本国の周囲で何でもいいから戦争を行わせてフランスを巻き込み、たくさん金を使わせてフランスが海外進出をしたくても財政的に出来ない様に「邪魔立て」をする事です。

また東のロシアの存在も、イギリスがプロイセンに味方する理由でした。もしプロイセンが敗れて消滅すれば、恐らくロシアとオーストリアで領土を分割する事になり、シュレージェンさえ奪い返せれば良いテレジアのオーストリアはともかく、ロシアは間違いなくバルト海に面するプロイセン領を取るでしょう。 そうなればバルト海の制海権はロシアの手に落ち、イギリス本国はバルト海を出ようとするロシア艦隊の脅威にさらされる事になりかねません。

そうさせないためにも、イギリスはロシアをはるか東の奥深くの辺境に、幾重にも小国を間に挟んでいつまでも封じ込めて置く必要があったのです。プロイセンはその位置と規模からロシアのヨーロッパ進出の防波堤として格好の存在でした。

イギリスとプロイセンは、こうした利害の一致から同盟関係を維持していました。しかしイギリスは資金面などではプロイセンを支援したものの、フリードリッヒ大王が最も欲した援軍の派遣はしませんでした。 そのため彼は軍事的にはほぼ純粋に孤軍奮闘する事を余儀なくされます。

そんな中の1759年8月、ついに最大の脅威が訪れます。オーストリア軍3万とロシア軍4万が合流し、プロイセンの首都ベルリンを目指して進撃を開始したのです。その数合計7万余。それに対しフリードリッヒ大王はこれを阻止すべく、配下の主力部隊およそ5万を率いてこれを迎え撃ちます。「クネルスドルフの戦い」の始まりです。

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上は戦闘中のプロイセン軍将兵の姿です。 しかしこの戦いは大きな失敗でした。彼の作戦ミスにより、ただでさえ少ない兵力のうち1万9千もの死傷者を出し、最強を誇ったプロイセン軍は総崩れとなり、フリードリッヒ大王自身も負傷して、彼の元に残った残存兵力はわずか3千という大敗を喫してしまいます。この時彼はこの惨めな敗北にベルリンの留守を預かる大臣に手紙をしたため、自分亡き後の王位を甥のフリードリッヒ・ヴィルヘルムに譲る事を告げ、さらに死を覚悟してこんな事を書いています。

「私のせいで多くの兵を失った。 私にはもうプロイセン軍の総司令官としての資格などない。 私は生き恥をさらして祖国が滅びる様を見たくは無い。 皆さようなら、永遠に。」

いかに彼が死を覚悟して絶望していたか分かりますね。

しかしここで「奇跡」が起こります。プロイセン軍が敗れたことによって首都ベルリンへの道は無防備に開かれていたのに、オーストリア・ロシア連合軍はそれ以上進撃しなかったのです。 その理由は両軍が決して仲が良くなく、不協和音と意地の張り合いから協力しなかった事です。さらにそうしているうちに一旦総崩れとなったプロイセン軍が再び王の下に集結し、兵力は一気に3万にまで回復していました。


勢力を盛り返すと、人間の心情とは現金なものです。大王は数日前までの意気消沈した姿から一変、自ら兵の先頭に立ち、軍旗を掲げてたった一人で前進し、その姿を見た将兵たちは大いに士気を上げ、「王に続け!」と彼の後に付き従いました。

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このプロイセン軍が強かった理由は、当時最新の装備と厳しい訓練や軍律などが挙げられますが、何よりも戦場で常に兵士たちと苦楽を共にするフリードリッヒ大王に対する兵士たちの絶対的な忠誠心が大きいでしょう。この戦い以降も彼らにとって苦しい戦いは続き、1760年には首都ベルリンがついにオーストリア・ロシア連合軍に占領されるのですが、大王率いるプロイセン軍がたった4日で取り返し、(というより連合軍は略奪しただけですぐに撤退したそうです。)その後もしぶとく抗戦を続けていきました。

そこに2度目の「奇跡」が起こります。1762年1月、プロイセン包囲網の東の敵であるロシアのエリザヴェータ女帝が52歳で急死したのです。 後を継いでロシア皇帝となった甥のピョートル3世は使節をベルリンに送ってプロイセンと講和し、さっさと戦争から離脱してしまいました。

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上がロシア皇帝ピョートル3世です。(1728~1762)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝11代皇帝で、プロイセンのフリードリッヒ大王の熱烈な崇拝者でした。彼はそうしたかなり個人的な理由からプロイセンと講和してしまったので、ロシア国内から激しい反発を買い、なんと皇妃エカテリーナのクーデターによってわずか6ヶ月で帝位を剥奪され、近衛部隊によって密かに暗殺されるという非業の最期を遂げています。(かわいそうですね。)

この2つの奇跡(その舞台がベルリンを含むブランデンブルク一帯であった事から「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれています。)によって、風前の灯であったプロイセンは息を吹き返します。 すでに戦争開始から7年が経過し、プロイセンはもちろん関係各国も長い戦いに疲れ果てていました。フランスはイギリスとの新大陸での戦争に釘付けでとうにドイツから手を引き、ロシアは先に述べた通り、さらに北のスウェーデンも撃退に成功し、残るはオーストリアのみとなっていました。

情勢は一気にフリードリッヒ大王に有利となります。1763年プロイセン軍は再びシュレージェン地方を奪い返し、オーストリア軍を蹴散らして戦線を大きく南に押し戻す事に成功しました。そしてついに彼は状況不利と見たオーストリアのマリア・テレジアと講和条約を締結し、戦争を終結させる事が出来たのです。

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この「ブランデンブルクの奇跡」は多分に偶然と幸運が重なったものですが、それによって救われたフリードリッヒ大王の逸話はその後のドイツの人々に強烈に記憶され、フリードリッヒ大王を最も尊敬する人物と敬愛し、第2次世界大戦を引き起こした独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソ連軍に包囲されて敗北目前のベルリンの地下壕で、自分と似たような状況にあった大王と自分を重ね合わせ、この奇跡が自分にも起こる事を願い続けていたそうです。(ヒトラーがそんな妄想を抱いたのは、ちょうど1945年4月に米国大統領ルーズベルトが亡くなり、情勢が変わるかもしれないと期待したからです。 しかし結果は皆さんもご存知の通り何も変わらず、ヒトラーは破滅する事になります。上の画像はベルリンの地下壕で生前のヒトラーの姿を映した最後の写真といわれているものです。)

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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