異色のライバル ・ 女帝と大王のその後

みなさんこんにちは。

1763年2月、プロイセン王フリードリッヒ2世に奪われた領土奪還のため、フランス、ロシアを巻き込んで復讐戦に臨んだオーストリア女帝マリア・テレジアが起こした「七年戦争」は、終わりを迎えようとしていました。

その名の通り7年続いたこの戦争で、一度は宿敵プロイセンのフリードリッヒ大王を存亡の淵にまで追い詰めたテレジアでしたが、フリードリッヒ大王率いる強力なプロイセン軍の粘り強い抵抗により戦争は長期化、フランスはイギリスとの戦いに明け暮れてけん制の役に立たず、さらに同盟者ロシアの女帝エリザヴェータの死と、ロシアの一方的な同盟離脱という思わぬ誤算が致命的となり、オーストリア絶対優勢であった形勢は逆転、反撃に転じたフリードリッヒ大王によって再びシュレージェン地方を奪い取られ、テレジアのオーストリア軍は国境付近まで後退を余儀なくされてしまいます。

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上がこの頃のマリア・テレジアです。(1717~1780)

もともと彼女がプロイセン打倒のためにフランスやロシアと同盟したのは、オーストリア一国だけでは軍事的に強力なプロイセンに勝てない事を最も良く知っていたからです。テレジアは自国の軍隊の改革に力を注ぎましたが、オーストリア軍の弱点である多民族の混成部隊ならではの言語、宗教、文化の違い、さらに帝国内の民族間の階級差別や対立などは容易に変える事は困難でした。(いくら最新の銃や大砲を持たせても、それを使う末端の将兵たちが一致団結していなくては、戦いには勝てないでしょうね。 その点プロイセン軍将兵の方は純粋なドイツ人だけで構成され、さらに彼らが死をもいとわぬ忠誠の対象と崇める強大なフリードリッヒ大王という存在がありました。)

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上がプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)

長い戦いに各国は大きく疲弊していました。特に財政面の痛手が大きく、膨らむ戦費が国家財政を圧迫し、国内からは戦争をやめろという声が階級を問わず広がり、諸国は次々に兵を引いて本国に撤退してしまいます。 またマリア・テレジアも年を取り、若さゆえの意地とプライドから戦争を継続していた未熟な頃とは違い、物事を大局的に見る君主として大きく成長していました。

「これ以上戦い続けるのは無理です。あの男に譲るのは私としては痛恨の極みですが、わが国民のためにこのあたりで戦争を終わらせましょう。」

彼女はついにこう決断してプロイセンとの講和条約交渉を臣下に命じます。「あの男」とは、テレジアが生涯の仇敵として憎んだプロイセン王フリードリッヒ2世の事です。(この2人は恐らく世界史上稀に見る異色のライバルでしょう。 なぜなら同性同士のライバルは珍しくありませんが、この2人は異性同士だったのですから。)こうして1763年2月、オーストリア、プロイセン両国との間で講和条約が結ばれ、プロイセンによるシュレージェン地方の領有が確定します。 何のための戦争だったのか、テレジアにとってさぞ無念だった事でしょうね。

さて、その後この2人はどの様な生涯をたどったのでしょうか?

まずマリア・テレジアの方ですがこちらは有名なので、歴史好きな方なら良く知られていると思います。彼女は相思相愛の夫フランツ1世との間に5男11女16人もの子宝に恵まれ、ウィーンの郊外に壮麗なシェーンブルン宮殿を建設し、ハプスブルク家の栄華を内外に知らしめます。


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上がマリア・テレジアの居城ともいうべきシェーンブルン宮殿と内部の大ギャラリーです。(シェーンブルンとは「美しい泉」という意味だそうです。)この宮殿は部屋数実に1400以上を数え、フランス・ブルボン王家のヴェルサイユ宮殿を完全に真似たスタイルで造られています。

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上がマリア・テレジアの家族と夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世です。(1708~1765)神聖ローマ皇帝位はすでに200年以上前からハプスブルク家世襲のものになっていましたが、テレジアの父カール6世が後継男子に恵まれず、さらに女帝を認めない帝国の古い慣習法によって娘のテレジアを皇帝にする事は出来ず、やむなく夫であるフランツ・シュテファンが皇帝となり、テレジアは正式にはその皇后という存在でした。(この時点でハプスブルク家はフランツ・シュテファンの実家ロートリンゲン家と一つになり、「ハプスブルク・ロートリンゲン家」となります。)

このフランツ1世は皇帝とは名ばかりで、国政の実権は全て妻テレジアが握っており、ハプスブルク宮廷の家臣や貴族たちからも影ではよそ者扱いされ、フランスとドイツ国境の小国ロレーヌから名門ハプスブルク家に 「婿入り」 した彼はとても肩身の狭い思いをしていた様です。 しかし彼は別段すねる事もなく運命を受け入れ、天性の陽気さと大らかさから愛する妻テレジアに尽くし、また子供たちの良き父親としての生涯を見事に全うしました。

ほとんど知られていませんが、このフランツ1世はうらやましい事に大変な財運の持ち主で、ハプスブルク家の所領から上がる様々な産物 (トスカーナのワイン、ミラノの絹織物、チロルの岩塩、ウィーンの陶磁器、ハンガリーの牛肉、ボヘミアのカットグラスなど)を巧みに各国に売りさばいて大きな利益を上げ、さらに金融業や保険にも投資して莫大な資産家になっていました。妻のテレジアがオーストリアを継承して以来、絶えず続いた対外戦争で、オーストリアの国家財政は何度も破綻寸前になりましたが、その都度彼は妻のために自分の個人資産から戦費を無償で供与し、テレジアは戦争を続ける事が出来たそうですから、彼が一国の財政を肩代わり出来るほどの巨額の資産を持っていた事がお分かりいただけると思います。

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その愛する夫フランツ1世が1765年に57歳で亡くなると、テレジアは悲しみに暮れ、以後は彼女自身が亡くなるまで上の画像の様に喪服で過ごし、あれほど気に入っていたシェーンブルン宮殿にも、夫フランツを思い出してつらいからと滅多に行く事は無くなったそうです。

では一方のフリードリッヒ大王はその後どうしていたのでしょうか?

実は彼はこの七年戦争で手ひどく痛い思いをしたものの、その後もしたたかに領土を広げていました。といってもテレジアのオーストリアに対してではありません。(もうこりごりでしょうからね。笑)ポーランドの混乱に付け入り、ロシア、オーストリアとともにポーランドを分割したのです。


それにしても、ロシアはともかくつい数年前まで熾烈な戦いを繰り広げていたプロイセンとオーストリアが、なぜ今度は接近する事が出来たのでしょうか? 実はこの時オーストリアには宿敵マリア・テレジアが健在でしたが、帝位はフランツ1世の死後長男ヨーゼフ2世が継承していました。しかし母テレジアにとって皮肉な事に、最愛の息子ヨーゼフ2世はなんと彼女の仇敵フリードリッヒ大王の大ファンだったのです。

そんな母子の隙間を大王は見逃しませんでした。彼は若いヨーゼフを上手く誘い込み、この分割に参加させます。

「私はかつて貴方の母上から卑劣にも領土を奪った者です。その許しを得ようなどとは思いませぬが、せめてものお詫びとして新たな領土をオーストリアに進呈して差し上げましょう。」

この時30歳の若いヨーゼフ2世は憧れの大王からの言葉にすっかり乗せられ、母の反対を押し切ってこの分割に参加してしまいます。 もちろん彼なりの考えもありました。ヨーゼフは母テレジアの愛情には深く感謝していましたが、今だに院政を敷く母テレジアに対して対抗したい年齢を迎えていました。 またハプスブルク宮廷においても、ヨーゼフ2世を奉ずる若い家臣や貴族たちが台頭し、テレジアとその側近たちからなる古参家臣との間の対立もあったのです。


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上がポーランド分割の3カ国の取り分です。この分割は20年以上をかけて3度に亘って行われ、最終的に1795年の第3回分割でポーランド王国は消滅してしまいます。

フリードリッヒ大王はうまくヨーゼフを利用し、今度は戦わずして広大な領土を手に入れたのです。彼は七年戦争で大きく学び、以後は大規模な戦争を避け、外交戦を駆使してプロイセンが孤立する事の無いよう苦心し、疲弊した国力の回復に努めます。また貧しい国民のために、プロイセンの寒冷で痩せた土地でも栽培出来るジャガイモの栽培を奨励し、後にこの 「ジャーマンポテト」 はドイツの代表的農産物になります。

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上は農地を視察して農民に気さくに接する晩年のフリードリッヒ大王です。度重なる戦を招いて国土を荒廃させ、国民を苦しませてしまった贖罪の気持ちがあったのでしょうね。

晩年の彼は戦争に明け暮れた生活から一変、戦争を極力避け、政務に没頭する生活になります。 彼は自らが設計にも携わったサンスーシ宮殿に居を構え、亡くなるまでこの宮殿で過ごします。

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上がフリードリッヒ大王の居城であるポツダム郊外のサンスーシ宮殿です。(サンスーシとはフランス語で、 「憂いの無い」 つまり「何の悩みも不安も無い」という意味だそうです。きっと彼の願望だったのでしょう。)この宮殿は部屋数がたった10しかなく、1400もの部屋数を誇るマリア・テレジアのシェーンブルン宮殿とはとても対照的ですね。

1786年8月、フリードリッヒ大王は老衰のため74歳で崩御します。プロイセン国民は親しみを込めて「フリッツ爺さん」の死を心から悲しんだそうです。彼は結婚はしていたものの、父王が決めた結婚への反発からその王妃との間に子を成さなかったため、王位は甥のフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世が継承しました。

一方マリア・テレジアの方はフリードリッヒ大王より早く、夫フランツ1世の死から15年後の1780年に63歳でウィーンの王宮で崩御しています。彼女の愛した子供たちに看取られた安らかな死だったそうです。

次回に続きます。
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