帝国崩壊の序曲 ・ フランス革命とナポレオンの出現

みなさんこんにちは。

国母マリア・テレジアの後を継いで神聖ローマ皇帝となり、数々の改革を実行に移しながら、その性急さと旧勢力の抵抗により挫折を余儀なくされた長男ヨーゼフ2世が1790年に亡くなると、次に帝位を継いだのは弟のレオポルト2世でした。

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上が皇帝レオポルト2世です。(1747~1792)彼は母マリア・テレジアの三男で、長兄ヨーゼフ2世との間にもう一人次男のカール・ヨーゼフという兄がいましたが、その兄は16歳の若さで亡くなっており、長兄ヨーゼフ2世も皇妃を早くに亡くして子を残さなかったため、相続順位から彼が皇帝となりました。

レオポルト2世は最初は父フランツ1世の死後、父からイタリアのフィレンツェを中心とするトスカーナ大公国を受け継ぎ、18歳の若さでその大公となっていました。 そこで彼は兄ヨーゼフ2世とは比較にならない名君ぶりを発揮して、かつてトスカーナの支配者であった名門メディチ家の断絶後、疲弊と没落の極みにあったトスカーナを見事に復活させ、皇帝になるまで25年間もフィレンツェを統治していました。

彼は父フランツ1世譲りの財政家としての才能もあり、父から受け継いだ莫大な遺産も手堅く増やしています。 また兄ヨーゼフ帝が失敗した改革も、兄と同じく進歩的な啓蒙思想に彩られた彼のトスカーナではかなり成功していますが、これはトスカーナが小国で人口も少なかったため、領土の隅々まで彼の改革が届き易かったからでしょう。 その点兄ヨーゼフ2世は広大な帝国領土の維持と、依然として力を持つ旧勢力の抵抗などの帝国の古い体質、さらに帝国内の多くの民族が抱える複雑多岐な問題などが改革失敗の原因の一つと思われます。

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上は兄帝ヨーゼフ2世と手を取り合う弟レオポルト2世です。すでに何度か当ブログでも触れましたが、このハプスブルク家の遺伝的長所として代々一族親子兄弟みな大変仲が良く、この肖像画を見ても、兄弟力を合わせて帝国を運営していこうという2人の強い意志が伝わってきますね。(自分がそう感じるだけでしょうか。 笑)

さて、レオポルト2世が帝位を継ぐ2年前の1789年、西のフランスでは大事件が起きていました。1789年7月、フランス革命が勃発、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが逮捕されたのです。

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上がフランス革命の発端となった「バスティーユ牢獄の襲撃」と、王妃マリー・アントワネットです。この牢獄をパリ市民が襲撃したのは多くの知識人が収容されていた事と、武器弾薬の貯蔵庫であった事から戦いに必要なそれらを奪うのが目的でした。 またマリー・アントワネットは皇帝レオポルト2世の妹で、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家との政略結婚でフランスにいた事が彼女の悲運であった事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。

マリー・アントワネットは兄レオポルト2世に救援を要請し、レオポルト帝は妹を救うべく革命の波及を恐れるプロイセンと同盟して「国王一家を釈放しなければ軍勢を差し向ける。」とフランスの革命政府に通告します。しかしこれは逆効果でした。革命政府といっても、彼らは激情に駆られて王政を倒した烏合の集団に過ぎず、

「このまま国王一家を生かしておいては自分たちが外国に攻め込まれて滅ぼされる。 それに諸国の圧力に屈して国王一家を釈放すれば、そもそも革命を起こして王政を倒した意味が無い。」 

として要求を断固拒絶し、徹底抗戦を決定したのです。


そんな中の1792年、皇帝になったばかりのレオポルト2世が急な病で崩御してしまいます。即位からわずか2年余りの短い在位でした。彼はトスカーナで発揮した政治手腕とその名君ぶりから多くの人々から期待されていたのですが、45歳の早すぎる死に、後の歴史家などは彼がもっと長生きしていれば、情勢はかなり変わっていたのではないかといわれています。いずれにせよ、彼の急死によってマリー・アントワネットの救出はほぼ絶望的となってしまいました。

しかし、幸いレオポルト2世はハプスブルク家にとっては大きな遺産を遺して逝きました。それは彼が大変な子だくさんであった事です。彼はスペイン王女であった王妃ルドヴィカとの間に16人もの子を成し、さらにそのうち12人が男子でした。この様に彼がたくさんの男子を残した事により、以後ハプスブルク家はマリア・テレジアの時の様に後継者に困る事は無くなります。(現在のハプスブルク家当主も彼の家系の子孫です。ここで個人的に全く余談で恐縮ですが、わが天皇家もいずれ悠仁親王殿下ご結婚の際には、たくさんの皇子殿下のご誕生を天照大神にお祈り申し上げてやみません。)

そしてレオポルト2世の多くの息子たちのうち、その帝位を継承したのは長男フランツ2世でした。

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上が新皇帝フランツ2世です。(1768~1835)彼は先に述べた先帝レオポルト2世の長男として、またやがては次の皇帝となるべく教育され、即位した時は24歳の若者でしたが、どうもその後の歴史を見ると、他の多くの弟たちの方が有能な人材が多かった様です。 しかし彼はそれよりも別の次元で歴史に名を刻む事になります。それは彼が最後の神聖ローマ皇帝として、800年以上続いてきた帝国の歴史に終止符を打つことになるという事です。 まさかこの時点で彼がこの神聖ローマ帝国の最後の皇帝になるとは、本人はもちろん誰も予想だにしませんでした。

若いフランツ2世が即位した頃、フランス革命はその真っ最中でしたが、ハプスブルク家の奮闘空しく彼の叔母に当たるマリー・アントワネットは処刑され、さらにフランス革命政府を倒すべくオーストリア他各国の君主国が同盟してフランスとの戦争が勃発していました。そしてその混乱の最中、彗星の様にフランスに一人の英雄が現れます。 みなさんご存知のナポレオン・ボナパルトです。

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上がこの頃のナポレオンです。(1769~1821)彼はフランツ2世とほぼ同い年で、フランス革命勃発時はまだ若干20歳の見習士官でした。また意外なのですが、若き日のナポレオン自身は革命にはほとんど無関心で、実際故郷のコルシカ島に帰っているくらいです。彼が将軍として抜擢され、栄達の道を歩む事になるのは1795年以降で、たまたま革命とナポレオンの人生が重なっただけに過ぎないともいえるでしょう。 それが証拠にその後の彼の人生は、革命とはあまり関係が無い、自分自身の野望達成と栄光を追い求めたものでした。

革命の混乱を武力で収拾し、イギリスやオーストリアをはじめとする周辺国との戦いにも次々に勝利したナポレオンはフランス国民から絶大な支持を得、1799年に脆弱な政府を倒して自ら「統領政府」を興し、その第一統領として事実上フランスの実権を握ります。なんとこの時ですら彼はまだ30歳でした。

やがてこのコルシカ生まれの気性の激しい若者の目は、ドイツ神聖ローマ帝国へと向けられていきます。

このナポレオンの台頭に対して、皇帝フランツ2世率いるオーストリアは各国と協力して敢然と立ち向かいましたが、結果は惨敗に終わります。 このナポレオンとの一連の戦いで、オーストリア・ハプスブルク家はネーデルラント南部(現ベルギー)とミラノを中心とする北イタリアをナポレオンに奪われてしまいます。

もはや飛ぶ鳥を落とす勢いのナポレオンに対し、皇帝フランツ2世はアルプス山脈を自然の要塞として国境の防戦に手一杯でした。 やがて全ヨーロッパはこのナポレオンの思いもよらない前代未聞の行動により激しく揺さぶられ、その最中で神聖ローマ帝国はその長い歴史の終わりを迎える時が迫っていたのです。

次回に続きます。
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