スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

革命皇帝ヨーゼフ2世 ・ 改革とモーツァルトを愛した皇帝

みなさんこんにちは。

数々の戦いを勝ち抜き、「オーストリアの国母」と国民から慕われた女帝マリア・テレジアが1780年に63歳で崩御すると、新たに神聖ローマ皇帝並びにオーストリアの主となったのはその長男ヨーゼフ2世でした。

488px-Georg_Decker_001.jpg

上が新皇帝ヨーゼフ2世です。(1741~1790)彼は偉大な母マリア・テレジアが産んだ待望の長男として特に溺愛され、将来の皇帝になるべく他の兄弟たちとは別格の扱いを受けて育ちました。(あのフランス革命で処刑される事になるマリー・アントワネットの一番上の兄に当たる人です。)

ヨーゼフ2世は先帝である父フランツ1世が1765年に亡くなった後24歳で皇帝となり、その即位は母テレジアとの親子共同統治という建前でしたが、実際には国政の実権は母テレジアが依然として握っており、君主としての経験の浅い彼は父フランツ1世同様「お飾り」に近いものでした。

皇帝とはいえ国の重要な事は全て母とその取り巻きの家臣たちによって決められてしまうため、若い頃の彼はかなり暇を持て余していた様です。そんな彼に一人の人物の著作が目に止まります。それは北の隣国プロイセンの王フリードリッヒ2世の書いた政治や君主のあり方についての著作でした。

image211.jpg

上は宮殿で親しい人々を招いて得意のフルートを奏でるプロイセンのフリードリッヒ大王です。(1712~1786) 彼は軍事の天才で、一代でプロイセンを強国に仕立てた優れた王ですが、私生活では音楽や哲学を愛し、その政治思想と合わせて当時の内外の君主たち、とりわけ若い王侯貴族たちに多大な影響を与えています。 ヨーゼフ2世もそんな若い君主の一人でした。

ヨーゼフ2世はフリードリッヒ大王の本を読んでその政治思想にたちまち共鳴し、すっかり大王の魅力の虜になってしまいます。 このフリードリッヒ大王の政治思想とはフランスの啓蒙思想に影響されたもので、彼曰く

「君主とは、国家の第一の下僕である。」

というものです。 つまりそれまでの君主は国家と国民を「所有物」として私物化し、その上に君臨する支配者であったのですが、彼は国家を第一の存在とし、その国家における君主というものの在り方や役割を、国家の運営と繁栄のために必要な一種の「機関」として考えるというものでした。


それからのヨーゼフは熱心に大王の著作を読み耽り、やがて自分が皇帝として親政を開始する際の教科書として大いに活用します。 しかし彼の行為は母テレジアにとって許すべからざるものでした。 なぜなら彼女にとってフリードリッヒ大王は、彼女がオーストリアの女帝として即位してからその脆弱さに付け込んで攻め入り、領土を奪い取った不倶戴天の敵であったからです。

Maria_Theresia11.jpg

上はヨーゼフ2世の母マリア・テレジアです。

テレジアは彼女がその生涯で最も憎み嫌ったフリードリッヒ大王を、愛する息子を惑わす「魔王」に例え、なんとかヨーゼフの大王への心酔を止めさせようとしました。(テレジアにはフリードリッヒ大王が領土だけではなく、今度は何ものにも代えられない愛する息子ヨーゼフを彼女から奪おうとしている様に思えたのかもしれません。)しかし、ヨーゼフの心を動かす事は出来ず、逆に息子から母の国政の進め方への反対を招く様になってしまいます。 その例が1772年の第一回ポーランド分割です。

これはフリードリッヒ大王の主導の下、プロイセン、オーストリア、ロシア3国でポーランドを分割しようというもので、ヨーゼフ2世にも大王から丁重な参加の打診が来ていました。

これを知ったテレジアは、かつてウィーンがオスマン帝国の大軍に包囲された時に、ポーランド王率いる救援軍によってオーストリアが救われた事や、それ以前からもポーランド王家とハプスブルク家の関係は伝統的に比較的良好であった事から、「恩を仇で返す様なものだ。」として分割に反対しました。

しかしヨーゼフは母の反対を押し切ってこの分割に参加してしまいます。

「母上のお考えは良く承知いたしております。しかし皇帝は私です。母上にはこの件について口を差し挟まれる事はご遠慮願いたく存じます。」

このヨーゼフの返事に、テレジアは言葉を返す事は出来ませんでした。それもそのはずで、なんといっても皇帝は息子ヨーゼフなのです。それにこの頃からハプスブルク宮廷においても世代交代の波が押し寄せて来ており、ヨーゼフの下には若い家臣たちのグループが出来上がっていました。


さすがは偉大な女帝です。 すでに老齢で体調も崩しがちであったテレジアは自分の役割が終わりに近づいている事を感じ、それ以上固執する事無くこの頃から自分亡き後の息子ヨーゼフへの速やかな権力移譲に向けて内外への根回しに動き出します。(かつての自分が即位した時の様な苦労を愛する息子にさせたくないという親心でしょうね。)

そうした母の愛情を息子ヨーゼフは知っていたのか定かではありませんが、ともあれ1780年に偉大な母テレジアが崩御した際にも、ヨーゼフはさしたる混乱も無く今度は完全に帝国の全権を継承しました。

名実ともに帝国の主となったヨーゼフ2世は、早速母の時代に自由に出来なかった様々な改革を実行に移します。彼がまず手を付けたのは農奴解放でした。 この「農奴」というのは中世ヨーロッパにおける農民の大半がそうであったもので、その身分は土地とそれを支配する封建領主に釘付けにされていました。彼は農奴に土地の私有と自由を与え、農民たちにやる気を起こさせて農業生産力を高めようとしたのです。

次に彼が手を付けたのは宗教政策でした。彼は帝国内の多くの修道院を解散させ、その財産を国庫に入れる事で財政の健全化を図ります。(彼がこんな形で強硬に教会の財産を取り上げたのは、母テレジアが続けた戦争によって国家財政が苦しかったためと思われます。)

さらに階級の上下を問わず、市民の誰でも入れるウィーン総合病院を開設したり、ハプスブルク家の領地の一部に大きな公園を造り、市民に無料で開放して市民から大変喜ばれました。

640px-Prater_vom_Riesenrad.jpg

上がヨーゼフ2世が造った「プラーター公園」です。 後の時代に公園内に大規模な遊園地が造られ、現在もウィーン市民自慢の憩いの場となっています。

この皇帝ヨーゼフ2世は音楽愛好家でもあり、彼が宮廷に招いた数多くの音楽家のうちで最も有名なのが、誰もがご存知のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。

408px-Wolfgang-amadeus-mozart_1.jpg

上が良く知られたモーツァルトの肖像画です。(1756~1791)彼は35年の短い生涯のうちに900曲もの曲を残し、ベートーベンと並んでその名は小学生でも知っているでしょう。ちなみに上の肖像画は最も有名な彼の肖像とされていますが、これは彼が亡くなってから28年後に想像で書かれたもので、本当にこんな顔立ちであったか定かではないそうです。

アマデウス [DVD]

新品価格
¥918から
(2013/12/13 22:34時点)



このモーツァルトについては、本よりも上に載せた1984年製作の映画「アマデウス」をご覧になるのが一番でしょう。皇帝ヨーゼフ2世もモーツァルトにとって欠かせない人物として作中に頻繁に登場します(演じている俳優さんがヨーゼフ2世そっくりです。笑)モーツァルトの才能に深く感動し、同時に激しく嫉妬する宮廷音楽家サリエリによって、彼が死に追いやられていく姿が印象的です。

様々な改革を実行に移し、商工業を発達させ、王権強化と富国強兵を図ったヨーゼフ2世に対し、市民は彼を「皇帝革命家」と呼び、亡き国母テレジアと同じく慕われた存在でしたが、残念ながら彼が行った改革はごく一部の当たり障りのないものを除いてほとんどが挫折を余儀なくされます。その原因は貴族や教会などの旧勢力の抵抗でした。 彼らは自分たちの既得権益を守るためにあの手この手で皇帝の改革を邪魔立てしたのです。

皇帝の改革の失敗は、彼が尊敬する精神的な師匠でもあったフリードリッヒ大王をして

「第一歩より先に、第二歩を踏み出している。」

とまで批評されてしまいます。つまりあまりにも改革を急ぎすぎたのです。


フリードリッヒ大王の毒舌は有名でしたが、憧れの大王からこう批評され、皇帝はかなりのショックを受けた様です。 さらに1789年、はるか西のフランスで本物の大革命が勃発、その翌年の1790年、ヨーゼフ2世は失意の内に49歳で病で亡くなります。その墓碑銘は尊敬するフリードリッヒ大王に似て自らへの皮肉と毒舌を込め、

「良き志を持ちながら、何事も成さざる者ここに眠る。」

というものでした。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。